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2008年 06月 01日

中国人の恐ろしい「医食同源」信仰

【連載】日本よ、こんな中国とつきあえるか(3)
    台湾人医師の直言

(転送転載自由)


第一章 台湾人から見た中国及び中国人
    お人好しの日本人に中国人の凄さは理解できない

 二、中国人の恐ろしい「医食同源」信仰

■ 中国人が猿の脳味噌を食べるのに理由がある

 中国の料理がおいしいというのは、今やほぼ世界共通の評価になっている。とことんおいしい料理を追及するという面もさることながら、中国の食文化にはもうひとつの思想が入っていて、その中に中国人独特の哲学がある。それはなにかというと、「医食同源」という考え方である。

 この「医食同源」という言葉は日本でも以前から使われていて、プラスの価値観を伴って使われている。しかし、日本で使われる「医食同源」と、中国で使われている「医食同源」とはまったく違った考えに基づいている。

 日本人は栄養学的な観点から「医食同源」を考えている。口から入れるものは体にとって大切なもので、病気も、食べるものによって引き起こされたり、治すこともできると考えられている。つまり、病気を治すのも食事をするのも本質は同じで、生命を養う栄養学的な面から医食同源を捉えている。しかし、中国人が考えている医食同源とは、日本人が考えていることと次元が違うのである。

 私も台湾の医学部時代、中国の漢方薬や漢方医学について勉強させられたことがある。というのも、私の出身大学ではこの漢方薬や漢方医学は必修科目であって、どうしても勉強しなければならなかったからである。

 私たち学生に漢方について教えていたのは中国からやってきた先生で、彼らが強調する漢方医学の概念は、科学よりも哲学ということだった。この哲学の概念で人を治したり、薬を処方したりする。陰と陽、実と虚の概念を使うが、この薬の組成は金に属するか、土に属するか、水に属するかなど、陰陽五行の概念でものごとを判断する。

 これはこれでいいのだが、恐ろしいことに漢方医学には、例えば「肝臓を食べると肝臓に効く」「脳を食べると脳にいい」「心臓を食べると心臓にいい」という考え方が厳然としてある。どうしてもそのようなものが手に入れられなければ、似たような形のものを食べると体にいいと教える。科学的な根拠はないが、中国人は実際そう信じているのである。

 そこで、中国の市場をのぞいて見たことのある人にはお分かりだろうが、よく売られているのは精力剤としての「狗鞭」で、犬の鞭、すなわち犬の生殖器である。もっと効くと信じられているのが虎のペニスで「虎鞭」である。犬よりも虎が強いという発想からだ。

 このような概念に基づけば、根本的な医食同源とは、その臓器を食べるということになる。それも、できるだけ人間に近い方がよいとされ、また新鮮なものほどよいとされている。例えば、広東省や四川省では、昔から猿の脳を食べるという食習慣がある。では、どのようにして猿の脳を食べるかというと、真ん中に丸い穴が開いているテーブルの下に生きた猿を縛りつけ、頭の部分だけを穴から出す。そこで、金槌でその頭を割り、脳味噌をスプーンですくって食べるのである。

 中国人は平気でこのような残酷な食べ方をする。私には猿の脳がおいしいかどうか知る由もないが、単においしいというばかりでなく、脳にいいということで食べているのである。
 実は、私も高校のときよく筋緊張性頭痛に悩まされたため、豚の脳を薬として飲まされたことがある。この時は台北のある中国人の漢方医にかかり、ある処方をされた。処方には条件があって、漢方薬は必ず豚の脳と一緒に煎じなければならないというのだ。そのため、高校三年間、週に一回のペースでその豚の脳と漢方薬を服用させられた。頭痛なら豚の脳だという発想に基づいた処方のようだが、今もって苦々しい思い出である。

 これが実は、中国人の医食同源の発想なのである。つまり、人間に近ければ近いほど、その臓器に近ければ近いほど、体にいいと考えているのである。だから中国人は、好んで犬や虎のペニスを食べ、猿の脳味噌を食べるのである。

 では、究極的な医食同源とはどういうものかといえば、もう読者はお分かりだろう。そう、人間の臓器そのものを食べることなのだ。だから、中国では胎児を食べたりすることもあるのである。

 このように、中国人は体にいいという理由だけで、大自然にあるもの、命のあるものをすべて食材や「健康食品」にしてしまう。これが中国における医食同源の基本的な発想なのである。この発想の下では、医学よりも科学よりも一つの哲学が大事にされる。中国人の哲学として大事にされる。その哲学とは、人間の体をも部品としてみなし、それを食べるという考え方なのである。

■ 饅頭を持って処刑場に集まる中国人

 中国の漢方医学の中でもっとも権威のある書物は、明時代の一五七八年に李時珍が執筆した『本草綱目』である。本草とは基本的に薬用になる植物を指すが、薬物として役に立つ動植物や鉱物の総称でもある。

 この『本草綱目』では、綱目別に、金石部、草部、火部、木部、虫部、鱗部、獣部と分けてあり、その下に処方した漢方薬を説明している。
なんとその最後の部が「人部」、つまり人間が入っていて、人体を薬剤として扱っているのである。そこでは細かく、人間の髪の毛、尿、唾、汗、骨、生殖器、肝臓などが何々に効くということが書いてあり、さらにその処方についても次のようい細かく書いてある。「再三、連年にわたる瘧(おこり、マラリア)、食にむせんで飲み込めないとき。生の人肝一個、もち米を十分に用意し、麝香を少々入れ、陰干しする。人肝の青い半分は瘧を治す。黒い半分は、むせる病を治す」。
生の人肝をどうやって手に入れるのかを考えるだけでぞっとする。しかし、その処方は中国人にしてみれば、四千年間積み重ねた経験による賜物のようだ。
 
 要は、手に入れられるものは何でも使って人の病気を治すということなのだが、しかし、中国人は病気になる前に食べてしまう。だから、これが体にいいと知れば、手に入るものはすべて食べてしまう。それでよく中国人は「四本足で食べないのは机だけ」とも揶揄されるのである。だが、揶揄ではない。これが中国人の本当の姿であり、医食同源の本当の意味なのである。

 日本人は「医食同源」は中国の素晴らしい文化だと、中国人を美化しているが、自らの体のためには、人間を含む他の生命を平然と犠牲にする中国人の哲学はいたって恐ろしいものなのである。
 
 この医食同源の概念は中国の医学分野に止まらず、一般庶民の生活にも浸透している。例えば、日本でも有名な魯迅の『薬』の中にも、実は医食同源を表した描写がある。
 
この作品の中に、公開処刑の場面が出てくる。これは実際に行われた女性革命家、秋瑾の処刑の情景をモデルにしたものだ。作中では、処刑場の周りに人垣ができているが、その人々は手に手にお饅頭を持っている。なぜ人々は処刑場にお饅頭を持っていっているのか。実は処刑された瞬間に血が噴出するが、その血をお饅頭に染み込ませるためである。なぜそんなことをするのかというと、新鮮な人間の血は体にいいという発想があるからだ。

 人々には処刑者に対する同情心も恐怖感もない。ただただ自分の体にいいからということで、手に饅頭を持って処刑場に走り、我先にと飛び散る血を待っているのである。この『薬』には、人肉を漢方薬として売っている場面も出てくるのである。

■ 親孝行として人肉を奨励する中国人

 また、中国には昔から『二十四孝』という子供の教材がある。二十四の親孝行の例を著した本で、そのひとつに「割股療親」がある。つまり、自分の太腿をえぐって病気の親に食べさせて病気を治すことを親孝行として奨めているのだ。中国ではこのようなことを平気で子供に教えているのである。

 さらに、中国の南宋時代の有名な将軍である岳飛がつくった「満江紅」という漢詩がある。この中に「壮志飢餐胡虜肉」、つまり、お腹が空いたら胡人の俘虜の肉を食え、「笑談渇飲匈奴血」、談笑して喉が渇いたら匈奴の血を飲め、というフレーズがある。中国ではこの漢詩に曲を付け、今でも小学校の唱歌のひとつとして教えている。

 このように中国では、子供の教育の中でも、人の肉を食えとか人の血を飲めと奨め、親孝行として人肉を食べさせることを、教材として子供たちに教えているのである。

■人間の皮膚から作った化粧品を最高とする中国人

 二〇〇五年九月十三日付のイギリスの「ガーディアン」という新聞に、次のような記事が掲載された。中国の化粧品会社が処刑された死刑囚の皮膚を利用して化粧品を開発し、ヨーロッパに向けて輸出しているという内容だった。

 これもまさに皮膚なら肌にいいという考え方をする「医食同源」から出た商売で、人間の皮膚から作った化粧品なら最高最善とする考え方に基づいて作られたものだ。このように、死んだ人間の皮膚まで商品化してしまうのが中国人の考え方なのである。

 恐らく日本人にはショッキングな内容の記事かと思われる。しかし、日本ではまったくといっていいほど報道されなかった。日本人には見たくないものから目をそむける国民性があり、信じたくないものを信じないようにする傾向があるので、非常にショッキングな記事にもかかわらず報道されなかったのかもしれない。

 因みに、中国での死刑数は明らかにされていないが、二〇〇四年に世界で執行された死刑数は約五千五百件であり、その中の少なくとも三千四百件は中国だ。非公開で処刑されるケースもあるから、実際にはもっと多いかもしれない。

 中国ではなぜこんなに死刑数が多いのかというと、実は死刑囚の人体は役人の収入源だからである。役人の収入源とはどういうことかというと、死刑囚の人体は商品であり、臓器売買が行われているということだ。

■中国人医師が語った恐ろしい話

中国ではまた、子供の誘拐も頻繁にある。その中の一部は商品として臓器の売買が行われている。その数こそ定かではないが、かなりの件数に上るものとみられている。それを証言する話を実際に中国人から聞いたことがある。

 十九年前、日本に来て東大で研究していたとき、たまたま同じ第三内科に中国の蘭州大学で血液学を教えていた教授が留学にきていた。彼の日本語はあまり通じないので、日本人の医師たちとうまくコミュニケーションをとれず、そのためか北京語のできる私とよく雑談をしていた。その雑談のなかでのことである。

 当時は骨髄移植がはじまって数年しか経っていない時期で、白血病や骨髄の癌に冒された患者さんはわざわざ放射線で骨髄を破壊して、他人の骨髄を移植する。当時としては最先端の医療技術だった。しかし、なぜか蘭州大学のその教授は日本で行われた骨髄移植手術を軽蔑していた。彼は私に「このようなことは、中国ではとっくにやっている」と言うのだ。
しかし、骨髄移植というのは、日本ならまず骨髄バンクをつくり、そこに集めた骨髄の中から患者さんと遺伝子的に合っているようなタイプを探し、マッチングしたものしか使えないので、骨髄バンクを持たない中国がそのような最先端の医療技術を持つ日本よりも優れているとはとても考えられなかった。

 そこで彼に「中国ではすでにこのような移植をやっているのか」と聞くと、彼は、胎児の肝臓を使うのだと答えた。確かに肝臓というのは血液の再生能力がある臓器で、骨髄と似たような機能を持っている。
そこで、「どうやって胎児の肝臓を患者さんの体に入れるのか」と問うと、彼は「胎児の肝臓を取り出してすりつぶし、メッシュで濾過したものを点滴すれば、骨髄移植と同じような効果がある」と強調するのだった。「では、どこから胎児の肝臓を手に入れるのか」と聞くと、彼は笑いながら「あんなものは、いくらでも手に入る」と言い放ったのである。

 その時に私は、さすが中国は世界一人口の多い国だから、胎児を手に入れることはたやすいことなのかもしれないが、「あんなもの」として命を軽んじ、恐ろしいことを平気でやるのが中国人だということを改めて認識した。その教授が「いくらでも手に入る」といったときの乾いた笑い声は、未だ耳朶から離れない。

(次回の連載は2008年5月12日)

『台湾の声』 
http://www.emaga.com/info/3407.html

日本よ、こんな中国とつきあえるか? 林 建良
http://www.amazon.co.jp/dp/4890632018

# by thinkpod | 2008-06-01 21:48 | 中国
2008年 05月 05日

人口減少社会なんて怖くない〜外国人労働者の受け入れは、社会構造改革のチャンスを逃す〜


人口高齢化で日本の労働力は不足するのか(1)
〜外国人労働者の受け入れは、社会構造改革のチャンスを逃す〜

法政大学経営学部 佐野 哲 教授

少子高齢化が進む日本。昨年暮れの厚生労働省の発表によると、2005年の日本の人口は、1899年に統計を取りはじめて以来、初の減少となった。
こうしたなか、移民や外国人労働者に広く門戸を開き、労働力不足を補うべきだという議論が高まっている。
はたして、労働市場を外国人に開放すべきか否か。この問題について、法政大学経営学部・佐野哲教授にお話をうかがった。佐野教授の専門は、経営社会学、企業・労働者調査、労働需給システム研究。今回を含めて3回に分けて、インタビューの内容を紹介したい。
今回は、移民や外国人労働者を受け入れる前提となっている「少子高齢化による労働力不足問題」について、教授の持論を語っていただいた。
聞き手/吉田 直人、文/二村 高史

2006年3月13日

有効求人倍率の数字は労働市場の実情を反映していない

 少子高齢化が進み、とうとう人口の絶対数が減少する時代に突入しました。今後、「不足する労働力を海外から導入せよ」という議論がありますが、本当に労働力不足は深刻なのでしょうか。

佐野:
 確かに、有効求人倍率は上昇傾向にあり、今年に入って1倍を超えるところまで上昇。労働市場開放を訴える人たちは、この数字を取り上げて、近い将来の人手不足を心配しているようですが、私はそうは思いません。

 というのも、バブルの時期の有効求人倍率は3?4倍??つまり、1人の労働者に4人分もの求人があったほどの人手不足でした。それが、一時は0.5?0.6倍にまで落ち込み、それがやっと1倍に戻ってきたと考えれば、労働力が足りないと心配するほどのレベルではありません。

 しかし、有効求人倍率の上昇傾向が続けば、労働力不足の時代がやってくるのではないでしょうか。

佐野:
 そもそも、職業安定所の発表する有効求人倍率の数字自体に問題があると、私は考えます。その理由は2つあります。

 1つは、職安の事情です。現在、職安は独立法人化、民営化の波にさらされていて、とにかく業績をかせがなくてはなりません。厚生労働省からもノルマが言い渡されており、求職者と企業とのマッチングを、少しでも早く、多くしなければならない状況なのです。

 その結果、以前ならば、職業訓練校などでじっくりと訓練するべきだと担当者が判断したようなケースでも、いまでは素早く紹介状を書いて「就職件数1件」という実績をつくろうとするわけです。

 かつては、「人材ビジネスは紹介料ほしさで人を押し込むが、行政が運営する職安はじっくりと相談に乗ってくれる」というのが一般的な認識でしたが、いまでは、むしろその逆が実情です。

 よかれ悪しかれ、いったん仕事を得れば、もう求職者ではありません。こうして、次々に仕事が紹介されていくために、求人倍率を算出する基準となる「求職者」の数は減っていくわけです。

 もう1つ、いわゆるニートや引きこもりを、求職者としてカウントしていないという点にも問題があります。

 ニートや引きこもりの人たちの中にも、条件が整えば労働市場に出ていく人は少なくないでしょう。潜在的な求職者としてカウントすれば、求職者の数はもっと増えるはずです。

 こうして、求職者の数が現実よりも少なく算入されている一方で、景気自体は上昇傾向にあるために、企業からの求人自体はそこそこ出ています。これが、このところの有効求人倍率上昇のからくりなのです。実際には、数字で見るほど人手は不足していないと考えるべきでしょう。


人口減少時代を迎えても労働力は不足しない

〜それでも、求人件数自体が増えていけば、労働力は不足しませんか。

佐野:
 実は、企業側の状況を見ると、ここにも求人数が増えるからくりがあります。成果主義に走る企業が増え、労働力が流動化していくなかで、求人数もまた実際の感覚よりも多い数字になっているのです。ちょっとわかりにくいので、順を追って説明しましょう。

 まず、1990年代の「失われた10年」という不況を経験することで、正社員を採用する人事部の目が肥えてきたというのが大きな要素です。これに加えて、派遣やアルバイトという労働形態も定着。その結果、どの企業も正社員を厳選して採用するという方針をとるようになってきました。

 現に、求人を出してはいても、実際にとるかどうかは本人を見てから決めるという企業が増えています。

 そのうえに、若い人たちの定着率がどんどんと低下しているという現状があります。いまでは、優良企業に就職した一流大学の新卒者でも、1年で5%が退職といいます。

 大量に退職者を出した企業は、その穴埋めとして大量に求人を発注。結果として求人件数は上がっていくわけです。

 成果主義をとる会社が増えてノルマがきつくなってきたため、新卒者に限らず、中途退職者の数はさらに増えていくことでしょう。

 こうして、求人件数は増加。でも、採用するかどうかはわからない。仮に採用しても、社員はすぐにやめていく。そこで新たに求人を出す……こうした循環によって、求人件数の数字は実情以上に多くなってしまっているのです。

 要するに、社会の構造が変化しているのにもかかわらず、有効求人倍率という数字の出し方が変化していないのが問題です。こうした数字は、もはや時代遅れであり、それを根拠にして議論することは、あまり意味がないのです。

〜では、人口減少時代になっても労働力は不足していないと考えていいのでしょうか。

佐野:
 少なくとも、当分は労働力が不足するということはないでしょう。たとえ、労働者の数が減っても、省力化や合理化によって生産効率を上げる努力が行われるはずですし、そうしなければなりません。労働者が減っても十分にまかなえるようになります。

 そもそも、労働力の不足を嘆く前に、女性や高齢者がもっと活躍できる場を確保すべきでしょう。そして、若い人の就業意欲を高める努力も必要です。そうした有能な人たちが働けないでいる現在の構造を変化させれば、労働力が不足しているということはけっしてありません。

 外国人を労働力として受け入れるかどうかというのは、その次の段階です。女性、高齢者、若年層に対する雇用開発をしてもなお、労働力が不足した場合に、はじめて議論すべきことだと思います。

 安易に外国人を導入して労働力不足を解消しようというのは、雇用構造の改革という根本的な治療をおこなわずに、モルヒネを打ってその場しのぎで痛みをとめるようなものといっていいでしょう。

女性、高齢者、若年層が
きちんと働ける環境にすることを優先せよ

〜いわゆる3K職場のように、職種によっては日本人の働き手がいないため、外国人労働者に頼らざるをえないという意見もありますが。

佐野:
 1990年に出入国者管理法が改正されるに当たって、外国人の単純労働者受け入れを求めたのは、賃金の低い3K職場の中小・零細企業経営者でした。当時、こうした職場は人手不足に悩まされ、存続の危機に見舞われていたのです。

 もちろん、そうした企業の経営者の方々の気持ちは、痛いほどよくわかります。しかし、本来ならば、技術革新や省力化によって克服すべき危機でした。言葉は悪いのですが、それができない企業は市場で淘汰されるというのが、あるべき姿なのです。最終的には、そのほうが日本企業や社会全体にとってプラスになるからです。

 ところが、そうしないで、外国人の力を借りて倒産をまぬがれるという方向に向かおうとしたのが16年前でした。そのままいくと、どうなるかといえば、劣悪な労働環境が残り、イノベーションが滞る原因となってしまいます。

 このように、淘汰される企業が残るから、安易な外国人導入はダメというのが当時の議論でした。そうした企業レベルでの議論が、いまでは日本社会全体を対象にして論じられていると考えるといいかもしれません。

 つまり、女性、高齢者、若年層がきちんと働けない社会というのは、淘汰されるべき社会なのです。そうした人たちが自己実現できるような雇用構造、社会構造に変えていくべき時期に来ているのに、ここで安易に外国人労働者を導入すれば、従来の社会が淘汰されずにそのまま残ってしまうことなります。

 現在の日本全体が、当時の劣悪な環境の中小企業と同様な状態であり、外国人労働者を受け入れることは、外国人の力を借りることによって日本の社会の崩壊をまぬがれようとしているわけです。これは、けっして建設的なことではありません。

 将来の日本において、本当に労働力が不足してしまったら、外国人の力を借りる場面も出てくるかもしれません。しかし、その前にまず、女性、高齢者、若年層が就業できるようにするべきだというのが私の考えです。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/interview/59/index.html





人口減少社会なんて怖くない

~わが国本来の人口に戻っていくと考えるべき~

経済アナリスト 森永 卓郎氏
2006年4月3日

人口が減ったからといって労働力が落ちることはない

 いささか旧聞に属するが、昨年12月22日に厚生労働省が発表した人口動態統計の年間推計によると、わが国の死亡数(自然減)が出生数(自然増)を上回り、予想よりも1年早く2005年から人口が減少に転じたことが明らかになった。

 この発表をきっかけにして、人口減少社会を迎えた日本の行く末を案じる議論が盛んになってきた。人口が減少することによって経済活動が停滞し、経済成長率が低下するというわけだ。

 しかし、私はそれほど暗い気持ちになることはないと思っている。

 人口が減少しても、一人当たりの所得が落ちるわけではない。社会全体の経済のパイが小さくなっても、一人あたりの所得が減らない限り、生活は維持できるのだ。

 人口が減っても、経済成長率はほぼ横ばいか、むしろ微増で推移するのではないかと私は考えている。

 なぜならば、人の数が減れば、それを補おうとする工夫がこらされるからだ。

 現に、OECD諸国で、労働力人口の伸び率と生産性の伸び率を比較してみると、労働力人口の伸びが小さい国ほど、生産性の伸びが高い。

 つまり、人が減ったことをきっかけにして、労働力の低下を補うために、機械化投資などが行われて生産性が上昇するのだ。機械でできることは、みな機械にやらせればいい

 むしろ、人口が減っていいこともある。

 現在の約半分――かつて日本の人口が6445万人だったのは、いつのころだかおわかりだろうか。

 それは、1930(昭和5)年である。人類の歴史、日本人の歴史から考えれば、“たった”75年前に過ぎない。

 思うに、その程度の人数が、日本の定員ではないだろうか。人口がその程度に減れば、さまざまな社会問題が解決される可能性がある。

 通勤の混雑が緩和され、車内で楽に新聞が読めるようになるだろう。

 交通渋滞もなくなり、お盆や年末年始の帰省ラッシュも緩和される。夏休みのレジャーで、お父さんがくたくたになることは、もうなくなる。

 住宅問題も完全に解決するはずだ。

 確かに、人口減は高齢化を伴うのでよくないという意見もある。

 2025年には、65歳以上人口比は28.7%になるというから、現在とくらべて8.8ポイントの上昇である。

しかし、現在の時点でこの高齢化率を越えている自治体は、日本に山ほどある。私は、仕事でこうした市町村を訪ねることがあるのだが、けっして悲惨な暮らしをしているわけではない。ほとんどの街で、ゆったりとした幸せな暮らしが送られているのだ。

 もちろん、年金の問題は重要ではあるが、これはまったく次元の違うことがらである。

 年金については、方式を変えたり、富裕税をかけたりといった方法で解決を考えていく必要があるだろう。年金問題については、回を改めて考えることにしたい。



地方と都会の格差をなくし、グランドデザインを描き直すチャンス

 人口減少問題を考える際には、地方と都会の格差問題は避けて通れない。都会では人口減少がプラスの効果をもたらしたとしても、ただでさえ過疎で悩んでいる地方では、致命的なことになりかねないからだ。地方と都市の格差をそのままにしておくわけにはいかない。

 しかし、人口が減少に転じたいまこそ、日本という国のグランドデザインを描きなおすいいタイミングではないかと私は思う。それには、どうすればよいか。

 まずは地方の現状を見てみよう。

 私はよく講演で地方に行くのだが、経済停滞の悲惨さはひどいものだ。中心部の商店街は、ほとんどがシャッター通りと化している。

 鹿児島に講演に行ったとき、こんな経験をした。空港から講演会場までタクシーを利用したときのことである。確か金額は6000円ほどだったと記憶している。

 現地に着いて運転手さんが言うには、「ぜひ帰りも乗ってください。ここで待っていますから」

 だが、講演が終るまでは時間がある。私は「そんなことをしたら、ほかの仕事をできなくなるでしょう。講演が終るまで3時間もあるんですよ」と言った。

 ところが、運転手さんはそれでも待っているというのだ。理由を尋ねて私は驚いた。

 最近は、1日の売上が合計で2000円に満たない日があるのだそうだ。なるほど、それならば、3時間待っても6000円を取りにいくほうが確実だということになる。

 こんな話はほんの氷山の一角だろう。タクシーの運転手さんの廃業は続出しているというし、それよりも何よりも地方の経済そのものがボロボロになっているのだ。

 では、都会では誰もが幸せに暮らしているかといえば、けっしてそんなことはない。

 宝島社が出している「田舎暮らしの本」が30万部も売れていることからもわかるように、多くの人が都会暮らしにうんざりして、田舎で人間らしい暮らしをしたがっている。潜在的な希望者を合わせれば、おそらく百万人の単位で存在しているに違いない。

 私の周りにも田舎暮らしを望んでいる人が多いのだが、それが実現したという話はあまり聞かない。なぜか。それは、田舎に「行かない」のではなく「行けない」からだ。

 田舎に行っても雇用の場がないから、よほど金を貯めた人は別として、田舎で暮らしていくことができないのである。

 それでも田舎暮らしをしたければ、農業をすればいい――そう言いたいところだが、いまという時代は、専業農家では食えないのである。野菜を作っても中国や東南アジアからの輸入農作物に価格で太刀打ちできない。そして、それ以上に、日本の田舎は山も畑も荒れてしまっていて、農業を続けることのできない地域も多い。

 田舎暮らしをしたい都会人や、農業をやってみたい都会人が増えている。その一方で、田舎でも人がいたほうが望ましい。ところが、田舎では食っていけない。

 そんな地方と都会のミスマッチを、どうやって埋めればいいのか。

 こういう本質的なことがらを解決するためにこそ、税金を使うべきだろう。人が入らない音楽ホールだの、車がめったに通らない高速道路だのといった、くだらない公共事業などやめて、農家がきちんと働けるように金を使ったらいい。

 たとえば、低農薬、有機肥料で農作物を生産するために、研究費や補助金を捻出。都会から移住する新しい農民に、そうした農業を実行してもらうのはどうだろう。

 国土の均衡ある発展に役立つのではないか。

 ここでは思いついたままのアイデアを書いてみたが、こうした方策をいろいろと考え、日本のグランドデザインを描き直せば、人口減少時代はちっとも恐ろしいことはないのである。


外国人労働者受け入れは新自由主義者のわがまま
~得をするのは受け入れ企業、コストをかぶるのは国民全体~

 人口減少時代を迎えて、移民を受け入れよと主張している人がいる。いわゆる、新自由主義の立場にたった人たちだ。

 新自由主義というのは、評価の尺度を金に一本化するという単純な発想から成り立っている。

 その典型がホリエモンである。ライブドアの社長だったころの彼は、「社員がやめたら、またマーケットからとればいい」とうそぶいていた。

 彼らには、一人一人の労働者の顔が思い浮かぶことはない。

 彼らにとっては、鈴木さん、佐藤さん、田中さん……といった個人名はどうでもいい。あくまでも、労働力1、労働力2、労働力3……という存在に過ぎないのだ。

 彼らの発想の根源となっているが、いわゆる生産関数――つまり、経済の大きさが、労働と資本を投入した量で決まるという理論だ。

 ところが、人口が減少してしまうと、投入できる労働は減り、彼らの儲けも減ってしまう。そこで、経済成長を維持させるために、どこからか労働力を供給しなければならないと考えているわけだ。それが手っとり早い方法だからである。それが、外国人労働者を受け入れよという要求につながってくる。

 しかし、外国人労働者の受け入れには、私は絶対反対である。

 現に、ドイツやフランスをはじめとして、諸外国でも外国人労働者の受け入れは失敗の歴史であるといっていい。

 たとえば、ドイツでは1960年代、高度成長のもとでトルコから大量の労働者を受け入れた。

 ところが、高度成長が終わり外国人労働者の雇用調整をしようとしたところで、つまずいてしまった。すでにドイツ国内では労働者たちに二世が誕生。彼らはドイツで生まれ育ち、ドイツ語しか話せず、本国に返そうにも返すことができない。

 そこでドイツが何をやったかというと、トルコに家を建てるための資金を与え、子どもたちにはトルコ語を教えた。そうした莫大なコストをかけて雇用調整をしたのである。

 日本で外国人労働者を受け入れても、まず同じことが起きるだろう。

 外国人労働者のメリットというのは、雇った企業のみに現れる。

 ところが、そのコストは長期間にわたって全国民にはねかえってくるのだ。たとえば、小学校の教育一つとっても、外国人の生徒がいれば、コストは10倍はかかるだろう。外国人労働者本人も失業を頻繁に繰り返すことが予想され、失業保険のコストがかかる。

 公的な住宅費もかかるし、市役所のパンフレットも各国語で書くためにコストがかかる。

 そして、そうしたコストは雇った企業ではなくて、何の関係もない国民にかかってくるのだ。

 さらにいけないのは、外国人が入ってくるために、まじめな日本の若者がワリを食うことだ。その一例が、最近になって外国人の受け入れが検討されている介護士や看護師である。

 日本の若者のなかにも、最近では福祉分野で働きたいという、まじめな人がたくさんいる。ところが、そこに外国人介護士や看護師を受け入れたらどうなるか。起きるのは、外国人の賃金に合わせた劇的な賃金低下である。これでは、若者ならずとも勤労意欲を失ってしまう。

 これが、あらゆる分野で起きたらどうなるだろうか。若者はますます仕事につかなくなり、社会不安は拡大していくに違いない。

 さきほども述べたように、日本の人口が減っても経済成長率が落ちることは、ほとんどない。

 人口は減ってもいいのだ。本来の人口に戻っていくという気持ちで迎えようではないか。そして、人口の減少を前提にして、そのなかで、どうやって幸せに暮らしていけばよいかを考えたほうが建設的でないだろうか。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/25/index.html

# by thinkpod | 2008-05-05 19:36 | 社会
2008年 03月 15日

洞爺湖サミットで日本は“不平等条約”京都議定書の愚を繰り返すな

 CO2(二酸化炭素)などの温室効果ガスについて、拘束力のある削減目標を一部の先進諸国に課した京都議定書は、大変な“不平等条約”である。目標達成のために、日本の産業界は、世界随一の製造技術・設備を持ちながら、排出権購入のコスト負担を強いられて競争力を低下させつつあるという。

 そこで注意したいのが、ポスト京都を論じる7月の洞爺湖サミットだ。このサミットでは、京都議定書を採択した「地球温暖化防止京都会議」(国連気候変動枠組み条約締約国会議、以下は京都会議)と同様、再び、日本に議長国の役割が巡って来る。準備不足のまま会議に突入し、大盤振る舞いによって成功を収めようとすると、京都会議と同じ轍を踏みかねない。ポスト京都は、2050年までという長丁場の枠組みとなるだけに、福田康夫政権は、周到に戦略を構築してサミットに臨む責任がある。

実は日本は
温暖化ガス排出量の優等生

 昨年2月、最優秀ドキュメンタリー部門など2部門で第79回アカデミー賞に輝いた映画『不都合な真実』の中で、主演のアルバート・ゴア米元副大統領が明かした衝撃的なデータをご記憶の読者もいるのではないだろうか。

 そのデータは米エネルギー省の調査によるもので、日本の「地球温暖化への寄与度」は、わずか3.7%と、米国の30.3%、欧州の27.7%、ロシアの13.7%などに比べて格段に小さい。世界のGDPに占める日本の割合は約1割。つまり、日本は米国や欧州の半分に匹敵する経済規模を持ちながら、温暖化ガスの排出量は米国、欧州の1~2割に過ぎないというのだ。このデータは、日本の優等生ぶりをくっきりと浮き彫りにした。

 ゴア元副大統領は映画の中で、自動車の燃費効率の向上がCO2の排出削減に役立つことも指摘した。この面で、日本が現在、1リットルあたり19キロメートル以上という世界で最も効率的な燃費の達成を義務付けていることを紹介したうえで、2005年の2月から9ヵ月の間に、株式の時価総額で、トヨタ自動車が11.86%、ホンダが3.28%それぞれ上昇したのに対し、米フォードが33.20%、ゼネラル・モータースが38.84%下落した事実を示して、日本企業が優れた技術を開発することで、収益的にも成功してきたと強調した。

 ところが、日本企業は、温暖化ガスの排出削減が十分でなかったとして、海外から排出権を購入する必要に迫られている。3月9日付けの日本経済新聞は、電気事業連合会や日本鉄鋼連盟が、今後、海外から取得するCO2の見込み額を日本経団連に報告したと報じた。それらをまとめると、産業界は、京都議定書の温暖化ガス削減目標を達成するため、2012年までの5年間に、合計で2億~3億トンあまりの排出権の購入が必要と予測している。そして、新日鉄の試算によると、それらのコストは、最低でも5000億円と巨額になるという。

 別の報道によれば、こうした日本の産業界の足許をみて、海外ではすでに排出権を買い占める動きが活発になっており、実際に産業界が負担する費用は、その何倍にも膨らんだとしておかしくないとの見方もある。

 なぜ、あまり温暖化ガスを出さない日本の企業が、そんな理不尽なコスト負担を強いられる破目に陥ったのだろうか。

 ここで避けて通れないのが、京都議定書の内容をきちんと分析することだ。マスメディアでは、「環境」といえば、何でも推進せよという感情的な盲従派が多く、客観的な分析があまり見られない。が、実は、京都議定書は、日本にとって、大変な不平等条約なのだ。

 不平等条約と聞くと、京都議定書が採択された1997年12月の京都会議の報道を注意深く見ていた人は、温暖化の防止を「途上国の経済大国化にブレーキをかけようとする先進国のエゴの現れ」と決め付けて、中国やインドといった途上国が温暖化ガス削減の数値目標の受け入れを拒んだことを連想するかもしれない。あるいは、中国に網をかけられなかった点を理由にして、米国が京都議定書を批准しなかったことを想起する人もいるだろう。だが、そういったことは、実は、京都議定書が日本にとって不平等条約である理由のほんの一面に過ぎない。

EUに有利なルール作りが
日本に理不尽を強いる

 まず重要なポイントとして指摘したいのは、温暖化ガスについて、1990年を基準として、2008年から2012年の5年間に、ロシアが0%、日本、カナダが6%、米国が7%、欧州が8%それぞれ削減することで合意した、「削減率のマジック」である。

 1990年という時期は、1970年代の2度の石油危機、1980年代の円高不況の直撃を受けて、日本の産業界は、燃料節約、コスト削減の観点からスタートして製造工程を見直し、その結果として温暖化ガスの大幅な排出削減も達成した後にあたる。つまり、1990年を基準にすることは、日本勢にとって、乾いた雑巾をさらに絞れというような無理を求めるものに他ならない。

 さらに、削減率のマジックが追い討ちをかけることになる。1990年を基準として、ロシアが0%、日本、カナダが6%、米国が7%、欧州が8%それぞれ削減するという、いわば表向きの削減率は、実質的な削減率と大きな隔たりがあるからだ。実は、京都議定書が採択された1997年12月段階で、日本の温暖化ガスの排出量は2000年に1990年比で13%増の13億4000万トンに膨らむと見込まれていた。つまり、1990年比の6%削減には、2000年比で19%の削減が必要だからである。同様に、米国の実質的な削減率は22%、カナダのそれは25%と膨大だ。

 対照的なのは、ドイツ、イギリスの欧州勢と、ロシアである。温暖化ガスを垂れ流し放題だった東ドイツを統合したドイツは排出削減が容易で、2000年に19%の削減を達成しており、実質的には11%も増やすことができたのだ。同様に、1990年代に効率的な発電所への転換を進めたイギリスも実質的には5%拡大できた。景気後退が著しかったロシアに至っては、実に38%もの増大が可能だったのである。

 以上の実質的な削減(増加)率データの検証は、中部大学の武田邦彦教授が文藝春秋の2008年3月号で示したものであるが、京都議定書が、いかに日本、米国、カナダの3国にとって不平等かつ過酷なものであるか、一目瞭然だ。そして、京都議定書を米国が批准せず、カナダも離脱したのは、その内容が理不尽だったからだとの指摘もある。日本では、両国の行為をエゴと決め付ける報道が罷り通ってきたが、不平等条約の内容を直視せず、甘んじて受け入れ、ツケを自国の産業に押し付けるような先進国は日本しかないというのが真相なのである。

 付け加えると、欧州が京都議定書に盛り込んだ欧州優位のマジックはこれにとどまらない。例えば、「共同達成」というEUに認められた方式もそうだ。ざっくり言えば、イタリアやスペインといった国が温暖化ガスをそれほど減らせなくても、ドイツやイギリスの削減分を回してもらうことみよって、目標をクリアーしたと見なすというものだ。EUは自陣に有利な体制の構築を成し遂げたと言える。

 さらに、ポスト京都に向けて、EUは加盟国を15カ国から27カ国に増やし、より削減余地の大きい旧共産主義国を取り込むことで、見た目には厳しい目標を掲げながら、実は容易に達成できる体制作りを狙っているという。

 こうした京都議定書の実態について、これこそ「EUの陰謀だ」との見方は少なくない。前述の武田教授は、EUの狙いが「石油枯渇後の世界における覇権」にあるという。

京都会議の戦犯は
国益を蔑ろにした官僚

 それにしても、いったいなぜ、このような不平等条約が罷り通ったのだろうか。

 「Kei(経)」2008年1月号(ダイヤモンド社刊)の『「ポスト京都」に向けた環境問題の新たな取組』で、当時の官僚たちの準備不足を指摘したのは、立命館大学の佐和隆光教授である。佐和教授は当時、NGOの一員として京都会議に参加していたが、旧通商産業省の担当者が議定書の内容を会議初日になってもよく知らなかった事実や、外務官僚が「排出権取引」を理解していなかった様子を描いたうえで、「議長国日本は、終始一貫、蚊帳の外に置かれっぱなしだった」と述べている。

 筆者が改めて取材したところ、たしかに、京都会議において、旧通産官僚や外務官僚は、京都会議や京都議定書の意味をほとんど理解していなかったようだ。旧通産省は、産業界の守護神的存在として振る舞うことに躍起で、交渉全体の行方に責任を持つ姿勢が乏しかった。外務官僚も、京都議定書の採択さえできればよく、中身が国益にかなっているかどうかは二の次という態度だったという。

環境官僚が不平等と知りつつ
確信犯的に条約批准に暗躍

 だが、「ミスター温暖化」の異名をとり、現在、環境省の最高幹部の一人に昇進している人物が、当時、確信犯的に暗躍していたことは見逃せない。この人物は、京都議定書が不平等条約であることを承知しながら、京都会議以降、日本の産業構造が大きく転換し、削減目標が足かせになることはないと判断して、鷹揚に不平等条約を受け入れたというのである。例えば、発電は、1990年代の欧州で進んだように、急ピッチで温暖化ガスを出さない原子力に移行し、鉄鋼は生産の海外シフトが進んで日本から主要な生産設備は無くなると予想していたという。

 関係者によると、この環境官僚は当時、鉄鋼会社の経営幹部に会って、「高炉をひとつかふたつ閉鎖すれば、排出権取引で巨額の利益が見込めるから文句はないでしょう」などと発言、むしろ鉄鋼会社に恩を売ろうとしていたという。

 これに対し、当の鉄鋼会社は、「バブル経済崩壊に続き、タイ発のアジア経済危機に直面しており、その後の中国特需や鉄の復権など予想もできない時期だった」と洩らす。換言すれば、鉄鋼会社として反論する元気がなかった時期であるということによって、ミスター温暖化とのやりとりにおいて反論をしなかった、とまで認めているのである。要するに、産業界は、これほど景気が回復して生産増強が実現し、排出権の購入というコストが必要になるなどと考えていなかったというわけだ。

 余談だが、鉄鋼などの世界市場では、米国を中心に反ダンピング提訴が横行し、自由貿易が機能していない問題がある。これこそ、より本質的な問題かもしれない。というのは、本来、自由貿易が機能しており、高品質低価格の日本製品の輸出が拡大していれば、海外メーカーは生き残りのため、先を争って日本製の製造技術や設備を購入せざるを得ず、日本並みに温暖化ガスの削減も進むはずだからである。ところが、反ダンピング提訴の横行によって、そうした市場メカニズムが機能しておらず、「排出権取引」という擬似的な市場メカニズムを導入する必要が出たうえ、その設定の不合理から、遅れた設備を使う他国メーカーでなく、日本勢が排出権の購入を迫られているというのは、なんとも理不尽と言えるのではないだろうか。

政府はサミット成功のために
日本の競争力を殺ぐ拙速を避けよ

 福田政権は、経済界と協力して戦略構築するステップを踏まずに、最近になって、洞爺湖サミットのアジェンダ作りのため、突然、環境問題を前面に押し出した。というのは、政府は、昨年12月のバリ会議で、温暖化ガス削減のための国別の上限枠の設置に猛反対しておきながら、福田首相が今年1月のダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)に出席。突然、サミット最大のアジェンダとして環境問題を取り上げて、国別目標を導入する考えを表明したからである。

 環境問題は、本来、長期的視点で取り組む必要のある課題だ。ところが、昨年のハイリゲンダム・サミットで、安倍晋三前首相が唐突に「美しい星50」構想を提案し、2050年までに世界の排出量を現状の半分に削減する目標を掲げた。あの拙速ぶりには、首を傾げざるを得なかった。温暖化ガス半減といえば、先進国がまったく温暖化ガスを出さず、発展途上国が現状で凍結してようやく達成できる過酷な目標だからである。

 今回の福田政権も、それに劣らず、拙速との印象を免れない。日本経団連の奥田硯前会長を急きょ、内閣特別顧問や「地球温暖化問題に関する有識者会合」座長に担ぎ出し、その発言力で、産業界の押さえ込もうとするかのような対応も、反発を呼んで逆効果になりかねない。

 むしろ、政府は、世界規模で産業セクターごとに効率化を目指す目標を掲げて、日本勢の競争力を損なわない配慮をするべきだ。製造業に比べて、対応が遅れている分野の戦略作りも急ぐ必要がある。環境省によると、2002年度までの過去12年間に、製造業など産業部門のCO2排出量は0.7%減っているのに対して、逆に、一般のオフィスと家庭をあわせた業務部門は7.3%、運輸部門が3.6%も排出量が増えているからだ。

 まずはセクターごとの削減目標を積み上げて、足りなければ、きめ細かく追加努力を要請して、日本としての国別目標を構築することが、洞爺湖サミットへの第一歩であるべきなのだ。そうしたコンセンサスや戦略がないまま、本番に挑んだのでは、したたかな欧州に再びまんまとしてやられかないリスクを肝に銘じる必要がある。

町田徹(ジャーナリスト)
【第20回】 2008年03月14日
http://diamond.jp/series/machida/10020/

# by thinkpod | 2008-03-15 22:47 | 国際