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2007年 09月 25日
元サハリン再会支援会代表、新井佐和子 (「正論」平成6年12月号) 「サハリン残留者」の多くは、実は戦後ソ連が労働力として北朝鮮から徴用したのだ―。“日本の戦後補償"にすりかえる論者の誤りを突き、五十嵐官房長官の責任を問う。(編集部) 一、「日本が置き去りにした」というとんでもないウソ 拝啓 大沼保昭様 『諸君!』11月号にあなたがお書きになった「戦後補償と国家の品格」を拝見しました。 私が1977年頃より、あなたとほぼ同じ年月、「サハリン問題」に関わってきましたことは、ご承知のことと存じます。サハリン問題については、私は、当初何の知識もなく、単なる"贖罪感"のみでこの運動に飛び込んだのですが、次第に運動に疑問を持ちはじめ、数年後には運動体を離れました。後年、「樺太帰還韓国人会」の会長をしていた朴魯学、堀江和子夫妻と、個人的に関わりを持ち、朴魯学さんの死後、夫人と共に、「サハリン再会支援会」を作って、サハリン韓国人の招請活動を行ってきました。このような立場から、今回、あなたの書かれたものを拝見しますと、見逃すこどのできない事実の誤りが多々見受けられます。 ウソも百回言えぱ真実になるといわれていますが、百回など言わずとも、大学教授や弁護士、政治家等が、それらしく主張すると、たちまちそれが「定説」化していく、あまり歓迎できない風潮が、わが国にはあります。 私のようなものが、これまで何十回訴えても、耳を傾け.てくれるマスコミは、ほとんどありませんでした。 かくして、まちがいがそのまま「定説」になり、やがて「歴史的事実」となって、「戦後補償」などという、とんでもない問題に発展していっているのが現状です。 あなたは『諸君!』掲載論文の「在韓被爆者とサハリン残留朝鮮人の救済」という項で、「もう一つは、終戦時に日本がサハリンに置き去りにした朝鮮人の帰還の問題です。残留朝鮮人は、冷戦構造下、ソ連と韓国との間に国交がなかったために、故郷に帰れなくなっていま.した。そのため、1990年から日本政府は年間約1億円、肉親再会事業への支出を行い、実際にいままでサハリンから多くの在留朝鮮人が故郷を訪問して、肉親との再会や墓参を果たしています」(下線筆者)と書いています。 あなたは終始一貫、サハリンの朝鮮人を日本が置き去りにしたと主張しておられますが、その根拠は一体どこにあるのでしようか。 あなたの御著書『サハリン棄民』の中で参考文献にされている資料一つを見ただけでも、日本が置き去りにしたのではないことが充分立証されます。お忘れになったのか、それともその大事な個所に気付かれなかったのでしょうか。 ジョン・.ステファン(安川一夫訳)の.『サハリン』(原書房、1973年)には、「……朝鮮人は日本人と同様帰国を希望していた。しかし地元の情勢、国.際情勢は彼らの希望を阻んでしまった。ソ連としてはこの朝鮮人の労働力が石炭、パルプ、水産業に重要な役目を果たして.いたため、ソ連は如何なる犠牲を払っても事業運営の継統を望んで.いたのであった」とあります。 次に、日本政府の資料、厚生省援護局編「引揚げと戦後30年の歩み」の中に米ソ引揚協定の条項が載っています。 米ソ引揚協定一、ソ連邦又びソ連邦支配下の領土よりの引き揚げ対象者は、 (イ)日本人俘虜(筆者注:旧日本軍は全員シベリアに抑留され、現実には引ぎ揚げることができなかった) (ロ)一般日本人。 とあるだけで、朝鮮人は含まれていません。 また同協定の乗船処理及び輸送の第二項には「引揚港における引揚者の結集及び引揚者を乗船させる責任は、各引揚港の引揚係官にある。同官憲は同時に各引揚船に乗船させるべき引揚者の選択、乗船順序の立案及び監督に関し一切責任を負う。右の引揚係官とはソ連当局を指すものである」(下線筆者)とあります。 つまり、同協定では、.引揚者の選別は.ソ連当局が自由にできるようになっていたのです。日本国の介入する余地などはまったくありませんでした。 あなたのいう「戦後責任」なるものは、日本政府がサハリンに朝鮮人を置き去りにしてきたことを重要な根拠としているものですが、以上の事実から、それはまったく根拠のないものです。 これに関連して、残留者数の問題に触れておきます。 最近の帰還状況をみると、殆どか韓国に縁故のない人ばかりです。.親威の範囲の広い韓国で無縁故者というのは、戦時中、韓国からサハリンに移住していった人ではなく、たとえぱ、戦後北朝鮮から延べ5万人ほど労働力として派遣されてきた人のうち、何割かの帰国せずに定住した人や、戦前からソ連本土に居住していて戦後サハリンに移住してきた朝鮮系ロシア人が圧倒的に多いとしか考えようがありません。こういう人たちに、何故、日本が責任を負わなければならないのでしよう。 たとえ、純粋に朝鮮半島南部から徴用等で行った人であっても(筆者の推定でほ現存者は数百名、.終戦時は数千名。多くのマスコミがいっている4万3千人などという数字は、まったく根拠がない。産経新聞94年10月10日「アピール」欄参照)、残留させられた経緯(ソ連と北朝鮮の思惑=後述)を考えれば、日本だけで出すお金ではないと思います。ましてや、生活補償金等は論外です。 二、突然出現した"議員懇" 次にあなたはこう書いておられます。 「この問題には、私自身も1976年から関わってきたので、事情を簡単に説明しておきます。この肉親再会事業の陰に.は、原文兵衛参議院議長(自民党、現在は党籍離脱)と五十嵐広三官房長官(社会党)の、実に粘り強い尽力がありました。1986年に私がお願いして以来、お二人はおよそ票にも金にもならないこの問題の解決のために、身銭を切ってモスクワ、サハリン、ソウルに飛び、日本政府、ソ連政府、韓国政府、北朝鮮政府に繰り返し繰り返し働きかけてくれました。ソ連のゴルバチョフによる改革、冷戦終結という情勢も手伝い、各政府から柔軟な対応を引き出すことができたわけです。正直なところ、私は原さんと五十嵐さんがここまでやってくださるとは思わなかった。政治家には最初からあまり期待していなかった。しかし、日本の政治家の中にも本当に立派な方がおられた」(下線筆者)。 現在、私は『現代コリア』誌に.「サハリン韓国人帰還運動の真実」を連載中で、30年間「樺太帰還韓国人会」の会長として、「サハリン韓国人帰還運動」に文字どおり身を挺した故朴魯学さんのぼう大な日記を整理しております。重要な都分のみ拾っても、実に多くの方々の名前と活動記録が出てきます。つまりこのサハリン問題の解決のためには、もう何十年も前から、朴会長の要請を受けて、歴代の総理以下多くの閣僚、政治家、官僚、国際機関の関係者、内外の言論人らが取り組んできていたのです。 、勿諭、朴魯掌さんが軸になっての活動であることは言うまでもありません。これらの地道な活動が20数年続いた後、83年衆議院議員草川昭三氏の単独サハリン訪問によって、再会事業か行われるようになったことは関係者周知のことです。 原文兵衛会長、五十嵐広三事務局長の下に「サハリン残留韓国、朝鮮人問題議員懇談会」(以下議員懇)が設立されたのは1987年ではないですか。もうその頃は既に朴魯学氏主導の家族再会事業が軌道に乗り、外務省からも、滞在費の補助を88年度には予算化するという予告を受けており、殆どの問題は解決していたのでした。 原文兵衛、五十嵐広三両氏か身銭を切ってモスクワ、サハリン、ソウルに飛び、とありますが、一体何の交渉に行かれたのでしょうか。 ふりかえってみますと、あの頃は、社会党が、どういう風の吹きまわしか、にわかにこの問題に取り組み始めたときです。 かつて(1974年5月)朴会長は各政党に対し公開質問状を出したことがありますが、社会党は、それに対し、「サハリンに居る朝鮮人はみな朝鮮民主主義人民共和国の国民と認められるから韓国に還すことに協力出来ない」旨の回答をしてきたのです。 当時同党の委員長であった土井たか子氏までもが、今になってモスクワに「サハリン帰還問題」をひっ下げて飛ぶということで、当時私は、「議員懇」の設立に深く関わり、朴魯学氏の死後、「議員懇」傘下の再会事業組織を作った高木健一弁護士から「土井たか子に会ってくれないか」と頼まれました。私は「既に問題は解決しているのだから、その必要はない」と断ったことがありました。 政治家たちが、サハリンヘ行こうがモスクワに飛ぼうがそれは自由です。かつて反対した党の政治家がにわかに動き出したとしても勝手です。しかし、サハリン帰還問題はその時点では解決していたのです。それなのに、"身銭を切った"などと恩着せがましくいうのは、あまりにも独りよがりのいい分ではないでしょうか。 三、帰還を阻んだのは北朝鮮だ 次に「北朝鮮政府に繰りかえし働きかけ」とありますが、これは聞き捨てにできない重大な発言です。 サハリン帰還問題で一番のネックになったのは、北朝鮮の存在なのです(北朝鮮は、サハリンにいる朝鮮人は、わが国の在外公民である、という主張を現在までも貫いてい.る)。.ソ連は在サハリン朝鮮人を労働力として価値か薄くなってきた70年代半ば頃から、還してもいいという意志を示し始めました。ところがソ連(中でもサハリン)は政治的に常に北朝鮮を意識せざるを得ない位置にありました。70年代頃より言いはじめた「日本には帰ってもよいが韓国に帰っては困る」というソ連の主張は北朝鮮の圧力があったからにほかなりません。ソ連にとっては、出国するならそれらの人たちが、何処にいこうと関知する問題ではなかったのです。にもかかわらず、日本を特定したのは、当時のソ連は、友好国北朝鮮の顔をたてなければならなかったのです。 こういったソ連側の事情を知りうる立場にあったのは、実際に帰還の仕事に携わった者だけです。しかしそうでなくとも、北朝鮮という国の異常性を少しでも、理解していたなら、サハリン朝鮮人の韓国帰還の促進を北朝鮮に.働きかけるなどということは考えることもできない暴挙です。それをあなた方は本当に行ったのですから、北朝鮮並びに東アジア情勢についていかに無知であったかを暴露する以外のなにものでもない行為です。それを自慢話にするというのでは、無知も極まれりとあきれるばかりです。 ペレストロイカ以降、韓ソが接近してその懸念は次第に薄れてはきましたが、それでも、元北朝鮮籍を取っていて(生活の都合でよく国籍を換えることがある)後に無国籍に戻った人の韓国永住帰国を扱ったときなど、"元北朝鮮国籍"を理由に、北朝鮮側にら致されても文句がつけられないという不安がつ.きまとい、極秘に行動しなければならないほど緊張を強いられたものでした。 四、「サハリン」を食いものにした五十嵐官房長官 次に、あなたは、原さん、五十嵐さんのお二人を、「およそ票にも金にもならない、この問題解決のために実によく働いてくれた立派な政治家」と、大変高い評価をしておられます。本当にそうなんでしょうか。 原さんのことはさておき、五十嵐さんについては、どうしてもこの場を借りて申したいことがあります。今年6月に発表した、朴魯学さんの夫人、堀江和子さんの、次の文をお読みください。 『夫・朴魯学の人権を無視した社会党前大臣』 堀江和子 「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」が発行した『サハリン残留韓国朝鮮人問題と日本の政治』という分厚い本が知人から送られてきました。 この「譲員懇」というのは、1987年に百数十名の国会議員によってつくられ、事務局長は細川内閣のとき建設大臣をしていた社会党の五十嵐広三議員です。同会が出来た頃はもう既にサハリンからの帰還が実現しており、私の夫朴魯学は帰還事業が多忙の中、何回となく国会に呼び出され、資料をいろいろ提出させられていました。朴はその頃から大変身体が弱っていて、翌年2月に入院、3月16日に永眠いたしましたが、その前日.15日に突然五十嵐議員が.「感謝状」なるものを持って見舞に来られました。(中略) グラビアをパラパラとめくってみましたら、な.んと朴の病床のあわれな写真が載っているではありませんか。臨終の前日の姿ですから私たち遺族にとっては見るに忍びない写真です。(中略)五十嵐議員が朴に「感謝状」を読み上げている場面を自分のために撮っておきたかったのでしょうか。.議員の地元、北海道のテレビや新聞がものものしく病室に入り込んできて家族は元より病院側にも大変迷惑をかけ、葬儀場にも同じ新聞とテレビが来ました。朴の業績を讃えてくれる目的ならばなにも北海道のマスコミを連れてくる必要はないはずです。.一体感謝状とは誰のためのものだったのでしょうか。グラビアの全部で4、50枚にもなる写真をよく見るとほとんどのものに五十嵐議員の顔が出ています。これではまるで五十嵐議員の政治宣伝の本のようなものです。(中略) 子や孫たちも、こんなときにおじいちゃんの写真を無断で撮ったのもひどいけど、いま又、承諾もなしに本に載せるなんて許せない、とみな憤慨いたしました。それで早速次のような手紙を五十嵐事務局長宛に4月12日、内容証明付で出しました。 「(前文略)右写真掲載については、私共遺族に対し、貴会より、事前に何の御連絡もありませんでした。故人の臨終前の写真であり、しかも病床の最も哀れな姿を人目にさらされるにつき、遺族の感情に何ら思いを致すことなく、ただ、事務局長の功名を高めるためのみに利用されたかの如き掲載スタイルには、強い憤りをおぼえざるを得ません。故人はもとより遺族一同にとって耐え難い苦痛であります。いやしくもサハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会と称され、人権を口にされる団体であるならば、故人の人格はもとより遺族の感情にも最低の配慮があって然るべきと存じます。しかるに、かかる配慮を全く欠いた本書については、即刻そのすべてを回収頂きたく、その上で、再度の流通におくことを防ぐいみから、当方にお送りくだされたくご通知申し上げます。(後文略)」 (『現代コリア』.1994年6月号より) その後、五十嵐議員からは、写真を回収したという連絡はなく、勿論謝罪の言葉もないそうです。それどころか、この原稿を書いているいま(10月19日)、問題のこの本の韓国語訳出版記念会出席のため訪韓するというニュースが報じられています。 「票にならない」というのも、堀江さんの文をお読みになれば、サハリン問題を票集めに使っていることは一目瞭然でしょう。五十嵐氏は、サハリン問題で何処へ行くにも、必ず地元の新聞、テレビを引き連れて行かれるようです。票にならないわけがありません。まあ、それは政治家ですから大いに利用するのもよろしいですか、「議員懇」設立の際、議員の中には、ずっと以前からこの問題に尽力して来られた民社党の田渕哲也議員や公明党の草川昭三議員を差し措いて、それまでこの運動に反対してきた党の議員が事務局長に納まって見当違いの活動を派手に宣伝し、あまつさえ朴会長とそのご遺族の人権をふみにじっています。これはどうみても、党利党略、私利私欲のため、サハリン問題を食いものにしてきたとしか、私には考えられないのですがいかがでしょうか。 五、成果だけ奪う“議員懇”の手口 「議員懇」なるものが、一体何をして来たのかについても触れないわけにはいきません。 「議員懇」が設立した頃、実際に再会活動に携わっていた朴さん夫妻(朴魯学・堀江和子)にとって、当時切実なことは、サハリンからの家族再会希望者を招請するにあたって、身元引受人になってもらう人をみつけることでした。身元引受人になるには、納税証明、職場証明、戸籍謄本等が必要です。そして滞在費を負担し、滞在中の行動の全責任を負うのです。40数年ぶりに、自由の国に浦島太郎のような心境で帰って来て、右も左も分からない人たちの、全ての生活の面倒から、出入国の手続き、帰りの航空券の予約購入、特定の銀行しか出来ないルーブルと円の交換、秋葉原電気街での買物(家族再会とはいえ、日本旅行の主目的はこれ)、観光案内、はたまた再会した韓国の家族とのトラブル調整、何から何まで2、3週間付きっきりでお世話をするということは、並大低の苦労ではありませんでした。この身元引受人になってもらうことこそがこの時の帰.還運動(活動)の唯一の仕事ともいうべきものでした。 ところが、「議員懇」の中では、草川議員を除き誰一人招請人になっては頂けませんでした。原会長、五十嵐事務局長にも、この招請活動の実際を理解してもらうために、招請依頼をしましたが、招請したという形跡はありません。 大沼さん。たしかあなたには一度招請人になって頂いたことがありましたね。勿論手続きは全て朴さんのところでしました。ところが実際にその人がサハリンから来られるようになった時にはあなたは日本におられず、身元引受はしていただけませんでした。それでもサハリンの人は、招請状に名前の書かれている大沼保昭さんを生涯の恩人と思って、その人たちにとっては最も貴重な品物をおみやげにと持って来られたのでした。それほど招請とは、双方にとって重みのあることなのです。名前だけ貸せばよいというものではないのです。 それから細かいことですが、お耳障りなことを言わせて頂きます。 ある一時帰国者が、ぜひ日本の病院で持病の糖尿病を治療してもらいたいと言ってきて困ったことがありました。保険に入っていない.外国人旅行者が日本で医者にかかることは莫大な費用を要するということを分かってもらうのは難しいことです。その時、東大病院が、宿舎から近かったことを思い付き、東大法学部教授のあなたなら何とか便宜を計ってもらえないかと相談を持ちかけました。たとえ有料になってもサハリン帰還運動の"第一人者を任じておられるあなたなら何とか面倒をみてくれるのではないか、という甘い考えがこちらにあったからです。しかしその期待は見事裏切られ、断られました。そのため、本人はもとより既に病を得ていた付添いの朴魯学さんがどれほど苦労をされたか分かりません。 以上のように、実際に家族再会のためにサハリン、韓国双方から来日した人の全てのお世話、永住帰国者には、お年寄りの身体を気遺いながら韓国まで付添って送り届けるまで全責任を持つ、このことこそが帰還活動なのです。そのこと以外に何かあったの.でしょうか。あなたが「あった」と主張されても、それはサハリンの人には何の関わりもないことでした。 "サハリン支援の国の予算化"は、「議員懇」の唯一の成果とされていますが、村山政権誕生以来にわかに浮上してきた戦後補償論のきっかけを作ったのがほかならぬこのサハリン再会事業援助金です。 これは元々、再会事業が民間の手で始められるようになったとき、宿舎や滞在費を2、3人の有志の拠出金で賄っていたことから、外務省が見かねて招請人には実費の何割かをお世話料として、旅行者には新幹線代と食費程度の額を進呈するようになったのがはじまりでした。ソ韓の国交がなかったことから日本で帰還運動がはじまり、日本が仲立ちとなって家族再会や永住帰国が行われたのですから、かつては同じ日本人としで苦労を共にしてくれた客人をもてなす、という程度のいわば交際費のような性格のお金でした。「樺太帰還韓国人会」には、朴さんの人間性に惹かれて、運動資金は全部出すと申し出た日本人篤志家の支援がありましたから、国のお金はあまり当てにせずとも出来たのです。 この補助金が支給されるようになった88年度から、社会党を背景として、高木健一弁護士が招請事業を始めました。大量の印刷物をサハリンに配り、「当方は宿舎も高級マンション(都内一等地にある社会党系不動産会社所有のマンショ.ンで「土井たか子後援会事務所」の表札のある豪華な都屋と、その他数室を使用していた)で、お米も沢山用意してございます……」というような客引きまがいの宣伝を行い、亡夫朴魯学さんの跡を継いだ堀江和子さんの招請事業に妨害を与えたという事実を、あなたは御存知のはずです。招請状一枚作るに、は大変な手間と費用がかかります。苦労して手続きしてもいつの間にか「高木派」に乗り換えられてしまったことがしばしばでした。あるときなどは、入国準備が全部整いソ連出航の連絡を受け、当日港に迎えに行くと「高木派」にら致されてしまったなどということもありました。政府の補助金は連れて行った方に出るのです。お金はともかくとして、連れ去られた側の屈辱感と戸惑う帰国者に対する申しわけない思い、今思い出しても煮えたぎるような悔しさを、堀江和子さんとその御家族(一家を挙げて招請活動に協力)は味わわされてきたのです。これが、「人権」を声高に口にしている人たちのやっていることです。 六、歪んだ“招請”、見当外れの補償 このように、サハリンとのパイプのない人が、強引に数だけの実績を伸ばそうとするには、他人の招請を奪ったり、同じ人を何回でも招講するようになっていったのです。その結果、希望者は大勢いるにもかかわらず"実力者"だけが何回も日本の国民の税金を使って大名旅行をし、.ラジカセ、テレビ、ビデオ、中古車等を買って帰り、法外の利益を得ているというのが実情でした。 二重、三重の招請で実績を挙げ、それに伴って補助金の増額が要求され、現在は、年間1億数千万円が支出されているそうではないですか。現在、帰還事業は、日韓の赤十字社に移され、年に十回チャーター便が出て、その費用と韓国滞在費まで日本が支出しているとのことです。 ソ連の一方的都合で置き去りにされ、ソ連社会のために働いてきた人に「苦しかったでしょう」などと日本が償い金などを差し出すことは、もの笑いのたねになるばかりだと思います。大沼さんは、その点どのように考えておられるのでしょうか。 八○年代の後半日本に来た人たちは、誰一人日本に恨みを持っている人はいませんでした。サハリンの生活は豊かで暮らしいい。唯故郷がなつかしいだけだ。と人間誰もが持つ共通の感概だけでした。それが最近になって補償金を要求する気運が出てきたのは、いまのロシアの暮らしが苦しくなってきたことにもよるでしょうが、その裏には、右にみたような人たちが、自己の売名のためにサハリン問題を利用し、それらの人たちにチエをつけ、個人請求なら出来るといって裁判にまで持ち込んで期待を持たせるのです。 従軍慰安婦問題、それにつづいて燎原の火の如く広がって行った各種戦後補償問題は全て同根から出ているのです。 大沼さん。過去この問題で努力されてきた人たちは、自分たちのやったことを語ろうともしませんでした。あの頃の少くない日本人は、口には出さずとも「過去」へのこだわりを持っていました。ですからかつてあなたがリーダーとして関わられた「樺太残留韓国人帰還請求裁判」には、右のような考えを持った多くの日本人市民と、同胞愛に燃えた在日韓国人たちがこれに参加し、帰還実現の運動に取組んだのでした。私もその中の一人です。 しかし実際は、あなた方專門家のミスリードによって真実が見えなくされ、無駄な支援を続けさせられてきたのでした。戦後50年間、かつての戦争や植民地支配等に関わる問題は、すべて日本の責任、と思い込んでしまうのが平均的日本人の歴史観でした。 しかしそうなってしまった要因は、故意に事実を歪めて世に伝えて来た、.あなた方のような進歩的文化人の責任であるように思えてなりません。あなた方がそれに気付いておられないならば、今後もまた多くの日本人が"戦後補償"という美名にまどわされて、無益な運動に引きづり込まれることになるでしょう。そのようなことに決してならないようあえて苦言を呈した次第です。 http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&task=view&id=357&Itemid=32 ▲
by thinkpod
| 2007-09-25 18:08
| 半島
2007年 08月 22日
外務省のデタラメ「人道」支援はいつまで続くのか 支援拡大で合意していた日韓両政府 「サハリンから(韓国へ)永住帰国を希望している同胞がまだまだたくさん残っている。日本政府の、より一層の支援を御願いできないだろうか…」 昨年十一月十七日、東京都内で、年に一度の日韓議員連盟(森喜朗会長)の合同総会が開かれた。韓国側の参加者から、「サハリン残留韓国人問題」での追加支援の要望が出されたのは、この一連の会議の中である。サハリン残留韓国人問題についてはここ数年、日韓議連で話題になったことさえもなく、日本側の参加者は、「唐突な話だな」と感じたという。実際、永住帰国者への追加支援の話は、在韓国の日本大使館にとっても“寝耳に水”の話だった。 だが、それから数カ月後に国会で成立した平成十九年度予算には、サハリン残留韓国人への特別基金への拠出金として計約三億円がしっかりと、盛り込まれていたのである。その金は、今年七月以降、サハリンから新たに韓国へ永住帰国することが決まった人たち(順次、六百人を帰国させる計画)の渡航費(航空運賃)や住居確保支援費などに充てられる、という。これは、日韓両政府が、サハリン残留韓国人の永住帰国者受け入れ拡大で合意し、「今後も支援を続けていく」という意思表示をしたに等しい行為だった。 ※ サハリン残留韓国人とは戦時中、当時、日本が支配していた朝鮮半島から、サハリン(当時は樺太・日本領、現在はロシア領)へ労働者などとして渡り、戦後、故国(韓国)へ帰れなくなった人たちを指す。その数は約一万人。やがて存在すら忘れられ、故国に帰れなくなった人々とその家族の悲しみ、苦しみは理解できる。ただし、彼らが故国へ帰れなかったのは、主に当時のソ連が“友好国”北朝鮮への配慮もあって、国交のない韓国への帰国を認めなかったためであり、決して日本の責任ではない。 尤も、彼らの存在に長く「無関心」であったのは、ソ連も韓国も日本も変わりがなかったのだが…。 この問題で日本が「人道的支援」という曖昧な名目で、多額の資金拠出をせざるを得なくなったのは、一部の日本人が彼らを煽って裁判を起こし、「戦時中、日本によって四万三千人が強制連行され、戦後は朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」と、事実も人数もまったく異なる“デタラメ”をアピールし続けたためである。「日本人がそういうのだから…」と勢いづいた彼らは要求をどんどんエスカレートさせ、韓国との外交問題にまで発展させてしまう。 そして、「(韓国から)うるさく言われるぐらいなら、金を出した方がいい。謝ってしまえばいい」という日本外交の“悪いクセ”がここでも顔を出した。 平成二年には、サハリン残留韓国人問題で、当時の中山太郎外相が国会答弁で韓国に謝罪。七年には、村山富市内閣のもとで、サハリンから韓国へ帰国する(永住帰国)人のために、日本の資金で(韓国に)巨大アパートや療養院を建てることなどを盛り込んだ巨額の支援が決定されるのである。この止めどもない支援は、戦後六十年以上が過ぎた現在も続いており、平成元年以降、これまでに日本が拠出した額(平成十九年度予算分を含む)は七十億円近い。 今回の話は、「それでも、まだ足りないから、(日本は)もっと出してくれ」という要請である。 永住帰国者の住居としては、その村山内閣時に決定された巨大アパートや療養院がすでにある。日本政府が建設費約二十七億円を出して(土地代・管理費用は韓国側が負担)、二〇〇〇年二月、韓国・安山市に完成した八棟のアパート群『故郷の村』(約五百世帯・千人が入居)と、医療設備を併設した療養院(二カ所、入居者約二百人)である。日本はそれら施設の建設費はもちろん、ヘルパーの人件費・光熱費まで負担しているのに、だ。 韓国側は、サハリンの残留韓国人が「まだ約三千二百人も残っている」とし、このうち、永住帰国を希望している一世約六百人を今年七月から順次、帰国させる計画という。しかし、先に挙げた永住帰国者の居住施設は現在、ほとんど空きがないため、ソウルや仁川にある公営住宅を借り上げて新たな帰国者に割り当てる。当初は、その借り上げ費用も「全額日本側で面倒を見てくれないか」という話だったのだ。 これを日本の外務省から聞いた、財政当局は、「(サハリン残留韓国人問題なんて)もうケリが着いた話ではないか」と、さすがに予算化を渋った。日韓両政府の担当者が交渉を行い、住居の賃貸費用は韓国側が負担することになったものの、日本側は、永住帰国にかかわる家賃以外の諸経費(渡航費など)を出さざるを得なくなった。その額だけでも、約二億一千六百万円(韓国側は住居の家賃などを負担)。そのほか、仁川療養院のヘルパー人件費・光熱費約二千八百万円、事務局経費約三千三百万円などを含めて、十九年度予算には約三億円が盛り込まれたのである。 しかも、来年度以降の日本側の支援については、曖昧になったままであり、今後、さらなる「追加支援」の要請が韓国側から出されるのは必至であろう。日本外交の“事なかれ主義”は結局、国民にツケを回すことになった。 こうした永住帰国者の受け入れ拡大における日韓両政府の合意について、日本ではまったく報道されていない(四月二十日現在)。詳細な内容が明らかにされていないからだ。支援事業を行っている日本赤十字社国際部は本誌の取材に、「外務省の了解が得られない」ことを理由に回答を渋っていたが、「日本政府の予算により、永住帰国者の渡航費や移転費を支援することを計画しているが、永住帰国者の受け入れ先となる施設については韓国政府が用意する予定である」と事実関係だけは認めた。 本当に帰りたかった「一世はもういない」 そもそも、戦後六十年以上も経っているのに、「いまだに韓国へ帰りたい人が六百人もいる」というのは、おかしな話ではないか? 戦時中に労働者などとしてサハリンへ渡った当事者を「一世」と呼ぶとすれば、彼らこそが、本当に故国へ帰りたかった人たちである。 だが、彼らは現在、八十代から九十代。故国を夢見ながら、帰国を果たせず、サハリンの土になった人も多い。サハリン残留韓国人の帰国運動に生涯を捧げた朴魯学氏(故人)・堀江和子さん(80)夫妻らの尽力によって、韓国への一時帰国、永住帰国が実現したのは、戦後約四十年が過ぎた一九八〇年代半ば以降のこと、なのだ。 一世たちはその間、サハリンで生活の基盤を築き、結婚をし、子孫を増やした。子供たちにはロシア人との混血も多い。帰国が始まった八〇年代ですら、「(現地生まれの)子供たちの反対でサハリンを離れるわけにはいかない」として、帰国を断念するケースが多かったのである。当然であろう。サハリンで生まれた二世、三世にとって、韓国は単なる「父祖の地」に過ぎないからだ。 それなのに永住帰国希望者がいまだに後を絶たないのには、ちょっとした「カラクリ」がある。支援を行うにあたって、サハリン残留韓国人の団体は日本に対し、「(終戦の年である)一九四五年末までの出生者を『一世』として取り扱い、補償すること」を強く求めていた。つまり、終戦の年までに生まれてさえいれば、サハリンで生まれた者も、旧ソ連で生まれた者も「一世」とせよというわけだ。 結局、支援対象者の条件は、「一九四五年八月十五日(終戦)までにサハリンに移住し、引き続き居住しているもの」と規定されることになった。平成十五年度からはさらに、「終戦前サハリンへ渡り、残留を余儀なくされ、終戦後ロシア本土などに渡ったという事実が客観的に証明できるサハリン以外のロシア本土及び旧NIS諸国に居住する『韓国人』」にも対象が拡大されている。この条件なら、終戦時に一歳の赤ちゃんだった人も対象になってしまう。 実際、サハリンから韓国への一時帰国や永住帰国で支援の“恩恵”を被っているのは、今やサハリンで生まれた「二世」以降が主になっているのだ。 一時帰国支援は、何らかの事情で永住帰国できない人たちを、韓国の家族と再会させる目的で平成元年からスタートした。日本政府が往復の渡航費と韓国での滞在費を負担し、十九年三月末までに延べ約一万六千人が一時帰国を果たしている。日赤によると、現在三巡目(同じ人が三度、韓国へ行ったという意味)に入っているというが、昨年までは、六十歳以上の一世夫婦に子供一人の付き添いが認められていたため、むしろ彼らの方が「主」となり、“買い物ツアー化”しているという批判が絶えなかった。 永住帰国者にも二世は多い。二〇〇〇年二月、妻とともに、日本が建てた安山の『故郷の村』のアパートに入居した男性(70)は、一九三六年にサハリンで生まれた二世である。父親がサハリンへ渡った経緯は不明だが、徴用(朝鮮半島では一九四四年から実施)でないことだけは確かだ。この男性は、「(アパートが)日本政府のお金で建てられたことは知っているが、『(日本は)一九四五年以前はすべて面倒を見る』と言ったのだから、私たちが入居するのは当たり前でしょう」と話す。この男性は、サハリンに子供たちを残しており、暑い夏の三カ月間はサハリンへ帰るという。 二世以降の世代が、韓国へ来たがるのは、支援によって住居や生活費が保証されていることが大きい。『故郷の村』アパートの場合、永住帰国者に割り当てられる標準的な住居(夫婦二人)は、洋風の2LDK(バス、トイレ付き、約66平方㍍)。小ぎれいなマンションといった趣だ。テレビやオーディオセット、パソコンまで持っている人もいる。入居の権利を子孫が引き継ぐことはできないが、当事者夫妻は、ここに最長三十年間まで住むことが認められている、という。生活費については、韓国政府から月額七十万ウオン−九十万ウオンが支給されている。日本円で平均十万円ぐらい。住民は「ぜいたくをしなければ、十分な額だ」と口をそろえる。 それでも彼らは不満だ。サハリンで生まれた二世以降の世代は、韓国に知人や縁者がほとんどいない。ロシア語しか話せない人もおり、仕事を見つけるのは容易ではない。彼らはみな、「サハリンに残した家族に会いたい」と訴える。そのための支援をもっとしてほしいというわけだ。 だが、日本はすでに十分過ぎるほどの支援をしている。先に書いた一時帰国支援のほか、逆に、永住帰国者がサハリンに残した家族に会いに行くための渡航費の支援も行った。サハリンに残る韓国人の「伝統文化を保存するための施設がほしい」と言われれば、約五億円をかけて、ホテル機能が併設された文化センターまで建設(二〇〇三年)したのだ。 また、永住帰国した「一世」の住居を“拠点”にして、サハリンの子供たちや親類たちが、韓国との間を行ったり、来たりしながら、貿易などの仕事をしているケースや、ひそかに子供や孫を呼び寄せ、同居させている人までいる。永住帰国をして住居は貰ったものの、しょっちゅうサハリンへ里帰りするため、部屋の中には、ほとんど家具や生活用品がなく、「永住帰国施設を“別荘がわり”に使っている」といわれても仕方がないような住人もいた。 さすがに、三カ月以上を留守にすれば、その間の生活費は支給されないシステムになっているが、「ほかの(永住帰国)施設では、支給されている」として、不満を訴える住人までいるのだ。確かに、家族と会えないのはつらいに違いない。ただ、酷な言い方になるが、それならば、韓国への帰国を思いとどまれば良かったのではないか。何度も言うが、二世以降の世代にとって、韓国は「父祖の地」に過ぎないのである。 夫とともにサハリン残留韓国人の帰国運動に取り組んだ堀江和子さん(元サハリン再会支援会共同代表)は、「一世が支援を受けるならいいが、本当に国へ帰りたかった一世は、ほとんどの人が亡くなってしまった。支援がほしいときには支援をせず、今さら支援を行っても、日本とは関係のない二世や三世らが恩恵を受けるだけ。彼らには日本に感謝するという気持ちすらない」と批判している。 戦後、北朝鮮から来た人まで入居 支援の対象者については、もっと驚くべきことがある。『故郷の村』の住人の証言によれば、「アパートには、戦後、北朝鮮などからサハリンへ渡ってきた人たちまで入居している」というのだ。 サハリンへ渡った朝鮮系民族には、大きく分けて三つのパターンがある。(1)戦前の早い時期に新天地での成功を夢見て渡り、そのまま住み着いた(2)戦時中、企業の募集、官斡旋、徴用によって渡った③戦後、北朝鮮やソ連などから、派遣労働者として半ば強制的に連れられてきた−の三つである。住人が指摘しているのは、(3)のケースで、その数は二万人とも五万人とも言われる。彼らが、日本とまったく関係がないのは言うまでもない。 かつてサハリン残留韓国人団体の役員を務めていた七十代の住民の一人はその経緯について、こう話す。「永住帰国がスタートした当初は、我々(サハリンの残留韓国人)の間でも、待遇面の不安が大きく、希望者が少なかった。そのため、戦後、北朝鮮や旧ソ連からサハリンへ来た人たちも、ロシア国籍を持っていた人に限って入れたんだよ。だからこのアパートにも、たくさん住んでいるのは確かだ。ただ、彼らの多くは“素性”を隠して生活しているので、実際に誰がそうなのかは、よく分からない」 また、彼らの多くは、旧ソ連共産党員で、「アパートの自治会組織にも睨みを利かせている」と声を潜める七十代の女性住人もいる。日本政府から『故郷の村』に寄贈されたマイクロバスがいつの間にか、姿を消してしまったり、詐欺まがいの被害にあった住人もいるという。 戦後、北朝鮮などからサハリンへ渡ってきた人たちが、支援の対象者に入っているという「疑惑」は、かねてから関係者によって指摘されていた。 『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったか』の著者で、堀江さんらとともに帰国運動を行った新井佐和子氏によると、九〇年代に一時帰国をした残留韓国人の約半数は、「韓国内に縁故者がまったくいない『無縁故者』だった」という。戦時中に②のケースで、サハリンへ渡った人の多くは現在の韓国地域から行った人たちであり、戦後四十年(当時)経っているとはいえ、縁故者が一人もいないとは考えられない。つまり、彼らは、残留韓国人の団体や韓国政府が主張する“強制連行”などとはまったく無縁の(1)か(3)か、その子孫ということになるのではないか。 現地の韓国政府関係者も、「永住帰国が始まったときは、韓国がソ連(当時)と国交を樹立した直後であり、対象者の選定に多少の混乱があったのは仕方がない。国交がないときは情報がほとんどなく、彼らの調査をきちんと出来なかったからだ。今さら、彼らに(アパートから)出て行けとは言えない」と対象者に彼らが含まれていることを事実上、認めているのだ。ただし、残留韓国人の間では、支援の対象者について、「一九四五年八月十五日以前に生まれた者なら誰でも対象になる」と受け取られているフシがあるから、実際は、それほど問題視されていないのだろう。 日本では、支援を始めたときに、「税金を使う以上、はっきりと区別するべきだ」と“正論”を主張した国会議員もいたが、結局はウヤムヤになってしまった。支援者の選定は、韓国側の赤十字とサハリンの団体に任されており、日本側は事実上、チェックする手段がない。これでは日本はカネだけ出して支援事業を“丸投げ”している、と批判されても仕方がないではないか。 「徴用」で渡った人は数百人だけ ここで、この問題の経緯を詳しく振り返ってみたい。 終戦時、サハリンには約四十万人の日本人がいた。昭和二十一年に結ばれた「米ソ引き揚げ協定」によって、日本人については順次、引き揚げが許され(二十四年までに約三十万人が帰国)たが、ソ連によって終戦と同時に「無国籍者」とされた、朝鮮半島出身者については、ソ連が出国を認めなかったために、サハリンへの残留を余儀なくされた。 これについて、「日本人だけが、さっさと帰って朝鮮半島出身者だけを見捨てた」という悪質なプロパガンダが流されたが、当時、占領下にあった日本は、そうした決定に関与すらできなかったのである。先にも書いたが、彼らがサハリンに留め置かれたのは、ソ連が国交のない韓国への出国に難色を示していたからだ。背景には、北朝鮮への配慮があったという。二〇〇五年に、韓国政府が公開した外交文書によれば、一九七四年にサハリンから日本経由で韓国へ帰国しようとしていた残留韓国人約二百人が、やはり北朝鮮に配慮したと思われるソ連の拒否によって出国が認められなかったケースが明らかになっている。 各国政府が無関心を決め込むなか、当事者の一人で、昭和三十三年に日本へ帰国していた故・朴魯学氏・堀江和子さん夫妻ら、日本にいた民間人の力によって、一時帰国、永住帰国の道が開かれたこともすでに述べた通りだ。そのままなら「美談」で終わるはずの話が、政治問題・外交問題になってしまったのは、五十年十二月、残留韓国人四人を原告にして東京地裁に提訴された「サハリン残留者帰還請求訴訟」がきっかけである。十八人の大弁護団の中心的な立場にいたのは、後に「従軍慰安婦」訴訟でも“活躍”した人物だった。 日本政府の見解は一貫して、「法的責任はない」というものだったが、やがて「人道的支援」を行うことに追い込まれる。そしてこの問題はやがて、人道的支援から、「戦後補償」へとすり替えられて行くのだ。 日本政府に法的責任がない、というのはまったく正しい。昭和四十(一九六五)年の日韓条約で、「解決済み」の問題であり、先の韓国の外交文書公開では、韓国側が個人補償を行う義務を負っていることも明らかになっている。 しかも、“そもそも論”で言えば、戦前、戦時中に朝鮮半島からサハリンへ渡った人たちの多くは、外地手当などによる「高給」に魅力を感じて企業の「募集」に応じて、自分の意思で行った人たちである。つまり、日本政府に無理矢理連れて行かれたわけではない。先の新井佐和子氏は、「私たちが帰国を支援した人たちも、ほとんどが『募集』でサハリンへ渡った人たちでした。(一九四四年から朝鮮半島で実施された)正式の徴用令状で行った人は数百人にも満たないでしょう。当時は『強制連行』なんて言葉すら無かったのです」と断じている。 実際、安山の『故郷の村』に住んでいる住人(一世)に聞いてみると、多くの人は「募集で行った」と答えている。帰国運動を行った朴魯学氏(故人)も、昭和十八年に樺太人造石油会社の募集に応じて、サハリンへ渡った一人だ。朴氏は、サハリンで貰った給料で、韓国の家族に、家一軒が建つほどの仕送りが出来たという。妻の堀江和子さんによると、何が何でも日本政府の責任を主張する仲間(残留韓国人)に対して、「強制連行などではなかったじゃないか」と、朴氏が咎めることがたびたびあった。 韓国政府や残留韓国人の団体は、こうした見解を認めようとはしない。「たとえ募集や官斡旋で行ったとしても、日本支配下のことであり、事実上の強制であった」(韓国政府関係者)というのである。そして、理論上、苦しくなると、「人道的支援」を持ち出すのだ。 だが、新井氏は、「私たちが世話をした人の中には、募集でサハリンへ渡り、お金を稼いで、いったん戻ってきた後、ばくちでスッテンテンになって、もう一度、自らサハリンへ行った人もいました。もちろん、強制などではありませんでした」と反論している。 結局、日本は外交的摩擦を怖れるあまり、求められるままに、「理由なき支援」を続けてきたのだ。もちろん、国際社会で責任ある立場として、日本が「人道的支援」を行うのはいい。だが、七十億円は、明らかにその範囲を超えている。しかも対象者はすでにほとんどおらず、使命は終わったのにである。こうした理不尽な支援が続いていることを、どれだけの日本人が知っているのだろうか。 「日帝下強制労働真相糾明委員会」の調査 サハリン残留韓国人問題は、別のチャンネルでも動いている。二〇〇五年に公開された韓国の外交文書で、こうした“被害者”には、韓国側が個人補償を行う義務を負っていることが明らかになり、彼らによって、韓国政府の責任が問われる事態になった。 このため、韓国政府は、「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」という物々しい名称の組織を作り、“強制連行”の実態調査に乗り出したのである。韓国政府関係者によると、「日本によって強制連行された」として、すでに約二十万人の“被害者”や遺族が手を挙げているという。 調査の目的は、「経済支援金」などの名目で、“個人補償”を行うことにある。現在、政府案と超党派の議員案の二つの法案が準備されており、議員案の方は一人当たり最高五千万ウオン(約六百二十万円)、政府案でも同二千万ウオン(約二百五十万円)が支給されるという。現在、二つの法案の調整がつかず、成立の見通しは立っていないが、実現すれば、巨額の資金が必要になるのは言うまでもない。 韓国政府は、サハリン残留韓国人を、この問題の主要な対象者のひとつに位置づけており、現在、調査員が韓国、サハリン、日本でも調査を進めている。ただ、当然のことだが、戦後六十年以上も経っており、事実関係を明らかにするのは容易な作業ではない。調査員の一人は、「登録者のヒアリングをしていると、曖昧だなと思うこともあるが、こちらにもそれに反論すべき資料がない。日本政府はその資料を持っていると思うが、見せてもくれない」と不満を募らせる。 だがすでに、残留韓国人の間では、この話題で持ちきりだ。安山の『故郷の村』の住人の男性(78)は、「死んでから貰っても仕方がない。とにかく早く法律が成立してほしい」としきりに訴えていた。 韓国政府関係者は、この問題について、「韓国政府が行うことであり、日本政府はまったく関係がない」としている。ただ、その言葉は“額面通り”には受け取れない。二〇〇五年の外交文書公開のとき、韓国政府は、日韓条約交渉時に被害者として認識されていなかったなどとして、慰安婦問題や在外被爆者問題とともに、サハリン残留韓国人問題も例外扱いすることを示唆していたからだ。 しかし、堀江和子さんが、かつて、駐日韓国大使館の幹部に聞いたところによると、その人物は「サハリン残留韓国人問題も日韓条約の対象に含まれる、と明言した」という。それでも、調査が済んだ後、またもや、「人道的支援」を突き付けられないとも限らない。日本は、注意深くこの問題を見守っていく必要があるのだ。 『故郷の村』には、かつて、日本が支援を行うきっかけとなった裁判で弁護人をつとめた人物が、今も度々、出入りしているという。住人によると、彼は、戦時中、不払いになっていた郵便貯金を「五倍にして返還させる」と持ちかけ、再び裁判を起こすことを勧めている。 堀江さんは、「この問題が、強制連行や慰安婦問題、戦後補償の問題など、本来、関係がないものに結びつけた“張本人”が彼なのです。いい加減に、サハリン残留韓国人を利用することはやめてほしい」という。 堀江さんは毎年、韓国・忠州にある朴魯学氏のお墓参りを欠かさない。『故郷の村』には、朴氏夫妻の尽力によって、帰国が実現した人たちがたくさんいる。それなのに、『故郷の村』には、サハリン残留韓国人団体の元会長の銅像はあっても、朴氏らの功績を顕彰するものはない。日本政府が建設資金を出したことを示す記念碑なども、どこにも見当たらなかった。 正論6月号 http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0705/ronbun1-1.html reference archives : 「戦後補償」の亡霊にとりつかれた日本のサハリン支援 ▲
by thinkpod
| 2007-08-22 17:49
| 半島
2007年 08月 06日
戦時慰安婦はこうして銃後の平安を守った村に共産軍がやってきた 呉 崔さんのご出身は、北朝鮮との軍事境界線近くの村だそうですね。それで小学生のころに朝鮮戦争が勃発し、村にやってきたアメリカや韓国の兵士たちが村の女性たちに対して性的な暴力をはたらいたということ、それに対して売春婦たちが村に入ってきて村人たちの防壁の様な役割を果たしたということ、そうしたことを直接ごらんになった体験を、ご著書のなかでお書きになっています。 そのあたりのことは、まったく別次元の問題かもしれませんが、私が日本で仕事をする韓国人ホステスの問題について書いたことと、なにか通じるようなものがあると思うのですが。 崔 そうなんです。呉さんと私の接点はそこにあるように、私も感じています。 呉 たいへん興味深いお話なので、ここでお話いただけるとありがたいのですが。 崔 当時私は一〇歳で戦争を体験したわけですが、半分は怖くて、半分は非常に楽しかったという思いもあるんです。ホラー映画もそうでしょう? 怖いけど楽しい、あの感じなんんです。爆撃を受けて、みんな必死で隠れたりしたんですが、そのときはもう死ぬんじゃないかという恐怖に震えていて、それが過ぎると、すごく楽しい感じがあるんです。 たとえば、ヘリコプターなんか、かっこいいなぁ、という感じで見ていました。ヘリコプターは韓国ではヘルギと言うんですが、おそらく学校教育がはじまる前はヘルギという言葉がなかったと思います。我々は、ジャムジャリビヘンギと呼んでいました。 呉、ああ、ジャムジャリはトンボでビヘンギは飛行機ですね。そう言えば、私も子どものころはヘリコプターをトンボの飛行機と言っていました。 崔 それから、戦闘機はセクセキと言いました。 呉 セ〜ク! といった飛行音で名前をつけたんですね。 崔 ええ。そういう感じで、みんな自然に名前をつけていました。セクセキというのも、そのころはかなり広く用いられていたんです。ジェット機とか戦闘機なんていう言い方はずいぶん後のことです。この戦闘機が見られるのも楽しかったんです。 まあ、そんなふに、戦争が怖くて楽しいという体験だったわけですが、ここでお話ししたいことは、さっき呉さんが言った、軍隊と性暴力のことです。 戦争が起きれば、どんな戦争にも性暴力はつきものなんですね。最近ではユーゴスラビアの紛争で性暴力がありましたし、あるいはロシアの紛争でもそういうことがありました。そうであるのに、なぜか戦前日本の「従軍慰安婦」問題だけが取り上げられるんです。慰安婦制度がいいというわけじゃないんんですが、なぜ明らかな犯罪である性暴力が問題にならないのでしょうか。こっちのほうがより大きな問題だと思うんです。 とくに、アメリカ人が朝鮮戦争のときにひどい性暴行を働いたということが、なぜ問題にならないのか、なぜ取り上げようとしないのか、私はまったくおかしなことだと思うんです。 呉 崔さんが体験されたことによれば、朝鮮戦争時の中国軍はきわめて紳士的だったけれども、アメリカ軍と韓国軍はひどかったということですね。 崔 そうです。アメリカ軍人がひどくて中国軍人が親切でおとなしかったということは、だれに言っても信用してくれないんです。でもそれは、私たち村の人たちすべてが体験した、疑いもない真実なんです。ですから、いくら米軍がいいと言ったって、村の人たちはまったく聴く耳をもちませんね。 呉 彼らは若い娘たちがいるところへどんどん入っていっって……。 崔 いや、もう入っていくなんてもんじゃなくて、強引に乱暴に引っ張っていっちゃうんです。私は一〇歳でしたから、偏見もなにもあるわけじゃないんです。私が一四歳くらいになっていたら、たぶん戦争に引っ張られていて、そんなことを目にすることもなかったかもしれません。そういう意味では、アメリカ人もひどいことをするもんだ、ということを体験できてよかったと思うんです。 私の村は三八度線から四キロ以内のところにありました。南から攻撃をしかけたとか北から侵入したとか言われましたが、私の体験では、北から攻撃を受けてそのへんの人たちがみんな逃げてきて、私たちも村から出て避難したんです。約四〇日間避難していて、それから村にもどったんです。もどったら金日成の時代になっちゃていて、私たち子どもはわけもわからず「偉大なる金日成は……」といった歌を歌ったりしていました。この歌はいまでも忘れませんが、北朝鮮では現在でも歌われているそうです。 そのときが一九五〇年の六月で、翌年の一月に中国軍が入ってきましたから、半年以上、私たちの村は北朝鮮の時代だったんです。 そのころ、人民共和国内務省というものができて、村のある女性に、そこへ事務員として出向しなさいという命令がきたんです。彼女は、自分の恋人が北朝鮮に関係している人だったこともあって、断れなかった。それで彼女は事務員として出たわけですが、内務省は彼女を含む事務員となった人とともに、その年の穀物や果物の収穫量を調べるなどしましてね、これは日本の植民地時代以上の厳しさだと、村の人たちは不安な気持ちになっていました。 そういうことはあったんですが、そのころはまだ、北朝鮮がいいのか、それとも韓国がいいのか、農民たちには判断ができなかったんです。 呉 それは全国的にそうだったと言えるんでしょうか。 崔 少なくとも、田舎はみんなそうだったと思います。そのときには北朝鮮の残酷さも知りませんでしたし、とにかく平和な時代がくればいいと思うばかりで、民主主義もなにもどういうものか知りませんでした。ただ、韓国では李承晩のイメージが強くありました。そのため、李承晩大統領が解放してくれるんじゃないか、というウワサが口コミでどんどん入ってきて、民主化の可能性がある、ということが言われていました。 それで九月に国連軍の介入がすることになるわけです。ソウルから私の村は四〇キロのところですから、折るにソウルの方を見るとパアーッと明るく見えました。遠くで鳴る雷の酔うな音が聞こえて、空が真っ赤に染まっているんです。それを見て、やはり解放されるんだろうな、という期待を抱いて、ずっとずっと待っていました。 そうして翌年の一月、とても寒いときでしたが、中国共産党軍がやってきたんです。そのころ、中国軍といえばとても残酷で、女性の鼻に穴をあけて牛みたいに引っ張るとか、そんなことが言われていました。そういう人たちが来るということで、もう村の人たちは恐怖心でいっぱいになっていたんです。 夜になると、中国軍のラッパの音が聞こえて、民謡みたいなものが流れてくるんです。まあ心理作戦なんでしょうね。どうなることかと、とても寝られませんでしたが、夜中になって中国軍が村にやってきました。 彼らは変な発音の韓国語で「ヨ〜ボセヨ〜」(もしもし)と大きな声を出しているんです。それで、これは大変なことになると思っていたら、そのまま家の前を通りすぎていくんです。軍隊だったらみんな家のなかに入ってきて悪さをするはずなのに、おかしいなと思っていました。 朝になって家の外に出てみますと、山のあたりが真っ白になっているんです。中国軍は夏は草色の軍服ですが、冬は白い軍服となります。その白い軍服を着た中国軍が山の中腹にいっぱい陣取っていて、それで真っ白になっているんです。 そのときから解放されるまでの三ヶ月間の間、我々は中国軍といっしょに生活しました。村は完璧に中国軍に占領されたわけです。 昼間は飛行機が飛んでくるので、我々はみんな防空壕へ避難しているんですが、その間、中国軍の兵隊さんたちが家の中に入っているんです。そういうわけで、我々は昼はほとんど外へでないんですが、夕方からは自由に外へ出て、中国人とも交流しました。 中国人とは言葉は通じなくても、とても親しくできました。彼らの軍隊にも一四、五歳の少年たちがたくさんいるんです。ですから、わりとおもしろく遊んだりしました。非常におとなしい軍隊でしたね。 国連軍・米兵と韓国兵の性暴力 呉 それから国連軍による仁川上陸となるわけですね。 崔 はい。このときの戦争というのは激しいものでしたね。 間もなく米軍が村にも入ってきました。みんな大歓迎です。背の高いスマートなアメリカ兵たちにみんな手を振ってね。だいたい車なんて見たこともないわけで、そこへ大きな部隊がジープやらなんやらできたので、村中が大喜びしたんです。また、ろくな食べ物も食べてないところへ、彼らはチョコレートやビスケットをバラまくんですよ。彼らにもらったカンヅメなんかを腹いっぱい食べて、嬉しかったですねえ。 しかし、そういう期間は非常に短くて、彼らは間もなく女性たちの略奪をはじめたんです。それはひどいものでした。 私の姉は六歳上の一六歳でしたので、父はすぐに遠い親戚のところへやって隠したんです。それでも若い奥さんたちも狙われますから、みんな年寄りみたいなかっこうしてごまかそうとしました。手拭いなんか被ってね。でもそれは韓国式の年寄りのかっこうなんで、アメリカ人からはそうは見えなかったみたいです。 呉 かえって、若い人がスカーフなんか被った、おしゃれなかっこうに見えたかもしれませんね。 崔 ええ、そうだったかもしれません。また子どもがいない人はよそから借りてきて、背中におぶって仕事をしたりしていました。そのほうが襲われにくいですから。 彼らは、昼間は村をぶらぶらしながら、女の目星をつけておくんです。それで夕方になると、坂道などの村を見渡せるところにジープを止めておいて、望遠鏡で目当ての女性を捜すんです。それで見つけると、猛然とジープを走らせてくるんです。そうして強奪していくんですが、我々はそういうジープを見ると、大声で「軍人! 隠れろ!」と叫んだものです。 ところが、アメリカ軍人たちは軍用犬のセパードを連れていて、それに探させるんです。女たちは積んである黍のワラの中なんかに隠れるんですが、たちまち犬に見つけられてしまいます。我々が気がついて彼らを取り巻いたりしますと、何か捜査をしているみたいなふりをして行ってしまうんですが、目を離したスキに連れていかれた女性はたくさんいます。 呉 家のなかには入ってこないんですか? 崔 それが入ってくるんです。ある日、私の隣の家、数メートルほど離れた家ですが、その家で家族が夕食を食べていたときに国連軍の軍人がやってきたんです。そのときの軍人はアメリカ人ではなくイギリス軍のMPでした。 その家には一五歳の女の子がいて、彼らはその娘を目当てにやってきたんです。その娘はギョクチャという、天井のほうにある家具などを入れておくところに隠れていました。私はその家のそばまでいって、彼らがなにをするのかをずっと見ていました。一人が障子戸のところに銃を持って立っていて、一人が探すんです。その娘は見つかりそうになって怖くなったんでしょうね。ギョクチャからパッと出て逃げようとしたところをつかまってしまいました。 彼らは戸を閉めると一人が歩哨みたいにして外に立ち、一人が中で娘に暴行を働きはじめたんです。そのとき、私の親族に耳が聞こえない老人がいまして、その老人が熊手みたいな金属のスキがあるでしょう、あれをもって家に押し入るや、いきなり床をそれでバンと叩いたんです。もう死んでもいいと思ったと言っていましたが。それでイギリス人はびっくりして、ものすごい勢いで外へ飛び出したんです。で、エンジンをかけっぱなしにしてあったジープに二人して飛び乗り、行ってしまいました。 その晩、そのまた隣の家でアメリカの黒人兵が殺されたんです。 呉 村人に? 崔 そうです。性暴行を働いたので村人が殺したのです。それで憲兵がきて捜査をはじめたのですが、殺した本人はもう逃げていましたからつかまりません。そうなると戦時中は、もう捜査を打ち切るんですね。そんなことに労力を使っていられませんから。 死人が出たとなると、彼らも懲りたろうから性暴行がおさまるかと思ったんですが、それから一週間もたたないうちに、またやりだしたんです。 女性だけではなく少年も襲われたんです。私より一つ上の一一歳の少年でしたが、おばあさんと一緒にサツマイモを洗っていたんです。そこにアメリカ兵がジープでやってきて、彼をおさえて性器を口に入れるんです。そばでおばあさんが大声で泣いているんですが、平気でそういうことをやっているんです。 また、ある結婚したばかりの女性は、畑に肥やしをやっているところをアメリカ兵にジープでさらわれました。彼女は一カ月近く行方不明になっていて、ある日、同じ場所でジープから下ろされて村に帰ってきました。そんなひどい話がたくさんあります。 呉 慰安婦がいなければ、暴力的に素人の女性を慰安婦にするんですね。戦争が最低の人間をつくってしまう。その後韓国軍がきますね。韓国軍の兵士たちはどうだったんですか。 崔 やがて、国連軍と韓国軍が交代しますが、韓国軍もひどいことをだいぶやっています。韓国軍は我々の村が一時的であるにせよ北朝鮮の支配下にあったということで、北朝鮮への協力者の摘発をはじめたんです。先ほどお話しした北朝鮮の内務省の事務をやっていた女性ですが、彼女が思想的な犯罪者だということで韓国軍に連れていかれました。 この女性に対する韓国軍の残虐さは、北朝鮮もアメリカ軍もやらなかったひどいものでした。彼女は四〇日間というもの、韓国軍のなかにとめられて強制売春みたいなことをさせられたのです。いや、売春ではないですね。めちゃくちゃな不特定多数による性暴行です。 呉 そんなことがあったんですか 崔 ほんとうにかわいそうでした。婚約者もいる未婚の処女ですよ。しかも彼女は、そのために子どもを産めない身体になってしまったんです。その後、彼女は養女をとって一人で育て上げたのですが、一生を不幸のどん底で暮らしたと言っていいでしょうね。そんな恥ずかしい目にあって村にはいられないという思いで、ソウルへ行って隠れるように暮らしたんです。 韓国軍がこんなにひどいことをしたのは、私の村ではこの一件だけでしたが、他の村でも同じようなことがたくさんあったんです。 私の村でもそうですが、三八度線近くの村では、北朝鮮に連れていかれた人、自分で行った人がたくさんいますので、なにかスパイ事件があると、それを理由にまた暴行される者がたくさん出るんじゃないかと、いつも緊張するんです。戦争は必ず悲劇を生むし、また生涯その悲劇から逃れられないで苦しむ人たちを生むんです。 呉 国連軍の軍人たち、とくにアメリカ軍人がそういう残酷な性暴力をはたらいたということは、国民にはまったく知らされていませんね。それだけひどい性犯罪を犯しているのに、国内でも国外でも問題にされたことは、一度もありません。韓国政府は自ら国民に対して犯した犯罪を正直に表明して責任をとると同時に、アメリカや国連に対して声を大にして抗議すべきです。なぜそれをしてこなかったのか、デタラメじゃないですか。 崔 この、朝鮮戦争時のアメリカ軍と韓国政府の構図が、いまなお続いているんです。東豆川にアメリカ第七師団が駐屯していますね、かつては四万人だったのが今では二万人ですが、あそこはまさに売春だらけの地域です。夜行ってみると、線路のところにズラッと売春婦が立っていますよ。 そういう状況の中で、韓国人の売春婦がアメリカの黒人兵に殺されましたね。それで売春婦たちが彼女の死体をかついでデモまでしました。ところが韓国政府は、日本の沖縄で起きた問題のように大きな問題として扱わないんです。 呉 売春婦だから、というのもあるんでしょうね。素人の女性でアメリカ兵の暴行を受けたものもかなりいるはずなんですが、性の問題というのは、韓国の女にとってはものすごく恥ずかしいことですから、被害があってもなかなか表ざたにはならないわけです。政府の方も、国民の恥みたいな考えで取り上げようとしない。そういう二重構造があるように思うのですが。 崔 そういうことでは、戦後間もないころの日本と似ているんじゃないですか。日本でもそのころに、アメリカ兵に女性が性暴行を受けた記録がたくさんあるのに、国民も政府もあまり大きな問題として取り上げませんでした。それが、最近になってようやく、沖縄での性暴行事件をきっかけに、国民も政府も大問題だと取り上げるようになりました。 韓国政府は、国連軍から受けている恩恵というか、そういうことに気をつかっているし、国民のほうもそういう問題に対する意識が弱いんですね。日本の占領軍と当時の日本政府・日本国民の意識も、やはり同じようなものだったんじゃないでしょうか。 呉 日本人も韓国人も、「従軍慰安婦」の問題ばかりではなく、もっとそういう問題に目を向けていくところから、戦争と性暴力の問題を全体的な視点から眺めていくことが必要ですね。ベトナム戦争に韓国軍が参加しますが、そのとき韓国軍はベトナム女性に数々の性暴力をはたらいています。また、性暴力ではないかもしれませんが、韓国軍兵士がベトナム女性に産ませた子どもがベトナムにはたくさんいます。 それでも、ベトナムは韓国に対して文句を言うことはありませんね。いまは力がないからそうしているのかもしれませんが、力を持ってくると、問題化されていくのではないでしょうか。戦争と性暴力の問題はなにか日本だけの問題だといわんばかりの態度を改め、自分たち自身が犯してきた問題として、いまからきちんとしておかないとならないと思います。 ーー 途中略 ーー 売春婦とともに生きた村人たち 崔 そういう呉さんの体験につながるのが、私の村の話にもどりますが、私の村へ売春婦たちがやってきたときのことです。 私の村もいうまでもなく儒教社会の村であって、そこへ売春婦なんかを入れてしまえば、もう李朝時代のモラルは一気にふきとんでしまうはずなんです。ところが私たちの村では売春婦を歓迎したんですね。儒教社会がなぜ売春婦を歓迎するかということが、私には大きな疑問なんです。 普通ならば、そういう人たちは村を守るために入れないわけです。しかし、米軍の性暴行に対して、正攻法では守れなくなった。それで村を守るために売春婦を喜んで迎えたという矛盾、これが私にはちょっと理解できないんです。あんなにまで性道徳をうるさく言っていて、あれほどに売春婦を軽蔑していた人たちが、彼女たちに村にずっといて欲しいと願う。それでなんで儒教社会だなんて言えるんですか。 呉 戦場の軍人に対する慰安婦の登場ですね。彼女たちがいなかったら、いったい村はどうなっていたのか、この慰安婦を求めた村人たちの気持ちは、じつは銃後の我々すべてがいざとなればもったものであるはずなんです。そういうことを抜きにして「従軍慰安婦」問題を論じて欲しくないですね。 崔 彼女たちが村にきてから、村の女性に対する性暴力はなくなったんです。 雨が降るとコンドームがあちらこちらから流れてくるんですよ。子どもにはコンドームがなんだかわからないので、それに水を入れて遊んだりしたものです。アメリカ兵たちを性病から守るために、米軍ではコンドームを大量にストックしているんです。私のおじの家ではそれを横流しかなんかで安く仕入れてきたものを買ってきて、それをカミソリで細長く切ってゴムのヒモをつくり、それを靴下に編み込んで利用していました。 呉 足首を止めるゴムにしたわけですね。 崔 そうなんです。ほかにも利用の仕方はたくさんありましたが、まあそんなわけで、それまでなにか性不道徳そのものと見えていたコンドームも平気になってしまったんです。 また、村の男の中で何人かは、売春婦、いや、はっきり言えば米兵相手の従軍慰安婦ですよ、彼女たちを好きになっちゃったのがいて、家庭問題を起こして奥さんとケンカになったり、メチャクチャになったのもいました。 わずか三〇〜四〇件の小さな村なんですが、そこへ若い女性がドッと入ってくると、村にがぜん活気が出てくるんですね。米軍のジープやトラックがいっせいにやってきて、あちこちに駐車して空き地が車でいっぱいになる。そして米兵たちが行ったりきたりしていますから、なんとも賑やかで活気があるんです。 それで、米軍が訓練かなにかで外出が禁止されると、その日はまるで村が死んだように静かになる。売春婦たちとしても商売ができないので、明日はくるんだろうかどうなのだろうかと心配して、みんな沈んだ顔をしているんです。 呉 村へきた女性たちは何人くらいだったんですか? 崔 売春婦はだいたい三〇人ほどだったんですが、ほぼそれぞれの家に一人ずつ民宿させていました。そうやっていっしょに生活するので、自然に親しくなってしまうんですね。私も最初は売春婦たちは非常に不良っぽいイメージをもっていて、心も身体も最低の女性たちなんだと思っていました。しかし親しくなってみると、呉さんが言われたように、ほんとうに純粋な人が多いんですよ。 呉さんがお書きになった韓国人ホステスたちもそうでしたが、家が貧乏で売春婦になったのであり、堕落してそうなったとか、倫理や道徳がどうだとかいうことじゃまったくないんです。家族と自分が食べるためにやってるんですが、心はダメになっていないんですね。 呉 戦前のアジアの農村は、日本だろうと韓国だろうと中国だろうと東南アジアだろうと、みんな貧困問題を抱えていたんです。「従軍慰安婦」問題の本質はそこにあるわけで、アジア的貧困と戦争の根絶こそがほんとうのテーマなのです。 崔 きれいごとじゃすみませんからね。 「これでは困る韓国」 崔 吉城, 呉 善花 p.11-p.31 より 朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表 ▲
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| 2007-08-06 19:05
| 半島
2007年 08月 06日
朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったことが23日、立命館大学(京都市北区)で開かれている「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会(朝日新聞社後援)で明らかにされた。韓国軍慰安婦について日本で公になったのは初めて。発表した韓国・慶南大客員教授の金貴玉(キム・ギオク)さん(40)=社会学=は「日本軍の慰安婦制度をまねたものではないか」とみている。 ![]() 金さんは96年、離散家族のインタビューの中で、「50年10月、韓国軍の捕虜になり、軍慰安隊の女性と出会った」という男性の証言を得た。以後5年間インタビューを重ね、「直接慰安所を利用した」「軍に拉致されて慰安婦にされかかった」という男女8人の証言を聞いた。 さらに金さんは、韓国の陸軍本部が56年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所−特殊慰安隊」の記述を見つけた。設置目的として「異性に対するあこがれから引き起こされる生理作用による性格の変化等により、抑うつ症及びその他支障を来す事を予防するため」とあり、4カ所、89人の慰安婦が52年だけで20万4560回の慰安を行った、と記す特殊慰安隊実績統計表が付されている。 証言と併せ、軍隊が直接経営していた慰安所があった、と金さんは結論づけた。 軍関係者の証言の中には、軍の補給品は第1から第4までしかないのに、「第5種補給品」の受領指令があり、一個中隊に「昼間8時間の制限で6人の慰安婦があてがわれた」とする内容のものもある。 どんな人が慰安婦になったかは明らかではないが、朝鮮戦争時に娼婦(しょうふ)が急増し、30万人にも及んだことから、金さんは「戦時の強姦(ごうかん)や夫の戦死がきっかけで慰安婦になった民間人も少なくない」と見ている。 金さんは「設置主体だった陸軍の幹部の多くは日本軍の経験者だった。韓国軍の慰安婦が名乗り出るためには、日本軍慰安婦問題の解決が欠かせない。韓国政府と、当時軍統帥権を握っていた米国の責任も追及したい」と話している。 ◇ 大阪外国語大学の藤目ゆき助教授(歴史学)の話 非常に重要な報告だ。軍慰安婦については、韓国でもほとんど知られておらず、発見といっていい。韓国にいて韓国軍の暗部を問うのは難しい。同胞の女性を性奴隷化した自国社会を直接問うことになるからだ。アジア女性史研究の上でも、軍慰安婦と現在の軍事基地周辺での性暴力がどのようにつながっているのかを知る助けになる。(23:32) asahi.com : 社会 : 速報 2002/02/23 http://www.asahi.com/national/update/0223/028.html 朝日新聞 2002年2月24日 ![]() 「韓国戦争中にも軍慰安婦存在」韓国教授が主張 2002年02月24日19時29分 日本軍の慰安婦制度を真似た慰安婦制度が、韓国戦争当時、韓国軍にもあったという主張が提起されたと朝日新聞が24日報道した。 韓国の慶南(キョンナム)大学の客員教授の金貴玉(キム・キオック、40)氏は、23日京都の立命館大学で開かれた国際シンポジウムでこのように発表したと同新聞は伝えた。 金教授は「1996年以後、5年間『直接慰安所を利用したことがある』、『軍にら致され、慰安婦になった』など男女8人の証言を聴取した」と明らかにした。 金教授はまた「韓国陸軍本部が1956年編さんした公文書『後方戦史』に『固定式慰安所−特殊慰安隊』と記録された部分を発見し、これには4カ所で89人の慰安婦が1952年に限って20万4560回の慰安活動をしたという統計資料が添付されていた」と同新聞は付け加えた。 一方、国防軍事編纂研究所の関係者は『当時、軍は売春婦と合意の下で場所を提供した。また慰安行為の対価は部隊運営費から支給されたと聞いている」とし「しかし、日本の植民地時代に日本軍が人権を無視し、一般庶民を強制に連れてきて運営した従軍慰安所とは違う」と説明している。 http://japanese.joins.com/article/331/24331.html 【米軍の強姦から米軍(連合軍)の慰安婦制へ】 列車の中での米軍兵士の韓国人への陵辱事件 1947年1月11日「東亜日報」 ![]() 米軍兵3人が未成年(19歳)の女性を輪姦事件 1954年11月11日「東亜日報」 ![]() 米軍相手の慰安婦だった2人の女性が、自らの身を悲観して自殺した記事 1957年7月21日「東亜日報」 ![]() 米軍の黒人兵による慰安婦殺害(疑惑 1957年5月1日「東亜日報」 ![]() 国連軍を相手にする慰安婦の登録を「ソウル市役所」が実施 1961年9月14日「東亜日報」 ![]() http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfree&nid=348439 http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=21&nid=78362 reference archives : 朝鮮戦争における性暴力 ▲
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| 2007-08-06 17:00
| 半島
2007年 03月 01日
米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」 2007/02/26 昨年の埼玉県議会で上田清司知事が「古今東西慰安婦はいても、従軍慰安婦はいなかった」と発言し、その抗議のため昨年10月上田知事に面会を求め来日した李容洙(イ・ヨンス)さん(78)が再来日し、さいたま市のさいたま市民会館うらわで2月23日に開かれた「イ・ヨンスさんのお話を聞く会」で再び証言・告発した。 ![]() 李容洙さんの「経歴」 昨年の来日時は、知事面会を断られ県議会場入り口で秘書課長らと知事を待っていた李容洙さんに、上田知事は「邪魔するな!」と怒鳴っている(下部関連記事参照)。また、李容洙さんは先日も米議会の「公聴会」で証言してきたばかりであるという。 李容洙さんは慶尚南道で生まれ15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた日々を、不自由な日本語で告発した。日本政府の対応に怒りを込めて「これからも死なずにずっと話す」と訴えた。 当日は2000年に従軍慰安婦問題を裁いた「女性国際戦犯法廷」で加害証言をした元「中国帰還者連絡会」の金子安次さん(87)も参加、李容洙さんの発言に続き自らの加害体験や軍隊の実情を証言し、上田知事の発言を否定した。 その「女性国際戦犯法廷」の放送では、NHKが金子さんに「放送で実名を出してもいいのですか?」と事前に確認電話があり、「勿論いいですよ、私は証言者ですから」と応えたにも関わらず、その加害証言をカットされ「圧力があった」と感じたことも証言・告発した。 この放送では同時に「被害証言と、天皇有罪部分」もカットされ、その原因に安倍官房副長官(当時)の関与が内部告発され、主催者が提訴し1月29日東京高裁は安倍氏らの圧力を認めなかったものの、自主規制の「不当性」を認定しNHKに賠償を命じ、敗訴したNHKは上告している。 (芹沢昇雄) (cache) 地域・米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」 http://www.janjan.jp/area/0702/0702250646/1.php イ・ヨンスさん「私は確実な被害者です」 2007/03/04 元日本軍「慰安婦」被害者のイ・ヨンス(李容洙)さんと上田清司埼玉県知事との面談が、3月1日(木)午後2時10分より約15分間埼玉県庁知事応接室で行われた。 これは、昨年6月に埼玉県議会で上田埼玉県知事が「慰安婦はいたが『従軍慰安婦』はいなかった」と発言した事を受けて、『元日本軍「従軍慰安婦」イ・ヨンスさんのお話を聞く会』実行委員会と「上田知事の歴史認識を問う県民連絡会」が同10月から申し入れを行った結果、実現したものだ。 面談後、埼玉県庁内で行われた記者会見では、冒頭に「上田知事の歴史認識を問う県民連絡会」の石垣敏夫さんから、この日の面談に至る経緯と面談は当事者と通訳のみの非公開で行われたことが報告された。 「面談は、知事と知事側通訳、李容洙さんと李さん側通訳の4名で行われた。上記市民団体は、『知事と本人の2人だけの面談では本人の発言の保障、及び記録が公正に担保されない問題がある』という懸念から市民団体側の責任者も同席させて欲しいと要請したが、知事側に断られた」 続いて李容洙さんから報告があった(時折、李さん自身が日本語で語ったが、殆どは通訳を介した日本語である)。 知事室に行ったら誰もいない所で私が待たされた。私は、それは間違いだと思う。面談を申し入れた団体の人が設定を間違えたと思う。私は、わざわざ知事に会いに来た。それならば、知事が待っていて私を迎えるべきではないか。私は、まずこのことで言いたいことの半分は頭から消えてしまった。 知事は、名刺を渡し握手を求めてきた。私はこれもおかしいと思った。しかし、私が待っていたからそういう流れにならざるを得ないか?と思った。知事が先に待っていたら、私も同じことをしただろう。 そこで私は、まず「私は確実な被害者です。16歳(数え年)で台湾の特高隊員に連れ去られた。'46年に帰国したがその時は両親が亡くなっていた。知事は両親も殺したのですよ。私が見えますか」と言った。知事は無言だった。そこで、私はもう一度聞いた。「私が見えますか?」と。知事は、「見えます。(李さんのことを)個人的には気の毒だと思っているし、これから平和のために、また隣の国だし仲良くなれるように努力する」と言った。 それから、「慰安婦の資料を隠した」と言ったら、知事は頭を傾けて「そんなことはしない」と言った。さらに、「従軍はあったが(従軍)慰安婦はなかった。戦争の時は常に起こりうることだ」とも言った。 こういうことはあってはならないことだし、話をするのはつらいが、私は証言する。アメリカでも話したこと。(筆者補足:彼女は今回の来日前に、米国で行われた『日本軍「慰安婦」問題で日本政府に公式な謝罪を求める決議案=米国下院決議案121』採決の際に米国議会公聴会で発言している) この後、記者からの質問があったが、「知事を擁護するわけではないが‥‥」との前置きもありながら、李さんを問い質すような場面も表われ、私は正直驚きを禁じ得なかった。それは知事の発言にもあったそうだが、おおよそ「あなたの団体(取り巻き)が誤解を与えるようなことを言っている(通訳は「捏造」という表現も使った)」という立場からの質問のように私には聞こえた。 それは、例えば次のようなやりとりである。 −上田知事は、『従軍はなかったが慰安婦はあった』と発言したのであって、「慰安婦」自体は認めている。また事実、軍による強制連行はなかったのではないか? 「強制的だった。」 −それは、軍によるものなのか? 「私は台湾で特高隊員に口を塞がれて連れて行かれた」(記者この時はうなずく) −そのことを知事にも言ったのか? 「言った。『従軍』は自分で進んで行ったこと。『慰安婦』という言葉は嫌だが、『強制』という言葉を付けなさい。私はこの体験のために顔を下に向けて歩いてきた。とも言った」 面談の初めのシーンに憤慨して少し語気を荒げて話していた李さんがこの質疑応答の時には、かなり興奮して語っていた。(しかし、この時に記者の周囲にいた団体の人が口を挟んだことについて「記者会見中。ここは決起集会ではないのだから」と言ったことには私も納得をした。場は弁えたほうが良いと思う。せっかくの支援活動もつまらぬことで反感を買っては勿体無いと思う) 私も1つ質問をした。 −上田知事が、「これからは平和のために頑張りたい。隣の国だし友好関係になれるように努力する」と発言したようだが具体的に何かするということを言ったか? 「私は、若い人たちのため頑張ると言った。知事も『頑張る。李さんもお元気で』と言った」 ずっと強張った表情だった李さんもこの時は、微笑んで語ってくれた。 この面談では、写真撮影も禁止されたそうだが、最後に李さんから申し入れて記念写真が撮られたとのこと。李さんは、手を取って「仲良くしましょう」と知事の手をさすったそうである。このことを語った時も李さんは微笑んでいた。 この後3時から知事室で知事の会見があると聞き、私も出席を希望したが、記者クラブ向けの会見であることと、事前に連絡を入れていなかったので全く無理とのことであった。(後からわかったことだが、私が出席した記者会見でも、基本的には記者クラブのメンバー以外は質問をしてはいけなかったらしい) 2日付埼玉新聞によれば、この知事会見で、「従軍という言葉は英霊に失礼だ」という発言があったと報じられている。 最近の厚生労働大臣の発言を巡っては、当初は大臣を批判する声が大方であったのが、いつからかそのことを追求する議員たちに対する批判の声の方の方が強まったように思う(言葉尻を捉えた抗議はもう良い、などという言い方)。埼玉県知事の「慰安婦」に関する発言に関しても、ことの本質を明らかにするよりも、発言を巡る運動に対する批判に摩り替わっている様子が伺えた。 せっかく当事者が直接会って話をする機会ができたのだから、今後は益々の乖離ではなく少しでも分かり合える時が持てることを願いながら、私は県庁を後にした。 (宮沢さかえ) イ・ヨンスさん「私は確実な被害者です」 http://www.janjan.jp/world/0703/0703030946/1.php 米議会証言の元「慰安婦」李さん23日、さいたまで講演会 2007年2月22日(木) 支援者から花束を受け取った李容洙さん。「愛する日本人のために、戦争と性暴力がなくなるように証言を続けたい」=19日夜、東京都・新宿区 米下院議会公聴会で、太平洋戦争中の従軍慰安婦問題について初証言した元「慰安婦」の韓国人李容洙(イ・ヨンス)さん(78)が、草加市の主婦信川美津子さんらの招きで十八日に来日した。二十三日午後六時半から、さいたま市民会館うらわで講演会「イ・ヨンスさんのお話を聞く会」を開く。平和団体や女性グループなど十五団体、個人で組織する同実行委員会(石田甚太郎代表)が主催する。 李さんは韓国・大邱(テグ)出身。十六歳の時に台湾に連行され、一九四五年から旧日本海軍の特攻基地で軍人の相手を強要されたという。 県内では昨年十月に次ぐ二度目の証言。李さんが「慰安婦」の体験や米議会証言について報告するほか、慰安所を利用した旧日本軍兵士の金子安治さん(87)の証言もある。資料代五百円。 問い合わせは西島さん(TEL090・5806・3605)へ。 “謝罪”は不十分 日本政府に「明確な謝罪」を求める超党派の決議案をめぐり、米下院の証言台に立った李容洙さん。元「慰安婦」の証言は米議会史上初めて。 李さんは当時の過酷な生活を振り返り、「一日四人から五人の軍人の相手を強要された。反抗すれば電気拷問やムチで打たれた。つい最近まで当時感染した性病の治療を受けていた」と涙ながらに証言したという。 来日直後の十九日夜、都内で開かれた集会には女性支援者ら約六十人が駆けつけた。 長旅の疲れもみせず約一時間半、立ち続けて話す李さん。「戦争と性暴力をなくし韓国と日本が兄弟のように楽しく、仲よくなるためにつらい証言を続けている。話さなければ事実が分からない」と日本語で語りかけた。 麻生太郎外相が同日、米議会決議案について「事実に基づかず遺憾」と述べたことについて、「私が生きている証人。愛する日本人に恨みはないが、日本政府はきちんと私に謝罪してほしい」と訴えた。 十三年間、元「慰安婦」支援を続けている信川さんは「日本政府の謝罪は、国民基金で補償した二百八十五人に対して印刷された謝罪文を配っただけ。しかも、その文章では相手の氏名も国も公表されておらず、名乗り出た被害女性の一部にすぎない」と批判した。 (cache) 米議会証言の元「慰安婦」李さん 23日、さいたまで講演会 http://www.saitama-np.co.jp/news02/22/29l.html 「イ・ヨンスさんのお話を聞く会」資料 米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言 水を打ったように静かだった。 涙を浮かべる米国人もいた。 15日午後、米ワシントンの下院レイバーンビル2172号室。 下院外務委員会アジア太平洋・環境小委が米議会史上初めて開いた‘慰安婦聴聞会’では、李容洙(イ・ヨンス、79)さん、金君子(キム・クンジャ、81)さん、ジャン・ラフ・オハーンさん(85、オランダ)の3人が、日本軍の慰安婦として連行されて受けた侮辱を生々しく証言した。 200席余をぎっしり埋めた傍聴客は3時間以上続いた証言を粛然とした雰囲気の中で傾聴した。 ◇「犬や豚以下の生活」=最初に証言した李容洙さんは「1944年の16歳の時に台湾に慰安婦として連行され、3年間にわたり日本軍に性的にもてあそばれた」とし「2階建ての日本風の慰安所で一日平均4、5人の日本軍に強姦され、粥で生き延び、何かあるとすぐに暴行されるなど、犬や豚よりもひどい生活をした」と証言した。 日本軍によって‘トシコ’と名付けられた李さんは、性行為を拒否して電気拷問を受け、韓国語を話す度にひどく殴られた、と語った。李さんは「終戦後に家に帰ると、母は‘死んだ娘が霊になって現れた’と言い、父は鬱火病で中風になり、その年に亡くなった」と述べた。 李さんは「日本政府は謝罪したと主張するが、一度も謝罪を受けたことはない。 世界の性的暴行を根絶するためにも日本は必ず謝罪しなければならない」と強調した。 続いて、16歳だった42年に中国に連行された金君子さんが証言した。 金さんは「慰安所で一日平均20人、多い時は40人の日本軍を相手にする地獄のような生活を送った」とし、「日本軍は小さな刃物で私の体を少しずつ切りつけ、服を激しく破り、コンドームも使わず跳びかかってきた」と語った。 続いて「いっそのこと死んでしまおうと思って何度も自殺を図ったが、日本軍が見張っていてそういう機会もなかった」と述べた。 金さんは「45年8月の終戦で日本人が‘出て行け’と言ったので、同僚8人と畑の白菜を取って食べ、1カ月以上も歩いて家に帰った」と悲惨な帰郷過程を伝えた。 金さんは「慰安所に到着した初日、抵抗して殴られ、左耳の鼓膜が破れた。体にも多くの傷が残っている」と涙声で話した。 ◇「日本将校が刃物で脅して強姦」=西洋人慰安婦として証言し関心を集めたオハーンさんは「日本軍は私の青春を無惨に踏みにじり、すべてのものを奪っていった」と怒りを表した。 オランダ植民支配下のインドネシアで生まれたオハーンさんは19歳だった42年、日本軍がインドネシアを占領した後、収容所に入れられた。 オハーンさんは「その日の夜、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。 彼は刀を抜いて‘殺す’と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。 その夜は何度強姦されたか分からない」と身震いしながら話した。 オハーンさんは「一緒に連行なれたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と語った。 また「日本は95年にアジア慰安婦財団を作って私的な補償をしたというが、これは慰安婦に対する侮辱」と主張した。 続いて「日本は政府レベルで残虐行為を認め、行動で謝罪を立証しなければならず、後世に正しい歴史を教えなければならない」と求めた。 オハーンさんは「日本人は私たちが死ぬのを待っているが、私は死なない」とし、日本が正式に謝罪するまで闘争を続けると誓った。 ◇米国議員間で意見の差=慰安婦決議案を主導したマイケル・ホンダ下院議員(民主、カリフォルニア)は聴聞会で証人を自ら要望、「今われわれが行動に出なければ、日本政府の謝罪を引き出す歴史的な機会を失ってしまう」とし決議案の採択を促した。 しかしローラバシャー下院議員(共和)は「日本はすでに何度も謝罪している。そういう文書を受けている」とし「前の世代の過ちで日本の現世代が処罰を受けてはならない」と主張した。 聴聞会を進行したファレオマバエガ・アジア太平洋小委委員長(民主、サモア)も「生涯英語を使い続けてきたが、今日の証言を聴くと、その悲痛さをいかなる単語で表現すればいいのか分からない」とし、慰安婦の痛みを理解するという立場を見せた。 ◇聴聞会の意味・展望=この日の聴聞会は、ホンダ氏ら民主党議員5人とクリストファー・スミス氏ら共和党議員2人が先月31日、日本軍の慰安婦動員を非難して日本首相の公式謝罪を促す決議案(H.Res121)を提出したことを受けて開かれた。 議会消息筋は「この日の聴聞会で日本軍の蛮行実態が暴露され、日本政府の謝罪、釈明が偽りであることが明らかになったため、今後、決議案採択に前向きに作用するだろう」と述べた。 ホンダ議員は3月末までの決議案採択を目標にしている。 加藤良三駐米日本大使はこの日、アシア太平洋小委に書簡を送り、「日本はすでに慰安婦問題の責任を認め、韓国やフィリピン、台湾、インドネシアなど慰安婦被害者に補償もした」とし、決議案採択を阻止する意向を明確にした。 ワシントン=姜賛昊(カン・チャンホ)特派員 2007.02.16 17:31:31 (cache) Japanese JoongAngIlbo http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=84702&servcode=400§code=400 Japan PM war slavery denial uncovers old pain - CNN.com March 3, 2007 Lee Yong-soo, 78, a South Korean who was interviewed during a recent trip to Tokyo, said she was 14 when Japanese soldiers took her from her home in 1944 to work as a sex slave in Taiwan. Lee Yong-soo(78歳韓国)は東京でのインタビューで、 彼女は1944年、14才のとき日本の兵隊に家から連れ出され、台湾で性奴隷として働かされた、 と述べました。 http://edition.cnn.com/2007/WORLD/asiapcf/03/03/japan.sexslaves.ap/ U.S. House of Representatives: Statement of Lee Yong-soo February 15, 2007 In the autumn of 1944, when I was 16 years old, my friend, Kim Punsun, and I were collecting shellfish at the riverside when we noticed an elderly man and a Japanese man looking down at us form the hillside...... A few days later, Punsun knocked on my window early in the morning, and whispered to me to follow her quietly. I tip-toed out of the house after her. 1944年の秋、私は16歳で、友達のキムプスンと私が川のそばでエビを捕っていたとき、 年老いた男と日本人が丘の方から私たちを見てるのに気づきました。…(中略)… 数日後の早朝、プスンは私の部屋の窓をノックして、静かに私の後についてくるようにとささやきました。 私はこっそりと家を出て、彼女について行きました。 http://www.internationalrelations.house.gov/110/lee021507.htm ▲
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| 2007-03-01 03:47
| 半島
2007年 03月 01日
埼玉上田知事発言に元慰安婦が抗議2006/10/13 埼玉県の上田知事が県議会で「古今東西、慰安婦はいても、従軍慰安婦はいなかった」と答弁したことを受け、自ら従軍慰安婦だったと証言している韓国籍のイ・ヨンスさん(77歳)が、発言の撤回と謝罪を求め、支援者と共に3日、埼玉県庁を訪れた。 上田清司埼玉知事の「古今東西慰安婦はいても、従軍慰安婦はいなかった」との議会答弁を受け、『上田知事の「従軍慰安婦」否定発言を問う県民連絡会』は、事前に知事への面会申入れをしていたが、知事が面会を拒否したため、10月3日、“拉致されて慰安婦を強制された”というイ・ヨンスさんとともに直接、県庁を訪れた。 イさんはチマ・チョゴリ姿で同日午後、支援者とともに知事秘書室を訪ね、議会が休憩中なので知事に連絡するよう求めたが「所在不明」との回答のため、議場入り口で知事を待った。しかし、知事は入り口で待つイさんを無視し「じゃまするな!」と発言し議場に入った。支援者たちからは「逃げるな!」の声があがった。 この後、イさんは県庁内で記者会見。15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間の経過を証言した。その中でイさんは「当事者の私が来ているのに、知事はなぜ会って自分の意見を言わないのか!」と強く批判した。その後、安久沢秘書課長に「要請書」を手渡した。 同日午後6時半から県庁近くの埼玉会館で、WAM(女たちの戦争と平和資料館)の西野留美子さんも出席し「抗議・証言集会」が開かれ、約80名が参加した。埼玉会館では2000年に東京・九段会館で行われた、従軍慰安婦問題を取り上げた「女性国際戦犯法廷」のパネル展が、1〜3日の3日間、開かれ、150人余りが参観した。 私はこの運動の参加者であるが、既に政府も「河野官房長官談話」(平成5年8月4日付)で軍の関与を認め、決着している。知事は「強制した証拠がない」と主張しているが、「違法を強制する公文書」など、最初から在り得ない。また、100歩譲って在ったとしても、敗戦当時、国内外でこの問題に限らず、戦争に関係するあらゆる面での証拠隠滅を図り、膨大な書類、証拠物件などが焼却処分され、当時、合法だった一般の売春宿などとは明白に違う。記者も、イさんへの「じゃまするな!」との知事発言に憤りを感じ断固抗議する。 (芹沢昇雄) (cache) 地域・埼玉上田知事発言に元慰安婦が抗議 http://www.janjan.jp/area/0610/0610042248/1.php 「むごく汚らわしい被害受けた」京都で集会 慰安婦の実態証言 戦時中、従軍慰安婦だった女性が被害の実態を証言する集会「消せない記憶」が4日、京都、大阪、東京など全国10会場で同時開催された。京都市左京区の京都大では、韓国在住の李容洙さん(75)が「16歳でわけが分からないまま連行され、むごく、悲しく汚らわしい被害を受けた」などと旧日本軍による暴力などの様子を語り、問題解決を強く訴えた。 慰安婦問題に取り組む有志らの呼び掛けに応じ、京大の学生らが京都開催を実現した。 証言によると、李さんは1944年ごろ、旧日本軍に拉致され、台湾で約3年間従軍慰安婦として働かされた。連行時に汽車の中で「お母さん」などと大声で助けを求めると、「繰り返し固い靴や棒などで体中に暴力を受けた」という。 船中で約300人の軍人に5人の慰安婦が襲われたことなど性暴力にも言及した李さんは「若い女性たちの心にどれほどの傷を与えたのか、みなさんにも考えてほしい」と涙ながらに語った。 (京都新聞2004/12/5) http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2004120500018&genre=C4&area=K1D 元「慰安婦」へ補償を 参院議長らに法案成立要請 2002年6月26日(水)「しんぶん赤旗」 法案成立を求めて倉田参院議長(左) に申し入れる元「慰安婦」(中央)、支援の人たち。左2人目から八田、吉川 両参院議員=6月25日、国会内 韓国、台湾の元「従軍慰安婦」らは二十五日、国会内で参院の倉田寛之議長、本岡昭次副議長と会い、「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」の早期審議と成立を要請しました。 同法案は、元「慰安婦」とされた人たちに謝罪の意を表し、その名誉回復のために必要な措置(金銭の支給を含む)を講ずると定めています。日本共産党、民主党、社民党の野党三党が前国会に提出し、継続審議になっています。 韓国の李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。 日本共産党からは吉川春子、八田ひろ子参院議員が同席しました。 (cache) 元「慰安婦」へ補償を/参院議長らに法案成立要請 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-06-26/13_0201.html 台湾の慰安所、「従軍慰安婦」99 〜 ここを訪れた元「慰安婦」李さんの記事は、『英文中国郵報』など数紙に 写真入りで大きく報道されました。台湾でも依然として関心が高いようです。 報道記事の中から、ここでは『英文中国日報』の記事を紹介します。 ---------------------------- 「慰安婦」日本の慰安所を再訪 (China News、英文中国日報,1998.8.23) 昨日、韓国人の元「慰安婦」は、台湾北部にある新竹空軍基地の東ウィン グが世界第二次大戦当時、日本帝国軍により設けられた軍慰安所であることを 確認した。 李容洙(71)はかって日本軍の性奴隷として足かけ三年間従事した場所 を涙のうちに探しだした。 その場所は現在、中華民国空軍の将兵用三階建ての寮になっていた。彼女 は、1944年(43年の間違い)のある夜、韓国の故郷からどのようにして 日本軍により誘拐され、いかにして日本軍の性奴隷になったかを涙ながらに語 った。 彼女が、日本空軍(ママ)カミカゼ隊の駐屯する見知らぬその地の慰安所 に送られた時はわずか数え年16歳であった。李は、ハセガワという日本人将 校からそこは台湾北部の新竹であると聞かされて、初めてその地名を知った。 李は日本軍慰安所の生活を悪夢として語った。彼女は木造二階建ての家に 住まわされた。彼女は慰安所の前100mくらいの範囲で動くことを許された だけなので、思いだせるのは青い野原と近くを流れる小川くらいである。 彼女は50年以上、夢にまでみた川岸に立った瞬間、どっと涙がこみ上げ た。彼女は日本軍が連合軍に降伏した後、韓国・大邱にもどったが、こうして 再びかっての苦難の地を訪れることができたことに感謝した。 「たとえ私にとってはつらい記憶であっても、かっての日本軍慰安所跡の 発見により、日本政府が戦争中多くの外国人女性を性奴隷にした罪を認めるこ とにつながるなら本望です」 さらに彼女は、日本政府には今回の新事実をつきつけ、他の生き残った元 慰安婦と力を合わせ、日本政府が公式謝罪と生き残ったすべての慰安婦に補償 するよう要求すると語った。彼女たちはほとんど70代で孤独の身である。 李の他に、14人の韓国人女性がその慰安所で性奴隷として従事していた。 そのうち二人の同僚は、連合軍の空襲で死んだとつけ加えた。 --------------------------- まったく見知らぬ外国で動き回れるのは慰安所の前わずか100m、これ ではオリの中の象とあまりかわりません。逃げだそうにも道はわからず、言葉 も通じず、そんな環境でひたすら日本軍兵士相手に性交を強要される生活は 「性奴隷」としかいいようがありません。 李さんは故郷に帰っても、もし自分が「従軍慰安婦」であることが知れた ら、父親に殺されるのではないかという恐怖感を持ち、誰にもいえず、ひたす ら苦難の過去を隠し、必死に忘れるよう努めてきたようでした。 そんな李さんが「慰安婦」にさせられたいきさつは次のとおりです(注)。 ---------------------------- 1928年大邱に生まれた容洙さんは、(満)14歳のとき家から呼び出 され、他の4人の少女とともに日本人に連れられて汽車で慶州から大連まで運 ばれました。帰りたさに泣くとそのたびに激しく殴られ蹴られながら、海軍兵 士の乗った軍船の船底に入れられ、44年の正月を上海で迎えます。 船の中で男が襲いかかってくる意味も何をされているのかも理解できない まま、くりかえし強姦され、上陸した台湾の新竹で「慰安所」に入れられまし た。 軍人の相手をするのを必死で拒んだため電気拷問を受け、戦争が終わるま で、主に特攻隊兵士の相手をさせられ、46年に祖国に帰りついたときには 18歳になっていました。 ----------------------------- 14歳の少女を性奴隷にしてしまうなんて、なんとむごいことでしょうか。 楽しかるべき青春が待っているはずなのに。その青春を軍靴で無惨に踏みにじ り、電気拷問までかけて特攻隊員の性のいけにえにしてしまうなんて、「従軍 慰安婦」ほど女性を根底から踏みにじった制度は空前絶後ではないでしょうか。 元「慰安婦」の方々にはどれほどのトラウマを与えたかはかり知れません。 李容洙さんも長い沈黙の後、自分は従軍した「慰安婦」ではないと、汚名 をはらすべく、ついに名乗り出ました。その弁をおわりに紹介します(注)。 ------------------------------ 人間を、少女を泥棒して、「従軍慰安婦」させたんでしょう。どうして 「強制」をつけないんですか。強制連行されて私はね、「従軍慰安婦」させら れたんです。 その責任をとらないで、その罪を知ろうとしないで、なぜ「国民基金」で すか。私は物乞いじゃないですよ。お金の問題じゃないです。きっちり調査を して、私の名誉を回復しないといけないし、犯罪者を処罰しないといけないで す。ただしね、犯罪の最高責任者。 そして調査をしてから、私たちの名誉を回復させるために、国家が謝らな いといけないです。そうして、国際的な法律にそって、賠償しないといけない と思います。 ------------------------------ 元「慰安婦」が本当に求めているのは何か、李さんの短いことばにすべて が集約されているのではないかと思います。 (注)戦争犠牲者を心に刻む会編『私は「慰安婦」ではない』東方出版,1997 http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信) (cache) 半月城通信 No.57 http://www.han.org/a/half-moon/hm057.html#No.370 <李 容洙さん プロフィール> 1928年韓国の大邱(テグ)生まれ。 1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の 船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。その後、連れて行かれた先の台湾で、 日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の 相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの 暴行を受けた。「解放」(日本の敗戦)後、しばらくしてから韓国に戻る。 (cache) 全国証言集会京都実行委員会 http://tateiwa.kir.jp/0n/z01.htm 全国同時開催 「消せない記憶」 http://www.geocities.jp/kesenai_kioku_04/index.htm (cache) 京都 Kyoto http://www.geocities.jp/kesenai_kioku_04/kyoto/profile.htm 李容洙(イ・ヨンス) 中央日報でのプロフィール ・1944年 の16歳の時に台湾に慰安婦として連行され、3年間にわたり日本軍に性的にもてあそばれた。 ・2階建ての日本風の慰安所で一日平均4、5人の日本軍に強姦され、粥で生き延び、何かあるとすぐに暴行されるなど、犬や豚よりもひどい生活をした。 ・日本軍によってトシコと名付けられた李さんは、性行為を拒否して電気拷問を受け、韓国語を話す度にひどく殴られた、と語った。 ・終戦後に家に帰ると、母は‘死んだ娘が霊になって現れた’と言い、父は鬱火病で中風になり、その年に亡くなった。 全国証言集会京都実行委員会でのプロフィール ・1928年韓国の大邱(テグ)生まれ。 ・1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。「解放」(日本の敗戦)後、しばらくしてから韓国に戻る。 赤旗でのプロフィール 李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた JANJANでのプロフィール 15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間の経過を証言した。 半月城通信57でのプロフィール ・1928年大邱に生まれた容洙さんは(満14歳のとき)家から呼び出され、他の4人の少女とともに日本人に連れられて汽車で慶州から大連まで運ばれました。 ・戦争が終わるまで、主に特攻隊兵士の相手をさせられ、46年に祖国に帰りついたときには18歳になっていました。 半月城通信1105 李容洙(71)はかって日本軍の性奴隷として足かけ三年間従事した場所を涙のうちに探しだした。その場所は現在、中華民国空軍の将兵用三階建ての寮になっていた。彼女は、1944年(43年の間違い)のある夜、韓国の故郷からどのようにして日本軍により誘拐され、いかにして日本軍の性奴隷になったかを涙ながらに語った。彼女が、日本空軍(ママ)カミカゼ隊の駐屯する見知らぬその地の慰安所に送られた時はわずか数え年16歳であった。李は、ハセガワという日本人将校からそこは台湾北部の新竹であると聞かされて、初めてその地名を知った。 李容洙(イ・ヨンス)(cache) 博士の独り言 - 証言変転「李容洙」一考 - http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-439.html 散歩道 : 【慰安婦は一人で複数の人生を歩む】李容洙さんの場合 http://kuyou.exblog.jp/1395483/ 散歩道 : お詫び好きの韓国人。ところでこの慰安婦は本物か? http://kuyou.exblog.jp/1393174/ アジアの真実:・作られた「従軍慰安婦」(2) - livedoor Blog(ブログ) http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/12836332.html Irregular Expression: 今更従軍慰安婦かよ http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/200412081750.html 「従軍慰安婦」証言はデタラメ http://karutosouka1.hp.infoseek.co.jp/ianhu.htm 池田信夫 blog 河野談話は見直しが必要だ http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/9e5aa6186ca7720af0d709d304c6fb9c 小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」 http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/2005/2005-01-16-onoda_ianhunoshoutai.html 米下院で証言した慰安婦達のおはなし http://tech.heteml.jp/2007/03/post_914.html 検証朝日新聞従軍慰安婦問題③ 従軍慰安婦問題は、1991年8月12日のソウル発植村隆記者の署名記事から始まった。 『女子挺身隊の名で連行された朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり.....』と言う記事である。 ところがなんと本人自身が8月14日の記者会見で『生活が苦しくなった母親に14歳でキーセン置屋に売られ...』 と語り、同年12月に東京地裁に提出した訴状にもそう書かれていたのだ。 植村記者は知っていながら意図的に『母親に売られた..と言う部分を女子挺身隊の名で連行された...』と捏造報道を行ったのだ。 http://www.geocities.jp/tamacamat/ianfu03.html 朝日が捏造した「慰安婦問題」 (西岡力氏) 西岡氏は、朝日新聞の「慰安婦問題」捏造の事情を明らかにした。 すべては、朝日新聞の91年8月11日付大阪版夕刊の歪曲、誤報に始まる。朝日はソウル発の記事のなかで、「女子挺身隊」の名で戦場に強制連行された人が出てきたと書いた。しかし、これは事実ではない。強制連行されたとされる女性・金学順さんは、17歳の時に、貧困のため母親に平壌のキーセン置屋に売られたと言っていたのである。 朝日の植村隆記者は、金学順さんの話を録音したテープを聞き、歪曲して記事を書いた。しかも、この誤報には、植村記者個人の利害も絡んでいる。植村記者は、訴訟を起こした「太平洋戦争犠牲者遺族会」の女性幹部の娘と結婚している。義母からの情報提供で、韓国よりも先にスクープを書いたのである。 金学順さんがキーセンに売られた事実は、91年の東京地裁への訴状に書かれており、韓国で最左翼のハンギョレ新聞にもインタビューが掲載されている。訴状を作成した高木健一弁護士は、この事実を私に指摘され、一切反論できなかった。 こういう人を、性奴隷だと言って引きずり出し、日本に連れてきて、裁判や講演をさせて彼女を利用した。ETV2001を見ると、金学順さんは生前も死後も名誉を犯されているのである。ソ連軍が終戦直後の満州で日本人婦女に対しておこなったような性暴力は裁かれるべきである。しかし、戦場における慰安婦の行為はこれとは異なる商行為である。それを性暴力と同じであるかのように言って、自分たちの政治宣伝に利用したのは朝日である。 ETV2001で、高橋哲哉・東大大学院綜合文化研究科教授は、「金さんの登場で歴史が変わった」と言っている。実際には、嘘が広まったという意味で「変わった」のである。 朝日新聞に第一に言いたいことは、誤報を検証し、謝るべしということだ。朝日の慰安婦問題の誤報がなければ、NHKはあんな番組を作ることにならなかった。 私は92年に『月刊文藝春秋』と拙著『日韓誤解の深淵』で詳細に立証して訂正を求めたが、朝日はこれに応じていない。それどころか、前回の教科書採択の時に合わせて、植村記者をソウルに派遣させている。嘘でも何でもいいから、日本が悪かったという路線でいく人事である。 http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/sonota/0503.html 慰安婦問題の経緯 レポート1 http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=2&nid=77745 慰安婦問題の経緯 朝日新聞のスクープ記事(1) レポート2 http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=2&nid=77807 慰安婦問題の経緯 朝日新聞のスクープ記事(2) レポート3 http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=611395 ▲
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| 2007-03-01 03:46
| 半島
2007年 02月 17日
〜日韓友好に打ち込まれた楔〜 ■1.米軍がレポートする慰安婦の実態■ 米軍情報部は、北ビルマのミチナ慰安所で収容された慰安婦か らの聞き取りをもとに、以下のような報告書を残している。 女性たちはブローカー(および経営主)が、300〜1000円の 前借金を親に払って、その債務を慰安所での収入で返還してい る。経営者との収入配分比率は40〜60%、女性たちの稼ぎは月 に1000〜2000円、兵士の月給は15日〜25円。[1,p270] 慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋に宿 泊して、・・・・寝起きし、業を営んだ・・・・彼女たちの暮らしぶり は、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。 慰安婦は接客を断る権利を認められていた・・・・負債の弁済を 終えた何人かの慰安婦は朝鮮に帰ることを許された[1,p275] また、ビルマのラングーンで慰安婦をしていた文玉珠さんの手 記では、その生活ぶりを次のように語っており、米軍のレポート を裏付けている。 支那マーケットにいって買物した。ワ二皮のハンドバッグと 靴をわたしのために買った。母のためにもなにか買った。 将校さんたちに連れられてジープに乗って、ぺグーの涅槃像 をみに行った・・・・ヤマダイチロウ(日本兵の恋人)と大邱の母 の無事を祈って帰ってきた。[1,p276] ちなみに文玉珠さんは、平成4年に日本の郵便局を訪れ、2万 6145円の貯金返還の訴訟を起こして敗れている。千円もあれば故 郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べているが、現在 の貨幣価値なら、4〜5千万円程度の金額を、3年足らずで貯め たことになる。[2,p301] 「従軍慰安婦」というと、海外では"military sexual slavery (軍用性奴隷)"などと呼ばれるように、日本軍によって郷里から 強制連行され、戦地では何の自由もなく、もちろん無給で、ひた すら兵士にもてあそばれた、というイメージが定着している。し かし、この米軍の報告書では、まったく違う実態が報告されてい る。一体、どちらが真実に近いのか? ■2.慰安婦問題の経緯■ まず慰安婦問題の経緯を時系列的に見渡しておこう。 1) 昭和58(1983)年、吉田清治が、著書「私の戦争犯罪・朝鮮 人連行強制記録」の中で、昭和18年に軍の命令で「挺身隊」と して、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたとい う「体験」を発表。朝日新聞は、これを平成3('91)年から翌 年にかけ、4回にわたり、報道。 2) 同3年8月11日、朝日新聞は、「女子挺身隊」の名で戦場 に連行され、売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一 人が名乗り出た、と報道。 3) 同4年1月11日、朝日新聞は、一面トップで「慰安所、軍 関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」 と報道。この直後の16日から訪韓した宮沢首相は首脳会談 で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束。 4) 同5年8月4日、河野官房長官談話、政府調査の結果、「甘 言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例 が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこともあっ た」と発表。 この河野談話によって日本政府は、慰安婦が軍によって強制徴 集されたことを公式に認めてしまったことになる。これを契機と して、中学高校のほとんどの歴史教科書に、「従軍慰安婦」が記 述されることになっていった。 今日では、各方面の調査が進み、以上の報道、発表がどれだけ の事実に基づいていたのかが明らかになってきた。以下、この4 点を検証する。 ■3.吉田清治の慰安婦狩り■ まず1)、吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」 では、韓国斉州島での、慰安婦強制連行を次のように、描写して いる。 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がお びえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわ って行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・女工たちはい っせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い 娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打 ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人 であった。 当時は、戦地での強姦事件を防ぐために、公娼業者に戦地で開 業させていた。戦地であるから、業者の指名、戦地への移動、営 業状態の監督などは、軍の関与が当然あった。これらは当時、合 法であった公娼制度の戦地への延長で、特に問題はない。 「従軍慰安婦」問題とは、本人の意思に反した「強制連行を、 軍が組織的に行ったか、どうか」の問題なのである。したがって、 吉田の言うような強制連行が事実であったら、これは日本の国家 的犯罪となる。 ■4.日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物■ 吉田の記述は済州島の城山浦にある貝ボタン工場という設定だ が、この記事に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査 し、以下のような記事を書いている。 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対 して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オク タン(八五歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、15 人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はな かった」と語った。 郷土史家の金奉玉は「1983年に日本語版が出てから、何年か の間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は 日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨 している。 現地調査を行った秦郁彦日大教授は、許栄善女史から、「何が 目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と聞かれ、答えに窮し たという。[1,p232] この吉田清治を、朝日新聞は、宮沢首相の訪韓前後1年の間に、 4回も紙面に登場させたのだが、秦教授の調査の後は、ぷっつり と起用をやめた。今日では、慰安婦問題の中心的糾弾者である吉 見義明中央大教授すら、吉田清治の著作は採用しなくなっている。 ■5.名乗り出た慰安婦■ 次に2)の自ら名乗り出た慰安婦について。平成3年8月11 日付け朝日新聞は、社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝 鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、「日 中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍 人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人 が」名乗り出たと報じた。 しかし、この女性、金学順さんは、「女子挺身隊」として連行 などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っている。 ある韓国紙はそれを次のように報じた。[2,p291] 生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキ ーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検 番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父 に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊 の前だった」「ハンギョレ新聞」'91年8月15日付 当時、内地でもよくあった気の毒な「身売り」の話なのである。 国家による組織的な強制連行とは関係ない。 そもそも「女子挺身隊」とは、昭和18年9月に閣議決定され たもので、金学順さんが17歳であった昭和14年には存在して いない制度である。さらに「女子挺身隊」とは、販売店員、改札 係、車掌、理髪師など、17職種の男子就業を禁止し、25歳未 満の女子を動員したものであり、慰安婦とは何の関係もない。 さらに「従軍慰安婦」という言葉自体が、当時は存在しなかっ た。従軍看護婦は、軍属(軍隊の一部)であり、従軍記者、従軍 僧は、法令により定められた身分で指定された部隊につく。慰安 婦は公娼業者が雇ったもので、それはたとえば、県庁の食堂に給 食業者を入れていた場合、その業者の被雇用者は、県の職員では なく、身分も契約も県とは関係ないのと同じ事だ。「従軍慰安 婦」とは、従軍看護婦などとの連想で、あたかも部隊の一部であ ると読者に思い込ませるための造語である。 金学順さんは、その後、日本国を相手とした訴訟の原告の一人 となるが、それを支援しているのが太平洋戦争犠牲者遺族会であ り、この記事を書いた朝日の槙村記者は、会の常任理事の娘と結 婚している。当然、韓国語も達者であり、金学順さんの話した内 容はよく知っていたはずである。 金学順さんが「売られた」という事実を隠し、「女子挺身隊と して連行された」というこの記事は槙村記者による、意図的な捏 造記事である。その後の訂正記事も出していない。 ■6.強制連行された慰安婦はいたか?■ 韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対 策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可 能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検 証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を 出版した。 今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは、 9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4 人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で 慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。 残る二人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をし たという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行された とは述べていない。 結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰 安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、 というのが実態である。[2,p275] ■7.軍の関与とは■ 次に宮沢首相の訪韓直前に発表され、公式謝罪に追い込んだ 3)の「慰安所、軍関与示す資料」の朝日新聞記事はどうか。 発見された文書とは昭和13年に陸軍省により、「軍慰安所従業 婦等募集に関する件」であり、その中では、 民間業者が慰安婦を募集する際、①軍部諒解の名儀を悪用、 ②従軍記者、慰問者らを介した不統制な募集、③誘拐に類する 方法を使って警察に取調べられるなどの問題が多発しているの で、業者の選定をしっかりし、地方憲兵警察と連繋を密にせよ [2,p267] と命じている。すなわち「関与」とは、民間の悪徳業者による 「強制連行」を、軍が警察と協カしてやめさせようとした事なの である。 この内容を「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」とタイトルをつけて、一面トップで報道し、 さらに次のような解説を載せた。 従軍慰安婦。1930年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多 発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を 設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八 割は朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主と して朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万 とも二十万ともいわれる。 これらをあわせ読めば、ほとんどの読者は、「日本軍が組織的 に強制連行に関与した」と思い込むであろう。まことに巧妙なひ っかけ記事である。 この記事が、狙い済ましたように、宮沢首相訪韓のわずか5日 前に発表されたことから、絶大な効果を発揮した。ソウル市内で は抗議・糾弾のデモ、集会が相次ぎ、日の丸が焼かれる中で、宮 沢首相は事実を確認する余裕もなく、8回も盧泰愚大統領に謝罪 を繰り返した。(続く) http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html ▲
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| 2007-02-17 23:17
| 半島
2007年 02月 17日
〜仕掛けられた情報戦争〜 ■1.強制を示す文書はなかった■ 宮沢首相は、盧泰愚大統領に調査を約束し、その結果が、4) (前号)、翌平成5年8月4日の河野官房長官談話となった。政 府調査の結果、「甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して 集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこ ともあった」と発表され、慰安婦強制連行があったことは、政府 の公式見解となった。 この発表のために、政府はおおがかりな文書調査と、元慰安婦 への聞き込みを行った。前号冒頭に紹介した米軍の報告書も、こ の文書調査で発見されたものだ。それでは、いかなる事実によっ て「官憲等が直接に荷担した」と結論づけたのか? この調査を実施した平林博・外政審議室室長は、平成9年1月 30日、参議院予算委員会で、片山虎之助議員(自民党)の質問 に対し、次のような答弁をしている。[3,p204] 政府といたしましては、二度にわたりまして調査をいたしま した。一部資料、一部証言ということでございますが、先生の 今御指摘の強制性の問題でございますが、政府が調査した限り の文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すよ うな記述は見出せませんでした。 ただ、総合的に判断した結果、一定の強制性があるというこ とで先ほど御指摘のような官房長官の談話の表現になったと、 そういうことでございます。 ■2.総合的に判断した結果■ 資料はなかったが、「総合的に判断した結果」、強制性があっ たという。この判断の過程について、当時、内閣官房副長官だっ た石原信雄氏は、次のように明らかにしている。 強制連行の証拠は見あたらなかった。元慰安婦を強制的に連 れてきたという人の証言を得ようと探したがそれもどうしても なかった。結局談話発表の直前にソウルで行った元慰安婦十六 名の証言が決め手になった。彼女達の名誉のために、これを是 非とも認めて欲しいという韓国側の強い要請に応えて、納得で きる証拠、証言はなかったが強制性を認めた。 もしもこれが日本政府による国家賠償の前提としての話だっ たら、通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいた証拠 を求める。これは両国関係に配慮して善意で認めたものである。 元慰安婦の証言だけで強制性を認めるという結論にもっていっ たことへの議論のあることは知っているし批判は覚悟している。 決断したのだから弁解はしない(櫻井よしこ「密約外交の代 償」「文塾春秋」平成9年4月)[3,p58] 元慰安婦からの聞き取り調査は、非公開、かつ裏付けもとられ ていないと明かされいるが、そうした調査の結果、「韓国側の強 い要請」のもとで「納得できる証拠、証言はなかったが強制性を 認めた」ものなのである。 聞き取りが終わったのが7月30日。そのわずか5日後の8月 4日、河野談話が発表された。同日、宮沢政権は総辞職をした。 まさに「飛ぶ鳥跡を濁して」の結論であった。 ■3.日本の言論機関が、反日感情を焚きつけた■ 「強い要請」を行ったという韓国政府の態度について、石原氏 は国会議員との会合で次のように語っている。 もう少し補足しますと、この問題の初期の段階では私は韓国 政府がこれをあおるということはなかったと。むしろこの問題 をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたんですけれど も、日本側のいま申した人物がとにかくこの問題を掘り起こし て大きくするという行動を現地へいってやりまして、そしてこ れに呼応する形で国会で質問を行うと。連携プレーのようなこ とがあって、韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけ ないという、そういう状況があったことは事実です。[4,p314] この「いま申した人物」について、石原氏は「ある日本の弁護 士さん」として、名前は明かしていない。 慰安婦問題は、日本の一部の人間が焚きつけた、という認識は、 韓国側の盧泰愚大統領の次の発言にも、見られる。 日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反 日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました。(文芸春 秋、H5.3 )[1,p302] ■4.インドネシアに現れた日本人弁護士たち■ 日韓関係と同様、インドネシアとの間でも、慰安婦問題が焚き つけられた。平成5年に高木健一氏(金学順さんらの日本政府に 対する訴訟の主任)ら、日本の弁護士3人がインドネシアにやっ てきて、地元紙に「補償のために日本からやってきた。元慰安婦 は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出した。[5] 兵補協会のラハルジョ会長は、「補償要求のやり方は、東京の 高木健一弁護士の指示を受け」、慰安婦登録を始めた。会長は取 材した中嶋慎三郎ASEANセンター代表に対して、「慰安婦に2百 万円払え」と怒号したというから、名乗りでれば、2百万円もら えると宣伝している模様であった、と言う。 インドネシアでの2百万円とは、日本なら2億円にも相当する 金額なので、大騒ぎとなり、2万2千人もが元慰安婦として名乗 りをあげた。ちなみに、当時ジャワにいた日本兵は2万余である。 この様子を報道した中京テレビ製作のドキュメンタリー「IA NFU(慰安婦)インドネシアの場合には」に、英字紙「インド ネシア・タイムス」のジャマル・アリ会長は次のように語った。 ばかばかしい。針小棒大である。一人の兵隊に一人の慰安婦 がいたというのか。どうしてインドネシアのよいところを映さ ない。こんな番組、両国の友好に何の役にも立たない。我々に は、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。 「お金をくれ」などとは、360年間、わが国を支配したオラ ンダにだって要求しない。 ■5.慰安婦番組での仕掛け■ ちなみに、この番組では、元慰安婦のインタビュー場面が出て くるが、ここでも悪質な仕掛けがあった。元慰安婦が語る場面で、 日本語の字幕で 戦争が終わると日本人は誰もいなくなっていたんです。私た ちは無一文で置き去りにされたんです。 と出ているのだが、実際には、インドネシア語で、 あの朝鮮人は誰だったろう。全員がいなくなってしまったん です。私たちは無一文で置き去りにされたんです。 と話していたのであった。慰安所の経営者は朝鮮人であり、戦 争が終わると、慰安婦たちを見捨てて、姿をくらましたのである。 ■6.あなた方日本人の手で何とかしてください■ この番組の予告が、日本共産党の機関紙「赤旗」に出ていたこ とから、インドネシア政府は、慰安婦問題の動きが、共産党によ り、両国の友好関係を破壊する目的で行われていると判断したよ うだ。 スエノ社会大臣が、すぐにマスコミ関係者を集め、次の見解を 明らかにした。 1) インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはな い。 2) しかし日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお 金を払いたいというので、いただくが、元慰安婦個人には 渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。 3) 日本との補償問題は、1958年の協定により、完結している。 インドネシア政府の毅然たる姿勢で、高木弁護士らのたくらみ は頓挫した。この声明の後で、取材した中嶋氏は、数名のインド ネシア閣僚から、次のように言われたという。 今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我 々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部 ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関 係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。 あなた方日本人の手で何とかしてください。 ■7.国内で急速に冷める関心■ 地道に調査を進める人々の努力により、奴隷狩りのような強制 連行の事実はないことが明らかになると、さすがに慰安婦問題を 糾弾する人々の間でも、強制性の定義を修正せざるを得なくなっ てきた。たとえば、糾弾派の中心人物である吉見義明・中央大学 教授は、岩波新書の「従軍慰安婦」で、次のように述べている。 その女性の前に労働者、専門職、自営業など自由な職業選択 の道が開かれているとすれば、慰安婦となる道を選ぶ女性がい るはずはない・・・たとえ本人が、自由意思でその道を選んだ ように見えるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何 らかの強制の結果なのだ。[6,p103] 「強制性」をここまで広義に解釈すれば、現代の風俗関係の女 性たちも、貧困や失業など何らかの「強制の結果」であり、国家 が謝罪と補償をすべきだ、ということになってしまう。さすがに このような暴論では、常識ある国民の理解を得られるはずもなく、 国内の慰安婦問題に関する関心は急速に冷めていった。 ■8.国連での攻防■ しかし国際社会では、事実の伝わりにくさを利用して、慰安婦 問題をスキャンダルに仕立てようとするアプローチが今も展開さ れている。その最初は宮沢首相の訪韓直後の平成4年2月17日、 日本弁護士連合会の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会で、慰安 婦を人道上の罪と位置づけ、国連の介入を求める発言をした事で ある。 平成8年3月にジュネーブで開かれた国連の人権委員会に提出 されたクマラスワミ女史の報告書は、家庭内暴力を主テーマにし ているのに、その付属文書に「戦時の軍用性奴隷制問題に関する 報告書」と題して、半世紀以上前の日本の慰安婦問題を取り上げ ている。 戸塚弁護士は、この時にもジュネーブで本岡昭次参議院議員 (社会党→民主党)とともに、デモやロビー活動を行っている。 報告書は、やはり吉田清治の本や、慰安婦たちの証言を取り上 げている。その中で、北朝鮮在住の元慰安婦の証言として、 仲間の一人が一日40人もサービスするのはきついと苦情を 言うと、ヤマモト中隊長は拷問したのち首を切り落とし、「肉 を茹でて、食べさせろ」と命じた。 などという話が紹介されている。この元慰安婦は、1920年に生 まれ、13歳の時に一人の日本兵に拉致されたという拉致された というのだが、1933年の朝鮮は平時であり、遊郭はあったが、軍 専用の慰安所はなかった。その程度の事実確認もされていない証 言が、4例紹介され、その上で日本政府に対し、被害者への補償、 犯罪者の追及と処罰を勧告している。 日本のジュネーブ外務省はこの文書に関する40頁の反論を作 成し、根回し工作をしたもようだ。西側諸国代表の間では、クマ ラスワミ報告書の欠陥が理解されたが、韓国、北朝鮮、中国、フ ィリピンなどの関係国は立場上、強く反発した。 このような攻防の結果、人権委員会では家庭内暴力に関する本 文は「賞賛する」という最高の評価を得た一方、慰安婦に関する 部分は、take note(留意する)という最低の評価であった。 [1,p259] ■9.情報戦争から、いかに国益と国際友好関係を守るか■ 平成10年8月、今度は、ゲイ・マクドゥーガル女史が、旧ユ ーゴスラビアなど戦時下における対女性暴力問題を調査した報告 書を作成したが、その付属文書で、またも慰安婦問題を取り上げ、 「レイプ・センターの責任者、利用者の逮捕」と「元慰安婦への 法的賠償を履行する機関の設置」を日本政府に勧告した。 慰安所は「レイプ・センター(強姦所)」と改称されている。 しかし、これは人権小委員会の勧告としては採択されず、日本政 府はマ女史の個人報告書に過ぎない、としている。 本年8月には、米カリフォルニア州上下院が第二次大戦中に日 本軍が行ったとされる戦争犯罪について、「日本政府はより明確 に謝罪し、犠牲者に対する賠償を行うべきだ」とする決議を採択 した。この「戦争犯罪」には、捕虜の強制労働、「南京虐殺」と ならんで、「従軍慰安婦の強要」が含まれている。[7] カリフォルニア州議会の決議には、アイリス・チャンの「レイ プ・オブ・ナンキン」の影響が指摘されている。チャンの本につ いては、本講座60号で紹介したように、中国政府の資金援助を 受けたシナ系米人の団体が支援している。 ★ JOG(60) 南京事件の影に潜む中国の外交戦術 南京事件と慰安婦問題は基本的に同じ構造をしている。チャン の本は、日米関係に対する楔であり、慰安婦は日韓友好への楔と して仕掛けられた。これらの問題について、米国や韓国の対応を 非難することは、友好関係を破壊しようとする狙いに乗ることに なる。 国家の安全を脅かすものは、テポドンや工作船のようなハード の武力だけではない。一国の国際的地位を貶め、友好国との関係 に楔を打ち込むような情報戦争が、外国と国内勢力の結託により 次々と仕掛けられている。こうした攻撃から、いかにわが国の国 益と国際友好関係を守るか、ソフト面の自衛体制が不可欠となっ ている。 ■ 参考 ■ 1. 「慰安婦の戦場の性」、秦郁彦、新潮選書、H11.6 2. 「闇に挑む!」、西岡力、徳間文庫、H10.9 3. 「慰安婦強制連行はなかった」、太子堂経慰、展転社、H11.2 4. 「歴史教科書への疑問」、日本の前途と歴史教育を考える 若手議員の会編、展転社、H9.12.23 5. 「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」、中嶋慎三郎、 祖国と青年、H8.12 6. 「従軍慰安婦」、吉見義明、岩波新書、H7.4 7. 産経新聞、H11.08.27 東京朝刊 4頁 国際2面 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog107.html ▲
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| 2007-02-17 23:17
| 半島
2007年 02月 17日
日本の歴史教育については、中国や韓国などから歴史教科書問題として大きな批判を受けています。日本の歴史教育が古代史から始まり、最も重要な近代・現代史の歴史教育を避けてきたことは皆さんも良くご存知のとおりです。第二次世界大戦の日本に対する中国や韓国からの批判も半世紀以上も続き、一方で日本では高校生が第二次世界大戦で日本がどの国と戦ったかも知らない現状も顕著になっています。中国や韓国の批判が今後も継続する中、第二次世界大戦の同盟国や対戦国の知識は、日本の若者にはすでに遠い過去の事になりつつあります。日本の歴史教育が、なぜ古代史から始まり近代史を避けているのかは、何かの意志が感じられます。なぜ、現在に最も関係ある近代・現代史から教えないのか、文部科学省の意図が理解できません。何か都合が悪いことでもあるのでしょうか? あらためて、日本の教科書では教えない日本と韓国の近代・現代史を特集しました。 1910年に日本は「日韓併合条約」で1945年まで朝鮮半島を日本に併合しました。朝鮮併合によって、朝鮮半島から日本への渡航が自由になり、朝鮮人の日本居住も許されました。内務省の調査によれば、正式な日本国内の朝鮮人居住者は、1917年で14,502人、1920年で30,189人が記録にあります。1920年には日本国内の朝鮮人居住者の増加と日本人との衝突が激化し、「朝鮮人内地渡航制限」を日本政府は実施します。1925年に朝鮮人居住者は129,870人で、1930年に日本国内の朝鮮人居住者は298,091人まで増加しました。これら朝鮮からの移住者は、その後に言われる「強制連行」とはまったく関係がありません。 そして、日本の教科書には載っていない「桜田門事件」が1932年に起きました。昭和天皇に朝鮮人の李奉昌が桜田門で爆弾を投げつける事件が起き、当時の首相犬養毅は責任を取って辞表を提出しましたが、天皇に留任することを要請され、首相を続けました。李奉昌はソウルの満鉄見習い所に入所しましたが退職し、日本でしばらく暮らしました。1926年に中国上海の愛国団に参加し、韓国独立のために日本の天皇暗殺を考え、1931年に手榴弾を持って日本に入国し、1932年1月8日に桜田門外の閲兵式から帰る昭和天皇の乗った馬車に手榴弾を投げつけました。幸い昭和天皇に危害は及ばず、天皇護衛の近衛兵が負傷しました。この桜田門事件で、李奉昌は逮捕されて大逆罪の死刑判決を受けます。1932年10月に市ヶ谷刑務所で処刑された李奉昌は、在日朝鮮人によって遺骨が発掘され、ソウルで国民葬が行われて「義士」として埋葬されました。1909年に初代朝鮮総督府統監であった伊藤博文が中国のハルピンにおいて、朝鮮人の安重根に暗殺されますが、韓国の教科書で「処断」という言葉を使い、安重根は朝鮮人の「義士」として李奉昌と同様に韓国の教科書で教えられています。韓国の教科書では「韓人愛国団員の李奉昌は日本の東京で、韓国侵略の元凶である日本国王を処断するため国王の馬車に爆弾を投げつけた。」愛国の義士ということになっています。 昭和天皇は当時の大日本帝国皇帝の地位にあり、昭和天皇の暗殺を計画・実行することは朝鮮人民にとって危機的な状況を生むはずでしたが、昭和天皇はテロリストの犯行として李奉昌個人の犯罪として処理しました。朝鮮人民全体に対するに暗殺の対価を払わすことはありませんでした。オーストリア皇太子暗殺によって、第一次世界大戦がはじまったことを考えれば、朝鮮人民には壊滅的な処断が想定されたのですが、朝鮮人民に対する大規模な日本の報復措置はありませんでした。そして、1935年に日本国内の朝鮮人居住者は625,678人と増加しています。 1939年には、韓国でも悪名高い「朝鮮民事令」の改正があり1940年に「創氏改名」が始まります。この頃は、すでに日本は第二次世界大戦に突入し、多くの日本人が徴兵されていきます。当然、朝鮮人も「朝鮮人内地移送計画」による国家戦争の協力を日本人と同様に強要されます。第二次世界大戦で日本人が徴兵され、国内で労働者が不足し、32万人の朝鮮労働者が徴兵された日本人労働者の補充として日本に移送されました。 1944年からは日本でも子育ての主婦が工場に徴用され、日本国内の労働者の確保に限界が生じ、朝鮮半島での本格的な「徴用」が始まります。1945年からは日本人男子がほとんど徴兵され、兵隊の確保のために徴兵の範囲を拡大して朝鮮半島での「徴兵」が始まります。日本人の徴兵や徴用は日本人の問題で、朝鮮人の徴兵や徴用は「強制連行」というのは、当時を考えればおかしなことです。日本人は徴兵や徴用という「強制連行」によって戦地で死んでいっても、朝鮮人の徴兵や徴用はするべきでなかったという主張など不可能な話です。第二次世界大戦の当時に、朝鮮だけは特権的に世界的な大戦の中で平和に暮らす権利があったかのような韓国の主張には納得できない心境です。 第二次世界大戦が終戦を迎え、朝鮮人民は戦勝国だと日本国内でも騒ぎました。戦勝国は朝鮮を戦勝国とは考えていなかったようですが、1946年には「首相官邸デモ事件」で、朝鮮人2,000人が首相官邸にデモ行進して、官邸に進入しようとし警官隊と大乱闘しました。朝鮮半島が分割の危機に直面した1946年には、朝鮮から21,420人が密入国して来ました。その後も、朝鮮半島からの密入国は1947年に6,888人、1948年には8,500人が密入国しています。朝鮮人民と日本国民との衝突はその後も続き、1948年には「4.24阪神教育事件」が起きます。大阪市・神戸市、朝鮮人学校問題で在日朝鮮人2,500人が府県庁を包囲して、知事等を軟禁します。 米国進駐軍は非常事態の宣言をして取り締まりました。首謀者は軍事裁判にかけられ、朝鮮人検挙者は1800人に上りました。1948年は大韓民国と朝鮮民主主義共和国が独立します。そのこともあって、朝鮮半島からの密入国者は警視庁の記録で、1949年に1,642人、1950年には3,612人と再び増加することになります。1950年には朝鮮戦争が勃発し、1951年には密入国朝鮮人50人が強制送還の反対を叫び警察と衝突し、滋賀県で「日野事件」を起こしました。警察側の重軽傷者25人を出し、35人が検挙されました。1951年は朝鮮密入国者4,847人で、1952年には在日朝鮮統一戦線系学生1100人が警官隊と衝突する「吹田事件」が起きます。警察官を襲い拳銃2丁奪い、交番2ヶ所や工場を襲撃して朝鮮人113人の検挙者を出しました。1952年と1953年で朝鮮密入国者は4,667人となり、1953年の朝鮮戦争休戦で朝鮮密入国者は激減します。1954年には旧朝連系900人が警官隊と衝突する「第二神戸事件」が起きます。長田区役所、税務署などを破壊して、188人が検挙されます。1977年には「五箇条の御誓文」によって、日本の国税庁と朝鮮商工連間で所得税法で定められた税金を支払わなくて良いなどの取り決めが交わされます。この取り決めによって朝鮮総連系の企業は税金の特別特権を得ることになります。 米国GHQ参謀第二部公安課の資料によれば、在日朝鮮人の戦後の日本国内における戦勝国という振舞いは多くの犯罪者を出しました。米国GHQが犯罪として処理した在日朝鮮人は1947年から1950年までの4年間で、殺人532件、強盗4,124件、放火57件、強姦224件、傷害17,552件、窃盗44,494件など合計104,055件の犯罪が記録されています。戦後いかに多くの朝鮮人民と日本国民との衝突があったかは、日本の教科書では教えていません。当然、韓国でもこのような日本国内の衝突については教えていません。 韓国からの大規模で危険な「スリ窃盗団」や中国からの「パワーシャベル強盗」や「一般住宅集団強盗団」などは本国ではほとんど報道もされませんし、問題にもされていないのと同様です。 私は、韓国の良き理解者ですが、盲目的な韓国信仰者ではありません。どんな国家にも悪人がいますし、善人もいます。私は韓国の知識層の中に、多くの日本理解者がいることを知っています。韓国の国内で日本擁護者は非難され、日本批判者が評価される現状も知っています。韓国人の日本批判者は呆れるくらい自分に都合の良い論理を展開しますが、国民性なので日本人は同じように自分の立場を主張しなければいけません。大声を張り上げて議論することが日本の習慣にはありませんが、韓国人との議論は韓国式の議論方法も考えておく必要があります。韓国は日本を知っているように思っていますが、実は都合の悪いことは全く教えていないのです。韓国国民と議論する時は、歴史の事実をしっかり確認して教えてやればいいのです。納得いくまで徹底的に議論する忍耐が日本人には必要です。どんなに呆れることを言われても、正々堂々と対話する覚悟が日本人には必要です。 在日朝鮮人の皆さんも、日本人に強制労働で連れてこられた子孫だということには、大きな疑問があることを考えて欲しいと思います。日本人も強制連行されて、戦地で死んでいきました。強制連行も慰安婦も韓国人や日本人という区別はなかった時代があったという認識が、韓国の人々にはありません。日本人が苦労する時代に、朝鮮人を特別扱いすることが不可能であったことが朝鮮の人々には理解できません。朝鮮併合と朝鮮人への扱いが問題であると言うのであれば、日本には日本の言い分があります。日本人や朝鮮人を強制連行して戦地に送り込んで、自分達は戦争に関係のないところで贅沢な生活をしていた日本と朝鮮の特権階級がいたということです。日本と朝鮮という国家や民族間の問題ではなく、自国民を戦地に送り込んだ日本と朝鮮の支配階級と強制的に戦地で死ぬ運命を負わされた日本と朝鮮の被支配階級の問題が歴史にはあります。 日本政府のように遠慮した態度では、永遠に両国間の国民に不満が残ります。戦争や侵略による占領や併合が許されないのであれば、世界中で許されないことが現在も横行しています。韓国が他国の侵略と占領は関係ないことで、人類理念の問題ではなく、自国に対する日本の行為が問題であるとするならば、二国間で納得いくまで話し合う以外に方法はないのです。両国が歴史的な同一認識に至るまで徹底的に議論し、協議した内容を今後の学校教育で両国が責任を持って同じ内容を教育するということができない限り、朝鮮問題は永遠に続きます。そろそろ、両国の自分勝手な認識を統一する時期が来ていると思います。日韓両国の未来を考えると、誤解と偏見と嘘による歴史的な憎しみの再生産は終わりにしなければなりません。韓国では「親日派」や「知日派」ということがいまだ非難の対象になっているとは日本人には考えられないでしょう。政治家が「親日派」であるというだけで、その政治家は政治生命を絶たれるのが韓国の現状です。公式に「親日」を公言できない韓国の状況も知らずに、韓国国民は日本人に友好的であると思っている日本人も多いのですが、現実は韓国が豊かになるために日本の資金が必要なだけです。「親日」を公式の場で表明することは韓国では致命的な結果を生む現状も日本人は理解しなければなりません。公式に「親日」を表明できず、「犯罪輸出」の現実に目をつぶり、ひたすら自分の都合だけを叫びつづける韓国もかわらねばなりません。事実を真剣に受け止めていく両国国民の勇気と覚悟が試されています。 臥龍通信第60号/日韓の近代・現代史問題 http://www.nakajima-msi.com/mzbox/mz060.htm ▲
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| 2007-02-17 03:18
| 半島
2007年 02月 07日
北朝鮮への帰国事業 創価学会が賛成した事実をなぜ隠すのか —池田大作発言は動かぬ証拠 公明新聞二十四日付は、「北朝鮮問題 真相露呈に怯(おび)える日本共産党の悪あがき」という特集記事を掲載しています。この記事の特徴は、本紙が二十二日付の「北朝鮮問題 『反省なし』は公明党です」で、北朝鮮帰国事業にたいして公明党・創価学会が賛成していた事実のうえに、池田大作・創価学会名誉会長も同事業を肯定していた事実を指摘したところ、大あわてで打ち消そうとしたものです。しかし、“隠すより現る”とはこのことです。 創価学会の「政治的見解」は明らか 本紙記事は、創価学会現名誉会長の池田大作氏(公明党創始者)が当時、「北鮮帰還などというのも、やはり東洋広布の大前提なのですから」(『会長講演集』第四巻、一九六〇年一月二十四日の講演)などとのべ、創価学会の勢力拡大の機会として、帰国事業を肯定していたことを指摘しました。 公明新聞は、池田氏の発言そのものは認めました。その一方で、池田氏の発言は「北朝鮮への帰国事業について政治的見解を述べたものでは全くない」と弁解しています。 しかし、帰国事業にたいする創価学会と公明党の「政治的見解」は明らかです。東京都議会で一九五八年十二月に「在日朝鮮人帰国促進に関する意見書」が決議された際に、当時創価学会理事長だった小泉隆都議は提出者の一人になっています。また、白木関西総支部長は、聖教新聞(五九年三月六日付)で北朝鮮帰国希望者への「指導」についての質問に、「御本尊様拝んでよかった、これはなによりの朝鮮へ帰るみやげだと思って帰れるようにね」「心配しないでしっかり信心して北鮮支部長ぐらいになりなさい、といってあげて下さい(拍手)」と「解答」しています。 「東洋広布の大前提」の言葉隠す また、帰国事業再開のときにも、公明党・沖本泰幸衆院議員は「現に困っていらっしゃる方々の帰国を進めてあげるような方法をとるべきである」(七〇年四月十三日、衆院運輸・内閣・地行・法務各委連合審査会)と賛成していました。 公明党・創価学会は、この指摘に一貫してだんまりを決め込んできましたが、今回、池田大作氏が北朝鮮帰国事業を肯定していた事実を指摘されると、大あわてで“反論”してきたのです。 けれども、公明新聞は池田氏が「北鮮帰還」を「東洋広布の大前提」とのべていたことは意図的に隠しています。「東洋広布」とは、朝鮮半島をはじめアジアに創価学会の勢力を拡大することが目的であることはいうまでもありません。 公明党・創価学会の身にふりかかる 公明党は日本共産党が人道上の立場から北朝鮮への帰国事業を支援したことをもって、「9万3000人もの人々を『凍土の地獄』に送り込んだ」などとひぼう中傷してきました。この立場からすれば、公明党・創価学会が帰国事業に賛成した事実を認めるわけにはいかないのです。そうなれば、創価学会・公明党自身も「凍土の地獄」に人々を送りこんだ張本人になってしまうからです。 在日朝鮮人の帰国事業は、赤十字国際委員会が居住地選択の自由にかんする問題として日本と南北朝鮮の政府によびかけ、日本赤十字社が主体となり、政府が閣議決定で推進した事業です。こうした事業を人道上の立場から支援するのは当然のことです。それを、他党を中傷するため、あたかも犯罪行為であるかのように意図的にねじ曲げたために、自ら賛成した歴史も語れない自己矛盾に陥るのです。(T) 北朝鮮への帰国事業や、チュチェ思想を賛美していた創価学会公明党。 北朝鮮への帰国事業 創価学会が賛成した事実をなぜ隠すのか ―池田大作発言は動かぬ証拠 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-04-25/05_01.html 公明党-- 金日成個人崇拝に迎合 無法行為の批判も回避 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-11-23/14_0401.html 北朝鮮問題 「反省なし」は公明党 自分のことは語らず 共産党の悪口ばかり 拉致問題 公明は実行容疑者釈放要求 帰国事業 日赤が主体で政府推進池田氏は“広布の大前提”と 北朝鮮の無法 公明は個人崇拝体制賛美 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-04-22/04_01.html 公明党 まともな解決の道示さず 拉致問題 公明党 金日成体制を礼賛 http://www.jcp.or.jp/activ/active60-ratimondai/ratimondai.html 埼玉県議会で公明党議員が、在日朝鮮人帰国事業を促進したとして 日本共産党を攻撃する質問をおこなったものの、日本共産党議員の質問で、 埼玉県議会では全会一致で帰国促進決議を採択していたことなどが明らかになり、 公明党の道理のなさが浮き彫りになっています。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-12-15/12_BE001.html ▲
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| 2007-02-07 04:12
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