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2007年 10月 10日

日本と欧米の植民地主義の違い

アジアの「日の丸」観 「迷信」打破の旗振り役
[1999年07月10日]

 一九四〇年(昭和十五年)、パリが陥落し、ドイツ肝いりのビシー政権が誕生すると、日本はそのビシー政権に、北部仏印に軍を出したいと通告した。

 日本は当時、重慶の蒋介石政府にてこずっていた。重慶を落とすにはその糧道、いわゆる援蒋ルートを叩き潰すのが最も効果的で、それにはこの仏印進駐が作戦上どうしても必要だった。幸いというか、その仏印を握るフランスに同盟国ドイツの息のかかった政権ができた。友だちの友だちはみな友だちである。当然、友好的に受け入れてくれるものと考えた。

 しかし、当のビシー政権を含めた欧米はそんな単純な受け止め方はしなかった。日本の仏印進駐は「十五世紀、バスコ・ダ・ガマの到来で始まった白人によるアジア支配に初めて亀裂を入れる」(英歴史学者クリストファー・ソーン)ことになるからだ。

 ビシー政権は英国に置かれたドゴール仏亡命政権に泣きつき、ドゴールは米国に助けを求めた。米国はフランスに特使を派遣し、相談のうえでドイツを通じて日本に再考を促すよう働きかけた。

 アジアの植民地は欧米諸国の大きな財産だ。「だれにも侵させない」という暗黙の了解があって、たとえお互い戦争していてもその点では助け合っていたわけだ。

 しかし日本はそういう思惑にはまったく鈍感で、通告通りさっさと仏印へ向かい、国境にある仏軍の要塞から激しい砲火を浴びることになる。

 かくて日本軍との間で戦闘が始まる。最初のうちこそ数倍の兵力を持つ仏軍の勢いはよかったが、やがて突撃を繰り返す日本軍の前に戦意を失い、ドンダン要塞は数時間で陥落した。日本側十五人、仏側四十人が戦死した。

 この攻防を一人のベトナム人が間近で見ていた。道案内をした反仏活動家、陳中立(チャン・チュンラップ)である。

 彼の知る故郷は仏植民地政府の下で百年悲惨のどん底にあった。人々は高額の人頭税に泣き、そのために十歳の子供が炭坑でトロッコを押さねばならなかった。人頭税だけでなく葬式にも結婚式にも課税された。阿片も政府が売りつけ、国中に中毒患者があふれていた。「ニョクマムのビン法」というのもあった。ふたのない容器は非衛生的という口実で「仏製のビンを強制的に買わせて」(A・ビオリス著「インドシナSOS」)金を巻き上げていた。

 人々は当然、反発するが、そうすれば植民地軍が徹底的に殺しまくり、首謀者はギロチンにかけ、生首を街中にさらした。

 白人にはかなわない、というのが百年の歴史の教訓だった。その白人が今、自分たちと同じ肌の色の日本軍の前に逃げまどい、両手を挙げているのである。

 陳はその場で同胞に決起を呼びかけた。あっという間に二千人が集まり、彼らはハノイの仏軍をやっつけに山を下りだした。

 しかし、その数日間のうちに事情は変わっていた。ビシー政権は日本の進駐を認め、友好関係が樹立された。つまり日本軍は陳を支援できなくなっていた。「勝てる相手ではないと何度も忠告した。でも、白人には勝てないというのが迷信だと分かっただけでも大きな力になると笑って出ていった」とベトナム協会の西川捨三郎氏は当時を思いだしていう。

 日仏の小競り合いと日本軍の勝利のニュースはすぐにタイにも伝わった。そして驚いたことに、英仏に領土を好き放題奪われてきた“おとなしい国”が突如、領土回復を図って仏印に攻め込んだのである。講和条約は東京で開かれ、タイは希望を一部かなえた。

 オランダ領インドネシアにも同じ現象が起きた。この国の人々もまた百年、ご主人様の「ビンタにおびえながら働かされ、食事がきちんと与えられる刑務所の方がましとさえ考えていた」とR・カウスブルックは「西欧の植民地喪失と日本」の中で書いている。

 その地で日本軍はあっという間にご主人様をやっつけてみせた。八万二千人の連合軍がこもるバンドン要塞はたった三千人の日本軍の前に降参した。人々は陳のいう「迷信」から覚めていった。

 日本が敗れて消えたあと、戻ってきたオランダと人々は戦った。四年間戦って約八十万人が殺されながら、戦いを放棄しなかった。そして独立を得た。

                 ◇

 日の丸をめぐって「日本に侵略された東南アジアの国の人々はどう思うだろう」といった否定的論調が国会や新聞で目につく。

 この文章には誤りがある。当時は「国々」などアジアにはなかった。あったのは欧米諸国の植民地だけで、侵略された主体はそういう宗主国になる。

 おかげで彼らは植民地を失ったのだから日の丸にいい感じはもっていないのは当然だが、この論調はそういう意図ではない。

 どうしても「現地の人々が日の丸をうらんでいる」風にしたいらしいが、歴史はむしろ「日本の侵略」で、人々が宗主国と戦う自信を得ていったようにみえる。

 陳中立に聞きたいところだが、彼の軍隊はハノイを前にして仏軍に待ち伏せされ全滅している。しかし、迷信を捨てた人々はその遺志をつぎ、さらに四十年戦って独立を果たす。

【高山正之の異見自在】 [1999年07月10日 東京夕刊]
http://kaz19100.hp.infoseek.co.jp/tak/110710.html



「江戸人」の天衣無縫さ たまには異人と喧嘩もいい
[1998年11月28日]

 日露戦争前後に米国西海岸に入った日本人移民は結構な辛酸をなめている。
 中心になって日本人排撃キャンペーンを張っていたのがデ・ヤング家のサンフランシスコ・クロニクル紙とあの新聞王ハースト家のエグザミナー紙だった。
 ハースト家の方はただなじるだけだが、クロニクル紙の方は分析やデータにも力を入れて、例えば「中国人が月十一ドルの食費をかけるのに、彼らはわずか四ドルしかかけずに貯金や送金に回す」(一九〇五年三月十九日付)と、日本人の習性もよく観察している。
 その辺が面白くて、同社の資料室をのぞいたことがある。
 あれこれ見ているうち、一枚のポスターが目についた。「不思議の国のジャグラーたち」の大きな文字の下に綱渡りや独楽(こま)回しをする江戸町人風の男女がカラーで描かれている。
 興味をもって調べてみると、これが江戸時代の末、欧米を旅興行した「幸八一座」のサンフランシスコ公演のポスターではなかろうかということになった。
 実はこの一座の座長、高野幸八の日記が昭和五十二年、福島県飯野町で見つかっている。慶応二年に横浜を旅立った三年間の巡業記録はポスターの雰囲気とも年代ともぴったり合いそうだが、それ以上に日記の記述がいい。なかなかの味わいなのである。
 例えば、そのサンフランシスコでは投宿したホテルの水道施設に素直に感嘆する。「ちょいとねじると水噴き出す。ねじ戻せば止まる」。ガス灯では面白がっていじりまわし、火事を起こしそうになるが、その辺は福沢諭吉が灰皿を頼むのをためらい、吸い殻をたもとに入れて火事にしてしまったのと大違いの素直さだ。
 東海岸では新見豊前守と同じにワシントンの「アメリカ国王の御所」に招かれる。豊前守らは会見場の床に座って低頭するが、幸八は堂々、大統領と握手し歓談もしている。
 会見のあと、幸八たちは、その足で「女郎買いを致し候」。何とも屈託がない。
 彼女らの対応は「日本とは十層倍勝り…」と評価するが、ただ清潔感については、「ふろにも入らず、水につけた布にてふく。その手ぬぐいにてあくる朝、顔を洗い拭くなり。その国のならいとはいいながらまことにもってむさくるしく、いやなり」と衛生観念欠如を厳しく指摘している。
 一座は欧州に渡り、パリ、リヨンと回るが、巡業の馬車には「日の丸の旗を打ち立て威勢よくまいり候」。日の丸に日本人の気概を託していた。
 興行はどこでも当たり、日記には「大入り」の文字と、はねたあとの「女郎買い候」が続く。
 オランダにもいくが、「この国は人わるし」とのっけに書いている。その言葉通り、街でオランダ人に取り囲まれ、「仁義わるければ、いろいろ悪態をいい」、奇妙な格好を笑って、「袖や裾を引っ張る。みな心外に思い、大喧嘩と相成り候」。
 向こうは大勢だが、こっちは小勢。ついには「われ差しまいり候大刀を引き抜き、むにむさんと振り散らし候ところ、異人驚きて右左に逃げ散るなり」。
 英国では枕探しに金を盗まれるが、幸八は泣き寝入りしない。警察に捜査させる。警察はそれらしい女を見つけては彼を呼び、「五人ならべおき、この中にいるか」と聞く。面通しである。その中にはいなかった。
 二、三日後、別の五人の面通しがある。数回繰り返して犯人をやっと見つける。
 この間、犯人と連れ立っていた仲間を見つけ、尋問するように警察にいうが、拒絶される。「彼女は無関係なのだから」と。
 また手間暇かけた面通しが「冤罪を起こさないため」という理由を聞いて感動もしている。
 刑事法については欧州視察の岩倉具視が「監獄では月に一度、洗浴を許す」「裁判には代言師(弁護士)あり」ぐらいの皮相な観察しかしていない。それに比べ幸八は法思想にも踏み込んでいる。
 その岩倉はトイレに困って山高帽の中に小用する恥ずかしいエピソードをもつ。初代警視総監の川路利良もパリに向かう列車の中でやはりトイレに困り、新聞紙を広げて用を足し、丸めて窓から捨てる。これが保線作業員に当たり、大問題になったと司馬遼太郎は書いている。
 幸八たち江戸人の天衣無縫さに比べると、だいぶ遜色のある“おずおず”ぶりだが、それでも立派に近代化を果たし、大国にも勝って明治人の気骨をみせた。
                 ◇
 立派な先祖をもつ平成人のもとに韓国の大統領がきたが、竹島を返せとはいえなかった。
 ロシアの大統領にも北方四島はうやむやにされ、逆に巨額の援助を約束させられた。
 そして中国のトップがやってきて、目いっぱいの謝罪と援助を要求されて、また頭を下げた。
 草葉の陰で先祖たちがそろって泣いている。
 
【高山正之の異見自在】 [1998年11月28日 東京夕刊]
http://kaz19100.hp.infoseek.co.jp/tak/101128.html



江戸芸人の予言 オランダは変わらなかった
[2000年01月29日]

 江戸時代末に欧米を巡業して歩いた高野廣八の曲芸師一座の話を以前、この欄で紹介した。

 屈託などどこかに置き忘れたような廣八は興行が終わると、「女郎買いに参り候」。米国ではホワイトハウスに招かれ、時のA・ジョンソン大統領と握手もするが、その晩にはもう娼館に駆け込んでその様子がどうの、大統領接見の三倍ぐらいの分量を日記に書きつづっている。

 欧州に渡っても同じで、ロンドンでもリヨンでもハネたあとの郭通いは欠かさなかった。

 しかし、ただ一国、例外があった。オランダである。理由は書いていないけれど、この国の印象を彼はこう書く。「家作わるく、人わるし。国も同じく悪しく…」

 ハーグではこの道中でただ一度の喧嘩もし、刀を抜いてオランダ人相手に大立ち回りを演じてもいる。飾り窓をのぞく気分にもならないほど、腹に据えかねる何かがあったことは十分うかがえる。

 それが何なのか、ヒントらしいものが、廣八の時代から半世紀後の蘭領東インド(インドネシア)のオランダ人、ビンネルツの日記に書きとめられている。「日本人は背が低く不潔で、曲がり脚の猿のように醜く、動物の檻(おり)に漂う臭気と同じぐらい強烈な鼻をつく体臭がする」

 ちなみにオランダ人評論家、R・カウスブルックは「日本人は毎日風呂に入り、臭いもない。むしろオランダ人の方が不潔で体臭は強い」(「西欧の植民地喪失と日本」)と訂正し、この発言がオランダ人の有色人種への観念的な蔑視に基づいていると指摘する。

 同じ肌色の植民地の人々に対しても、この意識は同じで、スマトラのたばこ農場の様子を記録した「レムレフ報告書」には現地人を米国の黒人奴隷と同じように取り扱い、「鞭打ち、平手打ちは当たり前だった」と記録する。

 ある農場では「粗相をした二人の女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部に唐辛子粉をすり込んで木の杭に縛り付けて見せしめにした」。

 刑務所で過酷な労役を課せられる囚人が、「オランダ人の農場より食べ物がいいから」と出所を拒んだ例も伝えている。有色人種は家畜よりひどい存在だった。

 オランダ出身のフランクリン・ルーズベルトもそういう意識が強かった、とニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸で会談した英国のロナルド・キャンベル公使は本国あてに書き送っている。

 大統領がこのとき打ち明けたのは「劣等アジア人種」を牛や豚のように品種改良しようという計画で、「インド系、あるいはユーラシア系とアジア人種を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる、というのがルーズベルト大統領の考えだった」

 米大統領のアジア人蔑視、日本人敵視の気分は、蘭領東インドのオランダ人ともぴたり一致する。一九四一年七月、米大統領は日本人に中国大陸から撤退して「もとの島々」に戻るよう、いわゆるハル・ノートを出し、米国にある日本資産を凍結する。オランダもそっくりならって蘭領東インドの日本人資産を凍結、約六千人の在留邦人を追い出した。

 その結果が五カ月後の太平洋戦争になる。そして戦争が終わった後、オランダ人は抑留中に「平手打ち」と「粗食」を食わせた旧日本軍兵士の裁判を行い、連合国の中では最多の二百二十四人を処刑した。なぜ、その程度の罪で極刑を宣告したのかというと、平手打ちも粗食もともにオランダ人が現地の人々に与えたもので、それを日本人から与えられた屈辱の報復といわれる。

 またオランダ政府も戦時賠償金を日本政府に要求、日蘭議定書で多額の金銭賠償を取った。

 その対日報復のさなかに、現地の人々が独立を求めて立ち上がった。オランダは「戦闘機、戦車など近代兵器と十万の兵士を送り込んで、女性子どもを含め八十万人を殺した」(福田赳夫首相とサンバス将軍の会談)。

 四年間の戦争の末、オランダは渋々独立を承認するが、その条件は独立を容認した代償として六十億ドルを支払うこと、オランダ人が所有してきた農場などの土地財産の権利を保全すること、スマトラ油田の開発費を弁済することなどだった。もちろん植民地支配の償いや謝罪は一切なかった。

 インドネシア側はこの条件をのんでやっと独立が認められた。

                  ◇

 それから五十年たって、オランダ政府は日本軍が戦時中、オランダ人の資産を奪った疑いがあるとして調査を行った。今月十七日に発表された結果はシロだった。でも戦前、日本人資産を凍結の名で取り上げたことは調査の対象から外していた。

 抑留者グループたちもまだ屈辱感が晴れないのか、その賠償を求める裁判を起こしている。

 また、二十五日付のオランダ紙は五月に訪問を予定される天皇陛下に「謝罪を挨拶に入れるよう政府特使を派遣した」と伝える。

 「人わるし、国同じく悪し」と廣八は書いた。昔の人はモノを見る目があった。

【高山正之の異見自在】 [2000年01月29日 東京夕刊]
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/120129.html



オランダ人の歴史認識 自分のふりを見つめては?

[2000年04月22日 ]

 この前、オランダの週刊誌記者というのが突然、訪ねてきた。何でもこの欄で書いたオランダ評が向こうの新聞に載り、それで結構な騒ぎになっているという。

 江戸時代末、欧米を巡業した旅芸人一座の座長がオランダを評して「人わるし、国また悪しく」と書いた理由をその後のオランダ人の行動から分析してみたものだ。例えば、日本人を悪臭を放つ猿と表現する人種差別意識の強さ、植民地だったインドネシアの独立のさいに謝罪どころか逆にばく大な“独立許可金”を請求したあこぎさ、それに何度も日本から賠償と謝罪を繰り返させながら、日蘭交流四百年記念の今年、また同じ要求をするしつこさなどをあの座長は感じ取っていたのでは、というごく妥当な結論にしておいた。

 だから、オランダ人が何で騒ぐのかわけが分からなかったが、それでもこの記事を書いた動機が知りたいというので、日本人は欧米の国々、例えばチューリップや風車で象徴されるような国も含めて、みんないい国、いい人ばかりと思いがちだけど、みんな結構したたかなんだよといったお知らせでもあると答えておいた。

 その週刊誌、「エルセフィア」というのだけれども、それが出たあと、これで沈静化するかと思っていたら、大違いだった。駐日オランダ大使から本紙に電話があったり、向こうの新聞からテレビ局までやってきて、もう仕事にもならない騒動になってしまった。

 それなら向こうではクオリティー紙という「NRC・ハンデルスブラット」に寄稿することにしてけりをつけることにした。

 以下、要約になるが、日本軍とオランダ人の遭遇という一断面だけで、つまり自分たちがやった植民地支配などをさっぱり棚上げして、あのころの歴史を評価するのはいかがなものかと問いかけ、その意味でコック・オランダ首相がこの三月下旬、日本に何度目かの謝罪を求める一方で、インドネシアへの非道な行為を初めて認めて「わびる用意がある」と語ったことを高く評価してみた。

 そうやって他人のあら探しだけでなく、自分のふりも見つめれば、おのずと歴史を正しく見ることができるじゃないか。そうすればお互いの理解も増すはずだ、と。

 その辺でやめてもよかったけれど、ついでに日本には、いわれるように拡張主義、侵略主義を展開するほど資源や軍備に余裕はなかったことにも言及してみた。

 そういう状況で、例えば日本には消耗でしかなかった「インド解放のため」のインパール作戦も遂行した。

 自分の国の存続すら危ない時期に、二十万人の兵士を投入してよその国の自立を助けるという前代未聞の作戦は結局、全滅という悲劇に終わったが、それだからこそ、なおさら欧米列強からアジア諸国を解放しようとする思い入れがあったことを理解してもらえるのではないか、という期待もあった。

 実際、そうした犠牲があったからこそ、英歴史学者クリストファー・ソーンも、「ある意味で慈悲深く、欧米のアジア植民地支配の終結を早めさせた」と、その著書「欧米にとっての太平洋戦争」の中ではっきり書いている。

 しかし、これもまた逆効果だったらしい。この私見がハンデルスブラット紙に掲載されるや、同紙の投書欄に山のような反論が次々に載せられた。

 いわく「タカヤマは日本の歴史をゆがめる唾棄すべき偽善者で、アジア諸国を植民地のくびきから解放したというとてつもない虚構をでっちあげようとしている」

 「彼は傲慢にも日本軍が犯した重大な戦争犯罪と、オランダ人がインドネシア人に対してやった小さなミス(Lapse)を同じに扱おうとしている」

 「インドネシアの占領は日本の拡張主義の最後の到達地で、彼らは抑留者にそのままでは食うこともできない大豆を食事に出し、オランダ人を淘汰しようとした。朝鮮や中国で日本軍が行った無慈悲さをもって」

 以下、少なくとも八通の投書はいずれも本人が読んでいていやになるようなものばかりだが、もう一つ共通しているのが、三百五十年にわたって搾取を続けたインドネシアの植民地支配について、あるいは戦後、独立を求めて立ち上がったインドネシア人を近代兵器を総動員して八十万人も殺しまくった事実について「ささいなできごと」にしている点である。

                   ◇

 「Go Dutch」とは割り勘でいこうという意味だ。

 「Be in the Dutch with」、直訳すれば「オランダ人的な間柄にある」という慣用句は、仲が悪いという意味に使われる。

 ワーグナーは神をそしり、その罪ゆえに世界の海をさまよい続ける船長の国籍をオランダ人にしている。あの「フライング・ダッチマン(さまよえるオランダ人)」である。あるいはさまよう幽霊船の名ともいわれるが、いずれにせよ、そういう風に「Dutch」がつかわれるのが何となく分かるような気もする。

【高山正之の異見自在】 [2000年04月22日 東京夕刊]
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/120422.html

by thinkpod | 2007-10-10 22:14


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