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2006年 10月 27日

大東亜戦争と特攻隊

大東亜戦争と特攻隊(1)
〜 富士通名誉会長山本卓眞先生講演録 〜
日本保守主義研究会

■自存自衛の戦い—大東亜戦争■

 大東亜戦争の話をしたいと思います。中村粲先生の『大東亜
戦争への道』(展転社)の終わりにその総括が書いてあります。
それは一言で言いますと、自存自衛の戦いであったということ
であります。

 アメリカは日露戦争以降の現実を無視して、そしてアメリカ
の昔からのマニフェスト・ディスティニー(明白なる運命)と
称して西へ西へと進んできた。そして、誤った東亜政策。特に
共産主義に対する無理解、ルーズベルトに見られるいわれなき
シナへの思い入れがありました。

 ルーズベルトは母親の祖父がシナで大儲けしたという話を聞
いて、子供心にシナに親近感を非常に強く持っていたのです。
また蒋介石軍に自国の正規兵である航空兵を派遣して、フライ
ング・タイガースとして蒋介石を助けました。このような国際
法違反のようなことをアメリカはたびたび行い、かつコミンテ
ルンを軽視した結果、日本がどんどん引きずり込まれて、止め
るに止められなくなりました。

 この点、日本もどこかで思い切るべきであったと思います。
これはまことに痛恨事でありますが、誰が悪かったとかいう単
純な話ではありません。

■東亜解放という意義■

 同時に中村先生はあまり指摘なさっておりませんが、もう一
つこの戦争には東亜の解放という重大な意味があったと思いま
す。これは明治維新のところで読みました勝海舟の日朝支同盟
論、あるいは日支提携論、あるいは、さらに多分に理想論めき
ますが岡倉天心のアジアは一つという論以来、日本はアジアで
助けあって何とか立派な国にしたいということでありまして、
この願いが東亜の解放につながったのです。

 ところで、先日加瀬英明さんとちょっと立ち話をしていたの
ですが、日本はこれほど情報面でコミンテルンが策動し、アメ
リカがコミンテルンと結びついていた—ハルノートの原案を書
いたホワイトは共産党員であったかスパイであった—というこ
とを知らなかったのです。驚くべき情報欠陥がこの大東亜戦争
に伴っておりました。このように残念無念という思いもあるわ
けです。しかし、現在その情報欠陥は改善されたのでしょうか。
今は大東亜戦争時よりもひどいかもしれません。

 さて、東京裁判以来自虐史観が非常に蔓延りまして、特に解
せないのは東京大学法学部の某教授としておきましょうか、手
のひらを返したように占領軍に迎合し、左翼的、自虐的な史観
を展開し、かつ、それに抵抗する勢力を弾圧した、許しがたい
教授が登場したのもまた日本でありました。残念ながら、歴史
的事実であります。

 しかし、この戦争の結果、アジアでは多くの国が独立しまし
た。そして独立した国々が日本の貢献を口々に語ったのは、こ
れは皆様方よくご存じですからこれには触れません。特に東南
アジアですね。ただ、一つ申し上げたいと思いますのはベトナ
ムについてです。

■ベトナムで評価される日本兵■

 ベトナムに現在九十四歳のヴォー・グエン・ザップという将
軍がいらっしゃいます。彼はホー・チ・ミンの右腕でありまし
た。彼は最初にディエンビエンフーの戦い、ベトナムのハノイ
からちょっと東北の飛行機で小一時間、ここでフランスとの決
戦を行いました。

 そのときにまだベトミンはまだ戦の仕方を知りませんでした。
それを迫撃砲はこう撃つんだと、敵の陣地はトンネルを掘って
下から爆破しろというようなことを手取り足取り教えたのが残
留した日本軍将兵であります。それで、そのことをヴォー・グ
エン・ザップ将軍が残留した日本の将兵の功績は非常に大きい
ということを語りました。

 それを何とNHKがインタビューしまして、その記事が、J
R東海が出している「WEDGE」という雑誌の今年二月号の、
巻末に出ております。私はテレビも見なかったのですがその巻
末の記事で、ベトナムもまた日本に感謝しているという。

 そして、残留した日本軍将兵の教育ですね。例えば松島上等
兵は、同僚七人を失ってまでベトナムに残って、九十二年頃に
亡くなりましたが、朝日新聞のある記者が「あなたは何でこん
な苦労してまでベトナムに残ったのか」と聞いたときにこう答
えました。「ベトナム人を見殺しにして、おめおめ日本に帰れ
るかと思った」。まさに日本男児ここにあり。それから旧将校
にも脱帽します。すばらしい軍の先輩だと言っていました。こ
うして、親日という遺産、大変な遺産を、彼らはベトナムに残
してくれた。

■親日国家インド■

 もうひとつ、インド。昭和天皇が崩御されましたときに、三
日間喪に服しました。日本政府はたった二日間です。私はビジ
ネスマンですから一日だけでした。三日間喪に服した国インド
の国会の真正面に飾ってあるのは日本軍とともにインパールを
戦った、チャンドラ・ボース。右がガンジー。左がネルーだそ
うです。やはり、ガンジーの非暴力ではなく、戦わなければな
らなかったということですね。

 インド人は戦ったチャンドラ・ボースを、そして日本を決し
て忘れていないのです。つまり、インパールで数万の将兵が命
をささげましたけれども、これは戦略的には補給が無いという
意味でミスですけれども、政略的に見た場合、大きな財産をイ
ンドに残した。これを、大東亜戦争の一面として受け止めるべ
きであろうと思います。

■二〇世紀の勝者は日本■

 総括しますと、九八年の「VOICE」という雑誌に渡部昇
一先生が書いておられて、そこでドラッカーの言葉が引用して
ある。二〇世紀の勝利者。二〇世紀の政治的なパラダイム、す
なわち白人絶対優勢。白人支配。それを覆したのが日本である、
だから二〇世紀の勝利者は日本だろうというのがドラッカーの
言葉です。

 九八年頃に永野茂門という国会議員、士官学校の三期先輩で
すけれども、彼は国会議員としてチリに参りました。そしてチ
リの国会議員と話していたときのことです。日本は何であんな
に中国に謝るんだ。いや実際負けるというのは悲しいことです。
チリの国会議員が、戦争に負けたとは何だ、日本は戦争の目的
を達成したではないか。簡単に負けたなどと言うな、と言った
そうです。まあなかなか表舞台では言いにくい言葉ではありま
すけども、そういう認識は広がりつつある。

■ネパールの仏教学者の言葉■

 さて大東亜共栄圏についてです。一九〇五年日露戦争が終わっ
た年、仏教学者の河口慧海が、苦心してネパールに帰ります。
そこでネパールの首相格の人に手紙を残しております。その手
紙によりますと、「私たち日本人は、アジアの人々が互いに手
を携えてともに栄えるのをみたいのです。そのためにはネパー
ルの、皆さんもぜひこうして下さい」。つまり大東亜共栄圏の
夢が、かの国に残っている。すばらしいことだと思います。

 これは有名な話でありますが、大東亜戦争の末期、大正末期
に駐日フランス大使として勤務したポール・クローデルは、
「世界に滅びて欲しくない民族があるとすれば、それは日本だ。
日本人は貧しい。しかし高貴だ」と言いました。我々の先人は
こういう文化を持っていたということを、心の中に深く刻むべ
きだと思います。
(続く)
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/107825741.html?js


大東亜戦争と特攻隊(2)
〜 富士通名誉会長山本卓眞先生講演録 〜
日本保守主義研究会

■特攻隊について■

 さて、特攻隊について触れたいと思います。特攻隊は大西瀧
治郎中将が他に日本を救う手はないと思いつめて打った手です。
私も完全に同意します。これ以外にありませんでした。二歳上
の私の兄も特攻隊で、レイテ島に突入して戦死しております。
色々な評論家が、あの時特攻は仕方がなかったが、続けてやる
のはよくなかったと言っております。では続ける以外にどのよ
うな手段があったのか。それ以外になかったでしょう。ケチを
つけるのは簡単です。しかし先人たちが知恵の限り、身も心も
切り刻むようにして決断したことを軽視するのは許されないこ
とだと思います。

 しかし、大東亜戦争末期の特攻隊だけを顕彰するのでは不十
分です。例えば東京帝都に侵入したB29に体当たりしてこれ
を落とした人たちもあった。それから第一次上海事変の時の爆
弾三勇士。これも有名です。導火線の長さがどうこうと色々な
論評があります。しかし、後で論評するのはやさしいですが、
導火線を敵の目の前で長くするなどできるわけがありません。
ことここに至ってはこれしかないということで、三勇士は敵に
突っ込んでいって、日本軍の突撃を可能にしたのです。ケチを
つけることは、勝ち戦にだってできます。しかし、戦の大筋、
本筋を見る限り、彼らは立派な、特攻隊と共通する先人たちで
ありました。

■兄の特攻■

 私の兄は特攻隊になる前に、跳飛攻撃といって爆弾を積んで
超低空で海の上を飛び、船に水平に爆弾を落とす攻撃をしまし
た。石を海面に水平になるように投げると跳ねるでしょう。そ
のように攻撃することを跳飛攻撃といいます。爆弾が水平に跳
ねて、高い命中率で敵の艦船の船腹に当たります。これが特攻
のスタートラインだったようです。

 兄たちは戦局急を告げる中、その跳飛攻撃をすることになり
ました。出撃機は元来地上を攻撃するものだったのですが、艦
船の攻撃に移りました。陸軍の中では早い方でありました。こ
の時に兄が、福島県の原ノ町の飛行場で訓練を受け、日記を残
しました。「原ノ町よさらば」という書き出しでありまして、
「美しき思い出、原ノ町よさらば」と書かれています。その地
でお世話になった人たちへの、絶ち難い思いがそこに表れてお
ります。

 飛行機の整備、羅針盤の整備に大変苦心している様子が、日
記に克明に書かれています。そして台湾を経て、フィリピンへ、
最後の基地から立つ時に、一世一代の・・・を出したいという
ことが載っています。三五ミリ機関砲がついているのですが、
これを外して百キロの爆弾を積みます。

 そしていかに成果を挙げるかということに、まさに精魂を込
めていました。また日記の一節には、部下を無駄死ににさせぬ
こと、全部そろって艦船に特攻すること。事故を起さないよう
に万全の注意を払っているとありました。当時一部のアメリカ
人あたりが言ったファナティックな気違いじみた行為というよ
うな様子は日記からは微塵も見られなかった。しかも最後の日
に出ております、いざ敵輸送船の一行が非常に気になった。実
はレイテでの目標は航空母艦、軍艦ではないんです。日本軍は
そのころになると補給路の輸送船を目標にしたのではないかと
思われる。いろいろな思いが錯綜するのですけれども、なかな
か単純には論評しかねるような面もありました。

 さて、特攻隊に関する、特にアメリカを中心とする妙な批判
に対してお話します。実はアメリカは戦果を発表させなかった。
戦後も抑えた。これはやはり効果があったということでして、
しかも彼らは、輸送船の犠牲はまったく出していない。輸送船
の戦死者たちを出していない。極力戦果を教えない。つまり逆
に考えるといかに戦果があったか、ということでありまして、
米軍の統計を見ましても命中率が非常に高い。ここで数字を申
し上げる時間はありませんが、非常に効果があった、というこ
とが言えると思います。

■世界で尊崇される特攻隊■

 さて、アメリカはともかく、外国人たちがどう評価したか。
まず、意外なことにフィリピン人は最初の神風特攻隊の関大尉
たちが出て行きましたマバラカットに、特攻隊の碑をつくりま
した。それは立派な碑だったのですが、火山の噴火で埋まって
しまいました。その後に、また鳥居と神社を作りました。フィ
リピンの人がですよ。そして、特攻有志の像を建てます。その
折、日本のお寺のお坊さんが特攻観音の像を寄贈し、現在でも、
日比両国の合同慰霊祭が、秋に行われておるのです。昨年も特
攻協会の理事長がこれに参列している。ここでフィリピンの人
たちが感激してこれをたたえている、という一面があります。

 また、フランスのジャーナリストであったベルナール・ミロ
ー。彼は、特攻隊をこう評している。「彼らの勇気、自己犠牲
には感嘆を禁じえない。また、禁ずべきではない。彼らは人間
というものそのものであることの可能性をはっきりと我々に示
してくれているのである。これら日本の英雄たちはこの世界に
純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼ら
は千年の遠いところから今日に、人間の偉大さというすでに忘
れられたほどの使命を取り出して見せてくれたのである」。こ
う言うわけであります。

 それから、フィリピンのダニエル・デイソンという人は、日
本人軍の参謀であった、猪口力平さんが書いた『神風特別攻撃
隊』の英語版を読んで、「私はこの本を熟読し、祖国愛に燃え
て散華した、これら若い特攻隊に思いをはせるとき感激の涙を
禁じえなかった。彼らは永遠に記憶され、尊敬されるべきであ
ると、確信する」と語っております。事実、碑を立て、それが
噴火で埋まっても、もう一度鳥居を立てるということを現在行っ
ているのです。

 さらにもう一人、フランスで文化大臣を歴任しましたアンド
レ・マルロー。彼は、「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そ
の代わり、何物にも変えがたいものを得た。それは世界のどん
な国も真似できない特別攻撃隊である。スターリン主義者たち
にせよ、ナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動
である。日本の特別攻撃隊員たちはファナティックだっただろ
うか。断じて違う。彼らには権勢慾、名誉慾などかけらもなかっ
た」。

http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/

by thinkpod | 2006-10-27 05:33


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