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2006年 09月 23日
第40回 「心情」から語る靖国論(3) 〜靖国は英霊の同窓会の場〜 靖国神社は宗教を問わない 靖国神社について考えるとき、そもそも靖国神社はどんな宗教なのか、という話が取りざたされる。 一般的に日本には、仏教もあれば神道もある。神道には実は、道教が入っている。日本人はそれら全部を混合して、自分にとって都合のいいものだけをとっている。 「八百万(やおよろず)の神」などと言ったり、外国から渡来したプリンシプル(原理原則)で割り切るようなものも取り入れたり、そしてもっとリアリズムで考えた常識的なものも取り入れて、それらを適宜使い分けている。そうした日本人の宗教心を踏まえて考える必要がある。 江戸時代が終わり、明治政府が出来て、国家として軍隊を持つようになり、日本は外国とも戦うようになった。 軍隊では、兵士同士が会話の中で「もしかしたら今夜は最後で、明日は死ぬかもしれないな」などと語り合って「おまえは仏教徒か」「いや、おれは神道だ」となると、「じゃ、死んだらもう会えないね」となる。 仏教徒は、阿弥陀仏のところへ行ったり、極楽へ行ったりする。行いの悪かった人は、犬畜生に生まれ変わる。ところが神道の人は、極楽には行かない。どこに行くか分からない。 とにかく兵士たちが「もう会えないね、寂しいね」と話しているのを聞いて、こんなことでは強い軍隊にならないと思い、明治政府は「東京招魂社」をつくった。これが靖国神社の始まりである。 招魂社、つまり「魂を招く社(やしろ)」をつくって、死んで故郷へ帰って祭られた人でも、「例大祭」という春と秋の大祭のときには、また靖国神社へ戻って、みんなで集まって同窓会をやれと、明治政府は言ったのだ。 神道でも仏教でもキリスト教でも何でもいいから、死んだら一度ここへ集まれば、天皇陛下もお参りして、ねぎらってくれる。それが招魂社で、やがて靖国神社になっていく。 だから「靖国神社は仏教か、神道か」などと問題にする向きもあるが、実はどちらでもない。「死んだらあそこへ集まってから解散しよう」とか、「解散してから、でもときどきは集まろう」という、同窓会の場なのである。 神社とお寺ではお参りの意味が違う 「神社にお参りするのと、お寺で仏様にお参りするのとは、まるで意味が違うんだよ」と、子どものころ、おじいさんが教えてくれた。 神社に祭ってある神は恨みを残して死んだ人だから、そういう人は祟る。それが怖いから、「神よ、鎮まりましてくださいよ」とお参りする。神社へのお参りは、たたり封じというのが本来の姿である。 お寺のほうは、みんな仏様になって極楽へ行った人なんだから、祟ったりはしない。幸せな人たちなんだから、「その幸せを我々に分けてください」とお参りしに行く。だからお寺にはご利益があって、神社にはご利益はないのだそうだ。神社には、要するにマイナスがあるから、それをなだめに行くらしい。 靖国神社も、やはり特別祟りそうな人たちがいるから、しっかりお参りしないといけない。では、英霊たちの希望は何か。どういうふうにすれば鎮まるのか。 まず、お国のために死んだのだから、国から認めてもらいたい。それが、命令した人、戦って死ねと命じた人の負うべきことである。 となると、明治22年に大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されるまでは天皇の責任といえる。しかし、明治憲法制定後、翌明治23年に第一回帝国議会が開かれてからは立憲君主制となり、責任は首相および大臣に移った。 内閣は輔弼(ほひつ)の責任を負うことになっていて、天皇が自分の意見を言ったのは内閣が機能を失ったときの2回だけ。二・二六事件のときと、太平洋戦争をやめるときである。したがって、明治憲法以降は首相および大臣の責任だ。 昭和天皇の大御心に反した東條英機 とはいえ、天皇も内閣の決定に全面的に同意していたわけではないようだ。まず、総理大臣の任命では、やはり好きになれない人は任命したくはない。気に入った人を任命して、「頼むぞ、米国と戦争するなよ」というような内容のことは言っている。 しかし、「戦争することに決めました」と言われたときには、もう反対していない。ということは、天皇にしてみれば「A級戦犯の連中はわたしに迷惑をかけた」と思っているはずだ。正確には分からないけれど。 「東條内閣が戦争を始めたが、わたしはその前の御前会議でやめておけと伝えた」と天皇は言いたかったはずだ。 周知の通り、天皇は御前会議で「明治天皇御製」という歌を読んだ。「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん」。地球の上はみんな同胞だと思うこの世になぜ波風が立つのかと、明治天皇が詠んだ歌であった。 昭和天皇はそれを、1941年(昭和16年)9月の御前会議で読んでいる。東條英機もそのときは興奮して、参謀本部や陸軍省の中を「大御心は平和であるぞ」と大きな声で言って歩いた。 わたしがこの話を聞いた相手は陸軍参謀本部の、対ロシア課にいた人である。 実は、この東條英機の話はいろいろな文献に出てくる。東條が、1週間くらいは、「平和、平和、平和、何とか米国とまとめろ」といって歩いていたというのだが。 そこへ「ハル・ノート」が出た。これは太平洋戦争の直前の日米交渉において米国から日本に提出された交渉案だが、ネーミングは米国側の当事者だったコーデル・ハル国務長官(当時)の名前に由来する。 これの試案を書いたのはハリー・ホワイト財務次官補(当時)とされていて、彼はのちにソ連の二重スパイであったことが発覚している。つまり、ソ連のスパイが米国の国務省の中にいて、日本が怒って米国に立ち向かうようなことを書いた。 それで、米国のルーズベルト大統領(当時)は、「それもよかろう」ということで、日本を決起させて戦争に持ち込んだ。日本は見事にはまったわけだ。 ハル・ノートを読み解く国語力が足りなかった日本政府 ハル・ノートについては、戦後、評論家の山本七平氏は、「もっとよく読めばよかったのに」と書いている。「文章を読む力があれば、何も絶望して戦争を始めることはなかったのに」と。 山本七平氏のようなリテラシーのある人が読めば、ハル・ノートには逃げ道があった。 例えば「中国から兵隊を全部引け」という記述があったが、それまでの交渉で、そんな話は出ていなかった。日本は米国に「石油と鉄を売ってくれ、そのためにはこのぐらいは譲る」というような交渉をしていたのに、いきなりハル・ノートが来て、中国から全面撤兵せよと書いてあった。 それで日本は、米国は話をまとめる気がないと即断したが、山本七平氏は「いつまでに撤兵をせよと書いてないじゃないか」と言う。期日が書いていないことは、それ自体、書いていないのと同じだと言うのだ。 「はいはい、約束します」と言えばいい。中国は広いから、奥地の方から少しずつ撤兵して、港に全部集まるまでには1年や2年はかかる。それでもよかったわけだ。 もし東條英機に国語力があれば、ハル・ノートをもらっても絶望せずに、むしろ「よかった、これでまた1年ぐらい時間稼ぎができる」となっていた。大御心は平和なんだから、あわててやけっぱちの戦争をしなくてもよかったのだ。 しかし、「日本にはもう石油がない」という政府の思い込みもあって、1941年(昭和16年)12月8日に日本は太平洋戦争を始めてしまった。その責任者は、当時の憲法によれば、首相と内閣である。 だから、英霊の希望として、「東條英機以下の大臣は、我々が許さん」ということなら分かる気がする。ただし、A級戦犯という言い方はしない。それは東京裁判の命名である。 ともあれ、これは中国や韓国に言われる問題ではない。日本国内における、国民一般の気持ちと、憲法や宗教法人法とのすり合わせができていない問題である。 現実主義に目覚めよ、日本!(第40回)[日下公人氏]/SAFETY JAPAN [コラム]/日経BP社 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/p/40/index.html
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| 2006-09-23 19:11
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