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2006年 08月 31日

政府が二年前に入手していた化学兵器引渡し文書

中国“遺棄化学兵器”問題 スクープ第4弾
本誌・喜多由浩

 中国“遺棄化学兵器”問題で、政府が『化学兵器』として処理の対象にしている「あか筒」「みどり筒」を、中国側に引き渡していたことを明記した引渡兵器目録が、防衛庁の防衛研究所に残されていることが分かった。しかも、この資料の存在は2年前に、政府側に伝えられていたのである。これまで政府側は、「日本軍が化学兵器を残置したことに、中国側が同意していたことを示す資料は見つかっていない」という趣旨の言い訳を繰り返してきた。さらに、そうした文書が見つかれば、「(処理の)基本的な枠組みが変わってくる」と国会答弁で明確にしている。早速、中国側と再協議し、支援の見直しを進めていただきたい。

●リストに明記された「あか筒」「みどり筒」


 この資料は、防衛研究所にある「陸軍・高雄(台湾)分廠考潭集積所・引渡兵器目録」。中華民国34年(昭和20年=1945年)12月18日の日付で、日本軍側が、中国・国民政府軍に引き渡した武器・弾薬の品目と数が約10ページにわたって、細かく記されている。受け取った中国側の責任者の署名・捺印(なついん)があり、間違いなく、引き渡しが行われた(所有権の移転)ことを示すものだ。この文書は極秘でも何でもない。防衛研究所に行けば、だれでも閲覧・複写ができる資料である。
 その引き渡しリストの中には、大あか筒 100▽小あか筒 2250▽みどり筒 点火具50▽催涙筒 1−などと日中両国が『化学兵器』として、日本側が処理する対象になっている兵器の名称がはっきり書かれているのだ。
 その意味は、内閣府の遺棄化学兵器処理担当室のホームページの資料を見るとよく分かる。「旧日本軍が保有していた化学兵器」の一覧表の中で、「有毒発煙筒」に分類されるものとして「あか筒」「みどり筒」が確かに入っている。そして、弾薬の化学剤として使われている「あか剤」はくしゃみ(嘔吐)剤、「みどり剤」は催涙剤であることが説明されているのだ。
 これらはいわゆる致死性の毒ガスではなく、本来、化学兵器禁止条約の対象にもなっていないのに、日中の「談合」によって、日本の責任で処理する『化学兵器』に含められてしまったことは、すでに『正論』で報じてきたところだ。
 台湾は終戦まで日本の領土だったため、日本軍は南京に司令部を置く支那派遣軍ではなく、台湾軍(後に第10方面軍)だが、武装解除を受けたのは、支那派遣軍と同じ、蒋介石総統の国府軍である。つまり、中国側が受け取っていることにはまったく変わりがない。

●公開されなかった報告


 今年2月、内閣府の高松明・遺棄化学兵器処理担当室長は、衆院内閣委員会において、「正式に中国やソ連に化学兵器が引き渡されたという文書が発見されれば基本的な枠組みが変わってくる」と答弁した。これは、明確な証拠となる文書があれば、総額で1兆円といわれる処理費用の支払い義務を、日本が背負う必要はない、ということだ。しかし、その同じ委員会の場で高松室長は、「政府として現在、中国、ソ連の同意の下に引き渡されたことを確実に裏付ける証拠、資料があるとは承知していない」という見解を示している。
 高松室長の答弁は、これまでの政府側の見解を踏襲したもので、つまりは、(1)中国は引き渡しに同意していないと主張している(2)日本側にそれをくつがえす資料や証拠はない−という極めて情けない論法である。さらに、「資料がない」と言い切っているのに、政府側に資料を探し出そうという意欲はほとんど感じられない。
 実はこの問題が日中間の懸案となり始めていたころ、防衛庁が防衛研究所に、この種の資料探しを非公式に命じたことがある。このときは、約2年間にわたって、担当者が研究所の資料を調べたが、あか筒などが明記された「高雄分廠考潭集積所・引渡兵器目録」についての報告はなかったという。元防衛研究所幹部は、「(高雄分廠考潭集積所・引渡兵器目録は)非常に意味のある文書だと思う」とした上で、「当時、なぜこの資料が見つからなかったのか、なぜ報告がなかったのかは、よく分からない」と話している。
 だが、この「高雄分廠考潭集積所・引渡兵器目録」は、その後に行われた別の調査で、発見されていたのだ。その内容は2年前の平成16年にまとめられた政府機関への報告にも盛りこまれていたが、その文書が公開されることはなかったのである。

●もはや言い逃れはできない


 本誌は6月号で、山形のシベリア史料館で約600冊の旧日本軍兵器引継書が発見されたスクープを報じて以来、3号にわたって、この問題の虚構性と中国の言いなりになっている媚中派の政治家、官僚の実態を再三にわたって、明らかにしてきた。シベリア史料館の兵器引継書は、化学弾とみられるものを含むすべての武器・弾薬を、中国側に整然と引き渡していた事実を証明する貴重な資料である。
 安倍晋三官房長官は国会で、「政府としてしっかり調査をしたい」と答弁し、内閣府や法務省の担当者が、作業を進めている、と伝えられているが、今回、明らかになった防衛研究所の資料についても、改めて精査することが必要だ。
 関係者によると、一部の政府関係者は、シベリア史料館の引継書についても、存在自体は知っていた、という。それなのに調べることさえしなかったのである。
 こうした兵器引継書が存在するのはシベリア史料館だけではない。復員時に、それこそ命がけで日本へ持ち帰った人たちは多数、いるのだ。実際、当編集部には、6月号以降、そうした人たちからのお便りがたくさん届いている。
 千葉県芝山町の伊藤正夫さん(54)からは、中国・青島の独立歩兵第18大隊の副官だった父・高夫さん(故人)が保管していた引継明細書が寄せられた。大隊長だった柏崎與三二氏(同)から託されたものだという。
 その引継書には、武器・兵器のほか、生活用品、食料、医薬品、軍馬、軍刀の由来に至るまで、39ページにわたり、事細かに書かれている。伊藤さんは、「まさに歯ブラシ1本、包帯1本まで細かくチェックして書いてある。日本軍は本当に生まじめだった。これを見れば、極めて整然と中国側にすべての兵器・物品を引き渡していたことがよく分かります」と話している。
 国民は中国の言い分しか聞こうとしない一部の政治家・官僚に怒り心頭なのだ。続々と編集部に届く、お便りがそれを示している。これだけの「証拠」が出てきたいま、もはや言い逃れはできないはずだ。一刻も早く、支援事業の見直しを行うべきである。

【正論9月号】

Web「正論」|Seiron
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0608/ronbun1-1.html



中国遺棄化学兵器問題 新資料発見か、政府が調査

≪結果次第では事業見直しも≫
 中国遺棄化学兵器問題で、「日本軍が中国に化学兵器を遺棄した」という中国側の主張を覆す可能性のある資料が見つかっています。この問題では、廃棄処理のために政府が負担する費用が数千億円規模に膨らみかねないことや、“遺棄兵器”の実態が不透明という指摘も出ています。政府首脳は詳しく調査、分析するとしています。(『正論』編集部 喜多由浩)

 この問題は、先の大戦で「旧日本軍が中国各地に化学兵器を遺棄した」として、平成2年に中国政府が日本政府に解決を要請してきたことが発端です。9年には、遺棄化学兵器の廃棄義務をうたった化学兵器禁止条約が発効し、日中両国が批准。11年には、日本側が廃棄処理費用を全額負担することなどを盛りこんだ覚書を交わしました。

 これに伴い日本政府が負担する総事業費は今後どれだけ膨らむか、見通しすら明確ではありません。

 中国側は、旧日本軍が遺棄した化学兵器が、吉林省のハルバ嶺などに約200万発残っている、と主張しています。しかし、その主張に疑問を持つ意見は当初から少なくありませんでした。終戦後、日本軍は旧満州(現・中国東北部)ではソ連軍(当時)によって、中国大陸部では主に中国国民党軍によって武装解除され、所持していた武器・弾薬は化学兵器も含めてソ連・中国軍に引き渡していた(遺棄したのではない)とされていたからです。

 しかし、日本政府は「中国、ソ連の同意の下に引き渡されたことを確実に裏付ける証拠、資料があるとは承知していない」などという消極的な理由で、中国側の主張をいわば“丸飲み”してきたのです。

 ところが最近になって中国側の主張を覆す可能性があるさまざまな資料が見つかりました。山形県のシベリア史料館には、中国で日本軍が武装解除の際に引き渡した武器・弾薬を詳細に記した「兵器引継書」が約600冊も残っていました。受け取った中国軍の責任者の署名・捺印(なついん)があり、化学兵器だけを除外した形跡も見られません。

 また、防衛庁の防衛研究所には、日中両政府が「遺棄化学兵器」として廃棄処理対象にしている『あか筒』『みどり筒』を台湾で中国軍に引き渡していたことを記した「引渡兵器目録」がありました。さらには、中国側が遺棄化学兵器が大量に残っていたと主張しているハルバ嶺近くの敦化で、化学兵器(毒ガス兵器)をソ連軍に引き渡したという元日本軍兵士の証言まで出てきたのです。

 安倍晋三官房長官は5月、衆院内閣委員会での答弁で「(シベリア史料館で見つかった資料などについて)政府としてしっかり調査したい」と述べました。政府は、新しい事実を示す資料などが見つかった場合、事業の「基本的な枠組みが変わってくる」としており、対応が注目されます。
(09/03 12:15)
Sankei Web 社会 中国遺棄化学兵器問題 新資料発見か、政府が調査(09/03 12:15)
http://www.sankei.co.jp/news/060903/sha043.htm


問題スクープ第5弾【中国“遺棄化学兵器”問題】
  <私は化学兵器を確かに引き渡した
   ――旧日本軍兵士の証言(聞き手/本誌 喜多由浩)>

 重要と思われる箇所を抜粋、要約してご紹介します。
 (太字は引用者によるものでなく、誌上でもともと強調されている箇所)

 内容紹介ここから_________________________________


【石頭の元予備仕官学校生(軍曹)、二本柳茂さん(81)=新潟市=の証言】

※二本柳さんは昭和19年9月に召集され、北海道・旭川の歩兵第26連隊に入隊(二等兵)。10月、満州へ渡り、佳木斯(チヤムス)の独立歩兵第266大隊へ。20年5月、甲種幹部候補生となり、牡丹江省石頭にあった予備仕官学校で訓練の日々を送っていた。そこは中国全土から最後の幹部候補生をかき集めた事実上の部隊で、3600人の6個中隊で編成されていた。

●終戦前には、満州の石頭にあった予備士官学校にいた。当時すでに、敗色が濃かった南方戦線などでの実戦部隊を作るために、中国全土から3600人がかき集められた。昼は、対ソ戦に備えて戦車攻撃の訓練、夜はジャングルの中での忍者戦術と自爆の訓練を毎日、繰り返していた。訓練を終えると、少尉に昇進して、南方へ行くという話だった。

●昭和20年8月9日のソ連軍の満州侵攻、その日の朝、中隊長からそのことを聞き、ハチの巣をつついたような騒ぎになり、出動準備に追われた。3600人の6個中隊は2つに分けられ、半分は牡丹江へ、我々は東京城へ徒歩で向かうことになった。後に、牡丹江へ行った1800人はソ連との戦闘で、ほぼ全滅したと聞いた。

●我々の行き先は吉林省の敦化だ、と聞かされていた。8月18日ごろ、山中で突然、ソ連軍のトラックに囲まれた。数日前に日本が負けたらしいことを聞き、敦化で武装解除になるということだった。そのころになると、他の部隊と合流して、1万人ぐらいになっていた。

●武装解除はその18日か19日に行われた。場所は敦化の近くだった。上官から全ての鉄砲、弾薬を集めておくようにという指示を受けた。夜通しの行軍で疲れ切っており、兵隊はみんな、武器を差し出して身軽になったことを喜んでいた。みるみるうちに武器は山のように積み上げられて、高さ2〜3メートルぐらいになった。

●その時、持っていた毒ガス兵器も含め全ての兵器をソ連軍に引き渡したのは間違いない。上官から、「毒ガス兵器(化学兵器)だけを隠せ」とか「捨てろ」というような指示が出たこともない。そんな暇も余裕もなかった。引き渡した毒ガス兵器だけで、数千発はあったと思う。

●その毒ガス兵器とは、対戦車用、対塹壕攻撃用の通称「ちび」という兵器。液体青酸を野球ボールぐらいの丸い容器に充填したもので、兵隊一人ひとりが袋に入れて、腰にぶら下げていた。小型の対戦車爆雷である「アンパン」(通称)というものも持っていた。

※「ちび」は、致死性の高い「ちゃ(剤)1号」(液体青酸=毒性は血液中毒性ガス)を丸いガラスに詰め込んだ「ちゃ瓶」のこと。致死性が低い「あか剤」(くしゃみ性・嘔吐性ガス)や「みどり剤」(催涙性ガス)とは違って、化学兵器禁止条約の対象となっている、紛れもない毒ガス兵器。

●「ちび」を使用したことは一度もない。犬を使って実験をした。かわいそうなことをした。

●上官から使用についての注意を受けたことは特にないし、武装解除の時も、通常兵器と区別なんてしない。「全ての武器・弾薬を出せ」といわれて、全部を差し出した。

●ソ連軍に引き渡したそれら化学兵器を含む武器・弾薬が、その後どうなったのかは分からない。中国側は、「旧日本軍が化学兵器を遺棄した」と主張しているが、それも私にはよく分からない。少なくとも、私たちは「(化学兵器を)隠せ」とか「捨てろ」という指示は受けなかった。

※ちなみに敦化は、中国側が大量の化学兵器が「遺棄されていた」と主張している場所である。

※二本柳さんは数年前、今回と同じ内容の証言を、政府側の電話による聞き取り調査に対して行っている。その内容は政府の担当部局にも伝えられているとみられるが、その後、二本柳さんに詳しい話を聞きにきた政府の担当者は皆無だという。旧日本軍による化学兵器の引き渡しについて、政府側はこれまで国会答弁などで、「中国やソ連が同意していたことを示す確実な証拠は見つかっていない」という趣旨の主張を繰り返してきた。だが、それをくつがえす証言や資料の存在を尻ながら、ある意図を持ってわざと無視を決め込んでいたとすれば、その責任は極めて重い。

※二本柳さんはその後、シベリアに抑留された。復員は昭和23年5月。


【元機動第1連隊中隊長(少尉)、米田誠次郎さん(83)=大阪府堺市=の証言】

※米田さんは、陸士56期。昭和18年5月、少尉に任官し、19年8月、関東軍の機動第1連隊中隊長に。20年6月、旧満州吉林省・杜荒(孔)子付近において、ソ連軍の攻撃に備えて戦闘準備を進めていたが、8月9日の突然の侵攻で、ゲリラ戦を行うために、中隊の約130人を率いて山中へ。しかし、28日ごろ、連隊命令として、停戦の指示を受けた。9月2日、杜荒(孔)子で武装解除に応じ、全ての武器・弾薬をソ連軍に引き渡した。

●8日28日ごろ、戦争が終わったことを知り、武装解除を行うために、ソ連軍が駐屯していた杜荒(孔)子でへ向かった。9月2日に着いたときは、すでに他の中隊は到着しており、我々が最後だった。他の中隊は武装解除され、倉庫に収容されていた。私の中隊の中には、「出ていかない」という人もいたが、満州の気候はとても厳しく、とても山中に冬は越せない。そういって説得し、中隊全員で武装解除に応じた。

●武装解除は極めて整然と行われた。到着後、真っ先に大隊長へ報告。最後の捧げ銃の敬礼を行い、部隊を解散した。そして、各兵隊が携帯していた三八式小銃を、ソ連兵の監視する前に並べて置いた。私は持っていた軍刀(備前長船の銘刀。現在の貨幣価値なら1000万円ぐらいになるかもしれない)やドイツ製の双眼鏡(8倍)まで、一緒に手渡した。武器解除に抵抗する者は、ひとりもいなかった。

●ソ連軍との間で、引継書のような書類は一切取り交わさなかった。ソ連軍から、領収書を受け取ることもなく、我々としても、そういったものを受け取る意思も、必要も認めなかった。満州における武装解除の状況は、おおむねこうしたものだったと思う。

●我々は機動連隊であり、装備は一般の歩兵連隊とほぼ同じだから、いわゆる化学兵器は持っていなかった。ほかの多くの部隊がそうだったと思う。いわゆる化学弾を所持していたのは、我が国では野砲兵連隊、山砲兵連隊、野戦重砲兵連隊など。しかも一会戦分の一個師団の弾薬数は400〜500発。もし、中国がいうように、本当に関東軍が200万発も化学兵器を持っていたのなら、降伏はしなかっただろう。

●“遺棄化学兵器”の問題では、発煙筒の一部まで、「化学兵器」とされているが、一般的に発煙筒とは、直径約5センチ、高さ約20センチ程度のもので、殺虫剤のようなものを想像すればいいと思う。戦時には、味方の行動を秘匿するために、煙幕として使用したもの。毒性もなく、これを化学弾と呼ぶのは誤り。

●仮に化学弾であったとしても、武装解除でソ連軍に引き渡している。全ての武器・弾薬を整然と引き渡している。だから所有権は日本にない。武器・弾薬は、ソ連軍の所有になり、その後の国共内戦などで兵器を必要とした毛沢東の共産軍に譲り渡したかもしれない。それは私には分からないが、いずれにしても武器・弾薬の所有権はソ連か中共のいずれかにあるはず。日本ではない。

●中国側の主張は、おかしい。引き渡したはずの武器・弾薬の所有権が日本にあるというのなら、私の備前長船の銘刀はどうなるのか。裁判でも起こしたら、返してもらえるんでしょうかね。現在、外務省がどれほど“売国奴的外交”をやっているか。数え上げれば、キリがない。

※米田さんは、武装解除後、シベリアに抑留された。昭和23年12月に復員。

ぼやきくっくり | “遺棄化学兵器”問題で旧日本軍兵士の証言
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid140.html#sequel

by thinkpod | 2006-08-31 01:44 | 政治経済


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