人気ブログランキング | 話題のタグを見る

reference archives

hogetest.exblog.jp
ブログトップ
2006年 07月 29日

シェル石油について

■■第4章:イギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルの成功物語

●イギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていた、ユダヤ人の一家があった。この一家は、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。両親は、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立てていた。
子どもが11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。といって、彼は頭が悪いというわけではなく、学校の授業システムにうまく合わなかったからである。
 

 
●この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。
そのとき父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは、金曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。というのは、母親を安心させるためである。2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また10人の兄弟姉妹がいるのだから、一家のビジネスに役立つことを、旅行中に考えてほしいということだった。

●この息子は、1871年、18歳でロンドンからひとり船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、どこにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた。
彼は、懐(ふところ)に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円かそこらのカネである。日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。また、この時代には、日本にいる外国人といっても、おそらく横浜、東京あたりで数百人にすぎなかった。
 

 
●彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。
彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。
そこで彼は、自分でもせっせと貝を拾い始めた。その貝を加工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。
当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。
 

貝がらの作品

ロンドンでは、これは大変
珍しがられ、飛ぶように売れた
 
●やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。この商店が2階建てになり、次には3階建てになり、そして最初はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、どんどん発展していった。
そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネをためることができた。
この青年の名前はマーカス・サミュエル、ヘブライ語の名前がモルデカイであった。
 

マーカス・サミュエル
(1853〜1927年)

日本の海岸で拾った貝がらの
商売で大成功をおさめた
 
●サミュエルは1886年(33歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。
輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。



●ところで、この時代、世界中のビジネスマンのあいだで一番話題になっていたのが、石油だった。ちょうど内燃機関が登場し、石油の需要が急増しつつあった。ロックフェラーが石油王となったきっかけも、この時代だったし、ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。
貝がらの商売で大成功をおさめたサミュエルも、この石油の採掘に目をつけ、1万ポンドを充てる計画を立てた。彼自身、石油についての知識は何もなかったが、人にいろいろ相談したりして、インドネシアあたりだったら石油が出るのではないかと考え、インドネシアで石油を探させた。
これが、勘がよかったのか、幸運であったのか、とにかくうまく石油を掘り当てることができた。

●当時のインドネシアは、石油を暖房のために使う必要もないし、また暗くなってからも活動するといった生活を送っていたわけではなかったので、石油の売り先はどこか他に求めなければならなかった。
そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。このころ日本において、ケロシン油で暖房したり、あるいは照明したりすることは革命的なことだった。
この商売もまた非常に成功した。



●石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは、頭の痛い問題だった。初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいやがったし、運賃がべらぼうに高かった。
そこでサミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインした。
そして彼は、世界初の「タンカー王」となった。
※ サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった。(「ミュレックス」は「アッキ貝」である)。

●彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけた。
彼自身、このことについては、次のように書き残している。
「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」
 

マーカス・サミュエル

1892年に石油業界に参入した彼は、
世界で初めてのタンカー船を生み出した。
当時の世界で最大のタンカー船隊の持ち主
となり、世界初の「タンカー王」になった。
 
●1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。
そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。
日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。
サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。
 

勲一等旭日大綬章

1894年に「日清戦争」が勃発すると、
サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、
兵器や、軍需物質を供給して助けた
 
●ところで、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、ついにこの会社を売らなければならなくなった。というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエルが石油を供給していたからだ。
サミュエルは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。さらに、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。
というのも、彼は常に自分の過去を記念したかったからである。この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られる「シェル石油」である。
 


1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、
本社を横浜の元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」
を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したのだった。
こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。

1907年、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」と
イギリス資本の「シェル石油会社」が合併して、
「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。

(※ このイギリス・オランダの2社の
合併を推進したのはイギリスの
ロスチャイルド財閥だった)

ちなみに、このイギリス=オランダ連合の
「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が、
イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」
(英国石油:略称BP)である。



現在、シェルグループの
企業は145の国に広がり、全体で
12万人以上の従業員がいる
 
●サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。
彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。
この年1月に「日英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。
(ちなみに、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)。
 

明治期の外交官、政治家
林董(はやし ただす)

駐英公使としてロンドンで「日英同盟」に調印した。


※ 「日英同盟」は、1902年1月30日に結ばれた日本とイギリス
との間の軍事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使と
イギリスのアーサー・ラウズダウン外相により調印された。

「日英同盟」は、戦前日本にとって最高の同盟関係
だったといえる。この同盟関係を守りきれなかった
ことが戦前日本の犯した最大の失敗だろう。

 
 
●サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。
サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。
「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない。」

●その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。

※ 現在、「ロイヤル・ダッチ・シェル」はロスチャイルド系列企業群の中心になっている。

イギリスのユダヤ人
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe200.html#04




シェルについて
シェルの歴史

1. シェルの歴史
2. 在日シェル年表

1) シェルの歴史
 シェルの起源は、1833年にマーカス・サミュエルがロンドンに開いた小さな店にはじまります。この店で東洋から輸入した貝殻を販売したところ、きらびやかな装飾品を好むビクトリア朝の博物学者たちの人気を集め、サミュエルの事業はたちまち貿易業として栄えました。
 父親から貿易業を引き継いだサミュエルの息子は、仕事でカスピ海岸を訪れた際に、極東へのランプなどの家庭用オイルの輸出に着目しました。1892年、初めてタンカーを手配し、ロシアから 4千トンの灯油をシンガポールとバンコクへ輸出しました。
 一方、オランダではアジアにおける石油開発のため、ロイヤル・ダッチ社が設立されました。同社は、1896年には自社タンカーを持ち、石油業界においてサミュエルのシェル・トランスポート・アンド・トレーディング社と競合関係にありました。
 しかし、業務提携を行うことを有利と考えた双方の歩み寄りの結果、1907年、ロイヤル・ダッチ/シェルグループは誕生しました。
 自動車の大量生産が始まり、新規マーケットが誕生した 20世紀前半は、石油業界にとって激動の時代でした。第一次世界大戦中、多くの操業施設を押収され、閉鎖を余儀なくされながらも、シェルグループはヨーロッパ、アフリカと南北アメリカ、特に北アメリカにおいて石油の利権を確保し、事業を拡張しました。
 1919年には、世界初の無着陸大西洋横断を成功させたアルコックとブラウンの飛行機に燃料を供給し、シェル・アビエーション・サービスを設立しました。1920年代、30年代はシェルにとって更なる拡張の時代であり、1929年の石油化学製品分野参入など、積極的に新規ビジネスを展開しました。
 第二次世界大戦に突入すると、シェルは再びタンカーや利権を失いましたが、燃料や石化製品の供給を続け、連合国政府を支援しました。

 戦後急増した需要に応えるべく、シェルは失った生産・輸送・精製設備を取り戻し、拡充していきました。
 1950年代・60年代には、石油の生産量および販売量を増やし、世界の石油製品の7割を占めるまでになりました。この頃から、石油業界では代替エネルギーとしての天然ガスの開発が始まりました。
 70年代、世界的不況と原油価格高騰が重なり、人々の目は天然ガスに向けられるようになりました。石油業界が大きな打撃を受けている一方で、シェルは北海のスコットランド沿岸において石油・天然ガス田を発見し、ヨーロッパで使用されていた天然ガスの約半分を供給しました。当時、ヨーロッパの消費エネルギーの15%が天然ガスで賄われていました。その中で、シェルは長期的展望から、石炭と鉱物の研究開発を行っていました。
 1980年代、環境問題への取組みとして、最新テクノロジーを導入し、新製品や新サービスを次々と発案し、中でも、無鉛ガソリンの先駆者としての地位を獲得しました。
 1990年代に入り原油価格が下がると、シェルはコアビジネスである石油、天然ガスと石油化学製品分野に重点を置きました。90年代半ばには、21世紀におけるエネルギー会社の果たすべき役割を考え、持続可能な発展のためにシェルの事業を通じて貢献することを確約しました。

 シェルグループは、常に競争において優位であるために、変化を続けてきました。それは時には根底からの変革であり、2005年7月、2つの親会社ロイヤル・ダッチ社とシェル・トランスポート社の、ロイヤル・ダッチ・シェル ピーエルシーへの統合もその一つです。創業より 100年以上にわたりエネルギー会社として成功を収めましたが、これらの変革により、今後も将来にわたりエネルギー会社として成功し続ける事ができるものと確信しています。


2) 在日シェル年表

 年           トピックス
1833天宝 4年 マーカス・サミュエルがロンドンに東洋の貝殻を用いた骨董・装飾品店を開店
1876明治 9年横浜にサミュエル商会を設立し、貿易業を開始
1897明治 30年 シェル・トランスポート&トレーディング社設立
1900明治 33年サミュエル商会の石油部門が独立、ライジングサン石油株式会社の誕生
1907明治 40年 ロイヤル・ダッチとシェル・トランスポートが合併し、ロイヤル・ダッチ/シェルグループが誕生
1912明治 45年-大正元年現昭和シェル船舶、帝国船舶株式会社設立
1914大正 3年ライジングサン石油、日本軍への最大の重油提供者となる
1923大正 12年関東大震災によりライジングサン石油の社屋が倒壊し、本社を一時横浜から神戸に移転
1941昭和 16年ライジングサン石油、敵産管理下に置かれる
1942昭和 17年早山石油株式会社、旭石油株式会社、新津石油株式会社 3社の合併により、昭和石油株式会社が誕生
1948昭和 23年ライジングサン石油、会社機能が回復しシェル石油に改称
1951昭和 26年シェルグループと昭和石油の間で資本提携が調印される
1955昭和 30年シェル石油本社を東京丸の内に移転
1958昭和 33年昭和四日市石油株式会社の四日市製油所が完成
1963昭和 38年後のシェル興産、シェル化学製品販売株式会社設立
1964昭和 39年新潟大地震により昭和石油新潟製油所のタンク火災
1967昭和 42年シェル化学株式会社設立、シェル石油中央研究所開所
1968昭和 43年シェル石油本社、霞ヶ関に移転
1971昭和 46年原油タンカー「ユリアナ号」が新潟港外で座礁
1981昭和 56年昭和石油、ソーラービジネスに進出
1985昭和 60年シェル石油と昭和石油が合併し、昭和シェル石油株式会社として発足
1988昭和 63年情報サービスシステム会社、株式会社ソーティスを設立
1992平成 4年シェル興産、シェル化学などを統合し、シェルジャパン株式会社として発足
1996平成 8年昭和シェル石油本社を臨海副都心のお台場に移転
1999平成 11年ソーティスをシェル・サービス・インターナショナルに譲渡し、シェル・サービス・インターナショナルジャパン株式会社として発足
2000平成 12年シェルガス&パワージャバン株式会社設立
2001平成 13年シェルジャパン、シェル ケミカルズ ジャパン株式会社に改称



シェル石油は日本の横浜が創業地である。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/db29e2571db1f42830a561fafd7884d8

by thinkpod | 2006-07-29 19:43 | 国際


<< 情報鎖国・日本—新聞の犯罪      戦争とマスコミ >>