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2007年 12月 05日

慰安婦決議、カナダやオランダも 〜 やまない日本糾弾

国際問題評論家 古森 義久氏
2007年12月4日

 日本にとって屈辱的な慰安婦決議案がまた外国の議会で採択された。今度はカナダの連邦議会の下院である。11月28日のことだった。米国と同様、カナダは第二次大戦中、日本軍の慰安婦の慣行に直接、なんのかかわりもなかった。であるのに、戦争が終わって60年以上が過ぎた今、そのカナダで、なぜ慰安婦に関しての日本糾弾の動きが唐突な形で起きてくるのか。

 その背後には米国での慰安婦決議の推進の影の主役だった中国系組織の、カナダにおける執拗で精力的な動きが存在する。日本を終始、標的にしてグローバルな活動を恒常的に続けるこの中国系組織の活動に光を当てると、いわゆる慰安婦問題の真の構造が浮かび上がってくる。

 米国議会の下院が同種の決議案を採択したのは今年7月末だった(本コラム第55回:「慰安婦決議の推進役がねらう次の対日攻撃」参照)。当時の日本の首相は安倍晋三氏である。

 安倍氏は従来、慰安婦問題に対してはわりに強い姿勢をとっていた。日本の非を事実調査の徹底を待たずにあっさりと認めて謝ってしまった「河野談話」には批判的だった。米国議会で慰安婦に関連して日本に謝罪を求める決議案が出されてすぐの今年春、当時の安倍首相は、いわゆる「狭義の強制性」を否定した。その否定が「日本軍の関与までを否定した」という米国大手紙などの虚報となって米側に伝わり、議会などでの反発を強めた。

 その「安倍発言報道」が決議案の可決を実際に推進してしまったのかどうか。この点の議論はひとまずおいても、慰安婦問題で日本を非難する側にとって、安倍氏の態度は攻めねばならない標的だったとはいえよう。

 しかし、その安倍晋三氏はもう日本の首相の座から去ったのである。いまの首相は周知のように、慰安婦問題など歴史案件に対しては中国や韓国からの非難に反発することもないソフトな福田康夫氏なのだ。「河野談話」の継承や保持にはむしろ積極的な日本の政治家だといえよう。外国の慰安婦問題糾弾勢力からみれば、日本の歴代首相のうちでも、理解のある、謝罪派の首相だともいえる。

 だがそんな福田政権に対しても、カナダ議会は容赦なく非難の決議を可決してしまった。

ソフト福田政権でも続く日本糾弾の実態

福田政権登場後の同種の動きとしては、つい最近の11月20日に、オランダ議会の下院が同様の慰安婦問題での日本非難決議を採択していた。この間、福田首相は慰安婦問題、あるいは他の戦争や歴史にかかわる案件について、外国の日本非難勢力を反発させるような言動は一切、とっていない。むしろ戦争や歴史については福田氏は対外的に融和と呼べる態度で知られる政治家なのだ。

 しかしそんなことは一切、構いなく、オランダでもカナダでも日本糾弾決議が採択されたのである。この点は、日本国内の一部にもある「慰安婦など歴史問題は日本側が見解を改めるような強硬な態度をとるからこそ、外国が非難してくるのだ」という主張が虚構であることを証明してしまった。

 ではカナダでの実態をみよう。

 連邦議会の下院本会議が発声投票で反対表明なしに採択した慰安婦決議は、カナダ政府が日本政府に対し次のよう措置をとることを奨励すべきだ、と宣言していた。

 「日本政府は日本軍の強制売春システムへの関与に対して、犠牲者すべてへの国会での公式かつ誠意ある謝罪の表明を含む全面的な責任をとること、そして影響を受けた関係者への対応を和解の精神に基づいて継続すること」
 「日本政府は日本軍のための『慰安婦』の性的な奴隷化や人身売買は実在しなかったとするような主張は明確かつ公的に否定していくこと」

 こうした日本への命令のような要求の背景説明として同決議は次のようにも述べていた。

 「日本軍は1930年代から第二次世界大戦全体を通じて、アジア各地や太平洋諸島で若い女性を性的奉仕の目的のみに獲得することを公式に命じた」
 「日本の一部の当局者は1993年当時の河野洋平官房長官が謝罪や悔悟を表明した声明を薄める、あるいは撤回することへの期待の意向を最近、述べた」

 以上のような決議案を提出したのは野党の新民主党所属の中国系女性議員、オリビア・チョウ(中国名・鄒至蕙)女史だった。提案理由を説明する議場での発言でチョウ議員は次のように述べていた。

 「第二次世界大戦中、多数の15歳の少女たちが日本軍の数知れない男たちによる拷問と強姦に何週間も、何カ月間も、何年間も、課せられた。20万人以上もの女性がその種の拷問の苦痛を味わわされた。こうした性的奴隷の生存者のうち4人が本日、この議会にきて、わたしたちが日本に公式の誠意ある謝罪を表明することを要求するよう求めている。さあ、カナダは慰安婦の味方をするのか」

 この発言はカナダ政府への質問の形でなされた。それに答えたのは政府の多文化主義・カナディアン・アイデンティティ担当閣外相のジェイソン・ケニー議員だった。チョウ議員の発言に謝意と同意を述べていた。

推進役は抗日連合会カナダ支部

 さてこうした経緯で採択されたカナダ下院の慰安婦決議をみれば、米国議会のそれと同様の内容であり、枠組であることが明白となる。つまり以下の趣旨だということである。

 「日本の軍や政府が政策として組織的に20人以上の若い女性を強制徴用し、性的奴隷として、日本軍将兵のレイプの被害者とし、しかも戦後の日本はその行為に謝罪をしていない――」

 こんな断定が事実に反することは、これまた明白である。しかし日本政府は、今年7月に米国議会からそんな断定を突きつけられても、反論も抗議もしなかった。米国議会でそう断じる糾弾の決議を採択されても、当時の安倍政権は謝罪こそしなかったが、「残念だ」という簡単なコメントを出しただけだった。否定も抗議もしなかった。だから日本を非難する側にとっては、好ましい状態だったはずだ。

 ところが、そうした日本の従順な態度は高く評価されて、もう同じ糾弾はしないようになると思ったら、とんでもない。現実は正反対なのだ。日本が黙っているのを見透かしたように、同種の非難の矢がさらに激しく、さらに多方面から飛んでくるのである。このへんにも、いわゆる慰安婦問題の真実が存在するといえよう。

 カナダで慰安婦決議案を最も活発に推進した最大組織は「カナダALPHA」(「第二次世界大戦アジア史保存カナダ連合」)だった。この組織は米国カリフォルニア州クパナティノに本部をおく「世界抗日戦争史実維護連合会」(以下、抗日連合会と略)のカナダ支部である。「抗日連合会」世界本部は米国議会での慰安婦決議案提案者のマイク・ホンダ下院議員の選挙区内にある。

 同連合会は在北米中国人を中心に結成され、中国の政府や共産党との連携も密接である。日本の戦争に関する行動を一貫して糾弾し、戦後の対日講和条約での日本の賠償も謝罪も認めないとする点では「反日」と特徴づけても自然だといえる。

ものすごい議会工作

 カナダではその抗日連合会の支部組織「カナダALPHA」が、米国とは異なり正面に出て、議会への工作などを展開してきた。米国では抗日連合会は主役ながら、舞台裏に留まることが多かったのだ。

 カナダの同組織は、チョウ議員のような、香港を含む中国に生まれ育ってカナダに移住してきた中国系カナダ人が主体である。その代表格のチョウ議員が連邦議会に提出した慰安婦決議案はまず今年3月、下院外交委員会の国際人権小委員会で審議され、27日には可決された。賛成4票、反対3票の僅差だった。内容は日本政府による元慰安婦たちへの謝罪表明と賠償支払いを求めていた。

 国際人権小委員会で可決された決議案は、次には下院外交委員会で5月10日に審議され、同小委員会に差し戻された。外交委員会では与党のカナダ保守党の議員らから「日本への内政干渉となる」とか「日本の首相は既に元慰安婦たちに謝罪している」という反対意見が出た。その結果、小委員会に戻して、「さらなる調査を求める」という措置がとられたのだった。

 その後、「カナダALPHA」による議会工作がものすごかった。国際人権小委員会での「さらなる調査」のために、この中国系組織は下院外交委員会のメンバー議員たちを主目標に活発きわまるロビー活動を展開したのである。カナダ各地の中国系住民を動員し、「トロントALPHA」「ブリティッシュコロンビアALPHA」というふうに地方別の小組織を編成し、連邦議会の、特に与党議員あてにアピールを繰り返した。国際小委員会のメンバーで閣外大臣をも務めるケニー議員などは、とくに積極果敢な訴えの集中的な対象となった。

 そしてその結果、最初は決議案の推進には乗り気ではなかった与党議員連までが賛成に回っていったのである。中国系組織の「カナダALPHA」は巧みに韓国系や日系までも巻き込んで、アジア系カナダ人全体の声のように、慰安婦決議賛成の動きを拡大していった。その間、各地で「慰安婦問題の研究」と題するようなセミナーや討論会を頻繁に開き、日本糾弾に基づく「慰安婦問題への理解」を広げていったのだった。カナダ議会の慰安婦決議採択の関連記録には、「カナダALPHA」とその連携組織から多数の議員や政府にあてた日本非難の種々の書簡が山のように保存されている。

日本糾弾の“世界的戦略会議”

 カナダの実例をこうしてたどってくると、抗日連合会というグローバルな中国系組織が、いわゆる慰安婦問題を通しての日本糾弾を世界規模で画策しているという構図がいやでも鮮明になってくる。その重要な戦略会議が、今年10月にロスアンジェルスで開かれた慰安婦問題で日本を糾弾する「国際会議」だったといえる。

 10月4日から6日まで開かれたこの会議の主催者側の中核はホンダ議員が指導を受けてきた抗日連合会だった。同会議は、主催者側から「慰安婦問題での初のグローバル規模の歴史的な世界会議」と評された。参加は米国、カナダをはじめ、欧州、オーストラリアなどからの中国系活動家たちが大部分だった。

 ちなみに会議開催の前日、現地の日本総領事館前に抗日連合会の代表ら約50人が押しかけ、日本が慰安婦問題その他、戦争中の残虐行為に対し謝罪もせず、賠償もしていないのはけしからんと主張して、気勢を上げた。この抗議デモの様子はロスアンジェルス・タイムズ10月4日付の記事で報道された。

 その記事の主要部分は以下のようだった。

 「日本軍による女性や少女の性的奴隷化についてのロスアンジェルスでの歴史的な世界会議に備えて、世界各地からの元性的奴隷を含む人権活動家たちは、日本が戦時中の日本の残虐行為の犠牲者たちに公式な謝罪を表明し、賠償を提供することを4日、要求した」

「あくまで日本政府を非難し続ける」

 さてこの会議での注目すべき出来事は、カナダ代表の発言だった。同国際会議で基調講演者の一人となった米国下院のエニ・ファレオマバエンガ議員が質疑応答で言明した。

 「今後は、わたしたちは女性の弾圧や人権の抑圧に関して、日本の慰安婦問題から次元を高めて、国際的な条約や協定の違反行為へと監視の視線を向けていくべきだ。もう日本ばかりを糾弾しても意味がない。日本にいまさら慰安婦問題などで賠償を払わせることはできない」

 ファレオマバエンガ議員は米国下院外交委員会の東アジア太平洋小委員長として、慰安婦決議案に賛成し、その採決のために活発に動いた民主党リベラル派である。その議員が下院で慰安婦決議を採択した以上、もう日本だけを非難するのをやめて、もっと幅広い対象を監視しようと提言したのだ。

 ところがこの言明に「カナダALPHA」の議長セルカ・リット女史が反対したのである。

 「いや、あくまで日本国民の意識を高めるために、日本政府を非難し続けることが必要だ」

 そう、何はともあれ、日本を非難し続けねばならない、と言うのである。いわゆる慰安婦問題の真実も、その全体の構図も、この単純な言葉に端的に明示されているといえよう。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/63/

【やばいぞ日本】序章 没落が始まった



慰安婦決議 欧州での連鎖反応が心配だ

(12月15日付・読売社説)

 日本の信用を貶(おとし)めるような決議がこれ以上広がらないよう、政府は各国政府に強く働きかけるべきである。

 いわゆる従軍慰安婦問題をめぐる対日批判決議が、欧州議会で採択された。旧日本軍が、アジアの女性たちを強制的に「性的奴隷」にしたとして、日本政府に謝罪を求めている。

 今年7月の米下院の慰安婦決議が、ヨーロッパに“飛び火”した形だ。既に同様の決議が、オランダやカナダの議会でも採択されている。

 慰安婦問題への関心が、ヨーロッパで特段に高まっているわけではない。欧州議会の決議は、少数会派の緑の党が推進し、採決の際に出席した議員は全体の1割にも満たなかった。

 しかし、国際人権擁護団体の「アムネスティ・インターナショナル」が、各地でオランダ人などの元慰安婦の証言を聞く公聴会を開催し、慰安婦決議の採択を各国の議会に働きかけている。中国・韓国系の反日団体も背後で動いている。

 第2次大戦中、日本がオランダ軍を追い払い軍政を敷いたインドネシアでは、収監されていたオランダ人女性が、日本軍兵士によって連行され、強制的に「慰安婦」にされた事件もおきている。

 事態を知ったジャカルタの軍司令部は問題の慰安所を直ちに閉鎖し、女性たちを解放した。

 遺憾な事件であったが、軍が組織的に慰安婦を強制連行したのではないことを示す「反証」でもある。

 事件に関与した将校らは、戦後、オランダの軍事法廷で「BC級戦犯」として裁かれている。

 ヨーロッパでは、ほとんど問題とされていないが、第2次大戦中、ドイツ軍も東ヨーロッパなどの占領地に、500か所以上の“慰安所”を持っていた。

 「ナチスがユダヤ人の女性を兵士用の売春婦として連行した」とローマ法王に報告したカトリック関係者の文書をはじめ、いくつもの文書が残されている。

 慰安婦をめぐる対日批判決議を推進した欧州議会の緑の党には、ドイツ選出の議員も多い。自らの国の問題には口をつぐむつもりなのだろうか。

 日本が繰り返し批判される背景には、1993年の河野官房長官談話がある。日本の官憲が組織的、強制的に女性を慰安婦にしたかのような記述があった。

 そうした事実を裏づける資料はなく、「強制連行」を認めるよう迫る韓国側の圧力をかわすためだったことを、石原信雄元官房副長官らが証言している。

 国際社会の誤解の根元である河野談話を見直していくことも必要だろう。

(2007年12月15日1時47分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20071214ig91.htm

朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表




シーファー米大使を手玉にとった“従軍慰安婦3人”の前歴

由々しき事態だ。米下院に提出された慰安婦問題での対日謝罪要求決議案を巡って公聴会が開かれ、3人の元従軍慰安婦が出席。これを駐日米大使が“尊重”する旨の発言をした。が、大使を信じ込ませた彼女らは、過去、証言が何度も変わり、その信憑性に疑いの目が向けられているのである。

<私は、彼女たちが売春を強制されたのだと思います。つまりその時、旧日本軍により、 強姦されたということです>
ニューヨーク・タイムズ紙(3月17日電子版)に載ったシーファー米駐日大使のコメントが本当ならば、まさに“手玉にとられた”と言うしかあるまい。何しろ2月15日、米下院の公聴会に出席した元従軍慰安婦3人の中には、これまで猫の目のごとく言うことが変転してきた、いわくつきの女性がいるのだから。

まずは、韓国人の季容洙(イ・ヨンス)。「彼女が初めて元慰安婦として公の場に出たのは92年。当時は、慰安婦にされた経緯を“満16歳の秋、国民服に戦闘帽姿の日本人男性から赤いワンピースと革靴を見せられ、嬉しくなった。母親に気づかれないように家を出たと語り、先の公聴会でも同じことを喋っているのですが…」と、現代史家の秦郁彦氏が教えてくれる。

「これまで何度も来日している彼女は、今年も日本で数回、会見を開いています。で、2月には“日本兵が家に侵入してきて、首を掴まれ引きずり出された”と言い、3月には“軍人と女に刀をつきつけられ、口を塞がれ連れ出された”などと内容が変わっている。要するに、家出と強制連行と、2つの話があるわけです」

◆終戦後も慰安婦?
季元慰安婦はには別の“疑惑”も指摘されている。連行された時の年齢が、14、15、16歳と、実に“3種類”。時には「44年、16歳で台湾に連行され、慰安婦の生活を3年間も強いられた」と語るのだが、それでは終戦後も慰安婦として働いていたことになってしまう。

続いて、同じく韓国人の金君子(キム・クンジャ)についても、「ある時は“幼い時に両親を失い、養子に出された先でお使いに行ってくれと言われ、汽車に乗せられた”と語ったと思えば、"またある時は“家に2人の朝鮮人が来て、工場で働かせてやると騙された”などと回想する。いずれにせよ、家出に近い話で、日本軍による強制連行ではない」(秦氏)

さらに、当時オランダ国籍で、現在はオーストラリア人のジャン・ラフ・オハーンに関しては、「“スマラン事件”の被害者だった可能性はありますが、この事件はむしろ、軍が慰安所に関与していなかったことを示すものです」と、政治ジャーナリストの花岡信昭氏が言う。

「これは、占領下にあったインドネシアのジャワ島で一部軍人がオランダ人女性数十人を強制的に売春させていたところ、軍に見つかり閉鎖させられた事件です。つまり、軍が売春を禁じていた証拠になるもの、と位置づけられています」

◆N・オオニシ記者の影
であるならば、なぜ大使は彼女らの言を鵜呑みにしてしまったのか。「反日姿勢で有名なNYタイムズのN・オオニシ記者が、うまく話を引き出した面もあるのでは」と花岡氏は見るが、「日本が何も言い返さないから、米国内に間違った世論を喚起してしまっている。つまるところ外交戦略の失敗の表れですよ」(秦氏)

週刊新潮 4月5日号 P.62より

reference archives : 慰安婦の李容洙さん(上)




慰安婦問題とアメリカ軍の非行
「史実を世界に発信する会」 茂木弘道

 昨年7月アメリカ下院で435人の議員のうちたった10名ほどの出席で慰安婦対日非難決議が採択された。
日本軍が組織的に若い女性を強制連行して慰安婦とし、性奴隷として虐待した、などという全くありもしない架空の前提に立ったものである。
何しろ、アメリカの公式文書に「「慰安婦」は売春婦あるいは職業的なキャンプフォロワーに他ならない。
月平均1500円の総収入を上げ(債務者の)マスターに750円を返還する。」( United States Office of War Information, Psychological Warfare Team Attached to U.S. Army Forces, India-Burma Theater) とはっきり書かれているのである。
因みに当時日本軍の軍曹の月給は30円であった。軍曹の25倍ほど月々稼いでいたのである。公式文書を全く無視して強制連行とか、性奴隷などと決議案で堂々と述べ立て、それがほとんど異論なく通過してしまうとは全く以って、呆れた話しである。
不当極まりないだけではなく、アメリカ人の知性の程度を疑わせるものであった。
さらにひどいことにアメリカ人の大多数は、アメリカ軍は慰安婦などとは無縁の清らかな軍であり、慰安所を開設したこと自体が日本軍の劣悪さの証明である、と素朴に信じていることだ。
そのために、強制連行などなかった、性奴隷など無かったという説明をはなから聞こうとしない。困ったものである。

 米軍が占領下の日本で米軍専用売春施設を作らせて大々的に活用したことなど余りにもよく知られた事実なのであるが、そんなことも知らないのが大多数のアメリカ人なのだから、始末に終えない。
また慰安婦問題を持ち出している当の韓国でも、韓国政府は国連軍(実質は米軍)専用の慰安所を開設していた。
別にそんなことは秘密でもなんでもなく、たとえば東亜日報1961年9月14日号にはこの慰安所のことが詳しく報じられている。
ベトナムでも米軍では現地の売春婦を個々の兵士が利用したことは周知のことであるが、それだけではなかった。米軍は軍のキャンプ内で売春宿を営業させたのである。
しかもこの売春宿の管理は旅団長の直接指揮下で行なわれていたことが、有名なスーザン・ブラウンミラーのベストセラー本『アゲインスト・アワ・ウィル: 男・女・強姦』(ランダムハウス出版グループ)にでてくる。

軍の売春宿は師団長の決定により軍のキャンプ内に設置された。そしてその管理は旅団長の直接の指揮の下で行なわれた。明らかにベトナムにおける軍の売春宿は統合参謀本部長のウェストもーランド、サイゴンのアメリカ大使館、ペンタゴンの了解の下で置かれていたものである。 (p.95)

軍管理の慰安所に他ならない。
こうした軍売春所においてひどい経験をした売春婦が数多くいたこともまた事実である。三、四十年前にアメリカ軍はこういうことをやっていながら、六十年以上も前の日本軍のことをどうのこうのとはあきれ果てた話である。
しかも事実を全く無視したデマ宣伝を鵜呑みにして、われわれの歴史事実を基にした抗議に耳を傾けることもせずに、決議したのである。

話はそこで終わるわけではない。
日本を軍事占領した1945年から1952年までの7年間において、米軍は数々の犯罪非行を行なった。
プレス・コードに基づく厳重な検閲のために、米兵の殺人、暴行、強姦を書くことが禁じられていた。
「大きい男の強姦」といった表現でかろうじてこれ等のものが部分的に報じられたのみであった。漠然とかなりの犯罪があったと想像されているが、実はかなり詳しい統計も存在しているので、ここに紹介する。
調達庁労働組合が昭和34年に都道府県、市町村、警察および報道機関の協力を得て行なったもので、『防衛施設庁史第2巻』に収録されているものである。
昭和20年から27年までの間に人身被害にあった人で、申告を行なったものに限られている。強姦は含まれていない。
総数でいうと、死亡:3738件、傷害:2071件、療養:3035件となっている。
申告されないものを含めると傷害、療養に相当する被害はこの倍近くに達したかもしれない。
強姦も、傷害、療養よりも少なかったとは考えられない。
すなわち万という数にのぼった可能性が高い。米軍専用慰安施設があっての、このありさまである。
もしこれがなかったとするとぞっとする話である。慰安所というものが決してそれ自体非人間的なものではなく、必要悪とでもう言うべきものであることがよくわかるであろう。
平和が回復した後にも4千人近くの殺人を行い万に近い傷害・暴行さらには強姦を日本で行なったのが米軍である、ということをアメリカ人はよくよく認識すべきである。
これは慰安婦決議のような事実に基づかない架空の話しではなく、明確な裏づけのある事実なのである。

 このことを知っても、あの不当な慰安婦決議の取り消しを行なうべきであると考えないとしたら、アメリカ人の良心というものを疑わざるをえなくなるだろう。そんなアメリカ人ばかりではない、と私は強く確信しているのだが。

http://www.melma.com/backnumber_45206_4033991/

# by thinkpod | 2007-12-05 17:13
2007年 11月 11日

沖縄集団自決訴訟の詳報

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】梅沢さん「とんでもないこと言うな」と拒絶
2007.11.9 15:12
 沖縄の集団自決訴訟で、9日、大阪地裁で行われた本人尋問の主なやりとりは次の通り。
 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅沢裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅沢さんに対する本人尋問が行われた》
 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」
 梅沢さん「はい」
 原「所属していた海上挺身(ていしん)隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」
 梅沢さん「はい」
 原「当時はどんな装備だったか」
 梅沢さん「短機関銃と拳銃(けんじゅう)、軍刀。それから手榴(しゅりゅう)弾もあった」
 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」
 梅沢さん「戦えない」
 原「陸上戦は予定していたのか」
 梅沢さん「いいえ」
 原「なぜ予定していなかったのか」
 梅沢さん「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」
 原「どこに上陸してくると思っていたのか」
 梅沢さん「沖縄本島だと思っていた」
 原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」
 梅沢さん「していない」
 原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」
 梅沢さん「村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人だった」
 原「5人はどんな話をしにきたのか」
 梅沢さん「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」
 原「誰から言われているという話だったのか」
 梅沢さん「行政から。それで、一気に殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、という話だった」
 ー1/4ー
 原「どう答えたか」
 梅沢さん「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」
 原「弾薬は渡したのか」
 梅沢さん「拒絶した」
 原「5人は素直に帰ったか」
 梅沢さん「執拗(しつよう)に粘った」
 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」
 梅沢さん「30分ぐらい。あまりしつこいから、『もう帰れ、弾はやれない』と追い返した」
 原「その後の集団自決は予想していたか」
 梅沢さん「あんなに厳しく『死んではいけない』と言ったので、予想していなかった」
 原「集団自決のことを知ったのはいつか」
 梅沢さん「昭和33年の春ごろ。サンデー毎日が大々的に報道した」
 原「なぜ集団自決が起きたのだと思うか」
 梅沢さん「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」
 原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」
 梅沢さん「とんでもない」
 原「島民に餓死者はいたか」
 梅沢さん「いない」
 原「隊員は」
 梅沢さん「数名いる」
 原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」
 梅沢さん「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」
 原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」
 梅沢さん「昭和57年に部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」
ー2/4ー
原「団長の娘の手記には、梅沢さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」
 梅沢さん「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」
 原「団長以外の4人の運命は」
 梅沢さん「自決したと聞いた」
 原「昭和57年に団長と再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」
 梅沢さん「はい。私が覚えていたのは娘さんだったが、それから40年もたったらおばあさんになっているから」
 原「その後の団長からの手紙には『いつも梅沢さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」
 梅沢さん「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたといえ』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」
 《団長は戦後、集団自決は梅沢さんの命令だったと述べていたが、その後、真相を証言した。質問は続いて、「集団自決は兄の命令だった」と述べたという助役の弟に会った経緯に移った》
 原「(昭和62年に)助役の弟に会いに行った理由は」
 梅沢さん「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」
 原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」
 梅沢さん「1人で行った」
 原「会って、あなたは何と言ったか」
 梅沢さん「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」
 原「そうしたら、何と返答したか」
 梅沢さん「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」
 ー3/4ー
 原「どんな話をしたのか」
 梅沢さん「『厚生労働省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」
 原「軍の命令だということに対し、島民の反対はなかったのか」
 梅沢さん「当時の部隊は非常に島民と親密だったので、(村の)長老は『気の毒だ』と反対した」
 原「その反対を押し切ったのは誰か」
 梅沢さん「復員兵が『そんなこと言ったって大変なことになっているんだ』といって、押し切った」
 原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」
 梅沢さん「資力がなかったから」
 原「裁判で訴えたいことは」
 梅沢さん「自決命令なんか絶対に出していないということだ」
 原「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」
 梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」
 原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」
 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」
 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》
−4/4−
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711091512008-n1.htm

【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】「(軍令)出していない。兵も配置してない」
2007.11.9 17:12
 《休憩後、審理を再開。被告側代理人による質問が始まる》
 被告側代理人(以下「被」)「戦陣訓として『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉があるが、こういう教えが座間味の島民に浸透していたのは知っていたか」
 梅沢さん「島の長が島民に教育していたと思う」
 被「島民に浸透していただろうということは、分かっていたか」
 梅沢さん「それくらいは浸透していたと思う」
 被「鬼畜である米英に捕まると女は強姦、男は八つ裂きにされるので玉砕すべきだ、ということも浸透していたと知っていたか」
 梅沢さん「そういうことは、新聞や雑誌が言っていたことだ」
 被「物資の運搬などに対する島民への指示は誰がしたのか」
 梅沢さん「基地隊長がやっていた。炊事の手伝いとか、食料の世話とか」
 被「元々の指示は梅沢さんから出されたのか」
 梅沢さん「私から基地隊長にお願いした」
 被「軍の装備について。軍にとって手榴(しゅりゅう)弾は重要な武器か」
 梅沢さん「はい」
 被「女子青年団長が軍曹から『万一のときは日本女性として立派な死に方を』と言われて手榴弾を渡されたことは知っているか」
 梅沢さん「はい。団長から聞いた」
 被「(座間味村史を示し)『民間人だし足手まといになる』『万一の時は自決を』と言われて手榴弾を渡された、と書いている女性のことは知っているか」
 梅沢さん「知らない人だ」
 被「こんなことがあった、というのは知っているか」
 梅沢さん「こんなことはありえない」
−1/4−
被「『明日は米軍の上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。万が一のときはこれを使って死になさい』と軍人から手榴弾を渡されたという女性の手記は知っているか」
 梅沢さん「言うはずがないと思う」
 被「別の女性は『昭和20年3月25日の夜、忠魂碑の前で日本兵に、米軍に捕まる前にこれで死になさい、と言われて手榴弾を渡された』と証言しているが」
 梅沢さん「そういうことは知らないし、ありえないと思う」
 被「手榴弾は重要な武器だから、梅沢さんの許可なく島民に渡ることはありえないのでは」
 梅沢さん「ありえない」
 被「日本兵が『米軍に捕まるよりも、舌をかんででも前に潔く死になさい』などと島民に言っていたのを知っているか」
 梅沢さん「知らない」
 被「部下がそういうことを言っていたのを知らないか」
 梅沢さん「知らない」
 被「原告側準備書面の中で『多くの住民は忠魂碑の前に集合する命令を、軍からの命令と受け取ったと考えられる』と書いてあるが、これは認めるか」
 梅沢さん「ニュアンスが違う。イエスかノーかで答えられるものではない」
 被「準備書面の記述と同じ考えかと聞いている」
 梅沢さん「同じだ」
 被「昭和63年12月22日に沖縄タイムス社の常務と話をした際に『もうタイムスとの間でわだかまりはない』と言ったか」
 梅沢さん「言った」
 被「覚書を交わそうとしたとき、『そんなもん心配せんでもいい。私は侍だから判をつかんでもいい』と言ったか」
 梅沢さん「言った」
−2/4−
《沖縄タイムス社から昭和25年に刊行された沖縄戦記『鉄の暴風』には、集団自決を軍が命令したとの記載がある》
 被「助役の弟の証言に関することだが、この証言はあなたが『家族に見せるため』と書いてもらったのではないか」
 梅沢さん「違う」
 被「別の機会の会話の録音テープがあるのだが、助役の弟が『公表しないでほしい』と言ったのに対し、あなたは『家族や知人には見せる。公表は考える』と答えているが、間違いないか」
 梅沢さん「はい」
 被「じゃあ、家族に見せるためと、証言を頼んだんでしょう」
 梅沢さん「それだけのためじゃないですよ」
 被「大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んだのはいつか」
 梅沢さん「去年」
 被「どういう経緯で読んだのか」
 梅沢さん「念のため読んでおこうと」
 被「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」
 梅沢さん「ない」
 被「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」
 梅沢さん「ない」
 被「昭和55年に出した島民への手紙で『集団自決は状況のいかんにかかわらず、軍の影響下にあり、まったく遺憾である』と書いているが、集団自決は軍の責任なのか」
 梅沢さん「私は『軍は関係ない』とは言っていない」
 被「手紙を出した当時、軍の責任を認めているということか」
 梅沢さん「全然認めていないわけではない」
 −3/4−
《50分近くに及んだ被告側代理人の質問に続き、再び原告側代理人が質問》
 原告側代理人(以下「原」)「忠魂碑の前に集まれという軍令を島民に出したか」
 梅沢さん「出していない。兵も配置していない」
 原「軍は何かしたのか」
 梅沢さん「人を集めておいて、私のところに弾をくれと言いに来たのは事実らしい」
 原「忠魂碑の前に島民がいて、軍もいるというのはあり得るか」
 梅沢さん「ありえない」
 原「軍は全島に展開していたからか」
 梅沢さん「はい」
 原「先ほど『沖縄ノート』を読んだのは去年だと話していたが、その前から、(曽野綾子さんの著書で軍命令説に疑問を示した)『ある神話の背景』は読んでいたのか」
 梅沢さん「はい」
 原「その中に『沖縄ノート』のことが書かれていて、『沖縄ノート』に何が書いてあるかは知っていたのか」
 梅沢さん「知っていた」
 原「先ほどの『沖縄ノートに私が自決命令を出したという記述はなかった』という証言は、梅沢さんの名前は書かれていなかったという意味か」
 梅沢さん「そういう意味だ」
 《被告側代理人も再び質問》
 被「『沖縄ノート』には、あなたが自決命令を出したと書いてあったか」
 梅沢さん「そうにおわせるように書いてある。『隊長が命令した』と書いてあるが、この島の隊長は私しかいないのだから」
 《梅沢さんの本人尋問は午後0時10分過ぎに終了。午後1時半まで休廷となった》
 ー 4/4−
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711091712009-n1.htm

# by thinkpod | 2007-11-11 16:32
2007年 11月 11日

沖縄集団自決訴訟の詳報−2

【沖縄集団自決訴訟の詳報(3)】赤松さん「タブーのような状態」
2007.11.9 19:00
 《午後1時半に審理を再開。当事者席に大江健三郎氏が座ると、傍聴席の画家らがいっせいに法廷スケッチの似顔絵を書き始めた。まず、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)への本人尋問が行われた》
 原告側代理人(以下「原」)「あなたは赤松隊長の弟さんですね」
 赤松さん「そうです。兄とは年が13歳も離れているので、常時、顔を合わせるようになったのは戦後になってから。尊敬の対象だった。父が年をとっていたので、家業に精を出してくれた」
 原「沖縄タイムス社の『鉄の暴風』は読んだか」
 赤松さん「読んだ。大学の近くの書店で手に入れた」
 原「戦争の話には興味があったのか」
 赤松さん「戦争は中学1年のときに終わったが、陸軍に進むものと思っていたくらいだから、よく読んだ」
 原「『鉄の暴風』にはお兄さんが自決命令を出したと書かれているが」
 赤松さん「信じられないことだった。兄がするはずもないし、したとは思いたくもない。しかし、329人が集団自決したと細かく数字も書いてある。なにか誤解されるようなことをしたのではないかと悩み続けた。家族で話題にしたことはなかった。タブーのような状態だった」
 原「お兄さんに確認したことは」
 赤松さん「親代わりのような存在なので、するはずもない。私が新居を買った祝いに来てくれたとき、本棚で見つけて持って帰った」
 原「ほかにも戦争に関する本はあったのか」
 赤松さん「2、3冊はあったと思う」
 原「『鉄の暴風』を読んでどうだったか」
 赤松さん「そりゃショックだ。329人を殺した大悪人と書かれていた。もう忘れていたが、最近になって、ショックで下宿に転がり込んできたと大学の友人に聞かされた」
ー 1/4−
原「最近まで忘れていたのはどうしてか」
 赤松さん「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が無実を十分に証明してくれたので、安心できたのだと思う」
 原「『ある神話の風景』は、どういう経緯で読んだのか」
 赤松さん「友達が教えてくれた。無実がはっきり証明され、信頼を取り戻せた」
 原「集団自決を命じたと書いた本はどうなると思ったか」
 赤松さん「間違った書物は削除、もしくは訂正になると思っていた」
 原「大江氏の『沖縄ノート』の引用を見て、どう思ったか」
 赤松さん「大江さんは直接取材したこともなく、渡嘉敷島に行ったこともない。それなのに兄の心の中に入り込んだ記述をしていた。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すかのようだと憤りを感じた」
 《大江氏が身を乗り出すようにして赤松さんの話を聞く》
 原「誹謗(ひぼう)中傷の度合いが強いか」
 赤松さん「はい」
 原「訴訟を起こしたきっかけは」
 赤松さん「3年前にある人から話があり、とっくの昔に解決したと思っていたのに『鉄の暴風』も『沖縄ノート』も店頭に並んでいると聞かされたから」
 原「実際に『沖縄ノート』を読んでどう思ったか」
 赤松さん「難しい本なので飛ばし読みしたが、兄が誹謗中傷されているのはよく分かった」
 原「悔しい思いをしたか」
 赤松さん「はい。沖縄で極悪人と面罵(めんば)されたのですから。兄は自決命令を出していないと無実を訴える手記を出していたが、ペンも凶器になるということだ。兄は手記の中で、『沖縄ノート』の資料の質を問い、証人を示すのがジャーナリストの最低限の良心と問うていた」
 《原告側代理人の質問が終了》
ー2/3−
被告側代理人(以下「被」)「集団自決命令について、お兄さんから直接聞いたことはありますか」
 赤松さん「ない」
 被「お兄さんは裁判をしたいと話していたか。また岩波書店と大江さんに、裁判前に修正を求めたことがあったか」
 赤松さん「なかったでしょうね」
 被「『沖縄ノート』が店頭に並んでいると教えてくれた人が、裁判を勧めたのか」
 赤松さん「そうなりますか」
 被「お兄さんの手記は読んだか」
 赤松さん「読んだ」
 被「『島の方に心から哀悼の意を捧(ささ)げる。意識したにせよ、しなかったにせよ、軍の存在が大きかったことを認めるにやぶさかではない』と書いているが」
 赤松さん「知っている」
 原「裁判は人に起こせと言われたのか」
 赤松さん「確かにそうやけど、歴史として定着するのはいかんと思った。そういう気持ちで裁判を起こした」
 《赤松さんへの質問は30分足らずで終了した》
−3/3−
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711091900010-n1.htm

【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」
2007.11.9 20:11
 《午後1時50分ごろ、大江健三郎氏が証言台に。被告側代理人の質問に答える形で、持論を展開した》
 被告側代理人(以下「被」)「著書の『沖縄ノート』には3つの柱、テーマがあると聞いたが」
 大江氏「はい。第1のテーマは本土の日本人と沖縄の人の関係について書いた。日本の近代化に伴う本土の日本人と沖縄の人の関係、本土でナショナリズムが強まるにつれて沖縄にも富国強兵の思想が強まったことなど。第2に、戦後の沖縄の苦境について。憲法が認められず、大きな基地を抱えている。そうした沖縄の人たちについて、本土の日本人が自分たちの生活の中で意識してこなかったので反省したいということです。第3は、戦後何年もたって沖縄の渡嘉敷島を守備隊長が訪れた際の現地と本土の人の反応に、第1と第2の柱で示したひずみがはっきり表れていると書き、これからの日本人が世界とアジアに対して普遍的な人間であるにはどうすればいいかを考えた」
 被「日本と沖縄の在り方、その在り方を変えることができないかがテーマか」
 大江氏「はい」
 被「『沖縄ノート』には『大きな裂け目』という表現が出てくるが、どういう意味か」
 大江氏「沖縄の人が沖縄を考えたときと、本土の人が沖縄を含む日本の歴史を考えたときにできる食い違いのことを、『大きな裂け目』と呼んだ。渡嘉敷島に行った守備隊長の態度と沖縄の反応との食い違いに、まさに象徴的に表れている」
 被「『沖縄ノート』では、隊長が集団自決を命じたと書いているか」
 大江氏「書いていない。『日本人の軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『〜という命令』とした」
 被「日本軍の命令ということか」
 大江氏「はい」
 被「執筆にあたり参照した資料では、赤松さんが命令を出したと書いていたか」
 大江氏「はい。沖縄タイムス社の沖縄戦記『鉄の暴風』にも書いていた」
 −1/3−
 被「なぜ『隊長』と書かずに『軍』としたのか」
 大江氏「この大きな事件は、ひとりの隊長の選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」
 被「『責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」
 大江氏「そう」
 被「守備隊長に責任があると書いているのか」
 大江氏「はい」
 被「実名を書かなかったことの趣旨は」
 大江氏「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」
 被「渡嘉敷の守備隊長について名前を書かなかったのは」
 大江氏「こういう経験をした一般的な日本人という意味であり、むしろ名前を出すのは妥当ではないと考えた」
 被「渡嘉敷や座間味の集団自決は軍の命令と考えて書いたのか」
 大江氏「そう考えていた。『鉄の暴風』など参考資料を読んだり、執筆者に会って話を聞いた中で、軍隊の命令という結論に至った」
 被「陳述書では、軍隊から隊長まで縦の構造があり、命令が出されたとしているが」
 大江氏「はい。なぜ、700人を超える集団自決をあったかを考えた。まず軍の強制があった。当時、『官軍民共生共死』という考え方があり、そのもとで守備隊は行動していたからだ」
 被「戦陣訓の『生きて虜囚の辱めを受けず』という教えも、同じように浸透していたのか」
 大江氏「私くらいの年の人間は、子供でもそう教えられた。男は戦車にひき殺されて、女は乱暴されて殺されると」
 被「沖縄でも、そういうことを聞いたか」
 大江氏「参考資料の執筆者の仲間のほか、泊まったホテルの従業員らからも聞いた」
 被「現在のことだが、慶良間(けらま)の集団自決についても、やはり軍の命令と考えているか」
 大江氏「そう考える。『沖縄ノート』の出版後も沖縄戦に関する書物を読んだし、この裁判が始まるころから新証言も発表されている。それらを読んで、私の確信は強くなっている」
 −2/3−
 被「赤松さんが陳述書の中で、『沖縄ノートは極悪人と決めつけている』と書いているが」
 大江氏「普通の人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている。悪を行った人、罪を犯した人、とは書いているが、人間の属性として極悪人、などという言葉は使っていない」
 被「『(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、死刑に処せられたアドルフ・)アイヒマンのように沖縄法廷で裁かれるべきだ』とあるのは、どういう意味か」
 大江氏「沖縄の島民に対して行われてきたことは戦争犯罪で、裁かれないといけないと考えてきた」
 被「アイヒマンと守備隊長を対比させているが、どういうつもりか」
 大江氏「アイヒマンには、ドイツの若者たちの罪障感を引き受けようという思いがあった。しかし、守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐおうということはない。その違いを述べたいと思った」
 被「アイヒマンのように裁かれ、絞首刑になるべきだというのか」
 大江氏「そうではない。アイヒマンは被害者であるイスラエルの法廷で裁かれた。沖縄の人も、集団自決を行わせた日本軍を裁くべきではないかと考え、そのように書いた」
 被「赤松さんの命令はなかったと主張する文献があるのを知っているか」
 大江氏「知っている」
 被「軍の命令だったとか、隊長の命令としたのを訂正する考えは」
 大江氏「軍の命令で強制されたという事実については、訂正する必要はない」
 《被告側代理人による質問は1時間ほどで終わった》
 −3/3−
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711092043013-n1.htm

【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」
2007.11.9 20:49
 《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》
 原告側代理人(以下「原」)「集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、赤松さんはどの場面で中止命令を出せたと考えているのか」
 大江氏「『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそばに島民を集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」
 原「島民はどこに逃げられたというのか」
 大江氏「実際に助かった人がいるではないか」
 原「それは無目的に逃げた結果、助かっただけではないか」
 大江氏「逃げた場所は、そんなに珍しい場所ではない」
 原「集団自決を止めるべきだったのはいつの時点か」
 大江氏「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった」
 原「集団自決は予見できるものなのか」
 大江氏「手榴(しゅりゅう)弾を手渡したときに(予見)できたはずだ。当日も20発渡している」
 原「赤松さんは集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが」
 大江氏「事実ではないと思う」
 原「その根拠は」
 大江氏「現場にいた人の証言として、『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のところに来た』というのがある。こんなことがあって、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」
 原「(沖縄タイムス社社長だった上地一史の)『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令は事実だと考えているのか」
 大江氏「事実と考えている」
 −1/3−
原「手榴弾を島民に渡したことについては、いろいろな解釈ができる。例えば、米英に捕まれば八つ裂きにされるといった風聞があったため、『1発は敵に当てて、もうひとつで死になさい』と慈悲のように言った、とも考えられないか」
 大江氏「私には考えられない」
 原「曽野綾子さんの『ある神話の風景』は昭和48年に発行されたが、いつ読んだか」
 大江氏「発刊されてすぐ。出版社の編集者から『大江さんを批判している部分が3カ所あるから読んでくれ』と発送された。それで、急いで通読した」
 原「本の中には『命令はなかった』という2人の証言があるが」
 大江氏「私は、その証言は守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたものだと思った。ニュートラルな証言とは考えなかった。なので、自分の『沖縄ノート』を検討する材料とはしなかった」
 原「ニュートラルではないと判断した根拠は」
 大江氏「他の人の傍証があるということがない。突出しているという点からだ」
 原「しかし、この本の後に発行された沖縄県史では、集団自決の命令について訂正している。家永三郎さんの『太平洋戦争』でも、赤松命令説を削除している。歴史家が検証に堪えないと判断した、とは思わないか」
 大江氏「私には(訂正や削除した)理由が分からない。今も疑問に思っている。私としては、取り除かれたものが『沖縄ノート』に書いたことに抵触するものではないと確認したので、執筆者らに疑問を呈することはしなかった」
 −2/3−
 《尋問が始まって2時間近くが経過した午後3時45分ごろ。大江氏は慣れない法廷のせいか、「ちょっとお伺いしますが、証言の間に水を飲むことはできませんか」と発言。以後、ペットボトルを傍らに置いて証言を続けた》
 原「赤松さんが、大江さんの本を『兄や自分を傷つけるもの』と読んだのは誤読か」
 大江氏「内面は代弁できないが、赤松さんは『沖縄ノート』を読む前に曽野綾子さんの本を読むことで(『沖縄ノート』の)引用部分を読んだ。その後に『沖縄ノート』を読んだそうだが、難しいために読み飛ばしたという。それは、曽野綾子さんの書いた通りに読んだ、導きによって読んだ、といえる。極悪人とは私の本には書いていない」
 原「作家は、誤読によって人を傷つけるかもしれないという配慮は必要ないのか」
 大江氏「(傷つけるかもしれないという)予想がつくと思いますか」
 原「責任はない、ということか」
 大江氏「予期すれば責任も取れるが、予期できないことにどうして責任が取れるのか。責任を取るとはどういうことなのか」
 《被告側、原告側双方の質問が終わり、最後に裁判官が質問した》
 裁判官「1点だけお聞きします。渡嘉敷の守備隊長については具体的なエピソードが書かれているのに、座間味の隊長についてはないが」
 大江氏「ありません。裁判が始まるまでに2つの島で集団自決があったことは知っていたが、座間味の守備隊長の行動については知らなかったので、書いていない」
 《大江氏に対する本人尋問は午後4時前に終了。大江氏は裁判長に一礼して退き、この日の審理は終了した》
 −3/3−
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711092049014-n1.htm



【産経抄】11月13日
2007.11.13 03:51
 沖縄戦について書かれた本の記述をうのみにして、大戦末期、当時の守備隊長らが、住民に集団自決を命令したと、決めつけただけではない。会ったこともない元隊長の心の中に入り込んでしまう。

 ▼「戦争犯罪人」であり「屠殺者」は、「あまりにも巨きい罪の巨塊」の前で「なんとか正気で生き伸びたいとねが」い、「かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめた」とまでいう。三十数年ぶりに『沖縄ノート』を読み返して、あらためてノーベル賞作家の想像力のはばたきに脱帽した。

 ▼もっとも、書かれた方はたまらない。個人名がなくても、隊長は島に1人しかいないのだから特定は容易だ。そもそも「軍命令などあり得ない」と、元守備隊長らが、著者の大江健三郎氏と岩波書店に損害賠償などを求めた訴訟を起こしている。

 ▼先週大阪地裁であった口頭弁論で、大江氏側から提出された陳述書を読んでまた驚いた。大江氏は元隊長ら個人に対してというより、当時の日本軍を貫いていた「タテの構造の力」、あるいは「日本人一般の資質に重ねることに批判の焦点を置いて」いるそうだ。

 ▼具体的な命令がなくても、皇民教育を受けていた住民が、最終的にはほかに道がないとの考えを、日ごろから植え付けられていたことも強調する。「すでに装置された時限爆弾としての『命令』」とは、いかにも“純文学的な”言い回しだが、元隊長のコメントに共感を覚えた。「要点を外し、なんとくだらん話をダラダラするのかといやになった」。

 ▼この裁判の意味は、原告の名誉回復にとどまらない。著名作家の想像力によって歴史がつづられ、政治的な圧力で教科書の検定結果が覆ろうとしている。歴史とは何かを問う裁判でもある。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/071113/edc0711130351002-n1.htm

# by thinkpod | 2007-11-11 16:25