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2007年 10月 19日

地球温暖化問題に仕組まれた「偽装」

 政府やマスコミは情報をコントロールしている

■1.「首都に迫る海」■

 今を遡ること23年前、昭和59(1984)年の元日朝刊で、朝
日新聞は「海面上昇で山間へ遷都計画」と題した記事を掲載し
た。「6兆円かけて20年かかり」「脱出進み人口半減」とい
う見出しが躍る。「首都に迫る海。警戒水域まであと1メート
ルに」というコメントのついた架空の航空写真まで掲載されて
いた。

 世界の平均気温は50年前の15度から18度に上がり、
この結果として極地の氷の融解が加速度的に進むことによっ
て海岸都市の一部が水没する。

 実は、この記事は「50年後の2043年1月1日の新聞にこの
ような記事が載るだろう」という但し書きがついたシミュレー
ション記事なのだが、それが架空の物語であるという記載はど
こにもない。だから、多くの読者は現実的な予想と捉えただろ
う。

 これが「地球温暖化問題」のはしりとなった記事だった。

■2.北極の氷が溶けても海面の高さは変わらない■

 朝日新聞は、事実を正確に報道したり、相対立する見解の両
方を公平に紹介することよりも、自らの考えで読者を説得(時
には扇動)することに熱心ではないか、という印象をかねてか
ら持っていた。慰安婦募集で悪徳業者を取り締まろうとした陸
軍省の文書を「慰安所、軍関与示す資料」と報じて、さも陸軍
が「関与」したかのように見せかけた記事などが、その例であ
る。[a]

 この「首都水没」記事も、その類である。武田邦彦・中部大
学教授の最近のベストセラー『環境問題はなぜウソがまかり通
るのか』には、地球温暖化説のあちこちに仕組まれたウソが暴
かれている。

 最も単純なウソは、北極の氷が溶けても海面は上昇しないこ
とだ。中学生が学ぶアルキメデスの原理で簡単に説明がつく。

 たとえば、いま、1トンの氷の塊が海に浮かんでいるとしよ
う。アルキメデスの原理から、その1トンの重量は、氷が沈ん
で排除している水1トン分の浮力で支えられる。1トン分の水
の体積は1立米である。氷の比重は0.9168なので、1トンの氷
は1.09立米である。差し引き0.09立米の氷が水面上に浮
かぶ。

 しかし、この1トン、1.09立米の氷が溶けると、1トン、
1立米の水になって、ちょうど水面下に沈んでいた体積と同じ
である。だから水面の高さは変わらない。

 逆に言えば、水が凍って容積が膨らんだ分だけが水面上に浮
かんでいるのであり、水面の高さは、氷が溶けても、固まって
も変わらないのである。北極の氷とは、まさにこのように海面
上に浮かんでいる氷であり、それがすべて溶けても海面の高さ
は変わらない。

■3.南極の氷は増える■

 一方、南極の氷は陸地の上にあるので、それが溶けたら確か
に海面は上昇する。南極の氷がすべて溶けると、単純計算では
海水面は60メートルもあがるそうだ。

 しかし、世界の平均気温は上昇していても、南極の気温は逆
に下がっている。1950年頃にはマイナス49.0度だったが、
1984年頃にはマイナス49.5度に下がり、最近ではマイナス
50度に近づきつつある。

 その一方で南極周辺の海域の気温があがると、南極の氷はか
えって増える。海水面の温度上昇により、蒸発する水蒸気が増
え、それが冷たい大陸の方に吹く風で運ばれて、凍って大陸側
に積もる。

 南極大陸の気温が下がり、周辺の海洋の気温が上がることで、
南極の氷が増え、その分、わずかに海面を下げる方向に働く。

■4.環境省の正反対の誤訳■

 国連には「気候変動に関する政府間パネル(IPCC:
Intergovernmental Panel on Climate Change)という研究機関
が設けられている。世界有数の科学者が参加して、地球の温暖
化がどう進んでいるのか、その原因は何か、どのような影響を
与えるのか、を検討している。

 そのIPCCの結論は、北極の氷は当然ながら「関係ない」
とし、南極の方は平均的な予測としては「南極の周りの気温が
高くなると、僅かだが海水面が下がる」となっている。

 ところが、IPCCの報告書を日本語に訳している環境省の
環境白書は「地球が温暖化すると極地の氷が溶けて海水面が上
昇する」と書いてある。

 武田教授の研究室の一人の学生が、環境省の係官に電話して、
なぜ逆の訳をしたのか、と聞いた所、「IPCCの報告書が長
かったので、それを短い文章にしたらこうなった」と答えたそ
うだ。意図的な誤訳なら、悪質な世論操作である。

■5.海面上昇は100年で数十センチ■

 実は、IPCCは、様々な要因を検討して、温暖化によって
海面が上昇するとの結論を出している。それによると、極地の
影響は上述の通り、ゼロ、またはマイナスだが、陸地より海水
の方が膨張率が高いために、温暖化により水位が上がる、とし
ている。

 しかし、その程度は、最も悲観的なシナリオでも、21世紀
末までの100年間で、2.4度から6.4度ほど気温が上昇し、
海面が26センチから59センチ上昇するというものだ。最も
楽観的なシナリオは、温度上昇が0.3−0.9度、海面上昇が
18−38センチである。[2,p13]

 朝日新聞の記事のように、海面が何メートルも上昇して、首
都の移転まで必要になるという状況にはほど遠い。

 しかし、朝日の記事は商業的には大ヒットだった。この年
から、地球温暖化と海面上昇に関する各紙の報道が急増し、記
事数は年約500件のレベルとなった。マスコミ業界としては
それだけ読者の不安を煽る記事で、紙面を賑わせることができ
た。しかし、購読者の方も、毎日1.4件ほども、こんな記事
を読まされていたら、誰でもが真実だと信じてしまうだろう。

■6.現代は寒い時代■

 温暖化の影響として深刻なのは、海面上昇による首都水没と
いうSF的なものよりも、地域的な豪雨による洪水・地崩れ、
旱魃、異常高低温、局地的な台風増加といった異常気象の方だ
ろう。

 ただ「異常気象」というのも、あくまで人間から見たもので
あり、生物全体の歴史から見れば、現代はかつてない寒い時代
なのである。

・3億5千年以上前の古生代では、地球の平均気温は35度ほ
どで、現在よりも20度も高かった。そのために、この時
代は生物が大いに繁栄した。

・3億5千年前から2億5千年前には、第一氷河期を迎え、地
球上の生物の95%が死に絶えたとされる。しかし、この時
期でも平均気温は22度で、現在よりも7度高い。

・2億年前から、25度に気温が上昇し、恐竜全盛の中生代と
なった。

・6700年前から第2氷河期に入り、15度にまで急降下す
る。恐竜を含め、多くの生物が絶滅した。

 多くの生物にとっては、温暖化の「最悪」のシナリオが実現
して平均気温が20度くらいまで上がった方が生存しやすくな
る。ただ、人間だけがこの異常に寒い時期に合わせた文明を築
いてしまったので、「異常な温暖化」と騒いでいるわけである。

 その人類にとっても、気温が上昇した方が緑地面積も広げや
すく、作物も多く取れるようになるので、暮らしやすい面も出
てくる。ただ、その変化があまりにも急激だと、環境変化に急
いで適応できないので、様々な被害が増える、というのが問題
の本質である。

■7.京都議定書の気温抑制効果は最大でも0.05度■

 急激な温暖化の主要因は、やはり石油石炭から排出される二
酸化炭素などによる温室効果である。そこで、各国で協力して
二酸化炭素の排出量を削減しようと約束し合ったのが、京都議
定書である。先進国が「1990年に出していた二酸化炭素の量を
基準として、2010年までに6%削減する」というものである。

 この京都議定書を各国が守れば、地球温暖化はストップでき
るような認識を多くの人々は抱いているが、実際はどうなのか?

 まず、地球温暖化を招いている要因には、太陽の活動や地軸
の傾きなど他にもあり、温室効果ガスの影響は全体の60%程
度と仮定してみよう。

 温室効果ガスには、メタンなどいくつかの種類があり、二酸
化炭素の寄与度は全体の60%程度である。人類が排出してい
る二酸化炭素の総量のうち、先進国が排出している量は全世界
の約60%である。さらに、そのうち京都議定書を批准した国
は60%である。最後に、数値目標としては1990年を基準とし
て、その6%削減である。

 とすると、京都議定書による温暖化の抑制は:

0.6x0.6x0.6x0.6x0.06=0.00777

 と0.777%に過ぎない。ということは、IPCCの最も
悲観的な気温上昇が100年間で2.4度から6.4度だったが、
その最悪値の6.4度でも6.35度へと、0.05度抑制され
るだけである。海面上昇もそれに比例して抑制されると仮定す
ると、最悪値の59センチが58.5センチと、5ミリ下がる
だけである。常識的な判断力を持つ人なら、これを「焼け石に
水」と呼ぶだろう。

■8.森林では二酸化炭素の削減策にならない■

 京都議定書には、もう一つ大きな「偽装」が仕組まれている。
それは「森林が二酸化炭素を吸収する」という前提から、二酸
化炭素の吸収対策として森林を認めている点である。

 林野庁のホームページの「こども森林館」というコーナーに
は、次のような説明がある。

人間1人が呼吸により排出する二酸化炭素は年間約320kg
ですから、・・・およそスギ23本の年間吸収量と同じにな
ります。[3]

 たしかに成長しているスギは二酸化炭素を吸収するが、それ
は成長している間だけである。やがて木材として最終的には燃
やされるか、あるいは枯死して微生物に分解されて二酸化炭素
を排出する。だから森林は同じ本数のまま世代交代を続けても、
二酸化炭素の貯蔵庫に過ぎず、23本のスギ林が、一度、人間
1人分の二酸化炭素を吸収したら、それで満杯になってしまう。

 日本の現在の二酸化炭素排出量3.43億トン/年の6%を
スギ林で吸収しようとしたら、毎年15億本ほどの植林をしな
ければならず、1本4平米として6千平方キロ、すなわち毎年
国土の1.6%づつ森林面積を増やさねばならない。

 日本の森林面積はすでに国土の67%を占めており、世界トッ
プクラスの森林国である。残りすべての33%の国土を毎年、
1.6%ずつ森林にしていっても、20年しか持たない。だか
ら森林を維持する事は大切だが、造林は二酸化炭素吸収策とし
てはほとんど意味がない。

 ヨーロッパの国々は、森林が二酸化炭素を吸収する対策にな
るという論理が破綻していることを知っていたので、京都議定
書の対策方法の一つに入れるのには反対だった。しかし、日本
が強硬に対策として認めることを要求したために、政治的配慮
からこれを受け入れたという。

「こども森林館」には、「この(京都)議定書では、森林が二
酸化炭素の吸収源として重要であることが改めて認識されまし
た」とPRしているが、日本の森林関係者が圧力をかけて、偽
装の対策として「認識」させたのだろうか。

■9.「政府やマスコミが情報をコントロールしている」■

 朝日新聞は、本年5月5日付社説で「温暖化防止 一刻の猶
予もならない」と題して、こう述べた。

 先進国に温室効果ガスの排出削減義務を課した京都議定
書の第1期は来年始まり、12年まで続く。ところが最近、
カナダが目標達成の断念を表明、米豪両国はすでに離脱し
ており、枠組みが揺らぎかけている。日本は目標を追求し
続けることで逆行の流れを阻むべきだ。[4]

 朝日新聞は京都議定書を金科玉条のように絶対視しているよ
うだが、その議定書が守られたとしても、上述のように気温を
せいぜい0.05度下げる程度の効果しかない。

 それよりも、この社説のように、京都議定書を「死守」する
ことが、地球温暖化にさも効果的であるかのような「幻想」を
ふりまいている事の方が、マスコミ報道として問題なのではな
いか。地球温暖化に対して、我々はほとんど実効を期待できる
方策を持っていない、という冷厳な事実を覆い隠しているから
である。

「温暖化で首都が水没する」というSF記事、環境庁の「極地
の氷が溶けて海面上昇」という誤訳、林野庁の「森林が二酸化
炭素を吸収する」という虚構、そして効果のほとんど期待でき
ない「京都議定書死守」の主張、、、

 ある東大の若手の先生が、武田教授に「現代の日本は民主主
義ではない」と言ったそうだ。その理由は「民主主義ならば国
民が主人公である。従って、国民が最初にすべての情報に接し
なければならないが、日本では政府やマスコミが情報をコント
ロールしている」面が大きいからだと言う。

 この情報コントロールを打破するには、我々が日頃からマス
コミや政府の「定説」を批判する「異論」に注意を払っていく、
ということが大事だろう。この武田教授の著作のように。
(文責:伊勢雅臣)


a. JOG(106) 「従軍慰安婦」問題(上)
 日韓友好に打ち込まれた楔。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html
b. JOG(350) ダイオキシン騒動〜 「魔女狩り」騒ぎのメカニズム
 事実はいかにねじ曲げられ、煽動に使われたか。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog350.html
c. JOG(415) 情報鎖国の反原発報道
 世界が第2の原発発展期に入ろうとしている中で、日本では
非科学的な「反原発」報道が続いている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog415.html


武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』★★★、洋泉社、H19
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4862481221/japanontheg01-22%22

http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108805071.html



ゴア氏の映画「不都合な真実」、英裁判所が是正措置要求

 【ロンドン=森千春】英高等法院は10日、アル・ゴア前米副大統領が地球温暖化について警告した映画「不都合な真実」について、政治的に偏向し、部分的に誤りがあるとして、学校での上映に際して是正措置をとるよう求める判決を下した。
 判決言い渡しで裁判官は、グリーンランドを覆う氷が溶けて「近い将来に」水面が7メートル上昇するかもしれないというくだりは、「科学的な常識から逸脱している」と指摘。地球温暖化でアフリカ最高峰キリマンジャロの雪が後退しているという主張も科学的裏付けがないとの判断を示した。ただ、「地球温暖化が人為的な原因で起きている」という全体のメッセージについては、妥当だと認めた。
 英国では、教育省が環境教育の一環として、「不都合な真実」のDVDを学校に配布。英南部ケント州に住む2児の父親が、学校での政治宣伝を禁じた教育法に反するとして、上映禁止を求めて、裁判を起こしていた。
(2007年10月12日0時9分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20071011i312.htm
[PR]

by thinkpod | 2007-10-19 15:00 | 社会
2007年 10月 10日

日本と欧米の植民地主義の違い

アジアの「日の丸」観 「迷信」打破の旗振り役
[1999年07月10日]

 一九四〇年(昭和十五年)、パリが陥落し、ドイツ肝いりのビシー政権が誕生すると、日本はそのビシー政権に、北部仏印に軍を出したいと通告した。

 日本は当時、重慶の蒋介石政府にてこずっていた。重慶を落とすにはその糧道、いわゆる援蒋ルートを叩き潰すのが最も効果的で、それにはこの仏印進駐が作戦上どうしても必要だった。幸いというか、その仏印を握るフランスに同盟国ドイツの息のかかった政権ができた。友だちの友だちはみな友だちである。当然、友好的に受け入れてくれるものと考えた。

 しかし、当のビシー政権を含めた欧米はそんな単純な受け止め方はしなかった。日本の仏印進駐は「十五世紀、バスコ・ダ・ガマの到来で始まった白人によるアジア支配に初めて亀裂を入れる」(英歴史学者クリストファー・ソーン)ことになるからだ。

 ビシー政権は英国に置かれたドゴール仏亡命政権に泣きつき、ドゴールは米国に助けを求めた。米国はフランスに特使を派遣し、相談のうえでドイツを通じて日本に再考を促すよう働きかけた。

 アジアの植民地は欧米諸国の大きな財産だ。「だれにも侵させない」という暗黙の了解があって、たとえお互い戦争していてもその点では助け合っていたわけだ。

 しかし日本はそういう思惑にはまったく鈍感で、通告通りさっさと仏印へ向かい、国境にある仏軍の要塞から激しい砲火を浴びることになる。

 かくて日本軍との間で戦闘が始まる。最初のうちこそ数倍の兵力を持つ仏軍の勢いはよかったが、やがて突撃を繰り返す日本軍の前に戦意を失い、ドンダン要塞は数時間で陥落した。日本側十五人、仏側四十人が戦死した。

 この攻防を一人のベトナム人が間近で見ていた。道案内をした反仏活動家、陳中立(チャン・チュンラップ)である。

 彼の知る故郷は仏植民地政府の下で百年悲惨のどん底にあった。人々は高額の人頭税に泣き、そのために十歳の子供が炭坑でトロッコを押さねばならなかった。人頭税だけでなく葬式にも結婚式にも課税された。阿片も政府が売りつけ、国中に中毒患者があふれていた。「ニョクマムのビン法」というのもあった。ふたのない容器は非衛生的という口実で「仏製のビンを強制的に買わせて」(A・ビオリス著「インドシナSOS」)金を巻き上げていた。

 人々は当然、反発するが、そうすれば植民地軍が徹底的に殺しまくり、首謀者はギロチンにかけ、生首を街中にさらした。

 白人にはかなわない、というのが百年の歴史の教訓だった。その白人が今、自分たちと同じ肌の色の日本軍の前に逃げまどい、両手を挙げているのである。

 陳はその場で同胞に決起を呼びかけた。あっという間に二千人が集まり、彼らはハノイの仏軍をやっつけに山を下りだした。

 しかし、その数日間のうちに事情は変わっていた。ビシー政権は日本の進駐を認め、友好関係が樹立された。つまり日本軍は陳を支援できなくなっていた。「勝てる相手ではないと何度も忠告した。でも、白人には勝てないというのが迷信だと分かっただけでも大きな力になると笑って出ていった」とベトナム協会の西川捨三郎氏は当時を思いだしていう。

 日仏の小競り合いと日本軍の勝利のニュースはすぐにタイにも伝わった。そして驚いたことに、英仏に領土を好き放題奪われてきた“おとなしい国”が突如、領土回復を図って仏印に攻め込んだのである。講和条約は東京で開かれ、タイは希望を一部かなえた。

 オランダ領インドネシアにも同じ現象が起きた。この国の人々もまた百年、ご主人様の「ビンタにおびえながら働かされ、食事がきちんと与えられる刑務所の方がましとさえ考えていた」とR・カウスブルックは「西欧の植民地喪失と日本」の中で書いている。

 その地で日本軍はあっという間にご主人様をやっつけてみせた。八万二千人の連合軍がこもるバンドン要塞はたった三千人の日本軍の前に降参した。人々は陳のいう「迷信」から覚めていった。

 日本が敗れて消えたあと、戻ってきたオランダと人々は戦った。四年間戦って約八十万人が殺されながら、戦いを放棄しなかった。そして独立を得た。

                 ◇

 日の丸をめぐって「日本に侵略された東南アジアの国の人々はどう思うだろう」といった否定的論調が国会や新聞で目につく。

 この文章には誤りがある。当時は「国々」などアジアにはなかった。あったのは欧米諸国の植民地だけで、侵略された主体はそういう宗主国になる。

 おかげで彼らは植民地を失ったのだから日の丸にいい感じはもっていないのは当然だが、この論調はそういう意図ではない。

 どうしても「現地の人々が日の丸をうらんでいる」風にしたいらしいが、歴史はむしろ「日本の侵略」で、人々が宗主国と戦う自信を得ていったようにみえる。

 陳中立に聞きたいところだが、彼の軍隊はハノイを前にして仏軍に待ち伏せされ全滅している。しかし、迷信を捨てた人々はその遺志をつぎ、さらに四十年戦って独立を果たす。

【高山正之の異見自在】 [1999年07月10日 東京夕刊]
http://kaz19100.hp.infoseek.co.jp/tak/110710.html



「江戸人」の天衣無縫さ たまには異人と喧嘩もいい
[1998年11月28日]

 日露戦争前後に米国西海岸に入った日本人移民は結構な辛酸をなめている。
 中心になって日本人排撃キャンペーンを張っていたのがデ・ヤング家のサンフランシスコ・クロニクル紙とあの新聞王ハースト家のエグザミナー紙だった。
 ハースト家の方はただなじるだけだが、クロニクル紙の方は分析やデータにも力を入れて、例えば「中国人が月十一ドルの食費をかけるのに、彼らはわずか四ドルしかかけずに貯金や送金に回す」(一九〇五年三月十九日付)と、日本人の習性もよく観察している。
 その辺が面白くて、同社の資料室をのぞいたことがある。
 あれこれ見ているうち、一枚のポスターが目についた。「不思議の国のジャグラーたち」の大きな文字の下に綱渡りや独楽(こま)回しをする江戸町人風の男女がカラーで描かれている。
 興味をもって調べてみると、これが江戸時代の末、欧米を旅興行した「幸八一座」のサンフランシスコ公演のポスターではなかろうかということになった。
 実はこの一座の座長、高野幸八の日記が昭和五十二年、福島県飯野町で見つかっている。慶応二年に横浜を旅立った三年間の巡業記録はポスターの雰囲気とも年代ともぴったり合いそうだが、それ以上に日記の記述がいい。なかなかの味わいなのである。
 例えば、そのサンフランシスコでは投宿したホテルの水道施設に素直に感嘆する。「ちょいとねじると水噴き出す。ねじ戻せば止まる」。ガス灯では面白がっていじりまわし、火事を起こしそうになるが、その辺は福沢諭吉が灰皿を頼むのをためらい、吸い殻をたもとに入れて火事にしてしまったのと大違いの素直さだ。
 東海岸では新見豊前守と同じにワシントンの「アメリカ国王の御所」に招かれる。豊前守らは会見場の床に座って低頭するが、幸八は堂々、大統領と握手し歓談もしている。
 会見のあと、幸八たちは、その足で「女郎買いを致し候」。何とも屈託がない。
 彼女らの対応は「日本とは十層倍勝り…」と評価するが、ただ清潔感については、「ふろにも入らず、水につけた布にてふく。その手ぬぐいにてあくる朝、顔を洗い拭くなり。その国のならいとはいいながらまことにもってむさくるしく、いやなり」と衛生観念欠如を厳しく指摘している。
 一座は欧州に渡り、パリ、リヨンと回るが、巡業の馬車には「日の丸の旗を打ち立て威勢よくまいり候」。日の丸に日本人の気概を託していた。
 興行はどこでも当たり、日記には「大入り」の文字と、はねたあとの「女郎買い候」が続く。
 オランダにもいくが、「この国は人わるし」とのっけに書いている。その言葉通り、街でオランダ人に取り囲まれ、「仁義わるければ、いろいろ悪態をいい」、奇妙な格好を笑って、「袖や裾を引っ張る。みな心外に思い、大喧嘩と相成り候」。
 向こうは大勢だが、こっちは小勢。ついには「われ差しまいり候大刀を引き抜き、むにむさんと振り散らし候ところ、異人驚きて右左に逃げ散るなり」。
 英国では枕探しに金を盗まれるが、幸八は泣き寝入りしない。警察に捜査させる。警察はそれらしい女を見つけては彼を呼び、「五人ならべおき、この中にいるか」と聞く。面通しである。その中にはいなかった。
 二、三日後、別の五人の面通しがある。数回繰り返して犯人をやっと見つける。
 この間、犯人と連れ立っていた仲間を見つけ、尋問するように警察にいうが、拒絶される。「彼女は無関係なのだから」と。
 また手間暇かけた面通しが「冤罪を起こさないため」という理由を聞いて感動もしている。
 刑事法については欧州視察の岩倉具視が「監獄では月に一度、洗浴を許す」「裁判には代言師(弁護士)あり」ぐらいの皮相な観察しかしていない。それに比べ幸八は法思想にも踏み込んでいる。
 その岩倉はトイレに困って山高帽の中に小用する恥ずかしいエピソードをもつ。初代警視総監の川路利良もパリに向かう列車の中でやはりトイレに困り、新聞紙を広げて用を足し、丸めて窓から捨てる。これが保線作業員に当たり、大問題になったと司馬遼太郎は書いている。
 幸八たち江戸人の天衣無縫さに比べると、だいぶ遜色のある“おずおず”ぶりだが、それでも立派に近代化を果たし、大国にも勝って明治人の気骨をみせた。
                 ◇
 立派な先祖をもつ平成人のもとに韓国の大統領がきたが、竹島を返せとはいえなかった。
 ロシアの大統領にも北方四島はうやむやにされ、逆に巨額の援助を約束させられた。
 そして中国のトップがやってきて、目いっぱいの謝罪と援助を要求されて、また頭を下げた。
 草葉の陰で先祖たちがそろって泣いている。
 
【高山正之の異見自在】 [1998年11月28日 東京夕刊]
http://kaz19100.hp.infoseek.co.jp/tak/101128.html



江戸芸人の予言 オランダは変わらなかった
[2000年01月29日]

 江戸時代末に欧米を巡業して歩いた高野廣八の曲芸師一座の話を以前、この欄で紹介した。

 屈託などどこかに置き忘れたような廣八は興行が終わると、「女郎買いに参り候」。米国ではホワイトハウスに招かれ、時のA・ジョンソン大統領と握手もするが、その晩にはもう娼館に駆け込んでその様子がどうの、大統領接見の三倍ぐらいの分量を日記に書きつづっている。

 欧州に渡っても同じで、ロンドンでもリヨンでもハネたあとの郭通いは欠かさなかった。

 しかし、ただ一国、例外があった。オランダである。理由は書いていないけれど、この国の印象を彼はこう書く。「家作わるく、人わるし。国も同じく悪しく…」

 ハーグではこの道中でただ一度の喧嘩もし、刀を抜いてオランダ人相手に大立ち回りを演じてもいる。飾り窓をのぞく気分にもならないほど、腹に据えかねる何かがあったことは十分うかがえる。

 それが何なのか、ヒントらしいものが、廣八の時代から半世紀後の蘭領東インド(インドネシア)のオランダ人、ビンネルツの日記に書きとめられている。「日本人は背が低く不潔で、曲がり脚の猿のように醜く、動物の檻(おり)に漂う臭気と同じぐらい強烈な鼻をつく体臭がする」

 ちなみにオランダ人評論家、R・カウスブルックは「日本人は毎日風呂に入り、臭いもない。むしろオランダ人の方が不潔で体臭は強い」(「西欧の植民地喪失と日本」)と訂正し、この発言がオランダ人の有色人種への観念的な蔑視に基づいていると指摘する。

 同じ肌色の植民地の人々に対しても、この意識は同じで、スマトラのたばこ農場の様子を記録した「レムレフ報告書」には現地人を米国の黒人奴隷と同じように取り扱い、「鞭打ち、平手打ちは当たり前だった」と記録する。

 ある農場では「粗相をした二人の女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部に唐辛子粉をすり込んで木の杭に縛り付けて見せしめにした」。

 刑務所で過酷な労役を課せられる囚人が、「オランダ人の農場より食べ物がいいから」と出所を拒んだ例も伝えている。有色人種は家畜よりひどい存在だった。

 オランダ出身のフランクリン・ルーズベルトもそういう意識が強かった、とニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸で会談した英国のロナルド・キャンベル公使は本国あてに書き送っている。

 大統領がこのとき打ち明けたのは「劣等アジア人種」を牛や豚のように品種改良しようという計画で、「インド系、あるいはユーラシア系とアジア人種を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる、というのがルーズベルト大統領の考えだった」

 米大統領のアジア人蔑視、日本人敵視の気分は、蘭領東インドのオランダ人ともぴたり一致する。一九四一年七月、米大統領は日本人に中国大陸から撤退して「もとの島々」に戻るよう、いわゆるハル・ノートを出し、米国にある日本資産を凍結する。オランダもそっくりならって蘭領東インドの日本人資産を凍結、約六千人の在留邦人を追い出した。

 その結果が五カ月後の太平洋戦争になる。そして戦争が終わった後、オランダ人は抑留中に「平手打ち」と「粗食」を食わせた旧日本軍兵士の裁判を行い、連合国の中では最多の二百二十四人を処刑した。なぜ、その程度の罪で極刑を宣告したのかというと、平手打ちも粗食もともにオランダ人が現地の人々に与えたもので、それを日本人から与えられた屈辱の報復といわれる。

 またオランダ政府も戦時賠償金を日本政府に要求、日蘭議定書で多額の金銭賠償を取った。

 その対日報復のさなかに、現地の人々が独立を求めて立ち上がった。オランダは「戦闘機、戦車など近代兵器と十万の兵士を送り込んで、女性子どもを含め八十万人を殺した」(福田赳夫首相とサンバス将軍の会談)。

 四年間の戦争の末、オランダは渋々独立を承認するが、その条件は独立を容認した代償として六十億ドルを支払うこと、オランダ人が所有してきた農場などの土地財産の権利を保全すること、スマトラ油田の開発費を弁済することなどだった。もちろん植民地支配の償いや謝罪は一切なかった。

 インドネシア側はこの条件をのんでやっと独立が認められた。

                  ◇

 それから五十年たって、オランダ政府は日本軍が戦時中、オランダ人の資産を奪った疑いがあるとして調査を行った。今月十七日に発表された結果はシロだった。でも戦前、日本人資産を凍結の名で取り上げたことは調査の対象から外していた。

 抑留者グループたちもまだ屈辱感が晴れないのか、その賠償を求める裁判を起こしている。

 また、二十五日付のオランダ紙は五月に訪問を予定される天皇陛下に「謝罪を挨拶に入れるよう政府特使を派遣した」と伝える。

 「人わるし、国同じく悪し」と廣八は書いた。昔の人はモノを見る目があった。

【高山正之の異見自在】 [2000年01月29日 東京夕刊]
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/120129.html



オランダ人の歴史認識 自分のふりを見つめては?

[2000年04月22日 ]

 この前、オランダの週刊誌記者というのが突然、訪ねてきた。何でもこの欄で書いたオランダ評が向こうの新聞に載り、それで結構な騒ぎになっているという。

 江戸時代末、欧米を巡業した旅芸人一座の座長がオランダを評して「人わるし、国また悪しく」と書いた理由をその後のオランダ人の行動から分析してみたものだ。例えば、日本人を悪臭を放つ猿と表現する人種差別意識の強さ、植民地だったインドネシアの独立のさいに謝罪どころか逆にばく大な“独立許可金”を請求したあこぎさ、それに何度も日本から賠償と謝罪を繰り返させながら、日蘭交流四百年記念の今年、また同じ要求をするしつこさなどをあの座長は感じ取っていたのでは、というごく妥当な結論にしておいた。

 だから、オランダ人が何で騒ぐのかわけが分からなかったが、それでもこの記事を書いた動機が知りたいというので、日本人は欧米の国々、例えばチューリップや風車で象徴されるような国も含めて、みんないい国、いい人ばかりと思いがちだけど、みんな結構したたかなんだよといったお知らせでもあると答えておいた。

 その週刊誌、「エルセフィア」というのだけれども、それが出たあと、これで沈静化するかと思っていたら、大違いだった。駐日オランダ大使から本紙に電話があったり、向こうの新聞からテレビ局までやってきて、もう仕事にもならない騒動になってしまった。

 それなら向こうではクオリティー紙という「NRC・ハンデルスブラット」に寄稿することにしてけりをつけることにした。

 以下、要約になるが、日本軍とオランダ人の遭遇という一断面だけで、つまり自分たちがやった植民地支配などをさっぱり棚上げして、あのころの歴史を評価するのはいかがなものかと問いかけ、その意味でコック・オランダ首相がこの三月下旬、日本に何度目かの謝罪を求める一方で、インドネシアへの非道な行為を初めて認めて「わびる用意がある」と語ったことを高く評価してみた。

 そうやって他人のあら探しだけでなく、自分のふりも見つめれば、おのずと歴史を正しく見ることができるじゃないか。そうすればお互いの理解も増すはずだ、と。

 その辺でやめてもよかったけれど、ついでに日本には、いわれるように拡張主義、侵略主義を展開するほど資源や軍備に余裕はなかったことにも言及してみた。

 そういう状況で、例えば日本には消耗でしかなかった「インド解放のため」のインパール作戦も遂行した。

 自分の国の存続すら危ない時期に、二十万人の兵士を投入してよその国の自立を助けるという前代未聞の作戦は結局、全滅という悲劇に終わったが、それだからこそ、なおさら欧米列強からアジア諸国を解放しようとする思い入れがあったことを理解してもらえるのではないか、という期待もあった。

 実際、そうした犠牲があったからこそ、英歴史学者クリストファー・ソーンも、「ある意味で慈悲深く、欧米のアジア植民地支配の終結を早めさせた」と、その著書「欧米にとっての太平洋戦争」の中ではっきり書いている。

 しかし、これもまた逆効果だったらしい。この私見がハンデルスブラット紙に掲載されるや、同紙の投書欄に山のような反論が次々に載せられた。

 いわく「タカヤマは日本の歴史をゆがめる唾棄すべき偽善者で、アジア諸国を植民地のくびきから解放したというとてつもない虚構をでっちあげようとしている」

 「彼は傲慢にも日本軍が犯した重大な戦争犯罪と、オランダ人がインドネシア人に対してやった小さなミス(Lapse)を同じに扱おうとしている」

 「インドネシアの占領は日本の拡張主義の最後の到達地で、彼らは抑留者にそのままでは食うこともできない大豆を食事に出し、オランダ人を淘汰しようとした。朝鮮や中国で日本軍が行った無慈悲さをもって」

 以下、少なくとも八通の投書はいずれも本人が読んでいていやになるようなものばかりだが、もう一つ共通しているのが、三百五十年にわたって搾取を続けたインドネシアの植民地支配について、あるいは戦後、独立を求めて立ち上がったインドネシア人を近代兵器を総動員して八十万人も殺しまくった事実について「ささいなできごと」にしている点である。

                   ◇

 「Go Dutch」とは割り勘でいこうという意味だ。

 「Be in the Dutch with」、直訳すれば「オランダ人的な間柄にある」という慣用句は、仲が悪いという意味に使われる。

 ワーグナーは神をそしり、その罪ゆえに世界の海をさまよい続ける船長の国籍をオランダ人にしている。あの「フライング・ダッチマン(さまよえるオランダ人)」である。あるいはさまよう幽霊船の名ともいわれるが、いずれにせよ、そういう風に「Dutch」がつかわれるのが何となく分かるような気もする。

【高山正之の異見自在】 [2000年04月22日 東京夕刊]
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/120422.html
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by thinkpod | 2007-10-10 22:14
2007年 10月 08日

アメリカの鏡・日本

Mirror for Americans: JAPAN

ヘレン・ミアーズ(Helen Mears)


概 要
1949年日本占領連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが日本での翻訳出版を禁じた衝撃の書。戦後50年記念出版(帯書きより)。
1.パールハーバーは青天の霹靂ではなかった。アメリカは、さしたる被害なしに日本に第一撃を仕掛けるように画策した。
2.原爆投下は必要なかった。それは日本に対して使ったのではなく、ソ連との政治戦争で使用したのだ。
3.終戦直後、「アメリカは日本を裁くほど公正でも潔白でもない」と主張したアメリカの女性歴史家ヘレン・ミアーズ。日米関係が軋む今日、日本人必読の書!


目次

  日本語版刊行にあたって……………白子英城 13

第一章 爆撃機から見たアメリカの政策……………15
  1 フラッシュバック 17  7 クワジャリン環礁 42
  2 島伝いの旅 23     8 罪なき傍観者 44
  3 ヒッカム基地 27    9 グァム 47
  4 パールハーバー 30   10 誰のための戦略地域か 49
  5 ジョンストン島 36   11 戦略的占領 58
  6 戦争犯罪とは何か 36  12 アメリカの墜落 67

第二章 懲罰と拘束……………75
  1 なぜ日本を占領するか 77
  2 攻撃と反攻 83

第三章 世界的脅威の正体……………93
  1 つくられた脅威 96    5 降伏受諾 142
  2 日本はいつ敗れたか 110  6 リーダーの資格 149
  3 サムライ神話 114     7 日本は戦略地域か 150
  4 銃もバターも 128     8 飢餓民主主義 152

第四章 伝統的侵略性……………157
  1 神道からの解放 159   5 日本とアメリカ−その生い立ち 181
  2 誰のための改革か 165  6 武士階級 195
  3 「歴史的拡張主義者」 169 7 「間違い」の歴史 202
  4 「伝統的軍国主義者」 175 8 思想からの解放 205

第五章 改革と再教育……………213
   1 リーダーシップ 215  4 中途半端なカは引き合わない 226
   2 歴史の証言 216    5 理論と実践 230
   3 初めの占領 220    6 教育者の資格 237

第六章 最初の教科 「合法的に行動すること」……………243
   1 歴史の復活 246
   2 韓国の奴隷化 250
   3 全体主義 259
   4 改革か戦略か 262
   5 国際教育なるもの 265

第七章 鵞鳥のソース……………269
   1 満州事変 271      5 リットン報告 286
   2 中国の歴史 273     6 日本は合法的に行動している 291
   3 攻撃と反攻 277     7 確立された満州の秩序 296
   4 アメリカの役割 279

第八章 第五の自由……………305
   1 イデオロギーか貿易か 308 4 誰の不公正競争か 317
   2 誰のための門戸開放か 308 5 飢える自由 324
   3 誰のための自由経済か 314


第九章 誰のための共栄圏か……………339
   1 戦略の失敗 341
   2 倫理の失敗 344
   3 日華事変からパールハーバーヘ 349
   4 英語圏 357
   5 誰のための共栄圏か 366

第十章 教育者たちの資質……………381
   1 有罪か、無罪か 384    4 逆向きのリーダーシップ 396
   2 力は引き合う 386    5 脅威とは何か 406
   3 韓国の解放 389     6 パワー・ポリテイクスは逆境射する 411

付録 1 大西洋憲章 419
   2 パールハーバー 420
 国務省総括/上下両院合同調査報告 420

訳者あとがき 425



内容紹介

日本語版刊行にあたって(白子 英城[アイネックス社長])
 戦後50年のいま、われわれ日本人は、現代の歴史を日本中心の観点だけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカを同じ時間帯で見すえるグローバルな視点から、なぜそうなったのか、をもう一度考え、議論し、そして現代史を総括しなければならないと思う。それによって、われわれ日本人が、過去にやってきたことで、何が悪かったのか、何が正しかったのかをしっかりと理解しなければならない。


第1章 爆撃機からみたアメリカの政策 P.15
Bombsight View of Unanswered Questions of United States Foreign Policy
 [要約]
 著者が1946年占領政策に参画するために来日する際、真珠湾、グアムなど太平洋の島に立ち寄った折りに見聞きした事柄にふれながら、本書の基本的な考え方を示す導入部。10章のうち2番目に長い。
 [抜粋]
 1)パールハーバーは戦争の原因でなく、アメリカと日本がすでに始めていた戦争の一行動にすぎないようだ。したがって「なぜ日本がわれわれを攻撃したか」を考えるなら、「なぜわれわれは、すでに日本との戦争を始めていたか」について考えなければならない。
 2)第3次世界大戦を防ぐためには、まず、第2次世界大戦の事実を整理する必要がある。
 3)日本軍がフィリピンで犯した残虐行為は、日本の歴史にとって永遠の汚点となるだろう。日本兵が残酷で残忍であったことは明らかな事実だ。それでも、山下裁判とマッカーサー声明の根底にある考え方は受け入れがたい。戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。
 4)追いつめられてヒステリー状態にあったとはいえ、2千人の非戦闘員を殺すことは、もちろん恐るべき犯罪である。しかし、絶体絶命の状況の下で戦っているわけでもない強大国が、すでに事実上戦争に勝っているというのに、1秒で12万人の非戦闘員を殺傷できる新型兵器を行使する方が、はるかに恐ろしいことではないのか。山下将軍の罪は、なぜ広島、長崎に原子爆弾の投下を命じたものの罪より重いのか。


第2章 懲罰と拘束 P.75
Punish and Restrain
 [要約]
 なぜ日本を占領するか。米国が罰しようとしている日本の犯罪とは何か。日本の立場からの反論も述べている。この本の中で一番短い章。
 [抜粋]
 1)占領の目的は1945年9月19日、D・アチソン国務長官代行が語った言葉に要約される。「日本は侵略戦争を繰り返せない状態におかれるだろう。戦争願望を作り出している現在の経済・社会システムは、戦争願望を持ち続けることができないように組み替えられるだろう。そのために必要な手段は、いかなるものであれ、行使することになろう」
 2)私たちの告発理由は「殺人」である。世界征服の一段階として、アメリカに対し「一方的かつ計画的攻撃」をかけたというパールハーバーの定義が告発の基礎なのだ。

第3章 世界的脅威の正体 P.93
Hindsight View of a World Menace
(Hindsight;目先の利かないこと[Forsightの対]、Menace;脅迫)

 [要約]
 日本が降伏した理由、日米の工業力・軍備の差、原爆投下の正当性に対する疑問など。第1章の英文タイトルとの対比に注意。この本の中で一番長い章。
 [抜粋]
 1)なぜ日本は降伏したのか。世界で「最も軍事主義的国家」であり、「ファナスティックな好戦的民族」がなぜ、武器をおいて占領を受け入れ、精いっぱい友好的な顔をして征服者に協力しているのか。
 日本民族は好戦的ではなかった。日本の戦争機関は、占領や原爆投下のずっと前に完敗していたのだ。
 2)1942年5月には、早くも私たちは日本軍の進撃をくい止めた。しかし、日本軍は別にアメリカ本土を目指していたわけではない。アメリカとオーストラリアの連絡路を切断するために前進していたのだ。1942年6月のミッドウェー海戦で、私たちは「海軍航空力の優位を確保し・・・その結果海軍力全体の優位」を確実にしていた。
 3)パールハーバーの時点で日本の陸海軍が持っていた飛行機は全部で2,625機だった。
アメリカと連合国が太平洋の基地に配置していた飛行機は1,290機にすぎない。一見して日本の方が圧倒的に有利に思える。しかし、日本の飛行機は満州から太平洋まで、広く薄く配備しなければならなかった。月間生産量はわずか642機で、9ヶ月間このままの数字で推移している。1944年9月に月間生産量は最高の2,572機に達したが、それからすぐ原材料不足のために落ち始める。私たちのほうは1941年6月には月間1,600機の飛行機を生産していた。以後生産量は急速かつ着実に伸びて、1943年には9千機に達していた。1945年には私たちの1年間の製造機数は、日本が1941年から降伏までに製造した飛行機の2倍にのぼっていた。その上日本はアメリカの一に対して十の割合で飛行機を失っていた。
 4)私たちはたった11日待った(ポツダム宣言の後)だけで、いきなり1発の原子爆弾を、そして2日後(原文のママ)にはさらにもう一発を、戦艦の上でもない、軍隊の上でもない、軍事施設の上でもない、頑迷な軍指導者の上でもない、二つの都市の約20万の市民の上に投下した。しかも犠牲者の半数以上が女子供だった。
 原爆が投下されなくても、あるいはソ連が参戦しなくても、また上陸作戦が計画ないし検討されなくても、日本は1945年12月31日以前、「あらゆる可能性を入れても1945年11月1日までに」無条件降伏していただろうという意見をつけている(米戦略爆撃調査の公式報告)。
 5)ソ連は中国領土内の一定領土及び財産を確保することを条件に、対日戦に参戦することを約束した(1945年2月7日のヤルタ会談における米ソの「最高秘密」合意)。


第4章 伝統的侵略性 P.157
Traditionally Agressive
 [要約]
 神道の意味、近代日本の変貌とその意味、日本と米国の生い立ちの違いなど。日本は伝統的な軍事主義国家かについても述べている。
 [抜粋]
 1)私たちの戦後対日政策には、神道と「天皇制」は本質的に戦争を作り出すものであるという考え方が組み込まれている。
 神道と天皇崇拝は日本人の民族感情にとって重要な文化と宗教の伝統を表すものだった。これは、他の民族が固有の文化、宗教の伝統を持っているのと同じ国民感情である。伝統の力が強ければ強いほど、国家存亡の時には、戦争計画への国民統合に利用される。しかし、伝統が戦争の大義なのではない。ひとたび戦争が決定されると、伝統は防衛という名の戦争計画の背後に国民を統合するための手段となる。そうすることによって、為政者は複雑な戦争理由をわかりやすくするのである。
 国家神道は、1868年、西洋の指導に応えて出てきたものだ。近代国家以前の日本では、神道は自然と祖先に対する信仰であり、習俗であった。
 2)私たちは、日本人の性格と文明を改革すると宣言した。しかし、私たちが改革しようとしている日本は、私たちが最初の教育と改革で作り出した日本なのだ。
 近代日本は西洋文明を映す鏡を掲げて、アジアの国際関係に登場した。私たちは日本人の「本性に根ざす伝統的軍国主義」を告発した。しかし、告発はブーラメンなのだ。日本の伝統的な発展パターンは、十九世紀半ば、アメリカを含む西洋列強の侵入と、ダイナミックな欧米文化の外圧的導入によって壊され、二つの異種文明が混在する日本が出現した。
 3)ペリーからマッカーサーまで一世紀足らずの間に、日本は農業、手工業を中心とする交換経済から、産業、貿易中心の資本主義経済に移行した。そして、半独立の藩からなる緩やかな連合体は高度に中央集権化された国家に変わり、孤立主義を守る小さな島は軍国主義的、帝国主義的大国に変貌した。
 近代日本は西洋の帝国主義列強に対抗するために帝国の伝統という虚像を身につけたのだった。


第5章 改革と再教育 P.213
Reform and Re-Educate---First lesons
 [要約]
 日本はもとは軍国主義的ではなかった。日本もかっては半植民地だった。欧米列強も日本の近代化を歓迎していた。米国に日本を教育する資格があるのかなど。
 [抜粋]
 1)ペリー以後の近代日本が、侵略的であり、拡張主義的であったのは確かだ。しかし近代以前の日本が平和主義であり、非拡張主義であったことも確かだ。
 2)日本人は生まれつき軍国主義者であり、拡張主義者であるという宣伝文句ほど、私たちを混乱させるものはない。
 15世紀、朝鮮に攻め入った孤独な将軍の遠征をとらえて、日本民族を生まれつきの軍事主義者と決めつけるなら、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして私たち自身のことはどう性格付けしたらいいのだろう。これら諸国の将軍、提督、艦長、民間人は十五世紀から、まさしく世界征服を目指して続々と海を渡ったではないか。
 3)日本の歴史を日本の立場から説明すれば、日本人は世界を征服する野望にとらわれていたのではない。世界のどこの国にも征服されたくないという気持ちに動かされてきたのだ。
 4)この時期(1854年頃)から、十九世紀末までの日本はいわば半植民地だった。欧米列強の代表たちは、貿易のすべてを管理し、税率と価格を決め、沿岸通航を独占し、日本の金を吸い取り、99年間の租借権と治外法権に守られて日本に住んでいたのだ。
 5)しかし、十九世紀後半になると、もはや外界と隔絶することも、時間をかけていることもできなくなった。日本は妥協を許さない欧米人を閉め出すことができなかった。欧米は自信を持った。科学と機械力で自信をつけた欧米人は、自分たちはアジア人やその他の「後れた」人種より本質的に優れていると確信して植民地に対していた。欧米の行動様式は欧米人が「正しい」と認めたものであり、それ以外の行動様式は「間違い」だった。欧米に順応すれば「進歩」であり、順応できなければ「反動」とされた。
 6)私たちが戦争戦後を通じて、日本を非難する理由は、この中央集権的経済体制の発展が「全体主義」的であり、「戦争願望」を作り出したというものである。しかし、当時の欧米列強はこの発展を歓迎していたのだ。文明の後れた韓国と中国に西欧文明の恩恵をもたらす国、近代的秩序と規律を持つ国家が必要だった。だから日本の近代化が求められていたのだ。


第6章 最初の教科書「合理的に行動すること」 P.243
First Lessons ---"Do It Legal"
 [要約]
 1854年当時のロシアなどの状況、韓国の奴隷化、日本が最初に学んだことなど。英語のタイトルにあるFirst Lessonsは前章のタイトルのFirst Lessonsを受けている。2番目に短い章。
 [抜粋]
 1)1854年、アメリカが他に先駆けて日本を国際潮流に引き入れることができたのは、イギリスとフランスがロシアの地中海進出を阻止するために、クリミア戦争でトルコ帝国の支援するのに忙殺されていたからだ。英仏両国にしてみれば、ロシアの地中海進出は、極東に展開する自分たちの帝国と勢力圏にいたる独占ルートを脅かすものだった。
 地中海で阻止されたロシアは、太平洋への出口となる不凍港を求めて、北東アジアへの進出をはかった。ロシアは英仏が中国から力で引き出した譲歩を利用して、日本と朝鮮北部に隣接する沿海州とウラジオストックを確保した。そして、日本本土の北に位置し、地理的には日本列島の一部である樺太と千島列島に入り込んだ。
 2)いまになってみれば、日本が韓国を「奴隷化した」ことは明らかだ。日韓相互防衛のため、自国を併合してほしいと日本に要請した韓国皇帝の請願は侵略を糊塗するための法的擬制(リーガル・フィクション)であることも明らかだ。
 3)日本と中国の関係は、全(九カ国)条約当事国と中国の関係がそうだったように、主権国家間の関係ではなく、大国と半植民地の関係だった。
 4)国際関係の問題を正しく理解しようとする人なら、日本に対する最初の教育が問題を見事に解明してくれることに気づくだろう。今日私たちは「法と秩序」「条約の尊重」「国家の平等」「領土保全」「個々の人間に対する人道的配慮」といった、誰も否定できない原則にたって日本を非難している。しかし、最初の教育で日本は、そうした原則は文字に書かれた教典ではなく、力の強い国が特権を拡大するための国際システムのテクニックであることを、欧米列強の行動から学んだのだ。
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by thinkpod | 2007-10-08 16:26 | Books
2007年 10月 08日

アメリカの鏡・日本(下)


第7章 鵞鳥のソース P.269
Source for the Gander(タイトルの意味については[抜粋]10)を参照)
 [要約]
 満州事変のいきさつと、欧米各国のとった態度。ここに太平洋戦争の発端がある。
 [抜粋]
 1)懲罰と平和の問題は、口で言うほど単純なものではない。まず第一に、満州事変に対する一般の見方が、きわめて複雑な事件を極端に単純化していることだ。第二に、一般に行われている日本非難は道義と人道を基盤にしているが、外国の侵略を押し止めるのは道義ではなく、国際法である。私たちが日本を罰する権利は、庶民感情や理想によっているのではない。超大国アメリカの工業力と軍事力を後楯にした米国務省の決定によっているのだ。
 2)満州事変は、その後の日華事変同様、この複雑な状況の論理的帰結だった。韓国問題のときと同じように、大きな問題は中国での「権益」を守り、拡大しようとする西洋列強同士の対立だった。争っているのは、日本と中国ではなく、日本と欧米列強だったが、ロシア革命で状況が複雑になった。これによって中国の共産主義思想が日本の勢力拡大より大きな脅威になろうとしていたのだ。さらに問題を複雑にしたのは、アメリカの立場である。理想主義的政策を支持していたアメリカが、いまや即物的、国家主義的言葉でしか理想を語れなくなったことにいらだっていた。
 3)アメリカ国内の世論は、この事件(満州事変)にそれほど関心を持っていなかったが、一応は中国を支持した。国際連盟加盟の小国はどちらかといえば中国についたが、大国の政府は態度をはっきりさせなかった。彼らにとって、問題は日本の意図だった。もし事件が日本の主張どおり、「法と秩序」を回復し、日本の「合法的財産」を守るための通常の「警察行為」なら、日本の法的立場は強い。日本は条約上の権利の枠内で行動したことになる。しかし、日本が満州併合を策しているなら事情は違ってくる。
 4)アメリカと連盟がゆっくり動いている間に、満州の事態は急展開した。連盟が設置した調査委員会(リットン調査団)が満州に到着する前の1932年2月29日、満州人代表が瀋陽に集まり、中国からの独立と、独立国家満州国の樹立を宣言した。そして、リットン調査団が報告書を連盟に提出する前の1932年9月15日、日本は新しい国を独立国家として「承認」したのである。
 5)しかし、日本は行きすぎたようである。1932年1月、満州事変は抗日運動が盛り上がる上海に飛び火した。上海の租界に権益を持つ各国の軍隊が警備体制についた。日中両国軍が衝突し、日本軍は中国側の拠点チャペイを攻撃した。各国は共同租界の周辺で起きたこの衝突に強い懸念を抱き、アメリカとイギリスは日本政府に抗議文を送った。何度か交渉が重ねられた結果、戦闘はやんだが、五月まで事態は収拾されず、日本軍は撤退しなかった。
 6)日本にとって、リットン報告の見解は「法的」にきわめて重要である。もし、ある「軍閥政権」が外国勢力に認められたというだけで「中央政府」になれるなら、大国である日本が自分の勢力圏内にある望ましい政権を中央政府として認めてならない理由はないのだ。もし、中国の中央政府が報告で明確にされているように法的擬制なら、日本の満州も同じである、と日本は考えたのである。
 7)日本がリットン報告にびっくりしたのは当然である。報告は日本の誇りを傷つけただけでなく、アジアの大国としての地位を根底から脅かすものであった。心理的衝撃は、日本は西側先進国ではないとされたことである。日本は五大国の高い席から、アジアの後進民族と同じ地位に引きずり下ろされたのである。
 8)そこで日本人は、こうした非難は日本の行動に対してではなく、人種に向けられたものだという結論に行きつく。中国人もリットン報告を子細に読めば、同じ結論に達しただろう。国際連盟がリットン報告を受け入れ、連盟とアメリカが満州国を独立国として承認しなかったことから、日本は連盟を脱退した。
 9)日本が満州で治外法権を放棄したことに対してもそうだ。欧米諸国が日本の行動に拍手を送ってあとに続けば、むしろ日本の侵略を非難しうる堅固で正当な論理的基盤を作れるはずだ。ところが、満州には欧米諸国の特権的地位を奪う権利はないと激しく攻撃したのである。
 10)雌鵞鳥(グース)のソースは雄鵞鳥(ガンダー)のソースにもなる(訳注;西洋人に許されるなら、日本人にだって許される)のだ。


第8章 第5の自由 P.305
The Fifth Freedom
 [要約]
 日本側からみた満州事変の意義とアメリカの説明、日本にとっての満州の必要性、戦後の米国(連合国)の対日政策など。
 [抜粋]
 1)戦争原因を考えるに当たって、私たちは人種的、思想的側面にこだわりすぎ、経済的要因を無視している。日本の視点からいうなら、この戦争はアジア民族がアジアの支配勢力として台頭するのを阻止し、米英企業のために日本の貿易競争力を圧殺しようとする米英の政策が引き起こしたものだった。
 それが米国政府の意図だったという見方は、アメリカ人なら誰も認めないだろうが、実際に行われた政策と米国政府の公式説明は、まさに日本の解釈を裏付けているといわざるを得ない。
 2)日本が私たちの政策を(1)イギリスを全面的に支持する、あるいは(2)自分たちには必要ないが、とにかく日本にだけは渡したくない、あるいは(3)アジアでの戦略的利益を守る、ための政策であると考えたのも当然だった。
 3)政策を判断するには、常に「平和と人類の幸福」という一対の物差しが必要だ。
 4)戦後日本の絶望的状況にぶつかったアメリカの政策立案者は、政策を転換し始めた。日本の再建に数十億ドルの政府借款供与が考えられている。しかし、これは国民生活を考えてのことではなく、日本を対ソ連基地にすることが狙いらしい。同時に、米国企業は対日投資の効果を考え始めているようである。連合国の政策で破産した日本に資本を投入して、アジア市場への足場を築くという考え方が出ているのだ。


第9章 誰のための共栄圏か P.339
Whose Co-Prosperity Sphere?
[要約]
 満州事変における連合国対日政策の失敗原因、日支事変さらに第二次世界大戦突入へのいきさつ、日本の立場と欧米の立場、現代への教訓など。
[抜粋]
 1)私たちの目的である平和と人類の幸福を達成するための国際関係システムに向けて、私たちが指導的役割を果たせるかどうかの問題である。
 満州事変に対する大国の政策の失敗原因は、はっきりしている。人道的目的というものは、パワーポリティクスの技術や特殊権益を考えていては達成できない。
 2)1941年にようやくイギリス、オランダ、アメリカは対日貿易の断絶に踏み切ったが、もし1931年か1932年の時点でそうしていたら、日本は立ち往生していたはずだ。
 3)戦略的に見ると、列強の政策は、(1)日本が拡張に向かわざるをえない心理的、経済的要因を強め、(2)同時に、日本が公然たる反抗を考えるほど強くなるのを助けて、失敗したのだ。
 一方で、日本をイギリスの安全保障体制の一部として利用しようとする考えが、依然としてあった。日本を混乱状態にある満州地域の警察官にする。中国とロシアの緩衝材としてつかう。中国で共産革命が起きた場合に日本の力を借りる。中国の民族主義に対抗して、日本を条約国の統一を守る助けとする、という考え方があった。
 4)民主主義国の倫理面での失敗はもっと深刻である。
 米英二大国が1931年に満州事変に懸念を表明したとき、同時に治外法権を返していたら、不平等条約を放棄していたら、租借地と割譲地を返還していたら、自国の艦船と軍隊を撤退させていたら、満州を侵略であると厳しく断じることができただろう。
 5)日本からみれば、問題はきわめて簡単だった。つまり、(1)満州に「合法的自衛」手段としての戦略拠点を確保し、(2)日本帝国圏(韓国と台湾)と満州、華北からなる経済ブロックを作って経済の安全保障を確立しようというのが日本の計画だった。そうすれば、これまでのように原材料物資と市場をアメリカ、イギリス、フランス、オランダに依存しなくてもすむ。
 6)この時点までイギリスは蒋介石と日本の双方を牽制しつつ支援していたが、華北が独立を宣言し、日本と満州が共同して関税同盟と経済ブロックを結成する可能性が強まってくると、危機感を抱くようになった。イギリスは華北に大きな「権益」を持っていたから、支配的地位から降りようとはしなかった。そこで、イギリスは通貨再編成のために金融専門家、フレデリック・L・ロス卿を送り込み、銀の国有化計画を成功させて、蒋介石を外交的にも財政的にも強化した。同じころ、国民党大会初日の記念写真におさまろうとしていた汪精衛は、カメラに隠されていた銃に撃たれた。
 7)1937年11月、日本は支配地域に共産主義の侵入を許さないための「自衛手段」と称して、独伊反共条約に加盟した。
 8)1941年7月、アメリカ、イギリス、オランダは共同で各統治領内の日本資産を凍結し、貿易関係を全面的に中断した。
 9)日本は、戦うか、三国の条件をのんで小国に身を落とすか、の決断を迫られることになった。日本の内閣は総辞職した。近衛公が去り、東条大将がやってきて、凍結措置は戦争行為であると無造作にいい放つ。次にくるのは必然的にパールハーバーとシンガポールの攻撃である。日本にいわせれば、これは当然の自衛行為であり、「帝国の存立」をかけた攻撃だった。そして戦争を論理的に正当化する法的擬制は大東亜の解放だった。
 10)1934年、日本外務省情報部長(スポークスマン)、天羽英二が新外交政策を発表した。これは日本のモンロー・ドクトリンと呼ばれ、やがては大東を共栄圏に発展して行くものだが、この政策で日本は、日本だけが極東平和の責任を負っていること、中国にいる外国勢力が平和と秩序を乱すような行動をとったり、中国と日本の間に紛争をもたらすような行動をとった場合、必要なら武力をもってこれと対決することを明らかにした。日本外務省は、中国のいかなる政府に対しても、政治的借款の供与、政治顧問の提供は、一切禁止されると述べた。
 米国政府は、日本がこの政策を「モンロー・ドクトリン」と呼び、アメリカの対中南米政策になぞらえようとしていることが許せなかった。しかし、日本から見れば類似性は明白なのである。問題は、私たちが日本と中国の関係だけを考えていたのに対して、日本は中国を支配している欧米列強と日本の関係であると考えていたことにありそうだ。アメリカのモンロー・ドクトリンはヨーロッパの支配が西半球まで及ぶことに反対するものだった。
 11)国際関係を考えるさい、私たちは植民地体制の持つ意味を無視しているが、これは日本の犯罪に対する態度より、はるかに広い意味で重大である。満州事変と日本の共栄圏構想を再検証すれば、なぜ旧国際連盟が平和を守れなかったかが浮かび上がってくる。そして、現在の国際連合の間違いが見えてくるのである。
 12)そこで、日本人は、今日のフィリッピンがかっての満州国と何ら変わらない存在であることに気づくのである。
 13)満州事変とインドネシア事変(インシデント)は驚くほど似通っている。オランダは、日本が中国で行ったことを、インドネシアで行っている。これはかって中国が非難した行動なのだ。
  今日蒋介石の中国が置かれている立場は、日本が最初の教育の時に置かれていた立場と同じである。アメリカ人はこの類似性について真剣に考えてみる必要がある。
 14)日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返している。大戦中日本は、実際に、占領したすべての地域に現地「独立」政府を樹立していった。
 15)すべての国が、法的擬制は敵だけでなく自分たちも持っていることを認める必要がある。東アジアの原住民が信託統治、あるいは非自治地域、あるいは戦略地域の名目で欧米の行政管理下にはいるほうが、植民地や信託統治領の行政のもとにいるより好ましいと考えているとは思えない。この人々にしてみれば、戦争は単にアジア人支配者を追放したにすぎない。そして英語圏がその足場を固め、アジアに近づいたというだけのことなのだ。


第10章 教育者たちの資質 P.381
Notes for Educators
[要約]
連合国の教育者としての適切性、日本の成功がアジアの知識人に与えたインパクト、パワー・ポリティクスに対する警鐘、イギリスの安全保障システムの評価など。
[抜粋]
 1)日本と日本人の罪と罰という問題は単純ではない。確かに、日華事変の記録を普通に読めば、日本の指導部と軍隊の行為すべてが犯罪であるということができる。彼らの重大な犯罪には「情状酌量」の余地がない。彼らは残忍にも非戦闘員を爆撃した。彼らは他人の財産を略奪し破壊した。彼らは何百万の民衆に恐るべき惨禍をもたらした恐怖のの戦争の遂行者である。
しかし、日本が実際に「人類に対する罪」を犯したとしても、私たちが日本国民を懲罰するのは果たして正義だろうか。また、現在行っている懲罰が将来起きるかもしれない同様の犯罪の抑止力たりうるだろうか。答えは否(ノー)である。西洋列強が極東で行ってきたことをふり返り、戦争中の私たちの行動を認識し、私たちの現在の政策と連合国の戦争政策を日々の新聞紙上で追うならば、日本を有罪にしても民主主義諸国の罪は拭えないことがわかるのだ。日本が犯した罪は実際には何であったか、私たちが何で日本を罰しているのか、私たちがどういう根拠で罰せられるより罰する立場にいるのか、将来現れる侵略者にはたぶん理解できないだろう。
 2)日本の本当の罪は、西洋文明の教えを守らなかったことではなく、よく守ったことなのだ。それがよくわかっていたアジアの人々は、日本の進歩を非難と羨望の目で見ていた。
 3)政治意識を持つアジア人は日本の輝かしき成功からなにを学ぶべきか、よく理解していた。中国の革命指導者、孫逸仙(孫文)は「三民主義」の中で次のように書いている。
 ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。日本はアジア問題の代弁者だった。他の諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。白色人種にできることは日本人にもできる。人間は肌の色で異なるが、知能には違いがない。アジアには強い日本があるから、白色人種は日本人もアジアのいかなる人種も見下すことはできない。日本の台頭は大和(日本)民族に権威をもたらしただけでなく、アジア全民族の地位を高めた。かってわれわれはヨーロッパ人がすることはわれわれにはできないと考えていた。いまわれわれは日本がヨーロッパから学んだことを見、日本に習うなら、われわれも日本と同じように西洋から学べることを知ったのである。
 4)日本を見ればわかる。イギリスとアメリカに治外法権をは外してもらい、対等の主権国家として扱ってもらえるまでに45年かかった。中国はイギリスとアメリカに特権と治外法権を返上してもらい、対等の主権国家として認められるまでに104年かかった。
 5)今日、私たちが日本の韓国「奴隷化」政策を非難するのは、要するに日本の植民地経営が著しく拙劣だったからである。しかし、一般に進歩の基準とされている、病院、学校、官庁(とくに現地行政機関)に占める韓国人の割合、通信施設の整備、産業化、資源開発などの分野でみると、日本の経営は他の植民主義諸国と比べて劣っていなかったばかりか、むしろ勝っていたといえる。
 6)国際問題を正しく理解するには、ヤルタ協定をもっと詳細にみる必要がある。ヤルタ協定を考える場合、(1)満州の歴史、(2)私たちがパワー・ポリティックスと「暴力と貪欲」を否定するに際して、イギリスとアメリカの政策立案者が発した高邁な宣言、(3)ヤルタの取り決めにおける中国の立場、(4)国際関係における「合法性」の概念、の諸点からみると、西洋列強が「後れた」地域を「指導」する場合の教育システムの間違いが、実に鮮やかに浮かび上がってくる。
 7)もう一つの「合法性」に関わる問題がある。ヤルタ会談の時点では、ソ連は日本と戦争していなかった。そればかりでなく、日本との間で不可侵条約を結んでいたのだ。イギリスとアメリカは、具体的条件を出して、ソ連が特定の期日をもって不可侵条約を破棄するお膳立てをしていたのだが、両国代表団はそれを違法とは考えてはいないのだ。その結果として、アメリカは8月6日(1945年)原爆を投下し、ソ連は8月8日宣戦を布告、翌9日に参戦した。
 8)アジア人は一連の出来事をパワー・ポリティクスの最もひどい見本と思っているはずだ。アメリカ人に、それがわからないなら自己欺瞞である。
 ヤルタ会談は、パワー・ポリティクスの実習としては画期的なものである。
 9)私たちが掲げる平和と人類の幸福という目的に即してこのシステム(イギリスの安全保障システム[今日ではアメリカの防衛システムだが])をみると、明らかに不利となる事実を二つ指摘することができる。
第一は、日本はイギリスとアメリカの全面的協力がなければ、軍事大国になることができなかったということである。第二はソ連に関する事実である。イギリスのパワー・ポリティクスの絶えざる刺激がなかったら、ソ連はどうだったろうか。はっきりしているのは、平和を維持し、ソ連を抑止する目的でデザインされたイギリスのシステムは、そのいずれの目的も果たせなかったということである。パワー・ポリティクスは日本とソ連ではあらかに逆噴射したのだ。
 10)日本を近代的軍事・工業国家に育てる中で、いくつかのことが見落とされていた。つまり、工業化はダイナミックなシステムに向かうこと、力はさらなる力の必要と渇望を生み出すこと、そして「安全な」同盟国は力を強めることによって安全でなくなること、パワー・ポリティクスが支配する競争世界で、ひとたび覇権の拡大(あるいは「合法的」拡張)に向かうと、物資と市場を競争相手に依存しているという事実が不安感と不信感を醸成させ、より多くのものを求めずにはおかない過剰「安全性」に駆り立てること、西洋列強がコミットメントでアジアに深入りし、日本がコミットメントで満州と華北に深入りしたように、コミットメントというものは国家を追い込むものであること、が見落とされていた。

付録 P.419
 1.大西洋憲章
 2.パールハーバー
  国務省総括/上下両院合同調査報告


訳者後書きより
 1.「日本はなぜパールハーバーを攻撃したか」「なぜ無謀な戦争をしなければならなかったか」白子氏の疑問であるとともにミアーズがこの本を書いた動機でもある。
2.原題を直訳すると「アメリカ人(複数)のための鏡・日本」だが、このタイトルでミアーズがいおうとしていることは、こうである。「近代日本は西洋列強が作りだした鏡であり、そこに映っているのは西洋自身の姿なのだ。」
3.「私たち」には近代日本の犯罪に西洋文明が深く係わったというミアーズ自身の痛みが込められている。
 4.ミアーズの「私たち」は、アメリカという国家であり、アメリカ国民であり、あるいは欧米植民地主義国家であり、西洋文明であり、キリスト教社会である。
 5.すなわち、原題の「アメリカ人」は、ミアーズの意識では西洋的価値観を体現する「私たちアメリカ人=アメリカ」であると解釈することができる。


著者(ヘレン・ミアーズ)紹介
 1900年生まれ。1920年から日米が開戦する前まで二度にわたって中国と日本を訪れ、東洋学を研究。戦争中はミシガン大学、ノースウエスタン大学などで日本社会について講義していた。1946年に連合国最高司令官総司令部の諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定にたずさわった。1948年「アメリカの鏡・日本」を著す。1989年89歳で没した。

http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_mirror.html
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by thinkpod | 2007-10-08 16:19 | Books