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2007年 07月 31日

安倍政権の倒閣を企てた官僚たちの二重クーデター

2007年7月19日

今月29日に迎える参議院選挙は、非常に自民党に厳しい状況だ。どの新聞、テレビを見ても、民主党の有利を伝えている。なぜこんなにも自民党が厳しい状態になっているのか。そこには、新聞やテレビがなぜか全く指摘しない問題が隠されている。


小泉前首相もできなかった公務員改革

かつて小泉内閣が郵政民営化の選挙で大勝した時、僕は小泉前首相に「大勝したのだから公務員制度改革をやればいいじゃないか」と言った。しかし、彼は「冗談じゃない」と即答した。

橋本龍太郎元首相も公務員制度改革に取り組んだ。当時はこれを行政改革と呼んでいたが、公務員の数と給料を減らし、官房長が握っている天下りの権限を奪うことを狙ったものだった。これに全省庁が協力すると言って官僚が集まったが、それは実は全く逆で、いかにこの改革を骨抜きにするかということに知恵が絞られた。

“何とか審議会”というものも作られたが、審議会というのは過去も現在も、役人たちが自分たちにとって都合が良い結論を出す人間を集めるだけの会だ。そしてこの時官僚たちは、「公務員の数や給料を減らすのは枝葉末節なことであって、もっと根本的な改革をしなければならない」と言って、省庁再編をやってしまった。

公務員の数と給料を減らし、天下りをなくすはずが、省庁の数を減らすだけで、結局何も変わらなかった。「省庁再編」という、いかにも大仰な言い方だが、実態はなにも変わらなかった。つまりこの“改革”は失敗だった。

小泉前首相が言いたかったことは「最初から行政改革をやると言っていた橋本内閣でもできなかったことを、残り1年しか任期がない自分ができるはずがない。もし本当に公務員制度改革をやろうと思ったら内閣の最初から改革案を打ち出して、調整・段取りを整えなくてはならない。そのような準備が何もそろっていない状態で、できるはずがない」というものだった。


社会保険庁が自ら情報をリーク

安倍内閣は、小泉前首相ですらできなかった、いわばタブーである二つの改革をやろうとしている。一つは社会保険庁の解体と民営化。もう一つは、公務員の天下りの改革だ。これまで各省庁の官房長が握っていた天下り斡旋の権限を奪おうというのだ。
これこそが、今、安倍政権が非常に窮地に立たされている最大の原因だと思う。
安倍内閣は、社会保険庁を解体して、一度全員クビにして、民営化すると言っている。社会保険庁の役人というのは官僚だ。官僚というのは決してクビにならない、決して倒産しない、さらに天下りできるという、非常に安定した身分だ。それを「解体!」と言った。
だから僕は、社会保険庁がこぞって、いわばクーデターをしかけたのだと思っている。つまり、社会保険庁の年金がめちゃくちゃな状態であるということを、社会保険庁自らが広めたということだ。
社会保険庁の年金がめちゃくちゃな状態で、消えているのか、宙に浮いているのかすらわからなくなっていることを、社会保険庁は厚生労働省や官邸に一切報告しなかった。
民主党の長妻昭議員が社会保険庁に手をつけたのが去年6月、そして、5000万件以上もの行方不明の年金があると発表したのが今年2月。ところが、安倍首相や塩崎官房長官がこのことを知ったのは6月に入ってからだ。
つまり、社会保険庁は、政府・官邸には何も知らせずに「大丈夫、大丈夫」と言いながら、民主党を中心にした野党、そして週刊誌、新聞に、いかに年金の記録がめちゃくちゃになっているかを、どんどんリークしたのだ。

なぜ、こんなリークをしたのか。
つまり、そういうことをリークすることで「安倍内閣がいかに危機管理ができていないか、社会保険庁も悪いが、それを全く管理できていない内閣はとても国民は信用できないだろう」と思わせた。
どういうことかというと、今度の参議院選挙で自民党が負けて安倍首相が退陣すれば、社会保険庁改革は消えるわけだ。
社会保険庁は自分たちがクビになることを防ぎたいわけだから、安倍政権にダメージを与えるために、いかに社保庁がむちゃくちゃかということを、いわば自爆テロ的にリークしたのだ。
自爆テロ的リークをもって、安倍内閣がいかに信用できない内閣か、いかに危機管理能力のない内閣か、いかに不甲斐ない内閣かということを満天下に知らしめたのだ。


天下り改革に全省庁が反発

もう一つが天下りだ。渡辺喜美行革担当大臣が提示してこれからやろうとしている「官民人材交流センター(新・人材バンク)」は、官僚の天下りの権限を官房長から取り上げるものだ。
この人材バンクでは、各省庁から人を集めるのだけれど、人材バンクに集まったメンバーは自分の省庁の人間は一切扱えない。また、天下り先の多くは特殊法人で民間の3倍だ。
今までは、まず特殊法人に天下る。天下って2年か3年いてさらに天下る、さらに天下る。この最後の天下りまで全て各省庁の官房長が斡旋をしていた。それを全部取り上げて、人材バンクが斡旋する。しかし1回だけでその後はしない。「あとは自分で勝手にやれ」ということだ。

これまでの官僚体制というのは、まず現役で官僚をやり、その後2、3回天下る。現役の官僚時代に得る収入は人生の半分。あとの半分は、その後の天下り先で得るというのが、これまでの官僚の人生だった。人材バンクの設置は、現役を去った以後の官僚のサイクルを断ち切ることになる。これは大変な問題だ。
そこで社会保険庁と全省庁がこれらに猛反発して、二重のクーデターが起きているというのがいまの状況だ。


なぜメディアも公務員改革に反対するのか

これまでほとんどの新聞は、安倍首相が社会保険庁の解体や公務員制度の改革を決断できないと書いていた。しかしそれをやることになって、多くの新聞をはじめとするメディアは安倍不支持となってきている。
そして財務省や経産省が本気で反安倍になると、マスコミはそれを「財務省や経産省までが安倍首相を“見限った”」と書く。天下りに対する強烈な規制に対してすべての省庁は反発して反対しているのだが、マスコミは「見限った」と書く。
官僚が公務員改革に反対するのはわかるが、なぜメディアも反対するのか。
ある新聞社の幹部は、「そんな改革をやったら優秀な人間が官僚にならなくなる。そうなると日本の行く末が思いやられる。だから断固反対する」と僕に語った。また、マスコミはなんだかんだいっても主な情報源は官僚たちだから、官僚たちが反安倍政権になるとマスコミも安倍不支持となるのだ。

それは例えば、例えはあまりよくないかもしれないが、日銀の福井俊彦総裁が「村上ファンド」に投資した資金で多くの利益を得ていた問題があるが、マスコミは最初これを大きな問題にしなかった。
マスコミというのは一見“官僚叩き”に見えるが、重要な情報源である官僚たちと徹底的に戦えないのだ。そのマスコミが、「官僚が安倍政権を見限った」とやたら報じている。マスコミも巻き込む形で、官僚たちの必死のクーデターが今、功を奏してきているのだ。


サディスティックな“安倍いじめ”

もう一つ、今起きている現象に“安倍いじめ”がある。
国民というのはサディスティックなものだ。安倍首相は祖父から3代続く“大プリンス”で、さらに強さを売りにしていた。憲法改正、集団的自衛権、教育基本法改正、そして北朝鮮もイラクもそうだ。強い首相として登場したのが安倍首相だった。今、その安倍首相が、官僚たちのクーデターによるものが大きいのだが、弱さがむき出しになってきている。
こうなると、マスコミも国民も非常にサディスティックになって「やっつけよう」となる。弱くなった安倍首相をやっつけるのが痛快なのだ。一種の“ガス抜き”と言っていい。親子3代毛並みも良い、そして強気で出してきた、この権力が弱まってきたので、今こそサディスティックの対象となり、みんな“安倍いじめ”をやっている。
本来ならば安倍支持だった週刊誌などまでが、安倍不支持になってきている。“安倍いじめ”が世の中の風潮になったということがある。


自民党に分が悪い候補者の“玉”

さらに自民党にとって今度の選挙で分が悪いのが、候補者の“玉”の問題だ。今度の参議院選挙の候補者を眺めると、自民党の候補者の“玉”が悪い。民主党に比べると圧倒的に悪い。
前回の2001年参議院選挙は小泉前首相の支持率が一番高かった80パーセント以上頃の選挙で、当然落ちるべき候補がみんな当選してしまった。しかも、落選すべきだったのに当選してしまった議員たちは、あれから6歳年を重ねている。悪いのが年をとってさらに悪くなってしまった。
安倍首相は本当は「こんな候補はダメだ」と変えたかった。小泉前首相は非情で血も涙もないから、候補者を全部変えたかもしれない。しかし、なまじっか常識的で、小泉前首相ほど非情ではない安倍首相は、党内の大反対もあって、ついに全員変えることができなかった。
それに対して、民主党は前回自民党に大敗したので、負けた候補を全部変えた。若い新鮮な候補がそろっている。自民党は負けて当然の候補がずらりと並んでいる。この玉の違いが今度の自民党の逆風というか、安倍自民党の参議院選挙の苦しさだと思う。
そのようなこともあるが、基本的にはここまで述べた問題こそが決定的に安倍内閣に不利な要因となっている。この構造を理解しないと政治はわからない。
こうしたことを新聞もテレビもほとんど報道しない。故・松岡利勝前農林水産大臣がどうとか、赤城徳彦農林水産大臣や伊吹文明文部科学大臣がどうしたということばかりやっているのだ。


安倍政権逆風の背景にあるもの

小泉前首相は公務員制度改革はよほど準備をして根回ししてやらないと難しいと言っていたが、安倍首相はそこが足りなかった。甘く考えていたと言えるかもしれない。そのために官僚のクーデターに遭って苦しんでいる。
社会保険庁の解体・民営化も、新・人材バンクも、今度の選挙で安倍内閣が負けて安倍首相が退陣したらご破算になる可能性がある。だから、官僚たちは何としても安倍内閣を潰さなくてはならないとその機会を狙っている。
さらに自民党内部からも、経世会を中心に、官僚制度を守りたい人たちが「公務員制度改革をして人材バンクのようなものをつくったら、優秀な人材が官僚にならないから反対だ」と、公然と言い始めている。新聞も、「反安倍」ばかり大きく報じる状態だ。「“美しい国”とはなんだかわからない」など、新聞ではここのところ連日「安倍批判」というものが展開されている。
このように、社会保険庁解体と公務員制度改革は、自民党内外からの安倍政権への逆風となっているといえるだろう。だが、この安倍政権への逆風を仕掛けたのはとりも直さず官僚であり、自民党内の反安倍勢力である。そしてそれを煽っているのがマスメディアだ。その壮絶な反撃に安倍政権が苦境に立たされているというのが、参院選を前にした今の状況なのだ。

田原総一朗の政財界「ここだけの話」
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/column/tahara/070719_20th/
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by thinkpod | 2007-07-31 23:21 | 政治経済
2007年 07月 01日

人口減少社会なんて怖くない

〜わが国本来の人口に戻っていくと考えるべき〜


人口が減ったからといって労働力が落ちることはない

 いささか旧聞に属するが、昨年12月22日に厚生労働省が発表した人口動態統計の年間推計によると、わが国の死亡数(自然減)が出生数(自然増)を上回り、予想よりも1年早く2005年から人口が減少に転じたことが明らかになった。

 この発表をきっかけにして、人口減少社会を迎えた日本の行く末を案じる議論が盛んになってきた。人口が減少することによって経済活動が停滞し、経済成長率が低下するというわけだ。

 しかし、私はそれほど暗い気持ちになることはないと思っている。

 人口が減少しても、一人当たりの所得が落ちるわけではない。社会全体の経済のパイが小さくなっても、一人あたりの所得が減らない限り、生活は維持できるのだ。

 人口が減っても、経済成長率はほぼ横ばいか、むしろ微増で推移するのではないかと私は考えている。

 なぜならば、人の数が減れば、それを補おうとする工夫がこらされるからだ。

 現に、OECD諸国で、労働力人口の伸び率と生産性の伸び率を比較してみると、労働力人口の伸びが小さい国ほど、生産性の伸びが高い。

 つまり、人が減ったことをきっかけにして、労働力の低下を補うために、機械化投資などが行われて生産性が上昇するのだ。機械でできることは、みな機械にやらせればいい

 むしろ、人口が減っていいこともある。

 現在の約半分――かつて日本の人口が6445万人だったのは、いつのころだかおわかりだろうか。

 それは、1930(昭和5)年である。人類の歴史、日本人の歴史から考えれば、“たった”75年前に過ぎない。

 思うに、その程度の人数が、日本の定員ではないだろうか。人口がその程度に減れば、さまざまな社会問題が解決される可能性がある。

 通勤の混雑が緩和され、車内で楽に新聞が読めるようになるだろう。

 交通渋滞もなくなり、お盆や年末年始の帰省ラッシュも緩和される。夏休みのレジャーで、お父さんがくたくたになることは、もうなくなる。

 住宅問題も完全に解決するはずだ。

 確かに、人口減は高齢化を伴うのでよくないという意見もある。

 2025年には、65歳以上人口比は28.7%になるというから、現在とくらべて8.8ポイントの上昇である。

 しかし、現在の時点でこの高齢化率を越えている自治体は、日本に山ほどある。私は、仕事でこうした市町村を訪ねることがあるのだが、けっして悲惨な暮らしをしているわけではない。ほとんどの街で、ゆったりとした幸せな暮らしが送られているのだ。

 もちろん、年金の問題は重要ではあるが、これはまったく次元の違うことがらである。

 年金については、方式を変えたり、富裕税をかけたりといった方法で解決を考えていく必要があるだろう。年金問題については、回を改めて考えることにしたい。


地方と都会の格差をなくし、グランドデザインを描き直すチャンス

 人口減少問題を考える際には、地方と都会の格差問題は避けて通れない。都会では人口減少がプラスの効果をもたらしたとしても、ただでさえ過疎で悩んでいる地方では、致命的なことになりかねないからだ。地方と都市の格差をそのままにしておくわけにはいかない。

 しかし、人口が減少に転じたいまこそ、日本という国のグランドデザインを描きなおすいいタイミングではないかと私は思う。それには、どうすればよいか。

 まずは地方の現状を見てみよう。

 私はよく講演で地方に行くのだが、経済停滞の悲惨さはひどいものだ。中心部の商店街は、ほとんどがシャッター通りと化している。

 鹿児島に講演に行ったとき、こんな経験をした。空港から講演会場までタクシーを利用したときのことである。確か金額は6000円ほどだったと記憶している。

 現地に着いて運転手さんが言うには、「ぜひ帰りも乗ってください。ここで待っていますから」

 だが、講演が終るまでは時間がある。私は「そんなことをしたら、ほかの仕事をできなくなるでしょう。講演が終るまで3時間もあるんですよ」と言った。

 ところが、運転手さんはそれでも待っているというのだ。理由を尋ねて私は驚いた。

 最近は、1日の売上が合計で2000円に満たない日があるのだそうだ。なるほど、それならば、3時間待っても6000円を取りにいくほうが確実だということになる。

 こんな話はほんの氷山の一角だろう。タクシーの運転手さんの廃業は続出しているというし、それよりも何よりも地方の経済そのものがボロボロになっているのだ。

 では、都会では誰もが幸せに暮らしているかといえば、けっしてそんなことはない。

 宝島社が出している「田舎暮らしの本」が30万部も売れていることからもわかるように、多くの人が都会暮らしにうんざりして、田舎で人間らしい暮らしをしたがっている。潜在的な希望者を合わせれば、おそらく百万人の単位で存在しているに違いない。

 私の周りにも田舎暮らしを望んでいる人が多いのだが、それが実現したという話はあまり聞かない。なぜか。それは、田舎に「行かない」のではなく「行けない」からだ。

 田舎に行っても雇用の場がないから、よほど金を貯めた人は別として、田舎で暮らしていくことができないのである。

 それでも田舎暮らしをしたければ、農業をすればいい――そう言いたいところだが、いまという時代は、専業農家では食えないのである。野菜を作っても中国や東南アジアからの輸入農作物に価格で太刀打ちできない。そして、それ以上に、日本の田舎は山も畑も荒れてしまっていて、農業を続けることのできない地域も多い。

 田舎暮らしをしたい都会人や、農業をやってみたい都会人が増えている。その一方で、田舎でも人がいたほうが望ましい。ところが、田舎では食っていけない。

 そんな地方と都会のミスマッチを、どうやって埋めればいいのか。

 こういう本質的なことがらを解決するためにこそ、税金を使うべきだろう。人が入らない音楽ホールだの、車がめったに通らない高速道路だのといった、くだらない公共事業などやめて、農家がきちんと働けるように金を使ったらいい。

 たとえば、低農薬、有機肥料で農作物を生産するために、研究費や補助金を捻出。都会から移住する新しい農民に、そうした農業を実行してもらうのはどうだろう。

 国土の均衡ある発展に役立つのではないか。

 ここでは思いついたままのアイデアを書いてみたが、こうした方策をいろいろと考え、日本のグランドデザインを描き直せば、人口減少時代はちっとも恐ろしいことはないのである。


外国人労働者受け入れは新自由主義者のわがまま
〜得をするのは受け入れ企業、コストをかぶるのは国民全体〜

 人口減少時代を迎えて、移民を受け入れよと主張している人がいる。いわゆる、新自由主義の立場にたった人たちだ。

 新自由主義というのは、評価の尺度を金に一本化するという単純な発想から成り立っている。

 その典型がホリエモンである。ライブドアの社長だったころの彼は、「社員がやめたら、またマーケットからとればいい」とうそぶいていた。

 彼らには、一人一人の労働者の顔が思い浮かぶことはない。

 彼らにとっては、鈴木さん、佐藤さん、田中さん……といった個人名はどうでもいい。あくまでも、労働力1、労働力2、労働力3……という存在に過ぎないのだ。

 彼らの発想の根源となっているが、いわゆる生産関数――つまり、経済の大きさが、労働と資本を投入した量で決まるという理論だ。

 ところが、人口が減少してしまうと、投入できる労働は減り、彼らの儲けも減ってしまう。そこで、経済成長を維持させるために、どこからか労働力を供給しなければならないと考えているわけだ。それが手っとり早い方法だからである。それが、外国人労働者を受け入れよという要求につながってくる。

 しかし、外国人労働者の受け入れには、私は絶対反対である。

 現に、ドイツやフランスをはじめとして、諸外国でも外国人労働者の受け入れは失敗の歴史であるといっていい。

 たとえば、ドイツでは1960年代、高度成長のもとでトルコから大量の労働者を受け入れた。

 ところが、高度成長が終わり外国人労働者の雇用調整をしようとしたところで、つまずいてしまった。すでにドイツ国内では労働者たちに二世が誕生。彼らはドイツで生まれ育ち、ドイツ語しか話せず、本国に返そうにも返すことができない。

 そこでドイツが何をやったかというと、トルコに家を建てるための資金を与え、子どもたちにはトルコ語を教えた。そうした莫大なコストをかけて雇用調整をしたのである。

 日本で外国人労働者を受け入れても、まず同じことが起きるだろう。

 外国人労働者のメリットというのは、雇った企業のみに現れる。

 ところが、そのコストは長期間にわたって全国民にはねかえってくるのだ。たとえば、小学校の教育一つとっても、外国人の生徒がいれば、コストは10倍はかかるだろう。外国人労働者本人も失業を頻繁に繰り返すことが予想され、失業保険のコストがかかる。

 公的な住宅費もかかるし、市役所のパンフレットも各国語で書くためにコストがかかる。

 そして、そうしたコストは雇った企業ではなくて、何の関係もない国民にかかってくるのだ。

 さらにいけないのは、外国人が入ってくるために、まじめな日本の若者がワリを食うことだ。その一例が、最近になって外国人の受け入れが検討されている介護士や看護師である。

 日本の若者のなかにも、最近では福祉分野で働きたいという、まじめな人がたくさんいる。ところが、そこに外国人介護士や看護師を受け入れたらどうなるか。起きるのは、外国人の賃金に合わせた劇的な賃金低下である。これでは、若者ならずとも勤労意欲を失ってしまう。

 これが、あらゆる分野で起きたらどうなるだろうか。若者はますます仕事につかなくなり、社会不安は拡大していくに違いない。

 さきほども述べたように、日本の人口が減っても経済成長率が落ちることは、ほとんどない。

 人口は減ってもいいのだ。本来の人口に戻っていくという気持ちで迎えようではないか。そして、人口の減少を前提にして、そのなかで、どうやって幸せに暮らしていけばよいかを考えたほうが建設的でないだろうか。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/o/25/index.html
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by thinkpod | 2007-07-01 16:17