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2007年 06月 30日

一枚の写真が語る「アメリカと北朝鮮との間にだけあって日本にはない」関係

—— 日米間に“すれ違い”の危機、静かに漂う緊張感  ——

 このブログを読んでいただいている方に、1月末に硫黄島訪問の報告をして以来、約2ヶ月もお休みをしたお詫びをしなければならない。その一番の理由は、私が二月初め2週間のアメリカ取材旅行を終えて帰国した直後から、拙著「銃を持つ民主主義—アメリカという国のなりたちー」の英訳原稿をチェックする作業に忙殺されているためだ。
 拙著は日本在住のアメリカ人翻訳家、デービッド・リース氏の手で全文が英訳され、この夏に、「 Democracy with a Gun — America and the Policy of Force —」というタイトルで、カリフォルニア州バークレーの出版社、Stone Bridge Press社から出版される。多くの方々の支援のおかげで、日本人によるアメリカ論を直接アメリカ国民にぶつけるという珍しい機会を得たわけで、感謝している。まだ四月一杯、校正作業は続く。
 しかし、それを中断しても、是非報告しておかねばならないと思う状況が生まれてきた。2月13日に北朝鮮の核兵器放棄に向けた「初期段階の措置」で六カ国協議が合意に達し共同文書が採択された段階で、はっきりしてきたアメリカと北朝鮮との特別な関係についてである。
 より正確にいえば、現在、日本が拉致問題をめぐる対立によって世界の国々の中で唯一敵対的な関係にある北朝鮮とアメリカとの間にだけ存在する関係を、きちんと捉えておかねばならないと思うからである。
 突き詰めていくと、最近の従軍慰安婦問題での安倍首相以下の発言に対するアメリカ国内での反発とも連動して、日本とアメリカの関係は、日米同盟全体の強度を試す重要な局面となってきている。緊張感が静かに漂っている状態だと思う。

〇アメリカ外交の転換点に遭遇

 北朝鮮の核問題をめぐる六カ国協議の行方は、まだ定かではない。本稿執筆中の4月上旬現在、アメリカが凍結を解除したマカオの銀行バンコ・デルタ・アジア( BDA )の北朝鮮資金の中国銀行経由の送金問題が技術的に解決せず、休会状態が続いている。 BDA資金の凍結解除と引き換えに、北朝鮮がミョンビョンの核再処理施設の作業を停止、封印し、五カ国側もその代償として「すべての核計画の完全な申告とすべての既存の核施設の無能力化」を条件にコミットした重油100万トン供給の、いわば手付けとして5万トンを支援する——との「初期段階の措置」のシナリオは、宙に浮いている。
 しかし、はっきりしていることもある。
 一つは、アメリカが「テロ国家との直接対話には応じない」とのブッシュ政権発足以来の立場をあっさり変え、1月16日から3日間、ベルリンで行われた北朝鮮との直接会談で、2月の再開六者協議での共同文書合意の原型となる実質的な取引をまとめ、その内容をメモにしたMOU (覚書)まで作っていたという事実である。
 私はたまたまアメリカ旅行中の1月末、この米朝急接近の動きを肌で感じる経験をした。
 1月27日、ニューヨークで会った東アジア問題専門のベテラン学者はこういった。「どうやら1月のベルリンでのクリストファー・ヒル国務次官補と、金桂寛外務次官との会談で、大きな前進があり、MOUまでできたようだ。しかし、ワシントンでのブッシュ政権内での対北朝鮮強硬派との調整が済んでおらず、球は90%アメリカサイドにある」。 要するに、まだ様子眺めの慎重な態度だった。
 それが4日後の31日、又同じこの友人に会うと、「強硬派の抵抗は排除されたようだ。ジョセフ国務次官辞任の発表がその証拠だ。中国による六者協議再開の発表は、ブッシュ大統領緒がライス国務長官の説得を受け入れて、ヒル次官補の交渉結果を承認したことを意味する。
 2006年の年頭からDBD資金問題を糸口に、北朝鮮側から直接会談での取引を執拗に持ち掛けられ、アメリカ側も六者会議の枠内だとの建前論でこれを受け入れた。ベルリン会談の開催は、2006年末六者会議が中断した段階から決まっていたようだ」と語ってくれた。
 つまり、アメリカは、はっきりと対北朝鮮政策を転換したのである。イラク戦争の泥沼化による2006年の中間選挙での敗北後、ブッシュ政権内でネオコン勢力が力を失い、ライス国務長官の主導権の下で、核実検やミサイル発射は不問にして、とにかく北朝鮮の核開発に歯止めをかけることを優先する現実主義路線が実行に移されたというわけである。ヒル次官補がその立役者であった。
 私が接したのはこのアメリカ外交の転換点だった。

○どこまでいけるか「アメリカ頼み」

 もう一つはっきりしているのは、日本が置かれている立場である。安倍政権は、このアメリカの変身の中でも、あえて「拉致問題が進展しないかぎり、北朝鮮支援は行わない」として、「拉致問題は解決済みだ」とする北朝鮮と真正面から対決する基本政策を打ち出し、北朝鮮以外の五カ国がこの日本の特殊事情に理解を示すことを取り付けた上で、共同文書に同意した。
 問題はこの「理解を示す」内容である。中国、韓国、ロシアの場合は交渉をまとめるうえでのレトリック、実質的にはいわゆる外交辞令の枠を出ていないことを確認しておかねばならない。
 中国の温家宝首相が4月11日からの日本訪問前の記者会見で、拉致問題について「私たちは理解と同情を示し、必要な協力を提供するとも表明してきた」と述べているのが、精一杯といったところである。温家宝首相は「日朝国交正常化協議は解決に資するものと考えている」とも述べて、ハノイでの日朝作業部会の決裂を知ったうえでも、仲介の労をとるそぶりもみせていない。
 少なくともこれまでのところ、アメリカだけは違う。同盟国としてこの日本の立場に協力し、日朝間での拉致問題の進展がない限り、北朝鮮側が強く望むアメリカによる「テロ国家支援指定」の解除、「敵国通商法」の適用終了措置などには応じないとの姿勢を明らかにしている。4月末のワシントンでの安倍—ブッシュ会談でも、原則的には、米側から、このコミットメントが示されるとみられる。
 しかし、いま安倍外交につきつけられているのは、最後は「アメリカ頼み」となるこうした北朝鮮強硬路線が、どこまでうまく機能するのかどうかという課題である。ライス国務長官—ヒル次官補のコンビによって、アメリカの対北朝鮮外交の現実主義路線への切り替えが実行に移される中で、当面はともかく最後には、北朝鮮とアメリカの取引のなかで日本が取り残され、裏切られるような結果になる可能性がないとはいえないのではないか・・・といった不安が付きまとうぎりぎりの状況である。3月19日、事前の予想に反して、ヒル次官補が総額24億ドルにのぼるBDA 資金全額の全額凍結解除という北朝鮮の要求に実質的に応じる発表を行った夜、先に触れたアメリカの友人に電話を入れてみると、「ベルリン会談で合意済みだったようだ」とこともなげだった。
 こうしたアメリカの譲歩にもかかわらず、実際の送金が確認されるまで「初期段階の措置」はとれないと、金桂寛次官が平然と六者会議の場を去るのを見て、「(アメリカは)ここまでコケにされて、よく北朝鮮に付き合っている。あり得ない話だ」と、日本の協議関係者があきれて語った(3月23日朝日新聞朝刊)といわれるように、安倍外交もアメリカの「敵前逃亡」を覚悟しておくことが必要かもしれない。
 確かに、ベルリン会談でアメリカ側が日本の拉致問題解決を北朝鮮との取引のなかで持ち出していた、という情報は何一つない。
 この点を捉えて、今度の米朝急接近を、1971年、日本の頭越しに始まった米中和解、つまりニクソン・ショックの再来だとして、日本外交孤立の可能性を指摘することはたやすい。
 しかし、私は冒頭にも述べたように、いまそれ以上に重要な、ほとんど知られていない北朝鮮とアメリカとの関係について、報告しておくことが大切だと思う。表面的な激しい対立にもかかわらず、そして時系列的に言えば、ブッシュ政権が北朝鮮をイラク、イランともに「悪の枢軸」と決めつけた後でも、両国間には水面下で、日本には無い接触、つまり独自の民間レベルでの友好的な関係を維持して来ているという現実である。

○IT技術英語の研修

 ここで一枚の写真を掲載させてもらう。
 すべてを物語ってくれると思うからである。



 この写真(*写真を直接クリックすると拡大表示される)は、2006年8月1日、北京の漁陽(Yu Yang)飯店玄関前で撮られた。撮影者は1870年にメソディスト教会の手で創立された長い歴史を持つニューヨーク州北部の名門大学、シラキュース大学のスチュアート・ソーソン教授。 今回の掲載では、同教授自らの許可を得た。
 写っているのは、アメリカと北朝鮮の学者、研究者27人。ソーソン教授が中心となって、2003年以来、平壌にある北朝鮮を代表する理工系大学、金策工業綜合大学とシラキュース大学との間で続けられているIT技術の基礎研修プロジェクトに参加した双方の学者、研究者ら全員の記念撮影である。
 金日成バツジをつけた北朝鮮参加者は20人、女性4人が含まれている。残りがシラキュース大学から派遣された講師陣ら。研修はこの日から三週間続けられた。ソーソン教授の報告によると、テーマは「コンピューターと情報技術における基礎的なアメリカ英語の取得とその水準の向上」で、英語の力に応じて北朝鮮参加者を2グループに分けて行われた。
 建前上は、両大学間の「双務的研究協力」と銘打たれている。しかし、実際は、シラキュース大学側が、東アジア地域での相互の信頼関係に基づく学術科学協力の基盤を築くことを目標にかかげ、すでに中国その他での実績を持つ「地域研究者、指導者セミナー」(RSLS)の一部として、資金も人も投入して行っている教育プログラムである。その根っこには、「世界のあらゆる人々との信頼関係の構築」、「閉ざされた社会を開くことへの挑戦」—という19世紀末のシラキュース大学建学当時までさかのぼるアメリカ型使命感がある。

○ミサイル発射後も開催

 注目しておかねばならないのは、このタイミングである。昨年8月といえば、北朝鮮が7月にミサイルの連続発射を強行した直後で、アメリカや日本との緊張状態がピークに達していた時期である。日本では制裁論などが声高に叫ばれていた。その時に、北京では、北朝鮮のエリート学者がアメリカ人教授からIT英語の研修を受けていたわけである。しかもこのセミナーには積み重ねの歴史がある。2006年が初めてではない。2005年も同じ北京の漁陽飯店でほぼ同じ時期に、北朝鮮側から22人が参加して開かれている。
 それだけはない。最初の研修は、2003年4月、つまりブッシュ大統領がその年の年頭教書で北朝鮮、イランとともに「悪の枢軸」のひとつに上げたイラク攻撃に踏み切った同じころ、シラキュース大学キャンパス内で、はるばるピョンヤンからやってきた金策工業総合大学の6人を迎えて行われた。アメリカ国務省から正式にビザを得ていた彼らは、三週間も滞在、ナイヤガラの滝観光やウオール・ストリートのニューヨーク証券取引所見学などの接待も受けた。
 ソーソン教授によると、2004年は「両国間の政治関係の悪化」の影響を受け、中断され、以後、経費節約と金策工業総合大学側の参加者を増やせる利点もあって北京での開催に切り替えたという。2005年11月には、金策工業総合大学のホング・ソ・ホン総長がシラキユース大学を訪問、ナンシー・カンター総長との間で、RSLS参加の文書に調印している。ホン総長は、これまでアメリカを訪問した北朝鮮の学者としては最高位の人物。
 外部からの資金提供者には、週刊誌「タイム」の創業者で、かつては反共の闘士としてならしたヘンリー・ルースの遺産で運営される「ヘンリー・ルース財団」が最初から名を連ねている。最近では、強力な資金力を持つキリスト教高等教育アジア合同委員会も加わった。仲介役としては、朝鮮戦争直後に韓国とアメリカとの友好親善団体として設立され、ニューヨークに本部があるコリア・ソサエティー。
 インターネットがまだ接続していない金策工業総合大学側との連絡はニューヨークの北朝鮮国連代表部が受け持っている。韓国からも政府、民間の双方から資金が提供されており、北京の研修には中国のRSLS経験者も参加している。
 要するに、アメリカ、北朝鮮、韓国の三者一体、さらに中国も陰に陽に加わった立派な民間交流が粛々と進行しているということである。2006年には、1947年創立のコンピューター機械協会(ACM)が主催する国際カレッジプログラムコンテストへの北朝鮮のチームの参加が、これら関係国、団体の協力で実現した。現在、コリア・ソサエテーの幹部は、アメリカのフルブライト留学制度の対象に北朝鮮の学者も加えるべきだとの運動を展開しており、すでに韓国フルブライト委員会は全面的に賛成しているという。
 こうした「アメリカだけにあって日本にはない関係」、あるいは「日本だけになくてアメリカ、韓国、中国にはある関係」は、今際限なく広がっていく形勢である。1994年に故金日成主席との間で、核凍結での「枠組み合意」をまとめ上げた実績を持つ民主党がアメリカ議会で多数派の地位に返り咲いた中で、この動きはますます加速する気配である。
 拉致問題という日朝間のトゲを取り去るためにも、しっかりと目も向いておかねばならない動きである。そしてその底には、日本とアメリカとの間の、朝鮮戦争3年間の敵対関係と、35年間にわたる朝鮮半島植民地化の傷跡との違いに始まる歴史的、構造的な“すれ違い”—という根源的な課題が横たわっている。
 一枚の写真が語るものは重い。

(注) 私は米朝間の民間レベルでの接触については、中央公論2004年3月号に アメリカがにらむ「危機」後の統一朝鮮 ー水面下でつながる米朝関係ー と題して報告して以来、追い続けており、1年前のこのブログ開始時にも二回にわたり、「アメリカにあって日本にない関係」と題して、書いております。いずれもこのブログの『図書館』に収録してあります。今回はその続編といったところです。  松尾文夫
  (2007年4月10日記)

松尾文夫「アメリカ・ウォッチ」
http://homepage.mac.com/f_matsuo/blog/fmblog.html





平成18年11月27日

     米側で同時進行した日本本土奇襲開戦計画

 クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作が話題になっている。一つの戦闘局面を日米双方から公平に描くという発想が、戦後60年を経て、ようやく米国民にも抵抗なく受け入れられるようになったのだろう。

 時代がここまで進んできたのだとしたら、次はぜひとも「パールハーバー」を2部作で映画化してほしいものだ。日本側の真珠湾奇襲計画と、米側の日本本土奇襲計画を同時進行で描く。2部作でなく、1本の作品で交互に双方の作戦を進行させていくのもいいだろう。

 ルーズベルト政権の秘密作戦については、当コラムで5年前に書いているのでバックナンバーを探していただきたい(「アメリカ伝統の秘密戦争(続き)」01/10/10)。

 米国では今年になって『予防攻撃〜真珠湾を防ぎ得た秘密計画』というタイトルの研究書が出版され、同時に著者が映画化の脚本まで完成して売り込み中だという。惜しむらくは無名の航空マニアのようで、レベルのほどは分からない。

http://www.preemptivestrikethemovie.com/

 1991年12月6日の米ABCテレビ「20/20」では専門家の歴史学教授が「本物の政府計画だ」とコメントしている。オリジナルの映像14分が2分割で見られるので、ご紹介しておく。専用ソフトがあればダウンロードもできる。

(前半)http://www.youtube.com/watch?v=C1cX_Fr3qyQ
(後半)http://www.youtube.com/watch?v=2Uf_3E4pn3U
 
 時系列に事実を箇条書きにしておこう。

1937年7月   米陸軍航空隊シェンノート大尉が退役して中国空軍を指揮。  同年12月   南京陥落
1940年12月21日 モーゲンソー財務長官、シェンノートらが米軍人による日本爆撃を立案。「木と紙でできている日本家屋には焼夷弾が効果的」と意見一致。
1941年5月   統合参謀本部(JB)が対日奇襲作戦「JB355」を策定。
同年7月23日 ルーズベルト大統領がゴーサイン。2日後に在米資産凍結。
   8月下旬 シンガポールに米人パイロット等三百人が集結。計画では9月下旬に奇襲爆撃決行。しかし機体の到着が遅れた。
   12月7日 日本側の真珠湾奇襲計画決行。

 「20/20」のスクープでは、戦闘機の護衛がなくて目的が果たせるかと疑問が出されていたが、後に出版された『ルーズベルト秘録』(産経新聞社、2000年12月)では、カーチス戦闘機350機がロッキード・ハドソン長距離爆撃機150機を護衛する計画だったと新しい情報を記している。

 アメリカ政府がこんなに堂々と対日奇襲作戦を計画し、実行に移していたというだけでも知らない人は驚くだろう。日本側の奇襲作戦と同時進行なのだから、映画的な題材としてこれほど魅力的な事実はないと思うがどうだろうか。

 しかし、これだけは付け加えておきたい。同じ奇襲作戦といっても、日本側は真珠湾の「海軍力」のみが攻撃目標であり、しかも直前に宣戦布告をする計画だった。
 これに対して米側の計画は、初めから民間の日本家屋を焼き払い、しかもそれを中国軍の攻撃に偽装しようというものだった。

 どちらが「sneak attack」(卑怯な騙し討ち)と断罪されるべきか、答えは明らかであろう。(06/11/27)(追補12/15)

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/5562/column/column088.html
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by thinkpod | 2007-06-30 17:12 | 国際
2007年 06月 25日

今こそ沖縄戦の真実を「教壇」で語ろう

「正論」6月号掲載 横浜市立中学校教諭・服部剛氏【今こそ沖縄戦の真実を「教壇」で語ろう】

 平成17年5月20日〜22日、自由主義史観研究会が座間味島と渡嘉敷島にて現地調査を行いました。これに服部氏も参加されました。その時のレポートです。

■「軍命令のはずがない」

 座間味島で一夜を明かし、翌21日朝、最初の聞き取り調査に応じていただいたのは、宮平敏勝さんである。昭和3年生まれの宮平さんは、20年2月末、17歳で戦隊本部付きの伝令として徴用された。「軍属です。左腕に星(☆)ひとつですよ」とおっしゃっていた。「17歳ですか」の質問に、生まれ月が早い者は防衛隊に任命されたとのことで、同級生4人中、宮平さんだけが徴用にあたったという。

 徴用されてすぐに米軍が上陸、熾烈な戦闘になった。4月11日、擲弾筒で左腿を負傷。その後、梅澤隊長(引用者注:座間味島守備隊長・梅澤裕氏)より集合がかかり、「これ以上戦闘は困難ゆえ、皆親元に帰れ」との解散命令が出る。民間人は米軍に捕まっても、すぐに解放されたので無事だった由。以下、宮平さんの証言の要点を記す。

 集団自決(3月25日、米軍上陸の日)については、宮平さん自身は「軍と行動を共にしていて、山中にいたので自決のことは全く知らなかった。解散命令が出て、山を下りた時、初めて知った」という。戦闘が始まって以降、軍は「民間人との接触はほとんどなかった」のである。「もし、自決が軍命令なら、伝令である自分が知っている。軍命令のはずがない」と断定された。宮平さんは自決現場そのものには居合わせなかったとはいえ、有力な傍証である。

 住民の意識はというと、戦闘が始まる前から「誰といわず、死を決意していた。そういう空気だった」。行政のリーダーを始め、特に「兵事係(*服部注…村長・助役・収入役の次のポストで、強い権限を持つとの由)が強硬派で、『自決すべし』であった」。

 解散直後、自決の状況を近親者や友人らに詳細を聞いたが、「世間では集団自決と言うが、それぞれの壕で家族が『無理心中』的に自決したのが実相です。役場から忠魂碑前に集まれとの集合がかかったけれども、艦砲射撃で皆ちりぢりになってしまった。それで各壕の各家族で自決した」。「自決したのは他と孤立した所にある壕の家族に多かった。情報が入ってこなかったから」だ。

 また、「中には率先して軍と共に戦う人も出たけれど、それは少数」であったらしい。

 私たちの「米軍が来るのは分かっていたのに、なぜ住民は疎開しなかったのか?機密保持のために軍が住民を疎開させなかったという説もあるが」との質問に、「確かに機密の保持やスパイ対策という意味合いで、島を自由に出てはいけないということになっていた…、しかし、住民は『どうせ死ぬなら島で死にたい』という思いがたいへん強く、疎開はしなかった」と説明された。沖縄には、一族は同じ墓に入るという伝統がある。どうせ死ぬのなら、家族一緒に死のうと考えていたというのである。

 宮平さんの話を聞いて私たちは、追いつめられたということだけで住民が自決に至ったわけではないとの思いに至った。本土並みを希求した沖縄人の<自分たちは真の日本人なのだ>という気概が「古来の風習(日本の武士は落城に際して、潔く自刃して城と運命をともにする)」に則った自決へと導いたのではないかと感じた。農民出身ゆえに武士以上に武士道を実践した新撰組・近藤勇らの心情に通じる気迫を感じた。

 そして宮平さんは、「自決はあくまで『役場主導』だった」ときっぱりと言われた。

 梅澤隊長の人物像について「隊長は28歳にして少佐です。エリートです。すごい軍人であり、人間的にも素晴らしい人でした。たいへん落ち着いている人で、信頼して部下に任せるタイプです」と伺った。後年、梅澤氏自身が「軍人は民間人に『死ね』などとは絶対に言わない」と明言されたように、責任感に溢れる隊長であった。

 「住民スパイ虐殺説」に関しても、興味深い証言をされた。よく言われているような「言葉(方言)で住民をスパイ扱いしたわけではありません。実際にスパイはいました。移民のハワイ日系社会と通じていた」のだそうだ。宮平さん自身、夜中に高い崖の上から沖合に向けてチカチカと発せられる懐中電灯の光を何度となく目撃している。何らかの信号を米艦隊に向けて送っていたのであろう。しかし、「梅澤隊長は終戦が間近であることを察知してか、スパイの住民を見逃していました。そのため、住民の悪感情は全くありません。他の島ではスパイが見つかったら処刑したから住民殺害説が出来上がったのでしょう」とのことである。

 また、軍が渡したとされる手榴弾について、「女子青年団(*軍属のような形で軍に協力した)は、手榴弾を渡されて所持していました。しかし、その他の手榴弾はどこから持ってきたものかわかりません。兵といえども、3名に1丁の三八銃がある程度。だから、住民には請われても渡せません。たぶん島の防衛隊(*民間人で結成された防衛組織)か住民が、軍の保管場所から勝手に持ってきたものでしょう」とも聞いた。

 偽証による補償金問題に関しては、「これはもう、どうしようもなかった」という。一同、島民の苦難と悲劇に思いを致した。それでも「この座間味は真実を言いやすい空気」だという。なぜなら、自決命令を出した村の三役自らが自決して亡くなっているからだ。それに対して渡嘉敷島では「命令者の村長始め、村のリーダーが戦後も存命だったから、大っぴらに言える空気ではなかった」のだ。

 以上が調査の要点である。その後、宮平さん自身が案内人となり、集団自決の現場、「平和の塔」「昭和白鯱隊玉砕の地」などの慰霊に臨んだ。

■鉄の暴風は「全部ウソ」

 一行は渡嘉敷島に渡り、民俗資料館館長の金城武徳さんにお話と現地調査の案内をお願いした。金城さんは当時13歳で、自決現場に居合わせたが、命を永らえた。集団自決の地に建つ「集団自決跡地」碑を前にしての金城さんの証言は、実際に現場を知る者として迫真に満ちた内容であった。以下、金城さんの証言であるが、『正論』平成18年11月号水島聡氏による「妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった」と重複する話を割愛して肝心な点のみ記したい。

 まず軍命令を流布した沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』の記述について、「あれは全部、ウソ。島民はそのことを分かっているので、あんな本は絶対に読みません。怒って捨ててしまう」と吐き捨てるが如く言われた。

 自決に使用された手榴弾の出所に関しては「島の防衛隊が手榴弾を持っていました。戦闘が激しくなって、各々が自分たちの家族のところに逃げてきていたので、持っていた手榴弾を自決に使った」と、座間味島と同様であることがわかった。

 自決の地は谷間で、皆まとまって自決した。曾野さんの著書(引用者注:曽野綾子氏の『ある神話の背景』昭和48年発行)の通りで間違いないことを確認する。悲惨な自決の様子を語られた後、金城さんは「本土の兵隊が『お母さん!』と叫び戦死したのに立ち会ったけれども、島民は皆『天皇陛下万歳!』と言って自決しましたよ」と堂々とおっしゃった。

 そして「赤松隊長(引用者注:渡嘉敷島守備隊長・赤松嘉次氏)は絶対に自決を命じていない。自決の音頭をとったのは村長のほか、村の指導者たちだった」と何度も断言されていた。

■これは正義と道徳の問題だ!

 22日の最終日は沖縄本島で戦跡を巡る予定であったが、急遽、貴重な重要証言を聞ける機会がもたらされた。元琉球政府の照屋昇雄さんの話を伺えたのである。照屋さんは、島民に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を適用して遺族補償金を拠出させた経緯をすべて知っている当事者だ。昨年8月27日付産経新聞「渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言」のスクープで証言された方である。

 実は照屋さんは、この日の直前まで証言を躊躇されていた。曰く、「私は今までずっと正しいことは言えなかった。それほど左翼勢力の力が恐ろしいのが沖縄です。もし真相を話したら、ここには住めなくなるし、命の危険もある。今日は特別。誰にも話したことがないことを話します」。私たちは沖縄の複雑な事情に改めて驚いた。以下、要点のみ記す。

 まず今の「混乱の原因は援護法にある」と言われた。要するに「軍の要請によって壕から出て死亡したら補償金が出る。しかし、自分から壕を出て死亡したらお金はゼロ。荒廃した島の現状を知っている私たちの側には、住民の申請が『ウソ』と分かっていても目をつぶって受理する方針があったのです」とのことだった。これが利用され、「悪逆非道の日本軍」との神話が出来上がってしまった。

 赤松隊長については、「たいへんに立派な人。アメリカの従軍記者も赤松隊長をとても誉めていた」。住民と兵との関係については「渡嘉敷、座間味の住民は、兵と親しかった」との由。兵は常々「我々はどうせ死ぬから(もともと赤松隊長は海上特攻隊である)。食料はあそこに隠してある。みんな長生きしてくれ」と言っていたのだそうだ。しかし、座間味の自決の件が慶留間に伝えられ、渡嘉敷にも報じられて、島民は「座間味同様、我々も…」となったようだ。

 戦後、援護法適用に際して厚生相の資格審査委員会で「隊長命令があったなら…」となり、玉井喜八村長が何度も赤松氏宅を訪ね、懇願した経緯を語られた。「隊長命令があったことにして欲しい」と泣きながら頼まれた赤松氏は次のように述べたという。「私は渡嘉敷で死ぬはずだった。しかし、渡嘉敷の人たちのおかげで、今生きていられる。命令があったことにしましょう」。資格審査が通り、補償金の支給が決定した。以後、この筋で、座間味島も承認され、他の島々へと波及していったのだという。照屋さんは「玉井村長と『この話は墓場までもっていこう』と誓い合った」そうだ。「赤松隊長が新聞や本で批判されているのを見るたび『申し訳ありません』と手を合わせ、心が張り裂ける思い」だった。大江健三郎氏が著書『沖縄ノート』で、1970年の慰霊祭に訪沖した赤松氏を激しく批判しているが、そもそもは村長や遺族会などが「赤松隊長のおかげで今の村がある」と、氏を招待したのに左翼団体のせいで大騒ぎになってしまったと無念そうに話された。

 赤松氏が癌に冒されて余命幾ばくもなくなった時に、奥様から玉井村長に「自決命令の件を『村史から消してほしい』」との要請があった。軍の名誉を守るためという。しかし、村長は以来、日々眠れない夜を過ごすことになった。「真相を明らかにしたらどうなるか…、援護金の件と隊長への恩義の間で板挟みに合ってたいへん苦しんでいました」。真実が明かされぬまま、赤松氏は逝去される。村長はなおも苦悩し続け、赤松氏の後を追うようにして亡くなった。生前、赤松氏を「神様のような人」と形容していたという。

 「島民は、真相を知っているのか」との質問には「島民は全部、分かっています。でも誰にも本当のことは言わなかった」。なぜなら「自決命令を否定するとなると、役場は該当者の全ての戸籍を書き換えて改定しなければならない。そんなことは今さら出来ない。それゆえ、調査もしない。だから、今でも『村史』から消していない」のである。

 しかし、私たちは役人の事情とは別にして「ウソを教えること」「正しい人を貶めること」は絶対に許してはならない。これは「道徳」と「正義」の問題であると確認した。

 別の貴重な証言もお聞きした。日本軍が避難中の住民を壕から追い出したとされる件の真相である。沖縄県平和祈念資料館には、常設展示として壕内の避難住民に銃剣を向け、険しい表情で立っている日本兵の蝋人形があるやに聞いている。自分たちが助かるために兵が住民を壕から追い出したのだと言いたいらしい。現にこの話は教材としてもまかり通っている。しかし、そんな馬鹿なことはやはり無かった。照屋さんによれば、真相はこうである。

 「米軍が上陸してきて白兵戦が必至になった時、隊長と兵隊が、付近に隠れている住民を壕や亀甲墓から出させて、避難させたのです。避難を指示する際も、当然、着剣で銃を前に持って構えていますよ。いつ白兵戦になるかわからないから。その上、兵隊も緊張して興奮してます。すぐそこにアメリカ兵が迫っているんですから。もうパニック状態で言葉も荒い。『今すぐに壕から出て逃げろ!』って動作も乱暴だったでしょう。状況がよくわからなかった住民もいたかもしれません。でも、それは住民を早く逃がすため、助けるためでした。これが<住民の壕を奪って軍の陣地にするために追い出した>となってしまった」

 件の資料館が反日偏向教育の拠点と言われるのもむべなるかなとの思いを深くした。

 最後に、この聞き取りで得たあまり知られていない秘話を紹介したい。実は渡嘉敷島には、赤松隊長の小さい顕彰碑がある。当初、立派なものを作ろうと計画したが、左翼勢力が騒ぐとの理由で、誰にも分からない場所に隠匿している。そして、今でも毎年、遺族会などの人たちの手で赤松隊長の慰霊祭を秘かに続けているのだそうだ。
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by thinkpod | 2007-06-25 04:37