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2007年 05月 11日

日本人従軍看護婦たちの死ー抗議の自殺

【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺

 今にも泣き出しそうな曇り空のもと、埼玉県大宮市の公園墓地「青葉園」の一角に立つ青葉地蔵尊で今月二十一日、約六十人の有志が集まり、自ら命を絶った従軍看護婦二十二人の墓前供養が行われた。

左手に赤十字の看護婦帽を掲げ持つ高さ一メートル余りの地蔵尊。この日は、四十九年前の昭和二十一年、旧ソ連軍の慰安婦となるのを拒み、集団自殺した彼女たちの命日にあたる。看護婦たちのうち、遺族が分からない三人の遺骨も、ここに納められている。

 「ソ連の非道は、体験したものでないと分かりません。あのころは、無理でも向こうの言うことを聞き入れるしかなかった。敗戦の切なさですね」

 地蔵尊の建立者で当時、婦長だった松岡喜身子さん(七七)=東京都八王子市=は、戒名が一人一人読み上げられると、うつむいて目頭を押さえた。

集団自殺の日からきょうまで、朝晩の仏前供養は欠かさない。「私は老いた今でも現役で看護婦をしていますが、きっと彼女たちが見守ってくれているのだと思います」

ナイチンゲールにあこがれて看護婦を志した喜身子さんは樺太・知取(しりとり)の生まれ。昭和十一年に樺太庁立豊原高等女学校を卒業、満州赤十字看護婦養成所を経て故郷で希望通り看護婦となった。十四年暮れ、陸軍軍医少尉だった四つ年上の前夫、堀正次さんと結婚する。

  ところが、翌十五年春、従軍看護婦の召集令状が舞い込み、喜身子さんは香港へ。さらに上海、満州北部の虎林(こりん)、牡丹江(ぼたんこう)と任地を転々とする。出征から半年ほどたったころ、実家から、正次さんも応召、満州へ出発したと便りが届いた。

  約二年間も離れ離れで連絡もつかなかった二人は十七年ごろ、虎林の野戦病院の廊下でばったりと行き合った。

  「再会したとき、主人は顔が分からなかったほどやつれていました」。おしゃれだった正次さんは、真っ黒に汚れた軍服姿で、破れ靴を履いていた。

 二人は官舎を与えられ、十八年五月には長男、静夫さん(五二)も生まれる。だが、傷病兵の治療、看護に追われながらも幸せな生活は、長くは続かなかった。

  二十年八月八日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日参戦、満州にも雪崩を打って侵攻した。精強を誇った関東軍はすでに形がい化しており、ソ連は猛スピードで南下した。

ソ連参戦から二日後、喜身子さんは、正次さんにプレゼントされた将校用水筒を肩に、軽傷の傷病兵らを連れて南方にある満州の国都、新京(長春)に向かった。

重傷患者の治療のため残った正次さんの消息はそれっきり、杳(よう)として知れなかったが、昭和二十三年ごろ、引き揚げて北海道の病院で働いていた喜身子さんのもとに、山口県徳山市の正次さんの実家から、戦死の知らせとともに聴診器、軍隊手帳が郵送されてきた。

二十年八月十五日、新京に着いた喜身子さんは、敗戦の知らせを聞いた。町はソ連軍に占領された。喜身子さんら三十人ほどいた看護婦は、月給二百円で、中国共産党八路軍の長春第八病院勤務を命じられた。

そして翌二十一年春、新京から数キロ離れた城子溝にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、「看護婦三人、派遣勤務を命ず」と通知が届いた。期間は一カ月、月給三百円と、もっともらしい条件付きのこの一枚の命令書が、悲劇の始まりとなった。

「ソ連の命令じゃ仕方ないわ」。不気味な不安を覚えた喜身子さんだったが、軍医と相談の上、優秀で気のつく大島はなえさん(二二)ら三人の看護婦を派遣した。みな、二十代前半の乙女たちだった。

そのわずか一週間後、再び命令が来て、今度も三人が救護所に。ソ連の要求はとどまるところを知らず、さらに一カ月後、約束の期限が過ぎても前任者を帰さないまま、新たに三人の派遣を命令してきた。

あまりの厚かましさに憤慨したが、虜囚の身でどうにもならない。今度は「あす全員でくじ引きをして決めよう」と話し合い、看護婦たちと別れて宿舎に帰った。

だが、その晩のこと。腕や足、体中に十一カ所もの銃創を受けた大島看護婦が一人で逃げ帰ってきた。

「今思い出してもゾッとします。歳月を経るにつれリアルに情景が浮かんで…」と喜身子さんは振り返り、絶句した。

振りそでをイブニングドレスに縫い直したあでやかな洋服姿とは逆に、傷だらけの大島看護婦。あらわな背中には、鉄条網をくぐり抜けたらしい擦過傷もあった。そして、うわ言のようにこう繰り返して息絶えた。

「婦長さん、看護婦をソ連にもう送らないで。ソ連将校の慰みものにされるだけです。送ってはいけません」

 だが、悲劇はさらに続いた。

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 昭和二十一年六月二十日の満州・新京(長春)。旧ソ連軍に留め置かれ、長春第八病院で働いていた松岡喜身子さん(七七)ら二十数人の従軍看護婦は、絶望のどん底にいた。

その夜、ソ連軍の要請で軍の救護所へ仲間六人と“応援”に行っていた大島はなえ看護婦(二二)が、十一発もの銃創を受けながら一人逃げ帰り、救護所の実態を伝えて息を引き取った。

「日本人看護婦の仕事はソ連将校の慰安婦。もう人を送ってはいけません」

大島さんの血みどろの姿に、喜身子さんはぼうぜんとし、涙も出なかった。「ロシア人は日本人を人間とすら扱わないのか…」

だが、悪夢はその翌朝も待っていた。

二十一日月曜日午前九時すぎ、病院の門をくぐった喜身子さんは、病院の人事課長、張宇孝さんに日本語でしかられた。

「患者は来ているのに、看護婦は一人も来ない。婦長のしつけが悪い」

「そんなはずはありません。見てきます」

胸騒ぎがして、看護婦の大部屋がある三階に駆け上がった。ドアをノックしても返事はない。中へ飛び込むと、たたきには靴がきちんとそろえてあった。

線香が霧のように漂う暗い部屋に、二十二人の看護婦が二列に並んで横たわっていた。満州赤十字の制服姿で胸に手を当て、眠っているようだった。寝乱れないよう、両太ももを包帯や腰ひもで縛っていた。

「死んでいる…」。満州赤十字の看護婦は終戦時、軍医から致死量の青酸カリをもらい、制帽のリボン裏に隠し持っていた。机上には、二十二人連名の遺書が残されていた。

〈私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます〉

これにはソ連側も驚き、翌日には「日本女性とソ連兵は、ジープその他の車に同乗してはいけない」など綱紀粛正の通達を出す。

命と引き換えにした抗議の、ささやかな代償だった。

一方、病院からは小さな花束が一つ贈られただけ。葬儀資金にも困ったが、張さんが「火葬、分骨して故郷の両親に届けてあげなさい」と、一人当たり当時の金額で千円もする火葬代を払ってくれた。

葬儀を済ませ、四十九日を迎えたころ、喜身子さんは、いまだ帰らない看護婦たちが、ダンサーをしているとうわさに聞き、そのダンスホールへ向かった。

名前を告げ入り口で待つと、五人が現れた。肌もあらわなイブニングドレスに濃いルージュ。いかにもダンサー然としているが、青ざめた顔はまるで病人のよう。

「こんな所にいないで、早く帰ってきて」

喜身子さんは説得するが、五人は首を横に振るばかり。ついカッとなり、「好きでこんなことをやっているの。そこまで堕落したの」とひっぱたいた。

すると、彼女たちは涙を浮かべ、決意を語り始めた。

「私たちはソ連の救護所で毎晩七、八人の将校に暴行され、すぐに梅毒をうつされてしまいました。どうしてこの体で帰れましょうか。今は一人でも多くの客をとり、この性病をソ連兵にうつして苦しめたい」

喜身子さんは翌日、薬を手に再び訪ねた。が、看護婦である彼女たちは、自分の症状が治るものではないと知っており、受け取りも拒んだ。

二年あまり過ぎた二十三年十一月、喜身子さんらが日本へ引き揚げるとき、五人は稼いだお金を駅まで持ってきた。「旅費にしてください」と無理やり渡し、話も交わさずに去った。そのうち三人はピストルで自殺したという。

喜身子さんは当時、三歳半だった長男、静夫さん(五二)にも看護婦たちの遺骨を入れた木箱を背負わせ、一歳の長女、 子さん(五〇)を背に日本に帰った。

「二人とも“残留孤児”にさせかねないほど、混乱した状況でした」

夢にまで見た母国だが、軍医だった夫を亡くした生活は厳しい。大島さんを含む二十三人の遺骨を自宅に届けようにも、連絡先を記した書類などはなく、記憶だけが頼り。探しあてるのは、雲をつかむような話だった。

そんなときに力になってくれたのが現在の夫、松岡寛さん(七六)だった。

浪曲師、春日井梅鶯(ばいおう)の内弟子で、若梅鶯の芸名を持っていた寛さんは二十七年ごろ、喜身子さんらのエピソードを『ああ 従軍看護婦集団自殺』という題目にして、全国を巡業した。

実名で容ぼう、特徴も浪曲に盛り込んだ結果、十九家族が名乗り出た。

浪曲を聞いた埼玉県大宮市の公園墓地「青葉園」の理事長、吉田亀治さん(九一)からは「供養に役立てて」と土地提供の申し出があった。こうして三十一年六月二十一日の命日に、看護婦たちを祭る青葉地蔵尊の開眼法要が営まれた。

そして五十年目の今月二十一日に行われた墓前供養。喜身子さんは地蔵尊にこう呼びかけた。

「終戦から五十年、早いですね。日本も日増しに平和がよみがえりました。私はこれからもあなたたちの分まで、看護の道を頑張りたいと思います」 (戦没者遺族取材班)

http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/131053



日本人従軍看護婦たちの死ーー元大本営参謀の証言(5)
2007/05/10 14:52

元大本営参謀で、戦後は明治薬科大学の理事長などを務めた高橋正二氏の報告を続けます。高橋氏が日本人の従軍看護婦たちの悲惨な死について語っています。

いわゆる慰安婦問題というのも第二次世界大戦の中で起きた出来事でした。戦争という異常な事態が異常な現象を生む、ということでしょう。

戦争が悲惨であることは、だれもが知っています。戦争という異常な環境の下で人権を踏みにじられた被害者は無数に存在しました。慰安婦の人たちもそうでしょう。いまの人道主義や道徳の規範からみれば、深く同情すべきであること、そして反省すべきであることは当然です。

しかし戦争という巨大な異常環境の中で人権を蹂躙されたのは、慰安婦の人たちだけに留まりません。この点にもこの種の案件をそのことが終わってから70年後に拡大して取り上げることの相対性の問題があります。戦争で悲惨な目にあったのは慰安婦の人たちだけだったのか。

戦争を回顧して、現代の人道主義という観点から、善悪の審判を下す、というような作業をするとき、総合的な視点がどうしても必要となるでしょう。

戦争は他の数え切れないほど多数の人たちにも悲惨な死や苦痛をもたらしたのです。その意味で高橋氏が伝える日本人従軍看護婦たちの死の悲劇は第二次大戦が終わった後に起きたという点ではきわめて異色ですが、戦争という大きな枠の中で起きたことも、また事実です。

高橋氏は「慰安婦の『強制連行』のごときは大ウソであります」と語りながら、「ここで悲しいお話を申し上げさせていただきます」と述べ、要旨、以下の報告をしました。


「昭和20年8月8日、ソ連軍の突然の攻撃を受けて、当時の満洲国東部国境に近い虎林の野戦病院の日本人従軍看護婦たちは松岡喜身子婦長以下34人、長春に移ると、ソ連占領軍から八路軍長春第8病院で勤務することを命じられた」

「間もなく昭和21年の春、加藤婦長らは城子溝にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所へと日本人看護婦数人を送ることを命じられた。勤務は1カ月間、月給は300円という条件だった。危険が感じられるので、誰を送るかは難しかったが、婦長は軍医らと相談のうえ、優秀な大島はなえさん(22歳)ら3人を選び、送った」

「1カ月以上が過ぎて、さらに3人の日本人看護婦を送れという命令がきた。さらに3回目、また3人を送った。そして第4回目の3人を送り出さねばならなくなった6月19日の朝、第8病院のドアに女性の体がドサリと、倒れかかってきた。なんとこれが最初に送り出した大島看護婦だった」

「大島さんは日本の振袖をイブニングドレスに再生した肩もあらわな洋服をまとい、足は素足で、傷だらけの顔は蒼白、体中に11ヵ所もの盲貫銃創や鉄条網をくぐった際の傷跡があった。脈拍ももう不規則で死が近かった。だが大島看護婦は必死で婦長らに告げた」

『私たちはソ連の病院に看護婦として呼ばれたはずなのに、最初からソ連軍将校の慰みものにされた。いやといえば、殺されてしまう。後から送られてきた同僚の日本人看護婦たちもみな同様の目にあった。もうこれ以上、看護婦を送らないよう、なんとか知らせねばと思い、厳重な監視の目を盗んで逃げてきたーー』

「血の出るような言葉を最後に22歳の生命は消えていった。翌日午後、満洲のしきたりに習って、土葬をして手厚く葬られた。髪の毛と爪をお骨がわりにして」

「その翌日の6月21日、松岡婦長が医局に入ると、午前9時過ぎなのに、看護婦が一人も姿をみせていなかった。婦長は胸騒ぎを覚え、三階の看護婦室まで駆け上がった。不気味なほどひっそりして、入り口には一同の靴がきちんとそろえてあった。障子を開けると、大きな屏風がさかさまに立ててあった。中から線香のにおいがした」

「22人の看護婦たちは制服制帽姿で、めいめいの胸のあたりで両手を合わせて合掌し、整然と横たわっていた。足は紐できちんと縛ってあり、みなもう冷たくなっていた。二列になった床の中央には机を置き、その上には前日に弔いをした大島はなえさんの遺髪の箱が飾られ、線香と水が供えられていた。そして遺書があった」


遺書
                           昭和二十一年六月二十一日
  
二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。
私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるより死を選びます。たとへ生命はなくなりましても私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、日本が再びこの地に還ってくる時、ご案内いたします。その意味からも私どものなきがらは土葬としてこの満洲の土にしてください。

<彼女たちの自殺は薬物(青酸カリ)によるものでした。それにまた彼女たちの汚れ物の一枚も残していないのも、日本女性の身嗜みと、一段と涙を誘うものがあります。ボイラー係の満人からの話では、死の当日、ボイラー室に大きな包みを二つ、持ち込んできて、
これを目の前で燃やしてくれと言うので燃やしてあげたということです>(高橋氏の解説)


この日本人看護婦たちが集団自殺したのは、明らかにソ連軍による「性的奴隷化」のせいでしょう。しかし日本の国会がソ連に謝罪を求める決議案を出したという話は聞いたことがありません。 

http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/168567
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by thinkpod | 2007-05-11 03:38
2007年 05月 08日

「日本共産党史」から消された「朝鮮総連」結成秘話

 ジャーナリスト 林 玲


【5月25日、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が、創立50周年を迎えた。北朝鮮を支持する在日団体として、何かと話題になることが多いが、かつての日本共産党との深い関わりを知る人は少ない。日本革命を共に目指した在日朝鮮人のコミュニストの多くが、総連結成に参加したのである。党史から抹殺された秘話をジャーナリスト林玲氏がレポートする。】


 今では党史のどこにも書かれておらず、すっかり忘れ去られているが、実は日本共産党は戦前から戦後にかけて、在日朝鮮人と共に歩み、大いに助けられた。

 共産党と在日朝鮮人の関係を辿ってみよう。

 1922年(大正11年)の創立時から、共産党は植民地解放の方針に基づき、朝鮮の独立を綱領に掲げた。コミンテルン(共産主義インターナショナル)の方針で、1930年代以降、日本在住の朝鮮人共産主義者は、日本共産党に所属した。ちょうど在米中の片山潜がアメリカ共産党に所属し、在仏中のホー・チミンや●小平(●=トウ=登にオオザト)がフランス共産党に入党したのと同じである。

 戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。

 1945年(昭和20年)、敗戦の年の10月、徳田球一ら共産党幹部が、府中刑務所を出獄した。その際、

<歓迎 出獄戦士 万歳>

 の幔幕を掲げ、熱狂的に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。その後、催された歓迎大会の会場を設営したのもまた朝鮮人党員である。彼らが待ちわびていたのは、獄中15年の不屈の闘士、金天海であった。金天海は在日朝鮮人から圧倒的な支持を集めていた。

 その年の11月、共産党は再建の第一歩として、第4回党大会を準備するため、全国協議会を開催する。全国から300人の代議員が東京・代々木の本部に集まり、行動綱領草案、規約草案、日本共産党の当面の政策を採択した。さらに、1カ月以内に第4回党大会を開催することも決定する。

 その準備委員に選任されたのが、徳田球一、志賀義雄、袴田里見、金天海、宮本顕治、黒木重徳、神山茂夫の7人だった。この名簿順位は、当時の党内ランクを示している。

 会議では、金天海を責任者として、朝鮮人部を設置することも決めた。実は、日本共産党の再建資金のほとんどは、当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供している。このことは、党史には一行も触れられていない。

 金天海は、同年12月1日に開かれた共産党第4回党大会で、7人の中央委員、5人の政治局員の一人となった。この党大会では中央委員候補に、同じ在日の宋性徹も選ばれている。

 翌46年(昭和21年)2月の第5回党大会では、同じく在日の金斗鎔、朴恩哲、保坂浩明(李浩明)も中央委員候補となり、後に遠坂寛(崔斗煥)も加えられた。第5回党大会当時の党員数はおよそ6000人。うち約1000人が朝鮮人だったという。一大勢力であった。

 金天海は、1898年(明治31年)、慶尚南道蔚山生まれ。本名を金鶴儀といった。1920年(大正9年)、仏教の勉強のために来日。日本大学社会科に入学したものの中退し、運動に身を投じた。活動家としてすぐに頭角を現し、1920年代には、早くも在日朝鮮労働総同盟(在日労総)委員長に就任。朝鮮共産党日本総局責任秘書も歴任する。責任秘書とは、今でいえば総書記とか書記長ということで、実質的な組織の責任者であった。人情家で在日朝鮮人の間では信望が厚かった。

 筋金入りのコミュニストだった金天海は、戦前、2度投獄された。戦後、出獄後に朝連の最高顧問に就任している。

 1949年(昭和24年)、朝連が強制的に解散させられる際、金天海は公職追放を受け、北朝鮮へ密出国する。北朝鮮では朝鮮労働党中央委員、社会部長、祖国統一民主主義戦線議長、最高人民会議常任委員を務めるなど、要職にあった。しかし、1970年代の金日成個人崇拝の高まり以降、消息は全くわからない。

在日は少数民族

 金天海が、戦後再建時の日本共産党で、5人の政治局員の一人であったことをみても、在日団体に対する共産党の影響力が大きかった、というよりもむしろ、日本共産党における朝鮮人の役割がいかに大きかったかがわかる。

 共産党が、在日団体である朝連などへの指導をぶれることなく続けられたのは、「朝鮮フラクション(支部)」を設置していたからだった。この組織は1947年(昭和22年)1月26日、金天海のもとで、責任者に「朝鮮民衆新聞」を創刊した朴興奎、後に朝鮮総連初代議長となる韓徳銖ら6名の委員と、4名の委員候補からなっていた。

  ☆

 敗戦直後から、在日朝鮮人の間で、子弟に対する民族教育をしたいという要求が高まっており、在日団体が自然発生的に各地につくられた。それらをまとめ、相互扶助的な団体として、

<全日本に在留する240万同胞の生命と財産を保護し、あらゆる権利を主張すべき唯一の代表機関>

 を宣言して、1945年10月15日に結成されたのが、朝連、在日本朝鮮人連盟であった。

 当時を憶えている在日の古老たちによると、
 「味噌とか醤油とか木炭を配給したりして、今でいう生協のようなものだった」
 「隠退蔵物資を摘発して、在日の商工業者へ原材料を提供することもやっていた」
 という。

 在日朝鮮人の運命は、激動する国際情勢にゆさぶられ続けていた。

 第二次世界大戦の戦後処理問題討議のため、米英ソ3国の外相会議が、1945年12月、モスクワで開催された。朝鮮については、

<米ソの協議により朝鮮民族の臨時民主政府の樹立を準備し、米ソ両国は5年間の信託統治を実施する>

 ということが決まった。

 この決定は、朝鮮民族を信託統治に対する賛成、反対で二分し、南北に別々の政府が樹立されるきっかけとなる。朝連は信託支持であり、一方の反信託側は、46年10月に民団(在日朝鮮居留民団)を結成。それ以降、在日団体は二分されることになった。

 1949年(昭和24年)3月27日、朝連は他団体とともに大阪の扇町公園で、吉田内閣打倒人民大会を開催する。大会後、デモ隊と警察官が衝突し、重軽傷者は16人にのぼった。同年6月11日には、朝連の参加する公安条例反対共闘委員会が、皇居前広場におよそ5万人もの参加者を集めて大規模集会を開催する。朝連の活動は活発だった。

 日本政府は朝連を恐れるようになっていく。その年の9月8日、朝鮮民主主義人民共和国建国1周年の前日、朝連を強制的に解散させる。団体等規制令に抵触したという理由だが、背景には、冷戦の進行、中国大陸で共産党政権樹立という状況があったのである。

 朝連解散後、日本共産党は民族対策部(民対)を設置する。民対は前身の朝鮮人部と同じく、主として在日党員で構成されていた。

 朝鮮戦争勃発の翌年の51年(昭和26年)1月、在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成される。民戦は議長団の一人に民団の副団長である李康勲が加わるなど、当初は何とか統一戦線であろうとした。李康勲は、熱烈な民族独立運動家で、“北朝鮮支持”は決して口にしなかった人物である。しかし、結成から3年後の1954年(昭和29年)、李康勲は、

<民戦は民族団体ではなく、日本共産党の尖兵>

 という声明を発表して民戦を離脱する。

 実際、民戦は“オモテ”の顔としては日本国内の在日朝鮮人組織の統一戦線であったが、“ウラ”の顔としては、共産党の民族対策部の指導下にあった。

 そのため、活動に参加した朝鮮人党員の多くは、1951年2月の4全協(第4回全国協議会)で決定された“武装闘争”の前面に立つことになり、大きな犠牲を出してしまう。

 なぜ、多大な犠牲を払ってまで“在日朝鮮人”は、共産党の“武力闘争”の方針に積極的に従ったのか。

 実は、4全協では在日朝鮮人を、戦時下の日本政府にならったのかどうか、

<日本のなかの少数民族>

 と規定したのである。

 この規定では、在日朝鮮人は外国人ではないことになる。つまり日本革命をなし遂げることなくしては、在日問題は何一つ解決しない、とされたのである。

大量だった在日の逮捕者

 その年の8月19日、共産党第20回中央委員会総会で、『日本共産党の当面の要求――新しい綱領』、いわゆる51年綱領の草案が提出された。51年綱領は、平和革命の可能性を全面的に否定し、4全協で採択された軍事方針を正当化し、山村工作隊活動や火炎ビン闘争を展開する極左冒険主義方針の根拠となった。綱領草案は、10月16日の第5回全国協議会(5全協)で採択された。

 『日本共産党の60年』や『日本共産党の70年』など公式の党史は、極左冒険主義や軍事方針は当時の、“徳田球一書記長を中心とした分派”がやったこととして、責任を回避している。しかし、分派闘争、内部の勢力争いにうつつをぬかしたのは、徳田、宮本顕治(のちに書記長、中央委員会議長)などひと握りの幹部たちだけであった。朝鮮人党員を含めて大部分の党員は、共産党の方針を正しいと信じて、身の危険をかえりみず忠実に参加したのである。

 共産党の軍事方針のもとで、いくつもの騒乱事件が起きた。

 1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデーで、デモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる“血のメーデー事件”がある。戦後、皇居前広場は“人民広場”と呼ばれ、たびたび集会場として使われてきたが、その日、政府は使用禁止とした。だが、メーデー参加者たちは広場に突入。在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙した。

 この事件では在日朝鮮人から多くの逮捕者(1232名中130名)が出た。広場になだれ込んだ2万人のうち、5000人が在日だったといわれる。

 その年、大阪で起きた吹田事件(6月25日)、名古屋の大須事件(7月7日)でも、多数の逮捕者が出た。吹田事件の在日の逮捕者は250名中92名。大須事件では、269名中150名が在日だった。

 こうした騒乱事件の多発に対し、大須事件直後の7月13日、民戦中央本部は、実力闘争偏重を批判する。第一線の実行部隊が朝鮮人である場合が多かっただけに、切実だった。

 一方、日本共産党は、12月中旬になっても全国軍事会議を開催し、武装闘争と日常戦闘との結合を強調するなど、極左冒険主義は改めそうになかった。

 血のメーデーから2年後の1954年(昭和29年)8月30日、日本政府の朝鮮人処遇について、北朝鮮外相による抗議声明が発表された。朝鮮人への扱いは国際法違反であるとして、「在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の公民」であるから、当然の権利を認め、日本居住、就業の自由、生命財産の安全を保障するように日本政府に要求した。北朝鮮政府が、在日朝鮮人の利益を代表するという立場の表明だった。

 その年の10月30日、中国紅十字会(赤十字)代表団の一員として、中国の対日工作の最高指導者、廖承志が来日する。廖承志はあいさつの中で、
 「在日中国人団体は、日本の政治に干渉してはならない」
 と語った。

 北朝鮮政府の声明と、廖承志のあいさつは、関連性がないように見える。しかし、実はともに、暗に日本共産党の在日朝鮮人運動に対する指導性を否定するものであった。これが、在日朝鮮人運動の“路線転換”を促す契機となる。

結成時、一斉に離党

 1955年(昭和30年)1月1日、共産党はようやく、機関紙『アカハタ』で「極左的冒険主義と手を切る」と発表した。

 その後、在日朝鮮人活動家の間では、二つの考え方が対立するようになる。

 一つは、北朝鮮支持の旗を実際に日本国内で掲げるべきという考え方。もう一つは、幅広い統一戦線をつくるために、旗は心の中に掲げるべきという日本共産党民対の考え方であった。対立は激しかった。

 ここにキー・パーソンが登場する。韓徳銖である。後に朝鮮総連中央常任委員会議長、北朝鮮最高人民会議常任委員を歴任する彼は、1907年(明治40年)慶尚北道で生まれている。1927年(昭和2年)渡日して、日大専門部に入学(後に中退)。共産党系の労組である全協に加入し、1934年(昭和9年)、熱海線トンネル工事の争議に加わり検挙される。戦後は朝連に参加。朝連中央本部総務局長などを歴任した。

 韓徳銖は、共産党の指導下で日本革命を共に目指したいわゆる“民対派”に対して、朝鮮や朝鮮労働党との結合を(おそらく朝鮮労働党側の内意を受けて)主張した“民対派”として、在日朝鮮人運動の路線転換に主導的役割を果たした。

 1955年(昭和30年)3月11日、民戦は中央委員会を開いた。その席で韓徳銖は“在日朝鮮人運動の転換について”演説する。反対派のヤジが激しく、中断せざるをえなくなった。だが、彼の作った路線転換への流れは変わらなかった。

 5月23日、浅草公会堂で最後の民戦6全大会が開かれ、翌24日解散する。

 こうして1955年5月25日、今からちょうど50年前、民戦解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱した。

 同年7月24日、共産党は民族対策部を解消。朝鮮人党員離党の方針を決定することで、これを追認した。

 戦前、戦後の最も苦しかった時代、共産党の中で最も困難な仕事を引き受け、党を支えたのは在日朝鮮人の人々であった。共産党の正史では、そのことに一言も触れられていない。

 半世紀という歳月は、共産党と朝鮮総連という二つの組織を、全く別々の遠い所まで連れていった。在日朝鮮人と日本共産党が、共に夢見た濃密な“時”を振り返る者ももういない。

週刊新潮(05年6月2日号)

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid289.html#sequel




2007/07/19-17:03 中ソが日本共産党に多額の資金援助=50〜60年代、CIAが掌握

 【ワシントン19日時事】18日に死去した日本共産党の宮本顕治元議長が「自主独立路線」を築く以前の1950〜60年代、同党が旧ソ連や中国から多い年で年間計40万ドルの資金提供を受けていたとの情報を米中央情報局(CIA)がつかんでいたことが、機密指定を最近解除されたCIA報告書で明らかになった。 日本共産党がソ連から資金援助を受けていたことは、ソ連崩壊後に解禁されたロシアの公文書で判明しているが、CIAも中国ルートを含めた資金の流れを掌握していたことが分かった。報告書は、共産党に対する外国の年間資金援助額を30万〜40万ドルと見た場合、同党年間収入の約4分の1に達していたことになると指摘している。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007071900798
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by thinkpod | 2007-05-08 15:12
2007年 05月 06日

コドモは「子供」と書くべきだ

【週の初めに】塩原経央 コドモは「子供」と書くべきだ
1998年11月23日 産経新聞 東京朝刊 その他

 共同通信社が加盟社を対象に出している新聞の用字用語についての情報冊子『用語委員会だより』四十七号に、同社社友の上田融氏が「『コドモ』の表記をどうするか」という論説を寄稿している。

 コドモは「子供」ではなく「子ども」と書くのが望ましいというのが上田氏の提案である。最近は文部省が出している『教育白書』でも、「子ども」という表記が採られているとのことだ。

 書店に行った折、コドモについて書かれた本のタイトルを気をつけて見てみたが、「子供」と「子ども」は相半ばしていて、なるほど「子ども」の表記が増勢にあるのだなという印象を持った。

 「子供」と「子ども」と、どこがどう違うのか。「子ども」の表記の源流の一つは上田氏の推論では「『供』という字は『お供』の『供』、付属物の扱いみたいだ」という羽仁説子さんの所説にあるらしい。“コドモの人権”をズームアップする人々はコドモを「子供」と書かないことに自らの良心を見ているのである。それはそれで立派な見識と思うが、私には少々異論がある。

                  ◇

 コドモは万葉仮名では「古騰母」「胡藤母」などとともに「子等」とも書かれ、ドモは複数を表す接尾語と説明される。ドモを「供」と書くのは当て字なのだ。

 また、コドモのドモは、ばか者どもとか、虫けらどもとか、上接する語を低く遇するときに用いられるから、「子ドモ」という語には彼らへの軽侮の念が込められていることも否定はできない。が、だからコドモは「子ども」と書くべきなのか。よくよく考えてみれば、ドモが付く限り「子供」を「子ども」と書き換えたところで、子供の人権を尊重することにはなり得ないではないか。

 一方、「子供たち」「子供ら」のような複数表現に私たちは何の違和感も抱かないように「子供」を子の複数の意ばかりには使っていない。こう考えると、むしろコドモは「子供」と書かれることによって初めて、「子・ドモ」の構造から、語としての「子供」へと自立を果たしたのだということができるのだ。

                  ◇

 「子供」は、字の形の通り“人”と“共”にいることなしには生きてはゆけない未熟な存在だ。大人や社会の付属物であるがゆえに、まさに保護され、教育され、しつけられて、人となるべき対象なのである。比ゆ抜きに言えば、永遠に「子供」である者などいない。だれもが親や世間にもみしだかれ磨き上げられて「供」たる身の上を通過してゆくのである。

 本紙連載の「教育再興」の報ずるところによれば、今や学級崩壊は小学校低学年にまで及んでいるという。先生を先生とも思わない、人権の被膜に保護されたアナーキーな子供たちの現出に、結果的に「子ども」と書いて子供を持ち上げた人権派の錯覚が手を貸した部分は小さくない。

 子供の人権などという言わずもがなを文にせずにいられないのは、日本人の流儀ではない。戦後の、人権という観念の根拠はなべて占領軍お仕着せの憲法にある。憲法を源とするアメリカ民主主義は、経済合理主義とともに戦後日本の再生に相応の役割を果たしたことは否定しない。が、その流儀が抱える二律背反性の影の部分が日々に子供の風景をむしばむ危機的な現在を思えば、今こそコドモは「子供」と書かなくてはならないのである。(校閲部長)






【続・国語断想】(8)子供再論 「子ども」こそが差別的表記
2002年10月02日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面

 平成十年十一月二十三日付の本紙朝刊で「コドモは『子供』と書くべきだ」という一文をしたためて、「子ども」などという表記は採るべきでないと警鐘を鳴らしたが、見ているとその愚かな表記がじわじわ広がり、増えこそすれ減る様子を見せていないのはまことに嘆かわしい限りだ。

 ただ一人、児童文学者の矢玉四郎氏がご自分のウエブサイトで「子ども教信者は目をさましましょうと、「子ども」という表記の不可なるゆえんを説いて、孤軍奮闘されている。

 日ごろ、わが国固有の伝統文化を重んぜよと説かれている側の知識人の中にすら、無警戒に「子ども」と書いている人がいて、その所論の尊敬すべきであればなおさら泣きたい気持ちになる。この問題を矢玉氏だけに丸投げしておくわけにはいかない。

 意識的に子供を「子ども」に書き換えようとしている戦後民主主義というバイアスのかかった人権派や、彼らにくみする言論機関ならいざ知らず、保守陣営の人々までが深い考えもなく「子ども」と書く近ごろのなりゆきを見て取れば、私もまた矢玉氏の驥尾(きび)に付し弓矢を取って参戦しないわけにはいかない。再論す、子供は「子ども」と書いてはいけないと。

 私たちは長い年月をかけて漢字仮名交じり文という洗練された国語の表記法を作り上げてきた。これを可能にしたのは、漢字を受け入れたときに、私たちの祖先が漢字という圧倒的な先進文化が用いている言葉の中にのみ込まれず、わが国語の中に漢字を取り入れる工夫をして、それに成功したからにほかならない。

 その工夫の一つは仮名の発明である。これによって、漢語にはない用言の活用語尾、助動詞、そして“てにをは”を書き表すことができるようになったのだ。それも平仮名と片仮名の二つの体系を発明したことが、どれほど国語を分析的にし、近代的観念行為に堪えられる言語にしたか思い返してみるべきである。

 工夫の二番目は、漢字語彙(ごい)を国語の文の構造の中に大量に取り入れて活用したことである。それは今日の外来語と同じで、漢語の字音そのものつまり外国語のまま取り入れたのではなく、わが国で識別できる字音に換えて受け入れたため、漢字語彙を容易に国語語彙として定着させることができたのだ。国語語彙の増大がまた、国語を近代的観念行為に堪えられる言語にしたのである。

 工夫の三番目は、わが国の言葉を漢字を用いて表記すること、つまり字訓を発明したことである。これが漢字の持つ表意性をそのまま国語に反映させることができた秘訣(ひけつ)なのだ。

 国語のハという音節が表す「端」や「歯」、また「葉」や「羽」や「刃」は、そうした漢字を用いることによって語としての分節を安定的にすることができたのである。これが仮に「ハ」または「は」のような音節を表す書き方しかできない言語であったとしたら、ハは未分化のまま容易には分節することができなかったに違いない。歯も葉もハと呼んで区別できない。それが未分化ということだ。

 国語の和語を漢字で表すということは、つまりはそうした知の進化の営みなのだ。子供を「子ども」に書き換えるのは、「子供」と書いて成立したチャイルドもしくはチルドレンの意を表す語の分節を「子」と接尾語「ども」に還元して、知を退化させてしまう行為にほかならないのである。しかも、この接尾語ドモは、女ども、ばか者ども、貧乏人どもなどと用いるように、侮蔑(ぶべつ)感が込められているから、「子ども」と書くのは「ガキメラ」同様、子供をさげすむ差別的表記でさえある。

 矢玉氏のウエブサイト「子ども教信者は目をさましましょう」には、氏の日本共産党への質問状に対する党中央委員会の回答というものが載っている。それによると「しんぶん赤旗」で七〇年代後半から「子ども」という表記をしているのは、「民主主義と人権の運動のなかで子どもは、戦前のように、おとなの『お供』でも、神仏の『お供え』でもない、人権を持った人間だという考えにもとづいています」ということだ。

 「子供」の供が「お供」の供だというのは難癖もいいところだ。「子ども」と書いた方がよっぽど子供をばかにした書き方ではないか。

 「子供」の供は「お供」の供でもなければ、「お供え」の供でもない。訓の一致することをもって借りた当て字に過ぎない。国語の漢字表記には当て字など珍しくもないし、当て字ではあれ漢字で書くことによって語として自立し安定化するのだから、子供を「子供」と書くのは国語の知恵というものだ。矢玉氏も指摘しているが、「大人も当て字で、大(おと)人(な)でも、大(お)人(とな)でもない」。子供を「子ども」のように書くのは、大人を「大な」や「おと人」と書くのと同じだと認識すべきである。

 日本文化の伝統を愛する諸氏に言いたい。「子ども」などと書くのは空虚な“人権派”の流儀にくみする愚行であると。

 (校閲部長 塩原経央)

http://tech.heteml.jp/2007/05/post_957.html


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「心のきれはし 教育されちまった悲しみに魂が泣いている」ポプラ社刊より
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by thinkpod | 2007-05-06 03:13 | 社会