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2007年 03月 31日

安倍政権の歴史認識

東京大空襲の見解で米国に毅然

 1905年3月1〜10日、清国の奉天(現在の瀋陽)で日露戦争最後の大戦闘が行われた。日本軍25万人、ロシア軍37万人が激突した奉天会戦である。3月10日、日本軍は奉天に突入、制圧し、勝利を不動のものにした。後にこの日が陸軍記念日となった。筆者の好きな軍歌「歩兵の本領」でも、「アルプス山を踏破せし/歴史は古く雪白し/奉天戦の活動は/日本歩兵の粋と知れ」と歌われている。

 45年3月10日、アメリカ空軍は300機を超える戦略爆撃機B29で東京を空襲する。筆者の父は、当時、江戸川区に住んでおり、この空襲に遭遇した。火の中を逃げまどう人々、メタンガスが腹にたまり膨れ上がった死体の山が打ち寄せる隅田川岸、小さな子供をおぶったまま炭素化している母子の死体の様子について、父から何度も話を聞かされた。父は「人の焦げるにおいはとても嫌で、記憶に焼き付く。このにおいが、平和ないまになっても、突然よみがえってくるんだ」とつぶやいていた。

 筆者は93年10月4日のモスクワで父のこの話を思いだした。その日、エリツィン露大統領が国会議事堂に戦車で大砲を撃ち込んだ。砲弾には火薬が詰められていなかったが、摩擦熱で火災が発生した。国会議事堂は白亜の大理石で建てられたので「ベールィー・ドーム(ホワイトハウス)」と呼ばれていたが、上部は火災で真っ黒になった。そこから、人の焦げたなんとも形容しがたい嫌なにおいがする。このにおいはいまでも、突然、筆者の記憶によみがえってくることがあり、その日は一日中憂鬱(ゆううつ)だ。

 社団法人日本戦災遺族会の調査によれば、45年3月10日の東京都区部の空襲による死亡者は8万3793人、負傷者は4万918人に上っている。軍事目標だけでなく、広範な民間人を巻き込む無差別爆撃は当時の戦時国際法に違反している。この点について、鈴木宗男衆議院議員が質問主意書で、「政府はアメリカ軍による東京大空襲は当時の国際法に違反して行われたものと認識しているか」とただした。

 これに対して、3月23日、政府は安倍晋三内閣総理大臣名で「当時の状況についてはさまざまな見方があり、お尋ねの東京大空襲は、当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、国際法の根底にある基本思想の一たる人道主義に合致しないものであったと考えられる」という答弁書を閣議決定した。筆者はこの内容を高く評価する。安倍内閣が対米追従であるという見方は浅薄だ。アメリカ政府が東京大空襲について「国際法の根底にある基本思想の一たる人道主義に合致しないものであった」という認識を示すことはありえない。同盟国であっても完全に一致した歴史認識をもつことは不可能だ。

 マスコミは扱わないが、安倍内閣は過去の歴史についてもっと踏み込んだ見解も表明している。鈴木宗男氏が43年11月3日の大東亜宣言について、「大東亜宣言には、『米英は自国の繁栄のためには他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞うし、遂には大東亜の安定を根柢より覆さんとせり』との文言があると承知するが、政府はこの認識を現時点でどのように評価しているか」とただしたのに対し、政府は2006年10月6日の内閣答弁書で「御指摘の文言は、会議の参加国が当時における認識を示したものであると考える」と答えている。大東亜宣言に署名した、大日本帝国、中華民国(汪兆銘政権)、タイ国、満州国、フィリピン共和国、ビルマ国が米英は侵略国であるという認識をしていたと、現在の安倍内閣が確認しているのである。この歴史認識にアメリカが同意することは絶対にないと思う。

 現在、アメリカ議会で慰安婦決議が問題になっているが、事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。ただし、慰安婦を含む戦争に関連した歴史認識問題に日米共通の認識をつくることができるという幻想はもたない方がよい。筆者は安倍内閣は本格保守政権と認識している。それは、質問主意書に対して、ときにアメリカの基本的な歴史認識と衝突するような内容でも、ひるまずに答弁し、日本国家と日本人の歴史を取り戻すことに貢献しているからだ。この点についてマスコミが公平な評価をしないことに筆者は違和感を覚える。
FujiSankei Business i. 2007/3/29

ラスプーチンと呼ばれた男 佐藤優の地球を斬る/安倍政権の歴史認識
http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/200703290005o.nwc




政府答弁書「東京大空襲は国際法基本思想に合致せず」
03/24 15:04
 政府は23日の閣議で、昭和20年3月10日の米軍による東京大空襲について「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、国際法の根底にある基本思想の一つたる人道主義に合致しないものだった」とする答弁書を決定した。鈴木宗男衆院議員の質問主意書に答えた。
 答弁書はまた、空襲による死傷者数について、日本戦災遺族会の調査に準拠して(1)死亡者8万3793人(2)負傷者4万918人-とした。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/44634/


一九四五年三月十日の東京大空襲に関する質問主意書
提出者  鈴木宗男

一 一九四五年三月十日の東京大空襲(以下、「東京大空襲」という。)による死者、負傷者、被災者の数を明らかにされたい。
二 政府は、アメリカ軍による「東京大空襲」は当時の国際法に違反して行われたものと認識しているか。
 右質問する。

平成十九年三月十五日提出  質問第一二〇号
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/166120.htm?OpenDocument




近聞遠見:外は一目置いている=岩見隆夫

 能登半島地震が発生した25日、石川県選出の森喜朗元首相に、真っ先に見舞いの電話をかけたのは民主党の長老、西岡武夫だった。森の国会事務所まで足を運んだのは自民党の青木幹雄参院議員会長である。
 「これがワセダなんだなあ」
 と森は言う。3人は同じ時期、早大に在学していた。慶大ならこうはいかないだろう、というニュアンスもこもっている。
 政界にかぎらず、早大出身者は結束が固い。慶大はクールと言われるが、小泉政権時代は慶大閥が取りざたされた。
 その点、安倍晋三首相と同学の成蹊大卒は与野党通じ古屋圭司元副経済産業相1人だ。学閥を作りたくても、作りようがない。安倍政権のまとまりが悪い理由の一つは、案外そんなところにもあるのかもしれない。
 昨年9月末、初組閣を終えたあとの記者会見で、人事方針を聞かれ、安倍は、
 「政治は結果が大切、結果を出せる方を選んだ」
 と述べた。しかし、政権発足から半年が過ぎて、結果を出すどころか、足を引っ張る閣僚が目立つのに驚く。それが支持率を下げている。
 世論調査の結果をみると、世間は安倍の指導力にも懐疑的だ。頼りない首相と映っている。だが、外の目は違う。
 ドイツの有力紙「フランクフルター・アルゲマイネ」は、先に安倍が訪独した際、
 <安倍首相は、内政では戦後最大のがんだった教育基本法の改正にメスを入れ、国際テロや極東アジアにおける緊張の高まりに備え、防衛庁の「省」への格上げを実現した。
 また、日本でもようやく現代の凄惨(せいさん)な情報戦に対応し、日本版NSC(国家安全保障会議)創設の筋道をつけた>
 などと報じ、外交面の活動も高く評価した。
 ドイツ在住のノンフィクション作家、クライン孝子は、そうした現地の空気を、
 <(安倍は)日本の新しい国家像を内外に印象づけたわけで、欧州では戦後の日本の首相としては珍しく大胆かつ斬新な政治家として、一目置かれている>
 と伝えている。(17日付「産経新聞」)
 また、パリでは、防衛省に昇格した時の式典あいさつで、安倍がドゴール将軍(第5共和制初代大統領)の著書「剣の刃」の一節を引用し、
 「難局に立ち向かう精神力の人は、自分だけを頼みとする……」
 と述べたことがニュースになり、すこぶる評判がいいという。
 アジアでも、ある財界首脳が、
 「昨年秋の安倍訪中の前と後に中国に行ったが、空気がガラリと変わっていた。幹部が口をそろえて安倍さんを激賞する。こんなに急変するものかとびっくりしましたね」
 と言うように、安倍は人気者だ。
 米国とは慰安婦問題がこじれているが、4月の安倍訪米で調整されるだろう。同盟関係が揺らぐようなテーマではない。
 総じて、国際社会での安倍は、好感度が高い。しかし、国内の目は厳しく、とても一目など置かれていない。この温度差は何に起因するのだろうか。かつて、
 <戦後、一国民主主義、一国繁栄主義、一国平和主義、まとめて一国とじこもり主義が日本の常識の主流であった>
 と批判したのは、政治学者の京極純一である。いまもその性癖が日本の世論を偏狭にしていないか。そろそろ、とじこもりでなく<世界のなかの日本>に開眼する時ではないか。(敬称略)

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/kinbun/news/20070331ddm003070165000c.html



「戦後体制からの脱却」を進める安倍首相
【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】
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by thinkpod | 2007-03-31 21:37 | 政治経済
2007年 03月 30日

「産業スパイ・工作員の全手口」

在シドニー総領事館元工作員が実名告発
日本の最先端技術を盗む中国国家全部
「産業スパイ・工作員の全手口」
(SAPIO 2006年3月22日号)

日本の軍事・産業技術のスパイ活動に最も積極的な国が中国であることは間違いないだろう。
強大化する中国の最大の"弱点"は技術カの低さにあるが、それを補うためには、技術大国であり、しかも防諜体制が杜撰な日本は格好の標的であるからだ。
中国の対外スパイ活動について、最も詳しく語ることができるのが、自ら元工作員であることを告白し、オーストラリアで“亡命”した陳用林氏である。昨年9月に陳氏との接触に成功し、その後もコンタクトを持ち続けている国際ジャーナリスト・大野和基氏が、陳氏の証言をもとに、中国の対外工作活動の実態をレポートする(文中のカギ括弧はすべて陳氏の発言)。

在シドニー中国総領事館の一等書記官だった陳用林氏は、昨年5月末に総領事館を脱出し、妻子とともにオーストラリアに政治亡命を求めた。結局、政治亡命は認められず、7月に保護ビザを与えられることになるが、彼の事実上の“亡命”は、世界中の情報関係者から大変な注目を集めた。
陳氏は、“亡命”直後の6月4日、シドニーで開かれた天安門事件16周年記念集会で、自身が中国政府の工作員であったことを明かしたうえで、中国の対外諜報の実情を暴露・告発した。
「中国政府はオーストラリア国内に1000人以上ものスパイを潜伏させ、反体制派の中国人やその家族を拉致し、秘密裏に本国に強制送還している」
陳氏は総領事館から逃亡後、妻、そして小学生の娘とともに、シドニー市内に隠れて生活をしている。
陳氏の証言が、日本にとっても重要であるのは言うまでもない。自ら、中国政府のためにスパイ活動をしてきた人物で、その手口を誰よりも熟知しているからだ。

「反政府分子摘発では拉致、殺害も辞さない」

やや長くなるが、陳氏の経歴と、オーストラリアで従事していた諜報活動が具体的にどのようなものであったのかを説明しておく必要があるだろう。
上海近郊に生まれた陳氏は、大学で国際政治を専攻したために、就職先は外交部(外務省)しかなかったという。
「大学では西洋の政治思想も勉強していたので、中国共産党の本質を客観的に見ることもできたが、完全には共産党の思想は抜けなかった」
大学卒業後、北京郊外の印刷工場に送られて、毛沢東思想の洗脳を受ける。さらに91年8月に正式に外交部に採用されてからも、実際の仕事を開始する92年6月までの間、徹底した再教育を受け、共産党思想を叩き込まれたという。
94年8月までは北京で勤務、その後98年8月までフィジーの中国大使館に勤務。その後一旦北京に戻り、シドニーに赴任したのは2001年4月だった。
シドニーに赴任してからの陳氏の仕事は、オーストラリア国内にいる反政府分子を探し出し、中国政府に報告すること。特に気功集団『法輪功』の信者を監視することが最重要任務だった。

「例えば、シドニーの公会堂で彼らの集会があるときは、市議会に圧カをかけて中止させるとか、信者がパスポート更新のために領事館にやってきたときにパスポートを没収するといった方法だ。
ただし、非協力的な信者は拉致して、『61Oオフィス』に引き渡していた」
『61Oオフィス』とは、99年6月10日、中国憲法が要求する手続きをバイパスして、法輸功を弾圧する目的だけのために、当時の江沢民国家主席の指示のもとに作られた組織で、中国国内はもとより、日本を含む海外拠点にも作られた。『61Oオフィス』には法的な制約がない。いわばナチス・ドイツのゲシュタポや文化大革命の際の中央委員会に似通った組織である。法輪功弾圧に関しては全権を与えられているので、拉致、殺害など、あらゆる手段が認められている。

「シドニーの中国総領事館にいる間、中国当局の指示の下で、工作活動に従事していた。
例えば、中国で多額の汚職事件を起こしたある都市の副市長が、オーストラリアに滞在する妻と息子に会うためにやってきたことがある。このとき、副市長を中国に連れ戻すために、彼の息子の拉致が計画・実行された。拉致を実行するときは、麻酔薬を使って眠らせ、漁船に乗せて公海上に停泊させていた貨物船まで連れていった。そこから、副市長に連絡して『即刻、中国に戻らないと、息子の命はない』と伝え、さらに直接息子と話をさせて、拉致が本当であることも証明する。実際、この方法で本国に連れ戻したが、彼は帰国後、死刑判決を受けた」
陳氏の主任務であった法輪功対策では、特別対策室を領事館の中に作り、本国に強制送還する具体的な方法を定期的に話し合っていたという。
「強制送還された信者の中には、調査に協力せず、自殺する者もいたと表向きには言われているが、実際は尋問中に殴り殺された者がほとんどだ」
しかし陳氏は、実際に信者に接触すればするほど、彼らがまったく無害であることに気付くようになる。これが“亡命”のきっかけとなった。
「彼らが信じている『真実、自制、思いやり』は、何も間違っていないと思うようになった。
私は、次第に中国政府の指示に従わないようになり、パスポートも更新させるようにした。
ところがある日突然、領事館の自分の机の上からコンピュータがなくなっていた。それを見たときに、亡命しようと決意した」

米国防総省を震憾させたサイバー・スパイ集団

陳氏が直接携わっていたスパイ活動は、「エージェント」と呼ばれる情報提供者を確保することから始まる。法輪功の場合は、実際に内部にいる信者であるが、もちろんエージェントの確保は一筋縄ではいかない。
「中国への愛国心に訴えることは当然だが、やはりよく使う手はカネだ。個人情報を提供するとー件につき、最低でも1万元(約14万円)ほどの報酬を渡す。重要なエージェントの場合は、魅力ある女性を使って性的な関係を結ばせて取り込むこともある。こうなるともう協力を拒否するのはほとんど不可能になる。一旦、エージェントにしてしまうと、各人にコード番号があてがわれ、情報収集をしてもらうことになる」

陳氏は日本で工作活動をしていたわけではないが、エージェントを使う方法は、日本でもよく使われていると指摘する。
「日本の場合は、ビジネスマンとして日本企業で働いていたり、大学や大学院に留学したりしている中国人が多い。彼らを情報提供者として使うので、手間がかなり省ける。
しかも、きちんとした本職や肩書きを持っているので、スパイであることが発覚しにくい。
特に、親が中国政府の人間で、その子供が留学、赴任している場合、スパイ活動に従事している可能性が高いと言っていいだろう」
このようなスパイ活動は、反政府分子の監視にとどまらず、先進国の最先端技術を盗む「産業スパイ活動」にも及んでいる。むしろ、産業大国である日米両国に対しての諜報活動では、この分野が最も重要視される。

「産業スパイの方法には、大きくわけて2つある。
一つは“サイバー・スパイ”と呼ばれるもので、アメリカのケースで言えば、軍事施設、核研究所、国防総省と契約している企業のコンピュータにハッキングし、あらゆる種類のテクノロジーを盗んでいる。
例えば、“Titan Rain(タイタン・レイン)”というコード・ネームを持つサイバー・スパイ集団はアメリカの国防を揺るがしている。これは中国が国家支援しているスパイで、特に軍事情報を盗むことにかけては世界一だ。最近彼らが盗んだ情報には、軍事ヘリコプターのスペック、軍隊が使っている戦闘計画用のソフトがある」

もう一つは、ヒューミント(HUMINT=Human Intelligence)、つまり人間が直接行なうスパイ活動。
この場合は、中国の国家安全部(諜報活動を行なう政府の情報機関)から直接派遣される。
「対日、対米のヒューミント工作で最も多いパターンは、現地にダミー会社を作り、駐在員として赴任させる方法だ。
表面的にはまったく普通の企業と変わらないから、スパイかビジネスマンかの区別はつかない。
彼らは、欲している情報がどこにあるかを特定すると、その企業とビジネス交渉を通じて技術を盗む。
表面上は正式な商取引だから、相手はスパイと交渉しているとは気付かない」
こうした情報収集活動は、発覚しないようにするために、独自に行動するという。
「彼らが個別に収集した情報を統括する人間が各国の大使館や領事館にいるが、私もその役割を担っていた。
日本は中国の諜報技術をあなどっているようだが、私が考える限り、CIAと能力に遜色はない。
盗聴器などもCIAが使用しているものとほとんど同性能だ。重要人物の車にはGPS装置を取り付け、いつどこに行ったかを常に把握している」

「日本には中国情報機関のダミー会社が多数存在する」

さらに陳氏は、工作活動が露見するのを防ぐために行なわれる、いわゆる“口封じ”が徹底していることも指摘する。
「私自身“亡命”してから、自分が追尾されていることはよくわかっている。娘が通っている学校にも監視がある。彼らが実際に暗殺を遂行するときは事故に見せかける方法を使うので、自分の自動車の車輸のネジが緩んでいないか、常にチェックしている。
これは日本ではなくアメリカのケースだが、かつて毛沢東の主治医だった人物が、アメリカで毛沢東についての本を出版した。ところが、彼が第2弾を準備しているとき、突然心臓病で死んだことがある。あれだけ健康だった人が突然心臓病になるはずがない。FBIも調査したが、殺されたという確証は出てこなかった。殺されたのだとすれば、実に手が込んでいると言わざるを得ない」

陳氏は、米下院議員のヘンリー・ハイド(共和党・イリノイ州選出)の招聘で渡米し、人権に関する下院小委員会をはじめとする各委員会の公聴会で、中国のスパイについて証言しているが、そこで「オーストラリアには、1O00人以上のスパイがいる」と述べ、さらに「アメリカにはさらに多いスパイがいる」と付け加えた。私のインタビューに対しても、「アメリカにはオーストラリアの3倍の数のスパイがいるはずだ」と答えている。

では、日本にいる中国人スパイはどうか。
「オーストラリアよりも多くいるはずだ。これは法輸功のような反政府分子を弾圧する目的というより、日本の技術を盗むためだと言っていい。
アメリカから盗んでいるのは、核やミサイルの軍事技術だが、日本の場合は(軍事転用が可能かどうかにかかわらず)最先端技術に関する情報だ。日本企業に普通に就職している中国人研究者は、入社当時はスパイではなくとも、途中でリクルートされて、エージェントになるケースが多い。
研究者をスパイとして使う理由は、彼らが中国に必要な技術が何か見極める能力を持っているからだ。
さらに日本には、(国家安全部が作った)多くのダミー会社があることは間違いない」
日本の防諜体制は皆無に等しいと陳氏は認識している。
中国が先進国に追いつくには、技術を盗むしか方法がないということかもしれないが、これに対して日本の対策はあまりにも杜撰なのである。アメリカは陳氏の告発を重要視し、ハイド議員らは彼を公聴会に招聘した。日本政府、あるいはスパイ活動に晒されている日本企業は、陳氏の発言をアメリカ以上に重く受け止めるべきであろう。

中国・亡命工作員 陳用林 インタビュー by 大野和基
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/chin02.html
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by thinkpod | 2007-03-30 04:57
2007年 03月 29日

アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号

1944年10月1日

アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
アメリカ戦時情報局心理作戦班
APO689



      日本人捕虜尋問報告 第49号

尋問場所レド捕虜収容所
尋問期間1944年8月20日〜9月10日
報告年月日1944年10月1日
報告者T/3 アレックス・ヨリチ

捕虜朝鮮人慰安婦20名
捕獲年月日1944年8月10日
収容所到着年月日1944年8月15日

はじめに

 この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
 この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
 「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。

徴  集

 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地——シンガポール——における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。
 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
 これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。

性  向

 尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。

生活および労働の状況

 ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

料金制度

 慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用どの高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

1兵午前10時〜午後5時1円50銭20分〜30分
2下士官午後5時〜午後9時3円30分〜40分
3将校午後9時〜午前0時5円30分〜40分
 以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。

利用日割り当て表

 兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員二名が、隊員の確認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。

日曜日——第18師団司令部。
月曜日——騎兵隊
火曜日——工兵隊
水曜日——休業日、定例健康診断
木曜日——衛生隊
金曜日——山砲兵隊
土曜日——輜重隊

 将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
 兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。

報酬および生活状態

 「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
 さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。

日本の軍人に対する反応

 慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。

兵士たちの反応

 慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
 すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
 しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。

軍事情勢に対する反応

 慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。

 「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
 「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」 

 ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
 慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。

退却および捕獲

 「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。

宣  伝

 慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。

要  望

 慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
 彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されていると盂家に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。

付録A

 以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。

    名  年齢   住 所
 1 「S」 21歳 慶尚南道晋州
 2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
 3 「P」 26歳 慶尚南道晋州
 4 「C」 21歳 慶尚北道大邱
 5 「C」 27歳 慶尚南道晋州
 6 「K」 25歳 慶尚北道大邱
 7 「K」 19歳 慶尚北道大邱
 8 「K」 25歳 慶尚南道釜山
 9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク
             (ママ)
 10 「K」 22歳 慶尚南道大邱
 11 「K」 26歳 慶尚南道晋州
 12 「P」 27歳 慶尚南道晋州
             (ママ)
 13 「C」 21歳 慶尚南道慶山郡〔以下略〕
 14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
 15 「Y」 31歳 平安南道平壌
 16 「O」 20歳 平安南道平壌
 17 「K」 20歳 京畿道京城
 18 「H」 21歳 京畿道京城
 19 「O」 20歳 慶尚北道大邱
 20 「K」 21歳 全羅南道光州
日本人民間人
 1  キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
 2  キタムラエイブン 41歳 京畿道京城


出典:吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店pp.439-452

http://members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html
http://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.html
http://likecoffee.iza.ne.jp/blog/entry/136269/
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by thinkpod | 2007-03-29 16:47
2007年 03月 26日

Wikipedia

「小さい頃,百科事典を全部読んだ」

ジンボ・ウェールズ氏(Wikipedia創始者)

e0034196_2153250.jpg  ネット上の百科事典として人気を高める「Wikipedia」(ウィキペディア)。その創始者であるジンボ・ウェールズ氏が来日し,3月18日,東京都内で公開インタビューに応じた。

 ウェールズ氏はWikipediaの目的や背景にある考え方などに加え,「小さい頃に百科事典を読み切った」など,自身のエピソードも披露。Wikipediaのページなどでインタビューの開催を知った数十人の参加者が,熱心に耳を傾けた。参加者の中には実際にWikipediaで記事を書いている人もいた。3時間以上に渡った公開インタビューのハイライトを紹介する。

米ミドルベリー大学の試験で,Wikipediaの誤記を引用した誤答があったことについて。

 このミドルベリー大学のニュースで興味深かったのは,私が常日頃から思っていることと同じ観点を大学側が提示したことです。つまり,学生はWikipediaを引用するのではなくて,Wikipediaの記事を調査の出発点にすべきだ,ということです。

 学術研究の目的はジャーナルや本を出版すること,ジャーナリズムの目的はニュースを報道することです。学術研究は新しい知識を形成し,新聞や雑誌などのジャーナリズムは新しい情報を生み出します。

Wikipediaはあくまでもスタート地点

 一方,Wikipediaは異なります。Wikipediaは既に存在する情報を分かりやすく要約し,提示することが目的です。Wikipediaの改良が続けられ,完全な百科事典になったとしても,学生にとってWikipediaはあくまでもスタート地点であって,そこから調査を発展させてゆくべきです。

 Wikipediaはあくまでも「知識の要約」であるべきなのです。

運営と独立性について。

 運営コストの削減は常に重要なことです。と同時に,独立を維持することも重要です。過去に,ある大手の検索エンジン会社から,Wikipediaのすべてを無料でホスティングします,という申し入れを受けたことがあります。しかし,一つの大きな会社からだけ支援を受けることは,良くないことだと思いました。

 私たちは「Googlepedia」や「Yahoopedia」,「2ちゃんねるpedia」(会場から笑いの声)にはなりたくないのです。あくまでもWikipediaとして存在したいのです。

 ただ,韓国のYahoo!からサーバーの寄付を受けたことはあります。こういったことは大切です。しかし,もしYahoo!の方からYahoo!に関する記事を変えて欲しいといった申し入れがあったら,それは「グッバイ」ですね。

Wikipediaの前に従事していたプロジェクト「Nupedia」が失敗した理由について。

 知らない方がいると思うのでNupediaの歴史を説明します。Nupediaは非常にコントロールされたトップダウンのアカデミックなシステムでした。一つの記事を公開するまで7回の査読がありました。

 なぜ失敗したかというと,参加するのが難しかった,そして面白くなかったのが理由だと思います。

Wikipediaの開始直後は眠れなかった

 Wikiを発見して,Wikipediaを始めたとき,2週間くらいはほとんど眠れませんでした。(WikipediaがNupediaと異なり自由に記事を記述できるシステムなので)私が寝ている間に誰かがWikipediaを破壊してしまうのではないかと思ったからです。

Wikipediaのゴールについて。

 ゴールはこの地球上に住んでいる人のためにすべての言語で百科事典を作ることです。現在,英語,ドイツ語,フランス語,オランダ語,ポーランド語,日本語の6言語に関しては25万件以上の記事があり非常に充実しています。一方,中国語の記事はまだ10万件に過ぎません。

 また,ベンガル語やウルドゥ語,スワヒリ語のように世界中で多くの人に話されているのに,Wikipediaの記事が非常に少ないものがあります。Wikipediaの将来に関しては,これらの言語について考えています。そういった言語を話す方に参加していただいて,記事を書いて欲しいと思っています。

日本語版Wikipediaでは小中学生が活躍しています。エールを送って下さい。

 (日本語で)がんばって!

来日の目的について。

 2週間前に日本に来て,今後も2週間いますから,全部で4週間滞在します。来日の第一の理由は「Wikia」(ウェールズ氏が立ち上げたWikiの無料ホスティング・サービスを提供する会社)のプロモーションです。

 また,私の奥さんは日本人とのハーフで日本生まれです。娘は6歳なのですが,日本の親戚を訪ねたり,日本の文化を学ばせたいと思います。今,私が日本語を話すと,娘が間違いを指摘してくれます。

日本のWikipediaにはサブカルチャーの記事が多いことについて。

 英語版のWikipediaでもサブカルチャーの記事はたくさんあります。日本のサブカルチャーは米国のギーク(オタク)の間で人気があります。ですから,それが問題だとは思いません。ただ,ビデオゲームのキャラクターの説明が国家元首の説明よりも長いのはちょっと奇妙だとは思いますが。

 Wikipediaというのは参加している人々の関心を反映します。今後規模がもっと大きくなることで,記事のバランスが取れてゆくでしょう。

初期の段階でWikipediaが大きくなった原動力について。

 一つは中立のポリシーを掲げたことによって,多くの人が参加できたことです。プロジェクトは当初から多くのボランティアが必要であると分かっていました。ですので,どんな人でも受け入れるというポリシーを明確にしていました。

自分自身や子供時代,人生の信念について。

 (日本語で)ジンボ・ウェールズです。アメリカ人です。私の日本語上手ではありません。オタクです。

 (英語に戻って)8年前に日本語を1年間勉強しました。子供のころは風変わりで,好奇心旺盛で本をたくさん読みました。私はちょっと普通とは異なった教育を受けました。幼稚園から8年生までクラスにたった4人しかいないという,とても小さな学校に通いました。その頃,読みたいものを読む自由な時間がたくさんあったので,百科事典を読み切りました。

 人生の信念はたくさん持っていますが,「reason」(良識)と「friendliness」(親切)に集約されると思っています。

記事執筆者,特に管理者レベルの人のプロファイルについて。

 私は世界中を旅して多くのWikipediaの会合に出席しているのですが,典型的な「Wikipedian」(記事執筆・編集者)は世界中で共通しています。多くは20代後半か30代で,大学を出ていて,専門的な職業に就いています。また,学生や退職した人,大学の教授なども参加しています。

 典型的なWikipedianとは言えませんが,10代の若い人も一部にいます。彼らはとても優秀なWikipedianです。百科事典の記事を書くという趣味は,他の10代の興味と比べて成熟したものだと言えるのではないでしょうか。

他人との協力,最重要のスキル

 Wikipedianは非常にフレンドリーなコミュニティです。もっともそれは当然で,そういう仕組みでWikipediaを作っているからです。良いWikipedianは多くの記事を書き,そして他の人たちがそれを修正してゆきます。そういう作業は人と協力することや,やさしくあるということにつながるものです。

 ブログでは敵意があって激しい人でも有名ブロガーになれます。有名ブロガーになるには,文章が上手く,強い主張があり,面白いことが書けなければいけません。有名ブロガーになるスキルとして,他人と協力することは二次的なものです。一方,Wikipediaでは他人と協力することが最重要です。

日本人Wikipedianについて。

 (Wikipediaを運営する)ウィキメディア財団の国際コミュニティーに,もっと多くの日本人の方が参加して欲しいと考えています。日本語版のWikipediaは非常に大きく重要なものですが,時として孤立しています。その原因の一つは日本語という言語の問題でしょう。しかし,Wikipedianというのは非常に親切で優しい人たちなので,英語力に自信がなくても問題ありません。

【修正履歴】当初,記事前半部分の「Wikipediaはあくまでも『知識の要約』であるべきなのです。」の後に「私は外部へのリンクなどがしっかりと書かれていない記事を好みません。」との一文がありましたが,翻訳ミスであることが判明したため削除しました。お詫びして訂正いたします。(2007年3月22日)

(構成・要約は武部 健一=ITpro)
 [2007/03/22]

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Interview/20070320/265824/




【インタビュー】有志で取り組む「史上最大の百科事典」――Wikipedia日本語版の舞台裏

Wikipedia日本語版 管理者・ビューロクラット 今泉 誠氏

e0034196_21533264.jpg  最近は分からないことがあれば、取りあえずGoogleで検索してみる。そんなとき、大抵検索結果のトップに上がってくるのが「Wikipedia(ウィキペディア)」の項目だ。その内容は幅広く、かつ詳しい。項目内でリンクが張られた用語を追っているうち、調べ物を忘れてつい読みふけってしまうこともしばしばだ。
 Wikipediaは有志による運営というが、一体誰がどのように運営しているのだろう。サーバーはどこにあるのか。費用はどうやって調達するのか。そんな疑問に、Wikipedia日本語版の管理者・ビューロクラットの今泉 誠氏に答えていただいた。

■まずは、Wikipediaの成り立ちを教えてください。
 もともとは米国のジミー・ウェールズ氏が2001年1月に個人で立ち上げた「Wikipedia.com」というサイトが始まりです。最初は英語版だけでしたが、さまざまな言語版ができ、徐々に拡大していきました。現在は、非営利団体ウィキメディア財団がWikipediaを運営し、その下でそれぞれの言語版が活動している形です。
 日本語版ができたのは2001年5月です。とはいえ、当時はWikiで日本語が使えなかったので、すべてローマ字表記で項目も23個くらいしかありませんでした。日本人のユーザーもほとんどいなかったですしね。2002年夏にWikiのソフトが改良されて日本語に対応してから、日本人のユーザーが徐々に集まってページも充実していったのです。昨年、日本語版は30万ページを超えました。

■日本語も含め、今は何言語くらいあるのでしょう?
 今は261言語です。ページでいえば、英語が一番多くて約168万ページ、ドイツ語が約55万ページ、フランス語が約46万ページ、ポーランド語が約36万ページ、日本版が約34万ページといったところです。

■それぞれの言語版は用語解説や運用で連携しているのですか。
 全くしていません。完全な独立です。言語によって掲載する用語も解釈も違いますから、連携するのは現実問題として難しいのです。ウィキメディア財団からはいくつかのポリシーが示されていて、それに基づいてそれぞれが自主的に運営しています。

■Wikipediaの運営体制はどうなっているのでしょう。
 日本語版だけで言えば、現在は登録ユーザーが約11万8000人います。その中に、「管理者」と呼ばれるユーザーが56人、「ビューロクラット」と呼ばれるユーザーが5人います。それぞれは役割が異なります。

 一般の登録ユーザーは、項目の投稿、書き込みしかできません。Wikipediaは未登録のユーザーでも項目の投稿、書き込みができますから、その意味では、未登録のユーザーと権限はあまり変わりません。ただ、登録ユーザーはユーザー名を示して書き込みをしたり、Wikipedia内での議論に参加することで、未登録ユーザーよりも信頼度が上がります。

 一方、管理者は項目を削除したり、ある項目について編集合戦や“荒らし”が起こったときに書き込み禁止にしたりできます。一般の登録ユーザーはある程度実績を積んだ後、管理者になりたければ立候補できます。立候補者が出ると、登録ユーザーで信任選挙をします。投票したユーザーの75%以上の信任が得られれば、管理者になれるわけです。

 このとき役割を果たすのがビューロクラットです。登録ユーザーと管理者では項目の削除や書き込み禁止ができるなど、権限が違います。だから、システム上、この権限を変更しないといけません。それができるのがビューロクラットなのです。ただ、これらの区分は上下関係というよりは、運営上の役割の違いです。項目を編集する際は、登録ユーザーも管理者もビューロクラットも関係ありません。

■管理者は担当範囲などを決めて定期的に荒らしなどをチェックしているのですか。
 担当範囲は特に決めていません。管理者は編集合戦や荒らしがあると「保護」という状態にして書き込みを禁止するわけですが、定期的に見て回っているというよりは、なんとなく見ていて気が付いたら保護にする、という程度です。あるいは、管理者以外のユーザーから保護申請があったときに、それを検討して保護にします。Wikipediaのポリシーとして「好きな人が好きなときに好きなことを好きな範囲でやる」というのがあるので、このような体制になっています。

■著作権などを管理するのは大変なのでは?
 画像などが掲載されているものもありますが、基本的には本人が撮影したものや友人・知人から委託を受けたと証明できるものに限定しています。文章は何かのコピーだと判明すれば即削除。書き込みについては、情報ソースがはっきりしていなければ書かないということにしています。
 Wikipediaは非営利団体ですから、もし裁判になると裁判費用すら出せません。ですから、疑わしいものは避けるというスタンスです。

■Wikipediaの運営資金について教えていただけますか。
 全額寄付です。ウィキメディア財団は年に1度程度、寄付金を集めるキャンペーンをします。現在は日本円にして1億円程度集まっています。多くは個人からの、10ドル、20ドル単位の小口の寄付ですね。これが財団の運営費とシステム維持費になります。財団の維持費といっても、財団の理事が年に1度ミーティングをする際の旅費と財団の常駐スタッフ5人の給与程度なので、90%以上がシステム維持に回されています。

■Wikipediaのあれだけのデータを蓄えるのですから、システムは大規模でしょう。
 米国フロリダ州にデータベースサーバーとWebサーバーが、ヨーロッパの2カ所とアジアの1カ所にキャッシュサーバーが設置してあります。フロリダのデータベースサーバーは三重くらいに冗長化してあったと思います。現在のサーバー台数は全部で350台で、そのうち295台が稼働中です。サーバー数はどんどん増えています。

■これだけのプロジェクトが有志と寄付で動いているのはすごいと思います。何がその意欲につながるのでしょうか。
 やはり「質、量ともに史上最大の百科事典を作る」というWikipediaのコンセプト自体でしょう。日本は昔、一家に1セットは百科事典がありました。それが今はなくなっています。また、世界にはもともと百科事典というものがない国や文化もあるのです。でも、百科事典というのは、その時代の人間の知識の集大成です。それを次世代に残すのはとても重要で、やりがいのある試みだと思います。
 当面の目標は、今ある平凡社やブリタニカの百科事典を越えることです。Wikipedia日本語版もずいぶん項目が増えましたが、項目にまだまだ偏りがあります。内容も必ずしも充実しているとはいえません。この目標を達成するだけでも、あと数十年はかかるでしょう。


■変更履歴「登録ユーザーの75%以上の信任」としていたのを「投票したユーザーの75%以上の信任」と訂正しました。
[2007/3/14]

(平野 亜矢=日経パソコン)
 [2007/03/13]

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Interview/20070313/264635/
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by thinkpod | 2007-03-26 21:56
2007年 03月 22日

【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】

【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】塩爺の喝、腹固まる

 □最後まで守るよ。私が選んだ閣僚なんだからね

 安倍政権が発足して26日で6カ月となるが、発足当初の熱狂的な支持は消え、政府・与党内のきしみが目立つ。難しいかじ取りを迫られる安倍晋三首相の孤独と苦悩の日々を顧みた。(文中敬称略)


 首相就任からほぼ半年たった3月7日、安倍晋三は、前首相の小泉純一郎と帝国ホテル内のフランス料理店で夕食を囲んでいた。安倍が小泉と2人でゆっくり会食するのは、首相就任後は初めて。長い間、2人が会わなかったのにはある理由があったが、この日は平成19年度予算案が衆院通過したという安堵(あんど)感もあって、安倍は肩の力を抜いて小泉と向き合うことができた。

 小泉は上機嫌で、安倍に語りかけた。

 「いやー、よくここまで踏ん張ったな。柳沢(伯夫厚労相)さんの発言で、野党が補正予算案の採決で審議拒否を仕掛けてくれて本当によかった。本予算案の採決であれをやられたら、おれだって持たなかったかもしれないぞ!」

 安倍は「そうですね」と相づちを打った。

 柳沢の「産む機械」発言に猛反発した野党側は、2月2日の18年度補正予算案の衆院採決を欠席する戦術に出た。ところが、直後に柳沢問題の集中審議を開くことを条件に19年度の本予算案審議には復帰。これにより、野党は同じ問題を蒸し返して本予算案を審議拒否する大義名分を失った。野党が補正予算案ではなく、より重要な本予算案審議の段階で徹底抗戦を始めれば、安倍政権は立ち往生しただろう。安倍が国会審議を乗り切った裏には、こうした野党の戦術ミスがあることを鋭い政局観を持つ小泉は理解していた。しかも、敵失とはいえ、安倍が難局を切り抜けたことを小泉は素直に喜んだ。そのことが、この数カ月間苦悩の連続だった安倍には、何よりの励ましとなった。

滑り出しは

 昨年秋に発足した安倍は、直後に電撃的な日中首脳会談を成功させ、滑り出しは順風満帆だったが、郵政造反組の復党問題でもたつき、11月下旬ごろから政府、与党の歯車がきしみ出した。

 スキャンダルも次々に浮上した。昨年末には政府税調会長の本間正明が公務員官舎問題で辞任し、息つく間もなく行革担当相の佐田玄一郎が政治資金の不適正処理問題で辞任した。内閣支持率は70%台から40%台に急落。首相官邸での仕事納め式を終えた安倍は周囲に語った。

 「いろいろあったが、逆に腹をくくることができた。来年はもっと自分らしさを押し出す。周囲におもねっていては何もできない。前を向いて倒れるならば本望だよ」

 この時点で、安倍には、まだ、そう話すだけの余裕があった。

いったんは

 この言葉通り、1月4日の年頭会見で安倍は「今年を美しい国づくり元年として、たじろがずに一直線に進んでいく覚悟だ」と宣言、その表情から迷いが消えた。22日夜には、かねてから親交の深いジャーナリストの櫻井よしこや政治評論家の屋山太郎、元駐タイ大使の岡崎久彦ら保守派論客を首相公邸に招いた。

 政権発足後、安倍周辺では「保守再興路線を前面に出すと小泉改革を支持してきた中道保守層の支持を失う」との声が強く、幹事長の中川秀直も「左ウイングに懐の深い自民党を目指す」と、中道保守層への傾斜を明言していた。こうした動きに配慮し、安倍も保守的な言動を控え気味だった。

 それだけに、この櫻井らとの会食は、「今後は自らのカラーを遠慮なく打ち出す」という決意の表れだった。

 メンバーには、元台湾総統府国策顧問の金美齢も含まれていた。金は「(日中関係があるので)もうお会いできないかと思っていました」と目を潤ませ、「台湾の陳水扁総統が失敗したのは支持を広げようと中道に寄り、元々の支持者が離れていったからです。同じ愚は決してやってはいけません」と訴えた。

 「やはり自分の判断は誤っていなかった」。安倍は意を強くした。

 安倍は施政方針演説で、持論の「戦後レジームからの脱却」をうたい、憲法改正と教育再生を柱に据えた。マスコミ幹部との会合で、施政方針演説について、「理念ばかりで具体性が薄い」と批判されると、「政治家が理念を語らなくてどうする」と気色ばんだ。

再び逆風

 ところが、安倍の意気込みに反して、農水相の松岡利勝、文科相の伊吹文明の事務所費問題、防衛相の久間章生の不適切発言などで再び逆風が吹く。

 さすがの安倍も気落ちしたようだ。補正予算案の衆院採決直前の2月2日夕、会合出席のため、首相官邸を訪ねた元財務相の塩川正十郎が、首相執務室に顔を出すと、安倍は疲れた顔つきでソファに座っていた。

 「柳沢さんを辞めさせちゃいかん。食い止めろ。一人一人抜けたら政権はガタガタになる」

 もともと、「言葉狩り」による閣僚更迭を嫌っていた安倍は塩川の一言で腹を固めた。この夜、与党は単独で補正予算案を衆院通過させた。多くの政界関係者が不可避だとみていた柳沢更迭は見送られた。

 「私は閣僚が辞表を出さない限りは最後まで守り続けるよ。私が選んだ閣僚なんだからね…」

思いやり困惑

 しかし、相次ぐ閣僚のスキャンダルと問題発言には、参院を中心に自民党からも「このままでは統一地方選、参院選を戦えない」と悲鳴が上がった。元首相の森喜朗も「閣僚が首相を尊敬していない」と閣僚らを痛烈に批判、政府・与党の足元が揺らぎだした。

 安倍は夜の会食を入れずに公邸に引きこもる日が増えた。酒は飲まないが、親しい議員らとワイワイ騒ぐのが好きだった安倍には、初めての孤独だった。「孤独を苦にしない小泉さんってやっぱりすごいな…」。安倍は周囲にこうつぶやいた。

 そんな中、自民党幹事長の中川秀直は、党内の引き締めを狙って小泉を担ぎ出し、小泉が「鈍感力」の必要性を説くという場面もあった。

 しかし、安倍にとって、森や中川の「思いやり」は有り難い半面、迷惑でもあった。森たちが援護射撃すればするほど「安倍は半人前だ」とみられるからだ。このため、安倍は中川から小泉との会食を持ちかけられても、「予算が衆院通過するまではやめておきます」と断ってきた。

 安倍が小泉と会わなかった理由はもう一つある。安倍が今年から鮮明にした保守再興路線は、ともすれば小泉の構造改革路線に逆行し、古い自民党への回帰を目指しているようにも受け取れる。昨年11月27日、安倍が郵政造反組11人の復党を決め、小泉に電話した際、「君がそう決断したのならば、それでいい」と言った小泉の口調は明らかに不快そうだった。自らを幹事長や官房長官にとり立ててくれた小泉への一種の後ろめたさもあった。

 だが、久しぶりに会った小泉はときにジョークを交えながら、大いに語り、安倍を励ました。

 「いいか。参院選なんて負けてもいいんだ。参院選で負ければ、民主党の反小沢派はガタつく。親小沢だって大きく動くだろう。どうなるかな…。そもそも考えてみろよ。小渕(恵三元首相)政権で、参院が首班指名(首相指名)したのは菅直人(民主党代表代行)だぞ。政権選択の選挙は衆院選だ。首相はそれだけを考えていればいいんだよ」(石橋文登)

(2007/03/20 08:17)
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070320/shs070320001.htm




【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】密談「軸足を右に」


 薄く霧が立ちこめる2月のある夜、外相、麻生太郎を乗せた車は、都内某所の車寄せに静かに滑り込んだ。薄明かりが灯るロビーで、麻生を出迎えたのは首相、安倍晋三。「こんな夜分に申し訳ない」とあいさつした安倍に、麻生は「お呼びならいつでも駆けつけますよ」と笑顔で応じた。

今の自民党は、どっちを向いているのか分かりにくい

 ソファに腰をおろした2人の話題は外交から内政、そして政局へと移っていった。14歳も年下であるだけにやや遠慮がちの安倍に対し、麻生はこう切り出した。

 「ちまたでは春の内閣改造なんて騒がれていますが、どうですかね。ずいぶんとエネルギーを使う割に得るものはどれほどあるのか…。しかも切られた閣僚に一生恨まれることになりますよ」

 安倍「そう、エネルギーの割にね…。難しいですよ」

 さらに、会話は自民党への政治路線へと流れ、麻生が「小選挙区が定着したことを考えると自民党は最大でも右から6割の支持者の声を反映する真の保守政党になるべきじゃないですかね。結党したころは少なくともそうだったはずだ」と熱を込めると、安倍は身を乗り出した。

 「その通り。今は右から左まであまりに幅広くて、どっちを向いているのか国民には分かりにくい」

 「自民党は右、左の2割を差し引いた保守中道を目指す」という、一時自民党内で有力だった保守中道路線から、いかに軸足を右へずらしていくかという問題意識は安倍と麻生に共通だった−。このことを確認できただけで、安倍にとってこの夜の極秘会談は成功だった。話は弾み、2人が別れたのは、日付が変わる直前だった。

 安倍が麻生との会談を設定したのには理由がある。

 厚生労働相、柳沢伯夫の1月末の「女性は産む機械」発言などで国会は混乱。自民党内からも安倍内閣に手厳しい声が続いていた。

 そんな中で飛び出したのが、自民党幹事長の中川秀直が2月18日の仙台市で講演した際の「閣僚や官僚は首相に対し絶対的忠誠心、自己犠牲の精神が求められる。忠誠心のない閣僚は去るべきだ」との発言だった。中川からみれば、安倍への援護射撃のつもりだったようだ。だが、安倍は激高した。

 「内閣の結束が一番大事な時期に逆効果じゃないか」

 安倍は記者団にも「幹事長の心配には及ばない」と、不快感を隠そうともせず、中川が22日に「ちょっと言い過ぎました」とわびたものの、わだかまりは残った。

 実は中川発言には伏線があった。中川は2月7日夜、赤坂の料亭で前首相の小泉純一郎、前総務相の竹中平蔵と会談した。この際、小泉が「首相の権限は絶対だ。忠誠心のない奴は去ればいい」と言い放ったのだ。強力なリーダーシップで5年半も政権を維持した小泉らしいせりふだった。

 このころ、自民党内では「麻生は安倍を支えるふりをしてハシゴを外す気ではないか」とささやかれていた。昨年末に麻生派(為公会)を立ち上げ、増員工作を続けていることも他派閥を疑心暗鬼に陥らせた。

 そんな雰囲気を察知したのかどうか、中川は2月21日深夜、麻生を会合に誘った。麻生は、中川が遠回しに麻生の意向を探りにきたのだと感じ、不快感を込めて言った。

 「ニューYKKって知っているか。山崎拓(元副総裁)、加藤紘一(元幹事長)、それに小泉の代わりに古賀誠(元幹事長)だ。おれがこいつらと手を組むと思うのか」

 新YKKの動きは、反安倍色を帯びている。その加藤と麻生は以前から路線が合わないばかりか、性格的にも合わないことは、政界では周知の事実だ。それだけに、中川の動きは、麻生には心外だった。

 麻生が機嫌を損ねているという話はしばらくして安倍にも伝わった。政治路線がほぼ一致する麻生の存在は安倍の政権運営にとって欠くことができない。その麻生が抱いた不信感を早急に取り除かなければならない−という安倍の思いが、冒頭の安倍−麻生極秘会談のきっかけだった。

 2月7日の小泉−中川会談があった料亭で、もう一人の大物政治家の姿が目撃された。かつての小泉の盟友である山崎だった。

 山崎が小泉−中川会談に同席したかどうかは定かではない。ただ、このころから、山崎は小泉の3度目の訪朝について口にしなくなる。さらに、なぜか党内で、参院選後の「小泉再登板説」も下火になっていった。それと、歩調を合わせるように、山崎は昨年末からひそかに進めてきた新YKKの動きを公然化させる。このため、自民党内には、安倍を降ろして小泉再登板をねらっていた山崎らの勢力が、その気のない小泉を見限り、みずから反安倍の動きを開始したとの見方も広がった。

 実際に2月19日には新YKKが会談、3月12日には国対委員長の二階俊博を加えて4人の会合が開かれた。この席で二階をのぞく3人は「参院選に負ければ安倍政権は行き詰まる」との認識で一致した。

 その2日後、山崎、加藤はCS放送の「朝日ニュースター」に出演。山崎は「小泉さんの靖国参拝で中韓との関係が非常に深刻になった。加藤さんや古賀さん、高村(正彦元外相)さん、福田(康夫元官房長官)さんらと力を合わせて日米中新時代を作っていくべきだ」と述べ、反小泉、反安倍色を鮮明化させた。

 加藤が安倍包囲網の核に位置づけるのが、自らが昨年夏に立ち上げた議員連盟「アジア外交・安保ビジョン研究会」だ。安倍外交に批判的な講師を招いてほぼ毎月勉強会を開いており、衆参議員20〜30人が固定メンバー化しつつある。

 安倍はこの動きに無関心を装うが、心中は穏やかでないようで、会合の度に出席メンバーを逐一報告させている。安倍はかつて歴史教育議連や、平和靖国議連、再チャレンジ議連など数々の議連を作り、「仲間」を増やしていっただけに、「逆手に取られた」との思いもあるようだ。

 政権6カ月で芽生えたこのような動きを見て、かつて加藤に宏池会(旧宮沢派)を追われた麻生はこう語った。

 「左と右が真ん中を取り合う綱引きを続けているのが自民党の現状だ。保守政党はどうあるべきか、どっちも譲らないから、いずれ火を噴くのは間違いない。ひょっとして案外近いんじゃないかね…」

 =敬称略

 (石橋文登)
(2007/03/21 08:44)
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070321/shs070321002.htm




【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】米決議案との狭間で

河野談話 強制性は党が再調査、政府は必要に応じて協力

 3月8日夕刻。首相、安倍晋三の思想信条に共感し、かねて支え続けてきた自民党若手・中堅議員らに激震が走った。

 安倍が慰安婦募集における官憲の関与を認めた平成5年の官房長官、河野洋平の談話(河野談話)について、記者団に「われわれは談話を基本的に継承していく立場だ。強制性については党が再調査するので政府は資料の提供など必要に応じて協力していく」と明言したからだ。

 この2時間前、自民党有志の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(歴史教育議連)の会長、中山成彬らが首相官邸に安倍を訪ね、談話の根拠となる資料の政府による再調査を求めた。政府が再調査に踏み切れば、軍・官憲による強制連行を示す資料が存在しないことが改めて確認されることは確実とされており、談話見直しは必然とみられていた。

 その際、安倍は中山らをねぎらい、再調査に前向きな意向を示した。ところが、政府ではなく「党で再調査」という中途半端な方針変更に議連メンバーは困惑した。政府は談話見直し論議の最前線から一歩身を引くという意味でもある。「ハシゴをはずされた」「誰が首相をそそのかしたのか」と憤りの声も上がった。

対立回避へ

 歴史教育議連は、慰安婦に関する記述がすべての中学歴史教科書に掲載されるようになったことを受けて、安倍や政調会長の中川昭一らが9年、「自虐史観」の見直しを掲げて発足させた。談話見直しは安倍のレゾン・デートル(存在理由)と言っても過言ではないほどのテーマなのだ。

 にもかかわらず、安倍は昨年10月3日の衆院本会議で河野談話踏襲を明言。同月5日の衆院予算委の答弁で、軍の直接関与を示す「狭義の強制性」を否定したとはいえ、大きな政治的妥協だった。当時の政治状況で談話見直しに踏み込めば、元自民党幹事長の加藤紘一ら反安倍派や野党の格好の餌食になったことは間違いないが、安倍には忸怩(じくじ)たる思いが残った。

 それなのに、なぜ安倍は政府による再調査を思いとどまったのか。

 そのもっとも大きな理由は、米下院の対日非難決議案の動向だった。

 慰安婦問題を「20世紀最大の人身売買」と断罪するこの決議案はもともと米国でも大して注目されていなかった。

 ところが、決議案に対する日本国内での反発に乗じる形で米メディアに火が付いた。ニューヨーク・タイムズは3月6日付の社説で「安倍晋三は『日本軍の性的奴隷』のどの部分に理解や謝罪ができないというのか」と激しく批判、他の有力紙も相次いで安倍の非難記事を大きく掲載した。

 3月8日の時点では、安倍にも複数の外交ルートから「決議案可決は不可避」との見方が伝えられていた。ここで政府による再調査を表明すれば火に油をそそぎかねないというのが安倍のやむをえない最終判断だった。

 4月中旬の中国の首相、温家宝の来日、下旬には自らの訪米を控えていたことも足かせとなった。だが、それ以上に安倍が恐れたのは、日本の保守勢力に潜在する反米感情に火が付くことだった。

 決議案が可決されれば、日本の保守論陣から連合国軍総司令部(GHQ)占領下での米軍による婦女暴行事件を糾弾する声が上がることは必至だ。東京大空襲や広島・長崎への原爆投下の人道上の罪を問う声も上がるだろう。そうなれば、米共和党も黙っていまい。日米保守勢力の対立をほくそ笑むのは、誰であり、どこの国なのか−。

 安倍は9日昼、首相官邸に自民党衆院2回生議員を招き、昼食会を開いた。提言をまとめた中山泰秀はこぼした。「みんな残念がっていますよ」。安倍は厳しい表情で「中川昭一さんとよく相談してほしい。私からも言っておく」とだけ語った。

反論できず

 対日非難決議案は過去5回提出されているが、いずれも廃案になっている。しかし、「今回は少し動きが違う」と、いち早く察知したのは首相補佐官(教育担当)の山谷えり子だった。

 山谷は昨年9月の補佐官就任直後、官房長官の塩崎恭久に「このまま放置したら大変なことになる」と進言したが、塩崎の動きは鈍かった。安倍が事態の深刻さに気付き、外務事務次官の谷内正太郎らに「事実関係に基づかない対日批判に対しては、一つ一つ徹底的に反論するように」と指示したのは昨年12月だった。

 だが2月15日には米下院の小委員会が元慰安婦女性の公聴会に踏み切った。業を煮やした安倍は首相補佐官(広報担当)の世耕弘成を同月19日、米国に派遣した。

 「決議案の裏には中国ロビイストがいる。狙いは日米の離反だ」

 世耕は応対に出た米国務省の課長級職員に懸命に訴えた。世耕の勢いに押されて職員が呼びに行ったのは国務次官補のヒルだった。

 「そういう背景があるとは知らなかった」

 ヒルはそう話して頭を抱えるポーズをとった。しかし、人権に関するテーマだけに米国内保守派も日本を援護しにくい。時すでに遅しだった。

 駐米大使の加藤良三は米議会に「日本政府は慰安婦問題に関し、責任を明確に認め、政府最高レベルで正式なおわびを表明した」と声明を出したが、大使館員が米政府や米国議会に詳しい事情説明や反論を試みた形跡はない。理由は河野談話だった。「政府が談話を継承する限り、反論しようがない」(政府高官)。談話は決議案の根拠となっているだけでなく、日本政府が反論できない理由にもなっていた。

自戒の念?

 談話の主、河野洋平が衆院議長を務めていることも政府が見直しに踏み切れない要因となっている。3月3日の19年度予算案の衆院採決直前には「これ以上見直しの動きが加速すると、河野は衆院本会議開会のベルを鳴らさないのではないか」との情報が駆けめぐった。河野は15日には国会内で記者団に「談話は信念をもって発表した。あの通り受け止めてほしい」と述べ、談話見直しの動きに不快感をあらわにした。政府・自民党内にも「なぜわざわざ波風を立てるのか」と見直しに否定的な声は強い。

 厳しい状況が続く中、安倍は18日、神奈川県横須賀市の防衛大学校卒業式に臨んだ。訓示で、元英国首相のチャーチルの回顧録の一節「慎重と自制を説く忠言がいかに致命的危険の主因となりえるか。安全と平穏の生活を求めて採用された中道はいかに災害の中心へ結びつくかをわれわれは知るだろう」を引用した。

 その上で、安倍は「『危機』に臨んでは右と左を足して2で割るような結論は、状況に真に適合したものにはならない。情勢を的確に分析し、自らの信じるところに従って的確な決断をすることが必要だ」と話した。自戒の念を込めたとみるべきだろう。=敬称略(石橋文登)

(2007/03/22 10:09)
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070322/shs070322003.htm
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by thinkpod | 2007-03-22 17:44
2007年 03月 19日

地球史探訪 : 中国の覚醒(上) 〜 中国共産党の嘘との戦い

「毛主席の小戦士」から「民主派闘士」へ、
そして「反日」打破の論客へ。

■1.「毛主席の小戦士」■

 石平(せき・へい)氏は、1980年に北京大学に入学した。そ
こで人生最大のショックに打ちのめされた。物心ついて以来、
「人民の幸福を願う慈悲の救世主である毛主席」の小戦士とし
て育てられてきたのに、その毛主席がどんな悪事でも平気でや
り通す権力亡者だ、と非難する人が大学には大勢いたのである。

 石少年の学んだ四川省成都市の中学校は「思想教育の重点模
範校」に指定されていて、「毛沢東思想の徹底した教育によっ
て毛主席の忠実な戦士を作ること」を基本方針としていた。

 学校の玄関から入ったところには、毛沢東の石像が聳え立ち、
至る所に毛沢東語録を書いた看板が立てられていた。毎朝一時
限目の授業では、クラスの全員が起立していて毛沢東の顔写真
に敬礼した後、さらに3人の生徒を立たせて、毛沢東思想を勉
強したことによる「収穫」を述べさせるのが日課であった。

 担任の女性教師は、教室の中で毛主席や共産党の「温情の深
さ」を語る時、いつも喉を詰まらせながら泣き出してしまうの
だった。そして毎週一度、生徒全員が「毛主席への決心書」を
書かされるのだが、石少年は文章が上手だったので、時々模範
文に指定され、クラス全員の前で朗読させられた。その一つは
「敬愛なる毛主席は私たちの心の中の赤い太陽」というタイト
ルだった。

■2.やり場のない怒り■

 ところが、北京大学のキャンパスには、敬愛する毛主席を非
難する人間がたくさんいた。誤った大躍進政策で数千万の人民
を餓死させ、自分の地位が危うくなると文化大革命という争乱
状態を作り出して、多くの罪もない人びとを死に至らしめた独
裁者だった、と彼らはいう[a,b]。

 最初は勿論、絶対に信じたくはなかった。私は小柄であ
るにもかかわらず、「毛主席の悪口を言うやつ」に対して
は、何度も食ってかかって、殴り合いの喧嘩をした。しか
し、徐々に信じざるを得なくなった。示された根拠は、あ
まりにも説得力のあるものであり、被害者とその家族たち
の訴えは、あまりにも切実であった。

 大学の学生寮で同じ部屋に住むC君は、お祖父さんが無
実の罪で処刑されたのも、お父さんが無実の密告で自殺に
追い込まれたのも、お母さんがそれで気が狂って精神病院
に入っていることも、C君自身は帰る家もなく夏休みも冬
休みもずっと、この学生寮で暮らしていたことも、紛れも
ない事実であった。[1,p32]

 そう言えば、と石氏は思い出した。中学生の頃、近所に乞食
のお婆さんがいた。通りかかる生徒たちにいつも笑顔で「勉強
がんばってね」と声をかけてくれた。そのお婆さんが、トラッ
クで市中を引き回された後に、処刑場で銃殺されたのである。
その罪は、毛主席の顔写真が掲載されている新聞紙を使って、
拾った大根を包んだ事だという。今になって思えば、これこそ
毛沢東政治の狂気と残虐性を示す一例だったのだ。

 自分が子供の頃から完全に騙されて育ってきた、と知ったの
は、19歳の青年にとっては、あまりにも過酷な体験であった。

 石氏はやり場のない怒りに、毛沢東の肖像を何度もずたずた
に引き裂いて、両足で力一杯踏みつけた。一人、大学構内の雑
木林の中に入って、狂ったように木を蹴ったり、揺すったりし
た。天に向かって「馬鹿やろう!」と大きな声で叫んだ。

■3.中国共産党の一党独裁の政治体制そのものが問題の根源■

 このような苦しみを味わったのは、石氏だけではなかった。
程度の差こそあれ、周りの同級生たちも、皆このような受難を
味わっていた。学生寮の狭い部屋で、安酒を酌み交わしながら、
一緒に涙を流した。その中から、連帯感が生まれてきた。

 冷静になって考えてみると、毛沢東一人に怒りをぶつけてい
れば済む問題ではない。確かに毛沢東は自分一人の権力欲のた
めに、国家と人民とを地獄に陥れた。しかし、国全体がなす術
もなく、一人の人間の横暴と狂気を十数年も許してきたのは、
一体なぜなのだろうか。

 結局、中国共産党の一党独裁体制そのものが問題の根源なの
だ。毛沢東のような暴君が二度と現れてこないようにするため
にも、一党独裁の政治体制を打破し、国家の法制を整備して、
人民に民主主義的権利を与えなければならない。

 そういう理念を確立し、信ずべき道を定めたことによって、
石氏らの世代は、心の再生を味わい、未来への希望を得た。彼
らは民主化運動の推進に、青春の情熱を傾けるようになった。

■4.日本へ■

 石氏は大学卒業後、地元四川省の大学講師となり、学生寮に
入り浸っては、自由と民主化について、学生たちと語り合った。
しかし、そうした活動が、共産党支部から「厳重注意」を受け
た。教授からも、「僕の立場もあるから、もっと研究に専念し
て欲しい」と言われた。

 こうして石氏の活動が封じ込めらているうちに、北京で政変
が起こった。若者たちの民主化運動に一定の理解を示し、共産
党内の開明派の代表格であった胡耀邦が党総書記を解任された
のだった。それによって、民主化運動も低調期に入った。

 そんな時に、一通の手紙が日本から届いた。学生時代に民主
化の理想を語り合った親友が、政府派遣の留学生として日本に
渡り、石氏にも「日本に来ないか」と誘ってくれたのである。

 石氏は心を動かした。民主化を志す者として、実際の民主主
義国家とは一体どういうものであるかを、自分の目で見てみた
かった。また、どうしてアジアの中で日本だけが近代化に成功
したのか、という問題には以前から興味を持っていた。

 こうして1988年、石氏は日本にやってきた。1年間、居酒屋
で皿洗いのバイトをしながら、日本語学校に通い、「あいうえ
お」から勉強した。そして翌年、神戸大学の大学院に入った。

■5.運命の6月4日■

 大学院に入って、指導教官のゼミが始まった4月15日、胡
耀邦前総書記の死去のニュースが祖国から伝わった。それを機
に、民主化運動は一気に蘇った。北京の仲間たちから、「今度
こそ、いっせいに立ち上がって長年の夢を実現するぞ」という
檄文が寄せられた。

 石氏も京阪神地方の中国人留学生の連帯組織を立ち上げて、
日本において、中国国内の民主化運動に呼応する活動を開始し
た。やがて、あの運命の6月4日がやってきた。[c]

 そして、毛沢東時代ですら見たことのない恐ろしい光景
が現実のものとなった。共産党が、中華人民共和国政府が、
兵隊と戦車を出動させて自らの首都を「占領」して、丸腰
の学生や市民に手当たり次第に銃撃を浴びせ、次から次へ
と倒していった。[1p49]

 あの日に、トウ小平の凶弾に倒れて、若い生命と青春の
夢を無残に奪われたのは、自分たちの同志であり、自分た
ちの仲間なのだ。後で知ったことだが、自分がかつて一緒
に飲んで、一緒に語り合ったことのある仲間の数名が、そ
の犠牲者のリストに含まれていた。

 彼らはかつて、この私の目の前に座っていて、この私に
向かって夢と理想を語り、この私に、青春の笑顔の明るさ
と、男同士の握手の力強さを感じさせた。彼らは確かに生
きていて、存在していた。

 そしてあの日突然、彼らは殺された。[1,p47]

■6.「もう一度騙されていた」■

 この時になって、石氏は、自分がもう一度騙されていた事を
知った。7、8年前に毛沢東時代の洗脳教育から覚めた時でも、
トウ小平と彼の率いる党内改革派によって、共産党も生まれ変
わっていくだろうと、信じて疑わなかった。

 しかし、民主化運動が共産党の独裁体制を脅かすような事態
になると、トウ小平も共産党も、すぐさまその本性を剥き出し
にした。そこには主義も哲学もない、法律も道理もない。ある
のはただ、共産党が自らの独占的権力を何としても守りたい、
という赤裸々な党利党略と、そのためには、手段を選ばない卑
劣さと残酷さであった。

 ここまできて、私自身は完全に目が覚めた。自分の心の
中で、中国共産党と中華人民共和国に決別を告げたのであ
る。・・・

 この中華人民共和国にも、もはや用がない。何の愛着も
義理もない、共産党の党利党略のための道具と成り下がっ
たこの「共和国」は、もはや「私たちの国」ではない。そ
れはただの「北京政府」であって、ただの「あの国」となっ
たのだ。[1,p50]

■7.80年代の親日、90年代の反日■

 石氏はその後、6年間の大学院生活を終えて、日本の民間研
究所に就職した。そこでは中国国内の大学や研究所と学術的交
流を進めていたので、石氏も頻繁に中国に出張するようになっ
た。

 久しぶりに見た中国社会で衝撃を受けたのは、すさまじい反
日感情が蔓延しているということだった。食事の場などでも、
かならず「原子爆弾でも使って、日本を地球上から抹殺すべき
だ」「いや恨みを晴らすには一人ずつ殺した方がいい。東京大
虐殺だ」などと、日本への罵倒合戦が始まる。

 石氏は何でこんなに中国人が反日になったのか、理解できな
かった。自分が学生だった80年代の「改革開放」時代には、
官民を挙げて日本との交流を全面的に推進することが国策とな
り、「日中友好」「日本に学ぼう」が合い言葉として流行って
いた。高倉健や山口百恵などは、中国人にとっての「国民的」
アイドルになっていた。

 90年代の「反日青年たち」は、日本を憎むのは、過去の日
本軍の「無道」や「虐殺」に原因があるというが、それなら、
戦争の記憶がより鮮明な80年代の私たちの方が、もっと日本
を憎んでいるはずだ。しかし、事実は正反対で、私たちの世代
は日本に対して好感と親しみを持っていた。おかしいではない
か、と石氏は思った。

■8.「おじさんは歴史を忘れたのか」■

 そのナゾがやっと解けたのは、2000年8月に夏休みを利用し
て、四川省の実家に帰省した時である。大学1年生の甥が遊び
に来ていたので、小遣いをやろうとした。しかし、甥は「要ら
ない」と断った。「おじさんのお金は、日本人から貰った給料
だろう。そんな金、僕は要らない!」ときっぱりした口調で言っ
た。

 そして「今度、日本が攻めてきたら、僕は最前線へ行って、
小日本を徹底的にやっつけるのだ」と気迫を込めて言った。石
氏は「もう一人の反日青年の誕生か」と心の中で呟いた。

 さらに甥は誇らしげに、大学で共産党への入党申請書を出し
た、と言った。石氏が「共産党はそんなによいのか」と聞くと、
甥は少々、興奮状態になって、こう答えた。

 当たり前じゃないか。共産党の指導があるから、中国は
日本の侵略を防げるんじゃないか。昔、日本侵略軍をやっ
つけたのは共産党じゃないか。おじさんは歴史を忘れたの
か。

「そうか。やはり歴史か。それなら聞く。今から11年前、北
京で起きた『6・4事件』(天安門事件)、あれも歴史だけど、
君はどう思うのか」と、石氏は反撃に出たが、甥は冷笑しなが
ら答えた。

 党と政府の措置は正しかったと思います。おじさんたち
のやっていたことは、外国勢力の陰謀じゃないか。鎮圧し
ないと、この中国は外国勢力の支配下に入ってしまうじゃ
ないか。鎮圧してどこが悪いのか。

 丸腰の学生を虐殺した政府を正しい、と言われて、石氏は怒
り心頭に発した。甥は「殺人と言えば、何千万の中国人を殺し
た日本人こそ殺人者じゃないか」と言い捨てて、出て行った。

■9.「反日」とは世紀の大ペテン■

 甥が帰ってから、石氏は自分の気持ちが収まるのを待って、
甥の言葉を吟味していった。甥はかつての民主化運動を「外国
勢力の陰謀」と信じ込み、丸腰の学生たちを虐殺した共産党を
全面的に擁護した。そして、「日本が再び中国を侵略してくる」
という荒唐無稽な作り話を完全に信じて、それを防ぐために
「共産党の指導」に従って、身を挺して「戦う」つもりなのだ。

 すべてが分かった。「反日」とは結局、中国共産党の党利党
略から仕掛けられた世紀のペテンなのだ。80年代の親日と
90年代の反日との間にあるのが、89年の天安門事件である。

 中国共産党は丸腰の若者たちを虐殺した「殺人政府」だと非
難されて、窮地に陥った。そこから抜け出すために、日本を憎
むべき「悪魔」に仕立て、国民の怨念を自分たちではなく「外
敵」に向かわせようとした。その「外敵」がもう一度「侵略」
してくるだろうというウソ偽りの危機感を煽り立てることで、
「共産党の指導体制」に新たな正当化の根拠を、与えようとし
たのである。

 人を馬鹿にするにもほどがある。子供時代の私たちを洗
脳した時と同じ手口を使って、もう一度人を騙そうとする
のか。私たちの世代だけでなく、私の甥の世代までもこの
ような洗脳教育の犠牲者にする気なのか。そうはいかない、
と思った。

 そして何よりも許せないのは、中国共産党政権はまさに、
この反日教育という名の汚いマジックを用いることによっ
て、私たちの世代の起こした、民主化運動への記憶を抹殺
して、私たちの仲間に対する、彼らの殺人的犯罪を覆い隠
したことである。[1,p89]

 石氏は、殺された同志のためにも、将来の中国のためにも、
「反日」という世紀の大ペテンを打ち破らなければならない、
と決心した。ここから『日中宿命』などの力作が次々と生み出
されていく。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(109) 中国の失われた20年(上)
 〜2千万人餓死への「大躍進」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog109.html
b. JOG(110) 中国の失われた20年(下)
 〜憎悪と破壊の「文化大革命」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog110.html
c. JOG(162) 天安門の地獄絵
 天安門広場に集まって自由と民主化を要求する100万の群
衆に人民解放軍が襲いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog162.html
d. JOG(461) 中国反日外交の迷走
 中国の靖国反日外交は迷走を続けつつ、国際社会にその無理
無体ぶりをさらけ出してきた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog461.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 石平『私は「毛主席の小戦士」だった』★★★★、飛鳥新社、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4870317613/japanontheg01-22%22
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by thinkpod | 2007-03-19 18:20 | 中国
2007年 03月 19日

地球史探訪 : 中国の覚醒(下)

〜 日本で再発見した中国の理想

 孔子の理想は中国では根絶やしに
されたが、日本で花開いていた。

■1.「そういう深いことを最初に考えたのは君の祖先じゃないのか」■

 中国共産党の「反日」政策打倒を決心した石平氏には、もう
一つの転機があった。神戸大学大学院で社会学を学んでいた時、
フランスの近代社会学者エミール・デュルケームの「社会儀礼
論」がゼミのテーマとなった。それは、人々が共に儀礼を行う
ことによって、社会的所属意識を確認して、集団としての団結
を固める、という理論であった。

 儀礼など単なる形式でしかない、と考えていた石氏にとって、
ディルケームの考え方は新鮮で、「さすがにフランスの社会学
者ですね。深いところを見ていると思います」と感想を述べた。

 それを聞いて、指導教官は口許に含み笑いを浮かべながら、
言った。「何を言っているのか君、そういう深いことを最
初に考えたのは君の祖先じゃないのか」

 意表をつかれて戸惑った石氏に、先生は「『礼の用は和を貴
しと為す』という言葉、君は知らないのかね」と言って、メモ
用紙に「礼之用、和為貴」と書いた。

 そうか、分かった。あの論語の言葉じゃないか。20数年前
に祖父に叩き込まれたこれらの文字が、鮮明に浮かんできた。

■2.祖父の不思議な教育■

 石氏の祖父は、中国成都市から遠く離れた田舎の村に住む漢
方医であった。石氏が4歳の時に文化大革命が始まり、大学の
教師であった両親は成都近郊の集団農場に追放されたので、や
むなく石少年を田舎の祖父母に預けたのである。

 竹林に覆われた穏やかな丘、斜めに広がる一面の田んぼ、点
在する農家。7歳になって小学校に通うようになった石少年は、
天気の良い日には、仲間と午後の授業をさぼって、里山の中で
遊んだ。小学5年生で成都市の小学校に移って「毛沢東の小戦
士」として洗脳教育を受けるのとは正反対の、なつかしい「故
郷」がそこにはあった。

 石少年が小学校4年生になった頃から、祖父は奇妙な教育を
始めた。一枚の便せんにいくつかの短い文言を書いて、ノート
に何百回も書き写せと言う。それらは「君子和而不同(君子は
和して同ぜず)」などと、明らかに現代語とは違った言葉であっ
た。誰の言葉か、どういう意味かも、祖父はいっさい教えてく
れない。ただ「書き写せ」との一言のみである。

 さらに祖父は、学校ではこの事を絶対言ってはならない、ま
た書き写したノートは家の外に持ち出してはならない、と厳重
に注意した。そして、便せんと石少年が書き写したノートをす
ぐに回収してしまう。まるで悪いことでもしているような祖父
の行動が、石少年には不思議でならなかった。

 ある夜、トイレに起きた石少年は、祖父が台所でしゃがんで
何かを燃やしているのを見つけた。目をこすってよく見ると、
それは自分が書き写したノートではないか。どうしてそんな事
をしなければならないのか、石少年にはまったく分からなかっ
た。

■3.祖父の「大罪」■

 そのナゾが解けたのは、大学生になって、文化大革命の実態
を知った時だった。文化大革命は中国の伝統文化に対して「反
動的封建思想」のレッテルを貼って、徹底的に弾圧した。祖父
の行為は、もし見つかったら「反動思想をもって青少年の心を
毒する」大罪として、命にもかかわる糾弾を受けていただろう。

 なぜ、そんな危険を冒してまで、祖父は自分に論語を教えよ
うとしたのか。大学の夏休みに田舎の村に帰った時、祖父はす
でに亡くなっていたが、その理由をようやく祖母から聞き出す
ことが出来た。

 祖父は孫の石少年に、自分の医術をすべて伝授して、立派な
漢方医に育てるつもりだった。そして祖父の世代の医術は「仁
術」でなければならなかったので、その基礎教育として論語を
石少年に叩き込んだのである。

 祖父の夢は叶わなかったが、何百回も書き写すことで、論語
の多くの言葉は石氏の記憶の中に刻まれた。論語の一節を耳に
しただけで、一連の語句は次から次へと、湧くように口元に上っ
てくる。

 17年ぶりに日本人の指導教官から「礼之用、和為貴」と指
摘された時も、論語の言葉が即座に脳裏に蘇ったのである。

■4.驚きと感激の発見■

 日本に来たばかりの頃、神戸の大きな書店で「中国古典」と
表示されている一角を見つけた。それは目を見張るほどの光景
だった。

「論語」「孟子」「荀子」「墨子」「韓非子」「史記」「春秋
左史伝」などのタイトルの本が、いかにも気品高くずらりと並
んでいるのである。論語に関する本だけでも書棚数段を占めて
いる。遠い昔の時代に、わが祖国に生まれた孔子様の思想と心
は、数千年の時間と数千キロの距離を超えて、この異国の地に
生きていたのだ。まさに驚きと感激の発見であった。

 その時はまだ天安門事件の直後だったので、論語を手にとっ
て読もうという気は起こらなかった。しかし、指導教官の指摘
から、幼い頃に祖父に叩き込まれた論語の言葉を思い出し、よ
うやく石氏は「論語を一度、ちゃんと読んでみよう」と決心し
たのである。

 最初は金谷治や宇野哲人などの碩学の訳釈を頼りに、原文を
何回も繰り返して読んだ。そこから徐々に日本の儒学研究の大
家たちの「論語論」へと広がっていった。諸橋轍次の『論語三
十講』、吉川浩次郎の『論語のために』、安岡正篤の『論語の
活学』など、大学の図書館にある「論語」関係の本をほとんど
読んだ。

 それは驚嘆と感激の連続であった。日本の研究者たちは、こ
れほどの深さで論語を理解していたのか。論語の言葉一つ一つ
が、様々な角度からその意味を深く掘り下げられて、平易にし
て心打たれる表現で解説されていた。

 しかも、それらの先生方の論語を語る言葉の一つ一つには、
孔子という聖人に対する心からの敬愛と、論語の精神に対する
全身全霊の傾倒の念が込められていた。

 言ってみれば、わが孔子とわが論語は、まさにこの異国
の日本の地において、最大の理解者と敬愛者を得た感じで
あった。

 特に、本場の中国において、孔子と論語が、まるでゴミ
屑のように一掃されてしまった、「文化大革命」の時代を
体験した私には、この対比はあまりにも強烈なものであっ
た。私に論語の言葉を書き写させた例のノートブックを、
夜一人でひそかに燃やしたわが祖父の姿を思い出す時、隣
の文化大国の日本で広く親しまれて敬愛されていることが、
孔子様と論語にとってどれほど幸運であるのか、感嘆せず
にはいられなかったのである。[1,p151]

■5.「やさしい」日本人に見た「忠恕」の道■

 こうして論語を再発見して、改めて日本での生活を省みると、
孔子や論語が学問の世界だけでなく、日常生活にも生きている
ことに石氏は気がついた。

 たとえば、孔子の思想の中核をなす「仁」と「如」。「仁」
とは「人を愛すること」、「如」とは「まごころによる他人へ
の思いやり」。この二つをあわせれば、それはそのまま日本で
いう「やさしい心」になるのではないか。

 ところが現代の中国語には、この「やさしい」という日本語
にそのままぴったりと当てはまる表現がないことに、石氏は気
がついた。

 大学で学んでいる頃、同じ四川省出身の女子留学生のCさん
から電話があり、中国語で話していた時の事である。彼女は
「我覚得他還是一個很ヤサシイ的人(彼はやっぱりやさしい人
間であると思う)」と、「やさしい」という所だけ日本語をつ
かった。そして、石氏も同様に「やさしい」という所だけ日本
語を使って、「そうだ。僕も彼はやさしい人間だと思う」と相
づちを打った。

 中国人同士で中国語で話しているのに、どうして「やさしい」
という一カ所だけ日本語を使わなければならないのか。中国の
一流学者グループによって編纂された上海商務印書館の『日中
辞典』では「やさしい」という一語の意味を、「善良」「慈悲」
「懇切」「温情」「温和」「温順」など10以上の単語を並べ
て説明している。

 しかも、これらの中国語の単語一つ一つは、「もっとも良い
人間」を褒め称えるのに用いる最上級の言葉である。それらを
10以上も集めて、ようやく日本語の「やさしい」という一つ
の言葉の意味を伝えることができるのだ。それほど、現代中国
人の社会では「やさしい」人は希なのである。

 しかし、日本では「やさしい人間」はどこにでもいる。石氏
が出会っただけでも、大学のやさしい先生、ボランティアのや
さしいおばさん、学生寮のやさしい管理人、八百屋のやさしい
おやじさん、、、

 現代中国ですでに死語となっている「仁」と「如」は、今や
形を変えて「やさしい」という日本語の中に生きている。そし
て論語の中でもっとも大切にされている「仁」と「如」の心は、
「やさしい」心として、多くの現代日本人の中で息づいている
のである。

「孔子の道」も「論語の精神」も、格別に難しい道ではない。
ごく普通の日本人のように「やさしい心」を持って生きていけ
ばそれで良いのだ。こうして石氏は、自分の祖先の古の道を、
日本語と日本人とのつきあいを通じて再発見したのである。

■7.日本語を通して学んだ「礼の心」■

 もう一つ、孔子と論語がこの上なく強調しているのが「礼」
である。そして、石氏が日本に来て早々、大いに感心したのが
日本人の礼儀正しさであった。

 今でも鮮明に覚えている場面の一つだが、日本留学の身
元保証人になっていただいた日本人の家に、初めて招待さ
れた時、玄関に入ると、この家の初老の奥様は何と、玄関
口に正座して私たちを迎えてくれたのである、私がお世話
になる一留学生の身であるにもかかわらず!

 その時に受けた「カルチャーショック」は、まさに「ショッ
ク」というべき衝撃であった。孔子様のいう「礼譲の国」
とは、ほかならぬこの日本であると、心の底から感激した
のである。[1,p153]

 特に、文化大革命以来の、紅衛兵流の荒々しさと「無礼講」
が社会的流儀となった中国から来た石氏にとって、これはあま
りに美しく、あまりに優雅に見えた。

 さらに、日本語の勉強が進むにつれ、日本語こそまさに「礼
譲の国」にもっとも相応しい言葉であることが分かってきた。
中国語では漢方医の祖父の世代までは、たとえば、相手の両親
のことを「令尊・令堂」などと尊称を使うが、日本語の敬語は
それだけでなく文法まで規則正しく変えなければならない。

「ご両親は元気ですか」ではダメで、「お元気でいらっしゃい
ますか」である。逆に自分のことに関しては「ご両親の世話に
なっている」ではなくて、「ご両親のお世話になっております」
と言わねばならない。石氏は苦労してこうした「尊敬語」や
「謙譲語」をマスターした。

 今から考えてみれば、結局、私が「礼」というものを学
んだのは、まさに日本語の勉強を通してである。

 敬語としての日本語から入ることによって、私はいつの
まにか、尊敬と謙譲の姿勢をごく自然に身につけることが
できるようになっていた。

「礼語」としての日本語を学び、それを実生活の中で使い
こなしていくことによって、私は知らず知らずのうちに、
まさに「礼の心」というものを、自分自身の内面において
育てることができたのだった。[1,p159]

■8.儒教の理想は日本で花開いた■

 孔子の教えは、古代中国で生まれたが、そこでは根付かなかっ
た。随の時代に導入された科挙制度によって、儒学の知識は官
僚になるための国家試験の対象とされ、言わば出世栄達の道具
と化した。さらに毛沢東の文化大革命によって、儒教を含めた
中国の伝統思想と文化は根こそぎにされた。

 そして、今の中国の大地で生きているわが中国国民こそ、
論語の心や儒教の考え方からは、もっとも縁の遠い国民精
神の持ち主であると、多くの中国人自身が認めざるを得な
い厳然たる現実なのである。

 少なくとも、私自身からみれば、世界にも希に見る、最
悪の拝金主義にひたすら走りながら、古の伝統とは断絶し
た精神的貧困の中で、薄っぺらな「愛国主義」に踊らされ
ている、現在のわが中国国民の姿は、まさに目を覆いたく
なるような醜いものである。[1,p178]

 儒教はその生地では枯渇したが、その種子は日本において花
開いた。儒学の思想と精神を受け継いだのは、中江藤樹[a]や
石田梅岩[b]などの求道者を輩出した江戸時代の日本である。
そして、その精神は明治の指導者たちに受け継がれ[c]、特に
教育勅語に取り入れられて、近代日本の建設の指導的精神となっ
た。

 儒教とは、まさに近代日本によって再生され、近代の日
本と共に輝いたのである、と言えよう。[1,p177]

 そういう意味では、私自身は一人の中国人でありながら、
むしろ日本という国と、この国に受け継がれてきた伝統と
文化に、親近感と安らぎを感じていて、一種の精神的な同
一感を持つようになったわけである。[1,p178]

 現代の多くの中国人が、石平氏のように、中国共産党の「反
日愛国教育」の欺瞞に気がつき、そして自国の伝統思想・文化
に目ざめた時、彼ら自身の理想が結実した日本社会に「精神的
な同一感」を覚えるだろう。それが真の日中友好のスタートと
なるのではないか。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(324) 中江藤樹 〜 まごころを磨く学問
 馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、ひたひ
たと琵琶湖沿岸から広がっていった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog324.html
b. JOG(406) 石田梅岩〜「誠実・勤勉・正直」日本的経営の始祖
 それは経済的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさへの道で
もある。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog406.html
c. JOG(279) 日本型資本主義の父、渋沢栄一
 経済と道徳は一致させなければならない、そう信ずる渋沢に
よって、明治日本の産業近代化が進められた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog279.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 石平『私は「毛主席の小戦士」だった』★★★★、飛鳥新社、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4870317613/japanontheg01-22%22


石 平『私は“毛主席の小戦士”だった』
中国の“微笑”を信じるなかれ 強硬策から転換した対日外交の企み
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by thinkpod | 2007-03-19 18:19 | 中国
2007年 03月 18日

慰安婦問題 対日非難は蒸し返し

 【ワシントン=古森義久】米国議会の一部やニューヨーク・タイムズが「慰安婦」非難で日本軍の強制徴用の最大例として強調するオランダ人女性のケースは実際には日本軍上層部の方針に逆らった末端の将兵が勝手に連行し、その違法行為が発覚してすぐ日本軍自身により停止されていた事実が明らかとなった。しかもこの違法の性的徴用の責任者たちは戦後の軍事裁判で死刑を含む厳刑に処されており、今回の日本非難はすでに責任のとられた案件の蒸し返しとなっている。

オランダ女性の事例 末端将兵の行為 すでに厳刑

 8日付のニューヨーク・タイムズは日本の慰安婦問題を安倍晋三首相がそのすべてを否定したかのような表現でまた報じたが、そのなかでオランダ人の元慰安婦だったというジャン・ラフ・オハーンさん(84)の「インドネシアの抑留所にいた1944年、日本軍の将校に連行され、慰安所で性行為を強要された」という証言をとくに強調した。同紙はオハーンさんの2月15日の米下院外交委員会公聴会での証言を引用しており、「日本政府からの公式の謝罪が最重要」と述べたとして、日本軍が組織的に総数20万人もの女性を強制徴用したという糾弾の最大の根拠としている。

 ところが慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた「スマラン慰安所事件」の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた。オハーンさんは同公聴会で日本側が責任をとることを求めたが、責任者は60年近く前にすでに罰せられたわけだ。

 日本政府には批判的な立場から慰安婦問題を研究した吉見義明氏も著書「従軍慰安婦」のなかでオランダ政府の報告書などを根拠にスマラン慰安所事件の詳細を記述している。同記述では、オハーンさんらオランダ女性を連行したのはジャワの日本軍の南方軍幹部候補生隊の一部将校で、(1)軍司令部は慰安所では自由意思の者だけ雇うようはっきり指示していたが、同将校たちはその指示を無視した(2)連行された女性の父のオランダ人が日本軍上層部に強制的な連行と売春の事実を報告したところ、すぐにその訴えが認められ、現地の第16軍司令部はスマラン慰安所を即時、閉鎖させた(3)同慰安所が存在したのは2カ月だった(4)主犯格とされた将校は戦後、日本に帰っていたが、オランダ側の追及を知り、軍法会議の終了前に自殺した−などという点が明記されている。
(2007/03/10 06:09)
http://www.sankei.co.jp/kokusai/usa/070310/usa070310004.htm




「慰安婦」問題 強制性否定は悪質米法学者が安倍発言批判

 【ワシントン=鎌塚由美】米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(十三日付)は、「従軍慰安婦」問題での安倍首相の発言を批判する米法学者の投稿を掲載しました。両教授は、六年前の米国内での慰安婦裁判の判決を引用し、安倍首相の主張は成り立たないと指摘しています。

 投稿は、ハーバード大学法学部のジェニー・スック教授と、ニューヨーク大学法学部の教授で米外交問題評議会の研究員でもあるノア・フェルドマン教授の連名によるもの。
 「従軍慰安婦」問題で「強制性を裏付ける証拠はなかった」という安倍首相の発言は、「アジアの古傷を再び開いた」もので、日本軍の関与と強制を認めた河野官房長官(当時)談話から「実質的には、後退」したものであると述べました。
 両教授は、安倍首相はいまだに「実際の拉致は日本軍ではなく民間業者が行ったとの立場を維持している」とし、「言語道断」だと述べています。
 その理由として、六年前に米連邦地裁で争われた「慰安婦」問題の裁判で、被害者の女性から訴えられた日本政府が「商行為として行ったことを否定した」事実を挙げました。同地裁は女性たちが政府の計画にそって拉致されたとし、日本政府の行為は「商行為」というより「戦争犯罪に近い」と結論を下したと両教授は指摘。政府が「商業的事業」をした場合に訴えられるケース以外には訴追できないとする外国主権免責法の規定によって日本政府の責任が問われなかったことを紹介しました。
 その上で、「日本兵による拉致は商行為ではないとの法廷の結論から利益を得ながら、日本政府が今、日本兵は誰も拉致していないと述べるのは、特に悪質だ」と強調しています。
 両氏は、「政治と訴訟は同じものでない」とし、「政治と法廷論争が違うからこそ、日本政府は道義的にも責任を果たすべきだ」と指摘。「ナチの強制労働の被害者と違い、『慰安婦』は補償を受けていない」とのべています。
 両教授はまた、日本の改憲問題に言及し、「日本がなりたいと思う国になろうと決意するのであれば、日本は何よりも自らの過去と向き合わなくてはならない」と指摘。
 日本が過去六十年以上にわたり憲法で平和主義を義務付け、軍事活動を「自衛」のみに制限してきたとし、日本政府が「安全保障においてより積極的な役割を果たす」として憲法改定を検討するという「重大な決定をする」なら、「なぜそういう(平和主義という)条項があったのか、開かれた議論をしなくてはならない」と述べました。
2007年3月15日(木)「しんぶん赤旗」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-15/2007031507_01_0.html




【緯度経度】ワシントン・古森義久 米国での慰安婦訴訟の教訓
2006年03月18日 産経新聞 東京朝刊 国際面

 慰安婦問題といえば、最近でもなおNHKの番組や朝日新聞の報道をめぐって、論議が絶えないが、米国内でこの問題で日本を非難する勢力にとって大きな後退となる最終判決がこのほど出された。米国の司法や行政の良識を思わせる適切な判決だったのだが、ここにいたるまでの五年以上の原告側の執拗(しつよう)な動きからは日本側にとっての多くの教訓もうかがわれる。

 米連邦最高裁判所は第二次大戦中に日本軍の「従軍慰安婦」にさせられたと主張する中国や韓国の女性計十五人が日本政府を相手どって米国内で起こしていた損害賠償請求などの集団訴訟に対し、二月二十一日、却下の判決を下した。この判決は米国内でのこの案件に関する司法の最終判断となった。もう慰安婦問題に関して日本側に賠償や謝罪を求める訴えは米国内では起こせないことを意味する点でその意義は大きい。

 この訴えは最初は二〇〇〇年九月に首都ワシントンの連邦地方裁判所で起こされた。米国では国際法違反に対する訴訟は地域や時代にかかわらず受けつけるシステムがある一方、外国の主権国家については「外国主権者免責法」により、その行動を米国司法機関が裁くことはできないとしている。ところが同法には外国の国家の行動でも商業活動は例外だとする規定がある。元慰安婦を支援する側は慰安婦を使った活動には商業的要素もあったとして、この例外規定の小さな穴をついて、日本政府への訴えを起こしたのだった。

 日本政府は当然ながらこの種の賠償問題はサンフランシスコ対日講和条約での国家間の合意で解決ずみだとして裁判所には訴えの却下を求めた。ワシントン連邦地裁は二〇〇一年十月、日本側の主張を認めた形で原告の訴えを却下した。原告側はすぐに上訴した。だがワシントン高裁でも二〇〇三年六月に却下され、原告側は最高裁に上告したところ、最高裁は二〇〇四年七月に高裁へと差し戻した。ちょうどこの時期に最高裁が第二次大戦中、ナチスに財産を奪われたと主張するオーストリア女性の訴えを認め、オーストリア政府に不利な判決を下したため、日本政府を訴えた慰安婦ケースも類似点ありとして再審扱いとしたのだった。

 だが、ワシントン高裁の再審理でも日本政府に有利な判断がまた出て、原告は二〇〇五年十一月にまた最高裁に再審を求めた。その結果、最高裁が最終的に決めた判断が却下だったのだ。

 六年近くもこの訴訟を一貫して、しかもきわめて粘り強く進めた組織の中核は「ワシントン慰安婦問題連合Inc」という団体だった。在米の韓国人や中国人から成り、中国政府関連機関とも連携する政治団体である。Incという語が示すように資金面では会社のような性格の組織でもあるという。

 この「ワシントン慰安婦問題連合Inc」は実は二〇〇〇年十二月に東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」にも深くかかわっていた。この「法廷」は模擬裁判で慰安婦問題を主に扱い、日本の天皇らを被告にして、その模擬裁判を伝えたNHK番組が日本国内で大きな論議の原因となった。「慰安婦問題連合」はまた、その少し前には中国系米人ジャーナリスト、アイリス・チャン氏著の欠陥本、「レイプ・オブ・南京」の宣伝や販売を活発に支援した。

 この種の組織は日本の戦争での「侵略」や「残虐行為」を一貫して誇張して伝え、日本の賠償や謝罪の実績を認めずに非難を続ける点では間違いなく反日団体といえる。その種の団体が日本を攻撃するときによく使う手段が米国での訴訟やプロパガンダであり、その典型が今回の慰安婦問題訴訟だった。米国での日本糾弾は超大国の米国が国際世論の場に近いことや、日本側が同盟国の米国での判断やイメージを最も気にかけることを熟知したうえでの戦術だろう。日本の弱点を突くわけである。

 だから「慰安婦問題連合」は日ごろワシントン地域で慰安婦についてのセミナーや写真展示、講演会などを頻繁に開いている。最高裁の最終判決が出るつい四日前も下院議員会館で慰安婦だったという女性たちを記者会見させ、「日本は非を認めていない」と非難させた。

 だが米国の司法は最高裁での却下という結論を打ち出した。行政府のブッシュ政権も一貫して「日本の賠償は対日講和条約ですべて解決ずみ」という立場を裁判の過程でも示した。

 しかし立法府である米国議会は「慰安婦問題連合」などの果敢なロビー工作を受けて、慰安婦問題ではまだ日本を非難する決議案をたびたび出している。その種の工作の持続性、粘り強さは今回の訴訟での軌跡がよく示している。日本側も米国という舞台でのこの種の争いの重要性を十二分に意識して、果敢に反撃すべきだろう。反撃すればそれなりの成果も得られる。今回の最高裁の判決はそんな教訓を与えてくれるようである。

http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/115641/



河野談話と米下院公聴会と女性国際戦犯法廷

 公務員制度改革や教育改革、北朝鮮の核をめぐる6カ国協議に政治とカネの問題…と日々、新聞紙面を埋めるために考えないといけない問題は数多いのですが、やはり、どうしても慰安婦問題が頭を離れません。昨日は、この朝日新聞と吉田清治氏という詐話師の「合作」を、世界中に歴史的事実であるかのように思い込ませた河野談話を発表した河野洋平衆院議長が、記者団に「談話は信念を持って発表している」と語りました。

 この人の根拠がなく安っぽくて薄っぺらな「信念」など、本来は路傍の石ほどの価値もないはずなのに、たまたま宮沢政権下の官房長官であったために、世界に日本政府の公式見解として流布されてしまいました。痛恨の極みという言葉が、これほどぴったりくる事例はあまりありません。以前のエントリでも書いたことですが、もし地獄というものが存在するなら、間違いなくそこへ行くことになる人だろうなと思います。

 本日、政府は河野談話に関して、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書を閣議決定しました。これこそが事実であるにもかかわらず、河野氏が当時の外政審議室の反対を押し切って、あのような主語があいまいで、官憲による強制性を認めたと読める文章に加筆・改編してしまったといいます。そして今も反省していないのですから、もう救いようがないとしか言えません。

 さて、この慰安婦問題をめぐる対日非難決議案を審議している米下院では2月15日、3人の元慰安婦を招いて公聴会が開かれています。3人とは、韓国人の李容珠(イ・ヨンス)氏と金君子(キム・グァンジャ)氏、オランダ人(現在はオーストラリア国籍)のジャン・ラフ・オハーン氏のことです。李氏については、今月5日のエントリで、証言がいいかげん極まりないことを書いておきました。

 で、この3人の名前を見ると、どうしても思い出すのが、2000年12月に東京で開かれた茶番劇「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」です。3人は、この法廷ごっこの証言者に名を連ねていました。そうです、昭和天皇を強姦と性奴隷制についての責任で有罪と認定した意味不明のアレです…。

 女性国際戦犯法廷には、北朝鮮からは、初の日朝首脳会談の通訳も務め、安倍首相から「工作員」と指摘されて日本への入国を拒否されたこともある黄虎男氏も「検事」として参加していました。私は、国際的な反日ネットワークによる大々的な反日キャンペーンの一環だったと理解しています。参加団体には、朝鮮総連の関連団体も加わっていましたし。

 そして、この模擬法廷の模様を取材し、編集したNHKの番組が安倍氏と自民党の中川昭一現政調会長による圧力で改編されたと朝日新聞が1面で報じるという「誤報」も飛び出しましたね。これは。法廷主催者(元朝日記者)と現役の朝日記者、NHKの左巻きのプロデューサーが連携して作り上げたストーリーでしたが、取材がずさんで事実関係も間違っていることが次々と明らかになった次第です。

 当時、北朝鮮に最も厳しい姿勢をとっていた安倍氏と中川氏を狙い撃ちしたものだと言われましたが、その模擬法廷の証言者が、今度は米下院で証言しているわけです。ただの偶然とは考えにくく、何らかの因果関係を推測してしまうのですが…。
2007/03/06
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/134647/



シーファー米大使を手玉にとった“従軍慰安婦3人”の前歴…ころころ変転する証言

由々しき事態だ。米下院に提出された慰安婦問題での対日謝罪要求決議案を巡って公聴会が開かれ、3人の元従軍慰安婦が出席。これを駐日米大使が“尊重”する旨の発言をした。 が、大使を信じ込ませた彼女らは、過去、証言が何度も変わり、その信憑性に疑いの目が 向けられているのである。

<私は、彼女たちが売春を強制されたのだと思います。つまりその時、旧日本軍により、 強姦されたということです>
ニューヨーク・タイムズ紙(3月17日電子版)に載ったシーファー米駐日大使のコメントが本当 ならば、まさに“手玉にとられた”と言うしかあるまい。何しろ2月15日、米下院の公聴会に 出席した元従軍慰安婦3人の中には、これまで猫の目のごとく言うことが変転してきた、 いわくつきの女性がいるのだから。

まずは、韓国人の季容洙(イ・ヨンス)。「彼女が初めて元慰安婦として公の場に出たのは 92年。当時は、慰安婦にされた経緯を“満16歳の秋、国民服に戦闘帽姿の日本人男性 から赤いワンピースと革靴を見せられ、嬉しくなった。母親に気づかれないように家を出た” と語り、先の公聴会でも同じことを喋っているのですが…」と、現代史家の秦郁彦氏が教えて くれる。
「これまで何度も来日している彼女は、今年も日本で数回、会見を開いています。で、2月には“日本兵が家に侵入してきて、首を掴まれ引きずり出された”と言い、3月には“軍人と 女に刀をつきつけられ、口を塞がれ連れ出された”などと内容が変わっている。要するに、 家出と強制連行と、2つの話があるわけです」

◆終戦後も慰安婦?
季元慰安婦はには別の“疑惑”も指摘されている。連行された時の年齢が、14、15、16歳 と、実に“3種類”。時には「44年、16歳で台湾に連行され、慰安婦の生活を3年間も強いら れた」と語るのだが、それでは終戦後も慰安婦として働いていたことになってしまう。

続いて、同じく韓国人の金君子(キム・クンジャ)についても、「ある時は“幼い時に両親を 失い、養子に出された先でお使いに行ってくれと言われ、汽車に乗せられた”と語ったと 思えば、またある時は“家に2人の朝鮮人が来て、工場で働かせてやると騙された”などと 回想する。いずれにせよ、家出に近い話で、日本軍による強制連行ではない」(秦氏)

さらに、当時オランダ国籍で、現在はオーストラリア人のジャン・ラフ・オハーンに関しては、 「“スマラン事件”の被害者だった可能性はありますが、この事件はむしろ、軍が慰安所に 関与していなかったことを示すものです」と、政治ジャーナリストの花岡信昭氏が言う。 「これは、占領下にあったインドネシアのジャワ島で一部軍人がオランダ人女性数十人を 強制的に売春させていたところ、軍に見つかり閉鎖させられた事件です。つまり、軍が売春 を禁じていた証拠になるもの、と位置づけられています」

◆N・オオニシ記者の影
であるならば、なぜ大使は彼女らの言を鵜呑みにしてしまったのか。「反日姿勢で有名な NYタイムズのN・オオニシ記者が、うまく話を引き出した面もあるのでは」と花岡氏は見るが、 「日本が何も言い返さないから、米国内に間違った世論を喚起してしまっている。 つまるところ外交戦略の失敗の表れですよ」(秦氏)

週刊新潮4月5日号P.62より
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by thinkpod | 2007-03-18 05:36
2007年 03月 16日

世界一の債権国、日本に味方はいない

 日本は現在、世界一の債権大国である。GNP(国民総生産)が500兆円だが、それと同じ500兆円ほどを世界中に貸している。

 GNPと同じ規模の債権ということは、それを債務国が返してくれたら、日本人は丸1年間、働かなくてもいいということだ。もし10%ずつの利息をくれたら、年間50兆円も入ってくる。そうなれば、日本国民は税金をいっさい納めなくてもよくなる。

 このように、日本は気前よく貸したり投資して、世界一の債権国になっているが、それなのにあらゆる議論でその自覚がなく、日本は貧乏だとか、輸出をして金を稼がなければ生きていけないとか、相変わらずそうした話ばかりが聞こえてくる。

 それから、世界各国に金を貸したり投資したり援助したりしているから、みんな感謝しているはずだと日本人は思っているが、これは大間違いで、本当はみんな日本の敵なのだ。金を貸すと嫌われる。そんなことは当たり前であり、どうして日本人は忘れているのだろう。

 多くの日本人は、他人に金を貸すときの気持ちがあまり分かっていない。日本人には「何とかお金を借りて、それを真面目に返しました。わたしは立派な人間です」という感覚の人がとても多い。だから、金を貸せば感謝されるだろうと思っているが、外国でそんな感覚を持っている国はない。そのことを日本人は知らなすぎる。

 政策研究をしたり、日本国家の将来を考えたりする会合はいろいろなところで開かれている。それらに参加すると、「根本が抜けているな」とわたしはいつも感じる。つまり「金を貸す国はどうあるべきか」という議論がまったくない。貸したら真面目に返してくれる国を想定して議論を進めるのは、根本的に間違っている。


債権取り立てで頼りにならない日本政府

 世界一の債権国として、日本は外国に対してどういう態度をとればよいのか。それを考えるには、いくつもの段階を踏んで論理を積み上げていかなければならない。

 まず最初の段階は、世界の常識と日本の常識が、まるで違っていることを認識することである。国際金融において、「借りた金はなるべく返さない」のが世界の常識で、「死んでも返そう」が日本の常識だ。外国は返さないのが当たり前だと思っている。

 さらに、なるべく返さないだけではなく、国際金融では、外国は踏み倒そうとする。理由は、国際社会には警察も裁判所もないからで、国際金融にはそういう危険があることを、日本は認識する必要がある。

 それから、日本政府は外国政府に対して交渉をしない。特に民間債権の取り立てに関しては逃げてしまう。「民間のことは民間でやってください」と、大使館や領事館が逃げてしまう。

 そんな政府は世界では珍しい。外国の政府は民間の債権だろうと、一生懸命取り立てに励んでくれる。しかし日本政府は民間債権をかばってくれない。だから民間企業は政府を頼りにしてはいけない。


債務国には軍隊を出すのが国際常識

 第二に、債務を踏み倒す国に対しては軍隊を出すのが国際常識である。国家対国家はそれぞれ主権を持っているから、軍事力に対してだけは言うことを聞く。本当に軍隊を出すか出さないかは別として、まずそれが常識である。

 それでも債務国が債務を果たさなければ、軍隊が駐留することになる。「返すまでずっとそこいるぞ」と。実際、世界中でそうしたことが行われている。

 ずっと金を借りている国では、やがてどこかの国の軍隊が軍事基地を持つことになる。日本も昔は米国から金を借りていたから、その名残で今も軍事基地がある。

 本来なら、今は米国に金を貸しているのだから、「帰れ」と言えばいい。そして「ちゃんと返済するかどうか心配だ」といって、逆に日本が米国に軍隊を駐留させていいのだ。

 そんなことは国際関係論のイロハの「イ」である。だが日本でそれを言っても、だれも賛同しない。ワシントンで言えば、「それはそうだ」と賛同してもらえる。

 かつて日米貿易摩擦のころに、わたしはワシントンで米国人にこんな話をした。「米国は日本に国債を売りつけている。とめどもなく日本から借金をしている。やがて米国がその金を返さなくなったら、日本は取り立てるために、ホワイトハウスの横に日本の「債権取立回収機構」というビルを建てるだろう。そのビルの名前は“イエローハウス”になるだろう」と。

 そんな話を聞いても、米国人は怒らなかった。ユーモアも通じたのだろうが、「理屈で言えばそうだ」と言って、笑っていた。

 その“イエローハウス”が建ったとき、日本の軍隊が米国に駐留すると言うと、これは無用な制裁になるが、しかし、相手が米国ではなくもっと小さい国であれば、そういうことになるだろう。


債務国から「保障占領」という担保を取る

 金を借りている国が「軍隊の駐留を認めない」と言えば、日本は自然に、もう金を貸さなくなる。返してくれるかどうか心配だから、当たり前のことだ。

 すると相手国は困って、結局、「どうぞ駐留してください」となる。だから国際金融をやっていると、必ず軍事交流になってしまう。債務国は軍事基地を提供し、債権国は軍隊を海外派遣するようになる。これは当たり前のことで、世界では珍しくもなんともない。

 もしそれを避けようとするならば、「保障占領」という前例がある。つまり担保を取る。例えば、第一次世界大戦が終わったとき、ドイツはフランスに対して弁償金を払う約束をした。しかし、ちゃんと払うかどうか分からない。そこでフランスは、ルール地方の工業地帯に軍隊を入れて占領した。

 これは侵略でも占領でもない。担保に取っただけ。ドイツがちゃんと払えば、いずれ軍隊は引き上げると、フランスは約束した。これが保障占領という制度である。

 だから米国がもっと金を貸せと言うのなら、日本は米国のどこかを保障占領しなければいけない。これは全然おかしくも何ともない。

 日本の会社は世界各国で、担保も取らずに数千億円も投資して石油を掘ったり、プラントを造ったりして、没収された。日本人は大変お人よしだという例だが、そういう前例は枚挙にいとまがない。


戦争になったら周辺国は債務国に味方する

 次に、債権国と債務国の仲が悪くなって戦争になったとき、周辺の関係国や利害関係国はどちらの味方をするのだろう。これについても日本と外国では、常識がまったく違う。

 日本では、関係国は当然、債権国である日本に味方をしてくれると思っている。しかし現実はまったく逆である。

 今、日本が中国に「貸した金を返せ」と言い、中国は返さないと言って、戦争が始まったとしたら、周辺国はどちらに味方するだろう。日本が正しいのだから周辺国は日本に味方をしてくれると、日本人は思っている。だがわたしはその逆だと思う。周辺国はみんな中国の側について、日本に宣戦布告すると思う。日本から金を借りている国は、全部中国について、日本に宣戦布告する。

 それはなぜか。どうやら中国が勝ちそうだからだ。もしも中国が勝つなら、中国に味方しておけば、自分たちの日本からの借金をチャラにしてもらえる。それだけでなく、日本の財産をみんなでもらって山分けしてしまおうというわけだ。


債権国である日本は世界一立場が弱い

 前例はたくさんある。例えば、第一次世界大戦のときに、ドイツと英国・フランスが戦争をした。そのときに米国は英国・フランスの方に付いた。その理由の一つは、米国が英国とフランスにたくさん金を貸していたからだ。

 米国はドイツには金を貸していなかった。だから米国中の財閥や銀行、資本家は、英国とフランスに勝ってほしかった。ドイツが勝ったら、自分が英国やフランスに貸していた金がパーになる恐れがある。それは困るから、財閥や銀行、資本家は当時の大統領に英国・フランスの側に付けと、強力な圧力をかけた。

 つまり、みんな自分が投資した国がかわいい。そう動くのがお金の世界の論理だ。だから周辺国はまず武力が強くて勝ちそうな側に付く。それから、自分が金を貸している方に付く。金を借りた国には付かない。正義なんかは後回しである。

 日本は今、世界中に一番たくさん貸している国である。それは、世界で一番立場が弱い国ということだ。世界中から「日本が負けて借金がパーになってほしい」と思われている。

 中国の側について日本に宣戦布告して、中国が勝ったら自分たちも戦勝国だと乗り込んで来て日本から財産をぶんどる。それが国際常識である。これからの日本について考えるなら、現在のそうした状況を大前提としなければいけない。

現実主義に目覚めよ、日本!(第52回)
[日下公人氏]/SAFETY JAPAN [コラム]/日経BP社
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/p/52/index.html
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by thinkpod | 2007-03-16 02:04 | 国際
2007年 03月 15日

慰安婦問題の再調査が必要だ

「従軍慰安婦」の政治決着は見直すべきだ

2007-03-03 / Law/Politics
いわゆる従軍慰安婦について「強制があったという証拠はない」という1日の安倍首相の談話への反発が広がっている。韓国の外相が「韓日関係に有益でない」と批判し、こうした動きを伝えるAP電がワシントン・ポストなど約400紙に配信されている。

この記事では「安倍氏のコメントは歴史的な証拠と矛盾している」として、「1992年に歴史家の明らかにした証拠」をあげている。これは吉見義明『従軍慰安婦資料集』(大月書店 1992)を指していると思われるが、この本には一つも「国家による強制」を示す証拠はない。典型的なのは「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という通達だが、これは業者が慰安婦を募集するとき、軍部の名前を利用しないよう注意せよと命じるもので、むしろ軍が慰安所の経営主体ではなかったことを立証している。安倍氏のいう「広義の強制」とは、この『資料集』で吉見氏の主張した「詐欺などの広義の強制連行も視野に入れるべきだ」という詭弁である。

AP電は、安倍氏の話が1993年の「河野談話」と矛盾すると指摘しているが、これは事実だ。この談話が日本軍の戦争犯罪を政府が認めたと受け取られ、米議会の「慰安婦非難決議」などの動きが繰り返し出てくる原因になっている。この談話をまとめた石原官房副長官(当時)は、その事情を次のように明かしている:
日本政府が政府の意思として韓国の女性、韓国以外も含めて、強制的に集めて慰安婦にするようなことは当然(なく)、そういうことを裏付けるデータも出てこなかった。(慰安婦の)移送・管理、いろんな現地の衛生状態をどうしなさいとかの文書は出てきたが、本人の意に反してでも強制的に集めなさいという文書は出てこなかった。[中略]だけども、本人の意思に反して慰安婦にされた人がいるのは認めざるをえないというのが河野談話の考え方、当時の宮沢内閣の方針なんですよ。
そして記者の「宮沢首相の政治判断か」という質問に、「それはそうですよ。それは内閣だから。官房長官談話だけど、これは総理の意を受けて発表したわけだから」と答えている。言外に、石原氏は河野談話に反対だったことが読み取れる。産経新聞によれば、当時、韓国側は談話に慰安婦募集の強制性を盛り込むよう執拗に働きかける一方、「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない」と非公式に打診しており、石原氏は「強制性を認めれば、韓国側も矛を収めるのではないか」との期待感を抱き、強制性を認めることを談話の発表前に韓国側に伝えたという。

石原氏は、別のインタビューでは「韓国まで元慰安婦を探しに行って訴訟を起こさせ、韓国議会で証言させて騒ぎをあおった弁護士」の動きに怒りを表明している。これは、私も書いた福島瑞穂氏や高木健一氏のことだ。要するに、日本人弁護士の起こした騒ぎに韓国政府が対応せざるをえなくなり、その立場に配慮した宮沢政権が政治決着として出したのが河野談話だったわけである。

しかし政府が歴史をみずから偽造した河野談話は、問題をさらに大きくしてしまった。4月の安倍訪米を控え、民主党が多数派になった米議会では、「慰安婦非難決議」が可決される可能性もある。日本軍が「性奴隷」を使っていたという誤った非難がこれ以上広がることを防ぐためにも、安倍首相自身が、彼の信念に従って「慰安婦は国家が強制したものではない」という事実を言明すべきだ。対外的な摩擦を恐れず、原則的な立場を明確にすれば、「弱腰」とみられて低迷している内閣支持率も回復するのではないか。

追記:Wikipediaの記述もひどい。いまだに吉田清治(Kiyosadaとなっている)の「告白」を根拠にしている。これと吉見本と河野談話が、この種のデマの出典の定番だ。

池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/56c1b3873ea7cf5ad9680d6cbf754a9e


慰安婦問題の再調査が必要だ

2007-03-12 / Law/Politics
慰安婦をめぐって、なぜか海外メディアの報道が過熱している。驚くのは、その事実認識の杜撰さだ。特にひどいのはNYタイムズの1面に出た記事で、3人の元慰安婦の証言を引用して「過去の否定は元性奴隷を傷つける」と題しているが、彼らは強制連行とは関係ない。台湾人と韓国人は軍に連行されたとは証言していないし、オランダ人のケースは軍規に違反した捕虜虐待事件で、軍は抗議を受けて慰安所を閉鎖した。

LAタイムズもワシントンポスト(AP)もEconomistも、具体的な根拠をあげずに「性奴隷が存在したことは歴史的事実だ」と断定している。そろって慰安婦の数を「20万人」としているところをみると、出所は吉見義明氏の本の英訳(およびその孫引き)だと思われるが、この数字は当時の国内の公娼の総数が17万人だったことから考えてもありえない。秦郁彦氏の推定では、2万人弱である。しかも吉見氏でさえ、軍が強制連行した証拠は見つからなかったことを認めている。

さらに問題なのは、米下院の慰安婦非難決議案だ。この決議案は委員会では可決される可能性が強まっているようだが、その内容たるや「慰安婦」システムは政府によって強制された軍用売春であり、強姦、妊娠中絶の強要、性的虐待で死に至らしめるなど、残虐さと規模において20世紀最大の違法行為であると宣告して国会決議と首相による謝罪を求める、恐るべきものだ。当事者でもないアメリカが、こんな事実無根の喧嘩を売るような決議案を出すこと自体、日本の外交がいかになめられているかを示している。

これに対して「強制連行の証拠があるのか」と追及されて、提案者のマイケル・ホンダ議員は「日本政府が1993年に謝ったじゃないか」と答えた。つまり事実関係を徹底的に究明しないで政治決着によって謝罪したことが、かえって強制連行が行なわれたという嘘を裏書きしてしまったのだ。日本では、さすがに朝日新聞でさえそういう主張はしなくなったが、英文の資料は吉見本などの古い情報ばかりなので、欧米のメディアがミスリードされているのである。いまだにウィキペディアでさえ吉田清治証言を引用している。

これについて元NSCアジア部長のマイケル・グリーン氏は「強制性の有無を解明しても、日本の国際的な評判がよくなるという話ではない」としているが、安倍首相が「非生産的だ」として議論を打ち切った後も報道がエスカレートしているところをみると、話は逆だろう。日本政府があやふやな態度をとってきたことが、かえって「事実はあるのに隠している」という印象を与えているのだ。特に4月の安倍訪米を控えて、3月中に下院で決議案が可決されれば、これが最大の日米問題になるおそれもある。

メディアの責任も重い。私も当時、取材したひとりとして自戒もこめていうと、1990年ごろには終戦記念日ネタも枯渇して、本物の戦争犯罪はやりつくしたので、各社とも一部の在日の人々が主張していた「強制連行」をネタにしようとした。しかし「軍が強制連行した」という裏は取れなかったので、NHKは抑えたトーンにしたのだが、朝日新聞は吉田証言を「スクープ」して、激しくキャンペーンを展開した。それが捏造だったことが判明しても、最近は「強制連行があったかどうかは枝葉の問題だ」などと開き直っている。

自民党の「有志」にまかせないで、もう一度政府が調査を行い、公文書をさがすだけでなく、元慰安婦を国会の参考人に呼ぶなど、徹底的に事実関係を確認し、その結果を英文でも公開すべきだ。米下院が元慰安婦を証人として呼んでいるのに、日本の国会がやらないのは怠慢である。この問題の処理では、安倍首相だけでなく麻生外相も鼎の軽重を問われる。

追記:こういう情報のバイアスを少しでも是正しようと、慰安婦についての英語の情報源を提供するブログを立ち上げた。英語の記事やコメントを自由に投稿してください。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ab4e9f4e372098e706c47ba5c5d032a2


朝日新聞という亡霊

2007-03-13 / Media
専門とは関係のない慰安婦問題に首を突っ込むのは気が進まなかったが、膨大なコメント(しかも驚いたことにノイズがほとんどない)をいただいて感じたのは、「慰安婦問題」なんて最初からなくて、これは無から有を作り出した朝日新聞問題なのだということだ。これは私の専門(メディア)とも関係があるので、簡単に事実経過を書いておく。

前にも書いたように、私も朝日と同時に強制連行問題を取材していたから、朝日が吉田証言を派手に取り上げて1面トップでキャンペーンを張ったときは、「やられた」という感じだった(*)。しかしよく調べてみると、吉田の本は1983年に出ていて、当時はだれも相手にしなかった。しかも、それを追跡取材した韓国の済州新聞の記者が、そんな事実はなかったという記事を、すでに1989年に書いていた。しかし朝日が騒ぎ始めた1991年が「慰安婦元年」になったのである。

金学順が最初に慰安婦として名乗り出たとき、それは強制連行とは関係なく、戦後補償の問題だった。軍のために働いたのに、賃金(軍票)が紙くずになってしまったので、それを賠償しろという訴訟だったのだ。国家賠償訴訟でも「身売りされて慰安婦になった」と明記されている。ところが、この提訴を朝日が女子挺身隊として強制連行された慰安婦の問題として取り上げたのが脱線の始まりだった。女子挺身隊というのは工場などに動員された女性のことで、慰安婦とは関係ない。

もう一つの問題は、吉見義明氏の発見した通達だ。これを1992年の1月、宮沢訪韓の直前に朝日は1面トップで「政府の関与」の証拠として報じ、女子挺身隊にも戦後補償せよというキャンペーンを張った。おかげで宮沢首相は、韓国で8回も謝罪しなければならなかった。これが彼のトラウマになって、河野談話を生み出したのである。この通達はもちろん女子挺身隊とは関係なく、軍が民間業者を取り締まる文書にすぎない。

この虚報の原因も吉田清治にある。彼が「慰安婦は女子挺身隊だった」と証言したからだ。要するに、吉田のインチキな「告白」にもとづいて朝日が筋書きをつくり、それに乗って福島瑞穂氏などの社会主義者が慰安婦を政治的に利用し、韓国政府をけしかけて騒ぎを拡大し、それに狼狽した宮沢政権がわけもわからず謝罪したのだ。これは「あるある」をはるかに上回るスケールの、戦後最大級の歴史の捏造である。

しかも朝日のでっち上げを河野談話が追認したため、これが世界のメディアの「常識」になってしまい、NYTもワシントンポストも「慰安婦=強制連行=20万人」というのが「歴史家の定説だ」と書いている。韓国では、吉田証言や慰安婦=女子挺身隊という話が今でも教科書に載っている。朝日の捏造した歴史が、アジア諸国との関係を悪化させる原因になっているのだ。

私の友人には、朝日の記者もたくさんいるが、彼らは今の50代以上の幹部についてはあきらめている。「あの人たちの世代の生き甲斐は、反戦・平和の正義を世に広めることだったから」という。この意味で朝日は、社会主義をいまだに信じる冷戦の亡霊なのである。ただ、今のデスク級はもう世代交代しているので、現場はこの種のキャンペーンには冷淡だ。今回の慰安婦騒ぎでも、不気味なぐらい朝日は沈黙を守っている。そりゃそうだろう。口を開けば、吉田証言や女子挺身隊などの捏造問題を検証せざるをえないからだ。

だから慰安婦問題を徹底的に解明し、宮沢氏や河野氏を国会に呼んで経緯を明らかにするとともに、騒ぎを作り出した朝日新聞の責任も追及すべきだ。それが過去の戦争や冷戦の亡霊と決別し、日本がアジアとの成熟した友好関係を築く第一歩である。海外に事実を伝えたい人は、英文ブログに投稿してください。

(*)実は、NHKも朝日の記事の後追いで、吉田の話をドキュメンタリーにしようとしたが、裏が取れなかったのでやめた。テレビは新聞と違って、ないものは描けないからだ。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1677143840b260e4b0de03304293c882
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by thinkpod | 2007-03-15 01:57 | メディア