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2007年 02月 22日

【正論】評論家・西尾幹二 日本は米中に厄介で面倒な国になれ

評論家・西尾幹二氏
 ■拉致解決は日本の核議論の高まりで

 ≪国際社会は新しい情勢に≫

 米国はイラクに対し人的、物的、軍事的に強大なエネルギーを注いだのに、北朝鮮に対しては最初から及び腰で、一貫性がなかった。その結果がついに出た。このたびの6カ国協議で米国は朝鮮半島の全域の「民主化」を放棄する意向を事実上鮮明にした。

 中国は台湾に加え朝鮮半島の全域が「民主化」されるなら、自国の体制がもたないことへの恐怖を抱いている。米国は中国の体制護持の動機に同調し、米中握手の時代を本格化させ、日本の安全を日本自身に委ねた。この趨勢(すうせい)にいち早く気づいた台湾には緊張が走り、李登輝氏と馬英九氏が新しい動きをみせたのに、いぜんとして事態の新しさに気がつかないのは日本の政界である。拉致問題でこれ以上つっぱねると日本は孤立するとか、否、拉致についての国際理解はある、などと言い合っているレベルである。

 国際社会はイラクの大量破壊兵器開発の証拠がみつからないのに米国がイラクを攻撃したと非難した。一方、北朝鮮は大量破壊兵器を開発し、やったぞと手を叩いて誇大に宣伝さえした。それなのに米国は攻撃しない。それどころか、エネルギー支援をするという。国際社会はこのダブルスタンダードを非難しない。

 イラクのフセイン元大統領は処刑され、彼と同程度の国際テロ行為を繰り返した北朝鮮の金正日総書記は、処刑されるどころか、テロ国家の汚名をそそいでもらい、金品を贈与されるという。米大統領はその政策を「良い最初の一歩」と自画自賛した。目茶苦茶なもの言いである。ここまでくるともう大義も道義もなにもない。

 ≪危うい依頼心を捨てよう≫

 私は米国を政治的に非難しているのではなく、もともと目茶苦茶が横行するのが国際政治である。米国に道理を期待し、米国の力に一定の理性があると今まで信じていた日本人の依頼心を早く捨てなさい、さもないと日本は本当に危ういことになりますよ、と訴えているのである。

 北朝鮮の核実験の直後に中川昭一自民党政調会長が日本の核武装について論議する必要はある、と説いた。しかし、例によって消極的な反論をマスコミが並べて、国民はあえて座して死を待つ「ことなかれ主義」に流れた。核武装の議論ひとつできない日本人のよどんだ怠惰の空気は米国にも、中国にもしっかり伝わっている。

 もしあのとき日本の国内に政府が抑えるのに苦労するほどの嵐のような核武装論が世論の火を燃え立たせていたなら、今回の6カ国協議は様相を変えていたであろう。

 もともと6カ国協議の対象国は北朝鮮ではない。米国を含む5カ国が狙っているのは日本の永久非核化であり、国家としての日本の無力化の維持である。日本は6カ国協議という罠にはまっているのである。加えて、イラクで行き詰まった米国は中国に依存し、台湾だけでなく日本を取引の材料にしている可能性がある。日本の軍事力を永久に米国の管理下に置き、経済力は米中両国の利用対象にしよう。その代わり中国は「石油」と「イスラエル」と「ユーロに対するドル防衛」という中東情勢に協力せよ、と。

 ≪もし核武装論議容認なら≫

 世界政治の大きなうねりの中で日本は完全にコケにされている。日本の安全保障は今や米国の眼中にない。自分を主張する日本人の激しい意志だけが米中両国に厄介であり、うっとうしい困難である。日本に面倒なことを言ってもらいたくないから抑えにかかる。好き勝手に操れる人形に日本をしたい。

 中川氏の核武装論議発言に対し、ライス国務長官が「日本は米国の核で守られている。心配しないように」と応答し、ブッシュ大統領は「中国が心配している」とどっちの味方か分からない言い方をした。安倍首相はそれに迎合してアジア太平洋経済協力会議(APEC)の会見場で中川発言を抑止した。しかしもしあのとき、首相が「日本政府は核武装する意志を当面もたないが、与党内の自由な論議を抑えるつもりはない」くらいのことを言っていたならば、局面はかなり変わったろう。

 6カ国協議で拉致だけ叫んでいても、バカにされるだけで拉致だって解決しない。米中両国がいやがる日本の自己主張だけが日本を救う。防衛のための武力の主張は今の憲法にも違反はしない。核武装論が日本の国内の王道になれば、米中は態度を変え、北朝鮮を本気で抑えるだろう。さもなければ核国家の北に日本は巨額な資金援助をする耐え難い条件をのまされることになろう。(にしお かんじ)

(2007/02/22 05:25)
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070222/srn070222000.htm
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by thinkpod | 2007-02-22 16:46
2007年 02月 20日

南京虐殺はホロコーストではない

米歴史学者の『ザ・レイプ・オブ・南京』批判
アイリス・チャンが依拠するバーガミニは定評ある歴史家によって退けられているのだ
(『アトランティック・マンスリー』98年4月号より転載 塩谷紘訳)

デビッド・M・ケネディ
スタンフォード大学歴史学部長


 「残虐行為は、傷付いた獣を追うジャッカルさながらに、常に戦争につきまとうものである」

 マサチューセッツ工科大学(MIT)の歴史学者、ジョン・W・ダワー教授は、太平洋における第2次世界大戦史を論じた自著、『War without Mercy』(1986年、邦訳『人種偏見』TBSブリタニカ)でこう述べている。
 非人間的行為は、第2次世界大戦を戦ったあらゆる軍隊の背後に、死骸に飢えた悪霊のように忍び足でついて回った。
 状況は連合国側も枢軸国側も同じだった。
 独ソ戦にみられた残虐行為は全世界の知るところであり、ヒトラーによるユダヤ人の組織的な抹殺作戦はなかでも最も極悪非道の行為だった。
 ホロコーストは、人類が悪魔的所業を犯す能力の象徴として、われわれが生きるこの時代の恐怖に満ちたシンボルとして定着している。
 ホロコーストの記憶は今なお世界の人々の想像力の中で生きのび、人類の未来を予言する哲学者たちの確信を揺るがせ、教会を司る人々の言行の正当性を問い、芸術や文学に暗い影を落とし、この問題について熟慮するあらゆる人々の心胆を寒からしめている。
 そして、半世紀以上を経た今日、ホロコーストの記憶はまた、諸政府の政策に影響を及ぼし、国家間の関係を決定付けたりさえしているのである。
 事実、ホロコーストをめぐる現代の論議は、残虐の政治学を理解したいと願う人類の近代的衝動の発露であると同時に、人間を残虐行為に導く本能を分析し、そして可能なことならその本能そのものを制御することを目論んだ一時代前の文化的プロジェクトに、規模と熱烈さの点で匹敵する作業なのである。
 現代においては、苦難の政治学をコントロールしようとする努力は、悪の心理学を理解しようとする努力に取って代わりさえしつつあるのかもしれないのだ。
 アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のサブ・タイトルは『The forgotten Holocaust of World War II(第2次世界大戦の忘れられたホロコースト)』とある。
 これは、世界がアジアにおける戦争をヨーロッパにおける戦争と同一視し、日本軍のサディズムの犠牲者となった中国人にホロコーストの犠牲者と同等の資格を与えよと主張する著者の意図を示すものである。
 確かに、日本軍による1937年12月の南京陥落後に同市で起きた惨事に記録は、冒頭に引用したダワー教授の言葉の正しさを証明するものだ。
 しかし、南京における出来事が果たしてホロコーストと比較するに相応しいかどうかは、別の問題だろう。
 また、日本人によって完全に忘れられてしまったかどうかは、疑わしい。
 日本の中国侵略は、1931年の満州占領から始まった。
 この事件は、上海在住の日本人に対する中国側の報復を招いた。
 これに対し、日本側は上海出兵で応じたのだった。
 日中両軍の激烈かつ戦闘地域が限定された戦いが、1932年の大半を通して繰り広げられた。
 戦火はその後下火になり、数年間の小康状態が続いた。
 その間、日本は満州支配体制の強化を進め、一方中国は、次第に激化しつつあった蒋介石の国府軍と毛沢東の共産軍との内戦に大きく揺れ動いていた。
 西側社会は、大恐慌と増大しつつあるヒトラーの脅威に気を奪われ、アジアで湧き上る危機に対してほとんど打つ手はなく、ただ傍観するのみだった。
 1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった中国軍と日本軍との小規模な衝突が、日中間の本格的戦争に拡大した。
 日本側は中国と公然と戦うことは、救いようのないほど無力と見なしていた中国政権を懲らしめる絶好の機会と考えていたようだ。
 イギリスのある外交官が見た当時の日本の中国観は、次の様なものだった。

上海、そして南京へ

 「中国は文明国ではなく、定形を欠く民族集団に過ぎない。
 その政府は秩序の維持が不可能なほど無力である。
 共産主義の嵐が荒れ狂い、国家は競い合う軍閥の率いる軍隊や共産軍、そして盗賊の群れによる略奪の餌食となっている」
 一方、国府軍の将軍たちや中国共産主義者たちの圧力下にあった蒋介石は、日本の侵略者たちと対決して決着をつける機会を待ち兼ねていた。
 しかし蒋総統は、北京周辺で日本軍の主力と戦うよりも1932年のシナリオを再現させることによって戦闘の舞台を中国南部に移すことをもくろんだのである。
 蒋は、上海の約3万人の在留邦人に脅威を与えることによって、北支の日本軍を、蒋介石の主たる政治基盤であり最も安全と考えられていた揚子江下流の地域におびき出せると読んだのである。
 この囮(おとり)作戦は成功した。
 日本軍部は目を南に向け、8月23日、当時の日本軍司令官、松井石根大将は上海攻撃を開始した。
 松井大将は中国側の激烈ながら散発的な抵抗(当時蒋の将軍たちは、臆病だという理由で数百名の国府軍兵士を処刑している)に遭いつつ、ジグザグのコースをとりながら上海に向かって前進した。
 兵士の3割死傷者を出した後の11月上旬、ついに上海を占領した。
 蒋にとってこれは深刻な軍事的敗北であったと同時に、その後直ぐに起こることになった、それ以上に規模の大きい惨劇の序曲だったのである。
 日本軍は猛烈な絨毯爆撃の後、揚子江流域に向かい、国府軍の首都南京へと進撃を続けたのだった。

南京を捨てた国府軍

 血の揚子江・・・・・・。
 それより1世紀弱前のことになるが、14年の長きに及んで続き、合計2千万人の犠牲者を出した太平天国の乱(1850−64年)でも壮烈な戦闘のいくつかが、揚子江のこの豊かな流域で繰り広げられた。
 日本の侵略が始まる前の10年間に、蒋の軍隊は揚子江下流地域で共産主義者や労働組合員たちを情け容赦なく皆殺しにした。
 彼らは同時に、イギリス、アメリカ、日本などの領事館を襲撃して略奪を行い、数名の外国人を殺害している。
 松井大将麾下の兵士たちは、煮えたぎるような憎悪と頻発する暴力に満ちた“歴史のボイラー”の中で前進を続けたのだった。
 主戦場である南京城の城門に近づくにつれて、大混乱の中で敗走を始めた蒋の兵士たちはパニック状態に陥り、散り散りになって行った。
 日本軍が接近すると国民政府の役人たちは南京を捨てて逃亡した。
 蒋介石自身も、12月8日、自ら制定した首都から退散している。
 後に残されたのは、可能な限りの後衛を託された唐生智将軍指揮下の、体裁ばかりの部隊だった。
 唐将軍は抵抗する気配すら見せなかった。
 12月12日の夕刻、日本軍の進軍のペースを落とす策として南京市の城壁の外にある家屋に放火することを命令した後、唐は大型ボートに乗って逃亡し、揚子江上流に向かった。
 南京防衛隊の残兵と、揚子江下流地域から南京市に退却してきた兵士たちは、指揮官たちに見捨てられ、市を包囲する火の海に行く手を封じられることを恐れて、可能な限りの安全を求めて暴走した。
 何千もの兵士たちは揚子江の凍て付くような流れの中に身を投じたが、遠い対岸に安全を求めたこの行動が自殺行為だったことは、たちまち証明されたのだった。
 さらに多くの兵士たちは変装して、包囲された市内に潜入することを目論んだ。
 彼等は接近しつつある侵略者の追及をかわすために狂気の争奪を繰り広げた。
 軍服をかなぐり捨て、民間人用の衣服を求めて商店の略奪や市民の襲撃を行い、戦友を踏みにじり、手斧で襲い、機関銃で撃ったのである。
 12月13日、信じ難いほどの混乱現場に、日本軍の先発部隊が侵入してきたのだった。
 当時の南京の中国人居住民たちは、10年にも及ぶ民生の混乱、国府軍による略奪、反政府的暴動、そして本来なら自分達を守ってくれるべき中国人兵士たちによる際限なき暴威に痛め付けられていた。
 だから市民の多くは、流血と火炎の地獄と化した混乱の都市南京に少なくとも一応の秩序をもたらしてくれるかもしれない規律ある軍隊として、日本軍を歓迎したのだった。
 だが、日本軍は南京市民のそのような期待を断然かつ冷酷にふみにじったのである。
 日本軍は南京市内でただちに、国府軍指導部に見捨てられ地下に潜入した中国人兵士の徹底的な捜索を開始した。
 この措置は、国際的に承認された戦争のルール下で認められるものだったが、松井大将の軍隊はそれを目を覆わんばかりのどう猛性をもって実行したのである。
 兵役の年齢に達したすべての青年を一斉検挙して、大規模な機関銃掃射や、連続的な首切りによる処刑を行ったりした。
 こうした処刑は、ときには恐怖に怯えた傍観者の眼前で行われた。
 さらに悪質な行為が続いた。
 市内を徘徊する日本兵の群れは、民間人を手当たり次第に殺害し始めた。
 老若男女のみならず、妊婦の胎内にいる胎児までもが、棍棒、銃剣、小銃、松明(トーチ)、そして日本刀などで無差別に襲撃されたのである。
 松井大将配下の兵士たちは、銃剣訓練のために生身の中国人や、その死体を使っている。
 彼等は数え切れないほどの中国人を拷問にかけ、手足を切断するなどして、不具にしているのだ。
 著者チャンの記述によると、日本兵は中国人の舌に鉤(かぎ)をかけて宙吊りにしたり、酸に漬けたり、手足を切り離したり、手榴弾で殺害したり、刺し殺したり、焼き殺したり、革を剥いだり、凍死させたり、生き埋めにしたりした。
 また、日本兵は無数の婦女子を強姦することによって、南京虐殺のこの不名誉なエピソードに「ザ・レイプ・オブ・南京」という、この事件が以後永遠に知られるようになった名前を授(さず)け、それがチャンの著書にタイトルとしても使われたのである。

俗説に加えてセンセーショナル

 血なまぐさく、ぞっとするような話を好む読者は、この本に決して失望すまい。
 著者はあからさまな残虐行為の多くを堪(た)え難いほどの詳細さで描写しており、グロテスクな光景を言葉だけでは表現出来ない一連の写真を掲載することで、記述を補足している。
 南京大虐殺は、いかなる尺度で考えても破局的な恐怖の事件だが、著者はその恐怖の度合いを計る自分なりの尺度を読者に提供している。
 例えば、中国人の死体を積み上げたらどれ程の高さに達しただろうかを詮索し、日本軍の狼藉によって流された中国人の血の総重量まで紹介しているのだ。
 しかし、俗説を信じ込む傾向と相まって、センセーショナルな表現に走る傾向が、残虐行為に関する記述を特徴付けてはいるものの、著者が引用する証拠の数々が、日本軍の振る舞いに対する決定的な告発であることに疑いの余地は無い。
 南京大虐殺、戦争と戦争犯罪の悲しむべき記録の中で、極端に悪質な怪異的事件として突出している。
 当時の日本の外相、広田弘毅ですら、1938年の南京視察旅行のあとでこう述べている。
 「日本軍は、フン族の王アッチラ大王とその部下を思わせるように(残虐に)振舞った。少なくとも30万人の中国人市民が殺害されたが、多くは冷酷な死を遂げた」(末尾注・参照)
 当時、南京市には、皮肉にも「安全地帯」と名付けられた一角があった。
 これは、同市在住の20数名の外国人によって慌しく結成された「国際委員会」のいささかな頼りない保護の下で運営されており、何万人もの難民が避難しいていた。
 しかし、残虐行為はこのゾーンでさえ繰り広げられたのである。
 委員会はこの暴虐の饗宴について日本当局に繰り返し抗議し、委員達が表現をいくぶん和らげて“無秩序の事例”と呼んだ暴虐を正式に文書にまとめる作業を開始した。
 1939年、同委員会は南京虐殺の425件の事例をまとめた、厳粛かつ法的手続きに基づく記録を発表した。
 委員会によるこの証言に、チャンはさらにその他の事件を加えている。
 それらのうちのいくつかは、戦後行われた極東国際軍事裁判の記録、1937年に南京に取り残された数名のアメリカ人宣教師が帰国後エール大学神学校の図書館に保管した書類、さらにチャン自身が発掘した驚くべき文書・・・・つまり、南京の「安全地帯」を管理した国際委員会の委員長、ジョン・H・D・ラーベが残した日記・・・などから引用されている。
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by thinkpod | 2007-02-20 23:27
2007年 02月 20日

「南京虐殺」はホロコーストではない(下)

チャン本の根拠はあのバーガミニ

 ラーベはあらゆる点で特筆に値する人物だったが、思いがけず英雄の役割を演ずることになった。
 南京が修羅場と化している真っ只中で、日本人将校がラーベに尋ねた。
 「君はなぜここに留まったのか。ここで起こっていることは、お前にとってどのような意味があるのだ。」
 これに対してラーベは、「私の子供たちも孫たちも、全員ここで生まれた。私はここに住んでいて楽しいし、成功もしている」と答え、次のようにくけ加えている。
 「私は中国の人々にいつも大切にしてもらってきた」と。
 ラーベはドイツ人のビジネスマンで、1882年にハンブルグで生まれている。
 中国には1908年から住み、主としてシーメンス社に勤務していた。
 中国語を学び、中国を愛するようになり、中国人の社員を非常に丁寧に扱った。
 また、ラーベはナチ党員でもあった。
 自分の監督下で働いていた数名の外国人と共に、ラーベは数え切れないほどの中国人を日本軍の絶対的な権力から守ったが、時には自分の権威を誇示するためにハーケンクロイツを描いた腕章を日本兵の方に押しやったり、ナチの勲章をちらつかせたりした。
 著者がラーべを“中国のオスカー・シンドラー”と呼ぶのも、理由が無いわけではないのである。
 普通では有り得ないようなこの話は、確かに人間性の持つ善悪両面と、計り知れない神秘について読者に考えさせるものではある。
 しかし、南京大虐殺がなぜ起こったかについて説明するチャンの努力には、事件の裏に潜む、ラーベの場合と同じように複雑な背景を理解しようとする意識は感じられない。
 日本軍の規律がどのような形で乱れ、あのように信じ難いほど堕落することになったか。
 日本軍の行動は、中国人を恐怖に陥れるために高度のレベルで下された意図的な政策決定の結果だったのか。
 日本帝国陸軍が犯した残虐行為は、日本人の民族的性格に見られる何らかの道徳的欠陥に起因するのか。
 それとも、中国人に対する民族的憎悪を掻き立てた、陸軍の計画的な教化のせいか。
 あるいは、正気を失った現地司令官たちの屈折した心情の産物なのか。
 教育不十分で酷使され続けた兵士たちの、上官たちに対する大規模な不服従の結果か。
 または、揚子江のそれまでの長い歴史と環境・・・・、特に上海から揚子江流域上流に向けて展開され、1937年12月13日の南京の悪夢で頂点に達した日本軍の血塗られた作戦・・・・これらが、人間の心に宿る悪魔を偶然解き放ったということなのだろうか。
 チャンはこれらの解釈のいくつかについて考察するものの、いずれも厳密に探究していない。
 南京虐殺は日本政府の最高首脳部が下した正式な政治的決断だと主張したがっているのは明らかだが、この議論の事実唯一の支持者が、彼女が文中で頻繁に引用しているデビッド・バーガミニである。
 バーガミニは、明らかに奇抜な論点に基づいて書かれた自著、『天皇の陰謀』(1971年)で、南京虐殺とその他の残虐行為を正面から天皇ヒロヒトの責任であると決め付けようとした。
 しかしチャンは「不幸にして、バーガミニの著作は定評ある歴史家たちの痛烈な批判を浴びている」点を認めざるを得なかった。
 だが、これは控えめな表現というものだ。
 現に評者の1人は、バーガミニの記述は、「歴史ドキュメンタリー作成のあらゆる基準を無視した場合にのみ信用できる」と述べているのである。
 歴史家のバーバラ・タックマン女史は、バーガミニの主張は、「ほぼ完全に、著者の推論と悪意ある解釈を好む性向の産物である」と述べている。
 だが、それでもチャンは、少なくとも「ヒロヒトは南京虐殺について知っていたに違いない」との結論を下すことを自制できなかった。
 天皇が南京事件を起こしたと言っているわけでは無い。
 だが、それでもこの主張には、長期にわたって信憑性を否定されてきたバーガミニの主張に対するチャンの心酔の度合いの、わずかではあるが決して疑う余地のない残滓(ざんし)が見られるのだ。
 別の箇所でチャンは、「本書は日本人の性格について論評するために書かれたものではない」と宣言しているが、その直後、千年の歳月を経て培われた「日本のアイデンティティ」の探索を始めているのである。
 彼女の判断では、それは軍人たちの巧妙争い、サムライの倫理、そして、武士道というサムライの行動を律する恐ろしい規範からなる、血なまぐさい所業であり、先の否定宣言にもかかわらず、彼女は明らかに「南京への道」は日本文化のまさに核心を貫いているに違いないと推論しているのである。
 結論を言えば、この著作は南京虐殺がなぜ起こったかについての解説よりは、虐殺事件の描写の点ではるかに優れた作品である。
 こうした欠陥の一部は、チャンが依存した情報に起因する。
 いくつかの例外を除けば、チャンは南京の中国人犠牲者と「安全地帯」に残った白人たちの観点からのみ事件を語っているのだ。
 彼女が引用する証拠は、加害者達の精神性に関するいかなる洞察の根拠も、ほとんど提供していない。
 また、日本陸軍の研究に取り組む2人の研究者が「帝国陸軍が中国人に加えた残虐な行為の海に残した最高水位点の1つに過ぎない」と表現した、南京を中心としに繰り広げられた残虐行為に焦点を絞ったことは、日本軍の振る舞いに関して包括的な解明を施そうとする彼女の努力に水をさすことになっている。
 彼女は、クリストファー・ブラウニングの『Ordinary Men(普通の男たち)(1922年)』や、オマー・バートフの『The Eastern Front, 1941-1945(東部戦線、1941-1945年)』(1985年)のような作品に読者が見る、ナチの残虐性の動機に関するニュアンスに富んだ慎重な分析に匹敵する考察はほとんど行っていない。
 また、結果的にドイツ民族全体にホロコーストの犯罪があるとした、ダニエル・ゴールドハーゲン著の平板ながら挑発的な『Hitler's Willing Executionaers(ヒトラーの意欲的な死刑執行人たち)』(1996年)のように広い視点でドイツ人をとらえた議論に匹敵する考察さえも行っていないのだ。
 そのようなわけで、南京虐殺のショッキングな描写にもかかわらず、南京で起こった事件はホロコーストに見られる組織的な殺戮と同一視されるべきであると結論を下す理由を、チャンは読者に与えていないのである。
 ホロコーストがヒトラーの意図的政策忌まわしい所産として発生したエピソードであることには議論の余地がない。
 それは、戦争につきもののありきたりの事件でも、個人による残虐行為の異常形態でもなかったし、規律の不徹底な軍隊が血に飢えて荒れ狂った結果として起こった事件でもなかったのだ。
 ホロコーストでは、近代的官僚国家のあらゆる機構と最先端を行く殺しのテクノロジーが、冷酷な大量殺戮に応用されたのである。

「誤っている」より「誇張」

 チャン本の主要なモチーフは、分析と理解というよりは、むしろ非難と憤激である。
 そして、憤激は南京虐殺に対して道義的には確かに必要だが、知的には不十分な対応なのである。
 チャンの怒りはどのような目的に向けられているのだろうか。
 要するに、日本を「国際社会の世論という審査の場」に引き立てて、戦争犯罪を認めさせることなのだ。
 彼女は南京虐殺に関する西側社会の無知と主張する状態と、数名の日本の政治家が虐殺事件を否定した事実を、手厳しく非難する。
 日本は「今日に至るも変節的国家であり続ける」と彼女は書き、その理由を「(日本は)ドイツがあの悪夢の時代のおぞましい行為の責任を取るために認める事を余儀なくされた、文明社会による道徳的審判をうまく回避しているからである」、と述べている。
 南京虐殺に関する西側の無関心と日本による否認は、「(南京の)2度目のレイプ」であり、死者の尊厳を汚し、歴史の主張を冒涜する行為だと彼女は言う。
 『シンドラーのリスト』に匹敵するものが南京にないのはなぜか、と彼女は問う。
 『「No」と言える日本』の著者の石原慎太郎のような日本の国粋主義者が、なぜ南京虐殺を「中国人がでっち上げた・・・嘘」と言ってのけられるのか、と言うチャンは、次のような結論を下している。
 「日本政府は、少なくとも犠牲者に対して正式な謝罪を表明し、日本軍の狂奔の最中に生活を破壊された人々に補償金を支払い、そして最も重要なこととして、次の世代の日本人に虐殺に関する真実を教えることが必要である」、と。
 彼女の要求は誤っているというよりは、むしろ誇張されているのである。
 同様に、現代日本に対する彼女の諸要求は、正当ではないというよりは、むしろ少なくとも部分的にはすでに満たされているという点で“言い過ぎ”なのである。
 事実、西側社会は当時もその後も、南京虐殺事件を無視していない。
 1937年12月、アメリカの関心は揚子江下流地域に集中していたが、これは単に南京攻撃中の日本軍航空機がアメリカの砲艦「パネー」号を撃沈したことだけが理由ではなかった。
 避難民を満載した450トンで2階建てのこの砲艦は当時、南京のすぐ近くに停泊中であり、艦首と艦尾のデッキ、そしてすべてのマストに取り付けた大型の米国旗から、アメリカ艦籍であることは一目瞭然だった。
 アメリカの大衆は当時は知らなかったことだが、実は「パネー」号は、衰退の一途にあった南京市の守備隊と南京脱出を果たした蒋介石との間の電波通信の中継地点という、あまり潔白とは言えない役割を果たしていたのである。
 撃沈をめぐるアメリカ国内の騒ぎは、国際的に大いに宣伝された日本の外務大臣による一連の謝罪、事件を起こした飛行士達の上官の更迭、攻撃で命を失った犠牲者に対する礼砲発射を伴う日本海軍の謝罪、日本政府による合計220万ドルの賠償金の支払いなどが行われた後、漸(ようや)く下火になった。
 これらの行為はすべて、熟慮の結果なされたものであり、日本側の公式な自責の念と、中国各地の日本軍司令官ならびに個々の兵士たちを統率する能力に関して日本政府関係者が抱いていた深刻な懸念の証だった。
 同じ頃、アメリカの新聞は南京虐殺について、身の毛もよだつような報道を広範に行っている。
 ニューヨーク・タイムズの中国特派員、F・ティルマン・ダーディンは、1937年12月17日、同紙一面に大見出し付きで掲載された記事の中で、「大規模な略奪、婦女暴行、民間人の殺害、住居からの住民の追い立て、そして健康な男性たちの強制的徴用は、南京を恐怖の都市に変貌させた」と報じている。
 その後、南京虐殺は戦時反日プロパガンダの中核となり、特にフランク・キャプラ監督が製作し、全米の軍事教練基地にいる百万人ものアメリカ兵や一般映画館に詰め掛ける何百万人ものアメリカ市民のために上映された『我々はなぜ戦うか』シリーズの1つ、『バトル・オブ・チャイナ(中国における戦闘)』はその顕著な一例である。
 また、日本政府は戦時中の犯罪を認めることを頑強に拒否しているとのチャン氏の主張は、丸ごと正しいとは言えないし、日本は戦争犯罪に対して遺憾の意を表していないという指摘も誤りである。
 こうした非難は近年における西側の対日批判の常套句(じょうとうく)になっているが、それが恐らく最も如実に示されているのが、ドイツと日本における戦争の記憶に関する研究書として1994年に発表された、作家イアン・プルーマの『Wages of Guilt』(1994年、邦訳『戦争の記憶』TBSブリタニカ)だろう。
 同著の総合的な主張は、「(戦争犯罪を)記憶に止める度合いは、ドイツは過度であり、日本は過少である」という点に要約できよう。
 1980年代の前半、日本の文部省は中学校の教科書が南京虐殺や戦時中のその他の不祥事を取り上げることを阻止しようとしたし、1988年には日本の映画配給会社がベルナルド・ベルトリッチ監督の『ラスト・エンペラー』の中の、南京虐殺を描いた30秒間にわたるシーンを削除しようと試みたが、これは現実には不首尾に終わっている。
 また、戦犯を含む戦没者を祀る東京の靖国神社への参拝は、右翼政治家たちにとっては今もって義務であるのは確かだ。
 しかし、日本の左翼は事件について声高に語る事によって、南京虐殺の記憶を長いこと絶やさずにきているのである。
 そして、ジョン・ダワー教授が最近指摘した通り、1995年6月9日、衆議院は第2次世界大戦中に日本が他民族に及ぼした苦痛に対して“深い反省”の意を表明し、2人の総理大臣が他国に対する帝国日本の侵略についてはっきりと謝罪していることもまた、事実なのである。
 ダワー教授はさらに、「戦争責任・・・に関して民衆のレベルで日本人が話すことの内容は・・・国外で一般的に理解されている以上に多岐にわたるもの」であり、「日本以外のマスコミは、保守的な文部省が承認する現在の教科書は、1980年代末までの状態と比較すれば、日本の侵略や残虐行為についてより率直に記述している点を報道することを総じて怠っている」と指摘している。
 残虐行為が戦争を追いかけるように、歴史もまた、戦争を追いかける・・・・チャン本はこの教訓を執拗に立証するものである。
 しかし、日本ほどに無言を美徳とする文化の中にあっても、悪事はいつか必ず露見するのだ。
 だが、南京虐殺事件の背景について万人が納得するような説明はいまだなされていないのであり、チャン本も極めて不完全な説明しか施していないのである。

(編集部注 著者が引用しているこの文書は、1938年1月17日付で外務省からワシントンの日本大使館に広田外相の名前で発信された暗号電報を解読したものとして、1994年にアメリカ公文書館によって解禁され、以来中国側は同文書を「広田電」として宣伝している。
 しかし、広田外相は当時国内におり、南京視察は行っていない。
 実はこの文書は、イギリスの「マンチェスター・ガーディアン」紙中国特派員、H・J・ティンパーリーが書いた記事を現地の日本当局が検閲・押収したものであり、「アッチラ大王」や「フン族」などへの言及からしても日本人らしからぬ発想であり、「広田電」では無いとみられている。)

『諸君!』平成10(1998)年8月号より転載
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shokun9808.html
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by thinkpod | 2007-02-20 23:26
2007年 02月 17日

「従軍慰安婦」問題(上)

 〜日韓友好に打ち込まれた楔〜

■1.米軍がレポートする慰安婦の実態■

 米軍情報部は、北ビルマのミチナ慰安所で収容された慰安婦か
らの聞き取りをもとに、以下のような報告書を残している。

 女性たちはブローカー(および経営主)が、300〜1000円の
前借金を親に払って、その債務を慰安所での収入で返還してい
る。経営者との収入配分比率は40〜60%、女性たちの稼ぎは月
に1000〜2000円、兵士の月給は15日〜25円。[1,p270]

 慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋に宿
泊して、・・・・寝起きし、業を営んだ・・・・彼女たちの暮らしぶり
は、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。

 慰安婦は接客を断る権利を認められていた・・・・負債の弁済を
終えた何人かの慰安婦は朝鮮に帰ることを許された[1,p275]

 また、ビルマのラングーンで慰安婦をしていた文玉珠さんの手
記では、その生活ぶりを次のように語っており、米軍のレポート
を裏付けている。

 支那マーケットにいって買物した。ワ二皮のハンドバッグと
靴をわたしのために買った。母のためにもなにか買った。

 将校さんたちに連れられてジープに乗って、ぺグーの涅槃像
をみに行った・・・・ヤマダイチロウ(日本兵の恋人)と大邱の母
の無事を祈って帰ってきた。[1,p276]

 ちなみに文玉珠さんは、平成4年に日本の郵便局を訪れ、2万
6145円の貯金返還の訴訟を起こして敗れている。千円もあれば故
郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べているが、現在
の貨幣価値なら、4〜5千万円程度の金額を、3年足らずで貯め
たことになる。[2,p301]

 「従軍慰安婦」というと、海外では"military sexual slavery
(軍用性奴隷)"などと呼ばれるように、日本軍によって郷里から
強制連行され、戦地では何の自由もなく、もちろん無給で、ひた
すら兵士にもてあそばれた、というイメージが定着している。し
かし、この米軍の報告書では、まったく違う実態が報告されてい
る。一体、どちらが真実に近いのか?

■2.慰安婦問題の経緯■

 まず慰安婦問題の経緯を時系列的に見渡しておこう。

1) 昭和58(1983)年、吉田清治が、著書「私の戦争犯罪・朝鮮
人連行強制記録」の中で、昭和18年に軍の命令で「挺身隊」と
して、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたとい
う「体験」を発表。朝日新聞は、これを平成3('91)年から翌
年にかけ、4回にわたり、報道。

2) 同3年8月11日、朝日新聞は、「女子挺身隊」の名で戦場
に連行され、売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一
人が名乗り出た、と報道。

3) 同4年1月11日、朝日新聞は、一面トップで「慰安所、軍
関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」
と報道。この直後の16日から訪韓した宮沢首相は首脳会談
で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束。

4) 同5年8月4日、河野官房長官談話、政府調査の結果、「甘
言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例
が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこともあっ
た」と発表。

 この河野談話によって日本政府は、慰安婦が軍によって強制徴
集されたことを公式に認めてしまったことになる。これを契機と
して、中学高校のほとんどの歴史教科書に、「従軍慰安婦」が記
述されることになっていった。

 今日では、各方面の調査が進み、以上の報道、発表がどれだけ
の事実に基づいていたのかが明らかになってきた。以下、この4
点を検証する。

■3.吉田清治の慰安婦狩り■

 まず1)、吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」
では、韓国斉州島での、慰安婦強制連行を次のように、描写して
いる。

 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がお
びえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわ
って行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・女工たちはい
っせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い
娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打
ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人
であった。

 当時は、戦地での強姦事件を防ぐために、公娼業者に戦地で開
業させていた。戦地であるから、業者の指名、戦地への移動、営
業状態の監督などは、軍の関与が当然あった。これらは当時、合
法であった公娼制度の戦地への延長で、特に問題はない。

 「従軍慰安婦」問題とは、本人の意思に反した「強制連行を、
軍が組織的に行ったか、どうか」の問題なのである。したがって、
吉田の言うような強制連行が事実であったら、これは日本の国家
的犯罪となる。

■4.日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物■

 吉田の記述は済州島の城山浦にある貝ボタン工場という設定だ
が、この記事に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査
し、以下のような記事を書いている。

 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対
して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オク
タン(八五歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、15
人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はな
かった」と語った。

 郷土史家の金奉玉は「1983年に日本語版が出てから、何年か
の間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は
日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨
している。

 現地調査を行った秦郁彦日大教授は、許栄善女史から、「何が
目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と聞かれ、答えに窮し
たという。[1,p232]

 この吉田清治を、朝日新聞は、宮沢首相の訪韓前後1年の間に、
4回も紙面に登場させたのだが、秦教授の調査の後は、ぷっつり
と起用をやめた。今日では、慰安婦問題の中心的糾弾者である吉
見義明中央大教授すら、吉田清治の著作は採用しなくなっている。

■5.名乗り出た慰安婦■

 次に2)の自ら名乗り出た慰安婦について。平成3年8月11
日付け朝日新聞は、社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝
鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、「日
中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍
人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人
が」名乗り出たと報じた。

 しかし、この女性、金学順さんは、「女子挺身隊」として連行
などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っている。
ある韓国紙はそれを次のように報じた。[2,p291]

 生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキ
ーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検
番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父
に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊
の前だった」「ハンギョレ新聞」'91年8月15日付

 当時、内地でもよくあった気の毒な「身売り」の話なのである。
国家による組織的な強制連行とは関係ない。

 そもそも「女子挺身隊」とは、昭和18年9月に閣議決定され
たもので、金学順さんが17歳であった昭和14年には存在して
いない制度である。さらに「女子挺身隊」とは、販売店員、改札
係、車掌、理髪師など、17職種の男子就業を禁止し、25歳未
満の女子を動員したものであり、慰安婦とは何の関係もない。

 さらに「従軍慰安婦」という言葉自体が、当時は存在しなかっ
た。従軍看護婦は、軍属(軍隊の一部)であり、従軍記者、従軍
僧は、法令により定められた身分で指定された部隊につく。慰安
婦は公娼業者が雇ったもので、それはたとえば、県庁の食堂に給
食業者を入れていた場合、その業者の被雇用者は、県の職員では
なく、身分も契約も県とは関係ないのと同じ事だ。「従軍慰安
婦」とは、従軍看護婦などとの連想で、あたかも部隊の一部であ
ると読者に思い込ませるための造語である。

 金学順さんは、その後、日本国を相手とした訴訟の原告の一人
となるが、それを支援しているのが太平洋戦争犠牲者遺族会であ
り、この記事を書いた朝日の槙村記者は、会の常任理事の娘と結
婚している。当然、韓国語も達者であり、金学順さんの話した内
容はよく知っていたはずである。

 金学順さんが「売られた」という事実を隠し、「女子挺身隊と
して連行された」というこの記事は槙村記者による、意図的な捏
造記事である。その後の訂正記事も出していない。

■6.強制連行された慰安婦はいたか?■

 韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対
策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可
能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検
証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を
出版した。

 今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは、
9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4
人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で
慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。
残る二人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をし
たという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行された
とは述べていない。

 結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰
安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、
というのが実態である。[2,p275]

■7.軍の関与とは■

 次に宮沢首相の訪韓直前に発表され、公式謝罪に追い込んだ
3)の「慰安所、軍関与示す資料」の朝日新聞記事はどうか。

 発見された文書とは昭和13年に陸軍省により、「軍慰安所従業
婦等募集に関する件」であり、その中では、

 民間業者が慰安婦を募集する際、①軍部諒解の名儀を悪用、
②従軍記者、慰問者らを介した不統制な募集、③誘拐に類する
方法を使って警察に取調べられるなどの問題が多発しているの
で、業者の選定をしっかりし、地方憲兵警察と連繋を密にせよ
[2,p267]

と命じている。すなわち「関与」とは、民間の悪徳業者による
「強制連行」を、軍が警察と協カしてやめさせようとした事なの
である。

 この内容を「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 
募集含め統制・監督」とタイトルをつけて、一面トップで報道し、
さらに次のような解説を載せた。

従軍慰安婦。1930年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多
発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を
設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八
割は朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主と
して朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万
とも二十万ともいわれる。

 これらをあわせ読めば、ほとんどの読者は、「日本軍が組織的
に強制連行に関与した」と思い込むであろう。まことに巧妙なひ
っかけ記事である。

 この記事が、狙い済ましたように、宮沢首相訪韓のわずか5日
前に発表されたことから、絶大な効果を発揮した。ソウル市内で
は抗議・糾弾のデモ、集会が相次ぎ、日の丸が焼かれる中で、宮
沢首相は事実を確認する余裕もなく、8回も盧泰愚大統領に謝罪
を繰り返した。(続く)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html
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by thinkpod | 2007-02-17 23:17 | 半島
2007年 02月 17日

「従軍慰安婦」問題(下)

   〜仕掛けられた情報戦争〜

■1.強制を示す文書はなかった■

 宮沢首相は、盧泰愚大統領に調査を約束し、その結果が、4)
(前号)、翌平成5年8月4日の河野官房長官談話となった。政
府調査の結果、「甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して
集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこ
ともあった」と発表され、慰安婦強制連行があったことは、政府
の公式見解となった。

 この発表のために、政府はおおがかりな文書調査と、元慰安婦
への聞き込みを行った。前号冒頭に紹介した米軍の報告書も、こ
の文書調査で発見されたものだ。それでは、いかなる事実によっ
て「官憲等が直接に荷担した」と結論づけたのか?

 この調査を実施した平林博・外政審議室室長は、平成9年1月
30日、参議院予算委員会で、片山虎之助議員(自民党)の質問
に対し、次のような答弁をしている。[3,p204]

 政府といたしましては、二度にわたりまして調査をいたしま
した。一部資料、一部証言ということでございますが、先生の
今御指摘の強制性の問題でございますが、政府が調査した限り
の文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すよ
うな記述は見出せませんでした。

 ただ、総合的に判断した結果、一定の強制性があるというこ
とで先ほど御指摘のような官房長官の談話の表現になったと、
そういうことでございます。

■2.総合的に判断した結果■

 資料はなかったが、「総合的に判断した結果」、強制性があっ
たという。この判断の過程について、当時、内閣官房副長官だっ
た石原信雄氏は、次のように明らかにしている。

 強制連行の証拠は見あたらなかった。元慰安婦を強制的に連
れてきたという人の証言を得ようと探したがそれもどうしても
なかった。結局談話発表の直前にソウルで行った元慰安婦十六
名の証言が決め手になった。彼女達の名誉のために、これを是
非とも認めて欲しいという韓国側の強い要請に応えて、納得で
きる証拠、証言はなかったが強制性を認めた。

 もしもこれが日本政府による国家賠償の前提としての話だっ
たら、通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいた証拠
を求める。これは両国関係に配慮して善意で認めたものである。
元慰安婦の証言だけで強制性を認めるという結論にもっていっ
たことへの議論のあることは知っているし批判は覚悟している。
決断したのだから弁解はしない(櫻井よしこ「密約外交の代
償」「文塾春秋」平成9年4月)[3,p58]

 元慰安婦からの聞き取り調査は、非公開、かつ裏付けもとられ
ていないと明かされいるが、そうした調査の結果、「韓国側の強
い要請」のもとで「納得できる証拠、証言はなかったが強制性を
認めた」ものなのである。

 聞き取りが終わったのが7月30日。そのわずか5日後の8月
4日、河野談話が発表された。同日、宮沢政権は総辞職をした。
まさに「飛ぶ鳥跡を濁して」の結論であった。

■3.日本の言論機関が、反日感情を焚きつけた■

 「強い要請」を行ったという韓国政府の態度について、石原氏
は国会議員との会合で次のように語っている。

 もう少し補足しますと、この問題の初期の段階では私は韓国
政府がこれをあおるということはなかったと。むしろこの問題
をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたんですけれど
も、日本側のいま申した人物がとにかくこの問題を掘り起こし
て大きくするという行動を現地へいってやりまして、そしてこ
れに呼応する形で国会で質問を行うと。連携プレーのようなこ
とがあって、韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけ
ないという、そういう状況があったことは事実です。[4,p314]

 この「いま申した人物」について、石原氏は「ある日本の弁護
士さん」として、名前は明かしていない。

 慰安婦問題は、日本の一部の人間が焚きつけた、という認識は、
韓国側の盧泰愚大統領の次の発言にも、見られる。

 日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反
日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました。(文芸春
秋、H5.3 )[1,p302]

■4.インドネシアに現れた日本人弁護士たち■

 日韓関係と同様、インドネシアとの間でも、慰安婦問題が焚き
つけられた。平成5年に高木健一氏(金学順さんらの日本政府に
対する訴訟の主任)ら、日本の弁護士3人がインドネシアにやっ
てきて、地元紙に「補償のために日本からやってきた。元慰安婦
は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出した。[5]

 兵補協会のラハルジョ会長は、「補償要求のやり方は、東京の
高木健一弁護士の指示を受け」、慰安婦登録を始めた。会長は取
材した中嶋慎三郎ASEANセンター代表に対して、「慰安婦に2百
万円払え」と怒号したというから、名乗りでれば、2百万円もら
えると宣伝している模様であった、と言う。

 インドネシアでの2百万円とは、日本なら2億円にも相当する
金額なので、大騒ぎとなり、2万2千人もが元慰安婦として名乗
りをあげた。ちなみに、当時ジャワにいた日本兵は2万余である。

 この様子を報道した中京テレビ製作のドキュメンタリー「IA
NFU(慰安婦)インドネシアの場合には」に、英字紙「インド
ネシア・タイムス」のジャマル・アリ会長は次のように語った。

 ばかばかしい。針小棒大である。一人の兵隊に一人の慰安婦
がいたというのか。どうしてインドネシアのよいところを映さ
ない。こんな番組、両国の友好に何の役にも立たない。我々に
は、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。
「お金をくれ」などとは、360年間、わが国を支配したオラ
ンダにだって要求しない。

■5.慰安婦番組での仕掛け■

 ちなみに、この番組では、元慰安婦のインタビュー場面が出て
くるが、ここでも悪質な仕掛けがあった。元慰安婦が語る場面で、
日本語の字幕で

 戦争が終わると日本人は誰もいなくなっていたんです。私た
ちは無一文で置き去りにされたんです。

 と出ているのだが、実際には、インドネシア語で、

 あの朝鮮人は誰だったろう。全員がいなくなってしまったん
です。私たちは無一文で置き去りにされたんです。

 と話していたのであった。慰安所の経営者は朝鮮人であり、戦
争が終わると、慰安婦たちを見捨てて、姿をくらましたのである。

■6.あなた方日本人の手で何とかしてください■

 この番組の予告が、日本共産党の機関紙「赤旗」に出ていたこ
とから、インドネシア政府は、慰安婦問題の動きが、共産党によ
り、両国の友好関係を破壊する目的で行われていると判断したよ
うだ。

 スエノ社会大臣が、すぐにマスコミ関係者を集め、次の見解を
明らかにした。

1) インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはな
い。
2) しかし日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお
金を払いたいというので、いただくが、元慰安婦個人には
渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。
3) 日本との補償問題は、1958年の協定により、完結している。

 インドネシア政府の毅然たる姿勢で、高木弁護士らのたくらみ
は頓挫した。この声明の後で、取材した中嶋氏は、数名のインド
ネシア閣僚から、次のように言われたという。

 今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我
々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部
ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関
係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。
あなた方日本人の手で何とかしてください。

■7.国内で急速に冷める関心■

 地道に調査を進める人々の努力により、奴隷狩りのような強制
連行の事実はないことが明らかになると、さすがに慰安婦問題を
糾弾する人々の間でも、強制性の定義を修正せざるを得なくなっ
てきた。たとえば、糾弾派の中心人物である吉見義明・中央大学
教授は、岩波新書の「従軍慰安婦」で、次のように述べている。

 その女性の前に労働者、専門職、自営業など自由な職業選択
の道が開かれているとすれば、慰安婦となる道を選ぶ女性がい
るはずはない・・・たとえ本人が、自由意思でその道を選んだ
ように見えるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何
らかの強制の結果なのだ。[6,p103]

 「強制性」をここまで広義に解釈すれば、現代の風俗関係の女
性たちも、貧困や失業など何らかの「強制の結果」であり、国家
が謝罪と補償をすべきだ、ということになってしまう。さすがに
このような暴論では、常識ある国民の理解を得られるはずもなく、
国内の慰安婦問題に関する関心は急速に冷めていった。

■8.国連での攻防■

 しかし国際社会では、事実の伝わりにくさを利用して、慰安婦
問題をスキャンダルに仕立てようとするアプローチが今も展開さ
れている。その最初は宮沢首相の訪韓直後の平成4年2月17日、
日本弁護士連合会の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会で、慰安
婦を人道上の罪と位置づけ、国連の介入を求める発言をした事で
ある。

 平成8年3月にジュネーブで開かれた国連の人権委員会に提出
されたクマラスワミ女史の報告書は、家庭内暴力を主テーマにし
ているのに、その付属文書に「戦時の軍用性奴隷制問題に関する
報告書」と題して、半世紀以上前の日本の慰安婦問題を取り上げ
ている。

 戸塚弁護士は、この時にもジュネーブで本岡昭次参議院議員
(社会党→民主党)とともに、デモやロビー活動を行っている。

 報告書は、やはり吉田清治の本や、慰安婦たちの証言を取り上
げている。その中で、北朝鮮在住の元慰安婦の証言として、

 仲間の一人が一日40人もサービスするのはきついと苦情を
言うと、ヤマモト中隊長は拷問したのち首を切り落とし、「肉
を茹でて、食べさせろ」と命じた。

 などという話が紹介されている。この元慰安婦は、1920年に生
まれ、13歳の時に一人の日本兵に拉致されたという拉致された
というのだが、1933年の朝鮮は平時であり、遊郭はあったが、軍
専用の慰安所はなかった。その程度の事実確認もされていない証
言が、4例紹介され、その上で日本政府に対し、被害者への補償、
犯罪者の追及と処罰を勧告している。

 日本のジュネーブ外務省はこの文書に関する40頁の反論を作
成し、根回し工作をしたもようだ。西側諸国代表の間では、クマ
ラスワミ報告書の欠陥が理解されたが、韓国、北朝鮮、中国、フ
ィリピンなどの関係国は立場上、強く反発した。

 このような攻防の結果、人権委員会では家庭内暴力に関する本
文は「賞賛する」という最高の評価を得た一方、慰安婦に関する
部分は、take note(留意する)という最低の評価であった。
[1,p259]

■9.情報戦争から、いかに国益と国際友好関係を守るか■

 平成10年8月、今度は、ゲイ・マクドゥーガル女史が、旧ユ
ーゴスラビアなど戦時下における対女性暴力問題を調査した報告
書を作成したが、その付属文書で、またも慰安婦問題を取り上げ、
「レイプ・センターの責任者、利用者の逮捕」と「元慰安婦への
法的賠償を履行する機関の設置」を日本政府に勧告した。

 慰安所は「レイプ・センター(強姦所)」と改称されている。
しかし、これは人権小委員会の勧告としては採択されず、日本政
府はマ女史の個人報告書に過ぎない、としている。

 本年8月には、米カリフォルニア州上下院が第二次大戦中に日
本軍が行ったとされる戦争犯罪について、「日本政府はより明確
に謝罪し、犠牲者に対する賠償を行うべきだ」とする決議を採択
した。この「戦争犯罪」には、捕虜の強制労働、「南京虐殺」と
ならんで、「従軍慰安婦の強要」が含まれている。[7]

 カリフォルニア州議会の決議には、アイリス・チャンの「レイ
プ・オブ・ナンキン」の影響が指摘されている。チャンの本につ
いては、本講座60号で紹介したように、中国政府の資金援助を
受けたシナ系米人の団体が支援している。

★ JOG(60) 南京事件の影に潜む中国の外交戦術

 南京事件と慰安婦問題は基本的に同じ構造をしている。チャン
の本は、日米関係に対する楔であり、慰安婦は日韓友好への楔と
して仕掛けられた。これらの問題について、米国や韓国の対応を
非難することは、友好関係を破壊しようとする狙いに乗ることに
なる。

 国家の安全を脅かすものは、テポドンや工作船のようなハード
の武力だけではない。一国の国際的地位を貶め、友好国との関係
に楔を打ち込むような情報戦争が、外国と国内勢力の結託により
次々と仕掛けられている。こうした攻撃から、いかにわが国の国
益と国際友好関係を守るか、ソフト面の自衛体制が不可欠となっ
ている。

■ 参考 ■
1. 「慰安婦の戦場の性」、秦郁彦、新潮選書、H11.6
2. 「闇に挑む!」、西岡力、徳間文庫、H10.9
3. 「慰安婦強制連行はなかった」、太子堂経慰、展転社、H11.2
4. 「歴史教科書への疑問」、日本の前途と歴史教育を考える
  若手議員の会編、展転社、H9.12.23
5. 「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」、中嶋慎三郎、
  祖国と青年、H8.12
6. 「従軍慰安婦」、吉見義明、岩波新書、H7.4
7. 産経新聞、H11.08.27 東京朝刊 4頁 国際2面

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog107.html
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by thinkpod | 2007-02-17 23:17 | 半島
2007年 02月 17日

日韓の近代・現代史問題

日本の歴史教育については、中国や韓国などから歴史教科書問題として大きな批判を受けています。日本の歴史教育が古代史から始まり、最も重要な近代・現代史の歴史教育を避けてきたことは皆さんも良くご存知のとおりです。第二次世界大戦の日本に対する中国や韓国からの批判も半世紀以上も続き、一方で日本では高校生が第二次世界大戦で日本がどの国と戦ったかも知らない現状も顕著になっています。中国や韓国の批判が今後も継続する中、第二次世界大戦の同盟国や対戦国の知識は、日本の若者にはすでに遠い過去の事になりつつあります。日本の歴史教育が、なぜ古代史から始まり近代史を避けているのかは、何かの意志が感じられます。なぜ、現在に最も関係ある近代・現代史から教えないのか、文部科学省の意図が理解できません。何か都合が悪いことでもあるのでしょうか?
あらためて、日本の教科書では教えない日本と韓国の近代・現代史を特集しました。


1910年に日本は「日韓併合条約」で1945年まで朝鮮半島を日本に併合しました。朝鮮併合によって、朝鮮半島から日本への渡航が自由になり、朝鮮人の日本居住も許されました。内務省の調査によれば、正式な日本国内の朝鮮人居住者は、1917年で14,502人、1920年で30,189人が記録にあります。1920年には日本国内の朝鮮人居住者の増加と日本人との衝突が激化し、「朝鮮人内地渡航制限」を日本政府は実施します。1925年に朝鮮人居住者は129,870人で、1930年に日本国内の朝鮮人居住者は298,091人まで増加しました。これら朝鮮からの移住者は、その後に言われる「強制連行」とはまったく関係がありません。


そして、日本の教科書には載っていない「桜田門事件」が1932年に起きました。昭和天皇に朝鮮人の李奉昌が桜田門で爆弾を投げつける事件が起き、当時の首相犬養毅は責任を取って辞表を提出しましたが、天皇に留任することを要請され、首相を続けました。李奉昌はソウルの満鉄見習い所に入所しましたが退職し、日本でしばらく暮らしました。1926年に中国上海の愛国団に参加し、韓国独立のために日本の天皇暗殺を考え、1931年に手榴弾を持って日本に入国し、1932年1月8日に桜田門外の閲兵式から帰る昭和天皇の乗った馬車に手榴弾を投げつけました。幸い昭和天皇に危害は及ばず、天皇護衛の近衛兵が負傷しました。この桜田門事件で、李奉昌は逮捕されて大逆罪の死刑判決を受けます。1932年10月に市ヶ谷刑務所で処刑された李奉昌は、在日朝鮮人によって遺骨が発掘され、ソウルで国民葬が行われて「義士」として埋葬されました。1909年に初代朝鮮総督府統監であった伊藤博文が中国のハルピンにおいて、朝鮮人の安重根に暗殺されますが、韓国の教科書で「処断」という言葉を使い、安重根は朝鮮人の「義士」として李奉昌と同様に韓国の教科書で教えられています。韓国の教科書では「韓人愛国団員の李奉昌は日本の東京で、韓国侵略の元凶である日本国王を処断するため国王の馬車に爆弾を投げつけた。」愛国の義士ということになっています。
昭和天皇は当時の大日本帝国皇帝の地位にあり、昭和天皇の暗殺を計画・実行することは朝鮮人民にとって危機的な状況を生むはずでしたが、昭和天皇はテロリストの犯行として李奉昌個人の犯罪として処理しました。朝鮮人民全体に対するに暗殺の対価を払わすことはありませんでした。オーストリア皇太子暗殺によって、第一次世界大戦がはじまったことを考えれば、朝鮮人民には壊滅的な処断が想定されたのですが、朝鮮人民に対する大規模な日本の報復措置はありませんでした。そして、1935年に日本国内の朝鮮人居住者は625,678人と増加しています。

1939年には、韓国でも悪名高い「朝鮮民事令」の改正があり1940年に「創氏改名」が始まります。この頃は、すでに日本は第二次世界大戦に突入し、多くの日本人が徴兵されていきます。当然、朝鮮人も「朝鮮人内地移送計画」による国家戦争の協力を日本人と同様に強要されます。第二次世界大戦で日本人が徴兵され、国内で労働者が不足し、32万人の朝鮮労働者が徴兵された日本人労働者の補充として日本に移送されました。
1944年からは日本でも子育ての主婦が工場に徴用され、日本国内の労働者の確保に限界が生じ、朝鮮半島での本格的な「徴用」が始まります。1945年からは日本人男子がほとんど徴兵され、兵隊の確保のために徴兵の範囲を拡大して朝鮮半島での「徴兵」が始まります。日本人の徴兵や徴用は日本人の問題で、朝鮮人の徴兵や徴用は「強制連行」というのは、当時を考えればおかしなことです。日本人は徴兵や徴用という「強制連行」によって戦地で死んでいっても、朝鮮人の徴兵や徴用はするべきでなかったという主張など不可能な話です。第二次世界大戦の当時に、朝鮮だけは特権的に世界的な大戦の中で平和に暮らす権利があったかのような韓国の主張には納得できない心境です。


第二次世界大戦が終戦を迎え、朝鮮人民は戦勝国だと日本国内でも騒ぎました。戦勝国は朝鮮を戦勝国とは考えていなかったようですが、1946年には「首相官邸デモ事件」で、朝鮮人2,000人が首相官邸にデモ行進して、官邸に進入しようとし警官隊と大乱闘しました。朝鮮半島が分割の危機に直面した1946年には、朝鮮から21,420人が密入国して来ました。その後も、朝鮮半島からの密入国は1947年に6,888人、1948年には8,500人が密入国しています。朝鮮人民と日本国民との衝突はその後も続き、1948年には「4.24阪神教育事件」が起きます。大阪市・神戸市、朝鮮人学校問題で在日朝鮮人2,500人が府県庁を包囲して、知事等を軟禁します。
米国進駐軍は非常事態の宣言をして取り締まりました。首謀者は軍事裁判にかけられ、朝鮮人検挙者は1800人に上りました。1948年は大韓民国と朝鮮民主主義共和国が独立します。そのこともあって、朝鮮半島からの密入国者は警視庁の記録で、1949年に1,642人、1950年には3,612人と再び増加することになります。1950年には朝鮮戦争が勃発し、1951年には密入国朝鮮人50人が強制送還の反対を叫び警察と衝突し、滋賀県で「日野事件」を起こしました。警察側の重軽傷者25人を出し、35人が検挙されました。1951年は朝鮮密入国者4,847人で、1952年には在日朝鮮統一戦線系学生1100人が警官隊と衝突する「吹田事件」が起きます。警察官を襲い拳銃2丁奪い、交番2ヶ所や工場を襲撃して朝鮮人113人の検挙者を出しました。1952年と1953年で朝鮮密入国者は4,667人となり、1953年の朝鮮戦争休戦で朝鮮密入国者は激減します。1954年には旧朝連系900人が警官隊と衝突する「第二神戸事件」が起きます。長田区役所、税務署などを破壊して、188人が検挙されます。1977年には「五箇条の御誓文」によって、日本の国税庁と朝鮮商工連間で所得税法で定められた税金を支払わなくて良いなどの取り決めが交わされます。この取り決めによって朝鮮総連系の企業は税金の特別特権を得ることになります。


米国GHQ参謀第二部公安課の資料によれば、在日朝鮮人の戦後の日本国内における戦勝国という振舞いは多くの犯罪者を出しました。米国GHQが犯罪として処理した在日朝鮮人は1947年から1950年までの4年間で、殺人532件、強盗4,124件、放火57件、強姦224件、傷害17,552件、窃盗44,494件など合計104,055件の犯罪が記録されています。戦後いかに多くの朝鮮人民と日本国民との衝突があったかは、日本の教科書では教えていません。当然、韓国でもこのような日本国内の衝突については教えていません。
韓国からの大規模で危険な「スリ窃盗団」や中国からの「パワーシャベル強盗」や「一般住宅集団強盗団」などは本国ではほとんど報道もされませんし、問題にもされていないのと同様です。


私は、韓国の良き理解者ですが、盲目的な韓国信仰者ではありません。どんな国家にも悪人がいますし、善人もいます。私は韓国の知識層の中に、多くの日本理解者がいることを知っています。韓国の国内で日本擁護者は非難され、日本批判者が評価される現状も知っています。韓国人の日本批判者は呆れるくらい自分に都合の良い論理を展開しますが、国民性なので日本人は同じように自分の立場を主張しなければいけません。大声を張り上げて議論することが日本の習慣にはありませんが、韓国人との議論は韓国式の議論方法も考えておく必要があります。韓国は日本を知っているように思っていますが、実は都合の悪いことは全く教えていないのです。韓国国民と議論する時は、歴史の事実をしっかり確認して教えてやればいいのです。納得いくまで徹底的に議論する忍耐が日本人には必要です。どんなに呆れることを言われても、正々堂々と対話する覚悟が日本人には必要です。


在日朝鮮人の皆さんも、日本人に強制労働で連れてこられた子孫だということには、大きな疑問があることを考えて欲しいと思います。日本人も強制連行されて、戦地で死んでいきました。強制連行も慰安婦も韓国人や日本人という区別はなかった時代があったという認識が、韓国の人々にはありません。日本人が苦労する時代に、朝鮮人を特別扱いすることが不可能であったことが朝鮮の人々には理解できません。朝鮮併合と朝鮮人への扱いが問題であると言うのであれば、日本には日本の言い分があります。日本人や朝鮮人を強制連行して戦地に送り込んで、自分達は戦争に関係のないところで贅沢な生活をしていた日本と朝鮮の特権階級がいたということです。日本と朝鮮という国家や民族間の問題ではなく、自国民を戦地に送り込んだ日本と朝鮮の支配階級と強制的に戦地で死ぬ運命を負わされた日本と朝鮮の被支配階級の問題が歴史にはあります。

日本政府のように遠慮した態度では、永遠に両国間の国民に不満が残ります。戦争や侵略による占領や併合が許されないのであれば、世界中で許されないことが現在も横行しています。韓国が他国の侵略と占領は関係ないことで、人類理念の問題ではなく、自国に対する日本の行為が問題であるとするならば、二国間で納得いくまで話し合う以外に方法はないのです。両国が歴史的な同一認識に至るまで徹底的に議論し、協議した内容を今後の学校教育で両国が責任を持って同じ内容を教育するということができない限り、朝鮮問題は永遠に続きます。そろそろ、両国の自分勝手な認識を統一する時期が来ていると思います。日韓両国の未来を考えると、誤解と偏見と嘘による歴史的な憎しみの再生産は終わりにしなければなりません。韓国では「親日派」や「知日派」ということがいまだ非難の対象になっているとは日本人には考えられないでしょう。政治家が「親日派」であるというだけで、その政治家は政治生命を絶たれるのが韓国の現状です。公式に「親日」を公言できない韓国の状況も知らずに、韓国国民は日本人に友好的であると思っている日本人も多いのですが、現実は韓国が豊かになるために日本の資金が必要なだけです。「親日」を公式の場で表明することは韓国では致命的な結果を生む現状も日本人は理解しなければなりません。公式に「親日」を表明できず、「犯罪輸出」の現実に目をつぶり、ひたすら自分の都合だけを叫びつづける韓国もかわらねばなりません。事実を真剣に受け止めていく両国国民の勇気と覚悟が試されています。


臥龍通信第60号/日韓の近代・現代史問題
http://www.nakajima-msi.com/mzbox/mz060.htm
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by thinkpod | 2007-02-17 03:18 | 半島
2007年 02月 15日

 【歴史の曲がり角】李登輝発言の真相

              アンディ チャン

最近の李登輝(前総統)発言をめぐって台湾は大きく動揺した。
中国人のメディアがバッシングを開始すると、たちまち一部の台湾人が同調し、民進党員も李登輝を貶すことで名を上げて得意がっている。
メディアのデマ攻撃は陳水扁や彼の家族に始まって、教育部長の杜正勝に続く李登輝バッシング、明らかな各個撃破である。
中国人はメディア、政治家、退役軍人とその家族、国民党員などを使って総力戦を挑んでいるのに台湾人は妥協を考えるだけで、政治家も民衆も敵に対処する防御や反撃を考えない。
香港系週刊誌『壱』は刺激的な見出しを掲げた。
−−李登輝は言う:「独立放棄」「中国資本を受け入れろ」「大陸を訪問したい」。
みんなウソだった。

それにしても…、である。あれほど尊敬し、信じていた李登輝元総統に対し、多くの人が簡単にメディアの歪曲報道を信じて李登輝バッシングに走るとは情けない。
なぜ自分で真相を調べてから判断しないのか。台湾人はそれほどバカなのか。
新聞がウソを言うことは百も承知の民衆がなぜコロリとウソに踊らされるのか。

それにしても…、民進党員はなぜ中国人メディアの尻馬に乗ってメディアや国民党党員と同調し、自分の同志で民衆の敬愛する李登輝を攻撃するのか。
年末の立法委員選挙のため、敵の国民党を攻撃せず台聯党と同士討ちをやるのは愚の骨頂である。

それにしても…、独立派の長老・辜寛敏までが簡単にメディア報道を信じて李登輝を攻撃するのか?
ブルタース、お前もか?

●李登輝発言の検討

李登輝は「台湾はすでに独立した民主国家である。だから今更独立を主張する必要はない。必要なのは正名、制憲、国家正常化である」と述べた。
するとメディアは「李登輝は独立を放棄した」と新聞の見出しに書いた。
歪曲であること本文を読めばわかることで、本文を読まないから誤解するのだ。
李登輝は「台湾と中国は対等な国である。台湾が中国に投資するなら中国が台湾に投資することもできるはず」と言った。すると新聞は「李登輝は中国の台湾投資を奨励した」と書いた。
記者が李登輝に中国へ行きたいか? と訊ねて、李登輝が「昔は孔子が諸国訪問をしたように、行ってみたいと思った事もあった」と答えた。すると新聞は「李登輝は中国を訪問したいと言った」と書いた。
明らかな歪曲である。

問題はメディアが100%歪曲報道をすることを知っているはずの政治人物、有名人などがコメントを求められると、見出しを見ただけで「李登輝は変わった。間違っている」などと答え、それを新聞がまた歪曲して「独立派の人たちも李登輝を見捨てた」と報道する。
なぜ「私は新聞を信じない、李登輝を信じる」と答えないのか。
もっと情けないのは民進党連中が挙って李登輝の批判を始めたことだ。
メディアに踊らされて同士討ちを始めるような無思慮では台湾は潰れる。台湾が潰れる前に民進党を潰すほうがよい。

●「独立した民主国家」に疑義

李登輝の本意は、台湾が統一・独立の二極に分かれて論争を続けていけば、国は疲弊し、人民が苦しむだけだ。
台湾人政権が出来て7年目になるが、台湾は正常な国ではないから、正常化に向けて努力すべきだというのである。
民進党も同じように台湾が独立した民主国家だと主張している。
それなら民進党員は攻撃の矛先をメディアの歪曲に向けるべきである。李登輝が「路線変更」を言明したというのは間違いである。

このような論争が起きる原因は、つまり台湾が正常でない「真の独立した民主国家」でないからだ。台湾には政府があり選挙もある。
民主国家の形は存在している。しかし民主国家の形態はあっても実情は国民党独裁であることに変わりはない。
 この国は中華民国と呼ばれる“亡命政府”で、いまでも中国大陸、外蒙古や新疆、チベットまでを自国領土と主張している。
台湾の住民は統・独両側ともこんなバカな主張を信じていない。
そこで統一派は中国と統一すればよいと主張し、独立派は国名を変えればよいと主張する。

 第三の林志昇グループは中華民国は亡命政府で、台湾は米国の暫定占領領土であると主張する。歴史を見ればこれが最も正しい、しかし米国は台湾を暫定統治して中国と事を構える余裕がないので、現状維持としか言わない。
 統一とは台湾が中国に併呑され、台湾人は惨めな奴隷となることで、殆どの台湾人は反対である。
独立派は不正常な国でも一応、民主制度を保っているから、公民投票で国名変更すれば米国も反対できないと主張する。だが米国は中国の反対を予期して難色を示している。

●「制憲」か「修憲」か

ここで独立派が二つに分かれる。
陳水扁の民進党グループは中華民国の体制を維持しつつ憲法を修正する、つまり中華民国を台湾に変更しても「中国」に変わりはない。
李登輝は台湾独立を投票で決めて新憲法を制定すると言う。
 修憲は中華民国体制から抜け出せないし中国の圧力がかかる。制憲は人民の独立意識が強ければ可能だが、統一派と修憲派の反対があり、長年の迫害を受けた台湾人の独立意識は不足している。

制憲派と修憲派の大きな欠点はどちらも中華民国の体制化で公民投票を行うことだが、両派ともこれを「仕方のない現状」とみなしている。
現状を変えるなら公民投票か、さもなければ革命であるが、人民は革命を望んでいない。

●一方的な「和解共生」

次期総統の候補者の一人として注目されている謝長廷が先週アメリカを訪問して、地元の台湾人に彼の持論の「和解共生」を主張した。この理論は李登輝の考えと「似て非なるもの」である。
 謝、李の両派は、台湾人民の志向を大別すると統一、中間層、独立の三つに分かれるという。
中間層とはどちらでもない一般大衆を指す。統独の論争が進むと意見が両極化して中間層が減少し、M型になるというのである。
そこで統・独の両側が和解すれば中間層の大衆は板ばさみにならず、社会が安定するというのである。

しかし、謝長廷の主張は台湾だけでなく、中国とも相互の闘争をやめて「共生」すれば両国とも繁栄が得られる、と言うのだ。
この主張は一方的な理想論であって、中国人は鼻であしらう。

謝長廷もそれを知っているから、「共生には自存という大前提がある」と但し書きをつけている。
そして自存を遂行するには「民進党内だけでなく、国民党とも和解して相互間に運命共同体の概念を普遍させるべき」と言う。この和解主張に賛成できないのは台湾人、中国人の両方だから彼の理想は「ミミズのたわごと」である。

中国に対する謝長廷の共生理想は「與虎謀皮(虎に皮をくれと相談するようなもの)」で、国内では自存さえ困難なのに900基のミサイルの照準を台湾に向けている中国が相談に乗るはずがない。

●民進党の堕落は「選挙オンリー」にある

謝長廷の自存理想を分析してみよう。
台湾の人口分布をみると、85%の台湾人に15%の中国人である。台湾に亡命して60数年、今では殆どの「外省人」と名乗る中国人は台湾生まれである。
60年経ち、台湾に生まれても台湾に同化せず、中国人を名乗る15%が台湾の政治の50%を牛耳っている、この事実こそが台湾の大問題であり、85%の台湾人の無気力が少数独裁を許しているのだ。

謝長廷も陳水扁もこの数年来、中間路線、和解路線を主張して、その度に選挙で負けてきた。
彼らの中間路線とはM型の谷間の部分を引き入れて選挙で勝つことしか考えていない。
だが中間に居る人々は和解が不可能であることを知っている。民進党の中間路線はすでに二度の選挙に失敗している。三度目をやるのはバカな話だ。

少数独裁を許して民進党と国民党の二大政党制度で民主国家を作るというのはウソで、実は降参である。多数派が有利であるべき選挙で少数派に負けるのは多数の人間が中間路線を信用せず投票しないからである。
その事実が厳然と存在しているのに謝長廷はいまでも「和解共生」という。
民衆はバカでない。民進党の政治家は「多数派の台湾人が民進党に投票しないで国民党に票を入れるはずがない」と思っている。
民衆は「少数派の外省人に投票しないが、民進党が彼らと和解するなら投票しない」と言う。

元を正せば民進党は外省人に反対し、独立を主張したから人民の支持を得て今日の大政党となったのである。
ところが民進党が政権を握るとすぐに変質して選挙オンリー、権力保持に化けてしまった。
大衆は民進党を支持しないで、だから民進党は李登輝・台聯党を攻撃する。
でも民衆の関心は台湾の将来にあり、民進党が政権を取ることではない。この間違いを直さなければ民進党は支持できない。

●李登輝発言は民進党への宣戦布告

つまり、李登輝発言は民進党に対する批判と決別宣言だった。
国民党メディアはこれを歪曲報道し、民進党員は国民党と一緒に李登輝バッシングをやったのである。
李登輝は当初からこのような論争が起ることを予想して、台湾系の自由時報でなく中国系の『壱週刊』で爆弾宣言をしたのである。
もちろん歪曲報道もあることを予期していたと言われる。

産経新聞の長谷川記者のインタビューで李登輝はこれをハッキリ認めた。

【台北=長谷川周人】台湾の李登輝前総統(84)は産経新聞と会見し、「(独立か統一かを問う)統独論争は意味がない」と述べた上で、これまで連合を組んできた与党・民主進歩党と一線を画す考えを初めて明らかにした。
今後、自らが後ろ盾となってきた台湾団結連盟(台連)を再編成し、中道勢力の結集による「民主台湾」の再生を目指すという。
「攻めに転じる狼煙(のろし)を上げた?」
「そう、民進党への宣戦布告ともいえる。政権はレームダック(死に体)化し、将来の総統候補までがそれにしがみつくばかりで、政権交代から7年間、何もしなかったのだから。これまで(李氏が推す)台湾団結連盟(台連)は民進党の付属と思われてきたが、これからは違いますよ。どんなに頑固といわれようと私は自分の考え方を貫く。台湾再生のためにやらざるを得ないのだから」
「台聯党の今後は?」
「1月に就任した黄昆輝主席の下で生まれ変わる。2月中に綱領を全面刷新し、3月は公募で党名も変える。直面する課題は雑兵の処分だ。不正をやった者は除名にし、若い新鮮な血液と入れ替える。目指す方向は中道左派。
絡みに絡んだ政治の糸はぶった切り、政治の混乱にあきれ果てた中間層を取り込む。個人や政党の思惑を捨て、台湾の主体性を軸とする民主台湾を取り戻す」
李登輝は台聯党の進路を変更し、民進党と決別したのである。
歴史の曲がり角をまがり、新しい台湾に向けて進む始まりだったとも言える。
  (アンディ・チャン氏は在米評論家)

http://www.melma.com/backnumber_45206_3547083/
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by thinkpod | 2007-02-15 06:13
2007年 02月 13日

中国の“微笑”を信じるなかれ 強硬策から転換した対日外交の企み

「 『日本支配』を目指す中国の野望 」

中国は着実に超大国への道を歩みつつある。が、その前に地域大国として盤石の基盤を固めなければならない。その際の唯一最大の障害が日本の存在である。

日本をどのように無力化していくのか。他国を従わせたいとき、大国は往々にして圧倒的軍事力を行使した。または米国のセオドア・ルーズベルト大統領のように、“大きな棍棒片手に優し気な声で”要求を突きつけてきた。だが、現在の中国は驚くほどの変身を遂げた振りをするだろうと中西氏は予測する。

「中国は日本を賢く分析してきました。その結果日本取り込みに最も有効な手を打つでしょう。我々が驚くほど態度を変えてくるという意味です。日本はそれほど悪い国ではなかった、戦争時は仕方なかったとまで歴史認識で譲歩するはずです。そうして、日本人に中国の支配下に入っても悪くはないという気持を持たせようと考えているのです」

日本よ、勁くなれ

これから中国が働きかける相手はもはや朝日新聞に象徴される古い左翼ではない。自民党のなかの保守派、経済界など、日本の主流を構成する人々である。彼らのなかに親中派を作っていこうとすると中西氏は予測する。田久保氏も指摘した。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2007/01/post_498.html


「 『大軍拡』中国の微笑外交に『操られる人たち』 」
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2007/01/post_503.html
「 中国の“微笑”を信じるなかれ 強硬策から転換した対日外交の企み 」
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2007/01/post_501.html
安倍政権に期待すること
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/102810/



「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 

平成19年(2007年) 2月13日(火曜日)   
通巻第1703号  

(読者の声4)昨年末の石平氏の日本工業倶楽部での講演録(日本有数の歴史あるエスタブリィシュ組織が主宰する、なんと1271回を数える長寿講演会)を読み返して、つくづく思うのは、DNA由来の外交に長けたシナ(英語でチャイナ、仏語でシィン、伊語でチーナ)人の組織する中共勢力に小泉時代の日本外交が勝利したことです。

石さんは、講演の中でつぎのように述べています。
(引用開始)「小泉さんの靖国参拝を道義的に解釈しますと、正当かどうかの評価は分かれるだろうと思います。しかし少なくとも私から見れば、靖国問題を政治問題化し、しかも外交問題として持ち出した北京の方が悪かったんじゃないか。と言うのは、ある意味で靖国問題は日本人の心の問題であるにもかかわらず、そこまで踏み込んだことが中国政府の失敗であったと思います。
靖国問題という日本の国内問題を、その問題が解決できなければ日中関係は改善できないというような形で完全にリンクさせたところに問題があったわけです。
靖国に行くかどうかは結局小泉さんが決めることです。従ってこのことを日中関係を改善できるかの大前提にしてしまったために、結果的には主導権は小泉さんに持たれてしまいました。(引用止め)」。

実のところ、シナ政府はこの間違いに臍を噛んでいますが、戦後初の赫々とした外交の勝利をあげた日本にはそれに気付く者がほとんどいないのです。
外交とは仲良くすることにあるのではなく、喰うか喰われるかの熾烈な国際間をしのぐことなのです。 
外交交渉の場は戦場で、ネクタイを締め背広を着てする戦闘です。
日本の“害交官”はへたればかりですが、シナの政治家・外交官は自らが戦士であるとの気構えを持って交渉の場に臨んできます。
だって、落ち度があれば更迭・左遷どころか何かの罪をおっかぶされて、本人は刑務所に送られ、家族・郎党は甘い利権を奪われ栄耀栄華からつき落されるのですから。     
 石平氏は、先月も学生たちの組織する「ポーツマス・ネットワーク」の講演会で、以下の趣旨を語っていました。
 「中国政府が怒っているときはぜんぜん怖くないんです。どうにも遣りようがなくて仕方がない、そんなときに怒るのです。そんな中国は放っておけばいい。
ほんとうに怖いのは、にっこり微笑んでいる、下心いっぱいのときです。
中国政府が何かを企んでいて、それを静かに進めている時にとる態度が、安部政権になってからの微笑外交です。これは本当に怖いから注意しなければいけない」と。
石平氏の打ち鳴らす警鐘に日本人は気を引き締めるべきでしょう。
    (HN生、神奈川)


(宮崎正弘のコメント)いつぞやも書きました。おなじコメントを繰り返します。
「石平さんの登場で、莫邦冨も葉千栄も朱建栄も急速に色褪せた」



平成19年(2007年) 2月16日(金曜日)  貳
通巻第1708号  

吉岡健『中国人に絶対負けない交渉術』(草思社)

 世間的に無名の著者なので略歴を拝見すると、元“安宅マン”(安宅産業社員)、48歳でコンサルタントとして独立され三十年、ひたすら中国とのビジネス交渉の最先端にたって、現場の苦労をともにした人物。
 言ってみれば中国ビジネスのベテランである。
 こういう経歴をみると現場での奮闘と実践から貴重な体験談が聴けるだろう。
 汗をかいて、現場の失敗の苦渋を体験した者でなければ知らない、知り得ない深層が、いっぱいあるからだ。
 まともに交渉したら中国人に勝てるはずがないという、まことに正しい前提にたって、筆者はまず「先に意見をいうな」「会議以外では考えを漏らすな」「無理に結論をださず逃げろ」という三原則を掲げる。
 それはそうだろう。中国人には誠意というものが通じない。だから世界のビジネス現場の常識が通用しない。
「中国とのトラブルは(世界の常識とは)異質なもの」と筆者は永年の経験を通して鋭く指摘している。

 評者(宮崎)も或るコラムに次のように書いたことがある。
 嘘と屁理屈と牽強付会と論理のすり替えで成り立っている中国人社会では最低限度、“三重思考”が常識であり、言うこととやること、考えていることは違う。少なくとも三種の思考を同時に行える特技は中国人エリートに共通。
しかし、どうしてそうした体質が産まれたのか。
 それは歴代王朝が「私」の利益しかなく、公の観念に欠乏している。皇帝とその眷属と、それを守る傭兵と、あとの国民は奴隷という社会構造が、いまの中国にすら歴史的体質として染みこんでいるからだ。つまりだれもが「私」の権利と利益にしか眼中にはなく、騙し、すり替え程度の嘘は常態。商業においてすら「三重帳簿」が常識なのだ。ひとつは銀行用、ひとつは税務所用、そして三冊目が自分用。
 逆に言えば、この三原則を知って臨めば中国人に交渉でまけることもない、と。

 さて本書で参考になったユニークな比較表がある。
それは“南船北馬”とも言われる中国人の気質を南と北に分けて、性善説とか、逞しさなどを南北比較するもの(評者は華南、華中、華北とおおまかに三つにわけるので、この二分化には異論があるが、それはそれとして)。。。
 北は「保守的で」「権力志向が強く」「頑固だ」が、南は「実利的」「冒険的」「勘定高い」特質がある。
そうした対比のなかでも南北の中国人に共通の特質が四つあり、「自己本位」「羞恥心の欠如」「狡猾」「図々しさ」という指摘は正鵠を得ており、心底から苦笑した。
 


   ♪
青木直人『中国に食い潰される日本』(PHP研究所)

 いささか激しい題名である。
本書の帯にも「なめられ放題の日本企業、戦略なき対中援助の危険性」と銘打たれ、これだけでも内容が推察できるのだが、いざ、本書をよむと驚き桃の木山椒の木の連続である。
 ハニー・トラップに引っかかった日本人は外交官、自衛官、政治家ばかりではなかった。
 ヤオハンは李鵬をたよりすぎて失敗、また17年前に失脚した北京書記の陳希同をたよった某社は、ホテル経営で痛い目にあった。
 政治権力の汚職構造と日本企業の癒着ぶりがズバッと抉られている。
中国共産党幹部との政治コネクションに全幅の信頼をおく方法も前提が間違っている。あのくにの権力はいつ消えるか分からないという特質があるからだ。
 ところで江沢民に一億円を送った、と噂される日本の某商社は、そのおかげで例外中の例外として中国での全国チェーン展開が認められた。
 イトーヨーカ堂のパートナーである伊藤忠の顧問の某は「日本は中華世界の一員として生きていけば良い」と暴言を吐く人でもある。外務省のチャイナ・ロビーにだって、それほどの低脳売国奴的人物はいないだろうに。
 なによりも青木氏は、執念の塊のような取材力、それも足で稼いで中国の裏道を、じっと観察しているばかりか、どうやら情報源を日本の商社、メーカー、金融機関、政府関係者にも多く持っているようだ。
というのも文章の端々から、その情報の出所がおおよそ想像できるのだが、随所に「アッ」と驚かされる仰天の事実が、さりげなく、しかも何回も挿入されている。
 いつぞやテレビ番組で一緒だったおりに、青木氏から上海・森ビルの内幕を聞いた。
 なぜ浦東の陸家嘴という、もっとも地盤の弱いところに101階建ての金融センターを建てるのか。
しかも、基礎工事から六年間も放置され、その間に六センチも地盤が沈下していたにもかかわらず誰かの命令一下、2008年めがけて工事は再開されたのだ。
そのプロセスの内幕話にいたっては驚きの連続だ。
途中、台北に101階建ての「金融センター」が立って、上海トップのあせりが突貫工事をせかせることになり、しかも高層部分は設計変更になり、蜂の巣をつついた大騒ぎに発展した。また完成の曉でも最上階展望台からは目の前の金茂ビルに景観を妨げられ、上海の全景を展望することはできない、と予測する。
そうした無理な工事の背景やら「上海ヒルズ」の呼称はまかりならんと言われた森ビル側の焦燥など、内部の情報協力者がいないと知り得ないことを含めて、あますところなく描かれている。
上は本書に紹介された裏話のホンの一例である。



平成19年(2007年) 2月15日(木曜日)  貳 
通巻第1706号  
 
銭基深著・浜本良一訳『銭基深回顧録』(東洋書院)


 中国の外交を十年に亘って司った銭元外相の回想録である。
 歴史的な証言という意味でたいそう意義が深い。この本の中国語の原文が出たのが2003年で、当時、小生も香港あたりで入手して、主要箇所をだけ読んだ記憶がある。
 なぜなら銭の在任中の天皇皇后両陛下の御訪中を、かれらは天安門事件以降、国際社会に孤立していた中国の立場を世界に広める政治或いは広報カードとして活用し、まさに「成功した」と自慢話がかかれていたからだ。
そういう表現には腹が立った。
 さて友人でもある訳者の浜本良一氏は、歳月をかけて、とうとうこの外交文書としては歴史にのこる書籍を全文翻訳した。翻訳文はやさしく訳注も随所に丁寧に施されていて読みやすい。
 1989年2月に先帝陛下が薨去され、東京に世界の指導者があつまる大喪の礼が粛々と行われた。
 米国からブッシュ大統領、フランスはミッテラン大統領、英国からはサッチャー首相。しかしながら中国は国際常識に逆らって二段階も格下の銭基深外相を「特使」として送り込んだ。
 銭外相はかれなりに張り切って日本にやってきた。
 しかも銭は日本の政治家と会見で「天皇の戦争責任」を政治的意図を十二分に含んで意図的に持ち出し、同時に北京での外交部談話は「軍国主義」「侵略戦争」を獅子吼した。
 失礼千万な話だが、銭外相の回顧録は、これさえも自慢話となる。
 嗚呼、共産党社会で出世しようとすれば、世渡りは難しい!
 しかも、この回想録を読んで分かるのは、銭は大喪の礼そっちのけで、この外交的機会に実にすばやく、ぬけめなく便乗して、インドネシア代表との国交回復交渉を東京の場で繰り広げていたのだった。

 興味深いはなしは他にもいろいろとあるが、89年天安門事件を「政治的風波」と言ってのける感性に、なにやら名状しがたい政治主義を感得する。
しかし、本書の中でも大きな関心のひとつは天安門事件直後にあれほど北京を攻撃してやまなかったブッシュの米国が密使を送り込んでいたことだった。
この箇所は外交史上でも十分に価値がある。中国の考え方をしる上で。
 キッシンジャーのパキスタン経由での北京秘密訪問よりも、このときのスコウクラフト補佐官(ブッシュ政権で安全保障担当大統領補佐官)の北京訪問は機密行動が徹底していた。
 だから「国籍不明機が上海上空に近づいたとき、撃墜命令の問い合わせが楊尚昆(当時、国家主席)にあった」とも言う。
 スコウクラフト補佐官の北京訪問は、北京にある米国大使館にさえ知らせず、通信は専門の要員をわざわざワシントンから二人帯同し、しかもリリィ大使の不在時を狙った。
米国が身内を騙したのである。
そのうえC141輸送機を「標識を塗り替えて一般商業機に偽造」させ、「連続二十二時間の飛行中を空中給油し、どこにも途中給油しなかった」という逸話まで興味津々と語られている。
 当時の会談の中身は、その後、スコウクラフト補佐官自身も、当時の上司ベーカー国務長官の回想録にも大筋が披露されているので、内容は旧聞に属するとはいえ、中国側の味方がこうも露骨に出たことも珍しいだろう。

 さて本書を通読したあとに残る最大の疑念とは何か?
 それは中国の積極外交を十年にもわたって司った銭自身が、殆ど外交戦略の最終決定権を保持していないという恐るべき真実ではないだろうか。
本書にたびたびでてくる「中央」というのは誰のことなのか? 逐一、裁断を「中央」に仰がなければいけないという中国の外務大臣って、操り人形。ピエロ?
決断のプロセスが曖昧模糊、青木湖の霧の樹海のごとし。
要するに中国外交は、本当はいったい誰が最終的に政策決定しているのか、闇の存在がそれとなく分かるだけで、読後感は「やはり闇の部分を銭基深が殆ど語っていない」というポイントだったのである。

(注 銭基深外相の「基」は下の「土」をとる。「深」は王編。)
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by thinkpod | 2007-02-13 21:44 | 中国
2007年 02月 12日

国柄探訪: 民主主義を支える皇室伝統

 昭和天皇曰く「日本の Democracy 化とは、
日本皇室古来の伝統を徹底せしむるにあり」

■1.孤独で不幸な日本国憲法■

 日本国憲法は、まことに孤独で不幸な憲法なのである。
その意味は、それが真の護憲派を有していないという点に
示されている。[1,p93]

 先年惜しくも亡くなられた坂本多加雄・学習院大学教授の
『象徴天皇制度と日本の来歴』の一節である。

「護憲派」がいるではないか、と思われるだろうが、たとえば
護憲派の人々の多くは、憲法第一条「天皇は、日本国の象徴で
あり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する
日本国民の総意に基く」を、その条文のまま擁護しようとして
いるであろうか。

 戦後の通説的解釈では、「主権の存する日本国民」にのみ焦
点が当てられ、「天皇は象徴に過ぎない」と総じて消極的、否
定的に解釈される。そして、天皇の存在は国民主権の不徹底の
ためであり、「国民の総意」によって将来、天皇制度を廃止す
る改憲も可能である、と考えている。

 これは本来の意味の「護憲派」であろうか。改憲による天皇
制度廃止を狙う人々の「偽装」に過ぎないのではないか。

■2.「8月15日革命説」■

 これらの「偽装護憲派」の人々は、国民主権と君主の存在が
相容れないものと考える。それは国民主権を最初に打ち出した
フランス革命で王制が打倒されたからである。

 戦後の正統的な学説として広く通用してきた宮沢俊義・東京
大学法学部教授の「8月15日革命説」では、大日本帝国憲法
の「天皇主権」が昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾を
機に、日本国憲法の「国民主権」に転換するという「革命」が
起こったというのである。

 しかし、その「革命」は不徹底なものであり、「天皇条項」
が残ってしまった。そこで彼らはなんとか「真の革命」に解釈
上だけでも近づけようと、「天皇は象徴に過ぎない」と主張す
るのである。

「天皇主権」と「国民主権」が対立するような構図が本当にあっ
たのか、以下、歴史的な実態を追っていくが、その前にフラン
ス革命における「国民主権」の実態を見ておきべきだろう。

 そこでは反対派の国民2百万人が虐殺されるという惨劇が起
こった。またナポレオンが徴兵制度により、国民全体を兵士に
仕立て上げ、ヨーロッパ全土を戦火に巻き込んだ[a]。フラン
ス国民の総意に基づく真の「国民主権」が実現していたら、フ
ランス国民はこういう事態を本当に欲しただろうか?

 こうした史実を素直に見れば、フランス革命とは「国民主権」
というイデオロギーのもとに、一部の過激な勢力が権力を握り、
反対派を弾圧・粛正・虐殺するという、後のソ連、中国、北朝
鮮などの独裁国家に見られた全体主義の先駆的現象に過ぎない
ように見える。

■3.幕末の「民主化」■

 偽装護憲派の賛美するフランス革命の「国民主権」がこのよ
うな「偽装」に過ぎないのであれば、それに対比される「天皇
主権」はどうか。

「民主化」を「政治的決定の実質的主体が下降していく傾向」
と捉えれば、幕府がペリーの来航に対して、従来の慣例を破っ
て諸大名に意見具申を求めたことが、近代日本における「民主
化」の始まりであった事は、戦前からの「憲政史」の研究など
で広く認められていた。

 その後の幕末の動乱の過程で、この「民主化」の動きが本格
化し、実質的な政治決定の主体は、幕府から諸大名、諸大名か
ら上級の武士へ、さらには下級武士へ、そして「草莽の志士」
へと、下降していく。同時に、幕府の権力低下の中で、国策の
決定は「衆議」に基づくものでなければならない、とする「公
議輿論」の考え方が広がっていく。

 ここで興味深いのは、この権力の下降現象を後押しする形で、
権威が幕府から天皇へと上昇する現象があったことだ。もとも
と将軍とは、天皇から征夷大将軍として任命される官職の一つ
であるという史実を踏まえて、朝廷が幕府に「大政」を「委任」
したのだ、という「大政委任論」が本居宣長などによって唱え
られた。また、明治天皇の3代前に当たる光格天皇が、窮民の
救済を幕府に命じられたのだが、そうした事実を通じて人々は
改めて天皇の権威を認識した。

「権力」の下降現象は、それだけでは正統性を得られず、人心
の受け入れる所とならないために、政治の不安定を招きやすい。
しかし我が国においては、それが天皇の権威のもとで行われる
ことで、正統性を与えられ、国民全体の受け入れる所となった。
すなわち、「尊皇」によって「公議輿論」という「民主化」プ
ロセスを後押ししたのである。

■4.「天朝の天下にして、乃(すなわ)ち天下の天下」■

 この思想を端的に表しているのが、吉田松陰の次の言葉であ
ろう。

 天下は天朝の天下にして、乃(すなわ)ち天下の天下な
り、幕府の私有にあらず。

「天下」とは日本という国家全体を指す。「天朝の天下」とは
「偽装護憲派」流に言えば、「天皇主権」であろう。そして
「天下の天下」は「国家は国民全体のもの」、言わば「国民主
権」ということになる。「天皇主権」がすなわち「国民主権」
であり、それが「幕府の私有」、「幕府主権」を否定する原理
とされている。

 松陰はこれに続いて、幕末の対外的危機に際して、「普天卒
土の人、如何で力を尽くさざるべけんや」(日本国中の国民が、
力を尽くすべきである)と主張している。国民として一人一人
が国家を守る義務を持ち、そのために「公議輿論」に参加する
権利があるということであろう。

■5.天皇の名の下に進められた立憲議会制度確立■

 こうした「公議輿論」の考えを、国家として公的に宣言した
のが「五箇条の御誓文」における「広ク会議ヲ興シ、万機公論
ニ決スベシ」であろう。これはどう見ても、議会制民主主義の
宣言である。そして、この宣言が、明治天皇が神に誓われた
「御誓文」という形式で発せられた、という点に留意する必要
がある。

 この宣言は、明治8年の「立憲政体の詔書」でより具体化し、
明治14年の「国会開設の勅諭」で議会制度の創設が公約され、
ついにはアジアで最初の近代的成文憲法である「大日本帝国憲
法」へと結実していく。このいずれのステップにおいても、
「御誓文」「詔書」「勅諭」と天皇の公的な意思表示という形
式が採られた。我が国の立憲議会制度は、天皇の「錦の御旗」
のもとで建設されてきた、と言える。

 一方、明治政府を批判する民権運動も、「五箇条の御誓文」
を根拠に早期の議会制度設置の要求を行った。そして政府を攻
撃するのに、「君」と「民」との意思疎通を妨げていると批判
を行った。民権過激派による加波山事件(明治17年、16名
の青年による栃木県令の暗殺未遂事件)の檄文には「奸臣柄を
弄して、上聖天子を蔑如し(奸臣が権勢をみだりにして、天皇
をないがしろしにし)」という一節がある。

 政府も民権派も、具体的方法論やスケジュールにおいては対
立があったが、ともに天皇を国民統合の象徴として、そのもと
での立憲議会制度を目指していた事に変わりはない。西洋諸国
に見られたような「君」と「民」が権力をめぐって争うという
構図は、我が国には見られなかった。

■6.武力クーデターを挫折させた昭和天皇のお怒り■

 明治22(1889)年2月11日、アジア最初の近代的成文憲法
として大日本帝国憲法が発布された。当時の欧米の著名な政治
家や学者は、この憲法が日本古来の伝統に根ざしつつ、近代的
憲法学を適用したものと、きわめて高い評価を与えた。[b]

 そこでの天皇は「統治権」の「総攬」者とされているが、立
法においては議会の「協賛」すなわち承認が必要であるとし、
また行政についても、大臣の「輔弼」によってなされるとした。

 これが形ばかりのものでないことは、日露開戦という国運を
賭した決定が、明治天皇の御心配を押し切った形で、内閣によっ
てなされた、という一点だけでも窺えよう。大東亜戦争開戦も
同様である。

 帝国憲法において、天皇を「統治権」の「総攬」者であると
定めていた事から、この「天皇主権」が昭和期に軍部が台頭し
て、軍国主義を生み出したと考えるのはどうだろうか。

 昭和11(1936)年2月26日に青年将校らが「昭和維新断行
・尊皇討奸」を掲げて、主要閣僚を襲い、斎藤実内大臣、高橋
是清蔵相などを殺害した。

 昭和天皇はこの武力クーデターにお怒りになり、「朕自ら近
衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け」とまで言わ
れた。そして戒厳司令官・香椎中将がラジオ放送で、「天皇陛
下に叛き奉り逆賊としても汚名を永久に受けるやうなことがあっ
てはならない」と兵に原隊復帰を呼びかけた。

 武力クーデターを挫折させたのは、あくまで立憲君主制を守
られようとされた昭和天皇のお怒りであった。もし本当に「天
皇主権」で昭和天皇が直接、権力を振るわれていたら、逆に軍
部の専横の余地はなかったであろう。

■7.斎藤隆夫の「粛軍演説」■

 事件の3ヶ月後、5月7日に開かれた第69特別議会におい
て、斎藤隆夫・衆院議員は有名な「粛軍演説」を行った。その
中にこういう一節がある。

 我が日本の国家組織は建国以来三千年、牢固として動く
ものではない。終始一貫して何ら変りはない。また政治組
織は明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲
君主制、これより他にわれわれ国民として進むべき道は絶
対にないのであります。故に軍首脳部がよくこの精神を体
して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間に
おいて怪しむべき不穏の思想が起こるわけは断じてないの
である。[1,p141]

 軍部の専横を批判し、立憲議会政治を守ろうとする人々にとっ
て、「明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲君
主制」こそが、その寄って立つ根拠であった。

■8.「治安維持法」はソ連との冷戦■

 戦前の「天皇主権」をあげつらう人々が、軍国主義による人
権弾圧の典型として持ち出すのが、「治安維持法」である。し
かし、これはソ連による国際共産主義革命への防衛策として制
定されたという面を忘れてはならない。

 もともとソ連は、国内外を問わず、「階級敵」「人民の敵」
を抑圧・殲滅せしめ、共産主義を世界に広めることを国是とし
た国家であった。そして、その国是は国内においては大規模な
虐殺粛正や、政治犯の収容所送りとして実行された。国外にあっ
ては、各国の共産党を手先として、その政治体制を内部から打
倒する事を目指した。日本共産党もその一派であった。

 坂本多加雄氏は、治安維持法下の特別高等警察と日本共産党
との闘争は、政府対人民の闘争ではなく、ソ連と大日本帝国と
の「冷戦」であった、と述べている。これは戦後、日本の代わ
りにソ連との冷戦を始めた米国においても、「赤狩り」という
マッカーシズムが吹き荒れたことと同様の現象である。

 戦前の治安維持法による人権弾圧を批判する前に、当時のソ
連における人権弾圧は、日本よりもはるかに大規模かつ徹底的
なものであった事を知っておかねばならない。さらに、もし日
本がソ連との冷戦に負けて、日本共産党の支配下におかれたら、
議会制民主主義は根絶やしとされ、東欧諸国や中国、北朝鮮と
同様の徹底的な粛正・虐殺が行われていたであろう。

 こうした背景を考えてみれば、治安維持法による人権弾圧が、
「天皇主権」の独裁国家によって生み出された、という見方は、
当時の国際環境を無視した一面的なものである事が判る。

■9.日本の"Democracy化"と皇室伝統■

 敗戦後、昭和21年年頭に「新日本建設の詔書」が発表され
た。俗に「人間宣言」と言われているが、その冒頭には、昭和
天皇の御意思により、「五箇条の御誓文」がそのまま引用され
ている。戦後の再出発にあたり、近代日本の出発点が「万機公
論に決すべし」にあったことを国民に思い起こさせるためであ
る。

 詔書渙発からほどない1月18日、昭和天皇は次のように言
われたと、侍従次長・木下道雄は『側近日誌』に記している。

 日本の Democracy 化とは、日本皇室古来の伝統を徹底
せしむるにあり

「和」を尊び、独断専横を嫌うのがわが国の文化的伝統であり
[c]、その中で人民を「大御宝(おおみたから)」として、そ
の安寧と幸福を祈り続けてきた[d]のが有史以来の皇室伝統で
あった。こうした文化的・政治的伝統を基盤として、近代にお
いては、天皇の名の下に議会制民主主義という政治制度が着々
と築かれてきた。民主主義とはアメリカの専売物ではなく、広
く近代国際社会の共有するものであって、わが国にはわが国な
りの歩みがあった、と昭和天皇は主張されているのである。

 現行・日本国憲法は占領軍総司令部がわずか1週間程度で急
拵えしたもので、文章、内容ともに細部には問題が多いが[e]、
天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とし、その
もとでの議会制民主主義を採用するという立憲君主制の構造は、
帝国憲法と同じである。そして日本国憲法は帝国憲法の改正と
して、昭和天皇の次の「上諭」とともに発布された。

 朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定
まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び
帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法
の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

 わが国の議会制民主主義の歩みは、明治元(1868)年の「五箇
条の御誓文」以来、140年近くにもなる。未だ民主化の芽吹
かぬ近隣諸国との外交においても、この事をよく踏まえた上で
対応すべきである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(058) 自画像を描く権利
 フランス革命と明治維新
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog058.html
b. JOG(242) 大日本帝国憲法〜アジア最初の立憲政治への挑戦
 明治憲法が発布されるや、欧米の識者はこの「和魂洋才」の
憲法に高い評価を与えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog242.html
c. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
 神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog082.html
d. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
 神話にこめられた建国の理想を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog074.html
e. JOG(141) 仮設憲法、急造成功
 今週末までに、新憲法の概案を作れ、、、マッカーサーは、
なぜそんなに急がせたのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog141.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』★★、都市出版、H12
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4924831247/japanontheg01-22%22


http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108233108.html
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by thinkpod | 2007-02-12 17:26
2007年 02月 10日

抹殺された大東亜戦争ー米軍占領下の検閲が歪めたもの

【書評】『抹殺された大東亜戦争』勝岡寛次著:産経

巧妙に隠されたGHQ検閲

 戦中の新聞や雑誌が言論統制下にあったことはよく知られているが、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が実施した検閲の実態はあまり知られていない。GHQの検閲指針によって、メディアは検閲を受けていること自体を報じることが禁じられ、言論弾圧は一般国民には分からないかたちで行われたからだ。明星大戦後教育史研究センターに勤務する著者は、巧妙に隠匿されたGHQの検閲によって、日本人が気付かないうちに忘れさせられた日本人の主張を丁寧に発掘している。

 この本の書名が表すように、特に「大東亜戦争」という用語は徹底的に抹殺され、タブーとなり、代わりに米国製の歴史観が込められた「太平洋戦争」という呼称を与えられた。戦後六十年がたった今も、日本政府が正式に閣議決定した大東亜戦争という用語を使う新聞や教科書があると、それだけで右翼とレッテルを張られるありさまだ。

 GHQの検閲対象は多岐にわたっており、極東国際軍事裁判(東京裁判)に対する一切の批判は封じられ、国民が裁判に対して感じたごく当たり前の違和感や不当意識はなかったことにされた。著者は、進歩的文化人の牙城とされる雑誌「世界」も、昭和二十一年には東京裁判を批判した評論を掲載しようとして、全文掲載禁止処分を受けていたことを発見している。

 また、直接戦争と関係なくとも、十六世紀以来の西洋による植民地支配への批判は「西洋冒涜」として掲載禁止に。オランダによるインドネシア搾取の記述は「連合国批判」として削除された。さらに、日本の封建制度に一定の評価を与えた文章は「国家主義的」として、アヘン戦争に関する研究論文は「英国批判」として削除されるなど、GHQが容赦なく日本独自の物の見方、歴史観を闇に葬ってきたことがよく分かる。

 現在、政財界の中枢を、このGHQの“洗脳”を最も強く受けた世代が占めている。謝罪外交がはやるはずである。 政治部 阿比留瑠比
http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/50045242.html


ボツ原稿・太平洋戦争に関する政府答弁書

《政府は6日の閣議で、先の大戦に関する「太平洋戦争」という呼称について「政府として定義して用いている用語ではない」とする答弁書を決定した。一方で、「大東亜戦争」に関しては、昭和16年12月12日に閣議決定された呼称だと指摘。大東亜戦争と太平洋戦争とが同じものかは「答えることは困難」とした。連合国軍総司令部(GHQ)は占領期、大東亜戦争の呼称使用を禁止し、厳しく検閲して太平洋戦争を定着させている。
 また、16年12月8日の日米開戦時に、日本側からの最後通告の手渡しが遅れた問題について「当時の外務省の事務処理上の不手際により遅延が生じた。国家の重大な局面において、遺憾な事態を招いた」とする答弁書も決定した。ともに、鈴木宗男衆院議員の質問主意書に対する回答。》

国を憂い、われとわが身を甘やかすの記:イザ!
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/114119



抹殺された大東亜戦争
米軍占領下の検閲が歪めたもの

勝岡寛次/著
明星大学戦後史教育センター

GHQは、占領直後から民間検閲支隊(CCD)を通じて、あらゆる情報ソースの検閲体制を敷き、厳格な情報操作を行った。
本書は、米国・メリーランド大学プランゲ文庫に保存された検閲史料のうち、約13000種の雑誌について丹念に検証。
その内容は、単に大東亜戦争についてのみならず、明治維新や日露戦争の意義を否定し、欧米による植民地支配批判や東京裁判批判をも封じ込めるという一方的なものだった。
私たちが「忘れさせられた」歴史とは何か。戦後世代の著者の手で明らかにされています。
「神社新報」で紹介されました。
定価 税込1995円 (本体1900円)
ISBN 4-944219-37-7
判型・頁数 四六判・430頁
発売 2005年8月
主な内容>>序 本書を江湖に薦めるの辞 ―小堀桂一郎
まえがき 「大東亜戦争」の抹殺と「太平洋戦争」の強制
序章  東京裁判の検閲 
裁判開廷まで/検察側立証段階/弁護側反証段階/判決とその波紋
第二章  東亜解放への道 
「東亜解放」の理念をめぐって/十六世紀スペイン・ポルトガルによる征服と奴隷化の実態/秀吉の朝鮮出兵と十七世紀オランダの植民地支配/鎖国日本と十八・十九世紀イギリスの植民地支配
第三章  明治維新の世界史的意義
東亜独立の最後の砦・日本/明治維新こそ東亜解放の序曲であった/
第四章  明治日本と支那・朝鮮 
十九世紀中葉の日本と支那・朝鮮/「脱亜入欧」のもたらしたもの/東亜解放の魁・頭山満と金玉均/日清戦争と東亜解放
第五章  アメリカの太平洋進出と日本  
ハワイ併合の悲劇/フィリピンの領有/門戸開放宣言
第六章  日露戦争の与へた影響と韓国併合  
日露戦争の与へた世界的影響/岡倉天心とヴィヴェカーナンダ、タゴール/日韓併合―挫折した東亜解放の「一着手」
第七章  “ 協調”から“対決”へ
大東亜戦争の遠因となつた人種問題/「アジア・モンロー主義」の実現を阻んだもの/共産主義への対応―対照的だつた米国と日本
第八章  満州を巡る諸問題  
満洲権益と対華二十一箇条要求/ワシントン体制の破綻と満州事変の背景/石原莞爾と満州国建国の理想
第九章  大アジア主義と支那をめぐる相剋  
国際連盟脱退から大アジア主義へ/広田外交の破綻と支那事変勃発の真因/尾崎・ゾルゲ事件と「東亜新秩序」/近衛文麿と日独伊三国同盟締結/「大東亜共栄圏」仏印進駐と東亜解放
第十章  日米交渉と開戦の経緯  
日米交渉と東条英機内閣の成立/ハル・ノートと日本人強制隔離問題/開戦の詔書をめぐつて/大東亜戦争と東亜解放/「自存自衛」から「東亜解放」へ/大東亜会議と大東亜共同宣言
第十一章  後に続くを信ず  
神風特別攻撃隊の悲劇と栄光/硫黄島・本土空襲・沖縄戦/原爆投下とソ連参戦

勝岡寛次 「抹殺された大東亜戦争―米軍占領下の検閲が歪めたもの」
http://www.meiseisha.com/katarogu/massatusareta/daitouasensou.htm




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「八弦一字」の無知の涙
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              平井 修一

戦後も30年経った昭和50年頃、小生は60歳ほどの師匠から新聞のレイア
ウトを学んでいた。レイアウトなどという言葉は普及していず、割付と
言った。

ある日、師匠に尋ねた。
「はちげんいちじって何ですか?」
「う? はちげんいちじ?」
「ええ。八弦一字。戦時中のスローガンみたいですけど」

「おまえなあ、そりゃ、はっこういちう、八紘一宇と書くんだよ」
師匠はあきれると同時にちょっぴり哀しい顔をした。

八紘一宇を辞書で引くとこうある。「世界をひとつの家とすること。太
平洋戦争期、わが国の海外進出を正当化するために用いた標語」。広辞
苑だから否定的な解釈だ。八紘とは、四方と四隅で、世界を意味してい
る。

最高学府に学んだ小生でも「八紘一宇」の意味を知らなかったのは、G
HQの言葉狩りによる。GHQは日本占領政策を進めるに際して猛烈な
情報管理を行い、検閲制度で言論を取り締まった。その詳細の原本は見
つからなかったが、
http://www.tanken.com/kenetu.html
に詳しい。

以来、日本人は大東亜戦争、占領軍の押し付け憲法などについて真実を
知らされず、考えることも少なく、民族としていささか劣化してしまっ
た。これ以上劣化したら、とてもじゃないが立ち直れまいというときに
安倍政権が誕生し、憲法改正(自主憲法制定)をテーマに掲げたのは天
佑だと小生は思う。

国立国会図書館の資料には、

【画像】 昭和(戦後)/昭和憲法/「マッカーサー草案の外務省仮訳」
というのがあった。「(昭和21年)2月13日にGHQ/SCAPの憲法改正案が
提示されると、直ちに外務省により仮訳が作成された。これに若干の訂
正を加えたものが、26日の閣議で配布説明された。」と解説にある。
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/shiryou/limage/Gazou_34_1.html

その全文は、以下で知ることができる。
http://home.c07.itscom.net/sampei/macken/macken.html

腹が減ってもいい、着の身着のままでもいいから普通の国並みの憲法を
創りたいと、建国記念の日に改めて思った。
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by thinkpod | 2007-02-10 16:23 | Books