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2007年 01月 21日

戦後…博多港引き揚げ者らの体験

<1>「ソ連が来る」息潜めた
 ◆略奪、暴行 苦難の果ての祖国

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漁船で引き揚げてきた人たちもいた(「米軍が写した終戦直後の福岡県」より)
 ロシアと国境を接する中国黒竜江省の省都・ハルビン。「満州国」時代には日本が支配したこの都市に、高等女学校教諭として赴任していた溝口節さん(83)(福岡県大野城市)は、ある光景が脳裏に焼き付いて離れない。

 終戦直後の1945年9月、日本人の避難所だった自宅隣のホテル。自宅窓からのぞき見ると、上半身裸のソ連(当時)の兵隊が、ホテル窓から室内へと押し入った。間もなくして、女性の悲鳴が深夜の街に響き渡った。

 「ソ連兵に捕まったらどうなるか。具体的にはわかってなかったけど、『とにかく大変なことになる』とは感じていました。だから不安でたまりませんでした」

 溝口さんが、日ソ中立条約を破って満州(現中国東北部)に侵攻してきたソ連兵に初めて遭遇したのは、その半月ほど前。学校にいた時、小銃を提げた5、6人がトラックで乗り付けてきた。教室に入るなりミシンや地図を探し出し、トラックに積み込んで持ち去った。

 この時は「泥棒みたいな兵隊だな」と感じた程度だったが、次第に、ソ連兵は民家に押し入り、貴金属から衣類、色鉛筆まで、手当たり次第に略奪するほど治安は悪化していった。

 そんなころだった。ノックの音で何気なく自宅のドアを開けると、ドアの前に立っていた、近所に住む叔母にいきなり怒られた。

 「あんた、何やってるのよ。うろうろしていないで隠れないと」

 「夫の前で暴行されて、青酸カリで自殺した奥さんもいるらしいのに」

 その日から、溝口さんは床下の高さ50センチ、広さ6畳ほどの空間で、息を潜めて暮らすことになった。治安がやや安定した1か月後にはい出した時には、日に当たっていない肌は白くなり、一人では歩けないほど脚が衰弱していた。

    ■   □

 自宅を捨てたどり着いた日本人の収容所が、ソ連兵に襲われた体験を持つ人もいる。

 「チャラ、チャラというサーベルの鎖の音と、軍靴の硬い靴音は今でも忘れられない」と振り返るのは、山本千恵子さん(69)(福岡県太宰府市)。

 山本さんは家族6人で、朝鮮半島北部にある白頭山から東に約150キロの羅南で暮らしていた。ソ連侵攻後の45年8月13日、6人家族のうち、召集された父親を除く一家5人は山中に避難。ひたすら南側に向かって歩き続け、2か月後、約300キロ離れた興南の日本人収容所にたどり着いた。

 しかし、弟がチフスで命を落とす。母が出産した女児はすぐに死亡。母親も3日後に息を引き取った。収容所での肉親は、当時9歳だった山本さんと姉、妹だけとなった。

 「ソ連が来る」

 ささやくような声が、収容所の棟から棟へと素早く伝えられる。1畳に2、3人が寝る狭い部屋だったが、みんなで畳を持ち上げ、若い女性を床下に押し込んで手早く元に戻した。

 「マダム、ダワイ!(女を出せ)」

 わめき声が近づき、サーベルの鎖と軍靴の音がドアの前で止まった。ドアを開けたソ連兵は、息を潜める一人ひとりの顔をのぞき込み、時には頭をつかんで顔を正面に向けさせ、女性でないかどうか確かめることもあった。

 1度だけ、収容所の外で女性の悲鳴を聞いた。悲鳴は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 「男性に見せかけて暴行を逃れるために、女性は髪を短く切って男物の服を着たり、顔に墨を塗ったりした。子供心にも『ソ連兵が来た時は黙っていないといけない』と思っていた」

 収容所であった出来事を思い起こす時、山本さんの顔は今でもこわばる。

    ■   □

 帰国への最後の難関は、引き揚げ船だった。

 京城(現韓国ソウル市)で生まれ育った森下昭子さん(79)(福岡市城南区)は45年10月、家族や親せきと満員の列車に乗り、釜山近くの街・鎮海にたどり着いた。1500トンの船には引き揚げ者が次々に押し込まれ、森下さんは、明かりもない真っ暗な甲板にひざを抱えて座り込んだ。聞こえてくるのは子供の泣き声と病人のうめき声、そして船が波を切る音だけ。船全体が暗い海に吸い込まれていくようで不気味だった。

 「博多に着いたぞ!」

 翌日、大声が聞こえた。船の先には、空襲で焼けただれた博多の街が広がっていた。下船後、人影もなく、黒っぽいがれきだけが広がる街を、博多駅まで30分ほどかけて歩いた。京城で育った森下さんにとって、日本は初めて足を踏み入れる“異国”。「これから私はどうなるのだろう」。不安でいっぱいだった。

 博多港に引き揚げてくる人の波は途切れなかった。そのなかには、ソ連兵などに暴行されたために、体に変調を感じている女性もいた。

    ■   □

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 終戦後の45年11月から約1年半の間に、朝鮮半島や中国大陸から約139万人が引き揚げてきた福岡・博多港。韓国への高速船や中国へのコンテナ船が次々に出港していく現在の博多港では、「博多港引揚記念碑」以外に、命からがら引き揚げてきた人たちがいたことを示す跡は見当たらない。海峡を越えてたどり着いた祖国で、人々は何を見、何を体験したのか。引き揚げ者らの「戦後」を報告する。

 メモ 終戦時、海外にいた軍人や市民などの日本人は約660万人。その半数以上が中国大陸で生活していた。終戦直前の1945年8月9日、ソ連が、翌年4月までが期限の日ソ中立条約を破り、満州と朝鮮半島北部に侵攻。満州では戦中に約6万人、停戦後に約18万5000人が死亡したほか、北朝鮮で約2万8000人が亡くなった。混乱した満州では、肉親と離れて取り残された「中国残留孤児」や、集団自決などの悲劇が起きた。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060720.htm



<2>医師らひそかに中絶手術
 ◆厚生省「超法規的措置」で保養所開設

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二日市保養所。入り口脇には「厚生省博多引揚援護局保養所」の看板がかかっていた(福岡市総合図書館所蔵「博多引揚援護局史」より)
 「不幸なるご婦人方へ至急ご注意!」。満州(現中国東北部)や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。

 「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり……そのため体に異常を感じつつある方は……」「診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」

 全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連(当時)の兵隊などの暴行で妊娠していた女性には見当が付いた。

 中絶手術。優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。

    ■

 ビラを配ったのは、現在の韓国の首都ソウルにあった京城帝大医学部の医師たちのグループ。

 このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、ほとんどは45年12月ごろに帰国。引き揚げ者の治療を続けるため、外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え。46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺「聖福寺」に、診療所「聖福病院」を開設した。

 帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか——。きっかけは、暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。

 このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。しかし、話しかけても泣くばかり。両親から「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。

 すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。

 外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。

 医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。

    ■

 医師らから提案を受けた厚生省(当時)博多引揚援護局は福岡県と交渉し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月、「二日市保養所」を開設した。

 厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、当時、聖福病院に勤務していた元職員は「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」と推測する。

    ■

 京城日赤病院に勤務していた村石正子さん(80)(筑紫野市)は、45年12月に帰国した後、母親のふるさと・種子島で暮らしていた。「仕事を探しているなら二日市に来るように」。約3か月後、日赤幹部から1枚のはがきが届いた。

 二日市保養所を訪ねると、京城日赤病院時代の看護師10人が集まっていた。

 医師から仕事の内容を聞かされ、風呂場を改造して手術台と戸棚を置いただけの“手術室”に案内された。宿舎としてあてがわれた2階の10畳の和室では、「中絶手術って違法じゃないの?」と話し合った。

 だが、悩んでいる余裕はなかった。数日後、トラックが到着した。荷台に乗っていたのは、短い髪に汚れた顔、男性用の服をまとった人たち。「男か」と思ったが、下腹部の膨らみを見れば女性であることはすぐにわかった。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060727.htm



<3>麻酔なしの中絶手術

特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、今年5月14日に行われた「水子供養祭」(福岡県筑紫野市で)
 ◆恨みと怒りの声、手術室に響く

 引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。

 麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。

 「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」——。手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。

 おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。

 幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。白い肌に赤い髪、長い指——。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。

 食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。

 死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった吉田はる代さん(78)(埼玉県川口市)らの仕事だった。手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。

 手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。会話もなく、横になっているだけ。大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。

 女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400〜500人にのぼると見られる。

 1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。

 島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。

 二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。「私はこの手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060803.htm



<4>日誌につづられた悲劇
 ◆相談員だった母…暴行・妊娠を聞き取り

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博多港とほぼ同じ約139万人が引き揚げてきた佐世保港。「引揚第一歩の碑」が立つ
 戦後、九州で博多港とともに中国大陸などからの主な引き揚げ先となった長崎県・佐世保港。佐世保市に住む中山與子(ともこ)さん(66)の母、西村二三子さんは、終戦翌年の1946年5月、佐世保引揚援護局が設置した「婦人相談所」の相談員だった。西村さんは77年に70歳で亡くなったが、その数年前に相談員だったことを中山さんに打ち明けていた。

 「相談員当時の母は、朝早く家を出て、夜には消毒薬のにおいをさせながら帰宅していました。でも、何の仕事をしているのか、具体的には全くわかりませんでした」。中山さんは振り返る。

 相談員を務めたのは、女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」会員の主婦たち。15〜50歳の女性引き揚げ者を対象に、引き揚げ中に暴行を受け、妊娠していないかどうかを聞き出し、妊娠している場合は、中絶手術を受けさせることが役目だった。

    ■

 相談員だったことを打ち明けた西村さんは、「問診日誌」と題した、便せんをとじ込んだつづりを中山さんに手渡した。西村さんら相談員による聞き取り記録で、女性たちが満州(現中国東北部)などで受けた暴行被害が克明に記されていた。

 ▽16歳の女学生がソ連軍(当時)の司令のところに連れて行かれ、暴行されそうになったので、見るに見かねて身代わりとなった。

 ▽ソ連兵から女性を要求されたため、売春をしていた女性を雇いに行く途中に暴民に金を奪われた。やむを得ず、未婚の女性47人を出し、足りないので、さらに未婚の女性80人を出した——。

 日誌では引き揚げ者の女性たちは、つらい体験を具体的に語っていた。だが、暴行のために妊娠した女性について、佐世保引揚援護局史には、「婦人相談所で事情を調査し、療養処置を要する婦女子は国立佐賀療養所(現在の東佐賀病院)に移送した」としか記されておらず、実態は明らかではない。

    ■

 佐賀療養所でどのような治療が行われたのか——。同援護局史には書かれていない事実の一端が、一通の手紙からうかがえる。

 手紙は戦争にまつわる女性の被害を調べていた九大医学部卒の産婦人科医・天児都(あまこくに)さん(71)(福岡市城南区)が97年、九大医学部産婦人科教室OBの医師数人に尋ねたところ、1人から送られてきたものだ。

 「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」「(産婦人科教室の医師が)1、2か月交代で佐賀療養所に行っていた。患者の大部分はソ連兵や現地住民に暴行されて妊娠した人で、妊娠中絶が主な仕事だった」——。

 厚生省の指示によって、国立病院で、当時は原則として違法だった中絶手術を国立大医学部の医師たちがひそかに行っていた——と告白する内容だった。

    ■

 組織ではなく、個人的に中絶手術を手がけたという医師もいる。博多引揚援護局が福岡県筑紫野市に設置した二日市保養所に下宿しながら九大医学部に通った東京医科大名誉教授・相馬広明さん(84)(東京都世田谷区)。

 相馬さんは終戦後、国立福山病院(広島県福山市、現在の福山医療センター)で、18歳くらいの女性の手術をした。卵巣の腫瘍(しゅよう)だと診察したが、開腹して妊娠と判明。慌てて腹部を縫い合わせ、麻酔から目を覚ました女性に聞くと、「実は終戦直後にソ連兵に暴行された」と打ち明けられた。

 相馬さんは女性に中絶手術をし、ほかにも同様の手術を数件行ったという。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060810.htm
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by thinkpod | 2007-01-21 19:10
2007年 01月 21日

戦後…博多港引き揚げ者らの体験

<5>孤児収容所愛情の記憶
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聖福寮には6畳の部屋が約30室あった。八巻さんの目には「真新しい立派な建物」に映った(1946年8月撮影、内山和子さん提供)
 ◆成長した姿と再会、元園長感慨深く

 終戦から間もなく丸1年となる1946年8月9日。赤い発疹(はっしん)だらけの男の子や、ソ連(当時)の兵隊の欲望から逃れるために髪を短く切った女の子ら約250人が、引き揚げ船から博多港に下り立った。ほとんどは満州(現中国東北部)で両親と死に別れた孤児たち。特に健康状態が悪い44人は、博多引揚援護局が博多港近くの「聖福寺」(福岡市博多区)に設置した孤児収容所「聖福寮」に運ばれた。

 出迎えたのは、後に園長も務める保母、石賀信子さん(89)(同市中央区)。女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」青年班のリーダーだった石賀さんは46年春、引き揚げ者の支援活動を行っていた「友の会」中央本部から「福岡でも支援を始めるように」という電報を受け取った。博多港近くの別の寺を見に行くと、本堂の畳の上に寝転がっていたのは、やせこけた孤児たち。「何とかしなければ」という思いが募り、福岡女学院教諭の職をなげうつことを決めた。

    ■

 44人のうち、当時14歳で最も年上だったのは、八巻博雄さん(74)(宮城県大崎市)。八巻さん一家は満州・蓮江口で生活していたが、ソ連侵攻後に父親は召集され、避難中に祖父母と妹、母が相次いで死亡。残されたきょうだい4人は満州の首都・新京にあった孤児院に入った。八巻さんは汽車のかまからこぼれ落ちる石炭を拾い集め、市場で中国人に売っては生活費に充てた。

 生き抜いた4人は孤児院の保母に連れられ、博多港にたどり着いた。聖福寮に入った時の八巻さんの体重は、現在の14歳男子の平均の半分しかない28キロ。それが1週間後に33キロにまで増えたのは、八巻さんが「今でもごちそうとして通るような食事だった」と振り返るように、白い米のご飯や牛乳、ビスケット、ブドウなど、充実した食事のおかげだった。

 博多引揚援護局から特別に支給されたものが多かったが、石賀さんは「石油缶に入っていた旧日本軍のビスケットを、虫を払い落としておやつに出したこともある」と苦笑いしながら思い返す。

 さらに、聖福寺に開設されていた診療所「聖福病院」から、毎日医師が診察に来てくれた。事務を担当していた波多江興輔さん(82)(東京都豊島区)によると、病院の経営は苦しかったが、聖福寮寮長を兼ねていた小児科医・山本良健さん(故人)が無料で診察を続けたという。

 「『どうしてこんなにきちんとしてくれるのだろう』と思うほど保母さんはやさしかった」と、八巻さんは振り返る。毎日の“仕事”といえば、保母に連れられて年長の子ども数人と博多引揚援護局に行き、牛乳を入れてもらったやかんを持ち帰るくらい。やかんを軽くするために、帰り道ではいつも少し飲ませてもらえた。

 「結婚後の生活よりも思い出深いし、今でも時間のある時に思い出す」。八巻さんにとって、聖福寮での生活は、働きづめの人生の中で安息のひとときと記憶されている。

    ■

 46年11月、4人は一家の出身地・宮城県の児童養護施設に移った。その後、妹は養子に行き、2人の弟は知人や親類に引き取られてきょうだいは散り散りに。八巻さんも親類宅に住み込んで農作業を手伝った後、シベリアから引き揚げてきた父と一緒に宮城県鳴子町(当時)の高原に入植。54年に結婚後は3人の子供に恵まれ、農地9000坪を所有するほどになった。

 「よくない施設だったら聖福寮に返してください」。きょうだい4人を引き取りに来た宮城県の職員に頼んだほど、八巻さんらの行く末を気にかけていた石賀さんは78年10月、八巻さんの農場を訪ねた。家庭を築き上げ、緩やかな丘陵に広がる農場を持つ八巻さんと再会した時、石賀さんは心の中でつぶやいた。「ああ、私の戦後はこれで終わった」

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm



<6>孤児の女性が保母に
 ◆生きる喜び伝えたい


遠藤美都子さん
 現在新潟市に住む遠藤美都子さん(74)は、朝鮮半島北部の恵山鎮で終戦を迎えた。約1か月歩き続けてたどり着いた約180キロ南の咸興の収容所では、1946年2月、父と兄が次々に息を引き取った。

 孤児となった遠藤さんは、46年10月に引き揚げ船から博多港に一人で降り立ち、引き揚げ孤児収容所「聖福寮」(福岡市博多区)に運ばれた。ひざではって歩くほど足が悪く、栄養失調も深刻だった。それでも、サツマイモ入りご飯などの食事のおかげで、次第に健康を取り戻した。

 木造のバラックではあったが、掃除の行き届いた聖福寮は明るさにあふれていた。朝食の後には九州大の学生が来て国語や算数を教えてくれた。清潔なエプロンをつけた保母たちは、いつも洗いたての服を着せてくれ、皮膚に寄生したダニが作る赤い発疹(はっしん)の手当てをしてくれた。

 生活のために咸興で朝鮮人宅に住み込み、家政婦として働いたこともあった遠藤さんにとって、「ただただうれしく、『生きていてよかった』と実感できる毎日」だったが、46年12月、福岡県甘木町(現在の朝倉市)の叔父に引き取られ、聖福寮での生活は3か月で幕を下ろした。

 中学卒業が近づき、独り立ちの道を模索していた時、聖福寮での楽しかった思い出が心の中に浮かんだ。自分が経験したような喜びを、今度は自分が子供たちに与えてあげられたら——。思い立ったのが、保母になることだった。

 「子供と話す時はひざを落として目を同じ高さにするなど、子供のことをいつもきちんと考えていた」と、尊敬していた保母の石賀信子さん(89)(福岡市中央区)に相談の手紙を送ると、絵はがきにペンでつづった返事が届いた。

 「聖福寮のお仕事を手伝って下さったら本当にうれしい」

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保母だったころの遠藤さん(右端)と、ひな飾りを前に写真に納まる子供たち(遠藤さん提供)
 引き揚げ孤児収容所・聖福寮から、働く女性のための託児所に衣替えした「聖福子供寮」での仕事が、49年11月から始まった。保育を学んだ経験のない遠藤さんは、思わず大声を上げることもあった。

 聖福子供寮長だった山本良健さん(故人)の二男で、51年3月に入園した良樹さん(58)(千葉市若葉区)は、「石ころか何かを教室に持ち込んだ時に、かん高い声で怒られたことがある」と思い返す。

 遠藤さんも、「いたずらをした子供の食事を抜いたこともあったし、一番怖い先生と言われていました」と自認するほどだったが、愛情があればいつの日か子供は理解してくれると、ひるむことはなかった。

 新しい人生の門出の舞台も、聖福子供寮から名称を改めた「いづみ保育園」だった。九州大助手だった治郎さん(74)と58年4月に結婚した時、同園の大広間で披露宴を行ったのだ。ウエディングドレスは石賀さんが子供の親に頼んで仕立ててくれ、保母の内山和子さん(84)(福岡市中央区)がウエディングケーキに腕を振るった。

 披露宴前日には、受け持っていたすみれ組の子供たちが、「あしたは先生の結婚式」と、窓ガラスをていねいにふいてくれた。

 治郎さんの仕事の都合で熊本に引っ越すことになり、61年3月、遠藤さんはいづみ保育園に別れを告げた。

 「孤児として引き揚げてきた私を生活させてくれ、一生の仕事まで見つけさせてくれた。聖福寮がなかったら、今の私はありませんでした」

 60年前、聖福寮で撮影した栄養失調で細い腕の自分の写真に目を落としながら、遠藤さんは繰り返した。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm


<7>子どもの心潤した食事と行事
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「よくみる よくきく よくする」という、いづみ保育園の標語の前に並んだ子どもたち(1953年3月、遠藤美都子さん提供)
 朝鮮半島などからの引き揚げが一段落した1947年3月、引き揚げ孤児収容所「聖福寮」(福岡市博多区)は、働く女性の子どもを預かる託児所「聖福子供寮」に衣替えした。

 終戦からまだ1年半余。食べていくのに精いっぱいの親が多く、全くしつけを受けていない子どもが続々と入寮した。一方、出迎える保母の大半は、保育を学んだことも、育児の経験もない人ばかり。

 「私たちにできることは、子どもが長時間暮らす託児所の中だけでも、『きちんと生活させること』しかなかった」。当時の寮の教育方針について、後に園長も務める保母の石賀信子さん(89)は、振り返る。

 「きちんと生活させる」ために、保母らが力を注いだのは、食事だった。

 「おやつがあるから聖福子供寮がいい」。家から近い幼稚園に“転校”させようとした親に、こう言って抵抗する子どもがいたほど、恵まれた食事は子どもの心を潤した。


聖福子供寮ができたころ、幼い子供を預かる保育園は少なかった。「閉園時にはかなり増えていたので、『役割は終わった』という満足感もあった」と石賀さんは振り返る
 石賀さんをはじめ保母の中には、女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」の講習会で、しゃれた料理を習い覚えた人が多く、子どもたちに出す食事でその腕を振るったからだ。

 その中の一人だったのは、内山和子さん(84)(福岡市中央区)。当時の日課は、夕方になると5分ほど歩いて米軍のPX(売店)の裏口に出かけ、切り落とされた柔らかいパンの耳を段ボール箱に入れてもらうことだった。

 情けない思いはよぎったが、「子どもを喜ばせることができる」という思いが勝った。パンの耳をもとに作ったのは、講習会で習った洋菓子「パンプディング」。子どもたちは、初めて見るおやつを、歓声を上げながらほおばった。

 52年9月に聖福子供寮から「いづみ保育園」に名称が変わっても、食事は充実していた。「タンシチューやロールキャベツが日常的に出された」。聖福子供寮長だった山本良健さん(故人)の二男で、卒園生の良樹さん(58)(千葉市若葉区)が懐かしむように、レストランで出るような洋食が子どもの食卓を彩った。

 また、七夕や海水浴のほか、クリスマスには、山本さんらがふんしたサンタクロースがプレゼントを配るなど、季節ごとの行事が子どもの心を浮き立たせた。

 季節感のある行事は、整った食事とともに、「きちんと生活するうえでの基本」(内山さん)だった。そうした保母たちの思いは、良樹さんが、「個性豊かな保母たちが、愛情を込めて与えてくれる豊かな生活が、いづみ保育園の魅力だった」と振り返るように、子どもの心にも伝わった。

 いづみ保育園の原点となった聖福寮は、終戦後の混乱期、正式な契約もないまま聖福寺の境内に建てられたものだった。グアム島に残留していた元日本兵2人の生還が大きなニュースとなった60年、土地の返還を迫られたが、移転する土地も見つからず、65年3月、最後の卒園生18人を送り出して閉園した。

 引き揚げ孤児を守り育てた聖福寮の発足から、いづみ保育園の閉園まで19年。この間に引き揚げ孤児164人を含む981人が巣立っていった。

    ◇

 「戦後—博多港引き揚げ者らの体験」は今回で終わります

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060831.htm



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敗戦後の日本女性強姦についてはソ連兵が悪名高いが、実際には
朝鮮人によるものがダントツで多い。

「水子の譜(うた)」上坪 隆
----- ドキュメント引揚孤児と女たち -----
ttp://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60009096&genreid=10010

二日市保養所の資料は、六月十日の報告書
183 ページ "地域別と加害者"
これは、2ヶ月分だけの記録
加害者の6割が朝鮮人だと示しています。

不法妊娠(強姦等による妊娠 救療部の用語)ヲ地区別ニ分類スルニ北朝24ニシテ最多、
南鮮14、満州4、北支3ノ順序ニシテ
鮮人ニ因ルモノ28、ソ連人ニ因ルモノハ8、支那人ニ因ルモノ6人、
米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ


この記録は、たった2ヶ月だけ。
堕胎施設は、二日市保養所の他にもあるし、氷山の一角に過ぎない。
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by thinkpod | 2007-01-21 19:06
2007年 01月 17日

[アメリカ]共和・民主大逆転のアメリカ議会で「反日」「親日」勢力図はこう変わる

           古森義久     SAPIO 1/4号

アメリカの新議会のスタートとともに、「議会や政府では親日派が減って、反日派が増えるのでは?」という観測が日本側のあちこちで語られるようになった。議会のメンバーのこれまでの日本や日米関係に対する姿勢が全体として「反」方向に変わるだろう、という予測でもある。結論を先にいえば、こうした観測はやや皮相かつ短絡だといえよう。
 まずアメリカの議員の色わけをするにあたっての「親日」「反日」という区分が誤解を招きやすい。とくに「親日」という言葉には、アメリカ政治の現実からやや離れた思いこみがにじんでいる。極端な表現をすれば、アメリカの議会にも、政府にも、親日派というのは存在しない。親日というのは、普通の意味で日本に対し好意を抱いている、あるいは日本が好き、ということだろう。
親日議員というと、その政治言動も日本への好意や好感情に基づいて展開する政治家のイメージがわいてくる。だが残念ながら、そういう議員はアメリカ連邦議会にはいない。単に日本が好きだから、議会での立法活動もそれに合わせるというのでは、アメリカの議員としては失格である。
 その一方、日本を大切に扱い、日本との同盟を重視することが自国の国益に資すると考え、その考えに合わせた言動をとるアメリカ議員は存在する。そうした議員の活動を表面だけでみれば、親日と映るかもしれない。だがそれら議員の思考としては、あくまでの自国の国益が最優先の指針なのだ。
 同時に知日派の議員も存在する。日本に在住したことがある。留学したことがある。あるいは学術研究の対象としたことがある。そういう経験から日本についての知識や理解が豊かな議員たちである。だが単純な意味での親日議員がいないとの同様に、知日派だからいつも日本にとって好ましい政治の選択をするわけではない。
 
 こんな前提条件を強調したうえで、アメリカ新議会を改めてみまわすと、まず「親日派」が後退したように感じる最大の理由は、一九九八年から下院議長だった共和党のデニス・ハスタート議員が議長ポストを降りることであるのに気づく。ハスタート議員は一九七〇年代に日本の大阪に在住し、英語を教えた体験があり、それ以来、日本には親しみを示すことが多かった。たとえば二〇〇三年に北朝鮮に肉親を拉致された横田早紀江さんら「家族会」の一行がワシントンを訪問して、ハスタート議長を訪れたとき、同議長が「よくいらっしゃいました」などと、日本語で挨拶をしたという話は広く知られている。
 ハスタート氏が下院議長として法案の審議や公聴会の開催のプロセスで日本を重視し、対日同盟を堅持する姿勢を保ってきたことも事実である。同氏が議長から一議員になったことは、日本を重視するパワーも減るということだろう。
 しかし上下両院にはなお日本との関係を大切にする議員は少なくない。共和党にそうした議員が多いのは、共和党のブッシュ政権がそうした日本重視政策をとっているからだといえよう。上院共和党サム・ブラウンバック議員も、とくに拉致問題で日本への同情や理解を長年、示してきた。公聴会や記者会見にのぞむ姿勢も日本の人道上の苦痛に十二分に配慮するという構えだった。同議員は日米関係全般をも重視し、日本をいつも前向きの表現で語っている。なおブラウンバック議員は二〇〇八年の大統領選挙への出馬の意欲をもちらつかせている。
ハスタート、ブラウンバック両議員のような共和党保守派の政治家たちは、みな日米同盟をきわめて重視する。同じように安全保障政策から入ってきて、日米同盟堅持の重要性のために日本を大切にすべきだという立場を鮮明にするのは、共和党上院議員のジョン・マケイン氏である。同議員は二〇〇八年の大統領選挙での共和党側の最有力候補とされる。
民主党側でも日米同盟保持という点ではコンセンサスに近い支持がある。日本をよく知っており、日本について語ることの多い政治家といえば、上院のジェイ・ロックフェラー議員である。一九八〇年代から九〇年代にかけての貿易問題では日本を非難することも多かったが、安保面では一貫して対日同盟の紅葉を説いてきた。こうした面での上下両院議員たちの対日観について、議会調査局のベテラン専門官のラリー・ニクシュ氏は次のように語った。
「いまの議会には議員の賛否両論を激しく分けるような切迫した日本関連の摩擦案件がない。だから議員たちの間でも『親日』か、『反日』か、というような単純なレッテル区分はつけがたい。一九八〇年代の日米貿易不均衡、日本のFSX(次期主力戦闘機)問題などがその実例だった。日米貿易摩擦では日本の製品やマネーのアメリカへの流入に対し、日本を非難して、その規制にあたるか、あるいは日本市場の閉鎖性を非難して、懲罰的な措置をとるか、それとも安保面での日本の重要性を考慮して、そうした反日政策を自制すべきかどうか、である。だがいまは議員たちの意見が明確に二分されるという日本関連のケースはない」
日米貿易摩擦のころでも、アメリカ側の議員たちは地元選挙区が日本との貿易競争で被害を受けた鉄鋼企業とか自動車産業を抱えていれば、積極果敢に日本非難を表明していた。
日本の経済進出のために雇用が脅かされるという米側の労働組合も伝統的に民主党支持である。だから労組に日本非難が強ければ、その労組に支持された民主党議員たちは「反日」の立場をとるわけだ。
 だがこの種の摩擦がほとんどない現在、民主党議員たちの「反日」も大幅に薄まったといえる。好例は民主党の大ベテランのダニエル・イノウエ上院議員である。イノウエ議員は日系米人であるにもかかわらず、貿易摩擦で米側一般に日本非難の風潮が強かった時期は、単に日本に冷たいだけでなく、積極的に日本の「不公正貿易」などの糾弾の先頭にも立った。日本の市場閉鎖性などへの激しい非難をむしろ他の米側議員よりも早く、強く表明することが多かった。
 ところが最近ではイノウエ議員は日本大使館との交流にも快く応じ、日米関係の緊密化のために、多様な領域で日本への建設的な提言さえするようになった。九〇年代後半まではまったくそうした対日姿勢はうかがわれなかったのである。
 最近のイノウエ議員とは対照的に、同じ日系米人の議員でありながら、いまの議会では珍しく、はっきり「反日」と呼べるような言動をとるのは下院民主党リベラルのマイク・ホンダ議員である。同議員は日本の「従軍慰安婦」への賠償要求や第二次大戦中の米人元捕虜の強制労働への補償要求など、日本の政府や大手企業を相手取っての訴訟をプッシュする法案や決議案を次々に出してきた。選挙区のカリフォルニア州サンノゼ地区には中国系住民が多く、そこからの圧力で日本非難の動きへと走っているようだ。
一方、共和党でありながら日本関連のケースで唐突に、あるいは散発的に日本を糾弾してきたヘンリー・ハイド下院国際関係委員長の軌跡もおもしろい。ハイド議員は共和党保守派であり、日本との安全保障関係の強化にも積極的なのだが、小泉純一郎前首相の靖国神社参拝には控えめながら、留保をつけた。なるべくなら参拝しないほうがよい、という意見だった。この一点だけで即「反日」と断ずるのは不正確だが、八十二歳のハイド氏が第二次世界大戦で日本軍と戦った体験があることも大きな要因のようだった。
 しかしハイド議員は今期でもう引退となった。上下両院の議員の間で日本軍との戦歴ありという人は数年前までなら二十人をも数えたが、いまではこのハイド氏を最後に対日戦争従軍体験者は両院から完全に姿を消すことになるという。
 下院国際関係委員会で日本の首相の靖国参拝をさらに激しく非難したのは民主党リベラルのトム・ラントス議員である。いま七十八歳の同議員はハンガリー生まれのユダヤ系で、アメリカ議会全体でただ一人のホロコースト生き残りである。十代の少年のころ、ナチス・ドイツの強制収容所に入れられ、脱出して一命を取りとめた経歴を有する。
 ラントス議員の靖国非難だけをみれば、日本に対し冷たく厳しいともうけとれるが、人権擁護派の同議員は中国の独裁政権に対してはさらに強硬な非難を明示する。そして日本との同盟関係には無条件の支持を表明するのだ。アメリカの議員の「親日」、「反日」という直線的な色分けが難しいことの例証がここにもある。
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/102462/




アメリカ議会の女性議長は「反中」なのか。ペロシ議員にみる対中語録
2007/01/23 10:17

アメリカの政治への関心が高まっているようです。そのなかでも新しい民主党多数の議会の動向は日本側にとってもとくに気になるところです。
前回のコメントでは新議会の対日姿勢について報告しました。では中国に対する姿勢はどうでしょうか。
ここにアメリカ新議会の対中姿勢、対中認識に関して興味ある語録があります。女性で初めて下院議長となったナンシー・ペロシ女史の中国に対する種々のコメントです。
私はこのテーマについてこれまで産経新聞本紙その他で報道してきましたが、改めて詳細を以下に紹介します。

一月はじめに幕を開けたアメリカの第百十会期新議会では年来、中国を激しく糾弾し、「反中」とさえみなされてきた民主党議員たちが大きな役割を演じることになった。この事実は日本のマスコミではほとんど報じられていない。
その筆頭は下院議長となったナンシー・ペロシ議員である。
中国糾弾ということではペロシ議員のこれまでの言動は下院全体でも突出してきた。サンフランシスコを選挙区とするペロシ議員はそもそも自由や人権の擁護を信条とする超リベラル派であるうえに、選挙区内には全米でも最大規模のチャイナ・タウンを抱えている。この中国街には台湾系や香港系も含めて中国共産党の独裁態勢を批判する中華系住民が多い。
「胡錦濤は中国住民とチベット住民の自由、民主主義、宗教上の表現を残酷に粉砕した政権のリーダーである。そんな指導者が米国民の税金による赤い絨毯や二十一発の礼砲での大歓迎をブッシュ大統領から受けるのだ」
「この胡政権はイランや北朝鮮を含む国際的安全保障を脅かす諸国に軍事技術を提供するのだ。しかも台湾に軍事攻撃の脅しをかけ、政治や宗教の信条を表明する中国民を拷問にかけ、ダライラマの肖像画を持参するチベット住民を逮捕するのだ」
以上はペロシ議員がつい二〇〇六年四月、ロサンゼルス・タイムズに寄稿した一文の記述である。胡錦濤国家主席がワシントンを訪れ、ブッシュ大統領と会談する直前に、当時、民主党の下院院内総務だったペロシ議員は中国をこのように激しく非難し、ブッシュ政権の対中政策をも「苛酷な独裁政権に寛容すぎる」として糾弾したのだった。
一九八七年に下院に初当選したベロシ議員は八九年の天安門事件以後、中国糾弾を鮮明にするようになった。中国共産党による民主派弾圧を厳しく批判して、中国民主活動家たちが天安門広場に作った「自由の女神」のレプリカを自分の議員事務所に堂々と飾って、中国当局への抗議の意思を表明した。
九一年九月に中国を訪問したペロシ議員は天安門広場で中国の民主化を呼びかける政治スローガンを記した横断幕を掲げて、警官に阻止された。中国当局は同議員の言動を「反中の茶番」と断じて、公式に非難した。ペロシ議員は以来、中国政府首脳を指して「北京の殺戮者たち」という表現までを使うようになった。
ペロシ議員はさらに九二年に時の先代ブッシュ大統領が中国の当時の李鵬首相と会談した際には「米国大統領がなぜ殺戮者と握手するのか」と糾弾した。同議員は自分と同じ民主党のクリントン大統領に対してさえ、九七年十月の江沢民国家主席(当時)をホワイトハウスに招いての国賓ディナーに抗議して、「国無しディナー」を催し、「ブッシュ大統領は独裁者を甘やかせたが、クリントン大統領は独裁者の宣伝に努めた」と批判した。
ペロシ議員はそのうえに中国非難を単に人権の領域に留めず、中国の世界貿易機関(WTO)加盟や北京オリンピック開催にも強い反対を表明し、議会での投票でもその反対を体現してきた。要するに米国議会全体でももっとも過激な反中派と目されてきたのだ。
ペロシ議員は前述の昨年四月の寄稿論文では、中国による大量破壊兵器のパキスタンや北朝鮮への拡散、人民元レートの操作、貿易の不公正慣行などを非難し、ブッシュ政権の対中政策を「宥和的すぎる」と断じていた。ブッシュ政権が対中政策のキーワードの一つとする「ステークホルダー(利害保有者)」という用語をも「単なる楽観的な考え」と一蹴したほどだった。
こうした厳しい対中言辞の実績を持つペロシ議員が下院議長になるという見通しは中国側にも懸念を生んだ。北京の中国側の米国専門家たちやワシントンの中国大使館の館員らはペロシ議員が年来の反中姿勢を新議会での議事運営に反映させるという展望への警告をしきりに表明するようにもなった。
ただしペロシ議員は昨年十一月の中間選挙で民主党が進出し、下院議長に選ばれることが確実となってからは、中国を糾弾する言葉をとくに発していない。しかし同議員の補佐官は米国大手紙記者に対し「ペロシ議員は議長になっても中国の人権や自由への弾圧に対する見解は変えはしないだろう。だから下院本会議での審議法案の選択では議長として中国に対して強硬な法案を優先させるかもしれない」と語っている。

 ただしペロシ議員は中国非難をブッシュ政権への攻撃にも使ってきた。議会での多数党だった共和党を攻撃する手段に中国を使うという側面があったのだ。その野党側議員たちが議会での多数政党となると、立場はかなり異なってくる。ただ攻撃のための攻撃として、中国批判を展開することは難しくなるだろう。だからこれまでの激烈な中国非難の言辞も、レトリック過剰を差し引いて、受けとめる必要もあるようだ。
 だがなおそれでも、中国に対して年来、これほどの厳しい批判を浴びせてきた民主党有力議員が下院の議長という要職に就いたのである。民主党多数の新議会が中国にことさら甘くなったり、中国に踊らされるようなことにはならず、むしろ人権や経済という領域では中国をこれまで以上に強く、激しく、批判していく見通しが強いといえるのだ。

http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/105873
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by thinkpod | 2007-01-17 04:01 | 国際
2007年 01月 15日

核保有へ明確な国家意思を~黒船あらわる

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核保有へ明確な国家意思を
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              平井修一

太平の眠りを覚ます上喜撰

たった四杯で夜も眠れず

「上喜撰」は当時の高級ブランドの日本茶だそうで、言うまでもなくペ
リー提督率いる黒船、蒸気船とかけたものだ。

このとき、すなわち嘉永6年(1853)、日本人は蒸気船を初めて見、西
洋の工業力を知った。航海を学び始めたのが安政2年(1855)、かくて
万延元年(1860)正月には米国へ向けて太平洋へ乗り出した。黒船を見
てからわずか7年、咸臨丸は無寄港でサンフランシスコに到着した。

「少しも他人の手を借りずに出かけて行こうと決断したその勇気といい、
その技量といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべ
き事実だろう」(福沢諭吉)

黒船の衝撃はメガトン級だった。当時の世界は弱肉強食、すさまじい格
差社会で、弱ければ強者の支配と収奪を受け入れるほかないというのが
国際社会の常識だった。国防に万全を期さなければ植民地になってしま
う、富国強兵のためにはどうすべきかという議論が高まり、明治維新で
体制を一新、殖産興業を猛烈な勢いですすめ、軍事力と工業力をつけて
いった。

黒船に驚いてから半世紀も経たぬうち、明治38年(1905)には世界最強
といわれたバルチック艦隊を撃破し、ロシアの南進を止め、強国の仲間
入りをした。まさに疾風怒濤、疾駆する青春だ。

中国、ロシア、北朝鮮は、安倍総理の言う「自由、民主、人権、法の統
治」とはまったく相容れない国である。日本と事を構えることになれば
軍事力ですべてを決しようという暴力国家で、平和的な話し合いなどが
通じる相手ではない。

「外交は血を流さない戦争、戦争は血を流す外交である」(毛沢東)と
いうのが三国共通のDNAだ。北朝鮮の傀儡政権といってもよい韓国に
もその血は流れているから、隣国はすべて脅威である。

暴力団は話がこじれると銃をぶっぱなす。暴力国家は核ミサイルで脅し
をかける。中国は尖閣諸島を狙い、ロシア、韓国は日本領土を侵略して
いる。北朝鮮は多くの日本人を誘拐し、日本攻撃に備えて工作員を養成
している。いつ暴発してもおかしくない国ばかりだ。

1945年以降、冷戦が始まったが、大国間で戦争は起きていない。核抑止
力が有効に働いているからだ。インドとパキスタンは双方が核を持つこ
とで戦争が抑止されている。イスラエルが自国を亡ぼそうというアラブ
の暴力国家に囲まれながら存続しているのは核を含めた圧倒的な軍事力
があるからだ。

1945年、日本は人類史上初めて核攻撃を受けた。もし、日本にサンフラ
ンシスコ、ロサンゼルスを報復核攻撃する能力があれば、アメリカは原
爆を落とさなかっただろう。核抑止力がなかったから日本は核攻撃を受
けたのである。

核による無差別攻撃で30万人を殺されたにもかかわらず、この歴史か
ら現実を学ばなければ、30万人は犬死だ。

中共は「国民がパンツ1枚になっても(ひもじくなっても)核を持つ」
という明確な国家意思で800基の核ミサイルを持った。現在、我が国
にとって大事なのは、「抑止力のために核を持つ。持たなければ日本の
将来はない」という明確な国家意思だ。

この国家意思があれば、黒船を見てから7年で太平洋を越えた日本人だ
もの、勤勉努力、創意工夫、忍耐で自前の核武装は早急に可能だろう。
イスラエルのように米国から調達する方法だってある。

まず明確な意思を持ち、達成へ向けてありとあらゆる可能性を探るべき
だ。ありもしない核の傘を夢想し、ソロバンだけを持っていれば生きて
いけるという時代ではなくなったのである。

http://www.melma.com/backnumber_108241_3501411/




■黒船あらわる

 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・ペリー提督率いる4
隻の米国艦隊が浦賀に現れ開国を求めました。そして二度目の来航
(1854年2月13日)で日米和親条約を結び帰っていきました。

■33の献上品

 二度目の来航時には、「半未開人」である日本人を脅かして交渉
を有利に運ぶ為、いわゆる「文明の利器」を将軍への献上品につか
いました。其の中に蒸気機関車がありました。

 蒸気機関車に試乗した幕府役人河田八之助は「火発して、機活き、
筒煙を噴き、輪皆転じ、迅速(時速32キロ)飛ぶが如く」と日記に
描写しています。

■ロシア艦隊の蒸気機関車

 1853年(嘉永6)年7月ロシア・プチャーチンの艦隊が長崎に入
港。米国艦隊より6ヶ月早かった。この時にロシアは蒸気機関車の
模型を艦内で走らせていました。

  「(露人は)蒸気車をシッポク臺のうえにて
   まはしてみせたり。5寸ばかりもあるべし。
   飛ぶがごとくにまはるなり。これはよき焼酎
   をもやして、それにてまわす車なり。

   ムスコウ(モスクワ)よりヘトル(ペテルブ
   ルグ)迄、280里(1,120km)を人500人をのせ、
   数艘の車をひきて一日にゆくと申すなり」
       
       「長崎日記」
       川路左衛門尉聖謨(幕府応接掛)


■巧みな方向転換

 日本の歴史を学校で習った時には、幕府方の慌て振りが強調され
ておりますが、これは幕府に限ったことではありませんでした。後
に倒幕と傾いていく長州にしても薩摩にしても一戦を挑んで手痛い
打撃を受けております。

 そしてさっさと方針を変えた日本国は開国に向かうわけでありま
す。ここが凄い所で、以後アジア地域において一足も二足も先に近
代へと突入していきます。

■クラフトマンシップ(熟練した職人の技巧)の国

 ペリーと共にきた随行員の一人は、蒸気機関車を触っている日本
人達をみて、「クラフトマン・シップに富んだこの国は将来立派な
工業国になるであろう」と予言しました。

 最近の日本には、あたかも物作りを止めてしまえ、金融で儲けろ
とでも云う様な意見もあります。しかし、民族には民族にあった行
き方もあると思います。伝統を振り返へりながら、適切に誘導する
識見が政治に求められます。

 米国の言うことが全て正しいとするのなら、日本の国土や人口も
米国並みの国土と人口が必要になるでしょう。

   「これぞ閉めたまま鍵をなくした玉手箱だ。これぞ
    各国が金力と武力と奸策とを使い、無駄骨折って
    手なづけようと覗ってきた国である。

    これぞ巧みに文明の差出口を避け、自己の知力と
    法規によって敢えて生きんとしてきた人類の大集
    団である。

     外国人の友誼と宗教と通商とを頑強に排撃し、
    この国を教化せんとする我々の企図を嘲笑してい
    る国である」

            「日本旅行記」
              露小説家ゴンチャローフ
             (プチャーチン使節団の随行員)

http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/108027264.html
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by thinkpod | 2007-01-15 02:20
2007年 01月 11日

マスコミが触れない インド首相、ベトナム首相の国会演説

平成18年12月14日,衆議院におけるインド共和国首相マンモハン・シン閣下演説本文全文

「日本とインドは文明的にも近い国同士であります。我々の最も古い絆は,共通遺産でもあります仏教です。二つの文化は歴史を通して交流しあい,豊かさを増してまいりました。

1000年あまり前,インドの僧侶ボリセナは東大寺の大仏開眼供養に参列するため奈良を訪れております。近代におきましては,タゴールと岡倉天心が,アジアの偉大なる両国の間に理解の新しい掛け橋を築きました。

科学技術の発展に基づく明治維新以来の日本の近代化,及び戦後の日本再建の礎となりました活力と気概は,インドの初代首相でありますジャワハルラル・ネールに深い影響を与えました。ネール首相は,インドが日本と緊密な絆を結び,その経験から学ぶことを望みました。インドが日本からのODAの最初の受益国となるようご尽力されたのは,当時の岸総理大臣でありました。今日,インドは,日本のODAの最大の受益国でありまして,こうした援助に,我々は深く感謝しております。貴重なご支援いただいてありがとうございます。

 日本の工業は,自動車や石油化学など,インド産業の発展のために,貴重な役割を果たしてきました。90年代の初頭,インドが深刻な経済危機に陥ったときも,日本は迷うことなく支援しつづけてくださいました。1952年,インドは日本との間で,二国間の平和条約を別途調印いたしまして,日本に対するすべての戦争賠償請求権を放棄いたしました。戦後パール判事の下した信念に基づく判断は,今日に至っても日本で記憶されております。

御来席の皆様,こうした出来事は,我々の友情の深さ,そして歴史を通じて,危機に際してお互いに支えあってきた事実を反映するものであります。

日本を訪れますたびに,お国の発展を目の当たりにし,真に鼓舞され,その寛大さに心をうたれます。

私は1992年の訪日を決して忘れることがないでしょう。それはインドの財務大臣として,はじめて日本に伺ったときのことであります。1991年に,前例のない経済危機に直面した際,日本からいただいたご支援に謝意を述べるための訪日でございました。古い型を打破し,グローバル化しつつある世界での競争に備えるべく,経済を開放し,新たな前進への道に乗り出す機会を,あの危機は我々に与えたのでありました。当時,強靭な力や献身といった長所,あるいは(語彙不明)にあっても,いかにそこから機会を創造するかといったことを日本から学ぼうとし,我々は日本に眼を向けたのであります。

新生インドの首相として,今回,私は日本に戻ってまいりました。過去15年間,インド経済は,年率平均6%を上回る成長を遂げてきております。近年では更に一層弾みがつき,成長率は年間8%以上に加速しております。現在,インドの投資率は対(語彙不明)で30%になっております。90年代初頭以来立ち上げました広範な経済改革の結果,インド経済は,経済のグローバル化,そして世界の多極化がもたらした課題,及びチャンスを受け取められる柔軟性を身に付けました。インドは開かれた社会,ひらかれた経済として前進を続けております。民主的な政体の枠組みの中で,インドを成功裏に変容させていくことは,アジア,そしてひいては世界の平和と発展にとって極めて重要であります。

御来席の皆様,これまでに人間の歴史始まって以来,10億を超える人々が,民族や文化など多元的な要素を抱えた民主主義の枠組みの中で,貧困を撲滅し,社会と経済を現代化しようと試みた例は全くありません。インドは現在,持続的な高度成長の波に乗っていると思います。サーヴィス主導型,かつ技術先導型の経済によるグローバル経済との統合という新しいモデルを開発してまいりました。今日インドは,情報技術,バイオテクノロジー,医薬品など知識を基礎とする分野で主要な役割を担う国として台頭しております。道路,鉄道,電気通信,港湾,空港などの物理的,及び社会的インフラを拡大し,現代化するため,大規模な投資が行われております。こうした発展は,インドの製造業の競争力,及び生産性を大いに高めるでありましょう。

インドと日本が,両国間の結びつきを急速に発展させるための土台は,こうした経過と国際的な筋書きの変化によって生れました。二つの古代文明にとって,戦略的かつグローバルな関係を含む,強固で今日的な関係を構築するときが到来したと思っております。それはアジアと世界にとって大変重要な意味をもつでありましょう。

我々は自由,民主主義,基本的権利,法の支配といった普遍的に擁護された価値を共有するアジアの二つの大国であります。両国間に存在するこの共通の価値と膨大な経済的な補完性を活用し,互に相手国を最重要と認める強固なパートナーシップを築いていかなければなりません。

また,新たな国際秩序の中で,インドと日本は,国力に相応な均衡のとれた役割を演じなければならないという点におきましても考え方を共有しております。日印間の強い絆は,開かれた包容力のあるアジアを構築し,地域の平和,及び安定を強化するための重要な要素であります。

経済関係が二国間関係の基盤となるべきであり,この分野での結びつきを強力に推し進めることが必要です。日印間の貿易や投資は到底そのポテンシャルを発揮しているとはいえません。それとは対照的に,インドと中国,インドと韓国の貿易は好調でございまして,昨年は両国との貿易がおよそ40%の伸びをそれぞれ示しております。中国との貿易は,日印貿易の3倍近くに膨らんでおりますし,韓国との貿易も日印貿易とほぼ肩を並べております。申し上げましたように,これは変えていかなくてはいけないんです。経済協力のポテンシャルを充分に生かすためには,両国の政府,経済界そして産業界の間の積極的な努力が必要であります。将来このパートナーシップを築くことができる最も重要な分野は,知識経済であると信じております。knowledge economyです。両国の経済構造,また様々な分野におけるそれぞれの比較優位のバランス,人口動態の違いなどを考えれば明らかであると思います。

御来席の皆様,科学技術の分野でもナノテクノロジー,バイオテクノロジー,生命科学,情報通信技術といった将来の成長分野での提携も加速させていくことが必要であります。インドのソフト産業と日本のハード産業は相乗効果を活用しあいながら,発展していかなくてはいけません。

国内の(語彙不明)同士のパートナーシップは人事の交流をより盛んにすることを意味します。私は,インドにおいて,日本語を学ぶ学生の数が増えることを願っています。日本語は既にインドの中等教育で外国語の選択科目として導入されています。明日,安倍総理大臣と私は,将来への投資構想を立ち上げることになります。今後数年の間に何千人ものインドの若者が,日本語が学ぶことができるようにしたいと望んでいます。

相互が関心をもっているもう一つの分野は,エネルギーの安全保障です。アジア地域全体として,エネルギー供給の安全を保障し,エネルギー市場を効率的に機能させることが必要です。我々は貿易とエネルギーの流れを確保するために,シーレーンを保護することを含めた防衛協力の促進に同等の関心を寄せています。日本と同様にインドも増加するエネルギー需要に対応するため,原子力が現実的で,クリーンなエネルギー資源だと考えています。これを実現させるために,国際社会による革新的で前向きな取り組みが軌道に乗るよう,我々は日本の支援を求めます。

そしてここで確認をさせていただきます。インドは,国際的に核軍縮を進めていく,そのコミットメントは変わりません。

テロは,平和に対する共通の脅威です。また開かれた我々の社会の調和と組織を脅かします。テロには多くの側面があり,その原因も多様で,地理的な境界も無視されるという複雑な問題なのです。我々が力を合わせない限り,テロとの戦いには勝てません。

私は,国連と国連安全保障理事会が,今日の情勢に対応できるものになるよう,その活性化と改革に向けて両国が協力してきたことをうれしく思います。両国は,国連と様々な国連関連機関の効率強化に関心をもっています。この意味において,今,我々がおかれているグローバル化された世界で各国の相互依存関係を秩序正しく,公正に運営していくべく,両国の協力関係を強化しなければなりません。

ご列席の皆様,アジアで最大の民主主義国と,最も発達した民主主義国である両国は,お互いの発展と繁栄に利害関係を有しています。我々はインドの経済環境が投資しやすいものとなるよう努める決意です。日本企業に,是非インドにおけるプレゼンスを拡大していただきたいと考えています。安倍総理大臣と私は,二国間の投資,貿易,テクノロジーの流れを増大させるべく,包括的経済連携協定の締結につながる交渉を開始いたします。

ご列席の皆様,我々のパートナーシップは,アジア全域に(注:「ゆうい」といっているが,どういう意味かは不明)と繁栄の弧を創出する可能性を秘めていると確信しています。それはアジア経済共同体の形成の基礎となるものです。こういった日印間のパートナーシップを拡大させたいという希望や抱負は,あらゆるレベルでの交流を増やすことによってのみ,現実のものとなると考えます。我々はハイレベルでのエネルギー対話を設置することで合意していますが,このような機会が更に多くの分野で設置されるべきであり,とりわけ貿易と産業分野では不可欠です。

ご列席の皆様,いかなる戦略的パートナーシップにおいても,その礎となるのは人々の友情です。日本の若者の間で,映画『踊るマハラジャ』が人気を博していると聞き,うれしく思っています。インドの子供たちは,日本のロボット『踊るアシモ』を見て,歓声をあげていました。また日本ではインド料理店の数が驚異的に増えているようですし,インドでも寿司と天ぷらへの人気が高まってきたことは,間違いありません。

2007年は日印友好年であり,また日印観光交流年でもあります。更に,両国を結ぶ航空便の大幅な増便も望んでおります。老いも若きも多くの日本人の方々がインドを訪れ,古代と現代のインドが放つ数多くの輝きをご自身の眼で見て欲しいと願っています。

ご列席の皆様,インドと日本の新たなパートナーシップという構想は,本日その決定的瞬間を迎えました。私の訪日はこの構想を具体化するためであり,21世紀をアジアの世紀にするために我々が努力して演じている役割に,将来の世代が感謝することができるようにするためなのです。」

http://plaza.rakuten.co.jp/shousimin/diary/200612180000/




平成18年10月19日、参議院におけるヴェトナム社会主義共和国首相グエン・タン・ズン閣下演説本文全文

===================

「ヴェトナムと日本の交流関係は最近始まったことではありません。両国は地理的に近いことに加え、文化的にも非常に近く、永い歴史を有しています。17世紀から18世紀には、日本の多くの商船がヴェトナム北部のホー・フェン(?)や南部のホイ・アンに寄港し、貿易を行い、肥前焼き物など多くの日本文化の遺産を残しています。日本の明治維新の成功は、ヴェトナムの多くの知識人の強い関心を惹き、20世紀始めにヴェトナムの民族振興のために、日本の経験を学ぼうとする「東遊(ドンズー)運動」(※1)を惹き起こしました。ヴェトナム・日本両国は、歴史の変遷を経て1973年に外交関係を樹立し、関係正常化を成し遂げました。ヴェトナム国民は、善意・公正の心と平和・親善という伝統に基づき、過去に囚われず、未来を目指しております。そしてヴェトナム政府は、このような国民の意向に従って、アジア・太平洋のみならず、世界において重要な役割を担っている世界第二の経済大国である貴国と全面的な協力関係を強化することを最優先しています。

両国関係は、前世紀の90年代から大きく発展し、新しいページを開いたことに満足しうるだけの十分な理由があります。両国の政府や国会、各分野、団体、地方の間の交流など活発な政治関係は、全面的協力関係を促進するための力強い原動力になっています。特に2002年のノン・ドゥク・マイン書記長の日本訪問の際、両国指導者が長期安定・信頼・パートナーシップの確立に合意したことで、政治・外交・経済・安全保障など広範な分野での協力関係が形成されましたが、これが効果的に機能しています。日本はヴェトナムにとって、日増しに大きくなる最大級の経済・貿易のパートナーです。それは、両国の確固たる協力関係の物理的な基礎となっています。貿易額が急激に増加し、そして均衡しています。日本の対ヴェトナム投資は実効額ベースで最大であり、最も効果的に活用され、双方に利益をもたらしています。特に日本からはヴェトナムにおいてもっとも多くの開発援助を提供していただいており、その援助は目的どおりに正しく効果的に使用されています。そして日本の援助は、高い技術や先進的な経済運営経験によってヴェトナム経済、および社会発展の実現に大きく貢献していると同時に、ヴェトナムにおける日本企業の活動のための良い環境を作り出しています。ヴェトナムは日本の援助でできた道路、橋、港湾、空港、学校、病院、発電所などが両国協力関係の美しいシンボルになっているといえます。私は、この機会にヴェトナムが日本の援助を最も効果的に使用している国であると確信いただきたいと思います。

最近、ヴェトナム交通運輸省管理プロジェクト管理委員会では不正事件がありましたが、この委員会は日本のODAを含む多くの国のODAを管理しています。本件につきましては現在ヴェトナムの関係法律機関が調査しており、透明性をもって厳正に処理されております。しかしながら今回の事件は、貴国の援助で作られた建造物の質になんら影響を及ぼすものではありません。なぜならすべての案件は、日越両国の合意どおりに両国の責任ある機関が決定・合意し、コンサルタントと施工会社を選び、施工プロセスを監督・実施するとともに、資金の受け渡しを厳正に行い、当初双方が合意したとおり、プロジェクトの質と要求を充たしております。ヴェトナムは、援助を使用する過程で不正と汚職を撲滅することを非常に重視いたしております。日本のODA資金を効果的に使用することは、我々の責務であり、同時にその債務返済については、ヴェトナム国民に対して有する我々の責任でもあることを我々は深く認識しています。どうか日本の対ヴェトナム援助は信頼できる人々の手にゆだねられていると信じていただきたいと思います。

ヴェトナムには『水を飲んで泉を思い出す』、日本には『水を飲んで井戸を掘った人を思い出す』という諺があります。ここに日本の国会、政府と納税者の皆様がODA全体枠の削減の折にもかかわらず、対ヴェトナム援助を拡大していただいた寛大なご配慮に対し、心から感謝申し上げます。

また両国間の文化、科学技術、教育、観光分野での協力は両国民をよりいっそう親密にさせる精神的基盤を作り出しています。我々は日本の明治維新当時の教育立国の政策と経験を参考にして、教育を非常に重要視しており、教育分野における日本の支援を高く評価しています。日本にはヴェトナムで数百箇所の学校建設を支援し、数千名の留学生と研究生を受け入れていただいています。彼らはわが国の活力の源になっているのみならず、両国国民の友情の架け橋でもあります。

日本・ヴェトナム両国は二国間協力に加え、国連・APEC・ASEM・東アジアASEAN+3、ASEAN+1などの国際フォーラムにおいても協力し合っています。我々が日本が国連安全保障理事会常任理事国になることを一貫して支持しています。それは日本の経済力と国連に対する貢献にかんがみて、ふさわしいことと考えるからです。

貴国がヴェトナムのWTO加盟を常に支持し、ヴェトナムの国際経済参入のための有利な環境を作ってくださっていることを高く評価いたします。両国関係において今まで成し遂げられたものは非常に大きな意味がありますが、まだ大きな協力の余地があります。これまで達成された成果に基づき、地域と世界の平和・安定・協力発展のために、多方面にわたる信頼あるパートナーシップを、戦略的かつ長期安定的関係の確立という新たな段階に高めていくことが必要であると思います。

この後、安倍晋三総理との重要な会談がありますが、これからの新たな両国関係の発展に向けて、合意ができることを期待いたします。両国政府の合意内容に対して、国会議員の皆様方からの積極的なご支援をよろしくお願い申し上げます。

ご列席の皆様、我々の日本訪問が行われている本年2006年はヴェトナムにとって特別な年です。20年前に始まった『ドイモイ』(刷新政策)は、国の様相を一変させました。ヴェトナムは『ドイモイ』によって前世紀80年代末からの厳しい時期から脱しただけでなく、その後一貫して高い成長率で発展しています。国民生活も改善されています。文化・社会分野、特に貧困撲滅事業も大きく前進しています。政治的安定、社会の安定も進んでおります。国際関係もますます拡大しています。最近、ヴェトナムの国家と政府の指導部が交代しましたが、『ドイモイ』政策は変わりません。実践によって完全に正しいと証明された『ドイモイ』政策は、第10回党大会とその後の国会で再確認されました。我々は経済開発とともに、堅固な政治・社会的安定を維持しつつ、社会問題、貧困撲滅、住民と地域間の経済格差対策、生態系の維持や環境保全を調和よく結び付けていきます。我々は各分野での経済発展と国営企業の力強い改革、ならびに民間経済、そしてヴェトナム経済の重要な構成要素である外国投資企業を含む多くの経済セクターの発展を調和よく推し進めていきます。我々は市場経済体制を実現すると同時に、国家による効率的な管理の強化、法治国家建設、民主主義の拡大、行政改革、経済活動の条件を改善し、断固として汚職の撲滅を実施していきます。

以上の政策に基づいて、次の目標達成のために全力で奮闘してまいります。短期目標は2010年までに貧困から脱却し、一人当たりの平均収入を2005年の640米ドルから1000米ドルに引き上げることです。中期目標は、2020年までに基本的に工業国家になることです。長期目標は豊かな国民、強い国家、そして公正な民主主義文明社会の実現です。我々は国内のあらゆる資力を動員し、同時に外国からの、とりわけ極めて重要な日本の地位にかんがみ、日本からの資力を有効に活用することに努力します。我々はヴェトナムの発展にとって決定的な意味をもつ、重要な建造物や案件に対する日本の温かい支援を切望しています。特に道路、南北縦貫道などに対する日本の支援を、ヴェトナムの戦略的パートナーの役割にふさわしい支援を期待しております。また、双方の利益と発展のためにハイテク産業をはじめとするあらゆる分野に日本からの新規投資を受け入れられるよう有利な条件を作り出します。

ご列席の皆様、我々は外交の面で独立・自主・開放路線を堅持し、国際関係の多様化政策を実現し、平等互恵・独立主権の相互尊重の精神に基づいて、国際平和と協力のために奮闘を続けてまいります。

ヴェトナム国民は、戦争によって大きな被害を受けた民族として、誰よりも自らと各民族ために平和を切望しています。私たちは朝鮮半島における最近の状況の変化に対しては、日本国民の皆様、および国際社会の深い懸念を共有し、この地域の非核化と核実験反対の立場を一貫して堅持しています。すべての関係者は、国連安全保障理事会議長声明、同理事会決議1695号(※2)および1718号(※3)を遵守する必要があると考えます。また朝鮮半島の緊張緩和と平和的解決のために、六カ国協議の再開を呼びかけます。

皆様、日本の国会の皆様が、常にヴェトナムに深い関心を寄せていただいていることを大変嬉しく思います。国会議員のうち100名あまりの方々が日本・ヴェトナム友好議員連盟に参加しておられることはその証左です。私はこの重要な演壇から、日本の国会議員の皆様方がヴェトナムの国作りのために、またヴェトナム国民の利益だけではなく、日本の国益のためにもなる事業、ならびにアジア・太平洋の平和・協力・発展ための事業に、我々とともに歩んでくださるよう謹んで呼びかけるものです。」

※1 19世紀末にヴェトナムで起った近代化運動の一つ。知識人がフランス支配からの脱却を求めて日本へ留学した運動。
※2 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/abd/un_k1695.html
※3 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/anpo1718.html

http://plaza.rakuten.co.jp/shousimin/diary/200612280000/


削除されたインド首相来日と報道ファシズム
http://nishimura-voice.seesaa.net/article/31167359.html
マスコミがひた隠す、マンモハン・シン・インド首相の親日マル秘?演説原稿
http://blog.livedoor.jp/lajme/archives/50959630.html
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by thinkpod | 2007-01-11 03:22 | メディア
2007年 01月 05日

もはや消費税率を引き上げる必要はなくなった

 財務省によれば、今年度予算の税収見積もりは総額で50兆円。当初予算よりも4兆円の増額となることが明らかになった。その大きな理由として、景気の回復によって法人税収が好調となっていることが挙げられる。

 実は昨年度においても、当初予算より税額が増えている。昨年度は、補正予算の際に3兆円を上積みし、さらに決算の際に2兆円が加わり、合計5兆円も税収が増えたのである。

 財政状態が上向くのは喜ばしいことである。だが、これだけ財政がよくなっているというのに、不思議なことに消費税を引き上げようという声は、けっして小さくなることがない。それどころか、定率減税の全廃という実質的な増税が決定してしまった。これはおかしいのではないか。

 いつのまにか、国民の大多数は「消費税率の引き上げはやむを得ない」という考えを持たされてしまったようだが、それは本当なのだろうか。もう一度じっくりと検討する必要があるとわたしは思うのだ。


財政の黒字化、可能性は来年度にも

 ご存じのように、日本政府は大きな赤字を抱え、財政再建の真っ最中である。そして、「2010年代初頭までにプライマリーバランス(基礎的財政収支)を黒字化する」という目標を立てている。

 プライマリーバランスというのは、国の収入(歳入)と支出(歳出)の釣り合いを表した数字だ。この数字には、国債の発行や元利払いなどは含まれない。要するに、純粋な財政収支を示すものだ。この収支がちょうど釣り合っていれば、借金の対GDP比は増えも減りもしない。一般家庭に例えれば、借金の返済は進まないものの、毎月の収入によって生活はできるという状態である。

 現在、プレイマリーバランスは赤字であるが、財政再建によってこれを2010年代初頭までに黒字にしようというわけだ。

 黒字化する年度について、政府は当初2012年度を想定していたが、ここにきて税収が好調になったために、いつのまにか2011年度に繰り上げている。それを見ただけでも、ずいぶんいいかげんな計画であると分かるだろう。

 では、本当にプライマリーバランスの黒字が達成できるのか。具体的な数字を検証していくことにしよう。

 今年度当初予算のプライマリーバランスの赤字は11兆2000億円であった。ところが、冒頭に述べたように、税収が4兆円増える見込みなので、現時点での赤字見込みは7兆2000億円に圧縮されることになる。

 税収が増えることで、本来ならば自動的に地方交付税が増加するということになるはずだが、政府は地方交付税を抑え込もうとしていることは、すでにご承知の通りである。もし、全額を抑え込むことになれば、いま示したように7兆2000億円にまで圧縮できるのである。

 確かに、この赤字額は小さな数字ではないかもしれない。しかし、2004年度から2005年度にかけて、決算ベースで見たプライマリーバランスは、6兆4000億円改善したという実績がある。加えて、昨年度決算では1兆5000億円の予算の使い残しも発生している。こうした状況を考慮に入れれば、7兆2000億円などという額は、1年で解消できる金額に近いといってよい。

 現に、12月20日に内示された政府予算の財務省原案では、来年度における税収は53兆4670億円となり、税収増は7兆6000億円を予測している。

 そう、このまま景気回復が続き、不要な支出を抑えることができれば、実は破綻状態と言われた日本の財政は、早ければ来年度にも黒字化する可能性があるのだ。


日本の財政はけっして破綻していない

 ところが、日本の財政が来年度にも黒字化するという事実を、経済に携わる者を含めて誰一人として指摘しようとしない。誰もが、日本の財政は破綻状態と信じて疑わないのである。これは、実に奇妙なことではないか。

 けっして、わたしは好き勝手な妄想を口走っているわけではない。予算書に書いてある数字を見て、論理的に述べているだけなのだ。

 確かに、こういう反論もあるだろう。「プライマリーバランスが、ちょっとくらい黒字になっても、多額の借金はどうにもならないのではないか」。

 しかし、それは目先の借金の額にとらわれているに過ぎない。それを説明するために、まずプライマリーバランスがプラスマイナスゼロになったと仮定して話を進めてみよう。

 確かに、プライマリーバランスが釣り合えば、政府は新しく借金をする必要がない。一方で、借金の返済もできないので、過去の借金は残っている。その借金には金利が付くので、その分だけ借金の残高は増えていくわけだ。もし、金利が2%だとすれば、借金は年に2%ずつ増えていくことになる。

 それでは、借金は雪だるま式に増えていくように見えるが、そうではない。同時に、経済が成長していけばいいのだ。金利が2%ついても、名目経済成長率が2%以上伸びていれば、GDP全体に占める借金の比率は下がっていく。つまり、借金の比重が軽くなっていくわけだ。

 同じ100万円の借金であっても、年収300万円の人と年収1億円の人とでは、その比重は違っている。たとえ借金の返済が進まなくても、年収が増えていけば、借金の苦しさは低減するというわけだ。もちろん、年収を増やしていけば借金の返済も楽になる。

 それと同様に、現在の経済成長を維持していけば、あとはプライマリーバランスを黒字化することで、借金返済も楽にできるのだ。


企業減税・個人増税にただ黙って従うサラリーマン

 先ほども述べたように、プライマリーバランスは2007年度にも黒字化できる。これは、政府目標である2011年度よりも4年も早いわけだ。

 それならば、何も焦って消費税率をアップすることなど必要ないではないか。「安定的な歳入が必要だ」などと言う人たちがいるが、それならば法人税減税をやめればいい。

 ただでさえ、来年度は定率減税の廃止によって、さらに税収が1兆円伸びることになっている。もうこれ以上、一般国民に対する増税は必要ないではないか。少なくとも、財政再建を目的とした消費税率アップは、もはや必要がなくなっている。そんなことは、財政をやっている人ならば誰でも分かっているだろう。

 では、それなのになぜ消費税率を上げようという話が消えないのか。それは、減価償却の拡充や法人税率の引き下げといった法人減税を行うための財源として必要だからではないか。

 だが、いま救うべきなのは、空前の利益を上げている法人ではなくて、年収200万円程度で暮らさざるをえない庶民ではないのか。

 わたしは、なにも安っぽい正義感だけで、庶民のためになることをしろと言っているのではない。いくら景気が上向いたといっても、国民の所得を伸ばして消費を拡大しなければそれは続かないのだ。たとえ企業の投資が伸びて生産力が上向いても、庶民がモノを買うことができなければ、やがて景気は失速してしまうだろう。それをわたしは恐れているのだ。

 だが、わたしがいくら数字を挙げて、「消費税など引き上げなくてもいい」と論理的に説明しても、なかなかそれを理解してもらえないのが残念だ。それどころか、やれ財政が分かっていないだの、経済オンチだのとヒステリックな反応ばかりが返ってくる。揚げ句の果てには、非国民呼ばわりされる始末だ。マスコミにしても、借金の額ばかりを示して不安をあおっているばかりである。

 だが、もう少し冷静になって数字をチェックしようではないか。そうすれば、現在の日本の財政状態の本当の姿が見えてくるだろう。そして、一般の国民も、政治家やマスコミに言われるがままに信用するのではなく、さまざまな意見を聞いて判断するようにしてほしいのだ。

 わたしにとって、何よりもミステリーなのは、誰が見ても明らかな企業減税・個人増税という流れに対して、サラリーマンがただ黙って従っていることなのである。

[森永 卓郎氏]/SAFETY JAPAN
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/o/63/index.html



竹中前総務相「消費税引き上げ、必要なし」

 消費税論議が高まる中、竹中前総務相は4日、「引き上げる必要がない」との見解を示した。
 これは「日テレNEWS24」の番組収録で発言したもの。竹中前総務相は、「新年度の予算で重要なメッセージは、2010年代初頭に、プライマリーバランス(基礎的財政収支)を回復するために、消費税を上げる必要がなくなった。これは明らかです」と述べた。
 この4年間で、税収などの歳入から一般歳出を引いたプライマリーバランスの赤字幅が、増税なしで半分以下になったことを指摘。経済成長と歳出削減を4〜5年続ければ赤字が解消するとの考えを示した上で、「プライマリーバランス正常化のための消費税アップは必要なくなった」との考えを強調した。[5日13時35分更新]

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn/20070105/20070105-00000003-nnn-bus_all.html
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by thinkpod | 2007-01-05 18:23 | 政治経済
2007年 01月 05日

大東亜戦争肯定論

林房雄
終章ー「あとがき」にかえて

・・・最近「明治百年と戦後二十年」の出題のもとに、数人の評論家たちの論争
が「朝日新聞」紙上で行なわれた。私もそれに参加したが、論争的態度はできるだ
けさけて、私の見地だけをのべた。「肯定論」の結語にもなっていると思うので、
ここに再録させていただく。

ーーー いかに産業と経済が繁栄し、大建築と娯楽施設と大道路が完備し、指導者
が平和をほこり、民衆が唱和しても、もしその民族が精神の活力と創造性を失った
時、彼らの「文明」は退廃期に入り、やがて滅亡する。
現在の日本の世相を言っているのではない。 歴史について語っているのだ。

ギリシア・ローマ文明もそのようにしてほろび、エジプト、マヤ、インカ文明も巨
大なピラミッドと神殿の廃墟のみを残して消え去った。 七千年の世界史について
みれば、多くの文明が興亡し、現在もいくつかの文明が並存し闘争している。

異文明の生んだ科学と技術は受け入れやすいが、「精神文化」は芸術に見るがごと
く一回性の創造物であるから、これをそのまま受け入れることは、きわめて困難で
あるばかりか、危険であり、実は受け入れた側の「文明」の降伏と滅亡である場合
が多い。

ただし、異文化の「精神文化」も、これと戦いつつ土着させ得た場合には、新文明
を生む。キリスト教は西洋の所産ではなく、シリア文明が生んだものだ。だが、西
洋諸国はローマ帝国の末期にこれを継承し、さらにカトリック、ギリシア正教、新
教等に消化改変して自国に土着させ、それぞれの民族と国家の活力の源泉とした。

アメリカ・デモクラシーとロシア・コムミュニズムという「神なき宗教」の背後に
キリスト教が潜在または顕在していることは明らかである。インドに生まれ、シ
ナ・朝鮮を経て渡来した仏教の日本における土着化も同じ長い消化と改変の過程を
とった。

この立場から見れば、「明治百年と戦後二十年」を対立させることは、視野の狭さ
において、ほとんどナンセンスである。だが、私はこの論争を笑わない。少なくと
も現在の日本人にとって重大で興味深い問題をふくんでいる。

私は明治百年も戦後二十年も、西洋文明の挑戦に対する日本文明の抵抗と応戦だと
見る。百年と二十年のあいだに本質的な差異はない。
ないものをあると強弁する論者の主張は笑止千万だが、敗戦に重点をおきすぎる
と、この近視意見も発生する。
彼らは、「勝敗は戦場の習い」という言葉を忘れているのだ。

敗戦直後の焼け野原に立ち、七年間の占領下にあって、だれが今日の日本の「奇跡
的復興」を予感し得たか? 私にはできなかった。
復活がもし可能だとしても、五十年百年の後だ。

罪なきわが子孫、わが国土のために、力のつづくかぎり働こうと決心して、わずか
に自分をなぐさめえただけである。
そして、奇跡は起こった。占領軍撤退後十年を待たずに、日本は復活しはじめた。
これをアメリカの援助と朝鮮戦争のみに帰するのは短見である。
日本人は働き、抵抗した。廃墟に生きて働くこと自体がすでに抵抗である。日本人
はそれぞれの立場と方法によって四方八方に向って抵抗した。
吉田首相も太田総評議長も、経営者も労働者も農民も、学者も宗教家も文士も、警
察官も自衛隊員も、すべての日本弱化政策に対して、働くことによって抵抗し応戦
した。

「文明とは、道のあまねく行なわるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美
麗、外観の浮華を言うにはあらず」。
これは西郷隆盛の文明論である。
明治の抵抗者内村鑑三、岡倉天心の主張も同じ文明論であった。
キリスト者鑑三は最後まで「武士の精神」を固執し、大アジア主義者天心は日本と
東洋の「美的精神」を強調して西洋人を啓蒙した。

さかのぼって、「立正安国論」の著者日蓮を見よ。日本の危機において彼が絶叫し
たのは「日本人の精神と魂の確立」であった。
「われ身命をおしまず、ただ無上道をおしむ」。 彼は大乗仏教をみごとに日本化
し、日本に土着化させて日本文明の活力とした。

本居宣長もただの国文学者ではない。
幕府の官学朱子学に対して、漢学者は陽明学によって反抗したが、宣長はいっさい
の「唐心」を排し日本の「古道」を明らかにすることによって抵抗した。 宣長
の「古道」は復古ではなく前進であった。
彼はその死後に幕吏によって墓をあばかれることを防ぐために、仏式の仮墓をつく
り、おのれは神式の墓の中にみずからを葬らせたそうである。
その他、数多い「日本の抵抗者」をふりかえりつつ、現在の世相をながめれ
ば、「戦後二十年」はただ産業的、技術的復興にとどまり、精神の支柱はうちたて
られていないように見える。
たしかにまだ日本の柱とその上にひるがえる魂の旗は見えない。
しかし、私は失望しない。廃墟を復活させたものは、ただ技術と科学だけではな
く、どこまでも人間であり、日本人という人間の決意と活力と創造性であった。こ
の抵抗、この活力が存在するかぎり、日本の精神は再び再結晶し、光輝しはじめる
と信じている。

日本の伝統と歴史は敗戦によって断ち切られたのではない。
戦後の社会主義と民主主義の潮流も、明治百年、いや、それより長い歴史を見ずに
は理解しえない。
民権も自由も社会主義も敗戦後二十年の舶来品ではないのだ。
技術と科学は輸入できる。いや、日本人はすでにカメラ、船舶、時計、オートバイ
等によってそれを西洋に逆輸出しはじめている。
だが、それぞれの文明の魂は簡単に輸出入できるものではない。
日本文明はまだ独自のものとして生きている。

百年の抵抗と応戦によって独自の活力と創造性を保持しえている国であることは、
ほとんどの文明史家が認めている。
敗戦は福に転じうる禍にすぎない。

われら何をなすべきか? 道は自分で探さなければならぬ。
過去をふりかえり、先を見渡し、左右を受け入れつつ、苦しみ思索することによっ
て、おのれの文明の創造と発展に努力することが日本の道である。 しかし、これ
だけでは抽象的な一般論になり、不親切なお説教におわる。

人として生まれて迷わぬ者はない。
特に激動の上に激動を重ねて変転しつつある戦後二十年の世界情勢を直視して迷わ
ぬ者は石の地蔵だけかもしれぬ。
私もまた迷っている。

アジア人としてのわれら日本人の関心は反植民地闘争にある。
日本の「百年戦争」はたしかにこの口火を切り、その基礎を固め規模を拡大した。
日本は一国のみで約百年間戦わざるを得なかった。
他の被征服諸国はこれを壮挙と見、勇戦とながめつつも、その後進性の故に日本に
協力し得なかったために、盟主観念も生まれ、皇道主義も生まれ、後に東京裁判検
察官と進歩人諸氏によって侵略と定義された強引な軍事行動主義も生まれたのだ。
しかし文明論の見地から見れば、日本の「東亜百年戦争」は決して侵略戦争ではな
かった。
私はパール博士とともに、この点を強調する。

また戦争が起ころうとしている。いや、もう起こっているといったほうが正確だ。
私たちは毎朝起きると、新聞の第一面で爆撃と反撃の記事を読まされる。
日本のなかにも、資本主義と帝国主義からの解放のためには戦争を恐れないと公言
しながら、自衛隊を廃止せよと叫ぶ変な戦闘的評論屋もいるし、平和運動をやりな
がら、中共の原爆実験については沈黙している変な平和屋もいるし、沖縄と小笠原
を還せというプラカードはかつぐが、千島を還せたは言わぬ変な愛国者もいる。変
な話ばかりだ。
いつのまに、どんなふうにして、日本はこんな変てこりんな国になってしまったの
か?

第三次世界戦争は必ず起こるという予言は世界の識者によってなされている。
私の「大東亜戦争肯定論」はそのまま「第三次、第四次世界戦争否定論」であるこ
とは、善意の読者諸氏なら、すでに読み取ってくれていることと信じる。
ただ、日本に敵軍が攻めてきたら逃げ出します、ただちに降参しますと、中、小学
生に教えてこんだ日教組式腰抜け論でないこと、この種の教育を真の教育だと信じ
ている偽教師どもを心から軽蔑していることは記憶しておいていただきたい。

予言はたいていあたらないものだが、たまにはあたることがある。
予言よ、あたるな! これが私の祈りだ。
ただ祈ることだけが可能であるという日本の現状は、私の悲しみを倍加する。
・・・(引用止め)

埋もれた先達の事績を掘り起こすとともに、名の有る優れた先達の遺した文言を想い起こすことも肝要と思い、繙いた一冊が林房雄氏の『大東亜戦争肯定論』です。
引用しながら「罪なきわが子孫、わが国土のために、力のつづくかぎり働こうと決心して」の件りで目頭が熱くなりました。
終戦時、日本国のバランス・シートの左側の資産の部はほとんど芥塵に帰し無に等しい惨状を呈していました。しかし、バランス・シートの右側の資本の部は大きく毀損しながらも復興の原資を保持していたのです。
懸命に働く(抵抗する)日本民族の魂が残されていたのです。
しかし日本人は占領されている間に降伏したから幸福に至ったのだと宣撫されそれを信じてしまいました。つまり大戦に敗け、アメリカの支配下に入ったから日本はまともな国になったんだ、戦前までの大日本帝国憲法体制、皇国史観、国体思想、八紘一宇、大東亜共栄圏すべてを否定して捨てたから平和で豊かな時代になったんだと。
 しかし日本が復興した原動力は、占領軍とその協力者である一部日本人によって、ずたずたにされた日本の伝統と歴史にありました。
それが驚異的な戦後の復興をもたらした日本人の魂を凾養していたのです。それなしでは今日の日本の「平和」も「繁栄」もありえなかったのです。
日本国の現在のバランス・シートの資産の部はピカピカのようです。
が、目を資本の部に転じると、歴史を忘れ、伝統を打ち棄てた日本人の魂は摩滅し、働く力は衰え、活力と創造性は無に等しい惨状です。
林氏は、この大著の掉尾をこう結んでいます。

「日本がまことに正しい平和のために一致協力して行動しうる時の来るのは、いつ
の日であろうか?」。

林氏のいう”正しい平和”とは、占領軍から下賜された平和の謂いではないでしょう。 自存自衛の気構えで、自らの力で民族と国土を衛ろうとした戦前の日本の姿を指していると思います。
これには、日本人の魂の回復、それを支える伝統と歴史の復興が必要で、数十年はかかります。
 さはさりながら、日本は二千年以上の悠久の歴史を持っている国です。
数十年かかるなら、その年月をかけてやるしかありません。罪なきわが子孫、わが国土のために。
http://www.melma.com/backnumber_45206/
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by thinkpod | 2007-01-05 02:56 | Books