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2006年 12月 31日

東京裁判では、「人道に対する罪」は無罪でした

2006/12/31 11:43

 イラクのフセイン元大統領に対する死刑が執行されました。罪名は、民間人に対する迫害や殲滅を実行した「人道に対する罪」でした。一国の元元首を裁いたフセイン裁判は、日本人には極東国際軍事裁判(東京裁判)を連想させますが、両者には大きな違いがありました。東京裁判では、誰もこの「人道に対する罪」で有罪になっていないのです。この事実は、日本の過去の戦争を振り返るとき、とても重要なポイントであると思います。

 私は今年10月に、日本陸軍史研究家の奈良保男氏から手紙をいただきました。内容は、弊紙も含めて「ABC級戦犯と、訴因の(a)(b)(c)項の混同」が見られるというご指摘でした。ちょうどいい機会だと思うので、反省を込めて、以下に引用させてもらいます(奈良氏の許可は取ってあります)。

 《ひと言で申しますと、多くの方の誤りは先ずこの混同によるものと言って過言でありません。このことを最も早く指摘されたのは、現在徳島県小松島市で「平成昭和研究所」を主宰しておらえる茶園義男氏が1993(平成5)年8月27日発行の「別冊歴史読本・第15号『戦争裁判処刑者一千』」(新人物往来社)に発表された「戦争裁判の法的正当性を問う」が最初ではないかと考えます。(中略)

 茶園先生からご指導を戴いていた小生は、それを基に、茶園先生の監修を戴いた上で、平成14年5月、名越二荒之助編『昭和の戦争記念館』第5巻の「戦犯とされた昭和の殉難者たち」欄に書かせて戴くことが出来ました。ここでその概要を述べます。

 「ABC級戦犯に対する世間の誤った認識 現在日本国民の大多数が認識しているABC級戦犯という戦犯区分の認識は、次のようなものであろう。
 A級-軍人や政府の上層部で、侵略戦争を謀議計画し、推し進めた者。
 B級-従来型戦争犯罪において、命令を下した上級部門者。
 C級-下級の地位で実際にそれを行った者。
 この区分には法的な根拠がない、と言ったら多くの人は驚くかもしれない。しかしこれは事実である」

 以上を前置きとして、ドイツ戦犯を裁いた「ニュルンベルク裁判所条例」の説明をし、その第6条がa・b・c項に分かれ、a項は「平和に対する罪」で従来に無かった概念であること。b項は「通常の戦争犯罪」即ち従来型戦争犯罪であること。もう一つ、その何れでもない犯罪が今次戦争では起きていた。それがナチスによるユダヤ民族の絶滅政策であり(ホロコースト)、それは戦争でない時期にも行われていることもあって、新たに一項が加えられた。c項がそれであり、「人道に対する罪=Crimes against humanity」と名付けられた…、と書きました。

 続いて、日本の占領のために設置された連合軍司令部(GHQ)は、日本にもナチスのゲシュタポ以上の犯罪集団があったに違いない、故に、日本にもc項犯罪があるだろうと最大限の力を注いで調査に当たったが、その片鱗すら出てこない。日本には元々、先住民や、植民地・占領地の住民を絶滅するなどという思想はまったくない。

 それどころか、ベルサイユ条約後の「人種・国籍差別撤廃」提案、或いはナチスドイツのユダヤ人迫害と対照的に、ユダヤ難民に対して手を差し伸べている。このことは『昭和の戦争記念館』第1巻の第5部にその救済に尽力した軍人と外交官のことを紹介している。

 ちなみにそれぞれ当時の①関東軍参謀長・東条英機②満鉄総裁・松岡洋右③陸相・板垣征四郎が、八紘一宇の精神で人種差別に反対しユダヤ難民の救済に責務を果たし、ユダヤ人から感謝されていること。運命の悪戯か、その三人がいずれも「A級戦犯」となって命を落とし、「靖国神社」に合祀されていることを良い機会なので申し添えておきます。

 さて、予測の外れたGHQは、c項を設けた手前もあり、また、中華民国の顔も立てていわゆる「南京大虐殺」なるものを捏造して裁こうとしたのが真相だろうと書きました。現に、東京裁判ではc項の「人道に対する罪」の該当者は一人も無いままで終わっています。

 このことについては、『明日への選択』(日本政策研究センター刊)18年7月号に、同センター岡田邦宏氏が、「東京裁判・誰も『人道に対する罪』で有罪になっていない」という稿で見事に論考されていますので、是非ともお読み戴きたいと存じます。》

 奈良氏の手紙はまだ続くのですが、とりあえずここまでとします。奈良氏によると、a項、b項、c項と戦犯のABCとは呼応したものではなく、GHQが意図的に訴因との混同を狙ったものとみられるそうです。

 ちなみに、ニュルンベルク裁判では、有罪となった19人のうち、16人までがc項の「人道に対する罪」に問われています。一方、東京裁判では、有罪とされた25人のうち、一人を除く全員がa項の「平和に対する罪」で裁かれました。日本とドイツが行った戦争の様相が、いかに異なるものであったかの傍証とも言えそうですね。

 靖国神社に参拝することを、ヒトラーに参拝するようなものだと粗雑かつ無理な議論を展開する人が、社民党や中国の要人にみられますが、こうした暴言・妄言には何度でも反論していこうと改めて考えた次第です。

 平成18年ももうあと半日となりました。来年が日本とみなさまと私と家族と周囲にとって、いい年でありますように。思いっきり欲張って祈っています。

東京裁判では、「人道に対する罪」は無罪でした-国を憂い、われとわが身を甘やかすの記:イザ!
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/94781



戸井田、林両氏による公文書公開に「GJ!」
 政府税調会長の人事や佐田前行革担当相の進退問題などでてんてこ舞いしていた昨年12月26日夕、首相官邸の記者クラブに突然、投げ込み資料が配付されました。配布元は独立行政法人国立公文書館で、「戦争裁判関係資料の公開について」と書いてありました。地味な資料でしたが、内容は重要なものでした。

 それは、国立公文書館が平成11年度に法務省から移管された戦争裁判関係資料約6000冊のうち、これまで非公開にしてきた裁判未提出資料約2500冊分について、順次公開していくことを決めたという内容でした。私的メモ、日記、手記などが含まれるため、公文書館側が「ときの首相にも閲覧させない」としてきたものです。

 これにより、いわゆるA級戦犯が対象の東京裁判だけでなく、BC級戦犯を裁いた中国での裁判記録などが、公文書館に出向くことで閲覧可能となりました。ちょうど日中歴史共同研究などが開始された時期でもあり、まことにタイムリーな決定だと思います。多くの研究者に役立ててもらい、日本側の有効な主張、反論を発掘してほしいところです。

 さて、ここからが本題ですが、なぜ国立公文書館がこれらの資料の公開を決めたかというと、自民党の戸井田とおる衆院議員の活躍があったからです。昨今、政治家の公的機関への働きかけというと、何か悪いことであるかのように受け取られがちですが、お役人に任せていては何もしようとしないという実態もあるのです。戸井田氏は昨年10月27日の衆院内閣委員会で次のように質問しました。

 《現在、国立公文書館に所蔵されているいわゆるA、B、C級戦犯の資料、約数千冊のほとんどが非公開になっているんですね。(中略)私はこれをインターネットで検索いたしました。そしたらほとんどが、ずらっと見ていくと、非公開が多いんですよね。》

 《(公開されている)6027の資料、これは「十五年戦争とパール判決書」といって、家永三郎氏の論文であります。このように、だれが見ても個人のイデオロギーに基づく論文が公文書館に所蔵されているということはおかしいんじゃないか》

 《それ以外の公開になっているものを見ていくと、やはりいろいろな何か意図があるような論文とか対談の記事だとか、そんなものが多いわけですね。こういうものが公文書なのかということを考えると、どう考えても意図的にある歴史観への誘導をするための工作としか思えないんですね。》

 《それで、公開、非公開の基準があるかということを聞くと、その辺がはっきりしていないんですね。(中略)日本文のものなんかはほとんど非公開なんですね。もちろん、個人の秘密の大小等、そういう基準があるのはわかっておりますけれども、個人の名誉回復に直結するような、A級個人被告の弁護準備資料、こんなものまで非公開になっているんです。》

 これに対し、内閣府の林芳正副大臣が答弁で運用改善を約束し、今回の公開決定につながったというわけです。戸井田氏は、さらに11月21日には林副大臣あてに「国立公文書館所蔵資料公開の件」という手紙を手渡しています。手紙には、こう記されていました。

 《頂きました資料等精査致しましたところ、今後も極東国際軍事裁判関係資料公開検討が国立公文書館の一部役職達が作成した「利用基準」によって決定されることになり、その「利用基準」によって国家の歴史がコントロールされる状況に変更はありません。

今後、始まる日中歴史検証において、同裁判の根本資料が、同館職員のイデオロギーを通してしか検証できないことに変わりないのです。

個人情報などの理由は「A級」「B、C級」も同条件で、「A級」は公開してもよりいい加減な裁判が実行された「B、C級」の、まして弁護側関係資料は、死者の名誉回復に直結するものを隠す理由はありません。もし理由があるとするならば、同裁判検察が望んでいることに他なりません。今の内閣で封印を解くことが出来なければ、永遠に不可能かもしれません。》

こうした戸井田氏の熱心な働きかけを受けて、内閣府は国立公文書館の公文書等の利用制限を決める有識者会議(5人)について、新たに「内閣総理大臣が人選に関与する」という条項を加えました。戸井田氏と林氏に対し、「GJ!」と言いたいですね。

 戸井田氏はこれまでの公開・非公開の決め方について、図書館や公文書館といった組織に少なくない「サヨク」の人たちが、自分たちに都合の悪い内容を国民に知らせないようにしてきたのではないかと懸念していました…。

まあ、あまり世間の関心を集めるような話ではないかもしれませんが、今回の戸井田氏の動きがすぐ実を結んだのも、安倍政権だからこそだと思います。安倍首相には、今年はますます頑張ってもらい、大きな足跡を刻んでいただきたいと思います。

http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/96452



絶版書籍、ネット閲覧可能に・政府が著作権法改正へ

 政府は絶版になった出版物をインターネットで閲覧できるようにするため著作権法を改正する方針を固めた。国立国会図書館などの公的機関が専門書を非営利目的で公開する事例などを想定している。著作権者に一定の補償金を支払えば許諾がなくても文書をネットに保存・公開できる仕組みを検討する。入手困難な出版物を利用しやすくし、研究活動の促進などにつなげる狙いだ。
 政府の知的財産戦略本部(本部長・安倍晋三首相)が今夏に策定する「知的財産推進計画2007」にこうした方針を盛り込む。知財本部は2008年の通常国会での著作権法改正案の提出をめざし、文部科学省などとの調整に入る。(16:01)

NIKKEI NET:政治 ニュース
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070105AT3S0300305012007.html
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by thinkpod | 2006-12-31 22:56
2006年 12月 30日

日本人の「寛容さ」は「鈍感さ」になっていないか

「我々の国家はどこに向かっているのか」

年の暮れに「倫理」と「公」を思う

今年最後のコラムとなったが、私事から書き始めることをお許し願いたい。暮れも押し迫って長野市の実家で1人暮らしをしていた母親が他界した。あわただしく葬儀を済ませ、なおもこれに伴うあれこれの雑事(といっては何だが、日常には使わない神経を使うのでやたらと疲れる)に追われている。

 そこで感じたのが、日本人と宗教の関連である。もろもろの問題の背景にこの一大テーマが存在するのではないかと改めて実感した。

 母親の葬儀は地域の二つの寺にお願いした。入退院を重ねながらの独居老人だから近隣に迷惑もかけている。地域の人たちの言う通りにするのが一番いいと判断した。母親は生前から地元の葬祭業者に依頼していたので、葬儀そのほかの儀式はスムーズに運んだ。

 それはそれでよかったのだが、亡父の生家がある地域の菩提寺のことに考えが及ばなかった。親戚から指摘されて、菩提寺が戒名を付け法要を行わなければ「花岡家の墓」には入れない、ということが判明した。

 両方の寺は宗派が違うのだが、それはそれで構わないという。そこで、2月はじめに菩提寺による法要を行い、納骨することにした。母親が住んでいた地域の寺からすれば四十九日法要、菩提寺からすれば、これが「本葬」ということになる。

 経費は二重にかかるが、一生のうちに何度もあることではない。母親が安らかに眠れる環境を整えるのが息子の役割である。


 ・日本人の「寛容さ」は「鈍感さ」になっていないか

 そうしたことをどたばたと経験して、宗教に対する日本人の「寛容さ」に思いが及んだ。結婚式はキリスト教の牧師が行い、赤ん坊が生まれれば神社におまいりし、葬式は仏教、といったパターンを何の疑念もなく受け入れている。これが一般的な姿なのではないか。

 神仏混交は日本の伝統的慣習なのだし、一般生活にうまく取り込まれているのだから、何ら問題はない。だが、「寛容さ」は「鈍感さ」に通じるのではないか。恥をしのんで告白すれば、筆者は亡父の生家の宗派が何であったか失念しており、今回、改めて親戚に確認した。

 演歌の大御所、北島三郎に「魂(こころ)」という歌がある。日本には四季があり、この「美しき国」は「神々の集う里」だ、といった内容だ。森喜朗元首相が「神の国発言」で責められたとき、この歌詞を事務所にファクスして、えらく喜ばれたことがある。

 某大学院で憲法の講義をする際、CDを持っていってこの曲を流した。演歌など聞いたこともない学生たちは一様に驚いたが、日本はいたるところ神々がいる国なのだ、という趣旨は分かってくれた。

 そういったことを思い出しながら浮かんだのが、日本人はこれほど宗教と密接に絡み合った伝統文化、風習を持ち合わせながら、「宗教心」という核心部分を忘却してしまったのではないか、ということだ。寛容なあまりに鈍感になってしまったのではないか。


 ・人間としての「生き方」をどこで教える?

 キリスト教にしろイスラム教にしろ、世界中のほとんどの国々では、子どもたちに宗教心を叩き込む。米国大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓する。神の前で国家への忠誠を誓うのである。

 「宗教心」とは、人間が生きていくうえでの必須の倫理規範、道徳である。かつては教育勅語に盛られていた。親に孝行し、友達と仲良くせよ、といったことから始まる。「十戒」にも通ずるものだ。人をあやめてはいけない、と命の尊さを子どものころから教え込まれる。

 教育基本法改正の審議でも「宗教心」のあり方が取り上げられたが、深い論議には至らなかった。いじめ自殺、子殺し、親殺しといった殺伐とした社会風潮を見るにつけ、宗教心の欠如を感じないわけにはいかない。特定宗教の押し付けというのではない。宗教が求める人間としての「生き方」を日本の子どもたちは教え込まれてこなかったのではないか。

 家庭、地域、学校のありようも我々の子どものころとはずいぶん変わってしまった。先生はやはり「仰げば尊し」の存在でなくてはならない。今の学校では生徒と友達感覚で対するのが「いい先生」ということになる。先生はどこまでも「怖い」存在であったはずではなかったか。

 倫理規範とともに感ずるのが「公」の意識の欠如である。政府税制調査会の会長を務める著名な大学教授が、愛人と公務員宿舎で暮らしていたというのでは話にならない。法的にも行政措置としても瑕疵(かし)はなかった、といって済まされることではない。公人としての意識のありようの問題である。


 ・“とんでもないミーハー”は公私のけじめをつける人

 またまた私的な体験で申し訳ないが、筆者が以前、勤務していた産経新聞に鹿内春雄という人が乗り込んできた時期があった。フジテレビで「軽チャー路線」を徹底させ、視聴率ナンバーワンに押し上げた人である。

 「とんでもないミーハーがやってくる」と、我々は身構えたのだが、鹿内氏は新聞の位置づけ、活字の重みが分かる人であった。肝炎のため42歳で急逝したのが、いまだに残念でならない。言いたいことは、鹿内氏は公私のけじめをきちんとつけるスタイルを持ち合わせていたという点だ。

 我々と小料理屋の二階などでざっくばらんな話をする機会を好んだ。秘書に会社用と個人用の2枚のカードを持たせておく。こういう非公式な会合の費用は個人カードで決済させた。

 宗教心、倫理規範、道徳、公の意識‥‥。年末年始は少し気持ちを落ち着けて、ふだんはあまり考えない、こうした重いテーマに頭を巡らせてみようと思う。それは「美しい国」をキーワードとしている安倍政治の考察にも通じるのではないかと思っている。

花岡 信昭
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/y/40/
http://www.melma.com/backnumber_142868_3483320/





【もう一つの日本】(4)今もなお教育勅語奉読
2007.12.14 07:44
e0034196_2335917.jpg ブラジル日系社会初の6世、大西エンゾ優太ちゃん(2)が暮らすサンパウロ西郊の市民会館の日曜日、日系人団体主催の「移民祭り」が開かれていた。日系人が多いこの地区の一大イベントであり、27回目の今年も400人が詰めかけた。

日系人団体主催の「移民祭り」で踊る3世、4世の子供たち。日本語学習の合間に練習を積んだ=サンパウロ州タボン・ダ・セーラ市

 先没者の霊に対する1分間の黙祷(もくとう)、ブラジル、日本の両国歌斉唱に続き、白髪の柔和な男性が祝辞を述べた。日系人団体の長老、田畑稔さん(75)。2歳だった昭和9年、鹿児島県から両親に抱かれて移民船に乗った1世だ。
 「来年の移民100周年、後世に何を残すか。いちばん美しいのは日本の心です。そう先輩からうかがっております。目に見えない、手に取ることのできない日本人の心を残していくことが大切だと受け継いでおります」。田畑さんは日本を「ニッポン」と発音した。
 祭りの演目は、婦人会の日本舞踊や子供たちのよさこいソーラン。カラオケでは「大阪しぐれ」も飛び出した。北海道出身の89歳の男性は、オホーツク海に面した町の小学校で教わったという「荒城の月」を朗々と歌い上げた。
 日系団体の活動は、カラオケや踊りといった演芸、運動会やゲートボールなどのスポーツ、子供たちへの日本語教育という。田畑さんは「日本文化の継承と、今日を築かれた先没者への敬意を伝えることを忘れてはいけない。日系人は日本人以上に日本を愛する心が強いと言われています」。
 なぜ日本人より強いのか。「日本の社会は戦後、ずいぶん変わりました。ここでは戦前からの教育がつながっているのです」。
 田畑さんが農業を営むサンパウロ市西郊、イタペセリカ・ダ・セーラ市の日本人会(約100家族)は戦前から続く日本語学校を運営し、自前の校舎と講堂を持つ。
 戦時中はブラジルが連合国だったため「敵国人」とされ、日本語教育を禁じられた。田畑さんが学校で学べたのは2年だけだったが、教科書を空き缶に入れて地面に掘った穴へ隠し、山中の小屋やバタタ(ジャガイモ)畑の片隅でひそかに授業が続けられたという。
 田畑さんは思い出したようにつけ加えた。
 「イタペセリカでは今も教育勅語を奉読しているんですよ」

 ■「教えたかったのは日本語だけじゃない」

 教育勅語は明治23(1890)年に発布された。「朕惟フニ」から始まるわずか315文字に「父母ニ孝」「兄弟ニ友」など12の徳目が列挙され、戦前教育の根本を成した。軍人向けの軍人勅諭や戦陣訓とは別物だが戦後、軍国主義につながるとして占領軍により廃された。
e0034196_235618.jpg 田畑さんが暮らすイタペセリカの日本語学校で、教育勅語は講堂のステージ中央にある観音開きの戸の中に、今上天皇・皇后両陛下の写真とともに安置されていた。

日本語学校の講堂に安置された教育勅語の桐箱と天皇・皇后両陛下の写真。以前は校庭に泰安殿があった=サンパウロ州イタペセリカ・ダ・セーラ市

 年に一度、元旦に大人と子供50人ほどが集まり、東方遥拝した上で、正装した代表者が奉読する。戦後の移住者から「そんなの日本ではもうやってませんよ」と廃止論も出たが、いまだに続いている。10年ほど前にはポルトガル語に訳して各家庭へ配った。
 田畑さんは言う。「いいことがたくさん書いてありますよ。特に先輩を尊敬して仲良くやっていこうという部分。移民祭りも、先没者への感謝の気持ちを表すことが第一の目的なのです」
 日本語学校は現在、7歳から17歳までの22人が週3回、ブラジルの小中高校の放課後に集まり、3時間の授業を受けている。1935(昭和10)年の創立から数えて8代目教師の牧山純子さん(59)は長崎県出身。中学1年の夏まで日本で教育を受けた。
 「私も戦後教育なので最初はびっくりしました。でも目上の人を敬うこととか、本当に教えるべき内容だと思います」
 優太ちゃんの祖父で2世の中村パウロ修さん(64)も、優太ちゃんの母親ら3人の娘を日系学校へやり、日本語塾へ通わせた。
 「でもね、教えたかったのは日本語だけじゃない。礼儀とか、先祖を敬う、他人に迷惑をかけない気持ちなんですよ」
 伝統芸能も日本語教育も、そして今の日本人から見れば「軍国主義の亡霊」と受け取られかねないものでさえ、日系人たちが伝えようとしているのは表面的な「日本文化」ではない。根っこにある「美しい心」を忘れてほしくないのだ。
 「なぜって、日本人だから」
 修さんは、優太ちゃんにも美しい日本語を学ばせたいという。
 文・写真 徳光一輝
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071214/trd0712140744003-n1.htm

海外で評価される日本の『教育勅語』
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by thinkpod | 2006-12-30 01:18
2006年 12月 30日

海外で評価される日本の『教育勅語』

月刊中央ジャーナル12月号 

濱口和久の「国を憂い・国を想う」
http://blog.livedoor.jp/kazuhisa431014/archives/2006-12.html#20061226
e0034196_0563131.jpg





『国家の品格』を生み出した家庭教育

 昨年の年間ベストセラー『国家の品格』を書いたお茶の水女
子大学教授・藤原正彦氏が、自ら受けた家庭教育について語っ
ているインタビュー記事がある。[1]

「そもそも先生が受けられた教育はどのようなものだったので
しょうか」という問いに藤原氏はこう答えている。

 私の父と母は全く意見が違うんですね。父は父の祖父、
則ち私の曾祖父に育てられました。曾祖父は江戸の末期に
生まれた武士、といっても足軽ですが、その曽租父から父
は武士道の教育を受けた。その自分の受けた教育を父は私
に教えてくれたんですね。例えば、弱いものがいじめられ
ていたら身を挺してでも助けろ、見て見ぬ振りをしたらそ
れは卑怯だと。それで私は、弱いものいじめの現場に遭遇
したとき、身を躍らせていじめている奴と殴り合いの喧嘩
をしました。そしてそれを家に帰って父に報告すると激賞
してくれました。

 一方、母は、なに正義ぶってるの。そのうちに暴力少年
の札付けられて、ろくな内申書もらえなくなるよと。女性
として地に足のついた現実的な考えですよね。このように、
私は父からは正義や理想、母からは現実主義という二つの
価値観によって育てられました。したがって複眼的思考が
できるようになったことは幸せでした。

 父の故郷の実家の二階には、切腹の間というのがあって、
不名誉なことをしたらそこで切腹しなければならない。そ
ういう環境でしたから私は父に徹底して卑怯とか名誉とか
恥ということについて叩き込まれました。父から卑怯者と
いわれたら、それはもう生きる価値がないということです
からね。武士道というのは定義がありませんから、日常的
に教えてもらった中で身についていくものなんですね。

 父がよく聞かせてくれた話ですが、父の家は上諏訪から
三キロ半くらい山に入ったところにありましたが、あると
きその上諏訪で火事があった。当時七歳だった父は山を降
りてそれを見に行って、焼けぽっくいを拾って帰ってきた
ら、曾祖父が激怒して、「直ちに返して来い」と。それで
夜中に三キロ半歩いて返しにいった。そのとき曾祖父が父
に言ったことは「焼け跡から何かを持ってくるというのは、
最も恥ずべき行為だ。これを火事場泥棒というんだ。あら
ゆる泥棒の中でも最も恥ずかしいんだ」と。地震などの震
災地で略奪行為があるでしょう。人が困り果てているとき
に、その弱みに付け込むというのは卑怯中の卑怯ですね。

 最後の火事場泥棒の部分からは、阪神大震災のときに暴動一
つ起こらず、人々が助け合う姿が、海外の人々に感銘を与えた
事を思い出す[b]。「武士道」の文化的遺伝子は我々の心中に
まだ息づいているという事だろうか。

 最近のいじめや汚職の問題も、その文化的遺伝子を目覚めさ
せて、「卑怯とか名誉とか恥」を感ずる心を育てる所から始め
なければならないのだろう。

「先生は大学で学生に新渡戸稲造の「武士道」を読ませてらっ
しやるとか。反響はいかがですか」との質問にはこう答えられ
ている。

 劇的に変わりますよ、学生の意識が。それまでの教育で、
日本は侵略をした恥ずかしい国だとばかり教わって、日本
人としての自信も誇りもない状態で入学してきた学生たち
ですが、「武士道を読んで随分と変わっていくんですね。
あるいは、戦没学徒の遺書を読ませたりすると、これまた
劇的に変わります。それまでは、特攻隊員なんて天皇陛下
万歳とわけもわからず叫んでいった気の毒な人たちだとあ
る意味で馬鹿にしていたわけですよ。ところが、彼らは出
撃前夜まで、ニーチェを読んだり、万葉集を読んだり、母
親や兄弟姉妹、恋人にすばらしい手紙を遺書として残して
いる。語彙も実に深く選択されて書かれている。それを現
代の学生たちは知って馬鹿者は自分たちだったと気付くわ
けです。圧倒的教養の落差、思いやりの深さの違いに愕然
とするんです。ですから私は若い世代の教育ということに
は希望を持ちたいと思っているのです。

「国家の品格」を備えた「美しい国」を作る道は、わが先人が
すでに切り開いてくれているのである。

■リンク■
a. JOG(430) 「品格ある国家」への道
 日本人が古来からの情緒を取り戻すのは、人類への責務であ
る。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog430.html
b. JOG(020) 阪神大震災
 国民を守ったのは誰か?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog020.html

■参考■
1. 藤原雅彦『武士道と国語教育 後編』、「日本の息吹」H18.3
http://www.naraken.jp/nipponkaigi-nara/ibuki.html

http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/108110323.html






Common Sense: 厳格な躾けで蘇ったアメリカの学校教育

 ブッシュ大統領は「われわれは進むべき道
を知っている」と教育再生を呼びかけた。


■1.対照的な学校風景■

 ある中学校教師が長期自主研修制度を用いて、アメリカの多
くの小中学校を訪問した。その感想を次のように記している。

 アメリカの公立学校の整然としている様子には、先々で
大変感銘を受けました。小中学校を中心に多くの学校訪問
を行いましたが、先生方が声をはりあげて指導される場面
がまったくありません。また、生徒たちが廊下を走り回っ
たり、大声で騒いだりする様子も見受けられません。小学
校一年生でさえ、先生の引率無しで静かに廊下に並んでカ
フェテリアまで移動します。集団で安全に行動する方法が
よく身に付いており、それがごく当たり前で普通のことと
して馴染んでいる様子に驚きました。[1,p32]

 これと著しい対照をなすのが、平成10年に広島県福山市の
中学校教諭・佐藤泰典氏が国会で語った学級崩壊の実態である。

 始業のチャイムが鳴って教員が教室に行った時、生徒は
ほとんど席についておりません。その生徒たちを教室に入
れて席につかせるのに五分から十分ぐらいかかります。やっ
との思いで授業を始めても、教室の窓から抜け出したり、
もっとひどい時は、廊下を自転車で二人乗りして、「イエ
ーイ」と声をあげながら手を振って他の先生や生徒をから
かったりという状態です。 教室に残った生徒も後ろの方
でボール遊びをしたり、机の上に足を上げてマンガを読ん
でいます。[a]

 教育は子供たち自身の将来、そして国家百年の計に関わる重
要事である。後者のような学級で育った子供は自分勝手な人間
となって、将来の人生を台無しにされ、また国家社会の法秩序
を崩壊させて、国民全体を不幸にする。これ以上の「人権侵害」
はない。

■2.アメリカの教育崩壊■

 アメリカの教育も、1960年代には、この広島の例のように崩
壊の極みにあった。極端な人権主張、反体制・反伝統の風潮が
アメリカ社会を覆い、若者の反抗、麻薬の蔓延、離婚の増加、
フリーセックスなどが蔓延していった。

 教育界においても、一部の急進的な学者たちが「教育の人間
化」を主張した。「学校でのルールの押しつけはいけない」
「生徒への寛容さ(トレランス)が大切」などと、教師の権威
や学校の管理体制を攻撃した。その結果、規律は崩壊し、暴力、
麻薬、アルコール、タバコ、喧嘩、いじめ、教師への反抗が広
がった。学校はまさに「病めるアメリカ」の縮図となっていた。

 こうした状態を国家的危機と捉えて、レーガン政権は1983年
にレポート『危機に立つ国家』を発行して、教育改革を訴えた。
[a]

 続くブッシュ大統領(現ブッシュ大統領の父親)は「国家教
育目標」を宣言した。その第6項には「安全で、規律ある、麻
薬のない」学校づくりを挙げた。翌91年には「アメリカ2000教
育戦略」を示した。その本文にはこう謳われている。

 われわれは進むべき道を知っている。過去の疲れ果てた
うんざりする、古い流行遅れの教育仮説からの脱却を広範
囲に図らなければならない。

「古い流行遅れの教育仮説」とは、60年代の「教育の人間化」
の思想を指す。それは現実に適用されて効果を実証されたもの
ではなく、急進的な教育思想家たちが机上で考え出した「仮説」
に過ぎないのである[b]。そして「われわれは進むべき道を知っ
ている」とは、アメリカでの伝統的な教育への回帰を意味して
いる。

■3.「ゼロトレランス」(厳格教育)■

 こうした政府の呼びかけに呼応して、教育現場で立ち上がっ
た人々がいた。ワシントン州タコマ市のフォス高校の教師たち
である。フォス高校の学区でも、生徒の犯罪や暴力事件が慢性
化し、高校生による暴力事件(殺人を含む)は1989年に132
件、翌年は195件に達していた。

 1991年秋、フォス高校は暴力問題を早急に解決するという声
明を出し、そのために学校内規律綱領規則の整備強化を行った。
全教職員がこれに賛同した。

 その上で生徒たちには「もし、君が喧嘩をするならば、除籍
されるであろう」と宣言した。その結果、1992年には、喧嘩は
12件へと激減した。翌年にはさらに厳しく「喧嘩をすれば必
ず放校にする」と宣言したところ、ただの3件となった。

 フォス高校は、コミュニティと協力して「ゼロトレランス地
域」を宣言し、秩序と安全の確保を謳った。前述のようにトレ
ランスとは「寛容」で、それがゼロということは、ルール違反
を見逃さない厳格教育というところであろう。

 フォス高校のゼロトレランス方式の成功は、全米に伝わり、
各地に広まっていった。ブッシュ大統領の後を継いだクリント
ン大統領は、97年には教育に関する「クリントン大統領の呼び
かけ」を発し、その中で「規則を整備し、ゼロトレランス方式
を確立すべきである」と呼びかけた。

■4.「段階的躾け(progressive discipline)」■

 ゼロトレランス方式が全米に急速に広がるにつれ、暴力や麻
薬などの犯罪的な問題行動は急速に沈静化していった。それに
つれて、ゼロトレランスの概念は、欠席・遅刻、怠学、授業中
の態度など、日常的な規律立て直しにも拡大されていった。

 ごく小さな規律違反にも、教師は直ちに注意を与え、あるい
はごく軽い罰を与えて、問題の芽を小さなうちに摘み取ってし
まおうとする「段階的躾け(progressive discipline)」という
考え方である。逆に良い行いをすると、誉められたり、ご褒美
を与えられたりする。

 たとえば、小学校で一般的な指導方法は次のようなものだ。
生徒が授業中におしゃべりをしたり、宿題をやってこなかった
ら、教師から注意を受ける。逆にゴミを拾って教室をきれいに
したり、友達に親切にしたら、担任の先生から褒められ、特に
良い行いに対しては、全校の朝の放送で表彰され、ご褒美が与
えられる。

 生徒には一人一人行動記録カードを持たせ、褒められたり叱
られたりしたら、記録させる。各人毎の善悪の集計が行われ、
これが行動評価一覧表として掲示板に貼り出される。誰が「善
い子」か「悪い子」か、一目瞭然となる。子供達は競って「善
い子」になろうとする。特に「悪い子」は、教師が父母を呼び
出して、反省を促す。

 破れた窓を放っておくと、また次の窓が破られ、それが徐々
に拡大し、ついに街全体が荒廃する、という「破れ窓の理論」
があるが、これを教育現場に適用したのが「段階的躾け」であ
る。

■5.お仕置き■

 中学や高校になると、「お仕置き(detention)」が多用され
る。放課後の居残りや土曜日登校による補習、放課後の教室清
掃、校長の横での昼食、などの方法がある。かつての日本でも
廊下に立たせるというやり方があったが、まさに同様の「お仕
置き」である。

 最近では、お仕置き部屋(detention room)を設ける学校が多
い。ブースで仕切られた席があり、遅刻や宿題を忘れた生徒は、
教師の監督のもと、孤独な環境の中で、自分の行為について反
省させられる。戦前の日本でも、悪さをすると土蔵や物置に閉
じこめて反省させる、というお仕置きが行われたが、その近代
版と言える。

 こうしたお仕置きでもなかなか立ち直らない問題生徒は、オ
ルタナティブ(代替)・スクールという各教育管区内に設置さ
れている特別指導用の学校に送られる。手のつけられない問題
生徒を正規の学校に放置しておくと、大多数の善良な生徒たち
の規律正しい教育環境を乱すし、また、こうした問題生徒は、
別の環境で立ち直らせる必要がある、という考えからである。

 また不登校や引きこもりの生徒も、オルタナティブ・スクー
ルに強制的に出校させて、専門家の指導も加えて立ち直らせる。
ちなみに、不登校は親の責任という考え方があり、たとえばテ
キサス州では、一日の不登校に対して保護者に500ドル、約
6万円の罰金を課す。

 最近では、通常の学校に適応できない生徒が、自ら希望して
入学できるオルタナティブ・スクールも増加している。



■9.「われわれは進むべき道を知っている」■

 まずは守るべき規律を教え、「悪いことは悪い」と厳格に守
らせる。そこから子供達は互いにルールを守ることで、気持ち
の良い共同生活が実現されることを体験していく。「人を思い
やる心」は、この過程で育つ。

 今では、生徒たちが小学校や保育園の読み聞かせなどにボラ
ンティアで参加していく、というのは、それこそ人間らしい真
の「自由」の姿である。社会の善悪や規律を学ぶ前に、子供達
に好きなように振る舞えと言ったら、授業中に廊下を自転車で
走り回ったりするような動物的な「放縦」に陥るだけである。

「教育の人間化」というアメリカの急進的教育思想家の夢想は、
こうした児童教育の基本を無視して、アメリカの教育を崩壊さ
せ、無数の青少年たちの人生を台無しにした。日本のゆとり教
育、人権教育も同罪である。ブッシュ大統領の言ったとおり、
日本においても「古い流行遅れの教育仮説からの脱却」が必要
だ。

 そして我が国においても、長い歴史を通じて形成されてきた
躾やお仕置きを含む規律教育の伝統がある。

「われわれは進むべき道を知っている」のである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(131) 学力崩壊が階級社会を招く
 「結果の平等」思想は、貧しい家庭の子どもたちの自己実現
の機会を奪い、愚民として平等化することである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog131.html
b. JOG(442) 「科学から空想へ」 〜 現代日本の教育思想の源流
 「子供の権利」「自己決定権」「個性尊重」など の教育思想
の源泉にある「空想」。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog442.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

1. 加藤十八『ゼロトレランス 規範意識をどう育てるか』★★★、
学事出版、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4761912928/japanontheg01-22%22

http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108735576.html




「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 2月8日(木曜日)  
通巻第1700号 (7日発行) より

(読者の声2)貴誌1699号の読者投書に「アモイ TT生」氏からのご意見がありました。
 たまたま昨年、チャンネル桜の主催で日本_とインドの友好親善の旅にご一緒してきました。その何日目かのパーティーにパール博士の親族の方、確かお孫さんだと思いますがいらしてくださり講演をしてくださいました。
 民間レベルの友好親善の旅でしたが、水島(桜チャンネル社長)さんを応援する200人以上の夫々の分野でご活躍の老若男女がはせ参じて両国間の理解を深めるよい交流会に参加者一同感謝したものでした。
 若い地方から参加者の議員さんや、IT経営者がインドで多くのことを学んで帰国され、日本再建に向けて活躍されている様子に、同行した一人_として水島さんの活躍の意義に思いを致しております。

 さて「アモイ TT」氏の御投稿を拝読させていただきながら、嘗て井深大さんが「戦後、教育勅語を全く排除してしまったことが心の教育を半分無くしてしまった」とお贈りくださった、「後半分の教育」の中で書いておられますが、武士道精神といい、教育勅語といい、何でもかんでもアメリカの言いなりになってきてしまった日本を再建することは、インドに行ったからわかったのですが、アメリカに毒されていないインドに比べたらどんなにか困難なことか暗澹たる思いになったのは私一人ではなかったと思います。
 この度のドキュメント映画「南京の真実」制作発表に対して、この「日本再建」への熱い思いに夥しい人々が応援してくださっていることに深い感動を覚えます。
  (FF生、小平)





「知識の教え惜しみで子どもは栄養不良 安倍政権のゆとり教育見直しを評価する」

今月18日に明らかにされた教育再生会議の第一次報告案は、教育立て直しの力強い一歩となるだろう。安倍晋三首相が力を注いだ教育再生の柱は、「ゆとり教育の見直し」と「教員免許更新制度の導入」である。

かつてゆとり教育を行った米国は、子どもたちの学力低下に驚き、素早く「しっかり教える」方針に切り替えた。米国は荒れる学校および少年犯罪の増加を深刻な警告と受け止め、厳罰主義を取り入れ、制服着用をはじめ道徳教育と生活指導の強化に転じた。反対に日本は、ひたすら教育におけるゆとりと自由拡大路線を突っ走った。その結果、太陽が東から昇ることを知らない小学生が35%、地球が太陽の周りを回るのでなく、太陽が地球の周りを回っていると考える小学生が40%にも達し、信じがたい無知な子どもたちが出現した。が、子どもたちを叱っても意味はない。学校が教えないのであり、文部科学省が教えさせないからである。子どもたちはむしろ犠牲者だ。

現場への指導書、学習指導要領を貫く精神は「教えないこと」といっても過言ではない。このゆとり教育を強力に推進した文科省官僚の寺脇研氏は、その著書『中学生を救う30の方法』(講談社)のなかで、「(ゆとり教育は)中学生にとっては10覚えなければならなかったことが7覚えればよくなるのですから、負担は減ります」と述べている。さらに、授業時間の減少で学力が低下するのは困るなどと心配する親や教師については、「そんな身勝手な言い分なんか、放っておきましょう。つめこみ式の勉強をしなければ合格できないような、高偏差値の大学を受けようという生徒など全体の一割にも満たないのです。そのごく一部の生徒のために、他の大多数の子どもたちを犠牲にしてもかまわないと言ってはばからない大人なんて、身勝手としか言いようがありません」と書いている。

学力の低下を恐れる親や教師は「身勝手」と決めつけられ、学びたいと願う子どもは「全体の一割未満」の“圧倒的少数派”とされてきたのだ。中身がスカスカのゆとり教育の結果、悲しいほど内容のない教科書が生まれた。小中学生の教科書を手に取ってみよ。そのあまりの軽さ、皮相さに嘆息しないおとなはいないだろう。

子どもたちが義務教育で教えてもらえないことは枚挙にいとまがない。たとえば、地震国日本で、学習指導要領は地震の原因、プレートテクトニクスを教えてはならないとしている。21世紀は遺伝子工学の世紀であるにもかかわらず、遺伝子についてもわが国の義務教育では教えてはならないのだそうだ。生物の進化の法則も同様だ。ゲノムや遺伝や進化についての学びは、人間の由来をも解明してくれる興奮冷めやらぬ知的探究の世界だ。未来への扉を開く学びでもある。しかし、現在のゆとり教育では、そうしたこといっさいを教えない。

知識は考える力を育成する必須の要素だ。知識を頭のなかに詰め込んでやったとき初めて、子どもたちの頭脳のなかに考える土台が築かれる。知識なくして人間は考えることなどできない。知識の教え惜しみは、育ち盛りの子どもに十分な栄養を与えず、栄養不良に育てるのに似ている。よい子、賢い子、創造できる子が育つはずがない。

教育再生会議が明確に打ち出したゆとり教育の見直しは、この現状を力強く打ち破る第一歩となる。また、教師の免許更新制はやる気のない教師を振るい落とすだろう。さらに注文すれば、地道な努力を続けるやる気のある優れた教師を認める制度もつくってほしい。

当初、文科省官僚のまとめた報告案にはこうした点は入っていなかった。それを明記するよう注文をつけたのが安倍首相だった。首相のリーダーシップも高く評価したい。日本再生の基本が教育の再生である。第一次報告案を薄めることなく、突き進んでほしい。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2007/02/post_502.html
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by thinkpod | 2006-12-30 00:57
2006年 12月 29日

勝共連合は民族主義運動の敵だ

————文鮮明王朝建設に利用される日本の若者

(資料:民族派団体一水会代表、鈴木邦男氏 反統一教会 論文 昭和六十
年、1985年、朝日ジャーナル )

「右翼、民族派の人たちが統一教会・原理研・国際勝共連合のことをどう思っ
ているか書いて下さい」と『朝日ジャーナル』の記者に言われた時には正直い
って気が進まなかった。
たしかに右翼の連中の中には「反共の同氏だ」と思っている人はいる。また、
「原理はウサン臭くて嫌いだが勝共は仲間だ」と公言する人も多い。警察の公
安や公安調査庁の人間だって反共なんだから仲間だし、日本に共産革命が起き
たときには一緒に決起してくれると信じている<純朴>な人も多いこの業界だ
から、原理運動をそう思ってもても仕方はない。
しかし、少なくともわれわれ民族派、また新右翼といわれる若い人間にはそん
な混同を起こす人間はいない。だから、『朝日ジャーナル』の記者の話を聞い
て、何を今さらと思ったのである。それに、右翼全体なんてどうでもいいとい
う気もあった。多くの右翼が原理・勝共を反共の味方だとおもっているのなら、
それでもいい。何もおせっかいをして、原理・勝共の実態はこうなんですよと
<告げ口>することもあるまいと思っていた。
ところが、筑紫哲也氏の「原理不可解な右翼の沈黙」(本誌一二月十四日号)
を読んで少し考えが変わった。その種の挑発にはやはり乗るべきだと思った。
それに、『世界日報』事件で追放された副島嘉和、井上博明両氏が『文藝春秋』
に書いた内部告発を読んだ時の衝撃も忘れられない。原理とは大学時代からの
長い付き合いだが、最近の<豹変>ぶりも見てきた。
原理運動が初めて日本に入って来たのは二十五年ほど前だというが、本格的に
やり始め、世間の耳目を集め出したのは、それからしばらくしてだと思う。原
理運動のことを直接にしったのは、僕が昭和三十八年、早稲田に入ってからだ
(その前から漠然とは知っていたが)。
それから二,三年して早稲田で全学ストライキがあり、それが全国の学園紛争に
火をつけて全共闘時代の幕開けとなった。それに刺激され対峙する形で民族派
学生運動も出てきたし、一時は全国30大学自治会を握り、「民族派全学連」
を結成しようというところまでいった。その学生運動の嵐が起こる前から、原
理研は駅前で黒板を出して演説したり、個人をオルグをしていたが、大学に入
りこみ、サークルをつくったりして組織的、全国的に活発にやりだしたのはこ
の早大ストのころからだと思う。
全共闘と民族派と原理。この三つの違った運動があの早稲田の一点から、ほぼ
同時期に生まれ、全国に広がり燃えさかっていった。換言すれば、全共闘に刺
激され、全共闘を反面教師としながら民族派も原理も、己の組織化を急ぎ、全
国的な広がりをつくっていったのである。われわれもそうだったが、原理研が
今やっている大学でのサークル、学内新聞づくり、自治会奪権闘争……などは
完全に全共闘から学んだものである。逆接めくが、今の原理運動も民族派の運
動もある意味では「全共闘の遺産」なのである。全共闘との付き合いについて
はこれまでも書いたことがある。今回はもう一つの原理について書く。
はじめに、「何を今さら」といったが、われわれ、戦後体制打倒をめざす「一
水会」の機関紙『レコンキスタ』(スペイン語で”失地回復”の意味)でも何
度か原理についての批判をしてきたし、原理運動研究家の第一人者である茶本
繁正氏を招いて一水会事務所で勉強会をしたこともある。その時のテーマは「
勝共連合は愛国者なのか」であったし、彼らは民族派の味方ではないこともわ
れわれは明らかにした。
また、われわれの仲間には何人か原理にオルグられたり、「合宿」に誘われて
行ったことのある人間もいる。二年前、そんな一人に「私はこうして”原理研”
が治った」という体験談を話してもらい『レコンキスタ』に載せた。当時は「
こうして新左翼が治った」「べ平連が治った」「アナキストが治った」といっ
た体験シリーズをやっており、それら左翼運動と同次元で原理も考えていた。
さらには、われわれ一水会と連帯している統一戦線義勇軍の機関紙『義勇軍報』
でも原理・勝共との戦いを呼びかけており、事実、一水会や義勇軍は他の民族
派と共闘して彼らとの闘いを展開していた。
小さいながらもこうした反原理・反勝共の闘いをやってきたが、これは右翼全
般からは不評で、「思いつきでやってる」とか「勝共は仲間なのに」「敵を利
する」などと批判された。しかし、大学時代からわれわれは彼らを一度も味方
だと思ったことはないし、民族運動の同志だと思ったこともない。学生の時、
早大で知ってた彼らは決して右翼ではなかったし、反共でもなかった。「天皇
なんて関係ない。文鮮明師がすべてだ」「憲法なんてどうでもいいし、興味は
ない」と、正直にいっていた。われわれとは立場は違うが、宗教団体としては
それも当然だろうと思っていた。ところが最近、急激に「右傾化」した。「天
皇制を守り、憲法改正、スパイ防止法の制定を」と言っている。
統一教会・原理研と勝共連合は別だと言う言い訳は通じない。やっている人間
は同じなのだ。なぜ、急に右旋回し、豹変したのか。その右旋回は本物なのか
どうか。すっと疑問に思ってきた。最近の派手な言動に幻惑されて、即「味方
だ」と思ってる右翼に同調できない理由もそこのある。そんな疑問に答えてく
れたのが副島、井上両氏の『文春』のレポート「これが『統一教会』の秘部だ」
だった。そして、『原理講論』をはじめて通読し、両氏の告発が嘘でも誇張で
もないことを知った。

反共は方便、実際は共産主義

イエスが再臨する「東方の国」は韓国であり、韓国語が祖国語となって世界は
一つになるという。なぜ、「東方の国」が韓国かというと、中国は共産化した
からサタン側の国であり、日本は「代々、天照大神を崇拝してきた国として、
さらに、全体主義国家として、…・
韓国のキリスト教を迫害した国」だから、これも「サタン側の国家」だという。
また、「第二次世界大戦は、民主主義によって結託した米、英、仏の天の側国
家と、全体主義によって結託した独、日、伊のサタン側国家との対戦であった」
という。
これは、『原理講論』にかいてある通りである。そして、韓民族がいかに「サ
タン」の日本によって、侵略され、迫害され てきたかがこれでもか、これでも
かと書かれている。『文春』の告発レポートでは、さらに驚くべき事実が書か
れている。韓民族が選民であり、他民族に優越しており、再臨主とは、すなわ
ち文鮮明氏のことであり、文氏によって世界は統一され、必然的に韓国は世界
の中心となり、韓国語が世界の共通語となる。こう説かれているという。
また、われわれ民族派としては見逃せないこととして「敬礼式」についても『
文春』に書いている。これは文鮮明氏をメシア、王の王とみなす象徴的な儀式
だそうで、本文から引くと…・・。
「統一教会が四代名節と呼ぶ記念日には、早朝五時からの敬礼式があり、そこ
では聖壇に座った『文氏』とその家族に対し、統一教会の主要幹部が三拝の拝
礼を行う。場所はだいたい『文氏』の私邸であるアメリカ・ニューヨーク州の
イーストガーデンである。その際、天皇陛下をはじめ、レーガン大統領、全斗
煥大統領ほか主要国の元首の身代わりを、それぞれの国の教会幹部が担当し、
文教祖一族に拝跪して全世界の主権者が文教祖に拝礼したという儀式を行うの
である。日本の天皇陛下の身代わりを演ずるのは、日本統一教会会長の久保木
氏なのである。何とも奇妙で、そして国民の象徴として天皇を上にいただく日
本国民としては見逃せない情景ではないか」
全くもってひどい話である。文鮮明氏の精神は、信仰の王国ではなく、現世の
王国を夢み、その独裁者たらんとする。これはまるで弓削道鏡だ。「彼らは反
共だから味方ではないか」と言っていた右翼の人々も、これを読んだら、とて
もそんなことはいえないはずだ。実際、「許せない」「こんな反日集団は敵だ」
と激高していた人が多くいた。僕としても前から、その性格は漠然とは知って
いたが、これだけ証拠をつきつけられては改めて愕然とする思いだった。
これを見ても分かるように、原理・勝共は決して右翼、民族派ではない。では、
一体何なのか。
まず第一に、これは裏返しの共産主義である。「原理研が治った」青年も言っ
ていたが、反共を唱えてはいるが、内部の生活はむしろ共産主義だという。人
生について考えている青年や悩んでいる青年をオルグってきては「合宿」につ
れ出し、何日もロクに眠らせずに「洗脳」をする。はじめは「そんな馬鹿な…
・・」と心の中で抵抗していても、しまいには疲れ果てててしまい、批判し抵
抗することも面倒になって全面的に受け入れてしまうという。「思想的強姦」
である。また、洗脳の途中で頭の回路が外れて気が狂ったりした人間も多いと
いう。さらに自由を許されない共同生活、文氏の決める人と結婚する集団結婚
式。本場の共産主義国家、ソ連や中国でも、ここまでは共産主義化していない。
自分たちの内部生活は共産主義で、外部に向かっては反共を唱えている。その
反共も本心かどうかは分からないが、本心だとしても、日本の民族主義とは一
切無縁のものである。さきほど見たように、これはソウルを中心とした反共イ
ンターナショナリズムである。初期の共産主義がモスクワを中心としたインタ
ーナショナリズムだったのと同じ構造である。共産主義と同様に、この原理・
勝共もまた、最も反日的、反民族的運動である。
第二に、その「反共」すらもが本当かどうか怪しい。「統一教会・勝共連合の
宗教活動、愛国運動は『文鮮明氏』の野望を実現することを目的とした方便な
のである」と、副島氏も告発している。
世界の王になるためには、ます韓国の王(大統領)にならなくてはならない。
韓国は反共バリバリの国である。文氏は日本の人と金を湯水のように使って、
全世界的規模での反共活動の「実績づくり」をしている。そのための反共であ
り、韓国→世界の王に向けての手段である。反共運動の全部が全部、仮面とは
言えないにしても、原理運動と世界の王になることが第一の目標であり、反共
運動は二の次、三の次ぎであろう。
また、反共活動をいっしょにしている自民党や体制派文化人にたいしては、勝
共連合に入るように勧めるが、統一教会、原理研には入れようとはしない(な
かには一部の例外もあるが)。原理運動をしている人間は想像を絶するストイ
ックな生活をしている。物欲でこり固まった自民党や体制派の人間をストイッ
クに改造はできない。反共という衣をつけて、ハナから利用するためだけに近
寄っているのだ。あるいは、そうした金と物欲に目がくらんだ自民党サイドの
人間に対し、「いつか必ず自分たちの前に拝跪させてやる」と復讐の念を燃や
しているかもしれないが。

虐殺兵と似た目つきの原理研

第三に、これは全体主義である。茶本氏は「ファシズムへの道」だというが、
その通りだ。文氏は、いわはヒットラーであり、『原理講論』は、さしずめ『
マイン・カンプ』である。『マイン・カンプ』の中には徹底した日本人軽視、黄
禍論があったが、日本語板ではそれを削除し、ヒットラーの力の前に幻惑され
て日本は手を結んだ。それと同じように韓民族が選民であり、世界の中心だと
いうことは、日本語板の『原理講論』では意図的に削除されてきた(最近は居
直って日本語板にも出しているが)。これと同じ過ちを日本の体制側、そして
一部の右翼は再び犯そうとしている。
第四に、この狭量なストイシズムは宗教としては光輝いて見えるが、世俗的権
力の奪取、文王朝の建設を目指すという政治の世界には入るや、必ず悪い結果
になるということだ。ロベスピエール、カルヴィン、松平定信…・・と、その
先例は歴史上にいくらでもある。
ツヴァイクの『権力とたたかう良心』によると、宗教改革に成功したカルヴァ
ンは、他人のどんな小さな過ちも許せない狭量、厳格な人間で、徹底した恐怖
政治を敷き、「罪ある者が神の裁きをまぬがれるくらいなら、むしろ罪のない
者が処罰される方がいい」と公然と告白したという。また、カルヴィンやロベ
スピエールはそのいい例だが、「禁欲と苦行のひとというのは、いちばん危険
な専制君主の典型である」と、ツヴァイクは言う。
それをもっと推し進めればカンボジアのポル・ポトになる。古い体制、古い倫理
観の人間は殺して、殺し尽くした。人口の半分も殺したというが、国民の半分
を殺して達成しなければならない革命とは一体何なのか。地獄のカンボジアを
実際に見てきたある新聞記者はこんなことを言っていた。古い体制の人間を殺
す尖兵は、少年たちだったという。その少年兵たちの目は、人間の生死はもと
より、もう何事にも感動を示さないし、 いわば<ゾンビ人間>の目だったとい
う。そして、その目はしょうど原理研の人たちの目に似ていたという。未来を
暗示するようで、何かゾッとする話だ。

「贖罪意識」につけ込む文鮮明氏

第五に、彼らもまた、<狼>だ。これだけでは何のことか分からないだろう。
僕は十年近く前、三一書房から『腹腹時計と<狼>』という本を出したが、そ
の爆弾事件の<狼>とあまりに似ていると思うのである。個人的なまじめさに
おいて、また、日本の戦争に対する贖罪意識の余りの強さにおいて・…。両者に
とっては先の戦争はまさしく原罪である。日本は韓国や中国に侵略し、残虐の
限りを尽くしたひどい国だ、と教えられ、一途に信じ込む。だから、再び、そ
うした国に経済侵略してゆく企業には爆弾を投げるという<狼>。彼らの中に
は「自分の祖父や父は兵隊になって侵略したから自分はその贖罪のために新左
翼運動に入った」と公言するメンバーもいた。
それに対し、侵略した「サタン側の国」(日本)からは、いくら金をしぼり取
り、人間を消耗品のようにつかってもいい、という原理・勝共。朝鮮人参、印
鑑、大理石のツボ、花売り、街頭カンパ等、ありとあらゆる方法で日本から金
をかき集める。詐欺まがいの商法で、ピンク産業以外は何でもやっているとい
う(もっとも統一教会としては、上からの指令はしていないと逃げているが)。
末端の会員ですら月に100万円のノルマを課せられ、日本全国からは月に2
0億円、年に240億円もの金がアメリカの文鮮明氏の元に送金されていると
いう。合法、非合法を問わない強引なやり方で「サタンの国」からは徹底的に
金をしぼりとり、文王朝のために日本人は手足として使い、使い捨てにすれば
いいという考えだ。
会員もそれに甘んじている。これは日本の戦争に対する韓国側の復讐なのかも
しれないが、日本人会員にとってはそうすることによって「侵略戦争」の贖罪
ができると思っている。<狼>クループ同様、屈辱的な贖罪史観、敗戦コンプ
レックスを色濃く引きずっている。
第六に、文王朝建設のために日本人の<献身の美徳>が最大限に利用されてい
る、ということだ。いつの時代にも、他人のため、世界のために体をかけて働
いてみたいと願う正義感の強い青年たちはいる。方向性は違っても、戦前の青
年将校、在野の右翼運動、日本赤軍…・・。そして多分、原理運動に飛び込ん
だ人たちも大部分はそうした純粋な動機からだろう。
今の日本のように皆が皆、自分さえよければいい、金がすべでだ、マイホーム
だ、酒だ女だとうつつを抜かしている時代にも、人生を思いつめ、命をかけて
恵まれない人のために尽くしたい、世の中を変える捨て石になりたいと思う青
年たちはいる。
戦前のように反体制右翼の国家革新運動があった時には、そこに飛び込んだか
もしれない。全共闘華やかしなりしころならば、そこに飛び込んだかもしれな
い青年たち。原理運動に入った人たちもそんな青年たちだろう。パンの耳を食
べて生活し、クズ屋をしたりしながら酒もタバコも一切の娯楽もやらず、ひた
すらストイックに運動をしている原理運動の人たち。学生時代、「生長の家」
や右翼では生ぬるい、こんなことでは世の中は救えないといって原理運動に飛
び込んで行った人々を何人も何人も知っている。「生長の家」や民族主義運動
にかかわっていた自分たちとしても、そうした人々を引きとめられなかったふ
がいなさを痛感していた。
今どき、珍しい純粋でストイックな青年たちだ。だからこそ、惜しいと思う。
これが日本のためになる、日本人の先祖の贖罪はこれしかない、これこそ世界
の平和のためだと思って献身的に運動している人々だろう。だが、その献身性
は残念ながら反日、反民族的な文王朝のために利用されているだけなのだ。あ
るいは、日本の原理運動の指導部はそれに気づいているのかもしれないし、日
本的原理運動を考え模索しているのかもしれない。しかし、『世界日報』事件
でも分かるように日本のトップ・久保木氏を飛び越えて、アメリカの文氏から
の指令によって、そうした萌芽はつぶされている。

脅威の野望、あなどれない力

だから文氏にとって、会員ではあっても日本人には心を許せないのであろう。
本誌(『朝日ジャーナル』昭和六十年十一月三十日号)でも書いてたが、アメ
リカでは最高幹部は韓国人、実務をとりしきる中堅幹部は日本人、第一線で手
足となって働き、金を稼ぐのも日本人、それに加えて日本からの大量送金……。
そういう構図になっている。日本人会員が目覚め、日本的原理運動を目指すの
が一番こわい理由もそこにある。そのへんを副島氏ら(文春)はこう言ってい
る。
「『文鮮明氏』と韓国人の統一教会幹部には、日本統一教会内に日本人として
の誇りを持つ人間が現れることの警戒心が強い。日本人に対しては、とくに尊
大になる。この『文鮮明氏』の日本統一教会とその幹部への強い不信と、そこ
から来る強圧的な姿勢の根底には、韓国・朝鮮人としての日本人に対する、反
日感情がある。……日本の復興は朝鮮戦争の特需によるもので、韓国・朝鮮人
の犠牲のうえに日本の繁栄が成り立っているという理屈である。だから、教祖
は、日本から莫大な金額を持ち出すことも、そのために日本人会員が苦吟する
ことにも、良心の呵責を感じないと断言している」
これでは、いつまでたっても日本人は贖罪に苦しみ、敗戦コンプレックスをひ
きずる<狼>だ。文鮮明氏の反共は、多分は北から命からがら逃げてきた体験
からくる恨みだろう。祖国語を韓国語にするというのも、あるいは日本によっ
て韓国人が日本式名前を押しつけられたことへの復讐かもしれない。宗教家に
恨みや復讐は似合わない。久保木氏を始めとした日本の原理運動の人々も、で
きることならば文鮮明氏と手を切り、独立し、日本的原理運動を目指したらい
い。贖罪や敗戦コンプレックスの『原理講論』からも解放されてだ。文氏のた
めに祖国日本への「復讐の手先」とされたのではたまるまい。そして心にもな
い反共運動の仮面も捨てて、本来の宗教運動に戻ったらいい。まァ、これは無
理かもしれないし、いらぬおせっかいかもしれないが。
ともかく、原理・勝共の青年たちを「反共だから仲間だ」「選挙に応援に来て
くれるから同志だ」と安易に考え、付き合っていたら大変な目にあう。彼らの
ストイックなまじめさは見とめる。自民党青年部にも右翼にも、こうした青年
は少ない。だからこそ、彼らに感激するのだろうし、その気持ちは分かる。わ
れわれだって、くやしい。だが 、彼らは決して自民党や右翼の使い走りではな
い。彼らの力を見そこなってはいけない。
彼らの力をもってしたら全国で一人や二人の国会議員を身内から出すのは簡単
だろう。それをあえてしないのは、もっと大きな野望があるからだ。元、原理
研にいた友人に聞いたが、それは久保木氏を日本の首相にしようという野望だ
という。世界の独裁者は文氏で日本の首相は久保木氏というわけだ。自民党や
保守的文化人、右翼に近づき、それらの人々をシンパにしようとしてるのもそ
のためだし、大学でのオルグもそれを射程にいれてなされているという。
そういえば、大学の自治会乗っ取りや学生新聞発行にアタックしているところ
はみんな一流大学ばかりだ。東大、北大、名大、阪大、京大…・と、将来エリ
ートになる大学生のみを狙い撃ちしている。そう言っては悪いが、二流、三流、
駅弁大学は初めから相手にしていない。
こうした野望は今わ夢物語だ。ちょうど「日韓トンネル」と同じように。しか
し、それに向かって進んでいることは事実だろう。今の反日・反民族的体質の
ままそれが進められたら、日本にとっても一大脅威である。
何度も言うように、決して彼らをあなどってはならない。むしろ民族主義運動
の<敵>として彼らを認め、その力を評価してやるべきだ。彼らにとっても、
その方が気が楽だろう。「反共だからわれわれの仲間だ」「自民の手先だ」「
何でもいうことはきく」と、今、安易に考え、あなどっている人間には、必ず
そのしっぺ返しをくうであろう。そしてその時ではもう遅いのだ。
(『朝日ジャーナル』昭和六十年二月一日号)
http://www.asyura.com/sora/bd11/msg/691.html
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by thinkpod | 2006-12-29 22:32 | 半島
2006年 12月 28日

「 悪夢のような中国進出の実例 」

『週刊新潮』 '06年12月21日号
日本ルネッサンス 第244回

安倍晋三首相の訪中を機に、日本の技術、経営手法、資本を求める中国側の働きかけが熱を帯びている。

そこで、中国進出を熱心に説かれ、約5年間を彼の国で頑張ったある東北の企業の実例を見てみたい。

「旭エンジニアリング株式会社」は資本金2,500万円、社員75名の農機具メーカーだった。現在は自動車生産用のロボットを中心とする精密機械製造に重点を移しているが、当時は農機具が主力である。

オーナー社長の藤沼弘文氏は、これまでの30年余にわたる会社経営のなかで、会社側の都合で社員をクビにしたことは一度もないという。

「社の業績が悪いときには、たとえば20万円の給料を19万円にして皆で我慢して切り抜ける。会社が盛り返せば、また、給料を上げることも出来る」と氏は語る。

こうした考えを守ってきた旭エンジニアリングには、その社風故に、親に続いて就職してくる二世もいる。

日本的な配慮を尽くす藤沼氏だが、押しよせる国際競争の波に直面して、90年代はじめ、賃金の安い海外に生産拠点を作ろうと思い始めた。

「バブル崩壊前の90年代のはじめ頃から、海外の拠点探しを始めたんです。日本だけで生産していては、コストが高くて競争力がない。そこでまず、チェコに行きました。農機具をはじめ、機械分野ではドイツメーカーの下請け企業が多くあったからです」と藤沼氏。

しかし、当時のチェコは実質的にはまだ共産圏だ。輸出入に規制がありすぎた。イタリアにもドイツにもアジア諸国にも行った。そのとき、大手総合商社、丸紅の担当者が中国進出を誘ったのだ。氏は歴史問題などについての中国のやり方を好ましく思わず、乗り気ではなかったが一応説明に耳を傾けた。中国なら大体何でも出来る、丸紅も助言出来る、通訳を含めて現地での便宜をはかってくれる人物も紹介すると説得され、氏は96年、中国進出を決めた。


反故にされる契約

紹介された通訳は韓国生まれの中国人だった。氏は通訳を連れて幾つかの候補地を視察し、中山威力集団工業公司に行きついた。中山は香港から珠海を経由して、さらに車で5時間ほど走る経済開放区である。そこには釣具のオリムピック社なども進出していた。藤沼氏はその一区画を紹介された。

「建物はありましたがガランドウ。そこに日本から持ち込んだ機械を据えて農機具を作るのですが、農家の庭先で作業するような感じでした。ただ、人間だけはもの凄く押し寄せてくる。日本なら一人分の作業に大袈裟でなく10人も20人も来る」

幾つもの宴会を経て、96年暮れに契約が成立、最も簡単な田を掘る機械を作らせた。社員4人を派遣し指導に当たらせたが、なんと、中国人社員は650人にのぼった。

ようやく3年目に生産開始となったとき、氏は心底驚いた。値段が当初予定より数倍も高かったのだ。

「田の土掘り機を、私は手始めに1,000台発注したのです。彼らは当初、1台3万円で作ると言っていたのが、少なくとも3倍だというのです。中国側に部品製造の機械の図面を渡し、金型を貸与し、社員を送り込んで指導してきたことへの支払いは一切なし。おまけにそんな高値です。これでは日本で造る方がいい。私が怒っても、通訳は伝えてくれない。通訳は雇い主の私の側ではなく、中国側に立っていたのです」

こんなこともあった。

「目標の農機具を作るのに、中国ではどうしても作れない部品がありました。1台につきその部品4個が必要で、私は日本から4,000個、送りました。ところがそれが紛失した。納期に間に合わない。仕方なく、至急、同じものをもう一度送ると連絡したら、中山威力集団工業公司の担当者らは、2週間待ってくれ、同じものを中国で調達すると言う。冗談じゃない。これはわが社の技術の粋を集めた部品です。逆立ちしても中国にはないんだと言っても、彼らは大丈夫だと言い張るのです」

2週間して出てきたのは旭エンジニアリングが送った部品だった。腹に据えかねた藤沼社長は公安当局に訴えると言った。すると通訳が、怒ってはならない、日本は日中戦争でひどいことをしたじゃないかと窘めた。氏は冒頭で紹介したように極めて日本的な人情に厚い人物で、日本の歴史にも詳しい。そこで日中戦争は日本ばかりが悪かったわけではないと猛烈に主張した。南京大虐殺も中国が戦後になって言い出したと、具体論を展開した。中国側は藤沼氏の勢いに押されて、当局への訴えはなしにしてくれと申し入れてきた。


欠陥製品は“日本の陰謀”

スッタモンダの末に、農機具が出来上がり、第一陣が日本で販売されると、途端に苦情が殺到した。再び信じ難い事態がおきていた。

農機具のネジはトルクレンチという工具を使い、適正な圧力で締める。圧力が不足しても強すぎても問題が発生する。ところが中国人は圧力を加減せず、力一杯締めてネジを切っていた。それを隠すために、新聞紙を巻いてハンマーで叩き、塗料を塗ってごまかしていた。これは目視検査ではわからない。

こんな欠陥製品が市場に出たのだ。ユーザーは入れた燃料が漏るのに気がついた。苦情を受けて分解すると、ネジ山がつぶれ、折れていた。説明を求めると、中国側は言った。

「我々はそんなことは絶対していない。日本人の仕業に違いない」と。

藤沼氏は呆れはて、ネジの欠損を埋めるのに使用された新聞紙を広げて写真に撮って、突きつけた。

「中国語の新聞じゃないか。これでもシラを切るのか」と。

それでも、彼らは言い張った。「日本人の陰謀だ」と。

この一件で、藤沼氏の心は最終的に決まったという。持ちだした費用はすでに3億円を超えていた。中堅企業には痛手である。しかし、「もういい」と氏は考えた。そして機械類の撤収の準備を始めると中国側が待ったをかけ、通訳も言った。

「この機械は置いていってやれ」

中国側は機械の代金を支払うわけでもない。藤沼氏は断った。すると、当局が機械の「輸出許可を出さない」と言い始めた。

「わが社が中国側に貸与する契約で持ち込んだのに、日本に持ち帰ろうとすると、彼らは許さないと言い始めた。大切な機械や技術、金型をみすみす盗まれてなるものですか。私は社員と一緒に、主要な部品や金型の全てを破壊しました」

藤沼氏は中国人労働者のなかの優秀な人材を6名ほど日本に呼び、勉強させ、技術を伝授した。中国に戻った彼らは、しかし、全員が他企業に高い給与を求めて移っていった。

中国から最終的な引き揚げが完了したのは2000年のことだ。足かけ5年、氏が体験した中国の本質は、今も変わっていない。
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2006/12/post_494.html





The Globe Now: 暴走する「世界の工場」中国

「世界の工場」は政策的に作られたコスト競争力を
武器に、世界中の中小企業をなぎ倒していく。

■1.プラートの苦難■

 プラートはイタリア北部の人口18万人ほどの町である。
700年以上もヨーロッパの織物業の中心地として栄え、アル
マーニ、プラダ、グッチなど高級ブランド企業がここで買いつ
けを行ってきた。

 中央広場のごつごつとした石畳、壮麗な大聖堂、赤茶色の屋
根の続く街並み、遠くの低い緑の丘、、、いかにもイタリアの
古都らしい情景である。

 しかし、西の町外れだけが別世界となっている。窓に漢字が
書かれた美容院、漢方薬の店、ネオン輝く娯楽クラブなど、ま
るで中国の街並だ。プラートの人口18万人のうち、いまや中
国人が2万人を占めている。

 彼らは初めは外人労働力として、プラートの伝統企業に雇わ
れていたのだが、技術を習得すると独立していった。プラート
の商工会議所に登録された中国人経営の企業は1992年の212社か
ら、2003年には1753社へと急増した。

 これらの会社は中国本国に大規模な製造工場を造り、低賃金
労働力を武器として、高級ブランド企業の注文を奪い始めた。
デザインだけプラートで行い、製造そのものは中国で行う。そ
の完成品に高級ブランドのラベルを縫いつける仕事だけがプラ
ートで行われる。

 そのコスト競争力に押されて、2000年に6千社もあった伝統的
なイタリア人経営の中小企業は、2005年には3千社を切ってい
た。700年の織物工業の歴史が、いまや断絶の危機に瀕して
いる。市当局には打つ手が見つからないようだ。

■2.黄の冒険■

 プラートに住む中国人の多くは、不法入国でやってきた。そ
のうちの一人、黄の冒険譚は次のようなものだ。

 黄の父親は福建省でスッポンを養殖し、日本に輸出して稼い
でいた。しかし、日本のバブル崩壊で需要が減ると、スッポン
の価格が暴落し、養殖事業は躓(つまず)いた。父親は不法な
地下銀行から金を借りていたが、支払い不能に陥ると、刑務所
を兼ねている市庁舎の地下に監禁された。不法な地下銀行は、
地方政府が経営していたのである。

 黄に残された手段は、妻と息子をおいて、海外に出稼ぎに出
ることだった。地下銀行と交渉して、金を借り増し、犯罪組織
「蛇頭」にヨーロッパへの密入国を依頼した。地下銀行は返済
ができなければ、黄の親戚一同の財産を差し押さえるという条
件で金を貸してくれた。

「蛇頭」は黄に出国印の押された偽造パスポートを渡し、北京
からロシアに向かう貨物列車に潜り込ませた。モスクワの手前
で、列車から飛び降り、迎えに来た白いバンに乗せられた。そ
こから車や貨物船を乗り継いで、なんとかイタリアに上陸でき
た。そしてミラノを振り出しに、掃除や食器洗い、荷物運びな
どの単純作業を続けながら、4年間、ボローニャ、ローマを転
々とし、プラートまでやってきたのだった。

 プラートでの中国人労働者の典型的な賃金は、1日10数時
間働いて月600ユーロ(約9万円)。生活を切り詰めてなん
とか黄は父親の負債の返済を始め、父親はようやく解放された。
4年で返済を終えたが、黄はまだ妻と子供の元には帰れない。
15歳の息子の教育費を払うためだ。

■3.プラートの栄華と没落■

 黄のような不法入国者がプラートにやってきたのは、1980年
代の半ばからだった。プラートの子供たちはまるで宇宙人でも
見るかのように、中国人を眺めた。当時は人数も少なく、すぐ
に町の織物工場で雇われた。

 90年代の前半には中国人労働者は1万人に増えた。床の掃
除や、ラベルの縫いつけ、織物の裁断など、低賃金にも関わら
ず、長時間を不満も言わずに働いた。その中から熟練工も育っ
ていった。さらに一部の中国人たちは母国から安い糸や布を仕
入れて、プラートのイタリア企業に供給するビジネスも始めた。

 安価な中国人労働力と中国産原料を使うことで、プラートの
企業のコストは下がり、大いに潤った。地方政府は喜んで、移
民サービスセンターを設置し、不法でも構わずイタリアに渡っ
てきた中国人の世話をした。

 しかし、そんな蜜月時代は長く続かなかった。中国人工員た
ちは何年か勤めて技術を得ると、会社を辞めて独立する。ぼろ
を着た出稼ぎ労働者が、いかにして工場を辞めた翌週に元ボス
の競争相手となったか、という記事が地元紙の商業面を賑わせ
た。

 まだ20代の女性起業家・王一華もその一人だ。王も蛇頭の
手引きで19歳にしてイタリアに不法入国した。いまでは中国
人の工員とイタリア人のデザイナーを雇う「グレート・ファッ
ション」という企業の代表におさまった。フォルクスワーゲン
に乗り、高級なサングラスをかけ、流暢なイタリア語を話す女
性起業家である。

■4.同じ苦難はコモ、ビエッラ、モンテベルーナにも■

 プラートを襲った苦難は、イタリアの伝統的産業に支えられ
てきた都市に共通の運命である。

 北部の美しい湖畔の町コモは、古代ローマ時代から絹織物の
中心地だった。20年ほど前に中国の絹産業が復活すると、中
国産の絹糸のほうが、コモのものよりも安くて、品質も大差な
いことが明らかになった。さらに、安い労働力目当てに紡績と
製織の作業が中国に外注されるようになった。

 そのうちに浙江省の企業が、コモで使われているコンピュー
タ制御の織機を導入した。これを昼夜動かすことで、この企業
は数年のうちにコモの伝統的企業を次々と廃業に追い込みだし
た。7年でこの地域でのコンピュータ制御の織機の数は670
台にまで急増し、世界の絹ネクタイのほぼ半分を生産するよう
になった。

 今やコモの伝統的企業に残された競争力はデザインだけだ。
しかし、それも風前の灯火である。浙江省のネクタイメーカー
の最大手「巴貝(パペイ)」は、輸出した絹物の支払いが困難
になったイタリア企業から、代金と相殺にデザイン工房を譲り
受けた。膨大なデザイン見本帳とイタリア人デザイナーを手に
入れて、優れたイタリアン・デザインのネクタイを年間2千万
本もの生産能力で世界に供給できるようになった。

 フランスとの国境に近い毛織物の町ビエッラでも、中国企業
の攻勢で、13世紀から川沿いに並んでいた工場が次々と閉鎖
に追い込まれている。北東部の町モンテベルーナは登山靴生産
のメッカだったが、安価な外国製品との対抗上、各企業はこぞっ
て生産をルーマニアの工業団地にシフトした。

■5.イリノイ州ロックフォードの苦難■

 中国企業の攻勢に喘いでいるのは、イタリアの繊維産業など
軽工業分野だけではない。アメリカの機械工業も同様である。

 イリノイ州ロックフォードは見渡す限りの農地に囲まれた典
型的な中西部の町である。ここは19世紀末にインガソルとい
う企業が工作機械の製作工場を設立して以来、アメリカの工作
機械産業の中心地として発展してきた。

 20世紀の幕開けと共に自動車産業が勃興すると、インガソ
ルの工作機はたちまち評判となった。ヘンリー・フォードの大
衆車「T型モデル」の製造にも一役買った。その後も航空機や
戦闘機、原子炉の部品の開発にも参画して、専門技術を蓄積し
ていった。

 こうした中西部の工作機メーカーは、戦争や景気後退、日本
・韓国メーカーの台頭も乗り切ってきた。しかし、中国企業の
攻勢にとどめをさされつつある。ある統計では、オハイオ州な
ど10州の金属加工業者のうち、2003年5月から翌年9月にか
けて180件の倒産や廃業があった。3日に1件の割合である。
中国の競争相手が前ぶれもなく、3分の1か、それ以下の値段
で売り込みをかけてきたらしい。

■6.ハイエナのような手口■

 こうした倒産や廃業に伴って工場設備が競売にかけられるが、
そうした場にも中国企業が姿を現した。機械設備、設計図、操
作ノウハウを手に入れるためである。自動車などの近代工業や、
軍需産業を興すには、工作機械が重要な役割を果たすので、中
国政府は積極的に先進技術を買いあさるよう国有企業に促して
いる。

 インガソル社も2003年に倒産し、最初に売りに出された自動
車用の工作機械部門は、中国の巨大な国有企業「大連工作機械」
が買収した。数十年かけて蓄積された自動車製造技術の設計図
や工業規格の書類の山が、ただちに中国本社に送られた。

 大連工作機械は次にインガソルの切削機部門も買収しようと
したが、こちらは米政府に阻止された。この部門は米軍からの
注文で、ロケットの燃料タンクの性能を高める技術を開発した
り、B−2ステルス爆撃機がレーダーに映らないようにする素
材を塗る機械を開発していたからだ。

 低価格攻勢でアメリカの工作機メーカーを倒産に追い込み、
競売にかけられた設備や設計図などを買収して技術を手に入れ
る。まさにハイエナのような手口である。

■7.分断されるアメリカ社会■

 ロックフォードにある「ダイアル・マシン」社は、ここ数年
で従業員70人のうち30人の解雇を余儀なくされていた。同
社のエリック・アンダーバーグはこう語る。

 わが社でずっと働いてきた人たち、家族もよく知ってい
る人たちに、もう仕事はないと告げるのはたまらない気分
です。もはやロックフォードには時給16ドル、17ドル
を稼ぐ熟練工に働き口がないことは誰でもが知っています。

 解雇された熟練工たちの行き場は、ウォールマートなどの安
売り店だ。時給7ドルで年金もない。

 アメリカの国勢調査局によると、アメリカでは所得の中流層
が少なくなっている。2003年に収入2万5千ドル(約290万
円)から7万5千ドル(約870万円)の就労者は減少したが、
それ以下とそれ以上の人は増加した。

 時給16ドルを稼ぐ熟練工が、時給7ドルで年金もない就労
者になる。7万5千ドル(約870万円)以上もの収入がある
階層とは、ウォールマートのように安価な中国製品を大量に販
売して儲ける大規模チェーン店や、中国に生産を外注してコス
トを下げる大手メーカーの経営者、管理者だろう。

 中国企業の攻勢によって、アメリカの中小企業と中産階級は
直撃され、大企業での低賃金労働者と高給取りのスタッフとに
分断されつつある。

■8.不公正なコスト競争力■

 こうして、世界各地で中国企業は猛威を振るっているが、そ
のコスト競争力は中国政府が政策的に作り出したものだ。この
点を『ファイナンシャル・タイムズ』の元北京支局長ジェーム
ズ・キングは、次のように指摘する。

 中国は、対ドルの通貨価値を割安に固定して、輸出の大
きな競争力としていた。労働者にはほとんど、またはいっ
さい福利厚生を与えないから、原価が人為的に低く抑えら
れている。独立した組合はなく、中国の工場で見てきた安
全基準は、アメリカなら違法ものだった。

 国有銀行は国有企業に低利で融資しているが、あっさり
債務不履行になることもある。中央は輸出業者に対して、
アメリカにはない気前のいい付加価値税の払い戻しを行っ
ている。排ガス規制は手ぬるく、環境保護のための企業負
担は、そのぶん小さい。企業は外国の知的所有権を当然の
ように侵害しているが、法廷が腐敗しているのか中央の支
配下にあるからなのか、起訴はされにくい。最後に、国が
電気や水など、さまざまな資源の価格を人為的に抑えるこ
とで、工業を助成している。[1,p130]

 こうして政策的に作られた不公正なコスト競争力を武器とし
て、中国企業はプラートやロックフォードの中小企業をなぎ倒
してきたのである。

■9.暴走する「世界の工場」■

 1970年代から80年代にかけて日本の工業製品の輸出がアメリ
カの製造業を脅かしたた時も「日本はアンフェアだ」と非難の
声が上がった。現在の中国の製造業がそれを再演しているよう
に見える。

 確かに当初の日本の輸出攻勢は、低賃金・長時間労働、安い
円、政府の保護政策に支えられたものだった。しかし、その後
の日本企業は大きな変貌を遂げた。

 円は変動相場制に移行し、1ドル360円から百数十円程度
へと3倍も上昇した。人件費も高騰し、福利厚生も行き届いて
いる。企業への課税水準も環境規制も世界トップレベルである。
知的所有権に関しても、日本はソニーやパナソニック、シャ
ープ、トヨタやホンダなど、独自の製品で自前のブランドを築
き、そのために膨大な研究開発投資を行ってきた。

 こうした努力で、今日では日本が不公正な競争をしかけてい
る、などと非難する者はいなくなった。しかし、中国の場合は
日本と同じコースを辿ることは難しいだろう。中国共産党が独
裁政権を握っていられるのも、経済成長を続けているからであ
り、そのためには現在の低コスト路線を自転車操業で走り続け
るしかない。

「世界の工場」は、世界中の資源を吸い込み、煤煙と廃液を吐
き出しながら、安価な(時には有害な)工業製品を洪水のよう
に送り出し、世界中の中小企業をなぎ倒しつつある。そんな
「世界の工場」の暴走を世界はいつまで許すだろうか。
(文責:伊勢雅臣)


a. JOG(505) 断裂する中国社会
 1億円の超高級車を乗り回す「新富人」と年収100ドル以
下の貧農9千万人と。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog505.html
b. JOG(224) 「油上の楼閣」中国経済
 経済発展する壮大な楼閣は、一触即発の油の海に浮かんでい
る。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog224.html


1. ジェームズ・キング『中国が世界をメチャクチャにする』★★★、
草思社、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794215274/japanontheg01-22%22

暴走する「世界の工場」中国
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/109121404.html

reference archives : 中国が世界をメチャクチャにする
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by thinkpod | 2006-12-28 02:13
2006年 12月 26日

歴史再評価、台湾で一歩 教科書刷新

 【台北=長谷川周人】台湾の高校歴史教科書が、今年9月から使われている改訂版で様変わりした。古代王朝に始まる「大中国主義」の歴史観を貫くこれまでに対し、改訂版では台湾史を中国史から切り離し、系統的に学ぶ。日本の台湾統治が「章」として初めて取り上げられ、インフラ整備などプラスの側面にも言及されている。史実を客観視しようとする姿勢は、台湾の歴史再評価を促す一歩となりそうだ。

 改訂版は台湾の独自性を強調する陳水扁政権の教育指針を反映している。最大野党・中国国民党は「中華民国が中国全土の正統政権」という建前から教科書の改訂について「祖国の歴史を分断するものだ」と反発してきた。

 しかし、民主化と「台湾化」が進む中、李登輝前総統は1997年、中学1年の教育課程に「認識台湾(台湾を知る)」という科目を導入。実質的に初めて授業で台湾史が取り上げられた。この第二弾として陳政権は高校生が必修科目で使う歴史教科書の抜本改定に踏み切った。

 新しい教科書は8冊が当局検定を通過し、うち5冊が実用化されたが、国民党政権下ではタブー視されてきた軍による住民弾圧の「二・二八事件」(1947年)や民主化活動家が弾圧された美麗島事件(1979年)などを詳述。一方で台湾独立の根拠となる「地位未確定論」にも言及している。

 台湾の主権は一般に「満州、台湾、澎湖諸島は中華民国に返還される」とした「カイロ宣言」(43年)を踏まえ、この履行を日本が受諾した「ポツダム宣言」(45年)、さらに領有権放棄を明言したサンフランシスコ講和条約(52年)などにより、確定的になったと認識されている。

 この解釈が中国が台湾領有権を主張する根拠ともなるが、台湾の研究者による調査では、カイロでの合意は法的拘束力に欠ける「プレス・コミュニケ(公報)」であって「宣言」でなく、台湾の帰属は講和条約以降、「未確定」という主張が台湾で広がっている。実際、署名された「宣言文」の存在は確認されていない。

●日本統治時代も「章」に

 これを踏まえ、龍騰文化が出版した教科書は「カイロ宣言は署名がなく、国際法上の効力を具有しない」と記し、他の4冊も主権帰属にかかわる論争の存在を明記するようになった。

 日本統治時代(1895〜1945年)を扱う章は、5教科書ともB5版で30ページから54ページのスペースを割き、史実としての植民地時代を直視しようとしている。翰林の教科書が「50年の植民統治で台湾は同時に植民地化と近代化を経験をした」が書き出すように、評価は肯定、否定の両論併記だ。

              ◇

 公式教材となった新高校歴史教科書の出版社は次の通り。()内は日本統治時代を扱うページ数。三民書局(30)、南一書局(47)、泰宇出版(48)、翰林出版(54)、龍騰文化(53)。画数順。

               ◇

 ≪戴宝村・政治大学専任教授(教育部教科書検定委員会主任委員)≫
 
●教育原理にかなう

 歴史教育の原理とは、ある人々のその土地における生活の累積と体験を教えることだ。にもかかわらず、われわれが行ってきた教育は、政治的な理由から中国大陸の歴史ばかりを教え、教育原理に背を向けてきた。しかし、こうして台湾史が正式に教科書に編入された結果、教育原理にかなうよう変わった。

 さらに新しい教科書では、学生に台湾史を理解させることにより、台湾のアイデンティティーと歴史を比較できるようになった。世界的にみても最大脅威であり、密接な関係がある中華人民共和国の歴史はとても重要だが、台湾人が台湾史を理解することも重要なのだ。

 例えば、国民党政権下の台湾では、一貫して「カイロ宣言」をもって台湾は「中国に回帰した」と強調されてきた。だが、多くの研究はあれは宣言ではなく、一種の備忘録であったと指摘している。国民党教育を受けた成人は今だに「カイロ宣言」というが、(新しい教科書を使う)将来の学生は、これは宣伝のようなもので、サンフランシスコ講和条約によって台湾の帰属が日本から離れたことがより明確に理解できる。

 日本統治時代に関しても、中国的な民族主義の立場に立てば、日本の台湾統治は搾取と解釈されるが、台湾人からみる日本時代は違う。日本が行った建設は台湾に大きな影響を与え、進歩につながったことは肯定するに値する。これも動員された台湾人による建設であり、台湾人の努力の結果でもあるからだ。

 確かに(日本統治時代をめぐる)評価のあり方はそれぞれだが、審査する側から言えば、極端に感情的(な表現)でない限り、受け入れられる。したがって著者は、台湾という自由社会を代表し、一定の個人的な観念を盛り込むことにもなっている。

(2006/12/21 08:01)

ぼやきくっくり | 台湾の教科書と「カイロ宣言」
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid206.html



【産経】【教科書が変わった 台湾】(2)「風土や民情尊重」「学校制度確立」

産経新聞 2006年12月22日

1899年に台湾初の中央銀行として設立された台湾銀行。総督府(現総統府)の隣の現在地に移転した後の1930年代に現在の社屋となった(撮影・長谷川周人)


 台湾の高校歴史教科書に新たに設けられた日本統治時代の章には第4代総督の児玉源太郎(1852〜1906年、日露戦争時の満州軍総参謀長)らが登場し、インフラ整備や教育などの面で日本が果たした役割も直視しようとしている。
 【社会の基礎建設】

 「1898年、総督に児玉源太郎が、民政長官に後藤新平(1857〜1929年)が就任すると、台湾の風俗、習慣、宗教信仰などを調査・分析し、政策決定に生かした。一方で風土や民情を尊重するとして人心を丸め込み、反抗意識を取り除いた。総督府はこの時期、植民統治の基礎建設を次々と完成させた。これには度量衡と貨幣の統一、(中央銀行である)台湾銀行の設立、人口調査などがある」(翰林)

 「総督府は上下水道を建設、大衆を動員して清潔な環境づくりをした。伝染病の予防につながり、死亡率は大幅に低下した。医療面でも医学校を設立して台湾人医師を養成し、各地に公立病院を設立した。予防接種や隔離消毒も実施され、台湾人の医療環境は大幅に改善した」(南一)

 【社会変革】

 「日本人は台湾人の阿片(アヘン)吸引、辮髪、纏足を『三悪』と見なし、学校教育や宣伝活動を通じて徐々に廃止していった。総督府は週7日制を導入して休日と祝日を定め、台湾全土にグリニッジ標準時(GMT)を取り入れた。公的機関の業務や交通機関の運行も定刻に沿って行われるようになり、民衆は時間を守るという観念を養った」(南一)

 「アヘンは総督府が許可制にして専売事業となり、植民地財政の重要な財源となった。また、総督府は女性が纏足をやめれば労働力になると考えた」(翰林)

 【教育の近代化】

 「日本統治時代に近代学校制度が確立し、教育普及の基礎となった。台湾人は学校で日本語を習い、教科書から日本文化や世界の新知識に触れた。しかし、(統治)初期は日本語教育と初等技術教育が主だった。初等教育は、日本人児童は小学校で、台湾人児童は公学校で学んだ」(南一)

 「(その後は)中等職業教育にも重点が置かれ、農業、商業、工業学校が相次ぎ設立され、台湾の工業と経済発展の重要な基礎となった。最高学府は1928年創設の台北帝国大学だったが、台湾人の進学は限られ、留学が選択肢のひとつとなった。留学先は日本が最多で、留学生が持ち帰った新しい思想は台湾の政治、社会、文化活動に大きな影響を与えた」(翰林)

 「総督府は1920年年代に『台湾教育令』を改訂し、台湾の教育体制を日本内地と一体化。共学制が施行され、『内地人』『本島人』『蕃人』などの差別的な呼び方の使用をやめた」(龍騰)

 「日本当局が教育を推進したのは主に統治政策上の必要からで、初等教育を重視、『忠君愛国』の思想を植え付けた。台北帝国大学設立も主に在台日本人子弟のためだった」(三民)

 (注) 公式教材となった新高校歴史教科書の出版社は三民書局、南一書局、泰宇出版、翰林出版、龍騰文化の5社(画数順)。

 (台北 長谷川周人)

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by thinkpod | 2006-12-26 06:18
2006年 12月 26日

「戦後体制からの脱却」を進める安倍首相

外交、教育、防衛と、安倍政権は「戦後体制からの脱却」を着々と進めている。

■1.着々と進む「戦後体制からの脱却」■

 郵政民営化に反対して離党した「造反組」議員の復党問題で、
安倍首相に対する支持率が、発足直後の64パーセントから
47%に急落した、と伝えられている。安倍首相はこの問題を
中川秀直・自民党幹事長に一任したのだが、世論調査では、こ
の問題に対して首相が指導力を「発揮したとは思わない」との
回答が67パーセントに達した。その後も、タウン・ミーティ
ングでのやらせ質問や、政府税制調査会・本間正明会長の官舎
入居問題などで、逆風が強まっている。

 しかし、マスコミがこれらの問題に騒いでいる間に、今国会
に提出された21法案はすべて成立した。その中には約60年
ぶりの教育基本法改正、防衛庁の「省」昇格の重要法案が含ま
れていた。安倍内閣の掲げる「戦後体制からの脱却」は、内閣
発足わずか3ヶ月で大きな第一歩を記したと言える。

「戦後体制」と言えば、その代表は共産党や社民党、民主党左
派などの左翼政党、そして朝日新聞やTBSに代表される一部
の左翼的マスコミである。これら「戦後体制」を代表してきた
勢力が、「戦後体制の脱却」を掲げる安倍政権を目の敵にして
きたのも、けだし当然であろう。

 今回はこれら一部マスコミや野党と戦いつつ「戦後体制の
脱却」を進める安倍政権の足跡を追ってみよう。

■2.安倍憎しの「ゲリラ活動!?」■

 朝日新聞やTBSは、従来から何とか安倍政権の誕生を阻止
しようと、異様な熱意を燃やしてきた。

 朝日は昨年1月12日、NHKが4年も前に放送した従軍慰
安婦に関する番組で、中川昭・経産相(当時)と安倍・内閣官
房副長官(同)が圧力をかけて番組を改変させたと報じた。

 NHKは7時のニュースで「朝日の虚偽報道」と反撃し、中
川・安倍両氏も「事実無根」と訂正・謝罪を要求した。朝日は
何ら根拠を示せず、窮地に陥った[a]。朝日はその後も頬被り
を続けているが、この失敗以来、いよいよ安倍憎しの情を募ら
せたようだ。

 安倍氏が小泉前首相の後継として注目を集めると、朝日は対
抗馬・福田康夫氏に6月20日付け社説で『福田さん、決断の
時だ』と決起を促した。7月5日、福田氏が正式に出馬しない
と表明すると、23日付け社説では『安倍氏独創でいいのか』
と歯ぎしり。「福田がダメなら小沢だ」とばかり、9月11日、
民主代表選の前日に小沢ビジョンをスクープし、夕刊一面トッ
プで『民主、格差是正を全面、保守取り込み狙う』と派手に持
ち上げた。

 しかし朝日の怨念空しく、安倍首相が誕生すると、9月21
日社説では『不安一杯の船出』、同27日付社説では『果たし
てどこへゆく』と、不安をかき立てた。しかし、新首相への世
論支持率64パーセントという逆風の中では、「負け犬の遠吠
え」に過ぎなかった。

 一方、TBSはテレビならではのイメージ戦略で安倍氏を攻
撃した。7月21日の「イブニング・ファイブ」では、満洲で
の731部隊による細菌戦計画の番組中、何の関係もない安倍
氏の顔を大写しにして、「ゲリラ活動!?」のテロップを流し
た。

 安倍氏が不快感を示し、総務省も調査に入ると、TBSは
「偶然」と謝罪したが、報道局長の事前チェックも入るはずの
報道番組に、こんな「ミス」が見逃されるはずもない。安倍氏
の祖父、岸信介元総理が満州国の官僚だったことから、731
部隊との関係を示唆し、安倍氏のイメージダウンを図ろうとい
う卑劣な戦術だった。公共の電波を使うマスコミ機関が、ここ
までやるのは、無法な「ゲリラ活動!?」としか言いようがな
い。[1,p61]

■3.「侵略戦争」村山談話の継承と空洞化■

 一方、国会内では野党が、安倍首相に歴史観に関する集中質
問を続けた。なんとか安倍首相から問題発言を引き出して、足
下を掬(すく)おうという魂胆だろう。

 まず10月3日、共産党の志位和夫議員が平成7(1995)年の
村山談話について、「国策を誤り、戦争への道を歩んだという
認識を共有するのかどうか」と問い糾した。首相は村山談話を
継承する、としつつも、こう付け加えた。

 一方、先ほど申し上げましたように、政治家の発言は政
治的、外交的な意味を持つものであることから、歴史の分
析について政治家が語ることについては、やはり謙虚であ
るべきだと考えております。

 さらに社民党の福島みずほ議員が、翌4日の参院本会議で同
様な質問を繰り返すと、

 侵略戦争という概念については国際法上確立したものと
して定義されていない・・・

 村山談話を継承しつつも、「侵略戦争」の国際法上の定義は
なされていない、歴史について語ることは政治家は「謙虚」に
なるべき、と談話の内容自体を空洞化させる発言を行った。

■4.「従軍慰安婦」河野談話の継承と空洞化■

 さらに10月6日、志位議員が旧日本軍が「従軍慰安婦」の
強制連行に関わったという河野談話について質問すると、首相
は、それを継承すると答えつつも、

 いわゆる狭義の強制性と広義の強制性があるであろう。
つまり、家に乗り込んでいって強引に連れていったのか、
また、そうではなくて、これは自分としては行きたくない
けれどもそういう環境の中にあった、結果としてそういう
ことになったことについての関連があったということがい
わば広義の強制性ではないか。・・・

 今に至っても、この狭義の強制性については事実を裏づ
けるものは出てきていなかったのではないか。

 また、私が議論をいたしましたときには、吉田清治とい
う人だったでしょうか、いわゆる慰安婦狩りをしたという
人物がいて、この人がいろいろなところに話を書いていた
のでありますが、この人は実は全く関係ない人物だったと
いうことが後日わかったということもあったわけでありま
して、そういう点等を私は指摘したのでございます。

 ここでも河野談話を継承すると言いつつも、「家に乗り込ん
でいって強引に連れていった」というような「狭義の強制」は
事実として否定している。

■5.安倍首相の尻尾をつかめなかった野党■

 村山談話や河野談話は政府として公式に出してしまったもの
だから、それをいきなりひっくり返したら、それこそ一部マス
コミや野党が鬼の首をとったように大騒ぎし、そうなれば中韓
も首相を迎えるわけにはいかなくなったであろう。

 そこで、安倍首相は、両談話を継承するとしつつも、「侵略
戦争」の定義が確立していない、とか、強制と言っても狭義の
ものではない、として、実質的に空洞化を図ったのである。

 この巧妙なアプローチに、野党は安倍首相の尻尾を掴むこと
ができずに、集中攻撃も不発に終わった。

 その後、下村博文官房副長官が講演の中で、個人的見解とし
つつも、河野談話について「もう少し事実関係をよく研究し、
時間をかけ客観的に科学的な知識を収集して考えるべきだ」と
述べた。

 現実主義的なアプローチの中で、時間をかけて粘り強く自ら
の信念を貫くのが安倍流のようだ。今後も村山談話や河野談話
の見直しを徐々に進めることを期待したい。これも「戦後体制
からの脱却」の重要な一歩である。

■6.靖国に「行くか行かないか、は言わない」■

 政権誕生から2週間も経たないうちに、安倍首相は10月8
日に中国を訪問し、翌9日には韓国を訪れた。

「靖国参拝をやめない限り、中韓は首脳会談に応じない」とい
うのが、一部マスコミの決まり文句だったが、安倍首相は「靖
国神社に参拝したか、しなかったか、するか、しないかについ
て申し上げない」という態度で押し通した。それでも中韓が訪
問を受け入れたことで、この一部マスコミの決まり文句は誤っ
ていた事が明白になった。

 靖国に関しては小泉前首相が最後まで折れなかったことで、
中韓はこれ以上、靖国を外交カードにすることをあきらめたわ
けで、その機を逃さずに利用した安倍首相の政治的判断が奏功
したのである。

 これを一部マスコミは「曖昧戦術」と批判するが、「曖昧」
で悪いことはない。もともと「一国の首相が戦没者の追悼をす
るのを、他国がとやかく言うこと自体がおかしい」と言うのが
日本側の主張なのであって、安倍首相が参拝について曖昧にし
たまま、中韓が首脳会談を受け入れた、ということで、日本側
が主張を押し通した形となったわけである。

■7.靖国に「行くか行かないか、は言わない」■

 中国側は胡錦濤国家主席、呉邦国全人代委員長、温家宝総理
とトップが会談に応じた。会談後の記者会見では、冒頭から靖
国参拝に関する質問があったが、安倍首相はこう答えている。

 靖国神社の参拝については、私の考えを説明した。そし
てまた、私が靖国神社に参拝したかしなかったか、するか
しないかについて申し上げない、それは外交的、政治問題
化している以上、それは申し上げることはない、というこ
とについて言及した。その上で、双方が政治的困難を克服
し、両国の健全な発展を促進するとの観点から、適切に対
処する旨述べた。私のこのような説明に対して、先方の理
解は得られたものと、このように思う。

 中国側の要望も「政治的障碍を取り除いて欲しい」というこ
とで、さすがに「靖国参拝をやめよ」などとは言っていない。
「政治的障害」にさえならなければ、靖国参拝について、行っ
てもよいとも、いけないとも言わない。こちらも「曖昧戦術」
なのである。

 現時点では「曖昧」にしておくことが、双方の政治的利益に
適うわけで、「一国の首相が戦没者の追悼に行くことを、他国
がとやかく言うこと自体がおかしい」という国際常識にようや
く立ち戻ったわけである。

 来年の靖国参拝については、首相自身の胸算用にかかってい
るが、現実的な対応をしながらも原則を貫く安倍流に期待した
い。

■8.外交における「戦後体制の脱却」■

 靖国問題以外については、中韓に対して安倍首相が明確な主
張をしている点を見落としてはならない。中国側との会談の後
の日中共同プレス発表では、こう公表されている。

 日本側は、戦後60年余、一貫して平和国家として歩ん
できたこと、そして引き続き平和国家として歩み続けてい
くことを強調した。中国側は、これを積極的に評価した。

 首相は記者会見において、北朝鮮問題、拉致問題、東シナ海
資源開発問題などについても、首相から考えを説き、中国側か
ら理解が示された、と述べている。従来、日中間の最大の問題
とされていた歴史問題は、「歴史を直視し、未来に向かい」、
および「日中有識者による歴史共同研究を年内に立ち上げる」
という2点だけで片付けられている。

 日中関係の正常化を必要としていたのはむしろ中国側であり、
小泉前首相への靖国批判で上げた拳の下ろし所を探っていた中
国が、首相交替という機会に素早く乗ったのである。中国の
「君子豹変」に、日本の一部マスコミは2階に上がったまま梯
子をはずされた形となった。

 一方、韓国との首脳会談では、「豹変」しない盧武鉉大統領
が、冒頭の40分以上も、慰安婦、歴史教科書、靖国神社に替
わる国立追悼施設など、従来通りの主張を繰り返したが、安倍
首相は一切取り合わず、そうした歴史認識を文書に表そうとし
た韓国側の要求を拒否した。かくて韓国とは共同の文書発表す
ら行われないという異例の事態となった。

 いずれにせよ、首相就任直後の電撃的な中韓訪問は、その内
容においても、従来の歴史問題への謝罪から始まる戦後の対中
韓外交を完全に脱皮し、主張する外交に転換した、という点で
画期的なものであった。これは外交面における「戦後体制から
の脱却」であった。

■9.着々と進む「戦後体制の脱却」■

 12月15日、改正教育基本法が成立。日教組は国会前のデ
モ行進などで組合員約1万5千人を動員した。平日の授業も放
り出しての教員のデモで、支出総額3億円というから、ただ事
ではない。

 日教組がこれだけしゃかりきになるのも理由がある。従来法
の「不当な支配に服することなく」という文言を、日教組は文
部科学省や教育委員会の施策や指導に反対する根拠としてきた
のだが、今回「教育は、、、この法律及び他の法律の定めると
ころにより行われるべきものであり」と追加されて、法律に基
づく教育行政は「不当な支配」に当たらない、と明記された。

 これでようやく教育が法の支配のもとに行われることとなっ
た。この当たり前のことが戦後60年も放置されてきたわけで
ある。

 さらに安倍首相は12月19日夜の記者会見で、憲法改正に
ついて「歴史的な大作業だが、私の在任中に何とか成し遂げた
い」と明言した。その改正手続きを定める国民投票法案に関し
ては、来年の通常国会で成立を目指す考えを示した。

 そもそも憲法改正には国民投票が必要だと現行憲法には書い
てあるが、その投票のための法律すら戦後60年間も制定され
ずに来ていたのは、どう見ても異常である。

 外交、教育、防衛、そして最終的には憲法へと、占領軍が残
した「戦後体制」の脱却に、安倍政権は着々と取り組んでいる。
来年の進展に期待したい。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(401) 北風と朝日
 ある朝日新聞記者が北朝鮮擁護のために でっちあげ記事を書
いたという重大疑惑。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog401.html
b. JOG(339) 安倍晋三 〜 この国を守る決意
 政治家は「国民の生命と財産を守る」という ことを常に忘れ
てはいけないと心に刻みました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog339.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 西村幸佑他『「反日マスコミ」の真実』★★、オークラ出版、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4775508385/japanontheg01-22%22

http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108067739.html





日本は「日中歴史対話」で攻めに転じられるか

日本会議専任研究員 江崎道朗

 安倍首相の存在感が薄い、という批判が出ています。

 確かに小泉首相のようなワンフレーズを繰り返す手法をとっ
ていないので、「何をしているか判らない」という批判が出て
いるのです。確かにもう少しマスコミ受けした「発言」をした
方がいいのかも知れませんが、「開かれた保守主義」を掲げて
安倍首相はしっかりと政策の舵取りをしていると思います。

 例えば、マスコミはなぜかほとんど書きませんでしたが、安
倍首相は就任とともに、官僚のトップである二橋官房副長官を
異動しました。二橋副長官は、皇室典範問題で女系導入の急先
鋒だったのです。この安倍人事によって、女系の皇室典範改正
は少なくとも官僚レベルではぴたっと止まっています。

 私たちの国民運動のテーマであった「靖国神社に代わる国立
追悼施設」も、今年は調査費計上は話題にものぼりません。人
権擁護法案についても、長勢法相のもとでストップになってし
まっています。ここ十数年の国民運動は、政府の打ち出すマイ
ナスの政策をゼロに戻す戦いが多かったのですが、安部政権と
なり、今度はいかにプラスを積み上げていくか、というベクト
ルになっているのです。

 電撃的な訪中で合意された「日中歴史共同研究」についても、
このメンバーは12月1日に公表されましたが、少なくとも近代
史分野では、「正論」や「諸君」でお馴染みのメンバーが多く、
「謝罪」派は完全に排除されています。中国共産党側と激しい
やりとりを行うことを前提とした人選をしており、歴史分野で
は一歩も引きたくないという安倍首相の決意のほどが伝わって
きます。

 この「歴史対話」では、日本側は、中国側の反対を押し切っ
て、日本の戦後貢献や、自国民を数千万人も殺害した「文化大
革命」もテーマにするとしており、攻めの姿勢を見せています。
第一回の会合は年末に北京で開催されるそうですが、「歴史対
話」で攻めの姿勢を是非とも貫いてもらいたいし、そのために
も、大いに注目していきたいものです。
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/108084882.html



引き継ぎを守っていない!

 安倍と井上は公募スタッフに出身省庁の押さえ役を担わせる発想はゼロ。専門分野にお構いなくてんでバラバラな任務に就けた。官のプロフェッショナリズムなど脇に追いやり、「政の使用人」としか見ない。安倍は「霞が関のドン」と言われる事務担当の官房副長官だった二橋正弘を断りなく更迭、飯島の怒りの炎に油を注いだ。飯島は小泉退陣と同時に「安倍政権は小泉政権とはまるで違う。引き継ぎを守っていないじゃないか」と公言し始めたのだ。

飯島前秘書官が放つ『小泉官邸秘録』の凄み:FACTA online
http://facta.co.jp/article/200701043.html
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5b6f3da48e9be9c4ac7966471060c85c




日本の防衛省発足を望んだインドネシア国防相

 本年1月9日防衛庁が防衛省に昇格した。実は、東南アジア
諸国でこの動きを歓迎する向きもある。

 インドネシアのユウォノ国防相は昨年10月上旬のロイター
通信とのインタビューで次のように語っていた。[1]

 私は安倍政権下で、日本が“普通の国”になるためにも、
防衛庁を改めて防衛省に格上げすることを望む。地域的な
安全保障の役割を果たすために日本国憲法9条を改正する
ことにも賛成したい。

 日本は自国の防衛を強化して、米国に委ねる度合いを減
らしつつ、同盟関係を維持しながら前進してほしい。

 ユウォノ国防相のこうした発言の裏には、中国の覇権主義へ
の懸念がある。インドネシア科学院のイクラル研究員は「中国
が南シナ海のスプラトリー諸島を入手し、台湾を併合すること
になれば、経済動脈のシーレーンを支配する」と警告した。
[2]

 ベトナムのグエン・タン・ズン首相も昨年10月に訪日し、
安倍首相と「戦略的パートナーシップ」になることで合意した。
ズン首相は参院本会議で演説までしているのに日本では注目さ
れなかったが、米国の国務省や経済界は、中国の拡張主義に歯
止めをかけた「安倍外交の成功」と高く評価された。[1]

 日本から、台湾、東南アジア、オセアニア、インド、中東、
そして東ヨーロッパと、ユーラシア大陸の外縁を「自由と繁栄
の弧」で覆っていくという外交政策を昨年11月に麻生外相が
打ち出したが、その方向と合致する東南アジア諸国の動きとと
れるだろう。

 防衛省の発足は、「戦後体制からの脱却」の一ステップであ
るとともに、21世紀の自由で民主的な世界を構築する動きに、
わが国としても重要な役割を果たすための一歩である。

■参考■
1. 産経新聞「【湯浅博の世界読解】『アジアは憲法改正反対』の
ウソ」、H18.11.15、東京朝刊、6頁
2. 産経新聞「【湯浅博の世界読解】ユドヨノ政権とは組める」
H18.02.22、東京朝刊、6頁

http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/108159223.html
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by thinkpod | 2006-12-26 03:51 | 政治経済
2006年 12月 18日

地球史探訪: 零戦 〜 世界の航空常識を覆した3日間

 1941年12月8日からの3日間に、
世界の航空史は新しい時代を迎えた。


■1.世界の航空常識を覆した3日間■

 1941(昭和16)年12月8日からの3日間に、世界の航空史
は新しい時代を迎えた。次の3つの出来事がそれまでの航空常
識を覆したからである。

 第一に、12月8日、ハワイ・真珠湾に停泊中の戦艦8隻か
らなる大艦隊を、航空母艦から飛び立った航空機のみの攻撃で
壊滅させた。[a]

 第二に、12月8日から10日にかけて、台湾の台南、高雄
両航空基地から飛び立った大編隊がフィリピンの米軍航空基地
への渡洋攻撃を襲い、壊滅的打撃を与えた。米軍は、まさか戦
闘機が台湾からフィリピンまで飛んで攻撃できるとは夢にも思
わず、その後の数日間、フィリピン近海に航空母艦がいるはず
と必死に探し回って、日本の航空隊指揮官たちを苦笑させた。[b]

 第三に、12月10日、南進する日本の大輸送船団を攻撃し
ようと出撃したイギリスの誇る新鋭不沈艦「プリンス・オブ・
ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を、日本軍は航空攻撃の
みで撃沈した。当時世界最強と言われたドイツ空軍でも、2年
3ヶ月もイギリス艦隊と戦って、戦艦はおろか、一隻の巡洋艦
すら沈めていなかった。飛行機では大艦は沈められない、とい
う世界の常識が覆された。[c]

■2.「神秘性を帯びた奇怪な飛翔物」■

 開戦劈頭の戦果は、当時の世界水準から抜きん出た日本の航
空技術によって、もたらされたものである。その象徴が零式戦
闘機(零戦)であった。たとえば12月10日のフィリピン攻
撃では、渡洋攻撃した零戦34機を2倍近い米戦闘機群が包囲
して、大空中戦が展開されたが、米軍機44機が撃墜され、零
戦の被害は一機のみであった。

 米軍パイロットにとっては、まさに悪夢であった。彼らは圧
倒的な工業技術力を誇るアメリカが作り出した戦闘機と、自分
たちの優れた操縦技能からすれば、日本が物真似で作った戦闘
機など、簡単に撃ち落とせると考えていた。

 しかし、目の前に現れた戦闘機は、見たこともない、ほっそ
りした優美な姿をしていた。そして、遭遇したと同時に、驚く
ほどのスピードで突き進んでくる。格闘戦に入った途端、呆れ
るほどの上昇力と旋回性能で、すぐに自分の後ろについてしま
う。そして、そのひ弱そうな機体からは想像もつかない大口径
の機銃が火を噴くと、たちまち彼らの戦闘機は火災を起こし、
一直線に落下していくのである。

 米軍パイロットにとって、零戦は戦闘機と言うよりも、神秘
性を帯びた奇怪な飛翔物だった。あるパイロットは、その飛翔
物と出会うと、友軍機がそれぞれ競い合うように、自ら墜落し
ていったように思えた、と怯えて語った。

■3.「外国の超一流機を眼にしたようだ」■

 米軍パイロットたちが、日本の航空機など敵ではない、と考
えていたのは、無理からぬことであった。大正5、6(1916,17)
年頃まで、日本は外国機の製作権を入手し、外人技師を招聘し
て、その技術指導のもとに機体やエンジンの設計製作を進める
のが、せいぜいだった。

 その後、日本人自身の手で設計・製作するようになるが、欧
米先進国の模倣に過ぎなかった。ようやく、昭和7(1932)年に、
海軍の航空本部技術部長・山本五十六少将他の提案で、日本独
自の航空技術を生み出すために、外国機の安易な模倣を禁じて、
民間各社に自社設計を命じた。真珠湾攻撃のわずか12年前の
ことである。

 昭和10(1935)年に三菱重工名古屋航空機製作所が完成させ
た試作機は、当時世界の最新鋭機の最高速度410キロを破っ
て、450キロを達成した。その試作機が、それまでにない高
速で急上昇や急降下をして見せると、立ち会った海軍廠長・前
原謙治中将は、感激に声をつまらせながら、こう語った。

 今日ほど感動したことはない。日本にもこうした飛行機
が出現したことを思うとただ喜びだけだ。外国の超一流機
を眼にしたようだ。[1,p25]

 翌昭和11年、紀元2596年の96を冠してこの戦闘機は96
式艦上戦闘機として制式に採用され、約1千機が生産された。
その設計主務者が、次に零戦を開発する堀越二郎技師であった。

■4.それはあまりに厳しすぎる要求だった■

 堀越のもとに海軍航空本部から、次期戦闘機の計画要求につ
いて説明するので、至急出頭せよ、との緊急連絡がもたらされ
たのは、昭和12(1937)年8月の事だった。ちょうど支那事変
が始まった時期である。

 それはあまりに厳しすぎる要求だった。最大速度は500キ
ロを要求していた。また外国でも実用機では例のない20ミリ
機銃2挺の装備が要求されていた。さらに航続距離、旋回性能、
上昇性能など、外国の一流機の水準を超えた要求が並んでいた。

 速度と機銃装備による重さ、航続距離などは、あちらを立て
ればこちらが立たず、という関係にあるのに、それらがすべて
欧米の戦闘機よりも優れた水準を求められていた。しかも、国
産の小馬力のエンジンでそれを達成するには、至難の業と思わ
れた。

 堀越は立ち上がって、これらの要求があまりに高すぎるとし
て、幾分でも緩和してくれる余地はないのか、と聞いたが、海
軍側の回答は「絶対に緩和の余地なし」というものだった。堀
越たちはそれ以上、何も言えずに、出来るだけ要求に沿うよう
努力することを約して、暗い表情で社に戻った。

 三菱重工とともに要求を聞いた中島飛行機は競争試作を下り
てしまい、堀越たちの肩にすべての責任が降りかかってきた。

■5.「新鋭機を一日も早く第一線に送れ」■

 早速、設計にとりかかった堀越のチームは、軽くて強度のす
ぐれた素材はないか、と探し回り、住友金属工業で、それまで
の超ジュラルミンより抗張力を3〜40パーセント強めた超ゝ
ジュラルミンを開発したことを聞いて、さっそく採用した。さ
らに少しでも機体を軽くすべく、強度に関係ない部分に2、3
ミリの穴を数多く開けることまでした。

 日本の飛行機としては初めての引き込み脚を採用し、空気抵
抗を少なくして、航続距離を伸ばした。翼の面積は思い切って
広く取り、旋廻性能を良くし、空母からの離着艦を容易にした。

 こうして設計された機体は、96式艦上戦闘機よりもスマー
トな美しい形状をしていた。実物大の模型を堀越は満足そうに
眺めた。

 昭和14(1939)年3月16日、第一号機が完成。詳細な各部
の点検の後、段階的にテスト飛行が行われた。4月14日には、
初めて脚の引き込め飛行が行われた。機が滑走路を離れ、両脚
が引き込まれると、機体は見事な流線形を示した。美しい、と
堀越は思った。

 6月12日には、海軍の熟練パイロットによる試乗テストが
行われた。「96式艦上戦闘機に比べると、最高速度は相当増
しているのに、着陸が容易なのは大いに良い」と好評だった。
しかし、同時に問題点もいくつか指摘され、堀越たちは改良を
続けた。

 最高速度は、海軍の要求を上回る時速533キロを記録した。
当時のドイツとアメリカの最新鋭機の速度、それぞれ444キ
ロ、426キロを、はるかに凌ぐスピードであった。

 この好成績の報告を受けた海軍側は沸き立った。その情報は
中国大陸で戦う海軍航空実戦部隊にも伝わり、新鋭機を一日も
早く第一線に送れ、という声が出始めた。

 その頃、日本の爆撃機は漢口の基地から、重慶まで飛んで爆
撃を行っていたが、96式艦上戦闘機では航続距離が足りずに、
護衛についていくことができなかった。そこに中国空軍の戦闘
機の迎撃を受けて、被害が続出していたのである。

■6.「零式艦上戦闘機」■

 昭和15(1940)年7月末、試作機はすべての問題点が解決し
たことを認められ、その年の紀元2600年を記念して、末尾の零
をとって「零式艦上戦闘機」と名づけられた。

 8月19日、漢口から零戦12機が飛び立った。重慶を爆撃
する陸上攻撃機54機の護衛である。その搭乗員たちは、初め
て自分たちを援護してくれる戦闘機を得て、零戦に機上から手
を振った。1500キロもの長距離を単座の戦闘機が編隊を組
んで飛行するのは、世界航空史上でも例のないことであった。

 重慶では約30機の中国空軍の戦闘機で待ち構えているとい
う情報が偵察機からもたらされていた。しかし、中国空軍は出
てこず、陸上攻撃隊はゆうゆうと爆撃を行い、全機帰還した。
中国空軍は日本の新鋭戦闘機が援護しているという情報を得て、
身を避けている気配であった。翌日の爆撃にも姿を見せなかっ
た。

 そのうちに意外な情報が重慶からもたらされた。中国空軍は
日本の航空戦隊が帰った後に、重慶上空を飛行し「日本航空隊
に大損害を与え、追い払った」と宣伝しているという。

■7.「なぜ、あんなに落ちていくのか」■

 その裏をかく作戦が立てられた。爆撃終了後、一度重慶から
帰るふりをして中国空軍が出てきた所を、反転攻撃を仕掛ける
という案である。

 9月13日、零戦13機は、爆撃終了後、重慶から50キロ
戻ったところを急遽、反転した。果たして、重慶上空には27
機の中国軍機が編隊を組んで飛んでいた。ソ連製の最新鋭機イ
15、イ16である。零戦隊は相手より千メートル高い位置か
ら、突っ込んでいった。中国軍機は気がついて、あわてて散開
したが、零戦はスピードが速すぎて相手を追い越してしまった。

 27機対13機が入り乱れての空中戦となった。動きの緩慢
なイ15、イ16の横を、零戦の高速の機影がかすめて通り過
ぎる。落ちていくのは、中国軍機ばかりであった。20ミリ機
銃の威力はすさまじく、敵機の主翼を飛び散らせた。「なぜ、
あんなに落ちていくのか」と零戦パイロット自身が不思議に思
えたほどであった。大空中戦はわずか10分ほどで終わった。

 鮮やかな夕焼けが、漢口上空を染める頃、13機の零戦が滑
走路につぎつぎと着陸した。パイロットたちが搭乗機から降り
立つと、彼らはたちまち大勢の将兵に取り囲まれた。「敵戦闘
機、イ15、イ16、27機を確実に撃墜、または炎上破壊。
只今全機帰着いたしました」と報告すると、周囲はどよめいた。

 二日後に、この空中戦のニュースが新聞報道されると、三菱
重工・名古屋航空機製作所の内部は湧きに湧いた。その中で堀
越は、ひとり机の前に無言で座っていた。その顔には、3年間
の緊張が一時にゆるんだような疲労の色が浮かんでいた。

■8.「そんな戦闘機を日本が作れるはずがない」■

 重慶市街上空の衆人環視の中で、ソ連の最新鋭機イ15、イ
16が、半分以下の機数の日本機に全滅させられたことに、中
国空軍は戦意を著しく喪失し、さらに奥地の四川省成都まで後
退した。零戦部隊はそれを追って、攻撃を続けた。

 日本国内では零戦の量産体制が整えられ、三菱重工と中島飛
行機が毎月数十機という規模で続々と零戦を生み出し、前線に
送り込んだ。

 中国大陸での零戦の作戦行動は、昭和16(1941)年8月末に
完了した。大陸全体が、日本の航空兵力の制空下に納められた
からである。約1年間で中国空軍に与えた損害は撃墜162機
(不確実3)、地上での撃破264機。零戦の被害はわずか2
機、それも地上からの防御砲火によるものであった。

 中国空軍は、アメリカのクレア・シェンノートという元陸軍
航空大尉によって指導されていた。シェンノートは蒋介石から
の厚い信任のもとに、アメリカ、ソ連、イタリアなどから最新
鋭の戦闘機を購入し、多くの中国人パイロットを育てていた。

 零戦の登場にシェンノートは激しい恐怖を覚え、その客観的
なデータとともに、世界航空界の先進国を自負する米英軍の最
新戦闘機でも、零戦と交戦したら悲惨な結果となると警告した。

 しかし、その警告にアメリカもイギリスも全く反応を示さな
かった。数年前まで日本は米英の航空技術をコピーしていた後
進国であった。シェンノートが報告したような驚異的な性能を
持つ戦闘機を、日本が作れるはずはない、と彼らは信じこんで
いたのである。

■9.世界航空史に残した画期的な一頁■

 そうした米英の思いこみを一挙に粉砕したのが、冒頭に述べ
た昭和16(1941)年12月8日からの3日間の出来事であった。
米英軍は大恐慌に陥った。

 昭和17(1942)年6月のアリューシャン攻略作戦では、零戦
隊は米軍機40数機を撃墜するなど、大きな戦果を上げたが、
1機の零戦がガソリン・タンクに被弾し、無人島に不時着した。
機体は裏返しとなり、パイロットは死亡した。その機体を入手
した米軍は狂喜した。

 機体はアメリカに持ち込まれ、徹底的な分析が行われた。
20ミリ機銃を装備しながら、極めて機体が軽く、米戦闘機で
はとうてい敵わない運動性能を持っていた。しかも航続距離は
1600キロという例のない水準である。アメリカの航空技術
者は驚嘆した。その調査結果から、米軍は零戦1機に対して2
機で急降下攻撃を加えること、それが失敗したらそのまま逃避
して、決して格闘戦に入らないようにせよ、という指示が出さ
れた。

 その後、米軍は新鋭機を続々と開発・投入したが、一騎打ち
で零戦に対抗できるものはなかった。しかし、アメリカの巨大
な工業力で大量生産される米軍機に取り巻かれると、多勢に無
勢で、零戦も撃墜されることが多くなっていった。さらに「空
の要塞」と呼ばれる爆撃機B17、B24、そして後のB29
は、堅固な防御に覆われ、前後上下左右に銃座が設けられて、
零戦でもなかなか撃墜できなかった。

 しかし大東亜戦争末期のフィリピンや沖縄での戦いでは、零
戦を中心とした特攻作戦が大きな戦果をあげ、米軍を恐怖に陥
れた[d]。結局、零戦は支那事変から大東亜戦争まで5年間も
第一線で主役を務め続け、世界航空史に画期的な一頁を残した
のである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(168) 日米開戦のシナリオ・ライター
 対独参戦のために、日本を追いつめて真珠湾を攻撃させよう
というシナリオの原作者が見つかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog168.html
b. JOG(174) 大空のサムライ〜坂井三郎
 撃墜王の「苦難と勇壮の物語は、万人の胸にうったえる」と
ニューヨーク・タイムズは評した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog174.html
c. JOG(270) もう一つの開戦 〜 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅
 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲
いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog270.html
d. JOG(214) ジャネット・デルポートと関行男大尉
 オランダ人女性ジャネットは不思議な体験から特攻隊員の心
の軌跡を辿っていった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog214.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 吉村昭『零式戦闘機』★★★、新潮文庫、S53
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101117063/japanontheg01-22%22




/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「」に寄せられたおたより

けんいちさんより
 零戦(れいせん)についての3日間の記述は正確で納得でき
るものです。新聞紙上にこの戦闘機が公開されたのは、登場後
5年もたった昭和19年でした。当時国民学校4年生だった私
達は零戦と0式戦は同じだろうか等・・議論したものです。

 教訓がいくつかあります。堀越さんが試作した最初の戦闘機
は失敗作で、防御過剰でしたが、その次に96式艦戦という世
界水準を抜く傑作機が生まれたのです。初心技術者に最初の失
敗を許し、次に期待した事が大成功につながった事実は重要な
教訓です。

 零戦は細く優美、米グラマンはずんぐりと樽のようで醜い、
と私達はあざ笑いましたが、そこにおごりと見落としがあった
ようで、大事な教訓です。ガソリンタンクは致命部で弾が当り
発火すれば爆発の危険があり、米機は防弾タンク、零戦は無防
弾だったのは知られていますが、グラマンの樽型はタンクをす
べて胴体に収めていたためのようです。零戦は胴体と翼にもタ
ンクがあり、真後ろから狙われたときに発火危険の面積が圧倒
的にグラマンより大きかったのではないでしょうか?

後日談
 12月8日、長躯して台湾から比島クラーク基地を襲った零
戦隊の指揮官の一人が、後に御巣鷹山の日航機事故で救援に活
躍した上野村の黒沢丈夫村長だったのは真に不思議な縁です。
同じ日に真珠湾に殺到した日本海軍の全搭乗員の名簿と、その
後の消息は手元にありますが、大部分が終戦までに相次ぐ航空
戦、海戦で戦死し、生き残った少数の人々も4年後の終戦の日
まで大空で戦い続けているのは感動的です。終戦時に米海軍の
パイロットは真珠湾生き残りの日本のパイロットを探し求め、
出会うとオーボーイ!と言って抱きついてきたと、零戦隊指揮
官の一人、志賀淑雄さんは語っています。

「Kazy」さんより
 以前に航空機に詳しい私の友人に聞いたお話を紹介致したく、
筆を取りました。この零戦が非難される点として「格闘性能を
高めるために防御を放棄して搭乗員の命を軽視した」というも
のが有りますが、彼によると、それは、当時の戦闘機の設計上
の常識である「自らの搭載兵器による攻撃を防ぐものを備える」
ことが20ミリ機関砲の搭載によって不可能になったため、中途
半端な防護兵器を備えるよりは運動性能による回避を重視した
結果に過ぎないとのことでした。そして、現代の戦闘機は全て
この方式を取っているとのことでした。

 現在の戦闘機が備えている機関砲は最大のもので30ミリにも
なり、戦車の装甲すら打ち抜く威力を持っているので、そのよ
うな威力のある銃撃を防ぐ装甲を航空機に搭載すること自体が
非常識なものだとのことです。つまり、零戦の設計はその意味
でも大変革新的なもので、ある意味では早すぎたものですらあっ
たということです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

「格闘性能を高めるために防御を放棄した搭乗員の命を軽視し
た」という批判が当たらないことは、当時の新鋭機を揃えた中
国空軍との約1年の戦闘で、撃墜162機(不確実3)、地上
での撃破264機。零戦の被害はわずか2機、それも地上から
の防御砲火によるものであった、という事実が雄弁に語ってい
ます。
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108042793.html
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by thinkpod | 2006-12-18 05:31
2006年 12月 07日

「南京大虐殺」の創作者たち

中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち

■1.中国のプロパガンダ機関の協力者だった欧米記者たち■

 1937(昭和12)年12月18日、ニューヨーク・タイムズ
に次のような記事が載った。

 南京における大規模な虐殺と蛮行により・・・殺人が頻
発し、大規模な略奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害・・・
南京は恐怖の町と化した。・・・恐れや興奮から走るもの
は誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たち
に目撃された。[1,p106]

 日本軍の攻撃により、中華民国の首都・南京が陥落したのが
12月13日未明。その二日後、15日に南京を脱出したアメ
リカ人記者ティルマン・ダーディンが発信した記事である。事
件当時、現地にいた中立的なアメリカ人記者が書いた記事なら、
誰でもが事実だと信じてしまうだろう。実際に、現在の日本の
中学校歴史教科書でも次のように書かれている。

 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の廬構橋で日本
軍と中国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本
軍は中国との全面戦争をはじめた(日中戦争)。年末には
日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人とも
いわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたた
なかったため、きびしい国際的非難をあびた(南京事件)
[日本書籍、平成13年版]

 しかし、事件から70年近く経って、ダーディン記者をはじ
めとする、当時の南京にいた欧米人のジャーナリストの一部は、
実は中国側のプロパガンダ機関の協力者であったことが明らか
にされたのである。[a]でも紹介した亜細亜大学教授・東中野
修道氏による『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』が明
かした事実を追ってみよう。

■2.二人のプロ編集者■

 東中野教授は、台北の国民党党史館で『中央宣伝部国際宣伝
処工作概要 1938年〜1941年4月』という資料を見つける。蒋
介石の国民党は軍事的に劣勢であったため、南京陥落の直前か
ら宣伝戦に総力を挙げていた。そのための機関が「中央宣伝部」
であり、その中の一部門で特に国際宣伝を担当していたのが
「国際宣伝処」である。この「国際宣伝処」が、南京陥落前後
の3年間に行ってきた工作を記録したのが、この資料なのであ
る。冒頭のダーディン記者の名は、この資料の中で工作の対象
として何度も登場する。

 中央宣伝部で、国際宣伝の中心を担っていたのが、宣伝部副
部長の薫顕光と、国際宣伝処の処長・曽虚白の二人であった。
薫顕光はアメリカのミズーリ大学とコロンビア大学大学院に留
学し、『ニューヨーク・イブニング・ポスト』などの記者を経
験した後、中国に戻って『北京英文日報』などの編集長を長ら
く務めた。薫顕光も米国のセント・ジョンズ大学を卒業し、南
京大学教授を経て、上海の『大晩報』の編集長に転じた。

 二人とも欧米のジャーナリズムに明るく、またプロの編集者
であった。欧米のマスコミを通じた国際宣伝には、まさに格好
の人材であった。

■3.「国際友人」による「われわれの代弁者」■

 薫顕光は「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じく重要
だ」と考え、1937年11月中旬に、従来の組織を大幅に再編強
化して、曽虚白を処長とする国際宣伝処を発足させた。

 曽虚白は、その自伝の中で「われわれは目下の国際宣伝にお
いては中国人みずから決して前面にでるべきではなく、われわ
れの抗戦の真相と政策を理解してくれる国際友人を探し出して、
われわれの代弁者となってもらうことを話し合った」と述べて
いる。

「国際友人」とは、主に中国に在住する欧米の記者や学者であっ
た。特に新聞は雑誌や書籍に比べて発行部数が多く、それだけ
多くの人々の目に触れる。上述の資料では「各国新聞記者と連
絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」として、

 われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、
最も直接的な効果があるが、しかしそのためには彼らの信
頼を得て初めてわれわれの利用できるところとなる。この
工作は実に面倒で難しいが、決して疎かにしてはならない。
[1,p45]

 ジャーナリストとしての良心を持つ人間なら、「われわれが
発表した宣伝文書」をそのまま自分の記事であるかのように発
信したりはしないだろう。逆に、国際宣伝処の存在やその工作
自体を報道されたら、ぶち壊しになってしまう。薫顕光と曽虚
白が「実に面倒で難しい」というのは、一人一人の外国人記者
が、「われわれの代弁者」になってくれる人物かどうか、慎重
に見極める点にあったのだろう。

■4.「外国人記者を指導した」■

 そのための工作として、国際宣伝処が行ったのは、頻繁な記
者会見や、講演会、お茶会を開くことだった。『工作概要』で
は、その実績をこう記録している。

 1937年12月1日から38年10月24日まで、漢口で
行った記者会見では、軍事面については軍令部より報告し、
政治面は政治部が担当し、外交面は外交部(外務省)が発
言して、参加者は1回の会見で平均50数人であった。会
見は合計3百回開いた。[1,p47]

 また「1938年度は毎日1回お茶会を開く」とあり、外国人記
者たちとの間で、親密な会話が行われた模様だ。

 通常及び臨時会議のほか、外国人記者は民衆文化団体、
国民外交協会、反侵略会、新聞同業者の集会などに参加す
るよう、毎週平均2回、外事課(JOG注:国際宣伝処の一部
門)から外国人記者に通知し、外国人記者を指導した。各
集会に参加した外国人記者と、外国駐在公館の職員は、毎
回平均35人であった。[1,p47]

「外国人記者を指導した」という表現に、本音が出ているよう
だ。こうした工作の効果はどうだったのか。

 外国人記者たちは、平素は当処(国際宣伝処)が誠心誠
意宣伝指導にあたっていることから、そうとうに打ち解け
た感情を持っている。そのほとんどはわが国に深い同情を
寄せてくれてはいるが、・・・[1,p53]

 頻繁な接触を通じて、外国人記者たちは中国に「深い同情」
を寄せてくれるようになったのである。

■5.検閲と洗脳■

 前項の引用文はこう続く。

しかし新聞記者は何かを耳にすると必ずそれを記録すると
いう気質を持っているので、噂まで取り上げて打電するこ
とにもなりかねない。含蓄をこめた表現で、検査者の注意
を巧みに逃れることにも長けている。中国駐在記者が発信
した電報を各国の新聞が載せれば、極東情勢に注目してい
る国際人士はそれを重視するものであるから、厳格に綿密
に検査する必要がある。妥当性に欠けるものは削除または
綿密に検査する必要がある。妥当性に欠けるものは削除ま
たは差し止めにしたうえで、その理由を発信者に説明し、
確実に了解を得られるようにして、その誤った観点を糺
(ただ)した。[1,p53]

 外国人記者たちが本国に打電する内容で「妥当性に欠ける」
ニュースは「削除または差し止め」とされ、「その誤った観点
を糺」した。これはもう完全な検閲と洗脳である。その検閲は
次のような方法で行われた。

 あらゆる電報は初級検査を受けたのち、問題がなければ、
検査者が本処(国際宣伝処)の「検査済みパス」のスタン
プを押し、電信局へ送って発信する。もし取り消しがある
場合は「○○の字を取り消してパス」のスタンプか、ある
いは「全文取り消し」のスタンプを押す。[1,p54]

 電信局は国民党政府に管理されているので、外国人記者たち
は国際宣伝処の検閲を通った記事しか本国に打電できなかった
のである。

■6.「竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んできて」■

 国際宣伝処に「そうとうに打ち解けた感情」を持った記者の
一人が上述のダーディンであった。薫顕光は次のように記して
いる。

 11月19日になると、私の『大陸報』時代の同僚で、
現在は『ニューヨーク・タイムズ』の中国大陸駐在記者で
ある竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んでき
て、すでに蘇州は陥落したという悪いニュースをもってき
た。その翌日、私は蒋(介石)委員長から直ちに南京を離
れて漢口へ行くようにという命令を受け、蒋委員長は私と
曽虚白の乗るその夜の船を予約してくれた。ところが、突
然、蒋委員長から、竇奠安(ダーディン)に渡して『ニュ
ーヨーク・タイムズ』へ発表する電報文の内容を翻訳して
ほしいという要請があった。[1,p42]

 ダーディンは薫顕光のオフィスに駆け込んできたり、蒋介石
から直接指名を受けるなど、いかにも緊密な連携関係であった
事が窺える。

 ダーディンは南京陥落2日後の12月15日に南京を脱出し
たのだが、その際に冒頭の記事を書いた。いかにも自らの実体
験のような描写であるが、よく読むとこの部分は「殺されたよ
うだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された」と、伝聞を書い
ているに過ぎない。

 実はダーディンのこの記事は、南京大学教授で著名な宣教師
だったマイナー・ベイツが書いてダーディンらに送ったレポー
トを下敷きにしたものである。ベイツは中華民国政府顧問だっ
た。

■7.ベイツのレポートを下敷きにしたダーディンの記事■

 ベイツのレポートと、ダーディンの記事を比べてみよう。

ベイツ: 恐怖と興奮にかられて駆け出すもの、日が暮れてか
ら路上で巡警につかまったものはだれでも即座に殺さ
れたようです。

ダーディン: 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や日が暮れて
から・・・巡回中のパトロールに捕まった者は誰でも
射殺されるおそれがあった。

ベイツ: 市内を見まわった外国人は、このとき通りには市民
の死体が多数ころがっていたと報告・・・

ダーディン: 市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの
通りでも民間人の死体を目にした。

 ダーディンの記事がベイツのレポートを下敷きにしている事
は、一目瞭然であろう。そのベイツのレポートも、「即座に殺
されたようです」「死体が多数ころがっていたと報告」と伝聞
体でしか、記述していない。

 もしベイツやダーディンが実際に市民が虐殺される様を見て
いたら、間違いなく自ら見た事実をそのままに伝えていただろ
う。しかし、実際に陥落後の南京にいたベイツもダーディンも
伝聞でしか、書けなかったのである。

■8.「お金を使って頼んで本を書いてもらい」■

 ベイツは中華民国政府の顧問であり、薫顕光とも交友があっ
た。薫顕光の宣伝に協力して、ダーディンらに記事を書かせよ
うと、このレポートを送ったのである。

 ベイツのレポートは、南京陥落の翌1938(昭和13)年7月に
出版された『戦争とは何か −中国における日本軍の暴虐』に
も掲載された。『工作概要』には、中央宣伝部がこの本を対敵
宣伝物として出版したという記述がある。

 この本の編者は、英国『マンチェスター・ガーディアン』紙
中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者であったが、戦後出版
された『曽虚白自伝』では、中央宣伝部がティンパーリ記者に
「お金を使って頼んで本を書いてもらい、それを印刷して出版」
したという証言が記されている。[b]

 この本は、現在でも「南京大虐殺」を主張する人々が典拠と
しており、70年近くもプロパガンダとしての影響力を発揮し
ている。

■9.ベイツへの二つの勲章■

 東京裁判で「南京大虐殺」が裁かれた時、3人の欧米人が証
人として出廷した。ウィルソン医師は「2万人からの男女子供
が殴殺された」と述べたが、実際に彼が見たのは病院内の患者
だけで、「2万人殴殺」の確証は示せなかった。マギー師も日
本軍の殺人、強姦、略奪を証言したが、自分自身ではどれだけ
見たのか、と反問されると、「ただ僅か一人の事件だけは自分
で目撃しました」と述べたに留まった。

 もう一人の証人がベイツであった。ベイツは4万人の不法殺
害を証言したが、それはベイツ自身がレポートに書いた内容と
同じであった。しかし、彼は自分が中華民国のアドバイサーで
あったことも、ダーディンらにレポートを送ったことも、そし
て『戦争とは何か』の分担執筆者であったことも秘密にしてい
た。

 一方、「南京事件」を世界に告発したダーディンやティンパ
ーリは、東京裁判に出廷しなかった。出廷して反対尋問を受け
たら、彼らの記事が何らの事実に基づいていないことが露見し
てしまう恐れがあったからであろう。

 ベイツは1938年と1946年、「日本との戦争中の人道的奉仕」
に対して中華民国政府から勲章を授与された。1938(昭和13)
年は、ベイツが分担執筆した『戦争とは何か』が中央宣伝部か
ら出版された年でであった。1946(昭和21)年は、ベイツが東
京裁判に出廷して「日本軍4万人不法殺害」を証言した年であっ
た。

 その後、中共政府は被害者数を30万人にまで膨らませて、
プロパガンダとして使い続けている。「南京事件」は戦時プロ
パガンダとしては、史上最高の傑作であった。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(079) 事実と論理の力
 南京事件をめぐる徹底的な学問的検証、あらわる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog079.html
b. JOG(229) 国際プロパガンダの研究
 文書偽造から、外国人記者の活用まで、プロパガンダ先進国
・中国に学ぶ先端手法。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog229.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
(まぐまぐ版では、httpのあとに「:」を補ってください)

1. 東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』★★、
草思社、H18
http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/479421488X/japanontheg01-22%

http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107511148.html?page=2
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by thinkpod | 2006-12-07 02:25 | 中国
2006年 12月 06日

ああ, 震撼の韓国軍!

ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録

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(写真/ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が大量虐殺を正当化した.)

戦争はこんな所でも起きたのだろうか.
丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し,
椰子の樹とマンゴ—とパパイヤ, バナナの樹….
窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている.
太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけがちらほらと島のように動いている.
真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う.
果して、わたしたちはあのとき、このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか.
理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場,
その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を果てしなく走った.


生き残った老僧の証言

"1969年 10月14日,
ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した.
サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒,
同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. は、この事件で71歳の住持僧,
69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"

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(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)

筆者は2年前, ベトナム政治局から出された‘戦争犯罪調査報告から-
南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’という資料の一部をようやく手に入れることができた.
私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書,
しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった.
それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’
韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、ベトナムを訪問した韓国市民団体‘私と私たち(ナ
ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した.
‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画したピースボート(Peace
Boat)に乗り込み、韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある.
“日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”という彼らは、これからは‘韓国人の力で’ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである.
筆者は初めて寄着時から同行することにした.

ベトナム南部海岸に位置したパンランは、観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ.
最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず,
歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった. ただ
‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった.
私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した.
しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた.
蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという焦燥感を感じながらも,
一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.

翌朝,
私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から急な知らせがきた.
元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は戦争中に爆破されて,
パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺がまた建てられたということだ.
わたしたちはすぐさまそちらへ走った.
そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者のウンウェンティ
ユエンハン(45)に会うことができた.
ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が,
認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.


子供も妊婦も容赦なく…

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(写真/'忘れたい戦争'. 韓国軍に殺されたベトナム人の数は、公式統計だけでも 4万1450名だ.)

“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました.
続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました.
そして、屍体を皆燃やしました.”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は恐ろしさで真っ青になり、叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する.
リンソン寺には、五人の僧侶が住んでいた.
その時、プフ僧侶は住持僧より先に村におりて行き、喪家で読経を行っていた.
証言の大部分はユエンハンを通じてなされ,
その寺で唯一の生存者のプフ僧侶は口数が少ない.
当時の話をしながらも、人々はその時の虐殺の主人公の後裔に配慮してくれた.
冷たいお茶を持ってきて, 果物の皮をむいて薦めてくれ,
パパイヤを食べて汚れた口をすすぎなさいと、水まで汲んできてくれた時には、涙が溢れ出た.

プフ僧侶が村に帰ってきた時、寺は既に修羅場と化していた.
プフ僧侶は火にくべられていた五人の僧侶の死体を近隣の小屋へと移した.
死体奪取に対する不安からあった. このことが伝えられると,
パンラン地域全域の学校が休学を決議して,
学生達と仏教徒たちが一斉に蜂起した.
“ベトナム政府は良民虐殺を即刻中断しなさい!”
“人殺しはベトナムを出て行け”等等、凄まじい叫び声がパンランを巻きこんで,
僧侶たちの死体は12日を過ぎてやっと火葬できた.

“火葬をしても、僧たちを安息させられなかった.
僧たちを祭る寺が消えたからですよ.
僧たちの骨を壷に納めていたのですが、やっと昨年、この寺に安置してあげましたよ.”プフ僧侶がやや低めな声で話を続けた.
韓国軍人たちの銃器乱射事件で廃虚になった寺は、その後また再び爆撃を受けて跡形もなく消えた.
そして、昨年、仏教徒の在米ベトナム同胞の援助でまた寺が建てられた.
プフ僧侶は30年ぶりに住持僧としてこの寺に帰ってくることができた.
寺の前に当時死んだ僧侶たちの遺骨が納められた三重塔がある.
私たち一行はその前に頭を下げて、僧侶たちの冥福を祈った.

どちらかというと、私達がリンソン寺で聞かなければならなかった話は、今から会う、数多くの証言の中でも最も安らかな話になるかもしれない.
大雄宝殿の席から見下ろすと, 空と海と野原がひと目で見渡せた.
どこに目を向けても、限りなく平和なだけの,
限りなく懐かしいだけの風景,
しかしその中には、まだどれくらい多くの話が隠されているのだろうか?.
‘私と私たち’一行は、韓国軍の軍事作戦が最も熾烈に展開された中部地方にまた再び旅立ち,
筆者はリンソン寺を振り返りながら、振り払えない重い歩みでホーチミンに帰ってきた.


"女性たちを強姦した後、殺害"

韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる.
前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索,
破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた.
筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが,
その一部をここに紹介する.

1965年 12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して,
きれいに燃やして, きれいに破壊する”というスローガンの下、
捜索掃討作戦を繰広げた. 彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性,
3名の妊産婦, 70歳以上 6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した.

"…
などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました.
彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました.
妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり,
子宮が外に出ていました.
韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して,
子供の頭を切り取って地面に放り投げ,
あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.

彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し,
ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました.
そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"


パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の‘私と私たち’一行から電話がきた.
“見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です.” 1966年
3月19日と20日の二日間にわたった‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ.
“手にしている、この資料がますます 恐ろしくなりますね.
ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならないかもしれません.
ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく、韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです.”
当時の報告によれば、66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、猛虎隊
3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて,
そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった.
また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ, 649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された.


このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して,
韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した.
生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は, 無差別機関銃乱射,
大量殺戮, 妊産婦, 女性に対する強姦殺害, 家屋への放火などだ.
生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる.


-住民たち(大部分が女性と老人,
子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.


-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.


-子供の頭を割ったり首をはね,
脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.

-女性を強姦した後、殺害して,
妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.

-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.


韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた.
老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった.
恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.


果して、あなたたちに真の反省はあるのか

私たちにもベトナム戦は忘れたい戦争だ. 韓国は1964年、医療支援団とテックォンド教官等、270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣することによってベトナム戦に軍事的な介入を始めた.
以後、65年から73年まで、約30万名の戦闘部隊を‘ベトナム政府の要請’という美名の下、ベトナム戦線に投入した.
この過程で韓国軍も4960余名が戦死して、10余万名が負傷した.
しかし、韓国軍はまた、敵軍のベトナム人を4万1450名も殺す全勝(?)をおさめもした.
我が軍の死者数の10倍に達する敵軍を戦死させたのである.
それも、公式的な統計上でだけ!

そして戦争は終わった. しかし、終戦24年を迎える、この瞬間にも地球上のあちらこちらからは新しい銃声が響いている.
韓国ではコソボでの人権を叫ぶ声も高い. 20世紀の傷が癒える前に、21世紀のまた違う傷ひとつを産んでいるのだ.
加害者も被害者も傷ついた‘今日’を治癒する過程なしでは、私たちに未来はないだろう.
たとえ、それが良心にメスを入れる痛みを通じてだけ可能になるとしても.

歴史は私たちに疑問符ひとつを投げかけている.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか.


ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員

vninfobank@hcm.fpt.vn
ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号 .
99年5月256号ハンギョレ21(cache)
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm


ああ, 震撼の韓国軍!
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
その後‘ベトナムの怨みの霊を記憶しなさい’
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99278.htm
兄さんの重荷を減らしてください 韓国とベトナムの読者の手紙
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99282.htm
ベトナムの熱い感動!
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99287.htm
キム・ギテ 予備役大佐 インタビュー
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore00305_1.htm
勲章を捨てた父
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore00312.htm






私の村は地獄になった

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)

 今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965〜73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。

ニューズウィーク日本版
2000年4月12日号 P.24
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by thinkpod | 2006-12-06 00:37