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2006年 10月 28日

中国の対日政治工作 70年代から本格化 CIA文書公開

影響力阻止狙う「策略」

【産経新聞 2004年10月22日】
 【ワシントン=古森義久】中国が1970年ごろから日本のアジアでの影響力拡大を防ぐために、あえて日本の内政に干渉し、日本の軍国主義や帝国主義の復活を宣伝するプロパガンダ(政治宣伝)工作を本格的に開始したことが、このほど解禁された米国中央情報局(CIA)の秘密文書から21日、明らかとなった。

 CIAは中国の1948年から76年までの内政や外交を詳しく分析した国家情報評価の秘密文書約500ページを18日に解禁したが、その中には中国の日本に対する政策や工作に関する記述も含まれている。

 70年11月の「共産中国の国際姿勢」と題する文書では、「北京政府は日本の内部問題への限定的な干渉を進めることを決め、軍国主義復活という帝国主義的な日本の亡霊を掲げる集中的なプロパガンダを開始した」と述べ、この宣伝工作は「アジアの伝統的な日本へのおそれをあおり、日本の影響力を断つことも目的とする外交政策上の策略」だと断じている。つまり、米国としては中国の対日宣伝の非難は事実に反する「亡霊」づくりとみていたことが明らかにされている。

 文化大革命の最中にあった当時の中国共産党首脳が日本に対しそうした動きをとるようになった背景の説明として、この文書は(1)日本は顕著な経済実績とアジアでの積極的役割拡大に向けた米国の支持により、北京にとりアジアで特別な存在となった(2)北京は日本の潜在的な軍事力と大東亜共栄圏復活への意図に懸念を抱き、とくに69年11月の佐藤・ニクソン共同声明での沖縄返還と日米同盟強化でその懸念を高めた(3)北京はこの声明が日本のアジアでの影響力拡大を奨励したとみて、日本が米国がアジアから撤退した場合に経済や軍事で中国を抑えてアジアでの主導的立場に立つことを恐れ、とくに台湾の保護者となることを阻止したいとしている−などを指摘している。

 文書は中国の対日工作の内容については、「日本の指導者、政治、アジアでのいわゆる野心などに対する硬直的で、口汚い攻撃的なプロパガンダ」と述べる一方、中国が日本への非難を激しくするのは「日本国内での中国側の政治的資産やテコが大幅に減り、文革の過激な言動のために中国のイメージも極端に悪化したため」、プロパガンダが日本国内であまり効果をあげないからだ、と分析している。

 中国の「日本国内での政治的資産」について、CIAの別の中国評価文書は1960年代の状況として「中国への支援は日本共産党内の少数派の一部勢力や特定の過激派学生や労組の間に存在する」と述べながらも、日本共産党の親ソ連派に押されて大きな力はない、としている。

 中国の対日宣伝の総括的な効果について、70年の文書は「北朝鮮のほかには東南アジアの一部の人たちを印象づけたかもしれないが、日本人への影響は少なかった」と総括している。




「本当に“アジア外交”の扉は開いたか? 日本に深く浸透する中国共産党の概念」
            『週刊ダイヤモンド』    2006年10月21日号

安倍晋三首相の中韓両国訪問によって、閉じられていた“アジア外交”の扉が開けたかに見える。

扉の開き方はこれでよかったのか。安倍外交は始まったばかりであり、評価については慎重でありたいが、そこには深刻な問題が含まれていると思えてならない。だが、“識者”“専門家”らをはじめ、世論は大概、安倍外交の第一歩を高く評価した。こうした日本人の対中姿勢はどこから生まれてくるのか。一つの歴史資料を連想せずにはいられない。

それは、先週の小欄で触れた中国共産党による「日本解放」のための秘密指令の「日本解放第二期工作要綱」である。日中国交樹立時の1972年にまとめられた同文書は、第一期の目的、日本の資金、技術の獲得を可能にした日中国交樹立がすでに達成され、工作は第二期に入るとの前提に立ち、「第二期工作要綱」と題されている。

同文書は「日本が現在保有している国力のすべてを、わが党(中国共産党)の支配下に置く」ことを基本戦略とし、そのためには各界の日本人のコントロールが必要として、対象グループごとに働きかけの方法を具体的に示している。たとえば、政治家に対しては次のとおりだ。

国会議員は「個別に掌握」し、「秘密裡に本工作員の支配下に置く」との大目標の下、次のように五項目の指示が列挙されている。(a)第一期工作組によって獲得ずみの者を除き、残余の議員全員に接触ルートを最少四本確保する、(b)各党の役職者や有力者は、秘書、家族、彼らに強い影響力を持つ者の三者に、おのおの個別の接触ルートを最少二本確保する、(c)全情報は「議員身上調書」として整理、公私にわたる情報を細大漏らさず集積する、(d)党ごとに議員を「掌握すべき者」と「打倒排除すべき者」に分類、後者は党内勢力をそぎ孤立させる、(e)支配下に置くためには、カネ、権力、名声など欲するものすべてを与え、または約束する。中傷、離間、脅迫、私事の暴露などいかなる手段も可である。

以上の指示のあとにはこうも書かれている。「敵国の無血占領が、この一事にかかっている」「いかなる困難、醜悪なる手段も厭うてはならぬ」。

日本国内でこのような工作を行なった後、全議員への「招待旅行」を実施せよと、同文書は指示。中国政府の招待に応じない“反動極右分子”の政治家でも“形式のいかんを問わず”必ず中国を訪れるよう工作せよと強調する。

入国した議員には「C・H・工作』を極秘裡に行なう」とあるが、同工作の内容は不明だ。工作の詳細は不明でも、現実に中国に“弱点”を握られ、あるいは“欲する物”を与えられ、公然と中国に反対したり非難したりすることができない状況にあるであろう幾人かの政治家の顔がただちに浮かんでくるのが、日本の危うい現状だ。

中国共産党による日本人への働きかけは底深い。右に引用した政治家対象の手段は、そうとわかれば日本人の反発を食らう性質のものだ。しかし、一連の活動が学界、マスコミ界、財界などの分野に配された“2,000人の工作員”によって、10年20年単位で深く静かに、秘密保持を絶対条件として実行されてきたとしたら、自らも気づかないうちに、日本人は中国共産党の物の見方に染め上げられてきたといえるのではないか。

村山談話を引き継ぎ、日本を歴史の侵略国と位置づける地平に立つ安倍外交はこれからどう展開していくのか。来年の参院選に勝利した後、余裕を得て軌道修正するのか、中国もいずれ変わると期待するのか。確かに未知の要素は存在する。だからこそ現時点での断定は避けたい。しかし、歴史問題について主張すべき点を主張せず、譲ってはならない点を譲ったのではないかとの疑問は払拭出来ないのだ。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2006/10/post_475.html


(昭和47年8月)中国共産党「日本解放第二期工作要綱」目次
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/S47/4708/470801china.html

中共「対日政策要領」 -
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-54.html
共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇 -
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-61.html
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by thinkpod | 2006-10-28 16:39
2006年 10月 28日

北朝鮮への制裁の一環として「送金停止」に踏み切った中国

   でも本当の狙いは「制裁」ではなく、「人民元経済圏」に組み込むのが狙い
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 日本の新聞を読んでいると、まるで中国が北朝鮮を制裁しているかのごとき、である。
 弊紙1600号で伝えたように、中国の対北朝鮮制裁はジェスチャー、現場では制裁前となんら変わりない交易、貿易、交流風景が展開されている。

 吉林省南坪ではトラックが対岸の茂山鉱山とのあいだを、いつものようにコンボイを組んで往復し、丹東の荷物検査は好い加減であり、長白山、図門の国境も人の出入りは変わらず、そもそも石油輸送のパイプラインは停止されていない。

 「送金停止」?
 ドル送金だけで、人民元は自在である。

 要するに中国の狙いは、この機に乗じて、北朝鮮を「人民元経済圏」に組み込むことであり、制裁は口実にすぎない。以前にも紹介したと思うが、中国人は(公然と文章化してはいないが)、最近、「東北四省」という呼び方をする。

 つまり黒龍江省、吉林省、遼寧省が「東北三省」(旧満州)。これに北朝鮮を勝手にくわえて、「東北四省」。貿易港、鉱山、石炭鉱区を買い取った中国にとっては、すでに北朝鮮は「中国の」“経済植民地”という潜在意識であり、どうして、この地域の発展をさまたげるような制裁に手を貸すであろうか?

 (やっぱり日本の国際情勢の舞台裏を読む力は弱いですねぇ。ま、周辺は平和を希求する国ばかりであると教唆した、連合国原作の“ヘイワ憲法”をまだ墨守しようとしている国ですから、謀略は存在しない、という基本認識なのでしょうか)。
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(読者の声1)防衛庁防衛研究所主任研究官・武貞秀士氏は北朝鮮による核実験を予想していた数少ない識者ですが、彼の分析によると北朝鮮は北主導で南北朝鮮を統一するという政策目標に向かって行動しており、その目標に照らして現在は格好の時期であると見なしている。
具体的には、
 ●韓国に親北朝鮮の政権がある
 ●韓国の世論の大勢も親北朝鮮である
 ●中国は欧米に向けては北朝鮮に強硬な姿勢を示しても実態としては融和措置を続ける
 ●アメリカは韓国から手を引きつつあるし、韓国の政権も、それを促進させている
 ●アメリカにとってはイランのほうが重要で、核兵器を拡散しない限り北朝鮮の核武装を黙認する可能性が高い。
 ●アメリカでは次の政権が北朝鮮融和的な民主党政権になる可能性が高い。ブッシュ政権とは2カ国間交渉ができる余地はないので、できるだけ時間稼ぎをして、その間に核兵器と長距離弾道ミサイルを完成させる。そうして北主導で南北統一をする際に、アメリカ軍の介入を抑止する。
以上のように分析されています。
日本人にはにわかには信じられない話ですが、韓国の政権は確かに北朝鮮に国ごと売りかねない勢いで様々な政策を実行したり、しなければならないことをサボタージュしています。
日本も戦前、民主主義の体制でしたが、ナショナリズムのほうに価値をおいて実質的に民主主義を放棄しました。韓国も同じような過ちに進む可能性があるように思います。
中国は北朝鮮制裁に踏み切ったように日本からは見えます。
しかし実態としては北朝鮮に対して外貨送金は禁止したが人民元での送金は禁止していないとか、国境で検査はしているが取り締まりはしないとか、世間を欺いているだけの可能性も高そうです。
こうした武貞さんの分析についてどうお考えになりますか?
  (A生、東京)


(宮崎正弘のコメント)断片的な回答になりますが、武貞氏の分析はとても客観的で、イイ線をいっているな、と何時も感心しております。
二十年近く前、韓国でのセミナーで小生と高坂正堯先生、黒田勝弘特派員らが講演したおりに当時駐韓大使館勤務だった氏も参加されていて、ソウルの会場で初めてお目にかかりました。
 とくに次の米国政権は民主党に転ぶ可能性が高く、あと二年間時間稼ぎをすれば良いと考えているのが金正日でしょうし、これに呼応する韓国の左翼政権も、親米路線の野党を封じ込めて、北の核保有を拡大したい、と考えている。なぜなら「北の核」は統一後、日本向けに使えるからです。これが韓国国民の大半の潜在的欲求です。
 とはいえ、シナリオはシナリオであって、どういう展開になるかを予測することは、それに対応するシナリオをつねに用意するのが国家であり、この対応策がきわめて杜撰な日本の惨状のほうが、より深刻でしょう。
 中国の制裁ジェスチャーに関しては1600号(27日付け)小誌でもすでに分析済みですし、後者の送金停止のホンネはこの号の冒頭に書いたとおりです。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3404179/


平成18年(2006年)10月27日(金曜日) 
通巻第1600号

北朝鮮制裁は中国の裏切りで早くも「ザル法」
 鉄鉱石を運ぶトラックが45台、毎日、吉林省南坪と茂山鉱山を行き来している
************************************

 ヘラルド・トリビューンが現場の写真をすっぱ抜いている(10月25日付け、16面)。

 北朝鮮北部の茂山鉱山は鉄鉱石の宝庫、日本時代から開発は進んでいた。
 鉄鋼需要が著しい中国は鉄鉱石の輸入を豪州やブラジルの他に、この北朝鮮鉱区にも依存し、大量の鉄鉱石を輸入している。

 40噸トラックが毎日45台、吉林省南坪(図面江に添って延吉の南南西およそ50キロ、和龍市南坪鎮に位置する)から向かい側10キロの茂山鉱山との間を往復している。
 日量にして1800噸!

 国連の北朝鮮制裁決議に同調した「そぶり」を見せて、中国は巧妙な二枚舌外交を展開し、実質的制裁をしていない。
「荷物検査を強化している」と中国は言う。
 ところが『タイム』(10月30日付け)は鴨緑江に面した丹東市へ飛んで検査現場を取材した結果、「検査は体裁だけ強化されたかにみえ、事実上は(西側への)ショーにすぎない」とのルポを掲げている。
 [inspections are a little stricter、but it’s really just for show]と。

 中国の鉄鉱石輸入は昨年二億七千五百万噸と前年比32%もの急増を示した。
 98年比で北朝鮮と中国との貿易は三倍となり金額にして44億ドル。北朝鮮からの輸出の三分の二が、この鉄鉱石と石炭によるのである。
 
 とくに茂山鉱山からの鉄鉱石は3500万ドルの外貨を北朝鮮にもたらしており、オリンピックと不動産建設ブームに湧く華北の鉄鋼製品の需要を満たしている。

 南坪には真新しい三階建ての税関が完成。
ここで毎日トラックの積み荷を検査しているが、取り扱いは国有企業の「延辺天地工業貿易」が一手に引き受け、ここで製錬され吉林省の「東風製鉄」などに売却される。
同社が茂山鉱区の開発権(三十年から五十年といわれる)を五億ドルで買ったのだ。
 しかも東風製鉄は2007年度に現在の二倍、550万噸の生産拡大を目指しており、制裁なんぞどこ吹く風である。

 「金正日体制の存続は中朝国境貿易にかかっており、なぜ中国が北朝鮮制裁を嫌がるかは現場をみれば判る」とタイムは続けて言う。
 「日量原油の90%と食糧の半分を中国に依存している北朝鮮だけに中国が制裁を厳格に実施すれば崩壊は明らか。だが国境を越えて流れ込む難民を恐れ、また繁栄する人口240万の丹東市民も、現状維持をのぞんでいるからだ」。

 米国、日本、露西亜、韓国が国連制裁を支持し、経済制裁をつよめるなか、中国はジェスチャーとしての送金停止措置などで繕ったが、「南坪通関で目撃する限り、制裁前となんらの変化もない」(同ヘラルド紙、24日付け)。

 ま、そんなことだろうと想像はしておりましたが。。。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3402067/



北朝鮮核実験後、中国から北朝鮮に、毎日四千トンの貨物を輸送

 【大紀元日本10月17日】国際社会の反対を顧みずに核実験を行った北朝鮮に、中共当局は、強い反応を示しているが、制裁を実施していない。中国から北朝鮮に、未だに毎日4000トン近くの貨物が輸送されており、その貨物にはあらゆる物が含まれているという。

 香港“文匯報”の報道によると、北朝鮮が労働党成立61周年の祝賀会を終えた11日、遼寧省丹東と北朝鮮との間を行き来する貨物車の流れが、再び活発になった。11日午前9時20分より、北朝鮮から丹東へ向かう車が相次いで現れ、車両の数は午前10時前後にピークに達した。車列は、通関から橋まで列をなしており、10時40分までに、合計で90台余りの2、30トン車が港を通過していった。

 当地運輸会社の責任者の話によると、現在、毎日170台余りの中国側車両が丹東市の国境を越えており、朝鮮側の車両も7、80台ある。朝鮮側からやってくる車は、基本的には全て中身が空であるが、車内に鉱産物、漢方薬の材料等を積んでいるものもある。一方、中国側車両の搭載貨物には全てが揃っており、果物、建材、プラスチック製品、ペンキ、電器、パン、ビスケット、大豆油、食料等、あらゆる物が含まれていた。

 この責任者の指摘によると、各車両に平均で25トンの貨物が搭載されているとして計算すると、毎日中国から北朝鮮に輸送される貨物の量は、4000トン近くになるという。

大紀元時報−日本
http://jp.epochtimes.com/jp/2006/10/html/d86825.html



「イラク石油利権と中国」
                    宮崎正弘
  

 世界に石油鉱区獲得に狂奔する中国だが、米国の苦戦を尻目にイラク北部のクルド自治区でも石油利権を確保した。
 スーダン、ベネズエラ、イランといった、米国が目の色をかえて警戒する重要拠点に対して中国は武器供与と交換で石油利権を片っ端から獲得してきた。
 要するに中国は世界石油市場における不安定要因、すなわち軍事のみならず経済的にも”脅威”である。
 昨今、石油価格は50ドル台に下降したとは言え、サウジは原産体制に入っており、中国の乱獲と爆発的消費により石油代金はまたまた一バーレル=80ドル台を窺うかも知れない。
 表向き、イラクと北朝鮮問題で、ブッシュ政権は北京を持ち上げ「戦略的パートナー」などと褒めそやしているが、他方、中国はその期待を裏切るかのように米国の世界戦略の要を、石油絡みの経済的側面から奇襲しているわけで米国の猜疑心はますます強まっている。
 米国が後ろ盾の新生イラクは、クルド、スンニ、シーアの三つ巴で泥沼化したままだが、クルド自治区が準独立国家となっていることは既成事実である。
 だからこそリアリスティックな計算を得意とする中国は電光石火の早業でクルド族に接近し、多くの利権を獲得したのだ。
 クルド自治区の最高幹部タラバニ議長が北京を訪問したのは2003年8月だった。 
 タラバニ「クルド愛国連盟」議長は、その後、イラク大統領になった。
 つづいて中国はタラバニのライバルでもある「クルド民主党」に急接近しマスード・バルザニ党首とも友好関係を結んだ。
「クルドの言いしれぬ過去の艱難に同情し、今後の“イラク連邦”の再建は重要である」とした北京のリップサービスに対して、バルザニは、「クルドスタンとして独立することに中国が前向きの努力をかたむけることを望みたい」と発言している(05年五月16日)。
 これまで中国は「独立分子」を「分離主義者」として一括して批判しつつ、過去にクルド族の独立に一貫して反対してきた。
もし少数民族の分離独立を認めると、中国は台湾問題ばかりか、チベット、ウィグル、蒙古族の独立を弾圧してきた過去の政策に整合性を失い、外交原則の基盤を自ら崩しかねない。
 それが分離独立運動の親玉をニコニコ薄ら笑いを浮かべながら受け入れたのだから矛盾も甚だしいのである。
「クルドの主張を尊重し、自治は保護されるべきである」と言いだしクルドのナショナリズムを前向きに評価し始めた。
 これまでのアジアアフリカ運動の主導権をとってきた中国は口を開けば「民族自決」を標榜してきてはいたが、クルド族幹部には「地域の安定が重要である」と都合の良い口上を付け加えたのである。
 この露骨すぎる変心の理由は極めて簡単かつ明瞭である。
 石油利権が目の前にあるからだ。
 中国はクルド独立の闘いを真剣に理解したり、同情を寄せたりした証拠は、これまで一度もなかった。
 1966年のクルドの叛乱を中国はバグダッドへの独立の闘いと言ってのけ、イラク政府との間が冷却した。ところが1975年の叛乱では一転してバグダッドについた。理由はサダムのイラクが膨大な中国製武器を買ってくれる巨大マーケット、フセイン前大統領は大事な顧客だったからだ。
 サダム・フセイン独裁政権は嘗てクルド族自治区の叛乱に手を焼いて、毒ガスをドラム缶ごと、当該居住区に空から投下し、五千人を殺した。
この残虐行為は世界中からの非難を浴びた。
トルコも、クルド族との長年に亘るゲリラ戦争に手こずり、国内クルドを弾圧してきた。シリア、イランしかり。
 クルドは世界中に散らばる。トルコに1450万人、イランに460万人、イラクに430万人。そしてシリアに100万人。そのほかを加算すると世界中で2300万ものクルド族が居て(ユダヤ人より多い)、しかも自分の国がないのだ。
サラディンはクルド族出身で、アラビア大帝国を築いた。クルド族は誇り高く勇猛果敢な砂漠の民である。
 しかもイラク北方、クルド自治区は91年の湾岸戦争以来、事実上の独立を達成しており、いまや石油開発は自治区の権限である。
この高原砂漠地帯にイラク石油の半分近く、およそ1300億バーレルが眠る。
第二の理由はトルコへの牽制である。
 トルコ国内にはウィグル独立を唱える分離独立グループが十数、アンカラやイスタンブールに本部を置いている。
かれらの代表は昨年、ワシントンに集合してウィグル独立憲法を制定している。
 ウィグル独立を目指すイスラム教徒過激派のなかには中国国内でいくつかのテロをおこない、北京を震え上がらせたグループもある。
 ウィグル人の悲願である「東トルキスタン独立」(現在の新彊ウィグル自治区)を武力で封じ込める北京は、血の弾圧をつよめる一方で後方支援ルートの根源がトルコ国内の独立派諸団体にあると見ており、トルコとの外交には激甚なすきま風が吹いている。
従前はクルド弾圧のための武器を当該諸国に輸出してきたのも中国だったが、それはそれ、これはこれ。外交原則なるものは朝令暮改の国であるだけにトップの鶴の一声で、いかようにも変わるのだ。
 2000年四月にアンカラを訪問した江沢民主席(当時)は、
「中国とトルコ両国は領内に互いに分離主義者を抱え、安定を欠いているが、国家の統一、テロリストとの闘いは共通している」と発言してアンカラ政府に牽制球をなげた。
 イラク北方クルド自治区の北部、山岳地帯を支配するのはバルザニ率いるクルド民主党である。この領域で04年にノルウェイのDNO社と発掘リグの試掘契約に同意しており、その発掘リグ操業の下請け企業は「長城発掘石油公司」(中国のコングロマリット)だ。僅か90日間で6000メートルの地下まで試掘できるリグを当該地域に建てた。
 またアルアダブ開発地区では、すでに中国のCNPCとノリンコ(中国北方工業集団)が一日8万バーレル、22年もの長期契約を12億ドル余で締結済みである。
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by thinkpod | 2006-10-28 06:37 | 中国
2006年 10月 27日

大東亜戦争と特攻隊

大東亜戦争と特攻隊(1)
〜 富士通名誉会長山本卓眞先生講演録 〜
日本保守主義研究会

■自存自衛の戦い—大東亜戦争■

 大東亜戦争の話をしたいと思います。中村粲先生の『大東亜
戦争への道』(展転社)の終わりにその総括が書いてあります。
それは一言で言いますと、自存自衛の戦いであったということ
であります。

 アメリカは日露戦争以降の現実を無視して、そしてアメリカ
の昔からのマニフェスト・ディスティニー(明白なる運命)と
称して西へ西へと進んできた。そして、誤った東亜政策。特に
共産主義に対する無理解、ルーズベルトに見られるいわれなき
シナへの思い入れがありました。

 ルーズベルトは母親の祖父がシナで大儲けしたという話を聞
いて、子供心にシナに親近感を非常に強く持っていたのです。
また蒋介石軍に自国の正規兵である航空兵を派遣して、フライ
ング・タイガースとして蒋介石を助けました。このような国際
法違反のようなことをアメリカはたびたび行い、かつコミンテ
ルンを軽視した結果、日本がどんどん引きずり込まれて、止め
るに止められなくなりました。

 この点、日本もどこかで思い切るべきであったと思います。
これはまことに痛恨事でありますが、誰が悪かったとかいう単
純な話ではありません。

■東亜解放という意義■

 同時に中村先生はあまり指摘なさっておりませんが、もう一
つこの戦争には東亜の解放という重大な意味があったと思いま
す。これは明治維新のところで読みました勝海舟の日朝支同盟
論、あるいは日支提携論、あるいは、さらに多分に理想論めき
ますが岡倉天心のアジアは一つという論以来、日本はアジアで
助けあって何とか立派な国にしたいということでありまして、
この願いが東亜の解放につながったのです。

 ところで、先日加瀬英明さんとちょっと立ち話をしていたの
ですが、日本はこれほど情報面でコミンテルンが策動し、アメ
リカがコミンテルンと結びついていた—ハルノートの原案を書
いたホワイトは共産党員であったかスパイであった—というこ
とを知らなかったのです。驚くべき情報欠陥がこの大東亜戦争
に伴っておりました。このように残念無念という思いもあるわ
けです。しかし、現在その情報欠陥は改善されたのでしょうか。
今は大東亜戦争時よりもひどいかもしれません。

 さて、東京裁判以来自虐史観が非常に蔓延りまして、特に解
せないのは東京大学法学部の某教授としておきましょうか、手
のひらを返したように占領軍に迎合し、左翼的、自虐的な史観
を展開し、かつ、それに抵抗する勢力を弾圧した、許しがたい
教授が登場したのもまた日本でありました。残念ながら、歴史
的事実であります。

 しかし、この戦争の結果、アジアでは多くの国が独立しまし
た。そして独立した国々が日本の貢献を口々に語ったのは、こ
れは皆様方よくご存じですからこれには触れません。特に東南
アジアですね。ただ、一つ申し上げたいと思いますのはベトナ
ムについてです。

■ベトナムで評価される日本兵■

 ベトナムに現在九十四歳のヴォー・グエン・ザップという将
軍がいらっしゃいます。彼はホー・チ・ミンの右腕でありまし
た。彼は最初にディエンビエンフーの戦い、ベトナムのハノイ
からちょっと東北の飛行機で小一時間、ここでフランスとの決
戦を行いました。

 そのときにまだベトミンはまだ戦の仕方を知りませんでした。
それを迫撃砲はこう撃つんだと、敵の陣地はトンネルを掘って
下から爆破しろというようなことを手取り足取り教えたのが残
留した日本軍将兵であります。それで、そのことをヴォー・グ
エン・ザップ将軍が残留した日本の将兵の功績は非常に大きい
ということを語りました。

 それを何とNHKがインタビューしまして、その記事が、J
R東海が出している「WEDGE」という雑誌の今年二月号の、
巻末に出ております。私はテレビも見なかったのですがその巻
末の記事で、ベトナムもまた日本に感謝しているという。

 そして、残留した日本軍将兵の教育ですね。例えば松島上等
兵は、同僚七人を失ってまでベトナムに残って、九十二年頃に
亡くなりましたが、朝日新聞のある記者が「あなたは何でこん
な苦労してまでベトナムに残ったのか」と聞いたときにこう答
えました。「ベトナム人を見殺しにして、おめおめ日本に帰れ
るかと思った」。まさに日本男児ここにあり。それから旧将校
にも脱帽します。すばらしい軍の先輩だと言っていました。こ
うして、親日という遺産、大変な遺産を、彼らはベトナムに残
してくれた。

■親日国家インド■

 もうひとつ、インド。昭和天皇が崩御されましたときに、三
日間喪に服しました。日本政府はたった二日間です。私はビジ
ネスマンですから一日だけでした。三日間喪に服した国インド
の国会の真正面に飾ってあるのは日本軍とともにインパールを
戦った、チャンドラ・ボース。右がガンジー。左がネルーだそ
うです。やはり、ガンジーの非暴力ではなく、戦わなければな
らなかったということですね。

 インド人は戦ったチャンドラ・ボースを、そして日本を決し
て忘れていないのです。つまり、インパールで数万の将兵が命
をささげましたけれども、これは戦略的には補給が無いという
意味でミスですけれども、政略的に見た場合、大きな財産をイ
ンドに残した。これを、大東亜戦争の一面として受け止めるべ
きであろうと思います。

■二〇世紀の勝者は日本■

 総括しますと、九八年の「VOICE」という雑誌に渡部昇
一先生が書いておられて、そこでドラッカーの言葉が引用して
ある。二〇世紀の勝利者。二〇世紀の政治的なパラダイム、す
なわち白人絶対優勢。白人支配。それを覆したのが日本である、
だから二〇世紀の勝利者は日本だろうというのがドラッカーの
言葉です。

 九八年頃に永野茂門という国会議員、士官学校の三期先輩で
すけれども、彼は国会議員としてチリに参りました。そしてチ
リの国会議員と話していたときのことです。日本は何であんな
に中国に謝るんだ。いや実際負けるというのは悲しいことです。
チリの国会議員が、戦争に負けたとは何だ、日本は戦争の目的
を達成したではないか。簡単に負けたなどと言うな、と言った
そうです。まあなかなか表舞台では言いにくい言葉ではありま
すけども、そういう認識は広がりつつある。

■ネパールの仏教学者の言葉■

 さて大東亜共栄圏についてです。一九〇五年日露戦争が終わっ
た年、仏教学者の河口慧海が、苦心してネパールに帰ります。
そこでネパールの首相格の人に手紙を残しております。その手
紙によりますと、「私たち日本人は、アジアの人々が互いに手
を携えてともに栄えるのをみたいのです。そのためにはネパー
ルの、皆さんもぜひこうして下さい」。つまり大東亜共栄圏の
夢が、かの国に残っている。すばらしいことだと思います。

 これは有名な話でありますが、大東亜戦争の末期、大正末期
に駐日フランス大使として勤務したポール・クローデルは、
「世界に滅びて欲しくない民族があるとすれば、それは日本だ。
日本人は貧しい。しかし高貴だ」と言いました。我々の先人は
こういう文化を持っていたということを、心の中に深く刻むべ
きだと思います。
(続く)
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/107825741.html?js


大東亜戦争と特攻隊(2)
〜 富士通名誉会長山本卓眞先生講演録 〜
日本保守主義研究会

■特攻隊について■

 さて、特攻隊について触れたいと思います。特攻隊は大西瀧
治郎中将が他に日本を救う手はないと思いつめて打った手です。
私も完全に同意します。これ以外にありませんでした。二歳上
の私の兄も特攻隊で、レイテ島に突入して戦死しております。
色々な評論家が、あの時特攻は仕方がなかったが、続けてやる
のはよくなかったと言っております。では続ける以外にどのよ
うな手段があったのか。それ以外になかったでしょう。ケチを
つけるのは簡単です。しかし先人たちが知恵の限り、身も心も
切り刻むようにして決断したことを軽視するのは許されないこ
とだと思います。

 しかし、大東亜戦争末期の特攻隊だけを顕彰するのでは不十
分です。例えば東京帝都に侵入したB29に体当たりしてこれ
を落とした人たちもあった。それから第一次上海事変の時の爆
弾三勇士。これも有名です。導火線の長さがどうこうと色々な
論評があります。しかし、後で論評するのはやさしいですが、
導火線を敵の目の前で長くするなどできるわけがありません。
ことここに至ってはこれしかないということで、三勇士は敵に
突っ込んでいって、日本軍の突撃を可能にしたのです。ケチを
つけることは、勝ち戦にだってできます。しかし、戦の大筋、
本筋を見る限り、彼らは立派な、特攻隊と共通する先人たちで
ありました。

■兄の特攻■

 私の兄は特攻隊になる前に、跳飛攻撃といって爆弾を積んで
超低空で海の上を飛び、船に水平に爆弾を落とす攻撃をしまし
た。石を海面に水平になるように投げると跳ねるでしょう。そ
のように攻撃することを跳飛攻撃といいます。爆弾が水平に跳
ねて、高い命中率で敵の艦船の船腹に当たります。これが特攻
のスタートラインだったようです。

 兄たちは戦局急を告げる中、その跳飛攻撃をすることになり
ました。出撃機は元来地上を攻撃するものだったのですが、艦
船の攻撃に移りました。陸軍の中では早い方でありました。こ
の時に兄が、福島県の原ノ町の飛行場で訓練を受け、日記を残
しました。「原ノ町よさらば」という書き出しでありまして、
「美しき思い出、原ノ町よさらば」と書かれています。その地
でお世話になった人たちへの、絶ち難い思いがそこに表れてお
ります。

 飛行機の整備、羅針盤の整備に大変苦心している様子が、日
記に克明に書かれています。そして台湾を経て、フィリピンへ、
最後の基地から立つ時に、一世一代の・・・を出したいという
ことが載っています。三五ミリ機関砲がついているのですが、
これを外して百キロの爆弾を積みます。

 そしていかに成果を挙げるかということに、まさに精魂を込
めていました。また日記の一節には、部下を無駄死ににさせぬ
こと、全部そろって艦船に特攻すること。事故を起さないよう
に万全の注意を払っているとありました。当時一部のアメリカ
人あたりが言ったファナティックな気違いじみた行為というよ
うな様子は日記からは微塵も見られなかった。しかも最後の日
に出ております、いざ敵輸送船の一行が非常に気になった。実
はレイテでの目標は航空母艦、軍艦ではないんです。日本軍は
そのころになると補給路の輸送船を目標にしたのではないかと
思われる。いろいろな思いが錯綜するのですけれども、なかな
か単純には論評しかねるような面もありました。

 さて、特攻隊に関する、特にアメリカを中心とする妙な批判
に対してお話します。実はアメリカは戦果を発表させなかった。
戦後も抑えた。これはやはり効果があったということでして、
しかも彼らは、輸送船の犠牲はまったく出していない。輸送船
の戦死者たちを出していない。極力戦果を教えない。つまり逆
に考えるといかに戦果があったか、ということでありまして、
米軍の統計を見ましても命中率が非常に高い。ここで数字を申
し上げる時間はありませんが、非常に効果があった、というこ
とが言えると思います。

■世界で尊崇される特攻隊■

 さて、アメリカはともかく、外国人たちがどう評価したか。
まず、意外なことにフィリピン人は最初の神風特攻隊の関大尉
たちが出て行きましたマバラカットに、特攻隊の碑をつくりま
した。それは立派な碑だったのですが、火山の噴火で埋まって
しまいました。その後に、また鳥居と神社を作りました。フィ
リピンの人がですよ。そして、特攻有志の像を建てます。その
折、日本のお寺のお坊さんが特攻観音の像を寄贈し、現在でも、
日比両国の合同慰霊祭が、秋に行われておるのです。昨年も特
攻協会の理事長がこれに参列している。ここでフィリピンの人
たちが感激してこれをたたえている、という一面があります。

 また、フランスのジャーナリストであったベルナール・ミロ
ー。彼は、特攻隊をこう評している。「彼らの勇気、自己犠牲
には感嘆を禁じえない。また、禁ずべきではない。彼らは人間
というものそのものであることの可能性をはっきりと我々に示
してくれているのである。これら日本の英雄たちはこの世界に
純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼ら
は千年の遠いところから今日に、人間の偉大さというすでに忘
れられたほどの使命を取り出して見せてくれたのである」。こ
う言うわけであります。

 それから、フィリピンのダニエル・デイソンという人は、日
本人軍の参謀であった、猪口力平さんが書いた『神風特別攻撃
隊』の英語版を読んで、「私はこの本を熟読し、祖国愛に燃え
て散華した、これら若い特攻隊に思いをはせるとき感激の涙を
禁じえなかった。彼らは永遠に記憶され、尊敬されるべきであ
ると、確信する」と語っております。事実、碑を立て、それが
噴火で埋まっても、もう一度鳥居を立てるということを現在行っ
ているのです。

 さらにもう一人、フランスで文化大臣を歴任しましたアンド
レ・マルロー。彼は、「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そ
の代わり、何物にも変えがたいものを得た。それは世界のどん
な国も真似できない特別攻撃隊である。スターリン主義者たち
にせよ、ナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動
である。日本の特別攻撃隊員たちはファナティックだっただろ
うか。断じて違う。彼らには権勢慾、名誉慾などかけらもなかっ
た」。

http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/
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by thinkpod | 2006-10-27 05:33
2006年 10月 26日

歪曲報道

まえがき

ロサンゼルスに特派員として赴任して間もない頃、ちょっとしたホームパーティに誘われた。

日米のジャーナリスト、それにハリウッドのお膝元という場所柄もあって映画の制作関係者、写真家や弁護士など結構な顔ぶれが並んでいた。

こちらが新顔と見て、主宰者側の米国人スタッフが話しかけてきた。ユダヤ系で大学を2つ出て今はシナリオ選定の仕事をしているという話だった。

海外駐在はここが初めてか。

いや、中東に少々。最近までミャンマーにいてアウン・サン・スー・チーに会っていた。彼女を食い物にしている英国人の亭主がたまたまやってきて話も聞いた。帰りにバンコクに寄ったらクーデター騒動に巻き込まれた、軍隊も出て市民が数十人、殺されたというような話をした。

例のスチンダ将軍のクーデターで、首相の座に就いた彼に市民が珍しく大規模な民主化デモを展開して抵抗し、スチンダを退陣に追い込んだ事件だ。

すると彼、「アジアか」と深刻そうな顔つきをして「日本は昔、アジアの国々でたいそう悪いことをしたな」と言い出した。

いや別に、と否定すると、彼はかなりびっくりする。鳩が豆鉄砲を食らったようなという表情でこっちを見据えて「いや日本はひどいことをした。日本は朝鮮を植民地にしたではないか」という。

違うね、ともう一度否定する。朝鮮についていえば植民地じゃない。あれは併合だった。米国がテキサスを手に入れるときの併合と同じだ。それに日本の統治はうまくいった。少なくともフィリピンを植民地支配した米国に何かいわれるほど非道なことはしていない。

彼は真っ赤になって言い返す。「米国はフィリピンを開化させた。いいこと.をした。しかし日本は朝鮮で残酷なことしかしなかったではないか」。

お言葉ですが、と一言い返す。米国はフィリピン人に独立させてやるからと願して宗主国のスペインと戦わせた。スペインが降伏すると米国は約束を反故にしてフイリピンを米国の植民地にした。

怒ったフィリピン人が抵抗すると軍隊を出して彼らの虐殺を始めた。彼らの家族も捕まえて家に火をつけ拷問して殺した。

米国スペイン戦争は1898年4月に始まり8月にはスペインが降伏しているが、戦争はなぜかその後4年も続き、1902年に終わっている。

何をもって終わったかというとフィリピン人の抵抗が鎮圧された、もう米国の植民地支配を認めますといったときまで続いた。しかもその4年間で米軍はレイテ、サマールの2つの島の島民を皆殺しにするなど「20万人のフィリピン人を殺した」と上院の公聴会の記録に残っている。

朝鮮は違った。T・ルーズベルトが朝鮮はもはや国家の体をなしていないとはっきり発言して米公館を閉じ、日本に任せている。日本は学校をつくり、電気を引き、工業を興して真の意味の、つまりあなたのいう開化を行った。

そう説明すると、彼は「日本は朝鮮を植民地にしてひどいことをしたのは事実だ」と吼えて、「もうこの話はやめだ」という。

日本をしたり顔でくさして、旗色が悪くなると、怒り喚く。こちらも少々むかついたので、「百歩譲って日本が朝鮮をフィリピン並みの植民地にしたとして、それでも日本が悪いというのは、もしかしてあなたは日本が植民地を持つことを詐せないと思ったのか。植民地を持つのは白人国家の特権と思っているのか」と畳みかけた。

彼は顔を真っ赤にして四文字の言葉を投げかけて、どこかに行ってしまった。

この男とはのちに再会する機会があった。彼はあのあと、フィリピンと朝鮮の歴史を調べてこちらの言い分が正しいのを知ったと、あっさり非を認めてきた。

そしてこう付け足した。「初対面の日本人に朝鮮の植民地の話をすると、みんな申し訳ないという。そういう形で付き合いの主導権を取ってきた。反発されたのは今度が初めてだった」と。日本人には有効な「決め言葉だったのに」と笑っていた。

ここで注釈をつけると、彼のいう「日本人」は新聞記者であり、総領事館のスタッフ、っまり各省庁からの役人であり、一流企業の駐在員など世論にコミットする世界の人々だ、そんな彼らは朝鮮併合の中身も近代史も何も知らない。特派員に至っては、そういうあやふやな知識で微妙な国際問題をさもまともそうに記事にしている。

あまりぞっとしない話だが、実はこの米国人の「決め言葉」と同じものを支那の南京でも聞かされた。

日本軍が南京を落とした後、6週間にわたって市民30万人を殺した、つまり毎日7000人ずつ42日間、殺し続けたその証拠を留めるという「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館」を見に行ったときのことだ。

展示場はいかにもおどろおどろしくつくられているが、もともと虚構の事件だから物証などあるはずもない。だから展示品は「日本軍の虐殺の証拠写真」とかだが、すでに東中野修道・亜細亜大学教授が解き明かしているように、どれもこれも検証してみれば同じ人物や同じ場所で演出されたいんちき物ばかり。

まともな実写は『アサヒグラフ』に載った日本軍兵士らの写真で、もともとのキャプション「農家から鶏を買った笑顔の兵」というのが「農家を略奪し農民を皆殺しにして家禽を略奪した日軍兵士」と変えてある。そう変えさせたのは江沢民だ。

当時の南京には市民は20万人もいなかった。日本軍が入城後は平静に戻り、道端で支那人の床屋に髭をあたってもらっている日本軍兵士の写真などが当時の『朝日新聞』にも載っている。

中国が主張する毎日7000人ずつ「6週間休みなく殺し続けた虐殺」のそのさなかに報道班員としてやってきた作家の石川達三はもちろん、そんな虐殺を見てもいない。

その後に執筆した『武漢作戦』では、そのときの南京の風景をべースにしたこんな下りもある。

野口伍長が一等兵に声をかける。
「ちんばをひいとるな。全快したのか」
「もう二、三日すれば全快します」
「今までどこの病院にいたのだ」
「南京にいました」
「南京は賑やかになっとるか」
「はあ、もうカフェでも何でもあります。ネオンサインがついております」

その南京でガイドについたのが中国共産党の下部機関、南京大虐殺研究会のメンバー・戴国偉で、彼はその目で見てきたように日本軍の「虐殺の模様」を日本語で語り続ける。

話している彼もその荒唐無稽さに気づいているようで、その辺を指摘すると、彼は唖然とした顔つきでこちらを見た。

それはあの米国人の表情と同じだった。

戴某は開き直る。「私はここを訪れた日本の立派なジャーナリストのガイドも務めました。みんな納得しています。疑う声はないのです」。

どんな連中かと聞くと、「朝日新聞の本多勝一」に「筑紫哲也」に「久米宏」……。

「日本人の観光客にも話します。話をすると日本人はみな申し訳ないといいます。泣いて謝る人もいます」

米国人の言葉に見せる日本人の反応とこれもそっくりだ。

ただ問題は立派かどうかはともかく本多にしろ、筑紫や久米にしろ、少なくともジャーナリストの端くれにある者が中国人の言い分を検証もしない、調査もしないで、あたかも真実のように流してきたことだ。

彼らだけではない。

東京裁判でウェブというオーストラリア人が「日本は侵略国家だ」といった。それを受けて『朝日新聞』や『読売新聞』は確かめもしないで、日本を侵略国家ということにしてしまった。『朝日新聞』などは戦後60年以上過ぎた今でも、ウェブの言葉について一切の検証なしに日本は侵略国家だったとして社説を書き続けている。

人々はそうとも知らずに新聞を読み、テレビを見て、そうか日本は侵略国家だったのか、南京ではそんなひどいことをしたのかと思い込んでしまう。

その逆に中国がカンボジアに地雷をまき、今また石油のためにスーダンに虐殺を輸出していることは伝えてはくれない。韓国が竹島を不法占拠して、だから国際調停機関にも持ち込めないで、ただ日本がくれてやるというのを待っていることも教えてくれない。

今、身を置いている学者世界には「メディア・リテラシー」という言葉がある。リテラシーとは識字能力を意味する。新聞やテレビが流す報道。それが信ずるに値するものかどうかを見抜く力とでも訳すか。

この本は日頃の新聞やテレビの報道のどこに落とし穴があるか、どの部分が未検証なのかを探った『Voice』に連載の「メディア閻魔帳」をべースに、日本のジャーナリズムの先天的欠陥について書いた何本かの評論も付け加えた。

ニュース報道に偽物が混ざっていることだけでも理解していただければ幸いです。

また、出版に当たってPHP研究所の川上達史氏、豊田絵美子さんのご尽力、ご協力をいただきました。この場を借りて感謝を伝えたいと思います。
2006年8月10日
高山正之


Amazon.co.jp: 歪曲(わいきょく)報道: 本: 高山 正之
http://www.amazon.co.jp/gp/product/456965701X/ref=sib_rdr_dp/503-4629621-7911915

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/



(今週の書棚)

 高山正之『歪曲報道』(PHP)
@@@@@@@@@@@@@@

 南京大虐殺はなかった。
いまや根拠をあげるまでもなく、科学的、歴史的な“真実”は日本の平和的な南京統治である。
でっち上げ報道をやった外人記者は国民党のスパイだったことも判っている。彼らが言った証拠写真が全部偽物であった事実も確証された。

しかるにこれらの事実をいまも頑強に否定しているのは、嘘つき宣伝機関の中国共産党だけかとおもいきや、日本の朝日新聞など知能ていどの疑わしきメディアを筆頭に、驚くなかれアメリカ人のかなりのインテリにまで浸透している。
 洗脳とはおそろしいものである。

 以前、村松剛氏が中国へ行ったとき、ある宴席で「日本は最近、歴史教科書を“侵略”から“進出”になおした」と畳みかけるように言いふらす中国人学者がいるのに、誰も反論しない(真相は共同通信の誤報だった)。
「そんな教科書は一冊もありませんよ」と一言、村松さんが注意すると、くだんの学者はおどろき、「日本から多くの学者、政治家がきたのおなじ話をしたが、だれも、そんなことを言わなかった」と答えたそうな。

 高山さんの経験ではL。A特派員時代、ハリウッドのパーティで、日本は残虐であり、かの「韓国併合」がひどいという話になったので、アメリカがいかにフィリピンを侵略し、20万人を虐殺した(これは米国議会公聴会記録にちゃんと残っている)と激論になったそうな。
アメリカ人の知的レベルも低い。

 韓国に関しては、
 「ルーズベルト大統領が朝鮮はもはや国家の体をなしていないとはっきり発言して米公館を閉じ、日本に任せている。日本は(朝鮮に)学校をつくり、電気を引き、工業を興して真の意味のcivilazation、つまりあなた(アメリカ人で高山さんにいきなり議論を吹っかけてきた)のいう開化を行った」(同書より引用)。
 
 この議論は、それまで彼に議論をふっっかられても、日本領事館、マスメディア特派員ら、日本人の誰もが、このアメリカ人に反論していない証拠でもある。
 この男、それから図書館へ通って勉強し、後日、高山さんにあったら「研究した。あんたの言うとおりだった」と言ってきたそうな。
 
 小生もささやかな体験がいくつかあるが、南京での出来事。
南京に最初に行ったおりに、飛行場からでタクシーを拾ったとき、最初っからドライバーが喧嘩腰で畳みかけて来ましたね。
「あんたたち、ここで30万人を虐殺しただろ」
 で、小生はいちいち数字や歴史的背景を説明するのも面倒なので、ただひとこと。
 「あれは共産党の宣伝だ」と言った。
 すると、ドライバーが言った。
 「あ、そうか。奴らが一番悪い」
つづけて彼が吐いた台詞とは、驚くなかれ「ところで、日本でタクシー運転手はいくら稼げるか?」
 
 ともかくこのホン、快刀乱麻を絶つ勢いで朝日新聞などの偏向マスコミの迷妄をなで切りにしている。痛快、痛快。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3422897/



【コラム】「米国は韓国を見捨てるかもしれない」

 先日、日本の外交評論家、岡崎久彦氏にインタビューした。その時彼から聞いた話が今でも脳裏に焼き付いている。「米国のいわゆる『親韓派』の人たちは、ここ1、2年間で姿を消した。1世紀前に韓国が日本に併合された際も、米国は実に冷淡だった。」

 韓米関係を心配してくれるのはありがたいが、いざ日本人からこうした話を聞くと、複雑な気持ちがした。

 岡崎氏のこうした発言に対し、残念に思っていたなか、「米国が100年前のように韓国を徹底して見捨てることもあり得る」という考えに至らせる、1冊の本に出会った。それは上智大学の長田彰文教授が書いた『セオドア・ルーズベルトと韓国?韓国保護国化と米国』という本だ。

 ここで言う韓国とは現在の韓国でなく、日本に併合される前の大韓帝国を指す。長田教授は著書の中で、国際社会において自分の役回りを持てない弱小国が強大国に道義を訴えることがどれほど虚しい行為であるかを切実に描き出している。

 セオドア・ルーズベルトは露日戦争当時、米国大統領を務めた(在任1901−09年)。露日戦争以後、韓国は日本の保護国となり、5年後には植民地へと転落した。米国はロシアの南下を牽制(けんせい)するために露日戦争で日本を支援したのに続き、1905年7月にはフィリピンにおける米国の権益を日本に承認させる代りに、日本の対韓政策を支援するという内容の「桂・タフト協約」を秘密裏に締結した。

 その十数年前、米国は西洋の列強として最初に韓国との修好通商条約(1882年)を締結していた。そして、雲山金鉱の採掘権や京仁鉄道の敷設権などを始めとする深い利害関係で結ばれていた。そのため当時の米国の対韓政策には日本の対韓政策を左右するほどの重みがあった。

 韓米修好通商条約の第1条には、「第三国が条約国の一方に圧力を加えた場合、事態の通知を受けた他方の条約国が円満な解決のために調停を行う」という「調停条項」が明記されていた。韓国はこの条項をよりどころとみなし、米国が積極的で友好的に介入してくれることを期待した。そして高宗皇帝は宣教師のアーレンが公使として赴任すると「米国はわれわれにとって兄のような存在だ。われわれは貴国政府の善意を信じている」とすり寄った。

 こうした状況で米国大統領セオドア・ルーズベルトは周囲に次のような書簡を送っている。「わたしは日本が韓国を手に入れるところを見たい。日本はロシアに対する歯止めの役割を果たすことになり、これまでの態度を見ても日本にはそうなる資格がある」、 「韓国はこれまで自分を守るためにこぶしを振り上げることすらできていない。友情とは、ギブアンドテイクが成り立たなければならない。」

 ルーズベルト大統領と激論を繰り返し、韓国の独立維持を主張したアーレン公使も、最後には次のような言葉を発した。「韓国人に自治は不可能だ。米国政府が韓国の独立という虚構を日本に要求し続ければ大きな過ちを犯す」

 そして100年前、米国は徹底して韓国を見捨てた。100年後の今、ブッシュ大統領は韓国についてどう考えているのだろうか。

 ブッシュ大統領は先日、伝記作家エドモンド・モリスが書いた『The Rise of Theodore Roosevelt』(1979年に出版されたセオドア・ルーズベルトの伝記で、ピリッツァー賞を受賞した)を読破し、著者をホワイトハウスに招いた。またニューヨークタイムズは以前、ブッシュ大統領がセオドア・ルーズベルトを自身の大統領としてのモデルとみなしていると指摘している。

 最近の韓米関係を見ると、ブッシュ大統領がセオドア・ルーズベルトのアジア政策から多くを学び、それを実際の行動に移そうとしているのではないかという疑念が芽生えてくる。

東京=鄭権鉉(チョン・グォンヒョン)特派員
朝鮮日報
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/10/31/20061031000024.html
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by thinkpod | 2006-10-26 22:19 | Books
2006年 10月 26日

小沢神話をでっち上げた男

                                                             渡部亮次郎

政治記者の大先輩によると、自民党や公明党には、小沢期待論が生まれ
ているそうだ。できるだけ長く民主党の代表をやって貰いたいと・・・。

小沢は衆院補選の神奈川、大阪で勝てないと分かったら、いち早く北海
道に遁走、何と鈴木宗男氏と会って選挙協力の話をしている。係争中の
鈴木に有罪判決が出たら、どうするのだろう?

猫の手も借りたいという言葉があるが、柴犬まで駆り出して応援して貰
う知恵の無さ、こんな小沢一郎の体たらくだから、できるだけ長く民主
党の代表をやって貰えれば、安倍首相の若さと清潔さが光ってくる、と
大先輩は言っている。

自民党や公明党から期待される様では、小沢神話も地に墜ちたのだ。も
ともと小沢は選挙には強くない。自民党の幹事長当時に都知事選を指揮
して見事に失敗している。NHKの磯村キャスターが落ちた選挙。小沢神話
なんて無かったのに、わざわざデッチあげたのは早坂茂三である。

政治記者から大臣秘書官までは私と似ているが、大きく離されているの
はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に早坂は載っている
ことである。

<早坂茂三(はやさか しげぞう、1930(昭和5)年6月25日 ―2004(平成
16)年6月20日)は、政治評論家。 北海道函館中部高等学校を経て、学生
運動にのめりこみ浪人留年を繰り返した後に1953(昭和28)年に早稲田大
学政治経済学部を卒業。東京タイムズ社に入社し『東京タイムズ』の政
治部記者として田中角栄と知り合った。

1962(昭和37)年、大蔵大臣を務める田中の秘書官になり、田中の内閣総
理大臣在任中を含め、田中が脳梗塞で倒れた1985年まで政策担当の秘書
を務めた。 その後、田中の長女・真紀子と対立し、政治評論家に転身し
た。

田中角栄の政治的足跡や生き方をテーマにした著書を複数出す一方、人
生論を若者向け雑誌に連載するなど、活動を広げていた。テレビでは報
道番組のほかクイズ番組やドラマにも出演した。死因は肺癌。享年73。

真紀子が初当選したときに選挙特番に出演していた早坂が「マコちゃん
おめでとう」とねぎらいの言葉をかけたがピンマイクが外れて聞こえな
いふりをされた。

晩年、旅客機離陸時に、椅子を倒したままだったのでスチュワーデスに
椅子を元に戻すように促されたが、頑なに拒否。出発が大幅に遅れた。
翌日の新聞にも報道された。 趣味は金魚飼育だった>

息子は某放送組織記者。

訳知りによれば田中角栄の政策担当の秘書だったなんていうのは真っ赤
な嘘。本人が吹聴したもので、何も知らない若い記者が信じただけのこ
とである。ウィキペディアも一部騙されている。

本当は角栄に言われて、ボストンバックに現金を詰め、選挙区回りをし
て田中派を作るべく候補者にカネを配って歩いたメッセンジャーボーイ。

角栄が脳梗塞に倒れると同時に真紀子に放り出されて食うに困っていた
時に救いの手を差しのべたのが共同通信社。共同通信社と地方紙各社が
タイアップした講演会組織、政経懇話会の臨時講師に採用して貰って糊
口を濡らした。

だが、そのうちに「小沢こそは角栄を継ぐ者」「選挙作戦に特異能力」
などという小沢神話をでっち上げて小沢に近付き、更に小沢をタネにし
て世間をのし歩いた。小沢神話とは早坂がでっち上げた早坂のメシのタ
ネに過ぎない。

旅客機離陸時に、椅子を倒したままだったのでスチュワーデスに椅子を
元に戻すように促されたが、頑なに拒否。出発が大幅に遅れた、という
のはその頃の話。

九州の空港に貴賓室を予約しろなどと注文をつけたこともあったそうだ。
しかし、真実は角栄から早いうちに疎んぜられ、それを知っているから
真紀子も早坂を嫌ったのだ。

早坂の宣伝どおりなら、ロキード事件では早坂が矢面に立たされたはず
だが、秘書「官」の榎本だった。早坂は角栄の「周辺者」に過ぎなかっ
たから難を逃れた。新聞の切り抜きしかさせていない男に何億ものカネ
を扱わせる首相はいないだろう。

早坂がいた東京タイムスはつぶれた。東京・新橋にヤクルト本社、その
隣の徳間書店本社になっているところがそうだった。小さな新聞社で昭
和40年代まで有った。

早坂はそこの政治部の記者だった。函館出身とは言うが、山形から流れ
て行った人たちの末裔。早稲田時代、日本共産党員だった。読売の渡邉
恒雄,日本TVの氏家斉一郎は東大の共産党員だった。

小さな新聞社の記者生活は不満だらけだったろう。車すら十分に使えな
かった。そこでかどうか田中角栄の所へ飛び込んで秘書になった。しか
し真実、田中は早坂を重用せず、秘書にはしても秘書「官」にはあまり
したがらなかった。。

しかし当時のことを知る楠田実(佐藤首相の首席秘書官、楠田実日記の
著者。故人)によれば日本列島改造論は東大出秘書の尽力で出来たのに
早坂の手にかかると「通産省の役人たちと一緒に汗だくで本にした。総
裁選挙前の6月、日本列島改造論が大ベストセラーになる。ネーミング
は私の発案です」となる。

私自身も大臣の秘書官を長い事やったから感じたことだが、役人たちは
秘書「官」なら相手にするが、「長」や「官」の付いていないものは通
行人扱いである。役人たちが早坂の言うことを聞くわけがない。

角栄の信用を途中から失っていたことについて、当時を知る人の話では
待遇について文句を言ったからだそうだが本人は触れなかった。本人の
言うとおりなら早坂こそは総理大臣になった田中の首席秘書官でなけれ
ばいけないはずだった。

ところが事実は官邸の廊下での切り抜きからも退出させ、早坂を表には
出さなくなった。当時、官邸にいた記者のひとりが言う。

「榎本首席秘書官とは、彼が募っていた亀岡・小沢(一郎)・高鳥修ら
の議員と連れ立って富士山麓にゴルフに行ったりしましたが早坂とは飲
み会もありませんでした」。

しかし、さすがの早坂。親父(田中)の死と同時に、かつては「親父の敵」
のはずだった文藝春秋社の月刊雑誌「諸君!」のレギュラー執筆者にも
なっていた。

あまた居た田中角栄秘書の中で記者上がりとして唯一の生き残りになっ
たのが得となり、言論人に還ったのみか、角さんを栄養として名を成す
ことが出来たのである。

なにしろ一介の政治家秘書の死に朝日新聞までが弔意記事を載せた例を
私は早坂氏以外に知らない。しかし「小沢神話は私のでっち上げ。嘘でし
た」と言わないまま逝去したため、若い記者のみならず政治家までもだま
されている。罪は大きい。(了)文中敬称略 2006・10.24

http://www.melma.com/backnumber_108241/
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by thinkpod | 2006-10-26 06:03 | メディア
2006年 10月 22日

危機を契機に再生を繰り返す日本文明

伊勢雅臣

 京都大学の中西輝政教授は、文明史の立場から、日本の歴史
は、たびたび安全保障上の危機を再生の契機にしてきた、と述
べている。[1]

 古代では663年の白村江の敗戦。日本は朝鮮半島で唐・新
羅連合軍に敗退し、本土で連合軍を迎え撃つ覚悟を固めた。こ
の対外危機を契機として、奈良時代の律令国家へと向かった。

 中世では2度の蒙古襲来によって、鎌倉幕府は衰え、3度目
の襲来に備えて、天皇親政によって国家的危機を救おうと、
「建武の中興」が行われた。[a]

 3度目は、戦国時代で国内が乱れに乱れた中で、スペインな
どが、キリスト教を武器に日本を植民地化しようとした危機。
この危機は、信長−秀吉−家康という3人の指導者によってギ
リギリの所で乗り越えられ、天皇に任命された将軍が政治を行
うという幕藩体制が確立した。[b]

 4度目は、幕末のペリー来航から日露戦争に至る西洋列強の
アジア進出。これも明治維新によって、天皇を君主とする近代
国家建設が果たされ、見事に乗り越えることができた。[c]

 5度目が大東亜戦争の敗戦。太平洋を越えて勢力を伸ばして
きた米国と、共産主義を武器に太平洋に出ようとするソ連の狭
間にあって、歴史的な敗北を喫した。しかし、これも天皇を国
民統合の象徴とする自由民主主義国家として、奇跡的な経済復
興を遂げた。[d]

 これらを通観して見ると、いずれも前回の改革が成功した後
に、国内体制が弛緩した所に、外部から危機が訪れて、改革派
が旧体制派を駆逐して、新しい体制を作る、という共通のパタ
ーンが見られる。そして新しい体制は、その都度、歴史の進展
にしたがって変わっているが、その中心には常に天皇がいた。

 現在の北朝鮮によるミサイル・核実験、および、成長著しい
中国の脅威は、新たなる危機の到来である。おりしも戦後の政
治・経済・教育体制は、60年を経て様々な面で老朽化が著し
い。6度目の日本文明の再生の契機が訪れているようだ。

■リンク■
a. JOG(207) 元寇 〜鎌倉武士たちの「一所懸命」
 蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を
惜しまない鎌倉武士たちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog207.html
b. JOG(154) キリシタン宣教師の野望
 キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とす
ることを、神への奉仕と考えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog154.html
c. JOG(149) 黒船と白旗
 ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シ
ステムへの屈服を要求していた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog149.html
d. JOG(034) 敗者の尊厳
 「日本破れたりとはいへ、その国民性は決して軽視すること
ができぬ。例へば日本国民の皇室に対する忠誠、敗戦後におけ
る威武不屈、秩序整然たる態度はわが国の範とするに足る」
(中華民国国民政府・王世杰外交部長)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog034.html

■参考■
1. 中西輝政「ポスト小泉で何が問われているのか」、『明日への
選択』日本政策研究センター、H18.05
http://www.seisaku-center.net/
-----------------------------------------------------------
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/107810338.html?page=2





■■ Japan On the Globe(468)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

地球史探訪: 日出づる国の防衛戦略

 平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威
を防ぐ。
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■1.超大国の侵略の跡■

「このあたりだ。見ろ、あの白骨を」と、高句麗の将官は馬上
から叫ぶように言い、通事が訳した。白骨化した死体が、点々
と地平線までつらなっていた。推古9(西暦601)年、所は高句
麗と隋の国境近くを流れる遼河のほとり、ちょうど朝鮮半島が
大陸から突き出す付け根のあたりである。大和朝廷からの使者
・大伴咋(くい)は侵略をこととする超大国と国境を接する事
が、いかに恐ろしいことか、思い知った。

 中国大陸を370年ぶりに統一した隋が、水陸30万の大軍
で高句麗に攻め込んだのは3年前、西暦598年のことであった。
高句麗は今の北朝鮮から、満洲、遼東半島にかけて広大な版図
を持つツングース系騎馬民族国家で、約800年の歴史を持つ
東北アジアの強国であった。

 この時は高句麗が隋の大軍をよく防いでいる間に、6月の長
雨で遼河が氾濫し、中国本土からの補給線が切れるとともに、
隋軍の中で疫病が流行した。隋軍は20数万人の死体を原野に
晒して引き揚げていった。

「しかし、隋はまたかならず来襲する」 高官は馬首を返して
言った。「30万で負けたとなると、次は100万だ。そのと
き野を埋めるのは、わが軍兵士の骸(むくろ)であるかもしれ
ないのだ」

 高句麗を破ったら、隋の大軍は新羅と連合して、百済を蹴散
らし、やがては海を越えて、わが大和の国を襲うだろう。大伴
咋の身体は身震いがとまらなかった。

■2.厩戸太子(聖徳太子)の大戦略■

 朝鮮半島の南東部を治める新羅が、半島南端の日本の属領
・任那を攻撃したのは、前年の推古8(600)年のことだった。
大伴咋が大将軍として4年も九州に出陣して牽制していた間は、
まがいなりにも平和が保たれていたが、その軍勢がひきあげて
数年も経たぬうちに、新羅は軍事行動を起こしたのである。

 新羅の狙いは、任那だけではなかった。隋と組んで、北の高
句麗、西の百済に侵攻し、朝鮮半島を統一しようという野望を
抱いていた。

 大和朝廷では、ただちに新羅征討軍を送り込むことが決定さ
れ、四国、中国、北九州の豪族の兵士約一万が続々と朝鮮海峡
を押し渡った。新羅、百済、高句麗とも陸戦には慣れているが、
水軍を建設するほどの国力はなく、日本水軍は独り圧倒的な力
で、朝鮮海峡の制海権を握っていたのである。

 征討軍は朝鮮半島南端の新羅が支配する旧任那の地に直接上
陸して、無人の野を行くが如く、たちまち5つの城を攻め抜い
た。すると、新羅はすぐに降伏して、旧任那のうち6地方を返
還すると申し入れて、和睦を求めてきた。しかし、朝廷がこれ
を聞き入れ、朝廷軍を召還すると、新羅は再び任那を制圧して
しまった。

 大伴咋が摂政の厩戸太子(聖徳太子)から「高麗(こま)に
赴(ゆ)きて任那を救え」との特命を与えられたのはこの時だっ
た。太子の戦略は、高麗(高句麗)、百済、日本が同盟を結び、
北・西・南から新羅を攻める。朝鮮半島統一の野望を持つ新羅
を孤立させ、任那を守りつつ、新興の超大国・隋に対する防壁
を朝鮮半島を南北に貫いて築く、という戦略であった。

■3.「このうらみ、末代まで忘れまい」■

 大伴咋が高句麗の嬰陽王(えいようおう)に謁見して、日本
−高句麗−百済の同盟を築きたいと提案すると、嬰陽王の顔に
抑えようもない怒りの色が浮かんだ。「われらは貴国を信ずる。
しかし、百済は信用ならん」という王の声は震えていた。

「理由をお聞かせ願いたい」と咋が聞くと、王は答えた。隋の
大軍が高句麗の国土をまさに蹂躙しようとしている時、百済の
威徳王は隋に対して「皇帝の臣たるわたしどもが、先導をつか
まつりましょう」と、阿諛迎合の書状を献上品とともに隋に差
し出したというのである。「卑劣である。絶対に許し得ぬ行為
である。このうらみ、末代まで忘れまい」と、王は恨みをむき
だしにして百済を罵った。咋は半島情勢の複雑さを、今更なが
らに味わった。

「なにゆえに、奸物の百済を貴国は身内のようにつねに慈しみ、
救(たす)けてきたのであるのか」と聞く王に、咋はこう答え
た。

 されば、百済はいにしえより、わが国の官家(みやけ)
であります。官家であれば慈しみ、救(たす)けなければ
ならぬのは、当然のことわりでありましょう。

「官家」とは、天皇に直属する領地というほどの意味である。
第15代応神天皇の時代から、我が国は百済、新羅、任那の三
韓を「官家」と見なしてきた。隋書倭国伝にも「新羅、百済、
みな倭をもって大国となし、これを敬い仰ぐ」とある。

 咋は、百済が常に日本に王族を人質に差し出していることを
明らかにし、「百済がわが国に謀反いたすことは万が一にもな
い」と断言した。

 それに安心したのか、最高位の重臣が代表して、「われら一
同、貴殿を信頼し、その信頼をもって新羅征討の軍を起こすこ
ととする」と約束した。ただし、唯一の条件として、咋が自ら
百済に赴き、かの国が裏切ることのないよう、国王以下にこの
盟約を徹底させることを要求した。咋は、翌日、従者とともに
馬を駆って、百済に向けて半島を南下していった。

 咋を迎えた百済も当初、三国の同盟案に強硬に反対した。盟
主・日本の要請とあらば、いつでも新羅討伐に立ち上がるが、
仇敵である高句麗と手を結ぶことはできない、というのである。
漢城(ソウル)はもともと百済の都であった。それを約130
年前に高句麗に奪われ、時の百済王は殺され、半島西南部に押
し込められたのであった。

■4.国民軍■

 互いに仇敵であった高句麗と百済になんとか同盟を約束させ、
大伴咋が帰朝したのは、推古10(602)年6月、1年3ヶ月に
およぶ長旅であった。

 帰路、立ち寄った筑紫(北九州)から長門(山口県)、安芸
(広島県)の各港は沸き立つような活況を見せていた。巨木に
よる軍船が建造され、食料、武器、燃料などを満載した帆船が
港を埋めていた。新羅討伐のための出兵準備である。約2万5
千の兵力を動員するという。

 さらに咋を驚かせたのは、朝廷軍の編成が一新されていた事
である。従来は朝廷軍とは名ばかりで、大伴氏や紀氏、葛城氏
などの大豪族が私兵を引き連れて、連合軍を形成していた。し
かし、今回は地方毎に集められた兵士が中心となっている。し
かも将軍は、摂政・厩戸太子(聖徳太子)の同母弟・来目皇子
(くめのみこ)である。朝廷軍とは大君が統率する国民軍であ
るべきだ、という太子の理想が具現されていた。

 しかし、筑紫の駐屯所で出兵準備の陣頭指揮をとっていた久
目皇子が倒れた、との早馬が都に駆け上ってきた。久目皇子は
兄の太子に似て、すぐれた資質を持つ青年だったが、まだ20
代と若く、軍を率いた経験もなかった。2万5千の兵を率いる
という過労と精神的重圧のためであろう。

■5.三国同盟、失敗す■

 来目皇子が重病の床にあって、朝廷軍の出発が遅れている間
に、推古10(602)年8月、百済軍が新羅を攻めた。対する新
羅は大部隊を繰り出して、立ち向かった。この時点で、日本の
大船団が新羅沖に達していたら、挟み撃ちの形ができて、新羅
はこれほどの大兵力を対百済戦に集中投入できなかったはずで
ある。百済軍は全滅に近い敗北を喫した。

 来目皇子が推古11年2月に亡くなり、あらたに太子の異母
弟・当摩皇子(たぎまのみこ)が将軍に任ぜられた。しかし、
筑紫へ向かう途中、身体の弱かった妃を亡くし、悲しみにくれ
た皇子は飛鳥の都に引き返してしまった。

 この頃、こんどは高句麗が千人ほどの精鋭部隊を南下させた
が、新羅は国王が陣頭指揮をとって、主力軍で迎えた。日本軍
が海上から攻めていればこそ勝ち目もあったが、単独では敵う
はずもない。高句麗軍は戦わずして引き揚げた。

 咋は愕然とした思いで、自らのまとめた三国同盟の失敗を見
つめていなければならなかった。それもこれも盟主・日本の責
任である。

 咋は、太子に高句麗と百済の情勢を報告した。太子は「新羅
を討つに兵を用いず」と一言、言われた。それが何を意味する
のか、咋が理解するにはまだ何年もの歳月が必要だった。

■6.「日出づる処の天子」からの国書■

 太子の命によって、小野妹子(おののいもこ)が遣隋使とし
て飛鳥の都を出発したのは、推古15(607)年7月だった。筑
紫から百済を渡り、陸路、高句麗を経て、隋に入った。百済も
高句麗も同盟国であり、何の危険もなかった。

 小野妹子は隋帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天
子に致す。恙(つつが)無きや」という一文で始まる国書を差
し出した。[a]

 超大国、隋に対して対等な外交を申し入れたこの国書が、ど
れほど革命的なものであったかは、高句麗の嬰陽王が隋の大軍
を撃退した後に、差し出した国書と比べてみるとよく分かる。
王は勝ち誇るどころか、自らを「遼東糞土の臣(糞尿にまみれ
た遼東の地を治めさせていただいている臣下)」と蔑んだので
ある。

 九州ほどの大きさでしかない百済や新羅に比べれば、日本は
大国であり、世界最大級の仁徳天皇陵を初めとする多くの前方
後円墳を作るなど、半島の三国とは桁違いの国力を持っていた。
軍事的にも隋を上回る水軍を保有していた。その強国を、高句
麗討伐に手こずっている隋が、粗略に扱える余裕はなかった。

 翌推古16(608)年8月、小野妹子は特使・裴世清以下12
名の使節団とともに帰国した。隋帝からの国書は「皇帝から倭
皇に挨拶を送る」と始まる丁重な文面で、「皇(天皇)は海の
彼方により居(まし)まして、民衆を慈しみ、国は安楽で生活
は融和し、深い至誠の心あり」と、日本の平和な国のありよう
を讃えている。

■7.新羅の焦り■

 この動きに焦ったのが新羅である。隋の力を借りて朝鮮半島
を統一しようという野望が一挙に覆された。その隋が新羅にとっ
ては夢のような大使節団を日本に送り、あっという間に対等な
友好関係を結んでしまったのである。隋と日本、そして百済、
高句麗が結んだら、新羅は完全に孤立する。

 新羅の真平(しんぺい)王は、隋帝に高句麗討伐の出兵を乞
う書簡を送ったが、隋からはなんの返答もなかった。逆に高句
麗は、当分隋からの侵攻はない、と読んで、新羅を攻撃し、国
境近くの山城を落として8千人を捕虜とした。

 窮地に陥った新羅が調(みつぎ)をたてまつる使者を日本に
送ってきた、と聞いたとき、大伴咋は自分の耳を疑った。しか
も任那からの使者を伴っている、という。新羅が任那を実効支
配したのが、48年も前のことだった。以来、朝廷は任那を奪
回すべく、何度も遠征軍を派遣し、あるいは百済を軍事支援し
て新羅を攻めてきた。

 新羅が支配する任那の使者などは、手の込んだ演出に過ぎな
いが、日本の要求通り任那を復興させ、その使者を伴ってきた、
という形式をとって見せたのだった。隋と対等に渡り合う日本
の機嫌をとっておこう、という見え透いた戦術だった。

 推古18(610)年10月、朝廷は数十年ぶりに新羅の使者を
盛大に迎えた。7年前に太子が言われた「新羅を討つに兵を用
いず」との言葉がここに現実のものとなったのである。

 しかし、咋はこれで安心とはとても思えなかった。隋は高句
麗への侵略をあきらめたわけではない。他国を属国としなけれ
ばいられぬ侵略国家である。わが国との友好を固めたのを機に、
ふたたび高句麗侵略に出るに違いない。

■8.随の高句麗侵略と滅亡■

 咋の心配通り、611(推古19)年に入ると、隋は113万の
大軍を持って高句麗に襲いかかった。少し前の「ゲルマン民族
の大移動」が、総計50万人程度と言われているので、それに
倍する軍勢である。しかし、あまりの大軍の長距離遠征に糧食
が続かず、わずか数万の高句麗軍が果敢な抵抗をしている間に、
随軍は飢餓に襲われ、敗退した。

 この後も、隋は二度に渡って高句麗を攻めたが、疲弊した国
内で反乱や暴動が起こり、ついに618(推古26)年に滅亡して
しまう。

 その直後、隋の侵略からついに国を守りきった高句麗の嬰陽
王は、戦勝の喜びの品々を日本の朝廷に送ってきた。その中に
は隋軍が運搬に使ったラクダもあった。高句麗の嬰陽王がこれ
らの品々をすぐに送ってきたのは、当然、日本への感謝があっ
たのだろう。日本の圧力がなければ、新羅が背後で蠢き、高句
麗は随との戦いに集中できなかったはずである。

■9.わが国の防衛戦略の根本■

 大和朝廷の朝鮮半島政策の根本は、推古天皇の父で、任那滅
亡時の欽明天皇の遺言にあった。欽明天皇は、死の病床で皇太
子(第30代敏達天皇)の手をとり、「汝(いまし)、新羅を
打ち、任那を封建すべし。また夫婦のように相和して、もとの
日のごとくならば、死すとも恨むことなし」と語ったのである。

 新羅を攻め、領土を奪えと言うのではない。任那を再興し、
新羅、任那、百済の三韓が平和的に鼎立してくれればそれで良
い。平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ防壁
となるというのが、わが国の防衛戦略の根本であった。「新羅
を討つに兵を用いず」という太子の戦略もこの一環で、隋の勢
力を引き入れて半島統一を目指した新羅の野望を打ち砕こうと
いうもので、新羅そのものの打倒を目指したものではない。

 近代においても、朝鮮半島に高句麗のように独立心旺盛で、
安定的な国家が存在して、ソ連や共産中国の防壁となってくれ
ていたら、日清・日露戦争、満洲事変という歴史の流れも大き
く変わっていただろう。そして中国と北朝鮮が、わが国の安全
保障上、最大の脅威となっている現代においても、この根本は
変わらない。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(311) 聖徳太子の大戦略
 聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何感じ取っ
たのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog311.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
(まぐまぐ版では、httpのあとに「:」を補ってください)

1. 八木荘司『古代からの伝言 日出づる国篇』★★★、角川書店、H12
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4048732528/japanontheg01-22%22

http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107833566.html
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by thinkpod | 2006-10-22 18:23
2006年 10月 18日

石 平『私は“毛主席の小戦士”だった』

 石平氏は在日十八年、北京の反日政策を強く批判する、異色の中国人評論家としての活躍は最近広く知られる。VOICE、正論、WILLを舞台に鋭い中国批判を繰り広げるので、日本の読書界にもファンが増えた。
 評者(宮崎)がいつも思っていた疑問は、いったい、この人は如何なる少年時代、青年時代を中国で送ってきたのか、ということだった。
 人生の出発の原点がともなう懐旧、郷愁、家庭環境。
家庭や学校の教育環境の違いによって、人はそれぞれの人生過程のどこかで、故郷に還る。こころの故郷に復帰する。
 先日もテレビ番組で御一緒したが、石さんは飲むと大声を上げて議論に血道をあげる。石平氏はまことに素朴で純情で、それでいて熱血の人、中国の都会ッ子にはない生来の人間性を醸し出す。
しかも四川省出身といえば、独立心旺盛で個性的な性格が多い。

 さて本書を読んで、近年の氏の論理構成、その思想遍歴にようやく得心がいった。四川省の田舎で育った。氏の少年時代、まわりには儒教のおしえが残っていたという。
日本流に言えば
「♪うさぎ追いし、かの山、小鮒釣りし、かの川♪」
の、ゆたかな自然の環境が氏の感性を豊饒に育(はぐく)んだ。
 おりから文革の嵐に遭遇し、毛沢東の神話を信じた。まさに「正義の人、改革の人」が毛沢東であると信じた。
 革命の苦労話には涙がでた。嘘を洗脳教育で信じ込まされたことを赤裸々に告白している。
狂気の文革時代がすぎて、氏は80年代に北京大学へ入学する(四川省から北京大学というのは並みの秀才ていどでは辿れない超秀才コースだ)。
そこでの級友達との会話は、はてしなく欧米デモクラシー的な自由への僥倖、民主化への探訪だった。文革が毛沢東神話と毛沢東の個人的欲望から展開されて権力独占の野望である、という総括が若者の多くに拡がり、共通に認識されていた。
洗脳され、嘘によって騙されていたのだ、と。
 氏はいう。
「言いようのない悲哀感に襲われた。これが自分の少年時代だったのか、と空しさと悔しさがいっぺんに胸の中で沸き上がった」。
 そうか、毛沢東神話は大嘘だったのか。「わたしは自分の人生の中でもっとも深刻な心の危機と苦しみを体験しなければならなかった」。それは「驚天動地の精神的大地震であった」と正直に告白を綴る。騙されたことを悔いた。

 「学生寮の狭い部屋のなかで、安い酒で一緒に飲みつぶれて、一緒に涙を流した。その中から、我々の世代(文革中の毛沢東神話を信じていた)の独特の連帯感」が生まれ、これは「懐疑の精神」となり、のちの「天安門民主化運動」に繋がっていくのだった。
 そして彼らが89年天安門事件の被害者となった。
 あの悲劇が起きた日、石平氏は日本に留学に来ていた。在日の中国人留学生の多くも民主化に連帯し、日本でも運動がおきた。
 89年6月4日、軍が学生達に発砲し、石平氏の級友たちの多くが犠牲となった。なんという無謀な政府か、絶望の淵に立たされた。
 その後、何回か帰省し、議論して驚いた事実とは、反日宣伝によって親戚友人級友の多くが日本人が悪いと完全に「洗脳」されていたことだった。天安門の弾圧をつめよると、あれは「外国の陰謀であり、弾圧は正しかったのだ」という信じられない反応が返ってきた。
 共産党への不満を反日ですりかえての洗脳教育が、こういう形で現れていたのだ。
これは第二の洗脳であり、「反日」は大ペテン、かの毛沢東神話と同じ、党の独裁のための大嘘であるのに。
 石平氏は真実を語ろうと決意した。
旺盛な執筆活動を開始したのは、この危機を体験した直後からで日本の論壇で、「反日」の危険性について雑誌、単行本で真実を綴った。
在日留学生の一部からは批判や嘲笑もあったという。拝金主義にのめりこんで、政治の理想も民主化の灯火も反日にすり替えてしまった中国のあくどいまでの洗脳は海外留学生にまで及んでいた。

 石平氏は、日本にながく生活し、京都や奈良を訪ね歩き、その中国とは対極の、静謐で美しい日本文化、ひとびとの生活、哲学にこころからの感動をすることになる。
 少年時代に理想としておそわり、党が反対した儒教の本質が日本にこそ生きているではないか。己を犠牲にしてもおおやけに尽くすという、この日本の哲学の源泉は、いったい、なにからくるのか。
 石平氏はやがて西郷隆盛にいきつく。
 「中国では英雄豪傑であればあるほど、個人的な権勢や一族の栄達を求めて独裁者への道を歩んでいくのが中国歴史上の常であった。権力は、決して私利私欲の限界を超越することができない、というのが中国社会の法則となり、中郷の歴史の不幸の源でもあった」のに、日本の歴史に輝く「西郷南州は、それを見事に超越した」。
 西郷はいのちも要らぬ、名も要らぬと新政府の欺瞞に怒り、華々しく散った。
 本書は中国の本物の知識人が綴った感動の書である。黄文雄、呉善花、金美齢、ペマギャルポら在日外国人評論家の列に石平が加わった。
 かれの出現によって朱建栄も、王敏も、莫邦富も急速に色褪せて見える。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3390380/



出版社/著者からの内容紹介

今では「親日・反中国政府」的中国人論者の代表格として活躍している著者は、ここに至るまでの自らの魂の受難歴を語った衝撃な一冊!
在日年数十八年も及び、日本の伝統文化と美学に古き良きわが祖国の姿を発見した中国人哲学者からの、清冽な日本文化論。

内容(「BOOK」データベースより)
失意を抱いて留学した日本で彼が出会ったものは、祖国から消えうせた「論語」であり、「礼節」であり、「江南の春」の風景であった。自分たちがゴミのように投げ捨てたものが日本には息づいていた…。共産党政権に洗脳され、騙され続けた知識人の慟哭と、祖国への決別の手記。

内容(「MARC」データベースより)
失意を抱いて留学した日本で彼が出会ったものは、祖国から消えうせた「論語」であり、「礼節」であり、「江南の春」の風景であった。中国人哲学者が赤裸々に描く、「親日・反中」に至るまでの心の軌跡。

出版社からのコメント
日本人の心を震わす魂の履歴書!
共産党政権に洗脳され、騙され続けた知識人の慟哭と、祖国への決別の手記。
失意を抱いて留学した日本で彼が出会ったものは、祖国から消えうせた「論語」であり、「礼節」であり、「江南の春」の風景だった。自分たちがゴミのように投げ捨てたものが日本には息づいていた......。清冽な感動を呼ぶ自伝的論考。

著者について
石 平 1962年、中国四川省に生まれる。1984年、北京大
学哲学部を卒業。四川大学哲学部講師を経て1988年に来日。神戸大学文化学研究科博士課程を修了後、民間研究機関に勤務。2002年に『なぜ中国人は日本人を憎むのか』(PHP研究所)を著して中国における反日感情の高まりについて先見的な警告を発して以来、評論活動に入る。著書に『中国「愛国攘夷」の病理』(小学館文庫)、『「日中友好」は日本を滅ぼすー歴史が教える「脱・中国」の法則』(講談社+α新書)、『日中の宿命』(扶桑社)などがある。『正
論』・『Voice』・『WiLL』等の論壇誌で論文掲載多数。


Amazon.co.jp: 私は「毛主席の小戦士」だった—ある中国人哲学者の告白: 本: 石 平
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4870317613



「 石平『私は「毛主席の小戦士」だった』を読む。
 先日のポーツマスネットワークの宮崎正弘先生の講演会には、加瀬英明先生、西尾幹二先生、西村幸祐先生、山崎行太郎先生、平田文昭先生、そして西法太郎先生と石平先生が駆けつけてくだったため、講演会ではなくシンポジウムができるほどであった。
 石平先生がいらっしゃるとのことで、以前宮崎先生のメルマガで書評されていた「『私は「毛主席の小戦士」だった』(飛鳥新社)を読んでみた。大変に面白い本であった。
 毛沢東に対する洗脳と盲信。著者は少年時代に毛沢東を心から尊敬し、自らもその走狗とでもいうべき小戦士となっていた。そして後に明らかになる実際の毛沢東の姿。文革とは所詮は老いた毛沢東が自らの権力を獲得するために国家全体を巻き込んだ壮大で悲惨な権力闘争の一環にしかすぎなかったことを感じたとき、自らの小戦士としての少年時代が疎ましく、空疎に思え、呆然としたこと。
毛沢東がこれほどの権力を行使できたのも結局は共産主義体制という驚くべき独裁体制にあることに気づいたこと。これらの経験をへて著者は、根本的解決は共産主義体制の変換、すなわち民主化によってしか為しえないとして民主化闘争の知的活動家となっていく。
 天安門の挫折をへて民主化の夢破れ、政治に関してニヒリスティックになっていた著者が再び政治の世界へと目を向けざるを得なかったのは、以前では考えられないほどの「反日」ブームに驚いたからであった。
 興味深いエピソードがある。
著者が四川省の実家に帰省した際、以前から著者を慕っていた甥に、小遣いをやろうとすると、頑として受け取らない。不思議に思った著者がなぜか理由を問うてみると「おじさんのお金は、日本人からもらった給料だろう。そんなお金僕は要らない!」ときっぱりといった。そして甥は共産党に入党すると誇らしげに語り、日本と戦うという。さらに、日本に大勝した共産党を、批判するような著者が従事してきた民主化活動は完全に間違っ
ていると断じた。
 著者は、この甥の姿に自らが少年兵であった過去を重ね合わせたのであろう。
若者が幾度となく共産党権力により洗脳され、利用されて行く姿を目にし、政治的ニヒリズムから覚醒し、「反日」の根本構造を分析する。
 この異常なナショナリズムを超えた盲目的ショービニズムとでもいうべき反日ブームの根本構造は、著者自身も関与していた民主化闘争の中、特に天安門事件を契機として、反共産党の雰囲気が国民の中で生れつつあったことに対する窮余の一策として考え出された極めて政治的なものであった。共産主義というイデオロギーが共産党の一党独裁の正統性(legitimacy)を付与しなくなったとき、新たな正統性の根拠を共産党の指導による第二次世界大戦の勝利という偽りの歴史と、その敵国たる日本の現在にまでいたる軍国主義の脅威という誇大宣伝である。再び侵略を目論む日本に対抗できるのは共産党しかありえず、その日本という巨悪との対抗のためには一党独裁も止むを得ないではないかという論理である。
 こうした分析を著者は孤独に繰り返し、孤独な闘いを続ける。後半の喪われた祖国の文化を日本に見たという日本文化論も興味深い。石平という愛日的中国知識人を知る上でも、また現代中国の本質を見抜くためにも格好の手引書となっている。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3438027/



(読者の声2)もし、私が石平氏で、あのように自分の精神・思想遍歴をありのままに書いて出版したら爽快な気持ちになります。下品な喩えですが排泄後の快感です。
でも中国人の石氏はどうなのかなと思ってしまいます。
中国人の常識では自分を正直に語ることは非常識で通常の中国知識人としたらバカに等しい愚かな行為でしょう。
ですから石氏の同書は日本人には到底理解の及ばない苦悩と複雑な内面での心理の葛藤を紙背に抱えているものと推測します。これを読んでも石氏を警戒して観る浅薄な保守知識人は日本人に取り入ろうとする在日中国人の自己プロパガンダと見なすでしょうが。
貴台が何度も書かれておられるように中国人のメンタリティは日本人と全く異なります。藤島泰輔氏が日華断交後に憤然として日華民族友好協会でしたかを立ち上げましたが国民党中国人の薄ら笑いにいいようにされてしまい、後で日華ではなく日台とすべきだったと嘆き、それを貴台が慰めるという御一文があったと記憶します。日本人は各民族が為めに生きていることを深く考えない民族です。
日本人は自らの親台的言行や善意は素直に受け入れられると信じ相手の親日的態度も警戒なく受け入れます。
相手が親日家であってもその真意を見ないで付き合っているのでその親日がある日くるりと「反日」に転じてしまうと慌ててしまいます。台湾人も中国人同様日本人とはメンタリティが異なります。
複雑な過去を背負いある意味屈折しています。それを貴台は上の同論で分析されていました。
最近独立派台湾人から、台湾独立運動に熱心に取り組む日本人数名を名指しして、何のために金にもならないことをやっているのだろうという声を聞きました。
きっと裏があってやっているのだろうと考えるのは蒋介石と外省人に痛めつけられ、その前に日本の統治も経験した民族としたら当然です。
東アジア近隣諸国の中で稀に気の合う民族同士です。しかも台湾は日本の安全保障に欠くことのできない枢(かなめ)ですから頼まれなくても台湾の独立を応援するのは日本の志士なら当たり前です。これが日本人のメンタリティです。相互理解は容易いものではありません。
石平氏のアウグスチヌスの「告白」を思い起こさせる真摯の自己表白は、一匹夫の私に日本人、中国人、台湾人それぞれの異相に思いを致させ、さ迷う自らの魂を揺さ振る“震作”です。
   (HN生、品川)

(宮崎正弘のコメント)そうそう。ですから西郷隆盛のように「命も要らぬ、名も要らぬ」という無私の哲学、敬天愛人の日本人的考え方がシナ人にわかってもらうのは、よほどのこと。「滅私奉公」ならぬ、メッコウホウシの国柄ですから。
石さんにしても、在日十八年にしてたどりついた思想的地点です。

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(読者の声3)貴誌平成18年(2006年)11月23日(木曜日)通巻第1626号に収録された、「(読者の声2)」ですが。
曰く。
「最近独立派台湾人から、台湾独立運動に熱心に取り組む日本人数名を名指しして、何のために金にもならないことをやっているのだろうという声を聞きました。きっと裏があってやっているのだろうと考えるのは蒋介石と外省人に痛めつけられ、その前に日本の統治も経験した民族としたら当然です。(HS生、品川)」
この指摘、感銘をもって読みました。
 ただし、独立派台湾人のそうした感性の成立背景を、蒋介石と外省人に痛めつけられ、さらに日本統治を挙げていますが、この見方には多少、抵抗があります。はっきりいえば、少し浅いのではないか。
 問題は、独立派台湾人の中にさえ、台湾独立運動に取り組む日本人を金にもならないのに、と解釈するところです。その思考回路は、元来がシナ人であるところから来ているという見地を見落としてはならないと思います。
 これは日本人的な感性から彼らを軽蔑なり批判しているのではありません。そうした感性なのだと思い定めていれば、不愉快にならないからです。
 私は、身近にいる台湾人と福建人の日本社会における動きを、具体的な事例を通して比較しつつ見ています。色々と学ぶところが多いことに、最近やっと気づき始めております。いずれにせよ、彼らのたくましき感性から見ると、日本人は少なくとも私の場合、甘いです。
(SJ生。静岡)

(宮崎正弘のコメント)無償の行為とは、それを想定できない人からは理解不能でしょう。話は飛びますが、「憂国忌」にしても、ボランティアと浄財だけで36年間。この無償の行為は、源泉は何でしょうか?
 さて台湾は昔から果物、農作物が豊富で、このため人々が飢餓をしりません。人間性はおだやかになり、お人好しが多く、したがって日本時代にも従順だったが、シナ人が入ってきたときに「なんだ、これは」という程の衝撃だった。
 人間がまるで違うからです。ですから、日本語世代の多くは「シナ人」という呼び方をして、中国語を「シナ語」。台湾語しか使わない。

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中国共産党の「反日・愛国教育」で若者が「天安門事件は政府が正しい」といい出した
                              -日中問題研究家 石平-

 ここ約20年ごどで中国は親日から反日に劇的な変化を遂げた。とりわけ、なりふり構わぬ共産党の愛国教育の激しさといったら目を覆うばかりだ。その現状を語るならば、まずこの話からせねばなるまい。
 今から6年ほど前に中国四川省の実家に帰省したときのことである。大学1年の甥が遊びに来たので、私が財布から何百元か取り出し小遣いとして渡そうとすると、彼はこう言った。
「おじさんのお金は日本人からもらった給料だろう。そんなお金はいらない!」
 まさか身内の人間からそんな言葉を浴びせられるとは思いも寄らなかった。甥は純真で真面目な子だったので 昔からかわいがってきたし、彼もよくなついていた。それなのに、当時の大学生の一か月分の生活費を、「日本人の汚い金だ」とためらいもなく振り払ったのだ。
 私はその何年か前から、中国に帰るたびに、社会の空気の変化に気づいてはいた。中国の友人や知り合いに、日本で仕事していることを伝えると、「あんな陰湿な社会にいたら酷い目に遭っているに違いない」と決めつけられ、同情される。
 だから、この甥に対して説明しても無駄だとすぐに悟り、私は話を変えようとした。ところが、彼は逆にこう質問してきたのである。
「日本がもう一度中国を侵略してきたら、おじさんはどうする?中国に帰ってくる?」
 あまりにバカバカしくて反論する気にもならず、冗談半分で「そうなたったらお前はどうする?」と聞き返してみた。すると、甥は背筋を伸ばして、「僕は最前線で戦う。小日本を徹底的にやっつけるんだ」と答え、さらにこう続けた。
「実は大学で共産党の入党申請書を出したんだ」
 少し呆れて、私が「そうか、お前は共産党が好きなのか」と軽く聞き流そうとしたところ、「当然だろう。中国人ならみな共産党が好きじゃないか。昔、日本侵略軍をやっつけたのは共産党だし、今も日本の侵略を防いでいるのは共産党の指導のおかげだ。おじさんは歴史を知らないのか!」
 こうなると叔父も甥もない。
「じゃあ聞くが、今から11年前に北京で起きた6・4事件(天安門事件)、あれも中国の歴史だが、君はどう思う」
「なんですか6・4事件って。あ、あれのことか。はっきり言いますが、おじさんたちのやったことは間違いです。党と政府の措置は正しかった」
 さすがに堪忍袋の緒が切れた。
「丸腰の学生たちを虐殺して、いったいどこが正しかったんだ!政府が罪のない人を銃殺するのは正しいというのか」
 しかし、甥は譲らない。
「おじさんたちは、外国勢力の陰謀の道具に使われただけだ。鎮圧しなければ、中国は外国勢力の支配下に入ってしまうじゃないか」
 私は怒り心頭に発し、あやうく平手打ちを食らわせそうになったが、かろうじて理性で抑え込んだ。すると甥は、
「殺人といえば、日本人こそ殺人者じゃないか。南京大虐殺をやり、何千万人の中国人を殺した。おじさんは忘れてもぼくは忘れませんよ」
 そういい捨てると、甥は部屋から出て行った。これが今でも鮮明に記憶に残っている甥との対話の一部始終である。

▼憎しみの対象だけで、共産党の洗脳教育は昔のまま
-略-
 歴史を振り返れば、中国共産党の薄汚いやり口は、昔からまったく変わっていない。
 私自身、子供の頃には、「中国の外の世界では、99%の労働者は、資本家による搾取で、中国よりはるかに貧しい生活を強いられている」と教えられ、素直に信じていた。
-略-

 洗脳教育というのは本当に恐ろしいもので、ありとあらゆるウソが集まって一つの完璧な世界観を形成してしまうと、ウソと知りながらウソをついていた人間までも本当のことのように錯覚し始めるほどだ。真面目で純粋な子供だった私も、見事なまでに洗脳され、毛沢東を崇拝していた。
 その洗脳が解けたのは、北京大学に進学してからである。当時は文化大革命の迫害を受けた党幹部や知識人の間で、毛沢東政治の暴露と批判を行う運動が盛り上がっていた時代である。大学にも文革犠牲者の親族を持つ学生が多数いた。
最初は彼らの話を疑い、殴り合いのケンカまでしたが、あまりの多くの証拠を突きつけられ、毛沢東は自らの権力を守るためには虐殺も厭わない権力の亡者であることを認めざるを得なくなった。

-略-
 運命の89年6月4日。私は日本にいて難を逃れたが、一緒に民主化活動を指揮した何人かの仲間が天安門で命を落とした。
私は祖国に絶望し、打ちひしがれた。
 天安門事件は共産党にとっても史上最大の危機だったと言える。この事件を境に、共産党は方針転換を図った。
つまり、かつては西欧資本主義を邪悪な暗黒世界とし、理想の共産主義国家を建設するのが共産党だと位置づけていたのが、日本という暗黒国家が再び中国への侵略を企てており、その侵略から祖国を守るのが共産党であると、対立の構図を変え、民族主義、愛国主義の教育を始めたのである。
 要するに、共産党がやっていることは私の子供の頃とまったく同じなのだ。
-略-

▼戦争を知らない世代ばかりが共産党を妄信している
-略-
 最近、新華社通信が中国人を対象にサイト上で行ったアンケートでは、「あなたがもっとも信じる理想・理念はどれか」という問いに対して、「民主主義」と答えた人は1%に過ぎず、「民族至上主義」と答えた人が96%にのぼった。
そのほとんどが、外国と利益が衝突したらあらゆる手段を用いて中国の利益を守るべきと答えている。
 もはや中国の若者たちは民主主義という思想にまったく魅力を感じていない。共産党独裁が決していいとは言わないが、邪悪な日本の侵略から民族を守るには、共産党の指導が必要だとする。
-略-
 しかし、私が毛沢東崇拝の洗脳から解けたように、ウソはいつか必ず暴かれ、洗脳は解ける。私はそう信じている

ソース:SAPIO 12月13日号 PP103-105 記者が誌面からテキスト化。
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1164206127/


地球史探訪 : 中国の覚醒(上) 〜 中国共産党の嘘との戦い
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by thinkpod | 2006-10-18 05:43 | Books
2006年 10月 15日

朝日新聞の捏造・放火の歴史

●1959-1985 北朝鮮礼賛キャンペーン

 執拗な北朝鮮礼賛キャンペーンを展開。各記事の内容はこちらを。
 朝日新聞の入魂の連載記事とは裏腹に、実際には経済の発展はゼロに等しく、その正体は粛清の嵐が吹き荒れる恐怖の独裁国家でしかなかった。しかも保障された職と生活どころか、明日の食事にさえ事欠く有様で、現在でも慢性的な食料不足と恐怖政治が続いている。

●1975.4.19 残虐なポルポトを「アジア的優しさ」と報道

 和田俊プノンペン特派員(後年、テレ朝「ニュースステーション」に解説者として出演。故人)が、「カンボジア解放側 アジア的優しさを持つ」「粛清の危険は薄い?」という見出しで記事を書いた。当時中国共産党の支援を受けていたカンボジア解放軍のポルポトは、アジア的な優しさどころか、カンボジアの全国民の1/6に相当する300万人以上の民衆を虐殺した。


●1950.09.27 伊藤律のインタビューを捏造

 「宝塚山中に伊藤律氏−本社記者が会見」、行方不明の共産党幹部とのインタビューを一面に掲載。29日に記事を書いた長岡宏記者は「伊藤律氏との会見記事は、私の仕組んだ全くの狂言でした」と弁明。この記事はその後の縮刷版から削除された。


●1967-70 中国政府当局が朝日新聞を除く全ての報道関係者を追放

 文化大革命で狂乱状態にあった中国政府当局は、中国政府提灯記事以外の記事を書くあらゆる報道関係者を「外国反動分子」と決めつけ中国から追放した。

  1967.09 産経、毎日の記者が追放される
  1967.10 読売記者が追放される
  1968.06 日経記者鮫島特派員がスパイ容疑で逮捕・拘留される
  1968.11 滞在期間が切れて帰国したNHK記者が入国不許可に
  1970.09 共同通信特派員が追放される

 北京に駐留している日本マスコミは朝日の記者のみとなった。朝日は唯一の中国特派員をもつ立場を保持するため、あらゆる中国政府当局の捏造加担とおべんちゃらを開始した。


●1971.8.26-11.26 「日本軍虐殺」捏造コラム掲載

 「中国の旅」と題する「日本軍虐殺」捏造コラムを計31回連載。著者は本多勝一氏。いわゆる「南京大虐殺」が知られるきっかけとなったものだが、中国政府当局やその恐怖政治の影響下にある人間による「日本軍の蛮行」に関する「証言」を丸写ししたものだった。
 後年大量の嘘写真や捏造事例などが暴かれ、本多氏自身も「証言」を丸写ししたものであることを認めている。


●1982.9.7 侵略進出書き替え誤報の責任転嫁コラムを掲載

 朝日新聞を含め多くのマスコミが、高校教科書の「華北を侵略」という記述が検定によって「華北に進出」に変えられたなどと伝えた。ところが、その後、関係者の調査によりこれが全くの事実無根と判明。
 その後、朝日は「読者と朝日新聞」というコーナーで読者の疑問に答える形で小さく「侵略→進出今回はなし」などと記す。その中で、外交問題に発展したのは検定制度を行う政府にあるかのような責任転化をした。
 一方、産経新聞は誤報だと判明後、それを素直に認め大々的に謝罪し、誤報の経路を綿密に読者に報告し、詫びた。朝日はこの大誤報事件について、今なお釈明も謝罪も行っていない。


●1984.8.4 「南京大虐殺」を捏造

 生首のごろごろ転がる写真を「南京大虐殺の証拠写真」とし、南京に入城した元歩兵二十三連隊の上等兵が記したという「日記」を併記して掲載。
 これに対して、元歩兵二十三連隊の有志からなる「都城二十三連隊会」が立ち上がった。元兵士の懸命の調査により、1年4カ月後になって、この写真が全く別の場所の写真であることが判明する。「都城二十三連隊会」は記事取り消しや謝罪文掲載の要求を朝日につきつけた。
 それに対して朝日は1985/1/22、このような数行のおわび文を掲載した。「(前略)日記は現存しますが、記事で触れられている写真三枚は南京事件当時のものでないことが解りました。(後略)」。全く、元歩兵二十三連隊が南京大虐殺をしていないという記述はどこにもない。「都城二十三連隊会」は更に朝日に対して不信感をつのらせた。
 写真の嘘が明らかになったのなら、あとは日記の真偽が焦点となる。例によって朝日は、取材情報源の秘匿を主張し、さんざんゴネた上に朗読まではしぶしぶ行ったが、筆跡鑑定のための開示を拒んだ。
 「都城二十三連隊会」は日記の開示を求め、1986/8/22に小倉簡易裁判所に日記保全の申し立てをし、全て開示し写真に取らせよという判決が12/27に下った。が、朝日は取材情報源の秘匿を理由に、福岡地裁小倉支部に抗告し、裁判引き延ばし戦術に出た。最年長の老人は心労のため入院した。今なお朝日は真相を隠蔽している。


●1984.10.31 毒ガス戦を捏造

 煙がもうもうと立ち上る写真を一面三段抜きに掲載し、「これが毒ガス作戦。と元将校。当時の日本軍内部写真を公表」と報道したが、ほどなく、これが写真も取材源もデッチあげであることが、朝日の稲垣武氏や各種報道機関により暴かれた。


●1985.8.7 靖国参拝ご注進報道

 1985/8/15、“戦後の総決算”ということで中曽根首相は「公式参拝」をすることになるのだが(これは公約だった)、その少し前から朝日新聞は反靖国キャンペーンを始めた。
 8/7に「『靖国』問題 アジア諸国の目」という特集記事を掲載。「(中国と)同じ『愛国心』が、日本ではかつては軍国主義を底支えする役割を担わされたことを、中国は自らの体験として知っている。それだけに、靖国問題が今『愛国心』のかなめとして登場してきたことを、中国は厳しい視線で凝視している」と書いた。
 が、ここには具体的な根拠…誰が何と言ったのか、言ったとしたらその人物は靖国神社についてどの程度知っていたのか等…が全く書かれていなかった。当時の中国メディアを精査したところ、案の定そのような言動は全くなかった。まさに朝日新聞お得意の「火のないところに火種を落とす」記事の実例である。この記事を書いたのは現在『報道ステーション』でお馴染みの加藤千洋。
 8/11になって、人民日報が8/7の朝日新聞の記事を受け、「日本国内に靖国参拝に批判的な動きがある」と報じた。それが中国側の最初の反応。但しこの記事は直接の論評はせず、「日本の一部新聞」を引用する形で書かれてあった。
 朝日は8/12、加藤千洋特派員が「公式参拝反対の声など詳報 人民日報」と題し、「日本の報道や消息筋の指摘を引用し」た人民日報の記事を紹介。「日本の各野党や、キリスト教、仏教を含む宗教団体が一斉に『強烈に反対』し、抗議活動や決議を行った事などを伝えている」と書かれたその内容は、もともと8/10の朝日に掲載された記事「『いつか来た道』を警戒」に載っていたものと同じだった。
 当の中国・人民日報は日中友好のために批判を抑制していたのだが、朝日が東京と北京の間で同じ反日記事をキャッチボールして、騒ぎを増幅させていたのだ。
 ついに8/14、中国政府が記者質問に答える形で、「東條英機ら戦犯が合祀されている靖国神社に参拝することは中日両国民を含むアジア各国人民の感情を傷つける」として公式に反対表明をすることとなった。
 ちなみに「A級戦犯」合祀が判明したのは1979年だが、朝日がこの騒ぎを起こすまで、中国政府が首相の靖国参拝に抗議したことはなかった。


●1989.05.15 サンゴ自作自演事件

 朝日新聞のカメラマンが、沖縄・八重山群島西表島のサンゴ礁を傷つけてカラー写真を撮影し、4/20付夕刊に「サンゴ汚したのはだれ」と告発する記事を掲載していたことが明らかになる。記事では「これは一体なんのつもりだろう」と書き出し、「サンゴは、水中ナイフの傷やら、空気ボンベがぶつかった跡やらで、もはや満身傷だらけ」と心ない行為を告発。
 朝日新聞社は「元々あった落書きに、撮影効果を上げるためにカメラマンが手を加えた」と説明、しかし地元ダイバーの指摘を受け、19日夜、落書きはもともとあったとするこれまでの主張を翻し、無傷のサンゴにカメラマンが「KY」の文字を刻みつけて撮影したことを認めた。
 詳細はこちらを→朝日新聞の「朝日珊瑚事件」


●1991- 「従軍慰安婦」捏造報道

 1983年に吉田清治が著書の中で、韓国済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたという「体験」を発表。朝日新聞はこれを91年から翌年にかけ、ウラも取らずに4回にわたり報道した。
 91/8/11、朝日は「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一人が名乗り出た、と報道。
 92/1/11には、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」と報道。見出しに「軍関与」とあるが、記事をよく読めば、民間の悪徳業者による「強制連行」を、軍が警察と協力してやめさせようとしたという内容であった。朝日お得意の印象操作である。
 この直後の1/16から訪韓した宮沢首相は首脳会談で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束。93/8/4、河野官房長官談話が発表された。
 朝日はこの吉田清治を、宮沢首相の訪韓前後1年の間に4回も紙面に登場させたのだが、秦郁彦日大教授の現地調査によって吉田の著書が捏造であることが明らかにされた後、ぷっつりと起用をやめた(96年に吉田自身もフィクションだと認めている)。
 ちなみに韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、「従軍慰安婦」として「強制連行」されたと認められたものは、ひとつもないというのが実態である(「売られた」人だったり、戦地ではないところで慰安婦にされたと主張していたり…)。
 朝日は97/3/31に記事の中で、吉田証言について、「……間もなく、この証言を疑問視する声が上がった。済州島の人たちからも、氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」と書いた。この3/31付の紙面は「従軍慰安婦は存在した」という大特集である。この中で朝日は、「強制連行」がなくても「強制性」があれば同じことだ、と問題をすりかえたが、そうではない。最初これが大問題になったのは、あくまで「強制連行」による「性の奴隷」だったからである。そういう罪状で「日本」を告発しておきながら、「強制連行の立証」が不可能だとみるや「強制性」があれば同じことだというのも卑怯な態度である。
 国内ではもうとっくに決着した問題だが、朝日は未だに頬かむりをしたままである。なお、この1〜2年前ぐらいからと思われるが、朝日はそれまで使っていた「従軍慰安婦」という呼称を単なる「慰安婦」に変更している。


●1993.11.15 鳥取の上淀廃寺の瓦で自作自演

 「鳥取の上淀廃寺 法隆寺と同時期創建?」との記事を掲載。根拠となる瓦は地元の郷土史家が発見したのに、米子支局の朝日新聞記者が自分が発見したかのように演技。町教委の関係者と現場に行き、自分がこの瓦を初めて見つけたことにして、瓦を確認させる。また、記事正当化のために引用された山本清・島根大学名誉教授の談話も趣旨歪曲。「自分の思い込みで質問して、こちらの言い分に耳を貸さなかった。談話の趣旨は、私の話と全くかけ離れている」と教授は語った。記者は停職20日の処分を受けた。


●1995.03.31 石原信雄氏の祝儀袋を捏造

 東京都知事選に立候補していた石原信雄前官房副長官に、栃木県庁幹部や市町村がせんべつを贈り、その後、石原氏側が返還を申し出た問題で、朝日新聞が29日の栃木面に記事とともに掲載した「御餞別栃木県一同」と書かれた祝儀袋の写真が、同社宇都宮支局による自作だったことが判明。県の抗議に対し同支局は「パロディーで掲載した」と開き直っていたが、朝日新聞は31日におわび記事掲載。


●2002.06.05 中田ヒデ日本代表引退を捏造

 W杯日本初戦の翌日、「ヒデ『最後のW杯』」との見出しで中田選手の引退を一面に掲載。中田選手は翌日の記者会見で「憶測やうその記事が出ることは残念なことです」と朝日新聞の捏造記事に不快感を表す。朝日は98/1/4にも、インタビューを歪曲し、中田選手を反「君が代」の戦士にしたてあげた記事を掲載していた。


●2003.05.14 北朝鮮に残る曽我ひとみさんの家族の住所を報道

 北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさんが、北朝鮮に残した家族からの手紙の差出人住所などを朝日新聞が5/13夕刊、Asahi.comで報じたことに対し、内閣府の拉致被害者支援室を通じ、朝日新聞社長あてに謝罪を求める抗議文を提出。曽我さんは抗議文で「朝日新聞記者は真野町の支援室でファイルを盗み見て、私にも支援室にも一切了解を取らないまま住所などを掲載しました。朝日新聞社は一体何の権限があって、私の家族の住所を無断で公開できるのですか」と怒りを表明。


●2004.08.11 サマワの自衛隊宿営地内に迫撃砲弾が撃ち込まれたと捏造

 防衛庁は、朝日新聞がイラク南部サマワの陸上自衛隊宿営地内に迫撃砲弾が撃ち込まれたと報じた記事について、「全く事実でない」として朝日新聞社に抗議。防衛庁は記者ブリーフィングで「宿営地の外側で弾着痕を3カ所発見した」と伝え、朝日記者も出席していたにもかかわらず、朝日新聞は宿営地内着弾として夕刊一面に掲載。
 防衛庁は8/10にも、安全を期すために秘密扱いを要請していた、サマワから邦人記者らを航空自衛隊のC130輸送機で輸送する「行動予定」を、朝日新聞が4/15に報じたことでも抗議していた。


●2005.1.12- 政治家がNHKに圧力をかけて番組内容を変えさせたと報道

 1/12、安倍晋三・中川昭一両議員が従軍慰安婦を題材にしたNHKの番組に対して圧力をかけたと報道。安倍氏、中川氏、取材を受けた松尾元NHK放送総局長が揃って記事内容を否定。本人たちの証言から、本田雅和朝日新聞社会部記者が意図的、誘導的な取材をしていたことが明らかになった。
 7/25、朝日は総括記事を掲載。安倍氏、中川氏がNHK番組に対して圧力をかけたかどうかという問題の核心について、「直接裏付ける新たな文書や証言は得られておらず、真相がどうだったのか、十分に迫り切れていません」と、記事に明確な根拠がなかったことを認めた。にもかかわらず、「再取材で、記事の描いた『政治家の圧力による番組改変』という構図がより明確になった」とし、「記事を訂正する必要はない」と強弁。
 9/30、朝日は最終的な総括をした。記事の根拠は示さず、訂正も行わず、録音テープの有無も明らかにせず、社内資料流出(朝日が取材をした資料を入手したとする記事が月刊「現代」05/9月号に掲載された)の経緯も明らかにできなかったが、「社外の識者」により構成された「『NHK報道』委員会」による朝日を擁護する報告を盾に、記者会見で秋山社長が「これで幕引きにしたい」と一方的に宣言。
 主要紙が「事実解明なしで新聞社ですか」(毎日)、「裏付けのない報道は訂正が筋だ」(読売)、「幕引きにならぬ朝日の説明」(日経)、「なぜ潔く訂正できないか」(産経)と社説で一斉に反発した。


●2005.08.23 田中知事の会談を捏造

 田中康夫長野県知事が長野県庁で開いた記者会見で、朝日新聞に対して不快感を表明。朝日は、8/21付と22付の紙面で、亀井静香氏と「長野県内で会談」したと報じた。知事は亀井氏と長野県内で会談したとの報道について「このような事実は一切ございません。事実が作られていくことに大変な戸惑いを覚えております」と指摘。また8/24、民主党の小沢氏も、テレ朝「報道ステーション」において、朝日新聞の民主党に関する記事を「あれは、かなりの部分で創作です」とコメント。
 9/8、記者会見を拒否していた秋山社長が、社内外の批判を受けてやっと会見を実施。「『解体的出直し』に不退転の決意で臨む」と宣言。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid170.html#sequel


【華麗なる朝日新聞記者たち】

忠鉢信一・・・「中田選手引退」という記事を書くも、事実無根ということが発覚。その後、「記事内容と異なる結果になったことをお詫びします」というわけのわからないお詫び記事を掲載して逃亡。
http://www.asahicom.com/soccer/

本田雅和・・・「NHK番組改変問題」をぶちあげるも、記事内容に多数の誤りがあることが発覚。同業者からも総攻撃を食らうも「本質を見誤るな」と論点をずらして逃亡。本田は左遷となる。

本田嘉郎・・・有名なサンゴ事件の当事者。当初は「元々存在した文字をなぞっただけ」と言い訳をするが、地元ダイバーの努力によりそんな文字はなかったことが発覚。逃げ場を失い、渋々謝罪。関係者は処分される。

担当記者不明・・・吉田清治という男を担ぎ上げ、従軍慰安婦問題に火をつける。その後、この男の話は作り話であったことが発覚するが、今日まで朝日新聞において謝罪・訂正記事は皆無。朝日新聞広報部に対するmumurの取材においても「吉田の話は根拠が薄かった」と認めるも、具体的な動きは無し。言ったら言いっぱなし。嘘がばれたら放置。

清水建宇・・・「政治的影響力が大きいので皇族は黙れ」とぶち上げた人。しかし、その後朝日新聞社は富田メモで「天皇も反対してるんだからやめろ」と恥ずかしげもなくダブルスタンダードを主張。

http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50651014.html
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by thinkpod | 2006-10-15 01:11 | メディア
2006年 10月 11日

三国人の不法行為

「韓国のイメージ」鄭大均 1995年 中公新書
連合国総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー(朝鮮史)は、『日本における朝鮮少数民族』(原著1951年)という論文で次のように記している。

『戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために日本の重要産業たる石炭産業の再建は損害をこうむった。 経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。
1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引き上げについては占領当局が決定した政策を日本政府の手で実地しようとするのを妨害した。/たとえこのような事件(朝鮮人の犯罪)で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた影響は依然として甚大なるものがある。朝鮮人の略奪行為が、大部分、下層民の日常生活にとってきわめて重要な地域において行われたということもあった。 さらに朝鮮人は日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病も持ち込んだという事情もあって、この不安を強める実例を提供した。朝鮮人は悪者だという心理が時の流れとともに日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由はなにもないのである。』

三国人の不法行為
http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm



北斗星 さん 2000年 07月 10日 01時 05分 44秒

URL:http://

   第三國人の暴行

 表題の件に付ては既に一通り書き終えた心算であったが、本日郷土、城東葛飾に赴いたところ、偶々老人達が本件を論じてゐた 中にも地方議員たる七十翁の回顧は愚生の筆より数段迫力有りし故、帰宅早々記憶により再現し、此処に記して御歴々の御参考に資せむとするものである

                        録取者 北斗星

             −−−−−−−−−−

 終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた

 銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷は臺湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いてゐた 戦勝國民は治外法権だったのである

 だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、其処へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。日本人は買へなかったが。

 斯うした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商賣を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(流石に銃撃戦は挑まなかった模様)

 當時は物不足で、賣る方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから 其で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い

 警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった

(録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚擧に暇有りませんでした)

 東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根−中川、江戸川、利根川流域の牛は皆ゐなくなった

 當時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ牽いて行って屠殺した 牛はモウと言って泣いたので皆氣付いたが、銃砲刀剣で武装してゐるので追ふ訳には行かなかった 永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出來なかった

 斯うして利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、闇市で賣られた この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ 上流で屠殺した牛を、其儘下流へ賣りに來たのだらう

 斯くて南關東から、牛はゐなくなった

 家畜相手ならまだしも、人間に對しても、關東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた 川崎、濱松、大阪、神戸などが酷かった

 其最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に對する集團暴行・傷害事件がある

 翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鐵道員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、此車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立てた

 其で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面 挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した

 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に不出來な孫にせよ 孫共は此を知らんのだらう

 直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯 況や庶民に於てをや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊には、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ

 其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察如きに何が出來よう 或日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、其切り警察は消滅する 七百萬の大軍を擁した彼の帝國陸海軍ですら、左様にして両總長 両大臣以下、自然廃官になった まこと、敗戦はかなしからずや

 堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發した

 最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った

 其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く鎮圧した 我々は其火器の煌めきを間近に見た

 此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」

と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである

 だから、外國人差別用語な筈は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか

 聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ 外交センスの要る役職であった 何

人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い

 「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない

 近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう 知合ひの報道人幾人かに電話して、テレヴィにでも新聞にでも出て歴史の眞實を話して進ぜやう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった 眞面 目に報道する氣は無いのかの

 貴公、パソコン通信を遣ってなさるさうぢゃが、インターネットとやらは随分と情報を發信出來て、幾百萬の人が見ると聞く 一つ満天下の正義の為に、今の話を發信して下さらんか

http://nipponkaigi.net/iknlg1.htm
http://www.melma.com/backnumber_256_1360500/
http://tech.heteml.jp/2006/11/post_836.html



「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」4-7942-1356-5
P197-198
 朝鮮在住の日本人も朝鮮人も、終戦によってその生活を大きく変えた。内地人は身辺の一切を失って、焦土となった祖国に帰らねばならなかった。多くは徒手空拳、裸一貫となって、荒廃した郷土に新しく生きる途を模索しなければならなかった。そこには戦災者や復員兵士上がりがあふれ、引揚者の努力は容易に報われなかった。
 「朝鮮」はわが人生にさほどの重大事ではなくなった。
 その後「警察」在職中にその「朝鮮」と多少の関係を持ったのは、たったの二回だけである。最初は、昭和22年3月、鹿児島県警から大阪府警察部刑事課長に転任した後のことであった。当時の大阪は殺人や強盗の凶悪犯罪が多発し、日本全国で最も治安が悪いとされていた。
 その原因の一つが、朝鮮人や台湾人の在住者が多く、その中に自分たちは日本人ではなくなったのであるから、敗戦国日本の法令に従う義務はないとして、不法行為をなす者が輩出し、治安を乱したというのである。彼らは、自分たちは戦勝国に準ずる国の国民であると主張する。これは以前の日本社会が彼らを差別、冷遇したことに対する反動的な腹いせの気持ちからでもあった。
 占領軍政当局は、この考え方には同調せず、彼らを「第三国人」と呼ぶことにして、その特権的な立場は認められなかった。この「第三国人」たちの不法、不当の跳梁が著しく治安を紊乱した。このことは治安維持の担当者としては忘れられない「朝鮮」であった。


内容(「BOOK」データベースより)
昭和11年、京城帝国大学卒業後、有資格者となって朝鮮総督府に就職、対ソ防諜工作の最前線に立った元警察官僚が、終戦にいたる14年余の朝鮮体験を回想した貴重な手記である。対ソ戦略の要路たる朝鮮半島において、ソ連はいかなる諜報工作を展開し、日本はこれにいかに対処したのか、本書では、戦前・戦中にわたって繰りひろげられたこの「見えざる戦い」の実態が生々しく語られるとともに、敗戦によって終焉した日本の朝鮮統治の実相が冷静な視点をもって描きだされている。日朝・日韓関係の誤解を正す歴史的証言というべき1冊。

内容(「MARC」データベースより)
朝鮮総督府に就職、対ソ防諜工作の最前線に立った元警察官僚が、終戦にいたる14年余の朝鮮体験を回想した貴重な手記。日朝・日韓関係の誤解を正す歴史的証言。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
坪井 幸生
大正2年、大分県生まれ。昭和6年、勉学の地を求めて朝鮮へ。11年、京城帝国大学法文学部法科卒業。同年、高等文官試験行政科に合格。翌12年、高等官見習の行政官として朝鮮総督府に就職。警察部警務局、農林局農村振興課勤務、警察官講習所教授(高等官)を経て、14年5月より咸鏡北道警察部外事警察課長(総督府道警視)、15年7月から警務局保安課勤務(総督府事務官)。20年6月より忠清北道警察部長となるも、2カ月後にソ連侵攻・終戦を迎える。敗戦後の処理に尽力し、11月に引揚げ。21年鹿児島県警視、22年大阪府警視。その後主として警察庁鑑識課長、埼玉、山口の各県警察本部長、四国管区警察局長等のポストを歴任し、九州管区警察局長を最後に39年3月に国家公務員を退官。同年4月に大分県副知事に選任、1期4年ののちに退官

荒木 信子
昭和38年、横浜生まれ。横浜市立大学文理学部国際関係課程卒業。筑波大学大学院地域研究研究科東アジアコース修了。平成2~3年、韓国ソウル大学留学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794213565




北朝鮮帰還事業の爪痕

(前編)
日朝間の問題は“拉致”だけではない
脱北帰国者は
我々の行動を待っている
対談 坂中英徳 田 月 仙

(後編)
旧ソ連極秘文書から読み解く、「北」のシナリオと工作
──金日成は帰国運動をどう利用したか
菊池嘉晃 / 『読売ウイークリー』記者

 終戦直後の帰還と在日社会

 ところで、在日コリアンの朝鮮半島への帰還は、帰還事業が最初ではない。
最初で最大の波は、終戦直後にあった。この時の状況について触れておこう。
 戦前、日本の植民地支配下の朝鮮から、生活の道を求めて、あるいは戦時中の労働動員などで渡日した在日コリアンは、45年8月の終戦時、約200万人を数えた。
その後、50年前半までに約141万人が朝鮮南部(48年8月から大韓民国)に帰国。
北部(同9月から朝鮮民主主義人民共和国)には47年に351人が帰国した。
 南への帰国者が圧倒的多数だったのは、在日の95%以上が南の出身だからだ。
また、北への帰国は北の出身者に限られており、南出身者が多数だった、のちの帰還事業とは異なっていた。

------------------------------------------------------------------
きくちよしあき 1965年生まれ。87年に読売新聞社入社。社会部、地方部などを経て、
週刊誌『読売ウイークリー』担当。北朝鮮・韓国関連などの取材を続ける。94-95年
には韓国・成均館大学大学院に留学、2000年にまとめた北朝鮮帰還事業に関する
論文(韓国語)で修士号。

『中央公論』 2006年11月号
http://www.chuko.co.jp/koron/



233 名前: マンセー名無しさん 投稿日: 2006/10/09(月) 23:59:22 ID: c5zdXq4F
坂中英徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E5%BE%B3

ここには書いてないけど、中央公論11月号で本人が語っているけど、
在日コリアンへの特別永住権付与を提唱したのはこいつなんだってね。
北朝鮮が崩壊したら、元在日とその家族ら20万人が日本を目指すが、
その受け入れを提唱している。
他の論文で別の人が書いているけど、終戦直後200万人いた在日コリアンの
95%は韓国地域出身で、その大部分は韓国に帰り、北朝鮮に帰ったのは
わずか数百人。
これまで、現在の在日の大半が韓国地域出身で、北朝鮮帰還運動の時に
北に渡ったの人々でさえ、その多くは実は韓国地域出身だということは知られていたが、
それだけでなく、終戦直後の在日の大半も韓国地域出身だったわけだ。
となると、官斡旋とかも含めて、朝鮮人強制連行説は完全に破綻してるじゃないか。
もし、強制連行だったのなら、終戦直後200万人の朝鮮人の構成は、
北朝鮮と南朝鮮の人口比率を反映しているはずだ。
朝鮮人が流入してきたのは、資源が豊富なゆえに日本の投資が集まった北朝鮮地域より
相対的に貧しかった南朝鮮からの自由意志によるものという説を裏付けるものだ。


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YouTube - 第三国人の商法
http://www.youtube.com/watch?v=7DzcVNJ9YuA

「三国人」は本当に差別語なのか

『第三国人の商法 -日本人禁制の秘密を明かす-』 おぉ、すごいタイトルの本があったものだと、このページをここまで読んでこられた方は思うだろう。「戦後焼け野原となった土地を不法占拠して、日本人の弱みにつけこみ闇市でボロ儲けした経緯が、白日の下に晒されているのか」とお思いだろう。しかし内容は、在日の成功商売であるパチンコ店、焼肉屋などの経営ノウハウを紹介したもので、闇市の話などは一切出てこない。この在日韓国人の著者にとって「三国人」という言葉は、成功者というイメージのある言葉で、蔑称であるとの認識はいささかも感じていないようだ。この本が書かれた時代は差別語ではなかったのである。
「第三国人の商法 -日本人禁制の秘密を明かす-」 林浩奎(イムホーギュ) 昭和48年(1973) KKベストセラーズ(ワニの本)
(著者の定義する第三国人、まえがきから)
第三国人とは、すなわち "祖国を離れ、常に祖国の発展と近い将来の帰国を夢みながら、異国の厳しい環境の中で、激しいビジネス競争に身を置き、力強く生活を営んでいる" 民族の集団である。だから日本人のいう第三国人とは、日本で戦前戦後を通じて生活している在日韓国人、在日台湾、中国人などを総称していう言葉である。彼らの大多数は第二次世界大戦前後の世界の混乱した状況の中において、日本での成功を夢みて海を渡ってきた人たちである。

〔裏表紙の著者自身の広告から (著者は1943年大阪生まれの在日韓国人経営評論家)〕
本書は、過去数十年間、私の仲間達で公開することが禁じられていた現金商売の実践体験学である。それだけに私は、本書の刊行を何度もためらった。しかし、あまりにもニッポンのサラリーマン諸氏が、われわれの一世や二世の商法を知りたがっているので、仲間から恨まれることは覚悟して、あえて公開に踏み切った。本書には、第三国人と称せられている人物が、異国という悪条件の下で、ハダカ一貫から日本の夜の街を支配するまでに至った、数々の教訓がつまっている。この彼らも十年前までは、あなたと同じスタートラインに並んでいたのだ。躊躇することなく一気に読破してみよ。必ず、随所に彼らの商法の真髄を読み取ることができるはずだ。この本を手にとったあなたはすでに大富豪へのパスポートを99パーセントとったも同然、あとの1パーセントはあなた自身の"決断"にかかっているのだ。

http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm#sabetsugo



戦後、在日韓国・朝鮮人は何をし、何と言ったか

 「現代コリア」5月号に「『三国人』は本当に差別語か」と言う記事があり、戦後、在日韓国・朝鮮人が日本で何をし、何と言ったかが報じられていました。日本人として忘れてはならないことだと思いますので、要旨をご紹介いたします。

・・(前略)・・
 「三国人」なる言葉は第二次世界大戦終了後、連合国が1945年10月31日「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」により、朝鮮はそのいずれにも該当しないことから「第三国」(The
Third Nations)と呼んだ。
・・(中略)・・
 なぜ日本人が、「第三国人」と言う言葉に蔑視、畏怖、時には「敵意」を込めて使ったのかである。それは敗戦直後の在日韓国・朝鮮人の日本での言動と重大な関係があるからだ。

 現在の総聯の前身団体である「在日朝鮮人連盟」指導部は1946年初頭と推定されるが「われわれは今まで、搾取と奴隷的な差別待遇を受けた。日本の敗戦で開放された現在、われわれは連合国人であるから、敗戦国日本の法令に従う義務はない」「われわれは二等国民で、日本国民は四等国民となった。したがってわれわれは日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆる方法で日本人に知らせなければならない」「戦争中われわれを虐待した日本人は、戦犯として制裁を加えなければならない」(坪井汕二『在日朝鮮人運動の概況』)と在日朝鮮人を「連合国人」と勝手に位置づけ、日本の法令に従う必要のないことを公然と主張し、その通り実行した。

 1945年9月10日に結成された在日朝鮮人連盟(以下「朝連」と略す)中央準備会は、すぐ「帰国同胞援助」活動に入り、朝連が韓国などに帰国する在日朝鮮人に「帰国証明」を発行、列車・バスの無賃乗車、時には客車の中に「朝鮮人専用」と書き、日本人を乗車させないこともあった。駅長を脅かし、発車した列車を呼び戻したりもした。
・・(中略)・・
 引きつづき、GHQ(連合国総司令部)は同年9月30日「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝連が「地外法権的地位にないこと」を明らかにした。この覚書を見れば分かるように、朝連は、これまで「治外法権」を持っていたのである。
 当時、各地の朝連は、保安隊、自衛隊、警備隊、自治隊などを作り、独自の警察権力類似行為を行っていたりもしていた。
 また、「朝連」の名によって、集団強盗、略奪、殴打暴行、破壊、占拠監禁、人民裁判などが行われた。
・・(中略)・・

 当時日本を占領していたGHQは、200万人の在日朝鮮人を日本から朝鮮本国に帰国させることを基本方針としていた。ところが韓国に帰国してみたが、政治・経済ともに不安・混乱を極め、生活不安などが重なり、その上コレラなども流行して、帰国者は事実上ストップした。日本にいれば「連合国人」「解放国民」としての「自由」があった。いったん帰国した人達が日本に逆流しだした。
 1947年5月2日GHQの命令で「外国人登録令」が在日韓国・朝鮮人などに施行されたのは、日本への密入国、米などの不正受給防止の二つの目的があったのである。
 ・・(中略)・・

 このような具体的な在日韓国・朝鮮人と日本人の社会関係の中で、日本人が「三国人」なる言葉に特別な意味を込めて使用するようになったのである。公然と社会秩序を乱し何事も暴力で解決しようとする在日韓国・朝鮮人の言動に、日本人が、「三国人」は恐いと考えることが「民族差別」というのだろうか。
・・(以下略)・・

http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D35.htm
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by thinkpod | 2006-10-11 14:42
2006年 10月 08日

人物探訪: 徳富蘇峰 〜 文章報国70余年

近代日本最大のオピニオン・リーダーは、なぜ忘れ去られたのか。


■1.忘れ去られた我が国最大のオピニオン・リーダー■

 明治・大正期のベストセラー作家と言えば、まずは夏目漱石
が挙げられよう。明治38(1905)年に出版された『我が輩は猫
である』は、大正6(1917)年の大蔵書店版で1万1500部も
売れている。

 しかし、同時期に出版されて約100万部も売れた本がある。
徳富蘇峰(そほう)の『大正の青年と帝国の前途』である。蘇
峰は500点を数える著書があるが、そのほとんどが当時のベ
ストセラーか、グッドセラーとなった。

 蘇峰が明治20年、25歳にして発行した雑誌『国民之友』
は、創刊号からたちまち売り切れ、再刊、三刊と重ねて1万部
を超えた。普通の雑誌の発行部数がせいぜい千部以下の頃であ
る。明治23年に念願の日刊紙『国民新聞』を創刊すると、た
ちまち当時の5大新聞の一つになる勢いを示した。

 大正7(1918)年、55歳にして執筆を始めた『近世日本国民
史』は、昭和27(1951)年までの実に34年間、88歳まで書
き続け、100巻を数えた。10巻まで出たところで帝国学士
院から恩賜賞を授与され、国史学界の大御所・黒板勝美博士か
ら「国史学界における画期的一大事業」と賞賛された。個人著
述の史書としては質量ともに世界有数のものとされている。

 徳富蘇峰は、明治初期から昭和前期までの期間において、我
が国の最大のオピニオン・リーダーであった。これだけの人物
が現在、ほとんど忘れ去られているのは、どうしたわけだろう。

■2.「言論によって国民同胞を導きたい」■

 蘇峰の名が世に知られたのは、明治19(1886)年、23歳に
して『将来の日本』を自費出版した時だった。東京英語学校
(第一高等学校の前身)に入学したり、同志社英学校に学び、
また父親の関係から勝海舟との知遇も得ていたので、官僚や学
者となって立身出世の道に進むことは容易だったはずだ。

 しかし蘇峰の志は新聞記者となり、自らの言論によって国民
同胞を導きたい、という事だった。英国の「タイムズ」を理想
としたのだろう。しかし日本で本格的に新聞の発行が始まった
のは明治5(1872)年だから、まだ十数年ほどの歴史しかない。
新聞記者の社会的地位など日本ではほとんど認められていなかっ
た頃である。

『将来の日本』の根底には、欧米列強のアジア侵略への危機感
があった。「今日に於いて東洋諸国が欧州より呑滅せらるる所
以(ゆえん)のものは他なし、唯(ただ)我は貧にして野蛮な
る国にして、彼は富んで文明なる国なるが故なることを」

 列強が誇る軍備は、彼らの「富と智力」の結果である。旧来
の少数独裁の軍事型国家では対抗できない。広く産業を起こし、
平民が中心の政治、すなわち今日流に言えば民主主義社会によっ
て独立を保つことが「将来の日本」の姿である、と蘇峰は主張
した。英国をモデルとした近代化を目指したのである。

 この主張は世間の注目を集め、蘇峰の名は一躍世に知られる
ようになった。

■3.「国民的驕傲を否定す」■

 翌明治20(1887)年、蘇峰は月刊誌『国民の友』を創刊した。
タイトルは同志社時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネー
ション』から取ったという。

 明治23(1890)年には、いよいよ本来の志であった『国民新
聞』の発行を開始した。この時、蘇峰はまだ27歳の青年であっ
たが、ジャーナリズムの世界ではすでに無視できない存在になっ
ていた。

 明治27(1894)年7月に始まった日清戦争において、極東の
小国日本が清国に勝利すると、蘇峰はこう論じた。「吾人は清
国に勝つと同時に、世界にも打ち勝てり。吾人は知られたり。
ゆえに敬せられたり、ゆえに畏(おそ)れられたり、ゆえに適
当の待遇を受けんとしつつあるなり」

 西洋列強が跋扈する当時の国際社会において、日本が「眠れ
る獅子」と恐れられていた清国を打ち破ることによって、国際
的な認知を受けた事の喜びが弾んでいる。

 しかし、それは夜郎自大の腕力自慢ではならなかった。「孤
立を否定す、排斥を否定す。国民的驕傲(きょうごう、おごり
たかぶること)を否定す。満足を否定す」(『国民新聞』明治
27年11月7日)として、「世界の文明」と協調した謙虚な
姿勢こそ、大国民への道だと主張した。

■4.「速やかに日英同盟を組織せよ」■

 ロシア・ドイツ・フランスからの三国干渉に屈服して、清国
から割譲された遼東半島を返還する、という報に接したのは、
蘇峰がちょうど現地を視察中の時だった。そして日本軍が占領
していた旅順口の小石をハンカチに包んで持ち帰ったという。

 蘇峰は「戦争によりて一夜のうちに巨人となりし国民は、平
和談判のために、一夜に侏儒(しゅじゅ、こびと)となれり」
(「日本国民の活眼目」、『国民の友』第263号)と描写し
た。弱肉強食の国際社会の中で、日本はまだまだ非力であるこ
とを思い知らされたのである。

 三国干渉から1年後、蘇峰は1年余の欧米歴訪の旅に出る。
欧州に向かう船中で「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説
を『国民の友』に掲載し、ロンドンでは英国の新聞界とさかん
に接触して、根回しを行った。日英同盟が締結されたのは、こ
れから6年後のことである。

 モスクワではトルストイを訪問し、この世界的文豪が「人道
と愛国心は背反する」と述べたことに対して、反論した。蘇峰
は日本が国際社会において「相当の位地」を占め、列国と対等
の立場に立つことが大事だとする。日本国民として、国家を通
じて世界に寄与するのが自分の本願であり、ロシアのようにみ
だりに他国を侵略する国の国民であるトルストイとは、意見が
異なるのは当然だと考えた。

■5.「引き際が大切なのである」■

 三国干渉とロシアの満洲侵攻から、蘇峰は日露の衝突に備え
て海軍を強くする必要があり、そのために増税政策を掲げた松
方・大隈内閣を支援して、勅任参事官にまでなった。不人気な
政策を説く上に、新聞人が内閣に加わるとは何事ぞという反感
から、『国民新聞』はあっという間に発行部数が6分の一に落
ちてしまい、新聞社は破産の危機に見舞われた。

 しかし、蘇峰はこの苦境にもめげずに、艦隊増強案を持つ政
府を支持し続けた。日露戦争が始まるや、蘇峰の主張が正しい
ことが明らかになり、購読者数は飛躍的に増大した。

 しかし、戦勝後の講和条件には賠償金もなく、領土割譲も樺
太の南半分だけという事に、国民は激高した[a]。蘇峰はこう
反論した。

 講和条件が日本国民の理想でないにせよ、しかし宣戦布
告の趣旨はすべて達成されているのである。樺太全部と沿
海州を取り、バイカル湖を国境として、更に30億以上の
償金までもらおうなどというのは、勝利にのぼせ上がった
空想であり、そういう理想が実現されないからとてすぐに
講和条約を呪うなどと言うのは正気のさたではない。図に
乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけ
ない。引き際が大切なのである。[1,p232]

 講和に賛成したのは、4千万人の日本人中ただ16人、内閣
・元老・全権委員の15人と徳富蘇峰ぐらいだと、他の新聞は
書き立てた。東京朝日など各紙は一斉に蘇峰と『国民新聞』を
売国奴と罵り、暴徒が国民新聞社に押しかけて焼き討ちを図っ
た。社員は二日間も棒や日本刀で防戦に務めた後、ようやく軍
隊が出動して囲みが解かれた。しかし、新聞の購読者数は市内
で十数分の一まで激減したと言われ、その回復に数年を要した。

 蘇峰は国民の受けなどを意に介さずに、常に自ら正しいと考
える所を主張して止まなかった。

■6.日米の親交が世界平和の「中枢」■

 第一次大戦の後、急速に大国として浮上したのは、アメリカ
と日本だった。そのアメリカは、ハワイ併合、フィリピン領有
と太平洋に進出し、日本も朝鮮、満洲に勢力を広げたので、両
国の衝突は不可避の様相を呈していた。

 日米の確執は、明治39(1906)年サンフランシスコにおける
日本人学童隔離事件に始まり、日系移民の土地所有を禁止する
排日土地法を経て、大正13(1924)年の排日移民法によって決
定的となった。

 排日土地法は、ヨーロッパ移民には認められていた帰化と土
地所有を、日系移民には認めない、としたものだった。「世界
の一等国」となったと自負していた日本国民は、面目をつぶさ
れた。

『国民新聞』は、当初、日米の親交が世界平和の「中枢」であ
ると述べて反米ムードを抑える論調だったが、排日土地法の成
立に至って、蘇峰は、大和民族が人種と宗教による差別を甘受
している事実を直視し、自恃(じじ、自分自身を頼みとするこ
と)の精神を持てと論じた。

 それでも日米戦争不可避の世評を否定して、日米は経済的に
は「共存共栄」だと強調し、「日米戦争」の音楽にみずから踊
り出す愚を犯してはならない、と戒めた。

 蘇峰がもっとも困難な敵と見なしていたのはソ連だった。日
中戦争の真の敵も中国自体でなく、その背後にいるソ連である
と考えた。この見方が正しかったことは、その後の歴史研究が
明らかにしている。[b]

■7.「百敗院泡沫頑蘇居士」■

 大東亜戦争が始まると、蘇峰は大日本言報国会の会長に就任
して、『興亜の大義』『必勝国民読本』など、戦意高揚を意図
した書物を次々に出版した。戦いが始まってしまったからには、
勝つために全力を尽くす、というのが、蘇峰の「言論報国」の
姿勢だったのだろう。

 昭和20(1945)年8月15日に敗戦を迎えると、82歳の蘇
峰は一切の公職から退き、自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」との戒
名を名乗った。「百敗」して、興国の夢が「泡沫」に帰した、
という無念の思いが込められている。

 しかし「頑蘇」すなわち頑固な蘇峰は健在である。東京裁判
弁護団に依頼されて執筆した宣誓供述書は『宣戦の大詔に偽り
なし』との題名をつけた。

 戦争は日本が望んだものではなく、強いられたものだった。
米国は日露戦争後、「賭け馬」を日本から中国に変えた。そし
て日本に対しては、移民問題、パリ講和会議、ワシントン会議
など、事あるごとに力づくの「懲戒」じみた行動をとった。追
いつめられた日本は「乾坤一擲(けんこんいってき)の策」に
出た。隠忍しなければならないところで我慢できず、相手の
「策謀」に乗って敗れたのは日本の「自業自得」だ、と言う。

 蘇峰は8月15日の玉音放送のとき、徳川家康に思いをいた
したという。家康は小藩の領主として、強大な信長に隠忍自重
しつつ、攻守同盟を結び、ついに天下を手に入れた。「家康を
して今日に在らしめたならば、彼はあらゆる苦情、あらゆる反
対に眼を瞑(つぶ)って、米国と攻守同盟を締結したであろう」
(『勝利者の悲哀』)と述べた。

 そのような偉大な政治家を持ち得なかった日本の敗戦は、ま
さに「自業自得」だった。この言葉には自らの言論で、この
「自業自得」を避け得なかった無念の気持ちも籠もっていよう。

■8.米国の引いた貧乏くじ■

 一方、勝った米国は、東欧から中国までを勢力圏とするソ連
との冷戦に陥り、「世界中の心配を一手に引き受けねばならぬ
ような貧乏籤(くじ)」を引いた。

 日露戦争後に、「もし米国が日本に手を差し出し、日本がそ
の手を握って」いたら、日本は東アジアで一流国として安定し、
米国もそんな「貧乏くじ」を引かずに「商売繁盛」していたろ
う、と推測する。

 米国が「貧乏籤」を引いた原因は、日本をここまでに追いつ
めた自身のアジア政策の失敗にある。

 今後、占領下の日本を第二のハワイのような属国にするこ
とは、日本人の反発を招き、共産陣営に追いやる道につながる。
一君万民の日本的民主主義の発展を支援し、日米提携の道をと
るべきだ、と主張した。

 この見方は、米軍の高官や共和党の政治家にも共有化されて
いたもので[c]、冷戦下において米国の対日政策はこの日米同
盟路線に転換された。

■9.70余年に及ぶ「言論報国」の人生■

 蘇峰は、昭和31(1956)年6月まで最後の著書となる『三大
人物史』を書き続け、翌年94歳にして、明治19(1886)年以
降、70余年に及ぶ「言論報国」の人生を閉じた。

 戦後、蘇峰は「平民主義者から国家主義者に変節した」とか、
「戦時中に時局便乗のお先棒担ぎをした」などと罵倒され、や
がて黙殺と忘却のうちに葬り去られた。

 戦後のこうした罵倒は、ちょうど日露戦後の講和賛成を各紙
がこぞって「売国奴」と非難したのと同じようなもので、蘇峰
の思想が間違っている事を立証するものではない。その時代の
迷妄が解ければ、どちらが正しいかは自ずから明らかになって
くる。

 今頃、蘇峰は草場の陰で、かねてから主張していた「日米同
盟」「日米の共存共栄」が現実のものとなっている事を喜んで
いるであろう。いかに罵倒されようと、忘れ去られようと、蘇
峰にとってはどうでも良いことであったろう。その志はあくま
でも「日本が強くなることはとりもなおさず日本国民の幸福」
[1,p237]という所にあったからだ。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(365) ポーツマス講和会議
 国民の怒りを買うことを覚悟して、小村寿太郎は日露講和会
議に向かった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog365.html
b. JOG(446) スターリンと毛沢東が仕組んだ日中戦争
 スターリンはソ連防衛のために、毛沢東は政権奪取のために、
蒋介石と日本軍が戦うよう仕組んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog446.html
c. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog096.html

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(まぐまぐ版では、httpのあとに「:」を補ってください)

1. 渡部昇一『腐敗の時代』★★★、文藝春秋、S50
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569565107/japanontheg01-22%22
2. 米原謙『徳富蘇峰—日本ナショナリズムの軌跡』★★
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by thinkpod | 2006-10-08 19:17 | メディア