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2006年 08月 31日

中国経済・社会の実像と虚像

              杉本信行

(前日本国際問題研究所主任研究員・前上海総領事)

1. 変化と不変化

 (1)  ここ数年来、上海を訪問する外国人は、異口同音に上海の急
激な変化に驚嘆の声をあげる。東京には20階建て以上の高層建築が1
00棟位しかないが、上海には既に4,000棟近く建っていると言わ
れている。しかもここ5年の間にである。

 (2)  しかし、問題はこれら高層ビルが立ち並ぶ表通りを一歩奥に
入った所にある。表通りに聳える巨大な建築群の裏には、延々と昔なが
らのレンガ作りの石庫門が続いている。

これは1920年代に大量に建てられた長屋形式の共同住宅である。こ
こで繰り広げられている生活は、表通りとは全く違う。一昔も二昔も前
の上海と殆ど変わらないものである。

そこに住む人々の服装は、世界の一流都市並みの颯爽とした表通りのそ
れとは全く異なり、多くが未だに30年〜40年前と同じ人民服である。

日々の生活も、およそ近代的生活とは無縁のありさまで、狭く暗く、水
道も共用、トイレも一定の間隔で設置されている公衆便所のみである。
風呂が有る家はまず無い。

朝早く訪れると、朝靄が立つ家の前の側溝で「馬桶」と呼ばれる室内用
便器を洗っている光景が見られる。勿論、最近ではこれらの長屋も至る
ところで取り壊され、跡地に高層マンションが雨後の竹の子のように建
てられている。元の住民は郊外の高層アパートに「強制移住」させられ
ている。

 (3)  この表通りの東京も顔負けの超近代的一面と、裏通りに存在
する夥しく非近代的な面の同居は、中国全体の縮図である。上海中心部
から1時間程車を走らせると、そこには都市と全く違う農村の生活が繰
り広げられている。

何とか電気は来ているが、それを除くと19世紀の生活とそんなに差が
ないといっても過言ではなかろう。中国の統計では、1人当たりのGDPは
1,300ドル程度である。

しかし、内陸部の最も貧しい貧困地帯に住む人々の実際の生活は、1人
当たりのGDPが示す数字とは全くかけ離れた生活、およそ貨幣経済とは無
縁に近い原始的な暮らしである。

 (4)  中国が実体より遥かに強大で強力に見えてしまうのは、我々
の尺度をそのまま中国に当て嵌めてしまうからではなかろうか。中国の
大都市の急成長振りを目の当たりにし、中国全体の発展のレベルを日本
の70年代或いは80年代レベル位ではないかと判断してしまう。

しかし、中国の大都市、地方都市、農村部、砂漠地帯等を夫々実際に観
察すると、日本の現在と同じレベルから、50年代のレベル、更にはパ
ールバックの「大地」の世界が厳然と同居しているのである。

 (5)  敢えて極端なことを言えば、中国で急激に豊かになり、発展
の恩恵を受けているのは、都市部に住む4億6千万の住民のその又一部
に過ぎない。

残りの9億人近くの主に農村部に住む人々の生活の変化は、革命以来遅
々として進んでいない。具体的例をあげると、首都北京から僅か2百数
十kmしか離れていない大同市の周辺の農家(一家4人)の1年間の収
入は僅か2,000円程度しかない。

ピンポン玉ぐらいの大きさのジャガイモを生産し、澱粉を絞った残り滓
を固めて冬用の予備の食糧にしている。主食のトウモロコシも発育が悪
く、日本では家畜も食べないような貧相なものである。大都市の近郊の
農家ですらこの様な状況である。

更に奥地の外国人立ち入り禁止の未開放地域における貧しさは推して知
るべしである。かって広西自治区の貧困地帯に出張した際、そこの郷長
(末端の行政単位の長)に対し、

何が一番苦労かと質問したところ、少数民族の村を戸別訪問して食糧備
蓄の瓶を覗き、食料が少なければ補給して回る。そうしなければ飢え死
にしてしまい、責任を取らせれてしまうので大変だとこぼしていた。

確かに、13億を越える人口を飢え死にさせずに養うことは中国の歴史
でも稀有のことであり、それを実施している中国政府の苦労は我々の想
像を絶するものがある。

2. 地大物博の真実

 (1) 中国人は何かと「中国は『地大物博』ですから」と自慢する。
土地が広大で資源が豊かだという意味である。確かに面積は日本の26
倍ある。 

しかし、国土の58%は海抜1,000メートル以上の山地か高原で、
そのうち3,000メートル以上の山地が26%を占める。平野は12%
に過ぎない。又、国土の20%近くが砂漠である。

チベット自治区や青海省の面積は日本の3・3倍及び2倍であるが、人
口は夫々250万、500万に過ぎず過疎状態である。このように、人
口の大半は僅かな平野部に集中し、超過密状態である。

1人当たりの耕地面積は日本より僅かに上回る程度である。更に、中国
は世界人口の21%を占めているが、資源的に見れば、保有する淡水資
源は全世界の7%、耕地は7%、森林は3%、石油は2%を占めるに過ぎな
い。この数字から見ても、1人当たりに換算すると、基本的資源の極め
て乏しい国であると言える。

 (2)  とりわけ深刻なのが水不足である。毎年発表される政府活動
報告で指摘されているように、水不足は、中国の持続的経済発展にとっ
て最大のボトルネックである。それを数字で表せば次の通り。

  (イ) 1人当たりの水資源量は2,300m3で、世界平均の
1/4

  (ロ) 平均年降雨量は660mm

  (ハ) 耕地の2/3は北部にあるのに対し、降雨の4/5は南部に
集中

  (ニ) 夏の4ヶ月の降雨量が年間降雨量の70%を占め夏季に集中、
冬と春の降雨量が非常に少ない

 (3) この絶対的な水不足に加え、地域的・季節的偏在のため、大
量の水を消費する都市部における水不足は、より深刻である。中国では、
617都市のうち300都市が水不足に悩まされている。

とりわけ北部に有る首都北京及び天津は深刻である。北京市民の平均水
使用量は、イスラエル市民より少ない。

北京では、近郊県の僅か18kmの所まで砂漠が迫って来ている。また、
地下水の水位が下がり続けており、地盤沈下は0・6m,天津市に至って
は2・6mに達している。

この様な首都圏の水不足に対処するため、第10次5ヵ年計画では、揚
子江の水を首都圏に流し込む「南水北調」と言う膨大なプロジェクトが
計画されている。これを早く軌道に載せないと、2008年の北京オリ
ンピック開催も覚束ない。

 (4) 中国では2030年頃には人口が16億人に達すると予測さ
れている。その頃には沿岸部に住む数億人の都市住民の生活は今より遥
かに裕福になっている。

当然今日より頻繁に風呂に入り、水洗便所を使い、多くの食肉を消費す
るようになるであろう。中国の食糧生産は98年、99年2年連続で5
億tを越え、余剰を生じるようになった。

しかし、2003年には生産調整や耕作地の経済開発区における工業用
地への転換により、穀物生産が4億3千万tにまで減少してしまった。
今後予想される人口の圧力に加え、生活の向上により1人当たりの水の消
費量が増加すると、膨大な人口を養うのに必要な穀物生産のため水を確
保することが益々困難となる。

現在、世界穀物市場で取り扱われている総量が2億t余りにしか過ぎな
いことと考え合わせると、中国が食糧問題は、世界の食糧安全保障問題
と切り離しては考えられない深刻な問題であると言えよう。

3. 統計の魔術

 (1) 03年の経済成長率は9・1%と発表された。しかし、各省が
発表した経済成長率は、雲南省を除き全てこれを上回っていた。各省の
発表した数字を単純に足し、全国平均を出すと、15・1%の成長を遂
げたことになる。

中央の統計局が調整を行なった結果が、9・1%であるが、1年後、こ
れが9・3%であったと訂正された。これも、04年の成長との差が大
きすぎると、経済の過熱を抑えるとした中央の政策との整合性が取れな
いので、03年の成長を上方修正したためである。

統計局のさじ加減で、数字が政策的に変更されることが見え見えであっ
た。

 (2)  中国の経済の実態或いは社会の実体を把握しようとする場合
常に「統計」の信憑性に疑念を持っておく必要があろう。04年、中国
のGDPは1兆6千億ドル余りに達した。

しかし、実際はこれより遥かに大きいかもしれない。どの国の経済にも
必ず地下経済が存在する。密輸等の非合法経済。道端で散髪や按摩をよ
く見かけるが、事業そのものは本来合法であっても実際には登録されな
い未登録経済。

農村部で自給自足的に行なわれている統計に計上されない未計上経済等
である。これらに鑑みると、制度の未整備や国土の広大さによる漏れ、
腐敗汚職による意図的隠蔽によって、中国の地下経済は、先進国の標準
より遥かに大きいものと考えざるを得ない。

正確な所は誰もわからないが、地下経済を専門に研究するある学者は、
GDPの40%近くに上る可能性があることを示唆している。

 (3)  1994年にワールド・ウォッチ研究所が「誰が中国を養う
のか」との論文を発表し、中国の食糧不足に警告を発した。ところが現
実には、中国は食糧生産を伸ばし、94年の4億t余りから98年には
5億1千万tに達し、余剰生産とまで言われるようになった。

同研究所の予測が現実的なものとならなかった主な原因は、同研究所が
予測の基礎とした耕地面積のデーターが大幅に違っていたからである。
96年までの中国統計年鑑によると、中国の耕地面積は9,500万h
aであるが、84年から96年にかけて50万人を動員して調査した結
果、実際にはその1・37倍の1億3千万haであることが判明した。

しかし、このデーターも、その後の環境対策のため、又、沿岸部の経済
開発区のために膨大な耕地が失われている実態を踏まえ、絶えず修正し
ていく必要がある。

 (4)  昨年、中国の人口は13億人を越えたと発表され、13億人
目の赤ん坊に認定証が渡された。中国は80年より国家計画生育委員会
を中心に農村を含め1人っ子政策を実施してきた。

しかし、農村部においては将来の不安から、 1人っ子政策を守らず、罰
金を恐れて登録もしない無戸籍児童が多数発生している。現在では第1子
が女子の場合、第2子の出産を認めるなど多くの省で事実上1人っ子政策
の緩和が行なわれている。実際にはどの程度の無戸籍児童が存在するの
か正確に把握するのは困難であろう。

しかし、ポリオ撲滅の為に10年に亘り農村部でのワクチン投与に携わっ
た日本の医療関係者の話は、参考になるところが多い。農村部では当該
地の計画生産委員会が把握している児童数の2〜3割余分に持参しない
と不足するそうである。

今日では、全国に流動人口が1億5千万人いると言われており、戸籍制
度そのものが急速に弛緩している。このような状況の下で、最近発表さ
れた人口統計の誤差は、千万単位で収まらず、統計の信憑性を揺るがし
かねない程大きい可能性が有る。

 (5)  以上のエピソードは夫々断片的なものに過ぎない。しかし、
草の根無償協力プロジェクト視察のため何度も中国各地の貧困地帯を訪
問し、30年近く前の研修生時代に東北地方で見た農民の生活より更に
貧しい農民が、21世紀の今日にも厳然と存在している。

その現実を見る度に、中国がこの20年間平均9%の成長を続けてきた
との統計数字は、飽くまで統計上のものに過ぎず、益々深刻化する各地
の格差の実態を何ら描写するものではないことが見えてくる。

共産党の規律が最も厳格に守られていた60年初めに、豊作と発表され
ていたにも拘らず何千万人も餓死した大飢饉が発生したのも、中国全体
を統計数字により正確に把握することが如何に困難かを象徴的に示して
いよう。

改革と開放によりソフト的にもハード的にも統計の信頼度が高まってい
るのは否定できない。しかし、中国全体の動向を分析するに当たっては、
様々な形で発表される統計数字を鵜呑みにすることなく、常にその誤差
の幅を勘案し、数字の裏に隠された個々の現実をもって「実態」を補正
して行く必要がある。さもなくば、中国の本当の「実像」を見失ってし
まう。

4.我が国がなすべきこと

 (1) 大国の中で中国のみがこの20年間高度成長を持続している。
これを目の当たりにして中国の急激な政治的、経済的及び軍事的台頭に
対し、世界の警戒心が強まっている。

しかし、中国が抱える食糧・エネルギーの確保、環境保全、貧富の格差
是正問題等の根深さと深刻さ、更にそれが内外に与える影響は、そのど
れをとってみても中国一国のみで処理するには手に余るほどである。

隣国である我が国の安全保障にとり、中国が安定的に発展していくこと
は決定的に重要である。しかし、現在中国の国内は、20年以上にわたる
急成長の陰で貧富の格差が拡大し、良好な生活環境が脅かされ、腐敗汚
職が蔓延し、これに対し国民の各層の間で不満が累積している。

そして、極めて広範な国民各層から、共産主義のイデオロギーを事実上
放棄した共産党による独裁的統治の正当性に対し、様々な形で疑問が投
げかけられている。04年1年だけで6万件近くの騒乱が発生したと報告さ
れるほど、国内が不安定化している。

 (2) このため共産党は、イデオロギーの空白を埋め、自己の正当
性を強調し、国内的な安定を確保する必要に迫られている。

その手段として1930年代の日本軍国主義による対中侵略に関する歴
史教育を徹底して行い、絶えず国民の民族感情を奮い立たせ、ナショナ
リズムに訴えることで、国民の目をそらし、共産党への求心力を維持し
ようとしている。

その反作用により、国民の間に反日感情が醸成され、昨年4月には、特
別のきっかけがないにも拘らず暴力的な反日デモが全国各地で発生した。
これら反日デモをテレビの映像を通して目撃した多くの日本国民の中に
嫌中感情が生まれ、72年の日中国交正常化以来、両国民感情は最も冷
え込んでいる。

 (3)  昨年10月17日小泉総理が5度目の靖国神社参拝を行った。
これにより、これまで計画された各種交流事業が縮小されるなど悪影響
が出ている。

今後とも日中関係が冷え込み、日中経済関係に悪影響が及び、「政冷経
冷」状態に陥ってしまうのであろうか。そうなると、対外投資、対外貿
易に大きく依存する中国経済の持続的発展が阻害され、国内の矛盾が一
層先鋭化し、国内不安が広がってしまうのか。

中国の中長期的な動向を的確に見極めることは、我が国にとってのみな
らず、アジアひいては世界の平和と安定にとって極めて重要である。

 (4)  上述の通り、中国は部分部分が余りに大きく、全体を捉える
ことが困難で、郡盲象を撫でる愚を犯す危険が常にある。近い将来、中
国ではEU加盟諸国の人口に匹敵する人達の生活が先進国並みの水準に達
するかもしれない。

しかしながら、これらの人達は、自国民としてサブサハラ以南のアフリ
カの人口に匹敵する貧しい人々を養わなければならない。中国の成長の
陰には、この様な巨大なハンディキャップを背負い続けなければならな
い現実が潜んでいる。

それに加え、図体が大きいだけに、発展の過程で沿岸部の豊かな地域内
と沿岸部と内陸部との間に2重の貧富の格差が拡大し、様々な、矛盾が発
生することも避けがたい。中国の現在の指導者にとり最大の課題は、発
展と安定のバランスを取ることである。

引退した江沢民主席が内々の席で中国に取り最大の問題は「配分」の問
題であると吐露したのも、その実現の困難さを一番深く認識していたの
に他ならない。

 (5) 日中関係が冷え込んでしまっている今日こそ、我が国は、これ
まで以上に中国の発展している部分のみならず、発展から取り残されて
いる部分により注目し、全体が安定して発展するよう側面的に支援する
努力を継続する必要があろう。

にもかかわらず、現在、日本国内における対中感情が冷え込んでしまっ
たがゆえに、これまで20年以上も継続してきた対中ODA供与が困難にな
ってきている。それに止まらず東シナ海における資源開発問題に係わる
対立は、間違えれば軍事対立まで引き起こしかねないほど先鋭化してき
ている。

 (6) 双方の国民感情がこれほど冷え込んだ状況の下では、極端な
言い方をすれば、日中間の諸懸案を、日中のコンテキストの中で解決す
ることが、益々困難になりつつある。

他方、両国の政治的、経済的、軍事的存在がこれほど大きなものになる
と、世界の何人も、日中関係の安定的発展がアジアのみならず世界の平
和と安定に欠くことのできない重要要因になっていることを否定できな
い。

従って、日中間に存在する様々な矛盾を解決するには、先ず両国の最高
指導者が、アジア乃至世界の安定と発展に対する責任を十分認識する必
要がある。即ち、日中関係は、今や両国にとってのみならずアジア及び
世界の平和と安定にとって極めて重要であるとの自覚である。

この自覚と責任感が双方の国民レベルで共有されるようになると、これ
まで何度も繰り返し提起され、今や両国民の感情問題にまでもつれてき
た過去の認識問題等日中間では克服できなかった問題についても、日中
双方からこれを必ず克服しなければならないとの決意が自然に生れてく
ると信じている。

(「霞関会報」平成18年1月号より転載 )。

杉本氏は2006年8月3日早朝、肺癌のため逝去された。享年57。ご冥
福を祈ります。


http://www.melma.com/backnumber_108241_3330893/


大地の咆哮(杉本信行著、PHP社刊)についてhttp://nishiokanji.com/blog/2006/08/post_369.html
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by thinkpod | 2006-08-31 22:22 | 中国
2006年 08月 31日

マッカラム・メモ

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「日本をおびき出せ!」
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            平井修一(投稿)

「日本をおびき出せ!」マッカラム・メモが語る真珠湾攻撃の真実

勉強不足で「マッカラム・メモ」の存在を知らなかった。ググったら英語
の以下のサイトがあったので、翻訳してみた。

http://www.whatreallyhappened.com/McCollum/

真実はこうだ!

政府があなたに学んで欲しくない歴史 「マッカラム・メモ」

1940〔昭和15〕年10月7日、米国海軍諜報部のアーサー・H・マッカラ
ム少佐(Lieutenant Commander Arthur McCollum)は、海軍提督のウ
ォルター・アンダーソン(Navy Captain Walter Anderson)と提督ダ
ドリー・ノックス(Navy Captain Dudley Knox)に、ひとつのメモを
提出した。アンダーソンとノックスは、ルーズベルト大統領が最も信頼
を寄せる軍事顧問の一員である。

マッカラム・メモは、日本に米国への攻撃を挑発するための8段階のプ
ランを詳述している。ルーズベルト大統領は1941年においてメモに記載
されている8つの推奨プランのすべてを実行した。

8番目の挑発のあとに日本は(米国を)攻撃した。国民は(政府から日本
の攻撃は)驚天動地、諜報の失策と聞かされていた。そしてアメリカは第
2次世界大戦へ参戦した。

このメモは、米国政府が日本の攻撃を引き出したかったことを証明して
おり、1994〔平成6〕年に機密扱いを解除された。真珠湾の真実が明ら
かにされるまで50年もかかった。我々は9・11の真実が明らかにな
るのにそれくらい待たなければならないのだろうか。

マッカラム・メモ

0p-16-F-2 ON1 7 October 1940

指揮官のための覚書

タイトル:太平洋における情勢予測と米国のとるべき行動

 1)米国は、現在ヨーロッパにおいてドイツ、イタリアと敵対的な関
係にあり、同様に東洋においては日本と敵対している。(東西で)敵対的
な陣営に挟まれたロシアは現在は中立的であるが、日・独・伊の枢軸国に
傾斜する可能性があり、ロシアの枢軸国に対する友好的な態度は、欧州
戦線における枢軸国の戦争遂行に有利に働く可能性がある。

独・伊は欧州において有利に戦争を展開しており、全欧州は彼らの軍事支
配下にあるか、ないしは卑屈な態度を強いられてきた。

大英帝国のみが実際的に戦争により、独・伊およびその衛星国の支配の拡
大に対抗している。

 2)米国は当初より欧州の衝突に対しては冷静なスタンスをとってき
た。それは、独・伊が、欧州の戦いの成り行きについて米国民の無関心が
続くように可能な限り努めるだろうという見方が根拠にある。

逆説的には、独・伊の軍事的な成功は、英国に対する米国の同情と物資の
支援を拡大することにつながってきた。現在まで米国政府は戦争を短期
化するためのあらゆる支援をするという政策を採っているが、情勢は緊
迫しており、ごく近い将来に英国を全面的に支援することになるだろう。

米国に、利害関係のない傍観者という役割を演じさせようという独・伊の
外交の失敗により、独・伊は欧州以外での米国の安全保障に脅威を与える
政策をとらざるを得なくなった。

枢軸国のグループによる中南米での革命の脅威や、極東における活動的
な日本の攻勢が顕著である。これらのことから米国は迷い、自国の安全
保障に脅威を覚え、それが結果的に純粋に防衛的な見地から、英国を守
るということになった。

この結果、独・伊は最近、米国に対抗するため日本と軍事同盟を結んだ。
この条約及び3国の指導者の言を信じれば、全体主義の3国は疑う余地
なく米国への戦争に合意したと思われ、米国をして英国への支援、ある
いは東洋における日本の狙いの阻止へ向かわせた。

さらに独・伊は、米国の英国支援は戦争を引き起こすから反対、あるいは
英国敗戦後にしろと決定する権利を持っていると主張している。

つまり、英国が敗れた後に、3国は米国を早期に攻撃するかどうかを決
めることになる。地理的に見ると、独・伊はいずれも日本に物資を支援す
る位置にはない。

一方で日本は英国支配地、さらにオーストラリア、インド、蘭領東イン
ドからのルートに脅威を与え、攻撃することに力を発揮できる。こうし
て欧州における枢軸国に対する英国の戦いを物理的に弱めるだろう。

この貢献と引き換えに日本はアジア全域でのフリーハンドを得て、アジ
アを獲得することが可能だと見ている。さらに独・伊が全力で米国の注意
をひきつければ、米国の対日攻勢を防げるということになる。

ここで再度、枢軸国・日本の、米軍を移動不能にするという外交のもう
ひとつの例を見ることになる。脅威と警告は米国の考えを困惑させ、迅
速な行動をとることを阻害してきた。

欧州における枢軸国あるいは極東における日本が望む最終目標は、両地
における米国による迅速かつ軍事的な行動であることはあまり強調され
てはならない。

 3)ヨーロッパ情勢分析のなかには、いま米国ができることはほとん
どないが、即座に英国を支援すべきだ、という結論に導くものがある。
我々は英国支援に派遣できるほど訓練をつんだ軍隊もないし、少なくと
も1年はかかるだろう。

現在は英国への物資の流入を増やそうと努めており、実践的なあらゆる
方法で英国防衛を支えており、この支援は疑いなく拡大していくだろう。

一方で独・伊は、英国が戦争を継続し、英国海軍が大西洋を支配している
限り、米国に対してできることはほとんどない。米国にとって危険があ
るとすれば、大英帝国が早々と敗退し、艦船が枢軸国に渡ることである。

万一にもそのようなことにならぬよう、英国との同盟、少なくとももう
ひとつの地域(太平洋)での英国に対する圧力の排除が必要になる。要約
すれば、英国艦船が大西洋で制海権を維持し、米国に対し友好的である
限り、大西洋における米国の安全に対する脅威は小さい。

 4)太平洋において、独・伊と同盟した日本は英国の安全保障にとり明
確な脅威である。英国が撤収すれば日・独・伊のパワーは米国に向けられ
る。バルカン半島、北アフリカ、スエズ運河に対する独・伊の力強い攻撃、
日本によるシンガポールへの脅威あるいは攻撃は、大英帝国に深刻な結
果をもたらすだろう。

日本を方向転換あるいは中立化させることができれば、スエズ運河攻撃
の成果は枢軸国にりそれほどのメリットはないだろう。そうした成功は、
インド洋から英国の海軍力を事実上排除しなければ得られないからだ。

そうして日本へのヨーロッパからの供給ルート、アジアから独・伊への資
源輸送ルートを開くことは、英米がヨーロッパ封鎖(を放置しなければ)、
おそらく日本にとっての効果は部分的だろう。

 5)第3の項目で指摘したが、欧州情勢を即座に回復させるために米
国ができることはほとんどないが、日本の攻撃的な活動を効果的に無力
化することはできる。英国への米国物資支援を減らすことなくできるこ
とだ。

 6)米国に敵対する日本の現状分析は以下のとおりである。
有利な点 不利な点

1:地理的な強調点  アジアでの戦争に日本列島から150万人が出
  て従事している。
2:集中的な強調点  国内経済、食糧供給は非常に厳しい。
3:経済統制      戦争のための資源、特に原油、鉄、綿が非 
 常に不足している。
4:苦労に慣れた国民 全体的に供給不足。欧州戦争の影響。
5:強い軍隊  基本的な供給は長距離の海上輸送に依存している。
6:技術力のある海軍は3分の2
  米国海軍の力を強めるためには軍需物資の製造・供給の自由な移動が
  不可欠
7:原材料の備蓄   主要都市と工業地帯は極端に空襲に弱い。
8:日本付近は4月まで気象条件により海からの作戦が難しい。
7)太平洋において米国は非常に強力な防衛位置にあり、現時点で海軍
と海軍航空隊は長距離の攻撃作戦能力を持っている。現時点での我が方
の有利な点は、すなわち、

A)フィリピン諸島は依然として米国が保有している。
B)蘭領インドには友好的かつ同盟関係にある政府が支配している。
C)英国は依然として香港とシンガポールを保有しており、両地とも我
  々に友好的である。
D)重要な支那軍は支那の戦場で日本と対峙している。
E)小さな海軍力で日本の南方支援ルートに重大な脅威を与えることが
  でき、既に実行している。
F)ある程度のオランダ海軍力も東洋にあり、米国と同盟すれば価値が
  ある。

 8)以上を考察すると、米国海軍による日本への迅速な攻撃により、
日本は独・伊の英国攻撃にいかなる支援も送ることができないこと、日本
自身も海軍がもっとも不利な時期での戦争を強いられることになり、経
済封鎖により国家の早急な崩壊を強いられることになる、との結論に至
る。

英国とオランダと調整に入ったら、早急に宣戦布告し、それが日本の早
急な崩壊に最も効果的だろう。独・伊が我々を効果的に攻撃する前に、太
平洋での我々の敵を殲滅することができる。

さらに日本殲滅は独・伊に対する英国の地位を強化することは確かであり、
我が方に友好的な国々の自信と支援を拡大することにもなるだろう。

 9)現時点での政治的な意見は、米国政府はこれ以上の苦心をしなく
ても対日宣戦布告ができる、というが、これは信じられない。

我々の役割に応じた精力的な行動により日本人をして彼らの態度を変え
させていくことはかろうじて可能だろう。ゆえに、以下の行動をとって
いくことを提言する。

A)英国と、太平洋における英国基地、とりわけシンガポールの使用に
つ いて協議せよ。

B)オランダと、蘭領インドの基地施設使用、物資獲得について協議せ
  よ。

C)蒋介石の支那政府にすべての可能な支援を与えよ。

D)ひとつの長距離重艦隊を東洋、フィリピン、あるいはシンガポール
  へ派遣せよ。

E)2つの潜水艦隊を東洋へ派遣せよ。

F)主力艦隊を太平洋ハワイ諸島に維持せよ。

G)オランダに、日本の不当な経済要求、とりわけ原油要求には拒否す
  るよう主張すべし。

H)米国は英国との連携のもと、対日貿易を完全にやめる。

 10)これらの手段により日本が明白な戦争行為へ導くことができれ
ば、それが重大であればあるほどよい。我々はすべての事態に対して、
戦争の脅威を受け止めるべく完璧に備えなければならない。

0p-16-F-2 ON1 7 October 1940
要約

1)米国は大西洋と太平洋において敵対的なパワー連合に直面している。

2)英国海軍は大西洋を制しており、この地域における米国に対する敵
  対行動を抑止している。

3)日本は敵対性が高まっており、英国のインド洋航行ルートを攻撃す
  ることにより日本〜地中海の海路を拓こうとしている。
 
4)欧州において英国の反抗が有効であり続ければ日本は進路を転換せ
  ざるを得ない。

5)太平洋における米国海軍は、日本を包囲し反復攻撃し、独・伊への支
援を無効にする能力がある。

6)日本に対して迅速かつ攻撃的な行動をとることで、早い機会に太平
洋における日本の脅威を除去することは米国の国益である。

7)米国が政治的攻勢に出られない間は、東洋に海軍力を増派し、オラ
ンダ、英国と謀って東南アジアにおける日本の侵攻を効果的に阻止すべ
きである。

ノックス提督のコメント

疑いもなく重要な関心事は、英国が敗退しないことである。英国は今、
手詰まり状態で、おそらく善戦はできない。我々がすべきは、少なくと
も手詰まりの状態を確かなものとすることである。

このために英国はさらなる駆逐艦と航空戦力を米国に求めるだろう。可
能性がある限りは、これ(軍事支援)をなすための能力を我々は削ぐべ
きではなく、東洋においては何事にも速攻すべきではない。

英国が安定し続ければ、日本は東洋において慎重になるだろう。こう考
えれば、大西洋における我々の英国支援は、東洋における英米の保護に
なる。

しかし、私はあなた(マッカラン)の段階的行動計画に同意する。両面
(大西洋と太平洋)で準備し、両面で十分強力であることが求められてい
る。

頂門の一針 | melma!
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━━━━━━━━━━━━━
「マッカラム・メモ」と日本
━━━━━━━━━━━━━


               古澤 襄

ブッシュ米大統領の共和党政権から民主党に政権が移るとすれば、米国
のアジア政策がクリントン政権時代のように”中国重視政策”にスイッ
チ・バックするのだろうか。共和党政権が続く可能性もあるのだから、
今から心配しても始まらないというのが、大方の能天気な日本人の感覚
であろう。

出たとこ勝負が戦略的思考に欠ける日本人の感性だから、何となくうま
く立ち回るかもしれない。もっというならブッシュが退場して、ヒラリ
ー・クリントンでも登場すれば拍手喝采、ヨン様人気ならぬヒラリー人
気で日本中が沸き立つのかもしれぬ。

最近、平井修一氏の「マッカラム・メモ」翻訳で、その全容を知ること
ができた。「マッカラム・メモ」・・・昭和十五年十月七日に米海軍諜
報部のアーサー・H・マッカラム少佐が海軍提督のウォルター・アンダ
ーソンと提督ダドリー・ノックスに提出した戦略メモのことである。

アンダーソンとノックスは、ルーズベルト米大統領が最も信頼を寄せた
軍事顧問の一員。メモは機密扱いで私たちは知るよしもなかったが、平
成六年に五十年ぶりに機密扱いが解除されている。

あらためて読んでみるとルーズベルトは「マッカラム・メモ」のステッ
プ通りに政略を展開し、挑発された日本は無謀な日米戦争に突入した歴
史が明らかにされた。

このメモは読む人によって価値判断が違うのかもしれない。多くの日本
人はルーズベルトが仕掛けた罠に、日本がはまり真珠湾奇襲攻撃をかけ
たということであろう。

マスコミが取り上げるとしたら、この視点になる。オーソドックスなの
だが”ルーズベルトの罠”は、これまでも言われてきた。その補強材料
にはなるが、目新しいものではないともいえる。

私が注目したのは、同盟国である英国に対する分析と支援計画である。
この戦略思想は民主党大統領であろうと共和党大統領であろうが英国支
援で一貫している。米国は建国以来、自国の国益を最優先に考え、時に
はモンロー主義の様に孤立政策も厭わなかった。

第1次世界大戦でも第2次世界大戦でも米国は最初から参戦していない。
途中から参戦して、双方の交戦国が疲弊したのをよそにして戦後一人勝
ちの繁栄を手中にしている。悪くいえば”火事場泥棒”的な戦略思想を
とった。

私は、この戦略思想を!)多民族国家からくるコンセサスの遅れ!)英国に
対してはアングロサクソンの連帯感・・・と理解していた。だが「マッ
カラム・メモ」は、優勢なナチス・ドイツやムッソリーニのイタリアに
対し英国が戦争を継続し、英国海軍が大西洋を支配している限り、米国
には影響は及ばない。

米国にとって危険があるとすれば、大英帝国が早々と敗退し、その艦船
が枢軸国に渡ることである・・・と言い切っている。

ヨーロッパが独伊枢軸国の支配下に置かれ、英国海軍の艦船がナチス・
ドイツの手に渡れば、大西洋は米国にとって安全な海ではなくなる。そ
れは米国の安全を危うくするから、米兵の犠牲を覚悟で参戦するという
選択になる。アングロサクソンの連帯感などという甘い思考など微塵も
ない。

ひるがえって今日的にいうと、太平洋をはさむ日本と米国の同盟関係に
ついて、米国は「マッカラム・メモ」的な思考をとっているのではない
か。

すでに日本海軍(海上自衛隊)は、アジアで最強の艦艇を保有している。
この艦艇が米国の仮想敵国に渡らないために、米兵の犠牲を覚悟のうえ
で日本防衛に当たるという脈絡になる。すべては米国の国益を守ること
が優先している。

これは共和党大統領であろと民主党大統領であろうと変わるまい。日本
と英国は超大国アメリカの戦略拠点になったというのが厳しい現実であ
る。アジアでいうなら韓国は戦略拠点ではなくなっている。

米ソ冷戦時代には朝鮮半島において共産主義の防波堤として韓国の存在
意義があった。冷戦崩壊後は米兵の犠牲を冒してまでも在韓米軍が駐留
する意義が薄れている。

その現実の中で日本がどう強かに生きるか、米国から押しつけられた日
本国憲法を逆手にとって、日米同盟を維持しながら、自立の道を歩む難
しい道が前途にある。米国の方が日本を必要としているという観点を持
つ時代にさしかかったのではなかろうか。
頂門の一針 | melma!
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by thinkpod | 2006-08-31 22:20
2006年 08月 31日

政府が二年前に入手していた化学兵器引渡し文書

中国“遺棄化学兵器”問題 スクープ第4弾
本誌・喜多由浩

 中国“遺棄化学兵器”問題で、政府が『化学兵器』として処理の対象にしている「あか筒」「みどり筒」を、中国側に引き渡していたことを明記した引渡兵器目録が、防衛庁の防衛研究所に残されていることが分かった。しかも、この資料の存在は2年前に、政府側に伝えられていたのである。これまで政府側は、「日本軍が化学兵器を残置したことに、中国側が同意していたことを示す資料は見つかっていない」という趣旨の言い訳を繰り返してきた。さらに、そうした文書が見つかれば、「(処理の)基本的な枠組みが変わってくる」と国会答弁で明確にしている。早速、中国側と再協議し、支援の見直しを進めていただきたい。

●リストに明記された「あか筒」「みどり筒」


 この資料は、防衛研究所にある「陸軍・高雄(台湾)分廠考潭集積所・引渡兵器目録」。中華民国34年(昭和20年=1945年)12月18日の日付で、日本軍側が、中国・国民政府軍に引き渡した武器・弾薬の品目と数が約10ページにわたって、細かく記されている。受け取った中国側の責任者の署名・捺印(なついん)があり、間違いなく、引き渡しが行われた(所有権の移転)ことを示すものだ。この文書は極秘でも何でもない。防衛研究所に行けば、だれでも閲覧・複写ができる資料である。
 その引き渡しリストの中には、大あか筒 100▽小あか筒 2250▽みどり筒 点火具50▽催涙筒 1−などと日中両国が『化学兵器』として、日本側が処理する対象になっている兵器の名称がはっきり書かれているのだ。
 その意味は、内閣府の遺棄化学兵器処理担当室のホームページの資料を見るとよく分かる。「旧日本軍が保有していた化学兵器」の一覧表の中で、「有毒発煙筒」に分類されるものとして「あか筒」「みどり筒」が確かに入っている。そして、弾薬の化学剤として使われている「あか剤」はくしゃみ(嘔吐)剤、「みどり剤」は催涙剤であることが説明されているのだ。
 これらはいわゆる致死性の毒ガスではなく、本来、化学兵器禁止条約の対象にもなっていないのに、日中の「談合」によって、日本の責任で処理する『化学兵器』に含められてしまったことは、すでに『正論』で報じてきたところだ。
 台湾は終戦まで日本の領土だったため、日本軍は南京に司令部を置く支那派遣軍ではなく、台湾軍(後に第10方面軍)だが、武装解除を受けたのは、支那派遣軍と同じ、蒋介石総統の国府軍である。つまり、中国側が受け取っていることにはまったく変わりがない。

●公開されなかった報告


 今年2月、内閣府の高松明・遺棄化学兵器処理担当室長は、衆院内閣委員会において、「正式に中国やソ連に化学兵器が引き渡されたという文書が発見されれば基本的な枠組みが変わってくる」と答弁した。これは、明確な証拠となる文書があれば、総額で1兆円といわれる処理費用の支払い義務を、日本が背負う必要はない、ということだ。しかし、その同じ委員会の場で高松室長は、「政府として現在、中国、ソ連の同意の下に引き渡されたことを確実に裏付ける証拠、資料があるとは承知していない」という見解を示している。
 高松室長の答弁は、これまでの政府側の見解を踏襲したもので、つまりは、(1)中国は引き渡しに同意していないと主張している(2)日本側にそれをくつがえす資料や証拠はない−という極めて情けない論法である。さらに、「資料がない」と言い切っているのに、政府側に資料を探し出そうという意欲はほとんど感じられない。
 実はこの問題が日中間の懸案となり始めていたころ、防衛庁が防衛研究所に、この種の資料探しを非公式に命じたことがある。このときは、約2年間にわたって、担当者が研究所の資料を調べたが、あか筒などが明記された「高雄分廠考潭集積所・引渡兵器目録」についての報告はなかったという。元防衛研究所幹部は、「(高雄分廠考潭集積所・引渡兵器目録は)非常に意味のある文書だと思う」とした上で、「当時、なぜこの資料が見つからなかったのか、なぜ報告がなかったのかは、よく分からない」と話している。
 だが、この「高雄分廠考潭集積所・引渡兵器目録」は、その後に行われた別の調査で、発見されていたのだ。その内容は2年前の平成16年にまとめられた政府機関への報告にも盛りこまれていたが、その文書が公開されることはなかったのである。

●もはや言い逃れはできない


 本誌は6月号で、山形のシベリア史料館で約600冊の旧日本軍兵器引継書が発見されたスクープを報じて以来、3号にわたって、この問題の虚構性と中国の言いなりになっている媚中派の政治家、官僚の実態を再三にわたって、明らかにしてきた。シベリア史料館の兵器引継書は、化学弾とみられるものを含むすべての武器・弾薬を、中国側に整然と引き渡していた事実を証明する貴重な資料である。
 安倍晋三官房長官は国会で、「政府としてしっかり調査をしたい」と答弁し、内閣府や法務省の担当者が、作業を進めている、と伝えられているが、今回、明らかになった防衛研究所の資料についても、改めて精査することが必要だ。
 関係者によると、一部の政府関係者は、シベリア史料館の引継書についても、存在自体は知っていた、という。それなのに調べることさえしなかったのである。
 こうした兵器引継書が存在するのはシベリア史料館だけではない。復員時に、それこそ命がけで日本へ持ち帰った人たちは多数、いるのだ。実際、当編集部には、6月号以降、そうした人たちからのお便りがたくさん届いている。
 千葉県芝山町の伊藤正夫さん(54)からは、中国・青島の独立歩兵第18大隊の副官だった父・高夫さん(故人)が保管していた引継明細書が寄せられた。大隊長だった柏崎與三二氏(同)から託されたものだという。
 その引継書には、武器・兵器のほか、生活用品、食料、医薬品、軍馬、軍刀の由来に至るまで、39ページにわたり、事細かに書かれている。伊藤さんは、「まさに歯ブラシ1本、包帯1本まで細かくチェックして書いてある。日本軍は本当に生まじめだった。これを見れば、極めて整然と中国側にすべての兵器・物品を引き渡していたことがよく分かります」と話している。
 国民は中国の言い分しか聞こうとしない一部の政治家・官僚に怒り心頭なのだ。続々と編集部に届く、お便りがそれを示している。これだけの「証拠」が出てきたいま、もはや言い逃れはできないはずだ。一刻も早く、支援事業の見直しを行うべきである。

【正論9月号】

Web「正論」|Seiron
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0608/ronbun1-1.html



中国遺棄化学兵器問題 新資料発見か、政府が調査

≪結果次第では事業見直しも≫
 中国遺棄化学兵器問題で、「日本軍が中国に化学兵器を遺棄した」という中国側の主張を覆す可能性のある資料が見つかっています。この問題では、廃棄処理のために政府が負担する費用が数千億円規模に膨らみかねないことや、“遺棄兵器”の実態が不透明という指摘も出ています。政府首脳は詳しく調査、分析するとしています。(『正論』編集部 喜多由浩)

 この問題は、先の大戦で「旧日本軍が中国各地に化学兵器を遺棄した」として、平成2年に中国政府が日本政府に解決を要請してきたことが発端です。9年には、遺棄化学兵器の廃棄義務をうたった化学兵器禁止条約が発効し、日中両国が批准。11年には、日本側が廃棄処理費用を全額負担することなどを盛りこんだ覚書を交わしました。

 これに伴い日本政府が負担する総事業費は今後どれだけ膨らむか、見通しすら明確ではありません。

 中国側は、旧日本軍が遺棄した化学兵器が、吉林省のハルバ嶺などに約200万発残っている、と主張しています。しかし、その主張に疑問を持つ意見は当初から少なくありませんでした。終戦後、日本軍は旧満州(現・中国東北部)ではソ連軍(当時)によって、中国大陸部では主に中国国民党軍によって武装解除され、所持していた武器・弾薬は化学兵器も含めてソ連・中国軍に引き渡していた(遺棄したのではない)とされていたからです。

 しかし、日本政府は「中国、ソ連の同意の下に引き渡されたことを確実に裏付ける証拠、資料があるとは承知していない」などという消極的な理由で、中国側の主張をいわば“丸飲み”してきたのです。

 ところが最近になって中国側の主張を覆す可能性があるさまざまな資料が見つかりました。山形県のシベリア史料館には、中国で日本軍が武装解除の際に引き渡した武器・弾薬を詳細に記した「兵器引継書」が約600冊も残っていました。受け取った中国軍の責任者の署名・捺印(なついん)があり、化学兵器だけを除外した形跡も見られません。

 また、防衛庁の防衛研究所には、日中両政府が「遺棄化学兵器」として廃棄処理対象にしている『あか筒』『みどり筒』を台湾で中国軍に引き渡していたことを記した「引渡兵器目録」がありました。さらには、中国側が遺棄化学兵器が大量に残っていたと主張しているハルバ嶺近くの敦化で、化学兵器(毒ガス兵器)をソ連軍に引き渡したという元日本軍兵士の証言まで出てきたのです。

 安倍晋三官房長官は5月、衆院内閣委員会での答弁で「(シベリア史料館で見つかった資料などについて)政府としてしっかり調査したい」と述べました。政府は、新しい事実を示す資料などが見つかった場合、事業の「基本的な枠組みが変わってくる」としており、対応が注目されます。
(09/03 12:15)
Sankei Web 社会 中国遺棄化学兵器問題 新資料発見か、政府が調査(09/03 12:15)
http://www.sankei.co.jp/news/060903/sha043.htm


問題スクープ第5弾【中国“遺棄化学兵器”問題】
  <私は化学兵器を確かに引き渡した
   ――旧日本軍兵士の証言(聞き手/本誌 喜多由浩)>

 重要と思われる箇所を抜粋、要約してご紹介します。
 (太字は引用者によるものでなく、誌上でもともと強調されている箇所)

 内容紹介ここから_________________________________


【石頭の元予備仕官学校生(軍曹)、二本柳茂さん(81)=新潟市=の証言】

※二本柳さんは昭和19年9月に召集され、北海道・旭川の歩兵第26連隊に入隊(二等兵)。10月、満州へ渡り、佳木斯(チヤムス)の独立歩兵第266大隊へ。20年5月、甲種幹部候補生となり、牡丹江省石頭にあった予備仕官学校で訓練の日々を送っていた。そこは中国全土から最後の幹部候補生をかき集めた事実上の部隊で、3600人の6個中隊で編成されていた。

●終戦前には、満州の石頭にあった予備士官学校にいた。当時すでに、敗色が濃かった南方戦線などでの実戦部隊を作るために、中国全土から3600人がかき集められた。昼は、対ソ戦に備えて戦車攻撃の訓練、夜はジャングルの中での忍者戦術と自爆の訓練を毎日、繰り返していた。訓練を終えると、少尉に昇進して、南方へ行くという話だった。

●昭和20年8月9日のソ連軍の満州侵攻、その日の朝、中隊長からそのことを聞き、ハチの巣をつついたような騒ぎになり、出動準備に追われた。3600人の6個中隊は2つに分けられ、半分は牡丹江へ、我々は東京城へ徒歩で向かうことになった。後に、牡丹江へ行った1800人はソ連との戦闘で、ほぼ全滅したと聞いた。

●我々の行き先は吉林省の敦化だ、と聞かされていた。8月18日ごろ、山中で突然、ソ連軍のトラックに囲まれた。数日前に日本が負けたらしいことを聞き、敦化で武装解除になるということだった。そのころになると、他の部隊と合流して、1万人ぐらいになっていた。

●武装解除はその18日か19日に行われた。場所は敦化の近くだった。上官から全ての鉄砲、弾薬を集めておくようにという指示を受けた。夜通しの行軍で疲れ切っており、兵隊はみんな、武器を差し出して身軽になったことを喜んでいた。みるみるうちに武器は山のように積み上げられて、高さ2〜3メートルぐらいになった。

●その時、持っていた毒ガス兵器も含め全ての兵器をソ連軍に引き渡したのは間違いない。上官から、「毒ガス兵器(化学兵器)だけを隠せ」とか「捨てろ」というような指示が出たこともない。そんな暇も余裕もなかった。引き渡した毒ガス兵器だけで、数千発はあったと思う。

●その毒ガス兵器とは、対戦車用、対塹壕攻撃用の通称「ちび」という兵器。液体青酸を野球ボールぐらいの丸い容器に充填したもので、兵隊一人ひとりが袋に入れて、腰にぶら下げていた。小型の対戦車爆雷である「アンパン」(通称)というものも持っていた。

※「ちび」は、致死性の高い「ちゃ(剤)1号」(液体青酸=毒性は血液中毒性ガス)を丸いガラスに詰め込んだ「ちゃ瓶」のこと。致死性が低い「あか剤」(くしゃみ性・嘔吐性ガス)や「みどり剤」(催涙性ガス)とは違って、化学兵器禁止条約の対象となっている、紛れもない毒ガス兵器。

●「ちび」を使用したことは一度もない。犬を使って実験をした。かわいそうなことをした。

●上官から使用についての注意を受けたことは特にないし、武装解除の時も、通常兵器と区別なんてしない。「全ての武器・弾薬を出せ」といわれて、全部を差し出した。

●ソ連軍に引き渡したそれら化学兵器を含む武器・弾薬が、その後どうなったのかは分からない。中国側は、「旧日本軍が化学兵器を遺棄した」と主張しているが、それも私にはよく分からない。少なくとも、私たちは「(化学兵器を)隠せ」とか「捨てろ」という指示は受けなかった。

※ちなみに敦化は、中国側が大量の化学兵器が「遺棄されていた」と主張している場所である。

※二本柳さんは数年前、今回と同じ内容の証言を、政府側の電話による聞き取り調査に対して行っている。その内容は政府の担当部局にも伝えられているとみられるが、その後、二本柳さんに詳しい話を聞きにきた政府の担当者は皆無だという。旧日本軍による化学兵器の引き渡しについて、政府側はこれまで国会答弁などで、「中国やソ連が同意していたことを示す確実な証拠は見つかっていない」という趣旨の主張を繰り返してきた。だが、それをくつがえす証言や資料の存在を尻ながら、ある意図を持ってわざと無視を決め込んでいたとすれば、その責任は極めて重い。

※二本柳さんはその後、シベリアに抑留された。復員は昭和23年5月。


【元機動第1連隊中隊長(少尉)、米田誠次郎さん(83)=大阪府堺市=の証言】

※米田さんは、陸士56期。昭和18年5月、少尉に任官し、19年8月、関東軍の機動第1連隊中隊長に。20年6月、旧満州吉林省・杜荒(孔)子付近において、ソ連軍の攻撃に備えて戦闘準備を進めていたが、8月9日の突然の侵攻で、ゲリラ戦を行うために、中隊の約130人を率いて山中へ。しかし、28日ごろ、連隊命令として、停戦の指示を受けた。9月2日、杜荒(孔)子で武装解除に応じ、全ての武器・弾薬をソ連軍に引き渡した。

●8日28日ごろ、戦争が終わったことを知り、武装解除を行うために、ソ連軍が駐屯していた杜荒(孔)子でへ向かった。9月2日に着いたときは、すでに他の中隊は到着しており、我々が最後だった。他の中隊は武装解除され、倉庫に収容されていた。私の中隊の中には、「出ていかない」という人もいたが、満州の気候はとても厳しく、とても山中に冬は越せない。そういって説得し、中隊全員で武装解除に応じた。

●武装解除は極めて整然と行われた。到着後、真っ先に大隊長へ報告。最後の捧げ銃の敬礼を行い、部隊を解散した。そして、各兵隊が携帯していた三八式小銃を、ソ連兵の監視する前に並べて置いた。私は持っていた軍刀(備前長船の銘刀。現在の貨幣価値なら1000万円ぐらいになるかもしれない)やドイツ製の双眼鏡(8倍)まで、一緒に手渡した。武器解除に抵抗する者は、ひとりもいなかった。

●ソ連軍との間で、引継書のような書類は一切取り交わさなかった。ソ連軍から、領収書を受け取ることもなく、我々としても、そういったものを受け取る意思も、必要も認めなかった。満州における武装解除の状況は、おおむねこうしたものだったと思う。

●我々は機動連隊であり、装備は一般の歩兵連隊とほぼ同じだから、いわゆる化学兵器は持っていなかった。ほかの多くの部隊がそうだったと思う。いわゆる化学弾を所持していたのは、我が国では野砲兵連隊、山砲兵連隊、野戦重砲兵連隊など。しかも一会戦分の一個師団の弾薬数は400〜500発。もし、中国がいうように、本当に関東軍が200万発も化学兵器を持っていたのなら、降伏はしなかっただろう。

●“遺棄化学兵器”の問題では、発煙筒の一部まで、「化学兵器」とされているが、一般的に発煙筒とは、直径約5センチ、高さ約20センチ程度のもので、殺虫剤のようなものを想像すればいいと思う。戦時には、味方の行動を秘匿するために、煙幕として使用したもの。毒性もなく、これを化学弾と呼ぶのは誤り。

●仮に化学弾であったとしても、武装解除でソ連軍に引き渡している。全ての武器・弾薬を整然と引き渡している。だから所有権は日本にない。武器・弾薬は、ソ連軍の所有になり、その後の国共内戦などで兵器を必要とした毛沢東の共産軍に譲り渡したかもしれない。それは私には分からないが、いずれにしても武器・弾薬の所有権はソ連か中共のいずれかにあるはず。日本ではない。

●中国側の主張は、おかしい。引き渡したはずの武器・弾薬の所有権が日本にあるというのなら、私の備前長船の銘刀はどうなるのか。裁判でも起こしたら、返してもらえるんでしょうかね。現在、外務省がどれほど“売国奴的外交”をやっているか。数え上げれば、キリがない。

※米田さんは、武装解除後、シベリアに抑留された。昭和23年12月に復員。

ぼやきくっくり | “遺棄化学兵器”問題で旧日本軍兵士の証言
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid140.html#sequel
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by thinkpod | 2006-08-31 01:44 | 政治経済
2006年 08月 30日

リンドバーグ日記

孤高の鷲〈上〉—リンドバーグ第二次大戦参戦記
/チャールズ リンドバーグ,Charles A. Lindbergh,新庄 哲夫
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
1927年5月、愛機スピリット・オヴ・セントルイス号で、史上初の大西洋横断無着陸飛行を成功させたリンドバーグは、世界的な英雄となった。10年後、第二次大戦に反対し「孤立主義」を唱導して、ローン・イーグル(孤高の鷲)と呼ばれるようになる。しかし、国家危急の要請には逆らえず、陸軍のパイロットとして参戦した。戦場での目を覆うばかりの惨状を見聞して、赤裸々な異常体験を日記の形で残した。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
リンドバーグ,チャールズ
1902年、米国デトロイト生まれ(スエーデン人系)。飛行家。1927年、ニューヨーク~パリ間の初の大西洋横断無着陸飛行に成功。太平洋戦争では、陸軍のパイロットとして参戦し、日本軍の零戦とも戦う。著書『ザ・スピリット・オヴ・セントルイス号』(訳書、映画の邦名『翼よ、あれがパリの灯だ』)で、1954年ピューリッツアー賞を受賞。1974年没

目次
大戦前夜—ヨーロッパで(大英帝国、老いたり—一九三八年
戦争か平和か帰国—一九三九年
ロンドン炎上米国で—一九四〇年)
大戦前夜—米本国で(ファシスト呼ばわりされて—一九四一年)

孤高の鷲〈下〉—リンドバーグ第二次大戦参戦記
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
1944年、陸軍航空隊の一パイロットとして、南太平洋の史上最悪の戦場に派遣されたリンドバーグは、軍人としての本分を尽すべくラバウルでの空爆、零戦との一騎打ちなど、日本軍との壮絶な戦闘を繰り広げる。また、アメリカ兵による日本軍捕虜への残虐な行為などを、日記の中で率直に記録した。これは、戦争の残虐性に対する国際的な批判が高い昨今、必ず引き合いに出される衝撃的な証言である。

目次
大戦前夜—米本国で(ファシスト呼ばわりされて—一九四一年)
戦時下—米本国で(現役復帰、かなわず—一九四二年)
戦時下—米本国で(戦場も根回しだ—一九四三年)
最前線—南太平洋で(日本軍と対峙した日々—一九四四年)
終戦時—ヨーロッパで(廃墟の中に立つ—一九四五年)

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
リンドバーグ,チャールズ
1902年、米国デトロイト生まれ(スエーデン人系)。飛行家。1927年、ニューヨーク~パリ間の初の大西洋横断無着陸飛行に成功。太平洋戦争では、陸軍のパイロットとして参戦し、日本軍の零戦とも戦う。著書『ザ・スピリット・オヴ・セントルイス号』(訳書、映画の邦名『翼よ、あれがパリの灯だ』)で、1954年ピューリッツアー賞を受賞。1974年没

新庄 哲夫
1921年、サンフランシスコ生まれ。英米文学翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


<「リンドバーグ日記」>(「リンドバーグの衝撃証言」『正論』五月号 より引用)
六月二十一日 水曜日  日本兵士殺害に関する将軍の話
・・帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。・・・「しかし、俺はあいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」
偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。
六月二十六日 月曜日
・・談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜を取りたがらないのだ」「***では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」
「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と別の将校が調子を合わせる。
六月二十八日 水曜日
・・・「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。
七月二十四日 月曜日
・・・爆弾で出来た穴の近くを通り過ぎる。穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。
八月六日 日曜日
・・・「オーストラリアの連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を知っているかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ。捕虜を機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
九月九日 土曜日
将校の話によれば、・・日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが悪臭が強くなり過ぎたので、首を取り上げなければなりませんでした。
九月十四日 木曜日
税関吏は荷物の中に人骨を入れていないかと質問した。日本兵の遺骨をスーベニアとして持ち帰るものが数多く発見されたので、相手構わずにこのような質問をせねばならないのだという。
(「リンドバーグの衝撃証言」『正論』五月号)

「南京虐殺」記述について
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist3_3_1.htm


(読者の声2)以下に掲げる引用文は『正論』00年5月号で紹介された「リンドバーグの衝撃証言」からの抜粋です。 チャールズ・リンドバーグ(1902〜74)はニューヨーク・パリ単独飛行や息子の誘拐・殺害事件で有名なあの彼です。日米開戦後、彼は軍の技術顧問として南太平洋で戦闘任務についた。
この間の日記の邦訳版が昭和49年新潮社から新庄哲夫氏の訳で出版されたが現在絶版になっているものを訳者の了解を得て正論に抜粋を載せたものです。
(リンドバーグ日記からの抜粋)・・・・・・・・
*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。
*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。
*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。
*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。
*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。
*捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。
*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。
*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。
*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。
金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。
*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。
*リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。(以上で抜粋終わり)。
   (AN生)


(宮崎正弘のコメント)終戦から十数年ほど、まわり中に兵隊経験者や引き揚げ者がいて、すくなくとも小生らの世代は、こういう話は耳にたこができるほど聞いていました。どこかで、そうした真実の話が聞かれなくなりました。
「路の会」で数回にわたって、この問題を論じたのが西尾幹二編『日本はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったのか』(徳間書店)です。
ご参照いただければ幸いです。

宮崎正弘の国際ニュース・早読み | melma!
http://www.melma.com/backnumber_45206_1459768



チャールズ・リンドバーグの戦時日記
■チャールズ・リンドバーグの戦時日記
「日本兵の死体に金歯があると、靴で踏み付けたり、棒でつついてその歯を取り出し
て集めて、小さい袋にため込んでいる兵士が何人もいる。砲弾で出来た穴の中に
日本兵の死体を投げ込む。その上をゴミ捨て場にする例もある。死体処理はブル
ドーザーでなされ、墓標がたてられることは、けっしてない」
「ちょうどそのころ、日本軍は泰緬鉄道の捕虜犠牲者のために、四メートルの大理石
の慰霊碑を立てていたことを考え合わせてみよ」
「わが軍の兵士たちは日本兵の捕虜や投降しようとしている者を射殺することを何と
も思っていない。彼らは日本人を動物以下のものとして取り扱い、それらの行為が
ほとんどみんなから大目に見られている」
「ジャップの病院を占領した時には、病院に生存者をひとりも残さなかった」捕虜と
して投降してきた者は即座に射殺、そのためわが同胞は投降もままならず、ジャン
グルの中で飢えに苦しみ抜いて死んでいった。日本人の死体は切り刻まれた。金歯
を抜き取る者、おもしろ半分に耳や鼻を切り取り、乾燥させて本国に持ち帰る者、
大腿骨を持ち帰り、それでペンホルダーやペーパーナイフを作る者さえいたという。
「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人に対して行ったことを、われわれアメリカ人は
太平洋で日本人に対して行っている」
「負傷兵であろうと手を上げようと、みな射殺してしまう。それが残虐な日本兵に
たいする報復だとし、自らの残虐行為を正当化した」
ウイリアム・パーソンズ大佐 投下後の記者のインタービューに答えて、
「(原爆で)ジャップがひどい目に遭うことについて、特別な感情はなかった」
アメリカの雑誌タイム(太平洋戦争当時の記事)
「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、
人間であることを示すような点はどこにもない」



米軍の残虐行為:リンドバーグの衝撃証言
 14.1.10/7.18改定
以下は正論00年5月号で紹介された「リンドバーグの衝撃証言」の抜粋です。
チャールズ・リンドバーグ(1902〜74)はニューヨーク・パリ単独飛行や息子の誘拐・殺害事件で有名なあの彼です。

日米開戦後、彼は軍の技術顧問として南太平洋で戦闘任務についた。

この間の日記の邦訳版が昭和49年新潮社から新庄哲夫氏の訳で出版されたが現在絶版になっているものを訳者の了解を得て正論に抜粋を載せたものです。

・・・・・・・・・・・・・リンドバーグ日記の抜粋・・・・・・・・・・

*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。

*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。

*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。

*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。

*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。

*捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。

*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。

*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。

*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。

金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。

*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。

*リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。

・・・・・・・・・・・・・・・・抜粋終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この号には関連して藤岡信勝氏の解説も載っているが、その中からさわりの部分を。

*南京事件との比較

捕虜を取らない方針と言うとすぐ浮かぶのは、南京における日本軍の方針だ。第16師団長中島今朝呉中将の陣中日記に「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クル」という一節だ。

これを大虐殺派は「捕虜の即時処刑の方針」という意味に解釈し大虐殺の証拠とした。

しかしこの解釈は日本語の文脈を無視した全くの誤り(朝日がよくやる言葉のつまみ食いと同じですね)であることが先の東中野教授の著書で完膚なきまでに明らかにされた。真の解釈は「投降兵は武装解除後に追放して、片端から逃がしてやることだ」と。

*「戦陣訓」のみを非難するは誤り。

戦後の日本では日本兵の捕虜が少なく死者が多いのは「生きて虜囚の辱めを受けず」として捕虜になることを無理やり禁じた「戦陣訓」の為であり、その責任は挙げて軍国主義者だとされているが、リンドバーグ日記を読むとそうばかりではないことが分かる。

なお「戦陣訓」の成立は日清戦争で清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことに由来するとも言われてきた。

*それに対して日本にも多少の虐殺は有ったかも知れないが、基本的には国際法を守り投降者は捕虜にした。

*最近、とっくに決着しているにもかかわらずカリフォルニアで日本軍の捕虜扱いに関し損害賠償を求める訴訟があったが、彼等米兵は相手が日本軍だからこそ生還できたのであり、若し敵が米軍なら彼等は捕虜にされず殺されたかもしれない。

しかも原告ら捕虜の労役奉仕は戦時国際法で認められた合法的な行為であり、戦闘に勝利した軍といえども、捕虜をただで食わせる義務を一方的に負わせないというのは合理的である。

どっちが残虐かなど競い合う議論は何とも空しいが世界歴史の中でも日本人の残虐さは可愛い方だと思う。
米軍の残虐行為:リンドバーグの衝撃証言
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/beigunzangyaku.htm



日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか: 本: 西尾 幹二,路の会
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
「敗戦」の瞬間にかいま見えた日本人の意識の根源から説き起こし、「従属国家」に甘んじつづけた戦後日本を解体して、「自立自存」への新たな道を提示する。

内容(「MARC」データベースより)
大東亜戦争とは何だったのか、そして日本人とは何者なのか? 「敗戦」の瞬間にかいま見えた日本人の意識の根源から説き起こし、「従属国家」に甘んじつづけた戦後日本を解体して「自立自存」への新たな道を提示する。


閉された言語空間—占領軍の検閲と戦後日本: 本: 江藤 淳
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出版社/著者からの内容紹介
眼に見える戦争は終ったが、眼に見えない日本の思想と文化の残滅戦が始った。それは自己破壊による新しいタブーの自己増殖だった

内容(「BOOK」データベースより)
さきの大戦の終結後、日本はアメリカの軍隊によって占領された。そしてアメリカは、占領下日本での検閲を周到に準備し、実行した。それは日本の思想と文化とを殱滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破壊による新しいタブーの自己増殖である。膨大な一次資料によって跡づけられる、秘匿された検閲の全貌。
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by thinkpod | 2006-08-30 19:17 | Books
2006年 08月 30日

リンドバーグ日記

 ☆編集者へ=多治見市の鈴木 勝さん(元会社役員・79歳)から。

 五月号所載「リンドバーグの衝撃証言」を読み、ビアク島の戦闘で米軍捕虜となった私の体験から、米軍の残虐非道な行為について、偽らざる真実を申し述べてみたい。

 ビアク島へ米軍が来攻したのは昭和十九年五月二十七日で、当時は海軍記念日と称していた。

 軍はビアク島の重要性に鑑み、同島守備の基幹・歩二二二連隊増援のため、在マノクワリの歩二二一連隊とヌンホル島守備の歩二一九連隊から各一ケ大隊を抽出してビアク島に派遣した。その輸送を担任したのが、私の所属した第五揚陸隊であった。

 六月二十一日、歩二一九連隊の決死隊員約一五〇余名が三隻の大発に分乗してヌンホル島を出発しビアク島へ向かったが、艇隊は上陸予定地の沖合約四㌔の海上にて米軍魚雷艇の奇襲攻撃を受け全滅した。私の乗艇は後部機関室に被弾炎上し数分で沈没したが、轟沈した僚艇の搭乗員を併せ数十名の兵が海上を漂流していた。

 この無抵抗状態の日本兵に対し鬼畜のような攻撃が米軍魚雷艇から浴びせられた。それは機関銃等による一斉掃射ではなく、拳銃等による狙い撃ちである。米兵は甲板上に鈴なりになり、あたかも射的ゲームでも楽しむかのように、替わる替わるで撃ってくる。そして日本兵に命中するたびに一斉に喚声をあげる。短波放送のスピーカーからは、ボリュームを一杯に上げてジャズの音楽が流されるお祭り騒ぎであった。私はうちあげられた照明弾により明々と照らし出された地獄図を、消えかかる意識のなかで半ば放心状態で眺めていた。この信じ難い情景は私の筆力では到底表現できなく、更にこの事実を証言する者がいない。何故ならば捕虜になった私以外に生存者がいないからである。

 捕らえられフィンシュハーフェンの野戦病院へ空輸された私は、ここで手厚い看護を受けた。この余りにも大きな矛盾を日系二世の通訳に問い質したところ、彼は少し考えて「それは君がラッキーボーイだから……」と答えるのみであった。数日後、一人の将校が一枚の写真を持ってきて無言で置いていった。それは日本の将校が日本刀をふりかぶり、その前には穴が掘られ、目隠しをされ、後ろ手に縛られた米軍兵士が、今まさに斬られようとしている写真であった。米軍はこんな写真により、日本兵に対する反抗心をあおったのであろう。目には目を、残虐には残虐をもってする風潮が第一線の米兵にあったようだ。

 リンドバーグの日記には「負傷兵であろうと手を上げようと、みな射殺してしまう。それが残虐な日本兵にたいする報復だとし、自らの残虐行為を正当化した」と非難している。

 オウイ島から遠望した勇敢な日本兵と西洞窟の余りにも無残な日本兵の末路とを思い合わせ反戦主義者の彼には、第一線米兵の非人道的行為のみが目に映ったのであろう。

 ☆編集者から=戦争の悲惨さが情景となって目に浮かんできます。人間の残虐性にはリツゼンとせざるを得ません。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/reader/06-r1.html


 ☆編集者へ=甲府市の吉田三郎さん(81歳)から。

 五月号、藤岡信勝先生の「あのリンドバーグ日記が語る……」を読んで、既に六十数年前、戦闘中戦友から聞いた非人道極りない捕虜虐殺の話は真實だったのかと、思い新たなものがあった。

 昭和十七年の末、第十七軍通信隊補充兵の我々がラバウルに到着時には、第十七軍本隊(司令官百武晴吉中将)と軍通隊本部は、数カ月前に上陸した一木支隊や、飛行場建設部隊(軍属を含む)はソロモン、ガダルカナル島に在って瘴れい極限の地に加えて兵站不備のため戦闘能力を失い、本部は後退して、ブーゲンビル島ブイン近くのエレベンタに仮営しており、十八年三月、我々は援助に向かった。山本五十六司令長官の搭乗機が我々の頭上で撃墜された頃で「ガ」島から引き揚げてきた戦友が語った話はこうだ。

「日本軍が椰子林を伐開整地した未完成の滑走路へ友軍の捕虜数百人が引き出され、機関銃の一斉掃射でなぎ倒され、未だ半死状態の者までが、ブルドーザー数台で土石のなかへふみ潰された。自分は倒木の陰に身を隠しながら現實の地獄を見てしまった」と語ったのを聞きショックだった(この戦友は栄養失調とマラリアで半月程して戦病死した)。

 この話のことは、復員して五十数年思い出すこともなく過ぎ去ってしまった。

 今は飛行場も滑走路も近代化されていると思うが、所用や観光などで航空機を利用する時は、この下に無念の同胞が眠っていることを知っていてほしいものである。




 ☆編集者へ=台北市の谷川浩三さん(元商社台北支店長・68歳)から。

「昭和十九年、ペリリュー島戦の末期、米軍に追い詰められた我が兵の一人が、海に飛び込み沖に向かって泳ぎ始めた。

 たまたま付近に居た米軍小型上陸用舟艇数隻が忽ち輪形陣をつくり、その日本兵をとり囲み、各舟艇から米兵達が、まるで射的場で標的を狙うかの如くその兵に向かって各自が笑いながら銃弾を浴びせ始めたのである。

 しばらくは浮きつ沈みつしながらも泳ぎ続けていたその兵はやがて弾丸が命中したのか波間に沈み再び浮き上がっては来なかったのである。

 降伏を知らぬ我が兵がどうしてあの状況下で、両手を挙げて降伏の意思表示が出来たであろうか? よしんば挙げ得たとしても米兵達は面白がって射撃を止めなかったに違いない」

 これは小生が学生の頃一般の劇場で見た映画の前にやるアメリカのニュース映画の一場面である。

 その時は、「何と残酷な、これが正義を重んずる米軍(と当時は思わされていた)のやる事か!」と我が兵に対する同情と共に米兵に対する怒りがこみ上げて来てその夜はよく眠れなかった位であった。

 今回本誌五月号で「リンドバーグ日記」の記事を見て、最初は信じられぬ思いであったが、かのニュース映画の場面が脳裡によみがえり、すべては事実に違いないと確信するに至ったのである。

 戦後日本軍の残虐行為のみが取り上げられ無実の罪も含めて2000人に近いBC級戦犯の尊い命が奪われ今また、カリフォルニア州の事後法により捕虜虐待に対する補償の動きが活発になりつつある。

 今さら半世紀前の米軍側の残虐行為を裁くことは不可能である。しかし我が国としてはこの「リンドバーグ日記」や前記のニュース映画等あらゆる米軍側の残虐行為の資料を獲収し敗戦国側にのみ負わされている戦争犯罪の追及が如何に理不尽なものかを世界に訴へ、賛同を得る努力をしなければ悔いを後世にまで残すことを自覚せねばならぬとつくづく思った次第である。




 ☆編集者へ=大津市の渡邉英一さん(57歳)から。

 五月号、「リンドバーグの衝撃証言」に関する多治見市の鈴木勝さんの投書(六月号掲載)を読み、数年前から気になっていた事柄につき投稿します。

 数年前、居酒屋での酒の話題としては極めて珍しいのですが、大東亜戦争末期に満州に侵入した上、蛮行の限りを尽くしたソ連軍の非道ぶりを糾弾し、悲憤慷慨している若者グループと、その向かいで「いや、アメリカも随分と酷いことをした」とボソボソ呟きながら酒を飲む年配客に出あわせました。

 私は、若者グループに感心する半面、年配客の態度には「ソ連で洗脳されたのか?」と同情しながらも内心軽蔑し、その印象のまま現在に至っておりましたところ、上記「正論」の記事と鈴木氏の投書で年配客の呟きに合点がいくとともに、今更ながら話を聞いておけば良かったと臍をかんだ次第です。

 巧妙な占領政策やアメリカ製の戦争映画、更には自虐史観に迎合した日本映画の影響で、我々には、捕虜の取り扱いは「アメリカはフェア」だけど、我が日本軍のやり方は「あまり褒められない」との刷り込みがどこかにある!

 しかしながら、鈴木氏のような体験談を後世に伝えておかねば偏向マスコミの「悲惨な戦争体験談」ばかりが残り、無念の死を強いられた英霊の魂は浮かばれません。

 また、先の私の如く、我が国のために戦った人たちを貶める過ちを犯してはならないと考えています。

 そこでひとつ、「正論」誌が中心になって、そのような体験談を集めてくれることをお願いする次第です。




 ☆編集者へ=名古屋市の木越正太郎さん(元会社役員・77歳)から。

 六月号の本欄で、ビアク島の戦闘で捕虜になられた鈴木勝さんが残虐非道だった米軍の偽らざる事実を次のように述べておられます。

「数日後、一人の将校が一枚の写真を持ってきて無言で置いていった。それは日本の将校が日本刀をふりかぶり、その前には穴が掘られ、目隠しをされ後ろ手に縛られた米軍兵士が、今まさに斬られようとしている写真であった。米軍はこんな写真によって、日本兵に対する反抗心をあおったのであろう。目には目を、残虐には残虐をもってする風潮が第一線の米兵にあったようだ」

 それを読んで私は、「あれっ、わたしの経験とは全く正反対だなあ」と咄嗟に感じました。

 昭和二十年十月下旬、私は鈴木さんより数カ月遅れてルソン島の北部山岳地帯で米軍に投降しました。そのときの米軍に対する私の第一印象を次に述べてみます。

 一八六四年、ジュネーブの国際会議で、「戦地軍隊ニ於ケル傷者及ビ病者ノ状態改善ニ関スル条約」が締結されました。米軍はそれを忠実に順守して、比島で捕虜になった私たち日本の軍人を思いのほか厚遇してくれたように思います。

 モンテンルパのニューピリピット刑務所の中に設けられた米第一七四野戦病院に収容されたときの私は、栄養失調・マラリア・疥癬などで体重が三五㌔という餓死寸前の極限状態でした。アメリカ人の愛国心による尊い献血で作られた人工血漿「ヒューマン・プラズマ」という高貴薬のお陰で私は一命をとりとめました。毎日熱心に回診して下さった米軍の軍医は、かつての名優タイロン・パワーのようなハンサムでした。『目は口ほどに物を言い』と申しますが、言葉は分かりませんでしたが、いつも慈愛の眼差しで、「ハウ・アー・ユー」と優しい言葉をかけながら聴診器を両耳に当てがう癖が印象的でした。その人間愛に、いつもジーンと胸が熱くなったことを半世紀以上も経った今でもハッキリ覚えています。

 一カ月ほど経って体重も増え元気になったとき、カンルンバンという収容所に移りました。そこでは、体力を回復させるための軽作業に就きました。そんなある日、米軍幕舎の草むしりをやっていましたら、テントのメーンポールにタテ四〇㌢、ヨコ三〇㌢ほどの額縁に入ったモノクロ写真が掲げてあるのが目に飛びこんできました。

 目隠しされた米兵を日本刀で今まさに斬首しようとしている日本兵の、目を覆いたくなるような鬼気迫る写真でした。多分これは前述の鈴木勝さんが見られたのと同じ写真だったと考えられます。確かに米軍兵士の、対日敵愾心を煽るための戦略の一環であったに違いありません。しかし、その写真の真下で黙々と作業をさせられる私たちにしてみれば、穴があったら入りたいような、あんな嫌な代物はありませんでした。

 ……と、数人の部下を従えた米軍の一将校がそこへやってきました。こんどは、クラーク・ゲーブルみたいな苦味ばしった好男子でした。私の顔を見るなり眉間に皺を寄せ、「ノーグウ」と叫んだかと思うとその写真を部下に下ろさせ、私に愛くるしいスマイルを投げかけそれを持ち去ったのです。後で分かったのですが、その将校は前日赴任したばかりの新しい収容所長のようでした。

 当時、デモクラシーとは一体どのようなものなのか皆目分からない私でしたが、「日本の将校とは随分違うんだなあ」という印象は今でも強烈に残っています。

 終戦時、わずか旬日の参戦で樺太や北方四島を理不尽に強奪し、六十余万の日本軍捕虜を酷寒のシベリアに抑留して強制労働させ、無慮六万人もの同胞を惨死させたソ連の過酷なやり方と比べると、比島での米軍のそれは、まさに雲泥の差があります。もし私がソ連の捕虜になっていたとしたら、今とてもこの世には生き長らえていなかったでしょう。

 米軍から、非道な残虐行為を蒙られた鈴木勝さん一一どうか米軍の中にも、一方でこのような気高い恩寵があったという事実を、いくらかでも知っていただけたら、と思う次第です。


 ☆編集者から=戦争という行為には、敵味方の双方に明と暗があります。したがって、ことさらに相手の暗部のみをクローズアップするのはフェアではないと思います。暗い戦争のなかの明るい部分も教えて下さい。

http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/reader/07-r1.html



<戦時中の米国の対日行為>

 以下は本で知った話です。戦時中米国のグラフ雑誌の表紙に、少女が前線の兵士に手紙を書く場面が写されていますが、そこに前線の兵士から送られた、死んだ日本兵の"しゃれこうべ"が置かれていたのです。これは戦時中日本で報道され、"鬼畜米英"のフローガンの原点になったらしいが、こんなことの報道は勿論占領期間中は厳禁されています。ですから、今の日本人には戦時中の"鬼畜米英"のスローガンは、人道的な米軍の実態とはかけ離れた、日本の軍国主義の宣伝に国民が嫌々従ったものと理解されているのです。日本の民間人の集団自決が日本軍の命令によるものであるかのように伝えられ、自決せずとも"人道的な"米軍に助けられたと言う風に思われているようです。でもグラフ雑誌でアメリカ人の本性を知っていた戦時中の日本人は本当に"鬼畜米英"と思っていたはずです。

 戦争中には、聯合国による戦争犯罪行為もかなりあったことは、インバール作戦などの戦記にも負傷した日本軍将兵にガソリンをかけて焼き殺した光景が遠くから見えたとの記述に残されていたと記憶します。その最大の残虐行為は非戦闘員に対する原子爆弾による無差別殺傷です。


<原爆被害写真>

 検閲、言論統制が厳格に守られたのは広島・長崎の原子爆弾の被害写真でした。小学校時代5年生の時、サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年ですが、我々は初めて、アサヒグラフで原子爆弾の凄惨な写真に戦慄したのです。

 これは占領期間中は絶対に報道されませんでした。仮にポツダム宣言による報道、言論の自由が確保されていれば、戦後直ぐにこの写真は公表されていた筈です。その場合に果たして、聯合国が極東軍事裁判が「平和に対する罪」「人道に対する罪」で日本の指導者だけを裁くことが出来たでしょうか。原爆被害写真が公表されるのは「閉ざされた言語空間」の中で日本人が、占領軍が与える材料と統制、管理の結果、米国が望むような戦争観、米国観を日本人が抱くように出来上がってからのことなのです。つまり、原爆被害写真を見ても、日本人は、米国には無害化されていたのです。

「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(二):西尾幹二のインターネット日録
http://nishiokanji.com/blog/2006/08/2_4.html


リンドバーグと北方領土

 一九三一年八月十九日。米国の飛行家、リンドバーグ夫妻が水上機でカムチャツカ半島を出発し千島列島上空を飛んだ。根室無線局の第一信は「日本にようこそ」だった。現在地や天候の実利的な情報を求める前の、礼儀正しい歓迎のあいさつに、夫人のアンは、日本人は永遠の紳士(中村妙子訳「翼よ、北に」)と記している▼濃霧やエンジンのトラブルで、その後、根室までに四、五日もかかっている。が、ケトイ島沖で日本船の乗組員が手助けをし、不時着した国後(くなしり)島では貧しい漁師一家が、言葉も通じず夫妻を誰かも知らないのに、煮魚でもてなしている。なるほど、紳士の国なのだ▼アンは礼儀正しさとともに、紅白の水引をはじめ、日本画や盆栽、茶道を語り、日本人の生活に溶け込む美の意識や、自然に対する鑑賞眼を的確な視点で絶賛している。今の日本人以上に日本を理解していたのだと、居ずまいを正す▼夫妻の来日は北太平洋の航路調査のためだが、翌月、日本軍が満州事変を起こす。その後の日中戦争や真珠湾攻撃など予想もしなかったろう。十四年後の漁師一家の運命も。鳥取県の一・四倍ほどの北方四島に一万七千人余りが暮らしていたが、八月二十八日、ソ連軍が占領を始め、脱出できなかった人は抑留されたという▼「領土問題は解決済み」としたかつてのソ連指導者の言葉を思う。過ぎ去ったこととばかりに、相手の主張に耳を傾けようとしない。「参拝は信教の自由」と胸を張ったわが宰相にも、どこかで相通じるかもしれないが▼「日本にようこそ」。アンに日本人を紳士と評させた言葉が北方四島の貝殻島沖合の事件で胸を突く。(二)
'06/08/28
山陰中央新報 - リンドバーグと北方領土
http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=799054034


新・平成徒然草 裏・大東亜戦争−語られなかった歴史
http://katsumikado.blog74.fc2.com/blog-entry-178.html#comment412
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by thinkpod | 2006-08-30 18:56 | Books
2006年 08月 26日

パール・ハーバー

--すべての陰謀はここから始まった--

『日本の奇襲攻撃計画のすべてを、アメリカは知っていた!』

アメリカ第32代大統領、フランクリン・D・ルーズベルトは、真珠湾襲撃についての一部始終をはじめから知っていながら、そのことをハワイの軍司令官には通告しなかった。なぜならヒトラーをワナにかけ、ドイツ側に宣戦布告させるためには、まずアメリカが「襲撃を受ける」必要があったからだ。当時、アメリカでは世論も連邦議会もヨーロッパの戦争への参戦には真っ向から反対していた。つまり「奇襲攻撃を受ける」ことこそが、参戦への「裏口」であったというわけだ

ルーズベルトは次のような手段を用いて、パール・ハーバーの軍司令官たちを欺いた。

ハワイへの情報を絶つ
11月27日以降、日本側との交渉が継続していると思い込ませ、開戦を認識させなかった

日本の空母艦隊の位置について、ハワイへは偽りの情報を送った

「12月。真夜中の凍てつくような暗闇の中、英国からの使節が車に乗せられ、人気のないワシントンの通りを急いだ。彼は『米大統領親展、最重要緊急機密事項』との文字が記された、極秘メッセージを封印した外交用郵袋を携えていた。中にはロンドンにある英国海軍本部からの最重要メッセージ、「12月7日にパール・ハーバーが奇襲攻撃を受ける」との情報が入っていた。ハリファックス卿はすぐにホワイトハウスに招じ入れられ、フランクリン・ルーズベルトと会談した。ルーズベルトの希望は高まった。長い間あたためていた計画がまさに今、現実のものになろうとしているのだ。それは1941年12月5日のことであった。」

「まえがき」より

本書は、アメリカが日本艦隊の暗号コードをパール・ハーバー以前に解読していたという動かすことのできない証拠を突きつけるもので、修正主義派の決定版と言える。パール・ハーバーについての既刊本と比べ、はるかに新しい文書、これまで明かされることのなかった、より重要な機密文書(公表されることはないと考えられてきた文書も含む)を掲載し、第二次世界大戦へ突入する原因を作った近代における最重要国家犯罪、歴史を塗り替える事件についての真相を解き明かす一冊である。このために3千万人を越える人命が奪われ、15兆ドル強が費やされ、信じられないような被害を被り、軍事面、科学面、技術面、産業面においても余波をもたらした。それどころか、人類の滅亡につながる可能性さえあったのだ



本書で暴かれる数々の真実

アメリカ政府が日本艦隊の真珠湾奇襲計画をあらかじめ知っていたという事実を証明する海軍情報分析についての初の暴露本。

決して公表されることはないとされてきた、最重要機密事項であるコードブック、これまで隠蔽されてきたアメリカ政府情報部の暗部を暴露。

12月7日、Xデーにハワイのレーダー探知を不能にしたアメリカ政府のもくろみ。

パール・ハーバー以前に解読された100通を越える日本軍の暗号通信JB-25Bのメッセージの初公開。

ミッドウェー海戦での裏切り。

ルーズベルトが、生涯大統領であり続けるために自国を売った、方法、時期、理由についての詳細。

「ウィリーの本は、その徹底的な調査こそが魅力だ。本書にはパール・ハーバー以前に解読された日本軍の暗号数百通、日本軍の主要なコードブックからの実例、12月7日の惨事へ導いた罪の証拠となるアメリカ海軍メモや外交メモ・・・などが記載されている。」

書評より


以下、本文より


結論-ルーズベルトは裏切り者だった

アメリカは、イギリス、オランダ、オーストラリア、ペルー、ソビエトなどの政府から、パール・ハーバーへの奇襲計画についての警告を受けていた。日本軍の重要な暗号はすべて解読されていた。ルーズベルトやマーシャルらは奇襲計画を承知の上で、それを容認し、隠蔽したのだ。



パール・ハーバーは、ドイツとの開戦のためのワナだった
--日本は「だし」として使われた--


ルーズベルトは厳粛に、そして繰り返し、アメリカ国民にこう約束していた。「あなた方の息子を外国の戦争に送り出すようなことは決してしない、アメリカが襲撃されない限りは。」彼はこの約束を破ることなど何とも思っていなかった。彼が恐れていたのは、これを破ることによって自分の政治的立場が危ぶまれるという、その一点だけだった。ホワイトハウスのお気に入りであった政治ジャーナリスト、オルソップおよびキントナーは近年、こう記している。「彼(ルーズベルト)は国民への約束をおおっぴらに破ることはできないと思っている。しかしうまい抜け道を見つけることはできる。」そしてその抜け道とは、ドイツの方から先にアメリカに攻撃させることだった。そうすれば反撃することができる。しかし彼は11月の時点で、ドイツ軍が先制攻撃をしかけてくる可能性がないことを悟った。ところがルーズベルトは、日本軍にならアメリカを襲撃させることができるとわかっていたのだ。




アメリカが勝つとわかれば、ヒトラーは決して宣戦布告しないだろう

目的:ドイツとの戦争。どうすればヒトラーに宣戦布告させることができるか。アメリカが勝利すると思わせないことが肝心だ!
大西洋での直接的な挑発は失敗に終わっていた。ヒトラーはワナに食いつかなかった。
ルーズベルトはMagic*(*P9参照)から、日本が襲撃すればドイツも宣戦布告すると知っていた。
結論として、問題はひとつ。どうやって日本に先に襲撃するよう仕向けるか。
日本は襲撃に成功する必要がある。日本の襲撃が失敗に終われば、ヒトラーは日本を裏切るだろう。


もし日本艦隊が滅ぼされるようなことになれば、目的は遂げられない。そうなればヒトラーにとって、宣戦布告は明らかに自滅につながるからだ。それだけはなんとしても避けなければならない。計画を実現させるには、日本軍が襲撃に成功するしかない。日本との戦いで弱体化したアメリカを見せつければ、ドイツを宣戦布告させることができる。それはすべてワナだったのだ。ルーズベルトの目には日本など入っていなかった。彼が狙っていたのはヒトラーだった。彼の究極の目的は、愛するソビエトを守ることだったのだ。

当時のFBI長官、J・エドガー・フーバーは1942年初頭、ルーズベルトは41年初秋からパール・ハーバー計画について知っていたと友人に語った。あのような計画を考え出すということは、いかにもルーズベルトのやりそうなことだった。ルーズベルトが倫理的な見解をまったく持たないことについて、アメリカ上院は非難していた。また米国の著名なジャーナリスト、ウォルター・リップマンはこう記している。「彼の目的はシンプルなものではなかった、そして彼のやり方は回りくどいものだった。」



なぜ古い戦艦が犠牲になったのか

ルーズベルトは、後に自らスターリンに語ったように、どうしても参戦する必要があった。そのためには国民を激怒させる必要があったが、それには襲撃を受け、大きな犠牲を出すしかなかった。
彼はなんとしても実行しようとしたのか? 彼は「あまりにも海軍を愛しすぎていた」のではないのか?彼は同じ目的のために大西洋で艦隊を犠牲にしていた。もちろん、彼はなんとしてもやろうとしたのだ。いや、実際にやってのけたのだ。
彼は艦隊の中でも重要なものは犠牲にしなかった。春には多くの戦艦を大西洋へ送り出した。しかし空母サラトガは西海岸に残した。またパール・ハーバーから空母艦隊を2隊出港させたが、これにより空母だけでなく、護衛用小型空母も襲撃から守ることに成功した。パール・ハーバーに停泊していなかった?た新しい戦艦はすべて守られたのだ。残されたのは第1次世界大戦時に用いた「くず」だけだった。
これに関しては、「共犯者」であった海軍大将ブロックが連邦議会でこう証言している。「日本軍にやられたのは、古い戦艦だけだ。ある意味、親切なことをしてくれたというわけだ。」
ルーズベルトもこれと同じ見解を抱いていたことは明らかだ。12月7日午後2時15分、パール・ハーバーへの襲撃を受けたという知らせを受けた数分後、まだ被害報告を受ける前に、ルーズベルトはイギリス大使館のハリファックス卿に電話でこう語っている。「戦艦のほとんどは沖に出ていた・・・新しい戦艦は一隻も港に泊めていなかった。」彼は新しい戦艦を守ったのだ。そしてそれこそが、彼にとってのこの襲撃計画における最重要課題だったと言える。第一に、ルーズベルトは古い戦艦についてはまったく気にも留めていなかった。第二に、彼は襲撃が起こる前から、襲撃時には港に古い戦艦しか残してないことを知っていた。つまり、パール・ハーバーこそ、彼がずっと求めていた「アメリカが大した被害を被ることなく受けることのできる先制攻撃」だったのだ。ルーズベルトは石油輸出禁止から最後通牒まで、この襲撃を計画した立役者だったのだ。そして誰が生き延び、誰が死ぬかという決定も彼が下したのだ。




黙秘による隠蔽

なぜ政府は艦隊襲撃の暗号メッセージ、12月7日以前に解読されたJN-25のメッセージを公表しようとしないのだろう。JN-25Bを隠すことは、国家の安全保障とは何ら関係ない。これは取るに足らぬ19世紀の暗号コードで、その解読技術は既に1931年に世界じゅうに公表されていた。またアメリカ政府はJN-25Bを解読し、それがミッドウェー海戦、つまりパール・ハーバーの7ヶ月後に起こった戦争を勝利に導いたことについては、誇らしげに公表したのだ。要するに、コード自体にも、その解読にも、それを解読したという事実にも、国家の安全保障に関わる意味や性質など何もないのだ。パープル・コードの解読文と、JN-25の解読文の間の違いは何なのか。答えは簡単だ。JN-25のメッセージにはパール・ハーバー襲撃作戦についての詳細な最終計画が含まれていたが、パープル・コードにはそれがなかった、ということだ。



政府が隠蔽しているもの

なぜ政府は真実を公表しようとしないのだろう。このような隠蔽は政府への不信感を募らせるだけだというのに。いまだに隠蔽されているものは、JN-25の解読文と、アメリカとイギリスが日本軍のパール・ハーバーへの奇襲攻撃の一部始終をずっと追跡していたということを示すワークシートだ。これはスキャンダル以外のなにものでもない。だからこそトップシークレットなのだ。これは国家安全保障局(NSA)が反逆罪の事後共犯であるのではないかという問題を明るみに出す事実である。
しかし、アメリカ政府がJN-25Bのメッセージ解読能力を持っていたということをNSAが隠蔽しているというその事実自体が、とりもなおさず政府が大きな罪を犯したことを物語っている。
NSAはJN-25文書の量について組織ぐるみで虚偽の証言を行ってきた。1941年11月から12月初頭にかけて送られたJN-25メッセージの解読文書の4分の1以上が、今なお隠蔽されているのだ。真実を明かさず、法にも従わないという点に於いて、NSAはゲシュタポと同類であると言える。我々はジョージ・オーウェルの著した『1984』に描かれている全体主義的社会に生きているというわけだ。反逆罪がたたえられ、ルーズベルトが無垢な若者を何千人も殺害したことが善とされる社会なのだから。一言で言うと、アメリカは我々が非難する独裁国家と何ら変わりはない、ということだ。自治国家の国民ならば、真実を知り、適切な判断を下す権利がある。NSAは真実を覆すことによって、民主主義を破滅させているのだ。

『過去を管理する者は、未来を管理する。現在を管理する者は、過去を管理する。』
--ジョージ・オーウェル




ルーズベルトは日本をアメリカとの戦争に巧みに引き込んだ反逆者である。しかも政府はそれを黙認している。ルーズベルトはアメリカ人の命を犠牲にし、アメリカを危険にさらし、連邦議会の合憲的な権力を不法に利用した反逆者だ。A
date which will live in infamy.『汚名のうちに生きる日』(*ルーズベルトの言葉。12月7日のことを指す)とはよく言ったものだ。実際、彼はこの言葉にまさに隠れた二重の意味をもたせて用いたのだ。襲撃の4日前には、ルーズベルトは自らが「死の判断を下した」海兵隊員の遺族に弔電を送ることができたというわけだ。国家の安全保障という見え透いた偽りの言い訳を楯に、今なお真実が隠蔽されているということは、政府がいまだに半世紀前に起きた真実に直面することができないということを証明している。
我々がすべてを明らかにしなければ、我々はパール・ハーバーの犠牲となった兵士、そして自国のために命を捧げたすべての兵士の名を汚すことになるのだ。彼らの命が反逆の犠牲となったのであれば、彼らの死をむだにしないためにも、そのことを我々が認識する必要がある。



歴史的背景

第二次世界大戦へ突入することとなった歴史的背景を、1904年の日本軍によるロシア艦隊奇襲攻撃から、年表形式で詳細に順を追って述べている。


(「背景」からの抜粋)

1941年6月23日:同年同月22日にドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻。それを受け、翌23日に大統領顧問ハロルド・イッキーズはルーズベルトにメモを書いた。「日本への石油の通商を禁止することで、参戦への道を可能とする状況を生み出すことができるでしょう。しかも効果的な方法で、簡単に参戦することができるでしょう。その上、このように間接的な形で参戦することによって、共産国ロシアとの同盟を結んだという批判を避けることもできます。」

1941年7月25日:ルーズベルトはアメリカ国内の日本資産を凍結し、石油の輸出を差し止め、日本をアメリカとの戦争に追い込んでいった。またこの先、ハワイへの軍事情報も差し止めた。

1941年8月14日:イギリス首相チャーチルとルーズベルトが大西洋の船上で秘密会談を行い、大西洋憲章に調印。これが国際連合の青写真となる。そこときのことをチャーチルはこう記している。「ルーズベルトの参戦への意欲は驚くほど強いものだった。」チャーチルは内閣に電報を打った。「ルーズベルトが参戦を固く決意していたことは明らかだった。」

1941年10月18日:内務長官ハロルド・イッキーズの日誌より。「参戦への最良の入口は日本であると、ずっと考えてきた。」



コードは解読されていた

日本軍の用いた暗号コードはすべてアメリカに解読されていた。
パープル・コード
J-19
JNA-20
JN-25

チャーチルの手記より。「1940年末から、アメリカは日本の重要な暗号をすべて見抜いていた。日本の軍事上、外交上の膨大な量の暗号電報を解読していた。」
そして、パール・ハーバー奇襲計画のすべてが、暗号JN-25Bに記されていたのだ。

Magic:日本の暗号無線通信を解読して得た情報に対してつけたアメリカのコードネーム。この存在を考えると「日本側の襲撃計画をアメリカが予測できなかったとは考えられない。」

Ultra:ドイツのエニグマ(Enigma)暗号機を使って無線通信文を傍受、解読して得た情報について与えた英国のコードネーム。



警告はなされた
--警告は襲撃の回避ではなく、「参戦」に利用された--

1941年1月27日から、アメリカに対してもたらされたイギリス、ロシア、ペルー、オランダなど関係各国からの「日本軍によるパール・ハーバー襲撃の警告」や「日本軍からの暗号の解読文」を年表形式で順を追って詳細に示している。

その結果、パール・ハーバーの奇襲攻撃については、その正確な位置、日付、時間に至るまで、計画の詳細をアメリカが知っていたことが、動かしようのない事実としてあぶり出される。

1943年11月30日:ルーズベルト、チャーチル、スターリンがテヘランで会談。戦後のドイツ問題などに関して協議。このときルーズベルトはスターリンにこう述べた。「もし日本軍の襲撃がなかったら、アメリカの部隊をヨーロッパへ派遣することができたかどうかは非常に疑わしい。」この言葉をパール・ハーバーの4ヶ月前に大西洋船上での秘密会談で彼が述べた言葉と照合してみよう。「戦争を正当化するための“事件”を引き起こすためなら、なんでもやるべきだ。」もし日本の襲撃が唯一の可能な“事件”であったとすれば、もちろんルーズベルトはそれを引き起こすことを約束しただろう。



『パールハーバー、すべての陰謀はここから始まった』
本書のペーパーバック(全424ページ、驚嘆すべき内容満載)あるいは電子ブックをお求めの方は、ここをクリックしてください。ウェブページを読んだら、全編読んでみたくなったのでは?ウェブページに掲載しているものは、第1章の1割ほどで、本書でお話しする、数々の驚くべき暴露話のほんの一部です。



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(書評)
「本書『パールハーバー、すべての陰謀はここから始まった』はアメリカについての認識をくつがえす、センセーショナルな一冊だ!」
大学教授、ロバート・ケルソ



本書ではじめて暴かれる真実の数々

アメリカ政府が日本艦隊の真珠湾奇襲計画をあらかじめ知っていたという事実を証明する海軍情報分析についての初の暴露本。

決して公表されることはないとされてきた、最重要機密事項であるコードブック、これまで隠蔽されてきたアメリカ政府情報部の暗部を暴露。

ローレンス・F・サフォード氏の手になるパール・ハーバーの根幹に関わるドキュメント、A Brief History『簡潔な歴史』で、アメリカ政府のSRH-149通信情報部に関し、あらかじめ隠蔽されていた事柄をここにはじめて明らかにする。

12月7日、Xデーにハワイのレーダー探知を不能にしたアメリカ政府のもくろみ。

パール・ハーバー以前に解読された100通を越える日本軍の暗号通信JB-25Bのメッセージの初公開。

ミッドウェー海戦での裏切り。

ルーズベルトが、生涯大統領であり続けるために自国を売った、方法、時期、理由についての詳細。


「ウィリーの本は、その徹底的な調査こそが魅力だ。本書にはパール・ハーバー以前に解読された日本軍の暗号数百通、日本軍の主要なコードブックからの実例、12月7日の惨事へ導いた罪の証拠となるアメリカ海軍メモや外交メモが記載されており、また8編の付録、詳細な参考文献一覧、30頁に及ぶ脚注などでもさらなる情報が追記されている。」
2001年12月9日の書評より

パール・ハーバー - すべての陰謀はここから始まった
http://www.geocities.com/mark_willey/pearlj.html


ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報
http://amesei.exblog.jp/d2006-08-25



   米側で同時進行した日本本土奇襲開戦計画

 クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作が話題になっている。一つの戦闘局面を日米双方から公平に描くという発想が、戦後60年を経て、ようやく米国民にも抵抗なく受け入れられるようになったのだろう。

 時代がここまで進んできたのだとしたら、次はぜひとも「パールハーバー」を2部作で映画化してほしいものだ。日本側の真珠湾奇襲計画と、米側の日本本土奇襲計画を同時進行で描く。2部作でなく、1本の作品で交互に双方の作戦を進行させていくのもいいだろう。

 ルーズベルト政権の秘密作戦については、当コラムで5年前に書いているのでバックナンバーを探していただきたい(「アメリカ伝統の秘密戦争(続き)」01/10/10)。

 米国では今年になって『予防攻撃〜真珠湾を防ぎ得た秘密計画』というタイトルの研究書が出版され、同時に著者が映画化の脚本まで完成して売り込み中だという。惜しむらくは無名の航空マニアのようで、レベルのほどは分からない。

http://www.preemptivestrikethemovie.com/

 1991年12月6日の米ABCテレビ「20/20」では専門家の歴史学教授が「本物の政府計画だ」とコメントしている。オリジナルの映像14分が2分割で見られるので、ご紹介しておく。専用ソフトがあればダウンロードもできる。

(前半)http://www.youtube.com/watch?v=C1cX_Fr3qyQ
(後半)http://www.youtube.com/watch?v=2Uf_3E4pn3U
 
 時系列に事実を箇条書きにしておこう。

1937年7月   米陸軍航空隊シェンノート大尉が退役して中国空軍を指揮。  同年12月   南京陥落
1940年12月21日 モーゲンソー財務長官、シェンノートらが米軍人による日本爆撃を立案。「木と紙でできている日本家屋には焼夷弾が効果的」と意見一致。
1941年5月   統合参謀本部(JB)が対日奇襲作戦「JB355」を策定。
同年7月23日 ルーズベルト大統領がゴーサイン。2日後に在米資産凍結。
   8月下旬 シンガポールに米人パイロット等三百人が集結。計画では9月下旬に奇襲爆撃決行。しかし機体の到着が遅れた。
   12月7日 日本側の真珠湾奇襲計画決行。

 「20/20」のスクープでは、戦闘機の護衛がなくて目的が果たせるかと疑問が出されていたが、後に出版された『ルーズベルト秘録』(産経新聞社、2000年12月)では、カーチス戦闘機350機がロッキード・ハドソン長距離爆撃機150機を護衛する計画だったと新しい情報を記している。

 アメリカ政府がこんなに堂々と対日奇襲作戦を計画し、実行に移していたというだけでも知らない人は驚くだろう。日本側の奇襲作戦と同時進行なのだから、映画的な題材としてこれほど魅力的な事実はないと思うがどうだろうか。

 しかし、これだけは付け加えておきたい。同じ奇襲作戦といっても、日本側は真珠湾の「海軍力」のみが攻撃目標であり、しかも直前に宣戦布告をする計画だった。
 これに対して米側の計画は、初めから民間の日本家屋を焼き払い、しかもそれを中国軍の攻撃に偽装しようというものだった。

 どちらが「sneak attack」(卑怯な騙し討ち)と断罪されるべきか、答えは明らかであろう。(06/11/27)(追補12/15)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/5562/column/latest.html
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by thinkpod | 2006-08-26 02:23 | Books
2006年 08月 22日

壊される日本

「心」の文明の危機
馬野周二・著  プレジデント社  1993年刊

  著者が力説しているのは、単に日本経済が破壊されるというレベルのことではなく、日本の歴史や文化・伝統といった、いわゆる日本人の「心」が破壊されつつあることに対して警鐘を鳴らしているのです。しかしながら、この本が書かれた1993年から既に10年以上の月日が流れた今、わが国は著者が危惧していた通りの悲惨な状態に置かれつつあります。国民の大半は3S(スクリーン、スポーツ、セックス)に目を奪われ、世の中の大きな流れには無関心です。理解しがたいような残酷な犯罪が多発するようになり、テレビや新聞で報道されています。それらはすべて、今日の世界を支配下に置いている“ある強大な勢力”によって、意図的、計画的に実行されてきたことなのです。
  「そのことに気づく人が非常に少ない」と著者は嘆いています。まさに、日本人は家畜のように、ただ毎日を楽しく暮らせればよいという低級な民族へと退化しつつあるのかも知れません。ここでは、その“ある勢力”による日本侵略の足跡とも言える内容を抜粋しました。ぜひこの現実を直視していただきたいと思います。     (なわ・ふみひと)



 ペリー艦隊来航の工作者

  ペリーは1852年に4隻の軍艦を率いて江戸埠頭に現れ、開国と通商を強要した。ペリー艦隊はきわめて大規模な艦隊であり、有力な海兵を搭載していた。
  当時の幕府はすでに幕末症状を呈しており、この武力威嚇に対して手の打ちようがなかった。ついに日米和親条約を締結したが、これは幕府の無知につけ込んだ不平等条約であった。そして日本は鎖国以来250年にして開国したわけである。
  当時の東アジアの状況を見ると、すでにインドは植民地化が着々と進められており、清国はアヘン戦争に敗れ、広東、上海等を貿易港として解放し、そこにはイギリス人を中心とする酷(むご)い貿易商人が入り込んで、中国搾取の体系を築き上げつつあった。 ところで、ここでわれわれが深く考えなければならないことは、イギリスさらにはオランダ、フランスの勢力が、それまでの2世紀の間に東洋の植民地化を進めてきた事実である。
  今日の歴史書には、単に英・蘭・仏の政府が国策として東洋の植民地化を進めたように書いてあるが、実は、彼らの植民地化の実態は、国家が動いたというよりは、むしろ各国の一部グループ(各東インド会社)による商業的冒険主義者の連合勢力による動きだった。
  日本人は、日清戦争以後の大陸進出が政府主導というよりは、むしろ軍部主導でなされた経緯があるから、イギリスやオランダ、フランスの東洋への植民地獲得活動を、日本と同じように政府や軍人たちによる計画的な動きだと考えやすい。しかし実際はそうではなくて、むしろ商工業者(その中核の冒険商人)による経済的侵略行為が、のちにそれぞれの政府によって認知されて、植民地として政治的体裁を整えるようになったのである。

 東インド会社の正体

  ここに国家的に海外進出を行なった日本と、それに3世紀先行するヨーロッパ各国との大きな違いがある。そして、こういう動きの中心には必ず何らかの思想的、宗教的な背景があるものだ。
  イギリス、オランダ、フランスの場合は、その中心を成したのはユダヤ系の商人であったと思われる。アメリカ大陸を発見したコロンブスも、その身元を探るとやはりユダヤ人であったと見られている。つまり、海外に出て行って商売をし、そこで軍事力・政治力を打ち立てて植民地化し、独占的商業圏を築き上げ、その住民を搾取するという観念は、ヨーロッパ土着の考えというよりは、むしろ古い中東の歴史から出た考えであると見るべきであろう。
  イギリスの東インド会社が設立されたのは1600年で、これは秀吉が亡くなって2年後のことである。そして、オランダの東インド会社ができたのは、それから2年遅れた1602年、フランスの東インド会社は1604年である。
  その後のイギリス、オランダ、フランスの植民地経営を見ると、現地の住民を教育するといった考えはなく、単に労働力として酷使したのである。また現地人の中で頭の良い者は、本国の大学に入れて植民地政府の従順な官吏として使った。
  さて、英・蘭・仏の東インド会社なるものは、主としてユダヤ系の勢力によって作られたものであり、その中には太古の中東から脈々と流れる精神が深く隠されていたのである。彼らの植民地支配の内容を見ると、流血と詐取と搾取の跡が歴々としている。こういうことは本来の敬虔なキリスト教徒である本国ヨーロッパ人は避けていたことであろう。
  たとえば中国に侵入したイギリスの行なったアヘン戦争と、アヘンの中国への無制限の持ち込みといいったことは、尋常の精神で考えられるものではない。以後の中国は、上海を中心とするサッスーン財閥その他の、もともとアヘン貿易によって資産を成した者によって牛耳られていったのである。

 フリーメーソンの暗躍

  フリーメーソンの起原あるいは性格については、今日でもごく最内部にいる少数者を除いて十分に知っている者はいないと考えられるが、この東インド会社なるものの行動規範にフリーメーソンがまとわりついていることは疑う余地がない。
  ところで、すでにアヘン戦争を起こして中国に入り込んでいたイギリスが、なぜ日本に真っ先に来ないで、代わって米国の東洋艦隊司令官マシュー・ペリー代将が江戸埠頭に現れたのか。これは各国フリーメーソンの共同謀議の結果と見るべきであろう。
  彼らがアジア諸国を植民地化するに際して用いたのは、現地の王侯、大商人等をフリーメーソン組織に入れ、あるいは彼らを操って内部抗争を起こさせ、その混乱に乗じて全体を手に入れるという手口であった。インドなどはその典型である。
  たとえば戦前の中国は、まさしくフリーメーソンによって四分五裂の状態に陥っていた。孫文も、蒋介石を取り巻く人物の多くもフリーメーソンであった。蒋介石の婦人は宗美齢だが、この宗一家はことごとくフリーメーソンであった。そして周恩来もまたフリーメーソンであったと言われている。周恩来は若いころフランスに留学している。

 日本開国の遠謀

  それでは彼らは日本に対して、いったいどういう手を用いたか。
  幕末をフリーメーソンの光に照らしてみると、当時の事情が鮮明に浮かび上がってくる。ペリーの来航前、フリーメーソンは彼らの占領していた上海で日本征服の会議を開いたと伝えられている。その時期や場所、内容は現在のところわかっていない。おそらくその当時長崎の出島に橋頭堡を持っていたオランダのフリーメーソンが主導権をとって、日本征服の計画を練ったものと思われる。
  当時の清国に対してとった武力侵攻政策を日本に適用することは否決されたと言われている。それは、日本を武力で侵攻することに成功の保証がなかったからである。
 日本は侍(さむらい)の国であって、ペリーの来航66年も前の1786年に、林小平が『海国兵談』などで外国の攻撃の危険を説いていた。その後、多くの人が外国からの攻撃の危険を論じ、幕府はじめ各藩は海防を厳にしていた事情がある。
  アヘン戦争が1840年であるから、いかに林小平が先覚の士であったかがわかる。 日本侵入に関するフリーメーソン上海会議は、アヘン戦争以後数年以内に行なわれたものであろう。日本侵入の第一着手として、アメリカの東洋艦隊による日本強制開国が決定されたものと思われる。
  では、なぜイギリスではなくてアメリカだったのかという問題であるが、イギリスに対しては、アヘン戦争における清国での行状から、日本人は極端な悪感情を抱いており、またオランダは長年にわたって長崎・出島に住みつき、幕府に対しては極めて恭順の体裁をとっていたので、いずれも日本に開国を迫る当事者としては不適当であった。
  そこで、フリーメーソン国家アメリカが呼び出され、その任を授けられたのがペリーであったのだろう。
  極めて興味深いのは、ペリーに対するアメリカ大統領の訓令の中に、「決して武力を行使してはならない」ことが記されていたことである。つまり、日本の武士たちの対面を大砲によって破ることは、その後に計り知れない悪影響を及ぼすことを、彼らは悟っていたのである。
  アメリカ海軍のペリー提督は、日本開国について十分知識を集めて研究をして来たものであり、衰弱した幕府官僚は一方的に条件を呑まされるしかなかったのである。

 内乱を起こして植民地にせよ

  このとき、フリーメーソンはどういうプロセスを経て日本を手に入れようとしたのか。それは当時の事情から分析することができる。つまり、彼らの常套手段——対抗勢力を操って内乱を起こさせる——を使ったのである。
  幕府に入ったのがフランス・フリーメーソンで、フランスから相当規模の使節団を入れて借款を申し入れている。つまり薩長土肥の倒幕派に対して幕府が十分戦闘できるだけの軍資金と兵器・弾薬の提供を申し出たのである。
  一方、薩長側にはイギリス・フリーメーソンがついており、長崎に駐在していた武器商人のトーマス・グラバーを通じて相当の便宜供与を行なった。
  こうして日本を内乱状態に陥れ、そのどさくさに紛れて日本の植民地化を図ったのである。
  この時、日本に2人の英雄が現れた。一人は官軍の参謀総長である西郷吉之助(隆盛)、もう一人は幕府軍の参謀総長・勝海舟であった。西郷と勝が小人物で、英仏フリーメーソンの影響を受け、金で買われていたならば、とんでもない大戦争になり、江戸は焼け野原になって、今日までも大きな禍根を残しただろう。
  このような事情から、フリーメーソンはその後も日本への侵入と日本国家のコントロールをきわめて長期の計画で辛抱強く進めてきた。その後の日本の政財界の西洋一辺倒の風潮に乗って、彼らがその本心を隠して日本の著名な人士、勢力を持つ人物にそれとなく浸透していったことは間違いない。
  当時の元老・西園寺公望などは、10年間もパリに滞在したのち帰国しているが、彼は公家出身者で公爵でありながら、完全に、しかし隠微にメーソン的思想のもとに行動した人物である。フリーメーソンは現在の日本の政財界にも深く浸透していると考えて間違いはないだろう。

 獅子身中の虫

  日本を日米戦争に導く構想が指導したのは1921年のワシントン軍縮会議である。
  それ以来、日英同盟の廃棄、中国における排日思想の誘発、満州における張学良を使っての日本との紛争の惹起、満州事変への誘導などの手が打たれ、さらに中国共産党と連携して支那事変を起こさせ、蒋介石を指導援助して対日抗戦を継続させた。そして最終的には、石油禁輸によって日本を絶体絶命の窮地に陥れ、ハル・ノートで戦争に追い込んだのである。この間の情勢を冷静に検討してみると、日本の政治家、軍人の非常な愚かさがあるし、また彼らの計画の水も漏らさぬ周密さが際だっている。
  1921年から41年までの20年間の日米関係、日英関係を振り返ってみると、深い謀略が周到に張り巡らされていたことが明らかである。
  しかも極めて残念なことに、日本国民の中にこれらの謀略の手先を務め、決定的に日本を対米戦争に追い込んだ者たちが見受けられる。もっとも忠実な日本人であるべき陸軍軍人の中枢にさえも、きわめて少数ではあるがその筋の影響を受けて日本を戦争に追い込むのに加担したものがいたのだ。

 占領政策の内実

  こうして日本はイギリス、アメリカ、そしてそれらの意のままに動かされた中国によって自在に操られ、ついに支那事変から日米戦争へと追い込まれる。これは米英を動かしてきた中心勢力の隠微なる働きによることは明白であるが、一方、長年にわたり国内に培われていたマルキシズム、共産思想、社会主義分子によっても大きく動かされてきたのである。
  戦後の日本は6年間の占領によって根本的に変えられてしまった。米国外交政策を指導するフリーメーソンにしてみれば、天皇制を廃し、自由民主主義の美名のもとに少数の資本家を中核とし、大多数の国民を従順なる羊の群れとして搾取するという構想を考えていたことであろう。
  皇室はその力を削がれ、大部分の皇族は一般人となり、華族制度は解消され、財産税の無差別な適用によって上は皇室から財閥、市井の金持ちにいたるまで、すべて一様に巨大な収奪を被ったのである。
  これは、要するに伝統的支配階級を滅ぼす政策であり、日本の歴史的伝統、精神的中核を骨抜きにする作業であった。これによって今日、まったく骨のない、歴史を忘れたわけのわからぬ日本人が無数に出てきたのである。
  日本の敗戦後の状況は、フリーメーソン、イルミナティが表面に現れないようにして日本を改変し、彼らの思う方向に誘導してきた結果である。これは半ば成功し、半ば失敗したと言うことができるであろう。
  彼らは結局天皇制を廃止することができなかったし、天皇に対する崇敬を根絶することもできなかった。しかも、彼らが手を加えて大いにその衰滅を図った日本神道は、今日でも各地の神社が盛大である。少なくとも彼らが完全な成功を収めたとは言いがたいようだ。彼らからしてみれば、日本は頑強に彼らの誘導する方向に抵抗したということができよう。

 日本経済のフリーメーソン化

  明治から大正、大正から昭和、昭和から平成と、それぞれ大きな時代の変わり目であった。現在は平成5年であるが、この5年間に日本のフリーメーソン化は急激に進んでいる。
  日本の企業は大挙アメリカに出て行った。そして日本の金融機関はたいへん巨額の金を海外とくにアメリカに持ち出した。そしていわゆるバブル経済がピークに達し、その破裂が起こったのもこの時期である。
  1929年のニューヨーク株式大暴落は決して自然的経済現象ではなく、周到に根回しされ、引き起こされた人為的経済現象であるというのが、私の考えである。これと同じく、一昨年初めからの株式大暴落は、1つの劇つまり人為的なものであって、まさしく半世紀前にニューヨークの市場を操ったのと同一の手によるものであると思っている。
  当時ニューヨーク市場を動かしたのは、もとより米国人であったが、それよりはさらに大きいヨーロッパの勢力、おそらくはロスチャイルドやワーバーグの関係者がいたのである。つまり、当時のアメリカ金融界はなおヨーロッパのコントロール下にあった。それと同じように、敗戦以来の日本の経済、政治、あるいは社会は、ほとんど完全にアメリカの手によって操られているといって差し支えない。
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by thinkpod | 2006-08-22 17:26 | Books
2006年 08月 22日

壊される日本

 恐るべき時代の開幕

  さて、現在の日本の企業・金融関係者に世界支配中枢の手が伸びていることは確実である。しかもその魔の手はすでに官僚や学者や宗教関係者にまで伸びて、深く入り込んでいる。もとよりマスコミ関係、評論家には戦前から深く食い込んでいると言ってよい。
  私がもっとも危惧しているのは、次代の日本を背負うべき児童や青少年を規制する教育関係者に、すでにこの影が入り込んでいるのではないかということだ。一般に考えられているよりもはるかに広範に、彼らの力が入っていることを恐れざるを得ない。
  もちろん、彼らの力はすでに政界に深く入っている。共産党、社会党(現社民党)はまさしくイルミナティの代弁者である。そして自民党もまた、中曽根首相以来、その中枢部はこの一派によって独占されてきたように思われる。つまり、彼らと同調する以外に主要な政治家としてのキャリアを持つことができなくなっているのではないか。
  今や日本が陥りつつある状況は、決して誇張ではなく恐るべきものである。本当に恐怖すべき状況にわれわれは突入しつつあるのだ。

 「見えざる植民地」日本

  われわれは第二次大戦によって植民地はすべて解放されたと思い込んでいる。アメリカ大統領ルーズベルトは、世界植民地の解放を第二次大戦を戦う有力なスローガンとしていた。しかしながら、これは他のルーズベルトの言明と同じくまったくのまやかしであった。西洋はその国家社会の本質として植民地主義を血肉としてきているのであって、それを一時の戦争によって捨て去ることなどとうていあり得ないのである。
  ところが、このことを日本人はまったく理解していない。外面の行動・宣伝に惑わされて、事の本質を理解していないものが多いのである。
  なるほど法制的に見れば、世界の植民地はすべて解放されてしまった。本国が直接に統治する植民地は消滅した。しかしながら、植民地主義の妖怪は決して消えていない。植民そのものの様態が変わってしまっているのである。
  第二次大戦に際して、なぜ西洋の首魁ルーズベルトが植民地解放を呼号したかをよく考えてみなければならない。ルーズベルトの政治は、人から吹き込まれた科白(せりふ)を、巧みな演技でもっともらしく並べ立てていただけなのだが、その科白の作者たちは、はるかに遠く世の中の動きを見、将来を慮っていたのである。
  どういうことかというと、直接統治という方式はすでに時代遅れとなって、非常に高コストなものになるという事態が進行していたからである。この世界史の方向をいち早く見抜き、それに対する方策をルーズベルトに授け、そして当時の世界最大の力を持つアメリカ国家を使って世界をその方向に誘導した彼らの先見と力量は、敵ながら天晴れなものであると言わなければならない。つまり直接統治によって覚醒した民衆の反乱が起こり、それを鎮圧しなければならないといった事態の発生によって、とうてい従来の直接植民地統治は不可能になると早々と察したわけであろう。
  さてそうすると、世界植民地主義の本源とも言うべきこの世界支配中枢が、いったい何を考えて従来の軍事的、政治的植民地経営を放棄したのだろうか。それは、世界はもう軍事力だけでは動かない歴史相に入ったことを理解し、特に核兵器ができた以上、実際にこれを使用する戦争が起こることはないという認識のもとに、その植民地体制の中心を軍事・政治から商業・金融に移したものと考えられるのである。すなわち、彼らが収奪をもくろむ国家・国民を商業・金融の世界的ネットワークの中に包含し、そこからまったく目に見えない間接的な方法をもって産業的・金融的に寄生し、自ら労せずして金銭・物質等を調達しようという考えである。
  日本は世界植民地体制の覆滅を目指して第二次大戦を戦った。これはそれなりに立派なものであったが、残念ながらアメリカの武力に敗れ、よくよく見ると、今日では完全なアメリカの植民地に堕してしまった。しかもそのことに気づく日本人が誰一人としていないのである。

 再び狙われるアジアの国々

  周知のように、東洋は久しくイギリス、オランダ、フランスの植民地であった。第二次世界大戦の日本の奮戦によって、それぞれ独立国家となり今日に至っている。かつて日本の支配下にあった台湾および韓国、北朝鮮も独立している。そして、半植民地と言われた中国は今日堂々たる中華人民共和国として大国の位置についている。しかし、これらの国々の将来が新しい植民地主義から安泰であるかと言えば、これには大いに疑問符をつけるべき理由がある。
  日本自体がすでにその実態はアメリカの植民地である。このような状況がいずれこれらの戦後独立した諸国に及ぶであろうことは明らかである。
  一国ないし多国を植民地化しようとする場合、彼らの使う常套手段は、その内部に2つないし3つの勢力を分立させ、それぞれにエージェント(諜報員)を送り込み、これらを互いに抗争させて、その国家ないし社会を弱体化させ、その間隙に乗じて侵入するというものであった。この方法は、植民地方式が大変化した今日でも、まったく同じ構図のもとに応用されているものと考えてよい。複数の勢力を抗争させて相手を倒させ、自らの目的を達するという方法は、常に彼らがとってきた方法である。
  東アジアを彼らの自由にするために行なったのが日中間の離隔、そして最終的には日中戦争を起こすことであった。蒋介石政権と日本政府は幾度も和平を交渉したにもかかわらず、どこからか邪魔が入って成功しなかった。当時のすべての事態を洗ってみると、ここに隠微な陰の手が回っていたことがわかる。この日中間の抗争の中でもっとも陰謀の働いたのは西安事件と、近衛首相の「蒋介石相手にせず」の声明の2つであった。それには、かたや周恩来、かたや尾崎秀実の両共産主義者による力が大きかった。共産主義なるものが世界支配構造の1つの駒であることからすれば、すべてが割れてこようというものである。
  これは1930年代の事件であったが、1990年代には何が行なわれるであろうか。一般に報道はされていないが、デイビッド・ロックフェラーが幾度も中国を訪問しているし、すでに上海には戦前のアヘン戦争以来奥深く食い込んだサッスーン財閥も復活したと伝えられている。かたや日本にもデイビッド・ロックフェラーはしばしば来日しているが、最近の報道によるとフランス・ロスチャイルド家からも人が来ていると言われている。
  日本人は、戦後の洗脳(もちろん世界支配勢力による)によって、戦前のことをすべて忘却させられ、それを一方的に日本の悪逆によるものと教え込まれて、逆に世界中枢に通ずる筋、その最大の傀儡アメリカ政府に対するまったく無邪気な信頼が抜きがたく育ってしまっている。戦後の愚昧狡猾なる政治家たちはアメリカに追随し、彼らの言うとおりに事をなし、さらには言われない前から彼らの意向を察して事をなすといった、哀れむべき状態に陥ってしまっている。

 「金融」による新たな植民地化

  西洋文明は根元的に他民族、他地域に寄生する習癖を持つものであり、大戦による日本の努力によって全世界的に解放された旧植民地体制に代わって、新植民地体制が現れてくるのは理の当然なのである。では、いったいこの新植民地体制とはどんな様態のものなのか。
  それは金銭的、情報的支配である。
  第三世界の資源は、今日完全に西洋新植民勢力によって押さえられている。そして世界的な西洋化、アメリカ化を見ると、文化的植民地化の歴々たるものがある。すでに日本の伝統的文化は「国際化」によって危機に瀕している。スクリーン、スポーツ、セックスのいわゆる3S政策は、今日全世界を覆ったが、これは西洋植民地化の一面に過ぎない。
  今ここで私が明らかにしておきたいのは、誰も気づいていない「金融寄生」植民地化である。実は日本がその最大の被害者なのである。日本の貿易黒字は、国民の精良な日本精神から由来したものである。その貴重な日本人の生来の美質と勤勉によって得た金銭は、完全に西洋勢力によっただまし取られている。
  つまり日本は、誰も気づかないうちに西洋植民地化に成り下がっていたのだ。

 終わりに

  ころは日本の幕末だった。今はむしろ世界終末の気配が濃い。いつの時代にも覚者は稀少である。だが幕末には数多くの志士が自らの想いに命をかけた。平成のとろけた若者はいったい何を思っているだろうか。
  今われわれに必要なのは、真実を曇りなく見抜くことである。いつの時代にもそれは時の権力によって隠されるのが常であるが、現在は衆愚政治の広範化、金銭経済の肥大、情報技術の革命によって、事実の隠蔽、虚構の造作は驚くほど盛大に進行している。
  今の世界権力とはいったい何なのか。いかなる目的を抱いているのか。——それを考える自由は誰にでも与えられている。だがそれに気づく者はほとんどいないのが実情である。世にこれ以上危険なことがあるものではない。
  人間にはそれぞれ持って生まれた性能と背負った宿命がある。世の危険を予感し察知する能力は、少数の人たちにしか与えられてはいない。それを弁知し分析する知能を併せ持つ人に至っては、ますます少ない。さらにその危険の根因に思いをめぐらし、その正体を突きとめる人に至っては稀というべきだろう。
  読者の身辺目先の話にたとえれば、先ごろのバブル(経済)の顛末を見通した人は稀だ。ところが問題はそこに留まらない。覚者の警告は大衆によって無視される。逆に世相の短気のベクトルを増幅して益もない言説を流し虚名を求める者たちは数多い。これらの者の吹く笛の音に迷わされ、どれだけの人が大金を失ったか。いつの世にも変わらない大衆の悲哀である。さらなる厄介は、稀少なる世の覚者を大衆は嫌がる。目先の欲得に水を注すからだ。

  金を失うくらいならば大したことではない。個人であれ国家であれ、元通り心を入れ替えて働けば済むことだ。しかし、もしバブルがこれらから金を抜き取る計略であっただけではなく、日本の人と社会を壊滅させる計画の一環であったならば、実に恐るべきことだろう。読者の深考を促したいところである。
  これからのわが国の政治、社会は腐敗の度を深めてゆき、長期暗夜の時代に入るおそれが大きい。かくて、どこにその根因があるかわからないままに、表面的な対症療法で時を過ごし、病巣はますます体内深く入り、ついに斃死するに至る。
  殷鑑(いんかん=失敗の先例)はアメリカにある。これは200年前につくられた人工国家である。「人工」であるからには設計図があるし、工事を指揮した者がいるはずだ。それは誰だろうか。この国と社会はこの30年間にツルベ落としに落下した。この現象も「人工」であるはずだ。200年にして壊れるように設計してあっただろうからだ。
  今にして思うのだが、日本もまた130年前、幕末維新の時、不完全ではあっても同じ手によって「設計」されていたのではなかったか。それを完成するのが「平成維新」ではないのだろうか。その手に悪魔の刻印が捺されていたとしても、それに気づく人は寥々(りょうりょう=非常に少ないこと)たるものだろう。
  もとより建国や維新はその時代の要求に応じたものであり、それなりの必然性があった。それを否定することはできない。革命、戦争、恐慌もまた同じ。人心と体制は変化を拒む性質がある。しかし世は進む。変化は必然である。だが悪魔がその「間」に入ることにわれわれは注意しすぎることはない。

壊される日本〜馬野周二
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/umanoshuji.html

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/8856e566281d81230464a5bbbc46c132
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by thinkpod | 2006-08-22 17:19 | Books
2006年 08月 19日

ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか(後編)

『少年育成』96年4月号掲載

ビデオを抱えてミャンマーへ

 ミャンマーの人々は映画「ビルマの竪琴」をどのように観るのだろうか。そんな疑問を抱いているとき、絶好の機会がめぐってきた。95年11月、農耕文化研究振興会(代表:渡部忠世京都大学名誉教授)が企画するミャンマーの稲作農村調査に参加して、ミャンマーを訪問することになったのである。
 渡部先生とは、これまで数回にわたって、タイを中心に東南アジアの稲作農村の映像取材にお供をしてきた。ミャンマーを訪問するのも、この延長で、今回の調査での私の最大の任務は、ミャンマーの稲作農業についてのビデオ映像を収録することであり、数年来の企画である東南アジアの稲作農業に関するCD−ROM化を完成に近づけることであった。ただ、この機会を利用して、ミャンマーの人々にビルマの竪琴を上映できそうである。
 限られた日程と時間を調整して、上映は首都のヤンゴンではなく、パガンで行うことになった。調査団の受け入れに当たった現地側の通訳のピューピューアンさんに、調査団がパガンに滞在する日程に合わせて、視聴後のインタビューを補佐してくれる英語の通訳を1名確保してくれるように依頼した。さらに、この英語通訳に私のパガン到着までに、視聴してくれる被験者を4〜5人確保しておいてくれるよう依頼した。
 本格的な調査ではないから、被験者の人選にあたっては男女の比率をほぼ同数にするのと、戦後世代と戦前戦中世代がともに含まれるよう最低の条件を付した。パガンは仏教遺跡で有名な地方都市である。ピューピューアンさんの話では、人口規模も小さく、ホテルで小さな上映会を開くと言った催しをするには、ちょうどよいということだった。

5つのシーンを用意した

 映画「ビルマの竪琴」は2時間近い作品である。本来は、それを全部視聴してもらいたかったが、それでは、視聴後のインタビューまで含めると拘束時間が長くなりすぎる。その上、日本で手に入るビデオには、もちろんビルマ語の字幕スーパーはついていないので、長時間の視聴は無理かもしれないと判断した。そこで、物語のあらすじは、上映の前に通訳を通して私が言葉で伝えることにし、実際に上映する映像は、85年製作の新版の中からつぎの5シーンに絞った。これらのシーンの上映時間は、あわせて25分程度となった。これならいけそうである。

シーン1 敗走する小隊が、ある山村に一夜の宿を借りるため、水島上等兵(中井貴一)を偵察と交渉に差し向けた。安全が確保され、交渉が成立すると、水島は竪琴で音楽を演奏して、林に潜む小隊に知らせた。村では、小隊の兵士と村人たちの交歓の宴が始まった。村人の厚情への返礼として合唱で答える兵士たち。そこへ、突然、敵兵が村を取り囲んでいるという知らせが村人から伝えられた。緊張する兵士たち。隊長(石坂浩二)は、村人たちを会場から出し、敵に気づかれないため、「ああ玉杯に花受けて」と合唱しながら、戦闘の準備を始めるよう命じた。

シーン2 ムドンの収容所。帰国の日を無為に待つの小隊。そこへ、現地の物売りのおばさん(北林谷栄)が聾唖の孫をつれて通ってくる。兵士たちは、靴下などの回りの品々や手作りの箒や笛などと食料を物々交換するのだった。このおばさんに、隊長は、はぐれてしまった水島上等兵の消息をさぐるよう依頼した。

シーン3 戦闘に巻き込まれて負傷した水島は、ひとりのビルマ僧に助けられ、洞窟で介抱されていた。帰隊の願望を抑えられない水島に、ビルマ僧はこの世の無常を説き、イギリスがきても日本がきても、「ビルマはビルマじゃ」と淡々と語った。しかし、回復した水島は、僧が水浴の最中、袈裟を盗み髪を落とし僧になりすまして、ムドンへと数百キロの道を歩き始める。慣れない裸足の旅、血の滲む爪先。空腹で力尽きて荒れ地に座り込む水島。ところが、通りかかりの農民が水島に手をあわせ食べ物をささげた。僧と錯覚したのだ。
 民衆の喜捨を受けながら旅を続ける水島。山岳地帯の村で、朝の托鉢の僧たちにまぎれて食べ物を受け取る水島は、そのまま僧たちに導かれて寺院を訪れた。すると、出迎えた僧は水島の腕輪を指して「そのような高位の腕輪をした僧はお会いしたことがない」と、歓迎の言葉を受けた。

シーン4 やっとムドンに到着した水島は、聾唖の娘と老人が、森でオウムを捕まえているところに偶然出くわし、収容所の位置を尋ねた。帰隊の機会を待って、僧の姿のまま、近くの寺院に滞在する水島。窓の外から、埴生の宿のメロディーが聞こえてきた。イギリス兵相手に竪琴を弾いて小銭を稼ぐ子どもが練習していた。水島は、その子に自分が編曲した埴生の宿を教えてやった。

シーン5 ビルマに残ることを決心した水島上等兵は、小隊が日本に帰国する前夜、収容所の鉄条網の外に竪琴を抱え、オウムを肩に乗せ現れた。水島が埴生の宿を竪琴で弾く音色に、隊員たちは小屋から歌声をあわせながら次々と出てきた。いっしょに帰ろうと水島に迫る隊員たち。しかし、水島は一言もしゃべらず、それに「仰げば尊し」のメロディーで答え、夜霧の中に消えていった。

 以上の5つのシーンを選んだ。どれも映画の中では重要なシーンであるが、シーン5をのぞいて、これらのシーンは、とくに、ビルマの人々と日本兵との接触を扱ったシーンである。ビルマ人に扮した日本の俳優もたくさん登場するし、また、ロケした際のおそらくはタイ人のエキストラや俳優もこれらのシーンに登場している。被験者にとっては、これらの接触のシーンは、他のシーンと比べてより強い刺激因子となるはずである。
 以上のシーンを見せた後で、被験者に対して、全体をとおして何を感じたか。また、シーンに登場するビルマ人や日本兵の振る舞いや行動に奇異な点はなかったか、あるいは、得心できる行動や振る舞いはどれか。描かれる日本兵とビルマの人々の関係についてどう思うか。最後に、このような映画が製作されていることについてどう評価するか。これらの点について質問することにした。

パガンのホテルにて

 パガンに到着した。ホテルのロビーで依頼していた英語通訳の女性が出迎えてくれた。打ち合わせの結果、上映は次の日の夜と決まった。
 団長の渡部先生は、京都大学で教鞭をとっておられた時代に多くのビルマからの留学生を指導されておられた。ビルマには、教え子や知り合いの農学者がたくさんいる。今回の調査団も、そんな先生の知名度も手伝ってか、政府の特賓あつかいとなってしまい各地で政府のお役人が待ちかまえていて近代的な農業施設や日本の援助でできた施設を案内してくれた。わずらわしくもあったが、好意には素直に従うことにした。英語で説明するお役人の通訳をするのが私の役目だった。パガンでも、そんな訪問を足早に済ませ、フィールドにでだ。
 船をチャーターしてイラワジ川に出て、洪水敷に展開する蔬菜畑を観察した。雨期開けの河原に堆積した土を耕す農民の姿をそこここで見ることができた。中州を人力で開墾し、豆を作付けする農民の姿もあった。私は、さっそくビデオをまわした。農民の肩越しにはるか対岸にみえるパゴダの金色にひかる丸屋根がときおりレンズに鈍い光輪を描いた。
 暑く乾いた日中のフィールド調査が終わり、上映の夜がやってきた。
 上映には、ホテル側の好意で、ロビーを借りることができた。ヤンゴン育ちの30代前半の若い中国系の支配人は、これからは観光が発展すると予想し、この仏教遺跡で有名なパガンの町に親戚が出資して建てたホテルの支配人になった。地元のビルマ人たちを叱咤してホテルを切り盛りするかたわら、時間が許せば自ら車を運転して、観光客のガイド役も買ってでるやり手の男性だった。彼は、私が日本から持参した再生機能付きの8ミリビデオカメラと液晶モニタをみて、
「それでは、画面が小さすぎる。ロビーにあるテレビを使えばいいじゃないか」と進めてくれた。私が、
「ご好意はありがたいけれど、ミャンマーはPAL方式、日本のビデオは北米(NSTC)方式だから無理だよ」
と断ると、「いやいや、ぜんぜん、ノープロブレム」と私の言うことなど無視して、安請け合いをする。私は、この支配人、きっと外国にでたことがないので、方式の違いがわからないんだなと思い、まあ、映らないのを実際に示せば納得するだろうとビデオケーブルをそのビデオ入力端子に差し込んだ。すると、どうだろう。こちらの予想を裏切って、あっけなくパッと映ったのである。
「そらごらん」と、小鼻を膨らませて自慢げな支配人。
「へー。このテレビ、マルチ対応なんだ」と驚く私。
 ようするに、テレビ放送の発達していないビルマでは、ビデオカセットの視聴が受像器利用のかなりを占めるのだが、そのとき、闇で国外から流入するいろいろな規格のビデオを見るには、受像器の方がマルチ対応でなければならないというわけ。

上映が始まると沈黙が

 さて、待ち合わせの時刻になると、女性通訳に連れだって5人の被験者がやってきた。通訳が一人一人紹介してくれた。
 Aさん、32歳の女性、市場で総菜を売っている。
 Bさん、57歳の女性、かつて学校で英語の教員をしていた。
 Cさん、31歳の女性、ラッペットゥ売りをしている。ラペットゥとは、ミャンマーでよく見かけるおつまみで、お茶の葉に味を付けそのまま食べるものである。
 Dさん、58歳の男性、退職教師、来日の経験がある。
 Eさん、63歳の男性、左官職人である。
 これら5人の被験者にこれからビデオを見てもらうのである。
 かれらが腰をおろすソファーの前にテレビを移動させた。だだっ広いロビーには、私たちを遠巻きにしてホテルの従業員が何人も集まっていた。支配人も、当然のようにソファーに腰をおろしてビデオの始まるのを待っていた。
 ビデオの再生ボタンを押す前に、私は、今回の上映の主旨と視聴後依頼するインタビューについて英語で説明し、続いて、あらかじめ簡単にメモしておいたあらすじを話した。それを通訳嬢がビルマ語に翻訳していった。
「それでは、始めます。シーン1です」
 テレビには、兵士たちの行軍する姿が映し出された。じっと見入る被験者たち。かなり重苦しい進行だった。もうすこし、リラックスしてほしいところだが、こちらが研究者なのがよくないのかもしれなかった。シーンの半ばで、川谷拓三が演じる音痴の軍曹が水島上等兵の送った合図のメロディーを判別できず、隊長に確認してみんなから笑い者にされるシーンがあった。日本では受けたはずのこのシーンも、ミャンマーの被験者たちにはまったく響かないようだった。延々と重苦しい沈黙が続いた。
 ひとつのシーンが終わるごとに、全員に質問をした。
 はじめは男性がばかり発言した。いちばん多くしゃべったのは、なんとホテルの支配人だった。さすがヤンゴン育ちだけあって自信ありげに堂々と意見をいった。これに比べて、女性はおおむね控えめだったが、だんだん雰囲気がなごんできたためか、発言しはじめた。ただ、総菜売りの女性だけは、最後まで微笑するばかりでほとんど自分の意見を言わなかった。
 しかし、いったん話がはずんでも、つぎのシーンがはじまるとまた重苦しい雰囲気になってしまった。そのうち、「あー」とか「ふー」とか、溜息が聴こえてきた。どうもそわそわしているのであった。そわそわというよりか、居心地が悪いというか、居ても立ってもいられないという感じだった。私は、あらかじめ用意していたもう一台のビデオカメラでビデオを視聴する被験者たちを端から撮影していた。帰国して、その時撮った映像を丁寧に確認してみても、それがはっきりと分かった。
 途中、一カ所だけ彼らが笑ったのは、シーン3でビルマ僧に扮して苦しい旅を続ける水島上等兵が飢えと疲労で動けなくなったところをビルマの農民から思わぬ食べ物の喜捨を受け無我夢中でそれをほおばるシーンだった。日本人の観客なら、感極まってこそすれ、笑いがでるシーンではなかろう。しかし、この被験者たちは、そこで笑ったのである。どうも、何かが違うのだった。

違和感という反応−ビルマの竪琴はどう観られたか

 その理由は、インタビューの中でだんだんはっきりしていった。ここで各シーンに対する被験者の反応を紹介しておきたい。
 まず、シーン1では、「住民の話すことばがぜんぜん違う」という。私が、「日本人が扮しているからか」と聞くと、「もちろん、それもあるが、おそらくこの村はヒルトライブ(山岳少数民族)の村だからかな」と答えた。それから、「ビルマ人は、もっとにこにこしているよ」と登場するエキストラのタイ人たちを指していった。
 また、戦争を体験した世代は、映画の中の日本兵について、「日本兵はあんなに立派じゃなかったな。ガリガリに痩せていたし、惨めな感じで背がもっと低かった。戦後の日本人は体格がよくなったもんだ」と感慨深げに語った。また、「日本人兵より朝鮮人兵の方がきつかった」というようなこともいった。
 シーン2では、物売りのおばさんに扮する北林谷栄に対して、女性たちが共通の反応を示した。
「あれじゃ(日本の)兵隊たちがかわいそう」
 私が「どうして?」と聞くと、こう答えた。
「だって、あの女(北林)、兵隊たちのまだ新しい靴下や一生懸命作った箒をあんなくだらない食べ物と交換しているんだから」
 たしかに、ちらっと映ったカットの中に、北林が持ってきた数房のバナナと小さなパパイヤ1個が映っていた。ほとんどの日本人なら見落とすだろうほんの1、2秒のカットを彼女たちは見逃さなかったのである。さらに、「あんなに日本語のうまいビルマ人はいないわね」と途中で飛び入りしたピューピューアンさんが言った。彼女は、ヤンゴン大学大学院で化学の修士をとった秀才だが、就職難で日本語を学び直し、現在、日本人旅行者相手の通訳をしている。彼女の発言は、やや皮肉を含んでいた。というのも、北林谷栄は、教養のないビルマ人の物売りがしゃべるだろう下手な日本語を演技しているのである。
 彼女たちの意見を総合すると、北林谷栄のおばさんは、日本語を巧みに操って兵隊たちから品々を巻き上げる、ビルマ人の風上に置けぬ強欲ばあさんということになった。
 つづくシーン3が最も反応が強かった。反応の大半は、ビルマ僧のしぐさや服装などにまつわるものだった。
「袈裟が違う。あれはタイの僧侶のもの」
「あんな拝み方はしない。体全体を地面に投げ出すのが正しい。」
 また、喜捨を受けた食べ物を両手に受けて食べる中井のしぐさに「お行儀の悪い食べ方。僧侶はあんな食べ方は絶対にしない」と年寄りたち。「あれは、まったく日本人の食べ方だろう」と戦争体験のある男性。「いや、そういうわけではないけれど。そう見えますか」と私。「そう日本人の食べ方ね。両手で受けて、口から迎えにいって食べてるから。すくなくとも、ビルマ人じゃない」とピューピューアンさん。「それじゃ、この僧は日本人ということは誰の目にも丸わかりというわけ」と私。「そういうこと」とみんな。
 ほかにも、ビルマ僧のおかしな点について指摘が続出した。
「お寺についたとき、そこの僧侶が水島のしている腕輪をみて『こんな位の高い腕輪をしている僧ははじめてだ』とかいいますね。ビルマの僧侶は一切の装飾品を身につけることは禁じられています。時計もしませんよ」
 私は、タイの僧侶たちが高価な腕時計をしているのをみた話を伝えた。それに対して、被験者たちは、口々にそんなことはビルマでは絶対にないと強調した。
 ビルマの仏教習慣について、この映画が完全な逸脱をしていることは、つづくシーン4やシーン5でも次々に指摘された。
「ビルマでは、僧侶は歌を歌うことも禁じられている。楽器にさわることも」
「物乞いの子どもに竪琴の弾き方を教えるなんてあり得ない」
「オウムを肩にとまらせているのも吹き出してしまう」
「タイでロケしたのが、よくないね」などなど。
 クレームが、あまりにたくさん出され、その上、通訳の女性もだんだん興奮してきて、自分が通訳と言うことも忘れて意見をまくしたて始めたので、インタビューはかなり混乱してしまった。だから誰がどの意見をいったか、正確に確認できなくなってしまったことを今残念に思っている。しかし、いずれにせよ、この逸脱が強い反応を被験者から引き出したことは確実だった。

描かれた側からの解釈−「水島」とは何だったのか

 被験者たちが示した違和感に満ちた反応は、映像が表現するビルマのディテールにおける逸脱や食い違いに原因するものだった。「あまりに間違いが多いので観ていられない」と被験者たちは語った。実際、最初興味深げに観ていたホテルの従業員たちも三々五々消えてしまい、最後にロビーに残ったのは関係者だけになってしまった。
 文学作品と異なり、映像は抽象的な表現を受け付けない。たとえば、「袈裟」ひとつとってみても、それがどんなデザインや色で、どう身につけるかという具象性を抜きに表現することはできない。そこが言葉の表現とは異なっている。
 映画の理論家として著名なジェイムズ・モナコがいうように「われわれは言語体系の中で言葉を変化させることができるようには映像の記号は変化させることはできない」のである。映像の記号は、短絡的な記号である。たとえば、「僧」という文字をわれわれが子ども時代に学んだとき、それはある種の畏敬や尊敬などの意味を付加されて心の中に刻み込まれたはずである。だから、その言葉を聞いたとき、われわれはそのような観念を同時に想起する。しかし、視覚像としての映像は、それが示す意味ともっと直接的な関係をもっているのである。
 竹山がビルマ僧に化けた日本兵を言葉で表現したとき、無意識にビルマ人から尊敬を受ける日本人の姿をそこに塗り込めることができた。しかし、市川の映像はそうはいかなかった。ビルマ人の被験者から見えた中井のビルマ僧は、日本人そのものであり、彼らは、それを「ビルマを放浪する、一目でそれと分かるみじめな敗残日本兵」として理解した。
 他方、日本人にとっては、ただの南洋の食べ物を意味する記号に過ぎないバナナとパパイヤのカットも、それが日常生活のなかでもっと詳細な意味をもつ記号として存在しているミャンマーでは、日本人とは別の意味を含むカットとして理解されたのである。つまり、「あの安物でややしなびた小さなバナナや熟していない硬めのパパイヤ」を高価な繊維製品である靴下と取り替える物売りの強欲さが、そこから解読されたのである。
 私は、当初、この映画をビルマの人々がみれば、当然、日本の戦争責任の問題が話題の中心になるだろうと予想していた。もちろん、はるばる日本からやってきた日本人に対して、礼に篤いビルマの人々が無遠慮に日本を非難したりすることはないだろう、しかし、映画が映画である。当然、話はそういう方向に流れていくと思っていた。そうなれば、実際にビルマで日本兵が行った行為とこの映画に描かれているそれとのギャップや、ビルマ人に対するこの映画の描き方の中に含まれている日本人の偏見や誤解が発見されるのではないかと考えていた。
 しかし、私の予想は大いに外れてしまった。私が当初予想していたような物語の内容や政治的意味に踏み入る以前の段階で、映像に表現されたビルマの習慣や生活のディテールがあまりにかれらのものと違うため、彼らを入り口で立ち止まらせてしまったのだった。
 この事実から、近年国内で大論争を引き起こした日本のアジアに対する戦争責任の問題について、われわれは多くの教訓や示唆を得ることができるはずだが、それは今はいうまい。
 ただ、印象に残ったことをひとつつけ加えておきたい。ビルマ僧に化けた水島上等兵が実は日本人であることがばればれだと被験者たちにいわれたとき、私は「それじゃ。こんな状況設定はどだい無理なんですね」と聞き返した。この問いに対して、被験者たちは、こう答えたのである。
 「いやそんなことはない。日本人と分かっていてもビルマ人は水島を助けただろう。それは、彼が袈裟をきているからだ。たとえ、それが日本兵だと分かっても、袈裟を着ている限りその人物は護られる。それがビルマだ」
 ミャンマーの一般の人々がもしこの映画を観たとしたら、この映画の意味する世界はずいぶんちがったものに理解されるだろう。日本人が思い浮かべる水島は、ビルマ文化に深く精通し、僧侶の姿に身をやつして危険をさけつつ敵中数百キロを踏覇した思慮深い人物。そんな人物が、道中、打ち捨てられた日本兵の遺骸をみてビルマに残留することを決意する。そこに、日本の観客は自己を同一化するのだろう。
 しかし、ミャンマーの人たちは同じ映像から異なった理解をするだろう。つまり、ビルマの風俗習慣について無知なひとりの日本兵が、袈裟を着ているばかりに、それと知りつつ助けるビルマの人々のおかげで無事目的地にたどり着く物語として。
 このような被験者たちの見方をどう考えればよいのだろう。それは、来訪者である日本人の私に対してビルマの仏教文化を理想化して語ったものだろうか。それとも、彼らの生活世界におけるリアリティなのだろうか。おそらく、実際、どちらでもあるのだろう。少なくとも、その言説が公然と受けとめられている社会がそこにあることは事実なのである。そして、それを知ることによって、われわれは今すこし謙虚になれる。
 不十分ではあるが、今回の試みからすくなくともつぎのようなことはいえるだろう。他者に対する理解や思いは、たとえ、それが好意的なものであったとしても、その他者からの理解や思いを無視して一方的に抱き続けることはできないということである。他者に対する理解や思いは、その他者が確認することによって、はじめて相互的なものへと変わることができる。そして、そのような変化こそが、両者の関係を本当に変えていくことができるのであると。

96-02-01
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by thinkpod | 2006-08-19 00:07 | メディア
2006年 08月 19日

ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか

『少年育成』96年3月号掲載
反戦映画「ビルマの竪琴」

 1995年が敗戦50周年だったこともあり、昨年はあの戦争を回顧する様々な試みが行われた。映像の世界でも、同様、各地で戦争を描いた映画の名作が上映された。もちろん、戦争アクション映画などではなく、反戦平和の意図をもって製作された映画が多かったのは当然だろう。
 戦争映画といっても、いろいろあろう。たとえば、銃後の生活の悲惨を描いた映画がある。空襲体験や原爆の悲惨さを描いたものがこれにつながる。また、戦場での兵士たちの姿や敗戦後の復員を通して、戦争に翻弄される人間の悲惨を描いたものもある。たとえば、「また逢う日まで」「暁の脱走」「真空地帯」「軍旗はためく下に」「私は貝になりたい」「月光の夏」「ビルマの竪琴」などがそうである。
 これら戦争映画のなかで、ビルマの竪琴は、敵味方を超えた音楽による心の交流や仏教的な救済といった柔和なテーマも関係してか、観る人の政治的な価値観の違いを超えて、戦後、広く日本の一般大衆に支持されてきた特筆すべき反戦映画だといってよいだろう。
 ビルマと竪琴といえば、長い間、一般の日本人がビルマという東南アジアの小国(現在は、ミャンマー)について、その名を聞いたときに唯一思い出すキーワードでありつづけてきた。原作は、竹山道雄が戦争直後、児童文学雑誌の『あかとんぼ』に連載した作品である。この作品は、当時、空前のベストセラーを記録し、今日でも、中等教育の国語の教科書などにしばしば登場する名作となっている。
 その後、1956年に、市川昆監督で映画化され、大ヒットし、さらに、ほとんど同じシナリオで、1985年に同じ市川監督によってリメイクされた。今日では、むしろ、この新作の方が有名であろう。長身でルックス抜群の中井貴一が、水島上等兵を演じている。
 あら筋は、こうである。
 第二次大戦中、ビルマを転戦する日本軍の一小隊があった。音楽好きの小隊長(旧作は三国連太郎、新作は石坂浩二)の下で、隊員たちは暇をみては合唱をし、戦いに疲れた心を癒していた。とりわけ音楽的才能にすぐれている水島上等兵(安井昌二、中井貴一)はビルマの竪琴で巧みに伴奏をした。ある夜、敵に囲まれるが、全員で歌った「埴生の宿」がイギリス兵の心を打ち、敵味方双方の合唱へと発展。そこで終戦を知り、戦わず捕虜となった。その後、抵抗する残留兵の投降説得という使命を帯びて隊を離れた水島は、説得に失敗、戦闘に巻き込まれ、負傷する。そこをビルマ僧に助けられるが、隊に戻りたい一心で恩人のビルマ僧の袈裟を盗み、僧になりすましてビルマを横断、収容所までたどりつく。しかし、その道中で、野ざらしになった日本兵の白骨の山を目にして衝撃を受ける。やがて終戦。水島は僧となり、ビルマに残って戦友の遺体を弔うことを決意する。

ビルマを知らなかった原作者

 ビルマの竪琴については、作者の竹山自身が認めているように、原作者はまったくビルマを訪問したことがなかった。このことは、とくべつ秘されているはけではないが、意外と知られていない。
 竹山にとって重要だったのは、日本兵と敵兵が共通の歌を歌うことによって、戦闘が回避されると言うシチュエーションだった。竹山は、最初、中国の奥地の県城を物語の舞台として設定しようとしたが、どう考えても、日本人と中国人が共通の歌を知っているという可能性は存在しなかった。そこで、いろいろと思案したあげく、イギリス兵との組み合わせなら、その可能性はあるだろうと考えるに至った。ビルマ戦線が物語の舞台として選ばれたのは、そのような条件が満たされる場所だったからだ。
「日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです。共通の歌は、われわれが子供のころからうたっていて、自分の国の歌だと思っているが、じつは外国の歌であるものでなくてはなりません。「庭の千草」や「ほたるの光」や「はにゅうの宿」でなくてはなりません。そうすると、相手はイギリス兵でなくてはならない。とすると、場所はビルマのほかにはない。」(竹山道雄「ビルマの竪琴ができるまで」『ビルマの竪琴』新潮文庫1959年、189頁)
 また、竹山自身は、後になって、「何も知らないで書いたのですから、まちがっている方が当然なくらいです。たとえば、坊さんの生活などはなにも分かりませんでした」と書いている。また、「ビルマから三人の新聞記者が来て、あのほんの英訳本を読んで、宗教関係にまちがったところがあるが、ビルマ人は、宗教についてはきわめて敏感だから、これをビルマに紹介するときにはこの点に気をつけるように、といわれました。あれをビルマ語に訳そうという計画があり、その許可を求めてこられましたから、よろこんで同意しましたが、はたして仕事はすすんでいますかどうですか」とも書いている。結果から言うと、結局、それはビルマ語には翻訳されなかったようだし、映画の方もビルマでは、新旧とも上映されずじまいだった。ということは、ビルマの人々がこの物語を知ることはなく、その「誤り」を訂正する機会もなかったということになる。しかし、そのような事情は、今日どの程度人々の共通認識となっているのだろうか。その点は、はなはだ危うい。そもそも、そのような竹山の注釈自体が、すでに忘れ去られてしまっているのではないか。
 というのもビルマの竪琴は、今日、竹山の文学作品として読まれているよりも、市川の映画として見られているからだ。実際、竹山の「ビルマの竪琴」を読みたいとその辺の書店をまわっても、ほとんど見つけられない。私が、原作本を見つけたのは、市立図書館の本棚だったが、図書館の司書さんは、「そんな古いのありませたっけ」と浮かない顔をして探してくれたのである。

映画は原作を越えて

 それにくらべて、市川の映画といえば、最初の1956年版は、記録的な大ヒットを飛ばし、ベネチア映画祭サンジョルジオ賞を受賞し、中井貴一の主演でリメイクされた85年版も、評判は上々で、キネマ旬報ベストテンで5位、毎日映画コンクールの日本映画ファン賞を受賞している。さらに、ビデオなら、どこのレンタルビデオ店でも見つけることができる。今日の映像文化の影響力が大きいかは、いまさらいうまでもない。その証拠に、私が借り出した文庫版の「ビルマの竪琴」の表紙カバーには、映画から中井貴一が袈裟をきて竪琴を弾くシーンのスチル写真が大きく使われていた。
 原作を知らない世代なら、この作品に接する順序は、映画を見てから文学作品を読むという順序なのに違いないのである。
 映画の方のビルマの竪琴はというと、とくに85年のリメイク版に関しては、実際に東南アジア(ミャンマーではなく、タイ)にロケし、かなりリアルな物語として製作されていた。映像は文学と違って具象性を伴う。したがって、市川の映画は、竹山があとで、「本格小説ではありませんでしたから、あのくらいのことを書くのは空想ですみました」と告白しているようなものとは、かなり違った印象を人々に与えた。
 映画に描かれた世界は、その後、現実のビルマの文化やビルマ人の宗教観を伝えるものとして、あたかもノンフィクションのような扱いを受け始めるのである。
 たとえば、最近、新聞に現れたビルマに関するいくつかの記事を紹介したい。
 竪琴 音楽通しさりげなく平和を紡ぐ
楽しく音楽を聞いてもらって、少しでも平和について考えてもらえればそれでいい。「2時間びっしり平和・平和とやられたら、演奏を聞きに来てくれる人はいないよ」。電気管理事務所を経営しながら、有志を集めて平和コンサートを続けている上尾市弁財の伊藤邦夫さん(55)の持論だ。「さくら草音楽共和国大統領」という肩書も持つ。(中略)
 8歳の時、父親がビルマ(現ミャンマー)戦線で戦死した。20歳のころ、映画「ビルマの竪琴(たてごと)」を見て「無念のうちに倒れた人たちの死が無駄にならないように、平和な社会にしていかなければ」と強く感じた。「水島上等兵の気持ちを万分の一でも持って、社会に役立つ音楽活動ができたら」。仕事の傍らアコーディオン、オーボエ、オカリナなどの楽器を独習し始め、音楽活動の輪を広げて来た。  (『朝日新聞』92.08.19、埼玉版)
 「水島」自分の生き写し 元日本兵2人、心はやはり日本
 死んで行った戦友の白骨を集め、弔うため、帰国を断念した水島上等兵も、そこがやさしいビルマだからこそ、一人残ることを決意したのではなかったろうか。
 ラングーンに、二人の旧日本兵が住んでいる。(中略)
 北村さんは、東京の映画館で「ビルマの竪琴(たてごと)」を見た。星さんはつい最近、ビデオで見た。どちらも、映画化二度目の新作の方だ。中井貴一の水島上等兵が、まるでわがことのように、身近に感じられたという。「収容所を逃げ出してから、ジャングルの中を歩き回ったとき、白骨をずいぶん見ました。それを拾って、木の下に埋めたこともありました」と星さんが話すと、北村さんがしきりにうなずく。(略)
(『読売新聞』88.01.08 東京朝刊4頁)
 第40回青少年読書感想文全国コンクール出品作品紹介
「ビルマの竪琴」を読んで。滝野町・滝野南小6年 小林慎也君
 「ビルマ」今は、ミャンマーと言う。ぼくは地図帳を引っ張りだしてみた。ミャンマーは、日本よりはるか南の赤道の近くにあった。ずいぶん遠いんだなあと思った。ずっと前、祖母より祖母の知っている人が、戦争に行った話を聞いたことがある。ぼくが生まれるずっと前に、日本兵が戦いに行き、大勢の人が死んだ土地であると聞かされたことを思いだした。そんな時、父といっしょに本屋へ行った。ふと、目にとまったのが「ビルマの竪琴」という本だった。ぼくは、その本を思わず手に取り、家に帰っていっきに読んでいった。(中略)
 明日、日本へ帰ると分かったときの昼、二重の柵をへだてた向こうに、きらきら光る青いインコを両肩に一羽ずつ乗せたビルマ僧となった水島隊員が、竪琴で「はにゅうの宿」の伴奏をはげしくかき鳴らしたときの気持ちはどんなだっただろうか。作者は水島隊員の行動をとおして、人間が人間らしく生きることの大切さを教えたかったとぼくは思う。(略)
(『読売新聞』94.12.23 兵庫地方版 28頁)
 これらの新聞記事を読んでみると、「ビルマの竪琴」をセミ・ドキュメンタリー作品として理解しているとしかいいようがない。ビルマの竪琴が描く世界の虚構と現実との境目がいつのまにか希薄になり、溶解してしまっている。ビルマの竪琴は、ミャンマーの人々の目には触れることなく、日本人の間だけでこの戦後50年間を脈々と生きながらえてきた戦争伝説といってよいかもしれない。長い期間に誕生の経過は忘れ去られ、若い世代にとっては、かつてそういう事実が存在したように受け取られてしまっているのである。

伝説化への社会過程

 このように、完全なフィクションであることを著者自身が認めているにもかかわらず、ビルマの竪琴は、その後、日本人がビルマについて言及するときの定番の参照例となってしまった。
 社会学では、人がある対象を理解する上で、あらかじめもっている枠組みを準拠枠 (frame of refference)という。ビルマの竪琴は、日本人にとってビルマについての認識の準拠枠となったのである。
 このような事態が起こった原因は、いくつか考えられる。
 まず、作品の完成度とそれを受け入れた時代の潮流がある。すぐれた文学作品の完成度の高い言説やストーリーは、たとえ一部の知識人がその虚構性を認識していたとしても、長い時間をかけたコミュニケーションの再生産と伝播過程の中で、事実に転化していく。
 竹山の原作はどちらかというと、ビルマ人の生き方を描くことで、近代的な文明に対するアンチテーゼとしての仏教的な静謐や諦念に光をあてるものであった。それは、近代化の行き着いた果てがあの敗戦であったという当時の日本人一般の厭戦感に感応するものだったが、竹山自身は、作品の中で、とくに戦争について決定的な批判をしているわけではないし、日本の戦争責任を明確に指摘しているのでもない。だから、現代の読者が時代背景を知らずに読んだとすれば、むしろ仏教的な解脱や禁欲生活のすすめとして読むかもしれない。余談だが、オーム真理教の信者ならきっと喜んで受け入れるだろう。
 一方、市川が創った映画の方は、あきらかに反戦を意識したものだった。市川自身、再映画化のとき、その理由を問われて「反戦は何べん訴えても、語ってもいい」と、説明している。ビルマの竪琴は、戦後の日本大衆の平和主義的な感覚に受けとめられ、いつの間にか、反戦映画としての意味付けを与えられたのである。8月になれば、日本のあちらこちらでこの映画を平和運動の一環として上映したり、上演したりするのも、そのような大衆の受けとめ方を反映したものに違いない。また、反戦といっても、左翼的な言説をいっさい含まないビルマの竪琴は、右からも左からも安心して受容できる、戦後平和主義の国民的テキストとして広くこの社会に受け入れられていったのであろう。
 つぎに、この作品が日本の中でだけもっぱら流通し、ミャンマー側からのフィードバックがほとんど存在しなかったことも原因として考えられる。日本にとってミャンマーは一部の関係者を除いてビルマの竪琴との関連で言及される以外、言及のキーワードが存在しない期間が、長い間続いた。もちろん、最近では、民主化運動やスーチー女史の存在が日本の社会でも話題を集め、ミャンマーに対する言及は、以前に比べれば多様性を示すようになってきている。しかし、それでも、ビルマの竪琴が言及する仏教的なやさしさは、現在の軍事政権の荒々しさと対比させるための格好のエピソードとして逆に言及される頻度を増しているように思える。
 たとえば、次の朝日新聞の記事などは、そのような傾向をよく示したものである。
 タベイ・マオ(窓・論説委員室から)

 「一生に一度必ず軍服を着るのと、袈裟(けさ)をつけるのと、どちらのほうがいいか。どちらがすすんでいるか。国民として、人間として、どちらが上なのか」戦後まもなくのベストセラーで、いまも読み継がれる竹山道雄さんの「ビルマの竪琴」に、確かこんな問いかけがあった。
 ミャンマーと国名が変わった現在も、ビルマは敬けんな仏教国である。(中略)僧にとって大事な修行である早朝の托鉢には、ふた付きの黒い容器を持って行く。これを「タベイ」という。中にはスズ製の小さなコップが数個入っている。(中略)ところが、このミャンマーの朝の風景に、異変が生じた。
 僧たちが、軍人やその家族の家の前で立ち止まりはするが、手に持つタベイのふたを開けようとしない。これは政権の座に居座り、民衆を弾圧する軍事政権へのデモなのである。これを「タベイ・マオ」という。マオとは逆さにする、妨げるといった意味だ。静かなる抵抗運動ではあるが、意味するところは重大だ。お布施を受けないのは、相手に「地獄に落ちよ」というに等しいからだ。」

失われたフィードバック

 一般的には、言及される情報が量的に拡大し、質的に多様化すれば、それ以前の情報に負のフィードバックがかかるようになるのだが、ビルマの竪琴についてみれば、このフィードバック機能がうまく働いていないように思われる。
 なぜミャンマーからのフィードバックが働かなかったのかといえば、ここで断言できる事実の収集はまだ十分ではないのだが、まず、原作を翻訳し出版する努力が払われなかったこと、さらに、映画がミャンマーで上映されなかったことがあげられる。それは、おそらくビルマ人にとってそれが荒唐無稽な内容であるため、翻訳したり、映画を輸入したりする仕事に携わるビルマの知識人たちをためらわせたからだろう。さらに、この作品の内容がことさらにビルマを誹謗したり、非好意的なイメージを対外的に広げる内容ではなかったことも、関係があるかもしれない。いずれにせよ、ビルマの竪琴に対するミャンマーの態度は、「捨て置く」というものだったのである。
 しかし、もしミャンマーの側が、この作品の内容に対して、異議を申し立てしようとしても、それが可能だったかどうかは分からない。そこには、日本とミャンマーの圧倒的な国力の差が存在するし、また、映画という大きな装置が必要な映像メディアを一般大衆が自由に視聴することは現実的に困難だからである。
 視聴できない映像は、批判することもできない。
 このような状況は、何もビルマの竪琴だけに限らない。先進国の映画産業が、途上国を舞台に製作する多くの映画は、これまで作品の舞台となった社会で公開されることは少なかった。また、たとえ、それができても、途上国の観客が先進国の制作者に対して、内容に対する批評を効果的に伝えるチャンネルは存在しなかった。ハリウッドが戦後続々と製作した「サムライ・フジヤマ・ゲイシャ」ムービーについて、私たちは辟易しながらも、そのまま受け入れるか、見ない振りをする以外なかったようにである。さらに、そもそも辟易するためには、その映画が舞台になった国で公開されなければならないのだが、そのような作品の多くは、輸入段階ですでに篩に掛けられ、一般大衆の目に触れることはほとんどないのである。
 こうして、一度、形成された認識やイメージは、メディアの大量生産過程で逆に強化されてしまい、それを変えることはなかなか困難となる。経済大国を自認している(いた)日本でも、アメリカのメディアがつくった日本に対する画一的イメージを修正することは、至難の業であるのだから、まして、弱小な途上国にそのようなことができるわけがないだろう。とくに、そのようなイメージがある種の好意を含んでいるときはなおさらである。

独占された視線

 このような状況を「視線の独占」と表現する文化人類学者たちもいる。フィールド調査で辺境の村を訪問した人類学者がいたとしよう。多くの場合、調査される現地は「未開」の社会であったり、先住民族であったりする。現地で、人類学者と村人たちが遭遇する。この場合、遭遇によって交わされる視線は、本来、対等なはずのものである。来訪者である学者が村人を見つめるのと同じように、村人も未知の来訪者に視線を投げかけるからだ。いや、実際、フィールドで私が経験する実感から話せば、見知らぬ土地に来て心細くなった来訪者が村人から受ける無数の視線の方が、むしろ圧倒的である。フィールド調査とは、見られるためにいくことだといってもよい。
 しかし、カメラやビデオなどのメディアを所有した学者が、いったん現地を映像で記録した時点で、その対等な視線の関係は崩れる。メディアによって記録された映像を独占的に保有できる立場にある学者は、特権的な立場を確保するようになる。実際、写真というメディアがこの世に登場して以来、「文明」と「野蛮」の接触が数多く映像によって記録されたが、そのほとんどは、「文明」の側が「未開」の側を記録するものだった。この関係は、「文明」の側だけが、記録し分析できるという特権を独占することであり、それは、近代の植民地主義の構造を象徴するものでもあった。

残った問題

 このような状況を指して、視線の独占という言葉が使われるのである。このような構造は、今日、マスメディアという巨大なメディア技術が関与することによって、いっそう強化されてもいるのではあるまいか。ビルマの竪琴は、日本人にとって、ミャンマー側からの訂正や反論に曝される機会もないまま、伝説と化していったのである。
 さて、ここまでが、ビルマの竪琴が日本人にとってなぜ「真実」になったかについての考察である。しかし、それが明らかになったとして、まだ問題が残っている。それは、ビルマの竪琴がミャンマーの人々から見てどこが架空なのか明らかでない点だ。ビルマの竪琴が、いまだミャンマーで上映されていない以上、それがミャンマーの人々によってどのような見方をされるか、いまだ不明のままなのである。
 今、必要なのは、実際にこの映画をビルマの人々に見せ、その反応と評価を確かめることなのではないか。そうでない限り、いつまでたっても相互に視線を交差させることはできないだろう。
 やや話は迂遠になったが、そんなわけで、ビルマの竪琴をミャンマーの人々に見せることはできないだろうかと考えた。そして、そのチャンスは、意外に早く訪れたのである。
 以下次号

96-01-29
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ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか(後編)
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by thinkpod | 2006-08-19 00:07 | メディア