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2006年 07月 31日

情報鎖国・日本—新聞の犯罪

内容(「BOOK」データベースより)
いわれなきバッシングに孤立する在米日本企業、蒸し返される戦後賠償、日本の窮地を報じない日本人海外特派員—。経済大国として蘇った日本と旧植民地・アジアに対する欧米の敵視政策、日本を情報鎖国に陥れたマスコミの犯罪をベテラン新聞人が告発する。


高山 正之
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4331507432/503-6457296-7708753?v=glance&n=465392



強制されなくても日本名を名乗った社会背景
「日本は先の戦争で悪いことをしましたね。日本語を押しつけたり、日本名に変えさせたり」。ロサンゼルスに赴任して、ジャーナリストや弁護士など知識階級の人たちと付き合いを始めてしばらくすると、そういう人が結構多かった。

「なんだ、こいつはケンカを吹っかけているのか」と最初は思ったが、つきあいが広がってみるとみんなが同じように言う。要するに日本人への挨拶言葉で、それを受けて、こちらが「申し訳ない。今は十分反省しています。アメリカの民主主義にならって、それでここまで来ました」というような返事がほしいらしい。しかし、このステレオタイプ的なご挨拶には腹が立つ。

 で、そういうあいさつには必ずきっちりと回答するようにした。まず創氏改名問題だが、これは強制をしたのではなく、朝鮮半島では応募方式だった。だから名前を変えたくない者は、名前を変えなかった。大日本帝国陸軍にあって朝鮮名を通した洪思翊中将は、捕虜虐待をでっち上げの罪で東京裁判の犠牲となった。

 とくに韓民族にとって、かつては蔑視の対象だった満人が清朝をたて、その支配下でいじめられていた屈折した感情があったから、日本名を名乗ることでいわれなきいじめから逃れられるという微妙な力関係もあった。

 ずっと後、司馬遼太郎氏の台湾での朋友・蔡焜燦氏から聞いたことだが、同じ日本統治下の台湾では創氏改名は許可制で、なかなか許可が下りず、「朝鮮と差をつけられた」とみんな怒っていた。
 ともかく強制というニュアンスはなく、その当時の時代風潮だった。アメリカに留学中の僕の娘が、「今度、キャサリンとドロシーが遊びに来る」という。どんな碧眼金髪娘かと思っていると、外見も中身も百パーセント韓国娘が登場する。ロサンゼルスに在住する六十万の韓国人が、喜んでメアリーだのジョンだのマイケルだのと名乗るのとそう違いはなかったのだ。


日本は世界に開いた文化の窓

 アジアの国々に日本語を押しつけたという非難はもっと当っていない。歴史がそれを証明している。
 日本は二十世紀まであと三十年という時に、明治維新つまり近代化に着手した。そして、積極的に欧米の文物を取り込んでいった。医学、薬学から鉄道、建設、経済、歴史、思想の万般にいたるもの、を欧米から取り入れた。
 それは、先にノーベル経済学賞を受賞したインドのアマティア・セン氏の言葉にもある。彼は九九年、シンガポールでの講演で、日本の教育問題に触れ、「国の経済は貧しかったが、時には予算の四〇%以上を教育につぎ込んだ。そして二十世紀の入り口ではほとんど文盲はいなかった」という趣旨のことを話していた。

 図書出版についても、十九世紀末の日本は、当時の大国・英国にほとんど肩を並べる量の本を印刷、出版し、二十世紀に入った段階では、「アメリカの二倍も本を出していた」と。

 ひるがえって当時の周辺アジア諸国はどうか。

 中国は今と同じ尊大さだけで、近代化に乗り遅れ、香港も中国東北地方も遼東半島も上海の税関に至るまで列強に牛耳られていた。

 仏印(インドシナ半島)はフランス植民地下にあって、宗主国のために石炭を掘らされ、多額の税金を払い、専売制のアへンを売りつけられていて、教育どころではなかった。ちなみにフランスが作った高校(リセ)は、仏印にたった三校だった。英国植民地下のビルマに至っては、就学率三%というありさまだった。

 その時代、植民地下の人々が独立を志し、あるいは近代化への道を歩むための教育を受ける機会は皆無だった。そうした背景から、日本に留学するアジア人は多かった。

 すでに一八八一(明治十四)年、朝鮮から六人の留学生が訪れ、その六年後には一ケタ増えて六十人が来ている。一八九六年には中国から、最初の留学生十三人が訪れ、以降、日露戦争の終わった一九〇五年には東京だけで八千六百人、日本全土で一万人をはるかに超える数の中国近隣の留学生であふれた。その中には孫文もいた、魯迅もいた。

 さらに一九〇五年には仏印から三人のベトナム人が日本に留学し、その数は数年で三百人まで増えた。一九一〇年、ビルマからは僧侶が留学に来た記録もある。

 「なぜアジア各地から日本をめざす留学生がいたか」の理由について、中国・張之洞の勧学篇に詳しく記している。

 彼は言う。アジアで近代化を成し遂げた日本には、中国には得られない世界の文献が揃っている。日本に行き日本語を学べばそういった文献はすべて習得できる。

 つまりこの時代、日本はアジア諸国にとっての図書館だった。日本語を学ぶことが、すなわち世界の思想、文学、そして独立に必要な教育のすべてを得ることのできる手段だった。戦後も、日本人が台湾に置いてきた大量の文献・書籍が、台湾人の教育と教養に大きく貢献したと、その時代を生きた台湾の知識人が証している。

 ちなみに前述した朝鮮、中国、ベトナムなどからの留学生はいずれも密出国した非合法の留学生だったが、日本では彼らを温かく迎え入れた。この流れはその後も続き、一、二の例を挙げると、一九三五年、アジア航空学校が日本に開かれるとビルマから二人の留学生を迎えている。さらに一九三七年には、タイとモンゴルから逓信省飛行乗員養成所に留学生が来ている。

徹底した愚民政策下では向上心は悪

 アジア植民地の宗主国だった欧米は、学問はおろか、技術、とくに航空技術などというものについては一切門戸を閉ざしたままだった。
 今、山梨に実験線を持つリニアモーターカーの生みの親と言われる元国鉄副技師長・京谷好泰氏の体験がそれを雄弁に語る。
 彼は、パキスタンのラホールに一九六〇年代、技術指導に赴いた。その時、指導したパキスタン人技官から次のような話を聞いている。技官の父は英国植民地時代、鉄道技師のアシスタントをしていたが、ある日、英国人に「おまえらにはこんなものは作れまい」と蒸気機関車を示された。
 それで仲間と語らい、機関車の修理の折に図面を引き、細部に至るまで観察して、一ヵ月がかりで十分の一の機関車を作って見せた。英国人技師は苦い顔をした。
 インドの独立が決まり英国が引き揚げる最後の晩に、機関車を作った彼の父親とその仲間すべては銃殺された。重大なスパイ行為、という罪名だった。

戦争に敗れ、教養語の日本語も悪者に

 話を戻して、日本は第二次大戦に至るまで、あらゆる意味でアジアの図書館、アジアの技能研修所としての機能を果たしてきた。アジア人にとって日本語は、唯一アジアの人々が世界を知るチャンネルであった。

 しかし、第二次大戦に日本は敗北した。その時、ルーズベルト米大統領の下で財務長官を務めたモーゲンソーはアジアについて「三つの通貨、即ち、円ブロック、スターリング(英国貨幣)ブロック、ドルブロックの三つ巴の戦いだった」(ロイド・ガードナー著『日米関係史』)と語っている。

 これは取りもなおきず、円を日本語、スターリングを英語、ドルを米語と置き換えることもできる。要するに三つの勢力が経済、それに伴う言語を通してせめぎ合ったことを示している。そして、日本は負けた。

円は負けた、日本語は負けた。これが歴史である。

 だから、戦争に敗れるまでは、円ブロック圏に入っていた国々が日本語を使うのは当たり前だったが、日本が敗れて五十年が経つと、冒頭のアメリカ人の挨拶同様、いつのまにか悪いことにすりかえられている。

 安易に日本非難に乗るアメリカ人に対して「では、フィリピンで米語を教えるのは、悪いことではないのか。あるいはシンガポールで英語が公用語として根づいているのは、英国が悪いことをしたということなのか」と質問すると、それに対する答えは返ってこない。

 なかには困惑した顔で、「それは趣旨が違う」という言い方をしたり、「あなたには反省がない。普通の日本人ではない」と言う者もいる。そこで重ねて、「では、あなた方が言いたいことはこういうことなのか。白人でなければ植民地を持ってはいけない。植民地は白人の特権だと認めろ、ということか。自分の国の言葉を押しつけることが、白人なら許されるということなのか」。これでたいがい話し合いは、ケンカで終わる。


 戦後、ほぼ五十五年経った先日の朝日新聞を読んでいたら、「教え子に日本語強制/誤り、敗戦で気づいた」という見出しが飛び込んできた。

 その記事の中で、かつて朝鮮半島南部・慶尚北道の国民学校で日本語教師をしていた日本人女性の言葉でこう語らせている。「朝鮮半島の人たちは、日本語を強いられた。日本語教育の最前線にいた私は、償いきれない間違いを犯したのです」。

一体、朝日新聞は何を言いたいのだろう。日本語を教えるというのは、かつては知識を教えるという重要な意義を持っていた。戦後五十年経って、日本語を教えるなどということは、天にも恥じる浅ましい行為だったと言いたいのだろうか。

 こういう新聞があるから、日本の歴史は正しく伝わらない。


日本が憎い米紙と朝日

ソ連こけたらみなこけた

 北朝鮮の食糧危機は、最大の援助国ソ連が崩壊したあと、援助が受けられないまま事態が深刻化してきたといわれる。せいぜいこの十年ぐらいだと。いや、それは謙遜で、北朝鮮は、金日成がまだ元気な首領さまだったかなり昔から飢える独裁国家だった。はっきりと食糧不足の証拠を見せたのが一九七〇年代後半、もう四半世紀昔だ。

 そのころカンボジアは、ポル・ポト派が都市人間を下放してコメの大増産をやらせていた。ポル・ポトは、毛沢東や金日成が掲げた食糧倍増計画の上をいく三倍増を公言していた。だが結果からいうと、二倍もいかない。だから下放した都会人には、食うものも食わせなかった。

 今はカンボジア外務省で働いているシバス・サンタン女史は、あの〝キリング・フィールド″で両親も兄弟も失った一人だが、彼女自身、「薄いコメの粥が朝晩二回出るだけで、生きるために犬も蛇も食べました」と語る。カンボジア人はベトナム人が心底嫌いで、彼らが犬や蛇を食べるのを軽蔑し切っていた。しかしそれらを食べざるを得ないところまで、ポル・ポト派は人々を追い込んだということだろう。

 ポル・ポト派が、国民を飢え死にさせても確保した増産米は、では一体、どこにいったのか。これは、実は長い間、謎のままだった。そしてフン・セン政権がポル・ポト派を追って、やっと国を立て直し始めた八〇年代末、プノンペン周辺の調査をしてみたら、ポチエントン空港周辺などあちこちの倉庫から、油紙に包まれたままの北朝鮮製の工作機械が山のように見つかった。

 総額にして数百万ドル分ともいわれる。これが、百七十万人もの人命と引き換えに増産されたコメの使途だったわけだ。皮肉なことに、輸入した機械を操作できるような人たちはとっくに頭をかち割られていて、文字どおりの宝の持ち腐れになってしまった。

 フン・セン政権は、九〇年代に入ってこれを国際競売したが、買い手はポル・ポト派を支援してきた中国の手先、香港資本だったという。

 そんな年季の入った食糧不足を、何とか支えてきたソ連が崩壊したのだから、北朝鮮の食糧事情が危機的な状態に陥るのは、当たり前といえば当たり前だった。


北朝鮮はアジア分断のドラゴンの歯

 で、北朝鮮は「記録的な天候不順」と「干ばつ」「洪水」の三つの単語を適当に並べ換えながら国際社会に人道的支援、つまり食糧援助を求めてきた。

 アメリカの、例えば国務省や国防総省はこのころ北朝鮮を「Rogue State」と表現していた。ならず者国家という意味で、記者会見でもごく当たり前に使われていた。

 大韓航空機の爆破テロ、偽ドル作り、覚せい剤の密輸、それも外交官が運び屋になって、世界中にばらまいていた国である。あるいは人さらいもやる。ならず者以外の何者でもなかった。

 ではアメリカ的正義で、叩けばいいではないか。現にアメリカは、コカイン密輸に一枚噛んでいたパナマのノリエガ将軍を、軍を出動させてパナマに乗り込み逮捕したことがある。パナマの主権も国際法も、アメリカの正義の前には無力なのだから。

 でも、アメリカには明確なポリシーがあって、それに従うならば、北朝鮮問題は解決の必要がなくなる。むしろ放置して、このならず者を助長する方向に傾くのだ。

 どういうポリシーかというと、アジア諸国が、どういう組み合わせにしろ協調体制を取ることは好ましくない、とくに日本を軸とした友好関係は認めない、というものだ。

 そのためにアメリカは、さまざまなドラゴンの歯(Teeth of Dragon=不和の種)をアジアに埋め込んできた。北朝鮮はその意味では、アメリカが手を貸さずとも勝手に根付いた「ドラゴンの歯」だった。

 この国は何より日本、韓国と仲が悪い。放っておいても協調、連携などありえない。おまけにもっと重要なのは、北朝鮮の地政学的位置だ。中国のほとんど軒先にあるこの国が、中国寄りのならず者国家であり続ければ、中国に自由市場経済とか民主化の波や激がじかに届きにくくなる。

 クリントン政権下、コーエン国防長官の諮問機関 - 「21世紀安全保障委員会」が、九九年秋にまとめた二十一世紀のアジア展望でも、この日中韓の三国がつくる 「地政学的三角形」が「今は中国、韓国の日本に対する憎しみで機能してはいない」が、それでもアジアにとってもアメリカにとっても「最も重要な意味をもち、この三角形の将来が二十一世紀のアジアの命運を決める」と書いている。

 現状をいえば、まさに北朝鮮が存在するがゆえに、日中の接近もない、日韓も今一つしっくりといかない。アメリカにとって望ましい「バラバラ状態」が続いているのである。


日本孤立化で共同戦線張る米政府とマスコミ

 ところが、ここにきてソ連崩壊のボディーブローが利きだし、いまや北朝鮮は国家消滅の可能性も出てきた。それはアメリカにとってまずいことだ。前述の地政学的三角形が、アメリカの思惑の逆に動き出せば、とんでもないことになる。

 むしろ、北朝鮮に食糧援助をして、生き永らえさせる方が得策ではないか、という意見が国務省の中に出てきた。一九九五年頃の話だ。

 それはまず、ニューヨークタイムズの社説(Ed-Op)欄に載った。わずか二百字ほどの短い論評で、まずスウェーデンなどが、世界食程計画(WFP)を通して援助を決めたほか、人道的な立場から韓国、日本もすでに援助を行っている。

「確かにどうしようもない政府だけれど、苦しんでいるのは罪のない市民たちだ。アメリカも人道上の問題として捕らえるべきだろう」と。

 実にもっともな意見だが、さて、問題は記事中、「日本」に言及した部分で、「かつてここ(北朝鮮)を植民統治した」という修飾フレーズが付けられていた。短い文章である。

しかも日本の過去の統治と食糧危機の原因という、「干ばつと洪水」には直接関係もないフレーズだ。何のためにそういうフレーズを入れたのか、記事からでは判然としない。

 そこで、ニューヨークタイムズの論説委員室に電話した。向こうの社説も一応、匿名が原則で、応対に出たウイリス女史に、匿名論説委員にその辺を聞きたいと伝えた。

 何の関係もない文章で、そういう過去を付け加えるなら、では「フィリピン」と書くとき、「かつて米国が植民地解放を口実にして、そのまま半世紀も植民地化した」とか、「ハワイ」には「米国が砲艦で脅して王朝をつぶして乗っ取った」とか書くのか、と。

 彼女は「早速、聞いておきます」と約束したが、それきり。何度か督促し、彼女も本人にその都度伝えるが、「彼、答えないんです」という。

 答えられないのは、察しがつく。アメリカは政府もマスコミも、国益という点では常に共同戟線を張ってきた。「常に日本を悪者にして孤立化させる」、そういう宣伝を忘れずにいつまでも、そして折に触れやることが暗黙の了解になっている、それが「アメリカの方針だ」とはとても回答できない。アメリカのジャーナリストの努めなんだから。

 実際、この暗黙の了解は戟後、一貫してとられてきた。ワシントンポスト紙もニューヨークタイムズ紙も、ともかく「日本」に関する記事で、韓国とくれば、とたんにメキシカン・ピーンズのように飛び跳ね出す「植民地」の三百を入れる。中国なら「南京」だ。


何が何でも日本軍は悪逆非道

 九六年十二月七日、アメリカ司法省が突然、お触れを出したのも同じコンテクストだろう。
「戦争中、慰安婦の強制連行に携わった者、及び、旧石井細菌部隊メンバーに対して司法省は彼らの米国への入国を認めない」という内容だった。

 慰安婦問題は、河野洋平外相が旧軍の責任を勝手に認めたが、実態として不存在だからその関係者といわれてもだれを指すのか、日本当局もましてアメリカ当局も知らない。

 石井部隊については、ユダヤのホロコースト問題で常に先頭に立ってきたサイモン・ウイゼンタール・センターのクーパー師が親切にも調査してくれているが、この関係者-十六人(司法省)はほとんどが鬼籍に入っているか、生存していても八十歳代のご老体である。

 アメリカにぶらぶら出掛けるような人たちでもなく、この司法省声明が一体、何のため、誰のために出されたのか、ほとんどの者は分からない。ロサンゼルスタイムズも十二月十三日付で「五十年経って飛び出した戦争犯罪人リストに日本、キョトン」という見出しで、表向き、その唐突さぶりを報じている。

 ただ、この新聞もクリントン政権も、この時期にこの話題という趣旨は理解している。十二月初めというのは毎年恒例、リメンバー・パールハーバーだ。これを盛り上げて日本の卑劣さ、残虐さを訴える。日本は悪いと。

 でも、これだけではさすがにマンネリになって能がない。それで日本の新たな攻撃材料を探した。教科書問題もある、中国との連携もある。とくに韓国は最近、日本化が著しい。呉善花なんていう日本の理解者まで出てきた。「真珠湾」に加えてこの際、石井細菌部隊と慰安婦を上乗せしよう、というのが司法省のアイデアだったと思われる。

 例の第二次大戟時のPOW強制労働訴訟で、人権団体と称するNGOや米メディアがわんわん騒ぎたてた二〇〇〇年夏、ウォールストリート・ジャーナル(八月三十日付)が「すでに国家間で決着をつけ、日本も二百七十億ドルを払っている。それを小金になりそうだからと、訴訟弁護士が群がって問題を蒸し返し、正義の訴訟を装って日本企業を食い物にしようとするのは、みっともないだけでなく、日本人に不要な敵慢心を植え付ける。さらにはアメリカの訴訟に対する信頼さえ奪いかねない」といった趣旨の論評を載せた。

 実に正鵠を得た意見で、実際、あれだけ大騒ぎした訴訟は、この論評から間もない同年九月二十二日、カリフォルニア連邦地裁で門前払いを食ったことはすでに触れた。

 ただ、このそれほど長くないこの社説の中で、「こうした訴訟が、戦時中に起きた忌まわしくも目を背けたくなるような日本軍の悪行を思い出させ……」「一九三〇年代、四〇年代の日本の残虐さを忘れないことは重要だ」「日本の行った不正義の数々を知ることは決して無駄ではない」のフレーズが、きちんとちりばめられている。

 時効も法的管轄権も無視しためちゃくちゃな訴訟をたしなめる正論を吐く一方で、「日本は残虐で悪いことばかりした」という宣伝だけは忘れない。

 ちなみに日本軍の残虐さがどこから来ているかというと、そのときの南京の人口より多い「三十万人虐殺」といった類いの実に根拠薄弱な事件などを指す。そうした事柄が、こういう正論の中にちりばめられれば、だれだって「あっ、それも本当のことなんだ」と思い込む。実に巧みな宣伝なのだ。「ウォールストリート・ジャーナルよ、おまえもか」と言いたくなる書き方だ。


日本非難の天才児・朝日新聞

 こういう狡猾な手法は、実はアメリカの新聞だけではない。れっきとした日本の新聞もそれをやる。
 二〇〇〇年六月、金大中韓国大統領と北朝鮮の金正日総書記が歴史的な会談をした。その会談の成果として、八月十五日、約一千万人と推定される南北朝鮮の離散家族のうち、限定二百人が再会を果たした。ソウルと平壌の会場で五十年ぶりの再会に泣き叫ぶ親子、兄弟の姿は、テレビなどで多くの人々が見たことと思う。

 東西冷戦による国の分断はいたましいかぎりだが、その冷戟が終わって十年も経っても、まだ分離を続けるこの国の度し難い感覚に驚かされるが、それはともかく、これを報じた朝日新聞の記事は異様だった。

 前文で、この離散家族の再会は 「日本支配からの解放後の米ソ分割占領と、朝鮮戦争による南北朝鮮の分断固定から半世紀ぶりである」ときた。

 それ以外の新聞は、「東西冷戦の南北分断後」といった書き方だ。歴史的に見ても、南北朝鮮の分断は、ソ連が日露戦争以来、ずっとねらっていた朝鮮半島進出を、例の火事場泥棒のようなテクニックで実現したことは明らかだ。そしてソ連と毛沢東・中国の後押しで、金日成が三八度線を越えて朝鮮戦争が起きたことも周知の事実だ。

 南北分断が銃弾によって決定づけられたのは、日本の植民統治が終わって少なくとも五年は経っている。三八度線を敷いたときだって、ソ連と連合国が、旧宗主国の日本に意見を聞きにきたこともない。米ソで勝手に三八度線に線を引いただけのことでしかない。

 強いて言えば、日本は植民統治とはいうけれど、この国から搾取もしないどころか、逆に今も北朝鮮の電力をまかない続ける水豊ダムを作り、そこで発電された電気を南にまで運ぶ送電線も作った。南北に通じる鉄道も敷設した。統治政策で言えば、毒も南北分割など考えていなかった。

 しかし、朝日新聞が「日本支配からの解放後」をわざわざ挿入して書くと、あれ、分断されたのは日本の責任だったのだろうか、と思ってしまう。朝鮮半島の人々をここまで苦しめたのはやっぱり日本だったのかと。

 朝日新聞のすごいところは、この記事の前にそういう日本の責任を灰めかすような記事をいくつか掲載していることだ。例えば、八月三日付けで、「京義線」の復旧に「日本の投資に期待」という記事が載った。平壌を経由しソウルと北朝鮮・新義州を結ぶ京義線は、三八度線で途切れ、北朝鮮側の破壊距離は七Kmに及ぶ。当たり前だ。双方が呪み合っている非武装地帯を縦断しているのだから。日本はこの鉄道は作ったが、分断したのはソ連でありアメリカであり、南北朝鮮だ。

 しかし、朝日はこう書く。「京義線は日本による植民地時代に敷かれたが、北朝鮮側では単線で傷みも激しいため、(再開されたとしても)時速40Kmほどでしかない」。巨額の費用がかかるが、結局、「日米などに支援を要請するのは、避けられない模様だ」。

 ここでも「日本の植民地時代」を挿入する。実に手の込んだ意図的な記事だ。そして日本政府、とくに朝日新聞の論調に沿って行動する河野外相の周辺からは、「喜んでカネを出しましょう」という声も聞かれる。

 アメリカのメディアがやる日本を孤立化させる手法を、当の日本のメディアがお手本にする、救い難い現実がここにもある。


http://tech.heteml.jp/2006/07/post_659.html
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by thinkpod | 2006-07-31 03:11 | Books
2006年 07月 29日

シェル石油について

■■第4章:イギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルの成功物語

●イギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていた、ユダヤ人の一家があった。この一家は、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。両親は、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立てていた。
子どもが11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。といって、彼は頭が悪いというわけではなく、学校の授業システムにうまく合わなかったからである。
 

 
●この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。
そのとき父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは、金曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。というのは、母親を安心させるためである。2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また10人の兄弟姉妹がいるのだから、一家のビジネスに役立つことを、旅行中に考えてほしいということだった。

●この息子は、1871年、18歳でロンドンからひとり船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、どこにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた。
彼は、懐(ふところ)に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円かそこらのカネである。日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。また、この時代には、日本にいる外国人といっても、おそらく横浜、東京あたりで数百人にすぎなかった。
 

 
●彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。
彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。
そこで彼は、自分でもせっせと貝を拾い始めた。その貝を加工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。
当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。
 

貝がらの作品

ロンドンでは、これは大変
珍しがられ、飛ぶように売れた
 
●やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。この商店が2階建てになり、次には3階建てになり、そして最初はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、どんどん発展していった。
そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネをためることができた。
この青年の名前はマーカス・サミュエル、ヘブライ語の名前がモルデカイであった。
 

マーカス・サミュエル
(1853〜1927年)

日本の海岸で拾った貝がらの
商売で大成功をおさめた
 
●サミュエルは1886年(33歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。
輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。



●ところで、この時代、世界中のビジネスマンのあいだで一番話題になっていたのが、石油だった。ちょうど内燃機関が登場し、石油の需要が急増しつつあった。ロックフェラーが石油王となったきっかけも、この時代だったし、ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。
貝がらの商売で大成功をおさめたサミュエルも、この石油の採掘に目をつけ、1万ポンドを充てる計画を立てた。彼自身、石油についての知識は何もなかったが、人にいろいろ相談したりして、インドネシアあたりだったら石油が出るのではないかと考え、インドネシアで石油を探させた。
これが、勘がよかったのか、幸運であったのか、とにかくうまく石油を掘り当てることができた。

●当時のインドネシアは、石油を暖房のために使う必要もないし、また暗くなってからも活動するといった生活を送っていたわけではなかったので、石油の売り先はどこか他に求めなければならなかった。
そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。このころ日本において、ケロシン油で暖房したり、あるいは照明したりすることは革命的なことだった。
この商売もまた非常に成功した。



●石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは、頭の痛い問題だった。初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいやがったし、運賃がべらぼうに高かった。
そこでサミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインした。
そして彼は、世界初の「タンカー王」となった。
※ サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった。(「ミュレックス」は「アッキ貝」である)。

●彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけた。
彼自身、このことについては、次のように書き残している。
「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」
 

マーカス・サミュエル

1892年に石油業界に参入した彼は、
世界で初めてのタンカー船を生み出した。
当時の世界で最大のタンカー船隊の持ち主
となり、世界初の「タンカー王」になった。
 
●1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。
そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。
日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。
サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。
 

勲一等旭日大綬章

1894年に「日清戦争」が勃発すると、
サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、
兵器や、軍需物質を供給して助けた
 
●ところで、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、ついにこの会社を売らなければならなくなった。というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエルが石油を供給していたからだ。
サミュエルは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。さらに、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。
というのも、彼は常に自分の過去を記念したかったからである。この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られる「シェル石油」である。
 


1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、
本社を横浜の元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」
を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したのだった。
こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。

1907年、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」と
イギリス資本の「シェル石油会社」が合併して、
「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。

(※ このイギリス・オランダの2社の
合併を推進したのはイギリスの
ロスチャイルド財閥だった)

ちなみに、このイギリス=オランダ連合の
「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が、
イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」
(英国石油:略称BP)である。



現在、シェルグループの
企業は145の国に広がり、全体で
12万人以上の従業員がいる
 
●サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。
彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。
この年1月に「日英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。
(ちなみに、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)。
 

明治期の外交官、政治家
林董(はやし ただす)

駐英公使としてロンドンで「日英同盟」に調印した。


※ 「日英同盟」は、1902年1月30日に結ばれた日本とイギリス
との間の軍事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使と
イギリスのアーサー・ラウズダウン外相により調印された。

「日英同盟」は、戦前日本にとって最高の同盟関係
だったといえる。この同盟関係を守りきれなかった
ことが戦前日本の犯した最大の失敗だろう。

 
 
●サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。
サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。
「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない。」

●その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。

※ 現在、「ロイヤル・ダッチ・シェル」はロスチャイルド系列企業群の中心になっている。

イギリスのユダヤ人
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe200.html#04




シェルについて
シェルの歴史

1. シェルの歴史
2. 在日シェル年表

1) シェルの歴史
 シェルの起源は、1833年にマーカス・サミュエルがロンドンに開いた小さな店にはじまります。この店で東洋から輸入した貝殻を販売したところ、きらびやかな装飾品を好むビクトリア朝の博物学者たちの人気を集め、サミュエルの事業はたちまち貿易業として栄えました。
 父親から貿易業を引き継いだサミュエルの息子は、仕事でカスピ海岸を訪れた際に、極東へのランプなどの家庭用オイルの輸出に着目しました。1892年、初めてタンカーを手配し、ロシアから 4千トンの灯油をシンガポールとバンコクへ輸出しました。
 一方、オランダではアジアにおける石油開発のため、ロイヤル・ダッチ社が設立されました。同社は、1896年には自社タンカーを持ち、石油業界においてサミュエルのシェル・トランスポート・アンド・トレーディング社と競合関係にありました。
 しかし、業務提携を行うことを有利と考えた双方の歩み寄りの結果、1907年、ロイヤル・ダッチ/シェルグループは誕生しました。
 自動車の大量生産が始まり、新規マーケットが誕生した 20世紀前半は、石油業界にとって激動の時代でした。第一次世界大戦中、多くの操業施設を押収され、閉鎖を余儀なくされながらも、シェルグループはヨーロッパ、アフリカと南北アメリカ、特に北アメリカにおいて石油の利権を確保し、事業を拡張しました。
 1919年には、世界初の無着陸大西洋横断を成功させたアルコックとブラウンの飛行機に燃料を供給し、シェル・アビエーション・サービスを設立しました。1920年代、30年代はシェルにとって更なる拡張の時代であり、1929年の石油化学製品分野参入など、積極的に新規ビジネスを展開しました。
 第二次世界大戦に突入すると、シェルは再びタンカーや利権を失いましたが、燃料や石化製品の供給を続け、連合国政府を支援しました。

 戦後急増した需要に応えるべく、シェルは失った生産・輸送・精製設備を取り戻し、拡充していきました。
 1950年代・60年代には、石油の生産量および販売量を増やし、世界の石油製品の7割を占めるまでになりました。この頃から、石油業界では代替エネルギーとしての天然ガスの開発が始まりました。
 70年代、世界的不況と原油価格高騰が重なり、人々の目は天然ガスに向けられるようになりました。石油業界が大きな打撃を受けている一方で、シェルは北海のスコットランド沿岸において石油・天然ガス田を発見し、ヨーロッパで使用されていた天然ガスの約半分を供給しました。当時、ヨーロッパの消費エネルギーの15%が天然ガスで賄われていました。その中で、シェルは長期的展望から、石炭と鉱物の研究開発を行っていました。
 1980年代、環境問題への取組みとして、最新テクノロジーを導入し、新製品や新サービスを次々と発案し、中でも、無鉛ガソリンの先駆者としての地位を獲得しました。
 1990年代に入り原油価格が下がると、シェルはコアビジネスである石油、天然ガスと石油化学製品分野に重点を置きました。90年代半ばには、21世紀におけるエネルギー会社の果たすべき役割を考え、持続可能な発展のためにシェルの事業を通じて貢献することを確約しました。

 シェルグループは、常に競争において優位であるために、変化を続けてきました。それは時には根底からの変革であり、2005年7月、2つの親会社ロイヤル・ダッチ社とシェル・トランスポート社の、ロイヤル・ダッチ・シェル ピーエルシーへの統合もその一つです。創業より 100年以上にわたりエネルギー会社として成功を収めましたが、これらの変革により、今後も将来にわたりエネルギー会社として成功し続ける事ができるものと確信しています。


2) 在日シェル年表

 年           トピックス
1833天宝 4年 マーカス・サミュエルがロンドンに東洋の貝殻を用いた骨董・装飾品店を開店
1876明治 9年横浜にサミュエル商会を設立し、貿易業を開始
1897明治 30年 シェル・トランスポート&トレーディング社設立
1900明治 33年サミュエル商会の石油部門が独立、ライジングサン石油株式会社の誕生
1907明治 40年 ロイヤル・ダッチとシェル・トランスポートが合併し、ロイヤル・ダッチ/シェルグループが誕生
1912明治 45年-大正元年現昭和シェル船舶、帝国船舶株式会社設立
1914大正 3年ライジングサン石油、日本軍への最大の重油提供者となる
1923大正 12年関東大震災によりライジングサン石油の社屋が倒壊し、本社を一時横浜から神戸に移転
1941昭和 16年ライジングサン石油、敵産管理下に置かれる
1942昭和 17年早山石油株式会社、旭石油株式会社、新津石油株式会社 3社の合併により、昭和石油株式会社が誕生
1948昭和 23年ライジングサン石油、会社機能が回復しシェル石油に改称
1951昭和 26年シェルグループと昭和石油の間で資本提携が調印される
1955昭和 30年シェル石油本社を東京丸の内に移転
1958昭和 33年昭和四日市石油株式会社の四日市製油所が完成
1963昭和 38年後のシェル興産、シェル化学製品販売株式会社設立
1964昭和 39年新潟大地震により昭和石油新潟製油所のタンク火災
1967昭和 42年シェル化学株式会社設立、シェル石油中央研究所開所
1968昭和 43年シェル石油本社、霞ヶ関に移転
1971昭和 46年原油タンカー「ユリアナ号」が新潟港外で座礁
1981昭和 56年昭和石油、ソーラービジネスに進出
1985昭和 60年シェル石油と昭和石油が合併し、昭和シェル石油株式会社として発足
1988昭和 63年情報サービスシステム会社、株式会社ソーティスを設立
1992平成 4年シェル興産、シェル化学などを統合し、シェルジャパン株式会社として発足
1996平成 8年昭和シェル石油本社を臨海副都心のお台場に移転
1999平成 11年ソーティスをシェル・サービス・インターナショナルに譲渡し、シェル・サービス・インターナショナルジャパン株式会社として発足
2000平成 12年シェルガス&パワージャバン株式会社設立
2001平成 13年シェルジャパン、シェル ケミカルズ ジャパン株式会社に改称



シェル石油は日本の横浜が創業地である。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/db29e2571db1f42830a561fafd7884d8
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by thinkpod | 2006-07-29 19:43 | 国際
2006年 07月 26日

戦争とマスコミ

2006年7月25日  田中 宇 

 7月12日にイスラエルがレバノンに侵攻して以来、衛星放送の「BBCワールド」の英語のニュースを見ていると、イスラエルからの現地レポートが始まったとたんに音声が途切れたり、映像が切れてしまうことが何回かあった。アナウンサーは「技術的な問題が生じた」と説明して次のニュースに移るという対応をしていたが、私には「問題は技術的なことではなく、イスラエル当局が自国に不利な放映を阻止したのではないか」という疑いが浮かんだ。

 AP通信の記事によると、戦争開始以来、イスラエル軍は、イスラエルで取材するマスコミが報じる戦況報道について検閲を行い、敵方を有利にする情報が流されそうなときには、放送を止めたり、メディアの発行を差し止めたり、記者を拘束したりする報道管制を行っている。イスラエル軍の報道管制担当の主任(Col. Sima Vaknin)はAP通信に対し「私は、新聞社や放送局を閉鎖することなどを含む、ほとんどどんなことでもやれる強大な権限を持っている」と述べている。(関連記事)

 報道管制は、イスラエル国内のマスコミだけでなく、イスラエルに駐在ないし短期滞在して取材する外国のマスコミや、フリージャーナリストにも適用される。BBCの放送は、イスラエルの取材現場から、衛星回線を通じてロンドンの編集センターに送られていると推測されるが、イスラエルから衛星回線に乗せる際、イスラエル軍の報道管制担当の検閲を経ていると思われる。報道管制官は、必要に応じてビデオ信号の流れを止めたり、音声だけを止めたりしているのだろう。

 私が「これは報道管制だな」と感じた一つのシーンは、ヒズボラのロケット弾がイスラエル北部の町ハイファに着弾し始めた2日めの現場レポートだった。前日のイスラエル国内新聞の報道では、ハイファの市民は意外と平静で、ヒズボラのロケットが着弾した場所を見に行く野次馬が多かったと書いていた。

 翌日のBBCニュースでは、ハイファに滞在する記者が「ハイファ市民は意外と冷静で・・・」と現地レポートを始めたとたん、映像が途切れてしまった。アメリカの新聞などでは「ヒズボラの攻撃でイスラエルは大変なことになっている」といった感じの報道が多く、これこそがイスラエル軍の望んでいる報道なのだろう。BBCが「イスラエル市民は意外と冷静で、ミサイルの着弾現場には野次馬がたくさん来ています」といった現実を報道してしまうと、世界の世論にイスラエルを不利にする悪影響を与えかねない。だから軍が放送をカットしたのではないかと思われた。

 さらにその翌日のBBCのニュースでは、ハイファの現場レポートが著名な戦場記者(Lyse Ducet)に入れ替わり、ほとんど人がいない繁華街を背景に「みんな防空壕に避難し、市民生活が奪われています」といったレポートをしていた。これはカットされず、検閲に合格したようだった。

▼「中東特派員をやめられて嬉しい」

 アメリカでは、イスラエルは、今回の戦争が始まるずっと前から「検閲」を行っている。中東問題に詳しいロバート・フィスクが昨年末に報じたところによると、アメリカの多くのマスコミは、在米のイスラエル右派系勢力からの脅しやヒステリックな抗議を受け続け、中東の情勢について事実ではないことを書かねばならない状況に追い込まれている。

 ボストンの新聞ボストングローブの中東特派員は、配置換えで中東を去るにあたって「もう事実をねじ曲げて記事を書かなくても良くなるのでうれしい」とフィスクに述べたという。アメリカのイスラエル右派系の団体は、マスコミに対し、親イスラエル的な表現を使わない記事について非難を繰り返し、記事の表現を変えさせ、悪いのはパレスチナ人の方であるという印象を、読者に持たせるべく、活動を続けている。(関連記事)

 イスラエル右派系の過激な活動家たちが標的にしているのはマスコミだけでなく、中東問題を教える大学の教官や、中東に対する外交政策を討論する政治家などに対しても、さかんに行われている。私が2000年にアメリカの大学で中東の地域学の授業を聴講していたとき、すでに教室の最前列にはキッパ帽をかぶったイスラエル系アメリカ人の学生が陣取り、教官がイスラエルについて批判的なことを言わないよう監視していた。

 すでにアメリカでは、中東問題に関する報道は歪曲が定着し、学者もきちんとした研究ができず、政治家はイスラエルを批判することが不可能になっている。中東問題に関しては、ジャーナリズムも、アカデミズムも、民主主義も、すでに死滅している。

 この傾向は1990年代末からひどくなり、2001年の911事件を機に、決定的になった。そして、この「死滅状態」を活用して起こされたのが、2003年のイラク侵攻であり、今回のイスラエルのレバノン侵攻である。

▼イスラエルの戦術を見習う諸勢力

 最近では、イスラエルのやり方を見習って、過激な活動家集団を形成してマスコミに圧力をかけ、報道の論調を自分たちに有利な方向に傾けさせようとするいくつもの勢力が、世界中で活動するようになっている。

 たとえば、欧米で強いアルメニア系の勢力は、第一次世界大戦の時期にトルコがアルメニア人を虐殺した話をテコに、反トルコのキャンペーンを世界中で展開し、虐殺されたアルメニア人の数をできるだけ多く見積もる運動(ホロコーストの被害者数の運動から学んだのだろう)を行ったり、トルコを少しでも擁護するマスコミの言動を潰したりしている。

 アルメニア人は、アゼルバイジャン(トルコ系のイスラム教徒)とのナゴルノ・カラパフ紛争に関しても、すべてアゼルバイジャン側が悪いという宣伝を世界的に行い、かなり成功している。アルメニア人は、イスラエル人(ユダヤ人)と同様、欧米に広く民族が離散しており、国際的な政治活動がうまい。

 トルコ系も世界に移民がおり、イスラム教徒も世界中にいるのだが、彼らは結束できず、連帯した巧妙な政治活動が下手で、いつもユダヤ人、アルメニア人、アングロサクソン(米英)などの巧妙な人々に完敗し「悪者」役をやらされている。

 日本国内で、イスラエル右派のやり方を学んだのではないかと思えるのは、北朝鮮の拉致問題に取り組む勢力の中の一部である。拉致問題に取り組む団体の活動家から脅しを受け、記事の論調を書き直させられたという、数人の雑誌編集者や記者から話を聞いたことがある。

▼軍広報官を苛立たせる

 今回のレバノン戦争に際し、イギリスでは当初、アメリカと同様、イスラエルを無批判に支持していた。しかしイスラエルが空爆によってレバノンの一般市民の住宅や公共施設を容赦なく破壊し続けたため、イギリスの世論が反イスラエル的になった。

 以前の記事に書いたように、イギリスは、アメリカの覇権力を使って世界を動かす「英米同盟中心の国際協調戦略」を採ってきた。このためブレア首相は、できる限りブッシュ政権と歩調を合わせようとしたが、イスラエルによる残酷な攻撃は、イギリス政府内にすら反イスラエル的な意見を広める結果となり、開戦から12日たった7月24日、イギリスの外相が公式に、イスラエルのレバノン市民社会に対する攻撃を非難した。(関連記事)

 これを機に、BBCなどイギリスのマスコミは、レバノンで惨状を大々的に報道するようになり、イスラエル批判の論調を強めた。イギリス以外の欧州諸国でも、世論はすでにイスラエルを強く非難している。

 軍の報道管制があるイスラエル側からの現場レポートは、イスラエルを批判するとカットされてしまう。そのためBBCの記者(Lyse Ducet)は、巧妙なやり方をしていた。イスラエル軍の広報官にレポート現場に来てもらい、記者が「今日、イスラエル軍はレバノンの国営テレビ局を空爆しましたね」と尋ねると、軍広報官は「ヒズボラの行為を宣伝していたので」と返答。記者は「しかし、国営テレビ局はレバノンの国民生活に必要不可欠なものだったのではないですか」と尋ねると、広報官が「われわれは必要に応じて攻撃を行っている」。

 記者はさらに「今日は、レバノンの携帯電話の基地局も空爆しましたね」。広報官は「携帯電話がテロ組織に使われていたから」。記者は「しかし、携帯電話は、一般市民の生活必需品だったのではないですか」。不利になってきた広報官はしだいにイライラして「われわれはテロ組織と戦っており、必要に応じて作戦を展開している」と怒った感じで返答した。記者はイスラエルを直接批判しなかったが、テレビを見ている人々には、何が起きているかが伝わった。広報官が出演しているニュースなので、イスラエル軍は放映をカットするわけにもいかなかった。

▼沈黙する日本

 イスラエルに対する擁護と非難で騒然としている欧米のマスコミとは対照的に、日本のマスコミでは、今回のレバノンでの戦争は、意外な小ささでしか報じられておらず、沈黙している。このニュースは、新聞の一面やテレビのトップニュースにならない日の方が多い。

 今回の戦争は、インドから北アフリカまでの広い範囲を巻き込んだ大戦争になりかねず、アメリカの覇権や戦略に大きな影響を与えそうである。イラクの泥沼化以来、厭戦気分のアメリカは、孤立主義の傾向を強めかねず、だからこそイスラエルはアメリカを中東での継続的な戦争に巻き込むため、ヨルダンを攻撃し続けている。アメリカでは「すでに第3次世界大戦が始まっている」と指摘する分析者も多い。

 アメリカの覇権が大きく揺れていることは、対米従属の戦後60年を送ってきた日本の政府と国民にとって、非常に大きな関心事であるはずである。しかし日本では、政府もマスコミも沈黙している。レバノンで起きている戦争が、日本を含む世界に対してどんな意味を持っているかについての分析や議論は、全くといっていいほど行われていない。

 このような状態になっている理由はおそらく、戦後の日本の対米従属が「アメリカの内部で決まったことに従う」という自主規制に従ってきたからだ。「お上」の宮廷内の不和については、興味を持たず、見て見ぬ振りをするのが賢明だ、下手に関心を持って意見を言ったりすると、痛い目に遭うかもしれない、と考えるのが、日本なりの戦後の生きる知恵である。

 911以来、イスラエル系の勢力が米政界をかき回してテロ戦争を激化させているのは、日本から見るとまさに「お上の宮廷内不和」である。この件について日本人が騒ぐことは危険なので、政府は沈黙し、マスコミはなるべく小さくニュースを扱っているのだろう。日本政府は、アメリカの宮廷内紛で最終的に勝つ勢力が確定したら、その勢力の命令を聞こうと待っている。しかし911以来、宮廷内紛は激しくなるばかりで、終わる見通しがない。

▼「ジャーナリズム」の本質

 従来、日本では「マスコミは、政府から何の規制も受けずに報道している」というのが「常識」で、その常識からすると、日本のマスコミが政府の意を受けてレバノン戦争のニュースの扱いを小さくしていると考えるのはおかしい、ということになる。だが、911以来、日本にとっての「お上」であるアメリカが戦時体制を続けていることから考えて、今では日本のマスコミの上層部が、日本政府から何の「アドバイス」も受けていないとは考えがたい。

 世界的に見ると、ある国が戦争を始めたら、その国のマスコミが戦争に協力した報道を行うことは、半ば義務である。マスコミが政府の戦争に協力しなければならないのは、公的な組織として、抵抗しがたいことである。

 マスコミ業界の世界的な中心地であるアメリカでは、マスコミは、開戦後に戦争に協力するだけでなく、政府による戦争開始の策動に協力してきた。アメリカのジャーナリズムの賞として世界的に有名なものに「ピューリッツァ賞」があるが、この賞を作ったジョセフ・ピューリッツァは、1898年にアメリカとスペインの戦争(米西戦争)が始まる原因を作った人である。

 米西戦争は、当時スペイン領だったキューバに停泊中のアメリカの戦艦メーン号が何者かによって爆破沈没され、これをピューリッツァの新聞「イブニング・ワールド」などのアメリカのマスコミが「スペインの仕業に違いない」と煽り、開戦に持ち込んだ戦争である。メーン号が沈没した理由が、故障による自損事故だったことは、後から判明した。

 この米西戦争開始の経緯を見ると、アメリカのマスコミが政府の肝いりで「イラクは大量破壊兵器を持っているに違いない」と煽って開戦に持ち込み、後で、実はイラクは大量破壊兵器を持っていなかったことが分かったという、105年後の2003年に起きたイラク侵攻と、ほとんど同じであることが分かる。

 ピューリッツァとその後の同志たちが巧妙だったのは、自分がやっていた扇動ジャーナリズムを、洗練された知的で高貴な権威あるイメージに変えることを企図し、成功したことである。ピューリッツァは、ニューヨークのコロンビア大学に巨額の寄付を行い、ジャーナリズム学科を創設した。今では、コロンビア大学のジャーナリズム学科は、ジャーナリズムを学ぶ場所として世界最高の地位にあり、ピューリッツァ賞は、世界最高の賞となっている。「ジャーナリスト」は、世界中の若者があこがれる職業になった。

 しかし米西戦争からイラク侵攻まで、「人権」などの一見崇高なイメージを使って敵方の「悪」を誇張し、自国にとって有利な戦争を展開することに協力しているアメリカのマスコミのやり方は、巧妙さに磨きがかかっただけで、本質は変わっていない。

(ベトナム戦争では例外的に、アメリカのジャーナリズムが自国の政府や軍を批判したが、これは、米政界内で、冷戦派と反冷戦派が暗闘していたことと関係している)

 人々が、マスコミによるイメージ作りに簡単にだまされてしまう状況も、105年間、ほとんど変わっていない。むしろテレビがお茶の間を席巻した分、昔より今の方が、世界的に、人々はより簡単にだまされてしまう状況になっている。

戦争とマスコミ
http://tanakanews.com/g0725media.htm
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by thinkpod | 2006-07-26 19:59 | メディア
2006年 07月 26日

地球史探訪:操られたルーズベルト

■1.米国が日独と戦ったのは間違い■

 2000年の米大統領選に名乗りを上げている保守派の元
テレビ・コメンテーター、パット・ブキャナン氏(60)が、
最近刊行した米国の外交政策に関する著書「帝国でなく共和
国を」で、「第二次大戦で米国がドイツや日本と戦ったのは
戦略的に間違っていた」と主張したことが波紋を広げている。

・・・日本に関しては、当時の仏領インドシナに進駐した後、
米国のルーズベルト大統領が極めて厳しい経済制裁を発動し
たことが、日本にとって「のど元をつかまれた」形になり、
真珠湾攻撃を決意させたと指摘。開戦には米国の政策が大き
な役割を果たしたとしている。

 ブキャナン氏は、・・・日独敗北の結果、旧ソ連に対する
歯止めがなくなったことで、共産中国の誕生や、朝鮮、ベト
ナム両戦争での米軍の犠牲など「苦い結末を得た」ともして
いる。[1]

 第2次大戦で米国は「敵を間違えた」という主張は、今もくす
ぶっている。本誌96号「ルーズベルトの愚行」では、当時の政治
家や米軍幹部の証言に基づいて、ルーズベルト大統領がソ連に異
常な肩入れをして、ドイツとの参戦を果たすために、日本を開戦
に追いつめたプロセスを紹介した。

 その後、当時の公文書公開が進み、ルーズベルトの背後でソ連
スパイの暗躍があったことが明らかにされた。このニュースは、
わが国の現在の国際情報戦略にも重大な警告を投げかけている。

■2.真珠湾の7ヶ月前に日本爆撃計画■

 第一のニュースは、日本の真珠湾攻撃の7ヶ月も前に、米軍が
蒋介石軍に荷担して、日本爆撃を計画し、陸軍長官、海軍長官、
そしてルーズベルト大統領自身が承認のサインを与えていた書類
が明るみに出たことである。

 この作戦には350機のカーチス戦闘機、150機のロッキー
ド・ハドソン爆撃機を使用するとし、また大阪、神戸、京都、東
京、横浜の爆撃には木造住宅の多い日本民家に効果のある焼夷
(しょうい)弾を使用すべきであるなどとする内容もあった。後
の本土空襲の原形がすでに考えられていたのである。

 実際には、欧州戦線への爆撃機投入を優先したため、この計画
は実施が遅れて、その前に真珠湾攻撃となった。[2]

 しかし、この案が突飛なアイデアでない証拠として、すでに米
軍の最新鋭戦闘機とパイロット約100名、地上要員約200名
のフライング・タイガーと呼ばれる一隊が、義勇兵を装って、蒋
介石軍に参加していた事実がある。上記の爆撃計画は、この戦闘
機部隊に爆撃機を加えて、日本本土を直接攻撃しようという拡張
案なのである。[3]

 これは完全な中立義務違反で、こんなことが国際法上許される
なら、たとえば台湾が中国に攻撃された場合、自衛隊を台湾に義
勇兵として送れば、日本は中立と平和憲法を維持したまま、実質
的に参戦できることになる。

■3.日本爆撃計画推進者はソ連のスパイ■

 さらに、この空爆計画の推進者だったロークリン・カリー大統
領補佐官(当時)は、実はソ連と極秘情報のやりとりをしていた
ことが、当時の米暗号解読機関によって確認されていた。

 この文書はVENONA資料と呼ばれ、1940年代後半、ニュー
ヨークとワシントンにあるソ連代表部とモスクワ間の交信記録を
米特殊機関(戦後の国家安全保障局=NSA)が暗号解読したも
のだ。

 カリー補佐官はカナダ生まれの経済学者で、39年から45年まで
大統領補佐官(経済担当)をつとめた。41年初頭には対日戦略を
調整するため米国の中国支援担当特使に任命され、ルーズベルト
大統領と中国国民党の蒋介石主席(当時)の橋渡し役をしていた。

 48年にソ連スパイだったことを告白した政府職員、エリザベ
ス・ベントレーによる「カリー氏もスパイだ」という訴えをきっ
かけに、カリーは米下院・非アメリカ委員会の追及を受けた。
しかし最後まで容疑を否定し、50年に米国市民権を放棄し、南米
コロンビアに移住、93年に死亡している。

 ソ連がスパイを送り込んで、日本と蒋介石軍との戦いをアメリ
カに支援させていた動機は容易に理解できる。両者が戦えば、毛
沢東軍が漁夫の利を占めることになり、中国共産革命が近づく。

 さらに日米戦争ともなれば、ソ連にとっても日本からの軍事的
脅威はなくなり、ドイツと日本から挟撃されるという最悪の事態
を避けられる。まさに一石二鳥の見事な謀略なのである。[4]

■4.ソ連スパイが作成したハル・ノート原案■

 日本爆撃計画は不発に終わったが、実際に日米戦争の引き金を
引いたのが、41年11月26日、ハル国務長官が提示したハル・ノー
トであった。

 このノートで米政府は

・ 中国、仏領インドシナからの日本軍の全面撤退
・ 蒋介石国民党政府以外の政府の否認
・ 日独伊三国同盟の死文化

 などを要求した。これを最後通告と解釈した日本は、翌日、米
国との交渉の打ち切りを決定した。

 実際には、ハル国務長官は90日間の停戦を骨子とする緩やか
な妥協案を作成していたのだが、ルーズベルトは、財務次官ハリ
ー・デクスター・ホワイトが41年6月に作成していた対日強硬提
案の方を採用した。

 今回のVENONA資料では、このホワイトも、ソ連に米国政
府の極秘情報を通報したり、現金をもらっていた事を示しており、
カリー補佐官と同様、ソ連のスパイであることが判明した。

 さらに当時のソ連人民内務委員部の工作員だったパブロフが41
年5月にワシントンでホワイトと密会し、日本と米国が交戦する
よう仕向ける外交案の作成を要請していたことが、ソ連崩壊後の
同氏の回顧録で明らかになった。

 パブロフによると、ホワイトに与えた指示書では、日本軍の中
国および満州からの完全撤退要求など日本側が到底受け入れられ
ない内容を含んでおり、ほぼハル・ノートと同じ内容になってい
る。ホワイトが試案を作成したのはその翌月で、パブロフの指示
を忠実に守ったことをうかがわせている。

 さらに、ホワイトは41年に成立したソ連と中国への米軍事支援
を合法化した武器貸与法を強く推進したことがわかっている。

 ホワイトは、カリー補佐官と同様、エリザベス・ベントレーら
による告発で米下院・非アメリカ活動委員会に召喚されたが、ス
パイ容疑を否定したあと、3日後に心臓まひで死亡している。ホ
ワイトの直接の部下だったコーら二人の財務省高官も同様のスパ
イ容疑をかけられたあと、中国に亡命し、そこで客死した。[5]

■5."恥ずべき"最後通牒■

 ハル・ノートによって、日本政府は米国には交渉意思がないと
最終判断を下し、12月7日(現地時間、日本では8日)にパー
ルハーバー攻撃に踏み切った。翌日、ルーズベルト大統領は下院
議会上で、次のように演説を始めた。

 昨日すなわち、1941年12月7日は、恥ずべき行いの日と
して永遠に残るでしょう。合衆国は、突如、しかも故意に攻
撃されたのであります。[6,p164]

 当時の共和党指導者ハミルトン・フィッシュ議員は、下院での
日本に対する宣戦布告決議の最初に演説し、「米国内で論争、対
立をすべき時は過ぎた。今や行動をとるべき時である」と述べ、
ルーズベルト大統領のもとに団結するよう訴えた。立場の違いを
乗り越え、祖国の危機に立ち上がろうという憂国の至情あふれた
演説であった。

 しかしハル・ノートの内容を知った後で、フィッシュ議員は次
のように憤る。

 今日私は、ルーズベルトが日本に対し、恥ずべき戦争最後
通牒を送り、日本の指導者に開戦を強要したということを知
っており、この演説を恥ずかしく思う。[6,p47]

 この最後通牒に言及するにあたっては、ルーズベルトがパ
ールハーバー攻撃を"恥ずべき行いの日"と呼んだことにちな
み、"恥ずべき"最後通牒と呼ぶことが適切かと思われる。
[6,p38]

■6.日本が米国世論に訴えていたら?■

 このフィッシュ議員に代表される議会勢力と米国世論を味方に
つけていれば、わが国は日米戦争を回避できたのではないか? 
たとえば、日本政府が、フライング・タイガーの中立義務違反を
米国世論に広く訴えていたら、どうなっていただろう。

 ルーズベルトは3選をかけた大統領選挙1週間前の1940年10
月30日、ボストンで次のような演説をしている。

 私は、母であり、あるいは父であるあなたがたに話すにあ
たって、いま一つの保証を与える。私は以前にもこれを述べ
たことがあるが、今後何度でも繰り返し言うつもりである。
「あなたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込ま
れることもない」[6,p82]

 39年の9月に行われた世論調査では、米国民の97%が欧州戦争
参戦に反対していた。ルーズベルトは決して参戦しないという公
約を武器に当選していたのである。

 これに対して、米国民の知らないうちに、フライング・タイガ
ーとしてすでに300名もの兵員を中国戦線に送りこんでいる事
実が暴露されたら、選挙公約違反であることは誰の目にも明らか
である。このような卑劣なうそほど、米国民を激高させるものは
ない。

 同様にハル・ノートを「恥ずべき最後通牒」として、全世界に
公開していたらどうなっていたか。戦争に反対するフィッシュ議
員の非介入主義は、共和党議員の90%、民主党議員の半数の支
持を受けていた。その議会に内緒で戦争を挑発しようとするハ
ル・ノートのアプローチは、米議会のみが宣戦布告の決定をなし
うるという米国憲法を大統領が自ら踏みにじったものであるとフ
ィッシュ議員は主張している。

 真珠湾前にこの点があきらかにされれば、大統領は議会と国民
の信任を失い、「米国は簡単に日本との間で和平条約を締結でき
たであろう」というフィッシュ議員の主張が勢いを得て、米国政
府の方針転換につながっていた可能性が高い。
 
■7.欧米資本を味方にひきつけた高橋是清■

 アメリカの中にも、フィッシュ議員のような信頼し得る陣営が
あり、また米国民の世論も、説き方によっては味方につけること
ができた。戦わずして、スターリンとルーズベルトの陰謀を粉砕
し、日米戦争を避けることができたかも知れない。

 しかし、現実には日本政府はそのような対米世論工作は検討す
らしなかったようだ。米国が一丸となって戦争をしかけていると
判断し、真っ正直に一か八かの全面戦争に突入した。我々日本人
は伝統的にこの種の世論工作に弱いのだろうか。

 しかし見事な例外もある。たとえば、日露戦争中に欧米で公債
による戦費調達を担当した高橋是清である。ロシアの黄禍論(黄
色人種の白色人種侵略)に対して、日露戦争は日本の生存をかけ
た自衛戦争であることを主張し、さらに、日本政府は過去、元利
支払いを一度たりとも遅らせたはないとして、信用を訴えた。

 こうした高橋の主張に納得したユダヤ資本は、同胞を迫害する
ロシア政府を倒すためにも、日本を支援しようと、巨額の公債を
引き受けてくれた。戦争前の日銀の正貨保有額が1億17百万で
あったのに対し、合計13億円にのぼる戦費調達に成功したので
ある。日露戦争は、まさにユダヤ資本、欧米資本を味方につけて
初めて戦うことができたのである。それを引き出したのは高橋是
清の欧米世論への働きかけであった。[7]

 明治時代にはこのように日本の主張を堂々と国際世論に訴えう
る人材が少なくなかった。しかし、その後、昭和に入り、そのよ
うなセンスは次第に失われ、戦後はさらにひどくなったように見
える。慰安婦問題(JOG106,107)やアイリス・チャンの南京事件
告発(JOG60)に見られるような国際的謀略に、一方的に攻撃され
ている。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と
生存を保持しようと決意した」(日本国憲法前文)という他者依
存の姿勢では、国際世論工作の必要性すら理解できないであろう。
ことは一国の独立心、自立心の問題であって、語学の問題ではな
いのである。

■参考■
1.「ブキャナン氏の著書、波紋呼ぶ『日独との戦争、誤りだった』
  産経新聞、H11.09.28、東京朝刊、4頁、国際2面
2.「米『真珠湾』直前 日本爆撃を計画」、産経新聞、H11.07.15、
  東京朝刊、1頁総合1面、関連記事が国際2面に2件
3.「発覚したルーズベルトの”だまし討ち計画”、前田徹、
  正論、H11.10
4.「ルーズベルト政権 日本爆撃計画立案者はソ連のスパイ」、
  産経新聞、H11.08.04、東京朝刊、5頁、国際面
5.「『ハル・ノート』はソ連指示で作成?」、産経新聞、H11.08.22
  東京朝刊、1頁、総合1面、関連記事が国際に2件
6.「日米・開戦の悲劇」、ハミルトン・フィッシュ、PHP文庫、H4.12
7.「高橋是清自伝・下」、中公文庫、S51.8

謝辞:本稿は、佐々木さん、および、ほそかわかずひこさんのお二
人の姉妹誌JOG Wingへの投稿をもとに再編集したものです。
改めて御礼申し上げます。
 ほそかわさんのJOG Townでのホームページ
 
■リンク■
JOG(96) ルーズベルトの愚行 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。

© 1999 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

JOG(116) 操られたルーズベルト
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog116.html
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by thinkpod | 2006-07-26 16:19 | 国際
2006年 07月 24日

【「友好」の舞台裏】中国の対日宣伝工作(上) 党中央、戦略的に活動一元化

 北朝鮮のミサイル乱射を受けた国連安全保障理事会での日本と中国の攻防は、熾烈(しれつ)を極めた。中国首脳は靖国神社参拝の姿勢を変えない小泉純一郎首相とは国際会議の場でも会おうともしない。その一方、胡錦濤国家主席は首相との対決姿勢を鮮明にする民主党の小沢一郎代表と会談、自民党に揺さぶりをかける。「日中友好」の裏側で活発化している中国の対日宣伝工作の実態を探った。

 ■いきなり排除

 PHP総合研究所の江口克彦社長はこの7年、中国の地を踏んでいない。それ以前の25年間は、頻繁に中国で講演していた。きっかけは、PHPが平成11年、当時の李登輝台湾総統が書いた「台湾の主張」を出版したことだった。

 「以前は中国へ行くというと、中国の学術機関から招待状が届いた」と江口氏は振り返る。

 中国は、彼が松下電器出身で「経営の神様」といわれた松下幸之助氏を長くサポートしてきたことから、経済界とも太いパイプを持っていると判断していたようだ。

 「松下幸之助は『経済の井戸』を掘った人として、中国でも尊敬されている。近くにいた私から話を聞きたいという人が、中国には非常に多い」と江口氏は語る。

 しかし、「台湾の主張」を出版したことでその関係は切れた。その年の秋、日本の某大学教授から「あなたは北京で石原慎太郎さんとともに『悪のオピニオンリーダー』と話題になってますよ」と忠告された。

 その後も中国の大学などから口頭で講演依頼が7、8件あったが、招待状は一度も届かなくなった。江口氏は「大学が中国政府に申請しても却下していると思う。『台湾の主張』を出した江口はけしからん、ということなのだろう」と語る。

 ■本国では抗日

 昨年夏、東京・六本木ヒルズで中国政府主催の写真展「ともに築こう平和と繁栄−中国と日本60年の歩み」が開かれた。日本の政府開発援助(ODA)が中国の経済発展に役立ったことをPRするコーナーもあり、会場は友好ムード一色。中国国務院新聞弁公室の趙啓正主任(閣僚級)は記者会見で、写真展の前に中国で起きた大規模な反日デモによる日本人の対中感情悪化に触れ、「日中関係が難しい時期だからこそ、お互いのいいところを見なければならない」と述べた。

 しかし、同様の写真展は中国国内では開かれなかったという。趙主任の言葉と裏腹に、同じころ、中国では日中戦争での中国空軍の業績をたたえる「抗日航空烈士記念館」が南京で着工され、米国など連合軍の元兵士約200人を北京の「抗日戦争勝利式典」に招待、「反日イベント」が頻繁に開かれていた。

 元公安調査庁調査第2部長の菅沼光弘氏は「中国は対外宣伝活動を統一方針の下、理論的、組織的にやっている」と話す。

 中国は数多くの対日交流機関や窓口を設け、日本の政党、民間団体、学術機関、マスコミなどに常時働きかけている。

 中国事情に詳しい専門家によると、対日情報収集や宣伝工作で、最も強い影響力を持つのが国家安全省。全国各地に下部組織の安全局があり、日本に「工作員」を派遣する実行部隊となる。日本の政治、経済などの情報を収集しながら、日本に住む民主化運動家や台湾の協力者らを監視するのが主な業務だ。

 人民解放軍の情報部も重要な役割を担っている。日本の軍事、産業情報などを収集するプロ集団であり、大使館に武官を派遣している。

 関係者によると、この2つの部署から中日友好協会などに出向するケースは少なくない。また、人民解放軍総政治部の下にある国際友好連絡会が創価学会など宗教団体や海外援助活動に熱心な財団をカバーしており、活動範囲は広くきめ細かい。

 菅沼氏は「一見バラバラに見えるが、活動方針はすべて共産党中央で決められており、一つの組織としてみた方が妥当だ。中国のやり方は巧妙なだけに日本にとっては脅威だ」と指摘する。

                   ◇

 ≪「アメとムチ」戦術使い分け≫

 ■政界工作

 中国が対日工作で最も重視しているのは政界への働きかけだ。

 昨年11月、日中友好議連の中国訪問が突然中止になった。関係者によると、訪中団の人選に中国側からクレームがついたという。

 訪中団名簿には町村信孝元外相の名前があった。その半年前、中国各地で激しい反日デモが起き、外相だった町村氏が緊急訪中したのだが、外相会談の冒頭、テレビカメラの前で抗議したことが怒りを買った。

 中国側は日中友好議連に、間接的に「胡錦濤国家主席と会える」との好条件をちらつかせながら、町村氏をメンバーから外すよう求めた。しかし、日本側が拒否したため、訪中そのものが中止となった。

 自民党関係者によると、一昨年9月、北京で開かれたアジア政党国際会議でも同様の騒動が起きた。自民党は棚橋泰文氏らを派遣しようとしたが、在京の中国大使館参事官が「棚橋先生では困る。直近に自民党員として台湾に行った人は中国として迎えられない」と激しく抗議。メンバー変更を強く求めたが、この時も党執行部の判断で、代表派遣を見送った。

 一方、中国は7月4日、訪中した民主党の小沢代表に対し、胡主席との会談をセット、友好ムードを演出した。日中関係筋は「現在の対日政策の基本的な柱は民主党や与党内の親中派勢力と交流を深めることだ」と語る。小沢氏に秋波を送ったのも、自民党内で野中広務元幹事長ら「親中派」とされた大物議員が相次いで引退したことが大きく、野党第一党である民主党を押さえておきたいとの思惑からだという。

 中国は「親中派」とみなした議員には、要人との会談を設定、熱烈な歓迎ぶりをみせ、地方都市の名誉市民や大学の名誉博士といった「称号」を与えて歓心を買う。逆に「反中派」とみなした議員には訪中拒否などで冷遇するといった「アメとムチ」の戦術を使い分ける。

 京都大学大学院の中西輝政教授は、国連安保理の対北朝鮮決議の日本提案に中国が強く反対したことを「アジアのもう一つの大国である日本が国際政治の舞台で一人前のプレーヤーになってほしくないからだ」と分析する。同時に「中国の対日工作の攻勢をはねつけるには、国民がしっかり団結して対応しなければならない」と語る。

 組織的かつ戦略的な中国の対日宣伝工作にいかに対応するか。「ポスト小泉」政権にとって重要な課題といえる。


Sankei Web 産経朝刊 【「友好」の舞台裏】中国の対日宣伝工作(上) 党中央、戦略的に活動一元化(07/24 05:00)
http://www.sankei.co.jp/news/morning/24iti003.htm


3.地方や大学へ浸透狙う 中国が対曰宣伝工作で力を入れているのは、政界や言論界だけでない。米軍基地や尖閣諸島を抱える沖縄へのアプローチや東西の有力私大への働きかけも活発化させている。 

■自衛隊訓練中止 
今月16曰、台湾と国境を接する沖縄県与那国島で、防災訓練の一環として実施されるはずだった陸上自衛隊第1空挺団(千葉県船橋市)の隊員によるパラシュート降下が中止された。 これに先立つ6月28曰、与那国町役場に町長を訪ねた八重山地区労働組合協議会の代表は「いたずらに近隣諸国を刺激し、友好的な発展を阻害する」として中止を求める要請文を手渡した。要請文には「明らかに与那国町民への宣撫工作であり、想定されている中台問題や尖閣問題を視野に入れた瀬踏みだ」と書かれ、開係者によると、町長も同調するかのような発言をしたという。 陸上自衛隊は「町長からの要請やめたのではなく、パラシュート訓練は天候に影響されやすいのでやめた。代わりにヘリコプターによる負傷者救出訓練を実施した」(広報室)と説明する。しかし、同じ八重山地方の石垣市は4月、自衛隊が計画していた演奏会開催のための市民会館使用を「混乱が起きるのは好ましくない」と不許可にした。相次ぐ自治体の自衛隊への厳しい対応に中国の影をみる向きもある。 「中国は戦略的に重要な地域である沖縄で、盛んに『中国人観光客が沖縄の観光業を救う』と宣伝している。他の地域でも同じことを言って浸透をはかっている」 在京のある外交官はこう指摘する。 沖縄の本土復帰後、曰中友好関係の組織がほとんどなかった沖縄に平成16年、「新しい沖縄と中国の友好交流を推進する会」が発足した。これに呼応する形で、中国は、中国から伝来した沖縄の伝統競漕「那覇ハーリー」に広東省からチームを派遣するなど急速に交流を深めている。 沖縄在住のジャーナリスト、恵隆之介氏はこう警鐘を鳴らす。 「沖縄では戦後、米陸軍第8心理作戦部隊が県民に本土復帰の気持ちが起こらぬよう反曰宣伝を徹底した。その影響で、中国に朝貢していた時代が美しく語られている。県民に国家帰属意識が薄いことに中国はつけ込み、ここぞとばかりに浸透している」

■孔子隠れみの? 
京都市の立命館大学。その本部近くに「立命館大学国際平和ミュージアム」があり、「わだつみ像」が玄関に立つ。戦後、「きけわだつみのこえ=曰本戦没学生の手記」地方や大学へ浸透狙うの収益金を基金にして発足した「曰本戦没学生記念会(わだつみ会)」の事業としてミュージアムはつくられた。その2階に「立命館孔子学院」がある。 孔子学院は、世界での中国語教師育成や中国文化普及を目的とする教育機関。中国政府が世界各国の大学、研究機関と運携、世界中に100力所創設しようという一大プロジェクトだ。一昨年12月にソウルに第1号が開校されて以来、現在では米国の10力所を最多に世界80力所に設置されている。 曰本では、立命館大に昨年10月、設置されたのが最初。その後、愛知大、北陸大、桜美林大とわずか半年で4私立大学に開設された。中国大使館によれば、北海道や東北、九州など国内各地に開校の予定がある。 学校法人立命館の鈴木元総長・理事長室長は、「立命館は戦前から、中国の留学生を受け入れ、戦後も国交のないころから交流を進めてきた歴史がある。自国語の教育施設を一気に数年で世界につくろうというのは中国の明確な国家戦略だと思う。それを分かったうえで『曰本で一番初めに』とアプローチした」と語る。 設立から半年、立命館大の孔子学院では中国語講座や講演会などを行っている。周イ生立命館孔子学院長は「孔子学院の設立は、言語教育と文化交流の促進が狙い。世界への宣伝戦略ではないし、政治的なことはやらない」と語る。 しかし、中国の国内事情に詳しい上村幸治・独協大学教授は疑問を投げかける。「『孔子』というのは共産党色がないから、カムフラージユにはちょうどいい。大きな枠組みでいえば対外宣伝工作だろう」と分析する。

■「腫れ物触るな」
 早稲田大では今年4月から7月まで「中国総合講座」を開催した。1回目に中国の王毅駐曰大使が「中国の発展と中曰関係」と題して講演、10回にわたって、大使館の参事官クラスが講師となり、外交や貿易、科学技術、文化、中曰関係などについて講義を行った。早稲田大学広報室では「政治的な内容はなかった」としているが、中国大使館がこうした講座を開くのは初めてだ。 平成14年11月、慶応義塾大学で行われた学園祭「三田祭」。その期間中に台湾の李登輝前総統の講演を、学生サークルが企画していた。が、大学側は自粛を要請、最終的に学生組織の三田祭実行委員会が却下し、中止となった。当時、大学側は「一切関与していない」と説明したが、慶大の執行部内では李登輝氏講演に消極的な意見が多数を占めていたという。慶大教授の一人は「李登輝氏の講演は、脈々と実績を培ってきた慶応と中国の関係に殴りこんできたようなもの」と明かす。 早慶だけではない。複数の大学で教鞭を執っていた国際関係研究者は、中部地方の大学で講演した際、大学側から「中国人留学生が多いから中国との問題には触れないでほしい」と頼まれたことがあると証言する。この研究者は「今や地方の私立大学はどこも中国人留学生がいないとやっていけない。中国人教員は中国人留学生のリクルーターでもある。自然と中国人の発言力は大きくなるし、大学側も『腫れ物に触るな』となる」と語っている。


4.メディア使い世論操作
 中国の対日宣伝工作で最大の効果をあげているのが、「南京事件」に関する宣伝戦だ。さらに宣伝工作の対象は在日中国人にも広がっている。

■大虐殺記念館
 中国・南京の「南京大虐殺記念館」(侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館)は1985年に建設され、現在は拡張工事が行われているため閉館中だ。2年後に敷地面積7.32ヘクタール、建築面積2万3000平方メートルの大規模施設に生まれ変わる。 「300,000」 記念館の前面に掲げられた数字は中国が主張する虐殺者数だ。「30万人虐殺」は、当時の南京市の人□や軍事常識では不可能で、誇張された数字であるのは研究者にとって“常識”。しかし、この記念館を訪れた日本人修学旅行生や政治家は、凄惨な展示内容に絶句し、贖罪意識を植えつけられるという。 (過去を忘れず末来を大事にするという)中国側の姿勢に心の豊かさを感じた」 17日、記念館を訪れた自民党の古賀誠元幹事長はこう語った。中国側は、休館中の記念館を古賀氏のために特別に開いた。 だが、展示物には、偽造写真や事件と関係のないものも少なくないという。日本政府も6月、「『記念館』に対し、写真パネルで用いられている写真の中に、事実関係に強い疑義が提起されているものが含まれている旨を指摘している」 (河村たかし衆院議員の質問主意書に対する答弁書)との見解を示した。 記念館を訪れたことのある河村氏は、「あんな展示を見たら、中国人は日本に復讐心を持つ」と語る。

■歴史力−ド
 中国事情に詳しい国際政治学者によると、対日歴史力ードの扱いや、宣伝工作の基本方針を決めるのは中国共産党中央政治局。実行に移すのが党中央宣伝部だという。 ことに南京事件の宣伝工作は、1930年代に国民党が生み、共産党が1980年代に育てた“国共合作”といえる存在だ。 東中野修道・亜細亜大教授によると、1937年12月の南京陥落から7ヵ月後に出版されたハロルド・ティンパーリ編「戦争とは何か 中国における日本軍の暴虐」が宣伝戦に大きな役割を果たしたという。 「私の調査で『戦争とは何か』は中国国民党の宣伝本だったことが百パーセント確認された」と、東中野氏は指摘する。ティンパーリは英国紙の中国特派員で、司書は南京在住の欧米人(匿名)の原稿を編集、38年にロンドンやニューヨークで出版された。この本をもとに「残虐な日本」のイメージが定着していった。 実はティンパーリは、中国国民党の「顧問」だった。東中野氏が台北で発見した極秘文書「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」 (1941年)には、「国際宣伝処が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の2種類」とあり、そのうち1冊が「戦争とは何か」だった。 国民党で宣伝活動を担当していた作家の郭沫若は著書「抗日戦争回想録」で「宣伝は作戦に優先し、政治は軍事に優先する」との当時のスローガンを紹介している。 「中国共産党は、『アジプロ』を重視していた。アジテーション(扇情)とプロパガンダ(宣言という意味だ。日本人は『扇情』『宣伝』というと後ろ暗く感じるが、彼らは公然とやっている」と、現代史家の秦邦彦氏は指摘する。秦氏は「最大限で4万人」との立場だが、かつて中国人学者に30万人説について聞いたところ、「『たくさん』という意味だ」との答えが返ってきた。 秦氏は「中国は『30万人』は絶対に譲らない。つじつまが合おうと合うまいと、情報戦の世界では『たくさん』というイメージを作るのは当たり前。中国がカードを切れば、日本国内で何倍も大騒ぎしてくれる。こんなに安くつく情報宣伝工作はない」と指摘する。

■コントロール
 在日中国人向けの中国語新聞や雑誌は現在、約20も発行されている。 そのうち公称部数8万部の「中文導報」は20日付の1面トップで、台湾の馬英九中国国民党主席の訪日を「3つの誤算があった」と報道。「国民党は政権を目指すなら、自分に対する認識と世界に対する認識を改めるべきだ」と厳しく批判した。 その一方、2面では「日本は靖国の代替施設建設について政権中枢で熱心に議論、胡錦濤国家主席訪日のため道をつくろうとしている?」との記事を掲載。さらに中国側が歓迎した民主党の小沢一郎代表の訪中を「昔を思い、今を大事にし、未来をとらえる。小沢は丁寧に中国の旅を作り上げた」と持ち上げた。 記事の内容は中国政府の方針に近い立場をとっているようにみえるが、同級の楊文凱編集長は「本国政府や大使館から編集方針で圧力はない」と語る。 だが、日本国内で発行されている中国語新聞・雑誌の大多数は中国政府を批判する記事を載せないのが特徴だ。 ある日中関係筋は、「中国人向けマスコミの中には経営者や記者が定期的に大使館に呼び出され、指導を受けているところがある。本国の意向に反する記事を掲載したら、バスポート更新をはじめ、嫌がらせを受ける可能性があるからだ。逆に意向に沿った記事を載せれば広告の便宜や事業で大使館に後援してもらいやすいのでメリットがあると明かす。 在日中国人の活動を紹介する情報誌「日本僑報」を創刊し、出版活動やメールマガジンを運営する段躍中・日中交流研究所長は「政府の息がかかっている媒体もある」と関係筋の話を裏付ける。段氏によれば、「中国政府はインターネットを自分の意見を述べる道具に使おうとしている。それは中国政府開連のホームページで日本語表記が充実しつつあることなどをみれば分かる」という。日本国内向け中国系マスコミの中には「北京週報」の日本語版などがインターネット版を開始、対外宣伝機能の強化をはかる動きが出ている。 こうした指摘に、在京中国大使館の李文亮報道部参事官は、「中国の広報活動はまだまだ非常に足りていない。どこの国でも同じことで相互理解のためには、まだ努力しなくてはならないと思っている」と語っている。

  この企画は高橋昌之、阿比留瑠比、小島優、比護義則、矢板明夫が担当しました。

Depot(ディポ): 中国の対日宣伝工作(本文)
http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/21514595.html
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by thinkpod | 2006-07-24 18:11 | 中国
2006年 07月 24日

神風特攻隊はフィリピンで英雄だった

(2001/1/28up)

現地の「神風特別攻撃隊慰霊祭」で目撃した
「日本軍−もうひとつの真実」

ジャーナリスト 井上和彦氏

「意外な慰霊祭がフィリピンで執り行われた。『神風特別攻撃隊慰霊祭』。神風特攻隊が初めて飛び立ったフィリピン・パンパンガ州マバラカットを始めとする3カ所で行われた日本兵への慰霊祭で発見した、フィリピン人の意外な日本人観を気鋭のジャーナリストがレポートする。」
 濛々と立ちあがる砂埃と共に、日章旗とフィリピン国旗を握り締めた子供達の一団が押し寄せてきた。子供達は、バンバン村を去ろうとする、我々日本人一行に大歓声を上げて「日の丸」を振りつづけるのだった・・・。
  平成12年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が挙行された。私は、その3か所すべてをl日で回って歩いたのだが、フィリビンの子供達が会場を去る我々日本人訪問団に日章旗を振ってくれたのは、そのうちのバンバン村でのことだった。東南アジアの国々から、常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいる我々日本人にしてみれぱ、かなり意外で嬉しいハブニングであった・・・。

「なぜ日本が戦争に至ったかよくわかる」
 慰霊祭のメイン会場になったマバラカットは、首都マニラの北方約80kmに位置し、戦時中には、日本の「神風特攻隊」の飛行基地があった。最初の神風特攻隊がマバラカット飛行場から出撃して56年目にあたるこの日の慰霊祭は、鹿児島県・最福寺の住職・池口恵観氏〈63)らによって執り行なわれた。熱帯の強い日差しが照りつける会場には、池口住職の読経が流れ、あたりは厳粛な雰囲気に包まれた。
  この慰霊祭には、特攻隊員の遺族ら日本からの参加者に混じって、フィリピン空軍将校やアメリカ人らも参列し、特攻攻撃で戦死した日本軍人に鎮魂の祈りが捧げられたのである。


慰霊祭にはアメリカからの参加者もあった
 慰霊祭の取材にやってきたフィリピン人ジャーナリスト・ジョジョ・P・マリグ氏(25)は語る。「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は尊敬すべき”英雄”だと思います。またカミカゼ・アタックを決断した大西瀧治郎中将も本物の”武士”です」
  フィリピン空軍軍楽隊の奏でる勇壮な『軍艦マーチ』が、マバラカット飛行場を見下ろすリリー・ヒルの大地を揺さぷった。
  かつて大東亜戦争の”天王山”とまでいわれたフィリピン決戦。
  圧倒的物量にものをいわせて押し寄せる米軍に、反撃を試みる日本軍に残された手段は、もはや250kgの爆弾を抱えて敵艦に体当たりする特攻攻撃しか残されてい なかった。
  昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。
  この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。もっとも、特攻攻撃を受けて沈没・損傷した連合軍艦艇は350余隻を数え、連合軍将兵を震えあがらせた。
  こうした神風特攻隊も戦後の日本では”戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていない。
  ところが、”カミカゼ”を生んだフィリピンではその捉え方がまっ たく違っていた・・・。
  式典に参列したダニエル・H・ディゾン画伯(70)は静かに語る。「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。・・・こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」
  1974年(昭和49年)、特攻隊の生き様に感動したディゾン画伯は、神風特攻隊慰霊碑の建立を思い立ち、マバラカット市長に進言した。そして画伯が感銘を受けた『神風特別攻撃隊』の著者である中島正氏(元201航空隊飛行長)・猪口力平氏(元第1航空艦隊参謀)の協力を仰ぎながら、やっとの思いでマバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立することができたのだ。
  しかし、残念ながらこの慰霊碑は、先のピナツボ火山の噴火によって喪失してしまったのである。Kamikaze Memorial Society of Philippines(フィリビン・カミカゼ記念協会)の会長を務めるディゾン画伯の自宅には、自らの手になる「敷島隊」


ピナツボ火山の噴火で埋もれてしまったが、特攻隊飛行場跡の慰霊碑建立に奔走したディゾン画伯(肖像画は画伯の手になる特攻隊員のもの。左上が関行男大尉)
の5人(関行男大尉・谷暢夫一飛曹・中野盤雄一飛曹・永峯肇飛長・大黒繁男上飛)の肖像画を掲げた、「カミカゼ・ミュージアム」が設けられている。
  肖像画の前に立ったディゾン画伯は、「関行男大尉」を見つめて再び語りはじめた。「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責した理申も理解できたのです」
  私の方に向きなおった画伯は右手に拳をつくって語気を強めた。「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう」
  そしてディゾン画伯は、両手を固く結んで私に託すのだった。
 「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」
  東南アジア諸国の中でも「反日的」と思われがちなフィリピンで、こんな考えを持つ人物に出会うとは思わなかった。
  さらに、私にはディゾン画伯の、「私達フィリピン人は白人支配の犠牲者ですょ」という言葉が耳について離れない。
  この”疑問符”を取り払ってくれたのは、地元通訳のマリオ・ピネダ氏(73)の証言だった。
 「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本が統治下で施した”教育”の成果です。・・・・ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作ることを学ぱせてもらえなかった。人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」


慰霊祭でフィリピン空軍軍楽隊が演奏したのは、なんと「軍艦マーチ」だった。
  ”自由””民主主義”というアメリカン・イデオロギーだけでなく、あらゆる”メイド・イン・USA”を世界一と驕るアメリカは、植民地フィリピンに対して愚民化政策を行なっていたというのだ。
  そしてピネダ氏は、「フィリピンは今でもアメリカのパペットレジーン(操り人形)ですよ」と呟き、苦笑いを浮かべた。
  ディゾン画伯と同じく、ピネダ氏もまた”白人対有色人種”という意外な視点で歴史を見つめていたのである。
  アジア人でありながらその多くがスペイン風の名前を持ち、かつては英語を強要されたフィリピン人なればこそ、こうした地球大の尺度を持てるのだろう。
  これまでフィリピンが”親米反日的”と思われてきたのは、大東亜戦争でこの地が日米両軍の決戦場となったからにほかならない。日本軍はこの地で約50万人(全戦没者の約4分のl)の将兵を失ったが、戦場となったフィリピンの人々は一般市民を含むl80万人が犠牲となった。
  ところが、こうしたフィリピン人犠牲者の多くは、アメリカ軍の無差別爆撃や艦砲射撃によるものだったのである。むろん、この事実を地元の人々が知らないわけがない。
  日本人にとってのこうした”初耳”は、数え上げれぱ枚挙にいとまがない。
  例えぱ、米比軍捕虜を約60kmにわたり歩かせたという「バターン死の行進」。これは、一般に日本の「蛮行」といわれている。だが、ある地元民は私にこう語った。「実は、日本軍は、米比軍捕虜をサンフェルナンドからカパスまで汽車で護送しています。捕虜達を虐待するために歩かせたように言 われるが、そんなことはない」


バンバン村の子供達は、村を去る日本人慰霊団を日章旗を振って見送った。
また日米の攻防戦が繰り広げられたサマット山頂の博物館には、 日本軍が地元住民に医療処置を施し、友好的な交流があった事実を物語る写真が堂々と掲げられてもいる。
  在比邦人何けテレビ局「WINSチヤンネル」のキャスターでウインズ・インターナショナルの社長・水島総氏(51)は、このあたりについて次のように説明する。「フィリピン人は日本で伝えられているような”反日”などではなく、むしろ親日的ですよ・・・。フィリピンの人々は戦争に対しては日本人よりも”リアリスト”です。戦争があれぱ多少なりとも悲劇はあると、現実的な考え方をしています。ですからフィリピンの人々は日本を責めようなどとは思っていません」
  異民族の侵略を受けつづけたフィリピン人の痛覚は、ダイナミックな歴史観と確固たる愛国心を生んだ。そしてそんな土壌にこそ”英雄”を敬う気風が育まれたに違いない。事実、この国の国歌にも「誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ」という一節がある。だからこそフィリピンの人々は、国を守るために生命をかけた神風特攻隊を”英雄”と称えるのだろう。
  外国人の日本人観に多大な影響を与え、大東亜戦争における日本の精神的象徴ともいえる神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ、そしてその勇気が称賛されている。 我々日本人はこうした現実も、認識する必要がありはしないか。

「カミカゼ・パイロットはヒーローです」

 同じ10月25日、タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれた。
  この村でも地元住民は村を挙げて日本の慰霊囲を歓迎した。そして、冒頭に記したように、帰路につこうとする我々を子供達は「日の丸」の小旗をちぎれんぱかりに打ち振って見送ってくれたのである。日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。頬を濡らす者もいた。


「カミカゼ・パイロットはヒーロー」と言い切る女子学生達
子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。
「Brave!」(勇敢)
その中の一人が続けた。
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています・・・・」
  引率の男性教師は、「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と話る。
 私は学生達にもう一度訊いた。
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」
  屈託のない笑顔で皆は答えた。
「もちろんです!だってあの人達はヒーローですもの・・・・」

SAPIO(小学館)2000年12月20日号「PHOTO & REPORT 神風特攻隊はフィリピンで英雄だった/井上和彦氏」より引用
なお、小学館、井上和彦氏より文章・写真の使用許可をいただいております。感謝申し上げます

神風特攻隊はフィリピンで英雄だった

http://megalodon.jp/?url=http://www.geocities.jp/kamikazes_site/gaikoku_kamikaze/kamikaze_philipine.html&date=20060724013321
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by thinkpod | 2006-07-24 01:36
2006年 07月 23日

終戦と「昭和天皇退位工作」

【なぜ書かれた『昭和天皇独白録』、その背景】

『昭和天皇独白録』の史料的価値

1990年、元宮内省御用掛・寺崎英成の遺族のもとに、終戦直後に書かれた昭和天皇の「独白録」が残っていることが判明します。大きな反響を呼びました。ご記憶の方も多いでしょう。

当時、学生だった私は、基礎ゼミ担当のA先生(政治学の世界では非常に有名な方ですが)から、こんなことを聞かされました。

「独白録とか、回顧録というのは、史料として1級とはいえません。後から書かれたものだから、どうしても正確さに欠くし、無意識でも弁明が入ってしまう。1級品の史料とは、日記をおいてほかにはありません」

むろん、一流の教養人であった昭和天皇の日記が存在しないわけはありません。しかし、宮内庁は、それを公にする意向は、まったくないようです。

『昭和天皇独白録』はなぜ書かれたか

しかし、史料としてはあまり使えないものとしても、これがなぜ書かれたのか、そのことを知っておく必要は十分にあるでしょう。

アメリカは、「天皇制存続、昭和天皇の皇位も存続」という方針で日本占領を行おうとしていました。そのほうがやりやすいと考えたからです。

しかし、ソ連やイギリスなどは天皇の「戦争責任」追及を主張。これをアメリカはかわす必要がありました(→拙稿「日本国憲法は「押し付け」か?もご参照ください)。

そのため、GHQと寺崎が接触。そして『独白録』が書かれ、そしてそれは英訳され、GHQの「天皇無責任」の材料として使われました。こうして昭和天皇は訴追を免れ、天皇制は存続しました。

『独白録』には昭和天皇の率直な気持ち、発言が多く記録され、興味深いのですが、これが書かれた背景として、このようなことがあったことは見過ごせません。

そもそも「戦争責任」とは?

そして、今なお、昭和天皇の「戦争責任」を問う声は強く、また、それに反対する声も負けず、論争が続いているところです。

しかし、そもそも「戦争責任」とはいったい何なのか。開戦責任なのか、終戦をサボタージュした責任なのか。開戦=責任が発生するなら、ポーランド侵攻したドイツに対し宣戦布告した英仏にも責任が発生する、ともいえなくはありません。

「戦争責任」という言葉は、その意味じたいがあまり議論されないまま、昭和天皇の責任の有無のみが議論されているようなところがあるように思えてなりません。

アメリカにとっての「戦争責任」

しかし、日本を当時占領統治していたアメリカにとって、「戦争責任」の意味は明確でした。

つまり、「誰を処罰すれば、アメリカ人はじめ、連合国の多くが納得するか。その処罰の対象者が負うのが、『戦争責任』なのだ。」

もちろん、日本統治方針の前提として、天皇に戦争責任を負わせてはならない。いかに天皇の責任を回避し、他の者に責任を「かぶせる」かが大きな課題となったわけです。

こうして、アメリカによって東条英機や近衛文麿らが天皇に戦争を「そそのかした」という「伝説」が作られ、近衛は自殺、東条らは東京裁判で絞首刑に処せられたのでした。

近衛文麿の「戦争責任」観

さて、戦争責任という言葉は、何も戦後生まれたものではありません。

近衛文麿──開戦直前の日米交渉を途中で投げ出した首相ですが──は、1944年の段階で、後の首相となる東久邇宮稔彦王に、「『世界の憎まれ者』になっている東条英機に全責任を負わせるのがいい」と語っています。

近衛もまた、天皇への責任追及回避のため、「他の者に責任をかぶせる」ことを考えていたのでした。もっとも、自らが首相のとき、アメリカが猛反発し、日米関係悪化を決定的にした「フランス領インドシナ南部への進駐」を、陸軍にいわれるまま実行した「責任」は、自覚していないようですが。

とにかく、近衛は動き出します。1945年になると、昭和天皇に早期終戦を求め(「近衛上奏」)、ソ連を仲介とした終戦工作の責任者になります。

しかし一方で、彼は京都で岡田啓介(2・26事件の際の首相)、米内光政(元首相、当時海軍大臣)、ある寺院の門跡家と協議、「昭和天皇退位、裕仁法皇という称号で出家のうえ蟄居」という計画を図っていました。

近衛文麿と高松宮宣仁親王

そして原爆投下、ソ連参戦。八方ふさがりの中、昭和天皇の「聖断」によって終戦となりました。

当初、終戦の条件となる連合国によるポツダム宣言受諾について、政府は陸軍の主張を入れていくつかの条件をいれる、ということにしていました。

しかし、近衛は、昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王と結び、「国体護持(天皇制維持)」だけを条件にすることを宮中と政府に迫りました。こうして日本はほぼ無条件での降伏、となったのです。

近衛と高松宮は東条らを頂点とする陸軍に批判的な態度をとっていました(反東条派には同情的)。このことが、後にひとつの「事件」の背景になっていきます。

【近衛文磨による昭和天皇退位工作とその挫折】

明治天皇を目標にした昭和天皇

昭和天皇は、幼いころから聡明さを発揮したといい、それを示すエピソードには事欠きません。このことは、病弱だった大正天皇に対する不安を払拭する大きな材料でした。

昭和天皇は、その目標を、病弱な父ではなく、祖父・明治天皇におくことになります。明治天皇と昭和天皇は、若くして天皇になったという共通点もありました。

つまり、明治天皇は元服も済ませていない15歳で即位。昭和天皇の即位は25歳ですが、父大正天皇の病気によって、20歳で摂政として、実質的に国政の頂点にありました。余計に、明治天皇への思いは深かったことでしょう。

若くして即位し、近代日本を創り上げた明治「大帝」が、昭和天皇の目標であったことはいうまでもありません。

明治天皇になれなかった昭和天皇の運命

しかし、明治天皇と昭和天皇をとりまく環境は、あまりに違っていました。

明治天皇には、初期には大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛・岩倉具視ら強力な政治家が、後期には政府に伊藤博文、軍部に山県有朋が君臨し、それぞれ明治天皇を支えていました。

明治天皇は、彼らに絶大な信任を与えることが、政治の安定と日本の成長につながることを、理解するようになりました。日清・日露の両戦争での勝利は政府と軍部が一丸となって戦った結果でした。

しかし、昭和天皇の周りには、そのようなブレーンはいませんでした。宮中も、政党も、軍部でさえも権力争いにまみれ、最後の元老・西園寺公望はあまりに年老いていました。

この勢力を一気にまとめることのできたのは、近衛文麿だけでした。しかし彼は優柔不断で、軽率なところもあり、そして何よりも、困難になると政権を投げ出すところがありました。昭和天皇は、そんな近衛にあまり信頼がおけなくなったようです。

昭和天皇は常に孤独に決断しなければなりませんでした。木戸幸一(最後の内大臣)のようによく補佐してくれる宮中の人物はいました。しかし、明治天皇においての伊藤・山県のように権力がありしかも大局観のある人物に出会うことは、できなかったのです。

近衛の「昭和天皇退位論」

さて、終戦で東久邇宮稔彦王が首相就任。近衛は副首相格として政権に返り咲きます。

東久邇宮政権は10月に崩壊しますが、近衛は活発でした。このころから、マスコミに「昭和天皇退位の可能性」が取りざたされるようになります。

そして近衛は、記者たちにその可能性を匂わせはじめます。AP通信のラッセル・ブラインズ記者には、「日本の皇室典範には退位の規定がない」と語りました。これは暗に、皇室典範の改正と天皇退位を示唆するものでした。

さらに近衛は「国民投票による天皇制維持」を模索もしていました。彼の構想の中では、当然、そのとき天皇となるべき人物は昭和天皇ではなく、11歳の皇太子明仁親王(現天皇陛下)であり、そして高松宮が摂政になる、という目論見であったのだと思われます。

近衛計画の挫折、そして近衛の死

しかし、GHQはこの動きを当然こころよく思っていません。特に、昭和天皇との会見を果たしてその人物性を見極め(たつもり)、そして昭和天皇の命令で占領政策が滞りなく進むさまをみた、最高司令官マッカーサーは、この動きを封じにかかります。

詳細は今もって不明なところも多いのですが、とにかく、12月、近衛に対する戦犯容疑での逮捕状発令。近衛は、薬物自殺します。

マッカーサーにとって、昭和天皇の存在は占領政策にとって(もちろん、アメリカにとって都合のいい政策ですが)欠かせない存在でした。マッカーサーには、近衛を「抹殺して」でも、昭和天皇を存置しておく必要があったのかもしれません。

しかし、「昭和天皇退位論」は、止まりませんでした。それは、予想もしないところから、火ぶたがあがったのでした。

【おもわぬ身内の「反乱」、そして昭和天皇の「第2の聖断」】

止まらぬ「昭和天皇退位論」

1946年2月、枢密院(明治憲法下での天皇の最高諮問機関)で、昭和天皇の3人目の弟、三笠宮崇仁親王が、遠まわしに「天皇退位」を求めました。

『芦田均日記』(芦田はのちの首相)によると、そのとき昭和天皇の顔は青ざめ、神経質な態度をあらわにしたといいます。

また、東久邇宮も、前ページで出てきたAP通信のラッセル記者に対し、こちらはわりとストレートに、天皇退位の必然性について語り、そして、「それに多くの皇族が賛成している」と述べているのです。

思わぬ皇族からの「反乱」は、昭和天皇にひとつの決断を迫りました。

マッカーサー草案と昭和天皇

そのころ、天皇の権限をまったくなくした象徴天皇制を規定する新憲法案が、マッカーサーから示されていました。この内容には政党政治家たちも、宮中も、そして天皇も驚き、受け入れに躊躇します。

しかし、相次ぐ「天皇退位論」に、天皇は反応せざるをえませんでした。「象徴天皇制」を受け入れ、マッカーサーが望む自分の皇位続行に、応じることにしたのでした。これが「第2の聖断」と一部で言われているものです。

そして新憲法制定、施行。と、GHQは、「象徴天皇制のため」と、直系宮家を除く11宮家すべての皇籍離脱を勧告。これは、うがったみかたですが「天皇退位論」に対する報復だったのでしょうか。もっとも、先の東久邇宮は自ら皇籍離脱を申し出てはいたのですが。

※拙稿「旧皇族の成り立ちと現在」もご参照ください。

「三笠宮発言」と高松宮

さて、なぜ三笠宮は唐突に昭和天皇退位論を述べたのでしょう。詳細はわかりません。

しかし、三笠宮の兄で、昭和天皇の弟、高松宮の動きが影響していないとは、いえないでしょう。

高松宮は先にも述べたとおり「天皇退位論者」近衛との結びつきが強かった人でした。すでに終戦前、近衛とたびたび会い、「退位した際、高松宮が摂政につく」ことを、話し合っていたとも言われます。

そして終戦前から、このことが原因で天皇と高松宮の間には次第に大きな対立が生まれてきたようです。

それが、三笠宮発言にどのような影響を及ぼしたかはわかりません。しかし、宮中で孤独な昭和天皇と、割と自由に動きがとれる高松宮、三笠宮がどのように結んでいたか、想像できないことはありません。

ちなみに、1975年2月号の『文藝春秋』に、高松宮のインタビューが掲載、自らを「和平派」と語る高松宮の記事に昭和天皇は激怒したといいます。また、高松宮が「昭和天皇は戦争をとめることができた」という発言があったということも(高松宮の死後発覚)、問題になりました。

退位できなかった昭和天皇

しかしながら、昭和天皇は退位しようとまったく考えなかったわけではありません。むしろ、積極的に考え、その意向を示していた時期もありました。

敗戦直後、昭和天皇は退位を木戸内大臣にもらしています。木戸幸一日記の8月29日の項から一部引用します。

戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思し召しあり。聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、……その結果民主的国家組織(共和制)等の論を呼起すの虞(おそ)れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊るゝ要あるべしと奉答す。

その後、東京裁判終結時、そして占領終結時の2回、天皇は退位の意向を漏らしたといいます。しかし、ワシントンの意向で、それは実現しませんでした。昭和天皇の退位は、東京裁判の正当性を揺るがしかねない問題だったからです。

昭和天皇のその後

その後の昭和天皇の仕事は、「象徴天皇」としての天皇像を国の内外にアピールすることでした。そのため、積極的に日本だけでなく、海外にも訪問しました。

1975年、昭和天皇はアメリカを訪問、ディズニーランドでミッキーマウスとなかよく写真を撮っています。人々は「昭和天皇は無害で平和愛好者であり、戦争責任などない」というワシントンが創り上げた「神話」を「再確認」するものだった、のかもしれません。

「カゴの鳥だった私にとって、あの旅行(筆者注:皇太子時代のヨーロッパ訪問)ははじめて自由な生活ということを体験したものだった。あの体験は、その後の私に非常に役立っていると思う」

敗戦直後、昭和天皇はこのようなことを記者に話していますが、言ってみれば、あの旅行以外はすべて「カゴの鳥」だったのでしょう。そしてそれは戦後も続くことになります。

そして1989年、昭和天皇崩御。87年、激動の生涯だったことはだれも否定できません。


参考書籍

『昭和天皇』 ハーバート・ビックス 吉田裕監修 岡部牧夫・川島高峰訳 2002 講談社
『昭和天皇とその時代』 升味準之輔 1998 山川出版社
『朝日新聞の紙面で見る昭和天皇87年の生涯』 朝日新聞社編 1989 朝日新聞社
『天皇の戦争責任・再考』 池田晴彦・井崎正敏・小浜逸郎・小谷野敦・橋爪大三郎・八木秀次・吉田司 2003 洋泉社
『昭和天皇』 小堀圭一郎 1999 PHP新書
『昭和天皇の戦争責任』 井上清 1989 明石書店
『人間・昭和天皇裕仁 忍耐・波乱・静謐の生涯』 尾崎勝敏 1999 原書房
『芦田均日記』 芦田均 進藤栄一編 1986 岩波書店
『木戸幸一日記』 木戸幸一 木戸日記研究会校訂 1966 東京大学出版会


終戦と「昭和天皇退位工作」 - [よくわかる政治]All About
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050812A/index.htm

「よくわかる政治」 ガイド:辻 雅之 2005年08月12日
(2005.08.12)

1945年の敗戦を迎えるにあたって、昭和天皇のまわりではさまざまなことが起きていました。その1つが、意外に知られていない「昭和天皇退位工作」です。その動きを中心に、昭和天皇と終戦を見ていきたいと思います。

1ページ目 【なぜ書かれた『昭和天皇独白録』、その背景】
2ページ目 【近衛文磨による昭和天皇退位工作とその挫折】
3ページ目 【おもわぬ身内の「反乱」、そして昭和天皇の「第2の聖断」】
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by thinkpod | 2006-07-23 16:26
2006年 07月 22日

外が見えない可哀そうな民族

西尾幹二氏−月刊誌『正論』より

我々はイスラム教徒が毎日時間がくると一斉に座して、手を前につき、アラーの神に祈りを捧げる風景を見て、 我々とは異なる宗教社会の存在をありありと感じることが少なくないであろう。
しかし、朝鮮半島となると、これは近隣で生活上の見かけも似ているので、我々とは異なる宗教社会があそこに存在するとは、なかなかに気がつかない。実は韓国人と韓国社会は、イスラム教とイスラム社会と同程度か、あるいはそれ以上に、日本からはへだたる異質な社会なのである。
 元東京銀行=ソウル支店長の湯澤甲雄氏からうかがった話だが、韓国の旧第一銀行で韓国人職員のストが収まらず、組合側の要求を全部容れても解決せず、加藤清正がどうの、日帝三十六年がどうのと訳の分からないことを言っている。そこで内情をよく調べてみると、彼らはオフィス内の座席の配列が気に入らなかった。
それまでは日本の常識に従い、カウンター近くにはすぐサービスのできる人を、機器のそばにはその操作に長けた人をと、能力や職種に応じて配置し、能率第一を考えて何も問題はないと思っていた。 これがトラブルの原因だった。職員の古株は部屋の奥、新米は外というふうに儒教的序列に直したら、ストはたちまち止んだ。
 旧東京銀行で韓国人次長に職員の採用を任せたら、自分の親族ばかりを入社させる。別の次長が異議を唱え、この人の親族も入れるようにした。こうして75人の職員の内訳構成は、3人の次長の系列で全部埋められたというのである。給与支給日に職員の親戚縁者が続々と集まってロビーを埋め、職員は老若を問わず、なにがしかの小遣いを彼らに分け与えている光景には目を見張るものがあった、と。

韓国は儒教朱子学の習俗を今も戸籍法の婚姻にそのまま取り入れている国である。『宗親会』という民間機関があって、数百年も前の先祖の起源(「本貫」とも言う)、官位、行状、生没年月日、墓の所在地、嫁の家格が良い場合は嫁の家格等が書かれた「族譜」と称するものを作って管理している。これに登録されなければ結婚もできない。進学、就職、昇進、商取引の際にも支障が生じる。本貫ごとに階級や格位が決まり、尊大に振舞える序列や利益の分け前に与れる順序も決まり、そこに争いが生じる制度になっている。
 本貫と本貫の間だけでなく、本貫の中の「派」の序列争いもあって、絶対的な身内優先、独善的な防衛意識とその裏返しである強固な村八分意識、さらには自らを常に他人よりも優越する身分であろうとする強い上昇意識とその裏返しである余所者に対する険しい蔑視、無関心、差別意識、そういったものが混在して、今日の社会に引き継がれている。この社会では、他人を見下し、自らを高しとする立場に立たんとする闘争は日常的に目に見えぬ処でも激しく行われている。相手の立場を少しでも立てたり、自己反省したりすることは、一族末代までの
恥として絶対に許されない。実証性、客観性とはおよそ無縁な世界であり、自分たちの面子が立てられたか否かを争点として、何百年でも執念深く争っている。
 儒教朱子学を国教とした李朝以後において、両班、中人、常民、賤民の四階級がある中で、日本人は最低の賤民階級以下の奴隷階級—そう見なす彼らの根拠付けは後で述べる—と勝手に位置づけられており、朝鮮社会の末席者として過去数百年間、差別の対象とされてきた。日韓併合などより遥かに前の時代の話である。
だから今でも、日本人を「倭奴(ウェノム)」ないし「犬」と称している。
これからもずっとそう呼び続けるであろう。

たとえ表向き遠慮して言い方を変える場面があっても、彼らの意識は変わらない。自分の内部に閉じこもって外が見えない可哀そうな民族である。日本人が彼らに謝罪すればやり過ごせると思うのは、実に愚かである。
謝罪しても終わりがない。いつ果てるともキリがない。彼らの反日感情は、日本人が儒教朱子学の序列・秩序に黙って従うことを要求したものである。
湯澤甲雄氏が書いた次のような分析もある。

 過去に為した「日本人の行為」のために、反日意識を持つと考える日本人が多い。
しかし、韓国人の心情はそうではなくて、絶対的に優越する韓国人が、絶対的に劣位の日本人に支配されたという儒教朱子学上あってはならない現実が起きてしまい、自らを許し難いと慙愧反省しつつ、日本人はもっと許し難いというジレンマが反日となって噴出するのである。
 儒教的世界観を転覆させてしまった自らが刻んだ歴史の汚点が、如何にやむを得ない事情で起きてしまったものであるかの免罪(エクスキューズ)を得るために、日本人による非道性、残虐性を殊更に唱えて安らぎを得る心情が、俗に韓国人の「反日感情」と言われるものである。
 誰しも日本人名を名乗ったこと、韓国の戦争記念館の展示物、我が国の教科書への注文、学校教育への介入等に見る如く韓国・朝鮮人優位説の強調と日本人暴虐・強制等による免罪強調とを、何事に寄らず臆面も無く訴えてくるのである。しかし、これでは真の反省になっていないことを自覚しないところが宗教信心と言えるところであって、宗教信心なるが故に免罪追及範囲が領域的・時間的にエンドレスに広がり、そこまでやるのかと日本人の悩みや不安も広がるのである。 (『明日への選択』 平成15年3月号)
こういう社会では身内の恥を外部に晒す者は、社会の敵として始末されるのを常とする。
湯澤氏は、開明的・実証的記事を書いたがために命を落とした新聞記者の例を話してくれた。韓国人の恥辱行為
について外部に語った場合、通例あの国では、その当人と家族及び近親の一族は、多くは連座制をとらされて職業を奪われ、村八分にされ、ときに杖殺される。
それが、韓国=儒教朱子学社会の掟だそうである。

【儒教朱子学の世界観が歴史を捩じ曲げる】

 韓国で両班、中人、常民、賤民の四つある階級のさらに下の階級(カースト)に、日本人が総体として位置づけられる理由付けは、これもちょっと筆にするのも馬鹿馬鹿しい話だが、古代史に関連する。
 韓国では、「日本民族のルーツは朝鮮半島である」という考えが根強くある。天皇家の由来も半島にあると信じられている。いわゆる天孫降臨、ニニギノミコトが天上から地上に降りてきた神話だが、そのとき降り立った地はこれまで宮崎県の日向(ひゅうが)と想定されていた。しかるに最近では北九州だという説が出てきている。天上から降りて来た神様は南朝鮮からの渡来人で、これは日本の皇室の先祖につながるという説である。
 この話が韓国ではもちきりになっていて、まことしやかな関連本がたくさん出ているし、シンポジウムや研究会議も開かれているそうである。日本の古代史学者で参加する人もいるという。
 問題なのは、そこから先の話である。
 5世紀頃に半島との交流が盛んになり、渡来人が技術や文字を日本に伝えたことは歴史上の事実として知られている。663年の白村江の戦いなどで百済が滅亡し、王族や貴族たちも含め一千人規模の日本への亡命者があった。当時の日本の推定人口は500万〜600万人である。
 これらの事実から、韓国の歴史学者は、日本人の本体は朝鮮半島で生きられなくなって日本に渡った敗残の韓民族だというのである。滅亡した王朝の王侯貴族だけでなく、食いっぱぐれの流民たち、罪人・貧困者浮浪者たちが日本人を構成した。祖国では生きられない恨みとコンプレックスを抱いた韓民族の子孫が日本人の本体である。だからこそ、その後の歴史で、恨みを晴らすために秀吉の侵略、日帝三十六年の植民地化、現代の差別化など、反韓的な振舞いに及ぶのであろう、などと言う。
 つまり、日本人とは、彼ら韓国の学者によれば、在日韓国・朝鮮人の「なれの果て」なのである。
しかも、半島では立場を得られなかった敗残者で、それゆえに当然ながら、日本人は四つの階級のさらに下の階級(カースト)に属すると見なされてしかるべきだ、と考えられるのである。

呉善花さんは『攘夷の韓国 開国の日本』(文春文庫)の中で、こうした考え方は韓国ではそれほど特殊なものではなく、多くの韓国人が一般的に抱いている日本イメージであると述べ、この手の考えを前提にしたテレビ番組の実例を紹介している。
「日本民族に対する自民族優位主義が韓国で流通しやすいのは、韓国の儒教的な倫理からくる歴史観と無縁ではない。先祖を自らの価値の源、根拠として崇拝する儒教の倫理が、自らを『日本文化の先祖』という位置に置くことに大きな役割を果たしている。儒教の倫理では、先祖と子孫、親と子のように、先にある方、起源の方がより上位に立つ」

 ここでも、やはり儒教朱子学の世界観が、歴史の捩じ曲げと矮小化に役立っている。第2次大戦後の何年かの反日教育の結果では決してない。もっと根の深い数百年の宗教と民族の意識が影を落としている。
 しかし、私は呉さんの本を読んだとき、いくらなんでも本気でこんなことを簡単に口にする韓国の学者や知識人はそんなに多くはないのだろう、と思っていた。私自身がまさかこの手の偏見をぶつけられ、論難される立場に立つ体験をするとは思ってもいなかった。

韓国の総合月刊誌『月刊朝鮮』の編集長・趙甲済氏は、日本でも知られた韓国の代表的知識人であり、産経新聞コラム「正論」のメンバーでさえある。その方と私は『現代コリア』誌上で、ささやかな論争をした。
論争のいきさつと内容は別の本の中で取り上げたので繰り返さない。氏が反論文の末尾で捨てセリフのように私に投げつけたいくつかの文章が象徴的なので、ここで一部を紹介してみる。

「古代国家日本を作った主役集団は、韓半島を経て渡っていった北方遊牧民族出身の騎馬戦士だと私は考えます」
「古代日本の執権層(支配階級)が渡来人だったと私は確信します。米国大陸を開拓した主役が英国から集団で 渡っていった人々だったのと同じことではないですか」
「米国は英国渡来人が作った国ですが、英国よりも、より先進的な文明を作りました。日本もそのようなケース ではないかと考えます・・・」
「数日前、ソウルに来ていた崔書勉(前東京韓国研究院院長)氏に会いました。崔氏は『なぜ韓国人は天皇の訪韓に 反対するのか分からない』と語りました。『天皇が告白したように、天皇家こそがもっとも成功した在日同胞では ないか。成功してワールドカップに合わせて故郷を訪問したいというのに、なぜ邪魔をするのかということだ。
 歓迎しなければ』。ひとしきり笑い終えると、韓日関係が新しい次元で見えるのでした」
(『現代コリア』平成14年・4月号)

  この最後の高笑いは、儒教朱子学の価値観に、現代の韓国の代表的知識人がなお根強く縛られている因襲と頑迷の亡霊が笑っているような不気味さを感じさせる。
 起源(ルーツ)と価値とを同一視する思考ほど単純で、グロテスクなものはない。ヨーロッパ文明にヨーロッパ起源のものは何もなく、キリスト教もローマ字も西アジアの産物である。古代ギリシア人が今のヨーロッパ人の祖先であるわけではない。日本人は唐・天竺(古代中国とインド)を遠望し、思慕したが、9世紀より以後、朝鮮半島に関心を失った。
 騎馬民族起源説は、今や学問的にまったく成り立たない。稲作は長江流域から渡ってきた。日本語と朝鮮語とは系統が別の言語である。日本列島のほぼ全域に大量に分布する前方後円墳が、朝鮮半島にはほとんど存在しない。
縄文土器の世界と日本の歴史はつながっている。私はもうこれ以上言わない。
 起源(ルーツ)と価値を混同する儒教文明に閉ざされた朝鮮半島の物指しで日本列島は計れない。もう一つ別の大らかで素朴な、すべてを受け入れ包み込む融和的な文明が日本列島には存在し、半島と自分を区別している。
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by thinkpod | 2006-07-22 23:05 | 半島
2006年 07月 21日

■ 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は「無名戦没者の祀堂」になる

2005年07月21日 13:31
 7月10日に、靖国神社の第六代宮司の松平永芳[まつだいら・ながよし]氏が死去したと12日に報じられました。
 徳川侍従長と入江侍従長の松平評が残されているんですが、どちらもボロクソでした。徳川侍従長にインタビューした秦郁彦氏は、昭和天皇の靖国神社への御親拝が1975年11月を最後として途絶えてしまった原因は、1978年7月に靖国神社の宮司に就任した松平氏が、宮中の意向を無視して同年10月にA級戦犯14柱を合祀したせいであろうと結論しています。
 これにたいして岡崎久彦氏は、三木総理の1975年8月15日の参拝のときにマスコミに「私人だ」と説明したのが、以後の御親拝が途絶えてしまった原因ではないかと異論をはさんだのですが、両陛下は直後の1975年11月21日に終戦30周年の節目として(またおそらくは9月のご訪米の報告もかねて)御親拝しておられますから、岡崎説は当たっていないのではないかと思います。
 なお、三木総理の8.15参拝こそが靖国問題をそもそもおかしくした元凶だという話を、わたくしは過去に何回かしてまいりました。三木氏の内心では、1975年9月の天皇陛下訪米前のケジメのつもりだったかもしれませんけども、やはり現在の軍隊の指揮官である者の8.15参拝は、ぜったいにやってはいけなかったのです。しかし今回はそのあたりのお話を蒸し返したいのではありません。

 みなさんは、松平永芳氏が1992年3月の宮司退任後、『諸君!』平成4年12月号に寄せた文章を読まれたことはありますか。わたくしには、これは至極説得的であり、かつて侍従長であった徳川義寛氏の仰っていたことよりは筋が通っているように見えるのです。この『諸君!』への寄稿はインターネットでほぼ全文を読むことができます。ググってみてごらんなさい。
 たとえば昭和天皇が嫌っていたとされている松岡洋右が、永野修身とともに裁判中の病死であったのに合祀されたのが異例でけしからんのだ──という説は筋が通らぬことが、自然と首肯される文章でしょう。これは「平泉史観」とは独立です。BC級戦犯容疑者と、B級既決者のうち病死した者が、すでに合祀されていました。
 サンフランシスコ講和前の絞首刑や銃殺は、敵軍人による殺害である点において、BC級の殉難者となんら変わりがないでしょう。そしてABCのカテゴライジングもいかにも恣意的であったことは、たとえば土肥原賢二、松井石根、広田弘毅、板垣征四郎という、1941年のハワイ奇襲開戦計画には何の責任もない4名がA級区分されていることから明らかです。彼らは1937年8月の侵略者であった蒋介石の面子を立てるためだけに、蒋介石の罪を被せられて消されたのでしょう。
 当時大元帥であられた昭和天皇は、そんなことは百も承知でいらしたと思います。

 1978年のA級合祀に先立ちます1959(昭和34)年4月8日、靖国神社創立90周年に、天皇・皇后両陛下の御親拝がありました。そして、たぶんこの御親拝の時点で、刑死または獄中死したB級戦犯の合祀(霊璽簿への記載)が既に始まっています。
 昭和天皇が、このB級合祀についてどんな反応をされたかは何も伝えられていません。
 が、次の御親拝は1965年10月19日(臨時大祭)でした。間が6年も開きましたのは、「ホトボリ」をさますご意向ではなかったかと想像できないでしょうか。
 昭和天皇が最もお好みでなかったのは、8.15に靖国社頭を騒がす諸勢力の行為ではなかったでしょうか。それは明治帝の遺志には沿わないし、旧連合国に対する印象を悪くするだけだったからです。

 ご案内のように、BC級戦犯は各国が最短2日という速決裁判で銃殺やら絞首刑やらしまくり計1000人以上が殺されてしまいました。ロクに人定もせぬ復讐殺人でした。マックにフィリピンで恥をかかせた本間将軍なども、マック特命判事によって、1946年4月に特急あの世おくりです。
 シナやソ連の場合は裁判の前に何年も禁獄をして、獄中死かスパイになるかの択一を迫りました。いずれもサンフランシスコ講和条約の前の出来事ですから、法的にはまさしく戦争状況下で、敵国によって一方的に虐殺された捕虜たちと言えるでしょう。

 そのBC級を合祀したということは、彼らを不法に殺した連合国人を忘れないぜというメッセージになる。これが外国で騒ぎになることも昭和天皇は怖れたはずです。昭和天皇を免罪してやる代わりに「A級戦犯」は日本の旧悪ぜんぶを被ってクルシファイされろというのが東京裁判のスキームでした。あらためてそのA級を靖国神社に合祀した上で、第二次大戦のみと関係のある8.15に国家指導者が公式参拝するようになれば、それは日本国として東京裁判を否定する、旧連合国を糾弾するというメッセージになり、共産革命その他の動乱があったときに皇室が米英の援助を受けられなくなるおそれがありました。

 だから、シベリア抑留組の縁で板垣正氏(元少尉)の1980年の参議院議員選挙の後援をしたり、中曽根政権下で行革の「幕僚」のような仕事をするようになった瀬島龍三氏を、昭和天皇は強く憎む理由があったでしょう(尤も、こうしたことを想像させてくれる資料は1993年の『清玄自伝』のみです)。
 陸大の首席卒業者で、対米開戦時に参謀本部作戦課員であった瀬島氏は、大元帥を奈落に蹴り落とした張本人です。ケロッグ=ブリアン条約を破る奇襲開戦計画に関与し、「平和に対する罪」に該当したのはお前だったではないかというのが昭和天皇が口にしたくてできなかったことでしょう。そして瀬島氏の後ろ盾で板垣正氏らが運動をしてA級戦犯を靖国に合祀し(それができぬのならば新設の国立墓苑に無名戦士として祀らせようとし)、そこに首相が8.15参拝すれば、瀬島氏ら参本作戦課員が負うべきであった「天皇の近代国家元首としての徳を対外的に破壊した責任」は、戦後の昭和天皇におっかぶせられることになるかもしれない。「シベリアで二旬ばかり抑留された程度でお前のこの大罪が消えたと思っておるのか」というのがお胸の内ではなかったのでしょうか。

 大元帥であった昭和天皇は、シナ人というものもよくお分かり遊ばしておられました。だから田中角栄首相以降の日本外交そのものに、猛反対であったと思われますが、それも口にできぬお立場でしたろう。
 中共は1966年あたりは文革でガタガタです。1971年に国連に加盟しましたが、米ソ二大強国とは基本的に敵対中で、まだまだ日本に対する立場は強くなかった。1972年の田中角栄氏の訪中から、1978年10月の日中平和友好条約の日本の国会での承認と批准書交換に至るまでは、彼らには靖国問題で日本を攻撃するなど、思いもよらないことだったはずです。
 松平宮司はたぶん、1978年の秋というタイミングを逃したらA級合祀はシナからのイチャモンで難しくなるだろうと判断したのかもしれません。
 その後、日本全体が上から下までシナに跪拝し、シナの理不尽な要求を何でも受け入れるようになった。昭和天皇が心得ていらした義務の第一は皇室の存続ですから、この時代はもう耐え忍ぶしかない。馬鹿な国会議員どもがまともな国会議員と入れ替わる日をひたすら待つしかなくなったのだろうとご想像を申し上げるのみです。

 ところで靖国神社はアーリントン国立墓地(ARLINGTON NATIONAL CEMETERY)のようなものでしょうか? これはぜんぜん違います。
 靖国神社には、1867年に病死した高杉晋作が明治21年5月に合祀されたり、他にも病死した軍人が「特旨をもって合祀」されることがあったとされています一方で、霊璽簿に将来も記載されないことが確定している「忘れられた国事殉難者」たちが多数存在します。戦死でない多数の元軍人が排除されている一方で、一部の病死者が祭神として祀られている。ちょっと包括的でないわけです。
 明治陸軍が十分に近代化する以前のことになりますと、嘉永6年以降、おそらくレッキとした軍人・武人の戦死者であっても少なからぬ漏れがあるのだろうと想像される。
 しかし靖国神社の制度慣習上の困った問題は、これら「漏れた英霊」が今後、救済顕彰される見込みも無いことなのです。
 大元帥陛下が憲法上、国軍を直率されていた昭和20年までは、それが大御心であるとすれば誰も文句はつけられなかったわけですが、現在は自衛隊を率いているのは内閣総理大臣であって、天皇陛下ではなくなっております。また合祀は靖国神社側の主導でできるようになっている。ということは、いまや靖国神社は「文句をつけられ得る」立場になっているのです。自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣は、この事態をなんとかする責任があります。

 アーリントンについて、少し説明しましょう。
 米国の戦死者や元軍人が国費で埋葬してもらえる国立墓地は米国内に115箇所あります。そのうちアーリントンだけ米国陸軍の直轄で、ワシントンD.C.にも隣接し、「別格官幣社」の趣きがあります。ちなみに米国軍人用の大きな墓苑は海外にも24箇所、維持・整備されているそうです。
 アーリントンには、eligibility──つまり埋葬適格要件が満たされており、なおかつ本人や遺族が要求した死者のみが、埋葬してもらうことができます。
 ざっとその資格について列挙しますれば、まず戦死者であれば資格があります。
 ついで20年以上、正規軍の軍歴があった退役軍人も資格があります。
 予備役として、単なる訓練ではない一任期以上の軍務を果たし、かつ死亡時に60歳以上であった者も資格があります。
 名誉勲章(犠牲的戦闘行為に対して大統領が議会の名において与える最高勲章)、殊勲十字章、殊勲章、陸軍銀星勲章、名誉負傷章の受章者も資格があります。
 1949年10月1日以前において過去の従軍の結果としてすでに30パーセント以上の身体障害者となっていた元捕虜または退役軍人も資格があります。
 そして以上の配偶者にはその本人の隣に灰として葬られる権利があります。また将校および名誉勲章の保持者には、筐体使用が認められます。
 これだけでも靖国神社より包括的ですよね。
 さらにこの他にも、大統領の要求で埋葬が認められる例外があるようです。そしてまた、アーリントンへの埋葬を希望しなかった有名軍人も多数います。

 U-2事件で撃墜され捕虜になったゲイリー・パワーズは、民間のヘリ・パイロットとして事故死しましたが、アーリントンに葬られています。
 戦死じゃないけれども、二人の大統領の墓がアーリントン内にあります。タフトとケネディです。ちなみにFDRの墓はニューヨークのハイドパークにあり、トルーマンの墓は故郷のミズーリ州のインディペンデンスにあります。
 ダグラス・マッカーサーの墓はアーリントンにありますが、カーティス・ルメイの墓は、コロラドスプリングスの空軍士官学校墓地にあります(1990年没)。ルメイはケネディと同じ墓地など厭だったでしょう。またアーリントンはもともと陸軍墓地であり、陸軍から独立する際に苦労した空軍人としてはこれも気に喰わなかったはずですね。
 北軍のシェリダン将軍の墓はアーリントンにありますが、ユリシーズ・S・グラントの墓は、ニューヨーク市にあります。
 ペリー提督の墓は、ロードアイランド州ニューポートにあります。
 ベトナムで活躍したウェストモランド将軍はごく最近死去しましたが、ウェストポイントへの埋葬を希望したようです。
 余談ですが、アーリントンには「インディアン殺し」でしか活動していない軍人も埋められているようです。そして墓苑そのものが、南軍のリー将軍の私有地を「厭がらせ」的に没収したものでした(もちろん合法の格好はつけられました)。
 さらに余談ですが、アカハタは、英語メディアが靖国神社のことを「War Shrine」と読んでいるぞ、と難癖をつけているようです。英語についてウンチクを傾けようと思ったなら、こまめに辞書を引く癖をつけなければなりません。アーリントンもまた Shrine に他ならぬことは、入り口の看板を読めば自明です。祀堂や聖別地一般のことを Shrine というのです。ですから、日本の神社は Shinto shrine と書かねば意味が通じません。その彼らが War Shirne と書きますのは、「これは神道の神社ではなく、軍人の聖地だ」という含意なので、まことにあたりまえのことを的確に表現しているだけでしょう。

 米国大統領は毎年四回、アーリントンに献花するそうです。それは、メモリアルデイ(1888制定で現在は5月の最終月曜日)、ヴェテランズデイ(11月11日、すなわちWWⅠ休戦復員記念)、ケネディ大統領の誕生日、タフト大統領の誕生日です。
 さてそれでは、アーリントンに埋葬されていない元軍人は、大統領から軽度の関心しか払われていないことになるのか? そんなことはありません。
 じつはアーリントンの中核施設は、以上列挙した「名あり戦士の墓」ではなく、「名無し戦士の墓」がある一角です。
 公式に訪米した各国元首たちも、この「無名戦士の墓」に詣でるのであって、アーリントン墓地の有名戦死者を表敬してるわけじゃないのです。無名の象徴であるがゆえに包括的である。国民国家として合理的な包括性があれば、外国元首も謹んで敬意を表すことができます。
 アーリントンの「無名戦士の墓」には、過去に戦場から回収された、ホンモノの米兵の遺骨が象徴的に数体、納骨されています。その象徴遺体が、過去の米国の全戦没者と、かつて米国軍人であった物故者たちを永遠に代表するわけです。
 これに相当する施設は先進各国には大概ありますが、日本にはありません。すると日本の元首は外国の無名戦士墓地を表敬するのに、外国元首はその答礼ができないことになり、不都合が多いといえます。

 そもそも靖国神社を、伊勢神宮、春日大社に次ぐ地位に置き、合祀臨時大祭への御親拝等の慣例を築いたのは明治帝でした。1975年までの昭和天皇は、明治帝の祀りを引き継いでいらしたのです。
 1978年10月以降、元の大元帥は、一部の合祀者が大元帥の期待に意図的に背いた不忠の者だと思し召された可能性もあります。
 わたくしは、自衛隊のげんざいの最高指揮官である総理大臣が、靖国神社に8.15以外の吉日に参拝するのは合理的な義務であって、これを励行しないことは国家叛逆だと考えておりますが、今日、天皇陛下の靖国神社御親拝は、必要はないのではないかと思います。 かつては大元帥が「霊璽簿」を決定できましたが、いまはできなくなっているからです。

 訪日した外国元首が敬意を表することのできる「名無し戦士/戦没者全員の代表墓」は、設けられるべきでしょうか? 設けられるべきです。
 本当は靖国境内に「無名戦士の墓」があれば結構なのですが、神社に墓というのは変です。また、無名戦士を祭神としては否定する「霊璽簿方式」は、宗教法人である靖国神社の意向なので、それを国が変えてくれと要求することは信教の自由に反してしまいます。
 解決策はあるでしょうか?

 まず千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納められている遺骨の性格を、全戦没者を包括的・象徴的に代表するものとして、あらためて首相と政府が確認をすることです。
 そして、靖国の境内の一角から、千鳥ヶ淵墓苑まで、人が通行できない「かけはし」(空中廊下)を渡すことです。この構造物全体を霊の「依りしろ」にします。
 起点となる献花場は、大鳥居の少し内側の、千鳥ヶ淵寄りにすれば良いでしょう。
 国の施設を宗教法人の神社境内には置けませんから、その区画は国が賃借したら良いでしょう。
 またVIPのお好みによって、大鳥居を潜らなくとも献花場にアクセスできるようにすると良いでしょう。
 これによって「名簿のある公認戦死者」と、靖国の霊璽簿から漏れている殉難者を総括して象徴的に敬意を表す場ができあがるでしょう。

兵頭二十八の放送形式: 2005年07月 アーカイブ
http://sorceress.raindrop.jp/blog/2005/07/#a000472
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by thinkpod | 2006-07-21 07:05
2006年 07月 20日

 近世〜現代朝鮮半島の話

明治維新後、日本は急速に発展を遂げた。

鎖国なんかやっていられなかった。アメリカやヨーロッパやロシアは、日本の
直ぐ近くまできていた。彼らは、アジアの国々を次々と植民地にしていた。ア
ジアは、日本とタイ国以外は国家の形をなしていなかった。

当時は、強い国が弱い国を植民地にするのが当たり前とされていて、うかうか
していたら日本も植民地になりそうだった。

日本は、日本の安全を考えた場合に、朝鮮半島が地政的に大変重要な意味があ
ると考えた。朝鮮半島が敵対国家に渡ることは、日本にとって致命的だ。そん
な近くに敵が来ては困る。絶対、困る。

朝鮮半島が、早く清朝中国の冊封体制から抜け出し、鎖国状態からも抜け出し
て独立国家になってもらわねばならない。ーーー清国はすでに、外国の植民地
になりかけていた。

日本は朝鮮に、鎖国をやめて独立するように勧めるが、「よけいなお世話だ」
と李氏朝鮮はいい、日本を西洋かぶれだといってバカにしていた。

日本は、江華島事件を機に李氏朝鮮と日朝修好条規を締結し、それを皮切りに
李氏朝鮮は、列強諸国と不平等条約を結ばされて開国を強いられる。その際、
日本は「朝鮮は自主の邦」という文言に固執した。

朝鮮側は、我々は元々清朝中国の冊封体制をとった「自主の邦」じゃん?と、
キョトンとして日本の意味を理解してくれない。朝鮮は、ずっと清国と朝貢貿
易をしているんだ、朝貢国家でいいじゃん!———大院君「閔妃」は、あくま
でも旧来の朝鮮王朝を守り通そうとしていた。

日本は清国と共同して朝鮮半島の政治改革を目論んだが、清国はあくまでも朝
鮮は冊封体制下の属邦であるとして朝鮮を手離そうとしない。

李氏朝鮮は、貴族だけはおいしいものを食べて贅沢をしており、貴族以外は実
質的にみな奴隷だった。貴族らは立派な家に住み、一般人は土の家に住み、毎
年春には大勢が飢え死にしていた。———そうしているうちに、貧しい農民を
かえりみない李氏朝鮮に反抗して朝鮮の農民反乱・甲午農民戦争が起きた。

日本と清の両国とも、その鎮圧を名目に朝鮮に出兵し、1894年日清戦争が
勃発。日清戦争で勝利した日本は、清国との間に下関条約を結んで、朝鮮が自
主独立国であることを認めさせ、清国の影響力を排除することに成功した。

日清戦争直後の朝鮮半島では改革派が強かった。

でも、日本が三国干渉に屈するのを見た王室と保守派が、勢力を回復してロシ
アに接近、政争が過激化した。(閔妃が暗殺される)

1896年に、親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗は
ロシア公使館にて1年あまり政務を執った。(露館播遷) これにより、朝鮮が
ロシアの保護国と見なされる危険性もあった。

日本は朝鮮への影響力を維持するため、1897年に大韓帝国と国号を改めて
独立の事実を明確にさせようとした。ーーーしかし大韓帝国成立後も、実質的
に朝鮮王朝と同様の政体が朝鮮を支配することとなり、進歩会(のちの一進会)
などの改革派は弾圧され開化は進まなかった。

日本もイライラしてきて、大韓帝国を日本に編入して統治してあげたらどうか
という日本政府と、日本世論が合致してきた。しかし、韓国統監であった伊藤
博文と彼を中心とするグループは「合邦は時期尚早である」として反対した。

まだまだ朝鮮にはそれを嫌がる人が多いし、強硬派は反対勢力を村ごと強制的
に取り締まるなどしていたし、国際社会にまだ認められないと思ったからだ。

大韓帝国は、なんとか冊封体制から離脱したものの、満州を手に入れたロシア
が朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を採り始めた。日本は、外交努力
で衝突を避けようとしたが、ロシアは向かってきた。

1904年、日露戦争の開戦である。

日本は、開戦直後に、朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、19
04年2月23日、日韓議定書を締結した。また、李氏朝鮮による独自の改革
を諦めて韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人とも
いわれる大量の人員を派遣するなど日本への協力を惜しまなかった。

だんだんいい感じになってきていた。8月には第一次日韓協約を締結し、財政
顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推
薦した。

閔妃によってロシアに売り払われた関税権を買い戻す。一方、高宗は日本の影
響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送
るなどの密使外交を展開していった。

高宗がロシアから離れないので、日本は日露戦争終結後の1905年11月に
第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)を締結し、12月には韓国統
監府を設置して外交権をその支配下に置いた。

しかし、第二次日韓協約の締結を認めない高宗は、条約締結は強制であり無効
であると訴えるため、1907年、第2回万国平和会議に密使を派遣した。
(いわゆるハーグ密使事件)

これに対して、韓国統監であった伊藤をはじめとした日本政府首脳は激昂し、
高宗を強制的に排除した。李完用らの協力もあり、7月20日に、高宗は半ば
強制的に退位に追いこまれ、純宗が第2代の大韓帝国皇帝として即位した。

7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、直後の8月1日には
大韓帝国の軍隊を解散させるにまで至った。———これを不満とした元兵士な
どを中心として、抗日目的の反乱が起きたが、兵のほとんどが旧式の武装しか
持たず、鎮圧された。

—— 日本統治時代

1909年7月に大韓帝国併合の方針が閣議決定されたものの、韓国統監府を
辞して帰国していた伊藤博文は、あくまでも合邦自体は将来的な課題として、
早期合邦に抵抗を続けていた。

しかし、10月26日、安重根によって伊藤博文が暗殺され、早期併合に反対
する有力な政治家がいなくなったこと、初代首相であり元老のひとりでもあっ
た伊藤を暗殺されたことによって、日本の世論は併合に傾いていった。

ーーー皮肉なことに併合は、安重根によって急速に現実となったのだ。

合邦に向けて着々と準備が進む中、1909年12月4日、突然朝鮮の一進会
より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出されると、大韓帝国国内で
は、国民大演説会などが開かれ、一気に一進会糾弾と排日気運が高まる。

在韓日本人新聞記者団からも、一進会は猛烈な批判を浴びせられた。「韓日合
邦を要求する声明書」は、朝鮮の世論を硬化させる結果を招き、統監府からは
集会、演説の禁止命令が下された。

大韓帝国併合の閣議決定から1年、閣議決定どおり、1910年8月22日に
日本は日韓併合条約により朝鮮半島を併合した。これにより大韓帝国は消滅し
朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)の終結まで日本の統治下
に置かれた。

大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、かわって全朝鮮を統治する朝鮮総督府
が設置された。大韓帝国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じられた。
また、併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族に封じられた。

朝鮮総督府は、1910年—1919年に、土地調査事業に基づき測量を行な
い、土地の所有権を確定した。日本は農業基盤を整備し、農民や地主の名義で
の土地の所有を認めた。今まで奴隷のようだった農民の生産性は向上した。

教育・社会制度が改善され、1930年からは本格的に工場施設が建設され、
大戦末期には、重要な重化学工業の生産施設まで朝鮮半島で建設されるように
なった。日本は、朝鮮半島を日本の一部のようにお金を注ぎ込んで大切に扱っ
た。植民地化したわけではなかったのだ。

多くの学校が建設され、学校では朝鮮語も教えられた。名前も朝鮮名でも自由
だった。警察や裁判所、行政施設が作られ、市民は法によるサービス受けるよ
うになった。

朝鮮の民衆は、貧しい大韓帝国の民から、日本帝国の市民へと変わった。
あらゆるインフラが整備され、本格的な産業革命に突入できる準備が整った。

アメリカもロシア・イギリス・フランスも、韓国人の幸せのために日本が貢献
しているとして日本を支持した。

日本の統治下で、李朝時代の特権商人が時代に対処できず没落する一方、旧来
の地主勢力の一部が、乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資
本家として台頭してきた。これらの新興資本家の多くは、総督府と良好な関係
を保ち発展した。

日本統治時代を、韓国側は日帝強占期、日帝時代または日政時代などと呼ぶ。

韓国は、韓半島併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する日本の支配
を単なる軍事占領と考えている。李氏朝鮮の支配する朝鮮半島は、清朝中国の
冊封体制から抜け出す気も無く、日本の努力で清国から自由になると、次はロ
シアに頼るという具合の、まともな国ではなかったのだ。

韓国は都合の悪い過去は忘れたようだ。ーーー李氏朝鮮の支配から自由になり
近代化を遂げることを朝鮮半島の人々が望んで日本に助けを求め、実際にそれ
を手にいれたのに、、、。

また、「日本植民地時代」という呼称も用いられるが、日韓併合条約、日本に
よる朝鮮領有の合法性、有効性を示唆するものであるという認識から、近年で
はその言葉は使われない。日本政府も朝鮮半島を植民地化したつもりはない。
ーーー朝鮮半島は、合法的に日本になったのだから。

1945年8月15日、

日本が連合国側に降伏する。日本は朝鮮半島で実効支配を喪失し、1945年
9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印
によって、正式に日本による朝鮮支配は終了した。

この頃になると、ソ連とアメリカの関係はだいぶギクシャクしてきたが、まだ
冷戦状態ではなかった。日本がアメリカに降伏したので、ソ連も慌てて朝鮮半
島を南下する。

それで、38度線を境に北をソ連軍が、南をアメリカ軍が、それぞれ日本軍の
武装解除をすることにした。つまり日本の代わりに朝鮮を占領したのだった。
そして、それぞれに独自の政策を展開する。しかし、南北に分断された朝鮮人
には悲劇。

ところで、ソ連もアメリカも、しばらくは米英ソ中による4国統治が現実的で
あり、政治政体が固まったところで独立させようと思っていた。しかし、北の
金日成、南の李承晩、などが入り乱れての政争。これに軍隊の反乱が拍車を掛
ける。各地でクーデターや争乱が頻発した。

注)李承晩[り・しょうばん]1873〜1965 解放後の韓国の初代大統領
  60年4月、革命により退陣する。

困り果てたアメリカが交渉相手に選んだのは、なんと朝鮮総督府であった!?
朝鮮総督府には日章旗がはためき、9月9日に正式な降伏文書が調印されるま
で、実質的な事務作業は継続される。

ここで注意しなければならないことは、韓国の支配をアメリカ軍が朝鮮総督府
から引き継いだことである。アメリカ人は韓国人に統治能力がないと判断した
のであった。

その頃日本にいた朝鮮人は、自分達は敗戦した日本人でもなければ、統治する
連合国側でもない、それら以外の「第三国人だから法に縛られない」などと詭
弁をろうし、略奪、強盗、など欲しいままに行動した。

政府機構の崩壊した日本の警察は手も足もだせず沈黙したまま。そこで国民を
守ったのは、なんと、いわゆる「ヤクザ」であった。石原都知事が言って波紋
を呼んだ三国人とは、「法を守らない傍若無人な連中」という意味である。

混乱を収拾するのではなくチャンスと考え、混乱を助長させる韓国人を見て、
アメリカ人は呆れ果てた。統治能力がないと断定されても仕方がない。

そして運命の1950年1月12日。米アチソン国務長官がアメリカの防衛線
は、フィリピン—沖縄—日本—アリューシャンを結ぶ線だと発言する。失言だ
といわれているが、アジアや朝鮮半島への意識が低かったのかも知れない。

朝鮮半島は含まれていない!ーーー南北統一を考えていた北朝鮮人の金日成は
小躍りする。アメリカのお墨付きが出たのだ!第二次世界大戦終結の僅か5年
後、1950年6月25日、いそいそと北鮮軍はソ連の支援を受けて韓国に侵
入した。
注)金日成[きん・にちせい キム・イルソン]1911〜94 本名成桂。
  31年に共産党に入党し、抗日運動で頭角を顕わす。北朝鮮臨時人民委員
  会委員長。

アメリカは暴挙だと激怒した。面食らったのが北朝鮮とソ連と中国。てっきり
アメリカの了解事項だと思っていたのに。ソ連は国連でアメリカを非難した。

アメリカは聞く耳持たず。国連を動かして国連軍を仕立て上げた。

開戦3日後の27日にはソウルが陥落し、韓国軍は敗走に敗走を重ねる。とい
うか、実際にはすでに韓国軍は軍隊の体[てい]をなしておらず逃げまどう民衆
と同じであった。韓国政府はプサンまで撤退し、北朝鮮は大邱まで接近した。

韓国は風前の灯火になった。

9月15日に、アメリカは仁川上陸を決行する。ここは干満の差が激しく上陸
作戦には不向きだったが、第二次世界大戦を経験した軍人が多数残っていたた
め成功することができた。後ろを突かれた北朝鮮軍は撤退を始める。国連軍は
北上し、38度線を越えてもさらに進軍する。翌月の10月26日、元山付近
に国連軍が上陸、11月24日には北朝鮮のほうが事実上の敗戦に直面する。

これを支援したのが中国で、志願人民軍を半島北部に集結させて一気に攻め込
んだ。戦線は再び南下し、翌年(51年)1月25日にはソウルを越えた地点ま
で到達する。

この時北鮮人は、同じ民族の韓国人の農民を大量に虐殺した。農民も、生き残
るために昼間は韓国の味方、夜は北朝鮮の味方となって、同じ民族同士が殺し
合う。
態勢を立て直した国連軍は、ふたたび戦線を押し戻し、二転三転したあと53
年7月27日に休戦協定が成立する。

休戦協定が成立したあと、戦闘を停止して38度の軍事境界線を挟み、南北に
非武装地帯が設けられた。この戦争で、中国・北朝鮮側の死傷者140万人、
国連軍・韓国軍の死傷者120万人、非戦闘員の犠牲者200万人以上がでた
と推定されている。

ソ連の提案を受け、北朝鮮・中国軍と国連軍の間で会談が行われた。

「単独北進」を主張する韓国を除く三者が合意に達し、休戦協定に調印する。
事実上、戦争遂行能力のない韓国が戦争継続を訴えた。しかし、戦争当事者の
韓国を排除して休戦協定が成立した。

国連軍は、実体はアメリカ軍であるが名目上は国連軍である。国際社会だとい
えよう。それが韓国抜きで休戦協定を結ぶ。韓国はまともに国として扱われて
いないのである。実際、韓国はまともな国の体をなしていなかったのであるか
ら仕方がない。

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軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 中朝は決別する?


いずれにしても国際関係は「昨日の友は今日の敵」なのである。中国にしても、テポドンー2が、今度は渤海湾に落ちないように気をつけているだろうが、朝鮮戦争のときの「義勇軍」派遣にしても、時の毛沢東とスターリンは、虚虚実実の駆け引きをして、双方共に「損」をしないように十分計算して行動した。
中国が窮地に立った金日成救援と称して、「義勇軍」を派遣したのは事実だが、調査によると、その大半は、朝鮮戦争開戦の前年に、国共内戦に敗れて共産軍の軍門に下った国民党軍だったという説が強い。降伏してもいずれ「敵になる公算」が大きい、かっての蒋介石軍を、毛沢東は「義勇軍」として朝鮮半島に送り込んだのだが、それでも「反抗」が怖いので、非武装に近い状態で戦場に送り出し、念には念を入れて、国民党軍の専売特許である「督戦隊」がやったように、後方から銃を突きつけて、共産軍に抵抗できないようにしつつ、同時に彼らが米軍側に逃げ出さないように後ろから追い立てて、強烈な火力を誇る「近代装備の米軍」に「始末」させたのだと言う。さすがの米軍も、弾がなくなって混乱したと言い、これ以来「人海戦術」と言う軍事用語が出来た。
朝鮮戦史を見ても、中国軍のことを「人民軍」または「義勇軍」としか書いてないから、いかにも「義勇軍」は「毛沢東軍」のように錯覚するのだが、実際は「降伏した国民党軍」が主力だったと言う説のほうが正しいように思う。これが事実だとすれば、毛沢東は苦労することなく「いずれ寝返りをうつであろう」もてあまし気味の「かっての敵軍」を米軍に始末させ、その一方で北朝鮮には恩を売るという「一石二鳥」を狙ってまんまと成功したことになる。
金さんの父親は、一応国境地帯でゲリラ活動をしていたそうだから、小規模ながらも実戦経験はあることになるから、中国とソ連の狡猾さにはトウの昔に気がついていたことだろう。だとすれば、その息子の金さんだって十分にその辺の事情を知っているに違いないから、北京政府に頼りながらも、胸襟を開くまでには至らず、常に「警戒心を怠らない」可能性は十分あるということが出来る。

http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20060718
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by thinkpod | 2006-07-20 23:11 | 半島