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2006年 10月 18日

石 平『私は“毛主席の小戦士”だった』

 石平氏は在日十八年、北京の反日政策を強く批判する、異色の中国人評論家としての活躍は最近広く知られる。VOICE、正論、WILLを舞台に鋭い中国批判を繰り広げるので、日本の読書界にもファンが増えた。
 評者(宮崎)がいつも思っていた疑問は、いったい、この人は如何なる少年時代、青年時代を中国で送ってきたのか、ということだった。
 人生の出発の原点がともなう懐旧、郷愁、家庭環境。
家庭や学校の教育環境の違いによって、人はそれぞれの人生過程のどこかで、故郷に還る。こころの故郷に復帰する。
 先日もテレビ番組で御一緒したが、石さんは飲むと大声を上げて議論に血道をあげる。石平氏はまことに素朴で純情で、それでいて熱血の人、中国の都会ッ子にはない生来の人間性を醸し出す。
しかも四川省出身といえば、独立心旺盛で個性的な性格が多い。

 さて本書を読んで、近年の氏の論理構成、その思想遍歴にようやく得心がいった。四川省の田舎で育った。氏の少年時代、まわりには儒教のおしえが残っていたという。
日本流に言えば
「♪うさぎ追いし、かの山、小鮒釣りし、かの川♪」
の、ゆたかな自然の環境が氏の感性を豊饒に育(はぐく)んだ。
 おりから文革の嵐に遭遇し、毛沢東の神話を信じた。まさに「正義の人、改革の人」が毛沢東であると信じた。
 革命の苦労話には涙がでた。嘘を洗脳教育で信じ込まされたことを赤裸々に告白している。
狂気の文革時代がすぎて、氏は80年代に北京大学へ入学する(四川省から北京大学というのは並みの秀才ていどでは辿れない超秀才コースだ)。
そこでの級友達との会話は、はてしなく欧米デモクラシー的な自由への僥倖、民主化への探訪だった。文革が毛沢東神話と毛沢東の個人的欲望から展開されて権力独占の野望である、という総括が若者の多くに拡がり、共通に認識されていた。
洗脳され、嘘によって騙されていたのだ、と。
 氏はいう。
「言いようのない悲哀感に襲われた。これが自分の少年時代だったのか、と空しさと悔しさがいっぺんに胸の中で沸き上がった」。
 そうか、毛沢東神話は大嘘だったのか。「わたしは自分の人生の中でもっとも深刻な心の危機と苦しみを体験しなければならなかった」。それは「驚天動地の精神的大地震であった」と正直に告白を綴る。騙されたことを悔いた。

 「学生寮の狭い部屋のなかで、安い酒で一緒に飲みつぶれて、一緒に涙を流した。その中から、我々の世代(文革中の毛沢東神話を信じていた)の独特の連帯感」が生まれ、これは「懐疑の精神」となり、のちの「天安門民主化運動」に繋がっていくのだった。
 そして彼らが89年天安門事件の被害者となった。
 あの悲劇が起きた日、石平氏は日本に留学に来ていた。在日の中国人留学生の多くも民主化に連帯し、日本でも運動がおきた。
 89年6月4日、軍が学生達に発砲し、石平氏の級友たちの多くが犠牲となった。なんという無謀な政府か、絶望の淵に立たされた。
 その後、何回か帰省し、議論して驚いた事実とは、反日宣伝によって親戚友人級友の多くが日本人が悪いと完全に「洗脳」されていたことだった。天安門の弾圧をつめよると、あれは「外国の陰謀であり、弾圧は正しかったのだ」という信じられない反応が返ってきた。
 共産党への不満を反日ですりかえての洗脳教育が、こういう形で現れていたのだ。
これは第二の洗脳であり、「反日」は大ペテン、かの毛沢東神話と同じ、党の独裁のための大嘘であるのに。
 石平氏は真実を語ろうと決意した。
旺盛な執筆活動を開始したのは、この危機を体験した直後からで日本の論壇で、「反日」の危険性について雑誌、単行本で真実を綴った。
在日留学生の一部からは批判や嘲笑もあったという。拝金主義にのめりこんで、政治の理想も民主化の灯火も反日にすり替えてしまった中国のあくどいまでの洗脳は海外留学生にまで及んでいた。

 石平氏は、日本にながく生活し、京都や奈良を訪ね歩き、その中国とは対極の、静謐で美しい日本文化、ひとびとの生活、哲学にこころからの感動をすることになる。
 少年時代に理想としておそわり、党が反対した儒教の本質が日本にこそ生きているではないか。己を犠牲にしてもおおやけに尽くすという、この日本の哲学の源泉は、いったい、なにからくるのか。
 石平氏はやがて西郷隆盛にいきつく。
 「中国では英雄豪傑であればあるほど、個人的な権勢や一族の栄達を求めて独裁者への道を歩んでいくのが中国歴史上の常であった。権力は、決して私利私欲の限界を超越することができない、というのが中国社会の法則となり、中郷の歴史の不幸の源でもあった」のに、日本の歴史に輝く「西郷南州は、それを見事に超越した」。
 西郷はいのちも要らぬ、名も要らぬと新政府の欺瞞に怒り、華々しく散った。
 本書は中国の本物の知識人が綴った感動の書である。黄文雄、呉善花、金美齢、ペマギャルポら在日外国人評論家の列に石平が加わった。
 かれの出現によって朱建栄も、王敏も、莫邦富も急速に色褪せて見える。

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出版社/著者からの内容紹介

今では「親日・反中国政府」的中国人論者の代表格として活躍している著者は、ここに至るまでの自らの魂の受難歴を語った衝撃な一冊!
在日年数十八年も及び、日本の伝統文化と美学に古き良きわが祖国の姿を発見した中国人哲学者からの、清冽な日本文化論。

内容(「BOOK」データベースより)
失意を抱いて留学した日本で彼が出会ったものは、祖国から消えうせた「論語」であり、「礼節」であり、「江南の春」の風景であった。自分たちがゴミのように投げ捨てたものが日本には息づいていた…。共産党政権に洗脳され、騙され続けた知識人の慟哭と、祖国への決別の手記。

内容(「MARC」データベースより)
失意を抱いて留学した日本で彼が出会ったものは、祖国から消えうせた「論語」であり、「礼節」であり、「江南の春」の風景であった。中国人哲学者が赤裸々に描く、「親日・反中」に至るまでの心の軌跡。

出版社からのコメント
日本人の心を震わす魂の履歴書!
共産党政権に洗脳され、騙され続けた知識人の慟哭と、祖国への決別の手記。
失意を抱いて留学した日本で彼が出会ったものは、祖国から消えうせた「論語」であり、「礼節」であり、「江南の春」の風景だった。自分たちがゴミのように投げ捨てたものが日本には息づいていた......。清冽な感動を呼ぶ自伝的論考。

著者について
石 平 1962年、中国四川省に生まれる。1984年、北京大
学哲学部を卒業。四川大学哲学部講師を経て1988年に来日。神戸大学文化学研究科博士課程を修了後、民間研究機関に勤務。2002年に『なぜ中国人は日本人を憎むのか』(PHP研究所)を著して中国における反日感情の高まりについて先見的な警告を発して以来、評論活動に入る。著書に『中国「愛国攘夷」の病理』(小学館文庫)、『「日中友好」は日本を滅ぼすー歴史が教える「脱・中国」の法則』(講談社+α新書)、『日中の宿命』(扶桑社)などがある。『正
論』・『Voice』・『WiLL』等の論壇誌で論文掲載多数。


Amazon.co.jp: 私は「毛主席の小戦士」だった—ある中国人哲学者の告白: 本: 石 平
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「 石平『私は「毛主席の小戦士」だった』を読む。
 先日のポーツマスネットワークの宮崎正弘先生の講演会には、加瀬英明先生、西尾幹二先生、西村幸祐先生、山崎行太郎先生、平田文昭先生、そして西法太郎先生と石平先生が駆けつけてくだったため、講演会ではなくシンポジウムができるほどであった。
 石平先生がいらっしゃるとのことで、以前宮崎先生のメルマガで書評されていた「『私は「毛主席の小戦士」だった』(飛鳥新社)を読んでみた。大変に面白い本であった。
 毛沢東に対する洗脳と盲信。著者は少年時代に毛沢東を心から尊敬し、自らもその走狗とでもいうべき小戦士となっていた。そして後に明らかになる実際の毛沢東の姿。文革とは所詮は老いた毛沢東が自らの権力を獲得するために国家全体を巻き込んだ壮大で悲惨な権力闘争の一環にしかすぎなかったことを感じたとき、自らの小戦士としての少年時代が疎ましく、空疎に思え、呆然としたこと。
毛沢東がこれほどの権力を行使できたのも結局は共産主義体制という驚くべき独裁体制にあることに気づいたこと。これらの経験をへて著者は、根本的解決は共産主義体制の変換、すなわち民主化によってしか為しえないとして民主化闘争の知的活動家となっていく。
 天安門の挫折をへて民主化の夢破れ、政治に関してニヒリスティックになっていた著者が再び政治の世界へと目を向けざるを得なかったのは、以前では考えられないほどの「反日」ブームに驚いたからであった。
 興味深いエピソードがある。
著者が四川省の実家に帰省した際、以前から著者を慕っていた甥に、小遣いをやろうとすると、頑として受け取らない。不思議に思った著者がなぜか理由を問うてみると「おじさんのお金は、日本人からもらった給料だろう。そんなお金僕は要らない!」ときっぱりといった。そして甥は共産党に入党すると誇らしげに語り、日本と戦うという。さらに、日本に大勝した共産党を、批判するような著者が従事してきた民主化活動は完全に間違っ
ていると断じた。
 著者は、この甥の姿に自らが少年兵であった過去を重ね合わせたのであろう。
若者が幾度となく共産党権力により洗脳され、利用されて行く姿を目にし、政治的ニヒリズムから覚醒し、「反日」の根本構造を分析する。
 この異常なナショナリズムを超えた盲目的ショービニズムとでもいうべき反日ブームの根本構造は、著者自身も関与していた民主化闘争の中、特に天安門事件を契機として、反共産党の雰囲気が国民の中で生れつつあったことに対する窮余の一策として考え出された極めて政治的なものであった。共産主義というイデオロギーが共産党の一党独裁の正統性(legitimacy)を付与しなくなったとき、新たな正統性の根拠を共産党の指導による第二次世界大戦の勝利という偽りの歴史と、その敵国たる日本の現在にまでいたる軍国主義の脅威という誇大宣伝である。再び侵略を目論む日本に対抗できるのは共産党しかありえず、その日本という巨悪との対抗のためには一党独裁も止むを得ないではないかという論理である。
 こうした分析を著者は孤独に繰り返し、孤独な闘いを続ける。後半の喪われた祖国の文化を日本に見たという日本文化論も興味深い。石平という愛日的中国知識人を知る上でも、また現代中国の本質を見抜くためにも格好の手引書となっている。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3438027/



(読者の声2)もし、私が石平氏で、あのように自分の精神・思想遍歴をありのままに書いて出版したら爽快な気持ちになります。下品な喩えですが排泄後の快感です。
でも中国人の石氏はどうなのかなと思ってしまいます。
中国人の常識では自分を正直に語ることは非常識で通常の中国知識人としたらバカに等しい愚かな行為でしょう。
ですから石氏の同書は日本人には到底理解の及ばない苦悩と複雑な内面での心理の葛藤を紙背に抱えているものと推測します。これを読んでも石氏を警戒して観る浅薄な保守知識人は日本人に取り入ろうとする在日中国人の自己プロパガンダと見なすでしょうが。
貴台が何度も書かれておられるように中国人のメンタリティは日本人と全く異なります。藤島泰輔氏が日華断交後に憤然として日華民族友好協会でしたかを立ち上げましたが国民党中国人の薄ら笑いにいいようにされてしまい、後で日華ではなく日台とすべきだったと嘆き、それを貴台が慰めるという御一文があったと記憶します。日本人は各民族が為めに生きていることを深く考えない民族です。
日本人は自らの親台的言行や善意は素直に受け入れられると信じ相手の親日的態度も警戒なく受け入れます。
相手が親日家であってもその真意を見ないで付き合っているのでその親日がある日くるりと「反日」に転じてしまうと慌ててしまいます。台湾人も中国人同様日本人とはメンタリティが異なります。
複雑な過去を背負いある意味屈折しています。それを貴台は上の同論で分析されていました。
最近独立派台湾人から、台湾独立運動に熱心に取り組む日本人数名を名指しして、何のために金にもならないことをやっているのだろうという声を聞きました。
きっと裏があってやっているのだろうと考えるのは蒋介石と外省人に痛めつけられ、その前に日本の統治も経験した民族としたら当然です。
東アジア近隣諸国の中で稀に気の合う民族同士です。しかも台湾は日本の安全保障に欠くことのできない枢(かなめ)ですから頼まれなくても台湾の独立を応援するのは日本の志士なら当たり前です。これが日本人のメンタリティです。相互理解は容易いものではありません。
石平氏のアウグスチヌスの「告白」を思い起こさせる真摯の自己表白は、一匹夫の私に日本人、中国人、台湾人それぞれの異相に思いを致させ、さ迷う自らの魂を揺さ振る“震作”です。
   (HN生、品川)

(宮崎正弘のコメント)そうそう。ですから西郷隆盛のように「命も要らぬ、名も要らぬ」という無私の哲学、敬天愛人の日本人的考え方がシナ人にわかってもらうのは、よほどのこと。「滅私奉公」ならぬ、メッコウホウシの国柄ですから。
石さんにしても、在日十八年にしてたどりついた思想的地点です。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3436891/




(読者の声3)貴誌平成18年(2006年)11月23日(木曜日)通巻第1626号に収録された、「(読者の声2)」ですが。
曰く。
「最近独立派台湾人から、台湾独立運動に熱心に取り組む日本人数名を名指しして、何のために金にもならないことをやっているのだろうという声を聞きました。きっと裏があってやっているのだろうと考えるのは蒋介石と外省人に痛めつけられ、その前に日本の統治も経験した民族としたら当然です。(HS生、品川)」
この指摘、感銘をもって読みました。
 ただし、独立派台湾人のそうした感性の成立背景を、蒋介石と外省人に痛めつけられ、さらに日本統治を挙げていますが、この見方には多少、抵抗があります。はっきりいえば、少し浅いのではないか。
 問題は、独立派台湾人の中にさえ、台湾独立運動に取り組む日本人を金にもならないのに、と解釈するところです。その思考回路は、元来がシナ人であるところから来ているという見地を見落としてはならないと思います。
 これは日本人的な感性から彼らを軽蔑なり批判しているのではありません。そうした感性なのだと思い定めていれば、不愉快にならないからです。
 私は、身近にいる台湾人と福建人の日本社会における動きを、具体的な事例を通して比較しつつ見ています。色々と学ぶところが多いことに、最近やっと気づき始めております。いずれにせよ、彼らのたくましき感性から見ると、日本人は少なくとも私の場合、甘いです。
(SJ生。静岡)

(宮崎正弘のコメント)無償の行為とは、それを想定できない人からは理解不能でしょう。話は飛びますが、「憂国忌」にしても、ボランティアと浄財だけで36年間。この無償の行為は、源泉は何でしょうか?
 さて台湾は昔から果物、農作物が豊富で、このため人々が飢餓をしりません。人間性はおだやかになり、お人好しが多く、したがって日本時代にも従順だったが、シナ人が入ってきたときに「なんだ、これは」という程の衝撃だった。
 人間がまるで違うからです。ですから、日本語世代の多くは「シナ人」という呼び方をして、中国語を「シナ語」。台湾語しか使わない。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3438027/




中国共産党の「反日・愛国教育」で若者が「天安門事件は政府が正しい」といい出した
                              -日中問題研究家 石平-

 ここ約20年ごどで中国は親日から反日に劇的な変化を遂げた。とりわけ、なりふり構わぬ共産党の愛国教育の激しさといったら目を覆うばかりだ。その現状を語るならば、まずこの話からせねばなるまい。
 今から6年ほど前に中国四川省の実家に帰省したときのことである。大学1年の甥が遊びに来たので、私が財布から何百元か取り出し小遣いとして渡そうとすると、彼はこう言った。
「おじさんのお金は日本人からもらった給料だろう。そんなお金はいらない!」
 まさか身内の人間からそんな言葉を浴びせられるとは思いも寄らなかった。甥は純真で真面目な子だったので 昔からかわいがってきたし、彼もよくなついていた。それなのに、当時の大学生の一か月分の生活費を、「日本人の汚い金だ」とためらいもなく振り払ったのだ。
 私はその何年か前から、中国に帰るたびに、社会の空気の変化に気づいてはいた。中国の友人や知り合いに、日本で仕事していることを伝えると、「あんな陰湿な社会にいたら酷い目に遭っているに違いない」と決めつけられ、同情される。
 だから、この甥に対して説明しても無駄だとすぐに悟り、私は話を変えようとした。ところが、彼は逆にこう質問してきたのである。
「日本がもう一度中国を侵略してきたら、おじさんはどうする?中国に帰ってくる?」
 あまりにバカバカしくて反論する気にもならず、冗談半分で「そうなたったらお前はどうする?」と聞き返してみた。すると、甥は背筋を伸ばして、「僕は最前線で戦う。小日本を徹底的にやっつけるんだ」と答え、さらにこう続けた。
「実は大学で共産党の入党申請書を出したんだ」
 少し呆れて、私が「そうか、お前は共産党が好きなのか」と軽く聞き流そうとしたところ、「当然だろう。中国人ならみな共産党が好きじゃないか。昔、日本侵略軍をやっつけたのは共産党だし、今も日本の侵略を防いでいるのは共産党の指導のおかげだ。おじさんは歴史を知らないのか!」
 こうなると叔父も甥もない。
「じゃあ聞くが、今から11年前に北京で起きた6・4事件(天安門事件)、あれも中国の歴史だが、君はどう思う」
「なんですか6・4事件って。あ、あれのことか。はっきり言いますが、おじさんたちのやったことは間違いです。党と政府の措置は正しかった」
 さすがに堪忍袋の緒が切れた。
「丸腰の学生たちを虐殺して、いったいどこが正しかったんだ!政府が罪のない人を銃殺するのは正しいというのか」
 しかし、甥は譲らない。
「おじさんたちは、外国勢力の陰謀の道具に使われただけだ。鎮圧しなければ、中国は外国勢力の支配下に入ってしまうじゃないか」
 私は怒り心頭に発し、あやうく平手打ちを食らわせそうになったが、かろうじて理性で抑え込んだ。すると甥は、
「殺人といえば、日本人こそ殺人者じゃないか。南京大虐殺をやり、何千万人の中国人を殺した。おじさんは忘れてもぼくは忘れませんよ」
 そういい捨てると、甥は部屋から出て行った。これが今でも鮮明に記憶に残っている甥との対話の一部始終である。

▼憎しみの対象だけで、共産党の洗脳教育は昔のまま
-略-
 歴史を振り返れば、中国共産党の薄汚いやり口は、昔からまったく変わっていない。
 私自身、子供の頃には、「中国の外の世界では、99%の労働者は、資本家による搾取で、中国よりはるかに貧しい生活を強いられている」と教えられ、素直に信じていた。
-略-

 洗脳教育というのは本当に恐ろしいもので、ありとあらゆるウソが集まって一つの完璧な世界観を形成してしまうと、ウソと知りながらウソをついていた人間までも本当のことのように錯覚し始めるほどだ。真面目で純粋な子供だった私も、見事なまでに洗脳され、毛沢東を崇拝していた。
 その洗脳が解けたのは、北京大学に進学してからである。当時は文化大革命の迫害を受けた党幹部や知識人の間で、毛沢東政治の暴露と批判を行う運動が盛り上がっていた時代である。大学にも文革犠牲者の親族を持つ学生が多数いた。
最初は彼らの話を疑い、殴り合いのケンカまでしたが、あまりの多くの証拠を突きつけられ、毛沢東は自らの権力を守るためには虐殺も厭わない権力の亡者であることを認めざるを得なくなった。

-略-
 運命の89年6月4日。私は日本にいて難を逃れたが、一緒に民主化活動を指揮した何人かの仲間が天安門で命を落とした。
私は祖国に絶望し、打ちひしがれた。
 天安門事件は共産党にとっても史上最大の危機だったと言える。この事件を境に、共産党は方針転換を図った。
つまり、かつては西欧資本主義を邪悪な暗黒世界とし、理想の共産主義国家を建設するのが共産党だと位置づけていたのが、日本という暗黒国家が再び中国への侵略を企てており、その侵略から祖国を守るのが共産党であると、対立の構図を変え、民族主義、愛国主義の教育を始めたのである。
 要するに、共産党がやっていることは私の子供の頃とまったく同じなのだ。
-略-

▼戦争を知らない世代ばかりが共産党を妄信している
-略-
 最近、新華社通信が中国人を対象にサイト上で行ったアンケートでは、「あなたがもっとも信じる理想・理念はどれか」という問いに対して、「民主主義」と答えた人は1%に過ぎず、「民族至上主義」と答えた人が96%にのぼった。
そのほとんどが、外国と利益が衝突したらあらゆる手段を用いて中国の利益を守るべきと答えている。
 もはや中国の若者たちは民主主義という思想にまったく魅力を感じていない。共産党独裁が決していいとは言わないが、邪悪な日本の侵略から民族を守るには、共産党の指導が必要だとする。
-略-
 しかし、私が毛沢東崇拝の洗脳から解けたように、ウソはいつか必ず暴かれ、洗脳は解ける。私はそう信じている

ソース:SAPIO 12月13日号 PP103-105 記者が誌面からテキスト化。
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1164206127/


地球史探訪 : 中国の覚醒(上) 〜 中国共産党の嘘との戦い
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by thinkpod | 2006-10-18 05:43 | Books
2006年 09月 28日

日露戦争 もう一つの戦い

出版社/著者からの内容紹介
日本の素晴らしさを堂々と伝えた 明治人の気骨と英語力! 岡倉天心(おかくらてんしん)…日本の伝統精神を、アメリカに広めた東洋美術の使徒 金子堅太郎(かねこけんたろう)…ニューヨークの社交界を、説得力溢れる演説で魅了した男爵 家永豊吉(いえながとよきち)…シカゴを中心に、社会人教育の場から日本の情報を発信し続けた法学者 ヨネ・ノグチ(野口米次郎 のぐちよねじろう)…英文詩人として英米で名声を高め、文芸誌を舞台に日本の芸術について発信。彫刻家イサム・ノグチの父 朝河貫一(あさかわかんいち)…不偏不党の精神を掲げ、徹底して謙虚に日本の正当性を主張した歴史学者 アメリカ世論を「ペン(論文)と舌(講演)」で親日へと動かした五人の英語名人 ■日露戦争勝利の陰に、五人の英語名人がいた 日本が国家存亡を賭して戦った日露戦争。戦費もままならない日本にとって、国際世論の行方、わけても新興の経済大国であるアメリカは外債募集先としても、休戦調停役としても重要な存在だった。そんな中アメリカに渡り、アメリカ世論を親日に導き続けた五人の日本人がいた。東洋美術の使徒、岡倉天心(おかくらてんしん)。社交界で活躍した男爵・金子堅太郎(かねこけんたろう)。社会人教育に邁進した法学者、家永豊吉(いえながとよきち)。英文詩人として名を馳せたヨネ・ノグチこと(野口米次郎 のぐちよねじろう)。不偏不党の歴史学者、朝河貫一(あさかわかんいち)。彼ら「明治の英語名人」は、「ペン(論文)と舌(講演)」でアメリカ世論を日本の味方にした。英語で戦われた日露戦争。この本は、もう一つの『坂の上の雲』である。

内容(「BOOK」データベースより)
日本が国家存亡を賭して戦った日露戦争。戦費もままならない日本にとって、国際世論の行方、わけても新興の経済大国であるアメリカは外債募集先としても、休戦調停役としても重要な存在だった。そんな中アメリカに渡り、アメリカ世論を親日に導き続けた五人の日本人がいた。東洋美術の使徒、岡倉天心。社交界で活躍した男爵・金子堅太郎。社会人教育に邁進した法学者、家永豊吉。英文詩人として名を馳せたヨネ・ノグチこと野口米次郎。不偏不党の歴史学者、朝河貫一。彼ら「明治の英語名人」は、「ペン(論文)と舌(講演)」でアメリカ世論を日本の味方にした。—英語で戦われた日露戦争。この本は、もう一つの『坂の上の雲』である。

Amazon.co.jp: 日露戦争 もう一つの戦い—アメリカ世論を動かした五人の英語名人: 本: 塩崎 智
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日露戦争が最大の山場を迎えた一九〇五年五月最後の週末、金子堅太郎は、米国東海岸のリゾート地、アトランティック・シティに遊んでいた。しかし、内心は保養どころではなかった。日本の連合艦隊はロシアのパルチック艦隊の動向をつかめたのだろうか。史上最大規模の海戦の帰趨は世界中の耳目を集めていた。

 そんな金子の元に、五月二十八日深夜、ニューヨークにいる秘書から電報が届いた。長崎駐在米国領事からの電信によると、連合艦隊がパルチック艦隊を撃破したという。

 金子は、御前会議の決定により、隠密の「民間大使」として、日本政府から米国に派遣されていた。得意の英語とセオドア・ルーズベルト大統領をはじめとする米国政財界の人脈を駆使し、米世論を親日に導く命を受けていた。

 彼のただならぬ様子を見て、戦況に重大な異変ありと察したのだろう。滞在先のホテルのロビーにいた客たちは、金子が手にしていた電報の内容を知りたがった。促されるまま電報を読み上げると、あちこちから歓声があがり、シャンペンを抜いての大騒ぎになった。

 翌二十九日は、新聞で大々的に海戦結果が報道され、金子のみならず在米日本人にとって最高の一日となった。


 「列車に乗っている旅客は知ると識らざるとを問わず、私の座席に蛸集して皆私の手を握って、大勝利で目出度い、目出度いと言う。……通行人が私の顔を見るとわいわい言って万歳を唱えた。それから向こう河岸にボートで渡って馬車に乗った。左右のアメリカ人の家には日の丸の旗が立っている。又通行人が私の顔を見れば帽子を取って万歳万歳と言う。実にこの時の有様はえらいものであった」 (金子堅太郎『日露戦役秘録』)


 アメリカ人が日本戦勝の報に歓声をあげたのは、これが最初ではない。事実上の開戦となった旅順口と仁川沖海戦、さらに旅順陥落、奉天会戦など、日本が勝利を収めるたびに、アメリカ人は在米日本人と喜びを分かち合った。日露戦争中、米国世論はおしなべて親日であり、そのひいき振りは日本の同盟国イギリスを凌ぐほどだった。

 米国では開戦前からすでに日本を支持する声が高まっていた。ロシアの排他的満州進出により日米両国は締め出しをくい、利害関係が一致した。

 この、時ならぬ日米蜜月期には、実は「仕掛け人」たちがいた。

 大国ロシア相手に短期決戦を挑んだ日本は、ロシアに不意打ちを仕掛けたが、自らの正当性を主張しなければならない。欧米の新聞や雑誌で日本の立場や見解を説明しておかねば、極東の平和の破壊者というレッテルを貼られてしまう。国際世論に訴えるには、欧米のメディアを経由するしかない。しかし東洋の一小国の悲しさで、いくら日本の政治家やメディアが声を大にして叫んでも、世界レベルのメディアが好意的に取り上げてくれるとは限らない。

 しかも、圧倒的な日本ぴいきとはいえ、所詮、米国の 「異国」 日本に対する好意は不安定なもので、いつひっくり返るかわからない。

 この国家存亡の危機に、英語で自由に意思の疎通ができる、個性豊かな日本人たちが米国にいた。彼らこそが「仕掛け人」たちの正体である。

 太田雄三氏は『英語と日本人』で、「明治八(一八七五)年ごろからのほぼ一〇年弱の期間に高等教育を受けた人々」を「英語名人世代」と呼んでいる。英語を日本語並み、あるいはそれ以上に使いこなすエリート群だ。彼らは東京大学の前身大学南校や北海道大学の前身札幌農学校で、外国人教師により外国語のテキストを使い、外国語で講義を受け、外国語で答案を書いた。

 日露戦争当時、この英語名人たちは、まさに脂の乗り切る四〇~五〇代だった。

 本書は、日露戦争中、勃興期の米メディアを部隊に英語を武器として最前線で戦った、明治の英語名人五人の言論による格闘の記録である。

Let's Blow! 毒吐き@てっく: 海を渡った明治のサムライ達のお話
http://tech.heteml.jp/2006/09/post_760.html



■■ Japan On the Globe(464)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

地球史探訪: サムライ達の広報外交
〜 米国メディアにおける日露戦争
 彼らは卓越した英語力で、日本の立場を語り、
アメリカ国民を味方に引きつけた。
■転送歓迎■ H18.09.23 ■ 34,261 Copies ■ 2,227,386 Views■


■1.米国メディアを賑わせた日露戦争■

 1904(明治37)年2月、日露戦争が始まると、その戦況ニュ
ースがアメリカの新聞や雑誌を賑わした。TOGO(東郷連合艦隊
司令長官)、NOGI(陸軍第3軍司令官)、KUROKI(第2軍司令
官)など、英語らしくない名前が紙面を飛び交った。

 ニュースだけではない。開戦直後、3月2日付けの『ニュー
ヨーク・タイムズ』紙には、和服姿のKAKUZO OKAKURA(岡倉覚
三、天心)の写真とともに、記者の質問に答えた記事が掲載さ
れた。別のページには、BARON KANEKO(金子男爵)のインタビュ
ー記事が載っている。

 二日前の『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』誌には、
TOYOKICHI IYENAGA(家永豊吉)のカルチャー・センターでの
講義を取材した記事が掲載されていた。

 この年、10月に出版された岡倉天心の『日本の覚醒(The
Awakening of Japan)』は、半年間で全米売上第4位となった。
翌月に出た朝河貫一の『日露衝突(The Russo-Japanese
Conflict)』は、書評誌『サタデー・ブック・レビュー』で
「クリスマス・プレゼント本100選」の一冊に選ばれた。

 この時期ほど、日本人の言論が米国のメディアを賑わせた事
はなかったろう。そして達意の英文で語られた彼らの品格ある
教養と思想は米国民を魅了し、親日世論を湧き興して、日露戦
争での日本の立場を大いに強化したのである。

■2.金子堅太郎の米国世論工作■

 米国メディアで活躍した筆頭は、金子堅太郎男爵である。か
つてハーバード大学ロースクールで法律を学び、セオドア・ル
ーズベルト大統領とも同窓だったという縁で、日本政府からア
メリカでの世論工作のために送り込まれた人物だった。

 開戦1ヶ月後の1904(明治37)年3月に米国入りした金子
堅太郎は、かつての留学の地ボストンではなく、新聞や雑誌な
どの本社が集中するニューヨークに腰を据えた。

 ニューヨークでは、スチュワート・ウッドフォード将軍が金
子のために200人を超える政財界の大御所、軍高官、学者な
どを招待して盛大な歓迎パーティーを催してくれた。将軍はか
つて日本訪問中に金子の世話になり、急速な近代化や、勤勉で
礼儀正しい国民性に強い感銘を受けていた。

 日本は緒戦の勝利以降、大きな戦果を上げておらず、逆に、
ロシア海軍の名将マカロフが旅順に覇権され、予断を許さない
状況だった。そこにマカロフの乗る戦艦ペトロパブロフスクが
日本海軍の機雷に触れて爆沈したというニュースが飛び込んで
きた。ロシアに流れかけたムードを引き戻す絶好の機会である。

■3.「我が国は、その門戸開放のために戦っているのです」■

 食事と歓談の後、主催者ウッドワード将軍が金子を歓迎する
スピーチを述べると、金子は演説を始めた。

 私も我が国も、実に多くをアメリカに負っています。

 と切り出した金子は、ペリー来訪の後、日本は門戸開放政策
をとり、アングロ・アメリカン(英米)文明を採用した、と述
べた。「文明開化」をアメリカ人向けに説明すれば、こういう
言い方になるだろう。そしてその英米文明を中国と韓国に導入
しようとした過程で、ロシアと敵対することになった、と説明
した。

 私たちは、領土的な野心や好戦心のために戦っているの
ではありません。アングロ・アメリカン文明の極東への導
入のために戦っているのです。ペリー提督は、私たちに門
戸開放を授けてくれました。今、我が国は、その門戸開放
のために戦っているのです。[1,p84]

 会場から拍手が沸き起こった。「門戸開放」とはルーズベル
ト大統領やヘイ国務長官が対中基本政策としていた方針である。
その言葉を繰り返し使うことで、日本はアメリカと方針を共に
している、と印象づけたのである。

■4.「日本の貴族、マカロフを称える」■

 演説のクライマックスは、後半に訪れた。

 ここに御列席の多数の方々はマカロフ大将を御承知であ
ります。大将は世界有数の戦術家である。この人が死なれ
た。わが国は今やロシアと戦っている。併(ただ)し一個
人としては洵(まこと)に其(その)戦死を悲しむ。・・

マカロフ大将も国外に出て祖国のために今やまさに戦わん
とする時に望んで命を落としたことは残念であろうが、こ
の戦役において一番に戦死したことは露国の海軍歴史の上
に永世不滅の名誉を輝かしたことであろうと思う。私は茲
(ここ)に追悼の意を表してもって大将の霊を慰める。
[1,p85]

 戦死した敵将の霊を慰めることは武士の習いであった。当時
のアメリカの上流階級はイギリスの騎士道の気風を受け継いで
いたであろうから、金子のマカロフ哀悼は強い共感を呼んだ。

 翌日の新聞は「日本の貴族、マカロフを称える」(『ニュー
ヨーク・ヘラルド』紙)、「マカロフの賛辞を捧ぐ」(『ザ・
サン』紙)と伝えた。以後、金子には晩餐やパーティーへの招
待状が山のように届き、どれに出席するか取捨選択しなければ
ならないほどだった。

■5.「夜が明けても全部を聴かなければ帰らぬ」■

 4月28日では、母校ハーバード大学で講演を行った。留学
時代から演説の研鑽を積んでいたので、講演は得意だった。

 金子は三国干渉による遼東半島の返還から、ロシア軍の満洲
における不当な居座り、そして朝鮮半島進出までの経過を説明
した。ここまでで1時間半も経ってしまったので、講演を打ち
切ろうとすると、聴衆は総立ちになって「ノー、ノー」と叫び、
「今夜は貴下の演説を聴きに来たのだから夜が明けても全部を
聴かなければ帰らぬ」と言い出した。

 そこで、金子はさらに45分を費やし、ロシア側の主張を徹
底的に反駁した。日本の宣戦布告があまりに急で戦闘に備える
暇がなかったというロシア側の批判に対しては、前年4月以来、
ロシア海軍は戦艦3隻、巡洋艦5隻など19隻を増強し、ロシ
ア陸軍も歩兵2個旅団、砲兵2個大隊など40万人を増派して
いた、と詳細なデータを挙げて反駁した。

 日露戦争はキリスト教徒と異教徒の戦いだ、というロシア側
の宣伝に対しては、日本は仁川沖の海戦で損傷した軍艦「ワリャ
ーグ」の負傷者を日本の赤十字病院に収容し、死者は衣服を改
めて陸上でキリスト教の葬儀を行った。ところが満洲やウラジ
オストックでは、ロシア人官吏は在留邦人を抑留し、虐待した。
日本人とロシア人のどちらの行為がよりキリスト教主義に適っ
ているか、と聴衆に問いかけた。

 翌日の『ボストン・ヘラルド』紙は、金子の演説の内容を余
すところなく伝え、「彼の成功は真に驚嘆に値する」と述べて、
シーザーを追悼するアントニウスの歴史的演説に勝る、とまで
激賞した。

■6.「ロシアは文明のレベルで決定的に日本に劣っている」■

 ボストンでの講演の後、金子の広報活動は完全に軌道に乗っ
た。ボストン、ニューヨーク、ワシントンを往来しながら、講
演、晩餐会でのスピーチ、そして毎月のように新聞や雑誌への
寄稿と、まさに八面六臂の活躍を続けた。

 もともと判官贔屓で日本を応援していた米世論は、金子の冷
静かつ品位のある主張に触れて、ますます親日的になっていっ
た。当時の駐米ロシア大使カシニーの娘マーガレットはこう書
いている。

 ルーズベルト大統領、ヘイ国務長官、そして米国政府全
体が、公には中立だったにもかかわらず、すさまじいまで
に感情的に親日になっていました。父は怒りのあまり髪を
かきむしりながら、ジョン・ヘイや皆に言ったものです。
いつの日か米国は、この選択を後悔するだろう、と。
[1,p148]

 ロシアも金子の活動に対抗するように、広報外交官としてエ
スパー・ウフトムスキー公爵を派遣した。カシニー大使とウフ
トムスキー公爵は、日本人が勝てば、中国人を指導して近代的
軍隊を作り上げるだろうと、「黄禍論(かつてのモンゴルのよ
うに黄色人種が白色人種を侵略する)」を持ち出したが、その
受けははなはだ悪かった。ロシアが満洲を占領して、米国を占
めだしてきた経緯から見て、こういう言い分には説得力がまっ
たくなかった。

『ハーパーズ・ウィークリー』誌はロシア寄りの記事を載せる
数少ない雑誌の一つで、日本公使館はロシアに買収されている
と睨んでいた。そこに公爵の日本批判丸出しの一文が掲載され
ると、読者から次のような反論が寄せられた。

 試しに、貴誌の読者諸賢にウフトムスキー公爵の論評と、
ほぼ2、3日おきに新聞で報道される金子男爵の演説を比
べてみてもらいたい。金子男爵の慎み深さと真にキリスト
教的な奥床しさと、ウフトムスキー公爵の尊大な発言とを。
結局、少なくとも論理的思考力、判断、演説という点にお
いて、ロシアは文明のレベルで決定的に日本に劣っている、
と認めることになるだろう。[1,p164]

■7.「同じような克己心をもってフランクリンは、、、」■

 日本政府の意向を受けた金子堅太郎に対して、純粋に私人の
立場から、しかもきわめて学問的に日本を擁護したのが、ダー
トマス大学講師の朝河貫一であった。日露開戦の9ヶ月後に出
版された著書『日露衝突』では、ロシア側が最初から満洲を独
占するつもりであったことを編年的に明らかにし、そのうえで
日本は満洲における機会均等と清国の主権尊重を死守するため
にロシアに戦いを挑んだのであり、それは米国の外交方針と完
全に一致する、と主張した。

『日露衝突』は学問的な著作であったが、多くの新聞、雑誌の
書評欄で絶賛された。『ニューヨーク・タイムズ』紙の書評は
次のような賛辞を送った。

 日露戦争に関しては、様々な形で取り上げられてきたし、
今後さらに書かれるだろう。しかし、これまでのところ、
この戦争の原因と争点について、明白でしかも公平な態度
で論じたものはなかった。本書では、それが立派に成し遂
げられている。[1,p133]

『ネイション』誌の書評では、「作者の国籍は、もし明かさな
ければほとんど推測できないのではないか」とまで述べ、次の
ように結んだ。

 本書の特徴は、口論中の人がよく使う類の口調や表現を
抑制している点にある。そして悲しいかな、ロシア側には
このような姿勢は欠如している。本書を読むと、ある戦争、
そして自国の弁護のためになされたある主張に思い至る。
同じような克己心をもってフランクリンはアメリカ植民地
における実情を世界に示し、リンカーンは南部に対する北
部の真実を述べたのだった。[1,p136]

■8.岡倉天心の『日本の覚醒』■

 朝河貫一の『日露衝突』と前後して、岡倉天心の『日本の覚
醒』が出版された。その主張は、日露戦争は西洋物質主義と東
洋精神主義の戦いであり、ここで東洋が滅びるわけにはいかな
い、という西洋物質文明批判である。岡倉の英文処女作『東洋
の理想』はイギリスで出版され、ルーズベルト大統領も、日本
人の精神は偉大で素晴らしく高遠な面が見られる、と感想を述
べている。

 天心は講演で「あなた方は富を求めて狂奔するあまり、絵画
の前に長くたたずむ時間の余裕を持たなくなっています」と辛
辣な批判をしながらも、「私の言い方に立腹しないようにして
頂きたい。日本はあなた方の後を追って、芸術を大切にしない
ことを一生懸命学んでいるところなのです」といなしてしまう
話術で観衆を魅了した。

『日本の覚醒』は、全米の新聞15紙、雑誌10誌の書評でお
おむね好意的に取り上げられた。『クリティック』誌はこう評
した。

 もし出版社による序文で述べられていなければ、本書が
全編岡倉氏によって英語で書かれたということに、読者は
まず気がつかないだろう。それは単に英語で書かれている
だけではない。その英語は立派で、想像力が表現豊かに高
揚する時にのみ、日本芸術家の感覚が垣間見られる。
[1,p122]

■9.文明の利器と古武士の精神■

 シカゴ大学の社会人講座の講師だった家永豊吉は、シカゴを
中心に講演活動を行っていた。そのテーマも「なぜ日本には罵
り言葉がないか----女性の影響を受けた日本語の穏やかさ」な
ど、好戦的な日本人というイメージを払拭する内容を盛り込ん
だりした。機知に富んだ言い回しや、茶目っ気のある皮肉で、
聴衆の笑いと喝采を呼んだ。

 ヨネ・ノグチ、こと野口米次郎は英詩集を英米で出版し、
「東洋のホイットマン」との評判を得ていた。日露戦争が始ま
ると、戦争とは直接関係ないが、日本の出版文化に関する論評
を次々に発表した。こうした大衆文化の世界でも、日本が先進
国の仲間入りしつつある事をアメリカ人読者に印象づけた。

 金子堅太郎、朝河貫一、岡倉天心、家永豊吉、野口米次郎。
アメリカのメディアでこれほど日本人が登場した時期は、これ
以前も、これ以後もなかった。当時の日本人と接したあるアメ
リカ人は、金子堅太郎に次のように語っている。

 今日の日本というのは、維新前の封建時代の武士道とい
うもので訓練した精神がまだ残っている。それに欧米の文
明的の学術技芸を輸入して加味したから、精神は日本の古
武士である。それに文明の利器を与えたからこれは実に強
い人種である。一面には封建の武士であって、一面には二
十世紀の文明の利器を持った人種である。こういう人種は
世界にはない。[1,p54]

 彼らの英語力とは、文明の利器の一つであった。それを通じ
て語られた古武士の精神、すなわち彼らの品格ある教養、思想、
学問、芸術、歴史伝統がアメリカ人を魅了したのである。彼ら
こそ真の国際派日本人だった。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(218) Father Nogi
 アメリカ人青年は"Father Nogi"と父のごとくに慕っていた乃
木大将をいかに描いたか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog218.html
b. JOG(291) 高橋是清 〜 日露戦争を支えた外債募集
 莫大な戦費の不足を補うために欧米市場で資金を調達する、
との使命を帯びて、是清は出発した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog291.html
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by thinkpod | 2006-09-28 00:22 | Books
2006年 09月 10日

親日派のための弁明

16年前、中曽根内閣の藤尾正行文部大臣が「(日韓併合は)形式的にも事実の上でも、両国の合意の上に成立した」(『文藝春秋』1986年10月号)と「放言」して、罷免されるというきわめて政治的な事件があった。野党のみならず、日本の言論界も藤尾発言を「妄言」とする韓国側の非難に唱和したため、中曽根首相は文相の首を切らざるをえなかったのだが、いらい「併合」を朝鮮半島の「侵略」「奴隷化」とする歴史認識は、韓国では反日イデオロギーとして、日本では「自虐史観」として、ゆるぎなく定着した観がある。
著者は反日歴史教育にどっぷりつかって育った人である。だから「日本語を使う人をみると不愉快になる」というほどの「日本嫌い」だった。それが、海外に出てから「国際社会における韓国と日本の位置をより客観的に認識できる」ようになった結果、朝鮮の開国期と日本統治についての「一方的に歪曲された歴史認識」から抜け出し、バランスのとれた認識がもてるようになったという。

日韓併合については、東アジアの不安定要因である脆弱な前近代的王朝国家を日本が統治するのは、欧米列強にとっても歓迎すべきことであったという見方がある。しかし、著者のいう「バランスのとれた認識」は、それをはるかに越えて革命的なのである。

「藤尾氏の発言中にある『日本が韓国を善意で統治した』というのは事実である」。しかし、「併合は悪いことであった」という前提で「よいこともした」式に論を展開するのはなぜだろう、と著者は首をかしげる。日韓併合は朝鮮の「ブルジョア革命」であり「文明開化」であった、そして日本の統治は朝鮮人にとって「祝福」であった。つまり、著者の認識では、併合は「形式的にも事実の上でも」正しかったのである。本書の扉に「金玉均 伊藤博文 朝鮮の文明開化のために殉じた 二人の霊前に本書を捧げる」とある。いうまでもなく、金玉均(キムオックキュン)は、日本維新政府の力を借りて朝鮮を近代国家にしようと奔走した若き革命家。閔妃の放った暗殺者に殺され、「親日売国奴」として五体をばらばらに刻まれさらされた。そして伊藤は朝鮮民族抑圧の首魁として、ハルビン駅頭で「愛国の志士」安重根に殺された。その2人を文明開化の殉難者とする巻頭の献辞に、著者の歴史認識が鮮やかに浮かび上がるのである。(伊藤延司)

出版社/著者からの内容紹介
韓国新世代の評論家が、抑圧的な旧体制を清算し、韓国を近代国家へと転換させた日本統治を高く評価。誤った歴史認識による反日教育を厳しく批判して韓国で事実上の「発禁(青少年有害図書指定)となった衝撃の書!

閉塞的な言論空間に風穴をあける「革命の書」!

韓国新世代の気鋭の評論家が、季氏朝鮮末期の歴史を公平な視点から検証し、抑圧的な旧体制の清算と朝鮮の近代化は日本の支援なくしてありえなかったとして日本統治を高く評価。韓国政府がおこなってきた反日教育をささえる歴史認識は誤っていると厳しく批判し、韓国で事実上の発禁処分となった革命的ともいうべき評論集である。
近代史をめぐって日韓双方にわだかまる閉塞的な言論空間は、本書の出現によって間違いなく風穴があくだろう。

親日派のための弁明  金 完燮
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/479421152X



金完燮『親日派のための弁明』の未翻訳部分

私は生粋の韓国人だ。でも,韓国人というものがあまりにも情けなく,えいっと殺してしまいたいときがある。なぜ日本の蛮行は暴くのに,自分たちの汚い利己心と低劣な鍋根性には目をつぶるのか? 日帝時代,朝鮮に移り住んだ日本人の中には,明らかに立派な人々も多かった。ところが,和夫一家殺害事件のように,韓国人は自分たちの間違いを,日本がやったから俺たちもやったんだというふうに弁明し,事件を矮小化,隠蔽しようと躍起になっている。和夫の亡骸は,釜山に大切に移葬され,毎年,日本人の墓参りが絶えない。以下は,和夫夫婦が死んだ日,ふだん彼から深い恩を受けていた金ソンス君が見聞きしたことを記録した証言だ。事件当時,金ソンス君も加害者だったが,殺害行為には同調しなかったそうだ。
 和夫氏は,日帝時代によく見られた,慶尚道地方の日本人地主だった。地主とはいうものの,和夫の家族は日本政府の朝鮮移住政策にしたがって,乗り気ではなかった朝鮮生活を始めたものだ。公務員だった和夫は,政府の命令にしたがって仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。そのころの日本は,一種の軍事独裁体制で,政府の命令に従わなければすぐに売国奴として排斥されそうな雰囲気があったという。

 当時,朝鮮にいた日本人地主のなかには,朝鮮人の小作人たちから,法の規定以上の小作料を取り立てる,怪しからぬ人々もいたが,ふだんから人情味の厚かった和夫は,小作料を収穫全体の十分の一とし,村人たちを家族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。自分たちの生活が困らなかったので,総督府の法令にしたがって,やむをえず受け取らなければならない最小限の小作料だけをとったのだった。貧しい小作人が食料がないと泣きつけば,喜んで食べるものを分けてやったし,村で誰かの葬礼があれば,家族総出で駆けつけ,食事の支度はもちろん,自ら慟哭して,悲しみを分かちあうこともあった。このように,和夫は人間への温かい愛情をもった,真の人間だった。

 また,和夫は近くに行き場のない孤児がいると,連れ帰って面倒を見ていたが,その数は,一人,二人と増え,四,五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。けれども,和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し,自ら喜んで彼らの父,母を称した。和夫の家族は,ふだん,このように朝鮮人を愛し,日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。しかし,彼らは,日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日,自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより,凄惨に殺害されたのだ。

その日,まさに万歳の声とともに,太極旗が波のように風になびきつつ,朝鮮人の世がやって来た。育て,東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に,彼の家で教育を受け,育ち,成人した青神は,自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと,和夫君に嫉妬したのか? 彼がわが子のように年たちが,斧と鍬,スコップを手に,和夫のもとに押しかけた。そのとき現場にいた金ソンス君は,次のように証言している。

和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを,子どもたちよ。

A:チョッパリ! 日本へ失せろ,失せちまえ。

和夫:(怒ったような声で)私が,お前たちにどんな間違いをしたというんだ。お前たち,みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり,お前たちの親だ。お前たちの祖国が解放されたことは,私もふだんから待ち望んできたことだ。踊りでも踊りたい気分の日に,なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。(涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。朝鮮の息子たちよ。私が愛を傾け,育ててきた結果は,つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。お前たちが望むなら,帰ってやるわ。

A:意味深長な目配せをBに送る(財産をすっかり処分して帰ったら,おれたちはどうやって食っていくんだ?)

B:死ね,チョッパリ,シッパルノマ。

 間髪入れず鍬が,和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に,数多くのスコップと斧が彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。このとき,和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。それまで黙っていたCは,和夫の妻を見て,彼女の長い髪をつかみ,庭の奥まったところに引きずっていった。そしてなんと13人がかりで,ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を,強姦しはじめた。(金ソンス君は,この期に及んで自分が止めに入ったら,自分も殺されただろうと言った)。強姦に耐えられなかった彼女は,行為の途中で死亡し,Dは,ふだんお母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず,内臓をひきずり出して,まき散らした。

 和夫には,一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは,放課後,家に帰ってきて,両親の身に起こった惨状を見,気が触れてしまった。ヒミコが何日間も慟哭する声に,近隣住民たちは眠れなかったそうだ。その後,孤児になったヒミコは,食べ物を乞おうと,その付近をさまよったが,朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず,知らないふりをした。結局,彼女は9日後,村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。当時,ヒミコは小学校6年生の幼子だった。和夫の財産は,勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り,この事件は村人たちの沈黙の中,しだいに忘れられて行った。

この文章は,ある読者からの手紙にあったものだが,冒頭,韓国人が反省し作成したものと書かれているものの,「和夫君」,「和夫さん」などの日本的な呼び方が混じっており,最後の部分に朝鮮人に対する軽蔑に満ちた文章(削除した)が含まれていたことなどを勘案すれば,韓国語ができる日本人が書いたものではないかと思う。いずれにせよ,この事件について聞いたことがあるという韓国人も多いことを見れば,実際に釜山地方で発生した事件のようであり,また韓国による植民地被害の主張に対する,日本人の対抗論理をかいまみることのできる珍しい例として,決して重みが失われない文だといえよう。

 振り返って考えてみれば,日本の敗戦後朝鮮半島では,このような殺害劇がたくさん発生しただろうと思われる。日本の無条件降伏以後,北韓地域にはソ連軍がすばやく進駐し,軍政を敷いたが,南韓に米軍が上陸したのは9月中旬だった。したがって,約1カ月程度,南韓地域には無政府状態が続いた期間があった。韓半島には,さまざまな理由で日本人とそれに加担した者たちに恨みを抱く朝鮮人たちが多かったろうし,彼らは日本人を殺し,財産を強奪し,日本女性を強姦しただろうと思われる。

 そして,朝鮮人たちが8月15日,日本の降伏を喜んだいちばん大きな理由は,おそらく,日本の一部として敗戦国の暗澹たる未来をともにするのが嫌だったためではなかろうか。日本統治の最後の期間,特に大東亜戦争が始まった,最後の4年間は,日本人はもちろん,日本の統治を受けていた地域の住民たちも,大きな苦痛に見舞われた時期だ。それゆえ,朝鮮人たちにとって8月15日は,忌まわしい戦争の苦痛から脱することのできたという点で,また日本人たちを殺し,財産を奪える機会が与えられたという点で,とても喜ばしいことだっただろう。

問題は,韓国社会において,朝鮮人によってほしいままにされたこのような虐殺と残酷な行為はまったく知られておらず,また調査されたこともなく,われわれが受けた被害だけは,繰り返し強調されているという点だ。そして日帝統治の期間に受けたとされる被害なるものも,事実よりずっと膨らまされているだろうことは,容易に想像がつく。

朝鮮は日本の統治を受け,未開な農業社会から短期間に資本主義工業国へ発展し,高い生活水準を享受してきた。しかし,日本が戦争に負けるやいなや,素知らぬ顔で,まるで自分たちが戦勝国にでもなったかのごとく,日本を呪詛し,彼らの財産を奪い,虐殺した行為は,明らかに人倫に悖る犯罪行為にほかならない。このようにして日本人をすべて追放したあと,南韓国と北韓国の政府は,強奪した日本人の土地と工場を「敵産」と呼び,堂々と山分けした。

もし日本が戦争で勝利したり,少なくとも領土を保全され,休戦にでもなったなら,はたして朝鮮人たちはこのように振る舞えただろうか。おそらく,前よりもっと自発的に日本人であることを主張しつつ,忠誠を尽くしただろう。ところが,戦争に負け,くっついていても別にいいことがないと判断した瞬間,彼らは態度を急変させ,日本に仇として接し始めたのだ。

http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?hibinomemo+316
http://chosonnews.txt-nifty.com/han/2004/06/post_49.html

JOG(254) 「親日派のための弁明」を読む
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog254.html
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by thinkpod | 2006-09-10 15:41 | Books
2006年 08月 30日

リンドバーグ日記

孤高の鷲〈上〉—リンドバーグ第二次大戦参戦記
/チャールズ リンドバーグ,Charles A. Lindbergh,新庄 哲夫
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
1927年5月、愛機スピリット・オヴ・セントルイス号で、史上初の大西洋横断無着陸飛行を成功させたリンドバーグは、世界的な英雄となった。10年後、第二次大戦に反対し「孤立主義」を唱導して、ローン・イーグル(孤高の鷲)と呼ばれるようになる。しかし、国家危急の要請には逆らえず、陸軍のパイロットとして参戦した。戦場での目を覆うばかりの惨状を見聞して、赤裸々な異常体験を日記の形で残した。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
リンドバーグ,チャールズ
1902年、米国デトロイト生まれ(スエーデン人系)。飛行家。1927年、ニューヨーク~パリ間の初の大西洋横断無着陸飛行に成功。太平洋戦争では、陸軍のパイロットとして参戦し、日本軍の零戦とも戦う。著書『ザ・スピリット・オヴ・セントルイス号』(訳書、映画の邦名『翼よ、あれがパリの灯だ』)で、1954年ピューリッツアー賞を受賞。1974年没

目次
大戦前夜—ヨーロッパで(大英帝国、老いたり—一九三八年
戦争か平和か帰国—一九三九年
ロンドン炎上米国で—一九四〇年)
大戦前夜—米本国で(ファシスト呼ばわりされて—一九四一年)

孤高の鷲〈下〉—リンドバーグ第二次大戦参戦記
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
1944年、陸軍航空隊の一パイロットとして、南太平洋の史上最悪の戦場に派遣されたリンドバーグは、軍人としての本分を尽すべくラバウルでの空爆、零戦との一騎打ちなど、日本軍との壮絶な戦闘を繰り広げる。また、アメリカ兵による日本軍捕虜への残虐な行為などを、日記の中で率直に記録した。これは、戦争の残虐性に対する国際的な批判が高い昨今、必ず引き合いに出される衝撃的な証言である。

目次
大戦前夜—米本国で(ファシスト呼ばわりされて—一九四一年)
戦時下—米本国で(現役復帰、かなわず—一九四二年)
戦時下—米本国で(戦場も根回しだ—一九四三年)
最前線—南太平洋で(日本軍と対峙した日々—一九四四年)
終戦時—ヨーロッパで(廃墟の中に立つ—一九四五年)

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
リンドバーグ,チャールズ
1902年、米国デトロイト生まれ(スエーデン人系)。飛行家。1927年、ニューヨーク~パリ間の初の大西洋横断無着陸飛行に成功。太平洋戦争では、陸軍のパイロットとして参戦し、日本軍の零戦とも戦う。著書『ザ・スピリット・オヴ・セントルイス号』(訳書、映画の邦名『翼よ、あれがパリの灯だ』)で、1954年ピューリッツアー賞を受賞。1974年没

新庄 哲夫
1921年、サンフランシスコ生まれ。英米文学翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


<「リンドバーグ日記」>(「リンドバーグの衝撃証言」『正論』五月号 より引用)
六月二十一日 水曜日  日本兵士殺害に関する将軍の話
・・帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。・・・「しかし、俺はあいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」
偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。
六月二十六日 月曜日
・・談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜を取りたがらないのだ」「***では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」
「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と別の将校が調子を合わせる。
六月二十八日 水曜日
・・・「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。
七月二十四日 月曜日
・・・爆弾で出来た穴の近くを通り過ぎる。穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。
八月六日 日曜日
・・・「オーストラリアの連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を知っているかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ。捕虜を機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
九月九日 土曜日
将校の話によれば、・・日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが悪臭が強くなり過ぎたので、首を取り上げなければなりませんでした。
九月十四日 木曜日
税関吏は荷物の中に人骨を入れていないかと質問した。日本兵の遺骨をスーベニアとして持ち帰るものが数多く発見されたので、相手構わずにこのような質問をせねばならないのだという。
(「リンドバーグの衝撃証言」『正論』五月号)

「南京虐殺」記述について
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist3_3_1.htm


(読者の声2)以下に掲げる引用文は『正論』00年5月号で紹介された「リンドバーグの衝撃証言」からの抜粋です。 チャールズ・リンドバーグ(1902〜74)はニューヨーク・パリ単独飛行や息子の誘拐・殺害事件で有名なあの彼です。日米開戦後、彼は軍の技術顧問として南太平洋で戦闘任務についた。
この間の日記の邦訳版が昭和49年新潮社から新庄哲夫氏の訳で出版されたが現在絶版になっているものを訳者の了解を得て正論に抜粋を載せたものです。
(リンドバーグ日記からの抜粋)・・・・・・・・
*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。
*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。
*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。
*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。
*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。
*捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。
*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。
*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。
*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。
金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。
*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。
*リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。(以上で抜粋終わり)。
   (AN生)


(宮崎正弘のコメント)終戦から十数年ほど、まわり中に兵隊経験者や引き揚げ者がいて、すくなくとも小生らの世代は、こういう話は耳にたこができるほど聞いていました。どこかで、そうした真実の話が聞かれなくなりました。
「路の会」で数回にわたって、この問題を論じたのが西尾幹二編『日本はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったのか』(徳間書店)です。
ご参照いただければ幸いです。

宮崎正弘の国際ニュース・早読み | melma!
http://www.melma.com/backnumber_45206_1459768



チャールズ・リンドバーグの戦時日記
■チャールズ・リンドバーグの戦時日記
「日本兵の死体に金歯があると、靴で踏み付けたり、棒でつついてその歯を取り出し
て集めて、小さい袋にため込んでいる兵士が何人もいる。砲弾で出来た穴の中に
日本兵の死体を投げ込む。その上をゴミ捨て場にする例もある。死体処理はブル
ドーザーでなされ、墓標がたてられることは、けっしてない」
「ちょうどそのころ、日本軍は泰緬鉄道の捕虜犠牲者のために、四メートルの大理石
の慰霊碑を立てていたことを考え合わせてみよ」
「わが軍の兵士たちは日本兵の捕虜や投降しようとしている者を射殺することを何と
も思っていない。彼らは日本人を動物以下のものとして取り扱い、それらの行為が
ほとんどみんなから大目に見られている」
「ジャップの病院を占領した時には、病院に生存者をひとりも残さなかった」捕虜と
して投降してきた者は即座に射殺、そのためわが同胞は投降もままならず、ジャン
グルの中で飢えに苦しみ抜いて死んでいった。日本人の死体は切り刻まれた。金歯
を抜き取る者、おもしろ半分に耳や鼻を切り取り、乾燥させて本国に持ち帰る者、
大腿骨を持ち帰り、それでペンホルダーやペーパーナイフを作る者さえいたという。
「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人に対して行ったことを、われわれアメリカ人は
太平洋で日本人に対して行っている」
「負傷兵であろうと手を上げようと、みな射殺してしまう。それが残虐な日本兵に
たいする報復だとし、自らの残虐行為を正当化した」
ウイリアム・パーソンズ大佐 投下後の記者のインタービューに答えて、
「(原爆で)ジャップがひどい目に遭うことについて、特別な感情はなかった」
アメリカの雑誌タイム(太平洋戦争当時の記事)
「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、
人間であることを示すような点はどこにもない」



米軍の残虐行為:リンドバーグの衝撃証言
 14.1.10/7.18改定
以下は正論00年5月号で紹介された「リンドバーグの衝撃証言」の抜粋です。
チャールズ・リンドバーグ(1902〜74)はニューヨーク・パリ単独飛行や息子の誘拐・殺害事件で有名なあの彼です。

日米開戦後、彼は軍の技術顧問として南太平洋で戦闘任務についた。

この間の日記の邦訳版が昭和49年新潮社から新庄哲夫氏の訳で出版されたが現在絶版になっているものを訳者の了解を得て正論に抜粋を載せたものです。

・・・・・・・・・・・・・リンドバーグ日記の抜粋・・・・・・・・・・

*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。

*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。

*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。

*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。

*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。

*捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。

*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。

*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。

*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。

金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。

*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。

*リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。

・・・・・・・・・・・・・・・・抜粋終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この号には関連して藤岡信勝氏の解説も載っているが、その中からさわりの部分を。

*南京事件との比較

捕虜を取らない方針と言うとすぐ浮かぶのは、南京における日本軍の方針だ。第16師団長中島今朝呉中将の陣中日記に「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クル」という一節だ。

これを大虐殺派は「捕虜の即時処刑の方針」という意味に解釈し大虐殺の証拠とした。

しかしこの解釈は日本語の文脈を無視した全くの誤り(朝日がよくやる言葉のつまみ食いと同じですね)であることが先の東中野教授の著書で完膚なきまでに明らかにされた。真の解釈は「投降兵は武装解除後に追放して、片端から逃がしてやることだ」と。

*「戦陣訓」のみを非難するは誤り。

戦後の日本では日本兵の捕虜が少なく死者が多いのは「生きて虜囚の辱めを受けず」として捕虜になることを無理やり禁じた「戦陣訓」の為であり、その責任は挙げて軍国主義者だとされているが、リンドバーグ日記を読むとそうばかりではないことが分かる。

なお「戦陣訓」の成立は日清戦争で清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことに由来するとも言われてきた。

*それに対して日本にも多少の虐殺は有ったかも知れないが、基本的には国際法を守り投降者は捕虜にした。

*最近、とっくに決着しているにもかかわらずカリフォルニアで日本軍の捕虜扱いに関し損害賠償を求める訴訟があったが、彼等米兵は相手が日本軍だからこそ生還できたのであり、若し敵が米軍なら彼等は捕虜にされず殺されたかもしれない。

しかも原告ら捕虜の労役奉仕は戦時国際法で認められた合法的な行為であり、戦闘に勝利した軍といえども、捕虜をただで食わせる義務を一方的に負わせないというのは合理的である。

どっちが残虐かなど競い合う議論は何とも空しいが世界歴史の中でも日本人の残虐さは可愛い方だと思う。
米軍の残虐行為:リンドバーグの衝撃証言
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/beigunzangyaku.htm



日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか: 本: 西尾 幹二,路の会
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内容(「BOOK」データベースより)
「敗戦」の瞬間にかいま見えた日本人の意識の根源から説き起こし、「従属国家」に甘んじつづけた戦後日本を解体して、「自立自存」への新たな道を提示する。

内容(「MARC」データベースより)
大東亜戦争とは何だったのか、そして日本人とは何者なのか? 「敗戦」の瞬間にかいま見えた日本人の意識の根源から説き起こし、「従属国家」に甘んじつづけた戦後日本を解体して「自立自存」への新たな道を提示する。


閉された言語空間—占領軍の検閲と戦後日本: 本: 江藤 淳
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出版社/著者からの内容紹介
眼に見える戦争は終ったが、眼に見えない日本の思想と文化の残滅戦が始った。それは自己破壊による新しいタブーの自己増殖だった

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さきの大戦の終結後、日本はアメリカの軍隊によって占領された。そしてアメリカは、占領下日本での検閲を周到に準備し、実行した。それは日本の思想と文化とを殱滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破壊による新しいタブーの自己増殖である。膨大な一次資料によって跡づけられる、秘匿された検閲の全貌。
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by thinkpod | 2006-08-30 19:17 | Books
2006年 08月 30日

リンドバーグ日記

 ☆編集者へ=多治見市の鈴木 勝さん(元会社役員・79歳)から。

 五月号所載「リンドバーグの衝撃証言」を読み、ビアク島の戦闘で米軍捕虜となった私の体験から、米軍の残虐非道な行為について、偽らざる真実を申し述べてみたい。

 ビアク島へ米軍が来攻したのは昭和十九年五月二十七日で、当時は海軍記念日と称していた。

 軍はビアク島の重要性に鑑み、同島守備の基幹・歩二二二連隊増援のため、在マノクワリの歩二二一連隊とヌンホル島守備の歩二一九連隊から各一ケ大隊を抽出してビアク島に派遣した。その輸送を担任したのが、私の所属した第五揚陸隊であった。

 六月二十一日、歩二一九連隊の決死隊員約一五〇余名が三隻の大発に分乗してヌンホル島を出発しビアク島へ向かったが、艇隊は上陸予定地の沖合約四㌔の海上にて米軍魚雷艇の奇襲攻撃を受け全滅した。私の乗艇は後部機関室に被弾炎上し数分で沈没したが、轟沈した僚艇の搭乗員を併せ数十名の兵が海上を漂流していた。

 この無抵抗状態の日本兵に対し鬼畜のような攻撃が米軍魚雷艇から浴びせられた。それは機関銃等による一斉掃射ではなく、拳銃等による狙い撃ちである。米兵は甲板上に鈴なりになり、あたかも射的ゲームでも楽しむかのように、替わる替わるで撃ってくる。そして日本兵に命中するたびに一斉に喚声をあげる。短波放送のスピーカーからは、ボリュームを一杯に上げてジャズの音楽が流されるお祭り騒ぎであった。私はうちあげられた照明弾により明々と照らし出された地獄図を、消えかかる意識のなかで半ば放心状態で眺めていた。この信じ難い情景は私の筆力では到底表現できなく、更にこの事実を証言する者がいない。何故ならば捕虜になった私以外に生存者がいないからである。

 捕らえられフィンシュハーフェンの野戦病院へ空輸された私は、ここで手厚い看護を受けた。この余りにも大きな矛盾を日系二世の通訳に問い質したところ、彼は少し考えて「それは君がラッキーボーイだから……」と答えるのみであった。数日後、一人の将校が一枚の写真を持ってきて無言で置いていった。それは日本の将校が日本刀をふりかぶり、その前には穴が掘られ、目隠しをされ、後ろ手に縛られた米軍兵士が、今まさに斬られようとしている写真であった。米軍はこんな写真により、日本兵に対する反抗心をあおったのであろう。目には目を、残虐には残虐をもってする風潮が第一線の米兵にあったようだ。

 リンドバーグの日記には「負傷兵であろうと手を上げようと、みな射殺してしまう。それが残虐な日本兵にたいする報復だとし、自らの残虐行為を正当化した」と非難している。

 オウイ島から遠望した勇敢な日本兵と西洞窟の余りにも無残な日本兵の末路とを思い合わせ反戦主義者の彼には、第一線米兵の非人道的行為のみが目に映ったのであろう。

 ☆編集者から=戦争の悲惨さが情景となって目に浮かんできます。人間の残虐性にはリツゼンとせざるを得ません。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/reader/06-r1.html


 ☆編集者へ=甲府市の吉田三郎さん(81歳)から。

 五月号、藤岡信勝先生の「あのリンドバーグ日記が語る……」を読んで、既に六十数年前、戦闘中戦友から聞いた非人道極りない捕虜虐殺の話は真實だったのかと、思い新たなものがあった。

 昭和十七年の末、第十七軍通信隊補充兵の我々がラバウルに到着時には、第十七軍本隊(司令官百武晴吉中将)と軍通隊本部は、数カ月前に上陸した一木支隊や、飛行場建設部隊(軍属を含む)はソロモン、ガダルカナル島に在って瘴れい極限の地に加えて兵站不備のため戦闘能力を失い、本部は後退して、ブーゲンビル島ブイン近くのエレベンタに仮営しており、十八年三月、我々は援助に向かった。山本五十六司令長官の搭乗機が我々の頭上で撃墜された頃で「ガ」島から引き揚げてきた戦友が語った話はこうだ。

「日本軍が椰子林を伐開整地した未完成の滑走路へ友軍の捕虜数百人が引き出され、機関銃の一斉掃射でなぎ倒され、未だ半死状態の者までが、ブルドーザー数台で土石のなかへふみ潰された。自分は倒木の陰に身を隠しながら現實の地獄を見てしまった」と語ったのを聞きショックだった(この戦友は栄養失調とマラリアで半月程して戦病死した)。

 この話のことは、復員して五十数年思い出すこともなく過ぎ去ってしまった。

 今は飛行場も滑走路も近代化されていると思うが、所用や観光などで航空機を利用する時は、この下に無念の同胞が眠っていることを知っていてほしいものである。




 ☆編集者へ=台北市の谷川浩三さん(元商社台北支店長・68歳)から。

「昭和十九年、ペリリュー島戦の末期、米軍に追い詰められた我が兵の一人が、海に飛び込み沖に向かって泳ぎ始めた。

 たまたま付近に居た米軍小型上陸用舟艇数隻が忽ち輪形陣をつくり、その日本兵をとり囲み、各舟艇から米兵達が、まるで射的場で標的を狙うかの如くその兵に向かって各自が笑いながら銃弾を浴びせ始めたのである。

 しばらくは浮きつ沈みつしながらも泳ぎ続けていたその兵はやがて弾丸が命中したのか波間に沈み再び浮き上がっては来なかったのである。

 降伏を知らぬ我が兵がどうしてあの状況下で、両手を挙げて降伏の意思表示が出来たであろうか? よしんば挙げ得たとしても米兵達は面白がって射撃を止めなかったに違いない」

 これは小生が学生の頃一般の劇場で見た映画の前にやるアメリカのニュース映画の一場面である。

 その時は、「何と残酷な、これが正義を重んずる米軍(と当時は思わされていた)のやる事か!」と我が兵に対する同情と共に米兵に対する怒りがこみ上げて来てその夜はよく眠れなかった位であった。

 今回本誌五月号で「リンドバーグ日記」の記事を見て、最初は信じられぬ思いであったが、かのニュース映画の場面が脳裡によみがえり、すべては事実に違いないと確信するに至ったのである。

 戦後日本軍の残虐行為のみが取り上げられ無実の罪も含めて2000人に近いBC級戦犯の尊い命が奪われ今また、カリフォルニア州の事後法により捕虜虐待に対する補償の動きが活発になりつつある。

 今さら半世紀前の米軍側の残虐行為を裁くことは不可能である。しかし我が国としてはこの「リンドバーグ日記」や前記のニュース映画等あらゆる米軍側の残虐行為の資料を獲収し敗戦国側にのみ負わされている戦争犯罪の追及が如何に理不尽なものかを世界に訴へ、賛同を得る努力をしなければ悔いを後世にまで残すことを自覚せねばならぬとつくづく思った次第である。




 ☆編集者へ=大津市の渡邉英一さん(57歳)から。

 五月号、「リンドバーグの衝撃証言」に関する多治見市の鈴木勝さんの投書(六月号掲載)を読み、数年前から気になっていた事柄につき投稿します。

 数年前、居酒屋での酒の話題としては極めて珍しいのですが、大東亜戦争末期に満州に侵入した上、蛮行の限りを尽くしたソ連軍の非道ぶりを糾弾し、悲憤慷慨している若者グループと、その向かいで「いや、アメリカも随分と酷いことをした」とボソボソ呟きながら酒を飲む年配客に出あわせました。

 私は、若者グループに感心する半面、年配客の態度には「ソ連で洗脳されたのか?」と同情しながらも内心軽蔑し、その印象のまま現在に至っておりましたところ、上記「正論」の記事と鈴木氏の投書で年配客の呟きに合点がいくとともに、今更ながら話を聞いておけば良かったと臍をかんだ次第です。

 巧妙な占領政策やアメリカ製の戦争映画、更には自虐史観に迎合した日本映画の影響で、我々には、捕虜の取り扱いは「アメリカはフェア」だけど、我が日本軍のやり方は「あまり褒められない」との刷り込みがどこかにある!

 しかしながら、鈴木氏のような体験談を後世に伝えておかねば偏向マスコミの「悲惨な戦争体験談」ばかりが残り、無念の死を強いられた英霊の魂は浮かばれません。

 また、先の私の如く、我が国のために戦った人たちを貶める過ちを犯してはならないと考えています。

 そこでひとつ、「正論」誌が中心になって、そのような体験談を集めてくれることをお願いする次第です。




 ☆編集者へ=名古屋市の木越正太郎さん(元会社役員・77歳)から。

 六月号の本欄で、ビアク島の戦闘で捕虜になられた鈴木勝さんが残虐非道だった米軍の偽らざる事実を次のように述べておられます。

「数日後、一人の将校が一枚の写真を持ってきて無言で置いていった。それは日本の将校が日本刀をふりかぶり、その前には穴が掘られ、目隠しをされ後ろ手に縛られた米軍兵士が、今まさに斬られようとしている写真であった。米軍はこんな写真によって、日本兵に対する反抗心をあおったのであろう。目には目を、残虐には残虐をもってする風潮が第一線の米兵にあったようだ」

 それを読んで私は、「あれっ、わたしの経験とは全く正反対だなあ」と咄嗟に感じました。

 昭和二十年十月下旬、私は鈴木さんより数カ月遅れてルソン島の北部山岳地帯で米軍に投降しました。そのときの米軍に対する私の第一印象を次に述べてみます。

 一八六四年、ジュネーブの国際会議で、「戦地軍隊ニ於ケル傷者及ビ病者ノ状態改善ニ関スル条約」が締結されました。米軍はそれを忠実に順守して、比島で捕虜になった私たち日本の軍人を思いのほか厚遇してくれたように思います。

 モンテンルパのニューピリピット刑務所の中に設けられた米第一七四野戦病院に収容されたときの私は、栄養失調・マラリア・疥癬などで体重が三五㌔という餓死寸前の極限状態でした。アメリカ人の愛国心による尊い献血で作られた人工血漿「ヒューマン・プラズマ」という高貴薬のお陰で私は一命をとりとめました。毎日熱心に回診して下さった米軍の軍医は、かつての名優タイロン・パワーのようなハンサムでした。『目は口ほどに物を言い』と申しますが、言葉は分かりませんでしたが、いつも慈愛の眼差しで、「ハウ・アー・ユー」と優しい言葉をかけながら聴診器を両耳に当てがう癖が印象的でした。その人間愛に、いつもジーンと胸が熱くなったことを半世紀以上も経った今でもハッキリ覚えています。

 一カ月ほど経って体重も増え元気になったとき、カンルンバンという収容所に移りました。そこでは、体力を回復させるための軽作業に就きました。そんなある日、米軍幕舎の草むしりをやっていましたら、テントのメーンポールにタテ四〇㌢、ヨコ三〇㌢ほどの額縁に入ったモノクロ写真が掲げてあるのが目に飛びこんできました。

 目隠しされた米兵を日本刀で今まさに斬首しようとしている日本兵の、目を覆いたくなるような鬼気迫る写真でした。多分これは前述の鈴木勝さんが見られたのと同じ写真だったと考えられます。確かに米軍兵士の、対日敵愾心を煽るための戦略の一環であったに違いありません。しかし、その写真の真下で黙々と作業をさせられる私たちにしてみれば、穴があったら入りたいような、あんな嫌な代物はありませんでした。

 ……と、数人の部下を従えた米軍の一将校がそこへやってきました。こんどは、クラーク・ゲーブルみたいな苦味ばしった好男子でした。私の顔を見るなり眉間に皺を寄せ、「ノーグウ」と叫んだかと思うとその写真を部下に下ろさせ、私に愛くるしいスマイルを投げかけそれを持ち去ったのです。後で分かったのですが、その将校は前日赴任したばかりの新しい収容所長のようでした。

 当時、デモクラシーとは一体どのようなものなのか皆目分からない私でしたが、「日本の将校とは随分違うんだなあ」という印象は今でも強烈に残っています。

 終戦時、わずか旬日の参戦で樺太や北方四島を理不尽に強奪し、六十余万の日本軍捕虜を酷寒のシベリアに抑留して強制労働させ、無慮六万人もの同胞を惨死させたソ連の過酷なやり方と比べると、比島での米軍のそれは、まさに雲泥の差があります。もし私がソ連の捕虜になっていたとしたら、今とてもこの世には生き長らえていなかったでしょう。

 米軍から、非道な残虐行為を蒙られた鈴木勝さん一一どうか米軍の中にも、一方でこのような気高い恩寵があったという事実を、いくらかでも知っていただけたら、と思う次第です。


 ☆編集者から=戦争という行為には、敵味方の双方に明と暗があります。したがって、ことさらに相手の暗部のみをクローズアップするのはフェアではないと思います。暗い戦争のなかの明るい部分も教えて下さい。

http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/reader/07-r1.html



<戦時中の米国の対日行為>

 以下は本で知った話です。戦時中米国のグラフ雑誌の表紙に、少女が前線の兵士に手紙を書く場面が写されていますが、そこに前線の兵士から送られた、死んだ日本兵の"しゃれこうべ"が置かれていたのです。これは戦時中日本で報道され、"鬼畜米英"のフローガンの原点になったらしいが、こんなことの報道は勿論占領期間中は厳禁されています。ですから、今の日本人には戦時中の"鬼畜米英"のスローガンは、人道的な米軍の実態とはかけ離れた、日本の軍国主義の宣伝に国民が嫌々従ったものと理解されているのです。日本の民間人の集団自決が日本軍の命令によるものであるかのように伝えられ、自決せずとも"人道的な"米軍に助けられたと言う風に思われているようです。でもグラフ雑誌でアメリカ人の本性を知っていた戦時中の日本人は本当に"鬼畜米英"と思っていたはずです。

 戦争中には、聯合国による戦争犯罪行為もかなりあったことは、インバール作戦などの戦記にも負傷した日本軍将兵にガソリンをかけて焼き殺した光景が遠くから見えたとの記述に残されていたと記憶します。その最大の残虐行為は非戦闘員に対する原子爆弾による無差別殺傷です。


<原爆被害写真>

 検閲、言論統制が厳格に守られたのは広島・長崎の原子爆弾の被害写真でした。小学校時代5年生の時、サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年ですが、我々は初めて、アサヒグラフで原子爆弾の凄惨な写真に戦慄したのです。

 これは占領期間中は絶対に報道されませんでした。仮にポツダム宣言による報道、言論の自由が確保されていれば、戦後直ぐにこの写真は公表されていた筈です。その場合に果たして、聯合国が極東軍事裁判が「平和に対する罪」「人道に対する罪」で日本の指導者だけを裁くことが出来たでしょうか。原爆被害写真が公表されるのは「閉ざされた言語空間」の中で日本人が、占領軍が与える材料と統制、管理の結果、米国が望むような戦争観、米国観を日本人が抱くように出来上がってからのことなのです。つまり、原爆被害写真を見ても、日本人は、米国には無害化されていたのです。

「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(二):西尾幹二のインターネット日録
http://nishiokanji.com/blog/2006/08/2_4.html


リンドバーグと北方領土

 一九三一年八月十九日。米国の飛行家、リンドバーグ夫妻が水上機でカムチャツカ半島を出発し千島列島上空を飛んだ。根室無線局の第一信は「日本にようこそ」だった。現在地や天候の実利的な情報を求める前の、礼儀正しい歓迎のあいさつに、夫人のアンは、日本人は永遠の紳士(中村妙子訳「翼よ、北に」)と記している▼濃霧やエンジンのトラブルで、その後、根室までに四、五日もかかっている。が、ケトイ島沖で日本船の乗組員が手助けをし、不時着した国後(くなしり)島では貧しい漁師一家が、言葉も通じず夫妻を誰かも知らないのに、煮魚でもてなしている。なるほど、紳士の国なのだ▼アンは礼儀正しさとともに、紅白の水引をはじめ、日本画や盆栽、茶道を語り、日本人の生活に溶け込む美の意識や、自然に対する鑑賞眼を的確な視点で絶賛している。今の日本人以上に日本を理解していたのだと、居ずまいを正す▼夫妻の来日は北太平洋の航路調査のためだが、翌月、日本軍が満州事変を起こす。その後の日中戦争や真珠湾攻撃など予想もしなかったろう。十四年後の漁師一家の運命も。鳥取県の一・四倍ほどの北方四島に一万七千人余りが暮らしていたが、八月二十八日、ソ連軍が占領を始め、脱出できなかった人は抑留されたという▼「領土問題は解決済み」としたかつてのソ連指導者の言葉を思う。過ぎ去ったこととばかりに、相手の主張に耳を傾けようとしない。「参拝は信教の自由」と胸を張ったわが宰相にも、どこかで相通じるかもしれないが▼「日本にようこそ」。アンに日本人を紳士と評させた言葉が北方四島の貝殻島沖合の事件で胸を突く。(二)
'06/08/28
山陰中央新報 - リンドバーグと北方領土
http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=799054034


新・平成徒然草 裏・大東亜戦争−語られなかった歴史
http://katsumikado.blog74.fc2.com/blog-entry-178.html#comment412
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by thinkpod | 2006-08-30 18:56 | Books
2006年 08月 26日

パール・ハーバー

--すべての陰謀はここから始まった--

『日本の奇襲攻撃計画のすべてを、アメリカは知っていた!』

アメリカ第32代大統領、フランクリン・D・ルーズベルトは、真珠湾襲撃についての一部始終をはじめから知っていながら、そのことをハワイの軍司令官には通告しなかった。なぜならヒトラーをワナにかけ、ドイツ側に宣戦布告させるためには、まずアメリカが「襲撃を受ける」必要があったからだ。当時、アメリカでは世論も連邦議会もヨーロッパの戦争への参戦には真っ向から反対していた。つまり「奇襲攻撃を受ける」ことこそが、参戦への「裏口」であったというわけだ

ルーズベルトは次のような手段を用いて、パール・ハーバーの軍司令官たちを欺いた。

ハワイへの情報を絶つ
11月27日以降、日本側との交渉が継続していると思い込ませ、開戦を認識させなかった

日本の空母艦隊の位置について、ハワイへは偽りの情報を送った

「12月。真夜中の凍てつくような暗闇の中、英国からの使節が車に乗せられ、人気のないワシントンの通りを急いだ。彼は『米大統領親展、最重要緊急機密事項』との文字が記された、極秘メッセージを封印した外交用郵袋を携えていた。中にはロンドンにある英国海軍本部からの最重要メッセージ、「12月7日にパール・ハーバーが奇襲攻撃を受ける」との情報が入っていた。ハリファックス卿はすぐにホワイトハウスに招じ入れられ、フランクリン・ルーズベルトと会談した。ルーズベルトの希望は高まった。長い間あたためていた計画がまさに今、現実のものになろうとしているのだ。それは1941年12月5日のことであった。」

「まえがき」より

本書は、アメリカが日本艦隊の暗号コードをパール・ハーバー以前に解読していたという動かすことのできない証拠を突きつけるもので、修正主義派の決定版と言える。パール・ハーバーについての既刊本と比べ、はるかに新しい文書、これまで明かされることのなかった、より重要な機密文書(公表されることはないと考えられてきた文書も含む)を掲載し、第二次世界大戦へ突入する原因を作った近代における最重要国家犯罪、歴史を塗り替える事件についての真相を解き明かす一冊である。このために3千万人を越える人命が奪われ、15兆ドル強が費やされ、信じられないような被害を被り、軍事面、科学面、技術面、産業面においても余波をもたらした。それどころか、人類の滅亡につながる可能性さえあったのだ



本書で暴かれる数々の真実

アメリカ政府が日本艦隊の真珠湾奇襲計画をあらかじめ知っていたという事実を証明する海軍情報分析についての初の暴露本。

決して公表されることはないとされてきた、最重要機密事項であるコードブック、これまで隠蔽されてきたアメリカ政府情報部の暗部を暴露。

12月7日、Xデーにハワイのレーダー探知を不能にしたアメリカ政府のもくろみ。

パール・ハーバー以前に解読された100通を越える日本軍の暗号通信JB-25Bのメッセージの初公開。

ミッドウェー海戦での裏切り。

ルーズベルトが、生涯大統領であり続けるために自国を売った、方法、時期、理由についての詳細。

「ウィリーの本は、その徹底的な調査こそが魅力だ。本書にはパール・ハーバー以前に解読された日本軍の暗号数百通、日本軍の主要なコードブックからの実例、12月7日の惨事へ導いた罪の証拠となるアメリカ海軍メモや外交メモ・・・などが記載されている。」

書評より


以下、本文より


結論-ルーズベルトは裏切り者だった

アメリカは、イギリス、オランダ、オーストラリア、ペルー、ソビエトなどの政府から、パール・ハーバーへの奇襲計画についての警告を受けていた。日本軍の重要な暗号はすべて解読されていた。ルーズベルトやマーシャルらは奇襲計画を承知の上で、それを容認し、隠蔽したのだ。



パール・ハーバーは、ドイツとの開戦のためのワナだった
--日本は「だし」として使われた--


ルーズベルトは厳粛に、そして繰り返し、アメリカ国民にこう約束していた。「あなた方の息子を外国の戦争に送り出すようなことは決してしない、アメリカが襲撃されない限りは。」彼はこの約束を破ることなど何とも思っていなかった。彼が恐れていたのは、これを破ることによって自分の政治的立場が危ぶまれるという、その一点だけだった。ホワイトハウスのお気に入りであった政治ジャーナリスト、オルソップおよびキントナーは近年、こう記している。「彼(ルーズベルト)は国民への約束をおおっぴらに破ることはできないと思っている。しかしうまい抜け道を見つけることはできる。」そしてその抜け道とは、ドイツの方から先にアメリカに攻撃させることだった。そうすれば反撃することができる。しかし彼は11月の時点で、ドイツ軍が先制攻撃をしかけてくる可能性がないことを悟った。ところがルーズベルトは、日本軍にならアメリカを襲撃させることができるとわかっていたのだ。




アメリカが勝つとわかれば、ヒトラーは決して宣戦布告しないだろう

目的:ドイツとの戦争。どうすればヒトラーに宣戦布告させることができるか。アメリカが勝利すると思わせないことが肝心だ!
大西洋での直接的な挑発は失敗に終わっていた。ヒトラーはワナに食いつかなかった。
ルーズベルトはMagic*(*P9参照)から、日本が襲撃すればドイツも宣戦布告すると知っていた。
結論として、問題はひとつ。どうやって日本に先に襲撃するよう仕向けるか。
日本は襲撃に成功する必要がある。日本の襲撃が失敗に終われば、ヒトラーは日本を裏切るだろう。


もし日本艦隊が滅ぼされるようなことになれば、目的は遂げられない。そうなればヒトラーにとって、宣戦布告は明らかに自滅につながるからだ。それだけはなんとしても避けなければならない。計画を実現させるには、日本軍が襲撃に成功するしかない。日本との戦いで弱体化したアメリカを見せつければ、ドイツを宣戦布告させることができる。それはすべてワナだったのだ。ルーズベルトの目には日本など入っていなかった。彼が狙っていたのはヒトラーだった。彼の究極の目的は、愛するソビエトを守ることだったのだ。

当時のFBI長官、J・エドガー・フーバーは1942年初頭、ルーズベルトは41年初秋からパール・ハーバー計画について知っていたと友人に語った。あのような計画を考え出すということは、いかにもルーズベルトのやりそうなことだった。ルーズベルトが倫理的な見解をまったく持たないことについて、アメリカ上院は非難していた。また米国の著名なジャーナリスト、ウォルター・リップマンはこう記している。「彼の目的はシンプルなものではなかった、そして彼のやり方は回りくどいものだった。」



なぜ古い戦艦が犠牲になったのか

ルーズベルトは、後に自らスターリンに語ったように、どうしても参戦する必要があった。そのためには国民を激怒させる必要があったが、それには襲撃を受け、大きな犠牲を出すしかなかった。
彼はなんとしても実行しようとしたのか? 彼は「あまりにも海軍を愛しすぎていた」のではないのか?彼は同じ目的のために大西洋で艦隊を犠牲にしていた。もちろん、彼はなんとしてもやろうとしたのだ。いや、実際にやってのけたのだ。
彼は艦隊の中でも重要なものは犠牲にしなかった。春には多くの戦艦を大西洋へ送り出した。しかし空母サラトガは西海岸に残した。またパール・ハーバーから空母艦隊を2隊出港させたが、これにより空母だけでなく、護衛用小型空母も襲撃から守ることに成功した。パール・ハーバーに停泊していなかった?た新しい戦艦はすべて守られたのだ。残されたのは第1次世界大戦時に用いた「くず」だけだった。
これに関しては、「共犯者」であった海軍大将ブロックが連邦議会でこう証言している。「日本軍にやられたのは、古い戦艦だけだ。ある意味、親切なことをしてくれたというわけだ。」
ルーズベルトもこれと同じ見解を抱いていたことは明らかだ。12月7日午後2時15分、パール・ハーバーへの襲撃を受けたという知らせを受けた数分後、まだ被害報告を受ける前に、ルーズベルトはイギリス大使館のハリファックス卿に電話でこう語っている。「戦艦のほとんどは沖に出ていた・・・新しい戦艦は一隻も港に泊めていなかった。」彼は新しい戦艦を守ったのだ。そしてそれこそが、彼にとってのこの襲撃計画における最重要課題だったと言える。第一に、ルーズベルトは古い戦艦についてはまったく気にも留めていなかった。第二に、彼は襲撃が起こる前から、襲撃時には港に古い戦艦しか残してないことを知っていた。つまり、パール・ハーバーこそ、彼がずっと求めていた「アメリカが大した被害を被ることなく受けることのできる先制攻撃」だったのだ。ルーズベルトは石油輸出禁止から最後通牒まで、この襲撃を計画した立役者だったのだ。そして誰が生き延び、誰が死ぬかという決定も彼が下したのだ。




黙秘による隠蔽

なぜ政府は艦隊襲撃の暗号メッセージ、12月7日以前に解読されたJN-25のメッセージを公表しようとしないのだろう。JN-25Bを隠すことは、国家の安全保障とは何ら関係ない。これは取るに足らぬ19世紀の暗号コードで、その解読技術は既に1931年に世界じゅうに公表されていた。またアメリカ政府はJN-25Bを解読し、それがミッドウェー海戦、つまりパール・ハーバーの7ヶ月後に起こった戦争を勝利に導いたことについては、誇らしげに公表したのだ。要するに、コード自体にも、その解読にも、それを解読したという事実にも、国家の安全保障に関わる意味や性質など何もないのだ。パープル・コードの解読文と、JN-25の解読文の間の違いは何なのか。答えは簡単だ。JN-25のメッセージにはパール・ハーバー襲撃作戦についての詳細な最終計画が含まれていたが、パープル・コードにはそれがなかった、ということだ。



政府が隠蔽しているもの

なぜ政府は真実を公表しようとしないのだろう。このような隠蔽は政府への不信感を募らせるだけだというのに。いまだに隠蔽されているものは、JN-25の解読文と、アメリカとイギリスが日本軍のパール・ハーバーへの奇襲攻撃の一部始終をずっと追跡していたということを示すワークシートだ。これはスキャンダル以外のなにものでもない。だからこそトップシークレットなのだ。これは国家安全保障局(NSA)が反逆罪の事後共犯であるのではないかという問題を明るみに出す事実である。
しかし、アメリカ政府がJN-25Bのメッセージ解読能力を持っていたということをNSAが隠蔽しているというその事実自体が、とりもなおさず政府が大きな罪を犯したことを物語っている。
NSAはJN-25文書の量について組織ぐるみで虚偽の証言を行ってきた。1941年11月から12月初頭にかけて送られたJN-25メッセージの解読文書の4分の1以上が、今なお隠蔽されているのだ。真実を明かさず、法にも従わないという点に於いて、NSAはゲシュタポと同類であると言える。我々はジョージ・オーウェルの著した『1984』に描かれている全体主義的社会に生きているというわけだ。反逆罪がたたえられ、ルーズベルトが無垢な若者を何千人も殺害したことが善とされる社会なのだから。一言で言うと、アメリカは我々が非難する独裁国家と何ら変わりはない、ということだ。自治国家の国民ならば、真実を知り、適切な判断を下す権利がある。NSAは真実を覆すことによって、民主主義を破滅させているのだ。

『過去を管理する者は、未来を管理する。現在を管理する者は、過去を管理する。』
--ジョージ・オーウェル




ルーズベルトは日本をアメリカとの戦争に巧みに引き込んだ反逆者である。しかも政府はそれを黙認している。ルーズベルトはアメリカ人の命を犠牲にし、アメリカを危険にさらし、連邦議会の合憲的な権力を不法に利用した反逆者だ。A
date which will live in infamy.『汚名のうちに生きる日』(*ルーズベルトの言葉。12月7日のことを指す)とはよく言ったものだ。実際、彼はこの言葉にまさに隠れた二重の意味をもたせて用いたのだ。襲撃の4日前には、ルーズベルトは自らが「死の判断を下した」海兵隊員の遺族に弔電を送ることができたというわけだ。国家の安全保障という見え透いた偽りの言い訳を楯に、今なお真実が隠蔽されているということは、政府がいまだに半世紀前に起きた真実に直面することができないということを証明している。
我々がすべてを明らかにしなければ、我々はパール・ハーバーの犠牲となった兵士、そして自国のために命を捧げたすべての兵士の名を汚すことになるのだ。彼らの命が反逆の犠牲となったのであれば、彼らの死をむだにしないためにも、そのことを我々が認識する必要がある。



歴史的背景

第二次世界大戦へ突入することとなった歴史的背景を、1904年の日本軍によるロシア艦隊奇襲攻撃から、年表形式で詳細に順を追って述べている。


(「背景」からの抜粋)

1941年6月23日:同年同月22日にドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻。それを受け、翌23日に大統領顧問ハロルド・イッキーズはルーズベルトにメモを書いた。「日本への石油の通商を禁止することで、参戦への道を可能とする状況を生み出すことができるでしょう。しかも効果的な方法で、簡単に参戦することができるでしょう。その上、このように間接的な形で参戦することによって、共産国ロシアとの同盟を結んだという批判を避けることもできます。」

1941年7月25日:ルーズベルトはアメリカ国内の日本資産を凍結し、石油の輸出を差し止め、日本をアメリカとの戦争に追い込んでいった。またこの先、ハワイへの軍事情報も差し止めた。

1941年8月14日:イギリス首相チャーチルとルーズベルトが大西洋の船上で秘密会談を行い、大西洋憲章に調印。これが国際連合の青写真となる。そこときのことをチャーチルはこう記している。「ルーズベルトの参戦への意欲は驚くほど強いものだった。」チャーチルは内閣に電報を打った。「ルーズベルトが参戦を固く決意していたことは明らかだった。」

1941年10月18日:内務長官ハロルド・イッキーズの日誌より。「参戦への最良の入口は日本であると、ずっと考えてきた。」



コードは解読されていた

日本軍の用いた暗号コードはすべてアメリカに解読されていた。
パープル・コード
J-19
JNA-20
JN-25

チャーチルの手記より。「1940年末から、アメリカは日本の重要な暗号をすべて見抜いていた。日本の軍事上、外交上の膨大な量の暗号電報を解読していた。」
そして、パール・ハーバー奇襲計画のすべてが、暗号JN-25Bに記されていたのだ。

Magic:日本の暗号無線通信を解読して得た情報に対してつけたアメリカのコードネーム。この存在を考えると「日本側の襲撃計画をアメリカが予測できなかったとは考えられない。」

Ultra:ドイツのエニグマ(Enigma)暗号機を使って無線通信文を傍受、解読して得た情報について与えた英国のコードネーム。



警告はなされた
--警告は襲撃の回避ではなく、「参戦」に利用された--

1941年1月27日から、アメリカに対してもたらされたイギリス、ロシア、ペルー、オランダなど関係各国からの「日本軍によるパール・ハーバー襲撃の警告」や「日本軍からの暗号の解読文」を年表形式で順を追って詳細に示している。

その結果、パール・ハーバーの奇襲攻撃については、その正確な位置、日付、時間に至るまで、計画の詳細をアメリカが知っていたことが、動かしようのない事実としてあぶり出される。

1943年11月30日:ルーズベルト、チャーチル、スターリンがテヘランで会談。戦後のドイツ問題などに関して協議。このときルーズベルトはスターリンにこう述べた。「もし日本軍の襲撃がなかったら、アメリカの部隊をヨーロッパへ派遣することができたかどうかは非常に疑わしい。」この言葉をパール・ハーバーの4ヶ月前に大西洋船上での秘密会談で彼が述べた言葉と照合してみよう。「戦争を正当化するための“事件”を引き起こすためなら、なんでもやるべきだ。」もし日本の襲撃が唯一の可能な“事件”であったとすれば、もちろんルーズベルトはそれを引き起こすことを約束しただろう。



『パールハーバー、すべての陰謀はここから始まった』
本書のペーパーバック(全424ページ、驚嘆すべき内容満載)あるいは電子ブックをお求めの方は、ここをクリックしてください。ウェブページを読んだら、全編読んでみたくなったのでは?ウェブページに掲載しているものは、第1章の1割ほどで、本書でお話しする、数々の驚くべき暴露話のほんの一部です。



『パールハーバー、すべての陰謀はここから始まった』
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(書評)
「本書『パールハーバー、すべての陰謀はここから始まった』はアメリカについての認識をくつがえす、センセーショナルな一冊だ!」
大学教授、ロバート・ケルソ



本書ではじめて暴かれる真実の数々

アメリカ政府が日本艦隊の真珠湾奇襲計画をあらかじめ知っていたという事実を証明する海軍情報分析についての初の暴露本。

決して公表されることはないとされてきた、最重要機密事項であるコードブック、これまで隠蔽されてきたアメリカ政府情報部の暗部を暴露。

ローレンス・F・サフォード氏の手になるパール・ハーバーの根幹に関わるドキュメント、A Brief History『簡潔な歴史』で、アメリカ政府のSRH-149通信情報部に関し、あらかじめ隠蔽されていた事柄をここにはじめて明らかにする。

12月7日、Xデーにハワイのレーダー探知を不能にしたアメリカ政府のもくろみ。

パール・ハーバー以前に解読された100通を越える日本軍の暗号通信JB-25Bのメッセージの初公開。

ミッドウェー海戦での裏切り。

ルーズベルトが、生涯大統領であり続けるために自国を売った、方法、時期、理由についての詳細。


「ウィリーの本は、その徹底的な調査こそが魅力だ。本書にはパール・ハーバー以前に解読された日本軍の暗号数百通、日本軍の主要なコードブックからの実例、12月7日の惨事へ導いた罪の証拠となるアメリカ海軍メモや外交メモが記載されており、また8編の付録、詳細な参考文献一覧、30頁に及ぶ脚注などでもさらなる情報が追記されている。」
2001年12月9日の書評より

パール・ハーバー - すべての陰謀はここから始まった
http://www.geocities.com/mark_willey/pearlj.html


ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報
http://amesei.exblog.jp/d2006-08-25



   米側で同時進行した日本本土奇襲開戦計画

 クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作が話題になっている。一つの戦闘局面を日米双方から公平に描くという発想が、戦後60年を経て、ようやく米国民にも抵抗なく受け入れられるようになったのだろう。

 時代がここまで進んできたのだとしたら、次はぜひとも「パールハーバー」を2部作で映画化してほしいものだ。日本側の真珠湾奇襲計画と、米側の日本本土奇襲計画を同時進行で描く。2部作でなく、1本の作品で交互に双方の作戦を進行させていくのもいいだろう。

 ルーズベルト政権の秘密作戦については、当コラムで5年前に書いているのでバックナンバーを探していただきたい(「アメリカ伝統の秘密戦争(続き)」01/10/10)。

 米国では今年になって『予防攻撃〜真珠湾を防ぎ得た秘密計画』というタイトルの研究書が出版され、同時に著者が映画化の脚本まで完成して売り込み中だという。惜しむらくは無名の航空マニアのようで、レベルのほどは分からない。

http://www.preemptivestrikethemovie.com/

 1991年12月6日の米ABCテレビ「20/20」では専門家の歴史学教授が「本物の政府計画だ」とコメントしている。オリジナルの映像14分が2分割で見られるので、ご紹介しておく。専用ソフトがあればダウンロードもできる。

(前半)http://www.youtube.com/watch?v=C1cX_Fr3qyQ
(後半)http://www.youtube.com/watch?v=2Uf_3E4pn3U
 
 時系列に事実を箇条書きにしておこう。

1937年7月   米陸軍航空隊シェンノート大尉が退役して中国空軍を指揮。  同年12月   南京陥落
1940年12月21日 モーゲンソー財務長官、シェンノートらが米軍人による日本爆撃を立案。「木と紙でできている日本家屋には焼夷弾が効果的」と意見一致。
1941年5月   統合参謀本部(JB)が対日奇襲作戦「JB355」を策定。
同年7月23日 ルーズベルト大統領がゴーサイン。2日後に在米資産凍結。
   8月下旬 シンガポールに米人パイロット等三百人が集結。計画では9月下旬に奇襲爆撃決行。しかし機体の到着が遅れた。
   12月7日 日本側の真珠湾奇襲計画決行。

 「20/20」のスクープでは、戦闘機の護衛がなくて目的が果たせるかと疑問が出されていたが、後に出版された『ルーズベルト秘録』(産経新聞社、2000年12月)では、カーチス戦闘機350機がロッキード・ハドソン長距離爆撃機150機を護衛する計画だったと新しい情報を記している。

 アメリカ政府がこんなに堂々と対日奇襲作戦を計画し、実行に移していたというだけでも知らない人は驚くだろう。日本側の奇襲作戦と同時進行なのだから、映画的な題材としてこれほど魅力的な事実はないと思うがどうだろうか。

 しかし、これだけは付け加えておきたい。同じ奇襲作戦といっても、日本側は真珠湾の「海軍力」のみが攻撃目標であり、しかも直前に宣戦布告をする計画だった。
 これに対して米側の計画は、初めから民間の日本家屋を焼き払い、しかもそれを中国軍の攻撃に偽装しようというものだった。

 どちらが「sneak attack」(卑怯な騙し討ち)と断罪されるべきか、答えは明らかであろう。(06/11/27)(追補12/15)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/5562/column/latest.html
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by thinkpod | 2006-08-26 02:23 | Books
2006年 08月 22日

壊される日本

「心」の文明の危機
馬野周二・著  プレジデント社  1993年刊

  著者が力説しているのは、単に日本経済が破壊されるというレベルのことではなく、日本の歴史や文化・伝統といった、いわゆる日本人の「心」が破壊されつつあることに対して警鐘を鳴らしているのです。しかしながら、この本が書かれた1993年から既に10年以上の月日が流れた今、わが国は著者が危惧していた通りの悲惨な状態に置かれつつあります。国民の大半は3S(スクリーン、スポーツ、セックス)に目を奪われ、世の中の大きな流れには無関心です。理解しがたいような残酷な犯罪が多発するようになり、テレビや新聞で報道されています。それらはすべて、今日の世界を支配下に置いている“ある強大な勢力”によって、意図的、計画的に実行されてきたことなのです。
  「そのことに気づく人が非常に少ない」と著者は嘆いています。まさに、日本人は家畜のように、ただ毎日を楽しく暮らせればよいという低級な民族へと退化しつつあるのかも知れません。ここでは、その“ある勢力”による日本侵略の足跡とも言える内容を抜粋しました。ぜひこの現実を直視していただきたいと思います。     (なわ・ふみひと)



 ペリー艦隊来航の工作者

  ペリーは1852年に4隻の軍艦を率いて江戸埠頭に現れ、開国と通商を強要した。ペリー艦隊はきわめて大規模な艦隊であり、有力な海兵を搭載していた。
  当時の幕府はすでに幕末症状を呈しており、この武力威嚇に対して手の打ちようがなかった。ついに日米和親条約を締結したが、これは幕府の無知につけ込んだ不平等条約であった。そして日本は鎖国以来250年にして開国したわけである。
  当時の東アジアの状況を見ると、すでにインドは植民地化が着々と進められており、清国はアヘン戦争に敗れ、広東、上海等を貿易港として解放し、そこにはイギリス人を中心とする酷(むご)い貿易商人が入り込んで、中国搾取の体系を築き上げつつあった。 ところで、ここでわれわれが深く考えなければならないことは、イギリスさらにはオランダ、フランスの勢力が、それまでの2世紀の間に東洋の植民地化を進めてきた事実である。
  今日の歴史書には、単に英・蘭・仏の政府が国策として東洋の植民地化を進めたように書いてあるが、実は、彼らの植民地化の実態は、国家が動いたというよりは、むしろ各国の一部グループ(各東インド会社)による商業的冒険主義者の連合勢力による動きだった。
  日本人は、日清戦争以後の大陸進出が政府主導というよりは、むしろ軍部主導でなされた経緯があるから、イギリスやオランダ、フランスの東洋への植民地獲得活動を、日本と同じように政府や軍人たちによる計画的な動きだと考えやすい。しかし実際はそうではなくて、むしろ商工業者(その中核の冒険商人)による経済的侵略行為が、のちにそれぞれの政府によって認知されて、植民地として政治的体裁を整えるようになったのである。

 東インド会社の正体

  ここに国家的に海外進出を行なった日本と、それに3世紀先行するヨーロッパ各国との大きな違いがある。そして、こういう動きの中心には必ず何らかの思想的、宗教的な背景があるものだ。
  イギリス、オランダ、フランスの場合は、その中心を成したのはユダヤ系の商人であったと思われる。アメリカ大陸を発見したコロンブスも、その身元を探るとやはりユダヤ人であったと見られている。つまり、海外に出て行って商売をし、そこで軍事力・政治力を打ち立てて植民地化し、独占的商業圏を築き上げ、その住民を搾取するという観念は、ヨーロッパ土着の考えというよりは、むしろ古い中東の歴史から出た考えであると見るべきであろう。
  イギリスの東インド会社が設立されたのは1600年で、これは秀吉が亡くなって2年後のことである。そして、オランダの東インド会社ができたのは、それから2年遅れた1602年、フランスの東インド会社は1604年である。
  その後のイギリス、オランダ、フランスの植民地経営を見ると、現地の住民を教育するといった考えはなく、単に労働力として酷使したのである。また現地人の中で頭の良い者は、本国の大学に入れて植民地政府の従順な官吏として使った。
  さて、英・蘭・仏の東インド会社なるものは、主としてユダヤ系の勢力によって作られたものであり、その中には太古の中東から脈々と流れる精神が深く隠されていたのである。彼らの植民地支配の内容を見ると、流血と詐取と搾取の跡が歴々としている。こういうことは本来の敬虔なキリスト教徒である本国ヨーロッパ人は避けていたことであろう。
  たとえば中国に侵入したイギリスの行なったアヘン戦争と、アヘンの中国への無制限の持ち込みといいったことは、尋常の精神で考えられるものではない。以後の中国は、上海を中心とするサッスーン財閥その他の、もともとアヘン貿易によって資産を成した者によって牛耳られていったのである。

 フリーメーソンの暗躍

  フリーメーソンの起原あるいは性格については、今日でもごく最内部にいる少数者を除いて十分に知っている者はいないと考えられるが、この東インド会社なるものの行動規範にフリーメーソンがまとわりついていることは疑う余地がない。
  ところで、すでにアヘン戦争を起こして中国に入り込んでいたイギリスが、なぜ日本に真っ先に来ないで、代わって米国の東洋艦隊司令官マシュー・ペリー代将が江戸埠頭に現れたのか。これは各国フリーメーソンの共同謀議の結果と見るべきであろう。
  彼らがアジア諸国を植民地化するに際して用いたのは、現地の王侯、大商人等をフリーメーソン組織に入れ、あるいは彼らを操って内部抗争を起こさせ、その混乱に乗じて全体を手に入れるという手口であった。インドなどはその典型である。
  たとえば戦前の中国は、まさしくフリーメーソンによって四分五裂の状態に陥っていた。孫文も、蒋介石を取り巻く人物の多くもフリーメーソンであった。蒋介石の婦人は宗美齢だが、この宗一家はことごとくフリーメーソンであった。そして周恩来もまたフリーメーソンであったと言われている。周恩来は若いころフランスに留学している。

 日本開国の遠謀

  それでは彼らは日本に対して、いったいどういう手を用いたか。
  幕末をフリーメーソンの光に照らしてみると、当時の事情が鮮明に浮かび上がってくる。ペリーの来航前、フリーメーソンは彼らの占領していた上海で日本征服の会議を開いたと伝えられている。その時期や場所、内容は現在のところわかっていない。おそらくその当時長崎の出島に橋頭堡を持っていたオランダのフリーメーソンが主導権をとって、日本征服の計画を練ったものと思われる。
  当時の清国に対してとった武力侵攻政策を日本に適用することは否決されたと言われている。それは、日本を武力で侵攻することに成功の保証がなかったからである。
 日本は侍(さむらい)の国であって、ペリーの来航66年も前の1786年に、林小平が『海国兵談』などで外国の攻撃の危険を説いていた。その後、多くの人が外国からの攻撃の危険を論じ、幕府はじめ各藩は海防を厳にしていた事情がある。
  アヘン戦争が1840年であるから、いかに林小平が先覚の士であったかがわかる。 日本侵入に関するフリーメーソン上海会議は、アヘン戦争以後数年以内に行なわれたものであろう。日本侵入の第一着手として、アメリカの東洋艦隊による日本強制開国が決定されたものと思われる。
  では、なぜイギリスではなくてアメリカだったのかという問題であるが、イギリスに対しては、アヘン戦争における清国での行状から、日本人は極端な悪感情を抱いており、またオランダは長年にわたって長崎・出島に住みつき、幕府に対しては極めて恭順の体裁をとっていたので、いずれも日本に開国を迫る当事者としては不適当であった。
  そこで、フリーメーソン国家アメリカが呼び出され、その任を授けられたのがペリーであったのだろう。
  極めて興味深いのは、ペリーに対するアメリカ大統領の訓令の中に、「決して武力を行使してはならない」ことが記されていたことである。つまり、日本の武士たちの対面を大砲によって破ることは、その後に計り知れない悪影響を及ぼすことを、彼らは悟っていたのである。
  アメリカ海軍のペリー提督は、日本開国について十分知識を集めて研究をして来たものであり、衰弱した幕府官僚は一方的に条件を呑まされるしかなかったのである。

 内乱を起こして植民地にせよ

  このとき、フリーメーソンはどういうプロセスを経て日本を手に入れようとしたのか。それは当時の事情から分析することができる。つまり、彼らの常套手段——対抗勢力を操って内乱を起こさせる——を使ったのである。
  幕府に入ったのがフランス・フリーメーソンで、フランスから相当規模の使節団を入れて借款を申し入れている。つまり薩長土肥の倒幕派に対して幕府が十分戦闘できるだけの軍資金と兵器・弾薬の提供を申し出たのである。
  一方、薩長側にはイギリス・フリーメーソンがついており、長崎に駐在していた武器商人のトーマス・グラバーを通じて相当の便宜供与を行なった。
  こうして日本を内乱状態に陥れ、そのどさくさに紛れて日本の植民地化を図ったのである。
  この時、日本に2人の英雄が現れた。一人は官軍の参謀総長である西郷吉之助(隆盛)、もう一人は幕府軍の参謀総長・勝海舟であった。西郷と勝が小人物で、英仏フリーメーソンの影響を受け、金で買われていたならば、とんでもない大戦争になり、江戸は焼け野原になって、今日までも大きな禍根を残しただろう。
  このような事情から、フリーメーソンはその後も日本への侵入と日本国家のコントロールをきわめて長期の計画で辛抱強く進めてきた。その後の日本の政財界の西洋一辺倒の風潮に乗って、彼らがその本心を隠して日本の著名な人士、勢力を持つ人物にそれとなく浸透していったことは間違いない。
  当時の元老・西園寺公望などは、10年間もパリに滞在したのち帰国しているが、彼は公家出身者で公爵でありながら、完全に、しかし隠微にメーソン的思想のもとに行動した人物である。フリーメーソンは現在の日本の政財界にも深く浸透していると考えて間違いはないだろう。

 獅子身中の虫

  日本を日米戦争に導く構想が指導したのは1921年のワシントン軍縮会議である。
  それ以来、日英同盟の廃棄、中国における排日思想の誘発、満州における張学良を使っての日本との紛争の惹起、満州事変への誘導などの手が打たれ、さらに中国共産党と連携して支那事変を起こさせ、蒋介石を指導援助して対日抗戦を継続させた。そして最終的には、石油禁輸によって日本を絶体絶命の窮地に陥れ、ハル・ノートで戦争に追い込んだのである。この間の情勢を冷静に検討してみると、日本の政治家、軍人の非常な愚かさがあるし、また彼らの計画の水も漏らさぬ周密さが際だっている。
  1921年から41年までの20年間の日米関係、日英関係を振り返ってみると、深い謀略が周到に張り巡らされていたことが明らかである。
  しかも極めて残念なことに、日本国民の中にこれらの謀略の手先を務め、決定的に日本を対米戦争に追い込んだ者たちが見受けられる。もっとも忠実な日本人であるべき陸軍軍人の中枢にさえも、きわめて少数ではあるがその筋の影響を受けて日本を戦争に追い込むのに加担したものがいたのだ。

 占領政策の内実

  こうして日本はイギリス、アメリカ、そしてそれらの意のままに動かされた中国によって自在に操られ、ついに支那事変から日米戦争へと追い込まれる。これは米英を動かしてきた中心勢力の隠微なる働きによることは明白であるが、一方、長年にわたり国内に培われていたマルキシズム、共産思想、社会主義分子によっても大きく動かされてきたのである。
  戦後の日本は6年間の占領によって根本的に変えられてしまった。米国外交政策を指導するフリーメーソンにしてみれば、天皇制を廃し、自由民主主義の美名のもとに少数の資本家を中核とし、大多数の国民を従順なる羊の群れとして搾取するという構想を考えていたことであろう。
  皇室はその力を削がれ、大部分の皇族は一般人となり、華族制度は解消され、財産税の無差別な適用によって上は皇室から財閥、市井の金持ちにいたるまで、すべて一様に巨大な収奪を被ったのである。
  これは、要するに伝統的支配階級を滅ぼす政策であり、日本の歴史的伝統、精神的中核を骨抜きにする作業であった。これによって今日、まったく骨のない、歴史を忘れたわけのわからぬ日本人が無数に出てきたのである。
  日本の敗戦後の状況は、フリーメーソン、イルミナティが表面に現れないようにして日本を改変し、彼らの思う方向に誘導してきた結果である。これは半ば成功し、半ば失敗したと言うことができるであろう。
  彼らは結局天皇制を廃止することができなかったし、天皇に対する崇敬を根絶することもできなかった。しかも、彼らが手を加えて大いにその衰滅を図った日本神道は、今日でも各地の神社が盛大である。少なくとも彼らが完全な成功を収めたとは言いがたいようだ。彼らからしてみれば、日本は頑強に彼らの誘導する方向に抵抗したということができよう。

 日本経済のフリーメーソン化

  明治から大正、大正から昭和、昭和から平成と、それぞれ大きな時代の変わり目であった。現在は平成5年であるが、この5年間に日本のフリーメーソン化は急激に進んでいる。
  日本の企業は大挙アメリカに出て行った。そして日本の金融機関はたいへん巨額の金を海外とくにアメリカに持ち出した。そしていわゆるバブル経済がピークに達し、その破裂が起こったのもこの時期である。
  1929年のニューヨーク株式大暴落は決して自然的経済現象ではなく、周到に根回しされ、引き起こされた人為的経済現象であるというのが、私の考えである。これと同じく、一昨年初めからの株式大暴落は、1つの劇つまり人為的なものであって、まさしく半世紀前にニューヨークの市場を操ったのと同一の手によるものであると思っている。
  当時ニューヨーク市場を動かしたのは、もとより米国人であったが、それよりはさらに大きいヨーロッパの勢力、おそらくはロスチャイルドやワーバーグの関係者がいたのである。つまり、当時のアメリカ金融界はなおヨーロッパのコントロール下にあった。それと同じように、敗戦以来の日本の経済、政治、あるいは社会は、ほとんど完全にアメリカの手によって操られているといって差し支えない。
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by thinkpod | 2006-08-22 17:26 | Books
2006年 08月 22日

壊される日本

 恐るべき時代の開幕

  さて、現在の日本の企業・金融関係者に世界支配中枢の手が伸びていることは確実である。しかもその魔の手はすでに官僚や学者や宗教関係者にまで伸びて、深く入り込んでいる。もとよりマスコミ関係、評論家には戦前から深く食い込んでいると言ってよい。
  私がもっとも危惧しているのは、次代の日本を背負うべき児童や青少年を規制する教育関係者に、すでにこの影が入り込んでいるのではないかということだ。一般に考えられているよりもはるかに広範に、彼らの力が入っていることを恐れざるを得ない。
  もちろん、彼らの力はすでに政界に深く入っている。共産党、社会党(現社民党)はまさしくイルミナティの代弁者である。そして自民党もまた、中曽根首相以来、その中枢部はこの一派によって独占されてきたように思われる。つまり、彼らと同調する以外に主要な政治家としてのキャリアを持つことができなくなっているのではないか。
  今や日本が陥りつつある状況は、決して誇張ではなく恐るべきものである。本当に恐怖すべき状況にわれわれは突入しつつあるのだ。

 「見えざる植民地」日本

  われわれは第二次大戦によって植民地はすべて解放されたと思い込んでいる。アメリカ大統領ルーズベルトは、世界植民地の解放を第二次大戦を戦う有力なスローガンとしていた。しかしながら、これは他のルーズベルトの言明と同じくまったくのまやかしであった。西洋はその国家社会の本質として植民地主義を血肉としてきているのであって、それを一時の戦争によって捨て去ることなどとうていあり得ないのである。
  ところが、このことを日本人はまったく理解していない。外面の行動・宣伝に惑わされて、事の本質を理解していないものが多いのである。
  なるほど法制的に見れば、世界の植民地はすべて解放されてしまった。本国が直接に統治する植民地は消滅した。しかしながら、植民地主義の妖怪は決して消えていない。植民そのものの様態が変わってしまっているのである。
  第二次大戦に際して、なぜ西洋の首魁ルーズベルトが植民地解放を呼号したかをよく考えてみなければならない。ルーズベルトの政治は、人から吹き込まれた科白(せりふ)を、巧みな演技でもっともらしく並べ立てていただけなのだが、その科白の作者たちは、はるかに遠く世の中の動きを見、将来を慮っていたのである。
  どういうことかというと、直接統治という方式はすでに時代遅れとなって、非常に高コストなものになるという事態が進行していたからである。この世界史の方向をいち早く見抜き、それに対する方策をルーズベルトに授け、そして当時の世界最大の力を持つアメリカ国家を使って世界をその方向に誘導した彼らの先見と力量は、敵ながら天晴れなものであると言わなければならない。つまり直接統治によって覚醒した民衆の反乱が起こり、それを鎮圧しなければならないといった事態の発生によって、とうてい従来の直接植民地統治は不可能になると早々と察したわけであろう。
  さてそうすると、世界植民地主義の本源とも言うべきこの世界支配中枢が、いったい何を考えて従来の軍事的、政治的植民地経営を放棄したのだろうか。それは、世界はもう軍事力だけでは動かない歴史相に入ったことを理解し、特に核兵器ができた以上、実際にこれを使用する戦争が起こることはないという認識のもとに、その植民地体制の中心を軍事・政治から商業・金融に移したものと考えられるのである。すなわち、彼らが収奪をもくろむ国家・国民を商業・金融の世界的ネットワークの中に包含し、そこからまったく目に見えない間接的な方法をもって産業的・金融的に寄生し、自ら労せずして金銭・物質等を調達しようという考えである。
  日本は世界植民地体制の覆滅を目指して第二次大戦を戦った。これはそれなりに立派なものであったが、残念ながらアメリカの武力に敗れ、よくよく見ると、今日では完全なアメリカの植民地に堕してしまった。しかもそのことに気づく日本人が誰一人としていないのである。

 再び狙われるアジアの国々

  周知のように、東洋は久しくイギリス、オランダ、フランスの植民地であった。第二次世界大戦の日本の奮戦によって、それぞれ独立国家となり今日に至っている。かつて日本の支配下にあった台湾および韓国、北朝鮮も独立している。そして、半植民地と言われた中国は今日堂々たる中華人民共和国として大国の位置についている。しかし、これらの国々の将来が新しい植民地主義から安泰であるかと言えば、これには大いに疑問符をつけるべき理由がある。
  日本自体がすでにその実態はアメリカの植民地である。このような状況がいずれこれらの戦後独立した諸国に及ぶであろうことは明らかである。
  一国ないし多国を植民地化しようとする場合、彼らの使う常套手段は、その内部に2つないし3つの勢力を分立させ、それぞれにエージェント(諜報員)を送り込み、これらを互いに抗争させて、その国家ないし社会を弱体化させ、その間隙に乗じて侵入するというものであった。この方法は、植民地方式が大変化した今日でも、まったく同じ構図のもとに応用されているものと考えてよい。複数の勢力を抗争させて相手を倒させ、自らの目的を達するという方法は、常に彼らがとってきた方法である。
  東アジアを彼らの自由にするために行なったのが日中間の離隔、そして最終的には日中戦争を起こすことであった。蒋介石政権と日本政府は幾度も和平を交渉したにもかかわらず、どこからか邪魔が入って成功しなかった。当時のすべての事態を洗ってみると、ここに隠微な陰の手が回っていたことがわかる。この日中間の抗争の中でもっとも陰謀の働いたのは西安事件と、近衛首相の「蒋介石相手にせず」の声明の2つであった。それには、かたや周恩来、かたや尾崎秀実の両共産主義者による力が大きかった。共産主義なるものが世界支配構造の1つの駒であることからすれば、すべてが割れてこようというものである。
  これは1930年代の事件であったが、1990年代には何が行なわれるであろうか。一般に報道はされていないが、デイビッド・ロックフェラーが幾度も中国を訪問しているし、すでに上海には戦前のアヘン戦争以来奥深く食い込んだサッスーン財閥も復活したと伝えられている。かたや日本にもデイビッド・ロックフェラーはしばしば来日しているが、最近の報道によるとフランス・ロスチャイルド家からも人が来ていると言われている。
  日本人は、戦後の洗脳(もちろん世界支配勢力による)によって、戦前のことをすべて忘却させられ、それを一方的に日本の悪逆によるものと教え込まれて、逆に世界中枢に通ずる筋、その最大の傀儡アメリカ政府に対するまったく無邪気な信頼が抜きがたく育ってしまっている。戦後の愚昧狡猾なる政治家たちはアメリカに追随し、彼らの言うとおりに事をなし、さらには言われない前から彼らの意向を察して事をなすといった、哀れむべき状態に陥ってしまっている。

 「金融」による新たな植民地化

  西洋文明は根元的に他民族、他地域に寄生する習癖を持つものであり、大戦による日本の努力によって全世界的に解放された旧植民地体制に代わって、新植民地体制が現れてくるのは理の当然なのである。では、いったいこの新植民地体制とはどんな様態のものなのか。
  それは金銭的、情報的支配である。
  第三世界の資源は、今日完全に西洋新植民勢力によって押さえられている。そして世界的な西洋化、アメリカ化を見ると、文化的植民地化の歴々たるものがある。すでに日本の伝統的文化は「国際化」によって危機に瀕している。スクリーン、スポーツ、セックスのいわゆる3S政策は、今日全世界を覆ったが、これは西洋植民地化の一面に過ぎない。
  今ここで私が明らかにしておきたいのは、誰も気づいていない「金融寄生」植民地化である。実は日本がその最大の被害者なのである。日本の貿易黒字は、国民の精良な日本精神から由来したものである。その貴重な日本人の生来の美質と勤勉によって得た金銭は、完全に西洋勢力によっただまし取られている。
  つまり日本は、誰も気づかないうちに西洋植民地化に成り下がっていたのだ。

 終わりに

  ころは日本の幕末だった。今はむしろ世界終末の気配が濃い。いつの時代にも覚者は稀少である。だが幕末には数多くの志士が自らの想いに命をかけた。平成のとろけた若者はいったい何を思っているだろうか。
  今われわれに必要なのは、真実を曇りなく見抜くことである。いつの時代にもそれは時の権力によって隠されるのが常であるが、現在は衆愚政治の広範化、金銭経済の肥大、情報技術の革命によって、事実の隠蔽、虚構の造作は驚くほど盛大に進行している。
  今の世界権力とはいったい何なのか。いかなる目的を抱いているのか。——それを考える自由は誰にでも与えられている。だがそれに気づく者はほとんどいないのが実情である。世にこれ以上危険なことがあるものではない。
  人間にはそれぞれ持って生まれた性能と背負った宿命がある。世の危険を予感し察知する能力は、少数の人たちにしか与えられてはいない。それを弁知し分析する知能を併せ持つ人に至っては、ますます少ない。さらにその危険の根因に思いをめぐらし、その正体を突きとめる人に至っては稀というべきだろう。
  読者の身辺目先の話にたとえれば、先ごろのバブル(経済)の顛末を見通した人は稀だ。ところが問題はそこに留まらない。覚者の警告は大衆によって無視される。逆に世相の短気のベクトルを増幅して益もない言説を流し虚名を求める者たちは数多い。これらの者の吹く笛の音に迷わされ、どれだけの人が大金を失ったか。いつの世にも変わらない大衆の悲哀である。さらなる厄介は、稀少なる世の覚者を大衆は嫌がる。目先の欲得に水を注すからだ。

  金を失うくらいならば大したことではない。個人であれ国家であれ、元通り心を入れ替えて働けば済むことだ。しかし、もしバブルがこれらから金を抜き取る計略であっただけではなく、日本の人と社会を壊滅させる計画の一環であったならば、実に恐るべきことだろう。読者の深考を促したいところである。
  これからのわが国の政治、社会は腐敗の度を深めてゆき、長期暗夜の時代に入るおそれが大きい。かくて、どこにその根因があるかわからないままに、表面的な対症療法で時を過ごし、病巣はますます体内深く入り、ついに斃死するに至る。
  殷鑑(いんかん=失敗の先例)はアメリカにある。これは200年前につくられた人工国家である。「人工」であるからには設計図があるし、工事を指揮した者がいるはずだ。それは誰だろうか。この国と社会はこの30年間にツルベ落としに落下した。この現象も「人工」であるはずだ。200年にして壊れるように設計してあっただろうからだ。
  今にして思うのだが、日本もまた130年前、幕末維新の時、不完全ではあっても同じ手によって「設計」されていたのではなかったか。それを完成するのが「平成維新」ではないのだろうか。その手に悪魔の刻印が捺されていたとしても、それに気づく人は寥々(りょうりょう=非常に少ないこと)たるものだろう。
  もとより建国や維新はその時代の要求に応じたものであり、それなりの必然性があった。それを否定することはできない。革命、戦争、恐慌もまた同じ。人心と体制は変化を拒む性質がある。しかし世は進む。変化は必然である。だが悪魔がその「間」に入ることにわれわれは注意しすぎることはない。

壊される日本〜馬野周二
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/umanoshuji.html

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/8856e566281d81230464a5bbbc46c132
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by thinkpod | 2006-08-22 17:19 | Books
2006年 08月 13日

国連の死の商人

湾岸戦争にみる戦争の構図
1991年1月17日に始まった湾岸戦争。多国籍軍は、わずか1カ月で朝鮮戦争の一年半分、ベトナム戦争の半年分の爆弾を投下し、一発一千万円のミサイルが夜空を焦がした。
湾岸戦争が始まる前年の8月2日、イラクがクエートに侵攻したとき、中東の資金がいっせいに避難。自国通貨をドルに換え、米国の貴金属や短期債市場に流れ込んだ。
同時に石油危機が叫ばれ、原油価格が暴騰。セブン・シスターズ(欧米の七大石油会社)が莫大な利益をあげた。
ロックフェラーのシェヴロン(旧スタンダード石油カリフォルニア)は860%の収益増加を記録。エクソン(旧スタンダード石油ニュージャージー)も莫大な増収となった。
破壊されたクエートを復興するのに約800億ドル、およそ10兆4000億円が見積もられ、そのほとんどがベクテル社等のアメリカ企業が受注。残りはイギリスが受注した。
湾岸戦争の終戦時、『ニューヨークタイムス』が戦勝国の万国旗をズラリと紙面に並べたが、故意に日本の「日の丸」だけ落とし、日本も「国際貢献を」とプレッシャーをかけた。
米国は「国際貢献」の名のもとに、露骨に日本に戦費を要求。その金が兵器産業に流れ込んだ。
湾岸戦争前、軍需産業では工場の閉鎖と大量の失業とが連鎖的に起き、深刻な問題となっていた。
しかし、この時期、軍需産業は24時間フル稼働の増産体制。
米国防省との契約企業トップ20(89年実績)
1位 マクドネル・ダグラス…日本の主力戦闘機F15イーグルのメーカー
2位 ゼネラル・ダイナミックス…三沢基地に大量に配備されてきたF16ファイティング・ファルコンのメーカー
3位 ゼネラル・エレクトリック(GE)…イージス艦のレーダーシステム、戦闘機など航空機のエンジンメーカー
4位 レイ・セオン…パトリオット・ミサイルのメーカー
5位 ゼネラル・モーターズ…自動車メーカーだが、M1型戦車やマーベリックミサイル、兵器部品も製造。子会社に航空宇宙機器メーカーのヒューズ航空もある。
6位 ロッキード
7位 ユナイテッド・テクノロジーズ
8位 マーティン・マリエッタ
9位 ボーイング
10位 グラマン
11位 GTE
12位 ロックウェル
13位 ウェスティングハウス・エレクトリック
14位 ハネウェル
15位 リットン・インダストリアル
16位 IBM
17位 TRW
18位 ユニシス
19位 ITT
20位 テキサス・インスツルメント
イラクのクエート侵攻が起こった時、両国が戦火を交えた戦闘機はフランスのダッソー・ブレゲが製造しているミラージュだった。
イラクのフセインはフランスから戦闘機を買い込み、見返りにイラクの石油をフランス企業エルフ・アキテーヌに優先的に販売。
戦闘機ミラージュは、ユダヤ人の「死の商人」マルセル・ダッソーが開発・製造したもので、ダッソーは86年に死亡するまでフランス第一位の億万長者であった。
中東戦争時にイスラエルにミラージュを売り込んでアラブ人を苦しめ、膨大なパレスティナ難民を生み出したダッソーが、一方ではイスラエルと敵対する最も危険なイラクにも兵器を売ってきた。
その結果、フセインはフランスに30億ドルの借金を背負うことになった。
フランスとアメリカはNATOの中で連動している。
フセインに資金を送り続けたのはイタリアの銀行で、化学兵器を造らせてきたのはドイツやソ連であり、原子炉と濃縮ウランはフランスから売却され、スーパー・ガンはイギリスから正式に輸出され、アメリカは農務省を通じてイラクに莫大な支援をおこなってきた。
フセインを育てたのは、まさしく多国籍軍=国連であった。
最終的に湾岸戦争では10万人を超える死者が報告されている。


死の商人という「人間」の正体
国連本部は、ジョン・D・ロックフェラー二世がニューヨークの土地を買い取って寄贈し、そこに建てられたビルである。
国連は、いったいどのような人間によって動かされているのか。
サイラス・ヴァンスは、ロックフェラー財団の理事長。
パリ和平会議(ベトナム戦争を終わらせるための会議)で、戦争の調停人として、アメリカ代表として活動。
しかし、会議後、ベトナムの戦火はさらに燃え上がった。
のちにカーター政権で国務長官。
1992年から国連事務総長ブロスト・ガリの特使となって、内戦が続くユーゴスラビアへ。
その後、やはりユーゴの内戦は激化。
ヴァンスの前にユーゴのEC調停代表だったのが英国のピーター・キャリントン卿で、ヴァンスとはきわめて近い一族、つまりファミリーであった。
湾岸戦争時、フランスの国防大臣として戦闘を指揮し、ブッシュ大統領と会談を重ねて残忍な陸上戦に踏み込むよう多国籍軍を焚き付けたたのは、ダッソー・ブレゲの創業者ファミリーのひとり、ピエール・ジョックスであった。
このジョックスの母方はユダヤ人であり、ヴァンスそしてキャリントン卿とファミリーであった。
つまり、彼らは、東西対立の崩壊によって東ヨーロッパという「敵国」が消えてゆく中で、アメリカ・ヨーロッパの軍需産業を持ちこたえさせなければならない。戦争がないなら、どうしても次の戦争を引き起こす。戦争ができないなら、なんとかして緊張状態を引き起こして兵器工場から製品を送りだす。どこかにささいな民族紛争があるなら、そこに油を注ぎ、火を付けてまわらなければならないという役割を担っている。
中東・湾岸戦争と国連軍を動かしてきた軍需産業ファミリー
ジェームズ・ベーカー…米国国務長官。湾岸戦争開戦の最大責任者
サイラス・ヴァンス…ユーゴ内戦の国連事務総長特使
ピーター・キャリントン…ユーゴ内戦のEC調停代表・GEC会長
デヴィッド・スターリング…湾岸戦争イギリス特殊部隊SAS育ての親
フランソワ・ミッテラン…フセインと裏取引したフランス大統領
ルイ・ブレゲ…ミラージュ戦闘機のダッソー・ブレゲ創業者
ピエール・ジョックス…湾岸戦争時のフランス国防大臣
ブッシュ大統領ファミリーは、ベイカー国務長官のビジネスパートナーであり、さらに背後には巨大なユダヤ財閥が存在していた。
彼らは血族というだけでなく、ビジネスのなかで利権を分配し合う集団であった。
キャリントン卿*1は、イギリス最大の核兵器・原子力・軍需産業のトップに立つゼネラル・エレクトリック・カンパニー(GEC−アメリカのGEと母体は同じだが別会社)の会長という履歴を持ち、イギリス国防大臣とNATO事務総長という履歴も持っている。
サイラス・ヴァンスは、米国第2位の軍需産業ゼネラル・ダイナミックス社の重役であり、日本に「国際貢献を」と圧力をかけた『ニューヨークタイムス』の重役でもあった。


軍需産業のエージェントとなった国連
ブロスト・ガリが事務総長に就任してから、国連のPKO軍団は莫大な規模になっていった。
この国連軍はいったい何のために出動したのか?この大軍の金をいったい誰が負担するのか?
国連の金庫は、ガリ就任以来、PKOのために、早くも四月末には20億ドル、数千億円の赤字となった。
この赤字を埋めるため、金を持っている日本とドイツに要求していこうという雰囲気が国連ビルのロビー活動のなかで生み出されている。
四月時点で発表された数千億円という赤字は、このまま進めばさらに増え続ける金額であって、一刻も早く国民が警告を出さなければならないところまできている。日本人が実際に自衛隊を海外に出してゆくことになれば、公式に軍事国家とみなされることは当然で、日本向けの小切手請求書には、大きな口実ができる。世界の軍需産業にとっては思うつぼである。
こうして日本とドイツから吸い上げられた大金は、国連軍の装備という形で、全世界の兵器会社に流れ込んでいる。
結局、日本人の金は、世界の軍人を養い、そこから世界の軍需工場に還流する仕組みになっている。
日本人が稼いだ金を使って豪華な暮らしをするのは、アメリカやヨーロッパの軍需産業の重役陣なのである。


誰が殺されてきたか
カンボジアの内戦では、ソ連、アメリカ、中国、シンガポール、西ドイツ、フランスから兵器・弾薬が大量に送り込まれていた。
ベトナムから支援を受けてきたフン・セン首相は、現地では傀儡政権と呼ばれてきた政治家の代表者であった。
一方、虐殺で知られる共産主義勢力のポル・ポト派もアメリカの兵器が支援してきた。
まさに国連を支配する国家が、死の商人であり、PKOの母体である。日本に金を請求している人間の正体は、ここにある。彼らはいまや、公然と「日本人は血を流す決意を示せ」「長期的には自衛隊を危険な任務に送り込むようになると信じる」と発言し始めている。
欧米の兵器メーカーは、第二次大戦後、自分の国では戦争を起こさず、人の国へ出掛けていっては殺人ゲームを楽しんできた。彼らが、アジアの人間のために、平和をつくりだす?想像もできない話だ。
彼らは国連のPKOによって兵器工場を再生させ、次の殺人ゲームの作戦を練っているところではないのか。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/


Amazon.co.jp: 国連の死の商人: 本: 広瀬 隆
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by thinkpod | 2006-08-13 05:38 | Books
2006年 08月 13日

「満洲は日本の侵略ではない」 

◆天下の名著『紫禁城の黄昏』
戦後日本における中国の問題は、満洲国にたいする見方、すなわち「満洲国は日本が中国を侵略してつくった」という見方ですが、そこに端を発していると思います。

そもそも日本の国際連盟脱退も満洲問題が原因です。満洲問題自体が起こったのは、国際連盟が満洲国という国を理解でぎなかったことによるものであり、とくにアメリカは理解しようとさえもしませんでした。イギリス人であるリットン卿は理解できないまでも、満洲事変は侵略とは簡単に言えないと言っているんです。

アメリカなどは、日本がシナを侵略しているという立場をとりましたが、満洲に関していちばん正しい見方をしていたのは、イギリス人のレジナルド・ジョンストン卿です。彼は溥儀の教師であり、のちに香港大学の教授やロンドン大学の東方研究所所長にもなった人物で、当時第一級のシナ学者です。

清朝にずっと仕えていたので、内部事情にも非常に精通していました。満洲国建国の経緯や溥儀自身の意思も彼はよく知っていました。ですから溥儀が父祖の地である満洲に戻って、そこの皇帝になったことをとても喜んだ。そうして『紫禁城の黄昏』という天下の名著を書いたんです。

この本は東京裁判のときに、日本の弁護団が証拠として使おうと、証拠物件申請をしたんですが却下されました。理由は至極簡単で、この本がジョンストンという学者であり第一級の証言者が著した、ウソ偽りのない資料であるゆえに、証拠採用してしまえば東京裁判自体が成り立たないからです。

『紫禁城の黄昏』は戦後長らく世界中で再出版されませんでした。映画「ラスト・エンペラー」がヒットしたので、岩波書店が岩波文庫として刊行したのです。ところが、この文庫ではシナという国のあり方を説明した1章から10章までがまったく削除されて11章からはじまっている。しかも序文でも満洲国に関係ある人物が登場すると、1行でも2行でも虫が喰ったように削除するという、信じられないことをやっている。

満洲のことを中国東北部と称するのは、中国政府の侵略史観のあらわれです。満洲国は、満洲という土地に、満洲族一番の直系の王族が戻ってきて建てた国です。満洲というのは万里の長城の北にあります。それは、万里の長城から北はシナでないという意味なんです。
そのことを考えずに、満洲は中国の一部だというのは、チベットや新彊が中国だというのと同じ思想で、シナ人の単なる侵略思想です。

満洲は明らかに清朝政府(満洲民族の帝国)の復活です。満洲人の満洲人による満洲人のための満洲国を作りたかったんだけれども、それをやる能力がないから日本が内面指導したんです。大臣はすべて満洲人か、清朝の遺臣でした。首相だった張景恵は、戦後もずっと日本にたいして友好的な態度をとっていました。

残念ながら、いま満州族には国家を再建するほどの人間は残っていないでしょう。日本人もせっかく国をつくるのを手助けしたのにと、残念に思っていい。香山健一氏(学習院大学教授。故人)から聞きましたが、満洲人はいまでも涙を流すそうです。「われわれにも自分たちの国があったんだ」と。しかしもう戻らないでしょう。満洲国の血筋は消されてしまったわけですから。これこそ一種の民族浄化です。

今後、日本人、とくに政治家のような中国関連の仕事をやる人たちは、満洲国は日本が侵略したのではなかった、という認識をまずもって持たなくてはならないと私は思います。シナ人にたいする罪悪感を抱えたままでは、いつまで経っても何も変わりません。

渡部昇一 「WILL」創刊号より


復刻・禁苑の黎明−Twilight in the forbidden city | WEB復刻に至ったいきさつ
http://nichiroku.nitiroku-nishio.jp/?eid=547080
http://twilight.nishiokanji.com/

http://tech.heteml.jp/2006/08/post_686.html
http://tech.heteml.jp/2007/02/post_909.html


紫禁城の黄昏—完訳 (上): 本: R.F.ジョンストン,中山 理,渡部 昇一
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新訳 紫禁城の黄昏: 本: レジナルド・F・ジョンストン,岩倉光輝
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地球史探訪:満洲 〜 幻の先進工業国家

 傀儡国家、偽満洲国などと罵倒される満洲国に年間百万人以上の中国人がなだれ込んだ理由は?

■1.もう一つのアメリカ合衆国■

 敗戦後、満洲から引き揚げてきた少女が祖国にたどり着いて、
母親に真っ先に訊ねた。「ねえ、日本の夕陽はどうして小さい
の?」 大草原の彼方に沈んでいく赤い大きな夕陽は、日本に
はない光景であった。

 その赤い夕陽に染まりながら、1万2千キロメートルも伸び
る鉄道線路があった。「南満洲鉄道株式会社」、通称「満鉄」
である。満鉄の開発した超特急「あじあ号」は最高時速150
キロでその広大な原野を疾走した。当時の日本で最速の列車は
時速70キロ。「あじあ号」は、まさに夢の超特急として世界
の注目を集めていた。

「あじあ号」だけではない。満鉄本社では電話はダイヤル即時
通話であり、大豆の集荷量・運搬距離・運賃はIBMのパンチ
カードで処理されていた。さらに東洋で最初の本格的な高速道
路、水洗トイレまで備えた近代都市、東洋一の埠頭、世界でも
有数の巨大ダム、自動車工場や飛行機工場までがあった。

 このような部分的には日本をも追い抜く先進工業国家が、ユ
ーラシア大陸の東北端に忽然と姿を現し、わずか13年半の後
には蜃気楼のように消え去った。そのまま発展を続ければ、も
う一つのアメリカ合衆国となったであろう。まさに満州国は日
本人の明治維新以来の近代化への情熱と技術が生みだした20
世紀の奇跡であった。日本の傀儡政権、偽満洲国、大陸侵略な
どと批判する前に、満洲国とはどんな国だったのか、まず事実
を見ておこう。

■2.満洲と中国本土を分けていた「万里の長城」■

 満洲は総面積約110万平方キロ。ほぼドイツとフランスを
合わせたほどの面積で、緯度も同程度である。古来からツング
ース系やモンゴル系などの遊牧諸民族が興亡を繰り返した。こ
れら遊牧民族は農耕を中心とする漢民族とはまったくの別民族
であった。

 満州と中国本土の間に築かれた万里の長城は、漢民族が遊牧
民族から自らを守るために築いた防護壁であった。しかし、遊
牧民族は強大な武力で、しばしば長城を越えて漢民族を征服し
た。北魏、遼、金、西夏、元、そして清である。清はツングー
ス系女真族(満洲族)が、元の後継国家として建国し、1644年
に長城を越えて北京に入城した。その後、漢民族の明を滅ぼし、
モンゴル、チベット、ウイグルに至る大帝国を築いた。

 清王朝のもとで、漢民族は満洲族による支配を受けた。ちょ
うどインドが大英帝国の支配に屈したのと同じ形である。辛亥
革命の後、清朝を倒して漢民族が独立し、後継政権の一つとし
て今日の中共政権が成立した。中共政権は第二次大戦後に獲得
した満洲を「東北」と呼び、チベットやウイグルとともに「古
来から中国の絶対不可分の固有領土」などと称しているが、こ
れは独立したインド政府が、大英帝国の後継者としてオースト
ラリアやカナダまで領有権を主張するようなものである。

■3.ロシア南進■

 清朝が北京に移ると、広大な中国を統治するために、満洲族
は大挙して移住した。清朝は人口が極端に減少した満洲を先祖
発祥の地として保全しようと、漢民族の入植を禁じたが、中国
本土や朝鮮半島からの流民の密入植が絶えなかった。

 そこに勢力を伸ばしてきたのがロシアであった。日清戦争後、
日本が得た遼東半島を仏独との三国干渉により清国に返還させ
ると、それをそのまま横取りした。さらにシベリア鉄道と連結
して満洲を横切り、ウラジオストックと最短距離で結ぶ東清鉄
道の敷設権を得た。1900年7月、義和団の乱が満洲に波及する
や、ロシアは建設中の東清鉄道保護を名目に、満洲全体を軍事
占領した。

 ロシアはさらに朝鮮半島にも勢力を伸ばそうとしたため、日
露戦争(1904-5年)が起こった。日本の勝利により、両軍の満洲
からの撤兵、遼東半島租借権と東清鉄道南満洲支線(長春−旅
順間)の日本への譲渡が実現した。日本が戦っていなかったら、
満洲はシベリアの延長としてロシア領土になっていただろう。

■4.軍閥支配下の満洲■

 1911年の辛亥革命により清朝が倒れ、その後、軍閥の割拠す
る内戦状態となった。満州も張作霖・張学良父子が支配した。
張作霖は北京争奪の内戦に参加するため、25万人もの軍隊を
維持し、歳出の8割を軍事に注ぎ込んだ。税収が不足した分は、
財産家の誘拐や処刑による財産没収、さらには民衆から5年先
の税金取り立てまで行っていた。歳入の柱の一つである塩税な
どは、日本の租借地の5倍であった。

 張作霖のもとで、各省の支配者は、政権を奪取するたびに旧
紙幣を紙くずとし、新紙幣を発行して財源とした。そのたびに
民衆の財産は強奪されることになる。インフレが昂進し、満洲
経済は大混乱に陥った。

 さらに30万人以上と推定される馬賊・匪賊は、民衆に対し
て略奪、放火、強姦、誘拐の限りを尽くした。支配者に招聘さ
れれば軍人となり、支配者が負ければ馬賊・匪賊に戻る。今日
の中共政権が「反日抗日の英雄」と祭り上げる勢力の大方はこ
うした馬賊・匪賊の類なのである。

■5.毎年100万人以上も満州国へなだれ込んだ■

 1931年満州事変が勃発し、日本軍はわずか1万5千の関東軍
兵力で、当時30万とも45万とも言われた張学良の軍隊を一
気に駆逐した。事変は確かに日本軍の謀略だったが、謀略だけ
でわずか1万5千の外国軍隊が3千万の民衆を制圧することは
できない。民衆は謀略を支持したのである。

 日本軍の力により満州国が成立し、清朝最後の皇帝・溥儀
(ふぎ)が元首についた。満州王朝が先祖の地で、再興された形
となる。日本軍が画策したために傀儡政権と非難されたが、中
共政権も同様にソ連の「傀儡政権」と蒋介石は罵倒していた。
政権争いで相手を「傀儡」と非難するのは、中国人の常套句で
ある。勝った方が「正史」に正統政権と自称し、負けた方は傀
儡政権と永久の烙印を押される。

 民衆にとって大事なのは、そんな政治ゲームよりも、どの政
権が社会を安定させてくれるかであろう。事変の直前、1928年
に満洲を視察した米モルガン財団代表ラモントは、オールズ国
務長官に次のような観察を書き送った。

 自分の観たところでは、今日満洲は全支那で殆ど唯一の
安定せる地域である。・・・日本は軍事的意味に於いての
みならず、経済的にも満洲を発展せしめつつある。日本が
かくするのは、満洲に赴く少数の日本人開拓者の利益のた
めではない。実際の話、満洲開発は中国人の利益になって
いるのだ。不安定な戦争状態が中国の広大な部分に拡がっ
ているため、今や中国人は、他の何処に於ても受けねばな
らぬ匪賊行為や略奪から逃れるために、何千人と云う単位
で南満洲に流れ込みつつある。[1,p336]

 この傾向は満洲国成立後も続き、事変前の人口3千万人が1
0年後の1941年には4千3百万人に急増した。毎年100万人
以上もの民衆が中国本土から万里の長城を越えて、満州国にな
だれ込んだ。民衆は、内乱と飢饉の中国本土よりも、満州国を
選択したのである。

■6.通貨と交通のインフラ整備■

 日本の力により満洲国は急速に近代的産業国家として発展し
た。まず近代経済発展の基盤の一つとして通貨制度を確立しな
ければならない。各地の軍閥が勝手に新紙幣を発行しては、旧
紙幣を紙くずにする、などという状態では、近代的な商取引な
ど不可能であった。

 建国3ヶ月目にして、満州中央銀行が設立され、満州国通貨
を統一して、旧軍閥が発行した様々な紙幣との交換を行った。
映画やラジオを通じて日中露3カ国語で広告をしたり、辺地に
飛行機でビラを撒いて巡回出張をする、など、血のにじむよう
な努力の結果、日本の3倍もの広大な領土で、わずか2年で
93.1%もの旧紙幣が回収され、民衆の満州国の統一通貨への信
頼が確立した。

 通貨と並んで、広大な国土を発展させるためのインフラは交
通である。当時は、日本の南満州鉄道以外にも、ロシア(当時
は革命後でソ連)やイギリス、さらには地方軍閥による鉄道が
あり、規格も運賃もばらばらの状態であった。そこで満州国が
成立すると、ソ連、英国の路線は平和的に買収し、満鉄が一括
経営することになった。

 満鉄は建国時の6,226キロの路線に加えて、7年後の39年
までに約4千キロの新線建設を行った。毎年、東京−神戸間の
東海道線に匹敵する路線建設を、冬の河川凍結と夏の氾濫、そ
して匪賊による鉄道襲撃頻発という悪条件の中で敢行した。

 道路交通についても、満州では冬は凍結、雨期はぬかるみ、
春秋はわだちの跡のみが道標となる状態だった。各河川には橋
梁はほとんどなく、わずかな渡し船しかなかった。そこに満州
国は終戦までに国道6万キロ、地方道路5万キロを整備し、橋
梁も30メートル以上のもの3百カ所が造られた。さらに港湾
も、1931年には大連に東洋一の埠頭を完成させている。

■7.満洲は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか■

 近代工業発展、そして、生活の近代化のためにも欠かせない
インフラが電力である。満洲の年間降雨量は約3〜5百ミリと
日本のほぼ3分の1に過ぎず、その70%が7、8月に集中し
ているので、発電と灌漑、用水、治山治水をも狙った多目的ダ
ムの建設が重視された。

 鴨緑江・水豊ダム(20万キロワット)、鏡泊湖発電所(2
万キロワット)、渾江・桓仁ダム(28万キロワット)、松花
江・豊満ダム(70万キロワット)などが次々と着工され、41
年頃から稼働を始めた。戦後日本で有名な黒四ダムの33万5
千キロワットに比較すれば、その規模が計り知れよう。

 特に豊満ダムは満洲開発の象徴とも言うべき巨大プロジェク
トで、高さ90メートル、延長1100メートルのコンクリー
ト堰堤により、琵琶湖大の人造湖を忽然と満洲中央部に出現さ
せた。発電以外に洪水防止、灌漑、飲用水、工業用水、航運な
ど、世界でも屈指の巨大多目的ダムであった。完成後に見学に
訪れたフィリピン外相は、次のような歓声を発したという。

 フィリッピンは、スペイン植民地として350年、アメ
リカの支配下で40年を経過している。だが、住民の生活
向上に大きく役立つものは一つも作っていない。満洲は建
国わずか10年にしてこのような建設をしたのか。
[2,268]

■8.見果てぬ夢■

 民生分野で特筆すべきは新都市建設と既成都市の改造である。
近代的な国土計画のもとで、日本人建設技師の人材を集めて、
近代的な美しい都市が満洲の広大な国土に次々と生まれていっ
た。特に、新しい国都・新京(現・長春)は、百万都市として
建設を進められ、電気、上下水道を完備し、東洋で最初の水洗
トイレも設けられ、豊かな緑に彩られた。

 また満鉄は沿線各都市に、満鉄病院、伝染病研究所、結核予
防協会、保養院などを設け、僻地には巡回施療を行って、民衆
の健康状態改善に大きく貢献した。さらに中央試験所、農事試
験所を設立し、ここで開発された「改良大豆」は、全満洲に普
及し、世界一の大豆輸出国として成長させる原動力となった。
そのほか地質研究所、鉄道技術研究所、製鉄研究所などが、満
洲の農・工・鉱業発展の牽引車となった。

 以上の国土開発、産業開発はほとんどすべて日本からの投資
でなされた。たとえば1936年にまとめられた第一次産業開発5
カ年計画では、増産すべき分野として、電力、鉄鋼、石炭、ア
ルミニウムから、飛行機、自動車まで挙げられているが、その
投資総額は25億円で、同年の日本の一般会計歳出総額24億
円を上回る額であった。日本は膨大な人材と技術と資本をつぎ
込んで、満洲の発展に賭けたのであった。満洲国総務長官だっ
た星野直樹氏は、こう回顧する。

 その間、満洲の状態は一変した。治安は完全に確保され、
国内には一人の兵匪もいなくなった。農業国から立派な工
業国となり、総生産額は倍増した。国民生活は目覚ましく
向上した。東亜各地から集まってくる人は数多く、3千万
人であった人口は5千万人を超えるにいたった。・・・

 生まれ出た満洲国を、ひとり主導的地位に至った日本人
のみならず、ひろく東亜諸民族が力を合わせて開発、発展
せしめ、その恵福を、ひろく等しく各民族の間に分かち、
ここに新たなる楽天地をつくりあげようと、日本の若き人
々は進んで満洲国に集まってきた。・・・

 生命わずか13年、満洲国の建設はついに見果てぬ夢に
終わった。しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力
と苦心とは永久に日本民族の誇りとするに足るものである
と確信する。

■9.再び、略奪と戦乱の中華世界へ■

 満洲国は日本の敗戦ともに消滅した。日本降伏の6日前に満
洲国に侵攻したソ連軍は、全域の産業施設を略奪し、本国に持
ち帰った。その金額は約8億9千5百万ドルにのぼるとアメリ
カ・ボーレー調査団は報告している。

 そのあと、毛沢東は「もし、我々がすべての根拠地を失って
も、東北(満洲)さえあれば、それで中国革命の基礎を築くこ
とができる」と言って、満洲の確保に走った。全中国の重工業
の約90%を満洲が占めていたからだ。

 1945年10月になると、満洲争奪のための国民党と共産党と、
中国人同士が数十万人単位の死傷者を出して戦う凄惨な内戦が
始まった。こうして平和な高度産業国家として発展した満洲は
再び、略奪と戦乱の中華世界に飲み込まれていったのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(007) 国際派日本人に問われるIdentity
b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 中村粲、「大東亜戦争への道」★★★、展転社、H2
2. 黄文雄、「満洲国の遺産」★★★、光文社、H13

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「満洲 〜 幻の先進工業国家」について Hiroshiさんより

 私の母方の祖父が、満鉄の電気技師でした。もう亡くなりま
したが、当時のことはあまり話しませんでした。母も韓半島で
生まれ、満鉄の宿舎で暮らしていたそうです。終戦の直前祖父
は召集され、その後終戦。祖母と母と母の兄弟は、ソ連軍の難
民収容所で2年あまり生活したそうです。日本に帰るとき本当
に偶然に祖父と出会い、家族みんなで帰ってきました。そんな
話は何度か聞きましたが、満州国がそんなに発展していたとは
知りませんでした。

 学校の授業ではもちろん、そんなことが書いてある本も知り
ませんでした。事実を事実として教えない教育。また事実を隠
して、自国の外交戦略に使う中国・韓国・北朝鮮。その国に対
してまともに反論も出来ない日本政府。何とかならないもんで
すかね〜。ちなみに中国・韓国が嫌いではありません。妻が韓
国人ですから。
JTさんより

私の曾祖父は満州鉄道建設に携わったそうです。祖父も満州
で数年を過ごし、父は8つのときまで祖母と満州で生活してい
ました。映画「ラスト・エンペラー」などを見ると、軍事的、
政治的な、偏った視点からしか描かれることのない満州ですが、
その地で生活していた日本人や中国人一人一人の業績というの
が語られる機会は極端に少ないように思います。

 満州国で日本人が行ったことをすべて美化するのは間違いだ
と思いますが、国際批判を恐れてこの政府の長所を過去に葬り
去ってしまっては、この地に生きた人達の正しい評価が成され
ません。公平な歴史というものは存在しないものですが、批判
の中にも認められるべき長所は認める、というような歴史観を
すべての人が持てることを望みます。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 中国や韓国の押しつけるイデオロギー的な歴史観でなく、あ
くまで事実にこだわった学問的な歴史観を目指しましょう。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog239.html
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by thinkpod | 2006-08-13 05:16 | Books