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カテゴリ:Books( 27 )


2007年 10月 08日

アメリカの鏡・日本

Mirror for Americans: JAPAN

ヘレン・ミアーズ(Helen Mears)


概 要
1949年日本占領連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが日本での翻訳出版を禁じた衝撃の書。戦後50年記念出版(帯書きより)。
1.パールハーバーは青天の霹靂ではなかった。アメリカは、さしたる被害なしに日本に第一撃を仕掛けるように画策した。
2.原爆投下は必要なかった。それは日本に対して使ったのではなく、ソ連との政治戦争で使用したのだ。
3.終戦直後、「アメリカは日本を裁くほど公正でも潔白でもない」と主張したアメリカの女性歴史家ヘレン・ミアーズ。日米関係が軋む今日、日本人必読の書!


目次

  日本語版刊行にあたって……………白子英城 13

第一章 爆撃機から見たアメリカの政策……………15
  1 フラッシュバック 17  7 クワジャリン環礁 42
  2 島伝いの旅 23     8 罪なき傍観者 44
  3 ヒッカム基地 27    9 グァム 47
  4 パールハーバー 30   10 誰のための戦略地域か 49
  5 ジョンストン島 36   11 戦略的占領 58
  6 戦争犯罪とは何か 36  12 アメリカの墜落 67

第二章 懲罰と拘束……………75
  1 なぜ日本を占領するか 77
  2 攻撃と反攻 83

第三章 世界的脅威の正体……………93
  1 つくられた脅威 96    5 降伏受諾 142
  2 日本はいつ敗れたか 110  6 リーダーの資格 149
  3 サムライ神話 114     7 日本は戦略地域か 150
  4 銃もバターも 128     8 飢餓民主主義 152

第四章 伝統的侵略性……………157
  1 神道からの解放 159   5 日本とアメリカ−その生い立ち 181
  2 誰のための改革か 165  6 武士階級 195
  3 「歴史的拡張主義者」 169 7 「間違い」の歴史 202
  4 「伝統的軍国主義者」 175 8 思想からの解放 205

第五章 改革と再教育……………213
   1 リーダーシップ 215  4 中途半端なカは引き合わない 226
   2 歴史の証言 216    5 理論と実践 230
   3 初めの占領 220    6 教育者の資格 237

第六章 最初の教科 「合法的に行動すること」……………243
   1 歴史の復活 246
   2 韓国の奴隷化 250
   3 全体主義 259
   4 改革か戦略か 262
   5 国際教育なるもの 265

第七章 鵞鳥のソース……………269
   1 満州事変 271      5 リットン報告 286
   2 中国の歴史 273     6 日本は合法的に行動している 291
   3 攻撃と反攻 277     7 確立された満州の秩序 296
   4 アメリカの役割 279

第八章 第五の自由……………305
   1 イデオロギーか貿易か 308 4 誰の不公正競争か 317
   2 誰のための門戸開放か 308 5 飢える自由 324
   3 誰のための自由経済か 314


第九章 誰のための共栄圏か……………339
   1 戦略の失敗 341
   2 倫理の失敗 344
   3 日華事変からパールハーバーヘ 349
   4 英語圏 357
   5 誰のための共栄圏か 366

第十章 教育者たちの資質……………381
   1 有罪か、無罪か 384    4 逆向きのリーダーシップ 396
   2 力は引き合う 386    5 脅威とは何か 406
   3 韓国の解放 389     6 パワー・ポリテイクスは逆境射する 411

付録 1 大西洋憲章 419
   2 パールハーバー 420
 国務省総括/上下両院合同調査報告 420

訳者あとがき 425



内容紹介

日本語版刊行にあたって(白子 英城[アイネックス社長])
 戦後50年のいま、われわれ日本人は、現代の歴史を日本中心の観点だけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカを同じ時間帯で見すえるグローバルな視点から、なぜそうなったのか、をもう一度考え、議論し、そして現代史を総括しなければならないと思う。それによって、われわれ日本人が、過去にやってきたことで、何が悪かったのか、何が正しかったのかをしっかりと理解しなければならない。


第1章 爆撃機からみたアメリカの政策 P.15
Bombsight View of Unanswered Questions of United States Foreign Policy
 [要約]
 著者が1946年占領政策に参画するために来日する際、真珠湾、グアムなど太平洋の島に立ち寄った折りに見聞きした事柄にふれながら、本書の基本的な考え方を示す導入部。10章のうち2番目に長い。
 [抜粋]
 1)パールハーバーは戦争の原因でなく、アメリカと日本がすでに始めていた戦争の一行動にすぎないようだ。したがって「なぜ日本がわれわれを攻撃したか」を考えるなら、「なぜわれわれは、すでに日本との戦争を始めていたか」について考えなければならない。
 2)第3次世界大戦を防ぐためには、まず、第2次世界大戦の事実を整理する必要がある。
 3)日本軍がフィリピンで犯した残虐行為は、日本の歴史にとって永遠の汚点となるだろう。日本兵が残酷で残忍であったことは明らかな事実だ。それでも、山下裁判とマッカーサー声明の根底にある考え方は受け入れがたい。戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。
 4)追いつめられてヒステリー状態にあったとはいえ、2千人の非戦闘員を殺すことは、もちろん恐るべき犯罪である。しかし、絶体絶命の状況の下で戦っているわけでもない強大国が、すでに事実上戦争に勝っているというのに、1秒で12万人の非戦闘員を殺傷できる新型兵器を行使する方が、はるかに恐ろしいことではないのか。山下将軍の罪は、なぜ広島、長崎に原子爆弾の投下を命じたものの罪より重いのか。


第2章 懲罰と拘束 P.75
Punish and Restrain
 [要約]
 なぜ日本を占領するか。米国が罰しようとしている日本の犯罪とは何か。日本の立場からの反論も述べている。この本の中で一番短い章。
 [抜粋]
 1)占領の目的は1945年9月19日、D・アチソン国務長官代行が語った言葉に要約される。「日本は侵略戦争を繰り返せない状態におかれるだろう。戦争願望を作り出している現在の経済・社会システムは、戦争願望を持ち続けることができないように組み替えられるだろう。そのために必要な手段は、いかなるものであれ、行使することになろう」
 2)私たちの告発理由は「殺人」である。世界征服の一段階として、アメリカに対し「一方的かつ計画的攻撃」をかけたというパールハーバーの定義が告発の基礎なのだ。

第3章 世界的脅威の正体 P.93
Hindsight View of a World Menace
(Hindsight;目先の利かないこと[Forsightの対]、Menace;脅迫)

 [要約]
 日本が降伏した理由、日米の工業力・軍備の差、原爆投下の正当性に対する疑問など。第1章の英文タイトルとの対比に注意。この本の中で一番長い章。
 [抜粋]
 1)なぜ日本は降伏したのか。世界で「最も軍事主義的国家」であり、「ファナスティックな好戦的民族」がなぜ、武器をおいて占領を受け入れ、精いっぱい友好的な顔をして征服者に協力しているのか。
 日本民族は好戦的ではなかった。日本の戦争機関は、占領や原爆投下のずっと前に完敗していたのだ。
 2)1942年5月には、早くも私たちは日本軍の進撃をくい止めた。しかし、日本軍は別にアメリカ本土を目指していたわけではない。アメリカとオーストラリアの連絡路を切断するために前進していたのだ。1942年6月のミッドウェー海戦で、私たちは「海軍航空力の優位を確保し・・・その結果海軍力全体の優位」を確実にしていた。
 3)パールハーバーの時点で日本の陸海軍が持っていた飛行機は全部で2,625機だった。
アメリカと連合国が太平洋の基地に配置していた飛行機は1,290機にすぎない。一見して日本の方が圧倒的に有利に思える。しかし、日本の飛行機は満州から太平洋まで、広く薄く配備しなければならなかった。月間生産量はわずか642機で、9ヶ月間このままの数字で推移している。1944年9月に月間生産量は最高の2,572機に達したが、それからすぐ原材料不足のために落ち始める。私たちのほうは1941年6月には月間1,600機の飛行機を生産していた。以後生産量は急速かつ着実に伸びて、1943年には9千機に達していた。1945年には私たちの1年間の製造機数は、日本が1941年から降伏までに製造した飛行機の2倍にのぼっていた。その上日本はアメリカの一に対して十の割合で飛行機を失っていた。
 4)私たちはたった11日待った(ポツダム宣言の後)だけで、いきなり1発の原子爆弾を、そして2日後(原文のママ)にはさらにもう一発を、戦艦の上でもない、軍隊の上でもない、軍事施設の上でもない、頑迷な軍指導者の上でもない、二つの都市の約20万の市民の上に投下した。しかも犠牲者の半数以上が女子供だった。
 原爆が投下されなくても、あるいはソ連が参戦しなくても、また上陸作戦が計画ないし検討されなくても、日本は1945年12月31日以前、「あらゆる可能性を入れても1945年11月1日までに」無条件降伏していただろうという意見をつけている(米戦略爆撃調査の公式報告)。
 5)ソ連は中国領土内の一定領土及び財産を確保することを条件に、対日戦に参戦することを約束した(1945年2月7日のヤルタ会談における米ソの「最高秘密」合意)。


第4章 伝統的侵略性 P.157
Traditionally Agressive
 [要約]
 神道の意味、近代日本の変貌とその意味、日本と米国の生い立ちの違いなど。日本は伝統的な軍事主義国家かについても述べている。
 [抜粋]
 1)私たちの戦後対日政策には、神道と「天皇制」は本質的に戦争を作り出すものであるという考え方が組み込まれている。
 神道と天皇崇拝は日本人の民族感情にとって重要な文化と宗教の伝統を表すものだった。これは、他の民族が固有の文化、宗教の伝統を持っているのと同じ国民感情である。伝統の力が強ければ強いほど、国家存亡の時には、戦争計画への国民統合に利用される。しかし、伝統が戦争の大義なのではない。ひとたび戦争が決定されると、伝統は防衛という名の戦争計画の背後に国民を統合するための手段となる。そうすることによって、為政者は複雑な戦争理由をわかりやすくするのである。
 国家神道は、1868年、西洋の指導に応えて出てきたものだ。近代国家以前の日本では、神道は自然と祖先に対する信仰であり、習俗であった。
 2)私たちは、日本人の性格と文明を改革すると宣言した。しかし、私たちが改革しようとしている日本は、私たちが最初の教育と改革で作り出した日本なのだ。
 近代日本は西洋文明を映す鏡を掲げて、アジアの国際関係に登場した。私たちは日本人の「本性に根ざす伝統的軍国主義」を告発した。しかし、告発はブーラメンなのだ。日本の伝統的な発展パターンは、十九世紀半ば、アメリカを含む西洋列強の侵入と、ダイナミックな欧米文化の外圧的導入によって壊され、二つの異種文明が混在する日本が出現した。
 3)ペリーからマッカーサーまで一世紀足らずの間に、日本は農業、手工業を中心とする交換経済から、産業、貿易中心の資本主義経済に移行した。そして、半独立の藩からなる緩やかな連合体は高度に中央集権化された国家に変わり、孤立主義を守る小さな島は軍国主義的、帝国主義的大国に変貌した。
 近代日本は西洋の帝国主義列強に対抗するために帝国の伝統という虚像を身につけたのだった。


第5章 改革と再教育 P.213
Reform and Re-Educate---First lesons
 [要約]
 日本はもとは軍国主義的ではなかった。日本もかっては半植民地だった。欧米列強も日本の近代化を歓迎していた。米国に日本を教育する資格があるのかなど。
 [抜粋]
 1)ペリー以後の近代日本が、侵略的であり、拡張主義的であったのは確かだ。しかし近代以前の日本が平和主義であり、非拡張主義であったことも確かだ。
 2)日本人は生まれつき軍国主義者であり、拡張主義者であるという宣伝文句ほど、私たちを混乱させるものはない。
 15世紀、朝鮮に攻め入った孤独な将軍の遠征をとらえて、日本民族を生まれつきの軍事主義者と決めつけるなら、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして私たち自身のことはどう性格付けしたらいいのだろう。これら諸国の将軍、提督、艦長、民間人は十五世紀から、まさしく世界征服を目指して続々と海を渡ったではないか。
 3)日本の歴史を日本の立場から説明すれば、日本人は世界を征服する野望にとらわれていたのではない。世界のどこの国にも征服されたくないという気持ちに動かされてきたのだ。
 4)この時期(1854年頃)から、十九世紀末までの日本はいわば半植民地だった。欧米列強の代表たちは、貿易のすべてを管理し、税率と価格を決め、沿岸通航を独占し、日本の金を吸い取り、99年間の租借権と治外法権に守られて日本に住んでいたのだ。
 5)しかし、十九世紀後半になると、もはや外界と隔絶することも、時間をかけていることもできなくなった。日本は妥協を許さない欧米人を閉め出すことができなかった。欧米は自信を持った。科学と機械力で自信をつけた欧米人は、自分たちはアジア人やその他の「後れた」人種より本質的に優れていると確信して植民地に対していた。欧米の行動様式は欧米人が「正しい」と認めたものであり、それ以外の行動様式は「間違い」だった。欧米に順応すれば「進歩」であり、順応できなければ「反動」とされた。
 6)私たちが戦争戦後を通じて、日本を非難する理由は、この中央集権的経済体制の発展が「全体主義」的であり、「戦争願望」を作り出したというものである。しかし、当時の欧米列強はこの発展を歓迎していたのだ。文明の後れた韓国と中国に西欧文明の恩恵をもたらす国、近代的秩序と規律を持つ国家が必要だった。だから日本の近代化が求められていたのだ。


第6章 最初の教科書「合理的に行動すること」 P.243
First Lessons ---"Do It Legal"
 [要約]
 1854年当時のロシアなどの状況、韓国の奴隷化、日本が最初に学んだことなど。英語のタイトルにあるFirst Lessonsは前章のタイトルのFirst Lessonsを受けている。2番目に短い章。
 [抜粋]
 1)1854年、アメリカが他に先駆けて日本を国際潮流に引き入れることができたのは、イギリスとフランスがロシアの地中海進出を阻止するために、クリミア戦争でトルコ帝国の支援するのに忙殺されていたからだ。英仏両国にしてみれば、ロシアの地中海進出は、極東に展開する自分たちの帝国と勢力圏にいたる独占ルートを脅かすものだった。
 地中海で阻止されたロシアは、太平洋への出口となる不凍港を求めて、北東アジアへの進出をはかった。ロシアは英仏が中国から力で引き出した譲歩を利用して、日本と朝鮮北部に隣接する沿海州とウラジオストックを確保した。そして、日本本土の北に位置し、地理的には日本列島の一部である樺太と千島列島に入り込んだ。
 2)いまになってみれば、日本が韓国を「奴隷化した」ことは明らかだ。日韓相互防衛のため、自国を併合してほしいと日本に要請した韓国皇帝の請願は侵略を糊塗するための法的擬制(リーガル・フィクション)であることも明らかだ。
 3)日本と中国の関係は、全(九カ国)条約当事国と中国の関係がそうだったように、主権国家間の関係ではなく、大国と半植民地の関係だった。
 4)国際関係の問題を正しく理解しようとする人なら、日本に対する最初の教育が問題を見事に解明してくれることに気づくだろう。今日私たちは「法と秩序」「条約の尊重」「国家の平等」「領土保全」「個々の人間に対する人道的配慮」といった、誰も否定できない原則にたって日本を非難している。しかし、最初の教育で日本は、そうした原則は文字に書かれた教典ではなく、力の強い国が特権を拡大するための国際システムのテクニックであることを、欧米列強の行動から学んだのだ。
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by thinkpod | 2007-10-08 16:26 | Books
2007年 10月 08日

アメリカの鏡・日本(下)


第7章 鵞鳥のソース P.269
Source for the Gander(タイトルの意味については[抜粋]10)を参照)
 [要約]
 満州事変のいきさつと、欧米各国のとった態度。ここに太平洋戦争の発端がある。
 [抜粋]
 1)懲罰と平和の問題は、口で言うほど単純なものではない。まず第一に、満州事変に対する一般の見方が、きわめて複雑な事件を極端に単純化していることだ。第二に、一般に行われている日本非難は道義と人道を基盤にしているが、外国の侵略を押し止めるのは道義ではなく、国際法である。私たちが日本を罰する権利は、庶民感情や理想によっているのではない。超大国アメリカの工業力と軍事力を後楯にした米国務省の決定によっているのだ。
 2)満州事変は、その後の日華事変同様、この複雑な状況の論理的帰結だった。韓国問題のときと同じように、大きな問題は中国での「権益」を守り、拡大しようとする西洋列強同士の対立だった。争っているのは、日本と中国ではなく、日本と欧米列強だったが、ロシア革命で状況が複雑になった。これによって中国の共産主義思想が日本の勢力拡大より大きな脅威になろうとしていたのだ。さらに問題を複雑にしたのは、アメリカの立場である。理想主義的政策を支持していたアメリカが、いまや即物的、国家主義的言葉でしか理想を語れなくなったことにいらだっていた。
 3)アメリカ国内の世論は、この事件(満州事変)にそれほど関心を持っていなかったが、一応は中国を支持した。国際連盟加盟の小国はどちらかといえば中国についたが、大国の政府は態度をはっきりさせなかった。彼らにとって、問題は日本の意図だった。もし事件が日本の主張どおり、「法と秩序」を回復し、日本の「合法的財産」を守るための通常の「警察行為」なら、日本の法的立場は強い。日本は条約上の権利の枠内で行動したことになる。しかし、日本が満州併合を策しているなら事情は違ってくる。
 4)アメリカと連盟がゆっくり動いている間に、満州の事態は急展開した。連盟が設置した調査委員会(リットン調査団)が満州に到着する前の1932年2月29日、満州人代表が瀋陽に集まり、中国からの独立と、独立国家満州国の樹立を宣言した。そして、リットン調査団が報告書を連盟に提出する前の1932年9月15日、日本は新しい国を独立国家として「承認」したのである。
 5)しかし、日本は行きすぎたようである。1932年1月、満州事変は抗日運動が盛り上がる上海に飛び火した。上海の租界に権益を持つ各国の軍隊が警備体制についた。日中両国軍が衝突し、日本軍は中国側の拠点チャペイを攻撃した。各国は共同租界の周辺で起きたこの衝突に強い懸念を抱き、アメリカとイギリスは日本政府に抗議文を送った。何度か交渉が重ねられた結果、戦闘はやんだが、五月まで事態は収拾されず、日本軍は撤退しなかった。
 6)日本にとって、リットン報告の見解は「法的」にきわめて重要である。もし、ある「軍閥政権」が外国勢力に認められたというだけで「中央政府」になれるなら、大国である日本が自分の勢力圏内にある望ましい政権を中央政府として認めてならない理由はないのだ。もし、中国の中央政府が報告で明確にされているように法的擬制なら、日本の満州も同じである、と日本は考えたのである。
 7)日本がリットン報告にびっくりしたのは当然である。報告は日本の誇りを傷つけただけでなく、アジアの大国としての地位を根底から脅かすものであった。心理的衝撃は、日本は西側先進国ではないとされたことである。日本は五大国の高い席から、アジアの後進民族と同じ地位に引きずり下ろされたのである。
 8)そこで日本人は、こうした非難は日本の行動に対してではなく、人種に向けられたものだという結論に行きつく。中国人もリットン報告を子細に読めば、同じ結論に達しただろう。国際連盟がリットン報告を受け入れ、連盟とアメリカが満州国を独立国として承認しなかったことから、日本は連盟を脱退した。
 9)日本が満州で治外法権を放棄したことに対してもそうだ。欧米諸国が日本の行動に拍手を送ってあとに続けば、むしろ日本の侵略を非難しうる堅固で正当な論理的基盤を作れるはずだ。ところが、満州には欧米諸国の特権的地位を奪う権利はないと激しく攻撃したのである。
 10)雌鵞鳥(グース)のソースは雄鵞鳥(ガンダー)のソースにもなる(訳注;西洋人に許されるなら、日本人にだって許される)のだ。


第8章 第5の自由 P.305
The Fifth Freedom
 [要約]
 日本側からみた満州事変の意義とアメリカの説明、日本にとっての満州の必要性、戦後の米国(連合国)の対日政策など。
 [抜粋]
 1)戦争原因を考えるに当たって、私たちは人種的、思想的側面にこだわりすぎ、経済的要因を無視している。日本の視点からいうなら、この戦争はアジア民族がアジアの支配勢力として台頭するのを阻止し、米英企業のために日本の貿易競争力を圧殺しようとする米英の政策が引き起こしたものだった。
 それが米国政府の意図だったという見方は、アメリカ人なら誰も認めないだろうが、実際に行われた政策と米国政府の公式説明は、まさに日本の解釈を裏付けているといわざるを得ない。
 2)日本が私たちの政策を(1)イギリスを全面的に支持する、あるいは(2)自分たちには必要ないが、とにかく日本にだけは渡したくない、あるいは(3)アジアでの戦略的利益を守る、ための政策であると考えたのも当然だった。
 3)政策を判断するには、常に「平和と人類の幸福」という一対の物差しが必要だ。
 4)戦後日本の絶望的状況にぶつかったアメリカの政策立案者は、政策を転換し始めた。日本の再建に数十億ドルの政府借款供与が考えられている。しかし、これは国民生活を考えてのことではなく、日本を対ソ連基地にすることが狙いらしい。同時に、米国企業は対日投資の効果を考え始めているようである。連合国の政策で破産した日本に資本を投入して、アジア市場への足場を築くという考え方が出ているのだ。


第9章 誰のための共栄圏か P.339
Whose Co-Prosperity Sphere?
[要約]
 満州事変における連合国対日政策の失敗原因、日支事変さらに第二次世界大戦突入へのいきさつ、日本の立場と欧米の立場、現代への教訓など。
[抜粋]
 1)私たちの目的である平和と人類の幸福を達成するための国際関係システムに向けて、私たちが指導的役割を果たせるかどうかの問題である。
 満州事変に対する大国の政策の失敗原因は、はっきりしている。人道的目的というものは、パワーポリティクスの技術や特殊権益を考えていては達成できない。
 2)1941年にようやくイギリス、オランダ、アメリカは対日貿易の断絶に踏み切ったが、もし1931年か1932年の時点でそうしていたら、日本は立ち往生していたはずだ。
 3)戦略的に見ると、列強の政策は、(1)日本が拡張に向かわざるをえない心理的、経済的要因を強め、(2)同時に、日本が公然たる反抗を考えるほど強くなるのを助けて、失敗したのだ。
 一方で、日本をイギリスの安全保障体制の一部として利用しようとする考えが、依然としてあった。日本を混乱状態にある満州地域の警察官にする。中国とロシアの緩衝材としてつかう。中国で共産革命が起きた場合に日本の力を借りる。中国の民族主義に対抗して、日本を条約国の統一を守る助けとする、という考え方があった。
 4)民主主義国の倫理面での失敗はもっと深刻である。
 米英二大国が1931年に満州事変に懸念を表明したとき、同時に治外法権を返していたら、不平等条約を放棄していたら、租借地と割譲地を返還していたら、自国の艦船と軍隊を撤退させていたら、満州を侵略であると厳しく断じることができただろう。
 5)日本からみれば、問題はきわめて簡単だった。つまり、(1)満州に「合法的自衛」手段としての戦略拠点を確保し、(2)日本帝国圏(韓国と台湾)と満州、華北からなる経済ブロックを作って経済の安全保障を確立しようというのが日本の計画だった。そうすれば、これまでのように原材料物資と市場をアメリカ、イギリス、フランス、オランダに依存しなくてもすむ。
 6)この時点までイギリスは蒋介石と日本の双方を牽制しつつ支援していたが、華北が独立を宣言し、日本と満州が共同して関税同盟と経済ブロックを結成する可能性が強まってくると、危機感を抱くようになった。イギリスは華北に大きな「権益」を持っていたから、支配的地位から降りようとはしなかった。そこで、イギリスは通貨再編成のために金融専門家、フレデリック・L・ロス卿を送り込み、銀の国有化計画を成功させて、蒋介石を外交的にも財政的にも強化した。同じころ、国民党大会初日の記念写真におさまろうとしていた汪精衛は、カメラに隠されていた銃に撃たれた。
 7)1937年11月、日本は支配地域に共産主義の侵入を許さないための「自衛手段」と称して、独伊反共条約に加盟した。
 8)1941年7月、アメリカ、イギリス、オランダは共同で各統治領内の日本資産を凍結し、貿易関係を全面的に中断した。
 9)日本は、戦うか、三国の条件をのんで小国に身を落とすか、の決断を迫られることになった。日本の内閣は総辞職した。近衛公が去り、東条大将がやってきて、凍結措置は戦争行為であると無造作にいい放つ。次にくるのは必然的にパールハーバーとシンガポールの攻撃である。日本にいわせれば、これは当然の自衛行為であり、「帝国の存立」をかけた攻撃だった。そして戦争を論理的に正当化する法的擬制は大東亜の解放だった。
 10)1934年、日本外務省情報部長(スポークスマン)、天羽英二が新外交政策を発表した。これは日本のモンロー・ドクトリンと呼ばれ、やがては大東を共栄圏に発展して行くものだが、この政策で日本は、日本だけが極東平和の責任を負っていること、中国にいる外国勢力が平和と秩序を乱すような行動をとったり、中国と日本の間に紛争をもたらすような行動をとった場合、必要なら武力をもってこれと対決することを明らかにした。日本外務省は、中国のいかなる政府に対しても、政治的借款の供与、政治顧問の提供は、一切禁止されると述べた。
 米国政府は、日本がこの政策を「モンロー・ドクトリン」と呼び、アメリカの対中南米政策になぞらえようとしていることが許せなかった。しかし、日本から見れば類似性は明白なのである。問題は、私たちが日本と中国の関係だけを考えていたのに対して、日本は中国を支配している欧米列強と日本の関係であると考えていたことにありそうだ。アメリカのモンロー・ドクトリンはヨーロッパの支配が西半球まで及ぶことに反対するものだった。
 11)国際関係を考えるさい、私たちは植民地体制の持つ意味を無視しているが、これは日本の犯罪に対する態度より、はるかに広い意味で重大である。満州事変と日本の共栄圏構想を再検証すれば、なぜ旧国際連盟が平和を守れなかったかが浮かび上がってくる。そして、現在の国際連合の間違いが見えてくるのである。
 12)そこで、日本人は、今日のフィリッピンがかっての満州国と何ら変わらない存在であることに気づくのである。
 13)満州事変とインドネシア事変(インシデント)は驚くほど似通っている。オランダは、日本が中国で行ったことを、インドネシアで行っている。これはかって中国が非難した行動なのだ。
  今日蒋介石の中国が置かれている立場は、日本が最初の教育の時に置かれていた立場と同じである。アメリカ人はこの類似性について真剣に考えてみる必要がある。
 14)日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返している。大戦中日本は、実際に、占領したすべての地域に現地「独立」政府を樹立していった。
 15)すべての国が、法的擬制は敵だけでなく自分たちも持っていることを認める必要がある。東アジアの原住民が信託統治、あるいは非自治地域、あるいは戦略地域の名目で欧米の行政管理下にはいるほうが、植民地や信託統治領の行政のもとにいるより好ましいと考えているとは思えない。この人々にしてみれば、戦争は単にアジア人支配者を追放したにすぎない。そして英語圏がその足場を固め、アジアに近づいたというだけのことなのだ。


第10章 教育者たちの資質 P.381
Notes for Educators
[要約]
連合国の教育者としての適切性、日本の成功がアジアの知識人に与えたインパクト、パワー・ポリティクスに対する警鐘、イギリスの安全保障システムの評価など。
[抜粋]
 1)日本と日本人の罪と罰という問題は単純ではない。確かに、日華事変の記録を普通に読めば、日本の指導部と軍隊の行為すべてが犯罪であるということができる。彼らの重大な犯罪には「情状酌量」の余地がない。彼らは残忍にも非戦闘員を爆撃した。彼らは他人の財産を略奪し破壊した。彼らは何百万の民衆に恐るべき惨禍をもたらした恐怖のの戦争の遂行者である。
しかし、日本が実際に「人類に対する罪」を犯したとしても、私たちが日本国民を懲罰するのは果たして正義だろうか。また、現在行っている懲罰が将来起きるかもしれない同様の犯罪の抑止力たりうるだろうか。答えは否(ノー)である。西洋列強が極東で行ってきたことをふり返り、戦争中の私たちの行動を認識し、私たちの現在の政策と連合国の戦争政策を日々の新聞紙上で追うならば、日本を有罪にしても民主主義諸国の罪は拭えないことがわかるのだ。日本が犯した罪は実際には何であったか、私たちが何で日本を罰しているのか、私たちがどういう根拠で罰せられるより罰する立場にいるのか、将来現れる侵略者にはたぶん理解できないだろう。
 2)日本の本当の罪は、西洋文明の教えを守らなかったことではなく、よく守ったことなのだ。それがよくわかっていたアジアの人々は、日本の進歩を非難と羨望の目で見ていた。
 3)政治意識を持つアジア人は日本の輝かしき成功からなにを学ぶべきか、よく理解していた。中国の革命指導者、孫逸仙(孫文)は「三民主義」の中で次のように書いている。
 ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。日本はアジア問題の代弁者だった。他の諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。白色人種にできることは日本人にもできる。人間は肌の色で異なるが、知能には違いがない。アジアには強い日本があるから、白色人種は日本人もアジアのいかなる人種も見下すことはできない。日本の台頭は大和(日本)民族に権威をもたらしただけでなく、アジア全民族の地位を高めた。かってわれわれはヨーロッパ人がすることはわれわれにはできないと考えていた。いまわれわれは日本がヨーロッパから学んだことを見、日本に習うなら、われわれも日本と同じように西洋から学べることを知ったのである。
 4)日本を見ればわかる。イギリスとアメリカに治外法権をは外してもらい、対等の主権国家として扱ってもらえるまでに45年かかった。中国はイギリスとアメリカに特権と治外法権を返上してもらい、対等の主権国家として認められるまでに104年かかった。
 5)今日、私たちが日本の韓国「奴隷化」政策を非難するのは、要するに日本の植民地経営が著しく拙劣だったからである。しかし、一般に進歩の基準とされている、病院、学校、官庁(とくに現地行政機関)に占める韓国人の割合、通信施設の整備、産業化、資源開発などの分野でみると、日本の経営は他の植民主義諸国と比べて劣っていなかったばかりか、むしろ勝っていたといえる。
 6)国際問題を正しく理解するには、ヤルタ協定をもっと詳細にみる必要がある。ヤルタ協定を考える場合、(1)満州の歴史、(2)私たちがパワー・ポリティックスと「暴力と貪欲」を否定するに際して、イギリスとアメリカの政策立案者が発した高邁な宣言、(3)ヤルタの取り決めにおける中国の立場、(4)国際関係における「合法性」の概念、の諸点からみると、西洋列強が「後れた」地域を「指導」する場合の教育システムの間違いが、実に鮮やかに浮かび上がってくる。
 7)もう一つの「合法性」に関わる問題がある。ヤルタ会談の時点では、ソ連は日本と戦争していなかった。そればかりでなく、日本との間で不可侵条約を結んでいたのだ。イギリスとアメリカは、具体的条件を出して、ソ連が特定の期日をもって不可侵条約を破棄するお膳立てをしていたのだが、両国代表団はそれを違法とは考えてはいないのだ。その結果として、アメリカは8月6日(1945年)原爆を投下し、ソ連は8月8日宣戦を布告、翌9日に参戦した。
 8)アジア人は一連の出来事をパワー・ポリティクスの最もひどい見本と思っているはずだ。アメリカ人に、それがわからないなら自己欺瞞である。
 ヤルタ会談は、パワー・ポリティクスの実習としては画期的なものである。
 9)私たちが掲げる平和と人類の幸福という目的に即してこのシステム(イギリスの安全保障システム[今日ではアメリカの防衛システムだが])をみると、明らかに不利となる事実を二つ指摘することができる。
第一は、日本はイギリスとアメリカの全面的協力がなければ、軍事大国になることができなかったということである。第二はソ連に関する事実である。イギリスのパワー・ポリティクスの絶えざる刺激がなかったら、ソ連はどうだったろうか。はっきりしているのは、平和を維持し、ソ連を抑止する目的でデザインされたイギリスのシステムは、そのいずれの目的も果たせなかったということである。パワー・ポリティクスは日本とソ連ではあらかに逆噴射したのだ。
 10)日本を近代的軍事・工業国家に育てる中で、いくつかのことが見落とされていた。つまり、工業化はダイナミックなシステムに向かうこと、力はさらなる力の必要と渇望を生み出すこと、そして「安全な」同盟国は力を強めることによって安全でなくなること、パワー・ポリティクスが支配する競争世界で、ひとたび覇権の拡大(あるいは「合法的」拡張)に向かうと、物資と市場を競争相手に依存しているという事実が不安感と不信感を醸成させ、より多くのものを求めずにはおかない過剰「安全性」に駆り立てること、西洋列強がコミットメントでアジアに深入りし、日本がコミットメントで満州と華北に深入りしたように、コミットメントというものは国家を追い込むものであること、が見落とされていた。

付録 P.419
 1.大西洋憲章
 2.パールハーバー
  国務省総括/上下両院合同調査報告


訳者後書きより
 1.「日本はなぜパールハーバーを攻撃したか」「なぜ無謀な戦争をしなければならなかったか」白子氏の疑問であるとともにミアーズがこの本を書いた動機でもある。
2.原題を直訳すると「アメリカ人(複数)のための鏡・日本」だが、このタイトルでミアーズがいおうとしていることは、こうである。「近代日本は西洋列強が作りだした鏡であり、そこに映っているのは西洋自身の姿なのだ。」
3.「私たち」には近代日本の犯罪に西洋文明が深く係わったというミアーズ自身の痛みが込められている。
 4.ミアーズの「私たち」は、アメリカという国家であり、アメリカ国民であり、あるいは欧米植民地主義国家であり、西洋文明であり、キリスト教社会である。
 5.すなわち、原題の「アメリカ人」は、ミアーズの意識では西洋的価値観を体現する「私たちアメリカ人=アメリカ」であると解釈することができる。


著者(ヘレン・ミアーズ)紹介
 1900年生まれ。1920年から日米が開戦する前まで二度にわたって中国と日本を訪れ、東洋学を研究。戦争中はミシガン大学、ノースウエスタン大学などで日本社会について講義していた。1946年に連合国最高司令官総司令部の諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定にたずさわった。1948年「アメリカの鏡・日本」を著す。1989年89歳で没した。

http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_mirror.html
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by thinkpod | 2007-10-08 16:19 | Books
2007年 04月 12日

日本の危機

 万人普遍の権利として人権に対することの出来ない人
権専門家が日本には余りに多いのではないか。このよう
な人が、実は、自らも実現に努力している人権を、意識
せず蝕んでいるのではないか。
 この点について日本全体を見るとき、日本の知性を代
表すると言われる大新聞でさえも、心許ないことがある。
 作家の柳美里氏は、小説『石に泳ぐ魚』で、「友人の
プライバシーを承諾なしに小説化した」とされ、名誉毀
損で訴えられた。小説に登場する友人は、留学先、経歴、
苦しんできた顔の障害など彼女の属性をなぞって描かれ
ている。
 柳氏は「作品は、顔の障害を障害と感じさせない賛歌」
として書き換えも行ったが、裁判となり、結果として同
書を出版差し止めとする判決が下された。その時、朝日
新聞の記者が取材に来て、次のように語ったという。
「貴女が日本人だったら、もっと貴女を叩いただろう。
原告が日本人だったら、記事にしないかもしれない」
 名指しされた『朝日』の記者は否定したが、柳氏はあ
くまでも主張した。
「『朝日』が私を擁護するのも、私が在日韓国人だから
というのは否めない。それこそが差別です」
 守るべき人権に、差がつけられているのだ。特定の人
々の人権は、他の人々の人権よりも重んじられるという
実態がある。人権論のダブルスタンダードである。

罷り通る“悪平等”

 人権は、どんな状況下でもどんな人に対しても、断固
として守るべき最重要の価値観である。思想、信条も、
政治観も、言論表現の自由も、立場によって制限されて
はならない。しかし、現実はどうか。人権の実現を目指
しつつかえって人権を損ねている事例が目につく。
 やや特殊な例かもしれないが、「人権教育」で知られ
る広島県をみてみよう。
 広島県議会で、熱心に教育問題をとりあげてきた石橋
良三議員が語った。
「広島県では、学校教育全体が人権によって仕切られて
います。『道徳』の授業が『人権』と名称変更されてい
る程、熱を入れています」
 広島県福山市の関係者が語った。
「福山の人権教育を一言でいうなら、平等と権利の過剰
教育です。人間には個性があり、能力の差がある。それ
はだれもが分っている。ところが教育がそれらを奪い取
り、かえって没個性となっています」
 広島市の元PTA役員も言う。
「人権教育の柱は、“差別・選別をしない”です。結果
として先生はいつも生徒と同じ目の高さにいなければな
らない。ですから、普通にあるような授業の始め方“起
立、礼”さえもありません。“はい、静かにして”“席
について”と何となく始まり“ここまで”と何となく終
わるんです。
 朝礼でも、“前へならえ”“気をつけ”“休め”は軍
国主義だとしてやりません。うちの子は“回れ右”も出
来ないんです」
 別の元PTA役員も述べた。
「最も顕著なのが運動会です。入場は“行進”ではなく
ただ歩くだけ。ラジオ体操もダメ、徒競走は、あらかじ
め全員のタイムを計り、タイムの近い子同士で走らせる
ので、一人だけ飛び抜けて一着になる、或いは大きく離
されることはありません。選手のリレーなどもっての外
です。差をつけることは差別だというのです。見ていて
これほどつまらない運動会もありませんよ」
 広島市議会の児玉光禎議員が述べた。
「“結果としての平等”を作り出す悪弊が横行していま
す。その結果なにがおきたか。学力の低下です。広島に
は約三万人の高校生がいて、内二万人が公立、一万人が
私立です。広島大学への進学率は県全体で二三%、公立
からはわずか一一・九%です。特に公立高校の学力の低
下がひどい。地元からの進学率が低いので、近県からは
“草刈り場”と言われるくらいです」
 九五年の国公立大のセンター試験をみると、かつて教
育県といわれた広島県は、今、総合平均で四十七都道府
県中、四十二位だ。
「県北部のある高校では、進路指導でセンター試験を受
けるなという所もあると聞いています。“選別につなが
るから”というのが理由です。広島の子供たちは他県の
子供に較べ、それだけ、教育権を奪われているというこ
とです」
 と児玉議員。
 福山市のある親が訴えた。
「公立学校の学力低下で、県内外の私学や国立大学付属
校への進学を志望する親や子供も多いのです。ところが
人権教育絶対の教師は、これが気に入らない。先生は“
なぜ私学か”“なぜ県外か”と苛めるのです。
 私の娘も、六年生の時、クラスで一人だけ私学を志望
し、先生だけでなく、クラス会や児童からも責められ、
一週間食事もできない程になりました」
「大切」にされているはずの人権が、「差をつけない」
「選別しない」という価値観によって踏みつけられてい
るのだ。子供も親も自分の望む学校に行く権利や選ぶ自
由をも奪われている。ここまでくると「差をつけない」
「選別しない」ことは、人権とは似て非なるものになる。
 こうした点について、現場の先生の意見をきくため広
島県教職員組合に取材を申し込んだが、応じられないと
のことだった。そこで実際の「人権教育」の内容をみて
みる。
 広島市のある中学校で使用されている「人権学習」の
教材「国際社会に生きる私たち」は、一頁目に日本国内
の外国人登録者数の推移をみせて、続く頁で、在日外国
人の国籍別人数を答えさせている。
 同じ教材の他の頁の「日本が支配した36年間の歴史」
の質問が目をひいた。生徒が空欄に答えを入れる仕組み
だ。

 (  )を奪う―土地調査
 (  )を奪う―産米増産計画
 (  )を奪う―関東大震災での虐殺
 (  )を奪う―朝鮮教育令
 (  )を奪う―創氏改名
 (  )を奪う―強制連行
 (  )を奪う―徴兵制

 答えは、右から土地、米、生命、民族、名前、労働力、
生命である。
 元PTA役員の父親が語った。
「子供の学校の人権教育で『アジアを学ぼう』というの
があるんです。一見すると近隣諸国について学ぶと思い
ますよね。ところが学校内の『アジア交流の部屋』には、
朝鮮のお金や民俗玩具、チマ・チョゴリなどを展示して
います。小学校四年生でキムチの漬け方の授業まである
のです。でも殆どの親は、学校でそんな授業が行われて
いるのを知りません。授業が終わると、教材は先生が回
収しますから」
 広島県内各地で教えられている「人権」の特徴のひと
つが朝鮮民族の人権や民族性を強調するものであること
がみえてくる。
 この種の人権教育で授業時間がとられ、福山市内の学
校では、文部省で決められた授業時間の八割しか実際の
授業は行われていない。
 元PTAの役員が言った。
「これこそ、人権に名を借りた子供たちへの逆差別です」
 広島市の主婦も訴える。
「何も知らない母親にとって、人権、平和、民族という
のは水戸黄門の印籠のようなものです。全てよいもので
疑義を唱えることもできない。もし本当にそれがよいも
ので、教育によって行き届いているならば、目上目下の
区別もなく何かというと権利ばかりを主張する子供たち
を作り出す、今のようなひどい学校になっていないはず
です。
 私たち母親は悪平等を子供に教えてほしいとは思いま
せん。代わって道徳教育を望んでいます」

http://www.shinchosha.co.jp/books/html/127221.html


Amazon.co.jp: 日本の危機: 本: 櫻井 よしこ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101272212/lesbl-22/ref=nosim/



学校で「キムチ」を売る大阪の小学校

『学校』が児童に以下のようなプリントを配布した。
キムチ販売のお知らせ
http://shingomatrix.jp/images/kami901.JPG

■その1http://shingomatrix.jp/2007/01/deep_2.html
■緊急報告 性教育http://shingomatrix.jp/2007/01/deep_1.html
■キムチ登場http://shingomatrix.jp/2007/02/deep_5.html
■キムチ登場 おかわり編http://shingomatrix.jp/2007/02/deep_4.html
■おはようhttp://shingomatrix.jp/2007/02/post_254.html
■本名&通名http://shingomatrix.jp/2007/02/post_258.html



オヤジたちの教育改革
 オヤジたちが教育の正常化のために、連帯して 立ち上がった。

 今週は、広島県で教育改革に取り組んでいる各地域の「オヤ
ジの会」会長3名に新春放談の形で、これまでの活動ぶりを語
ってもらった。広島・尾道市では昨年3月に民間出身の校長が
自殺、そして7月には教育次長の自殺と続き、4年前に世羅高
校校長が自殺に追い込まれた異常事態[a]は今も残っているよ
うだ。

 しかし、多くの地域ではオヤジたちによる教育改革への奮闘
が続き、成果も出始めている。そのアプローチは、地域の父兄
の関与が、偏向教育の是正のためだけではなく、学校や家庭で
の教育をより良いものにするうえで、不可欠の要素であること
を示している。全国のオヤジたちの参考に供したい。

■1.「学校の教育現場をなんも知らんかった」■

A: 僕が始めてPTAの会長になって痛感したのは、今まで
父親として、学校の教育現場をなんも知らんかったという
ことです。

B: ワシもそう思った。卒業式でも君が代どころか、校歌す
ら歌わん、などとは思いもよらんかった。以前、校歌の作
曲者が来賓で来とったが、「こりゃ、どこの国の卒業式じゃ」
ちゅうて怒って帰ってしまったそうじゃ。

C: うちの学校では、国際教育と言って、朝鮮の服を着せて
みたり、家庭科でキムチの作り方を教えてました。東京か
ら転勤してきて、向こうではそんな事は教えてなかったの
で、はじめは国際的でいいじゃないか、と思ってましたが、
しばらくすると、なんで北朝鮮のことばっかり教えるのか、
他の国のことはなぜ教えないのか、と思うようになりまし
た。別にうちの地域は在日の人が多いというわけでもない
のに。

B: 運動会でも、万国旗が飾られとったが、そのなかに日の
丸がない。所々、豚や猫の旗があったが、わざわざ日の丸
をはずして、豚や猫の絵にしとったんじゃね。それに遊技
とか集団演技ばかりで競争種目がほとんどないから、父兄
が見ていてもぜんぜん面白うない。徒競走だけはあったが、
ゴールしても順番もつけん。なんじゃ、これは、と思うた
わ。

A: クラスを参観しても、混合名簿で男子女子がごちゃまぜ
になっとりました。男の子もわざわざ「さん」づけで呼ん
どって気色悪い。先生も時々間違えて「田中君」とか呼ん
で、あわてて直しとりました。まあ、学校のことは先生と
母親に任しておけば、ちゃんとやってくれとると思っとり
ましたが、自分で学校に行って見てみると、こりゃ放っと
けんなと思いましたね。

JOG(327) オヤジたちの教育改革
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog327.html


【広島オワタ】運動会のリレーは差別、軍国主義的だから回れ右も駄目、アジア学習でキムチ漬け
http://news23.2ch.net/test/read.cgi/news/1176243059/
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by thinkpod | 2007-04-12 02:11 | Books
2007年 02月 10日

抹殺された大東亜戦争ー米軍占領下の検閲が歪めたもの

【書評】『抹殺された大東亜戦争』勝岡寛次著:産経

巧妙に隠されたGHQ検閲

 戦中の新聞や雑誌が言論統制下にあったことはよく知られているが、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が実施した検閲の実態はあまり知られていない。GHQの検閲指針によって、メディアは検閲を受けていること自体を報じることが禁じられ、言論弾圧は一般国民には分からないかたちで行われたからだ。明星大戦後教育史研究センターに勤務する著者は、巧妙に隠匿されたGHQの検閲によって、日本人が気付かないうちに忘れさせられた日本人の主張を丁寧に発掘している。

 この本の書名が表すように、特に「大東亜戦争」という用語は徹底的に抹殺され、タブーとなり、代わりに米国製の歴史観が込められた「太平洋戦争」という呼称を与えられた。戦後六十年がたった今も、日本政府が正式に閣議決定した大東亜戦争という用語を使う新聞や教科書があると、それだけで右翼とレッテルを張られるありさまだ。

 GHQの検閲対象は多岐にわたっており、極東国際軍事裁判(東京裁判)に対する一切の批判は封じられ、国民が裁判に対して感じたごく当たり前の違和感や不当意識はなかったことにされた。著者は、進歩的文化人の牙城とされる雑誌「世界」も、昭和二十一年には東京裁判を批判した評論を掲載しようとして、全文掲載禁止処分を受けていたことを発見している。

 また、直接戦争と関係なくとも、十六世紀以来の西洋による植民地支配への批判は「西洋冒涜」として掲載禁止に。オランダによるインドネシア搾取の記述は「連合国批判」として削除された。さらに、日本の封建制度に一定の評価を与えた文章は「国家主義的」として、アヘン戦争に関する研究論文は「英国批判」として削除されるなど、GHQが容赦なく日本独自の物の見方、歴史観を闇に葬ってきたことがよく分かる。

 現在、政財界の中枢を、このGHQの“洗脳”を最も強く受けた世代が占めている。謝罪外交がはやるはずである。 政治部 阿比留瑠比
http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/50045242.html


ボツ原稿・太平洋戦争に関する政府答弁書

《政府は6日の閣議で、先の大戦に関する「太平洋戦争」という呼称について「政府として定義して用いている用語ではない」とする答弁書を決定した。一方で、「大東亜戦争」に関しては、昭和16年12月12日に閣議決定された呼称だと指摘。大東亜戦争と太平洋戦争とが同じものかは「答えることは困難」とした。連合国軍総司令部(GHQ)は占領期、大東亜戦争の呼称使用を禁止し、厳しく検閲して太平洋戦争を定着させている。
 また、16年12月8日の日米開戦時に、日本側からの最後通告の手渡しが遅れた問題について「当時の外務省の事務処理上の不手際により遅延が生じた。国家の重大な局面において、遺憾な事態を招いた」とする答弁書も決定した。ともに、鈴木宗男衆院議員の質問主意書に対する回答。》

国を憂い、われとわが身を甘やかすの記:イザ!
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/114119



抹殺された大東亜戦争
米軍占領下の検閲が歪めたもの

勝岡寛次/著
明星大学戦後史教育センター

GHQは、占領直後から民間検閲支隊(CCD)を通じて、あらゆる情報ソースの検閲体制を敷き、厳格な情報操作を行った。
本書は、米国・メリーランド大学プランゲ文庫に保存された検閲史料のうち、約13000種の雑誌について丹念に検証。
その内容は、単に大東亜戦争についてのみならず、明治維新や日露戦争の意義を否定し、欧米による植民地支配批判や東京裁判批判をも封じ込めるという一方的なものだった。
私たちが「忘れさせられた」歴史とは何か。戦後世代の著者の手で明らかにされています。
「神社新報」で紹介されました。
定価 税込1995円 (本体1900円)
ISBN 4-944219-37-7
判型・頁数 四六判・430頁
発売 2005年8月
主な内容>>序 本書を江湖に薦めるの辞 ―小堀桂一郎
まえがき 「大東亜戦争」の抹殺と「太平洋戦争」の強制
序章  東京裁判の検閲 
裁判開廷まで/検察側立証段階/弁護側反証段階/判決とその波紋
第二章  東亜解放への道 
「東亜解放」の理念をめぐって/十六世紀スペイン・ポルトガルによる征服と奴隷化の実態/秀吉の朝鮮出兵と十七世紀オランダの植民地支配/鎖国日本と十八・十九世紀イギリスの植民地支配
第三章  明治維新の世界史的意義
東亜独立の最後の砦・日本/明治維新こそ東亜解放の序曲であった/
第四章  明治日本と支那・朝鮮 
十九世紀中葉の日本と支那・朝鮮/「脱亜入欧」のもたらしたもの/東亜解放の魁・頭山満と金玉均/日清戦争と東亜解放
第五章  アメリカの太平洋進出と日本  
ハワイ併合の悲劇/フィリピンの領有/門戸開放宣言
第六章  日露戦争の与へた影響と韓国併合  
日露戦争の与へた世界的影響/岡倉天心とヴィヴェカーナンダ、タゴール/日韓併合―挫折した東亜解放の「一着手」
第七章  “ 協調”から“対決”へ
大東亜戦争の遠因となつた人種問題/「アジア・モンロー主義」の実現を阻んだもの/共産主義への対応―対照的だつた米国と日本
第八章  満州を巡る諸問題  
満洲権益と対華二十一箇条要求/ワシントン体制の破綻と満州事変の背景/石原莞爾と満州国建国の理想
第九章  大アジア主義と支那をめぐる相剋  
国際連盟脱退から大アジア主義へ/広田外交の破綻と支那事変勃発の真因/尾崎・ゾルゲ事件と「東亜新秩序」/近衛文麿と日独伊三国同盟締結/「大東亜共栄圏」仏印進駐と東亜解放
第十章  日米交渉と開戦の経緯  
日米交渉と東条英機内閣の成立/ハル・ノートと日本人強制隔離問題/開戦の詔書をめぐつて/大東亜戦争と東亜解放/「自存自衛」から「東亜解放」へ/大東亜会議と大東亜共同宣言
第十一章  後に続くを信ず  
神風特別攻撃隊の悲劇と栄光/硫黄島・本土空襲・沖縄戦/原爆投下とソ連参戦

勝岡寛次 「抹殺された大東亜戦争―米軍占領下の検閲が歪めたもの」
http://www.meiseisha.com/katarogu/massatusareta/daitouasensou.htm




━━━━━━━━━━━
「八弦一字」の無知の涙
━━━━━━━━━━━

              平井 修一

戦後も30年経った昭和50年頃、小生は60歳ほどの師匠から新聞のレイア
ウトを学んでいた。レイアウトなどという言葉は普及していず、割付と
言った。

ある日、師匠に尋ねた。
「はちげんいちじって何ですか?」
「う? はちげんいちじ?」
「ええ。八弦一字。戦時中のスローガンみたいですけど」

「おまえなあ、そりゃ、はっこういちう、八紘一宇と書くんだよ」
師匠はあきれると同時にちょっぴり哀しい顔をした。

八紘一宇を辞書で引くとこうある。「世界をひとつの家とすること。太
平洋戦争期、わが国の海外進出を正当化するために用いた標語」。広辞
苑だから否定的な解釈だ。八紘とは、四方と四隅で、世界を意味してい
る。

最高学府に学んだ小生でも「八紘一宇」の意味を知らなかったのは、G
HQの言葉狩りによる。GHQは日本占領政策を進めるに際して猛烈な
情報管理を行い、検閲制度で言論を取り締まった。その詳細の原本は見
つからなかったが、
http://www.tanken.com/kenetu.html
に詳しい。

以来、日本人は大東亜戦争、占領軍の押し付け憲法などについて真実を
知らされず、考えることも少なく、民族としていささか劣化してしまっ
た。これ以上劣化したら、とてもじゃないが立ち直れまいというときに
安倍政権が誕生し、憲法改正(自主憲法制定)をテーマに掲げたのは天
佑だと小生は思う。

国立国会図書館の資料には、

【画像】 昭和(戦後)/昭和憲法/「マッカーサー草案の外務省仮訳」
というのがあった。「(昭和21年)2月13日にGHQ/SCAPの憲法改正案が
提示されると、直ちに外務省により仮訳が作成された。これに若干の訂
正を加えたものが、26日の閣議で配布説明された。」と解説にある。
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/shiryou/limage/Gazou_34_1.html

その全文は、以下で知ることができる。
http://home.c07.itscom.net/sampei/macken/macken.html

腹が減ってもいい、着の身着のままでもいいから普通の国並みの憲法を
創りたいと、建国記念の日に改めて思った。
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by thinkpod | 2007-02-10 16:23 | Books
2007年 02月 10日

インディアスの破壊についての簡潔な報告

       ラス・カラス著 岩波文庫 1976年

【解説】染田秀藤

一四九二年一〇月三日、スペイン王室の援助をうけたイタリア人クリストパル・コロソ(コロソブス)がカリブ海に浮ぶ小島グワナハニ島に到着した。これが新世界の発見および征服時代の幕開けとなった。その後コロンは三回にわたって航海を行ない、アソティール諸島、中米、南米北部を探検し、また、その後多くのスペイン人征服者(コンキスタドール)が、自らの生命と財産を賭してイソディアスへ渡り、数々の探検、征服を行なった。その動機は未知なる土地への憧れ、金銀財宝に対する欲望、あるいは熱烈な宗教心など種々様々ではあったが、彼らは、コロソの第一次航海より僅か半世紀余りの間に不擁不屈の精神を発揮して南北両アメリカ大陸をほとんど踏査した。彼らは金銀財宝のみならず、トマト、玉ネギ、タバコ、カカオ、ジャガイモ等当時ヨーロッパでは知られていなかった数々の産物をヨーロッパにもたらした。

ロペス・デ・ゴマラ(一五一二頃-一五七二頃、スペインの年代記編者で『インディアス通史』を著す)が「天地創造につぐ偉業」と称えた新世界の発見と征服は、ヨ-ロッパ人にとっては輝しいものであったかも知れない。しかし、それは原住民インディオにとって悲惨な時代の始まりであった。

新世界に渡ったスペイン人たちは、気候の違い、食糧不足、害虫、インディオの攻撃などに悩まされた。とりわけ食糧不足は深刻で、コロンはこの問題を解消するために、原住民インディオに貢租を要求した。しかし、原始的なその日暮しをしていたインディオは、スペイン人たちの意を満すことはできなかった。そのため、スペイン人たちはインディオに強制労働を課すことによって自分の生活の安定を図るようになった。

一五〇三年末、スペイン国王はスペイン人にインディオのキリスト教化の義務を負わせると同時に、労働力として一定数のインディオを使役する許可を公式に与えた。これがエンコミエンダ制である。しかし、金銀その他の財宝の獲得に狂奔するスペイン人たちはインディオの魂の救済にほとんど関心を寄せず、結局、エンコミエソダ制は奴隷制と変らなくなった。かくして、金銀の採掘、真珠採りなどの労働に従事させられた大勢のインディオたちが死滅していった。

 スペイン人たちは、定住することなく、より多くの金銀財宝を手に入れるために次々と新しい土地を探検し、征服していった。一五一八年には、エルナン・コルテスがアステカ王国の征服へ、一五三一年には、フランシスコ・ピサーロがインカ帝国の征服へ赴いた。彼らは、キリスト教化という美名のもとに不当な征服戦争を行なって、数々の王国を破壊し、大勢のインディオを虐殺し、金銀を略奪した。

このようなスペイン人征服者の非道な行為に対して、インディオの魂の救済を任務とする聖職者は激しく抗議することとなった。すでに一五一一年末、ドミニコ会士アントニオ・デ・モソテシーノスはエスパニョーラ島で説教を行ない、スペイン人のそうした所業を弾劾し、いわゆる「スペインのアメリカ征服における正義の闘い」を開始していた。軍事的征服に対し精神的征服を主張する一部の聖職者は、それ以後激しく征服戦争とエンコミエンダ制の不正を訴え、インディオの自由を擁護する運動を繰り広げた。バルトロメー・デ・ラス・カサスもそのひとりである。

ラス・カサスは一五一四年から一五六六年に他界するまで、六回にわたり大西洋を横断し、インディオの自由と生存権を守る運動の中心的な役割を果した。彼は何よりもまず平和的な方法によるインディオのキリスト教化こそがスペイン国王の最大の任務であると考えた。しかし、武力征服は次々と行なわれ、インディオの状況はますます酷くなっていった。

 その結果、一五四一年末、ラス・カサスは国王カルロス五世に謁見して、インディオの蒙っている不正とスペイン人の非道な所業を詳説した報告書を提出し、征服を即時中止するよう訴えた。

その報告書がここに訳出した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の母胎である。この『報告』は一五四二年末に書かれ、その後一五四六年に若干加筆され、一五五二年印刷に付された。この印刷の目的は、彼自身が明らかにしているように、読み易さを願ってのことではあったが、しかし、その本当の狙いは摂政フェリ-べをはじめとして宮廷にいる人びと、とりわけインディアス問題を担当している人びとに、スペイン人たちの非道な征服を即時中止させるのがいかに必要なことかを訴えることであった。

しかし、この『報告』が、印刷公刊されると、彼の予想もしなかった、とりわけ政治的、宗教的脈絡の中でいわばスペイン攻撃、スペイン批判のかっこうの武器となった。

一五七八年、スペイン支配からの離反と独立を求めるオランダで、『報告』の最初の外国語訳であるオランダ語訳が出版された。その後一六世紀中に、オランダ語訳が二版、フランス語訳が四版、ドイツ語訳が二版、それに英語訳とラテン語訳が一版、それぞれ出版された。一七世紀には、さらに多くの翻訳が企てられ、スペインに対し政治的独立と宗教的自由を求めるオランダにおいては一四回も版を重ね、その他フランス語訳と英語訳が五版、イタリア語訳が二版、ドイツ語訳とラテン語訳が二版、それぞれ出版された。

このように、スペインと敵対する諸外国は、スペインからの独立、スペインによるインディアス支配体制の打破、あるいは自国の植民活動の擁護と促進という政治的かつ経済的な意図のもとに、反スペイン感情の育成のために『報告』を利用した。

一八世紀、ヨーロッパにおけるスペインの勢力は微々たるものとなっており、したがって反スペイン闘争は以前ほど激しくはなかった。この世紀に出版された『報告』の翻訳は数少なく、僅かに、英語訳、フランス語訳、それにドイツ語訳がおのおの一版ずつ出版されたにすぎない。

一九世紀初頭、スペイン系アメリカ(俗にブラジルを含めてラテン・アメリカといわれる)は本国スペインからの独立を目指す運動を開始した。独立運動を指導した人々は、独立という大義のために、反スペイン運動宣伝の武器として『報告』を利用した。ラス・カサスは、この作品のなかで征服者たちの非道ぶりを暴き、激しく弾劾したが、その征服者の子孫であるクリオーリョたち(新大陸生れのスペイン人)が、今度は自分たちの大義のためにこの作品を利用したのである。

一方、長い間外国からの執拗な攻撃と中傷を受けたスペインほ、この『報告』を含め、ラス・カサスの全作品を禁書に付し、ラス・カサス批判をつづけた。
一八九八年、スペインは、アメリカ合衆国との戦争(この時も『報告』の英語訳が出版され、政治的に利用された)に敗れ、かつての新世界の植民地をすべて失うに至り、深刻な危機と挫折感に襲われた。いわゆる〝九八年代の世代〃の人々は、それぞれの立場からスペインの変革を主張したが、とりわけ、かつての栄光に輝くスペイン帝国の再建を志向する保守主義者は、それまで幾世紀にもわたって、諸外国より政撃されたスペイン人の残虐性は、捏造された「黒い伝説(レイエンダ・ネグラ)」にすぎないと主張した。彼らは、その伝説をつくり上げた責任をラス・カサスに帰し、『報告』の歴史的意義や史料としての価値を否定した。  (後略)

http://momotarou100.iza.ne.jp/blog/entry/111739/

Amazon.co.jp: インディアスの破壊についての簡潔な報告: 本: ラス・カサス,染田 秀藤


 【「黒い伝説(レイエダ・ネグラ)」】

   しかし、この『報告』が、印刷公刊されると、彼の予想もしなかった、とりわけ政治的、宗教的脈絡の中でいわばスペイン攻撃、 スペイン批判のかっこうの武器となった。

     −「インディアスの破壊についての簡潔な報告ー解説」
       ラス・カラス著 岩波文庫 1976年
      http://momotarou100.iza.ne.jp/blog/entry/111739/ 


■コロンブスのアメリカ大陸到達
 1492年10月12日スペイン王室の援助を受けたイタリア人コロンブスはカリブ海に浮かぶ小島に上陸しました。以後スペインは征服者(コンキスタドール)としてインディアス(要するに米大陸)にわたり数々の探検・征服を行ないました。

 新大陸は誰もいなかったわけではなく、現地にはインディオと呼ばれる人々が文明を持って生活をしていたのでした。しかし、その日から破滅的な日々が始まりました。

 「インディアスの破壊についての簡潔な報告」は200ページ程の薄い文庫本ですが、ページをめくるごとに、ウンザリとするほどの残虐な記述が繰り返されます。この本は最初、キリスト教の聖職者が、スペイン国王に現地での残虐な行為をやめさせるために書きました。

■翻訳本の出版
 ところが、印刷されるとスペインと対立する勢力や国の間で、スペインの残虐な国のイメージを広める為に翻訳されだしました。

 16世紀中にオランダ語訳が二版、フランス語訳が四版、ドイツ語訳二版、英語訳とラテン語訳一版翻訳されました。

 17世紀にはオランダ語訳が十四版、仏英訳が五版、イタリア語訳が二版、ドイツ語ラテン語訳が二版重ねられました。

 さらに十九世紀になるとアメリカ合衆国との戦いー米西戦争でも英語版が利用されました。そしてスペインは、アメリカ新大陸(インディアス)の植民地をも完全に失い弱体化して行きます。

 結局この薄っぺらな『報告』書は、本来の目的とは違い、スペイン人の残虐性を宣伝する「黒い伝説(レイエダ・ネグラ)」として、プロパガンダ利用されたのでした。

■現代の『黒い伝説』
 米国で「南京事件」を扱った映画が続々と公開されることになりました。ビル・グッテンターグ氏のドキュメンタリー映画「南京」、中国の陸川監督の「南京!南京!」など4,5本が予定されています。

 ドキュメンタリー「南京」では、欧米人のおかげで中国人民が救われたと、ドイツ人のラーベを始めとする白人を持ち上げておるようです。

 これらは中国資本の多額な資金で製作され、明らかに日本のダメージを狙ったものです。将に「謀略」です。

■世論を味方に
 米国は世論の国です。世論操作に長けた勢力が力を持つわけです。我が国は米国の大統領を過信してはいけません。例えば、コイズミさんがブッシュさんと大変仲が良いとしても、議会が反対にまわれば効力が減殺されるのです。

 先の大戦でも、蒋介石夫人が米国中を回り、達者な英語と資金で、米国世論を味方につける街宣活動を行ないました。

■日本の反撃
 これらに対抗して、今回「チャンネル桜」の水島社長が、映画「(仮)南京の真実」を製作することになりました。

  http://www.nankinnoshinjitsu.com/

 この映画は日本人の為の映画であってはなりません。ハリウッドを巻き込んだ世界的なものにするべきです。映画のヒーローはアメリカ人に譲りましょう。

 真実を伝えるというよりは、「真実を造る」という姿勢・戦略性が必要です。さらに旧日本陸軍が、中国大陸でユダヤ人を救出したエピソード(安江機関、樋口少将等)も必ず入れるべきです。

 *JOG「大日本帝国のユダヤ難民救出」
  http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog257.html

 ◎資料
  西尾幹二さんブログより関連の抜粋
  http://www.geocities.jp/mo10mo/nishio.html

http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/108217694.html



最高裁口頭弁論 (二):西尾幹二のインターネット日録

 チェコ出身の作家ミラン・クンデラは次のように語っています。
 「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化をつくらせて新しい歴史を発明することだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることになるだろう」

 とても示唆に富むことばですが、逆に一冊の本に書かれた内容がある民族に致命的であって、それへの反証、反論の本が書かれなかったために、その民族が悲運に泣くという逆の例から、歴史の記録がいかに大切か、歴史を消すことがいかに恐ろしいかをお示ししてみたいと思います。

 近代ヨーロッパの最初の覇権国スペインはなぜ進歩から取り残されたか。16-17世紀に歴史の舞台から退いた後、なぜ近代国家として二度と立ち上がることができなかったのでしょうか。

 それもたった一冊の薄っぺらい本から起こりました。一修道士バルトロメ・デ・ラス・カサスが1542年に現地報告として国王に差し出した「インディアスの破壊についての簡潔な報告」がそれです。からし粒ほどの小著ですのに、大方の国語に訳され、
世界中に広がり、深々と根を下ろし、枝を張りました。日本でも岩波文庫から出て、よく読まれてきました。書かれてある内容が凄まじい。キリスト教徒はインディオから女や子供まで奪って虐待し、食料を強奪しただけではありません。島々の王たちを火あぶり刑にし、その后に暴行を加えた、等々です。

 それ以後スペインとなると「黒の伝説」がつきまといます。中南米のインディオを大量虐殺し黄金を奪ったスペイン、狂信のスペイン、異端尋問のスペイン、文化国家の仲間入りができないスペイン、凶暴きわまりない闇の歴史を持つスペイン――そういうイメージにつきまとわれ、スペイン人自らが自分の歴史に自信を持つことができなくなりました。

 最近わが国でも歴史認識に関する「自虐」心理が話題になっていますが、自分で自分を否定し、自己嫌悪に陥り、進歩を信じる力を失った最大級の自虐国家はスペインです。

 それもたった一冊の薄っぺらな本に歴史的反証がなされなかったからです。あまつさえオランダとイギリスが銅板画をつけ、これを世界中にばらまきました。しかし近年の研究で、あの本に書かれた内容には誇張があり、疑問があるということが次第に言われるようになってきました。とはいっても、なにしろ16世紀です。ときすでに遅しです。

 じつは日本にも似た出来事があるのです。この赤い一冊の大きな本をみて下さい(私は裁判官の方に本をかゝげた)。アメリカ占領軍による『没収指定図書総目録』です。

 マッカーサー司令部は昭和21年3月に一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の特定の書物を図書館から除籍し、廃棄することを日本政府に指示しました。書物没収のためのこの措置は時間とともに次第に大かがりとなります。昭和23年に文部省の所管に移って、各部道府県に担当者が置かれ、大規模に、しかし秘密裏に行われました。没収対象の図書は数千冊に及びます。そのとき処理し易いように作成されたチェックリストがここにあるこの分厚い一冊の本なのです。

 勿論、占領軍はこの事実上の「焚書」をさながら外から見えないように、注意深く隠すように努力し、また日本政府にも隠蔽を指示していましたので、リストもただちに回収されていたのですが、昭和57年に「文部省社会教育局 編」として復刻され、こうして今私たちの目の前にあるわけです。

 戦後のWar Guilt Information Program の一環であった、私信にまで及ぶ「検閲」の実態はかなり知られていますが、数千冊の書物の公立図書館からの「焚書」の事実はほとんどまったく知られておりません。

 今となっては失われた書物の回復は容易ではないでしょう。しかし私は書名目録をみておりますと、この本がもどらない限り、日本がなぜ戦争にいたったかの究極の真実を突きとめることはできないのではないかと思いました。

 「焚書」とは歴史の抹殺です。日本人の一時代の心の現実がご覧のように消されるか、歪められるかしてしまったのです。とても悲しいことです。船橋西図書館のやったことは原理的にこれと同じような行為につながります。決して誇張して申し上げているのではありません。

 裁判所におかれましては、どうか問題の本質をご洞察下さり、これからの日本の図書館業務に再び起りかねない事柄の禍根をあらかじめ断っていただくべく、厳正にご判断、ご処置下さいますよう切に希望する次第です。

http://nishiokanji.com/blog/2005/06/post_160.html
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by thinkpod | 2007-02-10 15:42 | Books
2007年 01月 05日

大東亜戦争肯定論

林房雄
終章ー「あとがき」にかえて

・・・最近「明治百年と戦後二十年」の出題のもとに、数人の評論家たちの論争
が「朝日新聞」紙上で行なわれた。私もそれに参加したが、論争的態度はできるだ
けさけて、私の見地だけをのべた。「肯定論」の結語にもなっていると思うので、
ここに再録させていただく。

ーーー いかに産業と経済が繁栄し、大建築と娯楽施設と大道路が完備し、指導者
が平和をほこり、民衆が唱和しても、もしその民族が精神の活力と創造性を失った
時、彼らの「文明」は退廃期に入り、やがて滅亡する。
現在の日本の世相を言っているのではない。 歴史について語っているのだ。

ギリシア・ローマ文明もそのようにしてほろび、エジプト、マヤ、インカ文明も巨
大なピラミッドと神殿の廃墟のみを残して消え去った。 七千年の世界史について
みれば、多くの文明が興亡し、現在もいくつかの文明が並存し闘争している。

異文明の生んだ科学と技術は受け入れやすいが、「精神文化」は芸術に見るがごと
く一回性の創造物であるから、これをそのまま受け入れることは、きわめて困難で
あるばかりか、危険であり、実は受け入れた側の「文明」の降伏と滅亡である場合
が多い。

ただし、異文化の「精神文化」も、これと戦いつつ土着させ得た場合には、新文明
を生む。キリスト教は西洋の所産ではなく、シリア文明が生んだものだ。だが、西
洋諸国はローマ帝国の末期にこれを継承し、さらにカトリック、ギリシア正教、新
教等に消化改変して自国に土着させ、それぞれの民族と国家の活力の源泉とした。

アメリカ・デモクラシーとロシア・コムミュニズムという「神なき宗教」の背後に
キリスト教が潜在または顕在していることは明らかである。インドに生まれ、シ
ナ・朝鮮を経て渡来した仏教の日本における土着化も同じ長い消化と改変の過程を
とった。

この立場から見れば、「明治百年と戦後二十年」を対立させることは、視野の狭さ
において、ほとんどナンセンスである。だが、私はこの論争を笑わない。少なくと
も現在の日本人にとって重大で興味深い問題をふくんでいる。

私は明治百年も戦後二十年も、西洋文明の挑戦に対する日本文明の抵抗と応戦だと
見る。百年と二十年のあいだに本質的な差異はない。
ないものをあると強弁する論者の主張は笑止千万だが、敗戦に重点をおきすぎる
と、この近視意見も発生する。
彼らは、「勝敗は戦場の習い」という言葉を忘れているのだ。

敗戦直後の焼け野原に立ち、七年間の占領下にあって、だれが今日の日本の「奇跡
的復興」を予感し得たか? 私にはできなかった。
復活がもし可能だとしても、五十年百年の後だ。

罪なきわが子孫、わが国土のために、力のつづくかぎり働こうと決心して、わずか
に自分をなぐさめえただけである。
そして、奇跡は起こった。占領軍撤退後十年を待たずに、日本は復活しはじめた。
これをアメリカの援助と朝鮮戦争のみに帰するのは短見である。
日本人は働き、抵抗した。廃墟に生きて働くこと自体がすでに抵抗である。日本人
はそれぞれの立場と方法によって四方八方に向って抵抗した。
吉田首相も太田総評議長も、経営者も労働者も農民も、学者も宗教家も文士も、警
察官も自衛隊員も、すべての日本弱化政策に対して、働くことによって抵抗し応戦
した。

「文明とは、道のあまねく行なわるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美
麗、外観の浮華を言うにはあらず」。
これは西郷隆盛の文明論である。
明治の抵抗者内村鑑三、岡倉天心の主張も同じ文明論であった。
キリスト者鑑三は最後まで「武士の精神」を固執し、大アジア主義者天心は日本と
東洋の「美的精神」を強調して西洋人を啓蒙した。

さかのぼって、「立正安国論」の著者日蓮を見よ。日本の危機において彼が絶叫し
たのは「日本人の精神と魂の確立」であった。
「われ身命をおしまず、ただ無上道をおしむ」。 彼は大乗仏教をみごとに日本化
し、日本に土着化させて日本文明の活力とした。

本居宣長もただの国文学者ではない。
幕府の官学朱子学に対して、漢学者は陽明学によって反抗したが、宣長はいっさい
の「唐心」を排し日本の「古道」を明らかにすることによって抵抗した。 宣長
の「古道」は復古ではなく前進であった。
彼はその死後に幕吏によって墓をあばかれることを防ぐために、仏式の仮墓をつく
り、おのれは神式の墓の中にみずからを葬らせたそうである。
その他、数多い「日本の抵抗者」をふりかえりつつ、現在の世相をながめれ
ば、「戦後二十年」はただ産業的、技術的復興にとどまり、精神の支柱はうちたて
られていないように見える。
たしかにまだ日本の柱とその上にひるがえる魂の旗は見えない。
しかし、私は失望しない。廃墟を復活させたものは、ただ技術と科学だけではな
く、どこまでも人間であり、日本人という人間の決意と活力と創造性であった。こ
の抵抗、この活力が存在するかぎり、日本の精神は再び再結晶し、光輝しはじめる
と信じている。

日本の伝統と歴史は敗戦によって断ち切られたのではない。
戦後の社会主義と民主主義の潮流も、明治百年、いや、それより長い歴史を見ずに
は理解しえない。
民権も自由も社会主義も敗戦後二十年の舶来品ではないのだ。
技術と科学は輸入できる。いや、日本人はすでにカメラ、船舶、時計、オートバイ
等によってそれを西洋に逆輸出しはじめている。
だが、それぞれの文明の魂は簡単に輸出入できるものではない。
日本文明はまだ独自のものとして生きている。

百年の抵抗と応戦によって独自の活力と創造性を保持しえている国であることは、
ほとんどの文明史家が認めている。
敗戦は福に転じうる禍にすぎない。

われら何をなすべきか? 道は自分で探さなければならぬ。
過去をふりかえり、先を見渡し、左右を受け入れつつ、苦しみ思索することによっ
て、おのれの文明の創造と発展に努力することが日本の道である。 しかし、これ
だけでは抽象的な一般論になり、不親切なお説教におわる。

人として生まれて迷わぬ者はない。
特に激動の上に激動を重ねて変転しつつある戦後二十年の世界情勢を直視して迷わ
ぬ者は石の地蔵だけかもしれぬ。
私もまた迷っている。

アジア人としてのわれら日本人の関心は反植民地闘争にある。
日本の「百年戦争」はたしかにこの口火を切り、その基礎を固め規模を拡大した。
日本は一国のみで約百年間戦わざるを得なかった。
他の被征服諸国はこれを壮挙と見、勇戦とながめつつも、その後進性の故に日本に
協力し得なかったために、盟主観念も生まれ、皇道主義も生まれ、後に東京裁判検
察官と進歩人諸氏によって侵略と定義された強引な軍事行動主義も生まれたのだ。
しかし文明論の見地から見れば、日本の「東亜百年戦争」は決して侵略戦争ではな
かった。
私はパール博士とともに、この点を強調する。

また戦争が起ころうとしている。いや、もう起こっているといったほうが正確だ。
私たちは毎朝起きると、新聞の第一面で爆撃と反撃の記事を読まされる。
日本のなかにも、資本主義と帝国主義からの解放のためには戦争を恐れないと公言
しながら、自衛隊を廃止せよと叫ぶ変な戦闘的評論屋もいるし、平和運動をやりな
がら、中共の原爆実験については沈黙している変な平和屋もいるし、沖縄と小笠原
を還せというプラカードはかつぐが、千島を還せたは言わぬ変な愛国者もいる。変
な話ばかりだ。
いつのまに、どんなふうにして、日本はこんな変てこりんな国になってしまったの
か?

第三次世界戦争は必ず起こるという予言は世界の識者によってなされている。
私の「大東亜戦争肯定論」はそのまま「第三次、第四次世界戦争否定論」であるこ
とは、善意の読者諸氏なら、すでに読み取ってくれていることと信じる。
ただ、日本に敵軍が攻めてきたら逃げ出します、ただちに降参しますと、中、小学
生に教えてこんだ日教組式腰抜け論でないこと、この種の教育を真の教育だと信じ
ている偽教師どもを心から軽蔑していることは記憶しておいていただきたい。

予言はたいていあたらないものだが、たまにはあたることがある。
予言よ、あたるな! これが私の祈りだ。
ただ祈ることだけが可能であるという日本の現状は、私の悲しみを倍加する。
・・・(引用止め)

埋もれた先達の事績を掘り起こすとともに、名の有る優れた先達の遺した文言を想い起こすことも肝要と思い、繙いた一冊が林房雄氏の『大東亜戦争肯定論』です。
引用しながら「罪なきわが子孫、わが国土のために、力のつづくかぎり働こうと決心して」の件りで目頭が熱くなりました。
終戦時、日本国のバランス・シートの左側の資産の部はほとんど芥塵に帰し無に等しい惨状を呈していました。しかし、バランス・シートの右側の資本の部は大きく毀損しながらも復興の原資を保持していたのです。
懸命に働く(抵抗する)日本民族の魂が残されていたのです。
しかし日本人は占領されている間に降伏したから幸福に至ったのだと宣撫されそれを信じてしまいました。つまり大戦に敗け、アメリカの支配下に入ったから日本はまともな国になったんだ、戦前までの大日本帝国憲法体制、皇国史観、国体思想、八紘一宇、大東亜共栄圏すべてを否定して捨てたから平和で豊かな時代になったんだと。
 しかし日本が復興した原動力は、占領軍とその協力者である一部日本人によって、ずたずたにされた日本の伝統と歴史にありました。
それが驚異的な戦後の復興をもたらした日本人の魂を凾養していたのです。それなしでは今日の日本の「平和」も「繁栄」もありえなかったのです。
日本国の現在のバランス・シートの資産の部はピカピカのようです。
が、目を資本の部に転じると、歴史を忘れ、伝統を打ち棄てた日本人の魂は摩滅し、働く力は衰え、活力と創造性は無に等しい惨状です。
林氏は、この大著の掉尾をこう結んでいます。

「日本がまことに正しい平和のために一致協力して行動しうる時の来るのは、いつ
の日であろうか?」。

林氏のいう”正しい平和”とは、占領軍から下賜された平和の謂いではないでしょう。 自存自衛の気構えで、自らの力で民族と国土を衛ろうとした戦前の日本の姿を指していると思います。
これには、日本人の魂の回復、それを支える伝統と歴史の復興が必要で、数十年はかかります。
 さはさりながら、日本は二千年以上の悠久の歴史を持っている国です。
数十年かかるなら、その年月をかけてやるしかありません。罪なきわが子孫、わが国土のために。
http://www.melma.com/backnumber_45206/
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by thinkpod | 2007-01-05 02:56 | Books
2006年 12月 02日

中国が世界をメチャクチャにする

なぜ世界中でマンホールのフタや電線が盗まれるのか?それ
は金属需要の急増が招いた、中国による国を挙げての資源漁りに端を発していた
----!改革開放に政策に転じて30年。13億のマンパワーを持ち、
グローバル経済の波に乗った中国は、いかにして世界を脅かすにいたっ
たか。各地で起きている深刻な事態を取材した驚愕の報告!

伝統産業の没落、中間層の失業増大、エネルギー争奪戦、環境ストレス—第一人者による驚くべき報告。

伝統産業の没落、中間層の失業増大、エネルギー争奪戦、環境ストレス…。日本は大丈夫か、打つ手はあるのか。元『フィナンシャル・タイムズ』北京支局長が、グローバル化に乗って広がる中国の脅威を世界各地に取材した報告。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794215274



イタリアの伝統的織物都市もアメリカの軍需産業都市も壊滅状態に
国外に流出する大量の中国人労働者が世界の都市の景観も生活も破壊している
(SAPIO 2006年12月13日号)

中国経済がもたらす巨大な力は、世界の国の有り様さえも変えている。その国をかたちづくる伝統や軍事、それらを担う産業都市にも大量の中国人労働者が押し寄せ、町をまるごと奪い去っていくのだ。
後に残るのは、焼き直しされた無惨な町の姿である。『中国が世界をメチャクチャにする』の著者で元「フィナンシヤル・タイムズ」北京支局長のジェームズ・キング氏に「中国禍」の現状を聞いた。

中国人に吸い尽くされたイタリアの伝統産業部市

中国の産業革命がどれほど世界経済に影響を与えているか、もっと具体的に言うと、世界の産業都市をいかにメチャクチャにしているか、私はジャーナリストとして自分の目で確かめたかった。そのために世界中に足を運んだが、その一つが、700年以上もヨーロッパ織物業の中心であったイタリアの都市、プラートだった。

昨年4月、歴史都市フィレンツェからほど近いその街を訪れると、町には教会の鐘が空に響き渡り、大聖堂には前日亡くなったヨハネ・パウロ2世の死を悼む人たちが溢れていた。一見、町の風情はそのまま残っているように見えたが、一歩町の中心に入ると、窓に漢字で宣伝文句が書かれた美容院が目に入った。私は中国語の読み書きができるので、書かれている漢字の意味が普通に理解できる。国際電話が安くかけられると漢字で宣伝している店を通りすぎたかと思うと、薬草療法の宣伝、娯楽クラブの眩いネオンが目に入ってくる。まるで中国に戻ったと錯覚をするほど、街の景観は変わり果てていた。スーパーの前で足を止めたが、壁に貼られたビラはすべて中国語で書かれた求人広告のビラだった。そのほとんどは服飾工場の求人だ。

そうだ。ここはイタリア屈指の織物業の都市だった。それが今では多くの中国人が移住し、町そのものを変貌させてしまったのだ。

中国から、バス、トラック、船を乗りついで入ってきた不法入国者にも出会った。説得するのは大変だったが、話を聞くと、変貌に至るまでの全体像が見えてきた。

中国人たちは、プラートに着くと、最初低賃金で長時間骨身を削って働く。臥薪嘗胆そのものだ。毎日18〜20時間も働くというから、普通なら精神的にも参ってしまう。ところが彼らはものともしない。大量に入ってきた中国人が一丸となって働けば、どうなるだろうか。経済の一大勢力になるのは時間の問題だった。織物工場の数も増え、小さなブームを呼んだほどだ。

当然のことながら、イタリア人も一緒になって幸せを感じたが、それはぬか喜びだった。その段階で、根こそぎ町のものを中国に持って行かれると誰が予想できたであろうか。ここに中国人の狡滑さがある。彼らは何年か工員として働いたあと独立し、経営者になるのだ。そしてイタリア人の元ボスを追い出しにかかる。気づいてみるとプラートの商工会議所に登録された中国人経営の企業数は1992年の212社から03年には1753社にまで増えていた。それは細薗の増殖のようだった。

ことはそこで完結しない。
最初は、衣料製造の工程の一部を中国に外注していたのが、今は全工程を中国に移しつつある。プラートには、00年には6000社ほどあった繊維会社が、05年の半ばまでに3000社を切っていた。この数字を見ただけでも、中国がこの狡滑なやり方を弄して、世界をムチャクチャにしていることがわかるだろう。

中国人に狙われたアメリカの軍需産業都市

中国が、78年の改革開放政策に転じてから、30年経つが、その経済発展ぶりは一見目を見張るものがある。私は25年前に中国に留学して、98年からは、7年間「フィナンシャル・タイムズ」北京特派員を務めた。正味20年以上中国にいることになるが、その間、様々な現地取材を敢行し、できるだけ一般人に話を聞いてきた。もちろんその中には政府の役人も含まれている。そして取材を進めるにつれて、国の世界侵食がいかに醜悪であるか、改めて思い知らされた。

その証左をもう一つ挙げよう。米イリノイ州ロックフォードは典型的な中西部の町だ。まさかこの町を中国が侵食しているとは、にわかに想像し難いだろう。町の中心に足を踏み入れると、繁華街と思えないほど人影が少なく、閑散としている。図書館に入って、司書に話を聞<と、企業がつぶれて従業員がいなくなった上に、巨大スーパーマーケットであるウォルマートが町外れにできた後は、町の中心から人が消えたという。

20世紀中、ロックフォードはアメリカの軍需産業やハイテク産業の工作機械製造を担ってきた。冷戦中、ソ連の大陸間弾道ミサイルの標的にも入っていたという重要都市である。当時、町は専門技術を持った工学部出身者たちで溢れ、活気に満ちていた。

この町が危機に陥ったのはつい最近のことだ。切削機などの精度の高さで評判だったインガソル社は03年に倒産したが、倒産前から、中国の買い手は虎視眈々とチャンスを狙っていた。いち早く買収されたのはこの会社の自動車の工作機械部門である。中国の国有企業に買収され、数十年にわたって研究されたインガソル社の最先端の技術は設計図ごとまるごと中国本土に持って行かれた。元の会社で働いていた熟練工たちは当然仕事を失うことになるが、彼らに残っていた道は、郊外にできたウォルマートなどのカウンターで働くことしかなかった。

こうして世界中から技術やノウハウを本国にごっそり移転する中国のやり方に、世界は太刀打ちできない。大量に押し寄せる安い労働カと廉価製品攻勢で、世界中の企業はずたずたにされている。

また中国政府も人民元を不当に低いレートに固定し続けようとし、労働者が賃上げ要求できないように労働組合を作らせない。少しでも運動しようものならリーダーは刑務所にぶちこまれる。石油の国内価格も国際価格よりも安く抑えられ、おまけに銀行は国有だから、どれほど不良債権を抱えても表沙汰になることはない。このような商慣習と労働慣習をもった国が押し寄せてくるのだ。世界は対抗できない。

「終わりなき雇用危機」「倒産しない企業」

しかし、一見、高度経済成長を調歌しているようにみえる中国だが、実はそうではない。中国はよく「自転車を漕いるのである。ゆえに政府は絶えず成長に迫られている(ちなみに2400万人といえばヨーロッパ全体の毎年の失業者数に近い数だ)。

さらに、消費者物価指数などの一般的な指標ではインフレ傾向が顕著だというのに、工業製品の平均価格は毎年下がっている。中国は毎年1500万台のオートバイを生産しているが、実際の販売数より500万台も多い。売れ残ったバイクは倉庫に残り、利益はほとんど出ない。それでも大半の企業が巨大なマーケットにこだわり生産を続ける。あきらかな供給過剰だ。倒産寸前の企業が溢れている。

銀行も返済能力がない企業に融資をやめることはない。この国の銀行は、企業を破産させると、失業者が街にあふれ、消費不況を引き起こし、結局は銀行の利益に反することになると考える。だから中国は世界的にも倒産が少ない。銀行と政府の考え方は同じなのだ。

このような歪みはいずれどこかで破綻するだろう。

賃金の点でみると、今の中国はイギリスの産業革命のときの半分である。それが商品の廉価の元になっているが、その賃金はいずれ上げざるを得ない。そうなると製品価格も上がり、競争力が弱まる。

環境保護に対してもまったく無策だ。熱帯雨林の違法な伐採、空気汚染、川や湖の汚染。最悪の例が水だ。水が汚染されているだけではなく、中国の国土から枯渇してきているのだ。現在水道の値段はかなり安いので、農業でも無尽蔵に使われている。だが、ワイン製造に携わっている中国人に聞くと、文化大革命のときは15mも採掘すれば水が出てきたが、今は井戸の深さが800mにもなっているというのだ。それほどまでに水が枯渇している。節水するためには水道料金を上げざるを得なくなる。そうなると象が自転車を漕ぐ速度も落ちてくるだろう。

今の中国は400m走に例えるとわかりやすいと思う。現在中国は200m辺りを走っているが、スタートから速く走りすぎて、頑張ったために、今かなり足が疲れている状態だ。環境が危機に瀕し、銀行などの隠れ不良債権が膨大に膨れた状態だが、政府は無策のまま何もしようとしない。

ところが、これから賃金が上がり、石油価格も国際価格並みになると、競争力が落ちていくことは明白だ。そうなれば、ますます自転車を漕ぐ速度が落ちてくる。漕ぐのをやめると倒れるので、やめるわけにはいかない。だが、中国がこの状態のままで行くと2010年から2015年の間には、破綻寸前まで行くだろう。もちろんそうなれば全国で暴動が起きるに違いない。昨年は小さな暴動を入れると8万7000件も起きたが、一昨年から1万4000件も増えている。

中国が世界をムチャクチャにしているのは紛れもない事実だ。しかし、中国国内のミスマッチ(矛盾)が、危険水域に達しようとしているのも事実なのだ。

元「フィナンシャル・タイムズ」北京支局長
ジェームズ・キング
[PROFILE]英国エジンバラ大学東洋語学科卒業。中国・山東大学留学。1985年から「フィナンシャル・タイムズ」記者。87〜89年東京支局駐在、98〜05年北京支局長。現在「BBC」「CNN」で中国問題の解説者をつとめる。03年ヨーロッパ・オンライン報道賞、05年「今年の経済記者」賞を受賞。北京在住。
ジェームズ・キング インタビュー
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/jameskynge.html



ジェームズ・キング著『中国が世界をメチャクチャにする』(栗原百代訳、草思社)。
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 公害を”量産”し、汚染を輸出する中国

 八月末に黒龍江省とロシア沿海州との国境・虎門でウスリー河に浮かぶレストランに入って食事、出されたスープを飲んだ。どぶ水の異臭がして吐きだした。それだけでも評者は二日間ほど下痢に悩まされた。
 中国旅行の際にホテルの水でも信用できず歯磨きのうがいさえ、ミネラル・ウォータを利用している。水割りウィスキーは氷が危ないので絶対飲まない。
 牡丹江は旧満州時代に日本酒がつくれるほどに水が綺麗だった。アカシアの大連は景観が美しかった。いまや煤だらけ、空気は汚れ、河川の水は飲めず、渤海湾はヘドロの海と化した。まさに産経新聞が比喩したように「汚水に沈む中国」の実相である。
 喜びが二重という意味の重慶は世界最大の三峡ダムの上流に位置する。 
 三峡ダムは高さ185メートル、上流地域から百四十万人が立ち退き、貯水が開始され、発電も部分的に始まった。計画では今ごろ綺麗な水がたまっている筈だったのに汚水ばかり、土石流の集積場と化した。
 恩恵をうける筈の重慶で地割れ、砂漠化が同時に発生し、当局は頭を抱えている。重慶は殺風景な重工業都市と化し、天秤棒をかつぐフリーター的な荷物運びが二十万人も市内のあちこちに屯している。坂が多く、中国で一番自転車が少ない町だからである。
 蒋介石が拠点を築いていた時代の重慶は美しいとは言えないまでも水は飲めた。いまや環境汚染の悪名が轟き、とくに大気汚染世界ワースト・ファイブにはいる(タイム誌、10月7日付け)。
 世界の経済誌、とくに日本のマスコミは、最近ようやく中国の公害のひどさ、河川の汚れ、ゴミの山を報道するようになったが「これこぞ次のビジネス・チャンス」などとする視点を重視し、海水淡化装置、脱硫装置、水処理施設などが巨大なビジネスに繋がるなどとノーテンキ極まりない態度である。
 煽られて中国進出を急ぐ環境防止装置のメーカーが続いている。
 さてチャイナ・ウォッチャーのベテラン、著者のジェームズ・キングはイギリスの名門老舗紙「ファイナンシャル・タイムズ」の北京支局長だった。かれの鋭い報告は日本のそれと天地の隔たりがある。
 「パルプ、製紙、化学、染色、製革工場など何万もの小企業が(黄河の)両岸に立ち並び、有毒な廃液を川に流し始めた。1990年代の前半には被害の兆しは明白だった。水が飲料用に適さない地域が多く発癌率が全国平均の二倍に達した(中略)。中央がこの問題に取り組むと決めると、事態はさらに悪化した。問題の解決を命じられた地方当局が、貯水池やタンクに貯めてきた汚染水を流し、毒素に満ちた黒い潮流を下流へ解き放ったからで、およそ1200噸の肴が死に、数千人が、赤痢、下痢、嘔吐で治療を受けた」。
 河川の汚染ばかりか、キングは現在の中国が抱える伝統的産業の崩壊、失業者の群れ、米中関係の険悪化などあらゆる難題を容赦なく暴き出し、鋭い批判のメスを入れる。
 (この書評は『正論』12月号の再録です)
平成18年(2006年)11月20日


暴走する「世界の工場」中国
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/109121404.html




 キルギスタンで急拡大しているアンチ中国感情
    労働者や不法移民が流入し、キルギス経済を脅かしている

 キルギスの首都ビシュケクには、最低に見積もっても一万人を超える中国人が住み着き、「市内市」(つまりチャイナタウン)を形成している。
 廉価な中国産品、電化製品などを持ち込み、工場をたてると、いつのまにか中国人労働者が就労している。
現地人の雇用はほとんどない。

 このためバザールのキルギス商人らが抗議デモを展開し、政府に中国人を追い返せと要求し始めている。

 中国はキルギスとの領土交渉をカネで解決した。
すなわち2002年6月、キルギスのカ—エフ前政権は8・7ヘクタールの「キルギス領土」を中国へ売却し、「領土係争」を解決させたのだ。

 ナショナリズムが爆発し、中国人外交官らふたりがキルギスで殺害された。
アカーエフ大統領は、この犯人を秘密裏に中国へ送還しようとしたため同年3月17日に反中国デモが発生、暴動となってデモ隊の六人が死んだ。
 小国とはいえども中国人の横暴は許せない、というわけだ。こうした因縁もあってキルギスにおける反中国感情は根深く、強い。

ところがキルギスには次から次へと中国人(おもにイスラム教徒)が密入国を繰り返し、この列に近年はインド、パキスタン、アフガニスタンが加わった。
地図をひもとけば明確になるようにキルギス南部は広大な国境線が中国の新彊ウィグル自治区と繋がっている。

労働を求めるわけでもなくキルギスの市民権を得るために入国も目立つという。
理由はキルギスのパスポートを取得すると、ロシア、CISならびにトルコへのビザが不要だからである。
そして不法移民らは正業にはつかず、婦女子誘拐、人身売買に精を出し、臓器秘密売買のシンジケートなどを結成して、おとなしいキルギス人の心胆を寒むからしめている。

 嘗てソ連に帰属した同国にはロシア人が弐割ほど居残り、さらにドイツ人が多くいた。
ドイツ系はクルマの輸入などで財をなしたが、残留したロシア人は、いまさら戻ってもロシアに親戚もいない家庭が多く、微妙な均衡のうえにキルギスは綱渡りをつづけてきた。
 この人口構成のバランスを崩すほど急激に流れ込む中国人と、その横暴に対して、キルギル人のナショナリズムの爆発が近いという観測があがっている(「ユーラシア・ディリー」、2月28日号」。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成20年(2008年)  3月1日(土曜日)  
通巻第2108号  (2月29日発行)


reference archives : 「 悪夢のような中国進出の実例 」
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by thinkpod | 2006-12-02 18:34 | Books
2006年 11月 12日

日韓併合、戦中、戦後の朝鮮人

韓国・朝鮮と日本人—韓国・朝鮮人の嫌いな日本人 日本人の嫌いな韓国・朝鮮人

1、日本渡航の由来

底辺の労働力
 日韓併合の前年(1909年末-明治42年)、日本にいた朝鮮人は790人で、これらの人々の大部分は留学生であった。その頃は、ロシアに勝ったアジアの先進国日本の声望は高く、1906年には清国からの在日留学生は7,000余を数え、フランス統治下のヴェトナム留学生も200名以上(1908年)といった時代であるから、朝鮮からも官費、私費の留学生が東京に集まっていたのである。これら留学生たちは、いわば在日朝鮮人前史にあたり、在日朝鮮人問題は1910年の併合に始まった。

 併合により一応日本国民となった朝鮮人には、外国人としての居住や職業の制限がなくなった。
朝鮮における、農民の貧困による労働力排出のプッシュ力と、日本内地の方が雇用の機会と高い賃金を得られる可能性があるというプル力から、第一次大戦終了間もない頃(一九一九年)在日朝鮮人は急速に増大し、その人数はこの年には1万5千人に迫った。しかし同年の3・1独立運動直後の4月、総督府は治安上の顧慮から「朝鮮人ノ旅行取締リニ関スル件」を制定し、渡航には所轄警察署の旅行証明書を要することとした。

 だがこの取締まりは、「日韓一体の原則に反する」として、1922年早くも廃止された。それにともない、翌年から再び朝鮮人の渡航は激増したので、折から内地の失業も深刻化していた時代であるから、この問題は内務省、総督府(後に拓務省も加わって)の頭を痛めることとなった。その後若干の変遷はあったが、日本政府は間接的に各種の手段を尽くしてその流入を防ごうとした。しかし絶対禁止という厳しい方法をとらない限り、「人は所得の高いところへ流れる」という移住の原則を止めることはできなかった。

 特に満州事変による軍需景気以後その数は急増の一途をたどった。内務省警保局の調査によれば、1936年に70万余、大戦末期の1944年には193万6,843人とあり、終戦の年の1945年には30万人、あるいは220~240万にのぼったとも見込まれている。朝鮮人は日本資本主義経済をになう底辺の労働者として渡航し、最後には、戦争経済を支える必須の労働力として酷使されたのである。


取締まりの対象

 朝鮮からの渡来者は労働者以外に、朝鮮人の有産階級の子弟の留学生も多数在留していた(1932年には約5千名、1942年には約3万名)。この留学生というのは、大学、高専在学生だけでなく中学生も含んでおり、その生活水準は日本人並みであったが、多くの場合、彼らもただ朝鮮人という理由だけで、しばしば屈辱的な思いをさせられた。

 日本政府は朝鮮人の子弟が日本で高等教育を受けることには好感をもっておらず、彼らが釜山の港を出発するときからすでに警察の許可を必要としたし、その後も、朝鮮人労働運動の指導者とともに、彼らの多くは〝要視察者″であり、常に警察の取締まりの対象であった。1939年から終戦までの6年間、在日朝鮮人の知識層で治安維持法違反として検挙されたものは1,220名にも及んでいる。

 1938年以降(ことに40年以後)には、学生のみならず、全在日朝鮮人が警察の監視統制下におかれることになった。朝鮮人に対する〝皇民化″のための指導を目的とする〝協和事業〟なるものが、内務・厚生両省の共管のもとに発足し、在日朝鮮人は一人残らずこの協和会に加入させられたのである。協和会は日本語の普及、家庭に神棚奉斎、女性に和服奨励なども行なったが、実際には、あるいは結果的には、その主要な仕事は特高警察を中心とした朝鮮人の取締まりであった。
在日朝鮮人の全員は 「協和会手帳」 の常時携帯を義務づけられたのである。


強制連行

 朝鮮人労働者渡日の最終段階において、悪名たかい〝強制連行″が登場する。このことについては第二章ですこし触れたが、強制に先立ち、自由募集は1939年に始まった。この年7月、内務、厚生両省は 「朝鮮人労務者の内地移住に関する件」 の両次官通達を発し、朝鮮各道から労働者を募集することを許可した。やがて太平洋戦争突入とともに、ますます労働力が枯渇した結果、1942年には、従来より組織的かつ迅速に募集するため、民間の募集から「官あっせん」に切りかえた。
そしてさらに1944年終戦の前年には国民徴用令を発動して、その徹底を期したのである。

 朝鮮半島から多くの朝鮮人が、職と食を求めて故郷を捨てて日本に流亡することを余儀なくされたのは、統治者である日本政府の責任であることはいうまでもないし、二十世紀の奴隷狩りともいわれる強制連行の事実に対しては、われわれは今次大戦における各地の残虐行為とあわせて、日本人の持つ非人道性を改めて自認せざるを得ない。

誤っている議論

 しかし、このことをめぐる議論のいくつかの誤りは正しておく必要を感ずる。まず第一に、「韓国人がその先祖の時代から住み慣れてきた故郷を追われて、日本、満州、シベリア等へ流浪してゆかねはならなくなった歴史は、その起点を1910年(日本の朝鮮統治開始の年) に置くことができ……」(在日韓国青年同盟中央本部編著『在日韓国人の歴史と現実』)とあることであって、この叙述の少なくとも半分は正しいとはいえない。

 朝鮮人農民は十九世紀の早い時期から、朝鮮と中国が接する中国の間島地方に流入していた。もともとこの地域は清朝政府にとっては王朝の出身地であったため、中国人にも移住は禁止されていた地域であった。そのため無断入植した朝鮮人の問題は、清朝政府と大韓帝国政府、ひき続いて総督府との長い間の外交上の懸案となったのである。
                                              
 シベリア方面の移住も十九世紀にさかのぼることができる。1858年清朝とロシアの王愛琿(アイグン)条約、および1860年の北京条約によって黒龍江の北方一帯がロシア領となり、豆満江をへだてて朝鮮とロシアが直接国境を接した頃から、朝鮮人のシベリアへの移住は始まった。ちょうどそのころ北鮮に干ばつがつづき、食べていけなくなった農民はロシア領へと流出した。ロシアも新領土開拓のためこれを歓迎したので、数年ならずしてたちまち朝鮮人移民は万をこえたと推定されている。ロシアは間もなく移民防圧政策に転じたが、なおその数は年々増えつづけた。日韓併合の1910年には、黒龍江以北および沿海州のロシア領に約10万、間島をはじめ満州各地におよそ二八万の朝鮮人が移住していたのであって、「1910年が朝鮮人の海外流亡の元年」というのは明らかに間違っているといわねばならない。

 誤りの第二点は、朝鮮人の日本への渡航を「日本の植民地政策がうみ出した〝間接的強制″だ」と主張し、〝強制連行″と同一視しようとする議論である。(『韓日会談白書』) だがこのような主張は〝強制連行″という言葉の乱用であろう。資本主義の農村への浸透により伝統的農村共同体が崩壊し、農村から多数の労働力が流出するのは、いずれの国においても見られた現象であり、朝鮮の農村人口の大量移動もその一例にすぎない。この経済的理由による農村からの人口流出を〝強制連行″ のカテゴリーに入れるのはあまりに乱暴である。

 明治中期以降日本でも農村から都会へ大量の人口が流れ、あるいはアメリカやブラジルへ、さらには南太平洋の離島から西インド諸島の孤島まで移民が流亡していった。これらの人びとを〝強制移民″と名づけるなら、海外移民だけでなく、日本の大都市住民の大半は国内への強制移民の子孫となろうし、ヨーロッパ各国の困窮化した農村から押し出されたアメリカの開拓者も、ヨーロッパから強制連行されたことになろう。

 趙確溶(徐龍達訳)の『近代韓国経済史』には、「十九世紀になって農民に対する過重な租税賦課のために離村現象もはなはだしく、農業生産高は減少していたのである」と、農村からの人口移動がすでに十九世紀の前半に始まっていることを証言しており、伊泰林氏も、次のように農民の離村が李朝時代きわめて盛んであったことを記している。農民の故郷からの流出が日本の総督政治だけの責任でないことが理解できよう。


 李朝時代の農民たちがどんな状態にあったかは、彼らが懐かしい故郷や土地よりも搾取なき無人島を望んだことから充分に推察できるであろう。隷農が悲惨な境遇にあったことは言うまでもないが、自分の土地を自分の手で耕作する一般農民の中からも、過重な収奪のゆえに逃亡、離散するものが生じた。そうなればひとつの家が他の多くの家の分まで賦課を負担するようになるため、残った家もすべて逃亡するのが普通であった。無人島を求めて集まった農民が定着して有人島になれば、再び流浪の途にのぼることになり、結局は餓死するか、さもなければ群盗となった。


現在の在日韓国・朝鮮人の大部分は強制連行と無関係

 さらにここで指摘しておきたいことは、在日韓国・朝鮮人(その父祖を含め) と、強制連行との関係である。朝鮮大学校編『朝鮮に関する研究資料(第四集)』によれば、「日本に住んでいる大きな部分を占める朝鮮人は太平洋戦争中に日本の官憲によって強制徴用され……」とあり、在日韓国・朝鮮人は口を開けば必ずのように、「われわれは日本政府によって強制連行されてきたものだ」と主張する。だがこの表現は正確ではなく、むしろ事実に反するというべきだと思われる。



 1974年の法務省編『在留外国人統計』によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸年は上の表のようになっている。

 この表によると、日本政府が朝鮮人の来日をむしろ取締まっていた昭和十年までに渡来したものが全体の53.7%と、半分以上になる。昭和11~15年はまだ民間の自由募集の期間だし、次の16~19年の中でも、国民徴用令による徴集は19年の9月以降のわずか四月間であるから、単純に計算すると、この期間に徴用されたものは16~19年間の14,514人の21分の1、つまり2210人(全体の1.46%)にすぎないことになる。これに、次項「昭和20年9月1日以前」の679名(0.8%) を加えた
概算1,889人(2.3%) ほどが、真に強制連行の名に値する在日朝鮮人
だということになる。


 かりに「官あっせん」を強制徴用の概念の中にいれ、官あっせんが行なわれていた昭和17年2月~19年8月の来日者の推計数を全部加えても、約2,300人余(14%)にすぎない。この推定は、昭和16~19年間の月間来日数を均等として考えたものであるが、実際には、関釜連絡船の運行は終戦が近くなるにつれ次第に困難になりつつあったから、19年後半の来日徴用者も減少しているはずである。すなわち、どんなに強制連行の概念を広く解釈しても10%を大きく超えることはまずあるまい。

 

民団も韓国青年会も自認
 この数字は在日韓国人自体の調査によっても裏付けられている。一九八八年二月に発刊された
『〝我々の歴史を取り戻す運動″報告書』(在日本大韓民国青年会中央本部)には、全国千百余人の一世から直接聞きとりした調査結果が収録されている。これによると、渡日の理由として「徴兵・徴用」は22.3%にすぎず、経済的理由(39.6%)、「結婚・親族との同居」(17.3%) に次いで三番目である。この22.3%のうち、徴兵は0.5%で、残りが徴用ということになる。しかし、「渡日年度別にみた渡日理由」によると、徴用は1926~30年に6人、1931~35年に9人、1936~40年に51人とある。国民徴用令が公布されたのは1939年7月であって、これが朝鮮に適用されたのは前述のように1944年9月であるから、この 「徴用による渡日という」回答は思い違いによるものと考えられる。従ってこの人数は除かねばならない。

 1941~45年の徴兵、徴用と答えた76人も、その大部分は記憶違いというよりほかはない。
徴用が実施されていた1944年9月以降終戦までの1年分だけを前記の方法で算出すれば16人、すなわち全体の1.5%にしかならない。また、法務省の数字のアンケート調査の場合と同様、官あっせんを徴用と考えても(1942年2月以降) 59人-5.4%となり、徴兵を加えて5.9%である。

 民団発行の『法的地位に関する論文集』(1987)にも「一世の大半が一九三〇年代初期に渡航して永住するに至った経緯からすると………」と、みずから、徴用による渡来が僅少であることを認めている。

 このことは理屈の上から考えても当然のことであろう。着のみ着のままで徴集され、人里離れた炭坑や鉱山で虐待酷使されていたものが、日本に残ろうと考えることは想像しがたいことである。
彼らは日本の一般社会とほとんど関係なく生活してきたのであって、言葉もろくにできず、日本で生活していく基盤ももっていない。彼らは日本に来て、一番長いものでも - 官あっせんを徴用とみなしても ー 五年そこそこなのであるから、故郷とのつながりは充分持続しているはずである。

 特に彼らは、妻子をおいて一人だけで徴用されており、その移動はきわめて容易であった。これら徴用された人々の大部分は終戦直後早々に、この〝恨みの島″から故郷へと飛ぶようにして帰ったものと思われる。

 いずれにしても在日韓国・朝鮮人が 「自分たちは 〝強制連行″ によって日本に連れてこられたのであるから、現在自分たちが日本に住んでいる理由、責任は全面的に日本政府にある。したがって、われわれの移住の歴史的経緯にかんがみ………」 という常に用いる言葉は、おそらくは数%、最大に見つもっても10%ほどの人にしかあてはまらないことであって、在日韓国・朝鮮人について語るときの修飾語としては事実に反するということである。

韓国・朝鮮と日本人—韓国・朝鮮人の嫌いな日本人 日本人の嫌いな韓国・朝鮮人
若槻 泰雄
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4562020733


news archives : 大半、自由意志で居住--外務省、在日朝鮮人で発表--戦時徴用は245人


戦後日本に居残った朝鮮人の中に共産党系の者が多数いた。
「韓国・北朝鮮総覧1984」 1983年 原書房
(戦後間もない時期、朝鮮人半島引き揚げ者が次第に減少していったことについて)
この原因について篠崎氏は「朝鮮内における政治上、経済上の不安定から帰国後の生活が不安であること、コレラ病流行、これらの情勢が誇大に朝鮮人間に伝えられたこと、携行金品に制限があったこと」などをあげている。

さらに日本赤十字社では「その大部分は日本共産党が扇動したものである。日本共産党は戦時中完全に弾圧されていたが、連合軍の進駐とともに解放され、当時の社会事情を利用して急激にその勢力を増していった。1946年2月、金天海日本共産党中央委員(在日朝鮮人)は、その機関誌「前衛」第1号に、"在日朝鮮人は日本に定住し革命に参加せよ" という指令を載せ、日本政府が引き揚げの努力をしている最中にこれに反対する態度をとった。」(一部在日朝鮮人の帰国問題)と、その引揚げ者減少の理由を指摘している。

http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm#boudou


敗戦による北鮮引揚げ

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
惨憺たる北鮮引揚げ
日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。

「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。
…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて感興市内に殺到したるも…
われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐侍という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。…
駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時感興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊と栄養不良を激成し、…
富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、暗黒の中にむせびつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、人々は南にたどりついたのである。38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/7398/higeki.htm#hikiage

http://tech.heteml.jp/2006/11/post_854.html
http://tech.heteml.jp/2006/11/post_862.html


■Tama大学学長 G・クラーク氏の言葉

元オーストラリア軍人の捕虜の殆どは、収容所の監視員だったChosun人に対する憎悪がある。日本人は捕虜を殴る程度だった。
しかしChosun人は全ての陰湿で執拗な残虐行為を行なっていた。

これらのChosun人BC戦犯を擁護する行動を、日本の左翼がしていた事が信じられない。
Choson人が日本人に比べて、ずっと残酷だったことは、連合国の捕虜の間では常識だった。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=68269
http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/3dc8d8203cc1df110c03f227136a2644
http://blog.livedoor.jp/baiding/archives/50366339.html
http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/bcd5231b44273901892e8bc4f3d38fa9
http://meinesache.seesaa.net/article/7821046.html



日本軍の捕虜政策−多くの犠牲を出した管理体制−
内海 愛子

 戦争裁判で何が問題だったのか
 戦後日本が戦争裁判で多くの戦犯を生んだということはご存じだと思います。私がいま、戦後補償の裁判で関わっているのは、韓国・朝鮮人BC級戦犯といわれた人たちの補償の問題です。なぜ韓国人・朝鮮人、台湾人が戦犯にならなければいけなかったのか、ここに日本軍の捕虜政策がきちっと反映しているということです。このシステムが理解できないと、例えば朝鮮人が、なぜオーストラリアやイギリスで評判が悪いのか分かりません。

 捕虜収容所の管理体制
 収容所にに捕虜を配置した時、食べさせたり医療の面倒も見なければいけない。ものすごい人手がかかるんですね。東南アジアの場合には、それを朝鮮人と台湾人で補填したのです。だから捕虜収容所というのは、具体的には朝鮮人部隊だといわれるくらい、トップに日本人将校が一人いて、その下に下士官が一人か二人いて、あと全員が朝鮮人軍属なんです。
http://www.ksyc.jp/kobeport/news09.htm(cache)


朝鮮軍司令部 1904‐1945: 本: 古野 直也

朝鮮人は李朝末期以降、髪に近い特権を持った白人を見た歴史をもっていたがここへ来て、心理的にも白人崇拝の観念は消えたらしい。消えたのはいいのだが、困ったことも起きて戦後まで尾を引いている。東南アジアから超銭まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人三千五百人が従事していた。弱者に残虐性を発揮する民族性のゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい。敗戦後、個人的恨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。白人こそ報復と復讐の大家だったのだから。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4336031940/sr=1-4/qid=1163458859/ref=sr_1_4/503-4945355-3425536?ie=UTF8&s=books
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坂本俊雄著「沈まぬ太陽」

昭和20年8月、ソ連は日ソ中立条約を破棄して満州に乱入し、瀕死の日本の背後を襲いかかった。
そして当時在満日本人のうち30万人がソ連兵、中国人、朝鮮人の襲撃で満州の荒野に命を落としたといわれる。その過半数は女子供である。それ以外に財産を奪われ、病苦と飢餓に襲われ、女は陵辱され、あるいは子供を奪われたり売ってきたきた人の数はかぞえ切れない。
亡国の民は哀れなり、いまなお荒野には無数の死骸がうもれ、赤い太陽に照らされて鬼哭啾々。
坂本俊雄氏は八王子に住む医師であるが、当時12才の少年。満州奥地の鶴岡炭鉱から新京(現長春)まで悲惨な流浪の旅で数々の惨状と悲劇を目撃してきた。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4286020746/ref=sib_rdr_dp/250-5622358-3851423


67 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2007/02/10(土) 18:56:59 ID:tmTovKE5
http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/textbook/kyoukasyo49.htm
この本、左翼系の出版社が出してる本だけど結構良いよ。

笑えるとこはね、捕虜になったオランダ人に日本人を恨んでますか?
って聞くと、俺は日本人に恨みは無い。今でも憎んでるのは、朝鮮人だ!!
ってところかな。

なんでも、看守していた朝鮮人が、捕虜の時計を盗んでモメてたところを
日本人の上司が見つけ、看守をぶん殴って時計を取り戻してくれたんだと。


植民地朝鮮での志願兵制度
http://www10.ocn.ne.jp/~war/siganheiseido.htm
朝鮮兵について
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/tyousenhei.html
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by thinkpod | 2006-11-12 04:08 | Books
2006年 11月 04日

世界がさばく東京裁判

85人の外国人有識者が語る連合国批判

佐藤和男/監修
青山学院大学名誉教授・法学博士
多くの人が、あたかも厳正な司法裁判であるかのごとく錯覚している東京裁判は、実際には実定国際法に違反した軍事行動に過ぎず、本質的に連合国の政治的措置であった。
東京裁判なるものが、いかに国際法上の根拠を欠いた不法なもので、戦勝国の偽善的かつ恣意的な政治的措置であったのか、世界の識者による批判を紹介。


主な内容>>
○ ベルト・レーリンク判事(蘭)の東京裁判への総括的批判
○ 「いかさまな法手続だ」(ジョージ・ケナン米国務省政策企画部長)
○ ウィリアム・ローガン東京裁判弁護人(米)の「アメリカの戦争責任」論
○ 「山下裁判」を批判したエドウィン・O・ライシャワー元米駐日大使
○ 管轄権なき「見せ物」裁判に反対したウィリアム・ウェッブ東京裁判裁判長(濠)
○ 「インド政府はパール判決を支持する」(P・N・チョップラ インド教育省次官)
○ 「東京裁判は国際法を退歩させた」(ロバート・ハンキー元英内閣官房長官)
○ 講和会議で東京裁判を批判したラファエル・デ・ラ・コリナ駐米メキシコ大使

目次

第一章 知られざるアメリカ人による<東京裁判>批判
     …なぜ日本だけが戦争責任を追及されるのか
第二章 戦犯裁判はいかに計画されたか
     …国際法違反の占領政策
第三章 追及されなかった「連合国の戦争責任」
     …裁判の名に値しない不公正な法手続
第四章 蹂躙された国際法
     …国際法学者による「極東国際軍事裁判所条例」批判
第五章 <東京裁判>は、平和探求に寄与したか
     …残された禍根と教訓
第六章 戦後政治の原点としての<東京裁判>批判
     …独立国家日本の「もう一つの戦争史」
付録Ⅰ 誤訳としての「侵略」戦争
     …アグレッションの訳語には「侵攻」が適当
付録Ⅱ 日本は東京裁判史観により拘束されない
     …サンフランシスコ平和条約十一条の正しい解釈
http://www.meiseisha.com/katarogu/sekaigasabaku/toukyosaiban.htm


佐藤和男監修『世界がさばく東京裁判』(明成社)
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 サンフランシスコ講和条約第十一条が問題になっている。
 「判決」の訳語が正しく「裁判」は誤訳というが、この原点は佐藤和男教授が書いた『憲法九条、侵略戦争、東京裁判』(原書房、昭和62年)にちゃんと出ている。
 早くから佐藤教授が、あれの訳語は「判決」が正しいと孤軍奮闘して主張し続けてきた。
 この問題を自虐史観に立つ加藤紘一やら、保坂、半藤,秦らがゴチャゴチャ言っているが、「保坂が豪傑だとすれば半藤は狸である」(大沢正道氏、『知的インフラ通信 ガラガラへび』(2006年10月15日号)。

 さて本書は85人の外国人識者が連合国裁判を鋭利に批判した歴史的証言の集大成。
東京裁判を批判していたのはパール判事だけではなかった。「いかさま」と言ったのはジョージ・ケナンだった。ライシャワーは「山下裁判」を批判した。「見せ物」裁判にはウェッブ裁判長さえが批判的だった。
 ロード・ハンキー元英国内閣官房長官は、「東京裁判は国際法を退歩させてしまった」と嘆じた。
 これらの原文をあらためて照合された佐藤和雄名誉教授は自信にあふれた訴えを続ける。
 「裁判」ではなく「判決」であり、さらに「侵略」というアグレッションの訳語も、正しくは「侵攻」である、とされる。詳しくは本書にあたって頂きたい。
 日本政府は一日も早く、この誤訳を訂正し、さらに国をあげて東京裁判批判を世界に向けて発信せよ。
http://www.melma.com/backnumber_45206_3412718/



「 東京裁判や“A級戦犯”は見せしめとしての日本断罪だ 今そのことを世界に説くとき 」
『週刊ダイヤモンド』    2005年7月23日号
ぜひ読んでほしい一冊がある。10年近く前に出版された『世界がさばく東京裁判』(佐藤和男監修、終戦五十周年国民委員会編、ジュピター出版)である。

佐藤氏は青山学院大学名誉教授で、法学博士である。「終戦五十周年国民委員会」副会長として「戦後、日本社会に巣食ってその骨髄をむしばみ、健全な国民精神を頽廃させてやまない」東京裁判史観の見直しと、東京裁判について世界の専門家の評価をまとめたのが同書である。同書は、国際社会の識者八五人に上る錚々(そうそう)たる人びとの東京裁判批判によって構成される。

ソ連封じ込め政策の立案者で、国際政治の権威、ジョージ・ケナンは1948年に来日し、マッカーサーの占領行政に驚愕し、「一見して、共産主義の乗っ取りのために、日本社会を弱体化するという特別の目的で準備されたとしか思えないものだった」(前掲書62ページ)と書いた。

彼はまた、東京裁判を厳しく批判した。「(東京裁判を成立させる)このような法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。(中略)公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。(中略)戦争の勝ち負けが国家の裁判である」(同62ページ)。

マッカーサーのアドバイザーを務めたウィリアム・シーボルド総司令部外交局長は、「本能的に私は、全体として裁判をやったこと自体が誤りであったと感じた。……当時としては、国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために、勝者が敗者を裁判するというような理論には、私は賛成できなかったのだ」と書いた。

役職上は東京裁判を支持し遂行しなければならない立場の人物でさえ、このように批判したのだ。彼は、同裁判が終わるまで再び法廷には戻らなかったのだ。

そして、このことはつとに知られているが、マッカーサー自身、東京裁判は誤りだったと告白している。それは50年10月15日、ウェーキ島でトルーマン大統領と会見した際の述懐である。また51年5月3日には、米議会上院の軍事外交合同委員会で、日本が戦争に突入した動機は「大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」とも述べている。『世界がさばく東京裁判』に集められた証言の数々は、東京裁判について国際社会、就中(なかんずく)、専門家は、「東京裁判こそ国際法違反である」と断じていることを示している。

ところが、同書の「あとがき」では心痛むことが指摘されている。同書をまとめるために日本の国会図書館などで文献に当たったところ、「意外なほど多くの外国人識者が国際法擁護の立場から東京裁判を批判し、世界的な視野に立って『連合国の戦争責任』を追及している一方、日本人研究者の多くが東京裁判を肯定し、日本の戦争責任だけを追及するという極めて自閉的な姿勢に終始していることを知った」というのだ。日本全体が東京裁判史観に染め上げられているのだ。佐藤氏らは、当初は日本の戦争をすべて侵略戦争として断罪した東京裁判批判によって、日本を精神的につぶした東京裁判史観を払拭したい、戦犯の汚名を着せられた一千余人の名誉回復を図りたいと考えていたという。しかし、東京裁判のあまりの無法ぶりを痛感するにつれ、「東京裁判によって貶(おとし)められた国際法の権威を取り戻すためにも、東京裁判は批判されなければならない」と考えるに至ったそうだ。

中国も韓国も、“A級戦犯”の合祀されている靖国神社に参拝してはならないと言う。私たち日本人は歴史を根幹から見つめ、東京裁判の無法と無効を論点整理し、今はむしろ、世界の法秩序と平和を守るためにこそ、東京裁判や“A級戦犯”が見せしめとしての日本断罪であったことを彼らに説いていかなければならない。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2005/07/a.html




【正論】上智大学名誉教授・渡部昇一 「パール判決」の意味は今も重い
2007.11.2 03:49
 ■東京裁判の不公正を国際法で切る
 ≪戦犯全被告の無罪主張≫
 安倍晋三首相が退陣し、福田康夫政権がスタートした。私が新政権に希望することの一つは、先の大戦を「侵略戦争」と決め付けた東京裁判史観を排し、インドのパール判事の示した観点によって日本の主張をはっきりと内外にしめしてもらいたいということである。
 安倍前首相が在任中インドを訪問したときに、同判事の息子さんに面会したという報道があった。「時代が変わったな」という印象を受けたのは私一人ではないと思う。パール判事は、日本を裁くために行われた国際極東軍事裁判(いわゆる東京裁判)のインド代表の判事だったが、裁判自体のあり方にも重大な疑問を呈し、判決には「全被告の無罪」を主張した。それは少数意見として、裁判所で読み上げられることなく、出版も自由ではなかったのである。
 しかし現在、国際法の立場からみると、唯一の価値ある意見であると国際法学者たちは言っているそうである。元首相の岸信介−いわゆるA級戦犯容疑者の一人−も、全面的にパール判決支持者であった。彼の孫の安倍前首相が判事の息子を訪ねたことは、安倍氏の歴史観を示すものとして興味深かった。
 パール判決文の意味は今日も大きい。というのは、あの大戦は過去の話ではなく、日本にとって依然として時事問題であるからである。
 ≪原爆投下は大量虐殺と同じ≫
 パール判事は、東京裁判は連合国軍総司令官マッカーサーの命令で行われ、裁判規定もその名で作成されたにしても、国際法に従うべきだとの立場から、検事側の主張を片っ端から破壊してゆく。不戦条約といわれるケロッグ・ブリアン条約についても、ケロッグ(当時のアメリカ国務長官)自身が「自衛戦を禁止するものではない。自衛か否かは各国に決める権利がある。自衛の概念は広範で、経済的脅威に対するものまで含められる」という趣旨のことを議会で述べていたことを指摘し、不戦条約を破ったとして日本を断罪することはできないとした。
 また裁判の対象となる時期も不戦条約締結の時まで広げることを嘲笑(ちょうしょう)的に批判した。つまり東京裁判の眼目である共同謀議など成り立つわけがないことを、田中義一内閣についで浜口雄幸内閣ができ…という政変からも述べた。
 パール判決でさらに重要なのは、正式の国際条約で決着したことを、この裁判に持ち込んではならないとしたことである。満州国は独立し、中国政府と国交を結ぶ条約を締結したことや、ソ連軍と国境をめぐって戦われた張鼓峰事件やノモンハン事件が正式に平和条約で決着していることを指摘した。さらにソ連軍が日本の敗戦直前に満州に侵攻したことは、ソ連の自衛権の発動とはいえない、ともいっている。アメリカが戦争を早く終結させ、人員の損害を少なくするために原爆を使ったという主張に対しては、同じようなことを第一次世界大戦ではウィルヘルム2世が言っていることを示し、ナチスのホロコーストに近いとまで指摘している。
 日本兵の捕虜虐殺については、証言者が法廷に出ないものが大部分であり、同じようなことがアメリカの南北戦争の時、北軍が、敗れた南軍に対して行った捕虜虐待裁判にもあった、という意外な史実も示した(「文芸春秋」9月号で牛村圭氏が詳説)。
 ≪裁判の「内容」を受諾せず≫
 パール判決書を読めば、日本人が東京裁判の「内容」を受諾する必要がないことは明らかである。しかし敗戦国としては、戦勝国の下した「判決」には従わなければならなかった。裁判の「内容」を受諾するか、「判決」を受諾するかは、絶対に混同してはいけない。戸塚ヨットスクール事件で裁判を受けた戸塚宏氏は、監禁致死という裁判「内容」には服しないが、法治国家の人間として「判決」には服した。だから刑期を短縮する機会が与えられても受けなかった。裁判の「内容」を受諾すると、「恐れ入らなければならない」からである。
 東京裁判の「内容」受諾と「判決」受諾の違いが、いつの間にか日本ではごっちゃにされている。その悲しい例を最近では山崎正和・中央教育審議会会長の発言の中に見る。氏は言う。「『東京裁判』の描いた戦争の姿はまさに法的真実であって…サンフランシスコ講和条約の条文のなかに、日本は『東京裁判』の判決を否定しないという誓約を明記した…」。東京裁判の「内容」と「判決」を混同したまま日本の教育を論じてもらっては困るのではないか。外務省筋も混同していた。これでは日本外交の姿勢がくずれるだろう。(わたなべ しょういち)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071102/trl0711020350001-n1.htm
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by thinkpod | 2006-11-04 15:10 | Books
2006年 10月 26日

歪曲報道

まえがき

ロサンゼルスに特派員として赴任して間もない頃、ちょっとしたホームパーティに誘われた。

日米のジャーナリスト、それにハリウッドのお膝元という場所柄もあって映画の制作関係者、写真家や弁護士など結構な顔ぶれが並んでいた。

こちらが新顔と見て、主宰者側の米国人スタッフが話しかけてきた。ユダヤ系で大学を2つ出て今はシナリオ選定の仕事をしているという話だった。

海外駐在はここが初めてか。

いや、中東に少々。最近までミャンマーにいてアウン・サン・スー・チーに会っていた。彼女を食い物にしている英国人の亭主がたまたまやってきて話も聞いた。帰りにバンコクに寄ったらクーデター騒動に巻き込まれた、軍隊も出て市民が数十人、殺されたというような話をした。

例のスチンダ将軍のクーデターで、首相の座に就いた彼に市民が珍しく大規模な民主化デモを展開して抵抗し、スチンダを退陣に追い込んだ事件だ。

すると彼、「アジアか」と深刻そうな顔つきをして「日本は昔、アジアの国々でたいそう悪いことをしたな」と言い出した。

いや別に、と否定すると、彼はかなりびっくりする。鳩が豆鉄砲を食らったようなという表情でこっちを見据えて「いや日本はひどいことをした。日本は朝鮮を植民地にしたではないか」という。

違うね、ともう一度否定する。朝鮮についていえば植民地じゃない。あれは併合だった。米国がテキサスを手に入れるときの併合と同じだ。それに日本の統治はうまくいった。少なくともフィリピンを植民地支配した米国に何かいわれるほど非道なことはしていない。

彼は真っ赤になって言い返す。「米国はフィリピンを開化させた。いいこと.をした。しかし日本は朝鮮で残酷なことしかしなかったではないか」。

お言葉ですが、と一言い返す。米国はフィリピン人に独立させてやるからと願して宗主国のスペインと戦わせた。スペインが降伏すると米国は約束を反故にしてフイリピンを米国の植民地にした。

怒ったフィリピン人が抵抗すると軍隊を出して彼らの虐殺を始めた。彼らの家族も捕まえて家に火をつけ拷問して殺した。

米国スペイン戦争は1898年4月に始まり8月にはスペインが降伏しているが、戦争はなぜかその後4年も続き、1902年に終わっている。

何をもって終わったかというとフィリピン人の抵抗が鎮圧された、もう米国の植民地支配を認めますといったときまで続いた。しかもその4年間で米軍はレイテ、サマールの2つの島の島民を皆殺しにするなど「20万人のフィリピン人を殺した」と上院の公聴会の記録に残っている。

朝鮮は違った。T・ルーズベルトが朝鮮はもはや国家の体をなしていないとはっきり発言して米公館を閉じ、日本に任せている。日本は学校をつくり、電気を引き、工業を興して真の意味の、つまりあなたのいう開化を行った。

そう説明すると、彼は「日本は朝鮮を植民地にしてひどいことをしたのは事実だ」と吼えて、「もうこの話はやめだ」という。

日本をしたり顔でくさして、旗色が悪くなると、怒り喚く。こちらも少々むかついたので、「百歩譲って日本が朝鮮をフィリピン並みの植民地にしたとして、それでも日本が悪いというのは、もしかしてあなたは日本が植民地を持つことを詐せないと思ったのか。植民地を持つのは白人国家の特権と思っているのか」と畳みかけた。

彼は顔を真っ赤にして四文字の言葉を投げかけて、どこかに行ってしまった。

この男とはのちに再会する機会があった。彼はあのあと、フィリピンと朝鮮の歴史を調べてこちらの言い分が正しいのを知ったと、あっさり非を認めてきた。

そしてこう付け足した。「初対面の日本人に朝鮮の植民地の話をすると、みんな申し訳ないという。そういう形で付き合いの主導権を取ってきた。反発されたのは今度が初めてだった」と。日本人には有効な「決め言葉だったのに」と笑っていた。

ここで注釈をつけると、彼のいう「日本人」は新聞記者であり、総領事館のスタッフ、っまり各省庁からの役人であり、一流企業の駐在員など世論にコミットする世界の人々だ、そんな彼らは朝鮮併合の中身も近代史も何も知らない。特派員に至っては、そういうあやふやな知識で微妙な国際問題をさもまともそうに記事にしている。

あまりぞっとしない話だが、実はこの米国人の「決め言葉」と同じものを支那の南京でも聞かされた。

日本軍が南京を落とした後、6週間にわたって市民30万人を殺した、つまり毎日7000人ずつ42日間、殺し続けたその証拠を留めるという「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館」を見に行ったときのことだ。

展示場はいかにもおどろおどろしくつくられているが、もともと虚構の事件だから物証などあるはずもない。だから展示品は「日本軍の虐殺の証拠写真」とかだが、すでに東中野修道・亜細亜大学教授が解き明かしているように、どれもこれも検証してみれば同じ人物や同じ場所で演出されたいんちき物ばかり。

まともな実写は『アサヒグラフ』に載った日本軍兵士らの写真で、もともとのキャプション「農家から鶏を買った笑顔の兵」というのが「農家を略奪し農民を皆殺しにして家禽を略奪した日軍兵士」と変えてある。そう変えさせたのは江沢民だ。

当時の南京には市民は20万人もいなかった。日本軍が入城後は平静に戻り、道端で支那人の床屋に髭をあたってもらっている日本軍兵士の写真などが当時の『朝日新聞』にも載っている。

中国が主張する毎日7000人ずつ「6週間休みなく殺し続けた虐殺」のそのさなかに報道班員としてやってきた作家の石川達三はもちろん、そんな虐殺を見てもいない。

その後に執筆した『武漢作戦』では、そのときの南京の風景をべースにしたこんな下りもある。

野口伍長が一等兵に声をかける。
「ちんばをひいとるな。全快したのか」
「もう二、三日すれば全快します」
「今までどこの病院にいたのだ」
「南京にいました」
「南京は賑やかになっとるか」
「はあ、もうカフェでも何でもあります。ネオンサインがついております」

その南京でガイドについたのが中国共産党の下部機関、南京大虐殺研究会のメンバー・戴国偉で、彼はその目で見てきたように日本軍の「虐殺の模様」を日本語で語り続ける。

話している彼もその荒唐無稽さに気づいているようで、その辺を指摘すると、彼は唖然とした顔つきでこちらを見た。

それはあの米国人の表情と同じだった。

戴某は開き直る。「私はここを訪れた日本の立派なジャーナリストのガイドも務めました。みんな納得しています。疑う声はないのです」。

どんな連中かと聞くと、「朝日新聞の本多勝一」に「筑紫哲也」に「久米宏」……。

「日本人の観光客にも話します。話をすると日本人はみな申し訳ないといいます。泣いて謝る人もいます」

米国人の言葉に見せる日本人の反応とこれもそっくりだ。

ただ問題は立派かどうかはともかく本多にしろ、筑紫や久米にしろ、少なくともジャーナリストの端くれにある者が中国人の言い分を検証もしない、調査もしないで、あたかも真実のように流してきたことだ。

彼らだけではない。

東京裁判でウェブというオーストラリア人が「日本は侵略国家だ」といった。それを受けて『朝日新聞』や『読売新聞』は確かめもしないで、日本を侵略国家ということにしてしまった。『朝日新聞』などは戦後60年以上過ぎた今でも、ウェブの言葉について一切の検証なしに日本は侵略国家だったとして社説を書き続けている。

人々はそうとも知らずに新聞を読み、テレビを見て、そうか日本は侵略国家だったのか、南京ではそんなひどいことをしたのかと思い込んでしまう。

その逆に中国がカンボジアに地雷をまき、今また石油のためにスーダンに虐殺を輸出していることは伝えてはくれない。韓国が竹島を不法占拠して、だから国際調停機関にも持ち込めないで、ただ日本がくれてやるというのを待っていることも教えてくれない。

今、身を置いている学者世界には「メディア・リテラシー」という言葉がある。リテラシーとは識字能力を意味する。新聞やテレビが流す報道。それが信ずるに値するものかどうかを見抜く力とでも訳すか。

この本は日頃の新聞やテレビの報道のどこに落とし穴があるか、どの部分が未検証なのかを探った『Voice』に連載の「メディア閻魔帳」をべースに、日本のジャーナリズムの先天的欠陥について書いた何本かの評論も付け加えた。

ニュース報道に偽物が混ざっていることだけでも理解していただければ幸いです。

また、出版に当たってPHP研究所の川上達史氏、豊田絵美子さんのご尽力、ご協力をいただきました。この場を借りて感謝を伝えたいと思います。
2006年8月10日
高山正之


Amazon.co.jp: 歪曲(わいきょく)報道: 本: 高山 正之
http://www.amazon.co.jp/gp/product/456965701X/ref=sib_rdr_dp/503-4629621-7911915

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/



(今週の書棚)

 高山正之『歪曲報道』(PHP)
@@@@@@@@@@@@@@

 南京大虐殺はなかった。
いまや根拠をあげるまでもなく、科学的、歴史的な“真実”は日本の平和的な南京統治である。
でっち上げ報道をやった外人記者は国民党のスパイだったことも判っている。彼らが言った証拠写真が全部偽物であった事実も確証された。

しかるにこれらの事実をいまも頑強に否定しているのは、嘘つき宣伝機関の中国共産党だけかとおもいきや、日本の朝日新聞など知能ていどの疑わしきメディアを筆頭に、驚くなかれアメリカ人のかなりのインテリにまで浸透している。
 洗脳とはおそろしいものである。

 以前、村松剛氏が中国へ行ったとき、ある宴席で「日本は最近、歴史教科書を“侵略”から“進出”になおした」と畳みかけるように言いふらす中国人学者がいるのに、誰も反論しない(真相は共同通信の誤報だった)。
「そんな教科書は一冊もありませんよ」と一言、村松さんが注意すると、くだんの学者はおどろき、「日本から多くの学者、政治家がきたのおなじ話をしたが、だれも、そんなことを言わなかった」と答えたそうな。

 高山さんの経験ではL。A特派員時代、ハリウッドのパーティで、日本は残虐であり、かの「韓国併合」がひどいという話になったので、アメリカがいかにフィリピンを侵略し、20万人を虐殺した(これは米国議会公聴会記録にちゃんと残っている)と激論になったそうな。
アメリカ人の知的レベルも低い。

 韓国に関しては、
 「ルーズベルト大統領が朝鮮はもはや国家の体をなしていないとはっきり発言して米公館を閉じ、日本に任せている。日本は(朝鮮に)学校をつくり、電気を引き、工業を興して真の意味のcivilazation、つまりあなた(アメリカ人で高山さんにいきなり議論を吹っかけてきた)のいう開化を行った」(同書より引用)。
 
 この議論は、それまで彼に議論をふっっかられても、日本領事館、マスメディア特派員ら、日本人の誰もが、このアメリカ人に反論していない証拠でもある。
 この男、それから図書館へ通って勉強し、後日、高山さんにあったら「研究した。あんたの言うとおりだった」と言ってきたそうな。
 
 小生もささやかな体験がいくつかあるが、南京での出来事。
南京に最初に行ったおりに、飛行場からでタクシーを拾ったとき、最初っからドライバーが喧嘩腰で畳みかけて来ましたね。
「あんたたち、ここで30万人を虐殺しただろ」
 で、小生はいちいち数字や歴史的背景を説明するのも面倒なので、ただひとこと。
 「あれは共産党の宣伝だ」と言った。
 すると、ドライバーが言った。
 「あ、そうか。奴らが一番悪い」
つづけて彼が吐いた台詞とは、驚くなかれ「ところで、日本でタクシー運転手はいくら稼げるか?」
 
 ともかくこのホン、快刀乱麻を絶つ勢いで朝日新聞などの偏向マスコミの迷妄をなで切りにしている。痛快、痛快。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3422897/



【コラム】「米国は韓国を見捨てるかもしれない」

 先日、日本の外交評論家、岡崎久彦氏にインタビューした。その時彼から聞いた話が今でも脳裏に焼き付いている。「米国のいわゆる『親韓派』の人たちは、ここ1、2年間で姿を消した。1世紀前に韓国が日本に併合された際も、米国は実に冷淡だった。」

 韓米関係を心配してくれるのはありがたいが、いざ日本人からこうした話を聞くと、複雑な気持ちがした。

 岡崎氏のこうした発言に対し、残念に思っていたなか、「米国が100年前のように韓国を徹底して見捨てることもあり得る」という考えに至らせる、1冊の本に出会った。それは上智大学の長田彰文教授が書いた『セオドア・ルーズベルトと韓国?韓国保護国化と米国』という本だ。

 ここで言う韓国とは現在の韓国でなく、日本に併合される前の大韓帝国を指す。長田教授は著書の中で、国際社会において自分の役回りを持てない弱小国が強大国に道義を訴えることがどれほど虚しい行為であるかを切実に描き出している。

 セオドア・ルーズベルトは露日戦争当時、米国大統領を務めた(在任1901−09年)。露日戦争以後、韓国は日本の保護国となり、5年後には植民地へと転落した。米国はロシアの南下を牽制(けんせい)するために露日戦争で日本を支援したのに続き、1905年7月にはフィリピンにおける米国の権益を日本に承認させる代りに、日本の対韓政策を支援するという内容の「桂・タフト協約」を秘密裏に締結した。

 その十数年前、米国は西洋の列強として最初に韓国との修好通商条約(1882年)を締結していた。そして、雲山金鉱の採掘権や京仁鉄道の敷設権などを始めとする深い利害関係で結ばれていた。そのため当時の米国の対韓政策には日本の対韓政策を左右するほどの重みがあった。

 韓米修好通商条約の第1条には、「第三国が条約国の一方に圧力を加えた場合、事態の通知を受けた他方の条約国が円満な解決のために調停を行う」という「調停条項」が明記されていた。韓国はこの条項をよりどころとみなし、米国が積極的で友好的に介入してくれることを期待した。そして高宗皇帝は宣教師のアーレンが公使として赴任すると「米国はわれわれにとって兄のような存在だ。われわれは貴国政府の善意を信じている」とすり寄った。

 こうした状況で米国大統領セオドア・ルーズベルトは周囲に次のような書簡を送っている。「わたしは日本が韓国を手に入れるところを見たい。日本はロシアに対する歯止めの役割を果たすことになり、これまでの態度を見ても日本にはそうなる資格がある」、 「韓国はこれまで自分を守るためにこぶしを振り上げることすらできていない。友情とは、ギブアンドテイクが成り立たなければならない。」

 ルーズベルト大統領と激論を繰り返し、韓国の独立維持を主張したアーレン公使も、最後には次のような言葉を発した。「韓国人に自治は不可能だ。米国政府が韓国の独立という虚構を日本に要求し続ければ大きな過ちを犯す」

 そして100年前、米国は徹底して韓国を見捨てた。100年後の今、ブッシュ大統領は韓国についてどう考えているのだろうか。

 ブッシュ大統領は先日、伝記作家エドモンド・モリスが書いた『The Rise of Theodore Roosevelt』(1979年に出版されたセオドア・ルーズベルトの伝記で、ピリッツァー賞を受賞した)を読破し、著者をホワイトハウスに招いた。またニューヨークタイムズは以前、ブッシュ大統領がセオドア・ルーズベルトを自身の大統領としてのモデルとみなしていると指摘している。

 最近の韓米関係を見ると、ブッシュ大統領がセオドア・ルーズベルトのアジア政策から多くを学び、それを実際の行動に移そうとしているのではないかという疑念が芽生えてくる。

東京=鄭権鉉(チョン・グォンヒョン)特派員
朝鮮日報
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/10/31/20061031000024.html
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by thinkpod | 2006-10-26 22:19 | Books