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カテゴリ:メディア( 19 )


2008年 03月 05日

何を目指すか、沖縄タイムス

■1.「アサヒる」■

「アサヒる」という言葉が流行っている。「歴史事実やニュー
スを捏(ねつ)造し、あとでそれが間違いであることが明らか
になってもきちんと謝罪することなく、論点をすり替えたり、
居直ったり、知らんふりをしたりする」ことを総称した言い回
しである。[1,p86]

 弊紙でも、今まで歴史教科書検定[a]、従軍慰安婦[b]、百人
斬り競争[c]、沖縄戦住民自決[d]などで、朝日新聞がいかに
「アサヒった」かを紹介してきた。

 最近の好例は、沖縄戦での住民自決事件の記述に関する教科
書検定に対して、昨年9月29日に沖縄県宣野湾市で開かれた
抗議集会に「11万人」もの人が参加した、という報道だろう。
翌30日の朝日朝刊では、トップニュースで「『集団自決強制』
削除、沖縄11万人抗議」との大見出しを掲げた。「11万人」
と言えば、沖縄の総人口137万人の約12分の1である。

 このニュースに、福田首相は「随分たくさん集まったね。沖
縄県民の気持ちは私も分かりますよ」と発言。これを受けて、
文科省も「(訂正申請が)出てきたら、真摯に対応したい」と
教科書各社に訂正申請を促すような発言までした。

■2.「11万人」の実態は「2万人程度」■

 しかし、この記事では、朝日新聞は二つの点で「アサヒっ」
ている。

 第一は「11万人」という参加者数である。沖縄県警は「4
万人強」という推定数字を示している。地元紙に掲載された集
会の航空写真を東京の警備会社テイケイ(株)が拡大して丹念
に数えたところ、視認できたのは「1万8179人」だった。
建物や木陰に隠れている人を加えても、せいぜい「2万人程度」
という結果が出ている。

 この疑問に対して、朝日は例によって沈黙しているが、朝日
新聞の子会社、テレビ朝日の報道ステーションで古舘伊知郎キャ
スターは「仮に2万人だとしても何か問題があるのでしょうか」
と居直った。「論点をすり替えたり、居直ったり、知らんふり
をしたりする」のが「アサヒる」の定義だが、「居直り」は初
心者のやることである。親会社のように「知らんふり」をする
方が、より高度なテクニックだ。

 嘘でも「11万人」とセンセーショナルに煽っておけば、そ
れで狙いは達成できるのであって、「本当は2万人じゃないか」
などと批判されても、「地元紙がそう報道した」などと適当に
受け流しておけば、そのうち世論は忘れてくれるからだ。

 第二のアサヒった点は、「『集団自決強制』削除」という見
出しである。これでは読者はこの事件が教科書からまったく削
除されたように思ってしまう。実際はどう変わったのか、『実
教出版 日本史B』の例で見てみよう。

【修正前】(日本軍は、県民を壕から追い出し、スパイ容
疑で殺害し、日本軍のくばった手榴弾で集団自決と殺しあ
いをさせ、八百人以上の犠牲者を出した。

【修正後】(日本軍は、県民を壕から追い出したり、スパ
イ容疑で殺害したりした。また日本軍のくばった手榴弾で
集団自決と殺し合いがおこった。犠牲者はあわせて800
人以上にのぼった。

 まるで間違い探しのようだが、違いは「集団自決と殺しあい
をさせ」が「集団自決と殺し合いがおこった」に変わっただけ
なのだ。これが「『集団自決強制』削除」の実態である。

■3.「無辜の民を次々と殺害」■

 地元の沖縄でこの運動を煽ってきたのが、沖縄タイムスであ
る。同紙のホームページで「沖縄戦『集団自決』問題」という
一覧[2]があり、昨年の関連記事のリストが掲載されている。
平成19年の1年間だけでも、単発記事103本、連載記事
16本というから、読者は「沖縄戦『集団自決』問題」だけで、
毎日のように記事を読まされることになる。

 連載記事の一つ、『神軍の足跡』(5月20〜24日)では、
以下のような説明文がついている。集団自決を慰安婦、南京大
虐殺、マレー虐殺などと関連して捉える同紙の史観が窺える。

「集団自決」訴訟は、日本軍「慰安婦」問題や、南京大虐
殺など、日本の加害責任を否定し、軍の名誉を回復しよう
とする動きと連なる。アジア太平洋戦争下、華人虐殺が起
きたマレー半島と「集団自決」の起きた慶良間諸島。二つ
の地点を結び、「神軍」の姿を追った。

 個々の記事タイトルを見ても、いかにもおどろおどろしい。

(1)マレーシアの地獄絵図/惨殺 命ごい無視
(2)華人虐殺と「集団自決」/差別・不信感が根底に
(3)マレー事件から「集団自決」へ/海外の虐殺 恐怖の連鎖
(4)無辜の民を次々と殺害/軍の論理を住民に強制
(5)問い掛ける虐殺の被害者ら/目立つ軍加害の矮小化

■4.「過激派、新左翼の機関誌まがい」■

 8月24日から9月29日まで連載された『教科書改ざん—
ただす』には以下の説明文があり、「県民大会」に向けて、同
紙が運動の盛り上げを図っていた様子が窺われる。

 九月二十九日の「教科書検定意見撤回を求める」県民大
会を前に、沖縄戦の体験者や体験を伝える活動を続けてい
る人、参加する団体の関係者に、大会への思いや教科書検
定の問題について聞いた。

 ついに実現した県民大会では、号外速報まで出している。翌
日の朝刊では、1面と最終面の見開き2ページぶち抜きという
豪快なスタイルで「11万人結集抗議 島ぐるみ史実守る」と
報じた。さらに識者のコメントなど関連記事が、総合2面、3
面、特集12面、13面、写真特集14−15面、社会面、第
2社会面と続く。まるで阪神大震災なみの扱いだ。

 こうした報道ぶりを見れば、沖縄タイムスは客観的に不偏不
党の立場から、この抗議集会を報道しているのではない事は明
らかである。赤旗が日本共産党の大会を盛り上げるのと同様に、
この抗議集会に主体的な推進者として関与していたのである。

 同紙が「過激派、新左翼の機関誌まがい」[1,p200]と言われ
るのも無理はない。というより、「過激派、新左翼の機関誌」
が「一般紙まがい」の擬態をとっている、と言うべきだろう。

■5.反戦一坪地主の中に編集幹部たち■

 沖縄タイムスは米軍基地への反対活動にも執念を燃やしてい
る。

 沖縄での米軍への基地提供を妨害するために、「反戦一坪地
主」たちがおり、2千平米ほどの土地に2968人が登記して、
抵抗運動を行った。一人あたりでは0.6平米、一坪どころか
ちょうど座り込みをする程度のスペースである。

 この反戦地主一坪たちのなかに、革マルや中核に混じって、
沖縄タイムス、琉球新報の編集幹部らの名前がぞろぞろ出てき
たのは有名な話である。

 編集幹部が、過激派、新左翼に混じって反基地活動をしてい
るのだから、その新聞はまさに「過激派、新左翼の機関誌」な
のである。こうした新聞が、米軍基地に関して公正な報道がで
きるはずもない。

■6.普天間飛行場の移設■

 たとえば平成18年4月、日米両政府が合意した在日米軍再
編をめぐる報道が良い例だ。この合意には在沖縄米海兵隊の約
8千人のグアム移転や、普天間飛行場の移設などが盛り込まれ
ている。

 普天間飛行場は市街地の中心部を占めており、そこに軍用機
が頻繁に離着陸するので、きわめて危険である。実際に平成
16年8月には、同基地所属の大型輸送ヘリコプターが訓練中
にコントロールを失い墜落、沖縄国際大学1号館に接触・炎上
する、という事故が起きている。この飛行場の移設と8千人の
グアム移転は、沖縄県民の負担と危険を軽減する上での重要な
施策である。

 政府間の合意に先立って防衛庁の額田長官と名護市の島袋吉
和市長は、普天間の移転先について名護市の米軍キャンプ・シュ
ワブ沿岸部とすることで合意した。協議は難航したが、「(米
軍機が)住民の上空を飛行しない」(島袋市長)ようにするた
めに離陸専用、着陸専用と2本の滑走路を作ることでようやく
決着にこぎつけたものだった。

 島袋市長はこの平成18年1月の市長選挙で当選したばかり
だったが、立候補期間中から「地元の納得が得られる形であれ
ば、政府との協議には応ずる」との姿勢を見せていた。そして
移設反対を全面に掲げた基地反対派候補2人の合計票よりも多
くの票を得ていた。だから、名護市民の多数は、基地受け入れ
に賛成していたと言える。

 それを沖縄タイムスは、県民の7割は移転に反対として、徹
底的に攻撃した。

■7.「中国は日米両国にとって脅威ではないはずだ」■

 沖縄タイムスは、4月9日付け社説で「まやかしの修正案だ
 基地機能強化の恐れも」と題して、1)滑走路を2本にした
のはかえって基地の危険性を増大させた、2)米軍の基地機能
強化につながる恐れがある、3)絶滅危惧種のジュゴンの藻場
にも影響する、などとして「県民の願いを無視して『県内移設
ありき』で強行する政府に島袋市長が屈したのは残念というし
かない」と決めつけた。

「ジュゴンの藻場」よりも、普天間飛行場周辺住民の安全確保
の方が大事だろう。また「県民の願いを無視して」というが、
島袋市長が市長選に当選した事自体が、市民多数派の支持を受
けている点を無視している。

 そして次の一文が、沖縄タイムスの社説の核心部分である。

 辺野古周辺地域や県が求めているのは新たな基地を北部
に造り、基地機能を強化することではなく、県外そして海
外への移設である。

 沖縄に米軍基地がある限り、沖縄タイムスは決して、満足し
ないのである。

 また同年2月に防衛庁が那覇基地所属のF4ファントム戦闘
機を平成20年度中にF15イーグル戦闘機に更新する方針を
明らかにした際にも、沖縄タイムスは2月18日付社説「アジ
アへの逆脅威だ」と題して、次のように主張した。

 今のところ中国は日米両国にとって脅威ではないはずだ。
中国脅威論を政治的プロパガンダに利用することで、米軍
と自衛隊の軍事一体化を促進しようとする日米両政府の思
惑が見え隠れする。・・・配備は紛れもなく中国を始め周
辺諸国を刺激する。

 日本の各都市に核ミサイルの照準を合わせ、20年近くも軍
事費2桁増を続ける中国が、日本にとって脅威でないはずがな
い。その中国の軍拡を「脅威ではないはずだ」と強弁して、自
衛隊の戦闘機更新に反対し、なおかつ米軍の「海外への移設」
を沖縄タイムスは求めているのである。その狙いはどこにある
のか。

■8.沖縄を「東シナ海の孤島」に■

 米軍が「県外そして海外」に移設すれば、沖縄に軍事的真空
地帯が生まれる。中国は、1973年に米軍がベトナムを去った翌
年にパラセル(西沙)諸島を軍事占領した。1992年に米軍がフィ
リピンから撤退した翌年には、南シナ海の中ほどに浮かぶスプ
ラトリー(南沙)諸島に軍事基地を建設した。ベトナムもフィ
リピンもこれに抗議したが、米軍が去った後では負け犬の遠吠
えに過ぎなかった。[e]

 同じ事が、かねてより中国が所有権を主張している尖閣列島
で起こるであろう。そして台湾と沖縄の中間地点である尖閣列
島を軍事要塞化すれば、そこから中国の原子力潜水艦は米軍不
在の沖縄近海を通って、自由に西太平洋に出られるようになる。

 実際に2006年には中国の原潜が沖縄本島と宮古島の間の海域
を通って太平洋に出た後、グアム近海を一周して戻る際に石垣
島近辺の日本の領海を侵犯している[f]。 この原潜は米軍の
対潜哨戒機が発見し、海上自衛隊が追尾したが、米軍がいなく
なれば、こうした行動が自由にとれるようになるのである。

 その結果、中国の制海権は沖縄をすっぽりと覆って、太平洋
の西側に広がる。そこはもはや西太平洋というより「東シナ海」
と呼ぶべき海となり、沖縄はその中の孤島になる。

■9.中国の長期戦略の尖兵として■

 沖縄の近海に中国の原潜が自由に徘徊するような状況になっ
たら、どうなるのか。中国側はいつでも食料や医薬品、石油な
どを運ぶ沖縄のライフラインをストップできるわけで、その無
言の圧力に、日本政府も沖縄県も従わざるをえなくなる。

 たとえば沖縄を経済特区にして、中国人がビザなしで入れる
ようにしたり、あるいは中国企業が自由に進出できるようにす
る。沖縄と中国との定期航空便を増やす。中国人滞在者と中国
企業が増え、沖縄と中国との経済的一体化が急速に進む。

 その先に見えてくるのが沖縄独立論である。それが中国の属
国への道であることは、言うまでもない。

 沖縄が中国の属国になれば、ライフラインを分断された日本
も台湾も、熟した柿のように中国の勢力圏に落ちてしまう。日
本と台湾の巨大な富と先進技術を手に入れれば、中国はアメリ
カを凌ぐ超大国になりうるのである。

 中国がこうした遠大な国家戦略を数十年というスパンで実行
する国であることは、30年以上にわたって核兵器を独自開発
してきたことを見ても分かる。[g]

 日本軍の残虐ぶりを声高に罵って住民の反日意識を煽り、米
軍の撤退を断固要求し、自衛隊の軍備増強にも反対する沖縄タ
イムスは、中国の長期戦略の尖兵として、まことに得難い存在
なのである。この事を沖縄タイムスがどのように自覚している
のかは定かではないが。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(044) 虚に吠えたマスコミ
 朝日は、中国抗議のガセネタを提供し、それが誤報と判明し
てからも、明確に否定することなく、問題を煽り続けた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog044.html
b. JOG(106) 「従軍慰安婦」問題(上)
 日韓友好に打ち込まれた楔。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html
c. JOG(028) 平気でうそをつく人々
 戦前の「百人斬り競争」の虚報が戦後の「殺人ゲーム」とし
て復活した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog028.html
d. JOG(472) 悪意の幻想 〜 沖縄戦「住民自決命令」の神話
「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要した」との神
話が崩されつつある。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog472.html
e. JOG(152) 今日の南沙は明日の尖閣
 米軍がフィリッピンから引き揚げた途端に、中国は南沙諸島
の軍事基地化を加速した
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog152.html
f. JOG(481) 中国、太平洋侵出の野望 〜 西太平洋を「中国の海」

 日本を「中国の海」に浮かぶ孤島列島にするのか。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog481.html
g. JOG(186) 貧者の一燈、核兵器〜中国軍拡小史
 9回の対外戦争と数次の国内動乱を乗り越えて、核大国を目
指してきた中国の国家的執念。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog186.html

http://archive.mag2.com/0000000699/20080302060000000.html



沖縄住民自決の新証言を報道しない沖縄タイムズ

伊勢雅臣
 沖縄県座間味村で民宿などを経営する宮平秀幸さん(78)
が、自決用の手榴弾などを求める住民に対し、軍が「そんなも
のは渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ
自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解
散させ、避難させよ」と命令していたことを証言した。[a]

 あきらかに軍が住民に集団自決を命令したという「神話」を
覆す重要証言である。宮平秀幸さんは3月10日に沖縄県庁で
記者会見を開き、当時の状況を改めて語った。

 だが、この会見は地元の有力2紙、沖縄タイムスと琉球新報
には報じられなかった。宮平氏は以前、両紙に「集団自決につ
いて真実を話したいから、取材に来てほしい」と申し入れたが、
どちらも取材に来なかったという。[1]

 ちなみに各新聞のデータベースで「宮平秀幸」で最近1ヶ月
を調べてみると、記事が出てきたのは産経新聞のみ。朝日、読
売、毎日、共同通信ともすべてゼロだった。

 2万人程度の抗議集会が「『集団自決強制』削除、沖縄11
万人抗議」などとと誇大に報道され[b]、自らに都合の悪い証
言は、まったく無視する。これでは報道機関ではなく、宣伝機
関である。

 わが国が真の自由民主主義国家であるためには、こうした事
実から我々を目隠ししている宣伝機関を打破していく必要があ
る。

■リンク■
a. Wing(1406) 沖縄戦「住民自決命令」神話を覆す新証言
http://archive.mag2.com/0000013290/20080225000000000.html
b. JOG(537) 何を目指すか、沖縄タイムス
 反日意識を煽り、米軍の撤退を要求する、その先にあるもの
は?
http://archive.mag2.com/0000000699/20080302060000000.html

■参考■
1. 産経新聞、「【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 閉ざ
された沖縄の言語空間」、H20.03.15、東京朝刊、13頁
http://archive.mag2.com/0000013290/20080317000000000.html






若い世代に期待したい! - 軍事評論家=佐藤守のブログ日記

「諸君」4月号はこの問題についてジャーナリスト・鴨野守氏と、1954年生まれの山室建徳・帝京大学理工学部講師の論文を掲載しているが、双方共に読み応えがある。
 鴨野氏は、沖縄タイムスの常務だった豊平良顕氏が、豊平氏の同級生であった中松氏に「沖縄タイムスは、米軍から新聞発行のための配給を受けている。それで米軍から、『こういう記事を書け』という指示が来る。そうしないと紙の配給がストップし、新聞が出せなくなる。その米軍の指示通りに書いたのが『鉄の暴風』だ」と、戦後期における米軍とのやり取りの裏話を語ったことを書いているが、「昭和24年11月に脱稿、それを全文英訳して、軍政府に提出し、出版の許可が出るのは翌年6月15日。だが、本を監修した豊平氏は『月刊タイムス』25年1月号に、早くも『“鉄の暴風”と記録文学 沖縄戦記脱稿記』という一文を寄せている。・・・その脱稿記の終わりに気になる記述がある『沖縄戦記の刊行をタイムス社が承ったことは、あるいは、最適任者を得たものではあるまいかと思う』。豊平氏が『承る』と言う丁寧な言葉を使う相手が、沖縄タイムスに生殺与奪の権限を持つ米軍と読めば、この手記の掲載も納得がいくのである。日本本土と沖縄を離間させ、沖縄住民が日本軍国主義の犠牲者であるという『虚構の対決の構図』を作り上げるため、執筆を指示した『鉄の暴風』に、“毒”として盛り込まれたのが、『軍の自決命令』ではないだろうか」と書いているが、私も全く同感である。

http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20080327


杜撰な沖縄集団自決論/沖縄の言論 異論認めぬ画一的報道
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by thinkpod | 2008-03-05 19:46 | メディア
2008年 01月 30日

報道の自由の嘘〜われわれは知性の売春婦なのだ

ジャーナリズムの本当の目的
2007年07月13日14時01分
【PJ 2007年07月13日】− ジャーナリズムの目的とは何だろう。「真実を伝えること」とは本当だろうか。少なくともマスコミがそのような目的で動いているとは思えない。『ニューヨークタイムズ』の記者だったジョン・スウィントンは次のような名演説をした

 「今日のアメリカにおいて、報道の自由などというものは存在しない。わたしは正直な意見を新聞に書かないことで給料をもらっている。われわれは金持ちたちの舞台裏の道具であり、召し使いだ。われわれは知性の売春婦なのだ」

 このことは現在のわが国についても言えるのではないか。全国で商店街の衰退が続いているが、NHKや新聞各紙は商店主の頑張りや行政のてこ入れで客を取り戻したわずかな成功事例を紹介するばかり。原因である大店法の廃止に触れることはない。

 地方の医師不足が深刻だが、この原因は医局制の廃止と診療報酬のマイナス改定にある。しかし、マスコミはこのことに触れず、医師の増員を説く専門家の話と、創意工夫で乗り切る地域を紹介するだけである。

 農水省の統計によれば、前回の調査から全国で500の集落が消失し、全国の過疎地比率は50パーセントを超えた。2000年の農地法改正が離農に拍車を掛けた形だが、食管法廃止に始まる農業自由化と関係づける報道を見たことがない。ある新聞は農水省の後援も得て、大規模化と法人化による成功事例を紹介するばかりである。

 5月に会社法が施行された。外国株対価の合併を認め、外資による国内企業の買収を円滑にする三角合併の解禁が盛り込まれている。しかしマスコミは、「一円から会社が設立できるようになった」「企業の社会的責任を重視する世論に応えた」と礼賛してきた。

 余剰弁護士を抱える米国は、わが国をリーガルマーケットにするため司法制度改革を要求した。しかし、マスコミは「日本は弁護士が足りない」「裁判を身近に」と宣伝。改革が持つ本当の意味に触れず、新試験の合格率が目標を下回ったことや不合格者の進路などを問題にしている。

 郵政民営化で10月以降、わが国は国債売却による金融システム崩壊の危機を抱える。しかし、マスコミは「郵政選挙」で国益擁護派議員を「抵抗勢力」とたたき、“刺客”を「小泉チルドレン」と持ち上げた。公社職員の給与に一切税金は使われていないのに、「公務員10万人を減らせる」との小泉前首相のデマを宣伝した。

 道路公団の赤字体質を宣伝し、民営化に追いやった。しかし、公団は一貫した黒字経営で、償還準備金を12兆円も積み立て無料化寸前だった。

 社会保険庁の解体を招いたのは年金納付率の低下が非難されてのことだったが、2002年に徴収業務を市町村から引き上げたことをどのマスコミも伝えない。米国は、公的年金を運用受託する米国の金融機関が運用先の日本企業で株主権限を行使(委任投票)できるよう求めてきた。年金記録のずさん管理が大報道された末に出てきたのは、ICチップを使って個人情報を一元管理する「社会保障カード」の導入である。米国はこの数年、無線ICチップの導入も求めている。

 これらの改革はすべて、毎年米国から出される『年次改革要望書』に明記されているが、どの新聞もこの文書をまともに取り上げていない。

 談合排除は『年次改革要望書』に明記されていることなのに、公共工事をめぐる談合事件を相も変わらず報じている。

 教育市場の開放は『日米投資イニシアティブ報告書』にもある通り米国の要求なのに、いじめや未履修の問題を騒ぎ立て、参入の障壁となる教育委員会を批判してきた。

 大手菓子メーカーの不二家は期限切れの材料を使ったと連日報じられたため、販売休止に追い込まれた。ある外資系証券会社は事件前に不二家株を大量取得し、空売りしたとみられる。本社の土地と建物は、米シティーグループのものになった。

 竹中平蔵氏らのインサイダー疑惑を指摘していた植草一秀元教授の痴漢容疑は、裁判で無実を決定づける証言が出てきた。起訴状で犯行があったとされる時間帯に植草氏が何もしてなかったことを、7月4日の公判で目撃者が明かした。しかし、どのマスコミもこのことに触れず、「大した証言は出てこなかった」と片付けている。

 マスコミをめぐっては、記者クラブ制や再販制度、広告、電波の許認可制などさまざまな制約があるから、記者が無意識でも権力の手先として働くことになるのだろう。ただし、わが国の場合、マスコミを支配する「金持ち」は外国の資本家であり、わが国の政府は彼らが牛耳る米国に操縦されている。わが国におけるジャーナリズムの目的とは、真実を隠し、外国による支配を円滑にすることではないか。【了】

http://news.livedoor.com/article/detail/3232185/




題名:No.503 報道の自由
Date : 2002年01月09日
今回のOWでは、報道には昔も今も公正さや中立性というものがないと述べた、元『ニューヨーク・タイムズ』紙記者のジョン・スウィントンの有名な引用をお送りします。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
(ビル・トッテン)

 1880年、『ニューヨーク・タイムズ』紙の著名な記者であったジョン・スウィントンが、ニューヨークプレスクラブのパーティにおいて「報道の自由」に乾杯がなされたことに対して行ったスピーチを以下に紹介する。

 世界の歴史における今日のアメリカにおいて、報道の自由などというものは存在しない。あたなはそれを知っているし、私も知っている。あなた方のうち、誰一人として正直な意見を書けるものはいないし、もし書いたとしても、それが決して新聞に載ることはないことを知っている。私は私の正直な意見を新聞に書かないことで給料をもらっている。あなたがたも同じことをして給料を得ている。もし正直な意見を書こうなどという、愚かな考えを持つ者がいれば、すぐに失職して別の仕事を探さなければならないだろう。

 もし私の正直な意見が新聞に掲載されようものなら、24時間以内に、私はくびになるだろう。ジャーナリストの仕事は、真実を壊し、公然と嘘をつくことであり、判断を誤らせ、中傷し、富の邪神の足元にへつらい、自分の国も国民をも、日々の糧のために売り渡すことである。あなたはこれを知っているし、私も知っている。報道の自由に乾杯など、どんなにばかげたことか。

 我々は金持ちたちの舞台裏の道具であり、召使だ。我々は操り人形で、彼らが糸を引き、我々が踊る。我々の才能も可能性も命も、他の人間の道具なのである。我々は知性の売春婦なのだ。

 (出所:Labor''''s Untold Story, by Richard O.Boyer and Herbert M. Morais, Published by United Electrical, Radio&Machine Workers of America, NY 1955/1979)

http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1175895_629.html




医師の確保ー医学部の定員を増やせ
朝日新聞2007/06/24
 医学部の定員という蛇口を閉めたままで、あれこれやりくりしても、焼け石に水ではないか。
 与党が参院選向けに打ち出した医師確保策を見て、そう思わざるをえない。
 医師は毎年4000人程度増えており、必要な数はまかなえる。問題は小児科や産婦人科などの医師不足のほか、地域による医師の偏在だ。こうした偏りを正せばいい。これが厚生労働省の方針だ。
 その方針をもとに、与党は選挙公約でこれまでの偏在対策に加えて、新たに次のような項目を追加した。
 政府が医師をプールする仕組みをつくり、医師不足の地域へ緊急派遣する。大学を卒業した医師が研修で都市の人気病院に集中しないように定員を改め、地方の病院にも回るようにする。
 確かに、偏在の是正にはすぐに手をつけなければいけない。
 しかし、医師不足は全国の病院に広がっている。都市でもお産のため入院できない地区が増えている。深刻な実態が進んでいるのに、偏在対策だけでは安心できると言えない だろう。
 いま求められているのは、時間はかかるが、医学部の定員を増やし、抜本的に医師不足の解消を図ることだ。

http://www.asahi.com/paper/editorial20070624.html
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by thinkpod | 2008-01-30 16:10 | メディア
2007年 04月 09日

国際世論を操る広告代理店

セルビア人勢力は、米国の広告代理店によって
国際的な敵役に仕立てあげられた。


■1.凱旋した将軍■

 1992年8月、カナダの首都オタワ空港に到着した飛行機から、
一人の軍人がタラップを降りた。ゲートには数多くの市民が出
迎え、歓迎の声が渦巻いた。彼はそれに手を振って答えた。ブ
ルーのベレー帽は、国連防護軍サラエボ司令官の任務を終えた
きた証しだった。

 この軍人、ルイス・マッケンジー将軍は2ヶ月余り前に、セ
ルビア人とモスレム人の内戦が続くボスニア・ヘルツェゴビナ
のサラエボ空港にカナダ軍部隊を率いて乗り込んだ。彼らの活
躍によりサラエボ空港の安全が確保され、毎日20機ほどの輸
送機が200トンの援助物資を積んで到着した。セルビア人勢
力に包囲されていた38万人のサラエボ市民は、将軍の活躍に
よって餓死から救われたのである。

 将軍はその軍歴の大半を世界各地の国連平和維持活動に捧げ
てきた。そして世界の注目を集めるサラエボでカナダ軍の名声
を高めた英雄として凱旋したこの時が、将軍のキャリアの絶頂
期であった。カナダ政府の国防相に、という声も出始めていた。

 しかし、将軍にはひとつ気がかりな事があった。果たして、
それが将軍のキャリアを暗転させる躓きの石となるのだが、こ
の時は、まだそこまでは気がつかなかった。

■2.「おかしい。タイミングがよすぎる」■

 その気がかりとは、将軍がカナダに戻る前に、ニューヨーク
で国連の幹部に挨拶をした後、記者会見やテレビ出演を行った
時の事だった。サラエボでの状況をあれこれ聞かれるだろうと
いう将軍の予想を完全に裏切って、記者たちの質問は「強制収
容所」に集中した。

 将軍は答えた。「強制所については、何一つ知らない。私が
知っているのは、モスレム人とセルビア人の双方が、相手の側
にこそ、そういう収容所があると言って互いに非難していると
いう事だけです。」 将軍はニュース番組にも何度か出演した
が、そのたびに同じ答えを繰り返した。

 カナダに戻った後、マッケンジー将軍はアメリカの連邦議会
上院の公聴会での証言を求められて、ワシントンに赴いた。そ
の公聴会の前日、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府のシライジッ
チ外相からカナダのマクドゥガル外相に宛てた書簡が、プレス
に緊急公開された。

 その公開書簡では、将軍が「セルビア側が設けた強制収容所
については何も知らない」とテレビで何度も語っている事に対
して、「将軍自身が司令部を置いたサラエボ空港の滑走路脇に
も強制収容所があるのに、これはいったいどうしたことなのか」
と非難していた。「おかしい。タイミングがよすぎる」という
思いが心をよぎった。

■3.将軍を追いつめる計画的な意思■

 翌日行われた公聴会では、公開書簡の影響があったのか、同
盟国カナダの将軍に対するものとは思えない詰問調の質問が続
いた。「収容所についての報道を知っていたなら、たとえば国
連部隊として赤十字の査察をバックアップすることは考えなかっ
たのか?」

 そう聞かれると将軍は「それはそうですが、しかし、それを
しようと思ったら、全体状況を斟酌しなければなりません」と
苦しい答弁をするしかなかった。サラエボ空港の安全を確保し
て38万人の市民を餓死から救う事が任務であった将軍にとっ
て、そんな義務も余力もなかったのである。

 同時に将軍への様々な中傷が湧き起こった。「妻がセルビア
人だから、将軍はセルビア人の味方をしているのだ」というの
が、その一つだった。実際には将軍の妻はスコットランド人で、
根も葉もない中傷だった。さらには「将軍はサラエボで収容所
に入れられたモスレム人の女性をレイプした」というひどいも
のまであった。

 こうした誹謗中傷を受けながら、将軍は自分を追いつめる何
か計画的な意思が働いているとは感じた。しかし、それがある
広告代理店の仕業だと気がつくまでにはしばらくかかった。そ
して、気がついた時にはもう後の祭りだった。

「国防相に」という声は、はたと途絶え、退役を迫る有形無形
のプレッシャーが強まった。結局、将軍は定年の数年前に軍を
去ることを余儀なくされた。

■4.国家を顧客とする広告代理店■

 将軍を追いつめたのは、アメリカの大手広告代理店ルーダー
・フィン社の幹部社員ジム・ハーフであった。普通の広告代理
店は企業と契約し、その知名度やイメージを高めることが仕事
である。しかしジム・ハーフは特殊な広告分野の開拓者だった。
それは国際紛争を戦う一方の国家を顧客として、国際世論を味
方につけるようなPRをするという仕事である。

 ジム・ハーフがこの仕事に携わるようになったのは、ボスニ
ア・ヘルツェゴビナ政府外相ハリス・シライジッチの依頼を受
けた事が発端だった。シライジッチはこの1992年の4月に単身、
ニューヨークに乗り込んできて、国連関係者に祖国の窮状を訴
えたのだが、誰にも相手にされなかった。東欧の片隅の小国で、
人口も少なく、石油や核兵器があるわけでもない。そんな国の
紛争に構っている暇は誰にもなかった。

 何とかアメリカ国務省のジェームズ・ベーカー長官と会うこ
とができたが、国民の支持無しにアメリカの国益にまったく関
係ない国の救援をすることはできない、とにべもなく断られた。
しかし、ベーカー長官は、アメリカの世論を動かすには、メディ
アを通じて訴えるのが良い、とだけ、アドバイスをしてくれた。

 そこでシライジッチは、つてを辿ってジム・ハーフにボスニ
ア・ヘルツェゴビナ政府の広告代理店業務を依頼したのだった。

■5.シライジッチ外相の「改造」■

 ハーフはまずシライジッチをテレビ・ニュースのトークショ
ー向けに「改造」する事に取り組んだ。シライジッチのテレビ
写りの良いアラン・ドロンばりの風貌と、正確で知的な英語は
なによりの武器だった。

 しかし欠点もあった。シライジッチは歴史学者出身であった
ため、ボスニア紛争の経緯を長々と説明したがるのである。ア
メリカの視聴者はそんな話にはすぐに飽きてしまう、大切なの
は今何が起こっているのかだけだ、とハーフは教えた。

 ある程度「改造」が進んだ段階で、ハーフは全国ネットであ
るABCの報道番組「ナイトライン」にシライジッチを出演さ
せる段取りをつけた。番組の冒頭、司会者の第一問は「なぜ、
アメリカがボスニア・ヘルツェゴビナなどに関係を持たなくて
はいけないのか、アメリカのメリットはいったいどこにあるの
か」という厳しいものだった。実際、ほとんどのアメリカ人は
ボスニアがどこにあるのかさえ知らなかった。

 シライジッチは計算し尽くされた名演技を見せた。まず怒り
の表情で2秒あまりの間、押し黙った。テレビでの2秒の沈黙
は長い。「なぜか、ですって」とようやくシライジッチは口を
開いた。何という不適切な質問なのか、と言わんばかりの口調
だった。

 サラエボでは、毎日無実の市民が殺され、血を流してい
るからです。怪物のような連中がはびこっているのです。
こういう人道に背く行為を、決して傍観して見過ごしたり
はしないというのが、アメリカという国の責任と誇りだか
らです。

 そして「Enough is enough, that's why.(もうたくさんな
んだ。それが理由だ)」と怒気を込めて結んだ。

 結局、この演技で、番組司会者の仕掛けた冷静な「アメリカ
のメリット」論議は吹っ飛んでしまった。あとはシライジッチ
が独演でサラエボでどんな悲劇が起きているのかを語り続けた。
シライジッチの「改造」は大成功だった。

■6.「民族浄化」■

 しかしハーフはこの成功だけでは十分ではない、と考えてい
た。無実の市民が殺されるような悲劇は世界中で毎日のように
起こっている。それらとは違うということを、人々の心の奥底
にまで訴えかけるパワフルなキャッチ・コピーが必要だ。

 そこで考え出されたのが「ethnic clensing(民族浄化)」
だった。"clensing"とは台所のクレンザーのように、汚れをご
しごしと洗い流す、という言葉である。それに"ethnic"(民族)
とつけた事によって、異民族を「汚れ」扱いし、それを力で
「洗い流す」という、ぞっとさせる語感を生み出した。

 このキャッチ・コピーは、欧米のメディアで一気に広まった。
『ニューズウィーク』誌の表紙を飾り、『ニューヨーク・タ
イムズ』『ワシントン・ポスト』『ウォール・ストリート・ジャ
ーナル』といった有力紙に連日登場した。

 政治家たちも、この強力なキャッチ・コピーをスピーチの中
で使うようになった。たとえばカナダの外務大臣バーバラ・マ
クドゥガルは「民族浄化は、ナチスの行為の再来である」と記
者会見で語った。

■7.半面の真実■

ハーフは言う。

「民族浄化」というこの一つの言葉で、人々はボスニア・
ヘルツェゴビナで何が起きていたかを理解することができ
るのです。「セルビア人がどこどこの村にやってきて、銃
を突きつけ、30分以内に家を出て行けとモスレム人に命
令し、彼らをトラックに乗せて、、、」と延々説明するか
わりに、一言 "ethnic clensing(民族浄化)"と言えば全
部伝わるんですよ。[1, p119]

「マクドナルド」と言えば誰でもハンバーガーを連想するよう
に、"ethnic clensing"と言えば、ナチスがユダヤ人にやった
事が、今ボスニアで起きているのだな、と人びとは連想したの
である。

 しかし、この言葉は半面の真実しか伝えていない。イギリス
の元外相キャリントン卿は、この言葉の不公平さをこう指摘し
ている。

 セルビア人も、クロアチア人も、モスレム人も、誰もが
同じ事をしていたのだ。にもかかわらず、セルビア人が被
害者となり、他の民族に追い出された場合には「民族浄化」
とは呼ばれなかった。[1,p121]

■8.「強制収容所」という神をも恐れぬ蛮行■

 ナチスと言えば、次に連想されるのは「強制収容所」である。
"ethnic clensing"がこれだけ流行語になったので、その一環
で「強制収容所」が見つかれば、大変な特ダネとなる。実際に
それが存在するという噂も現地から伝えられていた。英国の
『ザ・タイムズ』紙は、取材チームを現地に送り、「収容所の
取材をし、ネタを見つけるまでは、他の記事はいっさい送る必
要はない」と命じた。

 チームはセルビア人勢力の許可を得て、一つの捕虜収容所を
訪れたが、さすがに「強制収容所」と言えるほどの代物ではな
かった。ただ夏の暑い時期で、野外で上半身裸で過ごしている
捕虜が多かった。その中にひどく痩せてあばら骨が浮き出てい
た男がおり、チームのカメラマンはその男の写真をとった。そ
の男の前にはたまたま有刺鉄線が映っていたが、それは捕虜た
ちを閉じこめておくためのものではなかった。

 しかしその写真の「有刺鉄線の中の痩せさらばえた半裸の男」
という構図は、ナチスの強制収容所のイメージそのものだった。
この映像はイギリスに送られ、ニュースで流された。

 ハーフがこの機会を見逃すはずもなかった。翌日、ファック
スで全米の放送局、新聞、雑誌社にこのニュースを知らせた。
各社は争ってこの映像を購入し、自らのメディアで流した。繰
り返し流される「有刺鉄線の中の痩せさらばえた半裸の男」の
映像に米国の世論は沸騰した。

『ニューヨーク・タイムズ』誌は「何千人もの人々が強制収容
所に捕らえられている」と論じ、「セルビア人を甘やかしては
ならない」と社説で主張した。

 ブッシュ大統領も記者会見で「セルビア人たちに捕らえられ
た囚人の映像は、この問題に有効な対処が必要なことを示す明
らかな証拠だ。世界は二度とナチスの『強制収容所』という神
をも恐れぬ蛮行を許してはならない」と述べた。

 冒頭で述べたマッケンジー将軍の帰国は、まさに「強制収容
所」が盛んに取りざたされていた時だったのである。「強制収
容所を知らない」とメディアで繰り返し証言する将軍は、せっ
かく盛り上がった世論に冷や水をかける厄介な邪魔者だった。
そこでハーフは米議会で証言する前日に狙いを定めて、カナダ
外相への抗議の公開書簡を出し、邪魔者を葬り去ったのである。

■9.仮想現実の勝利■

 セルビア人たちは、真実はほうっておいてもやがて自然に知
れ渡る、と素朴に信じていたが、「民族浄化」というキャッチ
・コピーや「強制収容所」の映像によって、メディア上に確固
たる仮想現実が構築されては、もはやなすすべもなかった。彼
らも広告代理店を雇って対抗しようとしたが、すでにナチス並
みの烙印を押された悪役のために働くような危険な仕事を引き
受けるPR企業はなかった。

 国際世論は反セルビア一色となり、この年の9月に開催され
た第47回国連総会で、セルビア共和国が所属するユーゴスラ
ビア連邦の追放が決議された。加盟国の追放は国際連合の歴史
上、前例のない事である。

 紛争当時のセルビア共和国大統領スロボダン・ミロシェビッ
チは、2001年にセルビア共和国によって逮捕され、ハーグの国
際法廷で人道に対する罪を問われた。セルビア共和国はかつて
の大統領を「罪人」として差し出すことで、自分たちは「罪」
から逃れようとしたのである。

 しかし容疑事実の立証がなされなかったため、裁判は延々5
年間も続いたが、ミロシェビッチが収監中の独房で死亡したこ
とで、中断された。

 一方、この仕事で、国家や政府を顧客とするPR活動がビジ
ネスとなることを実証したジム・ハーフは全米PR協会から
1993年のシルヴァー・アンビル賞を受賞している。ハーフはこ
れを足がかりに独立し、国際世論を動かす仕事を続けている。
(文責:伊勢雅臣)


a. JOG(350) ダイオキシン騒動〜 「魔女狩り」騒ぎのメカニズム
 事実はいかにねじ曲げられ、煽動に使われたか。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog350.html
b. JOG(455) 「南京大虐殺」の創作者たち
 中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog455.html

1. 高木徹『戦争広告代理店』★★★、講談社文庫、H17
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062750961/japanontheg01-22%22


http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108406639.html
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by thinkpod | 2007-04-09 15:05 | メディア
2007年 03月 15日

慰安婦問題の再調査が必要だ

「従軍慰安婦」の政治決着は見直すべきだ

2007-03-03 / Law/Politics
いわゆる従軍慰安婦について「強制があったという証拠はない」という1日の安倍首相の談話への反発が広がっている。韓国の外相が「韓日関係に有益でない」と批判し、こうした動きを伝えるAP電がワシントン・ポストなど約400紙に配信されている。

この記事では「安倍氏のコメントは歴史的な証拠と矛盾している」として、「1992年に歴史家の明らかにした証拠」をあげている。これは吉見義明『従軍慰安婦資料集』(大月書店 1992)を指していると思われるが、この本には一つも「国家による強制」を示す証拠はない。典型的なのは「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という通達だが、これは業者が慰安婦を募集するとき、軍部の名前を利用しないよう注意せよと命じるもので、むしろ軍が慰安所の経営主体ではなかったことを立証している。安倍氏のいう「広義の強制」とは、この『資料集』で吉見氏の主張した「詐欺などの広義の強制連行も視野に入れるべきだ」という詭弁である。

AP電は、安倍氏の話が1993年の「河野談話」と矛盾すると指摘しているが、これは事実だ。この談話が日本軍の戦争犯罪を政府が認めたと受け取られ、米議会の「慰安婦非難決議」などの動きが繰り返し出てくる原因になっている。この談話をまとめた石原官房副長官(当時)は、その事情を次のように明かしている:
日本政府が政府の意思として韓国の女性、韓国以外も含めて、強制的に集めて慰安婦にするようなことは当然(なく)、そういうことを裏付けるデータも出てこなかった。(慰安婦の)移送・管理、いろんな現地の衛生状態をどうしなさいとかの文書は出てきたが、本人の意に反してでも強制的に集めなさいという文書は出てこなかった。[中略]だけども、本人の意思に反して慰安婦にされた人がいるのは認めざるをえないというのが河野談話の考え方、当時の宮沢内閣の方針なんですよ。
そして記者の「宮沢首相の政治判断か」という質問に、「それはそうですよ。それは内閣だから。官房長官談話だけど、これは総理の意を受けて発表したわけだから」と答えている。言外に、石原氏は河野談話に反対だったことが読み取れる。産経新聞によれば、当時、韓国側は談話に慰安婦募集の強制性を盛り込むよう執拗に働きかける一方、「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない」と非公式に打診しており、石原氏は「強制性を認めれば、韓国側も矛を収めるのではないか」との期待感を抱き、強制性を認めることを談話の発表前に韓国側に伝えたという。

石原氏は、別のインタビューでは「韓国まで元慰安婦を探しに行って訴訟を起こさせ、韓国議会で証言させて騒ぎをあおった弁護士」の動きに怒りを表明している。これは、私も書いた福島瑞穂氏や高木健一氏のことだ。要するに、日本人弁護士の起こした騒ぎに韓国政府が対応せざるをえなくなり、その立場に配慮した宮沢政権が政治決着として出したのが河野談話だったわけである。

しかし政府が歴史をみずから偽造した河野談話は、問題をさらに大きくしてしまった。4月の安倍訪米を控え、民主党が多数派になった米議会では、「慰安婦非難決議」が可決される可能性もある。日本軍が「性奴隷」を使っていたという誤った非難がこれ以上広がることを防ぐためにも、安倍首相自身が、彼の信念に従って「慰安婦は国家が強制したものではない」という事実を言明すべきだ。対外的な摩擦を恐れず、原則的な立場を明確にすれば、「弱腰」とみられて低迷している内閣支持率も回復するのではないか。

追記:Wikipediaの記述もひどい。いまだに吉田清治(Kiyosadaとなっている)の「告白」を根拠にしている。これと吉見本と河野談話が、この種のデマの出典の定番だ。

池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/56c1b3873ea7cf5ad9680d6cbf754a9e


慰安婦問題の再調査が必要だ

2007-03-12 / Law/Politics
慰安婦をめぐって、なぜか海外メディアの報道が過熱している。驚くのは、その事実認識の杜撰さだ。特にひどいのはNYタイムズの1面に出た記事で、3人の元慰安婦の証言を引用して「過去の否定は元性奴隷を傷つける」と題しているが、彼らは強制連行とは関係ない。台湾人と韓国人は軍に連行されたとは証言していないし、オランダ人のケースは軍規に違反した捕虜虐待事件で、軍は抗議を受けて慰安所を閉鎖した。

LAタイムズもワシントンポスト(AP)もEconomistも、具体的な根拠をあげずに「性奴隷が存在したことは歴史的事実だ」と断定している。そろって慰安婦の数を「20万人」としているところをみると、出所は吉見義明氏の本の英訳(およびその孫引き)だと思われるが、この数字は当時の国内の公娼の総数が17万人だったことから考えてもありえない。秦郁彦氏の推定では、2万人弱である。しかも吉見氏でさえ、軍が強制連行した証拠は見つからなかったことを認めている。

さらに問題なのは、米下院の慰安婦非難決議案だ。この決議案は委員会では可決される可能性が強まっているようだが、その内容たるや「慰安婦」システムは政府によって強制された軍用売春であり、強姦、妊娠中絶の強要、性的虐待で死に至らしめるなど、残虐さと規模において20世紀最大の違法行為であると宣告して国会決議と首相による謝罪を求める、恐るべきものだ。当事者でもないアメリカが、こんな事実無根の喧嘩を売るような決議案を出すこと自体、日本の外交がいかになめられているかを示している。

これに対して「強制連行の証拠があるのか」と追及されて、提案者のマイケル・ホンダ議員は「日本政府が1993年に謝ったじゃないか」と答えた。つまり事実関係を徹底的に究明しないで政治決着によって謝罪したことが、かえって強制連行が行なわれたという嘘を裏書きしてしまったのだ。日本では、さすがに朝日新聞でさえそういう主張はしなくなったが、英文の資料は吉見本などの古い情報ばかりなので、欧米のメディアがミスリードされているのである。いまだにウィキペディアでさえ吉田清治証言を引用している。

これについて元NSCアジア部長のマイケル・グリーン氏は「強制性の有無を解明しても、日本の国際的な評判がよくなるという話ではない」としているが、安倍首相が「非生産的だ」として議論を打ち切った後も報道がエスカレートしているところをみると、話は逆だろう。日本政府があやふやな態度をとってきたことが、かえって「事実はあるのに隠している」という印象を与えているのだ。特に4月の安倍訪米を控えて、3月中に下院で決議案が可決されれば、これが最大の日米問題になるおそれもある。

メディアの責任も重い。私も当時、取材したひとりとして自戒もこめていうと、1990年ごろには終戦記念日ネタも枯渇して、本物の戦争犯罪はやりつくしたので、各社とも一部の在日の人々が主張していた「強制連行」をネタにしようとした。しかし「軍が強制連行した」という裏は取れなかったので、NHKは抑えたトーンにしたのだが、朝日新聞は吉田証言を「スクープ」して、激しくキャンペーンを展開した。それが捏造だったことが判明しても、最近は「強制連行があったかどうかは枝葉の問題だ」などと開き直っている。

自民党の「有志」にまかせないで、もう一度政府が調査を行い、公文書をさがすだけでなく、元慰安婦を国会の参考人に呼ぶなど、徹底的に事実関係を確認し、その結果を英文でも公開すべきだ。米下院が元慰安婦を証人として呼んでいるのに、日本の国会がやらないのは怠慢である。この問題の処理では、安倍首相だけでなく麻生外相も鼎の軽重を問われる。

追記:こういう情報のバイアスを少しでも是正しようと、慰安婦についての英語の情報源を提供するブログを立ち上げた。英語の記事やコメントを自由に投稿してください。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ab4e9f4e372098e706c47ba5c5d032a2


朝日新聞という亡霊

2007-03-13 / Media
専門とは関係のない慰安婦問題に首を突っ込むのは気が進まなかったが、膨大なコメント(しかも驚いたことにノイズがほとんどない)をいただいて感じたのは、「慰安婦問題」なんて最初からなくて、これは無から有を作り出した朝日新聞問題なのだということだ。これは私の専門(メディア)とも関係があるので、簡単に事実経過を書いておく。

前にも書いたように、私も朝日と同時に強制連行問題を取材していたから、朝日が吉田証言を派手に取り上げて1面トップでキャンペーンを張ったときは、「やられた」という感じだった(*)。しかしよく調べてみると、吉田の本は1983年に出ていて、当時はだれも相手にしなかった。しかも、それを追跡取材した韓国の済州新聞の記者が、そんな事実はなかったという記事を、すでに1989年に書いていた。しかし朝日が騒ぎ始めた1991年が「慰安婦元年」になったのである。

金学順が最初に慰安婦として名乗り出たとき、それは強制連行とは関係なく、戦後補償の問題だった。軍のために働いたのに、賃金(軍票)が紙くずになってしまったので、それを賠償しろという訴訟だったのだ。国家賠償訴訟でも「身売りされて慰安婦になった」と明記されている。ところが、この提訴を朝日が女子挺身隊として強制連行された慰安婦の問題として取り上げたのが脱線の始まりだった。女子挺身隊というのは工場などに動員された女性のことで、慰安婦とは関係ない。

もう一つの問題は、吉見義明氏の発見した通達だ。これを1992年の1月、宮沢訪韓の直前に朝日は1面トップで「政府の関与」の証拠として報じ、女子挺身隊にも戦後補償せよというキャンペーンを張った。おかげで宮沢首相は、韓国で8回も謝罪しなければならなかった。これが彼のトラウマになって、河野談話を生み出したのである。この通達はもちろん女子挺身隊とは関係なく、軍が民間業者を取り締まる文書にすぎない。

この虚報の原因も吉田清治にある。彼が「慰安婦は女子挺身隊だった」と証言したからだ。要するに、吉田のインチキな「告白」にもとづいて朝日が筋書きをつくり、それに乗って福島瑞穂氏などの社会主義者が慰安婦を政治的に利用し、韓国政府をけしかけて騒ぎを拡大し、それに狼狽した宮沢政権がわけもわからず謝罪したのだ。これは「あるある」をはるかに上回るスケールの、戦後最大級の歴史の捏造である。

しかも朝日のでっち上げを河野談話が追認したため、これが世界のメディアの「常識」になってしまい、NYTもワシントンポストも「慰安婦=強制連行=20万人」というのが「歴史家の定説だ」と書いている。韓国では、吉田証言や慰安婦=女子挺身隊という話が今でも教科書に載っている。朝日の捏造した歴史が、アジア諸国との関係を悪化させる原因になっているのだ。

私の友人には、朝日の記者もたくさんいるが、彼らは今の50代以上の幹部についてはあきらめている。「あの人たちの世代の生き甲斐は、反戦・平和の正義を世に広めることだったから」という。この意味で朝日は、社会主義をいまだに信じる冷戦の亡霊なのである。ただ、今のデスク級はもう世代交代しているので、現場はこの種のキャンペーンには冷淡だ。今回の慰安婦騒ぎでも、不気味なぐらい朝日は沈黙を守っている。そりゃそうだろう。口を開けば、吉田証言や女子挺身隊などの捏造問題を検証せざるをえないからだ。

だから慰安婦問題を徹底的に解明し、宮沢氏や河野氏を国会に呼んで経緯を明らかにするとともに、騒ぎを作り出した朝日新聞の責任も追及すべきだ。それが過去の戦争や冷戦の亡霊と決別し、日本がアジアとの成熟した友好関係を築く第一歩である。海外に事実を伝えたい人は、英文ブログに投稿してください。

(*)実は、NHKも朝日の記事の後追いで、吉田の話をドキュメンタリーにしようとしたが、裏が取れなかったのでやめた。テレビは新聞と違って、ないものは描けないからだ。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1677143840b260e4b0de03304293c882
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by thinkpod | 2007-03-15 01:57 | メディア
2007年 01月 11日

マスコミが触れない インド首相、ベトナム首相の国会演説

平成18年12月14日,衆議院におけるインド共和国首相マンモハン・シン閣下演説本文全文

「日本とインドは文明的にも近い国同士であります。我々の最も古い絆は,共通遺産でもあります仏教です。二つの文化は歴史を通して交流しあい,豊かさを増してまいりました。

1000年あまり前,インドの僧侶ボリセナは東大寺の大仏開眼供養に参列するため奈良を訪れております。近代におきましては,タゴールと岡倉天心が,アジアの偉大なる両国の間に理解の新しい掛け橋を築きました。

科学技術の発展に基づく明治維新以来の日本の近代化,及び戦後の日本再建の礎となりました活力と気概は,インドの初代首相でありますジャワハルラル・ネールに深い影響を与えました。ネール首相は,インドが日本と緊密な絆を結び,その経験から学ぶことを望みました。インドが日本からのODAの最初の受益国となるようご尽力されたのは,当時の岸総理大臣でありました。今日,インドは,日本のODAの最大の受益国でありまして,こうした援助に,我々は深く感謝しております。貴重なご支援いただいてありがとうございます。

 日本の工業は,自動車や石油化学など,インド産業の発展のために,貴重な役割を果たしてきました。90年代の初頭,インドが深刻な経済危機に陥ったときも,日本は迷うことなく支援しつづけてくださいました。1952年,インドは日本との間で,二国間の平和条約を別途調印いたしまして,日本に対するすべての戦争賠償請求権を放棄いたしました。戦後パール判事の下した信念に基づく判断は,今日に至っても日本で記憶されております。

御来席の皆様,こうした出来事は,我々の友情の深さ,そして歴史を通じて,危機に際してお互いに支えあってきた事実を反映するものであります。

日本を訪れますたびに,お国の発展を目の当たりにし,真に鼓舞され,その寛大さに心をうたれます。

私は1992年の訪日を決して忘れることがないでしょう。それはインドの財務大臣として,はじめて日本に伺ったときのことであります。1991年に,前例のない経済危機に直面した際,日本からいただいたご支援に謝意を述べるための訪日でございました。古い型を打破し,グローバル化しつつある世界での競争に備えるべく,経済を開放し,新たな前進への道に乗り出す機会を,あの危機は我々に与えたのでありました。当時,強靭な力や献身といった長所,あるいは(語彙不明)にあっても,いかにそこから機会を創造するかといったことを日本から学ぼうとし,我々は日本に眼を向けたのであります。

新生インドの首相として,今回,私は日本に戻ってまいりました。過去15年間,インド経済は,年率平均6%を上回る成長を遂げてきております。近年では更に一層弾みがつき,成長率は年間8%以上に加速しております。現在,インドの投資率は対(語彙不明)で30%になっております。90年代初頭以来立ち上げました広範な経済改革の結果,インド経済は,経済のグローバル化,そして世界の多極化がもたらした課題,及びチャンスを受け取められる柔軟性を身に付けました。インドは開かれた社会,ひらかれた経済として前進を続けております。民主的な政体の枠組みの中で,インドを成功裏に変容させていくことは,アジア,そしてひいては世界の平和と発展にとって極めて重要であります。

御来席の皆様,これまでに人間の歴史始まって以来,10億を超える人々が,民族や文化など多元的な要素を抱えた民主主義の枠組みの中で,貧困を撲滅し,社会と経済を現代化しようと試みた例は全くありません。インドは現在,持続的な高度成長の波に乗っていると思います。サーヴィス主導型,かつ技術先導型の経済によるグローバル経済との統合という新しいモデルを開発してまいりました。今日インドは,情報技術,バイオテクノロジー,医薬品など知識を基礎とする分野で主要な役割を担う国として台頭しております。道路,鉄道,電気通信,港湾,空港などの物理的,及び社会的インフラを拡大し,現代化するため,大規模な投資が行われております。こうした発展は,インドの製造業の競争力,及び生産性を大いに高めるでありましょう。

インドと日本が,両国間の結びつきを急速に発展させるための土台は,こうした経過と国際的な筋書きの変化によって生れました。二つの古代文明にとって,戦略的かつグローバルな関係を含む,強固で今日的な関係を構築するときが到来したと思っております。それはアジアと世界にとって大変重要な意味をもつでありましょう。

我々は自由,民主主義,基本的権利,法の支配といった普遍的に擁護された価値を共有するアジアの二つの大国であります。両国間に存在するこの共通の価値と膨大な経済的な補完性を活用し,互に相手国を最重要と認める強固なパートナーシップを築いていかなければなりません。

また,新たな国際秩序の中で,インドと日本は,国力に相応な均衡のとれた役割を演じなければならないという点におきましても考え方を共有しております。日印間の強い絆は,開かれた包容力のあるアジアを構築し,地域の平和,及び安定を強化するための重要な要素であります。

経済関係が二国間関係の基盤となるべきであり,この分野での結びつきを強力に推し進めることが必要です。日印間の貿易や投資は到底そのポテンシャルを発揮しているとはいえません。それとは対照的に,インドと中国,インドと韓国の貿易は好調でございまして,昨年は両国との貿易がおよそ40%の伸びをそれぞれ示しております。中国との貿易は,日印貿易の3倍近くに膨らんでおりますし,韓国との貿易も日印貿易とほぼ肩を並べております。申し上げましたように,これは変えていかなくてはいけないんです。経済協力のポテンシャルを充分に生かすためには,両国の政府,経済界そして産業界の間の積極的な努力が必要であります。将来このパートナーシップを築くことができる最も重要な分野は,知識経済であると信じております。knowledge economyです。両国の経済構造,また様々な分野におけるそれぞれの比較優位のバランス,人口動態の違いなどを考えれば明らかであると思います。

御来席の皆様,科学技術の分野でもナノテクノロジー,バイオテクノロジー,生命科学,情報通信技術といった将来の成長分野での提携も加速させていくことが必要であります。インドのソフト産業と日本のハード産業は相乗効果を活用しあいながら,発展していかなくてはいけません。

国内の(語彙不明)同士のパートナーシップは人事の交流をより盛んにすることを意味します。私は,インドにおいて,日本語を学ぶ学生の数が増えることを願っています。日本語は既にインドの中等教育で外国語の選択科目として導入されています。明日,安倍総理大臣と私は,将来への投資構想を立ち上げることになります。今後数年の間に何千人ものインドの若者が,日本語が学ぶことができるようにしたいと望んでいます。

相互が関心をもっているもう一つの分野は,エネルギーの安全保障です。アジア地域全体として,エネルギー供給の安全を保障し,エネルギー市場を効率的に機能させることが必要です。我々は貿易とエネルギーの流れを確保するために,シーレーンを保護することを含めた防衛協力の促進に同等の関心を寄せています。日本と同様にインドも増加するエネルギー需要に対応するため,原子力が現実的で,クリーンなエネルギー資源だと考えています。これを実現させるために,国際社会による革新的で前向きな取り組みが軌道に乗るよう,我々は日本の支援を求めます。

そしてここで確認をさせていただきます。インドは,国際的に核軍縮を進めていく,そのコミットメントは変わりません。

テロは,平和に対する共通の脅威です。また開かれた我々の社会の調和と組織を脅かします。テロには多くの側面があり,その原因も多様で,地理的な境界も無視されるという複雑な問題なのです。我々が力を合わせない限り,テロとの戦いには勝てません。

私は,国連と国連安全保障理事会が,今日の情勢に対応できるものになるよう,その活性化と改革に向けて両国が協力してきたことをうれしく思います。両国は,国連と様々な国連関連機関の効率強化に関心をもっています。この意味において,今,我々がおかれているグローバル化された世界で各国の相互依存関係を秩序正しく,公正に運営していくべく,両国の協力関係を強化しなければなりません。

ご列席の皆様,アジアで最大の民主主義国と,最も発達した民主主義国である両国は,お互いの発展と繁栄に利害関係を有しています。我々はインドの経済環境が投資しやすいものとなるよう努める決意です。日本企業に,是非インドにおけるプレゼンスを拡大していただきたいと考えています。安倍総理大臣と私は,二国間の投資,貿易,テクノロジーの流れを増大させるべく,包括的経済連携協定の締結につながる交渉を開始いたします。

ご列席の皆様,我々のパートナーシップは,アジア全域に(注:「ゆうい」といっているが,どういう意味かは不明)と繁栄の弧を創出する可能性を秘めていると確信しています。それはアジア経済共同体の形成の基礎となるものです。こういった日印間のパートナーシップを拡大させたいという希望や抱負は,あらゆるレベルでの交流を増やすことによってのみ,現実のものとなると考えます。我々はハイレベルでのエネルギー対話を設置することで合意していますが,このような機会が更に多くの分野で設置されるべきであり,とりわけ貿易と産業分野では不可欠です。

ご列席の皆様,いかなる戦略的パートナーシップにおいても,その礎となるのは人々の友情です。日本の若者の間で,映画『踊るマハラジャ』が人気を博していると聞き,うれしく思っています。インドの子供たちは,日本のロボット『踊るアシモ』を見て,歓声をあげていました。また日本ではインド料理店の数が驚異的に増えているようですし,インドでも寿司と天ぷらへの人気が高まってきたことは,間違いありません。

2007年は日印友好年であり,また日印観光交流年でもあります。更に,両国を結ぶ航空便の大幅な増便も望んでおります。老いも若きも多くの日本人の方々がインドを訪れ,古代と現代のインドが放つ数多くの輝きをご自身の眼で見て欲しいと願っています。

ご列席の皆様,インドと日本の新たなパートナーシップという構想は,本日その決定的瞬間を迎えました。私の訪日はこの構想を具体化するためであり,21世紀をアジアの世紀にするために我々が努力して演じている役割に,将来の世代が感謝することができるようにするためなのです。」

http://plaza.rakuten.co.jp/shousimin/diary/200612180000/




平成18年10月19日、参議院におけるヴェトナム社会主義共和国首相グエン・タン・ズン閣下演説本文全文

===================

「ヴェトナムと日本の交流関係は最近始まったことではありません。両国は地理的に近いことに加え、文化的にも非常に近く、永い歴史を有しています。17世紀から18世紀には、日本の多くの商船がヴェトナム北部のホー・フェン(?)や南部のホイ・アンに寄港し、貿易を行い、肥前焼き物など多くの日本文化の遺産を残しています。日本の明治維新の成功は、ヴェトナムの多くの知識人の強い関心を惹き、20世紀始めにヴェトナムの民族振興のために、日本の経験を学ぼうとする「東遊(ドンズー)運動」(※1)を惹き起こしました。ヴェトナム・日本両国は、歴史の変遷を経て1973年に外交関係を樹立し、関係正常化を成し遂げました。ヴェトナム国民は、善意・公正の心と平和・親善という伝統に基づき、過去に囚われず、未来を目指しております。そしてヴェトナム政府は、このような国民の意向に従って、アジア・太平洋のみならず、世界において重要な役割を担っている世界第二の経済大国である貴国と全面的な協力関係を強化することを最優先しています。

両国関係は、前世紀の90年代から大きく発展し、新しいページを開いたことに満足しうるだけの十分な理由があります。両国の政府や国会、各分野、団体、地方の間の交流など活発な政治関係は、全面的協力関係を促進するための力強い原動力になっています。特に2002年のノン・ドゥク・マイン書記長の日本訪問の際、両国指導者が長期安定・信頼・パートナーシップの確立に合意したことで、政治・外交・経済・安全保障など広範な分野での協力関係が形成されましたが、これが効果的に機能しています。日本はヴェトナムにとって、日増しに大きくなる最大級の経済・貿易のパートナーです。それは、両国の確固たる協力関係の物理的な基礎となっています。貿易額が急激に増加し、そして均衡しています。日本の対ヴェトナム投資は実効額ベースで最大であり、最も効果的に活用され、双方に利益をもたらしています。特に日本からはヴェトナムにおいてもっとも多くの開発援助を提供していただいており、その援助は目的どおりに正しく効果的に使用されています。そして日本の援助は、高い技術や先進的な経済運営経験によってヴェトナム経済、および社会発展の実現に大きく貢献していると同時に、ヴェトナムにおける日本企業の活動のための良い環境を作り出しています。ヴェトナムは日本の援助でできた道路、橋、港湾、空港、学校、病院、発電所などが両国協力関係の美しいシンボルになっているといえます。私は、この機会にヴェトナムが日本の援助を最も効果的に使用している国であると確信いただきたいと思います。

最近、ヴェトナム交通運輸省管理プロジェクト管理委員会では不正事件がありましたが、この委員会は日本のODAを含む多くの国のODAを管理しています。本件につきましては現在ヴェトナムの関係法律機関が調査しており、透明性をもって厳正に処理されております。しかしながら今回の事件は、貴国の援助で作られた建造物の質になんら影響を及ぼすものではありません。なぜならすべての案件は、日越両国の合意どおりに両国の責任ある機関が決定・合意し、コンサルタントと施工会社を選び、施工プロセスを監督・実施するとともに、資金の受け渡しを厳正に行い、当初双方が合意したとおり、プロジェクトの質と要求を充たしております。ヴェトナムは、援助を使用する過程で不正と汚職を撲滅することを非常に重視いたしております。日本のODA資金を効果的に使用することは、我々の責務であり、同時にその債務返済については、ヴェトナム国民に対して有する我々の責任でもあることを我々は深く認識しています。どうか日本の対ヴェトナム援助は信頼できる人々の手にゆだねられていると信じていただきたいと思います。

ヴェトナムには『水を飲んで泉を思い出す』、日本には『水を飲んで井戸を掘った人を思い出す』という諺があります。ここに日本の国会、政府と納税者の皆様がODA全体枠の削減の折にもかかわらず、対ヴェトナム援助を拡大していただいた寛大なご配慮に対し、心から感謝申し上げます。

また両国間の文化、科学技術、教育、観光分野での協力は両国民をよりいっそう親密にさせる精神的基盤を作り出しています。我々は日本の明治維新当時の教育立国の政策と経験を参考にして、教育を非常に重要視しており、教育分野における日本の支援を高く評価しています。日本にはヴェトナムで数百箇所の学校建設を支援し、数千名の留学生と研究生を受け入れていただいています。彼らはわが国の活力の源になっているのみならず、両国国民の友情の架け橋でもあります。

日本・ヴェトナム両国は二国間協力に加え、国連・APEC・ASEM・東アジアASEAN+3、ASEAN+1などの国際フォーラムにおいても協力し合っています。我々が日本が国連安全保障理事会常任理事国になることを一貫して支持しています。それは日本の経済力と国連に対する貢献にかんがみて、ふさわしいことと考えるからです。

貴国がヴェトナムのWTO加盟を常に支持し、ヴェトナムの国際経済参入のための有利な環境を作ってくださっていることを高く評価いたします。両国関係において今まで成し遂げられたものは非常に大きな意味がありますが、まだ大きな協力の余地があります。これまで達成された成果に基づき、地域と世界の平和・安定・協力発展のために、多方面にわたる信頼あるパートナーシップを、戦略的かつ長期安定的関係の確立という新たな段階に高めていくことが必要であると思います。

この後、安倍晋三総理との重要な会談がありますが、これからの新たな両国関係の発展に向けて、合意ができることを期待いたします。両国政府の合意内容に対して、国会議員の皆様方からの積極的なご支援をよろしくお願い申し上げます。

ご列席の皆様、我々の日本訪問が行われている本年2006年はヴェトナムにとって特別な年です。20年前に始まった『ドイモイ』(刷新政策)は、国の様相を一変させました。ヴェトナムは『ドイモイ』によって前世紀80年代末からの厳しい時期から脱しただけでなく、その後一貫して高い成長率で発展しています。国民生活も改善されています。文化・社会分野、特に貧困撲滅事業も大きく前進しています。政治的安定、社会の安定も進んでおります。国際関係もますます拡大しています。最近、ヴェトナムの国家と政府の指導部が交代しましたが、『ドイモイ』政策は変わりません。実践によって完全に正しいと証明された『ドイモイ』政策は、第10回党大会とその後の国会で再確認されました。我々は経済開発とともに、堅固な政治・社会的安定を維持しつつ、社会問題、貧困撲滅、住民と地域間の経済格差対策、生態系の維持や環境保全を調和よく結び付けていきます。我々は各分野での経済発展と国営企業の力強い改革、ならびに民間経済、そしてヴェトナム経済の重要な構成要素である外国投資企業を含む多くの経済セクターの発展を調和よく推し進めていきます。我々は市場経済体制を実現すると同時に、国家による効率的な管理の強化、法治国家建設、民主主義の拡大、行政改革、経済活動の条件を改善し、断固として汚職の撲滅を実施していきます。

以上の政策に基づいて、次の目標達成のために全力で奮闘してまいります。短期目標は2010年までに貧困から脱却し、一人当たりの平均収入を2005年の640米ドルから1000米ドルに引き上げることです。中期目標は、2020年までに基本的に工業国家になることです。長期目標は豊かな国民、強い国家、そして公正な民主主義文明社会の実現です。我々は国内のあらゆる資力を動員し、同時に外国からの、とりわけ極めて重要な日本の地位にかんがみ、日本からの資力を有効に活用することに努力します。我々はヴェトナムの発展にとって決定的な意味をもつ、重要な建造物や案件に対する日本の温かい支援を切望しています。特に道路、南北縦貫道などに対する日本の支援を、ヴェトナムの戦略的パートナーの役割にふさわしい支援を期待しております。また、双方の利益と発展のためにハイテク産業をはじめとするあらゆる分野に日本からの新規投資を受け入れられるよう有利な条件を作り出します。

ご列席の皆様、我々は外交の面で独立・自主・開放路線を堅持し、国際関係の多様化政策を実現し、平等互恵・独立主権の相互尊重の精神に基づいて、国際平和と協力のために奮闘を続けてまいります。

ヴェトナム国民は、戦争によって大きな被害を受けた民族として、誰よりも自らと各民族ために平和を切望しています。私たちは朝鮮半島における最近の状況の変化に対しては、日本国民の皆様、および国際社会の深い懸念を共有し、この地域の非核化と核実験反対の立場を一貫して堅持しています。すべての関係者は、国連安全保障理事会議長声明、同理事会決議1695号(※2)および1718号(※3)を遵守する必要があると考えます。また朝鮮半島の緊張緩和と平和的解決のために、六カ国協議の再開を呼びかけます。

皆様、日本の国会の皆様が、常にヴェトナムに深い関心を寄せていただいていることを大変嬉しく思います。国会議員のうち100名あまりの方々が日本・ヴェトナム友好議員連盟に参加しておられることはその証左です。私はこの重要な演壇から、日本の国会議員の皆様方がヴェトナムの国作りのために、またヴェトナム国民の利益だけではなく、日本の国益のためにもなる事業、ならびにアジア・太平洋の平和・協力・発展ための事業に、我々とともに歩んでくださるよう謹んで呼びかけるものです。」

※1 19世紀末にヴェトナムで起った近代化運動の一つ。知識人がフランス支配からの脱却を求めて日本へ留学した運動。
※2 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/abd/un_k1695.html
※3 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/anpo1718.html

http://plaza.rakuten.co.jp/shousimin/diary/200612280000/


削除されたインド首相来日と報道ファシズム
http://nishimura-voice.seesaa.net/article/31167359.html
マスコミがひた隠す、マンモハン・シン・インド首相の親日マル秘?演説原稿
http://blog.livedoor.jp/lajme/archives/50959630.html
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by thinkpod | 2007-01-11 03:22 | メディア
2006年 10月 26日

小沢神話をでっち上げた男

                                                             渡部亮次郎

政治記者の大先輩によると、自民党や公明党には、小沢期待論が生まれ
ているそうだ。できるだけ長く民主党の代表をやって貰いたいと・・・。

小沢は衆院補選の神奈川、大阪で勝てないと分かったら、いち早く北海
道に遁走、何と鈴木宗男氏と会って選挙協力の話をしている。係争中の
鈴木に有罪判決が出たら、どうするのだろう?

猫の手も借りたいという言葉があるが、柴犬まで駆り出して応援して貰
う知恵の無さ、こんな小沢一郎の体たらくだから、できるだけ長く民主
党の代表をやって貰えれば、安倍首相の若さと清潔さが光ってくる、と
大先輩は言っている。

自民党や公明党から期待される様では、小沢神話も地に墜ちたのだ。も
ともと小沢は選挙には強くない。自民党の幹事長当時に都知事選を指揮
して見事に失敗している。NHKの磯村キャスターが落ちた選挙。小沢神話
なんて無かったのに、わざわざデッチあげたのは早坂茂三である。

政治記者から大臣秘書官までは私と似ているが、大きく離されているの
はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に早坂は載っている
ことである。

<早坂茂三(はやさか しげぞう、1930(昭和5)年6月25日 ―2004(平成
16)年6月20日)は、政治評論家。 北海道函館中部高等学校を経て、学生
運動にのめりこみ浪人留年を繰り返した後に1953(昭和28)年に早稲田大
学政治経済学部を卒業。東京タイムズ社に入社し『東京タイムズ』の政
治部記者として田中角栄と知り合った。

1962(昭和37)年、大蔵大臣を務める田中の秘書官になり、田中の内閣総
理大臣在任中を含め、田中が脳梗塞で倒れた1985年まで政策担当の秘書
を務めた。 その後、田中の長女・真紀子と対立し、政治評論家に転身し
た。

田中角栄の政治的足跡や生き方をテーマにした著書を複数出す一方、人
生論を若者向け雑誌に連載するなど、活動を広げていた。テレビでは報
道番組のほかクイズ番組やドラマにも出演した。死因は肺癌。享年73。

真紀子が初当選したときに選挙特番に出演していた早坂が「マコちゃん
おめでとう」とねぎらいの言葉をかけたがピンマイクが外れて聞こえな
いふりをされた。

晩年、旅客機離陸時に、椅子を倒したままだったのでスチュワーデスに
椅子を元に戻すように促されたが、頑なに拒否。出発が大幅に遅れた。
翌日の新聞にも報道された。 趣味は金魚飼育だった>

息子は某放送組織記者。

訳知りによれば田中角栄の政策担当の秘書だったなんていうのは真っ赤
な嘘。本人が吹聴したもので、何も知らない若い記者が信じただけのこ
とである。ウィキペディアも一部騙されている。

本当は角栄に言われて、ボストンバックに現金を詰め、選挙区回りをし
て田中派を作るべく候補者にカネを配って歩いたメッセンジャーボーイ。

角栄が脳梗塞に倒れると同時に真紀子に放り出されて食うに困っていた
時に救いの手を差しのべたのが共同通信社。共同通信社と地方紙各社が
タイアップした講演会組織、政経懇話会の臨時講師に採用して貰って糊
口を濡らした。

だが、そのうちに「小沢こそは角栄を継ぐ者」「選挙作戦に特異能力」
などという小沢神話をでっち上げて小沢に近付き、更に小沢をタネにし
て世間をのし歩いた。小沢神話とは早坂がでっち上げた早坂のメシのタ
ネに過ぎない。

旅客機離陸時に、椅子を倒したままだったのでスチュワーデスに椅子を
元に戻すように促されたが、頑なに拒否。出発が大幅に遅れた、という
のはその頃の話。

九州の空港に貴賓室を予約しろなどと注文をつけたこともあったそうだ。
しかし、真実は角栄から早いうちに疎んぜられ、それを知っているから
真紀子も早坂を嫌ったのだ。

早坂の宣伝どおりなら、ロキード事件では早坂が矢面に立たされたはず
だが、秘書「官」の榎本だった。早坂は角栄の「周辺者」に過ぎなかっ
たから難を逃れた。新聞の切り抜きしかさせていない男に何億ものカネ
を扱わせる首相はいないだろう。

早坂がいた東京タイムスはつぶれた。東京・新橋にヤクルト本社、その
隣の徳間書店本社になっているところがそうだった。小さな新聞社で昭
和40年代まで有った。

早坂はそこの政治部の記者だった。函館出身とは言うが、山形から流れ
て行った人たちの末裔。早稲田時代、日本共産党員だった。読売の渡邉
恒雄,日本TVの氏家斉一郎は東大の共産党員だった。

小さな新聞社の記者生活は不満だらけだったろう。車すら十分に使えな
かった。そこでかどうか田中角栄の所へ飛び込んで秘書になった。しか
し真実、田中は早坂を重用せず、秘書にはしても秘書「官」にはあまり
したがらなかった。。

しかし当時のことを知る楠田実(佐藤首相の首席秘書官、楠田実日記の
著者。故人)によれば日本列島改造論は東大出秘書の尽力で出来たのに
早坂の手にかかると「通産省の役人たちと一緒に汗だくで本にした。総
裁選挙前の6月、日本列島改造論が大ベストセラーになる。ネーミング
は私の発案です」となる。

私自身も大臣の秘書官を長い事やったから感じたことだが、役人たちは
秘書「官」なら相手にするが、「長」や「官」の付いていないものは通
行人扱いである。役人たちが早坂の言うことを聞くわけがない。

角栄の信用を途中から失っていたことについて、当時を知る人の話では
待遇について文句を言ったからだそうだが本人は触れなかった。本人の
言うとおりなら早坂こそは総理大臣になった田中の首席秘書官でなけれ
ばいけないはずだった。

ところが事実は官邸の廊下での切り抜きからも退出させ、早坂を表には
出さなくなった。当時、官邸にいた記者のひとりが言う。

「榎本首席秘書官とは、彼が募っていた亀岡・小沢(一郎)・高鳥修ら
の議員と連れ立って富士山麓にゴルフに行ったりしましたが早坂とは飲
み会もありませんでした」。

しかし、さすがの早坂。親父(田中)の死と同時に、かつては「親父の敵」
のはずだった文藝春秋社の月刊雑誌「諸君!」のレギュラー執筆者にも
なっていた。

あまた居た田中角栄秘書の中で記者上がりとして唯一の生き残りになっ
たのが得となり、言論人に還ったのみか、角さんを栄養として名を成す
ことが出来たのである。

なにしろ一介の政治家秘書の死に朝日新聞までが弔意記事を載せた例を
私は早坂氏以外に知らない。しかし「小沢神話は私のでっち上げ。嘘でし
た」と言わないまま逝去したため、若い記者のみならず政治家までもだま
されている。罪は大きい。(了)文中敬称略 2006・10.24

http://www.melma.com/backnumber_108241/
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by thinkpod | 2006-10-26 06:03 | メディア
2006年 10月 15日

朝日新聞の捏造・放火の歴史

●1959-1985 北朝鮮礼賛キャンペーン

 執拗な北朝鮮礼賛キャンペーンを展開。各記事の内容はこちらを。
 朝日新聞の入魂の連載記事とは裏腹に、実際には経済の発展はゼロに等しく、その正体は粛清の嵐が吹き荒れる恐怖の独裁国家でしかなかった。しかも保障された職と生活どころか、明日の食事にさえ事欠く有様で、現在でも慢性的な食料不足と恐怖政治が続いている。

●1975.4.19 残虐なポルポトを「アジア的優しさ」と報道

 和田俊プノンペン特派員(後年、テレ朝「ニュースステーション」に解説者として出演。故人)が、「カンボジア解放側 アジア的優しさを持つ」「粛清の危険は薄い?」という見出しで記事を書いた。当時中国共産党の支援を受けていたカンボジア解放軍のポルポトは、アジア的な優しさどころか、カンボジアの全国民の1/6に相当する300万人以上の民衆を虐殺した。


●1950.09.27 伊藤律のインタビューを捏造

 「宝塚山中に伊藤律氏−本社記者が会見」、行方不明の共産党幹部とのインタビューを一面に掲載。29日に記事を書いた長岡宏記者は「伊藤律氏との会見記事は、私の仕組んだ全くの狂言でした」と弁明。この記事はその後の縮刷版から削除された。


●1967-70 中国政府当局が朝日新聞を除く全ての報道関係者を追放

 文化大革命で狂乱状態にあった中国政府当局は、中国政府提灯記事以外の記事を書くあらゆる報道関係者を「外国反動分子」と決めつけ中国から追放した。

  1967.09 産経、毎日の記者が追放される
  1967.10 読売記者が追放される
  1968.06 日経記者鮫島特派員がスパイ容疑で逮捕・拘留される
  1968.11 滞在期間が切れて帰国したNHK記者が入国不許可に
  1970.09 共同通信特派員が追放される

 北京に駐留している日本マスコミは朝日の記者のみとなった。朝日は唯一の中国特派員をもつ立場を保持するため、あらゆる中国政府当局の捏造加担とおべんちゃらを開始した。


●1971.8.26-11.26 「日本軍虐殺」捏造コラム掲載

 「中国の旅」と題する「日本軍虐殺」捏造コラムを計31回連載。著者は本多勝一氏。いわゆる「南京大虐殺」が知られるきっかけとなったものだが、中国政府当局やその恐怖政治の影響下にある人間による「日本軍の蛮行」に関する「証言」を丸写ししたものだった。
 後年大量の嘘写真や捏造事例などが暴かれ、本多氏自身も「証言」を丸写ししたものであることを認めている。


●1982.9.7 侵略進出書き替え誤報の責任転嫁コラムを掲載

 朝日新聞を含め多くのマスコミが、高校教科書の「華北を侵略」という記述が検定によって「華北に進出」に変えられたなどと伝えた。ところが、その後、関係者の調査によりこれが全くの事実無根と判明。
 その後、朝日は「読者と朝日新聞」というコーナーで読者の疑問に答える形で小さく「侵略→進出今回はなし」などと記す。その中で、外交問題に発展したのは検定制度を行う政府にあるかのような責任転化をした。
 一方、産経新聞は誤報だと判明後、それを素直に認め大々的に謝罪し、誤報の経路を綿密に読者に報告し、詫びた。朝日はこの大誤報事件について、今なお釈明も謝罪も行っていない。


●1984.8.4 「南京大虐殺」を捏造

 生首のごろごろ転がる写真を「南京大虐殺の証拠写真」とし、南京に入城した元歩兵二十三連隊の上等兵が記したという「日記」を併記して掲載。
 これに対して、元歩兵二十三連隊の有志からなる「都城二十三連隊会」が立ち上がった。元兵士の懸命の調査により、1年4カ月後になって、この写真が全く別の場所の写真であることが判明する。「都城二十三連隊会」は記事取り消しや謝罪文掲載の要求を朝日につきつけた。
 それに対して朝日は1985/1/22、このような数行のおわび文を掲載した。「(前略)日記は現存しますが、記事で触れられている写真三枚は南京事件当時のものでないことが解りました。(後略)」。全く、元歩兵二十三連隊が南京大虐殺をしていないという記述はどこにもない。「都城二十三連隊会」は更に朝日に対して不信感をつのらせた。
 写真の嘘が明らかになったのなら、あとは日記の真偽が焦点となる。例によって朝日は、取材情報源の秘匿を主張し、さんざんゴネた上に朗読まではしぶしぶ行ったが、筆跡鑑定のための開示を拒んだ。
 「都城二十三連隊会」は日記の開示を求め、1986/8/22に小倉簡易裁判所に日記保全の申し立てをし、全て開示し写真に取らせよという判決が12/27に下った。が、朝日は取材情報源の秘匿を理由に、福岡地裁小倉支部に抗告し、裁判引き延ばし戦術に出た。最年長の老人は心労のため入院した。今なお朝日は真相を隠蔽している。


●1984.10.31 毒ガス戦を捏造

 煙がもうもうと立ち上る写真を一面三段抜きに掲載し、「これが毒ガス作戦。と元将校。当時の日本軍内部写真を公表」と報道したが、ほどなく、これが写真も取材源もデッチあげであることが、朝日の稲垣武氏や各種報道機関により暴かれた。


●1985.8.7 靖国参拝ご注進報道

 1985/8/15、“戦後の総決算”ということで中曽根首相は「公式参拝」をすることになるのだが(これは公約だった)、その少し前から朝日新聞は反靖国キャンペーンを始めた。
 8/7に「『靖国』問題 アジア諸国の目」という特集記事を掲載。「(中国と)同じ『愛国心』が、日本ではかつては軍国主義を底支えする役割を担わされたことを、中国は自らの体験として知っている。それだけに、靖国問題が今『愛国心』のかなめとして登場してきたことを、中国は厳しい視線で凝視している」と書いた。
 が、ここには具体的な根拠…誰が何と言ったのか、言ったとしたらその人物は靖国神社についてどの程度知っていたのか等…が全く書かれていなかった。当時の中国メディアを精査したところ、案の定そのような言動は全くなかった。まさに朝日新聞お得意の「火のないところに火種を落とす」記事の実例である。この記事を書いたのは現在『報道ステーション』でお馴染みの加藤千洋。
 8/11になって、人民日報が8/7の朝日新聞の記事を受け、「日本国内に靖国参拝に批判的な動きがある」と報じた。それが中国側の最初の反応。但しこの記事は直接の論評はせず、「日本の一部新聞」を引用する形で書かれてあった。
 朝日は8/12、加藤千洋特派員が「公式参拝反対の声など詳報 人民日報」と題し、「日本の報道や消息筋の指摘を引用し」た人民日報の記事を紹介。「日本の各野党や、キリスト教、仏教を含む宗教団体が一斉に『強烈に反対』し、抗議活動や決議を行った事などを伝えている」と書かれたその内容は、もともと8/10の朝日に掲載された記事「『いつか来た道』を警戒」に載っていたものと同じだった。
 当の中国・人民日報は日中友好のために批判を抑制していたのだが、朝日が東京と北京の間で同じ反日記事をキャッチボールして、騒ぎを増幅させていたのだ。
 ついに8/14、中国政府が記者質問に答える形で、「東條英機ら戦犯が合祀されている靖国神社に参拝することは中日両国民を含むアジア各国人民の感情を傷つける」として公式に反対表明をすることとなった。
 ちなみに「A級戦犯」合祀が判明したのは1979年だが、朝日がこの騒ぎを起こすまで、中国政府が首相の靖国参拝に抗議したことはなかった。


●1989.05.15 サンゴ自作自演事件

 朝日新聞のカメラマンが、沖縄・八重山群島西表島のサンゴ礁を傷つけてカラー写真を撮影し、4/20付夕刊に「サンゴ汚したのはだれ」と告発する記事を掲載していたことが明らかになる。記事では「これは一体なんのつもりだろう」と書き出し、「サンゴは、水中ナイフの傷やら、空気ボンベがぶつかった跡やらで、もはや満身傷だらけ」と心ない行為を告発。
 朝日新聞社は「元々あった落書きに、撮影効果を上げるためにカメラマンが手を加えた」と説明、しかし地元ダイバーの指摘を受け、19日夜、落書きはもともとあったとするこれまでの主張を翻し、無傷のサンゴにカメラマンが「KY」の文字を刻みつけて撮影したことを認めた。
 詳細はこちらを→朝日新聞の「朝日珊瑚事件」


●1991- 「従軍慰安婦」捏造報道

 1983年に吉田清治が著書の中で、韓国済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたという「体験」を発表。朝日新聞はこれを91年から翌年にかけ、ウラも取らずに4回にわたり報道した。
 91/8/11、朝日は「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一人が名乗り出た、と報道。
 92/1/11には、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」と報道。見出しに「軍関与」とあるが、記事をよく読めば、民間の悪徳業者による「強制連行」を、軍が警察と協力してやめさせようとしたという内容であった。朝日お得意の印象操作である。
 この直後の1/16から訪韓した宮沢首相は首脳会談で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束。93/8/4、河野官房長官談話が発表された。
 朝日はこの吉田清治を、宮沢首相の訪韓前後1年の間に4回も紙面に登場させたのだが、秦郁彦日大教授の現地調査によって吉田の著書が捏造であることが明らかにされた後、ぷっつりと起用をやめた(96年に吉田自身もフィクションだと認めている)。
 ちなみに韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、「従軍慰安婦」として「強制連行」されたと認められたものは、ひとつもないというのが実態である(「売られた」人だったり、戦地ではないところで慰安婦にされたと主張していたり…)。
 朝日は97/3/31に記事の中で、吉田証言について、「……間もなく、この証言を疑問視する声が上がった。済州島の人たちからも、氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」と書いた。この3/31付の紙面は「従軍慰安婦は存在した」という大特集である。この中で朝日は、「強制連行」がなくても「強制性」があれば同じことだ、と問題をすりかえたが、そうではない。最初これが大問題になったのは、あくまで「強制連行」による「性の奴隷」だったからである。そういう罪状で「日本」を告発しておきながら、「強制連行の立証」が不可能だとみるや「強制性」があれば同じことだというのも卑怯な態度である。
 国内ではもうとっくに決着した問題だが、朝日は未だに頬かむりをしたままである。なお、この1〜2年前ぐらいからと思われるが、朝日はそれまで使っていた「従軍慰安婦」という呼称を単なる「慰安婦」に変更している。


●1993.11.15 鳥取の上淀廃寺の瓦で自作自演

 「鳥取の上淀廃寺 法隆寺と同時期創建?」との記事を掲載。根拠となる瓦は地元の郷土史家が発見したのに、米子支局の朝日新聞記者が自分が発見したかのように演技。町教委の関係者と現場に行き、自分がこの瓦を初めて見つけたことにして、瓦を確認させる。また、記事正当化のために引用された山本清・島根大学名誉教授の談話も趣旨歪曲。「自分の思い込みで質問して、こちらの言い分に耳を貸さなかった。談話の趣旨は、私の話と全くかけ離れている」と教授は語った。記者は停職20日の処分を受けた。


●1995.03.31 石原信雄氏の祝儀袋を捏造

 東京都知事選に立候補していた石原信雄前官房副長官に、栃木県庁幹部や市町村がせんべつを贈り、その後、石原氏側が返還を申し出た問題で、朝日新聞が29日の栃木面に記事とともに掲載した「御餞別栃木県一同」と書かれた祝儀袋の写真が、同社宇都宮支局による自作だったことが判明。県の抗議に対し同支局は「パロディーで掲載した」と開き直っていたが、朝日新聞は31日におわび記事掲載。


●2002.06.05 中田ヒデ日本代表引退を捏造

 W杯日本初戦の翌日、「ヒデ『最後のW杯』」との見出しで中田選手の引退を一面に掲載。中田選手は翌日の記者会見で「憶測やうその記事が出ることは残念なことです」と朝日新聞の捏造記事に不快感を表す。朝日は98/1/4にも、インタビューを歪曲し、中田選手を反「君が代」の戦士にしたてあげた記事を掲載していた。


●2003.05.14 北朝鮮に残る曽我ひとみさんの家族の住所を報道

 北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさんが、北朝鮮に残した家族からの手紙の差出人住所などを朝日新聞が5/13夕刊、Asahi.comで報じたことに対し、内閣府の拉致被害者支援室を通じ、朝日新聞社長あてに謝罪を求める抗議文を提出。曽我さんは抗議文で「朝日新聞記者は真野町の支援室でファイルを盗み見て、私にも支援室にも一切了解を取らないまま住所などを掲載しました。朝日新聞社は一体何の権限があって、私の家族の住所を無断で公開できるのですか」と怒りを表明。


●2004.08.11 サマワの自衛隊宿営地内に迫撃砲弾が撃ち込まれたと捏造

 防衛庁は、朝日新聞がイラク南部サマワの陸上自衛隊宿営地内に迫撃砲弾が撃ち込まれたと報じた記事について、「全く事実でない」として朝日新聞社に抗議。防衛庁は記者ブリーフィングで「宿営地の外側で弾着痕を3カ所発見した」と伝え、朝日記者も出席していたにもかかわらず、朝日新聞は宿営地内着弾として夕刊一面に掲載。
 防衛庁は8/10にも、安全を期すために秘密扱いを要請していた、サマワから邦人記者らを航空自衛隊のC130輸送機で輸送する「行動予定」を、朝日新聞が4/15に報じたことでも抗議していた。


●2005.1.12- 政治家がNHKに圧力をかけて番組内容を変えさせたと報道

 1/12、安倍晋三・中川昭一両議員が従軍慰安婦を題材にしたNHKの番組に対して圧力をかけたと報道。安倍氏、中川氏、取材を受けた松尾元NHK放送総局長が揃って記事内容を否定。本人たちの証言から、本田雅和朝日新聞社会部記者が意図的、誘導的な取材をしていたことが明らかになった。
 7/25、朝日は総括記事を掲載。安倍氏、中川氏がNHK番組に対して圧力をかけたかどうかという問題の核心について、「直接裏付ける新たな文書や証言は得られておらず、真相がどうだったのか、十分に迫り切れていません」と、記事に明確な根拠がなかったことを認めた。にもかかわらず、「再取材で、記事の描いた『政治家の圧力による番組改変』という構図がより明確になった」とし、「記事を訂正する必要はない」と強弁。
 9/30、朝日は最終的な総括をした。記事の根拠は示さず、訂正も行わず、録音テープの有無も明らかにせず、社内資料流出(朝日が取材をした資料を入手したとする記事が月刊「現代」05/9月号に掲載された)の経緯も明らかにできなかったが、「社外の識者」により構成された「『NHK報道』委員会」による朝日を擁護する報告を盾に、記者会見で秋山社長が「これで幕引きにしたい」と一方的に宣言。
 主要紙が「事実解明なしで新聞社ですか」(毎日)、「裏付けのない報道は訂正が筋だ」(読売)、「幕引きにならぬ朝日の説明」(日経)、「なぜ潔く訂正できないか」(産経)と社説で一斉に反発した。


●2005.08.23 田中知事の会談を捏造

 田中康夫長野県知事が長野県庁で開いた記者会見で、朝日新聞に対して不快感を表明。朝日は、8/21付と22付の紙面で、亀井静香氏と「長野県内で会談」したと報じた。知事は亀井氏と長野県内で会談したとの報道について「このような事実は一切ございません。事実が作られていくことに大変な戸惑いを覚えております」と指摘。また8/24、民主党の小沢氏も、テレ朝「報道ステーション」において、朝日新聞の民主党に関する記事を「あれは、かなりの部分で創作です」とコメント。
 9/8、記者会見を拒否していた秋山社長が、社内外の批判を受けてやっと会見を実施。「『解体的出直し』に不退転の決意で臨む」と宣言。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid170.html#sequel


【華麗なる朝日新聞記者たち】

忠鉢信一・・・「中田選手引退」という記事を書くも、事実無根ということが発覚。その後、「記事内容と異なる結果になったことをお詫びします」というわけのわからないお詫び記事を掲載して逃亡。
http://www.asahicom.com/soccer/

本田雅和・・・「NHK番組改変問題」をぶちあげるも、記事内容に多数の誤りがあることが発覚。同業者からも総攻撃を食らうも「本質を見誤るな」と論点をずらして逃亡。本田は左遷となる。

本田嘉郎・・・有名なサンゴ事件の当事者。当初は「元々存在した文字をなぞっただけ」と言い訳をするが、地元ダイバーの努力によりそんな文字はなかったことが発覚。逃げ場を失い、渋々謝罪。関係者は処分される。

担当記者不明・・・吉田清治という男を担ぎ上げ、従軍慰安婦問題に火をつける。その後、この男の話は作り話であったことが発覚するが、今日まで朝日新聞において謝罪・訂正記事は皆無。朝日新聞広報部に対するmumurの取材においても「吉田の話は根拠が薄かった」と認めるも、具体的な動きは無し。言ったら言いっぱなし。嘘がばれたら放置。

清水建宇・・・「政治的影響力が大きいので皇族は黙れ」とぶち上げた人。しかし、その後朝日新聞社は富田メモで「天皇も反対してるんだからやめろ」と恥ずかしげもなくダブルスタンダードを主張。

http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50651014.html
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by thinkpod | 2006-10-15 01:11 | メディア
2006年 10月 08日

人物探訪: 徳富蘇峰 〜 文章報国70余年

近代日本最大のオピニオン・リーダーは、なぜ忘れ去られたのか。


■1.忘れ去られた我が国最大のオピニオン・リーダー■

 明治・大正期のベストセラー作家と言えば、まずは夏目漱石
が挙げられよう。明治38(1905)年に出版された『我が輩は猫
である』は、大正6(1917)年の大蔵書店版で1万1500部も
売れている。

 しかし、同時期に出版されて約100万部も売れた本がある。
徳富蘇峰(そほう)の『大正の青年と帝国の前途』である。蘇
峰は500点を数える著書があるが、そのほとんどが当時のベ
ストセラーか、グッドセラーとなった。

 蘇峰が明治20年、25歳にして発行した雑誌『国民之友』
は、創刊号からたちまち売り切れ、再刊、三刊と重ねて1万部
を超えた。普通の雑誌の発行部数がせいぜい千部以下の頃であ
る。明治23年に念願の日刊紙『国民新聞』を創刊すると、た
ちまち当時の5大新聞の一つになる勢いを示した。

 大正7(1918)年、55歳にして執筆を始めた『近世日本国民
史』は、昭和27(1951)年までの実に34年間、88歳まで書
き続け、100巻を数えた。10巻まで出たところで帝国学士
院から恩賜賞を授与され、国史学界の大御所・黒板勝美博士か
ら「国史学界における画期的一大事業」と賞賛された。個人著
述の史書としては質量ともに世界有数のものとされている。

 徳富蘇峰は、明治初期から昭和前期までの期間において、我
が国の最大のオピニオン・リーダーであった。これだけの人物
が現在、ほとんど忘れ去られているのは、どうしたわけだろう。

■2.「言論によって国民同胞を導きたい」■

 蘇峰の名が世に知られたのは、明治19(1886)年、23歳に
して『将来の日本』を自費出版した時だった。東京英語学校
(第一高等学校の前身)に入学したり、同志社英学校に学び、
また父親の関係から勝海舟との知遇も得ていたので、官僚や学
者となって立身出世の道に進むことは容易だったはずだ。

 しかし蘇峰の志は新聞記者となり、自らの言論によって国民
同胞を導きたい、という事だった。英国の「タイムズ」を理想
としたのだろう。しかし日本で本格的に新聞の発行が始まった
のは明治5(1872)年だから、まだ十数年ほどの歴史しかない。
新聞記者の社会的地位など日本ではほとんど認められていなかっ
た頃である。

『将来の日本』の根底には、欧米列強のアジア侵略への危機感
があった。「今日に於いて東洋諸国が欧州より呑滅せらるる所
以(ゆえん)のものは他なし、唯(ただ)我は貧にして野蛮な
る国にして、彼は富んで文明なる国なるが故なることを」

 列強が誇る軍備は、彼らの「富と智力」の結果である。旧来
の少数独裁の軍事型国家では対抗できない。広く産業を起こし、
平民が中心の政治、すなわち今日流に言えば民主主義社会によっ
て独立を保つことが「将来の日本」の姿である、と蘇峰は主張
した。英国をモデルとした近代化を目指したのである。

 この主張は世間の注目を集め、蘇峰の名は一躍世に知られる
ようになった。

■3.「国民的驕傲を否定す」■

 翌明治20(1887)年、蘇峰は月刊誌『国民の友』を創刊した。
タイトルは同志社時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネー
ション』から取ったという。

 明治23(1890)年には、いよいよ本来の志であった『国民新
聞』の発行を開始した。この時、蘇峰はまだ27歳の青年であっ
たが、ジャーナリズムの世界ではすでに無視できない存在になっ
ていた。

 明治27(1894)年7月に始まった日清戦争において、極東の
小国日本が清国に勝利すると、蘇峰はこう論じた。「吾人は清
国に勝つと同時に、世界にも打ち勝てり。吾人は知られたり。
ゆえに敬せられたり、ゆえに畏(おそ)れられたり、ゆえに適
当の待遇を受けんとしつつあるなり」

 西洋列強が跋扈する当時の国際社会において、日本が「眠れ
る獅子」と恐れられていた清国を打ち破ることによって、国際
的な認知を受けた事の喜びが弾んでいる。

 しかし、それは夜郎自大の腕力自慢ではならなかった。「孤
立を否定す、排斥を否定す。国民的驕傲(きょうごう、おごり
たかぶること)を否定す。満足を否定す」(『国民新聞』明治
27年11月7日)として、「世界の文明」と協調した謙虚な
姿勢こそ、大国民への道だと主張した。

■4.「速やかに日英同盟を組織せよ」■

 ロシア・ドイツ・フランスからの三国干渉に屈服して、清国
から割譲された遼東半島を返還する、という報に接したのは、
蘇峰がちょうど現地を視察中の時だった。そして日本軍が占領
していた旅順口の小石をハンカチに包んで持ち帰ったという。

 蘇峰は「戦争によりて一夜のうちに巨人となりし国民は、平
和談判のために、一夜に侏儒(しゅじゅ、こびと)となれり」
(「日本国民の活眼目」、『国民の友』第263号)と描写し
た。弱肉強食の国際社会の中で、日本はまだまだ非力であるこ
とを思い知らされたのである。

 三国干渉から1年後、蘇峰は1年余の欧米歴訪の旅に出る。
欧州に向かう船中で「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説
を『国民の友』に掲載し、ロンドンでは英国の新聞界とさかん
に接触して、根回しを行った。日英同盟が締結されたのは、こ
れから6年後のことである。

 モスクワではトルストイを訪問し、この世界的文豪が「人道
と愛国心は背反する」と述べたことに対して、反論した。蘇峰
は日本が国際社会において「相当の位地」を占め、列国と対等
の立場に立つことが大事だとする。日本国民として、国家を通
じて世界に寄与するのが自分の本願であり、ロシアのようにみ
だりに他国を侵略する国の国民であるトルストイとは、意見が
異なるのは当然だと考えた。

■5.「引き際が大切なのである」■

 三国干渉とロシアの満洲侵攻から、蘇峰は日露の衝突に備え
て海軍を強くする必要があり、そのために増税政策を掲げた松
方・大隈内閣を支援して、勅任参事官にまでなった。不人気な
政策を説く上に、新聞人が内閣に加わるとは何事ぞという反感
から、『国民新聞』はあっという間に発行部数が6分の一に落
ちてしまい、新聞社は破産の危機に見舞われた。

 しかし、蘇峰はこの苦境にもめげずに、艦隊増強案を持つ政
府を支持し続けた。日露戦争が始まるや、蘇峰の主張が正しい
ことが明らかになり、購読者数は飛躍的に増大した。

 しかし、戦勝後の講和条件には賠償金もなく、領土割譲も樺
太の南半分だけという事に、国民は激高した[a]。蘇峰はこう
反論した。

 講和条件が日本国民の理想でないにせよ、しかし宣戦布
告の趣旨はすべて達成されているのである。樺太全部と沿
海州を取り、バイカル湖を国境として、更に30億以上の
償金までもらおうなどというのは、勝利にのぼせ上がった
空想であり、そういう理想が実現されないからとてすぐに
講和条約を呪うなどと言うのは正気のさたではない。図に
乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけ
ない。引き際が大切なのである。[1,p232]

 講和に賛成したのは、4千万人の日本人中ただ16人、内閣
・元老・全権委員の15人と徳富蘇峰ぐらいだと、他の新聞は
書き立てた。東京朝日など各紙は一斉に蘇峰と『国民新聞』を
売国奴と罵り、暴徒が国民新聞社に押しかけて焼き討ちを図っ
た。社員は二日間も棒や日本刀で防戦に務めた後、ようやく軍
隊が出動して囲みが解かれた。しかし、新聞の購読者数は市内
で十数分の一まで激減したと言われ、その回復に数年を要した。

 蘇峰は国民の受けなどを意に介さずに、常に自ら正しいと考
える所を主張して止まなかった。

■6.日米の親交が世界平和の「中枢」■

 第一次大戦の後、急速に大国として浮上したのは、アメリカ
と日本だった。そのアメリカは、ハワイ併合、フィリピン領有
と太平洋に進出し、日本も朝鮮、満洲に勢力を広げたので、両
国の衝突は不可避の様相を呈していた。

 日米の確執は、明治39(1906)年サンフランシスコにおける
日本人学童隔離事件に始まり、日系移民の土地所有を禁止する
排日土地法を経て、大正13(1924)年の排日移民法によって決
定的となった。

 排日土地法は、ヨーロッパ移民には認められていた帰化と土
地所有を、日系移民には認めない、としたものだった。「世界
の一等国」となったと自負していた日本国民は、面目をつぶさ
れた。

『国民新聞』は、当初、日米の親交が世界平和の「中枢」であ
ると述べて反米ムードを抑える論調だったが、排日土地法の成
立に至って、蘇峰は、大和民族が人種と宗教による差別を甘受
している事実を直視し、自恃(じじ、自分自身を頼みとするこ
と)の精神を持てと論じた。

 それでも日米戦争不可避の世評を否定して、日米は経済的に
は「共存共栄」だと強調し、「日米戦争」の音楽にみずから踊
り出す愚を犯してはならない、と戒めた。

 蘇峰がもっとも困難な敵と見なしていたのはソ連だった。日
中戦争の真の敵も中国自体でなく、その背後にいるソ連である
と考えた。この見方が正しかったことは、その後の歴史研究が
明らかにしている。[b]

■7.「百敗院泡沫頑蘇居士」■

 大東亜戦争が始まると、蘇峰は大日本言報国会の会長に就任
して、『興亜の大義』『必勝国民読本』など、戦意高揚を意図
した書物を次々に出版した。戦いが始まってしまったからには、
勝つために全力を尽くす、というのが、蘇峰の「言論報国」の
姿勢だったのだろう。

 昭和20(1945)年8月15日に敗戦を迎えると、82歳の蘇
峰は一切の公職から退き、自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」との戒
名を名乗った。「百敗」して、興国の夢が「泡沫」に帰した、
という無念の思いが込められている。

 しかし「頑蘇」すなわち頑固な蘇峰は健在である。東京裁判
弁護団に依頼されて執筆した宣誓供述書は『宣戦の大詔に偽り
なし』との題名をつけた。

 戦争は日本が望んだものではなく、強いられたものだった。
米国は日露戦争後、「賭け馬」を日本から中国に変えた。そし
て日本に対しては、移民問題、パリ講和会議、ワシントン会議
など、事あるごとに力づくの「懲戒」じみた行動をとった。追
いつめられた日本は「乾坤一擲(けんこんいってき)の策」に
出た。隠忍しなければならないところで我慢できず、相手の
「策謀」に乗って敗れたのは日本の「自業自得」だ、と言う。

 蘇峰は8月15日の玉音放送のとき、徳川家康に思いをいた
したという。家康は小藩の領主として、強大な信長に隠忍自重
しつつ、攻守同盟を結び、ついに天下を手に入れた。「家康を
して今日に在らしめたならば、彼はあらゆる苦情、あらゆる反
対に眼を瞑(つぶ)って、米国と攻守同盟を締結したであろう」
(『勝利者の悲哀』)と述べた。

 そのような偉大な政治家を持ち得なかった日本の敗戦は、ま
さに「自業自得」だった。この言葉には自らの言論で、この
「自業自得」を避け得なかった無念の気持ちも籠もっていよう。

■8.米国の引いた貧乏くじ■

 一方、勝った米国は、東欧から中国までを勢力圏とするソ連
との冷戦に陥り、「世界中の心配を一手に引き受けねばならぬ
ような貧乏籤(くじ)」を引いた。

 日露戦争後に、「もし米国が日本に手を差し出し、日本がそ
の手を握って」いたら、日本は東アジアで一流国として安定し、
米国もそんな「貧乏くじ」を引かずに「商売繁盛」していたろ
う、と推測する。

 米国が「貧乏籤」を引いた原因は、日本をここまでに追いつ
めた自身のアジア政策の失敗にある。

 今後、占領下の日本を第二のハワイのような属国にするこ
とは、日本人の反発を招き、共産陣営に追いやる道につながる。
一君万民の日本的民主主義の発展を支援し、日米提携の道をと
るべきだ、と主張した。

 この見方は、米軍の高官や共和党の政治家にも共有化されて
いたもので[c]、冷戦下において米国の対日政策はこの日米同
盟路線に転換された。

■9.70余年に及ぶ「言論報国」の人生■

 蘇峰は、昭和31(1956)年6月まで最後の著書となる『三大
人物史』を書き続け、翌年94歳にして、明治19(1886)年以
降、70余年に及ぶ「言論報国」の人生を閉じた。

 戦後、蘇峰は「平民主義者から国家主義者に変節した」とか、
「戦時中に時局便乗のお先棒担ぎをした」などと罵倒され、や
がて黙殺と忘却のうちに葬り去られた。

 戦後のこうした罵倒は、ちょうど日露戦後の講和賛成を各紙
がこぞって「売国奴」と非難したのと同じようなもので、蘇峰
の思想が間違っている事を立証するものではない。その時代の
迷妄が解ければ、どちらが正しいかは自ずから明らかになって
くる。

 今頃、蘇峰は草場の陰で、かねてから主張していた「日米同
盟」「日米の共存共栄」が現実のものとなっている事を喜んで
いるであろう。いかに罵倒されようと、忘れ去られようと、蘇
峰にとってはどうでも良いことであったろう。その志はあくま
でも「日本が強くなることはとりもなおさず日本国民の幸福」
[1,p237]という所にあったからだ。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(365) ポーツマス講和会議
 国民の怒りを買うことを覚悟して、小村寿太郎は日露講和会
議に向かった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog365.html
b. JOG(446) スターリンと毛沢東が仕組んだ日中戦争
 スターリンはソ連防衛のために、毛沢東は政権奪取のために、
蒋介石と日本軍が戦うよう仕組んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog446.html
c. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog096.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
(まぐまぐ版では、httpのあとに「:」を補ってください)

1. 渡部昇一『腐敗の時代』★★★、文藝春秋、S50
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569565107/japanontheg01-22%22
2. 米原謙『徳富蘇峰—日本ナショナリズムの軌跡』★★
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121017110/japanontheg01-22%22

Japan on the Globe−国際派日本人養成講座
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107783664.html
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by thinkpod | 2006-10-08 19:17 | メディア
2006年 09月 02日

中韓を煽った朝日「靖国社説」変節60年

週刊新潮8/31号掲載
 <中韓を煽った朝日「靖国社説」変節60年
 ――「8月15日でなければ」「私的参拝なら」からの大転換――>

 天下の朝日新聞も、今回ばかりは腹に据えかねたと見える。口を酸っぱくして靖国参拝に反対したにも拘らず、まるっきり無視の小泉首相に、やや感情的になって「支離滅裂」、「場当たり的」と噛み付いたのだ。だが、そう批判する朝日の方にも一貫性があったかと言えばとんでもない。戦後60年間、その都度変節し、中韓を煽った「靖国社説」を検証する。

 「何という執念なのか」と、呻くような口調で、小泉首相の靖国参拝を評したのは、後見人を自任する森前首相だった。
 確かに1000人以上の報道陣が待ち構える状況で靖国神社の参拝に踏み切るのは、さしもの小泉首相にとっても容易なことではなかったに違いない。
 中国、韓国が反発するのは火を見るよりも明らかで、それを報じる大新聞の論調が温かいものになるはずもなく……。
 こんな悲観的状況下で、わざわざ火中の栗を拾う決断を下した理由は、小泉首相の意地だけだったと、森前首相は嘆息したわけである。

 その結果はご存じの通り。参拝は出来たものの、意地を張った代償を払わされ、多くのメディアから一斉に、「外交を蔑ろにした」「国益を損なう」と集中砲火を浴びせられた。
 その中でもっとも激しかったのが、かつて小泉内閣の組閣の折、新大臣一人ひとりに「靖国に参拝しますか」と質問して失笑を買った朝日新聞。少々ヒステリックなほど、小泉バッシングを繰り広げたのだ。

 まず16日の社説で、小泉首相がこの5年、8月15日を避けて参拝してきたことを引き合いに出し、

<ぶれないことが売り物の首相にしては大ぶれ、まさに支離滅裂である>
<15日は韓国にとって植民地支配から解放きれた記念日であり、中国にも歴史的な日である。そこに、彼らが「感情を傷つけないでほしい」と中止を望む靖国参拝をぶつけた>

 自分勝手な独裁者が、当然の気配りをせず、ナイーブな中国人や韓国人の心を深く傷つけたようなイメージか。また別の記事でも、

<5年間、6度におよぶ首相の靖国参拝で、虚脱感にさいなまれる中韓両政府>
<靖国参拝の正当性をとうとうと語ったが、理屈になっていない点がある>
<(思想の自由を持ち出した正当化は)逆立ちした強弁>
<意見を単純化して敵味方を区別し、異論を切り捨てる危うさ>
<日立つ場当たり的発言>

 と、政治家失格どころか、人間失格、人格破綻を宣告するかの勢いだったのだ。
 だが、強弁したり、意に沿わない事実を報じなかったり、時に場当たり的なのは朝日新聞も同じこと。

 苦笑いするのは、大阪大学の加地伸行名誉教授(中国思想史)だ。
 「例えば、朝日新聞は日本の防衛費には常に目を光らせていますが、中国のすさまじい軍事費増強にはほとんど口を開きません。朝日新聞が読者に多くの知識人を抱えるオピニオンリーダーであることは認めますが、実は、こっそり社説を曲げたり、場当たり的に変更したりすることが少なくないんです」
 今回、問題になった首相の靖国参拝問題も、そんな典型例の一つだという。

 朝日新聞OBの評論家、稲垣武氏によれば、
 「私が朝日新聞に入社した1960年ごろは、時の首相の靖国参拝を問題にするような空気は社内に全くありませんでした」

 この当時、内閣総理大臣が、国内外への配慮などの理由から靖国神社参拝そのものを控えていたわけではない。
 実は、45年8月の終戦直後から30年の間に、幣原喜重郎、吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄の各氏が、総理在任中にそれぞれ複数回、春や秋の例大祭の時期に靖国参拝を行っている。
 ところが、これらの参拝を問題視する社説はどこにも見当たらず、せいぜい、首相の動静欄などに、靖国神社という単語を発見するくらいである。

 稲垣氏が続ける。
 「まだ戦後間もない頃で、身内を戦争で亡くした方々の思いが生々しく残っている時代でした。仮に政治家の靖国参拝を問題だと思った記者がいたとしても、そんなことを書いたりしたら、すぐに不買運動が起きかねない状況でしたからね……」

【「私的参拝」は問題なし】

 今となっては想像も出来ないが、戦後30年間ほど、時の首相の靖国参拝は朝日新聞において、ニュース価値もない、ごくごく当たり前の出来事だったわけだ。
 しかし、この状況に変化が生まれたのが75年8月15日。時の三木武夫首相が「私人の資格」で、初めて終戦記念日に参拝した日である。

 朝日新聞はこの翌日、<首相の靖国参拝に思う> と題する社説を掲載。
 これが首相の靖国参拝をテーマにした最初の社説である。むろん、その内容は現在のトーンとは比較にならないほど大人しいものだった。

<(首相が8月15日を選んだことに)賛否の声がこもごも聞かれる>
<野党のほか宗教団体などが、首相の靖国参拝に強く抗議しているのは、(中略)形こそ違っても「国家神道」の復活につながり、暗い時代が再現されることを警戒する趣旨でもある>

 大砕で言えば、後の主張の雛形がおぼろげに読み取れるものの、問題にされたのは8月15日という日付のみ。
 その証拠に翌年の10月、三木首相が秋季例大祭に合せて靖国参拝したことを伝える記事はたった5行で、終戦記念日以外なら、お咎めなしだったのである。

 これ以後5年間、福田赳夫、大平正芳の各氏が順に総理に就任し、毎年、靖国に参拝。しかし、朝日新聞がこのことを社説で取り上げることは稀で、その内容も政教分離の原則にのっとって、公式参拝か、私的参拝かを問題にするだけの、形式的でのどかなものだったのである。

 そこに変化が訪れたのは80年代。
 80年、81年、82年と鈴木善幸首相が3年続けて8月15日の参拝を行い、徐々に公人か私人かの別を明らかにしなくなったため、<靖国参拝の姿勢を問う> といった社説が散見されるようになり、ようやく現在の朝日が振り回す「問題意識」の原型が芽生えてきたのだ。
 とはいっても、あくまでも公式参拝に道を開こうとする自民党タカ派に異論を唱える程度で、それは、中曽根康弘政権になっても、初めは大きく変わることはなかった。

 一例を挙げれば、終戦記念日を含め、就任1年で4回も参拝した中曽根首相に対して、
<中曽根首相の「初もうで」> という84年1月7日の社説は、
<もちろん、首相が一私人として神社を参拝することには、何ら問題はない。ところが、首相は記者団の質問に対して、例によって「内閣総理大臣たる中曽根康弘の参拝だ」と、ことさらに公、私の区別をあいまいにしようとしている>
 と書き、靖国問題をごく単純な「公人私人」の二元論で片付けている。

 そんな路線が歴史的な大転換をするのはこの翌年、85年のことだった。
 この年の夏、いよいよ公式参拝に踏み切ろうとした中曽根内閣に押して、朝日新聞はキャンペーンを展開したのだ。

<「公式参拝」には無理がある>
<「公式参拝」を強行するな>
 と、立て続けに社説で論陣を張り、中曽根首相が参拝を行った8月15日の社説には、靖国参拝に反対する論拠の一つとして初めて、ある中国人の胸中を綴ったエッセイが紹介されている。曰く、
<「われわれと友好条約を結んだある国の首脳と閣僚たちは、毎年八月十五日に靖国神社に参拝する。その首脳は、靖国の戦死者たちが今日の平和と繁栄のためにぎせいになったと述べた。(中略)これに反論するのはたやすいが、われわれは友好を重んじて古いことを持ち出さないだけだ(後略)」>

【防衛予算倍増を要求】

 朝日のキャンペーンに呼応するかのように、中国、韓国は次々と中曽根内閣への反発を表明。
 外圧に負けて腰が砕けた中曽根首相は、これ以降、一切、靖国参拝をあきらめざるをえない状況に陥ったのである。

 別の朝日関係者の話。
 「この一件で、朝日も中国、韓国もすっかり味を占め、日本国内でなにか、朝日の気に入らない動きがあれば、中国にご注進して怒ってもらい、それを朝日が記事にして、問題を増幅させるという手法が確立しました。中国にとって朝日は対日圧力をかける道具、朝日にとつて中国はネタ元という相互関係が出来たのです」

 実際、85年から90年まで、靖国と中国というキーワードが含まれる記事を検索すると、朝日は読売新聞の4倍以上、毎日新聞の6倍以上と明らかに突出している。
 俗に自虐史観と呼ばれる歴史観の萌芽も同時期で、86年8月15日の社説は、
<「自分の過去の歴史に対する罪の意識があればこそ、その民族の歴史には魂が輝く」>
 という駐日韓国大使の言葉を引いている。

 こうして靖国間題へのスタンスを確立した朝日は以後、首相の靖国参拝には「私的参拝」であろうと、8月15日以外の参拝であろうと、区別なく激しい攻撃を浴びせる構えを見せ続け、96年の橋本龍太郎首相を例外として、小泉首相誕生まで、首相の靖国参拝を完全に封じ込めることに成功したのである。
 しかし、85年以降、中国、韓国に大きく寄りかかって論理を組み立てなおした朝日に無理はないのか。

 政治評論家の田久保忠衛氏がいう。
 「朝日の論理では、中国や韓国が参拝を問題にするのはA級戦犯が合祀されているからです。しかし、これは明らかな詭弁でしてね。A級戦犯の合祀が報道されたのは79年4月です。通信社に勤めていた私は、その翌月に副総理だった小平にインタビューをしました。けれど、この会見で、中国側からA級戦犯の合祀などの靖国批判は一切、なかった。この年の暮れ、大平首相は訪中し、何度も首脳会談を行いましたが、ここでも、中国は靖国について一言も触れていません。つまり、A級戦犯合祀は後からとってつけた理由なんです」

 もう一つ、靖国神社に参拝すること自体が軍団主義の復活を連想させ、アジアの人々を深く傷つけるという論理も同じく破綻しているという。

 全国紙のデスクが解説する。
 「古い記者ならばみな知っていますが、80年に訪中した中曽根氏に華国鋒総理(当時)など中国首脳部は、もっと空自の制空力を高めるために、防衛予算を倍増したらどうかと提案したんです。もちろん、日本側は内政干渉だと一蹴しましたが、当時、中国は拡大主義を取るソ連の影に怯え、日本と協力しようとしたわけです。日本に軍事力増強をそそのかす国が、靖国に参拝したくらいで傷つくというのはおかしな話です」
 ところが、その後、ソ連が崩壊したことで中国にとっての日本の相対的価値が下がったため、朝日から貰った靖国問題を外交カードにチラつかせながら、ナイーブな振りをして、国内で反日教育を始めたわけだ。

 全国紙デスクが続ける。
 「中国の思惑は、98年に江沢民が行った国内向けの発言からもよく判ります。江沢民は、"日本には歴史問題を永遠に言い続けろ"というメッセージを発していたのです。靖国問題が、その材料の一つにされているのはまちがいありません」

【大騒ぎは「ありがた迷惑」】

 作家の井沢元彦氏も、
 「そもそも、中国は民主主義国家ではないので、表現の自由や報道の自由、世論というものもありません。世論の存在しない国の主張をそのまま社説に掲載するということは、独裁者の主張をそのまま後押しすることになりかねません」
 と朝日の手法に警告するのだが、朝日と中国の二人三脚は今後いつまで続いていくのか。

 意外にも、中国と朝日新聞の蜜月関係の終焉は近いと見るのは、元朝日新聞研修所所長の本郷美則氏である。
 「今回はあれだけ朝日が煽ったのに、中国はずいぶん冷静な対応でしたでしょ。メディアやネットを早いうちから規制して、デモも取り締まった。煽ったのに、梯子をはずされた格好になった朝日はびっくりしたんじゃないですか」

 実は、すでにだいぶ前から両者の間に微妙なずれが生じ、
 「最近は、中国にとって朝日の報道は却ってありがた迷惑なんですよ」
 と、話すのは、独協大学の上村幸治教授(現代中国論)である。
 「これまで多くの政府関係者と話してきましたが、あちらの高官は、朝日の報道には半ば困っているんです。今までは、朝日などから事あるごとに"コレは問題じゃないか"と言われて、その質問に答えるような言葉のキャッチボールをしていました。ところが、そのうちに靖国はブレーキの利かない大問題になってしまった。中国側も本音では、これ以上、大事にしたくないんです。だから、2年前、温家宝総理が記者会見の席で、やんわりと歴史問題に触れた。ところが、朝日は、大々的に、"中国が靖国参拝を強く批判"とか打ってしまう。本音はありがた迷惑なんです」

 では、朝日新聞社は何と答えるのか。
 かつて靖国参拝を殆どノーマークだったことについては、
 「戦後の靖国神社は、戦没者の慰霊に活動目的がしぼられ、太平洋戦争を"アジア解放のための正義の戦争"と主張したり、その種の展示をするような神社ではありませんでした。8月15日の参拝ではなかったこともあり、首相参拝に大きな関心を払わなかったのだと推察します」(広報部)

 どうやら朝日の論陣にも継ぎ接ぎが日立つ。靖国に執念を燃やし、危うい綱渡りをしているのは朝日新聞も同じことなのだ。

ぼやきくっくり | 週刊新潮「中韓を煽った朝日『靖国社説』変節60年」
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid139.html#sequel
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by thinkpod | 2006-09-02 22:09 | メディア
2006年 08月 19日

ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか(後編)

『少年育成』96年4月号掲載

ビデオを抱えてミャンマーへ

 ミャンマーの人々は映画「ビルマの竪琴」をどのように観るのだろうか。そんな疑問を抱いているとき、絶好の機会がめぐってきた。95年11月、農耕文化研究振興会(代表:渡部忠世京都大学名誉教授)が企画するミャンマーの稲作農村調査に参加して、ミャンマーを訪問することになったのである。
 渡部先生とは、これまで数回にわたって、タイを中心に東南アジアの稲作農村の映像取材にお供をしてきた。ミャンマーを訪問するのも、この延長で、今回の調査での私の最大の任務は、ミャンマーの稲作農業についてのビデオ映像を収録することであり、数年来の企画である東南アジアの稲作農業に関するCD−ROM化を完成に近づけることであった。ただ、この機会を利用して、ミャンマーの人々にビルマの竪琴を上映できそうである。
 限られた日程と時間を調整して、上映は首都のヤンゴンではなく、パガンで行うことになった。調査団の受け入れに当たった現地側の通訳のピューピューアンさんに、調査団がパガンに滞在する日程に合わせて、視聴後のインタビューを補佐してくれる英語の通訳を1名確保してくれるように依頼した。さらに、この英語通訳に私のパガン到着までに、視聴してくれる被験者を4〜5人確保しておいてくれるよう依頼した。
 本格的な調査ではないから、被験者の人選にあたっては男女の比率をほぼ同数にするのと、戦後世代と戦前戦中世代がともに含まれるよう最低の条件を付した。パガンは仏教遺跡で有名な地方都市である。ピューピューアンさんの話では、人口規模も小さく、ホテルで小さな上映会を開くと言った催しをするには、ちょうどよいということだった。

5つのシーンを用意した

 映画「ビルマの竪琴」は2時間近い作品である。本来は、それを全部視聴してもらいたかったが、それでは、視聴後のインタビューまで含めると拘束時間が長くなりすぎる。その上、日本で手に入るビデオには、もちろんビルマ語の字幕スーパーはついていないので、長時間の視聴は無理かもしれないと判断した。そこで、物語のあらすじは、上映の前に通訳を通して私が言葉で伝えることにし、実際に上映する映像は、85年製作の新版の中からつぎの5シーンに絞った。これらのシーンの上映時間は、あわせて25分程度となった。これならいけそうである。

シーン1 敗走する小隊が、ある山村に一夜の宿を借りるため、水島上等兵(中井貴一)を偵察と交渉に差し向けた。安全が確保され、交渉が成立すると、水島は竪琴で音楽を演奏して、林に潜む小隊に知らせた。村では、小隊の兵士と村人たちの交歓の宴が始まった。村人の厚情への返礼として合唱で答える兵士たち。そこへ、突然、敵兵が村を取り囲んでいるという知らせが村人から伝えられた。緊張する兵士たち。隊長(石坂浩二)は、村人たちを会場から出し、敵に気づかれないため、「ああ玉杯に花受けて」と合唱しながら、戦闘の準備を始めるよう命じた。

シーン2 ムドンの収容所。帰国の日を無為に待つの小隊。そこへ、現地の物売りのおばさん(北林谷栄)が聾唖の孫をつれて通ってくる。兵士たちは、靴下などの回りの品々や手作りの箒や笛などと食料を物々交換するのだった。このおばさんに、隊長は、はぐれてしまった水島上等兵の消息をさぐるよう依頼した。

シーン3 戦闘に巻き込まれて負傷した水島は、ひとりのビルマ僧に助けられ、洞窟で介抱されていた。帰隊の願望を抑えられない水島に、ビルマ僧はこの世の無常を説き、イギリスがきても日本がきても、「ビルマはビルマじゃ」と淡々と語った。しかし、回復した水島は、僧が水浴の最中、袈裟を盗み髪を落とし僧になりすまして、ムドンへと数百キロの道を歩き始める。慣れない裸足の旅、血の滲む爪先。空腹で力尽きて荒れ地に座り込む水島。ところが、通りかかりの農民が水島に手をあわせ食べ物をささげた。僧と錯覚したのだ。
 民衆の喜捨を受けながら旅を続ける水島。山岳地帯の村で、朝の托鉢の僧たちにまぎれて食べ物を受け取る水島は、そのまま僧たちに導かれて寺院を訪れた。すると、出迎えた僧は水島の腕輪を指して「そのような高位の腕輪をした僧はお会いしたことがない」と、歓迎の言葉を受けた。

シーン4 やっとムドンに到着した水島は、聾唖の娘と老人が、森でオウムを捕まえているところに偶然出くわし、収容所の位置を尋ねた。帰隊の機会を待って、僧の姿のまま、近くの寺院に滞在する水島。窓の外から、埴生の宿のメロディーが聞こえてきた。イギリス兵相手に竪琴を弾いて小銭を稼ぐ子どもが練習していた。水島は、その子に自分が編曲した埴生の宿を教えてやった。

シーン5 ビルマに残ることを決心した水島上等兵は、小隊が日本に帰国する前夜、収容所の鉄条網の外に竪琴を抱え、オウムを肩に乗せ現れた。水島が埴生の宿を竪琴で弾く音色に、隊員たちは小屋から歌声をあわせながら次々と出てきた。いっしょに帰ろうと水島に迫る隊員たち。しかし、水島は一言もしゃべらず、それに「仰げば尊し」のメロディーで答え、夜霧の中に消えていった。

 以上の5つのシーンを選んだ。どれも映画の中では重要なシーンであるが、シーン5をのぞいて、これらのシーンは、とくに、ビルマの人々と日本兵との接触を扱ったシーンである。ビルマ人に扮した日本の俳優もたくさん登場するし、また、ロケした際のおそらくはタイ人のエキストラや俳優もこれらのシーンに登場している。被験者にとっては、これらの接触のシーンは、他のシーンと比べてより強い刺激因子となるはずである。
 以上のシーンを見せた後で、被験者に対して、全体をとおして何を感じたか。また、シーンに登場するビルマ人や日本兵の振る舞いや行動に奇異な点はなかったか、あるいは、得心できる行動や振る舞いはどれか。描かれる日本兵とビルマの人々の関係についてどう思うか。最後に、このような映画が製作されていることについてどう評価するか。これらの点について質問することにした。

パガンのホテルにて

 パガンに到着した。ホテルのロビーで依頼していた英語通訳の女性が出迎えてくれた。打ち合わせの結果、上映は次の日の夜と決まった。
 団長の渡部先生は、京都大学で教鞭をとっておられた時代に多くのビルマからの留学生を指導されておられた。ビルマには、教え子や知り合いの農学者がたくさんいる。今回の調査団も、そんな先生の知名度も手伝ってか、政府の特賓あつかいとなってしまい各地で政府のお役人が待ちかまえていて近代的な農業施設や日本の援助でできた施設を案内してくれた。わずらわしくもあったが、好意には素直に従うことにした。英語で説明するお役人の通訳をするのが私の役目だった。パガンでも、そんな訪問を足早に済ませ、フィールドにでだ。
 船をチャーターしてイラワジ川に出て、洪水敷に展開する蔬菜畑を観察した。雨期開けの河原に堆積した土を耕す農民の姿をそこここで見ることができた。中州を人力で開墾し、豆を作付けする農民の姿もあった。私は、さっそくビデオをまわした。農民の肩越しにはるか対岸にみえるパゴダの金色にひかる丸屋根がときおりレンズに鈍い光輪を描いた。
 暑く乾いた日中のフィールド調査が終わり、上映の夜がやってきた。
 上映には、ホテル側の好意で、ロビーを借りることができた。ヤンゴン育ちの30代前半の若い中国系の支配人は、これからは観光が発展すると予想し、この仏教遺跡で有名なパガンの町に親戚が出資して建てたホテルの支配人になった。地元のビルマ人たちを叱咤してホテルを切り盛りするかたわら、時間が許せば自ら車を運転して、観光客のガイド役も買ってでるやり手の男性だった。彼は、私が日本から持参した再生機能付きの8ミリビデオカメラと液晶モニタをみて、
「それでは、画面が小さすぎる。ロビーにあるテレビを使えばいいじゃないか」と進めてくれた。私が、
「ご好意はありがたいけれど、ミャンマーはPAL方式、日本のビデオは北米(NSTC)方式だから無理だよ」
と断ると、「いやいや、ぜんぜん、ノープロブレム」と私の言うことなど無視して、安請け合いをする。私は、この支配人、きっと外国にでたことがないので、方式の違いがわからないんだなと思い、まあ、映らないのを実際に示せば納得するだろうとビデオケーブルをそのビデオ入力端子に差し込んだ。すると、どうだろう。こちらの予想を裏切って、あっけなくパッと映ったのである。
「そらごらん」と、小鼻を膨らませて自慢げな支配人。
「へー。このテレビ、マルチ対応なんだ」と驚く私。
 ようするに、テレビ放送の発達していないビルマでは、ビデオカセットの視聴が受像器利用のかなりを占めるのだが、そのとき、闇で国外から流入するいろいろな規格のビデオを見るには、受像器の方がマルチ対応でなければならないというわけ。

上映が始まると沈黙が

 さて、待ち合わせの時刻になると、女性通訳に連れだって5人の被験者がやってきた。通訳が一人一人紹介してくれた。
 Aさん、32歳の女性、市場で総菜を売っている。
 Bさん、57歳の女性、かつて学校で英語の教員をしていた。
 Cさん、31歳の女性、ラッペットゥ売りをしている。ラペットゥとは、ミャンマーでよく見かけるおつまみで、お茶の葉に味を付けそのまま食べるものである。
 Dさん、58歳の男性、退職教師、来日の経験がある。
 Eさん、63歳の男性、左官職人である。
 これら5人の被験者にこれからビデオを見てもらうのである。
 かれらが腰をおろすソファーの前にテレビを移動させた。だだっ広いロビーには、私たちを遠巻きにしてホテルの従業員が何人も集まっていた。支配人も、当然のようにソファーに腰をおろしてビデオの始まるのを待っていた。
 ビデオの再生ボタンを押す前に、私は、今回の上映の主旨と視聴後依頼するインタビューについて英語で説明し、続いて、あらかじめ簡単にメモしておいたあらすじを話した。それを通訳嬢がビルマ語に翻訳していった。
「それでは、始めます。シーン1です」
 テレビには、兵士たちの行軍する姿が映し出された。じっと見入る被験者たち。かなり重苦しい進行だった。もうすこし、リラックスしてほしいところだが、こちらが研究者なのがよくないのかもしれなかった。シーンの半ばで、川谷拓三が演じる音痴の軍曹が水島上等兵の送った合図のメロディーを判別できず、隊長に確認してみんなから笑い者にされるシーンがあった。日本では受けたはずのこのシーンも、ミャンマーの被験者たちにはまったく響かないようだった。延々と重苦しい沈黙が続いた。
 ひとつのシーンが終わるごとに、全員に質問をした。
 はじめは男性がばかり発言した。いちばん多くしゃべったのは、なんとホテルの支配人だった。さすがヤンゴン育ちだけあって自信ありげに堂々と意見をいった。これに比べて、女性はおおむね控えめだったが、だんだん雰囲気がなごんできたためか、発言しはじめた。ただ、総菜売りの女性だけは、最後まで微笑するばかりでほとんど自分の意見を言わなかった。
 しかし、いったん話がはずんでも、つぎのシーンがはじまるとまた重苦しい雰囲気になってしまった。そのうち、「あー」とか「ふー」とか、溜息が聴こえてきた。どうもそわそわしているのであった。そわそわというよりか、居心地が悪いというか、居ても立ってもいられないという感じだった。私は、あらかじめ用意していたもう一台のビデオカメラでビデオを視聴する被験者たちを端から撮影していた。帰国して、その時撮った映像を丁寧に確認してみても、それがはっきりと分かった。
 途中、一カ所だけ彼らが笑ったのは、シーン3でビルマ僧に扮して苦しい旅を続ける水島上等兵が飢えと疲労で動けなくなったところをビルマの農民から思わぬ食べ物の喜捨を受け無我夢中でそれをほおばるシーンだった。日本人の観客なら、感極まってこそすれ、笑いがでるシーンではなかろう。しかし、この被験者たちは、そこで笑ったのである。どうも、何かが違うのだった。

違和感という反応−ビルマの竪琴はどう観られたか

 その理由は、インタビューの中でだんだんはっきりしていった。ここで各シーンに対する被験者の反応を紹介しておきたい。
 まず、シーン1では、「住民の話すことばがぜんぜん違う」という。私が、「日本人が扮しているからか」と聞くと、「もちろん、それもあるが、おそらくこの村はヒルトライブ(山岳少数民族)の村だからかな」と答えた。それから、「ビルマ人は、もっとにこにこしているよ」と登場するエキストラのタイ人たちを指していった。
 また、戦争を体験した世代は、映画の中の日本兵について、「日本兵はあんなに立派じゃなかったな。ガリガリに痩せていたし、惨めな感じで背がもっと低かった。戦後の日本人は体格がよくなったもんだ」と感慨深げに語った。また、「日本人兵より朝鮮人兵の方がきつかった」というようなこともいった。
 シーン2では、物売りのおばさんに扮する北林谷栄に対して、女性たちが共通の反応を示した。
「あれじゃ(日本の)兵隊たちがかわいそう」
 私が「どうして?」と聞くと、こう答えた。
「だって、あの女(北林)、兵隊たちのまだ新しい靴下や一生懸命作った箒をあんなくだらない食べ物と交換しているんだから」
 たしかに、ちらっと映ったカットの中に、北林が持ってきた数房のバナナと小さなパパイヤ1個が映っていた。ほとんどの日本人なら見落とすだろうほんの1、2秒のカットを彼女たちは見逃さなかったのである。さらに、「あんなに日本語のうまいビルマ人はいないわね」と途中で飛び入りしたピューピューアンさんが言った。彼女は、ヤンゴン大学大学院で化学の修士をとった秀才だが、就職難で日本語を学び直し、現在、日本人旅行者相手の通訳をしている。彼女の発言は、やや皮肉を含んでいた。というのも、北林谷栄は、教養のないビルマ人の物売りがしゃべるだろう下手な日本語を演技しているのである。
 彼女たちの意見を総合すると、北林谷栄のおばさんは、日本語を巧みに操って兵隊たちから品々を巻き上げる、ビルマ人の風上に置けぬ強欲ばあさんということになった。
 つづくシーン3が最も反応が強かった。反応の大半は、ビルマ僧のしぐさや服装などにまつわるものだった。
「袈裟が違う。あれはタイの僧侶のもの」
「あんな拝み方はしない。体全体を地面に投げ出すのが正しい。」
 また、喜捨を受けた食べ物を両手に受けて食べる中井のしぐさに「お行儀の悪い食べ方。僧侶はあんな食べ方は絶対にしない」と年寄りたち。「あれは、まったく日本人の食べ方だろう」と戦争体験のある男性。「いや、そういうわけではないけれど。そう見えますか」と私。「そう日本人の食べ方ね。両手で受けて、口から迎えにいって食べてるから。すくなくとも、ビルマ人じゃない」とピューピューアンさん。「それじゃ、この僧は日本人ということは誰の目にも丸わかりというわけ」と私。「そういうこと」とみんな。
 ほかにも、ビルマ僧のおかしな点について指摘が続出した。
「お寺についたとき、そこの僧侶が水島のしている腕輪をみて『こんな位の高い腕輪をしている僧ははじめてだ』とかいいますね。ビルマの僧侶は一切の装飾品を身につけることは禁じられています。時計もしませんよ」
 私は、タイの僧侶たちが高価な腕時計をしているのをみた話を伝えた。それに対して、被験者たちは、口々にそんなことはビルマでは絶対にないと強調した。
 ビルマの仏教習慣について、この映画が完全な逸脱をしていることは、つづくシーン4やシーン5でも次々に指摘された。
「ビルマでは、僧侶は歌を歌うことも禁じられている。楽器にさわることも」
「物乞いの子どもに竪琴の弾き方を教えるなんてあり得ない」
「オウムを肩にとまらせているのも吹き出してしまう」
「タイでロケしたのが、よくないね」などなど。
 クレームが、あまりにたくさん出され、その上、通訳の女性もだんだん興奮してきて、自分が通訳と言うことも忘れて意見をまくしたて始めたので、インタビューはかなり混乱してしまった。だから誰がどの意見をいったか、正確に確認できなくなってしまったことを今残念に思っている。しかし、いずれにせよ、この逸脱が強い反応を被験者から引き出したことは確実だった。

描かれた側からの解釈−「水島」とは何だったのか

 被験者たちが示した違和感に満ちた反応は、映像が表現するビルマのディテールにおける逸脱や食い違いに原因するものだった。「あまりに間違いが多いので観ていられない」と被験者たちは語った。実際、最初興味深げに観ていたホテルの従業員たちも三々五々消えてしまい、最後にロビーに残ったのは関係者だけになってしまった。
 文学作品と異なり、映像は抽象的な表現を受け付けない。たとえば、「袈裟」ひとつとってみても、それがどんなデザインや色で、どう身につけるかという具象性を抜きに表現することはできない。そこが言葉の表現とは異なっている。
 映画の理論家として著名なジェイムズ・モナコがいうように「われわれは言語体系の中で言葉を変化させることができるようには映像の記号は変化させることはできない」のである。映像の記号は、短絡的な記号である。たとえば、「僧」という文字をわれわれが子ども時代に学んだとき、それはある種の畏敬や尊敬などの意味を付加されて心の中に刻み込まれたはずである。だから、その言葉を聞いたとき、われわれはそのような観念を同時に想起する。しかし、視覚像としての映像は、それが示す意味ともっと直接的な関係をもっているのである。
 竹山がビルマ僧に化けた日本兵を言葉で表現したとき、無意識にビルマ人から尊敬を受ける日本人の姿をそこに塗り込めることができた。しかし、市川の映像はそうはいかなかった。ビルマ人の被験者から見えた中井のビルマ僧は、日本人そのものであり、彼らは、それを「ビルマを放浪する、一目でそれと分かるみじめな敗残日本兵」として理解した。
 他方、日本人にとっては、ただの南洋の食べ物を意味する記号に過ぎないバナナとパパイヤのカットも、それが日常生活のなかでもっと詳細な意味をもつ記号として存在しているミャンマーでは、日本人とは別の意味を含むカットとして理解されたのである。つまり、「あの安物でややしなびた小さなバナナや熟していない硬めのパパイヤ」を高価な繊維製品である靴下と取り替える物売りの強欲さが、そこから解読されたのである。
 私は、当初、この映画をビルマの人々がみれば、当然、日本の戦争責任の問題が話題の中心になるだろうと予想していた。もちろん、はるばる日本からやってきた日本人に対して、礼に篤いビルマの人々が無遠慮に日本を非難したりすることはないだろう、しかし、映画が映画である。当然、話はそういう方向に流れていくと思っていた。そうなれば、実際にビルマで日本兵が行った行為とこの映画に描かれているそれとのギャップや、ビルマ人に対するこの映画の描き方の中に含まれている日本人の偏見や誤解が発見されるのではないかと考えていた。
 しかし、私の予想は大いに外れてしまった。私が当初予想していたような物語の内容や政治的意味に踏み入る以前の段階で、映像に表現されたビルマの習慣や生活のディテールがあまりにかれらのものと違うため、彼らを入り口で立ち止まらせてしまったのだった。
 この事実から、近年国内で大論争を引き起こした日本のアジアに対する戦争責任の問題について、われわれは多くの教訓や示唆を得ることができるはずだが、それは今はいうまい。
 ただ、印象に残ったことをひとつつけ加えておきたい。ビルマ僧に化けた水島上等兵が実は日本人であることがばればれだと被験者たちにいわれたとき、私は「それじゃ。こんな状況設定はどだい無理なんですね」と聞き返した。この問いに対して、被験者たちは、こう答えたのである。
 「いやそんなことはない。日本人と分かっていてもビルマ人は水島を助けただろう。それは、彼が袈裟をきているからだ。たとえ、それが日本兵だと分かっても、袈裟を着ている限りその人物は護られる。それがビルマだ」
 ミャンマーの一般の人々がもしこの映画を観たとしたら、この映画の意味する世界はずいぶんちがったものに理解されるだろう。日本人が思い浮かべる水島は、ビルマ文化に深く精通し、僧侶の姿に身をやつして危険をさけつつ敵中数百キロを踏覇した思慮深い人物。そんな人物が、道中、打ち捨てられた日本兵の遺骸をみてビルマに残留することを決意する。そこに、日本の観客は自己を同一化するのだろう。
 しかし、ミャンマーの人たちは同じ映像から異なった理解をするだろう。つまり、ビルマの風俗習慣について無知なひとりの日本兵が、袈裟を着ているばかりに、それと知りつつ助けるビルマの人々のおかげで無事目的地にたどり着く物語として。
 このような被験者たちの見方をどう考えればよいのだろう。それは、来訪者である日本人の私に対してビルマの仏教文化を理想化して語ったものだろうか。それとも、彼らの生活世界におけるリアリティなのだろうか。おそらく、実際、どちらでもあるのだろう。少なくとも、その言説が公然と受けとめられている社会がそこにあることは事実なのである。そして、それを知ることによって、われわれは今すこし謙虚になれる。
 不十分ではあるが、今回の試みからすくなくともつぎのようなことはいえるだろう。他者に対する理解や思いは、たとえ、それが好意的なものであったとしても、その他者からの理解や思いを無視して一方的に抱き続けることはできないということである。他者に対する理解や思いは、その他者が確認することによって、はじめて相互的なものへと変わることができる。そして、そのような変化こそが、両者の関係を本当に変えていくことができるのであると。

96-02-01
http://www.asahi-net.or.jp/~cr1h-ymnk/96-02-01.html
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by thinkpod | 2006-08-19 00:07 | メディア