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2005年 09月 20日

元日本兵の貢献、ベトナムで認知の動き 「封印の歴史」報道

 ベトナムで敗戦を迎えた元日本兵が、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加、独立を目指した抗仏戦争(第1次インドシナ戦争、1946—54年)を共に戦ったことを公に認知する動きがベトナム国内で出ている。元日本兵の存在はベトナムでは「封印された歴史」だったが、ハノイ大で昨年、研究会が2度開かれたほか、複数のベトナム紙も元日本兵の貢献を大きく報じた。

 8月7日付のベトナム紙ティエンフォンは「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで日本兵が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には日本兵の支援が必要だった」などと指摘し、ベトミンに大量の武器を供与した井川省(いがわ・せい)少佐や陸軍士官学校教官の中原光信(なかはら・みつのぶ)少尉ら功績のあった元日本兵数人を実名で報じた。

 抗仏戦争で多くの元日本兵が死亡し、「革命烈士」の称号を贈られた人がいることも紹介した。

 40年にベトナムに進駐した旧日本軍をめぐっては、これまでは「侵略軍」として断罪されることが多かった。近年、両国の経済関係が緊密化する中で、大阪経済法科大の井川一久(いがわ・かずひさ)客員教授らが、残留日本兵の功績を認めるようベトナム政府に強く働き掛けてきたことなどが元日本兵認知の背景にある。

 井川教授によると、ベトミンに参加した元日本兵は約600人。(1)敗戦で日本の将来を悲観した(2)現地に恋人がいた(3)抗仏戦を決意したベトナム人への共感—などが理由という。

 元日本兵は「新ベトナム人」と呼ばれ、ベトミン軍に軍事訓練などを指導して共に戦い、約半数が戦病死したとみられている。54年のジュネーブ協定締結により抗仏戦争が終結した後、150人以上が日本に帰国した。

 井川教授は「抗仏戦を有利に展開する決定的な役割を日本兵が果たしたことを歴史として残さなければならない」と述べ、ベトナムに資料館をつくる活動を進めている。

 似たような戦後を生きた日本兵としては、対オランダ独立戦争に参加したインドネシア残留日本兵の存在が知られている。

 ■ベトナムと旧日本軍 1940年、フランス領のベトナムに進駐した日本軍は45年3月、フランスの植民地権力を解体しベトナムを形式的に独立させた。同年8月の日本の敗戦を機にベトナム独立同盟(ベトミン)の蜂起で8月革命が起き、9月にベトナム民主共和国が独立を宣言し、ホー・チ・ミンが初代大統領に就任。しかし、ベトナムの再植民地化を狙うフランスと衝突し、46年に抗仏戦争(第1次インドシナ戦争)が始まった。ベトナムにとどまった旧日本軍兵士がベトミン側に参加。ディエンビエンフーの戦いで敗れたフランスは54年7月にジュネーブ協定を締結、戦争は終結したが、ベトナムは南北に分断された。(共同)



 ベトナムには、1954年以降に帰還した元日本兵と現地女性の間に生まれた子供が暮らす。正確な人数は不明だが、数百人いるともいわれる。その大多数が父と再会することなく、身分を隠したり差別を受けながら苦難の人生を歩んだ。元日本兵の父を持つ北部タイビン省出身で、現在南部カントー市に住むレ・ヒエップ・チンさん(55)が自らの境遇を語った。

 母は女手一つで4人の子供を育て、大変な苦労をした。母は、貧困の中で父への恨みを言ったものだ。ベトナム戦争が終われば父が帰ってくるのではないかと待ち続けたが、音信はなかった。

 わたしはベトナムにも日本にも受け入れられない存在だった。つらかったのは「日本ファシストの子」とののしられ、あらゆる差別を受けたことだった。共産主義を信じたが、党員になることは認められなかった。ベトナム戦争にも志願したが、入隊は認められなかった。ベトナムがカンボジアに侵攻した後の1979年に入隊が認められ、ベトナム人としてようやく認知されたと感じた。

 90年に突然、父から手紙が来た。「苦労をかけた」と謝罪の言葉が続き、最後に「それぞれの人生を歩もう」と書かれていた。母は怒っていた。これが父からの最初で最後の手紙だった。

 98年に日本にいる息子という人から手紙が届き、その2年前に父が他界したと知った。「遺品を整理していてベトナムの家族の存在を知った」「どうか父を許してやってください」とつづられていた。姉が日本に行き、父の遺骨を分けてもらった。

 母は昨年11月に亡くなった。父を待ち続け、再婚することなく終えた83歳の生涯だった。2人の遺影は同じ祭壇に置いている。父は無責任だと思う。でも一目でいいから会いたかった。

(共同)

(09/20 16:43)
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by thinkpod | 2005-09-20 17:13
2005年 09月 16日

残留元日本兵の記録集 出版

この記録は、戦後インドネシアに残った元日本兵と、その家族などでつくる福祉団体が、長年にわたって集めた元兵士の手記や記録を今年の戦後60年を機に自費出版するものです。出版を記念して、今もインドネシアで生活する元兵士のうち、佐賀県出身の藤山秀雄さん(83)と台湾出身の宮原永治さん(83)の2人が来日し15日、東京都内で記者会見しました。会見で藤山さんは、「アジアの独立という使命感から現地に残って戦いました。われわれがどのように生き、どのように戦ったかを知ってほしい」と話しました。また、宮原さんは「インドネシアの大統領から独立戦争の英雄として勲章もいただき、日本人として誇りに思っています。数奇な運命でしたが、今は幸せです」と話していました。インドネシアでは、1945年の太平洋戦争終結直後からオランダとの間で4年にわたる独立戦争が起きましたが、記録をまとめた福祉団体によりますと、現地に残った日本兵およそ1000人は独立戦争に参加し、その多くがインドネシアの義勇軍とともに戦死したということです。
【NHK】 09/16 00:22
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by thinkpod | 2005-09-16 18:22
2005年 09月 16日

「カトリーナはヤクザの仕業」 米天気キャスターが発言

 【ロサンゼルス=岡田敏一】大型ハリケーン「カトリーナ」は日本のヤクザが起こしたもので、原爆投下に対する報復が目的だった−。米テレビ局のお天気キャスターがこんな意見を全米の多くのラジオ番組で開陳し、話題を集めている。

 アイダホ州のテレビ局KPVIのキャスター、スコット・スティーブンス氏は、カトリーナについて、「雲の形状から自然に発生したものではない」と断定。先物取引でボロもうけしたヤクザが、ハリケーンや台風を人工的につくり出すため一九七六年に開発されたロシア製機器を購入、米国による原爆投下への報復措置として発生させた−と話した。


 この話がネットを通じて広まり、全米の約四十のラジオ局が同氏にインタビューを申し込む騒ぎに。多くの局がその内容を放送している。


 同氏は産経新聞の電話取材にも応じ、「多くの国や組織が、超音波を利用してハリケーンや台風を人工的につくる最新機器を隠し持っていると確信している。『カトリーナ』の場合、日本のヤクザが起こした可能性が最も高い」と大真面目に話した。


【2005/09/16 大阪夕刊から】
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by thinkpod | 2005-09-16 18:07
2005年 08月 24日

「百人斬り」訴訟棄却

「残念だ」と遺族=本多氏「当然の判決」−百人斬り訴訟

「百人斬(ぎ)り」訴訟で遺族側請求を棄却した判決を受け、原告の旧日本軍将校の遺族側と被告のジャーナリスト本多勝一氏らが23日、東京・霞が関の司法記者クラブで、それぞれ記者会見した。
 遺族の1人は「百人斬りは物理的、理論的にもあり得ないと確信している。判決で『なかった』と明確に示されず、残念だ」と話し、「あり得ない武勇伝を書き続ける本多氏はジャーナリストとして許されるのか。書き得だ」と批判した。
 これに対し、本多氏は「全く当然の判決。もともと歴史上の事実で、疑問の余地はない」と淡々とした表情。「本来、歴史のテーマである問題を裁判に持ち込んだこと自体、南京大虐殺や中国侵略の事実を否定しようとするものだ」と指摘した。 
(時事通信) - 8月23日13時5分更新

「事実なき報道、許すのか」 「百人斬り」訴訟棄却
遺族、父の無念晴らしたい


 「いくら表現の自由があるといっても、あり得ない事実を報道することがジャーナリストとして許されるのか」。「百人斬り」の責任を問われて処刑された向井敏明少尉の二女、田所千恵子さん(64)=千葉県成田市=は二十三日、謝罪広告掲載などの請求が棄却された判決後の会見で、憤りを語った。

 田所さんは会見で「『百人斬り』はなかったと確信している。明確にされなかったことが残念」と苦渋の表情。ただ「多くの激励でここまできた。感謝です」と前向きな姿勢をみせた。

 田所さんは、父の遺言状を持参して判決に臨んだ。「私の事は世界も正しく見てくれる日も来ます。世間様にも正しく知らせて下さい」−。中国の獄中から家族にあてられたもので、B4判のわら半紙に十五枚、家族への思いがつづられている。「父の願いを果たすことができず残念です」と唇をかんだ。

 田所さんは中学時代に「戦犯の子」と呼ばれるなど、苦痛を受けてきた。ただ、「百人斬り」もいつかは忘れ去られるだろうという淡い期待があった。

 だが昭和四十六年、本多勝一氏が朝日新聞の連載で紹介すると、定期的にメディアなどで取り上げられるように。百人斬りを事実とする出版物も刊行され、「史実」として授業に取り上げる学校も出てきたという。

 消え去るどころか、ますますクローズアップされる父の汚名。「職場でも、みんな腫れ物に触るように私に接するようになった」。そんな中、無念を晴らすのが娘の使命だと思い、今回の訴訟に踏み切った。

 判決では主張が認められなかったが、「まだ先がある」と気を取り直す。「日本が戦時中に中国で行ったとされる“蛮行”がどれほど間違いなのか、明らかにしなくては」。訴訟でも控訴する方針で、父の汚名をはらすつもりだ。

≪同僚カメラマン「作り話」を証言 疑問残る事実認定≫

 南京攻略の際に二人の旧日本陸軍将校が「百人斬り」を競ったとする報道が争われた訴訟で、東京地裁の判決は、「当時の記述が明白に虚偽とはいえない」としたが、「百人斬り」が極めて疑わしいことは多くの識者が指摘してきた。

 南京攻略戦は銃撃戦が主で、日本刀による“殺人ゲーム”は起こり得なかったとされる。また、野田毅少尉は大隊副官、向井敏明少尉は歩兵砲小隊長で、白兵戦に参加することはあり得ず、日本刀で百人斬ることも不可能とされている。

 両少尉は戦後の南京軍事法廷にかけられ、一貫して無実を訴えた。両少尉の弁護を行った中国人弁護士は、東京日日新聞記者が「この記事は、記者が実際に目撃したものではない」と明言していることや、その他の目撃者、遺体などの証拠が皆無であることを主張したが、法廷は新聞記事を唯一の証拠に銃殺刑を言い渡した。

 これに疑問を持ったノンフィクション作家の鈴木明氏は「『南京大虐殺』のまぼろし」で克明な検証の結果、冤罪(えんざい)を指摘し、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

 記事を書いた東京日日新聞の記者は死去したが、同僚カメラマンは産経新聞の取材などに「あれは戦意高揚のための作り話だった」と明らかにし、今回の訴訟でも高齢をおして同様の証言を行っている。
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by thinkpod | 2005-08-24 01:24
2005年 08月 23日

平沼赳夫 国会提言

真の改革と国民のための政治を  ( 2005/08/17 )

■選挙とは自分の政策・信念を有権者に問うべきもの
先日、院議をもって在職25年の表彰をいただきましたが、私はこう見えて、選挙では結構苦労いたしました。二回落選し三度目の挑戦でようやく旧岡山1区から当選させていただきました。私は今から約30年前、衆院選初挑戦の落選から今日まで一貫して「自主憲法制定(憲法改正)」を政治信条・選挙公約に掲げて参りました。
当時は「平沼は右翼だ」「平沼が当選すれば日本は戦争への道をたどる」などと散々批判されました。支援者の方からは、落選中も当選後も「憲法改正や教育では票にならないから言わないほうが良い」と忠告されましたが、私が政治家を志した信念の原点をはずすことは出来ませんでした。
その後も消費税導入のときも間接税が我が国の将来設計には必要との観点から「導入やむなし」と公約に述べさせていただきました。小選挙区制導入論議の際には「政治改革イコール選挙区改革(小選挙区制導入)ではなく、政治腐敗防止の徹底であるはずだ」との信念を曲げなかったため守旧派というレッテルを頂戴いたしました。
いずれのときも選挙で得票が減りました。しかし私は政治家として、自分自身に対しても国民有権者に対しても嘘はつけません。
選挙とは自分の政策・信念を有権者に問うべきものであるはずです。批判を受けそうな政策に触れず、時の権力者や世論の流れに迎合し、言葉だけの派手なパフォーマンスで票になりそうなことだけを言っていればよいのでしょうけれども、信念を曲げ、嘘や方便を並べて当選を第一とすることは私には出来ません。こんな頑固な候補者ですから、地元の後援会や支援者の皆様には大変ご苦労をおかけいたしております。今日まで私をお育ていただき、お支えいただいている皆様に心からの感謝を申し上げます。

■看板や字面ではなく、真に国民の利益になる「改革」を
郵政改革の推進自体には賛同しています。公務員制度の抜本改革、天下りの禁止の徹底なども含めて改革は推進しなければなりません。ただ今回の政府提出「法案」は公社化2年目の折り返し点で、党内議論・国民議論も成熟しておらず余りにも拙速であること、法案の内容も地方の切捨てに繋がりかねず、また「分社化・株式会社化」によって貴重な国民金融資産の外資流出の恐れがあり、より慎重審議を積み重ねるべきであるという考えから、現時点では到底容認できるものではなく、採決の際に反対票を投じました。
竹中平蔵氏が中心になって作成された郵政民営法案の内容が、米国から日本政府に提示される「年次改革要求書」に準拠し、分社化・株式会社化によって外国資本(ヘッジファンド)に金融資産が取得・買収しやすいものとなっていることが最大の懸念です。日本の将来のためにこそ使われるべき資産や利益が外資に吸い上げられる危険性に対して、きちんとした防衛策が必要です。改革は進めなければなりませんが、内容に関係なく取り敢えず通せばよいというのでは余りにも無責任です。国の方針や法律はゲームのように簡単にリセット出来るものではありません。だからこそ危惧される点をひとつひとつ吟味し成案を得るべきだと主張しているのです。改革とは「看板」だけではなく、真に国民の利益になる内容こそが重要です。

■言論や表現の自由を脅かす「人権擁護法案」には断固反対
公明党が強く求めている「人権擁護法案」は、郵政法案と同様の党内議論を無視した強権的な手法で国会提出・採決が強行されようとしていました。この法案は、「人権侵害」の定義が曖昧であり、拡大解釈が可能で歯止めがありません。また人権委員に令状なしで立ち入り捜索や押収などの強力な調査権を与え、委員に「国籍条項」を設けることも拒否し、強力なメディア規制法を備えており「人権特高警察設置法」「言論統制法」とも言うべき、国民生活や言論・表現の自由に根底から影響を与えかねない危険性と問題を持っている法案です。そしてこの法案は安易な外国人参政権付与へと繋がる可能性があります。この法案内容について国民に提示することもせず、法務部会における議論の一方的な打ち切りをはじめ、修正案の拒否、強引に執行部一任を取り付け国会提出をはかろうとしたことなど、この法案の内容や自民党内の強引な動きについて、全てのメディアが全くといっていいほど報道しないという異常な状況がありました。これは危機的状況です。普通に生活している人々の人権が守られる、安心できる社会の実現こそが真の人権擁護であると考え、余りにも問題が多い法務省「人権擁護法案」・民主党「人権侵害救済法案」にはこれからも断固反対して参ります。

■「議論」の否定は、民主主義の「死」
郵政法案と人権擁護法案は表裏一体、二つの法案は「セット」と申しても良いものです。性急で強引な進め方も双子のように似ています。ひとつはアメリカの注文、ひとつは公明党の注文、いずれも原案通りに進めることが注文先の希望と利益になることですから、修正・変更には応じず、内容の吟味や議論の打ち切りを行い、何が何でも可決を目指そうとする姿勢に繋がります。しかし郵政法案に関して自民党内で衆議院において大量51名の法案内容の慎重審議を求めるが議員が出て、僅か5票差での通過という事態になり、参院での審議を前に人権擁護法案の国会提出は更なる波乱要因となることから今国会提出は見送られました。
「改革」「人権」いずれも大切なことでありますが、看板や字面よりも重要なのは「法案の内容」です。郵政法案も、人権擁護法案も、内容についての危険性や問題点について吟味し、国民の不利益にならないものにしようとするための議論そのものを否定・封殺する現在の状況に、大変大きな危機感を抱いています。議論を否定しては民主主義とは言えません。

私は参議院で、郵政法案が可決否決にかかわらず、衆議院の解散が行われるものと覚悟いたしておりました。
それは小泉総理と党執行部・公明党が、郵政民営化法案の修正なしの再提出・可決と、人権擁護法案の提出・可決を期している以上、慎重審議派の排除は急務であるからです。
現に今や改革推進に反対している訳でもない「慎重審議論」は、「反対派」「抵抗勢力」とのレッテルを張られ、非公認とされ、マスコミからも批判的な扱いをされています。
私は自由民主党が、他国や他党の利益や要求を優先するのではなく、日本国の国益そして日本国民のための政策実現に向けて、党内で侃々諤々の議論を積み重ねてゆくまっとうな姿に一刻も早く目覚め、立ち戻っていただきたいと心から願っています。
自民党が真に国民が安心できる保守政策を訴えて選挙に臨むことこそが、他党との選挙協力に依存しなければ選挙に勝てないという呪縛から解き放たれ、国民有権者の信頼を回復する唯一のまっとうで正しい道であると信じます。

■まっとうな政治で、まっとうな日本を創る
もとより日本が抱えている重要課題は郵政民営化だけではありません。
何よりも国益を守り、日本国の伝統や文化、日本国民の生命、財産、主権、教育を日本自身の手で守ること、国民の安全・安心を保証することこそが日本国政府、そして政治に携わるものの責務であるはずです。
国民の安心・安全の確保を最優先にする国家運営とそのための政策課題の優先付けを徹底することにより、真に日本にとって大切な課題に全力で取り組んで参る必要があると考えます。
また北朝鮮拉致被害者の救出のためにも、一刻も早く経済制裁の発動を行い、国家として日本と日本人に対するテロや不当な行為は断固許さないという意思を明確にし、決然とした行動を起こすべきです。
ひたすら郵政民営化に狂奔し、その影で国民の目から隠すようにして人権擁護法成立を画策している小泉政権下において後回しにされてしまっている国家的な命題、ようやく端緒についた自民党の党是でもある憲法改正、教育基本法改正、年金をはじめとする社会福祉政策、安全保障問題、地方の活性化、北朝鮮拉致問題や繰り返される領海侵犯や不当に踏みにじられている日本の主権や日本人の生命に係わる外交課題の解決、安心して生活できる治安の回復、日本経済の中核である中小企業対策を中心とした地に足がついた景気回復などに早急に取り組み、国民全てが心を一つにして、まっとうな日本を創るために全力を傾注することが重要です。
これら憲法や教育基本法改正など国の根幹を左右する肝心要の政策が、公明党との考え方の違いによって制約を受け、自民党の独立独歩が失われているとするならば、今こそ謙虚に連立そのものを見直す必要があると考えます。

奇をてらわない堂々と落ち着きを持った、まっとうな視線を持ち、すさんだ心を整地して情感豊かな日本を取り戻さねばなりません。

まっとうな真正自民党の再建と、祖国日本と愛する郷土の確かな未来のために、私はあきらめることなく全力で取り組んで参ります。
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by thinkpod | 2005-08-23 18:23
2005年 08月 02日

【戦後60年 歴史の自縛】

(1)内閣改造直後に突然「村山談話」
少数で決めた「侵略」の謝罪

 戦後、六十回目の八月十五日がやってくる。「一億総懺悔(ざんげ)」から出発した日本人の戦争への反省は、いつしか謝罪へと変わった。だが、中国と韓国は、歴史認識問題を対日カードとして使い続けている。終わりなき「謝罪」はどのようにして始まったのか。戦後六十年、日本を自縛してきた「亡霊」の正体を検証する。
                  ◆◇◆

 四月十七日。元首相、村山富市は京都御所内に完成した京都迎賓館の完成披露式典で、首相の小泉純一郎と顔を合わせた。

 「インドネシアでAA会議(アジア・アフリカ首脳会議)があるので、今、『村山談話』を読んでいるところです」

 にこやかに声をかけてきた小泉に、村山は「ああ、そうですか」とだけ答えた。村山には、小泉の靖国神社参拝で日中関係が悪化しているとの思いはあったが、あえて口にはしなかった。

 五日後、小泉はAA会議で「村山談話」を引用して頭を下げ、多くの首脳を驚かせた。

 四月、中国全土で反日デモの嵐が吹き荒れた。国家主席、胡錦濤との日中首脳会談を前に、先の大戦について「痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ち」を盛り込んだ村山談話を踏襲する姿勢を明確にすることで、日中関係改善のきっかけをつかみたいとの思惑が、小泉にはあった。

 だが、AA会議翌日の首脳会談で、胡は、反日デモによる被害への謝罪はせず、逆に「歴史を正しく認識し対処するために、反省を実際の行動に移してほしい」と靖国神社参拝中止を求めた。先の大戦への謝罪を明確にした村山談話は何の効き目もなかった。

 平成七年八月十五日、村山はアジア諸国に向け日本の「侵略」と植民地支配に関する痛切な反省と謝罪を柱とした首相談話を発表した。

 この二年前の八月十日、朝日新聞記者出身の細川護煕は首相就任後、初の記者会見で、日本の戦いを「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」と発言、遺族会などから激しい反発を受けた。細川以前の自民党政権は、戦時中の日本の行為について「深い反省と遺憾の意」を表明しても「お詫び」という表現は注意深く避け、欧米によるアジアの植民地支配に終わりを告げさせた側面をも否定する「侵略戦争」という用語は決して使わなかったからだ。

 熊本の旧陸軍教育隊で終戦を迎えた村山は、平成六年六月、自民、社会、さきがけ三党連立政権の首相に就任した直後から、「アジア各国に対する過去の清算」を「内閣に課せられた歴史的役割」と考えていた。

 「『戦後』は終わるもんか。一応のけじめをつけようという程度の話じゃ。戦後がこれで終わるなんておこがましいことは言わんよ」

 今年、八十一歳の村山は、大分市内の自宅で当時の心境をこう語る。

 談話発表まで村山と官房長官、故・野坂浩賢は周到に作戦を練った。日米安保条約堅持と自衛隊容認に踏み切り、支持層が離れた社会党にとって戦時中の日本の行為を非難する「五十年談話」は“社会党政権らしさ”を示す譲れぬ一線だった。

 七年六月、連立政権発足時の約束だった「謝罪・不戦」を柱とした戦後五十年国会決議が衆院本会議で採択されたが、自民党から大量の欠席者が出た。この轍(てつ)を踏まず、「植民地支配と侵略」の文言を盛り込むにはどうすればいいか。野坂は決意を秘めていた。

 「異議を申し立てる閣僚がいれば、内閣の方針に合わないということで即刻、罷免するつもりでいた」(野坂著「政権と変革」)

 八月十五日午前。閣議室の楕円(だえん)形のテーブルに着席した閣僚を前に、野坂は「副長官が談話を読み上げますので謹んで聞いてください」と宣言した。古川貞二郎は下腹に力を入れて読み上げ、閣議室は水を打ったように静まり返った。野坂が、「意見のある方は言ってください」と二度、発言を促したが、誰も発言しなかった。

 総務庁長官、江藤隆美は「閣議で突然、首相談話が出てきて仰天した。(反対と)言っても始まらないと思って黙っとった」と振り返る。

 内閣改造から一週間しかたっていなかったことも村山に幸いした。

 運輸相として初入閣した平沼赳夫は、「事前の相談はまったくなく、唐突に出た。社会党出身とはいえ、何でこんなの出すのかな、と思った」と話す。「ちょっと問題のある文章だなと思ったが、あえて発言しなかった。今思えば率直に思ったことを言っておけばよかった」と悔やむ。

 こうして談話は異議なく閣議決定され、村山自身が記者会見して発表した。だが、記者の「『国策を誤った』政権とは具体的にどの政権を指すのか」という問いに村山は答えられなかった。談話は有識者による議論も経ず、ごく少数の政治家と官僚がかかわっただけで、歴史認識を内閣あげて討議して練り上げたものではなかったからだ。

                   ◇

≪中韓へ正当性与える結果に≫

 ◆「東京裁判史観を基に個人的な思い」

 村山談話について村山は、「みなさんと相談してつくった」と強調する。だが、実情は違う。

 当時、内閣副参事官として談話の原案を起草した民主党参院議員の松井孝治は、「政策的に思い切ったアイデアを企画する場合、官邸スタッフが『少数ならでは』の思わぬ効果を上げる場合がある」とした上で、「首相側近の大物官僚が村山の意向をくみとり、週末に親しい学者と相談して書き上げた」とごく少数の官邸スタッフが携わり、極秘裏に案文づくりが進んだことを認めている。

 大物官僚とは、内閣外政審議室長(現・内閣官房副長官補)で、後に駐中国大使となった谷野作太郎だ。

 谷野は、「(アジア諸国の人々に対し多大の損害と苦痛を与えたという)歴史の基本的ラインを曲げてはいけない、開き直ってはいけないと思った」と証言する。ただし、中国や韓国が「謝罪が十分ではない」と批判していることについては「謝罪は十分したし、卑屈になる必要はない」と語った。

 松井はこう振り返る。

 「自分が起草した文章が谷野さんに直されてガラリと変わった。賛否両論はあるが、『国策を誤り』などという表現は胆力がなければ書けないし、味も素っ気もない“官庁文学”では作成し得ない出来栄えだ」

 自民党で事前に案文を見せられたのは、通産相の橋本龍太郎、野中広務らごく一部。橋本は「『終戦』を『敗戦』にすべきだ」とアドバイスしただけだった。

 自社さ政権下で生まれた村山談話を、明星大学教授の高橋史朗(占領史研究)は、「明らかに『東京裁判史観』に基づくものだ」と批判する。「植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」とする部分は、東京裁判の論理に合致すると分析。高橋は「東京裁判史観は、戦前の日本の歴史を抹殺しようとした連合国軍総司令部(GHQ)とマルクス主義歴史学者たちの合作。その延長線上に村山談話がある」と指摘する。

                   ◇

 村山談話の反響は大きかった。英BBCは「日本の首相が侵略におわび」とトップニュースで伝え、ニューヨーク・タイムズも一面トップで報じた。だが、村山が期待した中国、韓国の反応は「今後の日本の態度に注目する」といった冷淡なものだった。

 逆に、村山談話はその後の日本外交に大きな足かせとなった。当時の官房副長官、古川貞二郎は「過去だけでなく未来志向にも重点を置いたもので、その後の政権の基調となっている」と評価するが、「未来志向」は日本の片思いに終わった。

 村山談話によって日本が「侵略」を認めたとされ、中国、韓国の歴史認識カードに都合の良い「正当性」を与える結果を招いた。

 今年三月一日、韓国・ソウル市内で開かれた「三・一抗日運動」の記念式典。大統領の盧武鉉は、村山談話の「痛切な反省と謝罪」を引用、韓国政府が対日賠償請求権を放棄した昭和四十年の日韓基本条約を覆すかのように、「(日本は)賠償すべきは賠償しなければならない」と発言した。

 当時の外務官僚の一部が懸念していた「戦後補償問題はすでに解決済みなのに、個人的な思いだけで首相が謝罪すれば、補償問題が再燃しかねない」との指摘が現実のものとなった。

 それでも村山は言う。

 「『あんな談話を出したからいつまでも謝らなければいけない』という者があるかもしれんけどな、それは言う人の勝手じゃ。談話は読めば分かる。それ以外の何ものでもない。僕自身は誤ったことをしたとは思っていない。あれで良かったと思っている」(肩書は当時。敬称略)

                  ◇

 ■天皇陛下は「謝罪」に踏み込まず

 天皇陛下は平成四年、中国をご訪問された際、「わが国が中国国民に多大の苦難を与えた一時期」という踏み込んだ表現をされた。

 昭和五十三年、中国のトウ小平副首相が来日した際、昭和天皇は「一時、不幸な出来事もありました」と述べられたが、中国側は反発を示さなかった。中ソ対立が続いていた当時の世界情勢も大きく影響しており、冷戦崩壊後の平成四年の天皇陛下のお言葉とはニュアンスが大きく異なる。

 ただ、強い遺憾の意を表明しつつも直接的な謝罪の表現を避けたのは、天皇陛下のご訪中が国内の慎重論を押し切った上で実現した経緯から、「陛下にご負担をおかけしてはいけない」(宮沢喜一首相)という日本政府の方針があったからだ。
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by thinkpod | 2005-08-02 02:56
2005年 07月 24日

沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損

 先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことが二十三日分かった。

 訴えを起こすのは、沖縄戦で座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長を務めた梅沢裕・元少佐(88)と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)。

 訴えられるのは、『沖縄ノート』(岩波新書)の著者の大江氏と、他にも故家永三郎氏の『太平洋戦争』(岩波現代文庫)、故中野好夫氏らの『沖縄問題20年』(岩波新書)などを出している岩波書店。

 訴状などによると、米軍が沖縄の渡嘉敷島と座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。

 沖縄戦の集団自決をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

 疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。

 その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。

平成17(2005)年7月24日[日]Sankei Web
沖縄戦集団自決「軍命令」…出版物・教科書で独り歩き






悪意の幻想 〜 沖縄戦「住民自決命令」の神話

「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要した」との神話が崩されつつある。
■ H18.11.19

■1.日本軍が『集団自決』を強要!?■

「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要した」との
「説」に関して、いま裁判が行われている。この「説」は高校
や中学の教科書にも登場する。[1,p336]

 犠牲者のなかには慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本
軍によって『集団自決』を強要された住民や虐殺された住
民も含まれており・・・(三省堂の高校日本史A)

 軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集
団的な自殺を強制した(日本書籍新社の中学社会)

 裁判というのは、集団自決が起こったとされる座間味島の守
備隊長だった梅澤裕・元少佐と、渡嘉敷村の守備隊長だった故
・赤松嘉次元大尉の弟・赤松秀一さんが原告となり、『沖縄ノ
ート』などで長らくこの説を流布してきた大江健三郎氏と岩波
書店に対して、出版停止と謝罪広告、慰謝料2千万円を求めた
ものだ。

■2.遺族援護のために「命令を出したことにしてほしい」■

 判決はこれからだが、この「説」が事実でないことを示す決
定的な証言がすでに出ている。

 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島
で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人
・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)
=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病
者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令とい
うことにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とす
る住民は1人もいなかった」と証言した。・・・

 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となって
いたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱
いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていし
ん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)
に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同
意を得たという。・・・

 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さ
なければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるた
びに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。[2]

■3.「全島民、自決せよ」■

「自決命令神話」を最初に世に広めたのは、昭和25年8月に
沖縄タイムス社から出版された『鉄の暴風』である。この本で
は、当時の状況を次のように描写している。

 昭和20年3月26日、米軍の一部が渡嘉敷島の海岸数カ所
から上陸を始めた。赤松大尉率いる守備軍は、渡嘉敷島の西北
端の西山A高地に移動した。

 ・・・移動完了とともに、赤松大尉は、島の駐在巡査を
通じて、部落民に対し、『住民は捕虜になる怖れがある。
軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集
結せよ』と命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉
の伝言として、『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕し
よう』ということも駐在巡査から伝えられた。・・・

 住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、
大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大
尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入る
べからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。
・・・

 二十八日には、恩納河原付近(JOG注:西山A高地の一帯)
に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松から
もたらされた。

『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の
必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍
に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。

 住民には自決用として32発の手榴弾が渡されていたが、こ
の時さらに20発増加された。住民たちは各親族どうしが一塊
になって、その中心で手榴弾を爆発させた。

 手榴弾はあちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、
次々と谷間に、こだました。瞬時にして----男、女、老人、
子供、嬰児----の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光
景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いに棍棒
で、うち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親
しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、
あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納
河原の谷水は、ために血にそまっていた。[1,p51]

■4.「最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」■

 作家の曽野綾子氏は渡嘉敷島に渡り、当時の状況を直接見聞
した人たちの証言を丹念に集めた。

 上の引用で、赤松大尉から自決命令を伝えたとされる「島の
駐在巡査」安里喜順氏は、赤松大尉に部落民をどうするか相談
にいった時のことをこう語っている。

 そうしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところ
は、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは
非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きて
くれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、
部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということ
だったです。

 しかし今は、砲煙弾雨の中で、部隊も今から陣地構築す
るところだし、何が何だかわからないまま、せっぱつまっ
た緊急事態のときですから、そうとしか処置できなかった
わけです。[1,p145]

『鉄の暴風』が言うような安全な「壕」など存在しなかった。
部隊は米軍の「砲煙弾雨」の下で、穴一つなく「今から陣地構
築する」という状況だったのである。

 そんな状態の部隊に、住民が混じれば、一緒に攻撃を受ける
ので、かえって危険である。少なくとも住民が部隊と離れて避
難していれば、米軍が非戦闘員への攻撃を禁じた戦時国際法に
従う限りは、かえって安全だ。赤松大尉の判断は軍人として適
切だった。

 恩納河原には、住民達がいざという場合のために作った避難
小屋があった。住民たちはそこに逃げ込んだ。

 しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集
心理で半狂乱になっていますからね。恐怖にかられて・・
・・この戦争に遭った人でないと、(この恐怖は)わから
んでしょう。[1,p147]

 その混乱の中で悲劇は起こった。

■5.「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」■

 曽野氏が赤松元大尉に、「自決命令は出さないとおっしゃっ
ても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が
死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね」と問うと、
赤松・元大尉はこう答えた。

 手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵(JOG注:
部隊に招集された地元民の成年男子)には、これは正規軍
ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやら
れて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したの
です。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいて
いない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだっ
たと思います。[1,p153]

 村民達が自決を始めたなかに4人の女性がいた。手榴弾が不
発で死ねなかったので(多くの村民は手榴弾の扱い方を知らな
かった)、「敵に突っ込もう」と、4人は部隊の本部に行った。
彼女たちは曽野氏にこう語っている。

A 私は行ったわけですよ、本部に。赤松隊長に会いに。
B 本部のとこに、突っ込みに行ったから「何であんた方、
早まったことをしたなあ」
C 「誰が命令したねえ」
D 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」
と言った。[1,p172]

 これが集団自決を知った赤松隊長の反応であった。4人はこ
の赤松隊長の言葉で気を取り直し、米軍の砲撃下を他の人びと
とともに避難して、無事生き延びたのである。

■6.「何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい」■

 曽野氏が当時の多くの体験者から集めた証言から浮かび上がっ
てくる赤松隊長像は、『鉄の暴風』に描かれた全住民に自決命
令を下す悪魔的な人物とはほど遠い。

 古波蔵・元村長はこう語っている。

 (事件から)一週間経って軍陣地から恩納河原へ帰った
時は状況は安定していました。その頃からもう、衛生兵が
来ましてね。いろいろ治療もしてくれました。[1,p142]

 治療をした若山・元衛生軍曹は、それを赤松隊長と軍医から
の命令であった、と断言している。

 また女子青年団長だった古波蔵蓉子さんの証言では:

 私は(JOG注:終戦間近の)7月12日に、赤松さんのと
ころへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことある
んですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒ら
れて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさ
いと言って戻された。[1,p270]

 この古波蔵蓉子さんたちも、衛生兵が治療した人々も、そし
て前節の4人の女性も、赤松大尉によって救われた人々である。
こうした証言を読めば、赤松大尉は自決命令どころか、地元住
民たちになんとか戦火の下で生き延びて貰いたいと、心底から
願っていた事が判る。

 それにしても『鉄の暴風』は何を根拠に、いかにも見てきた
ように正反対の赤松大尉像を描いたのか。曽根氏は著者の太田
良弘氏に会って、太田氏は渡嘉敷島に行っていないこと、証言
者二人に那覇まで来て貰って取材した事を聞き出している。

 この二人は渡嘉敷島の隣の座間味という島の助役と南方から
の帰還兵であった。助役の方は座間味での集団自決は目撃して
いたが、渡嘉敷島での事件は、人から聞いたのみであった。ま
た帰還兵は、事件当時まだ南方におり、当然、事件を直接目撃
していない[1,p63]。

 太田良弘氏はこの二人が周囲から聞き込んだ内容を又聞きし
て、想像を膨らませて、この「文学作品」を書いたのである。

■7.「もし本当のことを言ったらどうなるのか」■

 昭和45年3月26日、赤松元大尉と生き残りの旧軍人、遺
族十数名が、渡嘉敷島で行われる「25周年忌慰霊祭」に出席
しようと那覇空港に降り立った。

 空港エプロンには「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤
松来県反対」の横断幕が張り出され、「赤松帰れ! 人殺し帰
れ!」とのシュプレヒコールがあがった。「何しに来たんだよ!」
と激高した人々に取り囲まれて、直立不動の赤松元大尉は
「25年になり、英霊をとむらいに来ました」と答えた。

 結局、赤松元大尉は渡嘉敷島に渡るのを自粛したが、部下達
は慰霊祭に参加し、地元の人々と手を取り合って往事を偲んだ。

 那覇から大阪に帰る前の晩、記者会見が開かれた。その席で
赤松・元大尉の責任を問う記者たちに、部下の一人はこう言っ
た。

 責任というが、もし本当のことを言ったらどうなるのか。
大変なことになるんですヨ。・・・いろいろな人に迷惑が
かかるんだ。言えない。[1,p38]

 冒頭で紹介したように、赤松元大尉が「遺族が援護を受けら
れるよう、自決命令を出したことにして欲しい」と依頼されて
同意した事実が明らかにされたが、赤松元大尉が真相を語らな
かったのは、それによって援護を受け取った遺族たちに迷惑が
かかるからだった。

 遺族たちのために、赤松大尉は「住民自決命令を出した悪魔
のような軍人」という濡れ衣を着せられながら、戦後ずっと弁
明もせずに過ごしてきたのだった。

■8.「悪意の幻想」と闘う裁判■

 赤松・元大尉が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」
と語っていたという新聞記事を読んで、大江健三郎は『沖縄ノ
ート』にこう書いている。

 人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の
巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねが
う。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶に
たすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の
余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力を尽くす。
・・・

 このようなエゴサントリック(JOG注:自己中心的)な希
求につらぬかれた幻想にはとどめがない。「おりがきたら」、
かれはそのような時を待ち受け、そしていまこそ、そのお
りがきたとみなしたのだ。[3,p210]

 さすがはノーベル賞作家である。新聞記事を読み、「おりが
きたら」というたった一言から、自己弁護のために「過去の事
実の改変に力を尽くす」「幻想にはとどめがない」人物として
赤松・元大尉を描いて見せたのだった。しかし、「幻想にはと
どめがない」のは大江氏自身である。

 現地を訪れもせず、直接の体験者の話も聞かず、いかにも見
てきたように赤松元大尉を悪魔的な人物として描いた『鉄の暴
風』と、この大江氏の『沖縄ノート』は、赤松・元大尉を糾弾
することによって、日本軍を、ひいては日本国家を貶めようと
した「悪意の幻想」の産物なのである。

 この「悪意の幻想」から、赤松元大尉と日本軍、そして日本
国家全体の名誉を救い出すために、岩波書店と大江健三郎に対
する裁判が闘われているのである。[4]
(文責:伊勢雅臣)

1. 曽野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』★★★、
ワック、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898315453/japanontheg01-22%22
2. 産経新聞「『軍命令は創作』初証言 渡嘉敷島集団自決 
元琉球政府の照屋昇雄さん」、H18.08.27
3. 大江健三郎『沖縄ノート』★、岩波新書、S45
4. ブログ「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/

http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107939180.html
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by thinkpod | 2005-07-24 04:11
2005年 07月 22日

日本海呼称問題(米議会図書館所蔵の地図に関する調査)

平成17年7月

 外務省は、平成16年12月から平成17年3月にかけて、米議会図書館が所蔵する14世紀から19世紀の間に発行された地図において、日本海海域の名称がどのように表記されているのか調査した。

 その結果、日本海海域に何らかの呼称を当てた地図1435枚のうち77%が「日本海」との呼称を用いていたことが明らかになった。また、今回調査した地図のうち19世紀に発行された地図の82.4%に当たる1059枚において日本海と表記されていることが明らかとなった。特に、19世紀の中でも、日本が鎖国下であった時代に発行された地図563枚のうち、74%に当たる417枚において日本海と表記されていることが明らかとなり、「『日本海』という呼称は、我が国が鎖国下にあって国際的影響力を行使できなかった19世紀初頭から、ヨーロッパにおいて定着してきたものである」という我が国の主張が改めて確認された。

 (注:韓国は、「『日本海』の名称が支配的になったのは20世紀前半の日本の帝国主義、植民地主義の結果である」と主張し、その根拠の一つとして、同図書館における独自の調査の結果、日本海海域を表記した古地図103枚のうち66%に当たる68 枚が「朝鮮海」または「東海」と表記しており、「日本海」と表記した古地図は14%に当たる14枚にすぎないと発表している。)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nihonkai_k/usa/gaiyo.html
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by thinkpod | 2005-07-22 03:46