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2006年 12月 30日

海外で評価される日本の『教育勅語』

月刊中央ジャーナル12月号 

濱口和久の「国を憂い・国を想う」
http://blog.livedoor.jp/kazuhisa431014/archives/2006-12.html#20061226
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『国家の品格』を生み出した家庭教育

 昨年の年間ベストセラー『国家の品格』を書いたお茶の水女
子大学教授・藤原正彦氏が、自ら受けた家庭教育について語っ
ているインタビュー記事がある。[1]

「そもそも先生が受けられた教育はどのようなものだったので
しょうか」という問いに藤原氏はこう答えている。

 私の父と母は全く意見が違うんですね。父は父の祖父、
則ち私の曾祖父に育てられました。曾祖父は江戸の末期に
生まれた武士、といっても足軽ですが、その曽租父から父
は武士道の教育を受けた。その自分の受けた教育を父は私
に教えてくれたんですね。例えば、弱いものがいじめられ
ていたら身を挺してでも助けろ、見て見ぬ振りをしたらそ
れは卑怯だと。それで私は、弱いものいじめの現場に遭遇
したとき、身を躍らせていじめている奴と殴り合いの喧嘩
をしました。そしてそれを家に帰って父に報告すると激賞
してくれました。

 一方、母は、なに正義ぶってるの。そのうちに暴力少年
の札付けられて、ろくな内申書もらえなくなるよと。女性
として地に足のついた現実的な考えですよね。このように、
私は父からは正義や理想、母からは現実主義という二つの
価値観によって育てられました。したがって複眼的思考が
できるようになったことは幸せでした。

 父の故郷の実家の二階には、切腹の間というのがあって、
不名誉なことをしたらそこで切腹しなければならない。そ
ういう環境でしたから私は父に徹底して卑怯とか名誉とか
恥ということについて叩き込まれました。父から卑怯者と
いわれたら、それはもう生きる価値がないということです
からね。武士道というのは定義がありませんから、日常的
に教えてもらった中で身についていくものなんですね。

 父がよく聞かせてくれた話ですが、父の家は上諏訪から
三キロ半くらい山に入ったところにありましたが、あると
きその上諏訪で火事があった。当時七歳だった父は山を降
りてそれを見に行って、焼けぽっくいを拾って帰ってきた
ら、曾祖父が激怒して、「直ちに返して来い」と。それで
夜中に三キロ半歩いて返しにいった。そのとき曾祖父が父
に言ったことは「焼け跡から何かを持ってくるというのは、
最も恥ずべき行為だ。これを火事場泥棒というんだ。あら
ゆる泥棒の中でも最も恥ずかしいんだ」と。地震などの震
災地で略奪行為があるでしょう。人が困り果てているとき
に、その弱みに付け込むというのは卑怯中の卑怯ですね。

 最後の火事場泥棒の部分からは、阪神大震災のときに暴動一
つ起こらず、人々が助け合う姿が、海外の人々に感銘を与えた
事を思い出す[b]。「武士道」の文化的遺伝子は我々の心中に
まだ息づいているという事だろうか。

 最近のいじめや汚職の問題も、その文化的遺伝子を目覚めさ
せて、「卑怯とか名誉とか恥」を感ずる心を育てる所から始め
なければならないのだろう。

「先生は大学で学生に新渡戸稲造の「武士道」を読ませてらっ
しやるとか。反響はいかがですか」との質問にはこう答えられ
ている。

 劇的に変わりますよ、学生の意識が。それまでの教育で、
日本は侵略をした恥ずかしい国だとばかり教わって、日本
人としての自信も誇りもない状態で入学してきた学生たち
ですが、「武士道を読んで随分と変わっていくんですね。
あるいは、戦没学徒の遺書を読ませたりすると、これまた
劇的に変わります。それまでは、特攻隊員なんて天皇陛下
万歳とわけもわからず叫んでいった気の毒な人たちだとあ
る意味で馬鹿にしていたわけですよ。ところが、彼らは出
撃前夜まで、ニーチェを読んだり、万葉集を読んだり、母
親や兄弟姉妹、恋人にすばらしい手紙を遺書として残して
いる。語彙も実に深く選択されて書かれている。それを現
代の学生たちは知って馬鹿者は自分たちだったと気付くわ
けです。圧倒的教養の落差、思いやりの深さの違いに愕然
とするんです。ですから私は若い世代の教育ということに
は希望を持ちたいと思っているのです。

「国家の品格」を備えた「美しい国」を作る道は、わが先人が
すでに切り開いてくれているのである。

■リンク■
a. JOG(430) 「品格ある国家」への道
 日本人が古来からの情緒を取り戻すのは、人類への責務であ
る。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog430.html
b. JOG(020) 阪神大震災
 国民を守ったのは誰か?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog020.html

■参考■
1. 藤原雅彦『武士道と国語教育 後編』、「日本の息吹」H18.3
http://www.naraken.jp/nipponkaigi-nara/ibuki.html

http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/108110323.html






Common Sense: 厳格な躾けで蘇ったアメリカの学校教育

 ブッシュ大統領は「われわれは進むべき道
を知っている」と教育再生を呼びかけた。


■1.対照的な学校風景■

 ある中学校教師が長期自主研修制度を用いて、アメリカの多
くの小中学校を訪問した。その感想を次のように記している。

 アメリカの公立学校の整然としている様子には、先々で
大変感銘を受けました。小中学校を中心に多くの学校訪問
を行いましたが、先生方が声をはりあげて指導される場面
がまったくありません。また、生徒たちが廊下を走り回っ
たり、大声で騒いだりする様子も見受けられません。小学
校一年生でさえ、先生の引率無しで静かに廊下に並んでカ
フェテリアまで移動します。集団で安全に行動する方法が
よく身に付いており、それがごく当たり前で普通のことと
して馴染んでいる様子に驚きました。[1,p32]

 これと著しい対照をなすのが、平成10年に広島県福山市の
中学校教諭・佐藤泰典氏が国会で語った学級崩壊の実態である。

 始業のチャイムが鳴って教員が教室に行った時、生徒は
ほとんど席についておりません。その生徒たちを教室に入
れて席につかせるのに五分から十分ぐらいかかります。やっ
との思いで授業を始めても、教室の窓から抜け出したり、
もっとひどい時は、廊下を自転車で二人乗りして、「イエ
ーイ」と声をあげながら手を振って他の先生や生徒をから
かったりという状態です。 教室に残った生徒も後ろの方
でボール遊びをしたり、机の上に足を上げてマンガを読ん
でいます。[a]

 教育は子供たち自身の将来、そして国家百年の計に関わる重
要事である。後者のような学級で育った子供は自分勝手な人間
となって、将来の人生を台無しにされ、また国家社会の法秩序
を崩壊させて、国民全体を不幸にする。これ以上の「人権侵害」
はない。

■2.アメリカの教育崩壊■

 アメリカの教育も、1960年代には、この広島の例のように崩
壊の極みにあった。極端な人権主張、反体制・反伝統の風潮が
アメリカ社会を覆い、若者の反抗、麻薬の蔓延、離婚の増加、
フリーセックスなどが蔓延していった。

 教育界においても、一部の急進的な学者たちが「教育の人間
化」を主張した。「学校でのルールの押しつけはいけない」
「生徒への寛容さ(トレランス)が大切」などと、教師の権威
や学校の管理体制を攻撃した。その結果、規律は崩壊し、暴力、
麻薬、アルコール、タバコ、喧嘩、いじめ、教師への反抗が広
がった。学校はまさに「病めるアメリカ」の縮図となっていた。

 こうした状態を国家的危機と捉えて、レーガン政権は1983年
にレポート『危機に立つ国家』を発行して、教育改革を訴えた。
[a]

 続くブッシュ大統領(現ブッシュ大統領の父親)は「国家教
育目標」を宣言した。その第6項には「安全で、規律ある、麻
薬のない」学校づくりを挙げた。翌91年には「アメリカ2000教
育戦略」を示した。その本文にはこう謳われている。

 われわれは進むべき道を知っている。過去の疲れ果てた
うんざりする、古い流行遅れの教育仮説からの脱却を広範
囲に図らなければならない。

「古い流行遅れの教育仮説」とは、60年代の「教育の人間化」
の思想を指す。それは現実に適用されて効果を実証されたもの
ではなく、急進的な教育思想家たちが机上で考え出した「仮説」
に過ぎないのである[b]。そして「われわれは進むべき道を知っ
ている」とは、アメリカでの伝統的な教育への回帰を意味して
いる。

■3.「ゼロトレランス」(厳格教育)■

 こうした政府の呼びかけに呼応して、教育現場で立ち上がっ
た人々がいた。ワシントン州タコマ市のフォス高校の教師たち
である。フォス高校の学区でも、生徒の犯罪や暴力事件が慢性
化し、高校生による暴力事件(殺人を含む)は1989年に132
件、翌年は195件に達していた。

 1991年秋、フォス高校は暴力問題を早急に解決するという声
明を出し、そのために学校内規律綱領規則の整備強化を行った。
全教職員がこれに賛同した。

 その上で生徒たちには「もし、君が喧嘩をするならば、除籍
されるであろう」と宣言した。その結果、1992年には、喧嘩は
12件へと激減した。翌年にはさらに厳しく「喧嘩をすれば必
ず放校にする」と宣言したところ、ただの3件となった。

 フォス高校は、コミュニティと協力して「ゼロトレランス地
域」を宣言し、秩序と安全の確保を謳った。前述のようにトレ
ランスとは「寛容」で、それがゼロということは、ルール違反
を見逃さない厳格教育というところであろう。

 フォス高校のゼロトレランス方式の成功は、全米に伝わり、
各地に広まっていった。ブッシュ大統領の後を継いだクリント
ン大統領は、97年には教育に関する「クリントン大統領の呼び
かけ」を発し、その中で「規則を整備し、ゼロトレランス方式
を確立すべきである」と呼びかけた。

■4.「段階的躾け(progressive discipline)」■

 ゼロトレランス方式が全米に急速に広がるにつれ、暴力や麻
薬などの犯罪的な問題行動は急速に沈静化していった。それに
つれて、ゼロトレランスの概念は、欠席・遅刻、怠学、授業中
の態度など、日常的な規律立て直しにも拡大されていった。

 ごく小さな規律違反にも、教師は直ちに注意を与え、あるい
はごく軽い罰を与えて、問題の芽を小さなうちに摘み取ってし
まおうとする「段階的躾け(progressive discipline)」という
考え方である。逆に良い行いをすると、誉められたり、ご褒美
を与えられたりする。

 たとえば、小学校で一般的な指導方法は次のようなものだ。
生徒が授業中におしゃべりをしたり、宿題をやってこなかった
ら、教師から注意を受ける。逆にゴミを拾って教室をきれいに
したり、友達に親切にしたら、担任の先生から褒められ、特に
良い行いに対しては、全校の朝の放送で表彰され、ご褒美が与
えられる。

 生徒には一人一人行動記録カードを持たせ、褒められたり叱
られたりしたら、記録させる。各人毎の善悪の集計が行われ、
これが行動評価一覧表として掲示板に貼り出される。誰が「善
い子」か「悪い子」か、一目瞭然となる。子供達は競って「善
い子」になろうとする。特に「悪い子」は、教師が父母を呼び
出して、反省を促す。

 破れた窓を放っておくと、また次の窓が破られ、それが徐々
に拡大し、ついに街全体が荒廃する、という「破れ窓の理論」
があるが、これを教育現場に適用したのが「段階的躾け」であ
る。

■5.お仕置き■

 中学や高校になると、「お仕置き(detention)」が多用され
る。放課後の居残りや土曜日登校による補習、放課後の教室清
掃、校長の横での昼食、などの方法がある。かつての日本でも
廊下に立たせるというやり方があったが、まさに同様の「お仕
置き」である。

 最近では、お仕置き部屋(detention room)を設ける学校が多
い。ブースで仕切られた席があり、遅刻や宿題を忘れた生徒は、
教師の監督のもと、孤独な環境の中で、自分の行為について反
省させられる。戦前の日本でも、悪さをすると土蔵や物置に閉
じこめて反省させる、というお仕置きが行われたが、その近代
版と言える。

 こうしたお仕置きでもなかなか立ち直らない問題生徒は、オ
ルタナティブ(代替)・スクールという各教育管区内に設置さ
れている特別指導用の学校に送られる。手のつけられない問題
生徒を正規の学校に放置しておくと、大多数の善良な生徒たち
の規律正しい教育環境を乱すし、また、こうした問題生徒は、
別の環境で立ち直らせる必要がある、という考えからである。

 また不登校や引きこもりの生徒も、オルタナティブ・スクー
ルに強制的に出校させて、専門家の指導も加えて立ち直らせる。
ちなみに、不登校は親の責任という考え方があり、たとえばテ
キサス州では、一日の不登校に対して保護者に500ドル、約
6万円の罰金を課す。

 最近では、通常の学校に適応できない生徒が、自ら希望して
入学できるオルタナティブ・スクールも増加している。



■9.「われわれは進むべき道を知っている」■

 まずは守るべき規律を教え、「悪いことは悪い」と厳格に守
らせる。そこから子供達は互いにルールを守ることで、気持ち
の良い共同生活が実現されることを体験していく。「人を思い
やる心」は、この過程で育つ。

 今では、生徒たちが小学校や保育園の読み聞かせなどにボラ
ンティアで参加していく、というのは、それこそ人間らしい真
の「自由」の姿である。社会の善悪や規律を学ぶ前に、子供達
に好きなように振る舞えと言ったら、授業中に廊下を自転車で
走り回ったりするような動物的な「放縦」に陥るだけである。

「教育の人間化」というアメリカの急進的教育思想家の夢想は、
こうした児童教育の基本を無視して、アメリカの教育を崩壊さ
せ、無数の青少年たちの人生を台無しにした。日本のゆとり教
育、人権教育も同罪である。ブッシュ大統領の言ったとおり、
日本においても「古い流行遅れの教育仮説からの脱却」が必要
だ。

 そして我が国においても、長い歴史を通じて形成されてきた
躾やお仕置きを含む規律教育の伝統がある。

「われわれは進むべき道を知っている」のである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(131) 学力崩壊が階級社会を招く
 「結果の平等」思想は、貧しい家庭の子どもたちの自己実現
の機会を奪い、愚民として平等化することである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog131.html
b. JOG(442) 「科学から空想へ」 〜 現代日本の教育思想の源流
 「子供の権利」「自己決定権」「個性尊重」など の教育思想
の源泉にある「空想」。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog442.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

1. 加藤十八『ゼロトレランス 規範意識をどう育てるか』★★★、
学事出版、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4761912928/japanontheg01-22%22

http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108735576.html




「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 2月8日(木曜日)  
通巻第1700号 (7日発行) より

(読者の声2)貴誌1699号の読者投書に「アモイ TT生」氏からのご意見がありました。
 たまたま昨年、チャンネル桜の主催で日本_とインドの友好親善の旅にご一緒してきました。その何日目かのパーティーにパール博士の親族の方、確かお孫さんだと思いますがいらしてくださり講演をしてくださいました。
 民間レベルの友好親善の旅でしたが、水島(桜チャンネル社長)さんを応援する200人以上の夫々の分野でご活躍の老若男女がはせ参じて両国間の理解を深めるよい交流会に参加者一同感謝したものでした。
 若い地方から参加者の議員さんや、IT経営者がインドで多くのことを学んで帰国され、日本再建に向けて活躍されている様子に、同行した一人_として水島さんの活躍の意義に思いを致しております。

 さて「アモイ TT」氏の御投稿を拝読させていただきながら、嘗て井深大さんが「戦後、教育勅語を全く排除してしまったことが心の教育を半分無くしてしまった」とお贈りくださった、「後半分の教育」の中で書いておられますが、武士道精神といい、教育勅語といい、何でもかんでもアメリカの言いなりになってきてしまった日本を再建することは、インドに行ったからわかったのですが、アメリカに毒されていないインドに比べたらどんなにか困難なことか暗澹たる思いになったのは私一人ではなかったと思います。
 この度のドキュメント映画「南京の真実」制作発表に対して、この「日本再建」への熱い思いに夥しい人々が応援してくださっていることに深い感動を覚えます。
  (FF生、小平)





「知識の教え惜しみで子どもは栄養不良 安倍政権のゆとり教育見直しを評価する」

今月18日に明らかにされた教育再生会議の第一次報告案は、教育立て直しの力強い一歩となるだろう。安倍晋三首相が力を注いだ教育再生の柱は、「ゆとり教育の見直し」と「教員免許更新制度の導入」である。

かつてゆとり教育を行った米国は、子どもたちの学力低下に驚き、素早く「しっかり教える」方針に切り替えた。米国は荒れる学校および少年犯罪の増加を深刻な警告と受け止め、厳罰主義を取り入れ、制服着用をはじめ道徳教育と生活指導の強化に転じた。反対に日本は、ひたすら教育におけるゆとりと自由拡大路線を突っ走った。その結果、太陽が東から昇ることを知らない小学生が35%、地球が太陽の周りを回るのでなく、太陽が地球の周りを回っていると考える小学生が40%にも達し、信じがたい無知な子どもたちが出現した。が、子どもたちを叱っても意味はない。学校が教えないのであり、文部科学省が教えさせないからである。子どもたちはむしろ犠牲者だ。

現場への指導書、学習指導要領を貫く精神は「教えないこと」といっても過言ではない。このゆとり教育を強力に推進した文科省官僚の寺脇研氏は、その著書『中学生を救う30の方法』(講談社)のなかで、「(ゆとり教育は)中学生にとっては10覚えなければならなかったことが7覚えればよくなるのですから、負担は減ります」と述べている。さらに、授業時間の減少で学力が低下するのは困るなどと心配する親や教師については、「そんな身勝手な言い分なんか、放っておきましょう。つめこみ式の勉強をしなければ合格できないような、高偏差値の大学を受けようという生徒など全体の一割にも満たないのです。そのごく一部の生徒のために、他の大多数の子どもたちを犠牲にしてもかまわないと言ってはばからない大人なんて、身勝手としか言いようがありません」と書いている。

学力の低下を恐れる親や教師は「身勝手」と決めつけられ、学びたいと願う子どもは「全体の一割未満」の“圧倒的少数派”とされてきたのだ。中身がスカスカのゆとり教育の結果、悲しいほど内容のない教科書が生まれた。小中学生の教科書を手に取ってみよ。そのあまりの軽さ、皮相さに嘆息しないおとなはいないだろう。

子どもたちが義務教育で教えてもらえないことは枚挙にいとまがない。たとえば、地震国日本で、学習指導要領は地震の原因、プレートテクトニクスを教えてはならないとしている。21世紀は遺伝子工学の世紀であるにもかかわらず、遺伝子についてもわが国の義務教育では教えてはならないのだそうだ。生物の進化の法則も同様だ。ゲノムや遺伝や進化についての学びは、人間の由来をも解明してくれる興奮冷めやらぬ知的探究の世界だ。未来への扉を開く学びでもある。しかし、現在のゆとり教育では、そうしたこといっさいを教えない。

知識は考える力を育成する必須の要素だ。知識を頭のなかに詰め込んでやったとき初めて、子どもたちの頭脳のなかに考える土台が築かれる。知識なくして人間は考えることなどできない。知識の教え惜しみは、育ち盛りの子どもに十分な栄養を与えず、栄養不良に育てるのに似ている。よい子、賢い子、創造できる子が育つはずがない。

教育再生会議が明確に打ち出したゆとり教育の見直しは、この現状を力強く打ち破る第一歩となる。また、教師の免許更新制はやる気のない教師を振るい落とすだろう。さらに注文すれば、地道な努力を続けるやる気のある優れた教師を認める制度もつくってほしい。

当初、文科省官僚のまとめた報告案にはこうした点は入っていなかった。それを明記するよう注文をつけたのが安倍首相だった。首相のリーダーシップも高く評価したい。日本再生の基本が教育の再生である。第一次報告案を薄めることなく、突き進んでほしい。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2007/02/post_502.html
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by thinkpod | 2006-12-30 00:57
2006年 12月 28日

「 悪夢のような中国進出の実例 」

『週刊新潮』 '06年12月21日号
日本ルネッサンス 第244回

安倍晋三首相の訪中を機に、日本の技術、経営手法、資本を求める中国側の働きかけが熱を帯びている。

そこで、中国進出を熱心に説かれ、約5年間を彼の国で頑張ったある東北の企業の実例を見てみたい。

「旭エンジニアリング株式会社」は資本金2,500万円、社員75名の農機具メーカーだった。現在は自動車生産用のロボットを中心とする精密機械製造に重点を移しているが、当時は農機具が主力である。

オーナー社長の藤沼弘文氏は、これまでの30年余にわたる会社経営のなかで、会社側の都合で社員をクビにしたことは一度もないという。

「社の業績が悪いときには、たとえば20万円の給料を19万円にして皆で我慢して切り抜ける。会社が盛り返せば、また、給料を上げることも出来る」と氏は語る。

こうした考えを守ってきた旭エンジニアリングには、その社風故に、親に続いて就職してくる二世もいる。

日本的な配慮を尽くす藤沼氏だが、押しよせる国際競争の波に直面して、90年代はじめ、賃金の安い海外に生産拠点を作ろうと思い始めた。

「バブル崩壊前の90年代のはじめ頃から、海外の拠点探しを始めたんです。日本だけで生産していては、コストが高くて競争力がない。そこでまず、チェコに行きました。農機具をはじめ、機械分野ではドイツメーカーの下請け企業が多くあったからです」と藤沼氏。

しかし、当時のチェコは実質的にはまだ共産圏だ。輸出入に規制がありすぎた。イタリアにもドイツにもアジア諸国にも行った。そのとき、大手総合商社、丸紅の担当者が中国進出を誘ったのだ。氏は歴史問題などについての中国のやり方を好ましく思わず、乗り気ではなかったが一応説明に耳を傾けた。中国なら大体何でも出来る、丸紅も助言出来る、通訳を含めて現地での便宜をはかってくれる人物も紹介すると説得され、氏は96年、中国進出を決めた。


反故にされる契約

紹介された通訳は韓国生まれの中国人だった。氏は通訳を連れて幾つかの候補地を視察し、中山威力集団工業公司に行きついた。中山は香港から珠海を経由して、さらに車で5時間ほど走る経済開放区である。そこには釣具のオリムピック社なども進出していた。藤沼氏はその一区画を紹介された。

「建物はありましたがガランドウ。そこに日本から持ち込んだ機械を据えて農機具を作るのですが、農家の庭先で作業するような感じでした。ただ、人間だけはもの凄く押し寄せてくる。日本なら一人分の作業に大袈裟でなく10人も20人も来る」

幾つもの宴会を経て、96年暮れに契約が成立、最も簡単な田を掘る機械を作らせた。社員4人を派遣し指導に当たらせたが、なんと、中国人社員は650人にのぼった。

ようやく3年目に生産開始となったとき、氏は心底驚いた。値段が当初予定より数倍も高かったのだ。

「田の土掘り機を、私は手始めに1,000台発注したのです。彼らは当初、1台3万円で作ると言っていたのが、少なくとも3倍だというのです。中国側に部品製造の機械の図面を渡し、金型を貸与し、社員を送り込んで指導してきたことへの支払いは一切なし。おまけにそんな高値です。これでは日本で造る方がいい。私が怒っても、通訳は伝えてくれない。通訳は雇い主の私の側ではなく、中国側に立っていたのです」

こんなこともあった。

「目標の農機具を作るのに、中国ではどうしても作れない部品がありました。1台につきその部品4個が必要で、私は日本から4,000個、送りました。ところがそれが紛失した。納期に間に合わない。仕方なく、至急、同じものをもう一度送ると連絡したら、中山威力集団工業公司の担当者らは、2週間待ってくれ、同じものを中国で調達すると言う。冗談じゃない。これはわが社の技術の粋を集めた部品です。逆立ちしても中国にはないんだと言っても、彼らは大丈夫だと言い張るのです」

2週間して出てきたのは旭エンジニアリングが送った部品だった。腹に据えかねた藤沼社長は公安当局に訴えると言った。すると通訳が、怒ってはならない、日本は日中戦争でひどいことをしたじゃないかと窘めた。氏は冒頭で紹介したように極めて日本的な人情に厚い人物で、日本の歴史にも詳しい。そこで日中戦争は日本ばかりが悪かったわけではないと猛烈に主張した。南京大虐殺も中国が戦後になって言い出したと、具体論を展開した。中国側は藤沼氏の勢いに押されて、当局への訴えはなしにしてくれと申し入れてきた。


欠陥製品は“日本の陰謀”

スッタモンダの末に、農機具が出来上がり、第一陣が日本で販売されると、途端に苦情が殺到した。再び信じ難い事態がおきていた。

農機具のネジはトルクレンチという工具を使い、適正な圧力で締める。圧力が不足しても強すぎても問題が発生する。ところが中国人は圧力を加減せず、力一杯締めてネジを切っていた。それを隠すために、新聞紙を巻いてハンマーで叩き、塗料を塗ってごまかしていた。これは目視検査ではわからない。

こんな欠陥製品が市場に出たのだ。ユーザーは入れた燃料が漏るのに気がついた。苦情を受けて分解すると、ネジ山がつぶれ、折れていた。説明を求めると、中国側は言った。

「我々はそんなことは絶対していない。日本人の仕業に違いない」と。

藤沼氏は呆れはて、ネジの欠損を埋めるのに使用された新聞紙を広げて写真に撮って、突きつけた。

「中国語の新聞じゃないか。これでもシラを切るのか」と。

それでも、彼らは言い張った。「日本人の陰謀だ」と。

この一件で、藤沼氏の心は最終的に決まったという。持ちだした費用はすでに3億円を超えていた。中堅企業には痛手である。しかし、「もういい」と氏は考えた。そして機械類の撤収の準備を始めると中国側が待ったをかけ、通訳も言った。

「この機械は置いていってやれ」

中国側は機械の代金を支払うわけでもない。藤沼氏は断った。すると、当局が機械の「輸出許可を出さない」と言い始めた。

「わが社が中国側に貸与する契約で持ち込んだのに、日本に持ち帰ろうとすると、彼らは許さないと言い始めた。大切な機械や技術、金型をみすみす盗まれてなるものですか。私は社員と一緒に、主要な部品や金型の全てを破壊しました」

藤沼氏は中国人労働者のなかの優秀な人材を6名ほど日本に呼び、勉強させ、技術を伝授した。中国に戻った彼らは、しかし、全員が他企業に高い給与を求めて移っていった。

中国から最終的な引き揚げが完了したのは2000年のことだ。足かけ5年、氏が体験した中国の本質は、今も変わっていない。
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2006/12/post_494.html





The Globe Now: 暴走する「世界の工場」中国

「世界の工場」は政策的に作られたコスト競争力を
武器に、世界中の中小企業をなぎ倒していく。

■1.プラートの苦難■

 プラートはイタリア北部の人口18万人ほどの町である。
700年以上もヨーロッパの織物業の中心地として栄え、アル
マーニ、プラダ、グッチなど高級ブランド企業がここで買いつ
けを行ってきた。

 中央広場のごつごつとした石畳、壮麗な大聖堂、赤茶色の屋
根の続く街並み、遠くの低い緑の丘、、、いかにもイタリアの
古都らしい情景である。

 しかし、西の町外れだけが別世界となっている。窓に漢字が
書かれた美容院、漢方薬の店、ネオン輝く娯楽クラブなど、ま
るで中国の街並だ。プラートの人口18万人のうち、いまや中
国人が2万人を占めている。

 彼らは初めは外人労働力として、プラートの伝統企業に雇わ
れていたのだが、技術を習得すると独立していった。プラート
の商工会議所に登録された中国人経営の企業は1992年の212社か
ら、2003年には1753社へと急増した。

 これらの会社は中国本国に大規模な製造工場を造り、低賃金
労働力を武器として、高級ブランド企業の注文を奪い始めた。
デザインだけプラートで行い、製造そのものは中国で行う。そ
の完成品に高級ブランドのラベルを縫いつける仕事だけがプラ
ートで行われる。

 そのコスト競争力に押されて、2000年に6千社もあった伝統的
なイタリア人経営の中小企業は、2005年には3千社を切ってい
た。700年の織物工業の歴史が、いまや断絶の危機に瀕して
いる。市当局には打つ手が見つからないようだ。

■2.黄の冒険■

 プラートに住む中国人の多くは、不法入国でやってきた。そ
のうちの一人、黄の冒険譚は次のようなものだ。

 黄の父親は福建省でスッポンを養殖し、日本に輸出して稼い
でいた。しかし、日本のバブル崩壊で需要が減ると、スッポン
の価格が暴落し、養殖事業は躓(つまず)いた。父親は不法な
地下銀行から金を借りていたが、支払い不能に陥ると、刑務所
を兼ねている市庁舎の地下に監禁された。不法な地下銀行は、
地方政府が経営していたのである。

 黄に残された手段は、妻と息子をおいて、海外に出稼ぎに出
ることだった。地下銀行と交渉して、金を借り増し、犯罪組織
「蛇頭」にヨーロッパへの密入国を依頼した。地下銀行は返済
ができなければ、黄の親戚一同の財産を差し押さえるという条
件で金を貸してくれた。

「蛇頭」は黄に出国印の押された偽造パスポートを渡し、北京
からロシアに向かう貨物列車に潜り込ませた。モスクワの手前
で、列車から飛び降り、迎えに来た白いバンに乗せられた。そ
こから車や貨物船を乗り継いで、なんとかイタリアに上陸でき
た。そしてミラノを振り出しに、掃除や食器洗い、荷物運びな
どの単純作業を続けながら、4年間、ボローニャ、ローマを転
々とし、プラートまでやってきたのだった。

 プラートでの中国人労働者の典型的な賃金は、1日10数時
間働いて月600ユーロ(約9万円)。生活を切り詰めてなん
とか黄は父親の負債の返済を始め、父親はようやく解放された。
4年で返済を終えたが、黄はまだ妻と子供の元には帰れない。
15歳の息子の教育費を払うためだ。

■3.プラートの栄華と没落■

 黄のような不法入国者がプラートにやってきたのは、1980年
代の半ばからだった。プラートの子供たちはまるで宇宙人でも
見るかのように、中国人を眺めた。当時は人数も少なく、すぐ
に町の織物工場で雇われた。

 90年代の前半には中国人労働者は1万人に増えた。床の掃
除や、ラベルの縫いつけ、織物の裁断など、低賃金にも関わら
ず、長時間を不満も言わずに働いた。その中から熟練工も育っ
ていった。さらに一部の中国人たちは母国から安い糸や布を仕
入れて、プラートのイタリア企業に供給するビジネスも始めた。

 安価な中国人労働力と中国産原料を使うことで、プラートの
企業のコストは下がり、大いに潤った。地方政府は喜んで、移
民サービスセンターを設置し、不法でも構わずイタリアに渡っ
てきた中国人の世話をした。

 しかし、そんな蜜月時代は長く続かなかった。中国人工員た
ちは何年か勤めて技術を得ると、会社を辞めて独立する。ぼろ
を着た出稼ぎ労働者が、いかにして工場を辞めた翌週に元ボス
の競争相手となったか、という記事が地元紙の商業面を賑わせ
た。

 まだ20代の女性起業家・王一華もその一人だ。王も蛇頭の
手引きで19歳にしてイタリアに不法入国した。いまでは中国
人の工員とイタリア人のデザイナーを雇う「グレート・ファッ
ション」という企業の代表におさまった。フォルクスワーゲン
に乗り、高級なサングラスをかけ、流暢なイタリア語を話す女
性起業家である。

■4.同じ苦難はコモ、ビエッラ、モンテベルーナにも■

 プラートを襲った苦難は、イタリアの伝統的産業に支えられ
てきた都市に共通の運命である。

 北部の美しい湖畔の町コモは、古代ローマ時代から絹織物の
中心地だった。20年ほど前に中国の絹産業が復活すると、中
国産の絹糸のほうが、コモのものよりも安くて、品質も大差な
いことが明らかになった。さらに、安い労働力目当てに紡績と
製織の作業が中国に外注されるようになった。

 そのうちに浙江省の企業が、コモで使われているコンピュー
タ制御の織機を導入した。これを昼夜動かすことで、この企業
は数年のうちにコモの伝統的企業を次々と廃業に追い込みだし
た。7年でこの地域でのコンピュータ制御の織機の数は670
台にまで急増し、世界の絹ネクタイのほぼ半分を生産するよう
になった。

 今やコモの伝統的企業に残された競争力はデザインだけだ。
しかし、それも風前の灯火である。浙江省のネクタイメーカー
の最大手「巴貝(パペイ)」は、輸出した絹物の支払いが困難
になったイタリア企業から、代金と相殺にデザイン工房を譲り
受けた。膨大なデザイン見本帳とイタリア人デザイナーを手に
入れて、優れたイタリアン・デザインのネクタイを年間2千万
本もの生産能力で世界に供給できるようになった。

 フランスとの国境に近い毛織物の町ビエッラでも、中国企業
の攻勢で、13世紀から川沿いに並んでいた工場が次々と閉鎖
に追い込まれている。北東部の町モンテベルーナは登山靴生産
のメッカだったが、安価な外国製品との対抗上、各企業はこぞっ
て生産をルーマニアの工業団地にシフトした。

■5.イリノイ州ロックフォードの苦難■

 中国企業の攻勢に喘いでいるのは、イタリアの繊維産業など
軽工業分野だけではない。アメリカの機械工業も同様である。

 イリノイ州ロックフォードは見渡す限りの農地に囲まれた典
型的な中西部の町である。ここは19世紀末にインガソルとい
う企業が工作機械の製作工場を設立して以来、アメリカの工作
機械産業の中心地として発展してきた。

 20世紀の幕開けと共に自動車産業が勃興すると、インガソ
ルの工作機はたちまち評判となった。ヘンリー・フォードの大
衆車「T型モデル」の製造にも一役買った。その後も航空機や
戦闘機、原子炉の部品の開発にも参画して、専門技術を蓄積し
ていった。

 こうした中西部の工作機メーカーは、戦争や景気後退、日本
・韓国メーカーの台頭も乗り切ってきた。しかし、中国企業の
攻勢にとどめをさされつつある。ある統計では、オハイオ州な
ど10州の金属加工業者のうち、2003年5月から翌年9月にか
けて180件の倒産や廃業があった。3日に1件の割合である。
中国の競争相手が前ぶれもなく、3分の1か、それ以下の値段
で売り込みをかけてきたらしい。

■6.ハイエナのような手口■

 こうした倒産や廃業に伴って工場設備が競売にかけられるが、
そうした場にも中国企業が姿を現した。機械設備、設計図、操
作ノウハウを手に入れるためである。自動車などの近代工業や、
軍需産業を興すには、工作機械が重要な役割を果たすので、中
国政府は積極的に先進技術を買いあさるよう国有企業に促して
いる。

 インガソル社も2003年に倒産し、最初に売りに出された自動
車用の工作機械部門は、中国の巨大な国有企業「大連工作機械」
が買収した。数十年かけて蓄積された自動車製造技術の設計図
や工業規格の書類の山が、ただちに中国本社に送られた。

 大連工作機械は次にインガソルの切削機部門も買収しようと
したが、こちらは米政府に阻止された。この部門は米軍からの
注文で、ロケットの燃料タンクの性能を高める技術を開発した
り、B−2ステルス爆撃機がレーダーに映らないようにする素
材を塗る機械を開発していたからだ。

 低価格攻勢でアメリカの工作機メーカーを倒産に追い込み、
競売にかけられた設備や設計図などを買収して技術を手に入れ
る。まさにハイエナのような手口である。

■7.分断されるアメリカ社会■

 ロックフォードにある「ダイアル・マシン」社は、ここ数年
で従業員70人のうち30人の解雇を余儀なくされていた。同
社のエリック・アンダーバーグはこう語る。

 わが社でずっと働いてきた人たち、家族もよく知ってい
る人たちに、もう仕事はないと告げるのはたまらない気分
です。もはやロックフォードには時給16ドル、17ドル
を稼ぐ熟練工に働き口がないことは誰でもが知っています。

 解雇された熟練工たちの行き場は、ウォールマートなどの安
売り店だ。時給7ドルで年金もない。

 アメリカの国勢調査局によると、アメリカでは所得の中流層
が少なくなっている。2003年に収入2万5千ドル(約290万
円)から7万5千ドル(約870万円)の就労者は減少したが、
それ以下とそれ以上の人は増加した。

 時給16ドルを稼ぐ熟練工が、時給7ドルで年金もない就労
者になる。7万5千ドル(約870万円)以上もの収入がある
階層とは、ウォールマートのように安価な中国製品を大量に販
売して儲ける大規模チェーン店や、中国に生産を外注してコス
トを下げる大手メーカーの経営者、管理者だろう。

 中国企業の攻勢によって、アメリカの中小企業と中産階級は
直撃され、大企業での低賃金労働者と高給取りのスタッフとに
分断されつつある。

■8.不公正なコスト競争力■

 こうして、世界各地で中国企業は猛威を振るっているが、そ
のコスト競争力は中国政府が政策的に作り出したものだ。この
点を『ファイナンシャル・タイムズ』の元北京支局長ジェーム
ズ・キングは、次のように指摘する。

 中国は、対ドルの通貨価値を割安に固定して、輸出の大
きな競争力としていた。労働者にはほとんど、またはいっ
さい福利厚生を与えないから、原価が人為的に低く抑えら
れている。独立した組合はなく、中国の工場で見てきた安
全基準は、アメリカなら違法ものだった。

 国有銀行は国有企業に低利で融資しているが、あっさり
債務不履行になることもある。中央は輸出業者に対して、
アメリカにはない気前のいい付加価値税の払い戻しを行っ
ている。排ガス規制は手ぬるく、環境保護のための企業負
担は、そのぶん小さい。企業は外国の知的所有権を当然の
ように侵害しているが、法廷が腐敗しているのか中央の支
配下にあるからなのか、起訴はされにくい。最後に、国が
電気や水など、さまざまな資源の価格を人為的に抑えるこ
とで、工業を助成している。[1,p130]

 こうして政策的に作られた不公正なコスト競争力を武器とし
て、中国企業はプラートやロックフォードの中小企業をなぎ倒
してきたのである。

■9.暴走する「世界の工場」■

 1970年代から80年代にかけて日本の工業製品の輸出がアメリ
カの製造業を脅かしたた時も「日本はアンフェアだ」と非難の
声が上がった。現在の中国の製造業がそれを再演しているよう
に見える。

 確かに当初の日本の輸出攻勢は、低賃金・長時間労働、安い
円、政府の保護政策に支えられたものだった。しかし、その後
の日本企業は大きな変貌を遂げた。

 円は変動相場制に移行し、1ドル360円から百数十円程度
へと3倍も上昇した。人件費も高騰し、福利厚生も行き届いて
いる。企業への課税水準も環境規制も世界トップレベルである。
知的所有権に関しても、日本はソニーやパナソニック、シャ
ープ、トヨタやホンダなど、独自の製品で自前のブランドを築
き、そのために膨大な研究開発投資を行ってきた。

 こうした努力で、今日では日本が不公正な競争をしかけてい
る、などと非難する者はいなくなった。しかし、中国の場合は
日本と同じコースを辿ることは難しいだろう。中国共産党が独
裁政権を握っていられるのも、経済成長を続けているからであ
り、そのためには現在の低コスト路線を自転車操業で走り続け
るしかない。

「世界の工場」は、世界中の資源を吸い込み、煤煙と廃液を吐
き出しながら、安価な(時には有害な)工業製品を洪水のよう
に送り出し、世界中の中小企業をなぎ倒しつつある。そんな
「世界の工場」の暴走を世界はいつまで許すだろうか。
(文責:伊勢雅臣)


a. JOG(505) 断裂する中国社会
 1億円の超高級車を乗り回す「新富人」と年収100ドル以
下の貧農9千万人と。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog505.html
b. JOG(224) 「油上の楼閣」中国経済
 経済発展する壮大な楼閣は、一触即発の油の海に浮かんでい
る。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog224.html


1. ジェームズ・キング『中国が世界をメチャクチャにする』★★★、
草思社、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794215274/japanontheg01-22%22

暴走する「世界の工場」中国
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/109121404.html

reference archives : 中国が世界をメチャクチャにする
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by thinkpod | 2006-12-28 02:13
2006年 12月 26日

歴史再評価、台湾で一歩 教科書刷新

 【台北=長谷川周人】台湾の高校歴史教科書が、今年9月から使われている改訂版で様変わりした。古代王朝に始まる「大中国主義」の歴史観を貫くこれまでに対し、改訂版では台湾史を中国史から切り離し、系統的に学ぶ。日本の台湾統治が「章」として初めて取り上げられ、インフラ整備などプラスの側面にも言及されている。史実を客観視しようとする姿勢は、台湾の歴史再評価を促す一歩となりそうだ。

 改訂版は台湾の独自性を強調する陳水扁政権の教育指針を反映している。最大野党・中国国民党は「中華民国が中国全土の正統政権」という建前から教科書の改訂について「祖国の歴史を分断するものだ」と反発してきた。

 しかし、民主化と「台湾化」が進む中、李登輝前総統は1997年、中学1年の教育課程に「認識台湾(台湾を知る)」という科目を導入。実質的に初めて授業で台湾史が取り上げられた。この第二弾として陳政権は高校生が必修科目で使う歴史教科書の抜本改定に踏み切った。

 新しい教科書は8冊が当局検定を通過し、うち5冊が実用化されたが、国民党政権下ではタブー視されてきた軍による住民弾圧の「二・二八事件」(1947年)や民主化活動家が弾圧された美麗島事件(1979年)などを詳述。一方で台湾独立の根拠となる「地位未確定論」にも言及している。

 台湾の主権は一般に「満州、台湾、澎湖諸島は中華民国に返還される」とした「カイロ宣言」(43年)を踏まえ、この履行を日本が受諾した「ポツダム宣言」(45年)、さらに領有権放棄を明言したサンフランシスコ講和条約(52年)などにより、確定的になったと認識されている。

 この解釈が中国が台湾領有権を主張する根拠ともなるが、台湾の研究者による調査では、カイロでの合意は法的拘束力に欠ける「プレス・コミュニケ(公報)」であって「宣言」でなく、台湾の帰属は講和条約以降、「未確定」という主張が台湾で広がっている。実際、署名された「宣言文」の存在は確認されていない。

●日本統治時代も「章」に

 これを踏まえ、龍騰文化が出版した教科書は「カイロ宣言は署名がなく、国際法上の効力を具有しない」と記し、他の4冊も主権帰属にかかわる論争の存在を明記するようになった。

 日本統治時代(1895〜1945年)を扱う章は、5教科書ともB5版で30ページから54ページのスペースを割き、史実としての植民地時代を直視しようとしている。翰林の教科書が「50年の植民統治で台湾は同時に植民地化と近代化を経験をした」が書き出すように、評価は肯定、否定の両論併記だ。

              ◇

 公式教材となった新高校歴史教科書の出版社は次の通り。()内は日本統治時代を扱うページ数。三民書局(30)、南一書局(47)、泰宇出版(48)、翰林出版(54)、龍騰文化(53)。画数順。

               ◇

 ≪戴宝村・政治大学専任教授(教育部教科書検定委員会主任委員)≫
 
●教育原理にかなう

 歴史教育の原理とは、ある人々のその土地における生活の累積と体験を教えることだ。にもかかわらず、われわれが行ってきた教育は、政治的な理由から中国大陸の歴史ばかりを教え、教育原理に背を向けてきた。しかし、こうして台湾史が正式に教科書に編入された結果、教育原理にかなうよう変わった。

 さらに新しい教科書では、学生に台湾史を理解させることにより、台湾のアイデンティティーと歴史を比較できるようになった。世界的にみても最大脅威であり、密接な関係がある中華人民共和国の歴史はとても重要だが、台湾人が台湾史を理解することも重要なのだ。

 例えば、国民党政権下の台湾では、一貫して「カイロ宣言」をもって台湾は「中国に回帰した」と強調されてきた。だが、多くの研究はあれは宣言ではなく、一種の備忘録であったと指摘している。国民党教育を受けた成人は今だに「カイロ宣言」というが、(新しい教科書を使う)将来の学生は、これは宣伝のようなもので、サンフランシスコ講和条約によって台湾の帰属が日本から離れたことがより明確に理解できる。

 日本統治時代に関しても、中国的な民族主義の立場に立てば、日本の台湾統治は搾取と解釈されるが、台湾人からみる日本時代は違う。日本が行った建設は台湾に大きな影響を与え、進歩につながったことは肯定するに値する。これも動員された台湾人による建設であり、台湾人の努力の結果でもあるからだ。

 確かに(日本統治時代をめぐる)評価のあり方はそれぞれだが、審査する側から言えば、極端に感情的(な表現)でない限り、受け入れられる。したがって著者は、台湾という自由社会を代表し、一定の個人的な観念を盛り込むことにもなっている。

(2006/12/21 08:01)

ぼやきくっくり | 台湾の教科書と「カイロ宣言」
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid206.html



【産経】【教科書が変わった 台湾】(2)「風土や民情尊重」「学校制度確立」

産経新聞 2006年12月22日

1899年に台湾初の中央銀行として設立された台湾銀行。総督府(現総統府)の隣の現在地に移転した後の1930年代に現在の社屋となった(撮影・長谷川周人)


 台湾の高校歴史教科書に新たに設けられた日本統治時代の章には第4代総督の児玉源太郎(1852〜1906年、日露戦争時の満州軍総参謀長)らが登場し、インフラ整備や教育などの面で日本が果たした役割も直視しようとしている。
 【社会の基礎建設】

 「1898年、総督に児玉源太郎が、民政長官に後藤新平(1857〜1929年)が就任すると、台湾の風俗、習慣、宗教信仰などを調査・分析し、政策決定に生かした。一方で風土や民情を尊重するとして人心を丸め込み、反抗意識を取り除いた。総督府はこの時期、植民統治の基礎建設を次々と完成させた。これには度量衡と貨幣の統一、(中央銀行である)台湾銀行の設立、人口調査などがある」(翰林)

 「総督府は上下水道を建設、大衆を動員して清潔な環境づくりをした。伝染病の予防につながり、死亡率は大幅に低下した。医療面でも医学校を設立して台湾人医師を養成し、各地に公立病院を設立した。予防接種や隔離消毒も実施され、台湾人の医療環境は大幅に改善した」(南一)

 【社会変革】

 「日本人は台湾人の阿片(アヘン)吸引、辮髪、纏足を『三悪』と見なし、学校教育や宣伝活動を通じて徐々に廃止していった。総督府は週7日制を導入して休日と祝日を定め、台湾全土にグリニッジ標準時(GMT)を取り入れた。公的機関の業務や交通機関の運行も定刻に沿って行われるようになり、民衆は時間を守るという観念を養った」(南一)

 「アヘンは総督府が許可制にして専売事業となり、植民地財政の重要な財源となった。また、総督府は女性が纏足をやめれば労働力になると考えた」(翰林)

 【教育の近代化】

 「日本統治時代に近代学校制度が確立し、教育普及の基礎となった。台湾人は学校で日本語を習い、教科書から日本文化や世界の新知識に触れた。しかし、(統治)初期は日本語教育と初等技術教育が主だった。初等教育は、日本人児童は小学校で、台湾人児童は公学校で学んだ」(南一)

 「(その後は)中等職業教育にも重点が置かれ、農業、商業、工業学校が相次ぎ設立され、台湾の工業と経済発展の重要な基礎となった。最高学府は1928年創設の台北帝国大学だったが、台湾人の進学は限られ、留学が選択肢のひとつとなった。留学先は日本が最多で、留学生が持ち帰った新しい思想は台湾の政治、社会、文化活動に大きな影響を与えた」(翰林)

 「総督府は1920年年代に『台湾教育令』を改訂し、台湾の教育体制を日本内地と一体化。共学制が施行され、『内地人』『本島人』『蕃人』などの差別的な呼び方の使用をやめた」(龍騰)

 「日本当局が教育を推進したのは主に統治政策上の必要からで、初等教育を重視、『忠君愛国』の思想を植え付けた。台北帝国大学設立も主に在台日本人子弟のためだった」(三民)

 (注) 公式教材となった新高校歴史教科書の出版社は三民書局、南一書局、泰宇出版、翰林出版、龍騰文化の5社(画数順)。

 (台北 長谷川周人)

E-Magazine:バックナンバー
http://www.emaga.com/bn/?2006120070062210002957.3407
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by thinkpod | 2006-12-26 06:18
2006年 12月 18日

地球史探訪: 零戦 〜 世界の航空常識を覆した3日間

 1941年12月8日からの3日間に、
世界の航空史は新しい時代を迎えた。


■1.世界の航空常識を覆した3日間■

 1941(昭和16)年12月8日からの3日間に、世界の航空史
は新しい時代を迎えた。次の3つの出来事がそれまでの航空常
識を覆したからである。

 第一に、12月8日、ハワイ・真珠湾に停泊中の戦艦8隻か
らなる大艦隊を、航空母艦から飛び立った航空機のみの攻撃で
壊滅させた。[a]

 第二に、12月8日から10日にかけて、台湾の台南、高雄
両航空基地から飛び立った大編隊がフィリピンの米軍航空基地
への渡洋攻撃を襲い、壊滅的打撃を与えた。米軍は、まさか戦
闘機が台湾からフィリピンまで飛んで攻撃できるとは夢にも思
わず、その後の数日間、フィリピン近海に航空母艦がいるはず
と必死に探し回って、日本の航空隊指揮官たちを苦笑させた。[b]

 第三に、12月10日、南進する日本の大輸送船団を攻撃し
ようと出撃したイギリスの誇る新鋭不沈艦「プリンス・オブ・
ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を、日本軍は航空攻撃の
みで撃沈した。当時世界最強と言われたドイツ空軍でも、2年
3ヶ月もイギリス艦隊と戦って、戦艦はおろか、一隻の巡洋艦
すら沈めていなかった。飛行機では大艦は沈められない、とい
う世界の常識が覆された。[c]

■2.「神秘性を帯びた奇怪な飛翔物」■

 開戦劈頭の戦果は、当時の世界水準から抜きん出た日本の航
空技術によって、もたらされたものである。その象徴が零式戦
闘機(零戦)であった。たとえば12月10日のフィリピン攻
撃では、渡洋攻撃した零戦34機を2倍近い米戦闘機群が包囲
して、大空中戦が展開されたが、米軍機44機が撃墜され、零
戦の被害は一機のみであった。

 米軍パイロットにとっては、まさに悪夢であった。彼らは圧
倒的な工業技術力を誇るアメリカが作り出した戦闘機と、自分
たちの優れた操縦技能からすれば、日本が物真似で作った戦闘
機など、簡単に撃ち落とせると考えていた。

 しかし、目の前に現れた戦闘機は、見たこともない、ほっそ
りした優美な姿をしていた。そして、遭遇したと同時に、驚く
ほどのスピードで突き進んでくる。格闘戦に入った途端、呆れ
るほどの上昇力と旋回性能で、すぐに自分の後ろについてしま
う。そして、そのひ弱そうな機体からは想像もつかない大口径
の機銃が火を噴くと、たちまち彼らの戦闘機は火災を起こし、
一直線に落下していくのである。

 米軍パイロットにとって、零戦は戦闘機と言うよりも、神秘
性を帯びた奇怪な飛翔物だった。あるパイロットは、その飛翔
物と出会うと、友軍機がそれぞれ競い合うように、自ら墜落し
ていったように思えた、と怯えて語った。

■3.「外国の超一流機を眼にしたようだ」■

 米軍パイロットたちが、日本の航空機など敵ではない、と考
えていたのは、無理からぬことであった。大正5、6(1916,17)
年頃まで、日本は外国機の製作権を入手し、外人技師を招聘し
て、その技術指導のもとに機体やエンジンの設計製作を進める
のが、せいぜいだった。

 その後、日本人自身の手で設計・製作するようになるが、欧
米先進国の模倣に過ぎなかった。ようやく、昭和7(1932)年に、
海軍の航空本部技術部長・山本五十六少将他の提案で、日本独
自の航空技術を生み出すために、外国機の安易な模倣を禁じて、
民間各社に自社設計を命じた。真珠湾攻撃のわずか12年前の
ことである。

 昭和10(1935)年に三菱重工名古屋航空機製作所が完成させ
た試作機は、当時世界の最新鋭機の最高速度410キロを破っ
て、450キロを達成した。その試作機が、それまでにない高
速で急上昇や急降下をして見せると、立ち会った海軍廠長・前
原謙治中将は、感激に声をつまらせながら、こう語った。

 今日ほど感動したことはない。日本にもこうした飛行機
が出現したことを思うとただ喜びだけだ。外国の超一流機
を眼にしたようだ。[1,p25]

 翌昭和11年、紀元2596年の96を冠してこの戦闘機は96
式艦上戦闘機として制式に採用され、約1千機が生産された。
その設計主務者が、次に零戦を開発する堀越二郎技師であった。

■4.それはあまりに厳しすぎる要求だった■

 堀越のもとに海軍航空本部から、次期戦闘機の計画要求につ
いて説明するので、至急出頭せよ、との緊急連絡がもたらされ
たのは、昭和12(1937)年8月の事だった。ちょうど支那事変
が始まった時期である。

 それはあまりに厳しすぎる要求だった。最大速度は500キ
ロを要求していた。また外国でも実用機では例のない20ミリ
機銃2挺の装備が要求されていた。さらに航続距離、旋回性能、
上昇性能など、外国の一流機の水準を超えた要求が並んでいた。

 速度と機銃装備による重さ、航続距離などは、あちらを立て
ればこちらが立たず、という関係にあるのに、それらがすべて
欧米の戦闘機よりも優れた水準を求められていた。しかも、国
産の小馬力のエンジンでそれを達成するには、至難の業と思わ
れた。

 堀越は立ち上がって、これらの要求があまりに高すぎるとし
て、幾分でも緩和してくれる余地はないのか、と聞いたが、海
軍側の回答は「絶対に緩和の余地なし」というものだった。堀
越たちはそれ以上、何も言えずに、出来るだけ要求に沿うよう
努力することを約して、暗い表情で社に戻った。

 三菱重工とともに要求を聞いた中島飛行機は競争試作を下り
てしまい、堀越たちの肩にすべての責任が降りかかってきた。

■5.「新鋭機を一日も早く第一線に送れ」■

 早速、設計にとりかかった堀越のチームは、軽くて強度のす
ぐれた素材はないか、と探し回り、住友金属工業で、それまで
の超ジュラルミンより抗張力を3〜40パーセント強めた超ゝ
ジュラルミンを開発したことを聞いて、さっそく採用した。さ
らに少しでも機体を軽くすべく、強度に関係ない部分に2、3
ミリの穴を数多く開けることまでした。

 日本の飛行機としては初めての引き込み脚を採用し、空気抵
抗を少なくして、航続距離を伸ばした。翼の面積は思い切って
広く取り、旋廻性能を良くし、空母からの離着艦を容易にした。

 こうして設計された機体は、96式艦上戦闘機よりもスマー
トな美しい形状をしていた。実物大の模型を堀越は満足そうに
眺めた。

 昭和14(1939)年3月16日、第一号機が完成。詳細な各部
の点検の後、段階的にテスト飛行が行われた。4月14日には、
初めて脚の引き込め飛行が行われた。機が滑走路を離れ、両脚
が引き込まれると、機体は見事な流線形を示した。美しい、と
堀越は思った。

 6月12日には、海軍の熟練パイロットによる試乗テストが
行われた。「96式艦上戦闘機に比べると、最高速度は相当増
しているのに、着陸が容易なのは大いに良い」と好評だった。
しかし、同時に問題点もいくつか指摘され、堀越たちは改良を
続けた。

 最高速度は、海軍の要求を上回る時速533キロを記録した。
当時のドイツとアメリカの最新鋭機の速度、それぞれ444キ
ロ、426キロを、はるかに凌ぐスピードであった。

 この好成績の報告を受けた海軍側は沸き立った。その情報は
中国大陸で戦う海軍航空実戦部隊にも伝わり、新鋭機を一日も
早く第一線に送れ、という声が出始めた。

 その頃、日本の爆撃機は漢口の基地から、重慶まで飛んで爆
撃を行っていたが、96式艦上戦闘機では航続距離が足りずに、
護衛についていくことができなかった。そこに中国空軍の戦闘
機の迎撃を受けて、被害が続出していたのである。

■6.「零式艦上戦闘機」■

 昭和15(1940)年7月末、試作機はすべての問題点が解決し
たことを認められ、その年の紀元2600年を記念して、末尾の零
をとって「零式艦上戦闘機」と名づけられた。

 8月19日、漢口から零戦12機が飛び立った。重慶を爆撃
する陸上攻撃機54機の護衛である。その搭乗員たちは、初め
て自分たちを援護してくれる戦闘機を得て、零戦に機上から手
を振った。1500キロもの長距離を単座の戦闘機が編隊を組
んで飛行するのは、世界航空史上でも例のないことであった。

 重慶では約30機の中国空軍の戦闘機で待ち構えているとい
う情報が偵察機からもたらされていた。しかし、中国空軍は出
てこず、陸上攻撃隊はゆうゆうと爆撃を行い、全機帰還した。
中国空軍は日本の新鋭戦闘機が援護しているという情報を得て、
身を避けている気配であった。翌日の爆撃にも姿を見せなかっ
た。

 そのうちに意外な情報が重慶からもたらされた。中国空軍は
日本の航空戦隊が帰った後に、重慶上空を飛行し「日本航空隊
に大損害を与え、追い払った」と宣伝しているという。

■7.「なぜ、あんなに落ちていくのか」■

 その裏をかく作戦が立てられた。爆撃終了後、一度重慶から
帰るふりをして中国空軍が出てきた所を、反転攻撃を仕掛ける
という案である。

 9月13日、零戦13機は、爆撃終了後、重慶から50キロ
戻ったところを急遽、反転した。果たして、重慶上空には27
機の中国軍機が編隊を組んで飛んでいた。ソ連製の最新鋭機イ
15、イ16である。零戦隊は相手より千メートル高い位置か
ら、突っ込んでいった。中国軍機は気がついて、あわてて散開
したが、零戦はスピードが速すぎて相手を追い越してしまった。

 27機対13機が入り乱れての空中戦となった。動きの緩慢
なイ15、イ16の横を、零戦の高速の機影がかすめて通り過
ぎる。落ちていくのは、中国軍機ばかりであった。20ミリ機
銃の威力はすさまじく、敵機の主翼を飛び散らせた。「なぜ、
あんなに落ちていくのか」と零戦パイロット自身が不思議に思
えたほどであった。大空中戦はわずか10分ほどで終わった。

 鮮やかな夕焼けが、漢口上空を染める頃、13機の零戦が滑
走路につぎつぎと着陸した。パイロットたちが搭乗機から降り
立つと、彼らはたちまち大勢の将兵に取り囲まれた。「敵戦闘
機、イ15、イ16、27機を確実に撃墜、または炎上破壊。
只今全機帰着いたしました」と報告すると、周囲はどよめいた。

 二日後に、この空中戦のニュースが新聞報道されると、三菱
重工・名古屋航空機製作所の内部は湧きに湧いた。その中で堀
越は、ひとり机の前に無言で座っていた。その顔には、3年間
の緊張が一時にゆるんだような疲労の色が浮かんでいた。

■8.「そんな戦闘機を日本が作れるはずがない」■

 重慶市街上空の衆人環視の中で、ソ連の最新鋭機イ15、イ
16が、半分以下の機数の日本機に全滅させられたことに、中
国空軍は戦意を著しく喪失し、さらに奥地の四川省成都まで後
退した。零戦部隊はそれを追って、攻撃を続けた。

 日本国内では零戦の量産体制が整えられ、三菱重工と中島飛
行機が毎月数十機という規模で続々と零戦を生み出し、前線に
送り込んだ。

 中国大陸での零戦の作戦行動は、昭和16(1941)年8月末に
完了した。大陸全体が、日本の航空兵力の制空下に納められた
からである。約1年間で中国空軍に与えた損害は撃墜162機
(不確実3)、地上での撃破264機。零戦の被害はわずか2
機、それも地上からの防御砲火によるものであった。

 中国空軍は、アメリカのクレア・シェンノートという元陸軍
航空大尉によって指導されていた。シェンノートは蒋介石から
の厚い信任のもとに、アメリカ、ソ連、イタリアなどから最新
鋭の戦闘機を購入し、多くの中国人パイロットを育てていた。

 零戦の登場にシェンノートは激しい恐怖を覚え、その客観的
なデータとともに、世界航空界の先進国を自負する米英軍の最
新戦闘機でも、零戦と交戦したら悲惨な結果となると警告した。

 しかし、その警告にアメリカもイギリスも全く反応を示さな
かった。数年前まで日本は米英の航空技術をコピーしていた後
進国であった。シェンノートが報告したような驚異的な性能を
持つ戦闘機を、日本が作れるはずはない、と彼らは信じこんで
いたのである。

■9.世界航空史に残した画期的な一頁■

 そうした米英の思いこみを一挙に粉砕したのが、冒頭に述べ
た昭和16(1941)年12月8日からの3日間の出来事であった。
米英軍は大恐慌に陥った。

 昭和17(1942)年6月のアリューシャン攻略作戦では、零戦
隊は米軍機40数機を撃墜するなど、大きな戦果を上げたが、
1機の零戦がガソリン・タンクに被弾し、無人島に不時着した。
機体は裏返しとなり、パイロットは死亡した。その機体を入手
した米軍は狂喜した。

 機体はアメリカに持ち込まれ、徹底的な分析が行われた。
20ミリ機銃を装備しながら、極めて機体が軽く、米戦闘機で
はとうてい敵わない運動性能を持っていた。しかも航続距離は
1600キロという例のない水準である。アメリカの航空技術
者は驚嘆した。その調査結果から、米軍は零戦1機に対して2
機で急降下攻撃を加えること、それが失敗したらそのまま逃避
して、決して格闘戦に入らないようにせよ、という指示が出さ
れた。

 その後、米軍は新鋭機を続々と開発・投入したが、一騎打ち
で零戦に対抗できるものはなかった。しかし、アメリカの巨大
な工業力で大量生産される米軍機に取り巻かれると、多勢に無
勢で、零戦も撃墜されることが多くなっていった。さらに「空
の要塞」と呼ばれる爆撃機B17、B24、そして後のB29
は、堅固な防御に覆われ、前後上下左右に銃座が設けられて、
零戦でもなかなか撃墜できなかった。

 しかし大東亜戦争末期のフィリピンや沖縄での戦いでは、零
戦を中心とした特攻作戦が大きな戦果をあげ、米軍を恐怖に陥
れた[d]。結局、零戦は支那事変から大東亜戦争まで5年間も
第一線で主役を務め続け、世界航空史に画期的な一頁を残した
のである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(168) 日米開戦のシナリオ・ライター
 対独参戦のために、日本を追いつめて真珠湾を攻撃させよう
というシナリオの原作者が見つかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog168.html
b. JOG(174) 大空のサムライ〜坂井三郎
 撃墜王の「苦難と勇壮の物語は、万人の胸にうったえる」と
ニューヨーク・タイムズは評した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog174.html
c. JOG(270) もう一つの開戦 〜 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅
 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲
いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog270.html
d. JOG(214) ジャネット・デルポートと関行男大尉
 オランダ人女性ジャネットは不思議な体験から特攻隊員の心
の軌跡を辿っていった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog214.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 吉村昭『零式戦闘機』★★★、新潮文庫、S53
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101117063/japanontheg01-22%22




/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「」に寄せられたおたより

けんいちさんより
 零戦(れいせん)についての3日間の記述は正確で納得でき
るものです。新聞紙上にこの戦闘機が公開されたのは、登場後
5年もたった昭和19年でした。当時国民学校4年生だった私
達は零戦と0式戦は同じだろうか等・・議論したものです。

 教訓がいくつかあります。堀越さんが試作した最初の戦闘機
は失敗作で、防御過剰でしたが、その次に96式艦戦という世
界水準を抜く傑作機が生まれたのです。初心技術者に最初の失
敗を許し、次に期待した事が大成功につながった事実は重要な
教訓です。

 零戦は細く優美、米グラマンはずんぐりと樽のようで醜い、
と私達はあざ笑いましたが、そこにおごりと見落としがあった
ようで、大事な教訓です。ガソリンタンクは致命部で弾が当り
発火すれば爆発の危険があり、米機は防弾タンク、零戦は無防
弾だったのは知られていますが、グラマンの樽型はタンクをす
べて胴体に収めていたためのようです。零戦は胴体と翼にもタ
ンクがあり、真後ろから狙われたときに発火危険の面積が圧倒
的にグラマンより大きかったのではないでしょうか?

後日談
 12月8日、長躯して台湾から比島クラーク基地を襲った零
戦隊の指揮官の一人が、後に御巣鷹山の日航機事故で救援に活
躍した上野村の黒沢丈夫村長だったのは真に不思議な縁です。
同じ日に真珠湾に殺到した日本海軍の全搭乗員の名簿と、その
後の消息は手元にありますが、大部分が終戦までに相次ぐ航空
戦、海戦で戦死し、生き残った少数の人々も4年後の終戦の日
まで大空で戦い続けているのは感動的です。終戦時に米海軍の
パイロットは真珠湾生き残りの日本のパイロットを探し求め、
出会うとオーボーイ!と言って抱きついてきたと、零戦隊指揮
官の一人、志賀淑雄さんは語っています。

「Kazy」さんより
 以前に航空機に詳しい私の友人に聞いたお話を紹介致したく、
筆を取りました。この零戦が非難される点として「格闘性能を
高めるために防御を放棄して搭乗員の命を軽視した」というも
のが有りますが、彼によると、それは、当時の戦闘機の設計上
の常識である「自らの搭載兵器による攻撃を防ぐものを備える」
ことが20ミリ機関砲の搭載によって不可能になったため、中途
半端な防護兵器を備えるよりは運動性能による回避を重視した
結果に過ぎないとのことでした。そして、現代の戦闘機は全て
この方式を取っているとのことでした。

 現在の戦闘機が備えている機関砲は最大のもので30ミリにも
なり、戦車の装甲すら打ち抜く威力を持っているので、そのよ
うな威力のある銃撃を防ぐ装甲を航空機に搭載すること自体が
非常識なものだとのことです。つまり、零戦の設計はその意味
でも大変革新的なもので、ある意味では早すぎたものですらあっ
たということです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

「格闘性能を高めるために防御を放棄した搭乗員の命を軽視し
た」という批判が当たらないことは、当時の新鋭機を揃えた中
国空軍との約1年の戦闘で、撃墜162機(不確実3)、地上
での撃破264機。零戦の被害はわずか2機、それも地上から
の防御砲火によるものであった、という事実が雄弁に語ってい
ます。
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108042793.html
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by thinkpod | 2006-12-18 05:31
2006年 12月 06日

ああ, 震撼の韓国軍!

ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録

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(写真/ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が大量虐殺を正当化した.)

戦争はこんな所でも起きたのだろうか.
丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し,
椰子の樹とマンゴ—とパパイヤ, バナナの樹….
窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている.
太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけがちらほらと島のように動いている.
真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う.
果して、わたしたちはあのとき、このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか.
理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場,
その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を果てしなく走った.


生き残った老僧の証言

"1969年 10月14日,
ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した.
サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒,
同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. は、この事件で71歳の住持僧,
69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"

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(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)

筆者は2年前, ベトナム政治局から出された‘戦争犯罪調査報告から-
南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’という資料の一部をようやく手に入れることができた.
私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書,
しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった.
それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’
韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、ベトナムを訪問した韓国市民団体‘私と私たち(ナ
ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した.
‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画したピースボート(Peace
Boat)に乗り込み、韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある.
“日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”という彼らは、これからは‘韓国人の力で’ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである.
筆者は初めて寄着時から同行することにした.

ベトナム南部海岸に位置したパンランは、観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ.
最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず,
歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった. ただ
‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった.
私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した.
しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた.
蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという焦燥感を感じながらも,
一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.

翌朝,
私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から急な知らせがきた.
元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は戦争中に爆破されて,
パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺がまた建てられたということだ.
わたしたちはすぐさまそちらへ走った.
そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者のウンウェンティ
ユエンハン(45)に会うことができた.
ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が,
認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.


子供も妊婦も容赦なく…

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(写真/'忘れたい戦争'. 韓国軍に殺されたベトナム人の数は、公式統計だけでも 4万1450名だ.)

“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました.
続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました.
そして、屍体を皆燃やしました.”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は恐ろしさで真っ青になり、叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する.
リンソン寺には、五人の僧侶が住んでいた.
その時、プフ僧侶は住持僧より先に村におりて行き、喪家で読経を行っていた.
証言の大部分はユエンハンを通じてなされ,
その寺で唯一の生存者のプフ僧侶は口数が少ない.
当時の話をしながらも、人々はその時の虐殺の主人公の後裔に配慮してくれた.
冷たいお茶を持ってきて, 果物の皮をむいて薦めてくれ,
パパイヤを食べて汚れた口をすすぎなさいと、水まで汲んできてくれた時には、涙が溢れ出た.

プフ僧侶が村に帰ってきた時、寺は既に修羅場と化していた.
プフ僧侶は火にくべられていた五人の僧侶の死体を近隣の小屋へと移した.
死体奪取に対する不安からあった. このことが伝えられると,
パンラン地域全域の学校が休学を決議して,
学生達と仏教徒たちが一斉に蜂起した.
“ベトナム政府は良民虐殺を即刻中断しなさい!”
“人殺しはベトナムを出て行け”等等、凄まじい叫び声がパンランを巻きこんで,
僧侶たちの死体は12日を過ぎてやっと火葬できた.

“火葬をしても、僧たちを安息させられなかった.
僧たちを祭る寺が消えたからですよ.
僧たちの骨を壷に納めていたのですが、やっと昨年、この寺に安置してあげましたよ.”プフ僧侶がやや低めな声で話を続けた.
韓国軍人たちの銃器乱射事件で廃虚になった寺は、その後また再び爆撃を受けて跡形もなく消えた.
そして、昨年、仏教徒の在米ベトナム同胞の援助でまた寺が建てられた.
プフ僧侶は30年ぶりに住持僧としてこの寺に帰ってくることができた.
寺の前に当時死んだ僧侶たちの遺骨が納められた三重塔がある.
私たち一行はその前に頭を下げて、僧侶たちの冥福を祈った.

どちらかというと、私達がリンソン寺で聞かなければならなかった話は、今から会う、数多くの証言の中でも最も安らかな話になるかもしれない.
大雄宝殿の席から見下ろすと, 空と海と野原がひと目で見渡せた.
どこに目を向けても、限りなく平和なだけの,
限りなく懐かしいだけの風景,
しかしその中には、まだどれくらい多くの話が隠されているのだろうか?.
‘私と私たち’一行は、韓国軍の軍事作戦が最も熾烈に展開された中部地方にまた再び旅立ち,
筆者はリンソン寺を振り返りながら、振り払えない重い歩みでホーチミンに帰ってきた.


"女性たちを強姦した後、殺害"

韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる.
前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索,
破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた.
筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが,
その一部をここに紹介する.

1965年 12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して,
きれいに燃やして, きれいに破壊する”というスローガンの下、
捜索掃討作戦を繰広げた. 彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性,
3名の妊産婦, 70歳以上 6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した.

"…
などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました.
彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました.
妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり,
子宮が外に出ていました.
韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して,
子供の頭を切り取って地面に放り投げ,
あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.

彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し,
ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました.
そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"


パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の‘私と私たち’一行から電話がきた.
“見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です.” 1966年
3月19日と20日の二日間にわたった‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ.
“手にしている、この資料がますます 恐ろしくなりますね.
ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならないかもしれません.
ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく、韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです.”
当時の報告によれば、66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、猛虎隊
3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて,
そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった.
また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ, 649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された.


このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して,
韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した.
生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は, 無差別機関銃乱射,
大量殺戮, 妊産婦, 女性に対する強姦殺害, 家屋への放火などだ.
生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる.


-住民たち(大部分が女性と老人,
子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.


-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.


-子供の頭を割ったり首をはね,
脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.

-女性を強姦した後、殺害して,
妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.

-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.


韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた.
老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった.
恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.


果して、あなたたちに真の反省はあるのか

私たちにもベトナム戦は忘れたい戦争だ. 韓国は1964年、医療支援団とテックォンド教官等、270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣することによってベトナム戦に軍事的な介入を始めた.
以後、65年から73年まで、約30万名の戦闘部隊を‘ベトナム政府の要請’という美名の下、ベトナム戦線に投入した.
この過程で韓国軍も4960余名が戦死して、10余万名が負傷した.
しかし、韓国軍はまた、敵軍のベトナム人を4万1450名も殺す全勝(?)をおさめもした.
我が軍の死者数の10倍に達する敵軍を戦死させたのである.
それも、公式的な統計上でだけ!

そして戦争は終わった. しかし、終戦24年を迎える、この瞬間にも地球上のあちらこちらからは新しい銃声が響いている.
韓国ではコソボでの人権を叫ぶ声も高い. 20世紀の傷が癒える前に、21世紀のまた違う傷ひとつを産んでいるのだ.
加害者も被害者も傷ついた‘今日’を治癒する過程なしでは、私たちに未来はないだろう.
たとえ、それが良心にメスを入れる痛みを通じてだけ可能になるとしても.

歴史は私たちに疑問符ひとつを投げかけている.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか.


ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員

vninfobank@hcm.fpt.vn
ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号 .
99年5月256号ハンギョレ21(cache)
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm


ああ, 震撼の韓国軍!
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
その後‘ベトナムの怨みの霊を記憶しなさい’
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99278.htm
兄さんの重荷を減らしてください 韓国とベトナムの読者の手紙
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99282.htm
ベトナムの熱い感動!
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99287.htm
キム・ギテ 予備役大佐 インタビュー
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore00305_1.htm
勲章を捨てた父
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore00312.htm






私の村は地獄になった

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)

 今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965〜73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。

ニューズウィーク日本版
2000年4月12日号 P.24
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by thinkpod | 2006-12-06 00:37
2006年 11月 29日

「郵政改革」の真相を明かす一通の手紙

アメリカの郵政は国営が基本だ。
なのに何故、日本に民営化を迫るのか

 郵政民営化は誰のためか? 何のための解散・総選挙か? 小泉純一郎首相と竹中平蔵のコンビはいう。
 「小さな政府をつくる。郵政改革はその第一歩だ。この改革なくして日本の明日はない」
 騙されてはいけない。真相を暴露する手紙が、参院の特別委員会で披露された。宛名は竹中平蔵。差出人は前アメリカ通商代表部のボス、ロバート・ゼーリック(現国務副長官)だ。
 日付は二〇〇四年十月四日。竹中が経済財政担当に加えて、郵政民営化担当大臣を兼務することになった時点だ。
 この手紙を民主党の櫻井充が読み上げた。全文を読んでみたいと思い、翌日、新聞五紙を見たがゼーリックの「ゼ」の字も出ていない。完全無視。人を介してコピーを入手した。全文を引きたいところだが、紙幅の関係で要約する。

 -竹中さん、オメデトウございます。金融大臣としてよいお仕事をされた。それが新しい任務を招きました。この任務を小泉首相が貴方に託したことは、われわれにとって心強い。貴方に前と同様の決意とリーダーシップを期待します。
 保険、銀行、速配業務において、競争条件を完全に平等にすることは、私たちにとって根本的に重要です。郵貯と簡保を、民間とイコールフッティング(同じ条件)にすること、すなわち民間と同様の税制・セーフティネットを義務化し、政府保証を廃止するよう望みます。ついては以下の点で、貴方を後押しいたします。

 ①民営化の開始(〇七年)から、郵貯・簡保業務に(民間と同様に現行の)保険業法、銀行法を適用すること。
 ②競争条件の完全な平等が実現するまで、郵貯・簡保に新商品や商品の見直しは認めてはならないこと。
 ③新しい郵貯・簡保は相互扶助による利益を得てはならないこと。
 ④民営化の過程において、いかなる新たな特典も郵便局に与えてはならないこと。
 ⑤その過程は常に透明なものにし、関係団体(筆者註、アメリカの業者を含む)に意見を表明する機会を与え、これを決定要因とすること。

 この間題について、今日まで私たちの政府が行った対話を高く評価します。貴方がこの新たな挑戦に取りかかる時に、私が助けになるなら、遠慮なくおっしゃって下さい……
 末尾に手書きで「Takenaka-San」と呼びかけ、次のように結ぶ。
 「貴方は立派な仕事をされました。困難な挑戦の中で進歩を実現された。新たな責務における達成と幸運を祈念いたします。貴方と仕事をするのを楽しみにしております」
 手紙が読み上げられる問、議場から「へぇー」とか「ホォー」の驚嘆しきり。その間、当の竹中は居心地悪そうに、しきりに手で顔を撫でまわす。
 毎年十月、アメリカ通商代表部は日本政府に 「年次改革要望書」を突き付ける。毎年三月、代表部はその成果を議会に報告する。議会のさらなる要望を受けて、代表部は日本を督励・監視する。日本の「諸カイカク」は、そのシナリオに沿って行われて来た。
まさに手紙は郵政民営化担当大臣・竹中を督励する内容だ。櫻井は訊く。

 「竹中大臣、貴方はこれまでアメリカの要人と民営化について話し合ったことはありますか」
「いや、一度もございません」

 ならばと、櫻井はこの手紙を読み上げた。
それにしても私信が公の場で暴露されるのは、尋常一様ではない。民主党議員に訊いてみた。
「どうやって入手したんです?」
「竹中の周辺に、こい奴はおかしいと腹に据えかねている良心的な人間がいるんですよ」

三百四十兆円を売り渡す

 手紙は郵便・窓口についてはほとんど触れない。郵貯・簡保についてのみアレコレと指示する。狙いは明らかだ。
郵貯・簡保に貯えられた三百四十兆円 - 日本人の最後の貯金、それが狙いだ。手紙はそれを露骨に物語る。
 すでに商法改正は、株式交換による会社の買収・合併を可能にしている。これまた例のシナリオに従った。それによって株式時価総額の大きい会社は、小さい会社を容易に買収・合併できる。日本の株式時価総額は、アメリカの格付け会社によって不当に低く抑えられている。格付け会社はアメリカ大手資本の「別働隊」だ。ために株式時価総額における日米の比率は一対八だ。
三菱東京銀行の中堅社員がいう。
「ウチの株式時価総額は四兆円かそこらです。くらべてシティバンクは三十兆円。TOBを仕掛けられたら、ひとたまりもない」
 郵貯・簡保を民営化させ、郵貯銀行と保険会社とする。これをゼーリックいうところの「完全な競争原理」に晒せばどうなるか。
アメリカの大手資本が併呑する。櫻井もいう。
「これが乗っ取られるのではないか。すでにアメリカの大手資本が、ゴールドマン・サックスでしたかな、一兆円の資金を準備したとも聞いている」
 元郵政相・自見庄三郎(山崎派)は衆院の採決に先立ち、反対の「撤文」を全議員に配布した。
「財政赤字に苦しむアメリカは、日本の郵政民営化に期待する。
三百四十兆円の郵貯・簡保資金は、アメリカによる日本買い占め資金に回す結果となるのだ」
 つまりは国民の資産三百四十兆円をアメリカに売り渡す法案だ、というのだ。どうあっても民営化するなら、郵貯銀行、保険会社につき、事前に防衛策を講じる必要がある。修正案に盛り込もうとする主張もあったが、小泉・竹中のコンビが最後までこれを拒否した。理由はくだんの手紙で明らかだ。ボスの指示とあれば拒めない。

 堀内光雄が配布した文書がある。
説明に訪れた竹中とのやり取りが記してある。

 堀内 この法案にはビジョンが出ていない。結果はどうなる、それが出ていない。
 竹中 そうなんですよね。
 堀内 そこが問題なんです。
 竹中 これはわれわれとしても大変悩ましいものがあるんですが、それをお決めになるのは次の経営者なんですね。その経営者を差し置いて、われわれ政治家や役人がビジネス・モデルをつくるのは、若干、恥じらうところがあります。
 堀内 それはちょっと違うのでは?改革というのは、目標とするところの姿を示すことに意義があると思うんです。革命は、やればできるといってアトのことは示さない。革命になったら困るんですよ……。

 郵貯銀行、保険会社の未来は経営者が決める。アトは野となれ山となれ。これでは革命でもなければ改革ですらない。郵政を国営とするアメリカが、なぜ日本には民営化を望んで圧力を加えるのか。コトは郵便や窓口の話ではない。そんなことはアメリカにとってはどうでもいい。

 それかあらぬか参院で法案が否決された翌日、ウォール・ストリート・ジャーナルは書いた。
「これでわれわれが待ち望んだ三兆ドルは、しばらくの間お預けだ。しかし小泉は頑張るだろう」
 この新聞はアメリカ大手資本の「広報紙」だ。それがはからずもアメリカの本音をあらわにした。

ブレア首相の皮肉

「郵政」 の名に隠れているが、今国会の本質は「金融国会」だった。
竹中が金融担当を経て経済財政担当を兼務しながら郵政民営化担当大臣に就いたこと自体が、それを示している。
郵貯・簡保三百四十兆円の扱いが、アメリカにとっても、その意を受けた小泉・竹中にとっても、文字通り「本丸の本丸」だった。
郵便・窓口など二の次、三の次だ。
 アメリカは官民一体となった 「金融攻勢」を仕掛けて来ている。郵貯・簡保三百四十兆円の行方は金融に大きな変化をもたらす。ましてこれが乗っ取られるとなれば、なおさらだ。
 郵貯・簡保三百四十兆円は、うち二百兆円を財務官僚が運用し、一説にはすでに百兆円が不良債権化しているとされる。
百兆円の国債を発行してこれを身奇麗にする。
キレイにした三百四十兆円を民営化して、ハゲタカの前に晒す。これが旧長銀よろしく買収された場合、百兆円の日本国債はアメリカの手に落ちる。日本の公的機関が抱える米国債は七十五兆円とされる。アメリカにすればお釣りが来る。アメリカは日本に米国債を売らせない。永遠に塩漬けとする。一方、日本国債を大量に売ればどうなるか。暴落は必至。切羽詰まればアメリカは何でもやる。
 国債とは国民からの借金だ。百兆円の借金は、いずれは税金で賄うしかない。とどのつまりは国民の負担となる。八兆円を注ぎ込んだ旧長銀の買収事件と同様だ。ハゲタカのリップルウッドは十億円の投資で一兆円の利益を上げた。これの再現にならないとは限らない。首相は櫻井に答えた。
「外国の資金が入って来る。結構なことじゃないですか。私は外資歓迎論です。棲井さん、いい加減、島国根性は捨ててもらいたい」
 外資歓迎? 日本にカネはダブついている。それが塩漬けになってまわらない。これをまわすようにする政策こそが急務だ。それを首相はやろうとしない。ひたすら 「官のものを民へ流す」 と叫ぶだけで、実行が伴わない。第一、郵貯・簡保のカネは「官のもの」ではなく「民のもの」 だ。
 たしかに郵貯・簡保の「カネの出」について問題はある。財政投融資を廃止するなり(事実そう決められた)、カネの出を厳重管理すれば足りる。
「カネの入り」 はきわめて健全なものだ。偽名による多重口座の問題もあるが、「名寄せ」をする等して、これまた厳重管理すれは足りる。ひっくるめて 「カネの出入り」を健全管理することは可能だ。これを民営化して大手外資の攻撃に晒するのは、たらいの水ごと赤児を流すに似ている。
 ちなみにイギリスは郵便貯金を国営としている。ニュージーランドは民営化して外資に乗っ取られ、慌てて郵貯を国営に戻した。ドイツの国営化は失敗、Uターンを始めている。分割したドイツポストとドイツポストバンクを再び統合させる等混乱が続いている。アメリカの郵政は国営を基本とする。
だから最近、イギリスのブレア首相は訪れた笹森消・連合会長に皮肉った。
「日本だけが逆行しているようですね」
 日本人の最後の貯金を「お預け」としたのは、反対派議員の職を賭けた起(けっき)だ。その彼らをいまや首相は「刺客」を放って追い詰める。メディアも「守旧派」として冷ややかに扱う。話が全く逆だ。善玉と悪玉を取り違えてはいけない。

月刊リベラルタイム
2005/09/03発売号 (10月号)
永田町仄聞録
「郵政改革」の真相を明かす一通の手紙
ジャーナリスト◎堤 堯
http://www.fujisan.co.jp/Product/1276354/b/76638/
堤堯
東大法学部卒、文藝春秋編集長、出版総局長、常務を経て退社。

http://tech.heteml.jp/2005/09/post_85.html
http://tech.heteml.jp/2006/11/1_2.html
http://tech.heteml.jp/2006/11/2_3.html

石原知事定例記者会見録 平成17(2005)年7月29日(金)

【記者】国会の方で、もうすぐ郵政民営化の法案が参議院で採決される見通しで、もし否決されると、即、解散総選挙になるんじゃないかという話もあって、その中で政界再編の動きとして、新党結成などという声も言われておりまして、まあこれはいつもの話でもありますが、知事が新党に参画するのではないかという声も、また最近いろいろ出ていますが、政界再編の見通しについてどうお考えになるかと、知事がそれについてどう参画するか、今の考えを聞かせてください。

【知事】私は基本的に民営化賛成なんですよ。ほかの国の例なんかを見てもね。ただ、一部の人たちが心配し反対しているように、諸君はご存じかどうか知らないけども、私が国会議員のころ、小沢一郎(衆議院議員)が幹事長のときに、私は絶対反対したんですが、アメリカが日本に経済構造協議っていうものを持ちかけてきた。これはGATTとか、そういった国際貿易を論ずる機関が、当然そこの場所で議論すべきことだけど、相手が日本なんで、ヨーロッパがそっぽ向いて勝手にやれということで、日本は押しつけられた。

 それで、非常に理不尽な二百数十項目の要求を突きつけられてね、我々それに反発して、私が主宰している勉強会で、日本側で百五十項目ぐらいのカウンタープロポーザル(逆提案)を出しましたが、それそのものが党議に、総務会に持ち出すつもりだったけど、かかることが嫌いで、小沢君は意識的に会期末だったけど、3回総務会を流してこれを葬ったけども、私たちはほかのところで、例えば英訳したものを外人記者クラブで発表したりして、当然ほかで記者会見もして伝わりました。

 あのとき、日経連の会長をしていた鈴木永二さんが「何でこんないいものをもっと早く発表しないんだ。怠慢だ」と言って、私、叱られたんですけどね、先輩なんで。言いわけをしたんですがね、「ああ、自民党もそんな体たらくになったか」という慨嘆(がいたん)を鈴木さんがされたけども。あのときから、日本は一方的に強いられて、小沢と金丸(故金丸信 元副総理)の裁断で、日本は皆さん、400兆のやらなくていい公共事業ってのを、金がダブってたかもしらんけど、8年間でやったの。

 合計430兆というめちゃくちゃな金を、浪費するために使ったんですよ。その影響がいまだに生きていて、アメリカは日本に年次改革要望書ってのを毎年送ってきてる。これには例えばアメリカの弁護士が参加して、日本の法律を弁護士がこう変えろとか、建築をこう変えろとかああ変えろとか、全部アメリカの都合でやる。そういう傾向ってものを国会議員、どれだけ知ってるか知らないけども、反発しないね。しかし、一部の人たちは陰でぼそぼそ、こんな形でいくと、簡保にしろ郵貯にしろ、国が持ってるもう1つのお財布が結局、民営化されると、日本の銀行が軒並みやられたみたいに、アメリカの膨大な金融力ってものに収奪されて、日本の金が日本の金じゃなくなるんじゃないか、そういう懸念はあり得るかもしれない。長銀なんかの例を見ても。

 まあ、そこまで竹中君(竹中平蔵 内閣府特命担当大臣(経済財政政策)・郵政民営化担当)が考えて、アメリカの太鼓をたたいているとは思いませんがね。しかし、そういう憂慮をするような大きな背景があるってことをメディアの諸君も心得てもらいたいし、国民の皆さんも知っといた方がいい。アメリカは実に勝手なことをしています。勝手な事を要求してる。ほとんど日本はこれを聞いてきた。そして、やがて日本にウィンブルドン現象が起こるかもしれない。つまりウィンブルドンという華々しいテニスのコートで競い合ってるのは、全部外国人。提供しているのはイギリスということでね。

 そうならないように私も期待してるし、そういったものがどこまで国民の意識にとまって、仮に郵政の民営化云々の問題で選挙になったとしたときに、もうちょっと国会の議論というものをわかりやすく、賛成派も反対派も国民に伝える必要があるね。

 この島、この田舎には1軒しか郵便局がない。これは消えちゃうことはありませんよ。ニーズがあるんだったら残しますよ。要するに、合理的っていうのは、要るものまでつぶすということじゃないんだから。だから、そういう議論を国会が行わなくちゃいけないけど、何か知らないけど、政局絡みで上っ面のことばっかりで。青木(青木幹雄 自民党参議院会長)だとか片山(片山虎之助 自民党参議院幹事長)が参議院でどうこうああこうする、そんな本当に見えない部分の話ばっかり出てきてね。

 私はやっぱり非常に今の国政のあり方ってのは、運営そのものを含めて、それは片一方は強引にやるでしょう。自分のかねての懸案だから。それを承知でみんな総裁に担いだんだろうからね。その後どうなるか知らないけど、私は基本的に郵政の民営化は賛成ですから。それで解散されて、小泉反対というわけにはなかなかいかんでしょうな。

 あとはご賢察ください。
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2005/050729.htm


石原知事定例記者会見録 平成17(2005)年8月5日(金)

【知事】ただもう非常に浅薄で、コップの中の嵐でね。与党も野党も言っていることが薄っぺらくてね。私は基本的に、郵政の民営化って賛成ですよ。離島に郵便局がなくなるみたいな、そういうセンチメンタルなことを言っているけど、それはなくなるわけはない。ただ、都会では、既存の郵便局を含めてのそういう組織が必要かどうかということになれば、亡くなったヤマト運輸の小倉さん(小倉昌男 元ヤマト運輸会長)が言っていたけども、ああいうところの宅急便なんていうのは、取扱所というのは郵便局の数よりも多いわけですからね。そういうところに頼めば、もっと早く届くケースもある。しかし、それだけの問題じゃない。大事なことは、その郵便貯金、それに簡易保険、そういったもののお金がどうなるか。私は、環境庁の大臣をしているときに、福田内閣で四国みたいなちっぽけな島に橋を3本架けるというから、私だけが反対したんだ。こんなのは儲かりっこないから。役人が鉛筆をなめていいかげんな数字をつくって、そうだそうだとみんな賛成したの、政治家は。どうですか。あれは財政投融資でね、郵便貯金を使ってつぎ込んだけど、全部不良財産だよ。あんなもん金が返ってくるわけはないよ。ほかにいろんなケースがあるでしょう。そういうときに、一体その郵貯というものを民営化するときに、実態はどれだけの金融資産があるかということをはっきりさせないとね。どれだけの不良債権化しているかということをはっきりさせなかったら、これは非常に、民営化も結構だけど、危ないことをやることになるし。それから反面ね、本四架橋は困るんだけども、もうちょっと合理的な、国家的なインフラの整備、プロジェクトなどのときに、政府は財政ピンチだからね、郵貯とか簡保のお金を財投で使ったわけですよ。やっぱり政府は、隠したお財布を持っているみたいで、そういう意味ではあった。ただ、それを本四架橋のように勝手気ままに使って不良債権化するというのは、一種の社会主義的な金融行政でね、これは好ましくない。そこら辺のところをどう歯止めするか、どう有効にするかということを、国会でわかりやすく議論してくれたらいいのに、全然そういう議論が出てこないんだ。

 それで竹中(竹中平蔵 内閣府特命担当大臣(経済財政政策)・郵政民営化担当)はアメリカの手先だとかね。アメリカの言いなりになって民営化したら、全部向こうに乗っ取られちゃう。それはアメリカの金融資本力というのは日本の数十倍ありますから、怖いですよ。そういうものにどう歯止めをかけていくかという話は全然出てこない。まあお粗末だね。
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2005/050805.htm

http://amesei.exblog.jp/1708133/
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by thinkpod | 2006-11-29 03:28
2006年 10月 28日

中国の対日政治工作 70年代から本格化 CIA文書公開

影響力阻止狙う「策略」

【産経新聞 2004年10月22日】
 【ワシントン=古森義久】中国が1970年ごろから日本のアジアでの影響力拡大を防ぐために、あえて日本の内政に干渉し、日本の軍国主義や帝国主義の復活を宣伝するプロパガンダ(政治宣伝)工作を本格的に開始したことが、このほど解禁された米国中央情報局(CIA)の秘密文書から21日、明らかとなった。

 CIAは中国の1948年から76年までの内政や外交を詳しく分析した国家情報評価の秘密文書約500ページを18日に解禁したが、その中には中国の日本に対する政策や工作に関する記述も含まれている。

 70年11月の「共産中国の国際姿勢」と題する文書では、「北京政府は日本の内部問題への限定的な干渉を進めることを決め、軍国主義復活という帝国主義的な日本の亡霊を掲げる集中的なプロパガンダを開始した」と述べ、この宣伝工作は「アジアの伝統的な日本へのおそれをあおり、日本の影響力を断つことも目的とする外交政策上の策略」だと断じている。つまり、米国としては中国の対日宣伝の非難は事実に反する「亡霊」づくりとみていたことが明らかにされている。

 文化大革命の最中にあった当時の中国共産党首脳が日本に対しそうした動きをとるようになった背景の説明として、この文書は(1)日本は顕著な経済実績とアジアでの積極的役割拡大に向けた米国の支持により、北京にとりアジアで特別な存在となった(2)北京は日本の潜在的な軍事力と大東亜共栄圏復活への意図に懸念を抱き、とくに69年11月の佐藤・ニクソン共同声明での沖縄返還と日米同盟強化でその懸念を高めた(3)北京はこの声明が日本のアジアでの影響力拡大を奨励したとみて、日本が米国がアジアから撤退した場合に経済や軍事で中国を抑えてアジアでの主導的立場に立つことを恐れ、とくに台湾の保護者となることを阻止したいとしている−などを指摘している。

 文書は中国の対日工作の内容については、「日本の指導者、政治、アジアでのいわゆる野心などに対する硬直的で、口汚い攻撃的なプロパガンダ」と述べる一方、中国が日本への非難を激しくするのは「日本国内での中国側の政治的資産やテコが大幅に減り、文革の過激な言動のために中国のイメージも極端に悪化したため」、プロパガンダが日本国内であまり効果をあげないからだ、と分析している。

 中国の「日本国内での政治的資産」について、CIAの別の中国評価文書は1960年代の状況として「中国への支援は日本共産党内の少数派の一部勢力や特定の過激派学生や労組の間に存在する」と述べながらも、日本共産党の親ソ連派に押されて大きな力はない、としている。

 中国の対日宣伝の総括的な効果について、70年の文書は「北朝鮮のほかには東南アジアの一部の人たちを印象づけたかもしれないが、日本人への影響は少なかった」と総括している。




「本当に“アジア外交”の扉は開いたか? 日本に深く浸透する中国共産党の概念」
            『週刊ダイヤモンド』    2006年10月21日号

安倍晋三首相の中韓両国訪問によって、閉じられていた“アジア外交”の扉が開けたかに見える。

扉の開き方はこれでよかったのか。安倍外交は始まったばかりであり、評価については慎重でありたいが、そこには深刻な問題が含まれていると思えてならない。だが、“識者”“専門家”らをはじめ、世論は大概、安倍外交の第一歩を高く評価した。こうした日本人の対中姿勢はどこから生まれてくるのか。一つの歴史資料を連想せずにはいられない。

それは、先週の小欄で触れた中国共産党による「日本解放」のための秘密指令の「日本解放第二期工作要綱」である。日中国交樹立時の1972年にまとめられた同文書は、第一期の目的、日本の資金、技術の獲得を可能にした日中国交樹立がすでに達成され、工作は第二期に入るとの前提に立ち、「第二期工作要綱」と題されている。

同文書は「日本が現在保有している国力のすべてを、わが党(中国共産党)の支配下に置く」ことを基本戦略とし、そのためには各界の日本人のコントロールが必要として、対象グループごとに働きかけの方法を具体的に示している。たとえば、政治家に対しては次のとおりだ。

国会議員は「個別に掌握」し、「秘密裡に本工作員の支配下に置く」との大目標の下、次のように五項目の指示が列挙されている。(a)第一期工作組によって獲得ずみの者を除き、残余の議員全員に接触ルートを最少四本確保する、(b)各党の役職者や有力者は、秘書、家族、彼らに強い影響力を持つ者の三者に、おのおの個別の接触ルートを最少二本確保する、(c)全情報は「議員身上調書」として整理、公私にわたる情報を細大漏らさず集積する、(d)党ごとに議員を「掌握すべき者」と「打倒排除すべき者」に分類、後者は党内勢力をそぎ孤立させる、(e)支配下に置くためには、カネ、権力、名声など欲するものすべてを与え、または約束する。中傷、離間、脅迫、私事の暴露などいかなる手段も可である。

以上の指示のあとにはこうも書かれている。「敵国の無血占領が、この一事にかかっている」「いかなる困難、醜悪なる手段も厭うてはならぬ」。

日本国内でこのような工作を行なった後、全議員への「招待旅行」を実施せよと、同文書は指示。中国政府の招待に応じない“反動極右分子”の政治家でも“形式のいかんを問わず”必ず中国を訪れるよう工作せよと強調する。

入国した議員には「C・H・工作』を極秘裡に行なう」とあるが、同工作の内容は不明だ。工作の詳細は不明でも、現実に中国に“弱点”を握られ、あるいは“欲する物”を与えられ、公然と中国に反対したり非難したりすることができない状況にあるであろう幾人かの政治家の顔がただちに浮かんでくるのが、日本の危うい現状だ。

中国共産党による日本人への働きかけは底深い。右に引用した政治家対象の手段は、そうとわかれば日本人の反発を食らう性質のものだ。しかし、一連の活動が学界、マスコミ界、財界などの分野に配された“2,000人の工作員”によって、10年20年単位で深く静かに、秘密保持を絶対条件として実行されてきたとしたら、自らも気づかないうちに、日本人は中国共産党の物の見方に染め上げられてきたといえるのではないか。

村山談話を引き継ぎ、日本を歴史の侵略国と位置づける地平に立つ安倍外交はこれからどう展開していくのか。来年の参院選に勝利した後、余裕を得て軌道修正するのか、中国もいずれ変わると期待するのか。確かに未知の要素は存在する。だからこそ現時点での断定は避けたい。しかし、歴史問題について主張すべき点を主張せず、譲ってはならない点を譲ったのではないかとの疑問は払拭出来ないのだ。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2006/10/post_475.html


(昭和47年8月)中国共産党「日本解放第二期工作要綱」目次
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/S47/4708/470801china.html

中共「対日政策要領」 -
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-54.html
共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇 -
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-61.html
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by thinkpod | 2006-10-28 16:39
2006年 10月 27日

大東亜戦争と特攻隊

大東亜戦争と特攻隊(1)
〜 富士通名誉会長山本卓眞先生講演録 〜
日本保守主義研究会

■自存自衛の戦い—大東亜戦争■

 大東亜戦争の話をしたいと思います。中村粲先生の『大東亜
戦争への道』(展転社)の終わりにその総括が書いてあります。
それは一言で言いますと、自存自衛の戦いであったということ
であります。

 アメリカは日露戦争以降の現実を無視して、そしてアメリカ
の昔からのマニフェスト・ディスティニー(明白なる運命)と
称して西へ西へと進んできた。そして、誤った東亜政策。特に
共産主義に対する無理解、ルーズベルトに見られるいわれなき
シナへの思い入れがありました。

 ルーズベルトは母親の祖父がシナで大儲けしたという話を聞
いて、子供心にシナに親近感を非常に強く持っていたのです。
また蒋介石軍に自国の正規兵である航空兵を派遣して、フライ
ング・タイガースとして蒋介石を助けました。このような国際
法違反のようなことをアメリカはたびたび行い、かつコミンテ
ルンを軽視した結果、日本がどんどん引きずり込まれて、止め
るに止められなくなりました。

 この点、日本もどこかで思い切るべきであったと思います。
これはまことに痛恨事でありますが、誰が悪かったとかいう単
純な話ではありません。

■東亜解放という意義■

 同時に中村先生はあまり指摘なさっておりませんが、もう一
つこの戦争には東亜の解放という重大な意味があったと思いま
す。これは明治維新のところで読みました勝海舟の日朝支同盟
論、あるいは日支提携論、あるいは、さらに多分に理想論めき
ますが岡倉天心のアジアは一つという論以来、日本はアジアで
助けあって何とか立派な国にしたいということでありまして、
この願いが東亜の解放につながったのです。

 ところで、先日加瀬英明さんとちょっと立ち話をしていたの
ですが、日本はこれほど情報面でコミンテルンが策動し、アメ
リカがコミンテルンと結びついていた—ハルノートの原案を書
いたホワイトは共産党員であったかスパイであった—というこ
とを知らなかったのです。驚くべき情報欠陥がこの大東亜戦争
に伴っておりました。このように残念無念という思いもあるわ
けです。しかし、現在その情報欠陥は改善されたのでしょうか。
今は大東亜戦争時よりもひどいかもしれません。

 さて、東京裁判以来自虐史観が非常に蔓延りまして、特に解
せないのは東京大学法学部の某教授としておきましょうか、手
のひらを返したように占領軍に迎合し、左翼的、自虐的な史観
を展開し、かつ、それに抵抗する勢力を弾圧した、許しがたい
教授が登場したのもまた日本でありました。残念ながら、歴史
的事実であります。

 しかし、この戦争の結果、アジアでは多くの国が独立しまし
た。そして独立した国々が日本の貢献を口々に語ったのは、こ
れは皆様方よくご存じですからこれには触れません。特に東南
アジアですね。ただ、一つ申し上げたいと思いますのはベトナ
ムについてです。

■ベトナムで評価される日本兵■

 ベトナムに現在九十四歳のヴォー・グエン・ザップという将
軍がいらっしゃいます。彼はホー・チ・ミンの右腕でありまし
た。彼は最初にディエンビエンフーの戦い、ベトナムのハノイ
からちょっと東北の飛行機で小一時間、ここでフランスとの決
戦を行いました。

 そのときにまだベトミンはまだ戦の仕方を知りませんでした。
それを迫撃砲はこう撃つんだと、敵の陣地はトンネルを掘って
下から爆破しろというようなことを手取り足取り教えたのが残
留した日本軍将兵であります。それで、そのことをヴォー・グ
エン・ザップ将軍が残留した日本の将兵の功績は非常に大きい
ということを語りました。

 それを何とNHKがインタビューしまして、その記事が、J
R東海が出している「WEDGE」という雑誌の今年二月号の、
巻末に出ております。私はテレビも見なかったのですがその巻
末の記事で、ベトナムもまた日本に感謝しているという。

 そして、残留した日本軍将兵の教育ですね。例えば松島上等
兵は、同僚七人を失ってまでベトナムに残って、九十二年頃に
亡くなりましたが、朝日新聞のある記者が「あなたは何でこん
な苦労してまでベトナムに残ったのか」と聞いたときにこう答
えました。「ベトナム人を見殺しにして、おめおめ日本に帰れ
るかと思った」。まさに日本男児ここにあり。それから旧将校
にも脱帽します。すばらしい軍の先輩だと言っていました。こ
うして、親日という遺産、大変な遺産を、彼らはベトナムに残
してくれた。

■親日国家インド■

 もうひとつ、インド。昭和天皇が崩御されましたときに、三
日間喪に服しました。日本政府はたった二日間です。私はビジ
ネスマンですから一日だけでした。三日間喪に服した国インド
の国会の真正面に飾ってあるのは日本軍とともにインパールを
戦った、チャンドラ・ボース。右がガンジー。左がネルーだそ
うです。やはり、ガンジーの非暴力ではなく、戦わなければな
らなかったということですね。

 インド人は戦ったチャンドラ・ボースを、そして日本を決し
て忘れていないのです。つまり、インパールで数万の将兵が命
をささげましたけれども、これは戦略的には補給が無いという
意味でミスですけれども、政略的に見た場合、大きな財産をイ
ンドに残した。これを、大東亜戦争の一面として受け止めるべ
きであろうと思います。

■二〇世紀の勝者は日本■

 総括しますと、九八年の「VOICE」という雑誌に渡部昇
一先生が書いておられて、そこでドラッカーの言葉が引用して
ある。二〇世紀の勝利者。二〇世紀の政治的なパラダイム、す
なわち白人絶対優勢。白人支配。それを覆したのが日本である、
だから二〇世紀の勝利者は日本だろうというのがドラッカーの
言葉です。

 九八年頃に永野茂門という国会議員、士官学校の三期先輩で
すけれども、彼は国会議員としてチリに参りました。そしてチ
リの国会議員と話していたときのことです。日本は何であんな
に中国に謝るんだ。いや実際負けるというのは悲しいことです。
チリの国会議員が、戦争に負けたとは何だ、日本は戦争の目的
を達成したではないか。簡単に負けたなどと言うな、と言った
そうです。まあなかなか表舞台では言いにくい言葉ではありま
すけども、そういう認識は広がりつつある。

■ネパールの仏教学者の言葉■

 さて大東亜共栄圏についてです。一九〇五年日露戦争が終わっ
た年、仏教学者の河口慧海が、苦心してネパールに帰ります。
そこでネパールの首相格の人に手紙を残しております。その手
紙によりますと、「私たち日本人は、アジアの人々が互いに手
を携えてともに栄えるのをみたいのです。そのためにはネパー
ルの、皆さんもぜひこうして下さい」。つまり大東亜共栄圏の
夢が、かの国に残っている。すばらしいことだと思います。

 これは有名な話でありますが、大東亜戦争の末期、大正末期
に駐日フランス大使として勤務したポール・クローデルは、
「世界に滅びて欲しくない民族があるとすれば、それは日本だ。
日本人は貧しい。しかし高貴だ」と言いました。我々の先人は
こういう文化を持っていたということを、心の中に深く刻むべ
きだと思います。
(続く)
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/107825741.html?js


大東亜戦争と特攻隊(2)
〜 富士通名誉会長山本卓眞先生講演録 〜
日本保守主義研究会

■特攻隊について■

 さて、特攻隊について触れたいと思います。特攻隊は大西瀧
治郎中将が他に日本を救う手はないと思いつめて打った手です。
私も完全に同意します。これ以外にありませんでした。二歳上
の私の兄も特攻隊で、レイテ島に突入して戦死しております。
色々な評論家が、あの時特攻は仕方がなかったが、続けてやる
のはよくなかったと言っております。では続ける以外にどのよ
うな手段があったのか。それ以外になかったでしょう。ケチを
つけるのは簡単です。しかし先人たちが知恵の限り、身も心も
切り刻むようにして決断したことを軽視するのは許されないこ
とだと思います。

 しかし、大東亜戦争末期の特攻隊だけを顕彰するのでは不十
分です。例えば東京帝都に侵入したB29に体当たりしてこれ
を落とした人たちもあった。それから第一次上海事変の時の爆
弾三勇士。これも有名です。導火線の長さがどうこうと色々な
論評があります。しかし、後で論評するのはやさしいですが、
導火線を敵の目の前で長くするなどできるわけがありません。
ことここに至ってはこれしかないということで、三勇士は敵に
突っ込んでいって、日本軍の突撃を可能にしたのです。ケチを
つけることは、勝ち戦にだってできます。しかし、戦の大筋、
本筋を見る限り、彼らは立派な、特攻隊と共通する先人たちで
ありました。

■兄の特攻■

 私の兄は特攻隊になる前に、跳飛攻撃といって爆弾を積んで
超低空で海の上を飛び、船に水平に爆弾を落とす攻撃をしまし
た。石を海面に水平になるように投げると跳ねるでしょう。そ
のように攻撃することを跳飛攻撃といいます。爆弾が水平に跳
ねて、高い命中率で敵の艦船の船腹に当たります。これが特攻
のスタートラインだったようです。

 兄たちは戦局急を告げる中、その跳飛攻撃をすることになり
ました。出撃機は元来地上を攻撃するものだったのですが、艦
船の攻撃に移りました。陸軍の中では早い方でありました。こ
の時に兄が、福島県の原ノ町の飛行場で訓練を受け、日記を残
しました。「原ノ町よさらば」という書き出しでありまして、
「美しき思い出、原ノ町よさらば」と書かれています。その地
でお世話になった人たちへの、絶ち難い思いがそこに表れてお
ります。

 飛行機の整備、羅針盤の整備に大変苦心している様子が、日
記に克明に書かれています。そして台湾を経て、フィリピンへ、
最後の基地から立つ時に、一世一代の・・・を出したいという
ことが載っています。三五ミリ機関砲がついているのですが、
これを外して百キロの爆弾を積みます。

 そしていかに成果を挙げるかということに、まさに精魂を込
めていました。また日記の一節には、部下を無駄死ににさせぬ
こと、全部そろって艦船に特攻すること。事故を起さないよう
に万全の注意を払っているとありました。当時一部のアメリカ
人あたりが言ったファナティックな気違いじみた行為というよ
うな様子は日記からは微塵も見られなかった。しかも最後の日
に出ております、いざ敵輸送船の一行が非常に気になった。実
はレイテでの目標は航空母艦、軍艦ではないんです。日本軍は
そのころになると補給路の輸送船を目標にしたのではないかと
思われる。いろいろな思いが錯綜するのですけれども、なかな
か単純には論評しかねるような面もありました。

 さて、特攻隊に関する、特にアメリカを中心とする妙な批判
に対してお話します。実はアメリカは戦果を発表させなかった。
戦後も抑えた。これはやはり効果があったということでして、
しかも彼らは、輸送船の犠牲はまったく出していない。輸送船
の戦死者たちを出していない。極力戦果を教えない。つまり逆
に考えるといかに戦果があったか、ということでありまして、
米軍の統計を見ましても命中率が非常に高い。ここで数字を申
し上げる時間はありませんが、非常に効果があった、というこ
とが言えると思います。

■世界で尊崇される特攻隊■

 さて、アメリカはともかく、外国人たちがどう評価したか。
まず、意外なことにフィリピン人は最初の神風特攻隊の関大尉
たちが出て行きましたマバラカットに、特攻隊の碑をつくりま
した。それは立派な碑だったのですが、火山の噴火で埋まって
しまいました。その後に、また鳥居と神社を作りました。フィ
リピンの人がですよ。そして、特攻有志の像を建てます。その
折、日本のお寺のお坊さんが特攻観音の像を寄贈し、現在でも、
日比両国の合同慰霊祭が、秋に行われておるのです。昨年も特
攻協会の理事長がこれに参列している。ここでフィリピンの人
たちが感激してこれをたたえている、という一面があります。

 また、フランスのジャーナリストであったベルナール・ミロ
ー。彼は、特攻隊をこう評している。「彼らの勇気、自己犠牲
には感嘆を禁じえない。また、禁ずべきではない。彼らは人間
というものそのものであることの可能性をはっきりと我々に示
してくれているのである。これら日本の英雄たちはこの世界に
純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼ら
は千年の遠いところから今日に、人間の偉大さというすでに忘
れられたほどの使命を取り出して見せてくれたのである」。こ
う言うわけであります。

 それから、フィリピンのダニエル・デイソンという人は、日
本人軍の参謀であった、猪口力平さんが書いた『神風特別攻撃
隊』の英語版を読んで、「私はこの本を熟読し、祖国愛に燃え
て散華した、これら若い特攻隊に思いをはせるとき感激の涙を
禁じえなかった。彼らは永遠に記憶され、尊敬されるべきであ
ると、確信する」と語っております。事実、碑を立て、それが
噴火で埋まっても、もう一度鳥居を立てるということを現在行っ
ているのです。

 さらにもう一人、フランスで文化大臣を歴任しましたアンド
レ・マルロー。彼は、「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そ
の代わり、何物にも変えがたいものを得た。それは世界のどん
な国も真似できない特別攻撃隊である。スターリン主義者たち
にせよ、ナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動
である。日本の特別攻撃隊員たちはファナティックだっただろ
うか。断じて違う。彼らには権勢慾、名誉慾などかけらもなかっ
た」。

http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/
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by thinkpod | 2006-10-27 05:33
2006年 10月 22日

危機を契機に再生を繰り返す日本文明

伊勢雅臣

 京都大学の中西輝政教授は、文明史の立場から、日本の歴史
は、たびたび安全保障上の危機を再生の契機にしてきた、と述
べている。[1]

 古代では663年の白村江の敗戦。日本は朝鮮半島で唐・新
羅連合軍に敗退し、本土で連合軍を迎え撃つ覚悟を固めた。こ
の対外危機を契機として、奈良時代の律令国家へと向かった。

 中世では2度の蒙古襲来によって、鎌倉幕府は衰え、3度目
の襲来に備えて、天皇親政によって国家的危機を救おうと、
「建武の中興」が行われた。[a]

 3度目は、戦国時代で国内が乱れに乱れた中で、スペインな
どが、キリスト教を武器に日本を植民地化しようとした危機。
この危機は、信長−秀吉−家康という3人の指導者によってギ
リギリの所で乗り越えられ、天皇に任命された将軍が政治を行
うという幕藩体制が確立した。[b]

 4度目は、幕末のペリー来航から日露戦争に至る西洋列強の
アジア進出。これも明治維新によって、天皇を君主とする近代
国家建設が果たされ、見事に乗り越えることができた。[c]

 5度目が大東亜戦争の敗戦。太平洋を越えて勢力を伸ばして
きた米国と、共産主義を武器に太平洋に出ようとするソ連の狭
間にあって、歴史的な敗北を喫した。しかし、これも天皇を国
民統合の象徴とする自由民主主義国家として、奇跡的な経済復
興を遂げた。[d]

 これらを通観して見ると、いずれも前回の改革が成功した後
に、国内体制が弛緩した所に、外部から危機が訪れて、改革派
が旧体制派を駆逐して、新しい体制を作る、という共通のパタ
ーンが見られる。そして新しい体制は、その都度、歴史の進展
にしたがって変わっているが、その中心には常に天皇がいた。

 現在の北朝鮮によるミサイル・核実験、および、成長著しい
中国の脅威は、新たなる危機の到来である。おりしも戦後の政
治・経済・教育体制は、60年を経て様々な面で老朽化が著し
い。6度目の日本文明の再生の契機が訪れているようだ。

■リンク■
a. JOG(207) 元寇 〜鎌倉武士たちの「一所懸命」
 蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を
惜しまない鎌倉武士たちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog207.html
b. JOG(154) キリシタン宣教師の野望
 キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とす
ることを、神への奉仕と考えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog154.html
c. JOG(149) 黒船と白旗
 ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シ
ステムへの屈服を要求していた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog149.html
d. JOG(034) 敗者の尊厳
 「日本破れたりとはいへ、その国民性は決して軽視すること
ができぬ。例へば日本国民の皇室に対する忠誠、敗戦後におけ
る威武不屈、秩序整然たる態度はわが国の範とするに足る」
(中華民国国民政府・王世杰外交部長)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog034.html

■参考■
1. 中西輝政「ポスト小泉で何が問われているのか」、『明日への
選択』日本政策研究センター、H18.05
http://www.seisaku-center.net/
-----------------------------------------------------------
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/107810338.html?page=2





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地球史探訪: 日出づる国の防衛戦略

 平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威
を防ぐ。
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■1.超大国の侵略の跡■

「このあたりだ。見ろ、あの白骨を」と、高句麗の将官は馬上
から叫ぶように言い、通事が訳した。白骨化した死体が、点々
と地平線までつらなっていた。推古9(西暦601)年、所は高句
麗と隋の国境近くを流れる遼河のほとり、ちょうど朝鮮半島が
大陸から突き出す付け根のあたりである。大和朝廷からの使者
・大伴咋(くい)は侵略をこととする超大国と国境を接する事
が、いかに恐ろしいことか、思い知った。

 中国大陸を370年ぶりに統一した隋が、水陸30万の大軍
で高句麗に攻め込んだのは3年前、西暦598年のことであった。
高句麗は今の北朝鮮から、満洲、遼東半島にかけて広大な版図
を持つツングース系騎馬民族国家で、約800年の歴史を持つ
東北アジアの強国であった。

 この時は高句麗が隋の大軍をよく防いでいる間に、6月の長
雨で遼河が氾濫し、中国本土からの補給線が切れるとともに、
隋軍の中で疫病が流行した。隋軍は20数万人の死体を原野に
晒して引き揚げていった。

「しかし、隋はまたかならず来襲する」 高官は馬首を返して
言った。「30万で負けたとなると、次は100万だ。そのと
き野を埋めるのは、わが軍兵士の骸(むくろ)であるかもしれ
ないのだ」

 高句麗を破ったら、隋の大軍は新羅と連合して、百済を蹴散
らし、やがては海を越えて、わが大和の国を襲うだろう。大伴
咋の身体は身震いがとまらなかった。

■2.厩戸太子(聖徳太子)の大戦略■

 朝鮮半島の南東部を治める新羅が、半島南端の日本の属領
・任那を攻撃したのは、前年の推古8(600)年のことだった。
大伴咋が大将軍として4年も九州に出陣して牽制していた間は、
まがいなりにも平和が保たれていたが、その軍勢がひきあげて
数年も経たぬうちに、新羅は軍事行動を起こしたのである。

 新羅の狙いは、任那だけではなかった。隋と組んで、北の高
句麗、西の百済に侵攻し、朝鮮半島を統一しようという野望を
抱いていた。

 大和朝廷では、ただちに新羅征討軍を送り込むことが決定さ
れ、四国、中国、北九州の豪族の兵士約一万が続々と朝鮮海峡
を押し渡った。新羅、百済、高句麗とも陸戦には慣れているが、
水軍を建設するほどの国力はなく、日本水軍は独り圧倒的な力
で、朝鮮海峡の制海権を握っていたのである。

 征討軍は朝鮮半島南端の新羅が支配する旧任那の地に直接上
陸して、無人の野を行くが如く、たちまち5つの城を攻め抜い
た。すると、新羅はすぐに降伏して、旧任那のうち6地方を返
還すると申し入れて、和睦を求めてきた。しかし、朝廷がこれ
を聞き入れ、朝廷軍を召還すると、新羅は再び任那を制圧して
しまった。

 大伴咋が摂政の厩戸太子(聖徳太子)から「高麗(こま)に
赴(ゆ)きて任那を救え」との特命を与えられたのはこの時だっ
た。太子の戦略は、高麗(高句麗)、百済、日本が同盟を結び、
北・西・南から新羅を攻める。朝鮮半島統一の野望を持つ新羅
を孤立させ、任那を守りつつ、新興の超大国・隋に対する防壁
を朝鮮半島を南北に貫いて築く、という戦略であった。

■3.「このうらみ、末代まで忘れまい」■

 大伴咋が高句麗の嬰陽王(えいようおう)に謁見して、日本
−高句麗−百済の同盟を築きたいと提案すると、嬰陽王の顔に
抑えようもない怒りの色が浮かんだ。「われらは貴国を信ずる。
しかし、百済は信用ならん」という王の声は震えていた。

「理由をお聞かせ願いたい」と咋が聞くと、王は答えた。隋の
大軍が高句麗の国土をまさに蹂躙しようとしている時、百済の
威徳王は隋に対して「皇帝の臣たるわたしどもが、先導をつか
まつりましょう」と、阿諛迎合の書状を献上品とともに隋に差
し出したというのである。「卑劣である。絶対に許し得ぬ行為
である。このうらみ、末代まで忘れまい」と、王は恨みをむき
だしにして百済を罵った。咋は半島情勢の複雑さを、今更なが
らに味わった。

「なにゆえに、奸物の百済を貴国は身内のようにつねに慈しみ、
救(たす)けてきたのであるのか」と聞く王に、咋はこう答え
た。

 されば、百済はいにしえより、わが国の官家(みやけ)
であります。官家であれば慈しみ、救(たす)けなければ
ならぬのは、当然のことわりでありましょう。

「官家」とは、天皇に直属する領地というほどの意味である。
第15代応神天皇の時代から、我が国は百済、新羅、任那の三
韓を「官家」と見なしてきた。隋書倭国伝にも「新羅、百済、
みな倭をもって大国となし、これを敬い仰ぐ」とある。

 咋は、百済が常に日本に王族を人質に差し出していることを
明らかにし、「百済がわが国に謀反いたすことは万が一にもな
い」と断言した。

 それに安心したのか、最高位の重臣が代表して、「われら一
同、貴殿を信頼し、その信頼をもって新羅征討の軍を起こすこ
ととする」と約束した。ただし、唯一の条件として、咋が自ら
百済に赴き、かの国が裏切ることのないよう、国王以下にこの
盟約を徹底させることを要求した。咋は、翌日、従者とともに
馬を駆って、百済に向けて半島を南下していった。

 咋を迎えた百済も当初、三国の同盟案に強硬に反対した。盟
主・日本の要請とあらば、いつでも新羅討伐に立ち上がるが、
仇敵である高句麗と手を結ぶことはできない、というのである。
漢城(ソウル)はもともと百済の都であった。それを約130
年前に高句麗に奪われ、時の百済王は殺され、半島西南部に押
し込められたのであった。

■4.国民軍■

 互いに仇敵であった高句麗と百済になんとか同盟を約束させ、
大伴咋が帰朝したのは、推古10(602)年6月、1年3ヶ月に
およぶ長旅であった。

 帰路、立ち寄った筑紫(北九州)から長門(山口県)、安芸
(広島県)の各港は沸き立つような活況を見せていた。巨木に
よる軍船が建造され、食料、武器、燃料などを満載した帆船が
港を埋めていた。新羅討伐のための出兵準備である。約2万5
千の兵力を動員するという。

 さらに咋を驚かせたのは、朝廷軍の編成が一新されていた事
である。従来は朝廷軍とは名ばかりで、大伴氏や紀氏、葛城氏
などの大豪族が私兵を引き連れて、連合軍を形成していた。し
かし、今回は地方毎に集められた兵士が中心となっている。し
かも将軍は、摂政・厩戸太子(聖徳太子)の同母弟・来目皇子
(くめのみこ)である。朝廷軍とは大君が統率する国民軍であ
るべきだ、という太子の理想が具現されていた。

 しかし、筑紫の駐屯所で出兵準備の陣頭指揮をとっていた久
目皇子が倒れた、との早馬が都に駆け上ってきた。久目皇子は
兄の太子に似て、すぐれた資質を持つ青年だったが、まだ20
代と若く、軍を率いた経験もなかった。2万5千の兵を率いる
という過労と精神的重圧のためであろう。

■5.三国同盟、失敗す■

 来目皇子が重病の床にあって、朝廷軍の出発が遅れている間
に、推古10(602)年8月、百済軍が新羅を攻めた。対する新
羅は大部隊を繰り出して、立ち向かった。この時点で、日本の
大船団が新羅沖に達していたら、挟み撃ちの形ができて、新羅
はこれほどの大兵力を対百済戦に集中投入できなかったはずで
ある。百済軍は全滅に近い敗北を喫した。

 来目皇子が推古11年2月に亡くなり、あらたに太子の異母
弟・当摩皇子(たぎまのみこ)が将軍に任ぜられた。しかし、
筑紫へ向かう途中、身体の弱かった妃を亡くし、悲しみにくれ
た皇子は飛鳥の都に引き返してしまった。

 この頃、こんどは高句麗が千人ほどの精鋭部隊を南下させた
が、新羅は国王が陣頭指揮をとって、主力軍で迎えた。日本軍
が海上から攻めていればこそ勝ち目もあったが、単独では敵う
はずもない。高句麗軍は戦わずして引き揚げた。

 咋は愕然とした思いで、自らのまとめた三国同盟の失敗を見
つめていなければならなかった。それもこれも盟主・日本の責
任である。

 咋は、太子に高句麗と百済の情勢を報告した。太子は「新羅
を討つに兵を用いず」と一言、言われた。それが何を意味する
のか、咋が理解するにはまだ何年もの歳月が必要だった。

■6.「日出づる処の天子」からの国書■

 太子の命によって、小野妹子(おののいもこ)が遣隋使とし
て飛鳥の都を出発したのは、推古15(607)年7月だった。筑
紫から百済を渡り、陸路、高句麗を経て、隋に入った。百済も
高句麗も同盟国であり、何の危険もなかった。

 小野妹子は隋帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天
子に致す。恙(つつが)無きや」という一文で始まる国書を差
し出した。[a]

 超大国、隋に対して対等な外交を申し入れたこの国書が、ど
れほど革命的なものであったかは、高句麗の嬰陽王が隋の大軍
を撃退した後に、差し出した国書と比べてみるとよく分かる。
王は勝ち誇るどころか、自らを「遼東糞土の臣(糞尿にまみれ
た遼東の地を治めさせていただいている臣下)」と蔑んだので
ある。

 九州ほどの大きさでしかない百済や新羅に比べれば、日本は
大国であり、世界最大級の仁徳天皇陵を初めとする多くの前方
後円墳を作るなど、半島の三国とは桁違いの国力を持っていた。
軍事的にも隋を上回る水軍を保有していた。その強国を、高句
麗討伐に手こずっている隋が、粗略に扱える余裕はなかった。

 翌推古16(608)年8月、小野妹子は特使・裴世清以下12
名の使節団とともに帰国した。隋帝からの国書は「皇帝から倭
皇に挨拶を送る」と始まる丁重な文面で、「皇(天皇)は海の
彼方により居(まし)まして、民衆を慈しみ、国は安楽で生活
は融和し、深い至誠の心あり」と、日本の平和な国のありよう
を讃えている。

■7.新羅の焦り■

 この動きに焦ったのが新羅である。隋の力を借りて朝鮮半島
を統一しようという野望が一挙に覆された。その隋が新羅にとっ
ては夢のような大使節団を日本に送り、あっという間に対等な
友好関係を結んでしまったのである。隋と日本、そして百済、
高句麗が結んだら、新羅は完全に孤立する。

 新羅の真平(しんぺい)王は、隋帝に高句麗討伐の出兵を乞
う書簡を送ったが、隋からはなんの返答もなかった。逆に高句
麗は、当分隋からの侵攻はない、と読んで、新羅を攻撃し、国
境近くの山城を落として8千人を捕虜とした。

 窮地に陥った新羅が調(みつぎ)をたてまつる使者を日本に
送ってきた、と聞いたとき、大伴咋は自分の耳を疑った。しか
も任那からの使者を伴っている、という。新羅が任那を実効支
配したのが、48年も前のことだった。以来、朝廷は任那を奪
回すべく、何度も遠征軍を派遣し、あるいは百済を軍事支援し
て新羅を攻めてきた。

 新羅が支配する任那の使者などは、手の込んだ演出に過ぎな
いが、日本の要求通り任那を復興させ、その使者を伴ってきた、
という形式をとって見せたのだった。隋と対等に渡り合う日本
の機嫌をとっておこう、という見え透いた戦術だった。

 推古18(610)年10月、朝廷は数十年ぶりに新羅の使者を
盛大に迎えた。7年前に太子が言われた「新羅を討つに兵を用
いず」との言葉がここに現実のものとなったのである。

 しかし、咋はこれで安心とはとても思えなかった。隋は高句
麗への侵略をあきらめたわけではない。他国を属国としなけれ
ばいられぬ侵略国家である。わが国との友好を固めたのを機に、
ふたたび高句麗侵略に出るに違いない。

■8.随の高句麗侵略と滅亡■

 咋の心配通り、611(推古19)年に入ると、隋は113万の
大軍を持って高句麗に襲いかかった。少し前の「ゲルマン民族
の大移動」が、総計50万人程度と言われているので、それに
倍する軍勢である。しかし、あまりの大軍の長距離遠征に糧食
が続かず、わずか数万の高句麗軍が果敢な抵抗をしている間に、
随軍は飢餓に襲われ、敗退した。

 この後も、隋は二度に渡って高句麗を攻めたが、疲弊した国
内で反乱や暴動が起こり、ついに618(推古26)年に滅亡して
しまう。

 その直後、隋の侵略からついに国を守りきった高句麗の嬰陽
王は、戦勝の喜びの品々を日本の朝廷に送ってきた。その中に
は隋軍が運搬に使ったラクダもあった。高句麗の嬰陽王がこれ
らの品々をすぐに送ってきたのは、当然、日本への感謝があっ
たのだろう。日本の圧力がなければ、新羅が背後で蠢き、高句
麗は随との戦いに集中できなかったはずである。

■9.わが国の防衛戦略の根本■

 大和朝廷の朝鮮半島政策の根本は、推古天皇の父で、任那滅
亡時の欽明天皇の遺言にあった。欽明天皇は、死の病床で皇太
子(第30代敏達天皇)の手をとり、「汝(いまし)、新羅を
打ち、任那を封建すべし。また夫婦のように相和して、もとの
日のごとくならば、死すとも恨むことなし」と語ったのである。

 新羅を攻め、領土を奪えと言うのではない。任那を再興し、
新羅、任那、百済の三韓が平和的に鼎立してくれればそれで良
い。平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ防壁
となるというのが、わが国の防衛戦略の根本であった。「新羅
を討つに兵を用いず」という太子の戦略もこの一環で、隋の勢
力を引き入れて半島統一を目指した新羅の野望を打ち砕こうと
いうもので、新羅そのものの打倒を目指したものではない。

 近代においても、朝鮮半島に高句麗のように独立心旺盛で、
安定的な国家が存在して、ソ連や共産中国の防壁となってくれ
ていたら、日清・日露戦争、満洲事変という歴史の流れも大き
く変わっていただろう。そして中国と北朝鮮が、わが国の安全
保障上、最大の脅威となっている現代においても、この根本は
変わらない。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(311) 聖徳太子の大戦略
 聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何感じ取っ
たのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog311.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
(まぐまぐ版では、httpのあとに「:」を補ってください)

1. 八木荘司『古代からの伝言 日出づる国篇』★★★、角川書店、H12
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4048732528/japanontheg01-22%22

http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107833566.html
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by thinkpod | 2006-10-22 18:23
2006年 10月 11日

三国人の不法行為

「韓国のイメージ」鄭大均 1995年 中公新書
連合国総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー(朝鮮史)は、『日本における朝鮮少数民族』(原著1951年)という論文で次のように記している。

『戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために日本の重要産業たる石炭産業の再建は損害をこうむった。 経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。
1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引き上げについては占領当局が決定した政策を日本政府の手で実地しようとするのを妨害した。/たとえこのような事件(朝鮮人の犯罪)で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた影響は依然として甚大なるものがある。朝鮮人の略奪行為が、大部分、下層民の日常生活にとってきわめて重要な地域において行われたということもあった。 さらに朝鮮人は日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病も持ち込んだという事情もあって、この不安を強める実例を提供した。朝鮮人は悪者だという心理が時の流れとともに日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由はなにもないのである。』

三国人の不法行為
http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm



北斗星 さん 2000年 07月 10日 01時 05分 44秒

URL:http://

   第三國人の暴行

 表題の件に付ては既に一通り書き終えた心算であったが、本日郷土、城東葛飾に赴いたところ、偶々老人達が本件を論じてゐた 中にも地方議員たる七十翁の回顧は愚生の筆より数段迫力有りし故、帰宅早々記憶により再現し、此処に記して御歴々の御参考に資せむとするものである

                        録取者 北斗星

             −−−−−−−−−−

 終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた

 銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷は臺湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いてゐた 戦勝國民は治外法権だったのである

 だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、其処へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。日本人は買へなかったが。

 斯うした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商賣を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(流石に銃撃戦は挑まなかった模様)

 當時は物不足で、賣る方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから 其で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い

 警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった

(録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚擧に暇有りませんでした)

 東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根−中川、江戸川、利根川流域の牛は皆ゐなくなった

 當時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ牽いて行って屠殺した 牛はモウと言って泣いたので皆氣付いたが、銃砲刀剣で武装してゐるので追ふ訳には行かなかった 永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出來なかった

 斯うして利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、闇市で賣られた この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ 上流で屠殺した牛を、其儘下流へ賣りに來たのだらう

 斯くて南關東から、牛はゐなくなった

 家畜相手ならまだしも、人間に對しても、關東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた 川崎、濱松、大阪、神戸などが酷かった

 其最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に對する集團暴行・傷害事件がある

 翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鐵道員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、此車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立てた

 其で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面 挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した

 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に不出來な孫にせよ 孫共は此を知らんのだらう

 直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯 況や庶民に於てをや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊には、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ

 其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察如きに何が出來よう 或日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、其切り警察は消滅する 七百萬の大軍を擁した彼の帝國陸海軍ですら、左様にして両總長 両大臣以下、自然廃官になった まこと、敗戦はかなしからずや

 堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發した

 最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った

 其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く鎮圧した 我々は其火器の煌めきを間近に見た

 此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」

と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである

 だから、外國人差別用語な筈は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか

 聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ 外交センスの要る役職であった 何

人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い

 「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない

 近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう 知合ひの報道人幾人かに電話して、テレヴィにでも新聞にでも出て歴史の眞實を話して進ぜやう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった 眞面 目に報道する氣は無いのかの

 貴公、パソコン通信を遣ってなさるさうぢゃが、インターネットとやらは随分と情報を發信出來て、幾百萬の人が見ると聞く 一つ満天下の正義の為に、今の話を發信して下さらんか

http://nipponkaigi.net/iknlg1.htm
http://www.melma.com/backnumber_256_1360500/
http://tech.heteml.jp/2006/11/post_836.html



「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」4-7942-1356-5
P197-198
 朝鮮在住の日本人も朝鮮人も、終戦によってその生活を大きく変えた。内地人は身辺の一切を失って、焦土となった祖国に帰らねばならなかった。多くは徒手空拳、裸一貫となって、荒廃した郷土に新しく生きる途を模索しなければならなかった。そこには戦災者や復員兵士上がりがあふれ、引揚者の努力は容易に報われなかった。
 「朝鮮」はわが人生にさほどの重大事ではなくなった。
 その後「警察」在職中にその「朝鮮」と多少の関係を持ったのは、たったの二回だけである。最初は、昭和22年3月、鹿児島県警から大阪府警察部刑事課長に転任した後のことであった。当時の大阪は殺人や強盗の凶悪犯罪が多発し、日本全国で最も治安が悪いとされていた。
 その原因の一つが、朝鮮人や台湾人の在住者が多く、その中に自分たちは日本人ではなくなったのであるから、敗戦国日本の法令に従う義務はないとして、不法行為をなす者が輩出し、治安を乱したというのである。彼らは、自分たちは戦勝国に準ずる国の国民であると主張する。これは以前の日本社会が彼らを差別、冷遇したことに対する反動的な腹いせの気持ちからでもあった。
 占領軍政当局は、この考え方には同調せず、彼らを「第三国人」と呼ぶことにして、その特権的な立場は認められなかった。この「第三国人」たちの不法、不当の跳梁が著しく治安を紊乱した。このことは治安維持の担当者としては忘れられない「朝鮮」であった。


内容(「BOOK」データベースより)
昭和11年、京城帝国大学卒業後、有資格者となって朝鮮総督府に就職、対ソ防諜工作の最前線に立った元警察官僚が、終戦にいたる14年余の朝鮮体験を回想した貴重な手記である。対ソ戦略の要路たる朝鮮半島において、ソ連はいかなる諜報工作を展開し、日本はこれにいかに対処したのか、本書では、戦前・戦中にわたって繰りひろげられたこの「見えざる戦い」の実態が生々しく語られるとともに、敗戦によって終焉した日本の朝鮮統治の実相が冷静な視点をもって描きだされている。日朝・日韓関係の誤解を正す歴史的証言というべき1冊。

内容(「MARC」データベースより)
朝鮮総督府に就職、対ソ防諜工作の最前線に立った元警察官僚が、終戦にいたる14年余の朝鮮体験を回想した貴重な手記。日朝・日韓関係の誤解を正す歴史的証言。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
坪井 幸生
大正2年、大分県生まれ。昭和6年、勉学の地を求めて朝鮮へ。11年、京城帝国大学法文学部法科卒業。同年、高等文官試験行政科に合格。翌12年、高等官見習の行政官として朝鮮総督府に就職。警察部警務局、農林局農村振興課勤務、警察官講習所教授(高等官)を経て、14年5月より咸鏡北道警察部外事警察課長(総督府道警視)、15年7月から警務局保安課勤務(総督府事務官)。20年6月より忠清北道警察部長となるも、2カ月後にソ連侵攻・終戦を迎える。敗戦後の処理に尽力し、11月に引揚げ。21年鹿児島県警視、22年大阪府警視。その後主として警察庁鑑識課長、埼玉、山口の各県警察本部長、四国管区警察局長等のポストを歴任し、九州管区警察局長を最後に39年3月に国家公務員を退官。同年4月に大分県副知事に選任、1期4年ののちに退官

荒木 信子
昭和38年、横浜生まれ。横浜市立大学文理学部国際関係課程卒業。筑波大学大学院地域研究研究科東アジアコース修了。平成2~3年、韓国ソウル大学留学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794213565




北朝鮮帰還事業の爪痕

(前編)
日朝間の問題は“拉致”だけではない
脱北帰国者は
我々の行動を待っている
対談 坂中英徳 田 月 仙

(後編)
旧ソ連極秘文書から読み解く、「北」のシナリオと工作
──金日成は帰国運動をどう利用したか
菊池嘉晃 / 『読売ウイークリー』記者

 終戦直後の帰還と在日社会

 ところで、在日コリアンの朝鮮半島への帰還は、帰還事業が最初ではない。
最初で最大の波は、終戦直後にあった。この時の状況について触れておこう。
 戦前、日本の植民地支配下の朝鮮から、生活の道を求めて、あるいは戦時中の労働動員などで渡日した在日コリアンは、45年8月の終戦時、約200万人を数えた。
その後、50年前半までに約141万人が朝鮮南部(48年8月から大韓民国)に帰国。
北部(同9月から朝鮮民主主義人民共和国)には47年に351人が帰国した。
 南への帰国者が圧倒的多数だったのは、在日の95%以上が南の出身だからだ。
また、北への帰国は北の出身者に限られており、南出身者が多数だった、のちの帰還事業とは異なっていた。

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きくちよしあき 1965年生まれ。87年に読売新聞社入社。社会部、地方部などを経て、
週刊誌『読売ウイークリー』担当。北朝鮮・韓国関連などの取材を続ける。94-95年
には韓国・成均館大学大学院に留学、2000年にまとめた北朝鮮帰還事業に関する
論文(韓国語)で修士号。

『中央公論』 2006年11月号
http://www.chuko.co.jp/koron/



233 名前: マンセー名無しさん 投稿日: 2006/10/09(月) 23:59:22 ID: c5zdXq4F
坂中英徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E5%BE%B3

ここには書いてないけど、中央公論11月号で本人が語っているけど、
在日コリアンへの特別永住権付与を提唱したのはこいつなんだってね。
北朝鮮が崩壊したら、元在日とその家族ら20万人が日本を目指すが、
その受け入れを提唱している。
他の論文で別の人が書いているけど、終戦直後200万人いた在日コリアンの
95%は韓国地域出身で、その大部分は韓国に帰り、北朝鮮に帰ったのは
わずか数百人。
これまで、現在の在日の大半が韓国地域出身で、北朝鮮帰還運動の時に
北に渡ったの人々でさえ、その多くは実は韓国地域出身だということは知られていたが、
それだけでなく、終戦直後の在日の大半も韓国地域出身だったわけだ。
となると、官斡旋とかも含めて、朝鮮人強制連行説は完全に破綻してるじゃないか。
もし、強制連行だったのなら、終戦直後200万人の朝鮮人の構成は、
北朝鮮と南朝鮮の人口比率を反映しているはずだ。
朝鮮人が流入してきたのは、資源が豊富なゆえに日本の投資が集まった北朝鮮地域より
相対的に貧しかった南朝鮮からの自由意志によるものという説を裏付けるものだ。


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YouTube - 第三国人の商法
http://www.youtube.com/watch?v=7DzcVNJ9YuA

「三国人」は本当に差別語なのか

『第三国人の商法 -日本人禁制の秘密を明かす-』 おぉ、すごいタイトルの本があったものだと、このページをここまで読んでこられた方は思うだろう。「戦後焼け野原となった土地を不法占拠して、日本人の弱みにつけこみ闇市でボロ儲けした経緯が、白日の下に晒されているのか」とお思いだろう。しかし内容は、在日の成功商売であるパチンコ店、焼肉屋などの経営ノウハウを紹介したもので、闇市の話などは一切出てこない。この在日韓国人の著者にとって「三国人」という言葉は、成功者というイメージのある言葉で、蔑称であるとの認識はいささかも感じていないようだ。この本が書かれた時代は差別語ではなかったのである。
「第三国人の商法 -日本人禁制の秘密を明かす-」 林浩奎(イムホーギュ) 昭和48年(1973) KKベストセラーズ(ワニの本)
(著者の定義する第三国人、まえがきから)
第三国人とは、すなわち "祖国を離れ、常に祖国の発展と近い将来の帰国を夢みながら、異国の厳しい環境の中で、激しいビジネス競争に身を置き、力強く生活を営んでいる" 民族の集団である。だから日本人のいう第三国人とは、日本で戦前戦後を通じて生活している在日韓国人、在日台湾、中国人などを総称していう言葉である。彼らの大多数は第二次世界大戦前後の世界の混乱した状況の中において、日本での成功を夢みて海を渡ってきた人たちである。

〔裏表紙の著者自身の広告から (著者は1943年大阪生まれの在日韓国人経営評論家)〕
本書は、過去数十年間、私の仲間達で公開することが禁じられていた現金商売の実践体験学である。それだけに私は、本書の刊行を何度もためらった。しかし、あまりにもニッポンのサラリーマン諸氏が、われわれの一世や二世の商法を知りたがっているので、仲間から恨まれることは覚悟して、あえて公開に踏み切った。本書には、第三国人と称せられている人物が、異国という悪条件の下で、ハダカ一貫から日本の夜の街を支配するまでに至った、数々の教訓がつまっている。この彼らも十年前までは、あなたと同じスタートラインに並んでいたのだ。躊躇することなく一気に読破してみよ。必ず、随所に彼らの商法の真髄を読み取ることができるはずだ。この本を手にとったあなたはすでに大富豪へのパスポートを99パーセントとったも同然、あとの1パーセントはあなた自身の"決断"にかかっているのだ。

http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm#sabetsugo



戦後、在日韓国・朝鮮人は何をし、何と言ったか

 「現代コリア」5月号に「『三国人』は本当に差別語か」と言う記事があり、戦後、在日韓国・朝鮮人が日本で何をし、何と言ったかが報じられていました。日本人として忘れてはならないことだと思いますので、要旨をご紹介いたします。

・・(前略)・・
 「三国人」なる言葉は第二次世界大戦終了後、連合国が1945年10月31日「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」により、朝鮮はそのいずれにも該当しないことから「第三国」(The
Third Nations)と呼んだ。
・・(中略)・・
 なぜ日本人が、「第三国人」と言う言葉に蔑視、畏怖、時には「敵意」を込めて使ったのかである。それは敗戦直後の在日韓国・朝鮮人の日本での言動と重大な関係があるからだ。

 現在の総聯の前身団体である「在日朝鮮人連盟」指導部は1946年初頭と推定されるが「われわれは今まで、搾取と奴隷的な差別待遇を受けた。日本の敗戦で開放された現在、われわれは連合国人であるから、敗戦国日本の法令に従う義務はない」「われわれは二等国民で、日本国民は四等国民となった。したがってわれわれは日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆる方法で日本人に知らせなければならない」「戦争中われわれを虐待した日本人は、戦犯として制裁を加えなければならない」(坪井汕二『在日朝鮮人運動の概況』)と在日朝鮮人を「連合国人」と勝手に位置づけ、日本の法令に従う必要のないことを公然と主張し、その通り実行した。

 1945年9月10日に結成された在日朝鮮人連盟(以下「朝連」と略す)中央準備会は、すぐ「帰国同胞援助」活動に入り、朝連が韓国などに帰国する在日朝鮮人に「帰国証明」を発行、列車・バスの無賃乗車、時には客車の中に「朝鮮人専用」と書き、日本人を乗車させないこともあった。駅長を脅かし、発車した列車を呼び戻したりもした。
・・(中略)・・
 引きつづき、GHQ(連合国総司令部)は同年9月30日「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝連が「地外法権的地位にないこと」を明らかにした。この覚書を見れば分かるように、朝連は、これまで「治外法権」を持っていたのである。
 当時、各地の朝連は、保安隊、自衛隊、警備隊、自治隊などを作り、独自の警察権力類似行為を行っていたりもしていた。
 また、「朝連」の名によって、集団強盗、略奪、殴打暴行、破壊、占拠監禁、人民裁判などが行われた。
・・(中略)・・

 当時日本を占領していたGHQは、200万人の在日朝鮮人を日本から朝鮮本国に帰国させることを基本方針としていた。ところが韓国に帰国してみたが、政治・経済ともに不安・混乱を極め、生活不安などが重なり、その上コレラなども流行して、帰国者は事実上ストップした。日本にいれば「連合国人」「解放国民」としての「自由」があった。いったん帰国した人達が日本に逆流しだした。
 1947年5月2日GHQの命令で「外国人登録令」が在日韓国・朝鮮人などに施行されたのは、日本への密入国、米などの不正受給防止の二つの目的があったのである。
 ・・(中略)・・

 このような具体的な在日韓国・朝鮮人と日本人の社会関係の中で、日本人が「三国人」なる言葉に特別な意味を込めて使用するようになったのである。公然と社会秩序を乱し何事も暴力で解決しようとする在日韓国・朝鮮人の言動に、日本人が、「三国人」は恐いと考えることが「民族差別」というのだろうか。
・・(以下略)・・

http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D35.htm
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by thinkpod | 2006-10-11 14:42