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2007年 02月 15日

 【歴史の曲がり角】李登輝発言の真相

              アンディ チャン

最近の李登輝(前総統)発言をめぐって台湾は大きく動揺した。
中国人のメディアがバッシングを開始すると、たちまち一部の台湾人が同調し、民進党員も李登輝を貶すことで名を上げて得意がっている。
メディアのデマ攻撃は陳水扁や彼の家族に始まって、教育部長の杜正勝に続く李登輝バッシング、明らかな各個撃破である。
中国人はメディア、政治家、退役軍人とその家族、国民党員などを使って総力戦を挑んでいるのに台湾人は妥協を考えるだけで、政治家も民衆も敵に対処する防御や反撃を考えない。
香港系週刊誌『壱』は刺激的な見出しを掲げた。
−−李登輝は言う:「独立放棄」「中国資本を受け入れろ」「大陸を訪問したい」。
みんなウソだった。

それにしても…、である。あれほど尊敬し、信じていた李登輝元総統に対し、多くの人が簡単にメディアの歪曲報道を信じて李登輝バッシングに走るとは情けない。
なぜ自分で真相を調べてから判断しないのか。台湾人はそれほどバカなのか。
新聞がウソを言うことは百も承知の民衆がなぜコロリとウソに踊らされるのか。

それにしても…、民進党員はなぜ中国人メディアの尻馬に乗ってメディアや国民党党員と同調し、自分の同志で民衆の敬愛する李登輝を攻撃するのか。
年末の立法委員選挙のため、敵の国民党を攻撃せず台聯党と同士討ちをやるのは愚の骨頂である。

それにしても…、独立派の長老・辜寛敏までが簡単にメディア報道を信じて李登輝を攻撃するのか?
ブルタース、お前もか?

●李登輝発言の検討

李登輝は「台湾はすでに独立した民主国家である。だから今更独立を主張する必要はない。必要なのは正名、制憲、国家正常化である」と述べた。
するとメディアは「李登輝は独立を放棄した」と新聞の見出しに書いた。
歪曲であること本文を読めばわかることで、本文を読まないから誤解するのだ。
李登輝は「台湾と中国は対等な国である。台湾が中国に投資するなら中国が台湾に投資することもできるはず」と言った。すると新聞は「李登輝は中国の台湾投資を奨励した」と書いた。
記者が李登輝に中国へ行きたいか? と訊ねて、李登輝が「昔は孔子が諸国訪問をしたように、行ってみたいと思った事もあった」と答えた。すると新聞は「李登輝は中国を訪問したいと言った」と書いた。
明らかな歪曲である。

問題はメディアが100%歪曲報道をすることを知っているはずの政治人物、有名人などがコメントを求められると、見出しを見ただけで「李登輝は変わった。間違っている」などと答え、それを新聞がまた歪曲して「独立派の人たちも李登輝を見捨てた」と報道する。
なぜ「私は新聞を信じない、李登輝を信じる」と答えないのか。
もっと情けないのは民進党連中が挙って李登輝の批判を始めたことだ。
メディアに踊らされて同士討ちを始めるような無思慮では台湾は潰れる。台湾が潰れる前に民進党を潰すほうがよい。

●「独立した民主国家」に疑義

李登輝の本意は、台湾が統一・独立の二極に分かれて論争を続けていけば、国は疲弊し、人民が苦しむだけだ。
台湾人政権が出来て7年目になるが、台湾は正常な国ではないから、正常化に向けて努力すべきだというのである。
民進党も同じように台湾が独立した民主国家だと主張している。
それなら民進党員は攻撃の矛先をメディアの歪曲に向けるべきである。李登輝が「路線変更」を言明したというのは間違いである。

このような論争が起きる原因は、つまり台湾が正常でない「真の独立した民主国家」でないからだ。台湾には政府があり選挙もある。
民主国家の形は存在している。しかし民主国家の形態はあっても実情は国民党独裁であることに変わりはない。
 この国は中華民国と呼ばれる“亡命政府”で、いまでも中国大陸、外蒙古や新疆、チベットまでを自国領土と主張している。
台湾の住民は統・独両側ともこんなバカな主張を信じていない。
そこで統一派は中国と統一すればよいと主張し、独立派は国名を変えればよいと主張する。

 第三の林志昇グループは中華民国は亡命政府で、台湾は米国の暫定占領領土であると主張する。歴史を見ればこれが最も正しい、しかし米国は台湾を暫定統治して中国と事を構える余裕がないので、現状維持としか言わない。
 統一とは台湾が中国に併呑され、台湾人は惨めな奴隷となることで、殆どの台湾人は反対である。
独立派は不正常な国でも一応、民主制度を保っているから、公民投票で国名変更すれば米国も反対できないと主張する。だが米国は中国の反対を予期して難色を示している。

●「制憲」か「修憲」か

ここで独立派が二つに分かれる。
陳水扁の民進党グループは中華民国の体制を維持しつつ憲法を修正する、つまり中華民国を台湾に変更しても「中国」に変わりはない。
李登輝は台湾独立を投票で決めて新憲法を制定すると言う。
 修憲は中華民国体制から抜け出せないし中国の圧力がかかる。制憲は人民の独立意識が強ければ可能だが、統一派と修憲派の反対があり、長年の迫害を受けた台湾人の独立意識は不足している。

制憲派と修憲派の大きな欠点はどちらも中華民国の体制化で公民投票を行うことだが、両派ともこれを「仕方のない現状」とみなしている。
現状を変えるなら公民投票か、さもなければ革命であるが、人民は革命を望んでいない。

●一方的な「和解共生」

次期総統の候補者の一人として注目されている謝長廷が先週アメリカを訪問して、地元の台湾人に彼の持論の「和解共生」を主張した。この理論は李登輝の考えと「似て非なるもの」である。
 謝、李の両派は、台湾人民の志向を大別すると統一、中間層、独立の三つに分かれるという。
中間層とはどちらでもない一般大衆を指す。統独の論争が進むと意見が両極化して中間層が減少し、M型になるというのである。
そこで統・独の両側が和解すれば中間層の大衆は板ばさみにならず、社会が安定するというのである。

しかし、謝長廷の主張は台湾だけでなく、中国とも相互の闘争をやめて「共生」すれば両国とも繁栄が得られる、と言うのだ。
この主張は一方的な理想論であって、中国人は鼻であしらう。

謝長廷もそれを知っているから、「共生には自存という大前提がある」と但し書きをつけている。
そして自存を遂行するには「民進党内だけでなく、国民党とも和解して相互間に運命共同体の概念を普遍させるべき」と言う。この和解主張に賛成できないのは台湾人、中国人の両方だから彼の理想は「ミミズのたわごと」である。

中国に対する謝長廷の共生理想は「與虎謀皮(虎に皮をくれと相談するようなもの)」で、国内では自存さえ困難なのに900基のミサイルの照準を台湾に向けている中国が相談に乗るはずがない。

●民進党の堕落は「選挙オンリー」にある

謝長廷の自存理想を分析してみよう。
台湾の人口分布をみると、85%の台湾人に15%の中国人である。台湾に亡命して60数年、今では殆どの「外省人」と名乗る中国人は台湾生まれである。
60年経ち、台湾に生まれても台湾に同化せず、中国人を名乗る15%が台湾の政治の50%を牛耳っている、この事実こそが台湾の大問題であり、85%の台湾人の無気力が少数独裁を許しているのだ。

謝長廷も陳水扁もこの数年来、中間路線、和解路線を主張して、その度に選挙で負けてきた。
彼らの中間路線とはM型の谷間の部分を引き入れて選挙で勝つことしか考えていない。
だが中間に居る人々は和解が不可能であることを知っている。民進党の中間路線はすでに二度の選挙に失敗している。三度目をやるのはバカな話だ。

少数独裁を許して民進党と国民党の二大政党制度で民主国家を作るというのはウソで、実は降参である。多数派が有利であるべき選挙で少数派に負けるのは多数の人間が中間路線を信用せず投票しないからである。
その事実が厳然と存在しているのに謝長廷はいまでも「和解共生」という。
民衆はバカでない。民進党の政治家は「多数派の台湾人が民進党に投票しないで国民党に票を入れるはずがない」と思っている。
民衆は「少数派の外省人に投票しないが、民進党が彼らと和解するなら投票しない」と言う。

元を正せば民進党は外省人に反対し、独立を主張したから人民の支持を得て今日の大政党となったのである。
ところが民進党が政権を握るとすぐに変質して選挙オンリー、権力保持に化けてしまった。
大衆は民進党を支持しないで、だから民進党は李登輝・台聯党を攻撃する。
でも民衆の関心は台湾の将来にあり、民進党が政権を取ることではない。この間違いを直さなければ民進党は支持できない。

●李登輝発言は民進党への宣戦布告

つまり、李登輝発言は民進党に対する批判と決別宣言だった。
国民党メディアはこれを歪曲報道し、民進党員は国民党と一緒に李登輝バッシングをやったのである。
李登輝は当初からこのような論争が起ることを予想して、台湾系の自由時報でなく中国系の『壱週刊』で爆弾宣言をしたのである。
もちろん歪曲報道もあることを予期していたと言われる。

産経新聞の長谷川記者のインタビューで李登輝はこれをハッキリ認めた。

【台北=長谷川周人】台湾の李登輝前総統(84)は産経新聞と会見し、「(独立か統一かを問う)統独論争は意味がない」と述べた上で、これまで連合を組んできた与党・民主進歩党と一線を画す考えを初めて明らかにした。
今後、自らが後ろ盾となってきた台湾団結連盟(台連)を再編成し、中道勢力の結集による「民主台湾」の再生を目指すという。
「攻めに転じる狼煙(のろし)を上げた?」
「そう、民進党への宣戦布告ともいえる。政権はレームダック(死に体)化し、将来の総統候補までがそれにしがみつくばかりで、政権交代から7年間、何もしなかったのだから。これまで(李氏が推す)台湾団結連盟(台連)は民進党の付属と思われてきたが、これからは違いますよ。どんなに頑固といわれようと私は自分の考え方を貫く。台湾再生のためにやらざるを得ないのだから」
「台聯党の今後は?」
「1月に就任した黄昆輝主席の下で生まれ変わる。2月中に綱領を全面刷新し、3月は公募で党名も変える。直面する課題は雑兵の処分だ。不正をやった者は除名にし、若い新鮮な血液と入れ替える。目指す方向は中道左派。
絡みに絡んだ政治の糸はぶった切り、政治の混乱にあきれ果てた中間層を取り込む。個人や政党の思惑を捨て、台湾の主体性を軸とする民主台湾を取り戻す」
李登輝は台聯党の進路を変更し、民進党と決別したのである。
歴史の曲がり角をまがり、新しい台湾に向けて進む始まりだったとも言える。
  (アンディ・チャン氏は在米評論家)

http://www.melma.com/backnumber_45206_3547083/
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by thinkpod | 2007-02-15 06:13
2007年 02月 12日

国柄探訪: 民主主義を支える皇室伝統

 昭和天皇曰く「日本の Democracy 化とは、
日本皇室古来の伝統を徹底せしむるにあり」

■1.孤独で不幸な日本国憲法■

 日本国憲法は、まことに孤独で不幸な憲法なのである。
その意味は、それが真の護憲派を有していないという点に
示されている。[1,p93]

 先年惜しくも亡くなられた坂本多加雄・学習院大学教授の
『象徴天皇制度と日本の来歴』の一節である。

「護憲派」がいるではないか、と思われるだろうが、たとえば
護憲派の人々の多くは、憲法第一条「天皇は、日本国の象徴で
あり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する
日本国民の総意に基く」を、その条文のまま擁護しようとして
いるであろうか。

 戦後の通説的解釈では、「主権の存する日本国民」にのみ焦
点が当てられ、「天皇は象徴に過ぎない」と総じて消極的、否
定的に解釈される。そして、天皇の存在は国民主権の不徹底の
ためであり、「国民の総意」によって将来、天皇制度を廃止す
る改憲も可能である、と考えている。

 これは本来の意味の「護憲派」であろうか。改憲による天皇
制度廃止を狙う人々の「偽装」に過ぎないのではないか。

■2.「8月15日革命説」■

 これらの「偽装護憲派」の人々は、国民主権と君主の存在が
相容れないものと考える。それは国民主権を最初に打ち出した
フランス革命で王制が打倒されたからである。

 戦後の正統的な学説として広く通用してきた宮沢俊義・東京
大学法学部教授の「8月15日革命説」では、大日本帝国憲法
の「天皇主権」が昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾を
機に、日本国憲法の「国民主権」に転換するという「革命」が
起こったというのである。

 しかし、その「革命」は不徹底なものであり、「天皇条項」
が残ってしまった。そこで彼らはなんとか「真の革命」に解釈
上だけでも近づけようと、「天皇は象徴に過ぎない」と主張す
るのである。

「天皇主権」と「国民主権」が対立するような構図が本当にあっ
たのか、以下、歴史的な実態を追っていくが、その前にフラン
ス革命における「国民主権」の実態を見ておきべきだろう。

 そこでは反対派の国民2百万人が虐殺されるという惨劇が起
こった。またナポレオンが徴兵制度により、国民全体を兵士に
仕立て上げ、ヨーロッパ全土を戦火に巻き込んだ[a]。フラン
ス国民の総意に基づく真の「国民主権」が実現していたら、フ
ランス国民はこういう事態を本当に欲しただろうか?

 こうした史実を素直に見れば、フランス革命とは「国民主権」
というイデオロギーのもとに、一部の過激な勢力が権力を握り、
反対派を弾圧・粛正・虐殺するという、後のソ連、中国、北朝
鮮などの独裁国家に見られた全体主義の先駆的現象に過ぎない
ように見える。

■3.幕末の「民主化」■

 偽装護憲派の賛美するフランス革命の「国民主権」がこのよ
うな「偽装」に過ぎないのであれば、それに対比される「天皇
主権」はどうか。

「民主化」を「政治的決定の実質的主体が下降していく傾向」
と捉えれば、幕府がペリーの来航に対して、従来の慣例を破っ
て諸大名に意見具申を求めたことが、近代日本における「民主
化」の始まりであった事は、戦前からの「憲政史」の研究など
で広く認められていた。

 その後の幕末の動乱の過程で、この「民主化」の動きが本格
化し、実質的な政治決定の主体は、幕府から諸大名、諸大名か
ら上級の武士へ、さらには下級武士へ、そして「草莽の志士」
へと、下降していく。同時に、幕府の権力低下の中で、国策の
決定は「衆議」に基づくものでなければならない、とする「公
議輿論」の考え方が広がっていく。

 ここで興味深いのは、この権力の下降現象を後押しする形で、
権威が幕府から天皇へと上昇する現象があったことだ。もとも
と将軍とは、天皇から征夷大将軍として任命される官職の一つ
であるという史実を踏まえて、朝廷が幕府に「大政」を「委任」
したのだ、という「大政委任論」が本居宣長などによって唱え
られた。また、明治天皇の3代前に当たる光格天皇が、窮民の
救済を幕府に命じられたのだが、そうした事実を通じて人々は
改めて天皇の権威を認識した。

「権力」の下降現象は、それだけでは正統性を得られず、人心
の受け入れる所とならないために、政治の不安定を招きやすい。
しかし我が国においては、それが天皇の権威のもとで行われる
ことで、正統性を与えられ、国民全体の受け入れる所となった。
すなわち、「尊皇」によって「公議輿論」という「民主化」プ
ロセスを後押ししたのである。

■4.「天朝の天下にして、乃(すなわ)ち天下の天下」■

 この思想を端的に表しているのが、吉田松陰の次の言葉であ
ろう。

 天下は天朝の天下にして、乃(すなわ)ち天下の天下な
り、幕府の私有にあらず。

「天下」とは日本という国家全体を指す。「天朝の天下」とは
「偽装護憲派」流に言えば、「天皇主権」であろう。そして
「天下の天下」は「国家は国民全体のもの」、言わば「国民主
権」ということになる。「天皇主権」がすなわち「国民主権」
であり、それが「幕府の私有」、「幕府主権」を否定する原理
とされている。

 松陰はこれに続いて、幕末の対外的危機に際して、「普天卒
土の人、如何で力を尽くさざるべけんや」(日本国中の国民が、
力を尽くすべきである)と主張している。国民として一人一人
が国家を守る義務を持ち、そのために「公議輿論」に参加する
権利があるということであろう。

■5.天皇の名の下に進められた立憲議会制度確立■

 こうした「公議輿論」の考えを、国家として公的に宣言した
のが「五箇条の御誓文」における「広ク会議ヲ興シ、万機公論
ニ決スベシ」であろう。これはどう見ても、議会制民主主義の
宣言である。そして、この宣言が、明治天皇が神に誓われた
「御誓文」という形式で発せられた、という点に留意する必要
がある。

 この宣言は、明治8年の「立憲政体の詔書」でより具体化し、
明治14年の「国会開設の勅諭」で議会制度の創設が公約され、
ついにはアジアで最初の近代的成文憲法である「大日本帝国憲
法」へと結実していく。このいずれのステップにおいても、
「御誓文」「詔書」「勅諭」と天皇の公的な意思表示という形
式が採られた。我が国の立憲議会制度は、天皇の「錦の御旗」
のもとで建設されてきた、と言える。

 一方、明治政府を批判する民権運動も、「五箇条の御誓文」
を根拠に早期の議会制度設置の要求を行った。そして政府を攻
撃するのに、「君」と「民」との意思疎通を妨げていると批判
を行った。民権過激派による加波山事件(明治17年、16名
の青年による栃木県令の暗殺未遂事件)の檄文には「奸臣柄を
弄して、上聖天子を蔑如し(奸臣が権勢をみだりにして、天皇
をないがしろしにし)」という一節がある。

 政府も民権派も、具体的方法論やスケジュールにおいては対
立があったが、ともに天皇を国民統合の象徴として、そのもと
での立憲議会制度を目指していた事に変わりはない。西洋諸国
に見られたような「君」と「民」が権力をめぐって争うという
構図は、我が国には見られなかった。

■6.武力クーデターを挫折させた昭和天皇のお怒り■

 明治22(1889)年2月11日、アジア最初の近代的成文憲法
として大日本帝国憲法が発布された。当時の欧米の著名な政治
家や学者は、この憲法が日本古来の伝統に根ざしつつ、近代的
憲法学を適用したものと、きわめて高い評価を与えた。[b]

 そこでの天皇は「統治権」の「総攬」者とされているが、立
法においては議会の「協賛」すなわち承認が必要であるとし、
また行政についても、大臣の「輔弼」によってなされるとした。

 これが形ばかりのものでないことは、日露開戦という国運を
賭した決定が、明治天皇の御心配を押し切った形で、内閣によっ
てなされた、という一点だけでも窺えよう。大東亜戦争開戦も
同様である。

 帝国憲法において、天皇を「統治権」の「総攬」者であると
定めていた事から、この「天皇主権」が昭和期に軍部が台頭し
て、軍国主義を生み出したと考えるのはどうだろうか。

 昭和11(1936)年2月26日に青年将校らが「昭和維新断行
・尊皇討奸」を掲げて、主要閣僚を襲い、斎藤実内大臣、高橋
是清蔵相などを殺害した。

 昭和天皇はこの武力クーデターにお怒りになり、「朕自ら近
衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け」とまで言わ
れた。そして戒厳司令官・香椎中将がラジオ放送で、「天皇陛
下に叛き奉り逆賊としても汚名を永久に受けるやうなことがあっ
てはならない」と兵に原隊復帰を呼びかけた。

 武力クーデターを挫折させたのは、あくまで立憲君主制を守
られようとされた昭和天皇のお怒りであった。もし本当に「天
皇主権」で昭和天皇が直接、権力を振るわれていたら、逆に軍
部の専横の余地はなかったであろう。

■7.斎藤隆夫の「粛軍演説」■

 事件の3ヶ月後、5月7日に開かれた第69特別議会におい
て、斎藤隆夫・衆院議員は有名な「粛軍演説」を行った。その
中にこういう一節がある。

 我が日本の国家組織は建国以来三千年、牢固として動く
ものではない。終始一貫して何ら変りはない。また政治組
織は明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲
君主制、これより他にわれわれ国民として進むべき道は絶
対にないのであります。故に軍首脳部がよくこの精神を体
して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間に
おいて怪しむべき不穏の思想が起こるわけは断じてないの
である。[1,p141]

 軍部の専横を批判し、立憲議会政治を守ろうとする人々にとっ
て、「明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲君
主制」こそが、その寄って立つ根拠であった。

■8.「治安維持法」はソ連との冷戦■

 戦前の「天皇主権」をあげつらう人々が、軍国主義による人
権弾圧の典型として持ち出すのが、「治安維持法」である。し
かし、これはソ連による国際共産主義革命への防衛策として制
定されたという面を忘れてはならない。

 もともとソ連は、国内外を問わず、「階級敵」「人民の敵」
を抑圧・殲滅せしめ、共産主義を世界に広めることを国是とし
た国家であった。そして、その国是は国内においては大規模な
虐殺粛正や、政治犯の収容所送りとして実行された。国外にあっ
ては、各国の共産党を手先として、その政治体制を内部から打
倒する事を目指した。日本共産党もその一派であった。

 坂本多加雄氏は、治安維持法下の特別高等警察と日本共産党
との闘争は、政府対人民の闘争ではなく、ソ連と大日本帝国と
の「冷戦」であった、と述べている。これは戦後、日本の代わ
りにソ連との冷戦を始めた米国においても、「赤狩り」という
マッカーシズムが吹き荒れたことと同様の現象である。

 戦前の治安維持法による人権弾圧を批判する前に、当時のソ
連における人権弾圧は、日本よりもはるかに大規模かつ徹底的
なものであった事を知っておかねばならない。さらに、もし日
本がソ連との冷戦に負けて、日本共産党の支配下におかれたら、
議会制民主主義は根絶やしとされ、東欧諸国や中国、北朝鮮と
同様の徹底的な粛正・虐殺が行われていたであろう。

 こうした背景を考えてみれば、治安維持法による人権弾圧が、
「天皇主権」の独裁国家によって生み出された、という見方は、
当時の国際環境を無視した一面的なものである事が判る。

■9.日本の"Democracy化"と皇室伝統■

 敗戦後、昭和21年年頭に「新日本建設の詔書」が発表され
た。俗に「人間宣言」と言われているが、その冒頭には、昭和
天皇の御意思により、「五箇条の御誓文」がそのまま引用され
ている。戦後の再出発にあたり、近代日本の出発点が「万機公
論に決すべし」にあったことを国民に思い起こさせるためであ
る。

 詔書渙発からほどない1月18日、昭和天皇は次のように言
われたと、侍従次長・木下道雄は『側近日誌』に記している。

 日本の Democracy 化とは、日本皇室古来の伝統を徹底
せしむるにあり

「和」を尊び、独断専横を嫌うのがわが国の文化的伝統であり
[c]、その中で人民を「大御宝(おおみたから)」として、そ
の安寧と幸福を祈り続けてきた[d]のが有史以来の皇室伝統で
あった。こうした文化的・政治的伝統を基盤として、近代にお
いては、天皇の名の下に議会制民主主義という政治制度が着々
と築かれてきた。民主主義とはアメリカの専売物ではなく、広
く近代国際社会の共有するものであって、わが国にはわが国な
りの歩みがあった、と昭和天皇は主張されているのである。

 現行・日本国憲法は占領軍総司令部がわずか1週間程度で急
拵えしたもので、文章、内容ともに細部には問題が多いが[e]、
天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とし、その
もとでの議会制民主主義を採用するという立憲君主制の構造は、
帝国憲法と同じである。そして日本国憲法は帝国憲法の改正と
して、昭和天皇の次の「上諭」とともに発布された。

 朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定
まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び
帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法
の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

 わが国の議会制民主主義の歩みは、明治元(1868)年の「五箇
条の御誓文」以来、140年近くにもなる。未だ民主化の芽吹
かぬ近隣諸国との外交においても、この事をよく踏まえた上で
対応すべきである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(058) 自画像を描く権利
 フランス革命と明治維新
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog058.html
b. JOG(242) 大日本帝国憲法〜アジア最初の立憲政治への挑戦
 明治憲法が発布されるや、欧米の識者はこの「和魂洋才」の
憲法に高い評価を与えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog242.html
c. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
 神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog082.html
d. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
 神話にこめられた建国の理想を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog074.html
e. JOG(141) 仮設憲法、急造成功
 今週末までに、新憲法の概案を作れ、、、マッカーサーは、
なぜそんなに急がせたのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog141.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』★★、都市出版、H12
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4924831247/japanontheg01-22%22


http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108233108.html
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by thinkpod | 2007-02-12 17:26
2007年 02月 07日

パール博士の日本無罪論

「パール判事に学べ」

 産経新聞は平成6年8月18日のオピニオンアップで大きく「パール判事に学べ/見直したい東洋の誇り」と題する主張を尾崎諭説委員の署名入りで発表した。パール判事とはいうまでもなく極東国際軍事裁判(俗称・東京裁判)のインド代表判事ラダビノード・パール博士のことである。この裁判で11人の判事のうちただ一人、被告全員無罪の判決(少数意見)を下した判事で、尾崎氏は次のごとく述べている。パール博士の外貌をわかりやすくデッサンしているので、やや長文であるが引用させていただく。
 《ラダビノード・パール(1886〜1967年)。現在、どれほど多くの日本人がこの恩人の名をご記憶だろうか。

 東京裁判(1946〜1948年)で、日本は満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争に突入し、日米開戦(1941年)、そして終戦に到るまでのプロセスを「侵略戦争」と判定され、この「侵略戦争」を計画し、準備し、開始し、遂行したことは、「平和に対する罪」に当たるとして東條英機ら7人の絞首刑が遂行された。

 パール判事は、この東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事である。田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、同判事は日本の教科書が東京裁判史観に立って「日本は侵略の暴挙を犯した」「日本は国際的な犯罪を犯した」などと教えていることを大変に憂えて「日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、頽廃に流されて行くのをわたくしは平然と見過ごすわけにはいかない。」とまでいって励ましてくれたのである。

 日本が敗戦で呆然自失し、思想的にも文化的にも、日本人のアイデンティティーを失っていた時代に、パール判事の言葉はどれだけ日本人に勇気と希望を与えてくれたことか。わたしたちは決してこの恩義を忘れてはなるまい。

 このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。》

 以上が産経新聞の要約である。


初めて知るパール判決書

 最初、私事で恐縮だが、わたくしは極東国際軍事裁判(以下東京裁判と略称)で東條元首相とともに処刑された松井石根陸軍大将の秘書として、また松井大将が会長をされていた「大亜細亜協会」に勤務していた。そのわたくしが、インド代表判事パール博士のことを知ったのは、松井大将の密葬の夜のことであった。
 当日は大亜細亜協会理事長下中弥三郎、幹事長中谷武世両先生とともにわたくしもお招きいただいた。その夜の直会の席で、弁護団副団長の清瀬一郎先生と大将の弁護人伊藤清先生のお二人から11名の連合国判事中ただ一人インド代表のパール判事のみが、この裁判は国際法に違反するのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法廷主義を踏みにじった復讐裁判に過ぎない、だから全員無罪であると、堂々たる法理論を展開された旨のお話を承った。

 その日からわたくしは、ものの怪に取り憑かれたように、まずパール判決書を手にいれ、これを上梓して、戦後の罪悪感にひしがれている国民に警鐘を鳴らしたいとひたすら思うようになった。

 当時わたくしは、敗戦後、大陸から帰還し、郷里の信州飯田市の新聞社に勤務していたが、志業達成のため居を東京に移した。そして早速、清瀬、伊藤両弁護士の事務所をお訪ねした。両先生に秘密保持の念書を入れて、和訳タイプしたパール判決書を借用した。悪質の仙貨紙に不鮮明なタイプ印刷で、しかも所々欠落があり、お二人のを合わせて漸く完全なものとなった。わたくしは学生アルバイトを雇い、これを原稿用紙に筆写させた。
 原稿用紙にして二千二百枚、九十万語にも及ぶ長文である。
 多数判決−清瀬弁護士の言う六人組判決(米、英、ソ、中、カナダ、ニュージランド)−の6ヶ国の判事の判決文よりも、パール判事一人の意見書(判決)の方が浩翰な法理論の展開である。

 ついでながら東京裁判は、法律なき裁判ゆえ、その判決も六つに分かれた。前記六人組の多数判決のほかに、五人組がそれぞれ別の意見書(判決)を出している。オランダのレーリング判事は「廣田弘毅元首相は無罪、他の死刑も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」。フランスのベルナール判事は「この裁判は法の適用および法手続きにおいてもあやまりがある。とし、「11人の判事が一堂に集まって協議したことは一度もない」と内部告発までしている。ウエッブ裁判長まで六人組からのけ者扱いにされ、量刑について別の意見書を出している。比島のハラニーヨ判事のみが量刑が軽すぎるとし、インドのパール判事は前述の通り全員無罪、無罪というよりこの裁判は裁判にあらず「復讐の儀式に過ぎない」として根底から否定する意見書である。

 欧米先進国では少数意見は必ず発表されることになっており、東京裁判所条例も少数意見は公表 すると明記していたが、時間がないことを理由に発表を禁止した。

 当時GHQによって言論統制を受けていた日本の新聞はただ数行「インドの判事が異色の意見書を提示した」と発表したに過ぎない。かくして、ついにパール判決書は日の目を見ることなく葬り去られてしまったのである。

 ついでながら、オーストラリアのウエッブ判事とフィリピンのハラニーヨ判事は、法廷にもち出された事件に前もって関係していた判事で不適格、必要な言葉すなわち協定用語である英語と日本語がわからないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事、また本来裁判官でない中国の梅汝*判事の五名の判事は不適格判事であった。国際法で学位をとった判事はパール博士一人のみである。


『日本無罪論』の上梓と博士の来日

 ある日、拙宅に太平洋出版社の天田編集長が来訪され、「田中さんはえらいことをなさっているそうですね。」という。わたしが言葉をにごしていると、「わが社の社長鶴見祐輔が、あなたの原稿を是非、わが社で出版したいと申しているのです。」という。
 鶴見氏は太平洋協会の会長で、GHQの中にも多くの知友をもつ国際人である。占領下の当時すでに海外の情報も入手されていた。パール判決書はニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズなどでは大々的に報道され、米英の法曹界ではパール旋風が巻き起こっていることを氏は承知していたのである。
 わたくしはパール博士に書簡を呈し、出版に際しての版権についてお尋ねした。博士からのご返事は「判事の判決文はパブリックなものである。しかし勝手に改ざんなどなきよう・・・」とのことで出版をご快諾下さった。そこでわたくしは清瀬、伊藤両先生とも相談のうえ、鶴見邸を訪れた。先生は病中を起き直られこういわれた。

 「田中さん、残念ながらこの本はマッカーサーの占領中は絶対に出版できません。内々調べてみたが、出版すればあなたも僕も即刻逮捕された上、発売禁止です。占領が解かれ、日本に主権が回復する日まで待つより外ありません。それまではお互いに秘密厳守で、潜行して作業を進めることです。」

 のちに江藤淳さんの本で分かったが、占領軍はポツダム宣言に違反して、物凄くきびしい言論統制を行っていた。表現活動で厳禁した三十項目の第一の禁止事項は、占領軍総司令部(マッカーサー)の批判、第二が東京裁判の批判、第三が新憲法、第四が検閲制度への言及・・・等々、三十項目である。この内、東京裁判の批判は第二の禁止事項なのである。

 パール博士の全員無罪の判決文は、東京裁判批判の最大最高の、しかも権威ある法理論による批判である。占領下にこんなものを出版したら、それこそ首がいくつあっても足りないほどの処罰を受けるのは当然で、鶴見先生はすでにこれを承知していたのである。

 そこで日本が独立を回復する日、すなわち昭和27年4月28日を期した。それまでは内密に印刷し、製本し28日に全国一斉に書店で発売した。これが太平洋出版社発行の『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』である。
 この本の新刊紹介は各新聞に取りあげられ、大変な反響を呼び、ベストセラーズになった。パール博士の名が広く日本人に知れわたったのは、この著述によってである。

 この著述をいちばん喜んでくださったのは、わたしの恩師である平凡社社長下中弥三郎先生である。先生は自ら主催して出版記念会を開いて下さった。その席上先生は、パール博士を日本に招聘し各大学や全国各地で講演していただき、『パール博士の日本無罪論』を普及しようではないかと提案された。
 その年(昭和27年)の11月、原爆の地広島で「世界連邦アジア会議」が開催されることになっていたが、そのゲストとして、アジア会議の実行委員長であった下中先生が私費をもって博士をお招きすることになったのである。先生は博士の歓迎委員会も組織され、その代表者にもなられた。

 博士は10月26日に来日された。東京では法政、明治、早稲田、日大など各大学のほか日比谷公会堂でも講演された。さらに京都、大阪、神戸で講演されて広島の『世界連邦アジア会議』に臨まれた。さらに博士は福岡で頭山満翁の墓に詣でられ、九大でも講演された。帰郷後も中村屋ビハリ・ボースさんの墓や、熱海の興亜観音にも参詣された。・・・この一ヵ月余にわたる全国遊説に下中先生、中谷武世先生、そしてわたくしと通訳のA・Mナイル君の四人が終始同行した。

 パール博士と下中先生はこの一ヵ月余の旅行ですっかり意気投合された。年齢も近く(下中が8才年長)、二人とも幼少にして父を喪い、母の手一つで、極貧の中にあって刻苦し、独学で勉学した経歴をもつ。しかも大アジア主義、世界連邦による恒久平和の確立といった思想・信条の共通から、義兄弟の契りも結ぶにいたったのである。


東京裁判の評価とパールの名声

 ついでながら東京裁判の評価について触れておきたい。
 マッカーサー創るところの「極東国際軍事裁判所条例(チャーター)」に基づき、いわゆるA級戦犯28人が起訴されたのは昭和21年4月29日(昭和天皇の誕生日)であった。すべての審理が終了したのが昭和23年4月16日。以降裁判のため7ヵ月の休憩に入り、判決は同年11月4日から始まった。判決文の朗読が終わり、最後の「刑の宣告」が行われたのが11月12日あった。
 東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が処刑されたのは12月23日(今上天皇の誕生日)であった。つまり東京裁判は昭和 天皇の誕生日に起訴し、当時皇太子であられた今上天皇の誕生日を期して処断したのである。この一事をもってしても、いかに執念深い復讐のための裁判だったかがわかろう。

 だが、東京裁判が終わって2年後の昭和25年10月15日マッカーサーはウェーキ島においてトルーマン大統領に「東京裁判は誤りであった」旨を告白して、すでにこの裁判の失敗を認めている。その翌年の5月3日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で「日本が第二次大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、東京裁判で裁いた日本の侵略戦争論を全面的に否定しているのである。

 のちに、「この裁判の原告は文明である」と大見得を切ったキーナン主席検事も、あの傲慢なウエッブ裁判長も、この裁判は法に準拠しない間違った裁判であったことを認める発言をしている。現在名ある世界の国際法学者で、東京裁判をまともに認める学者など一人もいない。パール判事の立論こそが正論であるとし、パールの名声は国際的に高まった。

 1953年、パール博士はジュネーブにある国際司法委員会の議長の要職に推挙された。1960年にはインド最高の栄誉賞であるPADHMA・RRI勲章を授与された。同時にインド国際法学会の会長に就任され、のち世界連邦カルカッタ協会長にも就任した。1967年1月10日カルカッタの自邸において多彩な生涯を終えられた。

 死の前年、すなわち昭和41年(1966)10月、パール博士は清瀬一郎、岸信介両氏の招きに応じて四たび来日され、天皇陛下から勲一等瑞宝章の受賞の栄誉に浴されたのである。


「パール博士歓迎委員会」

 パール博士の二度目の来日は、東京裁判からちょうど四年後のことである。
 博士は東京裁判の約2年半の期間、帝国ホテルの一室に閉じこっもたまま、他の判事や検事が休日ごとにドライブやパーティーを楽しんでいる時、博士は自宅からあるいは弟子や知友に依頼して参考文献を取りよせ、もっぱら読書と思索にふけられた。その読書は三千巻にも及んだといわれる。
 下中先生はわたくしや伊藤千春、大山量士、金子智一氏などを集めて、パール博士歓迎委員会の結成と必要な手配を命じた。そしてわたしをともない、財界を回り、さらに各大学や弁護士を回って講演会、その他の打合せをされた。

 「パール博士歓迎委員会」のメンバーは、日印協会会長一万田尚登氏(日銀総裁)を筆頭に、財界では藤山愛一郎、永野重雄、石川一郎、高橋龍太郎、鮎川義介氏ら・・・。政界では尾崎行雄、岸信介、高崎達之助、安井誠一郎氏ら・・・。法曹界では東京裁判で活躍した鵜沢総明、清瀬一郎、林逸朗、菅原裕、三文字正平、伊藤清ら・・・。学者・文筆家では田中耕太郎、鶴見祐輔、神川彦松、前田多門、賀川豊彦、小野清一郎、中谷武世氏ら・・・。ともかく錚々たる当代一流の48人からなる委員会が結成された。わたしはその事務局長を仰せつかった。

 博士は10月26日、パンナム機で来日され、11月28日に離日された。この間、下中、中谷両先生とわたくしと通訳のA・M・ナイル君(京大出身)は博士の全行程に行を共にした。この一ヵ月余にわたる滞日中の博士の言動は、わたしの生涯忘れ得ぬ尊い記録である。そのトッピクスのいくつかをご紹介したい。


「真理喪失」と「日本回帰」

 羽田空港に降り立った博士は、出迎えの一人一人と握手して、待ちかまえた記者団の会見室に臨んだ。博士は開口一番こういわれた。
 「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。われわれはこの《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」

 これが上陸第一歩、博士の唇をついて出た言葉であった。

 「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか。

 「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」

 博士はさらに言葉を改めて、「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」と、語調を強めて語られた。

 それから今まで約半世紀、米国のベトナム戦争、アフガニスタンへのソ連の侵略戦争、4回にわたるイスラエルによるアラブ侵略戦争、イラン・イラク戦争、さきの湾岸戦争等々、世界に戦争は絶えない。だがパール博士の予言通り、国際軍事裁判はおろか、国連において侵略の定義がようやく合意を見たのは、実に東京裁判から26年後の1974年である。つまり東京裁判は、侵略とは何かということが判らないままに、日本は侵略したとして処断されたのである。

 記者団の、サンフランシスコ条約と日本独立の印象についての質問に対し、博士はこう答えている。
 「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!とわたくしはいいたい。」
 これがパール博士の東京裁判と独立後の日本に対する印象の第一声であった。 


あまりに卑屈化した日本

 帝国ホテルにおいて『パール博士歓迎委員会』主催の歓迎レセプションが開かれた。この席上、ある弁護士が「わが国に対するパール博士の御同情ある判決に対して、深甚なる感謝の意を表したい。」という意味で謝辞を述べた。すかさず博士は発言を求めて起ちあがり、
 「わたくしが日本に同情ある判決を下したというのは大きな誤解である。わたくしは日本の同情者として判決したのでもなく、またこれを裁いた欧米等の反対者として裁定を下したのでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい。」と述べられた。
 この博士の高い見識に、列席者一同は益々畏敬の念を深くした。

 博士はこの席上でも、また東京、大阪の弁護士協会や広島高裁での講演においても、日本の法曹界はじめマスコミも評論家も、なぜ東京裁判やアジア各地で執行された戦犯裁判の不法、不当性に対して沈黙しているのか。占領下にあってやむを得ないとしても、主権を回復し独立した以上この問題を俎上にのせてなぜ堂々と論争しないのか、と問題を提起し、奮起を促した。

 博士によれば、「いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルクの軍事裁判が、果して正当か否かという激しい論争や反省が展開されている。げんに英国法曹界の長老ロード・ハンキーは<パール判事の無罪論こそ正論である>として『戦犯裁判の錯誤』と題する著書まで出版している。しかるに直接の被害国であり、げんに同胞が戦犯として牢獄に苦悶している日本においてこの重大な国際問題のソッポに向いているのはどうしたことか。なぜ進んでこの論争に加わらないのか。なぜ堂々と国際正義を樹立しようとしないのか・・・」と憤慨されるのである。

 博士は日本に来てみて、日本の評論家やジャーナリストや法律家が、東京裁判に対する本質的な論争、ないしは戦犯の法的根拠、東京裁判で裁いた「平和に対する罪」「人道に対する罪」が国際法とどう関連するのか、日本に侵略的意図があったかなかったか・・・。そうした問題について、あまりにも無関心、もしくは不勉強であると同時に、義憤さえ覚えられたらしい。その義憤は日本人の真理探究、マハトマ・ガンジーのいう《真理把持》の精神に欠けている点に対してである。長いものにはまかれろ、強いものには屈服せよという事大主義のしみったれた根性に対する義憤である。

 博士によると「日本の外務省は、わざわざごていねいに英文パンフレットまで出して、日本の《罪悪》を謝罪し、極東軍事裁判(東京裁判)の御礼まで述べている。東洋的謙譲の美徳もここまでくると情けなくなる。なぜ正しいことは正しいといえないのか、間違っていることをどうして間違っていると指摘できないのか。」と、博士は嘆かれるのである。


原爆のヒロシマ

 パール博士は、広島の爆心地本川小学校講堂で開かれた世界連邦アジア会議にゲストとして参加された。この会議は独立したばかりの新興アジア諸国の指導者を交えた14カ国、45名の代表と千余名の世連主義者によって構成された。壇上には連邦旗を中心に左右に「人類共栄」「戦争絶滅」のスローガンをかかげ、馬蹄形の議事場には14カ国の代表と正面に下中大会委員長、特別来賓のパール博士と英国のボイド・オア卿(ノーベル平和賞受賞者)が着席した。
 博士は45分間にわたる特別講演をおこなった。この講演は、アジア会議の性格を規定する重大な意義をもつものとして注目された。
 「人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。」と前提して博士はこう述べられた。

 「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」

 白人代表を目の前にしての痛烈な民族・人種問題についてのこの講演は、会議の性格を一変したといっていい。
 この博士の講演に引き続き無残にも悪魔のツメアトも生々しい4名の原爆乙女が壇上に立った。ケロイドで引きつった顔に黒眼鏡をかけた佐古美智子さん(当時20才)が、
 「わたしたちは、過去7年の間原爆症のために苦しんできましたが、おそらくこの十字架はなほ長く続くと思われます。しかし、わたしたちは誰をも恨み、憎んではいません。ただ、わたしたちの率直な願いは、再びこんな悲劇が世界の何処にも起こらないようにということです・・・。」
と、涙にふるえながらメッセージを読みあげれば、会場は感動のルツボと化し、嵐のような拍手が鳴りやまなかった。感極まった比島代表のアンヘルス氏が原爆犠牲者に一分の黙祷を提案した。一同起立して、黙祷を捧げた。米代表のマックローリン夫人が「わたしはアメリカ人としてこの原爆に責任を感じています。この悲劇がふたたび起こらないよう生涯を通して原爆阻止運動に献身します。」と誓いの言葉を述べた。そして乙女たちの一人一人を抱いて頬に感激のキスをおくった。博士によればこれこそアメリカ人にして《原爆の懺悔》をした最初の人であった。
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by thinkpod | 2007-02-07 19:12
2007年 02月 07日

パール博士の日本無罪論(下)

原爆慰霊碑と博士の追悼詩

 11月5日、博士は原爆慰霊碑に献花して黙祷を捧げた。その碑に刻まれた文字に目を止められ通訳のナイル君に何がかいてあるかと聴かれた。『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』・・・博士は二度三度確かめた。その意味を理解するにつれ、博士の表情は厳しくなった。
 「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。
 この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」

 このことが新聞に大きく報ぜられ、後日、この碑文の責任者である浜井広島市長とパール博士との対談まで発展した。

 このあと博士はわたくしに「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。」と嘆かれた。そして「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ。」と慨嘆された。

 その夜、わたくしたちのホテルに、広島市小町の本照寺の住職筧義章さんが訪ねてこられこういわれた。「わたくしの寺の檀徒も大勢原爆でやられています。また出征して多くの戦死者も出しています。これらの諸精霊に対して、どうゆう言葉を手向けたらよいか。パール博士に『過ちは繰り返しませぬから』に代わる碑文を書いていただきたい。」と懇願された。

 これを聞かれた博士は、意外にも快く引き受けられた。そして一夜想いを練られて、奉書紙と筆をとりよせ次のような詩を揮毫された。その詩が今も本照寺に建立されている『大亜細亜悲願之碑』である。ナイル君がベンガル語を和訳し、さらに英訳して三カ国語で大きな黒御影石に刻んだ。

それは次のような格調高い詩である。

        激動し 変転する歴史の流れの中に
        道一筋につらなる幾多の人達が
        万斛の想いを抱いて死んでいった
        しかし
        大地深く打ちこまれた
        悲願は消えない
          抑圧されたアジア解放のため
          その厳粛なる誓いに
          いのち捧げた魂の上に幸あれ
        ああ 真理よ!
        あなたはわが心の中にある
        その啓示に従って われは進む

       1952年11月5日  ラダビノード・パール


子孫のため、歴史を明確に正せ

   1952年11月6日、博士は広島高裁における歓迎レセプションに臨まれて、「子孫のため歴史を明確にせよ」と次のように述べられた。
 「1950年のイギリスの国際情報調査局の発表によると、『東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない』と書いてある。ニュルンベルクにおいては、裁判が終わって三か月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由とその内容を発表した。しかるに東京裁判は、判決が終わって4年になるのにその発表がない。他の判事は全部有罪と判定し、わたくし一人が無罪と判定した。わたくしはその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠も何ら明確にしていない。おそらく明確にできないのではないか。だから東京裁判の判決の全貌はいまだに発表されていない。これでは感情によって裁いたといわれても何ら抗弁できまい。」

 このように述べた後、博士はいちだんと語気を強めて、
 「要するに彼等(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いがない。東京裁判の全貌が明らかにされぬ以上、後世の史家はいずれが真なりや迷うであろう。歴史を明確にする時が来た。そのためには東京裁判の全貌が明らかにされなくてはならぬ。・・・これが諸君の子孫に負うところの義務である。

 「わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる事実の歴史を、どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の偽瞞を払拭せよ。誤れた歴史は書きかえられねばならない。」

 博士は、慈愛と情熱を込めて切々と訴えられるのである。

 パール博士は東京弁護士会においても多数の法律家を前にして講演された。いうまでもなく、博士は極東国際軍事裁判を根本的に否定している。それは戦勝国が復讐の欲望を満足させるために国際法を無視し、司法と立法を混合してマッカーサーが法を制定し、法の不遡及まで犯した一方的な軍事裁判だったからである。ここでも博士は次のように述べている

 「日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略にごまかされてはならぬ。日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚におちいることは、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。日本よ!日本人は連合国から与えられた《戦犯》の観念を頭から一掃せよ。・・・」と、博士は繰り返し強調された。



戦犯家族と遺族へのいたわり

 1952年11月7日、わたくしたち一行が福岡に到着すると、BC級戦犯者の家族が60名ほど福岡消防館で博士を待っていた。
 深い悲しみにつつまれた家族たちを前に、パール博士は沈痛な表情でこう述べた。
 「戦犯といわれるが、決して犯罪者ではありません。全員無罪です。何も罪とがを犯したのではないのです。恥ずべきことはひとつもありません。世界の人たちも、戦争裁判が間違っていたことを少しづづ分かり始めたようです。しかし、わたくしは、今さらながら自分の無力を悲しみます。ただご同情申しあげるだけで、わたくしには何もできません。・・・けれど戦犯釈放にはできるだけ努めます。これ以上、罪のない愛する者同士を引き離しておくわけにはいきません。・・・わたくしは倒れそうです。・・・許してください。」受刑家族の苦悩を苦悩とする博士は、言葉も途切れがちに、ようやくこれだけ述べて合掌するのみであった。

 戦犯の無罪を確信し、この暴挙に憤りをもつ博士は、受刑家族を目のあたりに見て、深い責任感-自ら犯した過ちの如く- 責められる気持ちであったのだろう。「自分の無力を悲しむ・・・許してください」といって涙し、そして嗚咽する家族の中に歩みよって、家族の一人一人の肩にやさしく手をおいた。

 若いお母さんに連れられた水兵服の4才の遺児(父親は陸軍参謀中尉・重労働30年)を抱きかかえて頬ずりする。博士の目からは大粒の涙がこぼれている。元九州大学助教授の鳥巣太郎氏(九大事件で刑期10年)の夫人の肩をやさしく抱いて「泣かないで・・・泣かないで・・・」といたわりながら自分も泣いている博士である。

 本当に博士は倒れそうな心のささえを、合掌によってささえているようであった。

 東京へ帰ると博士は、巣鴨プリズンを慰問された。巣鴨にはA級戦犯とBC級戦犯あわせて130名ほど留置されていた。博士は一部屋ごとに声をかけられ慰めかつ励まされた。当局もインド代表判事ということで、BC級戦犯全員を廊下に整列せしめた。博士は「皆さんには何の罪もない。講和条約も終わった。講和条約が終われば、当然皆さんは釈放されるはずです。あとは手続きの問題だけです。それが国際法の定めるところです。どうかそれまで健康に留意してください。」と励ました。

 博士は東京裁判で処刑された7人の遺族に対しても、心からいたわりの情を示された。まず東條勝子夫人から面会の申し込みがあったのを、夫人にわざわざ来てもらうのは忍びないといって、博士はわざわざ遠隔の世田谷・用賀の東條宅を訪れた。荒れはてた庭にはコスモスが咲き乱れ、七面鳥が鳴きわめいていた。勝子夫人と二人の娘さん、三人のお孫さんに囲まれた博士は、一人一人孫を抱きあげ、頬ずりしながら、長時間勝子夫人を慰めた。

 板垣征四郎元大将未亡人喜久子夫人は博士を帝国ホテルに訪ねてきた。博士は夫人の手をとって迎え、「板垣さんはわたくしの座席の真正面でした。」と博士がいうと、
 「はい、いつもパール先生がまっ先に正面にあらわれて、被告席に向かって合掌されるので、とても印象が深かったと、主人は死ぬまで申していました。」
 夫人はそういって二枚の色紙をとり出した。それには次の二首の短歌が染筆されていた。

  ふたとせにあまるさばきの庭のうち
   このひとふみを見るぞとうとき

  すぐれたる人のふみ見て思ふかな
   やみ夜を照らす灯のごと

 《ひとふみ》とは、博士が判決した全員無罪の要旨を弁護人から聴いた時の感慨である。ナイル君が英訳して伝えると、「そうでしたか・・・」と目をうるませながらこまごまと夫人をねぎらった。

 この夜、廣田弘毅元首相のお嬢さんと、東郷茂徳元外相の夫人が訪ねてきた。この時も博士は懇切に二人を慰めた。

 木村兵太郎元大将の未亡人可縫夫人は奈良ホテルに博士を訪ね、「わたくしども7人の戦犯処刑家族のものは、年2回、23日の命日に集まってひそやかに慰めあうのを何よりの楽しみにして、淋しい日を送っています。」といった。博士は「12月23日!この日は今に日本国中の人が《記念の日》とする日が来るようになりましょう。」と慰めた。

 博士はその判決文の最後を次の言葉で結んでいるのである。「時が、熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう。」と。・・・その「時」がきっときますよ、と慰めたのである。


Amazon.co.jp: パール判事の日本無罪論: 本: 田中 正明
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094025065/249-7086963-8009139

パール博士のことば
http://www6.plala.or.jp/mwmw/kotoba.html


A級戦犯
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/cat6551953/index.html
誇りある国を取り戻そう
http://www.sasaki-law.com/memberof/concern6.htm
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by thinkpod | 2007-02-07 19:10
2007年 02月 06日

Common Sense: 「核の傘」は幻想か?

 中国が「核の恫喝」を日本にかけてきた場合、
アメリカの「核の傘」に頼れるのか?

■1.「核の傘」はフィクション?■

 ワシントンに住む国際政治アナリスト・伊藤貫氏は、かつて
米国防総省次官補(アジア政策担当)も勤めたカール・フォー
ド氏に尋ねたことがある。中国の海空軍が台湾を奇襲攻撃した
事態を想定して、こう訊いたのである。

 米中両国が戦争状態になり、日本にある軍事基地から米
海軍や空軍が出撃して中国の駆逐艦を撃沈し戦闘機を撃墜
すれば、中国政府は日本政府に対して「すべての対米協力
を即時中止せよ! 米軍に日本の軍事基地を使用させるな!
この要求に従わないならば、24時間後に大阪に核ミサイ
ルを撃ち込む!」という要求を突きつけてくる可能性があ
ります。

 その場合、日本の総理大臣はどう反応するでしょうか。
「アメリカの核の傘があるから大丈夫だ。中国が日本を攻
撃してくることなんかあり得ない」と言って対米協力を続
けるでしょうか。

 それとも「たとえ中国が大阪に核ミサイルを撃ち込んで
も、それを理由にアメリカと中国が核戦争を始めるわけが
ない。そんなことをすれば、数千万人も米国の一般市民が
死んでしまう。アメリカの大統領がそこまでして『核の傘
の保証』を守るはずがない」と判断して、中国からのニュ
ークリア・ブラックメール(核兵器による恫喝)に屈服す
るでしょうか。

「核の傘」というコンセプトは、やはりフィクションなの
ではないでしょうか?

■2.ドゴールの問いつめ■

「核の傘」というコンセプトがフィクションかどうか、過去、
いろいろな国が自分なりの答えを出している。

 フランスのドゴール大統領は、1950年代から独自の核兵器開
発を推進し、1960年に最初の核実験を成功させた。米民主党の
政治家や言論人は、ドゴールの自主的な核開発に反対し続けて
いた。

 そのドゴールがNATO(北大西洋条約機構)総司令官であ
る米軍大将と、「核の傘の有効性」に関して議論している。ド
ゴールはNATO総司令官にこう問いつめた。

 いったいどのような場合に、アメリカはフランスに対す
る核攻撃に報復するため、ソ連と核戦争をするのか? こ
のような場合にアメリカはフランス防衛のためにソ連と核
戦争をする、という軍事シナリオを具体的に説明してくれ。

 NATO司令官は絶句してしまった。ドゴールは同様の質問
を民主党のケネディ大統領にもぶつけた。ケネディは顔面蒼白
になって何も答えられなかった。民主党政権は、西ヨーロッパ
の同盟国を守るためにソ連と核戦争をするつもりなどまったく
なかったのに、「核の傘」理論でフランスの自主的な核抑止力
構築を阻止しようとしていたのである。

 ドゴール大統領は、単なる職業軍人ではなく、優れた軍事理
論書も執筆し、文学と歴史学にも深い素養を持つ古典的な教養
人であった。そのドゴールから見れば、アメリカの「核の傘」
理論は欺瞞に見えたのである。

■3.サッチャーの答え■

 イギリスもアメリカとの同盟国でありながら、その「核の傘」
には頼らず、独自の核兵器を持っている。その理由について、
1990年代の初頭、首相を退任したマーガレット・サッチャーは
ワシントンにおけるスピーチの場で質問を受けた。「すでにソ
連は崩壊し、冷戦は終わった。それなのになぜ、最近のイギリ
ス政府は、次世代の核兵器システム整備のために多額の国防予
算を注ぎ込んでいるのか?」と。サッチャーは次の3つの理由
を挙げた。

 第一に、1947-1991年の冷戦期に、米ソが直接軍事対決しな
かったのは、核兵器のおかげである。核兵器の破壊力があまり
にも強いため、米ソ両国は、彼らが支配する第三世界の衛星国
に代理戦争をさせることはあったが、核武装した米ソ同士の直
接の軍事衝突は注意深く避けた。この事実を見ても、核兵器に
非常に強い戦争抑止効果があることは明らかだ。

 第二に、イギリスは中型国家であり、その軍事予算は限られ
ている。この限られた予算を使って最大限の戦争抑止効果を得
るためには、通常兵器に投資するよりも核兵器に投資したほう
が、高い抑止効果を得られる。

 第三に、現在の国際社会は、核兵器を持つ国が支配している。
そのことが良いことか悪いことかは別にして、それが国際社会
の現実である。もしイギリスが常に最新型の核抑止力を整備し
ておかなかったら、イギリス政府は国際社会で独立した発言力
を失ってしまう。

 サッチャーはにこやかに、かつ堂々と「核兵器を所有するこ
とが、いかにイギリスの国益に貢献してきたか」を説いた。

■4.中国の「ズボンをはかなくとも」核兵器を開発する理由■

 中国は「ズボンをはかなくとも核兵器を開発する」と、貧し
い国家予算を核開発につぎ込んで、5番目の核所有国になった[a]。
それには次の4つの理由がある、と中国の軍人や政治学者は指
摘してきた。

 第一に、アメリカとソ連は核武装した覇権主義国家であり、
これら二国を牽制するために、自主的な核抑止力不可欠である。
現在の国際社会で自主的な核抑止力を持たない国は、真の独立
国として機能できない。

 第二に、1958年以降、ソ連は中国の核兵器開発に反対して
「中国はソ連の『核の傘』に依存すればよい。独自の核抑止力
を構築する必要はない」と主張してきた。しかし、この「核の
傘」という軍事コンセプトは、実際には機能しないものである。
たとえアメリカが中国を先制核攻撃した場合にも、ソ連がそれ
に報復するためにアメリカに核ミサイルを撃ち込むようなこと
はありえない。米ソ両国は、同盟国を守るために核ミサイルの
撃ち合いをするような愚かな国ではない。

 ソ連政府が中国に提供するという「核の傘」は、非核の中国
を、核武装したソ連の国家意思に従属させようとする覇権主義
的トリックにすぎない。

 第三に、1950年代から1970年代までの中国は貧しく、政府が
使える軍事予算は限られたものであった。通常兵器に100億
ドル投資しても中国は米ソからの先制攻撃を抑止できないが、
核兵器製造に同額を投資すれば、中国は米ソからの先制攻撃を
抑止できる。

 第四に、現在の国際社会で真の発言権を持っているのは、核
武装国だけである。核兵器を持たない国は、核武装に恫喝され
れば屈服するしかないから、真の発言権を持てない。中国が現
在の国際社会で真の発言力を得ようとするならば、自主的な核
抑止力を持たなければならない。

■5.中国は「核の傘」を信じない■

 このような考えからフランス、イギリス、そして中国と、い
ずれもアメリカやソ連の「核の傘」を信じずに、独自の核抑止
力を構築してきたのである。

 特に中国自身が、ソ連の「核の傘」を信じていなかったとい
うことは、日本に対するアメリカの「核の傘」も信じていない
ことを意味する。上述の第二の理由の主張で、国名を入れ替え
れば、こうなる。

 たとえ中国が日本を先制核攻撃した場合にも、アメリカ
がそれに報復するために中国に核ミサイルを撃ち込むよう
なことはありえない。米中両国は、同盟国を守るために核
ミサイルの撃ち合いをするような愚かな国ではない。

 これが正しいかどうかは別にして、当の中国がこう信じてい
るのであるから、中国はアメリカの日本に対する「核の傘」な
ど恐れずに、日本に核の脅しをかけてくることは十分あり得る
のである。

■6.「日本にとって、そのような中国に対抗する手段はない」■

 冒頭で、このシナリオについて、伊藤氏から質問を受けたカ
ール・フォード氏はこう答えている。

 この場合、日本政府は「中国政府はそのようなニューク
リア・ブラックメールをかけてこないだろう」、もしくは、
「中国がニュークリア・ブラックメールをかけてきても、
それを実行することはないだろう」と希望するしかない。
もし日本が中国のブラックメールに屈服するなら、日米同
盟はそれでおしまいです。その場合、日本は中国の属国に
なるでしょう。

 結局、これはチキン・ゲームです。(JOG注: 脅し合い
で先に降参した方が負けるゲーム)

 もし中国が、「台湾を断固としてとる! アメリカと激
しく対立しても獲る! 日本にニュークリア・ブラックメ
ールを突きつけてでも獲る!」という鋼鉄のように厳しい
決意をみせてこの戦いに臨んでくるならば、日本は負けで
す。日本にとって、そのような中国に対抗する手段はない。
現在の状況下で、日本は「堅固な日米同盟」が中国にその
ような行為をとらせない効果があるだろうと希望するしか
ないのです。[1,p131]

 表だっては述べていないが、中国が本気で核の恫喝をかけて
きたら、アメリカの「核の傘」では日本を守れない、とフォー
ド氏は考えているのである。

■7.「核抑止力を持たない国は真の独立国として機能できない」■

 中国の核の恫喝に対して、日本が先に屈服して、米軍の出動
を妨害したら、カーク氏の言うように、日米同盟はそれで終わ
りとなる。米軍は撤退し、日本は中国の属国になる。

 また日本がアメリカの「核の傘」をあてにして、あくまでも
つっぱたら、どうだろう。ここで中国が核ミサイルを撃ち込む
と脅す対象が大阪となっているのには、理由がある。

 大阪には本格的な在日米軍の基地がないからだ。米軍基地の
ある東京や沖縄を核攻撃したら、米国自体を核攻撃したことに
なり、米国の報復の可能性もないとは言えない。しかし、大阪
なら、中国は日本だけを攻撃したわけで、米国を核攻撃しては
いない、と主張できる。

 その際に、米国は本格的な核戦争はやるわけにはいかないの
で、申しわけ程度に通常兵器で反撃をして見せ、同盟の義理を
果たした所で戈を納めるだろう。このケースでも、日本は米国
の「核の傘」が幻想だったと知り、結局は中国に屈服しなけれ
ば生きていけない、と悟る。

 サッチャーが「現在の国際社会は、核兵器を持つ国が支配し
ている」というのも、中国の考える「現在の国際社会で自主的
な核抑止力を持たない国は、真の独立国として機能できない」
というのも、真実をついている。

 核抑止力を持たない国が他国の「核の傘」に入る、というの
は、ある意味で、その国の属国になることだ。現在の日本はア
メリカの「核の傘」に入っているが、カーター政権の安全保障
政策補佐官であったズビグニュー・ブレジンスキーは、著作の
中で戦後の日本のことを「アメリカの保護領」(US
protectorate)と評している。

■8.「アメリカは、核武装したロシアや中国と戦わない」■

 伊藤氏は、カール・フォード氏以外にも、多くのアメリカの
政治家や学者にインタビューして、「核の傘」の有効性に関す
る見解を問い質している。そのうちの一人、共和党の連邦下院
軍事委メンバーであり、国際政治学の博士号を持つマーク・カ
ーク議員は、こう述べている。

 アメリカは、核武装したロシアや中国と戦争するわけに
はいかない。今後、中国の軍事力は強大化していくから、
アメリカが中国と戦争するということは、ますます非現実
的なものとなる。だから日本は、自主的な核抑止力を持つ
必要がある。「東アジア地域において、日本だけは非核の
ままにしておきたい」などと言うアメリカ人は、間違って
いる。現在の日本には、自主防衛力が必要なのだ。日本は
立派な民主国家なのだから、もっと自分自身に自信を持っ
て、自分の国の防衛に自分で責任をとるべきだ。[1,p125]

 伊藤氏は、この発言をこう評している。

 アメリカの政治家・外交官・軍人の大部分は、今後、ア
メリカが日本を守るために核武装した中国と戦争すること
はありえないことを承知している。そのような戦争は、ア
メリカ政府にとって、リスクが大きすぎる、しかしそのこ
と(その真実)を日本人の前であっさり認め、「だから日
本には、自主的な核抑止力が必要なのだ」と、本当のこと
を言ってくれる米政治家は、そう多くない。カーク議員の
インテレクチュアル・インテグリティ(知的誠実さ)は、
称賛されるべきものである。[1,p125]

■9.日本は自分の国の防衛に自分で責任をとるべきだ■

 アメリカの「核の傘」が信じられないのであれば、日本はど
うすべきか。直ちに自主的な核武装に踏み切るべきなのだろう
か。この問題は日本の総合的な安全保障体制の中で考えなけれ
ばならない。前号でも述べたが、日米同盟は、経済力・技術力
で世界第1位と第2位の同盟なのである。さらには台湾やアセ
アン諸国、オーストラリアなど、中国からの脅威に対して、運
命共同体として力を合わせてやっていける盟邦がありうる。

 一方で、中国の経済体制、政治体制は大きな内部矛盾を抱え
ている。かつて西側諸国が結束してソ連を崩壊させた戦術を、
今度は中国に対して行う、というアプローチもあるだろう。日
本が独自の核抑止力を持つべきか、という議論も、こういう総
合的な戦略のもとで考えるべきである。この問題に関しては、
稿を改めて、考えてみたい。

 しかし、そのような総合的な戦略を考えるためにも、まず必
要なのは、核の議論をすることすら封じよう、という風潮をま
ず打破しなければならない。本稿で紹介したような核に関する
国際常識とは、あまりにも隔絶した非常識が国内を覆っている。

 カーク議員の「日本は立派な民主国家なのだから、もっと自
分自身に自信を持って、自分の国の防衛に自分で責任をとるべ
きだ」という言葉を、まず噛みしめるべきだろう。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(186) 貧者の一燈、核兵器〜中国軍拡小史
 9回の対外戦争と数次の国内動乱を乗り越えて、核大国を目
指してきた中国の国家的執念。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog186.html
b. JOG(040) 真の反核とは
「反核」を叫び、「制裁」を唱えているだけでは、世界はちっ
とも変わりません。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog040.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 伊藤貫「中国の『核』が世界を制す」★★★、PHP研究所、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569648681/japanontheg01-22%22


http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108207340.html
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by thinkpod | 2007-02-06 16:15
2007年 01月 21日

戦後…博多港引き揚げ者らの体験

<1>「ソ連が来る」息潜めた
 ◆略奪、暴行 苦難の果ての祖国

e0034196_1933736.jpg
漁船で引き揚げてきた人たちもいた(「米軍が写した終戦直後の福岡県」より)
 ロシアと国境を接する中国黒竜江省の省都・ハルビン。「満州国」時代には日本が支配したこの都市に、高等女学校教諭として赴任していた溝口節さん(83)(福岡県大野城市)は、ある光景が脳裏に焼き付いて離れない。

 終戦直後の1945年9月、日本人の避難所だった自宅隣のホテル。自宅窓からのぞき見ると、上半身裸のソ連(当時)の兵隊が、ホテル窓から室内へと押し入った。間もなくして、女性の悲鳴が深夜の街に響き渡った。

 「ソ連兵に捕まったらどうなるか。具体的にはわかってなかったけど、『とにかく大変なことになる』とは感じていました。だから不安でたまりませんでした」

 溝口さんが、日ソ中立条約を破って満州(現中国東北部)に侵攻してきたソ連兵に初めて遭遇したのは、その半月ほど前。学校にいた時、小銃を提げた5、6人がトラックで乗り付けてきた。教室に入るなりミシンや地図を探し出し、トラックに積み込んで持ち去った。

 この時は「泥棒みたいな兵隊だな」と感じた程度だったが、次第に、ソ連兵は民家に押し入り、貴金属から衣類、色鉛筆まで、手当たり次第に略奪するほど治安は悪化していった。

 そんなころだった。ノックの音で何気なく自宅のドアを開けると、ドアの前に立っていた、近所に住む叔母にいきなり怒られた。

 「あんた、何やってるのよ。うろうろしていないで隠れないと」

 「夫の前で暴行されて、青酸カリで自殺した奥さんもいるらしいのに」

 その日から、溝口さんは床下の高さ50センチ、広さ6畳ほどの空間で、息を潜めて暮らすことになった。治安がやや安定した1か月後にはい出した時には、日に当たっていない肌は白くなり、一人では歩けないほど脚が衰弱していた。

    ■   □

 自宅を捨てたどり着いた日本人の収容所が、ソ連兵に襲われた体験を持つ人もいる。

 「チャラ、チャラというサーベルの鎖の音と、軍靴の硬い靴音は今でも忘れられない」と振り返るのは、山本千恵子さん(69)(福岡県太宰府市)。

 山本さんは家族6人で、朝鮮半島北部にある白頭山から東に約150キロの羅南で暮らしていた。ソ連侵攻後の45年8月13日、6人家族のうち、召集された父親を除く一家5人は山中に避難。ひたすら南側に向かって歩き続け、2か月後、約300キロ離れた興南の日本人収容所にたどり着いた。

 しかし、弟がチフスで命を落とす。母が出産した女児はすぐに死亡。母親も3日後に息を引き取った。収容所での肉親は、当時9歳だった山本さんと姉、妹だけとなった。

 「ソ連が来る」

 ささやくような声が、収容所の棟から棟へと素早く伝えられる。1畳に2、3人が寝る狭い部屋だったが、みんなで畳を持ち上げ、若い女性を床下に押し込んで手早く元に戻した。

 「マダム、ダワイ!(女を出せ)」

 わめき声が近づき、サーベルの鎖と軍靴の音がドアの前で止まった。ドアを開けたソ連兵は、息を潜める一人ひとりの顔をのぞき込み、時には頭をつかんで顔を正面に向けさせ、女性でないかどうか確かめることもあった。

 1度だけ、収容所の外で女性の悲鳴を聞いた。悲鳴は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 「男性に見せかけて暴行を逃れるために、女性は髪を短く切って男物の服を着たり、顔に墨を塗ったりした。子供心にも『ソ連兵が来た時は黙っていないといけない』と思っていた」

 収容所であった出来事を思い起こす時、山本さんの顔は今でもこわばる。

    ■   □

 帰国への最後の難関は、引き揚げ船だった。

 京城(現韓国ソウル市)で生まれ育った森下昭子さん(79)(福岡市城南区)は45年10月、家族や親せきと満員の列車に乗り、釜山近くの街・鎮海にたどり着いた。1500トンの船には引き揚げ者が次々に押し込まれ、森下さんは、明かりもない真っ暗な甲板にひざを抱えて座り込んだ。聞こえてくるのは子供の泣き声と病人のうめき声、そして船が波を切る音だけ。船全体が暗い海に吸い込まれていくようで不気味だった。

 「博多に着いたぞ!」

 翌日、大声が聞こえた。船の先には、空襲で焼けただれた博多の街が広がっていた。下船後、人影もなく、黒っぽいがれきだけが広がる街を、博多駅まで30分ほどかけて歩いた。京城で育った森下さんにとって、日本は初めて足を踏み入れる“異国”。「これから私はどうなるのだろう」。不安でいっぱいだった。

 博多港に引き揚げてくる人の波は途切れなかった。そのなかには、ソ連兵などに暴行されたために、体に変調を感じている女性もいた。

    ■   □

e0034196_1943349.gif
 終戦後の45年11月から約1年半の間に、朝鮮半島や中国大陸から約139万人が引き揚げてきた福岡・博多港。韓国への高速船や中国へのコンテナ船が次々に出港していく現在の博多港では、「博多港引揚記念碑」以外に、命からがら引き揚げてきた人たちがいたことを示す跡は見当たらない。海峡を越えてたどり着いた祖国で、人々は何を見、何を体験したのか。引き揚げ者らの「戦後」を報告する。

 メモ 終戦時、海外にいた軍人や市民などの日本人は約660万人。その半数以上が中国大陸で生活していた。終戦直前の1945年8月9日、ソ連が、翌年4月までが期限の日ソ中立条約を破り、満州と朝鮮半島北部に侵攻。満州では戦中に約6万人、停戦後に約18万5000人が死亡したほか、北朝鮮で約2万8000人が亡くなった。混乱した満州では、肉親と離れて取り残された「中国残留孤児」や、集団自決などの悲劇が起きた。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060720.htm



<2>医師らひそかに中絶手術
 ◆厚生省「超法規的措置」で保養所開設

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二日市保養所。入り口脇には「厚生省博多引揚援護局保養所」の看板がかかっていた(福岡市総合図書館所蔵「博多引揚援護局史」より)
 「不幸なるご婦人方へ至急ご注意!」。満州(現中国東北部)や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。

 「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり……そのため体に異常を感じつつある方は……」「診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」

 全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連(当時)の兵隊などの暴行で妊娠していた女性には見当が付いた。

 中絶手術。優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。

    ■

 ビラを配ったのは、現在の韓国の首都ソウルにあった京城帝大医学部の医師たちのグループ。

 このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、ほとんどは45年12月ごろに帰国。引き揚げ者の治療を続けるため、外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え。46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺「聖福寺」に、診療所「聖福病院」を開設した。

 帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか——。きっかけは、暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。

 このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。しかし、話しかけても泣くばかり。両親から「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。

 すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。

 外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。

 医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。

    ■

 医師らから提案を受けた厚生省(当時)博多引揚援護局は福岡県と交渉し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月、「二日市保養所」を開設した。

 厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、当時、聖福病院に勤務していた元職員は「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」と推測する。

    ■

 京城日赤病院に勤務していた村石正子さん(80)(筑紫野市)は、45年12月に帰国した後、母親のふるさと・種子島で暮らしていた。「仕事を探しているなら二日市に来るように」。約3か月後、日赤幹部から1枚のはがきが届いた。

 二日市保養所を訪ねると、京城日赤病院時代の看護師10人が集まっていた。

 医師から仕事の内容を聞かされ、風呂場を改造して手術台と戸棚を置いただけの“手術室”に案内された。宿舎としてあてがわれた2階の10畳の和室では、「中絶手術って違法じゃないの?」と話し合った。

 だが、悩んでいる余裕はなかった。数日後、トラックが到着した。荷台に乗っていたのは、短い髪に汚れた顔、男性用の服をまとった人たち。「男か」と思ったが、下腹部の膨らみを見れば女性であることはすぐにわかった。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060727.htm



<3>麻酔なしの中絶手術

特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、今年5月14日に行われた「水子供養祭」(福岡県筑紫野市で)
 ◆恨みと怒りの声、手術室に響く

 引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。

 麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。

 「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」——。手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。

 おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。

 幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。白い肌に赤い髪、長い指——。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。

 食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。

 死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった吉田はる代さん(78)(埼玉県川口市)らの仕事だった。手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。

 手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。会話もなく、横になっているだけ。大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。

 女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400〜500人にのぼると見られる。

 1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。

 島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。

 二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。「私はこの手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060803.htm



<4>日誌につづられた悲劇
 ◆相談員だった母…暴行・妊娠を聞き取り

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博多港とほぼ同じ約139万人が引き揚げてきた佐世保港。「引揚第一歩の碑」が立つ
 戦後、九州で博多港とともに中国大陸などからの主な引き揚げ先となった長崎県・佐世保港。佐世保市に住む中山與子(ともこ)さん(66)の母、西村二三子さんは、終戦翌年の1946年5月、佐世保引揚援護局が設置した「婦人相談所」の相談員だった。西村さんは77年に70歳で亡くなったが、その数年前に相談員だったことを中山さんに打ち明けていた。

 「相談員当時の母は、朝早く家を出て、夜には消毒薬のにおいをさせながら帰宅していました。でも、何の仕事をしているのか、具体的には全くわかりませんでした」。中山さんは振り返る。

 相談員を務めたのは、女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」会員の主婦たち。15〜50歳の女性引き揚げ者を対象に、引き揚げ中に暴行を受け、妊娠していないかどうかを聞き出し、妊娠している場合は、中絶手術を受けさせることが役目だった。

    ■

 相談員だったことを打ち明けた西村さんは、「問診日誌」と題した、便せんをとじ込んだつづりを中山さんに手渡した。西村さんら相談員による聞き取り記録で、女性たちが満州(現中国東北部)などで受けた暴行被害が克明に記されていた。

 ▽16歳の女学生がソ連軍(当時)の司令のところに連れて行かれ、暴行されそうになったので、見るに見かねて身代わりとなった。

 ▽ソ連兵から女性を要求されたため、売春をしていた女性を雇いに行く途中に暴民に金を奪われた。やむを得ず、未婚の女性47人を出し、足りないので、さらに未婚の女性80人を出した——。

 日誌では引き揚げ者の女性たちは、つらい体験を具体的に語っていた。だが、暴行のために妊娠した女性について、佐世保引揚援護局史には、「婦人相談所で事情を調査し、療養処置を要する婦女子は国立佐賀療養所(現在の東佐賀病院)に移送した」としか記されておらず、実態は明らかではない。

    ■

 佐賀療養所でどのような治療が行われたのか——。同援護局史には書かれていない事実の一端が、一通の手紙からうかがえる。

 手紙は戦争にまつわる女性の被害を調べていた九大医学部卒の産婦人科医・天児都(あまこくに)さん(71)(福岡市城南区)が97年、九大医学部産婦人科教室OBの医師数人に尋ねたところ、1人から送られてきたものだ。

 「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」「(産婦人科教室の医師が)1、2か月交代で佐賀療養所に行っていた。患者の大部分はソ連兵や現地住民に暴行されて妊娠した人で、妊娠中絶が主な仕事だった」——。

 厚生省の指示によって、国立病院で、当時は原則として違法だった中絶手術を国立大医学部の医師たちがひそかに行っていた——と告白する内容だった。

    ■

 組織ではなく、個人的に中絶手術を手がけたという医師もいる。博多引揚援護局が福岡県筑紫野市に設置した二日市保養所に下宿しながら九大医学部に通った東京医科大名誉教授・相馬広明さん(84)(東京都世田谷区)。

 相馬さんは終戦後、国立福山病院(広島県福山市、現在の福山医療センター)で、18歳くらいの女性の手術をした。卵巣の腫瘍(しゅよう)だと診察したが、開腹して妊娠と判明。慌てて腹部を縫い合わせ、麻酔から目を覚ました女性に聞くと、「実は終戦直後にソ連兵に暴行された」と打ち明けられた。

 相馬さんは女性に中絶手術をし、ほかにも同様の手術を数件行ったという。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060810.htm
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by thinkpod | 2007-01-21 19:10
2007年 01月 21日

戦後…博多港引き揚げ者らの体験

<5>孤児収容所愛情の記憶
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聖福寮には6畳の部屋が約30室あった。八巻さんの目には「真新しい立派な建物」に映った(1946年8月撮影、内山和子さん提供)
 ◆成長した姿と再会、元園長感慨深く

 終戦から間もなく丸1年となる1946年8月9日。赤い発疹(はっしん)だらけの男の子や、ソ連(当時)の兵隊の欲望から逃れるために髪を短く切った女の子ら約250人が、引き揚げ船から博多港に下り立った。ほとんどは満州(現中国東北部)で両親と死に別れた孤児たち。特に健康状態が悪い44人は、博多引揚援護局が博多港近くの「聖福寺」(福岡市博多区)に設置した孤児収容所「聖福寮」に運ばれた。

 出迎えたのは、後に園長も務める保母、石賀信子さん(89)(同市中央区)。女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」青年班のリーダーだった石賀さんは46年春、引き揚げ者の支援活動を行っていた「友の会」中央本部から「福岡でも支援を始めるように」という電報を受け取った。博多港近くの別の寺を見に行くと、本堂の畳の上に寝転がっていたのは、やせこけた孤児たち。「何とかしなければ」という思いが募り、福岡女学院教諭の職をなげうつことを決めた。

    ■

 44人のうち、当時14歳で最も年上だったのは、八巻博雄さん(74)(宮城県大崎市)。八巻さん一家は満州・蓮江口で生活していたが、ソ連侵攻後に父親は召集され、避難中に祖父母と妹、母が相次いで死亡。残されたきょうだい4人は満州の首都・新京にあった孤児院に入った。八巻さんは汽車のかまからこぼれ落ちる石炭を拾い集め、市場で中国人に売っては生活費に充てた。

 生き抜いた4人は孤児院の保母に連れられ、博多港にたどり着いた。聖福寮に入った時の八巻さんの体重は、現在の14歳男子の平均の半分しかない28キロ。それが1週間後に33キロにまで増えたのは、八巻さんが「今でもごちそうとして通るような食事だった」と振り返るように、白い米のご飯や牛乳、ビスケット、ブドウなど、充実した食事のおかげだった。

 博多引揚援護局から特別に支給されたものが多かったが、石賀さんは「石油缶に入っていた旧日本軍のビスケットを、虫を払い落としておやつに出したこともある」と苦笑いしながら思い返す。

 さらに、聖福寺に開設されていた診療所「聖福病院」から、毎日医師が診察に来てくれた。事務を担当していた波多江興輔さん(82)(東京都豊島区)によると、病院の経営は苦しかったが、聖福寮寮長を兼ねていた小児科医・山本良健さん(故人)が無料で診察を続けたという。

 「『どうしてこんなにきちんとしてくれるのだろう』と思うほど保母さんはやさしかった」と、八巻さんは振り返る。毎日の“仕事”といえば、保母に連れられて年長の子ども数人と博多引揚援護局に行き、牛乳を入れてもらったやかんを持ち帰るくらい。やかんを軽くするために、帰り道ではいつも少し飲ませてもらえた。

 「結婚後の生活よりも思い出深いし、今でも時間のある時に思い出す」。八巻さんにとって、聖福寮での生活は、働きづめの人生の中で安息のひとときと記憶されている。

    ■

 46年11月、4人は一家の出身地・宮城県の児童養護施設に移った。その後、妹は養子に行き、2人の弟は知人や親類に引き取られてきょうだいは散り散りに。八巻さんも親類宅に住み込んで農作業を手伝った後、シベリアから引き揚げてきた父と一緒に宮城県鳴子町(当時)の高原に入植。54年に結婚後は3人の子供に恵まれ、農地9000坪を所有するほどになった。

 「よくない施設だったら聖福寮に返してください」。きょうだい4人を引き取りに来た宮城県の職員に頼んだほど、八巻さんらの行く末を気にかけていた石賀さんは78年10月、八巻さんの農場を訪ねた。家庭を築き上げ、緩やかな丘陵に広がる農場を持つ八巻さんと再会した時、石賀さんは心の中でつぶやいた。「ああ、私の戦後はこれで終わった」

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm



<6>孤児の女性が保母に
 ◆生きる喜び伝えたい


遠藤美都子さん
 現在新潟市に住む遠藤美都子さん(74)は、朝鮮半島北部の恵山鎮で終戦を迎えた。約1か月歩き続けてたどり着いた約180キロ南の咸興の収容所では、1946年2月、父と兄が次々に息を引き取った。

 孤児となった遠藤さんは、46年10月に引き揚げ船から博多港に一人で降り立ち、引き揚げ孤児収容所「聖福寮」(福岡市博多区)に運ばれた。ひざではって歩くほど足が悪く、栄養失調も深刻だった。それでも、サツマイモ入りご飯などの食事のおかげで、次第に健康を取り戻した。

 木造のバラックではあったが、掃除の行き届いた聖福寮は明るさにあふれていた。朝食の後には九州大の学生が来て国語や算数を教えてくれた。清潔なエプロンをつけた保母たちは、いつも洗いたての服を着せてくれ、皮膚に寄生したダニが作る赤い発疹(はっしん)の手当てをしてくれた。

 生活のために咸興で朝鮮人宅に住み込み、家政婦として働いたこともあった遠藤さんにとって、「ただただうれしく、『生きていてよかった』と実感できる毎日」だったが、46年12月、福岡県甘木町(現在の朝倉市)の叔父に引き取られ、聖福寮での生活は3か月で幕を下ろした。

 中学卒業が近づき、独り立ちの道を模索していた時、聖福寮での楽しかった思い出が心の中に浮かんだ。自分が経験したような喜びを、今度は自分が子供たちに与えてあげられたら——。思い立ったのが、保母になることだった。

 「子供と話す時はひざを落として目を同じ高さにするなど、子供のことをいつもきちんと考えていた」と、尊敬していた保母の石賀信子さん(89)(福岡市中央区)に相談の手紙を送ると、絵はがきにペンでつづった返事が届いた。

 「聖福寮のお仕事を手伝って下さったら本当にうれしい」

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保母だったころの遠藤さん(右端)と、ひな飾りを前に写真に納まる子供たち(遠藤さん提供)
 引き揚げ孤児収容所・聖福寮から、働く女性のための託児所に衣替えした「聖福子供寮」での仕事が、49年11月から始まった。保育を学んだ経験のない遠藤さんは、思わず大声を上げることもあった。

 聖福子供寮長だった山本良健さん(故人)の二男で、51年3月に入園した良樹さん(58)(千葉市若葉区)は、「石ころか何かを教室に持ち込んだ時に、かん高い声で怒られたことがある」と思い返す。

 遠藤さんも、「いたずらをした子供の食事を抜いたこともあったし、一番怖い先生と言われていました」と自認するほどだったが、愛情があればいつの日か子供は理解してくれると、ひるむことはなかった。

 新しい人生の門出の舞台も、聖福子供寮から名称を改めた「いづみ保育園」だった。九州大助手だった治郎さん(74)と58年4月に結婚した時、同園の大広間で披露宴を行ったのだ。ウエディングドレスは石賀さんが子供の親に頼んで仕立ててくれ、保母の内山和子さん(84)(福岡市中央区)がウエディングケーキに腕を振るった。

 披露宴前日には、受け持っていたすみれ組の子供たちが、「あしたは先生の結婚式」と、窓ガラスをていねいにふいてくれた。

 治郎さんの仕事の都合で熊本に引っ越すことになり、61年3月、遠藤さんはいづみ保育園に別れを告げた。

 「孤児として引き揚げてきた私を生活させてくれ、一生の仕事まで見つけさせてくれた。聖福寮がなかったら、今の私はありませんでした」

 60年前、聖福寮で撮影した栄養失調で細い腕の自分の写真に目を落としながら、遠藤さんは繰り返した。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm


<7>子どもの心潤した食事と行事
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「よくみる よくきく よくする」という、いづみ保育園の標語の前に並んだ子どもたち(1953年3月、遠藤美都子さん提供)
 朝鮮半島などからの引き揚げが一段落した1947年3月、引き揚げ孤児収容所「聖福寮」(福岡市博多区)は、働く女性の子どもを預かる託児所「聖福子供寮」に衣替えした。

 終戦からまだ1年半余。食べていくのに精いっぱいの親が多く、全くしつけを受けていない子どもが続々と入寮した。一方、出迎える保母の大半は、保育を学んだことも、育児の経験もない人ばかり。

 「私たちにできることは、子どもが長時間暮らす託児所の中だけでも、『きちんと生活させること』しかなかった」。当時の寮の教育方針について、後に園長も務める保母の石賀信子さん(89)は、振り返る。

 「きちんと生活させる」ために、保母らが力を注いだのは、食事だった。

 「おやつがあるから聖福子供寮がいい」。家から近い幼稚園に“転校”させようとした親に、こう言って抵抗する子どもがいたほど、恵まれた食事は子どもの心を潤した。


聖福子供寮ができたころ、幼い子供を預かる保育園は少なかった。「閉園時にはかなり増えていたので、『役割は終わった』という満足感もあった」と石賀さんは振り返る
 石賀さんをはじめ保母の中には、女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」の講習会で、しゃれた料理を習い覚えた人が多く、子どもたちに出す食事でその腕を振るったからだ。

 その中の一人だったのは、内山和子さん(84)(福岡市中央区)。当時の日課は、夕方になると5分ほど歩いて米軍のPX(売店)の裏口に出かけ、切り落とされた柔らかいパンの耳を段ボール箱に入れてもらうことだった。

 情けない思いはよぎったが、「子どもを喜ばせることができる」という思いが勝った。パンの耳をもとに作ったのは、講習会で習った洋菓子「パンプディング」。子どもたちは、初めて見るおやつを、歓声を上げながらほおばった。

 52年9月に聖福子供寮から「いづみ保育園」に名称が変わっても、食事は充実していた。「タンシチューやロールキャベツが日常的に出された」。聖福子供寮長だった山本良健さん(故人)の二男で、卒園生の良樹さん(58)(千葉市若葉区)が懐かしむように、レストランで出るような洋食が子どもの食卓を彩った。

 また、七夕や海水浴のほか、クリスマスには、山本さんらがふんしたサンタクロースがプレゼントを配るなど、季節ごとの行事が子どもの心を浮き立たせた。

 季節感のある行事は、整った食事とともに、「きちんと生活するうえでの基本」(内山さん)だった。そうした保母たちの思いは、良樹さんが、「個性豊かな保母たちが、愛情を込めて与えてくれる豊かな生活が、いづみ保育園の魅力だった」と振り返るように、子どもの心にも伝わった。

 いづみ保育園の原点となった聖福寮は、終戦後の混乱期、正式な契約もないまま聖福寺の境内に建てられたものだった。グアム島に残留していた元日本兵2人の生還が大きなニュースとなった60年、土地の返還を迫られたが、移転する土地も見つからず、65年3月、最後の卒園生18人を送り出して閉園した。

 引き揚げ孤児を守り育てた聖福寮の発足から、いづみ保育園の閉園まで19年。この間に引き揚げ孤児164人を含む981人が巣立っていった。

    ◇

 「戦後—博多港引き揚げ者らの体験」は今回で終わります

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060831.htm



ーーーーーーーーーーーーー


敗戦後の日本女性強姦についてはソ連兵が悪名高いが、実際には
朝鮮人によるものがダントツで多い。

「水子の譜(うた)」上坪 隆
----- ドキュメント引揚孤児と女たち -----
ttp://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60009096&genreid=10010

二日市保養所の資料は、六月十日の報告書
183 ページ "地域別と加害者"
これは、2ヶ月分だけの記録
加害者の6割が朝鮮人だと示しています。

不法妊娠(強姦等による妊娠 救療部の用語)ヲ地区別ニ分類スルニ北朝24ニシテ最多、
南鮮14、満州4、北支3ノ順序ニシテ
鮮人ニ因ルモノ28、ソ連人ニ因ルモノハ8、支那人ニ因ルモノ6人、
米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ


この記録は、たった2ヶ月だけ。
堕胎施設は、二日市保養所の他にもあるし、氷山の一角に過ぎない。
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by thinkpod | 2007-01-21 19:06
2007年 01月 15日

核保有へ明確な国家意思を~黒船あらわる

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核保有へ明確な国家意思を
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              平井修一

太平の眠りを覚ます上喜撰

たった四杯で夜も眠れず

「上喜撰」は当時の高級ブランドの日本茶だそうで、言うまでもなくペ
リー提督率いる黒船、蒸気船とかけたものだ。

このとき、すなわち嘉永6年(1853)、日本人は蒸気船を初めて見、西
洋の工業力を知った。航海を学び始めたのが安政2年(1855)、かくて
万延元年(1860)正月には米国へ向けて太平洋へ乗り出した。黒船を見
てからわずか7年、咸臨丸は無寄港でサンフランシスコに到着した。

「少しも他人の手を借りずに出かけて行こうと決断したその勇気といい、
その技量といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべ
き事実だろう」(福沢諭吉)

黒船の衝撃はメガトン級だった。当時の世界は弱肉強食、すさまじい格
差社会で、弱ければ強者の支配と収奪を受け入れるほかないというのが
国際社会の常識だった。国防に万全を期さなければ植民地になってしま
う、富国強兵のためにはどうすべきかという議論が高まり、明治維新で
体制を一新、殖産興業を猛烈な勢いですすめ、軍事力と工業力をつけて
いった。

黒船に驚いてから半世紀も経たぬうち、明治38年(1905)には世界最強
といわれたバルチック艦隊を撃破し、ロシアの南進を止め、強国の仲間
入りをした。まさに疾風怒濤、疾駆する青春だ。

中国、ロシア、北朝鮮は、安倍総理の言う「自由、民主、人権、法の統
治」とはまったく相容れない国である。日本と事を構えることになれば
軍事力ですべてを決しようという暴力国家で、平和的な話し合いなどが
通じる相手ではない。

「外交は血を流さない戦争、戦争は血を流す外交である」(毛沢東)と
いうのが三国共通のDNAだ。北朝鮮の傀儡政権といってもよい韓国に
もその血は流れているから、隣国はすべて脅威である。

暴力団は話がこじれると銃をぶっぱなす。暴力国家は核ミサイルで脅し
をかける。中国は尖閣諸島を狙い、ロシア、韓国は日本領土を侵略して
いる。北朝鮮は多くの日本人を誘拐し、日本攻撃に備えて工作員を養成
している。いつ暴発してもおかしくない国ばかりだ。

1945年以降、冷戦が始まったが、大国間で戦争は起きていない。核抑止
力が有効に働いているからだ。インドとパキスタンは双方が核を持つこ
とで戦争が抑止されている。イスラエルが自国を亡ぼそうというアラブ
の暴力国家に囲まれながら存続しているのは核を含めた圧倒的な軍事力
があるからだ。

1945年、日本は人類史上初めて核攻撃を受けた。もし、日本にサンフラ
ンシスコ、ロサンゼルスを報復核攻撃する能力があれば、アメリカは原
爆を落とさなかっただろう。核抑止力がなかったから日本は核攻撃を受
けたのである。

核による無差別攻撃で30万人を殺されたにもかかわらず、この歴史か
ら現実を学ばなければ、30万人は犬死だ。

中共は「国民がパンツ1枚になっても(ひもじくなっても)核を持つ」
という明確な国家意思で800基の核ミサイルを持った。現在、我が国
にとって大事なのは、「抑止力のために核を持つ。持たなければ日本の
将来はない」という明確な国家意思だ。

この国家意思があれば、黒船を見てから7年で太平洋を越えた日本人だ
もの、勤勉努力、創意工夫、忍耐で自前の核武装は早急に可能だろう。
イスラエルのように米国から調達する方法だってある。

まず明確な意思を持ち、達成へ向けてありとあらゆる可能性を探るべき
だ。ありもしない核の傘を夢想し、ソロバンだけを持っていれば生きて
いけるという時代ではなくなったのである。

http://www.melma.com/backnumber_108241_3501411/




■黒船あらわる

 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・ペリー提督率いる4
隻の米国艦隊が浦賀に現れ開国を求めました。そして二度目の来航
(1854年2月13日)で日米和親条約を結び帰っていきました。

■33の献上品

 二度目の来航時には、「半未開人」である日本人を脅かして交渉
を有利に運ぶ為、いわゆる「文明の利器」を将軍への献上品につか
いました。其の中に蒸気機関車がありました。

 蒸気機関車に試乗した幕府役人河田八之助は「火発して、機活き、
筒煙を噴き、輪皆転じ、迅速(時速32キロ)飛ぶが如く」と日記に
描写しています。

■ロシア艦隊の蒸気機関車

 1853年(嘉永6)年7月ロシア・プチャーチンの艦隊が長崎に入
港。米国艦隊より6ヶ月早かった。この時にロシアは蒸気機関車の
模型を艦内で走らせていました。

  「(露人は)蒸気車をシッポク臺のうえにて
   まはしてみせたり。5寸ばかりもあるべし。
   飛ぶがごとくにまはるなり。これはよき焼酎
   をもやして、それにてまわす車なり。

   ムスコウ(モスクワ)よりヘトル(ペテルブ
   ルグ)迄、280里(1,120km)を人500人をのせ、
   数艘の車をひきて一日にゆくと申すなり」
       
       「長崎日記」
       川路左衛門尉聖謨(幕府応接掛)


■巧みな方向転換

 日本の歴史を学校で習った時には、幕府方の慌て振りが強調され
ておりますが、これは幕府に限ったことではありませんでした。後
に倒幕と傾いていく長州にしても薩摩にしても一戦を挑んで手痛い
打撃を受けております。

 そしてさっさと方針を変えた日本国は開国に向かうわけでありま
す。ここが凄い所で、以後アジア地域において一足も二足も先に近
代へと突入していきます。

■クラフトマンシップ(熟練した職人の技巧)の国

 ペリーと共にきた随行員の一人は、蒸気機関車を触っている日本
人達をみて、「クラフトマン・シップに富んだこの国は将来立派な
工業国になるであろう」と予言しました。

 最近の日本には、あたかも物作りを止めてしまえ、金融で儲けろ
とでも云う様な意見もあります。しかし、民族には民族にあった行
き方もあると思います。伝統を振り返へりながら、適切に誘導する
識見が政治に求められます。

 米国の言うことが全て正しいとするのなら、日本の国土や人口も
米国並みの国土と人口が必要になるでしょう。

   「これぞ閉めたまま鍵をなくした玉手箱だ。これぞ
    各国が金力と武力と奸策とを使い、無駄骨折って
    手なづけようと覗ってきた国である。

    これぞ巧みに文明の差出口を避け、自己の知力と
    法規によって敢えて生きんとしてきた人類の大集
    団である。

     外国人の友誼と宗教と通商とを頑強に排撃し、
    この国を教化せんとする我々の企図を嘲笑してい
    る国である」

            「日本旅行記」
              露小説家ゴンチャローフ
             (プチャーチン使節団の随行員)

http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/108027264.html
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by thinkpod | 2007-01-15 02:20
2006年 12月 31日

東京裁判では、「人道に対する罪」は無罪でした

2006/12/31 11:43

 イラクのフセイン元大統領に対する死刑が執行されました。罪名は、民間人に対する迫害や殲滅を実行した「人道に対する罪」でした。一国の元元首を裁いたフセイン裁判は、日本人には極東国際軍事裁判(東京裁判)を連想させますが、両者には大きな違いがありました。東京裁判では、誰もこの「人道に対する罪」で有罪になっていないのです。この事実は、日本の過去の戦争を振り返るとき、とても重要なポイントであると思います。

 私は今年10月に、日本陸軍史研究家の奈良保男氏から手紙をいただきました。内容は、弊紙も含めて「ABC級戦犯と、訴因の(a)(b)(c)項の混同」が見られるというご指摘でした。ちょうどいい機会だと思うので、反省を込めて、以下に引用させてもらいます(奈良氏の許可は取ってあります)。

 《ひと言で申しますと、多くの方の誤りは先ずこの混同によるものと言って過言でありません。このことを最も早く指摘されたのは、現在徳島県小松島市で「平成昭和研究所」を主宰しておらえる茶園義男氏が1993(平成5)年8月27日発行の「別冊歴史読本・第15号『戦争裁判処刑者一千』」(新人物往来社)に発表された「戦争裁判の法的正当性を問う」が最初ではないかと考えます。(中略)

 茶園先生からご指導を戴いていた小生は、それを基に、茶園先生の監修を戴いた上で、平成14年5月、名越二荒之助編『昭和の戦争記念館』第5巻の「戦犯とされた昭和の殉難者たち」欄に書かせて戴くことが出来ました。ここでその概要を述べます。

 「ABC級戦犯に対する世間の誤った認識 現在日本国民の大多数が認識しているABC級戦犯という戦犯区分の認識は、次のようなものであろう。
 A級-軍人や政府の上層部で、侵略戦争を謀議計画し、推し進めた者。
 B級-従来型戦争犯罪において、命令を下した上級部門者。
 C級-下級の地位で実際にそれを行った者。
 この区分には法的な根拠がない、と言ったら多くの人は驚くかもしれない。しかしこれは事実である」

 以上を前置きとして、ドイツ戦犯を裁いた「ニュルンベルク裁判所条例」の説明をし、その第6条がa・b・c項に分かれ、a項は「平和に対する罪」で従来に無かった概念であること。b項は「通常の戦争犯罪」即ち従来型戦争犯罪であること。もう一つ、その何れでもない犯罪が今次戦争では起きていた。それがナチスによるユダヤ民族の絶滅政策であり(ホロコースト)、それは戦争でない時期にも行われていることもあって、新たに一項が加えられた。c項がそれであり、「人道に対する罪=Crimes against humanity」と名付けられた…、と書きました。

 続いて、日本の占領のために設置された連合軍司令部(GHQ)は、日本にもナチスのゲシュタポ以上の犯罪集団があったに違いない、故に、日本にもc項犯罪があるだろうと最大限の力を注いで調査に当たったが、その片鱗すら出てこない。日本には元々、先住民や、植民地・占領地の住民を絶滅するなどという思想はまったくない。

 それどころか、ベルサイユ条約後の「人種・国籍差別撤廃」提案、或いはナチスドイツのユダヤ人迫害と対照的に、ユダヤ難民に対して手を差し伸べている。このことは『昭和の戦争記念館』第1巻の第5部にその救済に尽力した軍人と外交官のことを紹介している。

 ちなみにそれぞれ当時の①関東軍参謀長・東条英機②満鉄総裁・松岡洋右③陸相・板垣征四郎が、八紘一宇の精神で人種差別に反対しユダヤ難民の救済に責務を果たし、ユダヤ人から感謝されていること。運命の悪戯か、その三人がいずれも「A級戦犯」となって命を落とし、「靖国神社」に合祀されていることを良い機会なので申し添えておきます。

 さて、予測の外れたGHQは、c項を設けた手前もあり、また、中華民国の顔も立てていわゆる「南京大虐殺」なるものを捏造して裁こうとしたのが真相だろうと書きました。現に、東京裁判ではc項の「人道に対する罪」の該当者は一人も無いままで終わっています。

 このことについては、『明日への選択』(日本政策研究センター刊)18年7月号に、同センター岡田邦宏氏が、「東京裁判・誰も『人道に対する罪』で有罪になっていない」という稿で見事に論考されていますので、是非ともお読み戴きたいと存じます。》

 奈良氏の手紙はまだ続くのですが、とりあえずここまでとします。奈良氏によると、a項、b項、c項と戦犯のABCとは呼応したものではなく、GHQが意図的に訴因との混同を狙ったものとみられるそうです。

 ちなみに、ニュルンベルク裁判では、有罪となった19人のうち、16人までがc項の「人道に対する罪」に問われています。一方、東京裁判では、有罪とされた25人のうち、一人を除く全員がa項の「平和に対する罪」で裁かれました。日本とドイツが行った戦争の様相が、いかに異なるものであったかの傍証とも言えそうですね。

 靖国神社に参拝することを、ヒトラーに参拝するようなものだと粗雑かつ無理な議論を展開する人が、社民党や中国の要人にみられますが、こうした暴言・妄言には何度でも反論していこうと改めて考えた次第です。

 平成18年ももうあと半日となりました。来年が日本とみなさまと私と家族と周囲にとって、いい年でありますように。思いっきり欲張って祈っています。

東京裁判では、「人道に対する罪」は無罪でした-国を憂い、われとわが身を甘やかすの記:イザ!
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/94781



戸井田、林両氏による公文書公開に「GJ!」
 政府税調会長の人事や佐田前行革担当相の進退問題などでてんてこ舞いしていた昨年12月26日夕、首相官邸の記者クラブに突然、投げ込み資料が配付されました。配布元は独立行政法人国立公文書館で、「戦争裁判関係資料の公開について」と書いてありました。地味な資料でしたが、内容は重要なものでした。

 それは、国立公文書館が平成11年度に法務省から移管された戦争裁判関係資料約6000冊のうち、これまで非公開にしてきた裁判未提出資料約2500冊分について、順次公開していくことを決めたという内容でした。私的メモ、日記、手記などが含まれるため、公文書館側が「ときの首相にも閲覧させない」としてきたものです。

 これにより、いわゆるA級戦犯が対象の東京裁判だけでなく、BC級戦犯を裁いた中国での裁判記録などが、公文書館に出向くことで閲覧可能となりました。ちょうど日中歴史共同研究などが開始された時期でもあり、まことにタイムリーな決定だと思います。多くの研究者に役立ててもらい、日本側の有効な主張、反論を発掘してほしいところです。

 さて、ここからが本題ですが、なぜ国立公文書館がこれらの資料の公開を決めたかというと、自民党の戸井田とおる衆院議員の活躍があったからです。昨今、政治家の公的機関への働きかけというと、何か悪いことであるかのように受け取られがちですが、お役人に任せていては何もしようとしないという実態もあるのです。戸井田氏は昨年10月27日の衆院内閣委員会で次のように質問しました。

 《現在、国立公文書館に所蔵されているいわゆるA、B、C級戦犯の資料、約数千冊のほとんどが非公開になっているんですね。(中略)私はこれをインターネットで検索いたしました。そしたらほとんどが、ずらっと見ていくと、非公開が多いんですよね。》

 《(公開されている)6027の資料、これは「十五年戦争とパール判決書」といって、家永三郎氏の論文であります。このように、だれが見ても個人のイデオロギーに基づく論文が公文書館に所蔵されているということはおかしいんじゃないか》

 《それ以外の公開になっているものを見ていくと、やはりいろいろな何か意図があるような論文とか対談の記事だとか、そんなものが多いわけですね。こういうものが公文書なのかということを考えると、どう考えても意図的にある歴史観への誘導をするための工作としか思えないんですね。》

 《それで、公開、非公開の基準があるかということを聞くと、その辺がはっきりしていないんですね。(中略)日本文のものなんかはほとんど非公開なんですね。もちろん、個人の秘密の大小等、そういう基準があるのはわかっておりますけれども、個人の名誉回復に直結するような、A級個人被告の弁護準備資料、こんなものまで非公開になっているんです。》

 これに対し、内閣府の林芳正副大臣が答弁で運用改善を約束し、今回の公開決定につながったというわけです。戸井田氏は、さらに11月21日には林副大臣あてに「国立公文書館所蔵資料公開の件」という手紙を手渡しています。手紙には、こう記されていました。

 《頂きました資料等精査致しましたところ、今後も極東国際軍事裁判関係資料公開検討が国立公文書館の一部役職達が作成した「利用基準」によって決定されることになり、その「利用基準」によって国家の歴史がコントロールされる状況に変更はありません。

今後、始まる日中歴史検証において、同裁判の根本資料が、同館職員のイデオロギーを通してしか検証できないことに変わりないのです。

個人情報などの理由は「A級」「B、C級」も同条件で、「A級」は公開してもよりいい加減な裁判が実行された「B、C級」の、まして弁護側関係資料は、死者の名誉回復に直結するものを隠す理由はありません。もし理由があるとするならば、同裁判検察が望んでいることに他なりません。今の内閣で封印を解くことが出来なければ、永遠に不可能かもしれません。》

こうした戸井田氏の熱心な働きかけを受けて、内閣府は国立公文書館の公文書等の利用制限を決める有識者会議(5人)について、新たに「内閣総理大臣が人選に関与する」という条項を加えました。戸井田氏と林氏に対し、「GJ!」と言いたいですね。

 戸井田氏はこれまでの公開・非公開の決め方について、図書館や公文書館といった組織に少なくない「サヨク」の人たちが、自分たちに都合の悪い内容を国民に知らせないようにしてきたのではないかと懸念していました…。

まあ、あまり世間の関心を集めるような話ではないかもしれませんが、今回の戸井田氏の動きがすぐ実を結んだのも、安倍政権だからこそだと思います。安倍首相には、今年はますます頑張ってもらい、大きな足跡を刻んでいただきたいと思います。

http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/96452



絶版書籍、ネット閲覧可能に・政府が著作権法改正へ

 政府は絶版になった出版物をインターネットで閲覧できるようにするため著作権法を改正する方針を固めた。国立国会図書館などの公的機関が専門書を非営利目的で公開する事例などを想定している。著作権者に一定の補償金を支払えば許諾がなくても文書をネットに保存・公開できる仕組みを検討する。入手困難な出版物を利用しやすくし、研究活動の促進などにつなげる狙いだ。
 政府の知的財産戦略本部(本部長・安倍晋三首相)が今夏に策定する「知的財産推進計画2007」にこうした方針を盛り込む。知財本部は2008年の通常国会での著作権法改正案の提出をめざし、文部科学省などとの調整に入る。(16:01)

NIKKEI NET:政治 ニュース
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070105AT3S0300305012007.html
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by thinkpod | 2006-12-31 22:56
2006年 12月 30日

日本人の「寛容さ」は「鈍感さ」になっていないか

「我々の国家はどこに向かっているのか」

年の暮れに「倫理」と「公」を思う

今年最後のコラムとなったが、私事から書き始めることをお許し願いたい。暮れも押し迫って長野市の実家で1人暮らしをしていた母親が他界した。あわただしく葬儀を済ませ、なおもこれに伴うあれこれの雑事(といっては何だが、日常には使わない神経を使うのでやたらと疲れる)に追われている。

 そこで感じたのが、日本人と宗教の関連である。もろもろの問題の背景にこの一大テーマが存在するのではないかと改めて実感した。

 母親の葬儀は地域の二つの寺にお願いした。入退院を重ねながらの独居老人だから近隣に迷惑もかけている。地域の人たちの言う通りにするのが一番いいと判断した。母親は生前から地元の葬祭業者に依頼していたので、葬儀そのほかの儀式はスムーズに運んだ。

 それはそれでよかったのだが、亡父の生家がある地域の菩提寺のことに考えが及ばなかった。親戚から指摘されて、菩提寺が戒名を付け法要を行わなければ「花岡家の墓」には入れない、ということが判明した。

 両方の寺は宗派が違うのだが、それはそれで構わないという。そこで、2月はじめに菩提寺による法要を行い、納骨することにした。母親が住んでいた地域の寺からすれば四十九日法要、菩提寺からすれば、これが「本葬」ということになる。

 経費は二重にかかるが、一生のうちに何度もあることではない。母親が安らかに眠れる環境を整えるのが息子の役割である。


 ・日本人の「寛容さ」は「鈍感さ」になっていないか

 そうしたことをどたばたと経験して、宗教に対する日本人の「寛容さ」に思いが及んだ。結婚式はキリスト教の牧師が行い、赤ん坊が生まれれば神社におまいりし、葬式は仏教、といったパターンを何の疑念もなく受け入れている。これが一般的な姿なのではないか。

 神仏混交は日本の伝統的慣習なのだし、一般生活にうまく取り込まれているのだから、何ら問題はない。だが、「寛容さ」は「鈍感さ」に通じるのではないか。恥をしのんで告白すれば、筆者は亡父の生家の宗派が何であったか失念しており、今回、改めて親戚に確認した。

 演歌の大御所、北島三郎に「魂(こころ)」という歌がある。日本には四季があり、この「美しき国」は「神々の集う里」だ、といった内容だ。森喜朗元首相が「神の国発言」で責められたとき、この歌詞を事務所にファクスして、えらく喜ばれたことがある。

 某大学院で憲法の講義をする際、CDを持っていってこの曲を流した。演歌など聞いたこともない学生たちは一様に驚いたが、日本はいたるところ神々がいる国なのだ、という趣旨は分かってくれた。

 そういったことを思い出しながら浮かんだのが、日本人はこれほど宗教と密接に絡み合った伝統文化、風習を持ち合わせながら、「宗教心」という核心部分を忘却してしまったのではないか、ということだ。寛容なあまりに鈍感になってしまったのではないか。


 ・人間としての「生き方」をどこで教える?

 キリスト教にしろイスラム教にしろ、世界中のほとんどの国々では、子どもたちに宗教心を叩き込む。米国大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓する。神の前で国家への忠誠を誓うのである。

 「宗教心」とは、人間が生きていくうえでの必須の倫理規範、道徳である。かつては教育勅語に盛られていた。親に孝行し、友達と仲良くせよ、といったことから始まる。「十戒」にも通ずるものだ。人をあやめてはいけない、と命の尊さを子どものころから教え込まれる。

 教育基本法改正の審議でも「宗教心」のあり方が取り上げられたが、深い論議には至らなかった。いじめ自殺、子殺し、親殺しといった殺伐とした社会風潮を見るにつけ、宗教心の欠如を感じないわけにはいかない。特定宗教の押し付けというのではない。宗教が求める人間としての「生き方」を日本の子どもたちは教え込まれてこなかったのではないか。

 家庭、地域、学校のありようも我々の子どものころとはずいぶん変わってしまった。先生はやはり「仰げば尊し」の存在でなくてはならない。今の学校では生徒と友達感覚で対するのが「いい先生」ということになる。先生はどこまでも「怖い」存在であったはずではなかったか。

 倫理規範とともに感ずるのが「公」の意識の欠如である。政府税制調査会の会長を務める著名な大学教授が、愛人と公務員宿舎で暮らしていたというのでは話にならない。法的にも行政措置としても瑕疵(かし)はなかった、といって済まされることではない。公人としての意識のありようの問題である。


 ・“とんでもないミーハー”は公私のけじめをつける人

 またまた私的な体験で申し訳ないが、筆者が以前、勤務していた産経新聞に鹿内春雄という人が乗り込んできた時期があった。フジテレビで「軽チャー路線」を徹底させ、視聴率ナンバーワンに押し上げた人である。

 「とんでもないミーハーがやってくる」と、我々は身構えたのだが、鹿内氏は新聞の位置づけ、活字の重みが分かる人であった。肝炎のため42歳で急逝したのが、いまだに残念でならない。言いたいことは、鹿内氏は公私のけじめをきちんとつけるスタイルを持ち合わせていたという点だ。

 我々と小料理屋の二階などでざっくばらんな話をする機会を好んだ。秘書に会社用と個人用の2枚のカードを持たせておく。こういう非公式な会合の費用は個人カードで決済させた。

 宗教心、倫理規範、道徳、公の意識‥‥。年末年始は少し気持ちを落ち着けて、ふだんはあまり考えない、こうした重いテーマに頭を巡らせてみようと思う。それは「美しい国」をキーワードとしている安倍政治の考察にも通じるのではないかと思っている。

花岡 信昭
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/y/40/
http://www.melma.com/backnumber_142868_3483320/





【もう一つの日本】(4)今もなお教育勅語奉読
2007.12.14 07:44
e0034196_2335917.jpg ブラジル日系社会初の6世、大西エンゾ優太ちゃん(2)が暮らすサンパウロ西郊の市民会館の日曜日、日系人団体主催の「移民祭り」が開かれていた。日系人が多いこの地区の一大イベントであり、27回目の今年も400人が詰めかけた。

日系人団体主催の「移民祭り」で踊る3世、4世の子供たち。日本語学習の合間に練習を積んだ=サンパウロ州タボン・ダ・セーラ市

 先没者の霊に対する1分間の黙祷(もくとう)、ブラジル、日本の両国歌斉唱に続き、白髪の柔和な男性が祝辞を述べた。日系人団体の長老、田畑稔さん(75)。2歳だった昭和9年、鹿児島県から両親に抱かれて移民船に乗った1世だ。
 「来年の移民100周年、後世に何を残すか。いちばん美しいのは日本の心です。そう先輩からうかがっております。目に見えない、手に取ることのできない日本人の心を残していくことが大切だと受け継いでおります」。田畑さんは日本を「ニッポン」と発音した。
 祭りの演目は、婦人会の日本舞踊や子供たちのよさこいソーラン。カラオケでは「大阪しぐれ」も飛び出した。北海道出身の89歳の男性は、オホーツク海に面した町の小学校で教わったという「荒城の月」を朗々と歌い上げた。
 日系団体の活動は、カラオケや踊りといった演芸、運動会やゲートボールなどのスポーツ、子供たちへの日本語教育という。田畑さんは「日本文化の継承と、今日を築かれた先没者への敬意を伝えることを忘れてはいけない。日系人は日本人以上に日本を愛する心が強いと言われています」。
 なぜ日本人より強いのか。「日本の社会は戦後、ずいぶん変わりました。ここでは戦前からの教育がつながっているのです」。
 田畑さんが農業を営むサンパウロ市西郊、イタペセリカ・ダ・セーラ市の日本人会(約100家族)は戦前から続く日本語学校を運営し、自前の校舎と講堂を持つ。
 戦時中はブラジルが連合国だったため「敵国人」とされ、日本語教育を禁じられた。田畑さんが学校で学べたのは2年だけだったが、教科書を空き缶に入れて地面に掘った穴へ隠し、山中の小屋やバタタ(ジャガイモ)畑の片隅でひそかに授業が続けられたという。
 田畑さんは思い出したようにつけ加えた。
 「イタペセリカでは今も教育勅語を奉読しているんですよ」

 ■「教えたかったのは日本語だけじゃない」

 教育勅語は明治23(1890)年に発布された。「朕惟フニ」から始まるわずか315文字に「父母ニ孝」「兄弟ニ友」など12の徳目が列挙され、戦前教育の根本を成した。軍人向けの軍人勅諭や戦陣訓とは別物だが戦後、軍国主義につながるとして占領軍により廃された。
e0034196_235618.jpg 田畑さんが暮らすイタペセリカの日本語学校で、教育勅語は講堂のステージ中央にある観音開きの戸の中に、今上天皇・皇后両陛下の写真とともに安置されていた。

日本語学校の講堂に安置された教育勅語の桐箱と天皇・皇后両陛下の写真。以前は校庭に泰安殿があった=サンパウロ州イタペセリカ・ダ・セーラ市

 年に一度、元旦に大人と子供50人ほどが集まり、東方遥拝した上で、正装した代表者が奉読する。戦後の移住者から「そんなの日本ではもうやってませんよ」と廃止論も出たが、いまだに続いている。10年ほど前にはポルトガル語に訳して各家庭へ配った。
 田畑さんは言う。「いいことがたくさん書いてありますよ。特に先輩を尊敬して仲良くやっていこうという部分。移民祭りも、先没者への感謝の気持ちを表すことが第一の目的なのです」
 日本語学校は現在、7歳から17歳までの22人が週3回、ブラジルの小中高校の放課後に集まり、3時間の授業を受けている。1935(昭和10)年の創立から数えて8代目教師の牧山純子さん(59)は長崎県出身。中学1年の夏まで日本で教育を受けた。
 「私も戦後教育なので最初はびっくりしました。でも目上の人を敬うこととか、本当に教えるべき内容だと思います」
 優太ちゃんの祖父で2世の中村パウロ修さん(64)も、優太ちゃんの母親ら3人の娘を日系学校へやり、日本語塾へ通わせた。
 「でもね、教えたかったのは日本語だけじゃない。礼儀とか、先祖を敬う、他人に迷惑をかけない気持ちなんですよ」
 伝統芸能も日本語教育も、そして今の日本人から見れば「軍国主義の亡霊」と受け取られかねないものでさえ、日系人たちが伝えようとしているのは表面的な「日本文化」ではない。根っこにある「美しい心」を忘れてほしくないのだ。
 「なぜって、日本人だから」
 修さんは、優太ちゃんにも美しい日本語を学ばせたいという。
 文・写真 徳光一輝
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071214/trd0712140744003-n1.htm

海外で評価される日本の『教育勅語』
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by thinkpod | 2006-12-30 01:18