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2007年 06月 25日

今こそ沖縄戦の真実を「教壇」で語ろう

「正論」6月号掲載 横浜市立中学校教諭・服部剛氏【今こそ沖縄戦の真実を「教壇」で語ろう】

 平成17年5月20日〜22日、自由主義史観研究会が座間味島と渡嘉敷島にて現地調査を行いました。これに服部氏も参加されました。その時のレポートです。

■「軍命令のはずがない」

 座間味島で一夜を明かし、翌21日朝、最初の聞き取り調査に応じていただいたのは、宮平敏勝さんである。昭和3年生まれの宮平さんは、20年2月末、17歳で戦隊本部付きの伝令として徴用された。「軍属です。左腕に星(☆)ひとつですよ」とおっしゃっていた。「17歳ですか」の質問に、生まれ月が早い者は防衛隊に任命されたとのことで、同級生4人中、宮平さんだけが徴用にあたったという。

 徴用されてすぐに米軍が上陸、熾烈な戦闘になった。4月11日、擲弾筒で左腿を負傷。その後、梅澤隊長(引用者注:座間味島守備隊長・梅澤裕氏)より集合がかかり、「これ以上戦闘は困難ゆえ、皆親元に帰れ」との解散命令が出る。民間人は米軍に捕まっても、すぐに解放されたので無事だった由。以下、宮平さんの証言の要点を記す。

 集団自決(3月25日、米軍上陸の日)については、宮平さん自身は「軍と行動を共にしていて、山中にいたので自決のことは全く知らなかった。解散命令が出て、山を下りた時、初めて知った」という。戦闘が始まって以降、軍は「民間人との接触はほとんどなかった」のである。「もし、自決が軍命令なら、伝令である自分が知っている。軍命令のはずがない」と断定された。宮平さんは自決現場そのものには居合わせなかったとはいえ、有力な傍証である。

 住民の意識はというと、戦闘が始まる前から「誰といわず、死を決意していた。そういう空気だった」。行政のリーダーを始め、特に「兵事係(*服部注…村長・助役・収入役の次のポストで、強い権限を持つとの由)が強硬派で、『自決すべし』であった」。

 解散直後、自決の状況を近親者や友人らに詳細を聞いたが、「世間では集団自決と言うが、それぞれの壕で家族が『無理心中』的に自決したのが実相です。役場から忠魂碑前に集まれとの集合がかかったけれども、艦砲射撃で皆ちりぢりになってしまった。それで各壕の各家族で自決した」。「自決したのは他と孤立した所にある壕の家族に多かった。情報が入ってこなかったから」だ。

 また、「中には率先して軍と共に戦う人も出たけれど、それは少数」であったらしい。

 私たちの「米軍が来るのは分かっていたのに、なぜ住民は疎開しなかったのか?機密保持のために軍が住民を疎開させなかったという説もあるが」との質問に、「確かに機密の保持やスパイ対策という意味合いで、島を自由に出てはいけないということになっていた…、しかし、住民は『どうせ死ぬなら島で死にたい』という思いがたいへん強く、疎開はしなかった」と説明された。沖縄には、一族は同じ墓に入るという伝統がある。どうせ死ぬのなら、家族一緒に死のうと考えていたというのである。

 宮平さんの話を聞いて私たちは、追いつめられたということだけで住民が自決に至ったわけではないとの思いに至った。本土並みを希求した沖縄人の<自分たちは真の日本人なのだ>という気概が「古来の風習(日本の武士は落城に際して、潔く自刃して城と運命をともにする)」に則った自決へと導いたのではないかと感じた。農民出身ゆえに武士以上に武士道を実践した新撰組・近藤勇らの心情に通じる気迫を感じた。

 そして宮平さんは、「自決はあくまで『役場主導』だった」ときっぱりと言われた。

 梅澤隊長の人物像について「隊長は28歳にして少佐です。エリートです。すごい軍人であり、人間的にも素晴らしい人でした。たいへん落ち着いている人で、信頼して部下に任せるタイプです」と伺った。後年、梅澤氏自身が「軍人は民間人に『死ね』などとは絶対に言わない」と明言されたように、責任感に溢れる隊長であった。

 「住民スパイ虐殺説」に関しても、興味深い証言をされた。よく言われているような「言葉(方言)で住民をスパイ扱いしたわけではありません。実際にスパイはいました。移民のハワイ日系社会と通じていた」のだそうだ。宮平さん自身、夜中に高い崖の上から沖合に向けてチカチカと発せられる懐中電灯の光を何度となく目撃している。何らかの信号を米艦隊に向けて送っていたのであろう。しかし、「梅澤隊長は終戦が間近であることを察知してか、スパイの住民を見逃していました。そのため、住民の悪感情は全くありません。他の島ではスパイが見つかったら処刑したから住民殺害説が出来上がったのでしょう」とのことである。

 また、軍が渡したとされる手榴弾について、「女子青年団(*軍属のような形で軍に協力した)は、手榴弾を渡されて所持していました。しかし、その他の手榴弾はどこから持ってきたものかわかりません。兵といえども、3名に1丁の三八銃がある程度。だから、住民には請われても渡せません。たぶん島の防衛隊(*民間人で結成された防衛組織)か住民が、軍の保管場所から勝手に持ってきたものでしょう」とも聞いた。

 偽証による補償金問題に関しては、「これはもう、どうしようもなかった」という。一同、島民の苦難と悲劇に思いを致した。それでも「この座間味は真実を言いやすい空気」だという。なぜなら、自決命令を出した村の三役自らが自決して亡くなっているからだ。それに対して渡嘉敷島では「命令者の村長始め、村のリーダーが戦後も存命だったから、大っぴらに言える空気ではなかった」のだ。

 以上が調査の要点である。その後、宮平さん自身が案内人となり、集団自決の現場、「平和の塔」「昭和白鯱隊玉砕の地」などの慰霊に臨んだ。

■鉄の暴風は「全部ウソ」

 一行は渡嘉敷島に渡り、民俗資料館館長の金城武徳さんにお話と現地調査の案内をお願いした。金城さんは当時13歳で、自決現場に居合わせたが、命を永らえた。集団自決の地に建つ「集団自決跡地」碑を前にしての金城さんの証言は、実際に現場を知る者として迫真に満ちた内容であった。以下、金城さんの証言であるが、『正論』平成18年11月号水島聡氏による「妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった」と重複する話を割愛して肝心な点のみ記したい。

 まず軍命令を流布した沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』の記述について、「あれは全部、ウソ。島民はそのことを分かっているので、あんな本は絶対に読みません。怒って捨ててしまう」と吐き捨てるが如く言われた。

 自決に使用された手榴弾の出所に関しては「島の防衛隊が手榴弾を持っていました。戦闘が激しくなって、各々が自分たちの家族のところに逃げてきていたので、持っていた手榴弾を自決に使った」と、座間味島と同様であることがわかった。

 自決の地は谷間で、皆まとまって自決した。曾野さんの著書(引用者注:曽野綾子氏の『ある神話の背景』昭和48年発行)の通りで間違いないことを確認する。悲惨な自決の様子を語られた後、金城さんは「本土の兵隊が『お母さん!』と叫び戦死したのに立ち会ったけれども、島民は皆『天皇陛下万歳!』と言って自決しましたよ」と堂々とおっしゃった。

 そして「赤松隊長(引用者注:渡嘉敷島守備隊長・赤松嘉次氏)は絶対に自決を命じていない。自決の音頭をとったのは村長のほか、村の指導者たちだった」と何度も断言されていた。

■これは正義と道徳の問題だ!

 22日の最終日は沖縄本島で戦跡を巡る予定であったが、急遽、貴重な重要証言を聞ける機会がもたらされた。元琉球政府の照屋昇雄さんの話を伺えたのである。照屋さんは、島民に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を適用して遺族補償金を拠出させた経緯をすべて知っている当事者だ。昨年8月27日付産経新聞「渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言」のスクープで証言された方である。

 実は照屋さんは、この日の直前まで証言を躊躇されていた。曰く、「私は今までずっと正しいことは言えなかった。それほど左翼勢力の力が恐ろしいのが沖縄です。もし真相を話したら、ここには住めなくなるし、命の危険もある。今日は特別。誰にも話したことがないことを話します」。私たちは沖縄の複雑な事情に改めて驚いた。以下、要点のみ記す。

 まず今の「混乱の原因は援護法にある」と言われた。要するに「軍の要請によって壕から出て死亡したら補償金が出る。しかし、自分から壕を出て死亡したらお金はゼロ。荒廃した島の現状を知っている私たちの側には、住民の申請が『ウソ』と分かっていても目をつぶって受理する方針があったのです」とのことだった。これが利用され、「悪逆非道の日本軍」との神話が出来上がってしまった。

 赤松隊長については、「たいへんに立派な人。アメリカの従軍記者も赤松隊長をとても誉めていた」。住民と兵との関係については「渡嘉敷、座間味の住民は、兵と親しかった」との由。兵は常々「我々はどうせ死ぬから(もともと赤松隊長は海上特攻隊である)。食料はあそこに隠してある。みんな長生きしてくれ」と言っていたのだそうだ。しかし、座間味の自決の件が慶留間に伝えられ、渡嘉敷にも報じられて、島民は「座間味同様、我々も…」となったようだ。

 戦後、援護法適用に際して厚生相の資格審査委員会で「隊長命令があったなら…」となり、玉井喜八村長が何度も赤松氏宅を訪ね、懇願した経緯を語られた。「隊長命令があったことにして欲しい」と泣きながら頼まれた赤松氏は次のように述べたという。「私は渡嘉敷で死ぬはずだった。しかし、渡嘉敷の人たちのおかげで、今生きていられる。命令があったことにしましょう」。資格審査が通り、補償金の支給が決定した。以後、この筋で、座間味島も承認され、他の島々へと波及していったのだという。照屋さんは「玉井村長と『この話は墓場までもっていこう』と誓い合った」そうだ。「赤松隊長が新聞や本で批判されているのを見るたび『申し訳ありません』と手を合わせ、心が張り裂ける思い」だった。大江健三郎氏が著書『沖縄ノート』で、1970年の慰霊祭に訪沖した赤松氏を激しく批判しているが、そもそもは村長や遺族会などが「赤松隊長のおかげで今の村がある」と、氏を招待したのに左翼団体のせいで大騒ぎになってしまったと無念そうに話された。

 赤松氏が癌に冒されて余命幾ばくもなくなった時に、奥様から玉井村長に「自決命令の件を『村史から消してほしい』」との要請があった。軍の名誉を守るためという。しかし、村長は以来、日々眠れない夜を過ごすことになった。「真相を明らかにしたらどうなるか…、援護金の件と隊長への恩義の間で板挟みに合ってたいへん苦しんでいました」。真実が明かされぬまま、赤松氏は逝去される。村長はなおも苦悩し続け、赤松氏の後を追うようにして亡くなった。生前、赤松氏を「神様のような人」と形容していたという。

 「島民は、真相を知っているのか」との質問には「島民は全部、分かっています。でも誰にも本当のことは言わなかった」。なぜなら「自決命令を否定するとなると、役場は該当者の全ての戸籍を書き換えて改定しなければならない。そんなことは今さら出来ない。それゆえ、調査もしない。だから、今でも『村史』から消していない」のである。

 しかし、私たちは役人の事情とは別にして「ウソを教えること」「正しい人を貶めること」は絶対に許してはならない。これは「道徳」と「正義」の問題であると確認した。

 別の貴重な証言もお聞きした。日本軍が避難中の住民を壕から追い出したとされる件の真相である。沖縄県平和祈念資料館には、常設展示として壕内の避難住民に銃剣を向け、険しい表情で立っている日本兵の蝋人形があるやに聞いている。自分たちが助かるために兵が住民を壕から追い出したのだと言いたいらしい。現にこの話は教材としてもまかり通っている。しかし、そんな馬鹿なことはやはり無かった。照屋さんによれば、真相はこうである。

 「米軍が上陸してきて白兵戦が必至になった時、隊長と兵隊が、付近に隠れている住民を壕や亀甲墓から出させて、避難させたのです。避難を指示する際も、当然、着剣で銃を前に持って構えていますよ。いつ白兵戦になるかわからないから。その上、兵隊も緊張して興奮してます。すぐそこにアメリカ兵が迫っているんですから。もうパニック状態で言葉も荒い。『今すぐに壕から出て逃げろ!』って動作も乱暴だったでしょう。状況がよくわからなかった住民もいたかもしれません。でも、それは住民を早く逃がすため、助けるためでした。これが<住民の壕を奪って軍の陣地にするために追い出した>となってしまった」

 件の資料館が反日偏向教育の拠点と言われるのもむべなるかなとの思いを深くした。

 最後に、この聞き取りで得たあまり知られていない秘話を紹介したい。実は渡嘉敷島には、赤松隊長の小さい顕彰碑がある。当初、立派なものを作ろうと計画したが、左翼勢力が騒ぐとの理由で、誰にも分からない場所に隠匿している。そして、今でも毎年、遺族会などの人たちの手で赤松隊長の慰霊祭を秘かに続けているのだそうだ。
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by thinkpod | 2007-06-25 04:37
2007年 05月 11日

日本人従軍看護婦たちの死ー抗議の自殺

【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺

 今にも泣き出しそうな曇り空のもと、埼玉県大宮市の公園墓地「青葉園」の一角に立つ青葉地蔵尊で今月二十一日、約六十人の有志が集まり、自ら命を絶った従軍看護婦二十二人の墓前供養が行われた。

左手に赤十字の看護婦帽を掲げ持つ高さ一メートル余りの地蔵尊。この日は、四十九年前の昭和二十一年、旧ソ連軍の慰安婦となるのを拒み、集団自殺した彼女たちの命日にあたる。看護婦たちのうち、遺族が分からない三人の遺骨も、ここに納められている。

 「ソ連の非道は、体験したものでないと分かりません。あのころは、無理でも向こうの言うことを聞き入れるしかなかった。敗戦の切なさですね」

 地蔵尊の建立者で当時、婦長だった松岡喜身子さん(七七)=東京都八王子市=は、戒名が一人一人読み上げられると、うつむいて目頭を押さえた。

集団自殺の日からきょうまで、朝晩の仏前供養は欠かさない。「私は老いた今でも現役で看護婦をしていますが、きっと彼女たちが見守ってくれているのだと思います」

ナイチンゲールにあこがれて看護婦を志した喜身子さんは樺太・知取(しりとり)の生まれ。昭和十一年に樺太庁立豊原高等女学校を卒業、満州赤十字看護婦養成所を経て故郷で希望通り看護婦となった。十四年暮れ、陸軍軍医少尉だった四つ年上の前夫、堀正次さんと結婚する。

  ところが、翌十五年春、従軍看護婦の召集令状が舞い込み、喜身子さんは香港へ。さらに上海、満州北部の虎林(こりん)、牡丹江(ぼたんこう)と任地を転々とする。出征から半年ほどたったころ、実家から、正次さんも応召、満州へ出発したと便りが届いた。

  約二年間も離れ離れで連絡もつかなかった二人は十七年ごろ、虎林の野戦病院の廊下でばったりと行き合った。

  「再会したとき、主人は顔が分からなかったほどやつれていました」。おしゃれだった正次さんは、真っ黒に汚れた軍服姿で、破れ靴を履いていた。

 二人は官舎を与えられ、十八年五月には長男、静夫さん(五二)も生まれる。だが、傷病兵の治療、看護に追われながらも幸せな生活は、長くは続かなかった。

  二十年八月八日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日参戦、満州にも雪崩を打って侵攻した。精強を誇った関東軍はすでに形がい化しており、ソ連は猛スピードで南下した。

ソ連参戦から二日後、喜身子さんは、正次さんにプレゼントされた将校用水筒を肩に、軽傷の傷病兵らを連れて南方にある満州の国都、新京(長春)に向かった。

重傷患者の治療のため残った正次さんの消息はそれっきり、杳(よう)として知れなかったが、昭和二十三年ごろ、引き揚げて北海道の病院で働いていた喜身子さんのもとに、山口県徳山市の正次さんの実家から、戦死の知らせとともに聴診器、軍隊手帳が郵送されてきた。

二十年八月十五日、新京に着いた喜身子さんは、敗戦の知らせを聞いた。町はソ連軍に占領された。喜身子さんら三十人ほどいた看護婦は、月給二百円で、中国共産党八路軍の長春第八病院勤務を命じられた。

そして翌二十一年春、新京から数キロ離れた城子溝にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、「看護婦三人、派遣勤務を命ず」と通知が届いた。期間は一カ月、月給三百円と、もっともらしい条件付きのこの一枚の命令書が、悲劇の始まりとなった。

「ソ連の命令じゃ仕方ないわ」。不気味な不安を覚えた喜身子さんだったが、軍医と相談の上、優秀で気のつく大島はなえさん(二二)ら三人の看護婦を派遣した。みな、二十代前半の乙女たちだった。

そのわずか一週間後、再び命令が来て、今度も三人が救護所に。ソ連の要求はとどまるところを知らず、さらに一カ月後、約束の期限が過ぎても前任者を帰さないまま、新たに三人の派遣を命令してきた。

あまりの厚かましさに憤慨したが、虜囚の身でどうにもならない。今度は「あす全員でくじ引きをして決めよう」と話し合い、看護婦たちと別れて宿舎に帰った。

だが、その晩のこと。腕や足、体中に十一カ所もの銃創を受けた大島看護婦が一人で逃げ帰ってきた。

「今思い出してもゾッとします。歳月を経るにつれリアルに情景が浮かんで…」と喜身子さんは振り返り、絶句した。

振りそでをイブニングドレスに縫い直したあでやかな洋服姿とは逆に、傷だらけの大島看護婦。あらわな背中には、鉄条網をくぐり抜けたらしい擦過傷もあった。そして、うわ言のようにこう繰り返して息絶えた。

「婦長さん、看護婦をソ連にもう送らないで。ソ連将校の慰みものにされるだけです。送ってはいけません」

 だが、悲劇はさらに続いた。

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 昭和二十一年六月二十日の満州・新京(長春)。旧ソ連軍に留め置かれ、長春第八病院で働いていた松岡喜身子さん(七七)ら二十数人の従軍看護婦は、絶望のどん底にいた。

その夜、ソ連軍の要請で軍の救護所へ仲間六人と“応援”に行っていた大島はなえ看護婦(二二)が、十一発もの銃創を受けながら一人逃げ帰り、救護所の実態を伝えて息を引き取った。

「日本人看護婦の仕事はソ連将校の慰安婦。もう人を送ってはいけません」

大島さんの血みどろの姿に、喜身子さんはぼうぜんとし、涙も出なかった。「ロシア人は日本人を人間とすら扱わないのか…」

だが、悪夢はその翌朝も待っていた。

二十一日月曜日午前九時すぎ、病院の門をくぐった喜身子さんは、病院の人事課長、張宇孝さんに日本語でしかられた。

「患者は来ているのに、看護婦は一人も来ない。婦長のしつけが悪い」

「そんなはずはありません。見てきます」

胸騒ぎがして、看護婦の大部屋がある三階に駆け上がった。ドアをノックしても返事はない。中へ飛び込むと、たたきには靴がきちんとそろえてあった。

線香が霧のように漂う暗い部屋に、二十二人の看護婦が二列に並んで横たわっていた。満州赤十字の制服姿で胸に手を当て、眠っているようだった。寝乱れないよう、両太ももを包帯や腰ひもで縛っていた。

「死んでいる…」。満州赤十字の看護婦は終戦時、軍医から致死量の青酸カリをもらい、制帽のリボン裏に隠し持っていた。机上には、二十二人連名の遺書が残されていた。

〈私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます〉

これにはソ連側も驚き、翌日には「日本女性とソ連兵は、ジープその他の車に同乗してはいけない」など綱紀粛正の通達を出す。

命と引き換えにした抗議の、ささやかな代償だった。

一方、病院からは小さな花束が一つ贈られただけ。葬儀資金にも困ったが、張さんが「火葬、分骨して故郷の両親に届けてあげなさい」と、一人当たり当時の金額で千円もする火葬代を払ってくれた。

葬儀を済ませ、四十九日を迎えたころ、喜身子さんは、いまだ帰らない看護婦たちが、ダンサーをしているとうわさに聞き、そのダンスホールへ向かった。

名前を告げ入り口で待つと、五人が現れた。肌もあらわなイブニングドレスに濃いルージュ。いかにもダンサー然としているが、青ざめた顔はまるで病人のよう。

「こんな所にいないで、早く帰ってきて」

喜身子さんは説得するが、五人は首を横に振るばかり。ついカッとなり、「好きでこんなことをやっているの。そこまで堕落したの」とひっぱたいた。

すると、彼女たちは涙を浮かべ、決意を語り始めた。

「私たちはソ連の救護所で毎晩七、八人の将校に暴行され、すぐに梅毒をうつされてしまいました。どうしてこの体で帰れましょうか。今は一人でも多くの客をとり、この性病をソ連兵にうつして苦しめたい」

喜身子さんは翌日、薬を手に再び訪ねた。が、看護婦である彼女たちは、自分の症状が治るものではないと知っており、受け取りも拒んだ。

二年あまり過ぎた二十三年十一月、喜身子さんらが日本へ引き揚げるとき、五人は稼いだお金を駅まで持ってきた。「旅費にしてください」と無理やり渡し、話も交わさずに去った。そのうち三人はピストルで自殺したという。

喜身子さんは当時、三歳半だった長男、静夫さん(五二)にも看護婦たちの遺骨を入れた木箱を背負わせ、一歳の長女、 子さん(五〇)を背に日本に帰った。

「二人とも“残留孤児”にさせかねないほど、混乱した状況でした」

夢にまで見た母国だが、軍医だった夫を亡くした生活は厳しい。大島さんを含む二十三人の遺骨を自宅に届けようにも、連絡先を記した書類などはなく、記憶だけが頼り。探しあてるのは、雲をつかむような話だった。

そんなときに力になってくれたのが現在の夫、松岡寛さん(七六)だった。

浪曲師、春日井梅鶯(ばいおう)の内弟子で、若梅鶯の芸名を持っていた寛さんは二十七年ごろ、喜身子さんらのエピソードを『ああ 従軍看護婦集団自殺』という題目にして、全国を巡業した。

実名で容ぼう、特徴も浪曲に盛り込んだ結果、十九家族が名乗り出た。

浪曲を聞いた埼玉県大宮市の公園墓地「青葉園」の理事長、吉田亀治さん(九一)からは「供養に役立てて」と土地提供の申し出があった。こうして三十一年六月二十一日の命日に、看護婦たちを祭る青葉地蔵尊の開眼法要が営まれた。

そして五十年目の今月二十一日に行われた墓前供養。喜身子さんは地蔵尊にこう呼びかけた。

「終戦から五十年、早いですね。日本も日増しに平和がよみがえりました。私はこれからもあなたたちの分まで、看護の道を頑張りたいと思います」 (戦没者遺族取材班)

http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/131053



日本人従軍看護婦たちの死ーー元大本営参謀の証言(5)
2007/05/10 14:52

元大本営参謀で、戦後は明治薬科大学の理事長などを務めた高橋正二氏の報告を続けます。高橋氏が日本人の従軍看護婦たちの悲惨な死について語っています。

いわゆる慰安婦問題というのも第二次世界大戦の中で起きた出来事でした。戦争という異常な事態が異常な現象を生む、ということでしょう。

戦争が悲惨であることは、だれもが知っています。戦争という異常な環境の下で人権を踏みにじられた被害者は無数に存在しました。慰安婦の人たちもそうでしょう。いまの人道主義や道徳の規範からみれば、深く同情すべきであること、そして反省すべきであることは当然です。

しかし戦争という巨大な異常環境の中で人権を蹂躙されたのは、慰安婦の人たちだけに留まりません。この点にもこの種の案件をそのことが終わってから70年後に拡大して取り上げることの相対性の問題があります。戦争で悲惨な目にあったのは慰安婦の人たちだけだったのか。

戦争を回顧して、現代の人道主義という観点から、善悪の審判を下す、というような作業をするとき、総合的な視点がどうしても必要となるでしょう。

戦争は他の数え切れないほど多数の人たちにも悲惨な死や苦痛をもたらしたのです。その意味で高橋氏が伝える日本人従軍看護婦たちの死の悲劇は第二次大戦が終わった後に起きたという点ではきわめて異色ですが、戦争という大きな枠の中で起きたことも、また事実です。

高橋氏は「慰安婦の『強制連行』のごときは大ウソであります」と語りながら、「ここで悲しいお話を申し上げさせていただきます」と述べ、要旨、以下の報告をしました。


「昭和20年8月8日、ソ連軍の突然の攻撃を受けて、当時の満洲国東部国境に近い虎林の野戦病院の日本人従軍看護婦たちは松岡喜身子婦長以下34人、長春に移ると、ソ連占領軍から八路軍長春第8病院で勤務することを命じられた」

「間もなく昭和21年の春、加藤婦長らは城子溝にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所へと日本人看護婦数人を送ることを命じられた。勤務は1カ月間、月給は300円という条件だった。危険が感じられるので、誰を送るかは難しかったが、婦長は軍医らと相談のうえ、優秀な大島はなえさん(22歳)ら3人を選び、送った」

「1カ月以上が過ぎて、さらに3人の日本人看護婦を送れという命令がきた。さらに3回目、また3人を送った。そして第4回目の3人を送り出さねばならなくなった6月19日の朝、第8病院のドアに女性の体がドサリと、倒れかかってきた。なんとこれが最初に送り出した大島看護婦だった」

「大島さんは日本の振袖をイブニングドレスに再生した肩もあらわな洋服をまとい、足は素足で、傷だらけの顔は蒼白、体中に11ヵ所もの盲貫銃創や鉄条網をくぐった際の傷跡があった。脈拍ももう不規則で死が近かった。だが大島看護婦は必死で婦長らに告げた」

『私たちはソ連の病院に看護婦として呼ばれたはずなのに、最初からソ連軍将校の慰みものにされた。いやといえば、殺されてしまう。後から送られてきた同僚の日本人看護婦たちもみな同様の目にあった。もうこれ以上、看護婦を送らないよう、なんとか知らせねばと思い、厳重な監視の目を盗んで逃げてきたーー』

「血の出るような言葉を最後に22歳の生命は消えていった。翌日午後、満洲のしきたりに習って、土葬をして手厚く葬られた。髪の毛と爪をお骨がわりにして」

「その翌日の6月21日、松岡婦長が医局に入ると、午前9時過ぎなのに、看護婦が一人も姿をみせていなかった。婦長は胸騒ぎを覚え、三階の看護婦室まで駆け上がった。不気味なほどひっそりして、入り口には一同の靴がきちんとそろえてあった。障子を開けると、大きな屏風がさかさまに立ててあった。中から線香のにおいがした」

「22人の看護婦たちは制服制帽姿で、めいめいの胸のあたりで両手を合わせて合掌し、整然と横たわっていた。足は紐できちんと縛ってあり、みなもう冷たくなっていた。二列になった床の中央には机を置き、その上には前日に弔いをした大島はなえさんの遺髪の箱が飾られ、線香と水が供えられていた。そして遺書があった」


遺書
                           昭和二十一年六月二十一日
  
二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。
私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるより死を選びます。たとへ生命はなくなりましても私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、日本が再びこの地に還ってくる時、ご案内いたします。その意味からも私どものなきがらは土葬としてこの満洲の土にしてください。

<彼女たちの自殺は薬物(青酸カリ)によるものでした。それにまた彼女たちの汚れ物の一枚も残していないのも、日本女性の身嗜みと、一段と涙を誘うものがあります。ボイラー係の満人からの話では、死の当日、ボイラー室に大きな包みを二つ、持ち込んできて、
これを目の前で燃やしてくれと言うので燃やしてあげたということです>(高橋氏の解説)


この日本人看護婦たちが集団自殺したのは、明らかにソ連軍による「性的奴隷化」のせいでしょう。しかし日本の国会がソ連に謝罪を求める決議案を出したという話は聞いたことがありません。 

http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/168567
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by thinkpod | 2007-05-11 03:38
2007年 05月 08日

「日本共産党史」から消された「朝鮮総連」結成秘話

 ジャーナリスト 林 玲


【5月25日、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が、創立50周年を迎えた。北朝鮮を支持する在日団体として、何かと話題になることが多いが、かつての日本共産党との深い関わりを知る人は少ない。日本革命を共に目指した在日朝鮮人のコミュニストの多くが、総連結成に参加したのである。党史から抹殺された秘話をジャーナリスト林玲氏がレポートする。】


 今では党史のどこにも書かれておらず、すっかり忘れ去られているが、実は日本共産党は戦前から戦後にかけて、在日朝鮮人と共に歩み、大いに助けられた。

 共産党と在日朝鮮人の関係を辿ってみよう。

 1922年(大正11年)の創立時から、共産党は植民地解放の方針に基づき、朝鮮の独立を綱領に掲げた。コミンテルン(共産主義インターナショナル)の方針で、1930年代以降、日本在住の朝鮮人共産主義者は、日本共産党に所属した。ちょうど在米中の片山潜がアメリカ共産党に所属し、在仏中のホー・チミンや●小平(●=トウ=登にオオザト)がフランス共産党に入党したのと同じである。

 戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。

 1945年(昭和20年)、敗戦の年の10月、徳田球一ら共産党幹部が、府中刑務所を出獄した。その際、

<歓迎 出獄戦士 万歳>

 の幔幕を掲げ、熱狂的に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。その後、催された歓迎大会の会場を設営したのもまた朝鮮人党員である。彼らが待ちわびていたのは、獄中15年の不屈の闘士、金天海であった。金天海は在日朝鮮人から圧倒的な支持を集めていた。

 その年の11月、共産党は再建の第一歩として、第4回党大会を準備するため、全国協議会を開催する。全国から300人の代議員が東京・代々木の本部に集まり、行動綱領草案、規約草案、日本共産党の当面の政策を採択した。さらに、1カ月以内に第4回党大会を開催することも決定する。

 その準備委員に選任されたのが、徳田球一、志賀義雄、袴田里見、金天海、宮本顕治、黒木重徳、神山茂夫の7人だった。この名簿順位は、当時の党内ランクを示している。

 会議では、金天海を責任者として、朝鮮人部を設置することも決めた。実は、日本共産党の再建資金のほとんどは、当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供している。このことは、党史には一行も触れられていない。

 金天海は、同年12月1日に開かれた共産党第4回党大会で、7人の中央委員、5人の政治局員の一人となった。この党大会では中央委員候補に、同じ在日の宋性徹も選ばれている。

 翌46年(昭和21年)2月の第5回党大会では、同じく在日の金斗鎔、朴恩哲、保坂浩明(李浩明)も中央委員候補となり、後に遠坂寛(崔斗煥)も加えられた。第5回党大会当時の党員数はおよそ6000人。うち約1000人が朝鮮人だったという。一大勢力であった。

 金天海は、1898年(明治31年)、慶尚南道蔚山生まれ。本名を金鶴儀といった。1920年(大正9年)、仏教の勉強のために来日。日本大学社会科に入学したものの中退し、運動に身を投じた。活動家としてすぐに頭角を現し、1920年代には、早くも在日朝鮮労働総同盟(在日労総)委員長に就任。朝鮮共産党日本総局責任秘書も歴任する。責任秘書とは、今でいえば総書記とか書記長ということで、実質的な組織の責任者であった。人情家で在日朝鮮人の間では信望が厚かった。

 筋金入りのコミュニストだった金天海は、戦前、2度投獄された。戦後、出獄後に朝連の最高顧問に就任している。

 1949年(昭和24年)、朝連が強制的に解散させられる際、金天海は公職追放を受け、北朝鮮へ密出国する。北朝鮮では朝鮮労働党中央委員、社会部長、祖国統一民主主義戦線議長、最高人民会議常任委員を務めるなど、要職にあった。しかし、1970年代の金日成個人崇拝の高まり以降、消息は全くわからない。

在日は少数民族

 金天海が、戦後再建時の日本共産党で、5人の政治局員の一人であったことをみても、在日団体に対する共産党の影響力が大きかった、というよりもむしろ、日本共産党における朝鮮人の役割がいかに大きかったかがわかる。

 共産党が、在日団体である朝連などへの指導をぶれることなく続けられたのは、「朝鮮フラクション(支部)」を設置していたからだった。この組織は1947年(昭和22年)1月26日、金天海のもとで、責任者に「朝鮮民衆新聞」を創刊した朴興奎、後に朝鮮総連初代議長となる韓徳銖ら6名の委員と、4名の委員候補からなっていた。

  ☆

 敗戦直後から、在日朝鮮人の間で、子弟に対する民族教育をしたいという要求が高まっており、在日団体が自然発生的に各地につくられた。それらをまとめ、相互扶助的な団体として、

<全日本に在留する240万同胞の生命と財産を保護し、あらゆる権利を主張すべき唯一の代表機関>

 を宣言して、1945年10月15日に結成されたのが、朝連、在日本朝鮮人連盟であった。

 当時を憶えている在日の古老たちによると、
 「味噌とか醤油とか木炭を配給したりして、今でいう生協のようなものだった」
 「隠退蔵物資を摘発して、在日の商工業者へ原材料を提供することもやっていた」
 という。

 在日朝鮮人の運命は、激動する国際情勢にゆさぶられ続けていた。

 第二次世界大戦の戦後処理問題討議のため、米英ソ3国の外相会議が、1945年12月、モスクワで開催された。朝鮮については、

<米ソの協議により朝鮮民族の臨時民主政府の樹立を準備し、米ソ両国は5年間の信託統治を実施する>

 ということが決まった。

 この決定は、朝鮮民族を信託統治に対する賛成、反対で二分し、南北に別々の政府が樹立されるきっかけとなる。朝連は信託支持であり、一方の反信託側は、46年10月に民団(在日朝鮮居留民団)を結成。それ以降、在日団体は二分されることになった。

 1949年(昭和24年)3月27日、朝連は他団体とともに大阪の扇町公園で、吉田内閣打倒人民大会を開催する。大会後、デモ隊と警察官が衝突し、重軽傷者は16人にのぼった。同年6月11日には、朝連の参加する公安条例反対共闘委員会が、皇居前広場におよそ5万人もの参加者を集めて大規模集会を開催する。朝連の活動は活発だった。

 日本政府は朝連を恐れるようになっていく。その年の9月8日、朝鮮民主主義人民共和国建国1周年の前日、朝連を強制的に解散させる。団体等規制令に抵触したという理由だが、背景には、冷戦の進行、中国大陸で共産党政権樹立という状況があったのである。

 朝連解散後、日本共産党は民族対策部(民対)を設置する。民対は前身の朝鮮人部と同じく、主として在日党員で構成されていた。

 朝鮮戦争勃発の翌年の51年(昭和26年)1月、在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成される。民戦は議長団の一人に民団の副団長である李康勲が加わるなど、当初は何とか統一戦線であろうとした。李康勲は、熱烈な民族独立運動家で、“北朝鮮支持”は決して口にしなかった人物である。しかし、結成から3年後の1954年(昭和29年)、李康勲は、

<民戦は民族団体ではなく、日本共産党の尖兵>

 という声明を発表して民戦を離脱する。

 実際、民戦は“オモテ”の顔としては日本国内の在日朝鮮人組織の統一戦線であったが、“ウラ”の顔としては、共産党の民族対策部の指導下にあった。

 そのため、活動に参加した朝鮮人党員の多くは、1951年2月の4全協(第4回全国協議会)で決定された“武装闘争”の前面に立つことになり、大きな犠牲を出してしまう。

 なぜ、多大な犠牲を払ってまで“在日朝鮮人”は、共産党の“武力闘争”の方針に積極的に従ったのか。

 実は、4全協では在日朝鮮人を、戦時下の日本政府にならったのかどうか、

<日本のなかの少数民族>

 と規定したのである。

 この規定では、在日朝鮮人は外国人ではないことになる。つまり日本革命をなし遂げることなくしては、在日問題は何一つ解決しない、とされたのである。

大量だった在日の逮捕者

 その年の8月19日、共産党第20回中央委員会総会で、『日本共産党の当面の要求――新しい綱領』、いわゆる51年綱領の草案が提出された。51年綱領は、平和革命の可能性を全面的に否定し、4全協で採択された軍事方針を正当化し、山村工作隊活動や火炎ビン闘争を展開する極左冒険主義方針の根拠となった。綱領草案は、10月16日の第5回全国協議会(5全協)で採択された。

 『日本共産党の60年』や『日本共産党の70年』など公式の党史は、極左冒険主義や軍事方針は当時の、“徳田球一書記長を中心とした分派”がやったこととして、責任を回避している。しかし、分派闘争、内部の勢力争いにうつつをぬかしたのは、徳田、宮本顕治(のちに書記長、中央委員会議長)などひと握りの幹部たちだけであった。朝鮮人党員を含めて大部分の党員は、共産党の方針を正しいと信じて、身の危険をかえりみず忠実に参加したのである。

 共産党の軍事方針のもとで、いくつもの騒乱事件が起きた。

 1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデーで、デモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる“血のメーデー事件”がある。戦後、皇居前広場は“人民広場”と呼ばれ、たびたび集会場として使われてきたが、その日、政府は使用禁止とした。だが、メーデー参加者たちは広場に突入。在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙した。

 この事件では在日朝鮮人から多くの逮捕者(1232名中130名)が出た。広場になだれ込んだ2万人のうち、5000人が在日だったといわれる。

 その年、大阪で起きた吹田事件(6月25日)、名古屋の大須事件(7月7日)でも、多数の逮捕者が出た。吹田事件の在日の逮捕者は250名中92名。大須事件では、269名中150名が在日だった。

 こうした騒乱事件の多発に対し、大須事件直後の7月13日、民戦中央本部は、実力闘争偏重を批判する。第一線の実行部隊が朝鮮人である場合が多かっただけに、切実だった。

 一方、日本共産党は、12月中旬になっても全国軍事会議を開催し、武装闘争と日常戦闘との結合を強調するなど、極左冒険主義は改めそうになかった。

 血のメーデーから2年後の1954年(昭和29年)8月30日、日本政府の朝鮮人処遇について、北朝鮮外相による抗議声明が発表された。朝鮮人への扱いは国際法違反であるとして、「在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の公民」であるから、当然の権利を認め、日本居住、就業の自由、生命財産の安全を保障するように日本政府に要求した。北朝鮮政府が、在日朝鮮人の利益を代表するという立場の表明だった。

 その年の10月30日、中国紅十字会(赤十字)代表団の一員として、中国の対日工作の最高指導者、廖承志が来日する。廖承志はあいさつの中で、
 「在日中国人団体は、日本の政治に干渉してはならない」
 と語った。

 北朝鮮政府の声明と、廖承志のあいさつは、関連性がないように見える。しかし、実はともに、暗に日本共産党の在日朝鮮人運動に対する指導性を否定するものであった。これが、在日朝鮮人運動の“路線転換”を促す契機となる。

結成時、一斉に離党

 1955年(昭和30年)1月1日、共産党はようやく、機関紙『アカハタ』で「極左的冒険主義と手を切る」と発表した。

 その後、在日朝鮮人活動家の間では、二つの考え方が対立するようになる。

 一つは、北朝鮮支持の旗を実際に日本国内で掲げるべきという考え方。もう一つは、幅広い統一戦線をつくるために、旗は心の中に掲げるべきという日本共産党民対の考え方であった。対立は激しかった。

 ここにキー・パーソンが登場する。韓徳銖である。後に朝鮮総連中央常任委員会議長、北朝鮮最高人民会議常任委員を歴任する彼は、1907年(明治40年)慶尚北道で生まれている。1927年(昭和2年)渡日して、日大専門部に入学(後に中退)。共産党系の労組である全協に加入し、1934年(昭和9年)、熱海線トンネル工事の争議に加わり検挙される。戦後は朝連に参加。朝連中央本部総務局長などを歴任した。

 韓徳銖は、共産党の指導下で日本革命を共に目指したいわゆる“民対派”に対して、朝鮮や朝鮮労働党との結合を(おそらく朝鮮労働党側の内意を受けて)主張した“民対派”として、在日朝鮮人運動の路線転換に主導的役割を果たした。

 1955年(昭和30年)3月11日、民戦は中央委員会を開いた。その席で韓徳銖は“在日朝鮮人運動の転換について”演説する。反対派のヤジが激しく、中断せざるをえなくなった。だが、彼の作った路線転換への流れは変わらなかった。

 5月23日、浅草公会堂で最後の民戦6全大会が開かれ、翌24日解散する。

 こうして1955年5月25日、今からちょうど50年前、民戦解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱した。

 同年7月24日、共産党は民族対策部を解消。朝鮮人党員離党の方針を決定することで、これを追認した。

 戦前、戦後の最も苦しかった時代、共産党の中で最も困難な仕事を引き受け、党を支えたのは在日朝鮮人の人々であった。共産党の正史では、そのことに一言も触れられていない。

 半世紀という歳月は、共産党と朝鮮総連という二つの組織を、全く別々の遠い所まで連れていった。在日朝鮮人と日本共産党が、共に夢見た濃密な“時”を振り返る者ももういない。

週刊新潮(05年6月2日号)

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid289.html#sequel




2007/07/19-17:03 中ソが日本共産党に多額の資金援助=50〜60年代、CIAが掌握

 【ワシントン19日時事】18日に死去した日本共産党の宮本顕治元議長が「自主独立路線」を築く以前の1950〜60年代、同党が旧ソ連や中国から多い年で年間計40万ドルの資金提供を受けていたとの情報を米中央情報局(CIA)がつかんでいたことが、機密指定を最近解除されたCIA報告書で明らかになった。 日本共産党がソ連から資金援助を受けていたことは、ソ連崩壊後に解禁されたロシアの公文書で判明しているが、CIAも中国ルートを含めた資金の流れを掌握していたことが分かった。報告書は、共産党に対する外国の年間資金援助額を30万〜40万ドルと見た場合、同党年間収入の約4分の1に達していたことになると指摘している。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007071900798
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by thinkpod | 2007-05-08 15:12
2007年 04月 27日

日本は世界で一番株式を使った買収がしやすい 国になる

「三角合併」来月解禁:海外企業にM&A新手法-魅力増す日本企業(3)

4月27日(ブルームバーグ):「日本は世界で一番株式を使った買収がしやすい 国になる」――国内外の合併・買収(M&A)に詳しい西村ときわ法律事務所の太田 洋弁護士は「三角合併」解禁の意義についてこう語った。海外企業が日本企業買収の 対価として自社株を活用できるこの新たな手法は、表裏一体として日本企業の経営者 に企業価値への意識を強めさせ、日本企業の魅力が増すことにもつながる。

三角合併は海外企業が日本企業を買収する際の新制度。海外企業の日本の子会社 が親会社株を取得、日本企業と合併契約を結ぶ。日本企業の株主は保有株を差し出す 対価として海外企業の株式を子会社から受け取ることになる。

日本企業の取締役会決議と株主総会特別決議(議決権の過半数が出席、うち3分 の2以上賛成)が成立には必要。これまで海外企業による日本企業買収は実質的に現 金での株式取得しかなく、合併対価は存続会社株式しか認められていなかった。

この三角合併を可能にする「合併等対価の柔軟化」が5月1日施行される。条項 自体は2006年5月1日施行の会社法に盛り込まれたが、日本企業が買収防衛策を導入 する期間を確保するためなどとして、1年間の経過措置が設けられた。

三角合併は「現金なしでの買収が可能」というのが要諦。成立条件を踏まえると 敵対的(取締役会が賛同しない)買収には不向きだ。独立系M&A助言会社GCAの 福谷尚久パートナーは「三角合併を恐れた顧客大企業からの相談は実はない」と明か す。敵対的買収急増といったいわゆる外資脅威論は、証券会社の投資銀行部門が事業 機会拡大を狙って喧伝したり、メディアが煽っている影響が大きい。

GCAは米シティグループが株式公開買い付け(TOB)を仕掛けた日興コーデ ィアルグループの財務アドバイザー(FA)。創業者の渡辺章博、佐山展生の両パー トナーは内外のM&Aに詳しい。

ブルームバーグ・データによると1-3月期のFA関与額は、野村ホールディン グスやみずほ、ゴールドマン・サックスといった内外の強豪を抑えて首位になった。

有効性増す買収・合併提案

とはいえ5月1日をもって海外企業は三角合併という新たな日本企業の買収手法 を手に入れることは確かだ。特に時価総額が大きい企業には財務へのインパクトが少 なく、活用の余地が大きい。敵対的買収にはそぐわないが、買収・合併提案自体は三 角合併解禁によって有効性を増す。

これまでの現金のみの買収提案から、株式による買収提案、株式と現金の組み合 わせというミックス提案が可能になるからだ。株式と組み合わせることで現金部分の プレミアム(上乗せ)が付けやすくなる。

株主にとっては現金を受けるか株式と交換するかの選択肢が広がり、取締役は買 収提案に反対しにくくなる。例えば外国人株主や機関投資家が多いソニーに米GEが ミックスによる三角合併を提案した場合、個人株主は現金を受け取り、外国人や機関 投資家はGE株を受け取るといった例が想定できる。

これは同時に、日本企業の株主や経営陣がM&Aのボーダレス化加速を望むと望 まざるとにかかわらず意識せざるを得なくなることを意味する。この反応として企業 経営者は買収防衛策を導入したり、株主の支持を集めようと増配をしている。経済産 業省によると防衛策導入企業は200社を超えた。

さらに最強の買収防衛策であるMBO(経営陣による企業買収)、非公開化に踏 み切る企業も出ている。2007年だけでもテーオーシー、サンスター、明光商会、ツバ キ・ナカシマといった企業がすでに発表した。抜本的事業再編や上場デメリット排除 がMBOの主要因だが、結果的に非公開化は買収防衛にもつながる。

敵対的買収の誘因?

三角合併は敵対的買収の誘因となる可能性がある――日本経団連はこうした考え を打ち出した。そして株主保護や技術流出防止の観点から、日本企業の株主が対価と して国内取引所非上場の海外株を受け取る場合は総会要件を特別決議より厳しい特殊 決議(総株主の過半数、かつ議決権の3分の2以上の賛成)にするよう提言した。

友好的な買収のみに本来有効な三角合併で経団連が懸念しているのは、いわゆる 「強圧的二段階買収」。海外企業がTOBを実施、過半数または3分の2超の株式を 取得したうえで取締役を入れ換えて三角合併に賛成させるというもの。

三角合併予定を宣言してTOBを仕掛けると、本来は手持ち株を手放したくない 株主も海外企業の株よりは現金のほうがいいとしてTOBに応じるとの見方だ。とは いえ、これはTOB制度の問題。TOBの段階で現金拠出が伴い、三角合併の利点は 損なわれる。証券取引法改正で3分の2超取得には全部買い付け義務も伴う。

米ベル・ヒューズは株式6%を保有していた東光に三角合併による統合を提案し た。これに対して東光取締役会は2月までに提案拒否を伝え、話は立ち消えになって いる。ベルは4月中旬から東光売却を始めて保有比率は現在2%を下回っている。

東光株の保有目的も「政策投資や経営参加」から「純投資」に戻しており、事実 上統合提案を白紙撤回、利益を確保して撤退したことになる。三角合併が敵対的買収 に不向きな証左といえる。

グローバルスタンダードより一歩前

ドイツとフランスに三角合併の制度はない(複雑な仕組みにより実施は可能)。 英国には制度はあるが成立要件が極端に厳しい。三角合併発祥の地である米国にはも ちろんある。しかも、米国企業が日本で日本企業を買収する場合、新株発行といった 手続きに必要な諸書類は日本語訳するだけで通用するという。

逆に米国内で三角合併により日本企業が米国企業を買収する際には、必要書類を 米国会計(SEC)基準で作成する必要がある。このため、実質的に三角合併で米国 企業を買収できる日本企業は、ニューヨーク証券取引所(NYSE)やナスダック上 場でSEC基準導入企業にほぼ限られるのが実情だ。

日本での三角合併施行を前に懸案になっていた課税措置についても、繰り延べが 認められることになった。繰り延べが認められないと、日本企業の株主は海外企業の 株式を受け取った段階、日本企業自体は合併の段階で納税負担が発生することになる。

在日アメリカ商工会議所(ACCJ)や欧州ビジネス協会(EBC)は、課税繰り延 べが認められないと三角合併が事実上できなくなるとして容認を働きかけていた。

英アレン・アンド・オーベリー外国法共同事業法律事務所の中田順夫・弁護士は、 一連の法制面の手当てと会計制度を踏まえて「日本は世界でも三角合併がやりやすい 国になったといえる」と述べた。

「小が大を呑む」

「小が大を呑む合併」――高視聴率を記録して3月に終わったTBSドラマ「華 麗なる一族」(原作:山崎豊子)で阪神銀行オーナー頭取の万俵大介(北大路欣也) は都銀上位行との合併を画策して何度もこうつぶやいた。現金が要らない三角合併を 活用すると小が大を呑む合併も容易になる。

日本企業が主体だが、実際に似た案件が最近あった。東証1部上場の旭テックは 2006年秋、米自動車部品のメタルダイン買収を発表した。有利子負債返済などを含め 総額は1373億円。旭テック全額出資の米買収子会社がメタルダインと合併する。

売上高はメタルダインが2212億円(05年12月期)、旭テックは580億円(06年 3月期)で4倍弱の開きがあり、小が大を呑む合併になった。メタルダインの普通株 と優先株の株主は現金を受け取り株主の権利を失った。そのうえで主要な株主はその 現金で旭テック新株を引き受けた。

最終形としては旭テックが買収対価として自社株を活用したことになる。合併存 続会社がメタルダインだったことで「逆三角合併」(三角合併は買収子会社が存続会 社)ともいえる案件になった。

こうした取引が海外企業にも日本で可能になる。ただ、三角合併での小が大を呑 む合併には制約がある。相手先の規模が大きすぎると、合併後に相手先株主が買収主 体の主要株主に登場するからだ。実際に旭テックの案件ではメタルダイン株主が旭テ ック株11.4%(3月払い込みの増資を含む)を保有する第3位株主に登場した。

発行済み株式が増えたためRHJインターナショナル(旧リップルウッド)の持 ち株比率は37.1%に低下、旭テックはRHJの子会社ではなくなった。

日本企業にも活用余地大きい

海外企業ばかりでなく、三角合併は日本企業にも活用の余地が少なくない。経営 コンサルティングやM&A助言を手掛けるアビームM&Aコンサルティングの岡俊子 代表取締役は、三角合併は買収防衛策にも活用できると語った。買収防衛を手助けし てくれるホワイトナイト(友好的な第三者である白馬の騎士)に現金確保・調達が必 要ないのがメリット。

仕組みとしては、例えば投資ファンドに株式を買い占められた企業が買収子会社 を設立、買収子会社がホワイトナイトと合併する。企業はホワイトナイトの株主に新 株を対価として割り当てる。この新株発行により発行済み株式が増えて投資ファンド の持ち株比率が低下するというもの。

この三角合併の買収防衛策としての利用について岡代表は「まだアイディアの段 階」としながら注目すべき枠組みと強調している。

また、持ち株会社形態の企業が他社と合併する場合も三角合併のしくみを活用す ると、従来よりも円滑に事業統合ができるとしている。さらに株式を持ち合っている 企業同士が共同持ち株会社で経営統合・合併する場合、保有することになる自己株の 処分にも三角合併制度は有効と想定している。

さらに合併等対価の柔軟化により「現金交付合併」も可能になる。合併時の対価 は条文上何でも可能で、もちろん現金でも可。現金でTOBを仕掛ける場合は事前警 告型買収防衛策の手続きに従う必要があるが、現金交付合併ではその必要がない。手 続きに要する期間もTOBよりは短い。税制面での問題がネックになっているが、日 本企業にはこうした三角合併、合併等対価の柔軟化の活用方法がある。

魅力増す日本企業

三角合併解禁を前に日本の企業経営者は、本業強化はもちろんのこと買収防衛策、 増配、自社株買い、株式持ち合いなどさまざまな対応策を打ち出した。鉄鋼世界最大 手の蘭アルセロール・ミタルの攻勢にさらされる鉄鋼業界では、新日本製鉄やJFE ホールディングスがこのすべての策を打ち出した。

ブルームバーグ・データによると、日経平均採用銘柄で過去1年間の上昇率順位 は2位に新日鉄、7位にJFEが入った。企業価値を高める施策が奏功して、すでに 株主の利益拡大に結びついていることになる。

この順位には商船三井が3位、川崎汽船が5位、日本郵船が14位と海運大手3社 がそろって入った。海運業界では世界最大手デンマークのAPモラー・マースクが買 収攻勢をかけている。日本勢が巻き込まれる気配はいまのところないが、日本の経営 陣が自社の企業価値を意識するうえでAPモラーの動向は見逃せない。

企業価値向上策として今後は、日本では珍しい積極的な「身売り提案」も出てく るかもしれない。好まざる企業から買収提案されるよりも、好ましい企業の傘下に積 極的に入ることで勝ち残りを目指すという考えだ。身売り提案時には条件を自ら指定 できるという主導権も握れる。1984年だが万有製薬が米メルク傘下に入った例はある。

M&Aに詳しい長島・大野・常松法律事務所の井上広樹弁護士は、三角合併施行 を直前に控えて国内外の企業からの三角合併についての相談は増えていないとの現状 を示した。実務上のニーズは言われているほど多くないとしている。同時に三角合併 により「日本企業の買収対象としての魅力が増し、海外企業が日本企業に興味を持つ 契機にはなり得る」と指摘した。

日本企業にも事業機会

税務上の問題は一応クリアされたが、三角合併には海外企業が新株を使う場合の 発行や開示方法をはじめとした諸手続きが必要。このため「しばらくは上場企業でな い閉鎖会社をターゲットとした買収制度の1つに位置づけられる」(アンダーソン・ 毛利・友常法律事務所の小舘浩樹弁護士)公算も大きい。同時に現在の日本のM&A 案件で重要な役割を演じている投資ファンドを含めた当事者の行動様式に与える影響 は小さくない。

三角合併はあくまでM&Aの一手法。独ダイムラー・ベンツは米クライスラーを 三角合併により98年に買収した。現在は不振のクライスラー部門を売りに出している。

アーンスト・アンド・ヤング(E&Y)トランザクション・アドバイザリーサー ビスの杉原敦マネジングディレクターは、三角合併解禁を前に「重要なのはM&A自 体ではなく統合を成功させることであり、ダイムラーは統合効果を描いた青写真を実 現できなかった」と述べた。

三角合併をめぐり企業経営者が自社の価値を強く意識して行動することは、株主 価値やステークホルダー(利害関係者)の増大につながる。三角合併自体が買収対象 としての日本企業の魅力を浮き彫りにすると同時に、対応策を打ち出した日本企業は 確実に地力を増している。

「海外企業による三角合併を使った日本企業買収が今年度に実現しても不思議で はない。同時に日本企業が三角合併も選択肢に米国企業の買収を狙う案件が進行して いる」と中田弁護士は指摘した。三角合併は日本企業にも事業機会をもたらしており、 利点を見極めた活用が重要だ。

◎三角合併:英語の「Triangle merger」の直訳。州ごとに会社法が違う米国で州をま たぐ企業合併に活用されており、日本企業に対して国をまたぐ海外企業との合併にも 適用されることになる。会社法(2006年5月1日施行)749条1項2号「合併等対価 の柔軟化」で、合併に際しては存続会社の株式、社債、新株予約権、新株予約権付社 債や株式等以外の財産を消滅会社の株主に交付することが可能になった。

この株式等以外の財産には現金や存続会社の親会社株式が含まれ、存続会社の親 会社株式の場合に三角合併になる。この部分の施行は、経済界などの要請を受けて1 年先送りされた。日本企業が三角合併で外国企業を買収することは現在でも可能。


【国内、海外企業のクロスボーダーM&A手法の推移】
――――――――――――――――<旧商法下>――――――――――――――――
○日本企業が海外企業を合併・買収
・現金で株式を取得
・新株予約権を海外子会社に発行して、それを対価として買収
(2004年にNTTドコモが米AT&Tワイヤレス買収で検討、実現せず)
・海外上場のADRを使い三角合併
(1990年に京セラが米AVXを買収、この京セラ方式は違法性の疑いあり)
・新株発行による事実上の国際株式交換
(2005年にそーせいが英アラキスを買収、相手が未公開=閉鎖=企業のみ可能)
○海外企業が日本企業を合併・買収
・現金で株式を取得
――――――――――――<会社法施行、2006年5月1日>―――――――――――
○日本企業が海外企業を合併・買収
・上記に加えて三角合併が可能(京セラ方式が明示的に許容)
○海外企業が日本企業を合併・買収
・従来の手法と変化なし
――――――――――<合併等対価の柔軟化、2007年5月1日>―――――――――
○日本企業が海外企業を合併・買収
・従来の手法と変化なし
○海外企業が日本企業を合併・買収
・上記に加えて三角合併が可能
【三角合併の過去の主な例】 京セラによるNYSE上場米国預託証券(ADR)を活用した米AVX買収(1990年) 独ダイムラー・ベンツによる米クライスラー買収(98年) 英ボーダフォンによる米エアタッチ・コミュニケーションズ買収(99年) 米ファイザーによる米ワーナー・ランバート買収(2000年) 英HSBCによる米ハウスホールド・インターナショナル買収(2002年) 米グーグルによる米ユーチューブ買収(06年10月)


【日米同業企業の時価総額比較】(兆円、日本時間26日時点でブルームバーグ集計)
武田薬品工業 6.92-22.6 ファイザー
7&i 3.38-24.0 ウォルマート・ストアーズ
みずほFG 8.49-31.4 シティグループ
日立 3.07-44.0 ゼネラル・エレクトリック(GE)
花王 1.81-23.7 プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)
【日本企業による外国企業の買収・出資上位5位】 発表日 買い手 買収・出資先 形態 金額 06.12/15 JT 英ガラハー 買収 2兆2500億円 06.3/17 ソフトバンク 英ボーダフォン日本 買収 1兆8000億円 00.11/30 NTTドコモ 米AT&Tワイヤレス 出資 1兆 792億円 99.3/10 JT 米R.J.レイノルズ 買収 9420億円 90/11/27 松下電器産業 米MCA 買収 7800億円

【外国企業による日本企業の買収・出資上位5位】 07.3/14 米シティグループ 日興コーディアル 買収 9200億円 99.1/23 米GEキャピタル 日本リース部門と子会社 買収 8700億円 01.5/01 英ボーダフォン 日本テレコムと子会社 追加出資 6520億円 99.3/17 仏ルノー 日産自、日産ディ 出資 6430億円 00.5/13 米プルデンシャル 協栄生命保険 買収 4140億円 (レコフ資料から作成)


【2007年1-3月FAランキング】(日本企業関係で集計、百万ドル)
順位 社 名 関与総額 件数
1. GCA 21533 6
2. シティグループ 16482 9
3. 野村ホールディングス 9905 38
4. メリルリンチ 9486 7
5. KPMGコーポレートファイナンス 7677 7
6. 三菱UFJフィナンシャル・グループ 7138 23
7. モルガン・スタンレー 4571 6
8. みずほ 3523 20
9. 大和証券SMBC 2357 27
10. ゴールドマン・サックス 1749 5
JT株の午前終値は、前日比1万円(1.7%)安の58万7000円。

更新日時 : 2007/04/27 16:06 JST
http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=90003015&sid=aEtxjoaCEguA
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by thinkpod | 2007-04-27 15:57
2007年 04月 05日

「戦後補償」の亡霊にとりつかれた日本のサハリン支援

産経新聞特集部次長 喜多由浩


 戦後、冷戦のために長くサハリン(旧樺太)から出られなかった朝鮮半島出身者(サハリン残留韓国人)のために、日本がいまだに支援を続けていることを、いったいどれだけの国民が知っているだろうか。これまでの日本の拠出総額は六十億円以上。「人道的支援」がいつの間にか「戦後補償」にすりかわり、相手方の要求はとどまることをしらない。日本の支援が膨らんだのは、一部の日本人たちが、「四万三千人を強制連行した」「日本が置き去りにした」などと事実とかけ離れたことを触れ回ったからである。そのツケはあまりに重い。

発端は「誤解」

「サハリンの残留韓国人」とは、日本時代に朝鮮半島から、企業の募集や徴用で、サハリン(当時は樺太)に渡り、戦後も韓国などへの帰国が許されなかった約一万人のことである。当事者の一人で、昭和三十三年に日本へ帰還した朴魯学氏(故人)と妻の堀江和子さん(七七)らが民間人の立場で帰還運動を続け、五十年代後半以降、日本での家族との再会(一時帰国)、韓国への永住帰国が順次、実現したが、それまで数十年間、異郷の地であるサハリンにとどまらざるを得なかった。

 長く家族と引き裂かれ、祖国に帰れなかった人たちには、本当に同情を禁じ得ない。ただ、彼らが、サハリンから出られなかった最大の理由は、冷戦の対立が続くなかで、当時のソ連が、国交のない韓国への帰国を認めなかったからである。友好関係にあった北朝鮮への配慮もあったという。また、ソ連、韓国、日本などの関係各国が関心を示さず、当初は積極的に対応しなかったことも、この問題の解決を遅らせる要因となった。

 この問題に対する日本政府の見解は一貫して、「法的責任はない」というものであった。だがやがて、主として、日本人の側から、日本の責任を問う声が上がり始める。それは「日本が強制連行で四万三千人を無理やりサハリンに連れて行き、過酷な労働につかせた。だから、日本の責任で帰国させねばならない」「日本人だけがさっさと引き揚げ、朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」などという批判であった。

 もちろん、これらは事実ではない。まず、再三、マスコミなどで登場した「四万三千人」という人数だが、これは戦後、ソ連や北朝鮮地域から、派遣労働者などとして、サハリンに渡ってきた約二万人の朝鮮族などを加えた数字が“ひとり歩き”してしまったものである。意識的か、無意識か、この混同はずっと続き、“日本糾弾キャンペーン”で使われた。戦後になってサハリンに来た人たちが日本と何の関係もないことは言うまでもない。

 戦時中、企業の募集や官斡旋、徴用によって、朝鮮半島からサハリンに渡った人数は、明確ではないが、終戦前後の朝鮮半島出身者数の各種統計(約七千八百−二万三千人)から判断すれば、二万人前後とみられている。しかも、強制力をともなう徴用が、朝鮮半島で実施されたのは、昭和十九年九月からで、ほとんどの人は企業の募集や官斡旋によるものであった。

 当時の樺太は内地(日本)よりもはるかに賃金が高く、それにひかれて新天地を目指す人が後を絶たなかった。一度行っても、「もう一度行きたい」と希望する人も少なくなかったという。これは朴氏らが帰還運動を進めるにあたって、サハリン残留韓国人から聞き取り調査を行った結果、明らかになった事実である。もちろん、「強制」ではなく、「自分の意思」であった。

 朴氏自身は、今の韓国の地域で理髪師をしていた昭和十八年に、新聞広告でみた樺太人造石油の募集に応じた。給料は理髪師の三倍以上だったという。貯金などによって給料の全額が支払われたわけではなかったが、それでも朴氏は数年の間に、家一軒建つぐらいのまとまったお金を故郷(韓国)の家族に送金している。妻の和子さんによると、朴氏は戦後、何が何でも“強制連行”を主張しようとする仲間たちに対して、「そうじゃなかっただろう」とたしなめることがあったという。

 もちろん、戦時下のことであり、徴用による朝鮮半島からサハリンへの戦時動員がなかったわけではない。募集などでサハリンに渡った人が、現地で徴用されたケースもある。しかし、どう大げさに見積もってみても「四万三千人」という数字にはなり得ないのだ。

『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』の著者、新井佐和子氏は、日本やサハリン側の公文書を調べたうえで、「正式な徴用で(サハリンに)行った人は数百人に過ぎないだろう。徴用でも内地より高い給料がもらえたし、強制的に連行するようなものではなかった。そもそも、残留韓国人自身が“強制連行”という言葉を知らなかった」と指摘している。

 一方、「朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」という批判も事実ではない。

 終戦時に四十万人以上いた日本人は、二十一年十一月に締結された「米・ソ引き揚げ協定」によって、二十四年までに、そのほとんどが帰国した。だが、終戦後、ソ連が実施した人口調査によって「無国籍者」と分類された朝鮮半島出身者は、引き揚げの対象に含まれていなかった。その理由は必ずしも明確ではないが、当時、米占領下にあった日本は「この決定」に関与していない。というより、関与できなかったのである。


目的は「日本の糾弾」

 サハリン残留韓国人問題が政治問題化したのは、昭和五十年十二月に東京地裁に提訴された「サハリン残留者帰還請求訴訟」がきっかけだった。裁判は、残留韓国人四人を原告にし、日本国を相手どって、「日本へ帰還させること」を求めたものである。原告側は総勢十八人の大弁護団を結成。その“仕掛け人”は、後に「従軍慰安婦」訴訟などで中心的な役割を果たす人物であった。

 訴状の「請求の原因 原告らの身の上」の項にはこう書いてある。

「被告国(日本)は一九三八年、国家総動員法を制定し、人道無視の政策をとり、『聖戦完遂』の美名の下に大量の市民をかり立て、強制労働に従事させた。原告らは当時、日本の領土であった韓国の地を故郷とする一農民に過ぎなかったところ、被告国の政策の犠牲者として『南樺太』の地に強制連行され、日本の敗戦後は同地に置き去りにされて、被告国のなんら外交的保護も受けられないまま、同地にとどまることを余儀なくされている…」(一部省略)。

 また、「原告らの法的地位」の項では、こうあった。「『内地人』は、一九四六年から逐次日本領土内に引き揚げることができたにもかかわらず、被告国は不法にも原告らの引き揚げの機会を奪い、日本国に帰国させない措置をとってきた」。さらに、「日本人として日本領土であった『南樺太』に連行され、出身地の主権国のなんら法的保護も直接受けられないままに放置された原告らは、法律的には少なくとも本邦に帰国するまでは、いまだに日本国籍を喪っていないものと認めざるをえない。日本国籍を喪ったとして原告らを引き揚げの対象から除外した被告国の行為は違憲、違法のそしりを免れない」(同)。

 つまり、「日本が“強制連行”で連れて行ったのに、終戦後、朝鮮半島出身者だけを置き去りにした。日本の責任で帰せ」と主張しているのだ。訴状は、まさに日本糾弾のオンパレードだが、これらが事実でないことはすでに述べた通りである。

 さらに、奇妙なことがいくつかある。残留韓国人が帰りたいのは「韓国」であるはずなのに、原告側は「日本へ帰せ」と訴えていた。その後、どうしようとしていたのか。また、原告が本当に「日本国籍を喪っていないこと」を争おうとしていたのか…。どう考えても無理がある。当時、この裁判にかかわっていた関係者によると、「原告として“選ばれた”残留韓国人の中には、帰国の意思がない人すらいた」という。原告の意思など、そっちのけで、裁判を起こすこと自体が目的だったことがうかがえるエピソードだ。

 この裁判で、原告側はさまざまな証人を法廷に立たせている。日本に帰還した残留韓国人や原告の韓国人妻、家族などだ。ある妻は、法廷で「夫を返せ」と絶叫し、裁判官にコップを投げつけた。ナイフで指を切り、血を流してみせる人もいた。国会議員や報道陣のカメラの前でも同じようなパフォーマンスが繰り返され、ある国会議員は、自分の足にすがって絶叫する韓国人妻の姿を見て、「本当に悲惨なことだ。何とか解決してあげたいと思った」と振り返っている。

 ところが、そのうちに、妻たちのみんながみんな、心底から夫の帰国を望んでいるわけではない、ということが分かってくる。「夫を返せ」とさんざん泣きわめいた女性が、いざ夫の帰国が実現する段になって、会いに来なかったり、「日本に来られるから(泣きわめいた)」とこっそり本音を漏らす人もいた。年月がたち過ぎたゆえの「悲劇」ともいえるのだが、こうしたパフォーマンスは、間違いなく日本糾弾キャンペーンに一役買っていた。先の関係者によると、証言する人たちには必ず、「強制連行でサハリンに連れて行かれた」と主張するように“指導”が行われていたという。

 そして、極め付きが五十七年に二度にわたって証言台に立った“慰安婦狩り”の捏造証言で有名な吉田清治氏である。

 この裁判で、吉田氏は、「昭和十八年に済州島で二百四人の若い女を狩り出し、女子挺身隊として軍に提供した」などと証言した。吉田氏とサハリン残留韓国人問題とは何の関係もない。“強制連行”を印象づけるために証言台に立たせたのである。このことだけを見ても、この裁判の目的が透けて見えるようだが、実際、「吉田証言」を機にこの問題は、“強制連行”や日本の責任が一気にクローズアップされることになってしまう。

 裁判は提訴から十四年後の平成元年六月、原告の四人が死亡または帰国を果たしたことで、訴えの理由がなくなり、原告側が訴えを取り下げることで終了した。だがこの間、こうした事実ではない証言や過剰なパフォーマンスが繰り返されることで、「すべて日本が悪い」という論調ばかりが印象づけられる結果となった。そういう意味では、この裁判の「日本糾弾キャンペーン」は確かに成功したのである。


弱腰になった日本外交

 朴・堀江夫妻らの努力によって、サハリンの残留韓国人が日本で韓国の家族と再会する道が開かれ始めていた昭和六十二年七月、超党派の衆・参国会議員約百二十人によって「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」(議員懇)が結成された。議員懇の事務局には、「サハリン残留者帰還訴訟」の原告側弁護士も加わっていた。

 もちろん、議員らは問題の解決を願って議員懇に参加したのであろう。ただし、一部の議員の主張は、裁判で展開された“日本糾弾キャンペーン”そのままであった。「四万三千人の強制連行」など、誤った認識を前提とした質問を繰り返し、政府の対応をやり玉にあげた。日本が支援を行っても、「まだ足りない」「責任をどう感じているのか」などと再三にわたって、突き上げた。こうした一部議員の行動が、後に日本の支援を野放図に膨らませる一因となるのである。

 この問題で日本政府が最初に支援を行ったのは六十三年のことだ。日本での再会は実現したものの、日本での交通費や滞在費は朴氏らが負担するしかなかった。それを国庫からの補助金で少しでも肩代わりしようという趣旨で支援が始まったのである。ところがその後、日本を経由せず、サハリンから直接韓国へ行けるようになったのに、日本の支援は減るどころか、逆に増額された。その背景に議員懇の一部議員の働きかけがあったことは間違いない。

 日本が支援を始めたころに、議員懇の中心メンバーだった社会党代議士(当時)が、家族との再会のために来日していたサハリン残留韓国人たちの前で「来年から補助金の額をアップさせる」と不用意な発言をしてしまったことがあった。お金の話にはみんな敏感だ。この話はたちまち、サハリン側に伝わり、その結果、それまで関心がなかった人が来日の申請をしてきたり、一度来た人が二度、三度と申請してくるケースが相次いだ。そのうちに、本来の家族再会はそっちのけで、日本での買い物ばかりに熱心な人たちが目立つようになるのである。

 平成元年には、日韓の赤十字によって支援を行う「在サハリン韓国人支援共同事業体」が設立されている。共同事業体といっても、資金を拠出するのはもっぱら日本側だった。当時の事情を知る国会議員によると、「日本政府が直接お金を出すのはまずいので共同事業体の形をとった。最初から韓国側に資金を出してもらう計画はなかった」という。

「日本が悪い」という声が身内から上がるのだから、日本政府の外交姿勢も弱腰にならざるを得ない。平成二年には国会での答弁で、当時の中山太郎外相がサハリン問題で韓国に謝罪。四年には、宮沢喜一首相(当時)が日韓首脳会談において「従軍慰安婦」問題で謝罪している。六年には、河野洋平官房長官(同)が「従軍慰安婦の強制連行」を認める発言をした。

 そして、七年、「戦後五十年記念事業」として、周辺国への謝罪や補償問題ばかりに熱心だった村山富市内閣のもとで、サハリンから韓国への永住帰国者が入居する五百戸のアパートや療養院の建設など、計約三十三億円にも及ぶ巨額の日本の支援(韓国側は土地や年金などの形で永住帰国者の生活費を負担)が決定されるのである。

 サハリン残留韓国人問題に対して、「法的責任はない」としている日本の支援は、あくまで「人道的な支援」のはずだった。そして、一時帰国(家族再会)や韓国への永住帰国が実現したのだから、「問題は解決した」と主張しても良かった。ところが、一部の政治家・勢力はこれを、まるで「戦後補償」のように位置付け、どんどん日本の支援を引き出そうとした。そして、政府の答弁も「歴史的、道義的責任」と微妙に変化し、韓国側やサハリンの残留韓国人側からも、日本の支援強化を求める声が強まっていくのである。「(一部の)日本人が責任を認めているのだから…」というわけだろう。彼らもまた日本の支援を、はっきりと「補償」と位置付けていた。

 四年にサハリンの残留韓国人の団体が日本政府宛てに提出した要求書にはこう書いてある。「一、過去、日本から受けた肉体的、精神的な損害の補償を日本政府に対し、強く要求する。二、在サハリン韓人の永住帰国を韓国政府に促し、帰国に対しての一切の費用を日本側が負担する。(略)」。まるで、「すべては日本が悪いのだから、日本側が費用を負担するのは当たり前だ」と言っているかのようではないか。


至れり尽くせり

 日本の支援は現在も続いている。その内容は別項の通りだが、まさに至れり尽くせりといえるものだ。

 一時帰国(家族再会)は、「何らかの理由で韓国への永住帰国はできないが、韓国にいる家族・親族と会いたい」という人たちのために、サハリン・韓国の民間定期便を使って行われている。平成元年のスタート以降、希望者が一通り、一時帰国したため、数年後には二回目が、そして現在は三回目が実施されている。往復の渡航費、滞在費はすべて日本側の負担だ。逆に、韓国への永住帰国者がサハリンに残る家族・親族を訪問する「サハリン再訪問」も三年前から始まった。

 韓国への永住帰国者の住居から、たびたび行われる一時帰国の交通費、果ては療養院のヘルパー代まで、日本側が負担しているのだ。今年八月末には、サハリンの韓国人のために日本の費用で建てられる文化センターの起工式が行われた。総工費は約五億円。「サハリンの朝鮮民族の伝統保存のため」として、要望が出されていたものだが、センターにはホテルの機能やレストランも設けられるという。

 共同事業体への日本の拠出額はこれまでに約六十四億円に達している。だが、政府内に支援を見直す動きはないようだ。支援事業を行っている日赤国際救援課は、「『支援を見直した方がいい』という声は聞いていない。日本政府が人道的見地から始めた支援であり、『帰りたい』という人がいる以上、今後も続けていきたい」と話している。

「当事者はもういない」

 日本の支援については、もうひとつ大きな問題がある。支援の対象者が極めてあいまいになっていることだ。

 サハリンに渡った朝鮮民族には、大きく分けて三つのグループがある。(1)戦前の早い時期に、新天地での成功を夢見て渡り、そのまま住みついた(2)戦時に、企業の募集、官斡旋、徴用によって渡った(3)戦後、派遣労働者などとしてソ連や北朝鮮地域から渡ってきた−の三つだ。

 いうまでもなく、(1)、(2)、(3)のうち、日本政府がかかわっているのは(2)の一部だけである。当初、日本側には、「税金を使って支援を行う以上、対象者をはっきり区別すべきだ」という意見もあったが、結局はうやむやになった。共同事業体で設定している支援対象者の条件は、「一九四五(昭和二十)年八月十五日以前にサハリンに移住し、引き続き居住している者」というだけである。

 

 この条件なら、終戦までに誕生していれば、一歳でも二歳でも対象者に含まれることになる。実際、韓国へ永住帰国した人たちのなかには、「本当に祖国へ帰りたかった」一世だけでなく、当時、幼児だった子供たちが多く含まれている。彼らの多くはサハリンで結婚し、新たな家族が出来ていた。韓国には長年待っている家族など、ほとんどおらず、父祖の土地でしかない。その永住帰国まで日本が支援しなければならないのだろうか。

 一時帰国者の中にも、韓国に縁者がいない「無縁故者」が数多く含まれていたことが分かっている。数年前にサハリンを訪れた産経新聞記者は、ある韓国人から「私たちは戦前、毛皮の商売をするためにサハリンに来た。なぜ、日本が韓国へただで連れて行ってくれるのか」と不思議そうに尋ねられたという。支援の対象者が(1)、(2)、(3)のどのグループに所属するのかは問われないのだ。しかも、昨年からは、「終戦前サハリンへ渡り、残留を余儀なくされ、終戦後、ロシア本土などに渡った韓国人」にも支援の対象が拡大されることになった。こうした複雑な経歴を、だれが、どうやってチェックしているのだろうか。

 また、六十歳以上の一時帰国者については、付き添い一人が認められている。このため、かなり前から、本来の家族再会の趣旨は隅っこに押しやられ、付き添いの二世、三世が主体となった韓国への“買い物ツアー化”が指摘されている。新井佐和子氏は平成七年にサハリンへ行ったとき、八十歳を超える一世の老人から、「一度一時帰国したので、もう十分なのだが、子供たちが韓国へ行きたがるので二度目の申請をした」といわれた。「飛行機の座席の権利を数百ドルで売る人がいる」といった話も聞いたという。運賃がかからないため、「一回、韓国へ行き、買いこんだ商品を(サハリンで)売ればいい商売になる」という人もいる。それなのに、支援の対象者を選ぶのは韓国やサハリン側に任されており、日本側はチェックする手段もない。

 間もなく戦後六十年になる。夫とともに長く帰還運動を続けてきた堀江和子さんは、「本当に祖国に帰りたかった一世たちはもうほとんど残っていない。支援は打ち切るべきだ」と訴えている。実際、現在、支援を求めているのは二世や三世が主なのだ。

 サハリン残留韓国人への日本の支援に対して、ある官僚が「元々、それほど大きな予算ではない」と漏らしたことがある。“大きな額ではない”予算を出し惜しみして韓国などから、反発を招くのを心配しているのか、それとも、一度獲得した予算を手放すのが嫌なのか…。六十四億円はもちろん、小さな額などではない。そして何よりも、「理由のない支援」を許していいのか。

 サハリン残留韓国人問題について、「日本の責任はゼロだった」というつもりはない。本当に支援が必要だった一世たちへの「人道支援」まで否定しているわけでもない。だが、「すべて日本が悪い」などと“あしざまにののしられた”あげく、日本とほとんど関係のない人たちが支援を受けるのでは、国民も納得しないだろう。

【略歴】喜多由浩氏 昭和三十五(一九六〇)年大阪府出身。立命館大学産業社会学部卒。五十九年、大阪新聞社入社、その後、僚紙・産経新聞に転じ、社会部で運輸省(当時)、国会、警視庁などを担当。ソウル支局、横浜総局次長などを経て平成十二年、社会部次長、十五年から現職。現在の主な関心分野は朝鮮半島情勢、旧満州など。著書に『満州唱歌よ、もう一度』(扶桑社)。

「正論」平成17年1月号
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2005/0501/ronbun1-1.html



reference archives : 【国外元ハンセン病患者への補償再考を】 元サハリン再開支援会 新井佐和子
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by thinkpod | 2007-04-05 14:36
2007年 03月 30日

「産業スパイ・工作員の全手口」

在シドニー総領事館元工作員が実名告発
日本の最先端技術を盗む中国国家全部
「産業スパイ・工作員の全手口」
(SAPIO 2006年3月22日号)

日本の軍事・産業技術のスパイ活動に最も積極的な国が中国であることは間違いないだろう。
強大化する中国の最大の"弱点"は技術カの低さにあるが、それを補うためには、技術大国であり、しかも防諜体制が杜撰な日本は格好の標的であるからだ。
中国の対外スパイ活動について、最も詳しく語ることができるのが、自ら元工作員であることを告白し、オーストラリアで“亡命”した陳用林氏である。昨年9月に陳氏との接触に成功し、その後もコンタクトを持ち続けている国際ジャーナリスト・大野和基氏が、陳氏の証言をもとに、中国の対外工作活動の実態をレポートする(文中のカギ括弧はすべて陳氏の発言)。

在シドニー中国総領事館の一等書記官だった陳用林氏は、昨年5月末に総領事館を脱出し、妻子とともにオーストラリアに政治亡命を求めた。結局、政治亡命は認められず、7月に保護ビザを与えられることになるが、彼の事実上の“亡命”は、世界中の情報関係者から大変な注目を集めた。
陳氏は、“亡命”直後の6月4日、シドニーで開かれた天安門事件16周年記念集会で、自身が中国政府の工作員であったことを明かしたうえで、中国の対外諜報の実情を暴露・告発した。
「中国政府はオーストラリア国内に1000人以上ものスパイを潜伏させ、反体制派の中国人やその家族を拉致し、秘密裏に本国に強制送還している」
陳氏は総領事館から逃亡後、妻、そして小学生の娘とともに、シドニー市内に隠れて生活をしている。
陳氏の証言が、日本にとっても重要であるのは言うまでもない。自ら、中国政府のためにスパイ活動をしてきた人物で、その手口を誰よりも熟知しているからだ。

「反政府分子摘発では拉致、殺害も辞さない」

やや長くなるが、陳氏の経歴と、オーストラリアで従事していた諜報活動が具体的にどのようなものであったのかを説明しておく必要があるだろう。
上海近郊に生まれた陳氏は、大学で国際政治を専攻したために、就職先は外交部(外務省)しかなかったという。
「大学では西洋の政治思想も勉強していたので、中国共産党の本質を客観的に見ることもできたが、完全には共産党の思想は抜けなかった」
大学卒業後、北京郊外の印刷工場に送られて、毛沢東思想の洗脳を受ける。さらに91年8月に正式に外交部に採用されてからも、実際の仕事を開始する92年6月までの間、徹底した再教育を受け、共産党思想を叩き込まれたという。
94年8月までは北京で勤務、その後98年8月までフィジーの中国大使館に勤務。その後一旦北京に戻り、シドニーに赴任したのは2001年4月だった。
シドニーに赴任してからの陳氏の仕事は、オーストラリア国内にいる反政府分子を探し出し、中国政府に報告すること。特に気功集団『法輪功』の信者を監視することが最重要任務だった。

「例えば、シドニーの公会堂で彼らの集会があるときは、市議会に圧カをかけて中止させるとか、信者がパスポート更新のために領事館にやってきたときにパスポートを没収するといった方法だ。
ただし、非協力的な信者は拉致して、『61Oオフィス』に引き渡していた」
『61Oオフィス』とは、99年6月10日、中国憲法が要求する手続きをバイパスして、法輸功を弾圧する目的だけのために、当時の江沢民国家主席の指示のもとに作られた組織で、中国国内はもとより、日本を含む海外拠点にも作られた。『61Oオフィス』には法的な制約がない。いわばナチス・ドイツのゲシュタポや文化大革命の際の中央委員会に似通った組織である。法輪功弾圧に関しては全権を与えられているので、拉致、殺害など、あらゆる手段が認められている。

「シドニーの中国総領事館にいる間、中国当局の指示の下で、工作活動に従事していた。
例えば、中国で多額の汚職事件を起こしたある都市の副市長が、オーストラリアに滞在する妻と息子に会うためにやってきたことがある。このとき、副市長を中国に連れ戻すために、彼の息子の拉致が計画・実行された。拉致を実行するときは、麻酔薬を使って眠らせ、漁船に乗せて公海上に停泊させていた貨物船まで連れていった。そこから、副市長に連絡して『即刻、中国に戻らないと、息子の命はない』と伝え、さらに直接息子と話をさせて、拉致が本当であることも証明する。実際、この方法で本国に連れ戻したが、彼は帰国後、死刑判決を受けた」
陳氏の主任務であった法輪功対策では、特別対策室を領事館の中に作り、本国に強制送還する具体的な方法を定期的に話し合っていたという。
「強制送還された信者の中には、調査に協力せず、自殺する者もいたと表向きには言われているが、実際は尋問中に殴り殺された者がほとんどだ」
しかし陳氏は、実際に信者に接触すればするほど、彼らがまったく無害であることに気付くようになる。これが“亡命”のきっかけとなった。
「彼らが信じている『真実、自制、思いやり』は、何も間違っていないと思うようになった。
私は、次第に中国政府の指示に従わないようになり、パスポートも更新させるようにした。
ところがある日突然、領事館の自分の机の上からコンピュータがなくなっていた。それを見たときに、亡命しようと決意した」

米国防総省を震憾させたサイバー・スパイ集団

陳氏が直接携わっていたスパイ活動は、「エージェント」と呼ばれる情報提供者を確保することから始まる。法輪功の場合は、実際に内部にいる信者であるが、もちろんエージェントの確保は一筋縄ではいかない。
「中国への愛国心に訴えることは当然だが、やはりよく使う手はカネだ。個人情報を提供するとー件につき、最低でも1万元(約14万円)ほどの報酬を渡す。重要なエージェントの場合は、魅力ある女性を使って性的な関係を結ばせて取り込むこともある。こうなるともう協力を拒否するのはほとんど不可能になる。一旦、エージェントにしてしまうと、各人にコード番号があてがわれ、情報収集をしてもらうことになる」

陳氏は日本で工作活動をしていたわけではないが、エージェントを使う方法は、日本でもよく使われていると指摘する。
「日本の場合は、ビジネスマンとして日本企業で働いていたり、大学や大学院に留学したりしている中国人が多い。彼らを情報提供者として使うので、手間がかなり省ける。
しかも、きちんとした本職や肩書きを持っているので、スパイであることが発覚しにくい。
特に、親が中国政府の人間で、その子供が留学、赴任している場合、スパイ活動に従事している可能性が高いと言っていいだろう」
このようなスパイ活動は、反政府分子の監視にとどまらず、先進国の最先端技術を盗む「産業スパイ活動」にも及んでいる。むしろ、産業大国である日米両国に対しての諜報活動では、この分野が最も重要視される。

「産業スパイの方法には、大きくわけて2つある。
一つは“サイバー・スパイ”と呼ばれるもので、アメリカのケースで言えば、軍事施設、核研究所、国防総省と契約している企業のコンピュータにハッキングし、あらゆる種類のテクノロジーを盗んでいる。
例えば、“Titan Rain(タイタン・レイン)”というコード・ネームを持つサイバー・スパイ集団はアメリカの国防を揺るがしている。これは中国が国家支援しているスパイで、特に軍事情報を盗むことにかけては世界一だ。最近彼らが盗んだ情報には、軍事ヘリコプターのスペック、軍隊が使っている戦闘計画用のソフトがある」

もう一つは、ヒューミント(HUMINT=Human Intelligence)、つまり人間が直接行なうスパイ活動。
この場合は、中国の国家安全部(諜報活動を行なう政府の情報機関)から直接派遣される。
「対日、対米のヒューミント工作で最も多いパターンは、現地にダミー会社を作り、駐在員として赴任させる方法だ。
表面的にはまったく普通の企業と変わらないから、スパイかビジネスマンかの区別はつかない。
彼らは、欲している情報がどこにあるかを特定すると、その企業とビジネス交渉を通じて技術を盗む。
表面上は正式な商取引だから、相手はスパイと交渉しているとは気付かない」
こうした情報収集活動は、発覚しないようにするために、独自に行動するという。
「彼らが個別に収集した情報を統括する人間が各国の大使館や領事館にいるが、私もその役割を担っていた。
日本は中国の諜報技術をあなどっているようだが、私が考える限り、CIAと能力に遜色はない。
盗聴器などもCIAが使用しているものとほとんど同性能だ。重要人物の車にはGPS装置を取り付け、いつどこに行ったかを常に把握している」

「日本には中国情報機関のダミー会社が多数存在する」

さらに陳氏は、工作活動が露見するのを防ぐために行なわれる、いわゆる“口封じ”が徹底していることも指摘する。
「私自身“亡命”してから、自分が追尾されていることはよくわかっている。娘が通っている学校にも監視がある。彼らが実際に暗殺を遂行するときは事故に見せかける方法を使うので、自分の自動車の車輸のネジが緩んでいないか、常にチェックしている。
これは日本ではなくアメリカのケースだが、かつて毛沢東の主治医だった人物が、アメリカで毛沢東についての本を出版した。ところが、彼が第2弾を準備しているとき、突然心臓病で死んだことがある。あれだけ健康だった人が突然心臓病になるはずがない。FBIも調査したが、殺されたという確証は出てこなかった。殺されたのだとすれば、実に手が込んでいると言わざるを得ない」

陳氏は、米下院議員のヘンリー・ハイド(共和党・イリノイ州選出)の招聘で渡米し、人権に関する下院小委員会をはじめとする各委員会の公聴会で、中国のスパイについて証言しているが、そこで「オーストラリアには、1O00人以上のスパイがいる」と述べ、さらに「アメリカにはさらに多いスパイがいる」と付け加えた。私のインタビューに対しても、「アメリカにはオーストラリアの3倍の数のスパイがいるはずだ」と答えている。

では、日本にいる中国人スパイはどうか。
「オーストラリアよりも多くいるはずだ。これは法輸功のような反政府分子を弾圧する目的というより、日本の技術を盗むためだと言っていい。
アメリカから盗んでいるのは、核やミサイルの軍事技術だが、日本の場合は(軍事転用が可能かどうかにかかわらず)最先端技術に関する情報だ。日本企業に普通に就職している中国人研究者は、入社当時はスパイではなくとも、途中でリクルートされて、エージェントになるケースが多い。
研究者をスパイとして使う理由は、彼らが中国に必要な技術が何か見極める能力を持っているからだ。
さらに日本には、(国家安全部が作った)多くのダミー会社があることは間違いない」
日本の防諜体制は皆無に等しいと陳氏は認識している。
中国が先進国に追いつくには、技術を盗むしか方法がないということかもしれないが、これに対して日本の対策はあまりにも杜撰なのである。アメリカは陳氏の告発を重要視し、ハイド議員らは彼を公聴会に招聘した。日本政府、あるいはスパイ活動に晒されている日本企業は、陳氏の発言をアメリカ以上に重く受け止めるべきであろう。

中国・亡命工作員 陳用林 インタビュー by 大野和基
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/chin02.html
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by thinkpod | 2007-03-30 04:57
2007年 03月 29日

アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号

1944年10月1日

アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
アメリカ戦時情報局心理作戦班
APO689



      日本人捕虜尋問報告 第49号

尋問場所レド捕虜収容所
尋問期間1944年8月20日〜9月10日
報告年月日1944年10月1日
報告者T/3 アレックス・ヨリチ

捕虜朝鮮人慰安婦20名
捕獲年月日1944年8月10日
収容所到着年月日1944年8月15日

はじめに

 この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
 この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
 「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。

徴  集

 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地——シンガポール——における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。
 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
 これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。

性  向

 尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。

生活および労働の状況

 ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

料金制度

 慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用どの高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

1兵午前10時〜午後5時1円50銭20分〜30分
2下士官午後5時〜午後9時3円30分〜40分
3将校午後9時〜午前0時5円30分〜40分
 以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。

利用日割り当て表

 兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員二名が、隊員の確認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。

日曜日——第18師団司令部。
月曜日——騎兵隊
火曜日——工兵隊
水曜日——休業日、定例健康診断
木曜日——衛生隊
金曜日——山砲兵隊
土曜日——輜重隊

 将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
 兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。

報酬および生活状態

 「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
 さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。

日本の軍人に対する反応

 慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。

兵士たちの反応

 慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
 すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
 しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。

軍事情勢に対する反応

 慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。

 「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
 「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」 

 ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
 慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。

退却および捕獲

 「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。

宣  伝

 慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。

要  望

 慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
 彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されていると盂家に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。

付録A

 以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。

    名  年齢   住 所
 1 「S」 21歳 慶尚南道晋州
 2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
 3 「P」 26歳 慶尚南道晋州
 4 「C」 21歳 慶尚北道大邱
 5 「C」 27歳 慶尚南道晋州
 6 「K」 25歳 慶尚北道大邱
 7 「K」 19歳 慶尚北道大邱
 8 「K」 25歳 慶尚南道釜山
 9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク
             (ママ)
 10 「K」 22歳 慶尚南道大邱
 11 「K」 26歳 慶尚南道晋州
 12 「P」 27歳 慶尚南道晋州
             (ママ)
 13 「C」 21歳 慶尚南道慶山郡〔以下略〕
 14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
 15 「Y」 31歳 平安南道平壌
 16 「O」 20歳 平安南道平壌
 17 「K」 20歳 京畿道京城
 18 「H」 21歳 京畿道京城
 19 「O」 20歳 慶尚北道大邱
 20 「K」 21歳 全羅南道光州
日本人民間人
 1  キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
 2  キタムラエイブン 41歳 京畿道京城


出典:吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店pp.439-452

http://members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html
http://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.html
http://likecoffee.iza.ne.jp/blog/entry/136269/
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by thinkpod | 2007-03-29 16:47
2007年 03月 26日

Wikipedia

「小さい頃,百科事典を全部読んだ」

ジンボ・ウェールズ氏(Wikipedia創始者)

e0034196_2153250.jpg  ネット上の百科事典として人気を高める「Wikipedia」(ウィキペディア)。その創始者であるジンボ・ウェールズ氏が来日し,3月18日,東京都内で公開インタビューに応じた。

 ウェールズ氏はWikipediaの目的や背景にある考え方などに加え,「小さい頃に百科事典を読み切った」など,自身のエピソードも披露。Wikipediaのページなどでインタビューの開催を知った数十人の参加者が,熱心に耳を傾けた。参加者の中には実際にWikipediaで記事を書いている人もいた。3時間以上に渡った公開インタビューのハイライトを紹介する。

米ミドルベリー大学の試験で,Wikipediaの誤記を引用した誤答があったことについて。

 このミドルベリー大学のニュースで興味深かったのは,私が常日頃から思っていることと同じ観点を大学側が提示したことです。つまり,学生はWikipediaを引用するのではなくて,Wikipediaの記事を調査の出発点にすべきだ,ということです。

 学術研究の目的はジャーナルや本を出版すること,ジャーナリズムの目的はニュースを報道することです。学術研究は新しい知識を形成し,新聞や雑誌などのジャーナリズムは新しい情報を生み出します。

Wikipediaはあくまでもスタート地点

 一方,Wikipediaは異なります。Wikipediaは既に存在する情報を分かりやすく要約し,提示することが目的です。Wikipediaの改良が続けられ,完全な百科事典になったとしても,学生にとってWikipediaはあくまでもスタート地点であって,そこから調査を発展させてゆくべきです。

 Wikipediaはあくまでも「知識の要約」であるべきなのです。

運営と独立性について。

 運営コストの削減は常に重要なことです。と同時に,独立を維持することも重要です。過去に,ある大手の検索エンジン会社から,Wikipediaのすべてを無料でホスティングします,という申し入れを受けたことがあります。しかし,一つの大きな会社からだけ支援を受けることは,良くないことだと思いました。

 私たちは「Googlepedia」や「Yahoopedia」,「2ちゃんねるpedia」(会場から笑いの声)にはなりたくないのです。あくまでもWikipediaとして存在したいのです。

 ただ,韓国のYahoo!からサーバーの寄付を受けたことはあります。こういったことは大切です。しかし,もしYahoo!の方からYahoo!に関する記事を変えて欲しいといった申し入れがあったら,それは「グッバイ」ですね。

Wikipediaの前に従事していたプロジェクト「Nupedia」が失敗した理由について。

 知らない方がいると思うのでNupediaの歴史を説明します。Nupediaは非常にコントロールされたトップダウンのアカデミックなシステムでした。一つの記事を公開するまで7回の査読がありました。

 なぜ失敗したかというと,参加するのが難しかった,そして面白くなかったのが理由だと思います。

Wikipediaの開始直後は眠れなかった

 Wikiを発見して,Wikipediaを始めたとき,2週間くらいはほとんど眠れませんでした。(WikipediaがNupediaと異なり自由に記事を記述できるシステムなので)私が寝ている間に誰かがWikipediaを破壊してしまうのではないかと思ったからです。

Wikipediaのゴールについて。

 ゴールはこの地球上に住んでいる人のためにすべての言語で百科事典を作ることです。現在,英語,ドイツ語,フランス語,オランダ語,ポーランド語,日本語の6言語に関しては25万件以上の記事があり非常に充実しています。一方,中国語の記事はまだ10万件に過ぎません。

 また,ベンガル語やウルドゥ語,スワヒリ語のように世界中で多くの人に話されているのに,Wikipediaの記事が非常に少ないものがあります。Wikipediaの将来に関しては,これらの言語について考えています。そういった言語を話す方に参加していただいて,記事を書いて欲しいと思っています。

日本語版Wikipediaでは小中学生が活躍しています。エールを送って下さい。

 (日本語で)がんばって!

来日の目的について。

 2週間前に日本に来て,今後も2週間いますから,全部で4週間滞在します。来日の第一の理由は「Wikia」(ウェールズ氏が立ち上げたWikiの無料ホスティング・サービスを提供する会社)のプロモーションです。

 また,私の奥さんは日本人とのハーフで日本生まれです。娘は6歳なのですが,日本の親戚を訪ねたり,日本の文化を学ばせたいと思います。今,私が日本語を話すと,娘が間違いを指摘してくれます。

日本のWikipediaにはサブカルチャーの記事が多いことについて。

 英語版のWikipediaでもサブカルチャーの記事はたくさんあります。日本のサブカルチャーは米国のギーク(オタク)の間で人気があります。ですから,それが問題だとは思いません。ただ,ビデオゲームのキャラクターの説明が国家元首の説明よりも長いのはちょっと奇妙だとは思いますが。

 Wikipediaというのは参加している人々の関心を反映します。今後規模がもっと大きくなることで,記事のバランスが取れてゆくでしょう。

初期の段階でWikipediaが大きくなった原動力について。

 一つは中立のポリシーを掲げたことによって,多くの人が参加できたことです。プロジェクトは当初から多くのボランティアが必要であると分かっていました。ですので,どんな人でも受け入れるというポリシーを明確にしていました。

自分自身や子供時代,人生の信念について。

 (日本語で)ジンボ・ウェールズです。アメリカ人です。私の日本語上手ではありません。オタクです。

 (英語に戻って)8年前に日本語を1年間勉強しました。子供のころは風変わりで,好奇心旺盛で本をたくさん読みました。私はちょっと普通とは異なった教育を受けました。幼稚園から8年生までクラスにたった4人しかいないという,とても小さな学校に通いました。その頃,読みたいものを読む自由な時間がたくさんあったので,百科事典を読み切りました。

 人生の信念はたくさん持っていますが,「reason」(良識)と「friendliness」(親切)に集約されると思っています。

記事執筆者,特に管理者レベルの人のプロファイルについて。

 私は世界中を旅して多くのWikipediaの会合に出席しているのですが,典型的な「Wikipedian」(記事執筆・編集者)は世界中で共通しています。多くは20代後半か30代で,大学を出ていて,専門的な職業に就いています。また,学生や退職した人,大学の教授なども参加しています。

 典型的なWikipedianとは言えませんが,10代の若い人も一部にいます。彼らはとても優秀なWikipedianです。百科事典の記事を書くという趣味は,他の10代の興味と比べて成熟したものだと言えるのではないでしょうか。

他人との協力,最重要のスキル

 Wikipedianは非常にフレンドリーなコミュニティです。もっともそれは当然で,そういう仕組みでWikipediaを作っているからです。良いWikipedianは多くの記事を書き,そして他の人たちがそれを修正してゆきます。そういう作業は人と協力することや,やさしくあるということにつながるものです。

 ブログでは敵意があって激しい人でも有名ブロガーになれます。有名ブロガーになるには,文章が上手く,強い主張があり,面白いことが書けなければいけません。有名ブロガーになるスキルとして,他人と協力することは二次的なものです。一方,Wikipediaでは他人と協力することが最重要です。

日本人Wikipedianについて。

 (Wikipediaを運営する)ウィキメディア財団の国際コミュニティーに,もっと多くの日本人の方が参加して欲しいと考えています。日本語版のWikipediaは非常に大きく重要なものですが,時として孤立しています。その原因の一つは日本語という言語の問題でしょう。しかし,Wikipedianというのは非常に親切で優しい人たちなので,英語力に自信がなくても問題ありません。

【修正履歴】当初,記事前半部分の「Wikipediaはあくまでも『知識の要約』であるべきなのです。」の後に「私は外部へのリンクなどがしっかりと書かれていない記事を好みません。」との一文がありましたが,翻訳ミスであることが判明したため削除しました。お詫びして訂正いたします。(2007年3月22日)

(構成・要約は武部 健一=ITpro)
 [2007/03/22]

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Interview/20070320/265824/




【インタビュー】有志で取り組む「史上最大の百科事典」――Wikipedia日本語版の舞台裏

Wikipedia日本語版 管理者・ビューロクラット 今泉 誠氏

e0034196_21533264.jpg  最近は分からないことがあれば、取りあえずGoogleで検索してみる。そんなとき、大抵検索結果のトップに上がってくるのが「Wikipedia(ウィキペディア)」の項目だ。その内容は幅広く、かつ詳しい。項目内でリンクが張られた用語を追っているうち、調べ物を忘れてつい読みふけってしまうこともしばしばだ。
 Wikipediaは有志による運営というが、一体誰がどのように運営しているのだろう。サーバーはどこにあるのか。費用はどうやって調達するのか。そんな疑問に、Wikipedia日本語版の管理者・ビューロクラットの今泉 誠氏に答えていただいた。

■まずは、Wikipediaの成り立ちを教えてください。
 もともとは米国のジミー・ウェールズ氏が2001年1月に個人で立ち上げた「Wikipedia.com」というサイトが始まりです。最初は英語版だけでしたが、さまざまな言語版ができ、徐々に拡大していきました。現在は、非営利団体ウィキメディア財団がWikipediaを運営し、その下でそれぞれの言語版が活動している形です。
 日本語版ができたのは2001年5月です。とはいえ、当時はWikiで日本語が使えなかったので、すべてローマ字表記で項目も23個くらいしかありませんでした。日本人のユーザーもほとんどいなかったですしね。2002年夏にWikiのソフトが改良されて日本語に対応してから、日本人のユーザーが徐々に集まってページも充実していったのです。昨年、日本語版は30万ページを超えました。

■日本語も含め、今は何言語くらいあるのでしょう?
 今は261言語です。ページでいえば、英語が一番多くて約168万ページ、ドイツ語が約55万ページ、フランス語が約46万ページ、ポーランド語が約36万ページ、日本版が約34万ページといったところです。

■それぞれの言語版は用語解説や運用で連携しているのですか。
 全くしていません。完全な独立です。言語によって掲載する用語も解釈も違いますから、連携するのは現実問題として難しいのです。ウィキメディア財団からはいくつかのポリシーが示されていて、それに基づいてそれぞれが自主的に運営しています。

■Wikipediaの運営体制はどうなっているのでしょう。
 日本語版だけで言えば、現在は登録ユーザーが約11万8000人います。その中に、「管理者」と呼ばれるユーザーが56人、「ビューロクラット」と呼ばれるユーザーが5人います。それぞれは役割が異なります。

 一般の登録ユーザーは、項目の投稿、書き込みしかできません。Wikipediaは未登録のユーザーでも項目の投稿、書き込みができますから、その意味では、未登録のユーザーと権限はあまり変わりません。ただ、登録ユーザーはユーザー名を示して書き込みをしたり、Wikipedia内での議論に参加することで、未登録ユーザーよりも信頼度が上がります。

 一方、管理者は項目を削除したり、ある項目について編集合戦や“荒らし”が起こったときに書き込み禁止にしたりできます。一般の登録ユーザーはある程度実績を積んだ後、管理者になりたければ立候補できます。立候補者が出ると、登録ユーザーで信任選挙をします。投票したユーザーの75%以上の信任が得られれば、管理者になれるわけです。

 このとき役割を果たすのがビューロクラットです。登録ユーザーと管理者では項目の削除や書き込み禁止ができるなど、権限が違います。だから、システム上、この権限を変更しないといけません。それができるのがビューロクラットなのです。ただ、これらの区分は上下関係というよりは、運営上の役割の違いです。項目を編集する際は、登録ユーザーも管理者もビューロクラットも関係ありません。

■管理者は担当範囲などを決めて定期的に荒らしなどをチェックしているのですか。
 担当範囲は特に決めていません。管理者は編集合戦や荒らしがあると「保護」という状態にして書き込みを禁止するわけですが、定期的に見て回っているというよりは、なんとなく見ていて気が付いたら保護にする、という程度です。あるいは、管理者以外のユーザーから保護申請があったときに、それを検討して保護にします。Wikipediaのポリシーとして「好きな人が好きなときに好きなことを好きな範囲でやる」というのがあるので、このような体制になっています。

■著作権などを管理するのは大変なのでは?
 画像などが掲載されているものもありますが、基本的には本人が撮影したものや友人・知人から委託を受けたと証明できるものに限定しています。文章は何かのコピーだと判明すれば即削除。書き込みについては、情報ソースがはっきりしていなければ書かないということにしています。
 Wikipediaは非営利団体ですから、もし裁判になると裁判費用すら出せません。ですから、疑わしいものは避けるというスタンスです。

■Wikipediaの運営資金について教えていただけますか。
 全額寄付です。ウィキメディア財団は年に1度程度、寄付金を集めるキャンペーンをします。現在は日本円にして1億円程度集まっています。多くは個人からの、10ドル、20ドル単位の小口の寄付ですね。これが財団の運営費とシステム維持費になります。財団の維持費といっても、財団の理事が年に1度ミーティングをする際の旅費と財団の常駐スタッフ5人の給与程度なので、90%以上がシステム維持に回されています。

■Wikipediaのあれだけのデータを蓄えるのですから、システムは大規模でしょう。
 米国フロリダ州にデータベースサーバーとWebサーバーが、ヨーロッパの2カ所とアジアの1カ所にキャッシュサーバーが設置してあります。フロリダのデータベースサーバーは三重くらいに冗長化してあったと思います。現在のサーバー台数は全部で350台で、そのうち295台が稼働中です。サーバー数はどんどん増えています。

■これだけのプロジェクトが有志と寄付で動いているのはすごいと思います。何がその意欲につながるのでしょうか。
 やはり「質、量ともに史上最大の百科事典を作る」というWikipediaのコンセプト自体でしょう。日本は昔、一家に1セットは百科事典がありました。それが今はなくなっています。また、世界にはもともと百科事典というものがない国や文化もあるのです。でも、百科事典というのは、その時代の人間の知識の集大成です。それを次世代に残すのはとても重要で、やりがいのある試みだと思います。
 当面の目標は、今ある平凡社やブリタニカの百科事典を越えることです。Wikipedia日本語版もずいぶん項目が増えましたが、項目にまだまだ偏りがあります。内容も必ずしも充実しているとはいえません。この目標を達成するだけでも、あと数十年はかかるでしょう。


■変更履歴「登録ユーザーの75%以上の信任」としていたのを「投票したユーザーの75%以上の信任」と訂正しました。
[2007/3/14]

(平野 亜矢=日経パソコン)
 [2007/03/13]

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Interview/20070313/264635/
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by thinkpod | 2007-03-26 21:56
2007年 03月 22日

【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】

【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】塩爺の喝、腹固まる

 □最後まで守るよ。私が選んだ閣僚なんだからね

 安倍政権が発足して26日で6カ月となるが、発足当初の熱狂的な支持は消え、政府・与党内のきしみが目立つ。難しいかじ取りを迫られる安倍晋三首相の孤独と苦悩の日々を顧みた。(文中敬称略)


 首相就任からほぼ半年たった3月7日、安倍晋三は、前首相の小泉純一郎と帝国ホテル内のフランス料理店で夕食を囲んでいた。安倍が小泉と2人でゆっくり会食するのは、首相就任後は初めて。長い間、2人が会わなかったのにはある理由があったが、この日は平成19年度予算案が衆院通過したという安堵(あんど)感もあって、安倍は肩の力を抜いて小泉と向き合うことができた。

 小泉は上機嫌で、安倍に語りかけた。

 「いやー、よくここまで踏ん張ったな。柳沢(伯夫厚労相)さんの発言で、野党が補正予算案の採決で審議拒否を仕掛けてくれて本当によかった。本予算案の採決であれをやられたら、おれだって持たなかったかもしれないぞ!」

 安倍は「そうですね」と相づちを打った。

 柳沢の「産む機械」発言に猛反発した野党側は、2月2日の18年度補正予算案の衆院採決を欠席する戦術に出た。ところが、直後に柳沢問題の集中審議を開くことを条件に19年度の本予算案審議には復帰。これにより、野党は同じ問題を蒸し返して本予算案を審議拒否する大義名分を失った。野党が補正予算案ではなく、より重要な本予算案審議の段階で徹底抗戦を始めれば、安倍政権は立ち往生しただろう。安倍が国会審議を乗り切った裏には、こうした野党の戦術ミスがあることを鋭い政局観を持つ小泉は理解していた。しかも、敵失とはいえ、安倍が難局を切り抜けたことを小泉は素直に喜んだ。そのことが、この数カ月間苦悩の連続だった安倍には、何よりの励ましとなった。

滑り出しは

 昨年秋に発足した安倍は、直後に電撃的な日中首脳会談を成功させ、滑り出しは順風満帆だったが、郵政造反組の復党問題でもたつき、11月下旬ごろから政府、与党の歯車がきしみ出した。

 スキャンダルも次々に浮上した。昨年末には政府税調会長の本間正明が公務員官舎問題で辞任し、息つく間もなく行革担当相の佐田玄一郎が政治資金の不適正処理問題で辞任した。内閣支持率は70%台から40%台に急落。首相官邸での仕事納め式を終えた安倍は周囲に語った。

 「いろいろあったが、逆に腹をくくることができた。来年はもっと自分らしさを押し出す。周囲におもねっていては何もできない。前を向いて倒れるならば本望だよ」

 この時点で、安倍には、まだ、そう話すだけの余裕があった。

いったんは

 この言葉通り、1月4日の年頭会見で安倍は「今年を美しい国づくり元年として、たじろがずに一直線に進んでいく覚悟だ」と宣言、その表情から迷いが消えた。22日夜には、かねてから親交の深いジャーナリストの櫻井よしこや政治評論家の屋山太郎、元駐タイ大使の岡崎久彦ら保守派論客を首相公邸に招いた。

 政権発足後、安倍周辺では「保守再興路線を前面に出すと小泉改革を支持してきた中道保守層の支持を失う」との声が強く、幹事長の中川秀直も「左ウイングに懐の深い自民党を目指す」と、中道保守層への傾斜を明言していた。こうした動きに配慮し、安倍も保守的な言動を控え気味だった。

 それだけに、この櫻井らとの会食は、「今後は自らのカラーを遠慮なく打ち出す」という決意の表れだった。

 メンバーには、元台湾総統府国策顧問の金美齢も含まれていた。金は「(日中関係があるので)もうお会いできないかと思っていました」と目を潤ませ、「台湾の陳水扁総統が失敗したのは支持を広げようと中道に寄り、元々の支持者が離れていったからです。同じ愚は決してやってはいけません」と訴えた。

 「やはり自分の判断は誤っていなかった」。安倍は意を強くした。

 安倍は施政方針演説で、持論の「戦後レジームからの脱却」をうたい、憲法改正と教育再生を柱に据えた。マスコミ幹部との会合で、施政方針演説について、「理念ばかりで具体性が薄い」と批判されると、「政治家が理念を語らなくてどうする」と気色ばんだ。

再び逆風

 ところが、安倍の意気込みに反して、農水相の松岡利勝、文科相の伊吹文明の事務所費問題、防衛相の久間章生の不適切発言などで再び逆風が吹く。

 さすがの安倍も気落ちしたようだ。補正予算案の衆院採決直前の2月2日夕、会合出席のため、首相官邸を訪ねた元財務相の塩川正十郎が、首相執務室に顔を出すと、安倍は疲れた顔つきでソファに座っていた。

 「柳沢さんを辞めさせちゃいかん。食い止めろ。一人一人抜けたら政権はガタガタになる」

 もともと、「言葉狩り」による閣僚更迭を嫌っていた安倍は塩川の一言で腹を固めた。この夜、与党は単独で補正予算案を衆院通過させた。多くの政界関係者が不可避だとみていた柳沢更迭は見送られた。

 「私は閣僚が辞表を出さない限りは最後まで守り続けるよ。私が選んだ閣僚なんだからね…」

思いやり困惑

 しかし、相次ぐ閣僚のスキャンダルと問題発言には、参院を中心に自民党からも「このままでは統一地方選、参院選を戦えない」と悲鳴が上がった。元首相の森喜朗も「閣僚が首相を尊敬していない」と閣僚らを痛烈に批判、政府・与党の足元が揺らぎだした。

 安倍は夜の会食を入れずに公邸に引きこもる日が増えた。酒は飲まないが、親しい議員らとワイワイ騒ぐのが好きだった安倍には、初めての孤独だった。「孤独を苦にしない小泉さんってやっぱりすごいな…」。安倍は周囲にこうつぶやいた。

 そんな中、自民党幹事長の中川秀直は、党内の引き締めを狙って小泉を担ぎ出し、小泉が「鈍感力」の必要性を説くという場面もあった。

 しかし、安倍にとって、森や中川の「思いやり」は有り難い半面、迷惑でもあった。森たちが援護射撃すればするほど「安倍は半人前だ」とみられるからだ。このため、安倍は中川から小泉との会食を持ちかけられても、「予算が衆院通過するまではやめておきます」と断ってきた。

 安倍が小泉と会わなかった理由はもう一つある。安倍が今年から鮮明にした保守再興路線は、ともすれば小泉の構造改革路線に逆行し、古い自民党への回帰を目指しているようにも受け取れる。昨年11月27日、安倍が郵政造反組11人の復党を決め、小泉に電話した際、「君がそう決断したのならば、それでいい」と言った小泉の口調は明らかに不快そうだった。自らを幹事長や官房長官にとり立ててくれた小泉への一種の後ろめたさもあった。

 だが、久しぶりに会った小泉はときにジョークを交えながら、大いに語り、安倍を励ました。

 「いいか。参院選なんて負けてもいいんだ。参院選で負ければ、民主党の反小沢派はガタつく。親小沢だって大きく動くだろう。どうなるかな…。そもそも考えてみろよ。小渕(恵三元首相)政権で、参院が首班指名(首相指名)したのは菅直人(民主党代表代行)だぞ。政権選択の選挙は衆院選だ。首相はそれだけを考えていればいいんだよ」(石橋文登)

(2007/03/20 08:17)
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070320/shs070320001.htm




【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】密談「軸足を右に」


 薄く霧が立ちこめる2月のある夜、外相、麻生太郎を乗せた車は、都内某所の車寄せに静かに滑り込んだ。薄明かりが灯るロビーで、麻生を出迎えたのは首相、安倍晋三。「こんな夜分に申し訳ない」とあいさつした安倍に、麻生は「お呼びならいつでも駆けつけますよ」と笑顔で応じた。

今の自民党は、どっちを向いているのか分かりにくい

 ソファに腰をおろした2人の話題は外交から内政、そして政局へと移っていった。14歳も年下であるだけにやや遠慮がちの安倍に対し、麻生はこう切り出した。

 「ちまたでは春の内閣改造なんて騒がれていますが、どうですかね。ずいぶんとエネルギーを使う割に得るものはどれほどあるのか…。しかも切られた閣僚に一生恨まれることになりますよ」

 安倍「そう、エネルギーの割にね…。難しいですよ」

 さらに、会話は自民党への政治路線へと流れ、麻生が「小選挙区が定着したことを考えると自民党は最大でも右から6割の支持者の声を反映する真の保守政党になるべきじゃないですかね。結党したころは少なくともそうだったはずだ」と熱を込めると、安倍は身を乗り出した。

 「その通り。今は右から左まであまりに幅広くて、どっちを向いているのか国民には分かりにくい」

 「自民党は右、左の2割を差し引いた保守中道を目指す」という、一時自民党内で有力だった保守中道路線から、いかに軸足を右へずらしていくかという問題意識は安倍と麻生に共通だった−。このことを確認できただけで、安倍にとってこの夜の極秘会談は成功だった。話は弾み、2人が別れたのは、日付が変わる直前だった。

 安倍が麻生との会談を設定したのには理由がある。

 厚生労働相、柳沢伯夫の1月末の「女性は産む機械」発言などで国会は混乱。自民党内からも安倍内閣に手厳しい声が続いていた。

 そんな中で飛び出したのが、自民党幹事長の中川秀直が2月18日の仙台市で講演した際の「閣僚や官僚は首相に対し絶対的忠誠心、自己犠牲の精神が求められる。忠誠心のない閣僚は去るべきだ」との発言だった。中川からみれば、安倍への援護射撃のつもりだったようだ。だが、安倍は激高した。

 「内閣の結束が一番大事な時期に逆効果じゃないか」

 安倍は記者団にも「幹事長の心配には及ばない」と、不快感を隠そうともせず、中川が22日に「ちょっと言い過ぎました」とわびたものの、わだかまりは残った。

 実は中川発言には伏線があった。中川は2月7日夜、赤坂の料亭で前首相の小泉純一郎、前総務相の竹中平蔵と会談した。この際、小泉が「首相の権限は絶対だ。忠誠心のない奴は去ればいい」と言い放ったのだ。強力なリーダーシップで5年半も政権を維持した小泉らしいせりふだった。

 このころ、自民党内では「麻生は安倍を支えるふりをしてハシゴを外す気ではないか」とささやかれていた。昨年末に麻生派(為公会)を立ち上げ、増員工作を続けていることも他派閥を疑心暗鬼に陥らせた。

 そんな雰囲気を察知したのかどうか、中川は2月21日深夜、麻生を会合に誘った。麻生は、中川が遠回しに麻生の意向を探りにきたのだと感じ、不快感を込めて言った。

 「ニューYKKって知っているか。山崎拓(元副総裁)、加藤紘一(元幹事長)、それに小泉の代わりに古賀誠(元幹事長)だ。おれがこいつらと手を組むと思うのか」

 新YKKの動きは、反安倍色を帯びている。その加藤と麻生は以前から路線が合わないばかりか、性格的にも合わないことは、政界では周知の事実だ。それだけに、中川の動きは、麻生には心外だった。

 麻生が機嫌を損ねているという話はしばらくして安倍にも伝わった。政治路線がほぼ一致する麻生の存在は安倍の政権運営にとって欠くことができない。その麻生が抱いた不信感を早急に取り除かなければならない−という安倍の思いが、冒頭の安倍−麻生極秘会談のきっかけだった。

 2月7日の小泉−中川会談があった料亭で、もう一人の大物政治家の姿が目撃された。かつての小泉の盟友である山崎だった。

 山崎が小泉−中川会談に同席したかどうかは定かではない。ただ、このころから、山崎は小泉の3度目の訪朝について口にしなくなる。さらに、なぜか党内で、参院選後の「小泉再登板説」も下火になっていった。それと、歩調を合わせるように、山崎は昨年末からひそかに進めてきた新YKKの動きを公然化させる。このため、自民党内には、安倍を降ろして小泉再登板をねらっていた山崎らの勢力が、その気のない小泉を見限り、みずから反安倍の動きを開始したとの見方も広がった。

 実際に2月19日には新YKKが会談、3月12日には国対委員長の二階俊博を加えて4人の会合が開かれた。この席で二階をのぞく3人は「参院選に負ければ安倍政権は行き詰まる」との認識で一致した。

 その2日後、山崎、加藤はCS放送の「朝日ニュースター」に出演。山崎は「小泉さんの靖国参拝で中韓との関係が非常に深刻になった。加藤さんや古賀さん、高村(正彦元外相)さん、福田(康夫元官房長官)さんらと力を合わせて日米中新時代を作っていくべきだ」と述べ、反小泉、反安倍色を鮮明化させた。

 加藤が安倍包囲網の核に位置づけるのが、自らが昨年夏に立ち上げた議員連盟「アジア外交・安保ビジョン研究会」だ。安倍外交に批判的な講師を招いてほぼ毎月勉強会を開いており、衆参議員20〜30人が固定メンバー化しつつある。

 安倍はこの動きに無関心を装うが、心中は穏やかでないようで、会合の度に出席メンバーを逐一報告させている。安倍はかつて歴史教育議連や、平和靖国議連、再チャレンジ議連など数々の議連を作り、「仲間」を増やしていっただけに、「逆手に取られた」との思いもあるようだ。

 政権6カ月で芽生えたこのような動きを見て、かつて加藤に宏池会(旧宮沢派)を追われた麻生はこう語った。

 「左と右が真ん中を取り合う綱引きを続けているのが自民党の現状だ。保守政党はどうあるべきか、どっちも譲らないから、いずれ火を噴くのは間違いない。ひょっとして案外近いんじゃないかね…」

 =敬称略

 (石橋文登)
(2007/03/21 08:44)
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070321/shs070321002.htm




【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】米決議案との狭間で

河野談話 強制性は党が再調査、政府は必要に応じて協力

 3月8日夕刻。首相、安倍晋三の思想信条に共感し、かねて支え続けてきた自民党若手・中堅議員らに激震が走った。

 安倍が慰安婦募集における官憲の関与を認めた平成5年の官房長官、河野洋平の談話(河野談話)について、記者団に「われわれは談話を基本的に継承していく立場だ。強制性については党が再調査するので政府は資料の提供など必要に応じて協力していく」と明言したからだ。

 この2時間前、自民党有志の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(歴史教育議連)の会長、中山成彬らが首相官邸に安倍を訪ね、談話の根拠となる資料の政府による再調査を求めた。政府が再調査に踏み切れば、軍・官憲による強制連行を示す資料が存在しないことが改めて確認されることは確実とされており、談話見直しは必然とみられていた。

 その際、安倍は中山らをねぎらい、再調査に前向きな意向を示した。ところが、政府ではなく「党で再調査」という中途半端な方針変更に議連メンバーは困惑した。政府は談話見直し論議の最前線から一歩身を引くという意味でもある。「ハシゴをはずされた」「誰が首相をそそのかしたのか」と憤りの声も上がった。

対立回避へ

 歴史教育議連は、慰安婦に関する記述がすべての中学歴史教科書に掲載されるようになったことを受けて、安倍や政調会長の中川昭一らが9年、「自虐史観」の見直しを掲げて発足させた。談話見直しは安倍のレゾン・デートル(存在理由)と言っても過言ではないほどのテーマなのだ。

 にもかかわらず、安倍は昨年10月3日の衆院本会議で河野談話踏襲を明言。同月5日の衆院予算委の答弁で、軍の直接関与を示す「狭義の強制性」を否定したとはいえ、大きな政治的妥協だった。当時の政治状況で談話見直しに踏み込めば、元自民党幹事長の加藤紘一ら反安倍派や野党の格好の餌食になったことは間違いないが、安倍には忸怩(じくじ)たる思いが残った。

 それなのに、なぜ安倍は政府による再調査を思いとどまったのか。

 そのもっとも大きな理由は、米下院の対日非難決議案の動向だった。

 慰安婦問題を「20世紀最大の人身売買」と断罪するこの決議案はもともと米国でも大して注目されていなかった。

 ところが、決議案に対する日本国内での反発に乗じる形で米メディアに火が付いた。ニューヨーク・タイムズは3月6日付の社説で「安倍晋三は『日本軍の性的奴隷』のどの部分に理解や謝罪ができないというのか」と激しく批判、他の有力紙も相次いで安倍の非難記事を大きく掲載した。

 3月8日の時点では、安倍にも複数の外交ルートから「決議案可決は不可避」との見方が伝えられていた。ここで政府による再調査を表明すれば火に油をそそぎかねないというのが安倍のやむをえない最終判断だった。

 4月中旬の中国の首相、温家宝の来日、下旬には自らの訪米を控えていたことも足かせとなった。だが、それ以上に安倍が恐れたのは、日本の保守勢力に潜在する反米感情に火が付くことだった。

 決議案が可決されれば、日本の保守論陣から連合国軍総司令部(GHQ)占領下での米軍による婦女暴行事件を糾弾する声が上がることは必至だ。東京大空襲や広島・長崎への原爆投下の人道上の罪を問う声も上がるだろう。そうなれば、米共和党も黙っていまい。日米保守勢力の対立をほくそ笑むのは、誰であり、どこの国なのか−。

 安倍は9日昼、首相官邸に自民党衆院2回生議員を招き、昼食会を開いた。提言をまとめた中山泰秀はこぼした。「みんな残念がっていますよ」。安倍は厳しい表情で「中川昭一さんとよく相談してほしい。私からも言っておく」とだけ語った。

反論できず

 対日非難決議案は過去5回提出されているが、いずれも廃案になっている。しかし、「今回は少し動きが違う」と、いち早く察知したのは首相補佐官(教育担当)の山谷えり子だった。

 山谷は昨年9月の補佐官就任直後、官房長官の塩崎恭久に「このまま放置したら大変なことになる」と進言したが、塩崎の動きは鈍かった。安倍が事態の深刻さに気付き、外務事務次官の谷内正太郎らに「事実関係に基づかない対日批判に対しては、一つ一つ徹底的に反論するように」と指示したのは昨年12月だった。

 だが2月15日には米下院の小委員会が元慰安婦女性の公聴会に踏み切った。業を煮やした安倍は首相補佐官(広報担当)の世耕弘成を同月19日、米国に派遣した。

 「決議案の裏には中国ロビイストがいる。狙いは日米の離反だ」

 世耕は応対に出た米国務省の課長級職員に懸命に訴えた。世耕の勢いに押されて職員が呼びに行ったのは国務次官補のヒルだった。

 「そういう背景があるとは知らなかった」

 ヒルはそう話して頭を抱えるポーズをとった。しかし、人権に関するテーマだけに米国内保守派も日本を援護しにくい。時すでに遅しだった。

 駐米大使の加藤良三は米議会に「日本政府は慰安婦問題に関し、責任を明確に認め、政府最高レベルで正式なおわびを表明した」と声明を出したが、大使館員が米政府や米国議会に詳しい事情説明や反論を試みた形跡はない。理由は河野談話だった。「政府が談話を継承する限り、反論しようがない」(政府高官)。談話は決議案の根拠となっているだけでなく、日本政府が反論できない理由にもなっていた。

自戒の念?

 談話の主、河野洋平が衆院議長を務めていることも政府が見直しに踏み切れない要因となっている。3月3日の19年度予算案の衆院採決直前には「これ以上見直しの動きが加速すると、河野は衆院本会議開会のベルを鳴らさないのではないか」との情報が駆けめぐった。河野は15日には国会内で記者団に「談話は信念をもって発表した。あの通り受け止めてほしい」と述べ、談話見直しの動きに不快感をあらわにした。政府・自民党内にも「なぜわざわざ波風を立てるのか」と見直しに否定的な声は強い。

 厳しい状況が続く中、安倍は18日、神奈川県横須賀市の防衛大学校卒業式に臨んだ。訓示で、元英国首相のチャーチルの回顧録の一節「慎重と自制を説く忠言がいかに致命的危険の主因となりえるか。安全と平穏の生活を求めて採用された中道はいかに災害の中心へ結びつくかをわれわれは知るだろう」を引用した。

 その上で、安倍は「『危機』に臨んでは右と左を足して2で割るような結論は、状況に真に適合したものにはならない。情勢を的確に分析し、自らの信じるところに従って的確な決断をすることが必要だ」と話した。自戒の念を込めたとみるべきだろう。=敬称略(石橋文登)

(2007/03/22 10:09)
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070322/shs070322003.htm
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by thinkpod | 2007-03-22 17:44
2007年 03月 18日

慰安婦問題 対日非難は蒸し返し

 【ワシントン=古森義久】米国議会の一部やニューヨーク・タイムズが「慰安婦」非難で日本軍の強制徴用の最大例として強調するオランダ人女性のケースは実際には日本軍上層部の方針に逆らった末端の将兵が勝手に連行し、その違法行為が発覚してすぐ日本軍自身により停止されていた事実が明らかとなった。しかもこの違法の性的徴用の責任者たちは戦後の軍事裁判で死刑を含む厳刑に処されており、今回の日本非難はすでに責任のとられた案件の蒸し返しとなっている。

オランダ女性の事例 末端将兵の行為 すでに厳刑

 8日付のニューヨーク・タイムズは日本の慰安婦問題を安倍晋三首相がそのすべてを否定したかのような表現でまた報じたが、そのなかでオランダ人の元慰安婦だったというジャン・ラフ・オハーンさん(84)の「インドネシアの抑留所にいた1944年、日本軍の将校に連行され、慰安所で性行為を強要された」という証言をとくに強調した。同紙はオハーンさんの2月15日の米下院外交委員会公聴会での証言を引用しており、「日本政府からの公式の謝罪が最重要」と述べたとして、日本軍が組織的に総数20万人もの女性を強制徴用したという糾弾の最大の根拠としている。

 ところが慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた「スマラン慰安所事件」の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた。オハーンさんは同公聴会で日本側が責任をとることを求めたが、責任者は60年近く前にすでに罰せられたわけだ。

 日本政府には批判的な立場から慰安婦問題を研究した吉見義明氏も著書「従軍慰安婦」のなかでオランダ政府の報告書などを根拠にスマラン慰安所事件の詳細を記述している。同記述では、オハーンさんらオランダ女性を連行したのはジャワの日本軍の南方軍幹部候補生隊の一部将校で、(1)軍司令部は慰安所では自由意思の者だけ雇うようはっきり指示していたが、同将校たちはその指示を無視した(2)連行された女性の父のオランダ人が日本軍上層部に強制的な連行と売春の事実を報告したところ、すぐにその訴えが認められ、現地の第16軍司令部はスマラン慰安所を即時、閉鎖させた(3)同慰安所が存在したのは2カ月だった(4)主犯格とされた将校は戦後、日本に帰っていたが、オランダ側の追及を知り、軍法会議の終了前に自殺した−などという点が明記されている。
(2007/03/10 06:09)
http://www.sankei.co.jp/kokusai/usa/070310/usa070310004.htm




「慰安婦」問題 強制性否定は悪質米法学者が安倍発言批判

 【ワシントン=鎌塚由美】米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(十三日付)は、「従軍慰安婦」問題での安倍首相の発言を批判する米法学者の投稿を掲載しました。両教授は、六年前の米国内での慰安婦裁判の判決を引用し、安倍首相の主張は成り立たないと指摘しています。

 投稿は、ハーバード大学法学部のジェニー・スック教授と、ニューヨーク大学法学部の教授で米外交問題評議会の研究員でもあるノア・フェルドマン教授の連名によるもの。
 「従軍慰安婦」問題で「強制性を裏付ける証拠はなかった」という安倍首相の発言は、「アジアの古傷を再び開いた」もので、日本軍の関与と強制を認めた河野官房長官(当時)談話から「実質的には、後退」したものであると述べました。
 両教授は、安倍首相はいまだに「実際の拉致は日本軍ではなく民間業者が行ったとの立場を維持している」とし、「言語道断」だと述べています。
 その理由として、六年前に米連邦地裁で争われた「慰安婦」問題の裁判で、被害者の女性から訴えられた日本政府が「商行為として行ったことを否定した」事実を挙げました。同地裁は女性たちが政府の計画にそって拉致されたとし、日本政府の行為は「商行為」というより「戦争犯罪に近い」と結論を下したと両教授は指摘。政府が「商業的事業」をした場合に訴えられるケース以外には訴追できないとする外国主権免責法の規定によって日本政府の責任が問われなかったことを紹介しました。
 その上で、「日本兵による拉致は商行為ではないとの法廷の結論から利益を得ながら、日本政府が今、日本兵は誰も拉致していないと述べるのは、特に悪質だ」と強調しています。
 両氏は、「政治と訴訟は同じものでない」とし、「政治と法廷論争が違うからこそ、日本政府は道義的にも責任を果たすべきだ」と指摘。「ナチの強制労働の被害者と違い、『慰安婦』は補償を受けていない」とのべています。
 両教授はまた、日本の改憲問題に言及し、「日本がなりたいと思う国になろうと決意するのであれば、日本は何よりも自らの過去と向き合わなくてはならない」と指摘。
 日本が過去六十年以上にわたり憲法で平和主義を義務付け、軍事活動を「自衛」のみに制限してきたとし、日本政府が「安全保障においてより積極的な役割を果たす」として憲法改定を検討するという「重大な決定をする」なら、「なぜそういう(平和主義という)条項があったのか、開かれた議論をしなくてはならない」と述べました。
2007年3月15日(木)「しんぶん赤旗」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-15/2007031507_01_0.html




【緯度経度】ワシントン・古森義久 米国での慰安婦訴訟の教訓
2006年03月18日 産経新聞 東京朝刊 国際面

 慰安婦問題といえば、最近でもなおNHKの番組や朝日新聞の報道をめぐって、論議が絶えないが、米国内でこの問題で日本を非難する勢力にとって大きな後退となる最終判決がこのほど出された。米国の司法や行政の良識を思わせる適切な判決だったのだが、ここにいたるまでの五年以上の原告側の執拗(しつよう)な動きからは日本側にとっての多くの教訓もうかがわれる。

 米連邦最高裁判所は第二次大戦中に日本軍の「従軍慰安婦」にさせられたと主張する中国や韓国の女性計十五人が日本政府を相手どって米国内で起こしていた損害賠償請求などの集団訴訟に対し、二月二十一日、却下の判決を下した。この判決は米国内でのこの案件に関する司法の最終判断となった。もう慰安婦問題に関して日本側に賠償や謝罪を求める訴えは米国内では起こせないことを意味する点でその意義は大きい。

 この訴えは最初は二〇〇〇年九月に首都ワシントンの連邦地方裁判所で起こされた。米国では国際法違反に対する訴訟は地域や時代にかかわらず受けつけるシステムがある一方、外国の主権国家については「外国主権者免責法」により、その行動を米国司法機関が裁くことはできないとしている。ところが同法には外国の国家の行動でも商業活動は例外だとする規定がある。元慰安婦を支援する側は慰安婦を使った活動には商業的要素もあったとして、この例外規定の小さな穴をついて、日本政府への訴えを起こしたのだった。

 日本政府は当然ながらこの種の賠償問題はサンフランシスコ対日講和条約での国家間の合意で解決ずみだとして裁判所には訴えの却下を求めた。ワシントン連邦地裁は二〇〇一年十月、日本側の主張を認めた形で原告の訴えを却下した。原告側はすぐに上訴した。だがワシントン高裁でも二〇〇三年六月に却下され、原告側は最高裁に上告したところ、最高裁は二〇〇四年七月に高裁へと差し戻した。ちょうどこの時期に最高裁が第二次大戦中、ナチスに財産を奪われたと主張するオーストリア女性の訴えを認め、オーストリア政府に不利な判決を下したため、日本政府を訴えた慰安婦ケースも類似点ありとして再審扱いとしたのだった。

 だが、ワシントン高裁の再審理でも日本政府に有利な判断がまた出て、原告は二〇〇五年十一月にまた最高裁に再審を求めた。その結果、最高裁が最終的に決めた判断が却下だったのだ。

 六年近くもこの訴訟を一貫して、しかもきわめて粘り強く進めた組織の中核は「ワシントン慰安婦問題連合Inc」という団体だった。在米の韓国人や中国人から成り、中国政府関連機関とも連携する政治団体である。Incという語が示すように資金面では会社のような性格の組織でもあるという。

 この「ワシントン慰安婦問題連合Inc」は実は二〇〇〇年十二月に東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」にも深くかかわっていた。この「法廷」は模擬裁判で慰安婦問題を主に扱い、日本の天皇らを被告にして、その模擬裁判を伝えたNHK番組が日本国内で大きな論議の原因となった。「慰安婦問題連合」はまた、その少し前には中国系米人ジャーナリスト、アイリス・チャン氏著の欠陥本、「レイプ・オブ・南京」の宣伝や販売を活発に支援した。

 この種の組織は日本の戦争での「侵略」や「残虐行為」を一貫して誇張して伝え、日本の賠償や謝罪の実績を認めずに非難を続ける点では間違いなく反日団体といえる。その種の団体が日本を攻撃するときによく使う手段が米国での訴訟やプロパガンダであり、その典型が今回の慰安婦問題訴訟だった。米国での日本糾弾は超大国の米国が国際世論の場に近いことや、日本側が同盟国の米国での判断やイメージを最も気にかけることを熟知したうえでの戦術だろう。日本の弱点を突くわけである。

 だから「慰安婦問題連合」は日ごろワシントン地域で慰安婦についてのセミナーや写真展示、講演会などを頻繁に開いている。最高裁の最終判決が出るつい四日前も下院議員会館で慰安婦だったという女性たちを記者会見させ、「日本は非を認めていない」と非難させた。

 だが米国の司法は最高裁での却下という結論を打ち出した。行政府のブッシュ政権も一貫して「日本の賠償は対日講和条約ですべて解決ずみ」という立場を裁判の過程でも示した。

 しかし立法府である米国議会は「慰安婦問題連合」などの果敢なロビー工作を受けて、慰安婦問題ではまだ日本を非難する決議案をたびたび出している。その種の工作の持続性、粘り強さは今回の訴訟での軌跡がよく示している。日本側も米国という舞台でのこの種の争いの重要性を十二分に意識して、果敢に反撃すべきだろう。反撃すればそれなりの成果も得られる。今回の最高裁の判決はそんな教訓を与えてくれるようである。

http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/115641/



河野談話と米下院公聴会と女性国際戦犯法廷

 公務員制度改革や教育改革、北朝鮮の核をめぐる6カ国協議に政治とカネの問題…と日々、新聞紙面を埋めるために考えないといけない問題は数多いのですが、やはり、どうしても慰安婦問題が頭を離れません。昨日は、この朝日新聞と吉田清治氏という詐話師の「合作」を、世界中に歴史的事実であるかのように思い込ませた河野談話を発表した河野洋平衆院議長が、記者団に「談話は信念を持って発表している」と語りました。

 この人の根拠がなく安っぽくて薄っぺらな「信念」など、本来は路傍の石ほどの価値もないはずなのに、たまたま宮沢政権下の官房長官であったために、世界に日本政府の公式見解として流布されてしまいました。痛恨の極みという言葉が、これほどぴったりくる事例はあまりありません。以前のエントリでも書いたことですが、もし地獄というものが存在するなら、間違いなくそこへ行くことになる人だろうなと思います。

 本日、政府は河野談話に関して、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書を閣議決定しました。これこそが事実であるにもかかわらず、河野氏が当時の外政審議室の反対を押し切って、あのような主語があいまいで、官憲による強制性を認めたと読める文章に加筆・改編してしまったといいます。そして今も反省していないのですから、もう救いようがないとしか言えません。

 さて、この慰安婦問題をめぐる対日非難決議案を審議している米下院では2月15日、3人の元慰安婦を招いて公聴会が開かれています。3人とは、韓国人の李容珠(イ・ヨンス)氏と金君子(キム・グァンジャ)氏、オランダ人(現在はオーストラリア国籍)のジャン・ラフ・オハーン氏のことです。李氏については、今月5日のエントリで、証言がいいかげん極まりないことを書いておきました。

 で、この3人の名前を見ると、どうしても思い出すのが、2000年12月に東京で開かれた茶番劇「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」です。3人は、この法廷ごっこの証言者に名を連ねていました。そうです、昭和天皇を強姦と性奴隷制についての責任で有罪と認定した意味不明のアレです…。

 女性国際戦犯法廷には、北朝鮮からは、初の日朝首脳会談の通訳も務め、安倍首相から「工作員」と指摘されて日本への入国を拒否されたこともある黄虎男氏も「検事」として参加していました。私は、国際的な反日ネットワークによる大々的な反日キャンペーンの一環だったと理解しています。参加団体には、朝鮮総連の関連団体も加わっていましたし。

 そして、この模擬法廷の模様を取材し、編集したNHKの番組が安倍氏と自民党の中川昭一現政調会長による圧力で改編されたと朝日新聞が1面で報じるという「誤報」も飛び出しましたね。これは。法廷主催者(元朝日記者)と現役の朝日記者、NHKの左巻きのプロデューサーが連携して作り上げたストーリーでしたが、取材がずさんで事実関係も間違っていることが次々と明らかになった次第です。

 当時、北朝鮮に最も厳しい姿勢をとっていた安倍氏と中川氏を狙い撃ちしたものだと言われましたが、その模擬法廷の証言者が、今度は米下院で証言しているわけです。ただの偶然とは考えにくく、何らかの因果関係を推測してしまうのですが…。
2007/03/06
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/134647/



シーファー米大使を手玉にとった“従軍慰安婦3人”の前歴…ころころ変転する証言

由々しき事態だ。米下院に提出された慰安婦問題での対日謝罪要求決議案を巡って公聴会が開かれ、3人の元従軍慰安婦が出席。これを駐日米大使が“尊重”する旨の発言をした。 が、大使を信じ込ませた彼女らは、過去、証言が何度も変わり、その信憑性に疑いの目が 向けられているのである。

<私は、彼女たちが売春を強制されたのだと思います。つまりその時、旧日本軍により、 強姦されたということです>
ニューヨーク・タイムズ紙(3月17日電子版)に載ったシーファー米駐日大使のコメントが本当 ならば、まさに“手玉にとられた”と言うしかあるまい。何しろ2月15日、米下院の公聴会に 出席した元従軍慰安婦3人の中には、これまで猫の目のごとく言うことが変転してきた、 いわくつきの女性がいるのだから。

まずは、韓国人の季容洙(イ・ヨンス)。「彼女が初めて元慰安婦として公の場に出たのは 92年。当時は、慰安婦にされた経緯を“満16歳の秋、国民服に戦闘帽姿の日本人男性 から赤いワンピースと革靴を見せられ、嬉しくなった。母親に気づかれないように家を出た” と語り、先の公聴会でも同じことを喋っているのですが…」と、現代史家の秦郁彦氏が教えて くれる。
「これまで何度も来日している彼女は、今年も日本で数回、会見を開いています。で、2月には“日本兵が家に侵入してきて、首を掴まれ引きずり出された”と言い、3月には“軍人と 女に刀をつきつけられ、口を塞がれ連れ出された”などと内容が変わっている。要するに、 家出と強制連行と、2つの話があるわけです」

◆終戦後も慰安婦?
季元慰安婦はには別の“疑惑”も指摘されている。連行された時の年齢が、14、15、16歳 と、実に“3種類”。時には「44年、16歳で台湾に連行され、慰安婦の生活を3年間も強いら れた」と語るのだが、それでは終戦後も慰安婦として働いていたことになってしまう。

続いて、同じく韓国人の金君子(キム・クンジャ)についても、「ある時は“幼い時に両親を 失い、養子に出された先でお使いに行ってくれと言われ、汽車に乗せられた”と語ったと 思えば、またある時は“家に2人の朝鮮人が来て、工場で働かせてやると騙された”などと 回想する。いずれにせよ、家出に近い話で、日本軍による強制連行ではない」(秦氏)

さらに、当時オランダ国籍で、現在はオーストラリア人のジャン・ラフ・オハーンに関しては、 「“スマラン事件”の被害者だった可能性はありますが、この事件はむしろ、軍が慰安所に 関与していなかったことを示すものです」と、政治ジャーナリストの花岡信昭氏が言う。 「これは、占領下にあったインドネシアのジャワ島で一部軍人がオランダ人女性数十人を 強制的に売春させていたところ、軍に見つかり閉鎖させられた事件です。つまり、軍が売春 を禁じていた証拠になるもの、と位置づけられています」

◆N・オオニシ記者の影
であるならば、なぜ大使は彼女らの言を鵜呑みにしてしまったのか。「反日姿勢で有名な NYタイムズのN・オオニシ記者が、うまく話を引き出した面もあるのでは」と花岡氏は見るが、 「日本が何も言い返さないから、米国内に間違った世論を喚起してしまっている。 つまるところ外交戦略の失敗の表れですよ」(秦氏)

週刊新潮4月5日号P.62より
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by thinkpod | 2007-03-18 05:36