2007年 08月 22日

サハリン残留韓国人への追加支援で密かに盛り込まれた「3億円」

外務省のデタラメ「人道」支援はいつまで続くのか

支援拡大で合意していた日韓両政府

  「サハリンから(韓国へ)永住帰国を希望している同胞がまだまだたくさん残っている。日本政府の、より一層の支援を御願いできないだろうか…」

 昨年十一月十七日、東京都内で、年に一度の日韓議員連盟(森喜朗会長)の合同総会が開かれた。韓国側の参加者から、「サハリン残留韓国人問題」での追加支援の要望が出されたのは、この一連の会議の中である。サハリン残留韓国人問題についてはここ数年、日韓議連で話題になったことさえもなく、日本側の参加者は、「唐突な話だな」と感じたという。実際、永住帰国者への追加支援の話は、在韓国の日本大使館にとっても“寝耳に水”の話だった。

 だが、それから数カ月後に国会で成立した平成十九年度予算には、サハリン残留韓国人への特別基金への拠出金として計約三億円がしっかりと、盛り込まれていたのである。その金は、今年七月以降、サハリンから新たに韓国へ永住帰国することが決まった人たち(順次、六百人を帰国させる計画)の渡航費(航空運賃)や住居確保支援費などに充てられる、という。これは、日韓両政府が、サハリン残留韓国人の永住帰国者受け入れ拡大で合意し、「今後も支援を続けていく」という意思表示をしたに等しい行為だった。

              ※
 サハリン残留韓国人とは戦時中、当時、日本が支配していた朝鮮半島から、サハリン(当時は樺太・日本領、現在はロシア領)へ労働者などとして渡り、戦後、故国(韓国)へ帰れなくなった人たちを指す。その数は約一万人。やがて存在すら忘れられ、故国に帰れなくなった人々とその家族の悲しみ、苦しみは理解できる。ただし、彼らが故国へ帰れなかったのは、主に当時のソ連が“友好国”北朝鮮への配慮もあって、国交のない韓国への帰国を認めなかったためであり、決して日本の責任ではない。

 尤も、彼らの存在に長く「無関心」であったのは、ソ連も韓国も日本も変わりがなかったのだが…。  この問題で日本が「人道的支援」という曖昧な名目で、多額の資金拠出をせざるを得なくなったのは、一部の日本人が彼らを煽って裁判を起こし、「戦時中、日本によって四万三千人が強制連行され、戦後は朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」と、事実も人数もまったく異なる“デタラメ”をアピールし続けたためである。「日本人がそういうのだから…」と勢いづいた彼らは要求をどんどんエスカレートさせ、韓国との外交問題にまで発展させてしまう。

 そして、「(韓国から)うるさく言われるぐらいなら、金を出した方がいい。謝ってしまえばいい」という日本外交の“悪いクセ”がここでも顔を出した。

 平成二年には、サハリン残留韓国人問題で、当時の中山太郎外相が国会答弁で韓国に謝罪。七年には、村山富市内閣のもとで、サハリンから韓国へ帰国する(永住帰国)人のために、日本の資金で(韓国に)巨大アパートや療養院を建てることなどを盛り込んだ巨額の支援が決定されるのである。この止めどもない支援は、戦後六十年以上が過ぎた現在も続いており、平成元年以降、これまでに日本が拠出した額(平成十九年度予算分を含む)は七十億円近い。

 今回の話は、「それでも、まだ足りないから、(日本は)もっと出してくれ」という要請である。

 永住帰国者の住居としては、その村山内閣時に決定された巨大アパートや療養院がすでにある。日本政府が建設費約二十七億円を出して(土地代・管理費用は韓国側が負担)、二〇〇〇年二月、韓国・安山市に完成した八棟のアパート群『故郷の村』(約五百世帯・千人が入居)と、医療設備を併設した療養院(二カ所、入居者約二百人)である。日本はそれら施設の建設費はもちろん、ヘルパーの人件費・光熱費まで負担しているのに、だ。

 韓国側は、サハリンの残留韓国人が「まだ約三千二百人も残っている」とし、このうち、永住帰国を希望している一世約六百人を今年七月から順次、帰国させる計画という。しかし、先に挙げた永住帰国者の居住施設は現在、ほとんど空きがないため、ソウルや仁川にある公営住宅を借り上げて新たな帰国者に割り当てる。当初は、その借り上げ費用も「全額日本側で面倒を見てくれないか」という話だったのだ。

 これを日本の外務省から聞いた、財政当局は、「(サハリン残留韓国人問題なんて)もうケリが着いた話ではないか」と、さすがに予算化を渋った。日韓両政府の担当者が交渉を行い、住居の賃貸費用は韓国側が負担することになったものの、日本側は、永住帰国にかかわる家賃以外の諸経費(渡航費など)を出さざるを得なくなった。その額だけでも、約二億一千六百万円(韓国側は住居の家賃などを負担)。そのほか、仁川療養院のヘルパー人件費・光熱費約二千八百万円、事務局経費約三千三百万円などを含めて、十九年度予算には約三億円が盛り込まれたのである。

 しかも、来年度以降の日本側の支援については、曖昧になったままであり、今後、さらなる「追加支援」の要請が韓国側から出されるのは必至であろう。日本外交の“事なかれ主義”は結局、国民にツケを回すことになった。

 こうした永住帰国者の受け入れ拡大における日韓両政府の合意について、日本ではまったく報道されていない(四月二十日現在)。詳細な内容が明らかにされていないからだ。支援事業を行っている日本赤十字社国際部は本誌の取材に、「外務省の了解が得られない」ことを理由に回答を渋っていたが、「日本政府の予算により、永住帰国者の渡航費や移転費を支援することを計画しているが、永住帰国者の受け入れ先となる施設については韓国政府が用意する予定である」と事実関係だけは認めた。


本当に帰りたかった「一世はもういない」

 そもそも、戦後六十年以上も経っているのに、「いまだに韓国へ帰りたい人が六百人もいる」というのは、おかしな話ではないか? 戦時中に労働者などとしてサハリンへ渡った当事者を「一世」と呼ぶとすれば、彼らこそが、本当に故国へ帰りたかった人たちである。

 だが、彼らは現在、八十代から九十代。故国を夢見ながら、帰国を果たせず、サハリンの土になった人も多い。サハリン残留韓国人の帰国運動に生涯を捧げた朴魯学氏(故人)・堀江和子さん(80)夫妻らの尽力によって、韓国への一時帰国、永住帰国が実現したのは、戦後約四十年が過ぎた一九八〇年代半ば以降のこと、なのだ。

 一世たちはその間、サハリンで生活の基盤を築き、結婚をし、子孫を増やした。子供たちにはロシア人との混血も多い。帰国が始まった八〇年代ですら、「(現地生まれの)子供たちの反対でサハリンを離れるわけにはいかない」として、帰国を断念するケースが多かったのである。当然であろう。サハリンで生まれた二世、三世にとって、韓国は単なる「父祖の地」に過ぎないからだ。

 それなのに永住帰国希望者がいまだに後を絶たないのには、ちょっとした「カラクリ」がある。支援を行うにあたって、サハリン残留韓国人の団体は日本に対し、「(終戦の年である)一九四五年末までの出生者を『一世』として取り扱い、補償すること」を強く求めていた。つまり、終戦の年までに生まれてさえいれば、サハリンで生まれた者も、旧ソ連で生まれた者も「一世」とせよというわけだ。

 結局、支援対象者の条件は、「一九四五年八月十五日(終戦)までにサハリンに移住し、引き続き居住しているもの」と規定されることになった。平成十五年度からはさらに、「終戦前サハリンへ渡り、残留を余儀なくされ、終戦後ロシア本土などに渡ったという事実が客観的に証明できるサハリン以外のロシア本土及び旧NIS諸国に居住する『韓国人』」にも対象が拡大されている。この条件なら、終戦時に一歳の赤ちゃんだった人も対象になってしまう。

 実際、サハリンから韓国への一時帰国や永住帰国で支援の“恩恵”を被っているのは、今やサハリンで生まれた「二世」以降が主になっているのだ。

 一時帰国支援は、何らかの事情で永住帰国できない人たちを、韓国の家族と再会させる目的で平成元年からスタートした。日本政府が往復の渡航費と韓国での滞在費を負担し、十九年三月末までに延べ約一万六千人が一時帰国を果たしている。日赤によると、現在三巡目(同じ人が三度、韓国へ行ったという意味)に入っているというが、昨年までは、六十歳以上の一世夫婦に子供一人の付き添いが認められていたため、むしろ彼らの方が「主」となり、“買い物ツアー化”しているという批判が絶えなかった。

 永住帰国者にも二世は多い。二〇〇〇年二月、妻とともに、日本が建てた安山の『故郷の村』のアパートに入居した男性(70)は、一九三六年にサハリンで生まれた二世である。父親がサハリンへ渡った経緯は不明だが、徴用(朝鮮半島では一九四四年から実施)でないことだけは確かだ。この男性は、「(アパートが)日本政府のお金で建てられたことは知っているが、『(日本は)一九四五年以前はすべて面倒を見る』と言ったのだから、私たちが入居するのは当たり前でしょう」と話す。この男性は、サハリンに子供たちを残しており、暑い夏の三カ月間はサハリンへ帰るという。

 二世以降の世代が、韓国へ来たがるのは、支援によって住居や生活費が保証されていることが大きい。『故郷の村』アパートの場合、永住帰国者に割り当てられる標準的な住居(夫婦二人)は、洋風の2LDK(バス、トイレ付き、約66平方㍍)。小ぎれいなマンションといった趣だ。テレビやオーディオセット、パソコンまで持っている人もいる。入居の権利を子孫が引き継ぐことはできないが、当事者夫妻は、ここに最長三十年間まで住むことが認められている、という。生活費については、韓国政府から月額七十万ウオン−九十万ウオンが支給されている。日本円で平均十万円ぐらい。住民は「ぜいたくをしなければ、十分な額だ」と口をそろえる。

 それでも彼らは不満だ。サハリンで生まれた二世以降の世代は、韓国に知人や縁者がほとんどいない。ロシア語しか話せない人もおり、仕事を見つけるのは容易ではない。彼らはみな、「サハリンに残した家族に会いたい」と訴える。そのための支援をもっとしてほしいというわけだ。

 だが、日本はすでに十分過ぎるほどの支援をしている。先に書いた一時帰国支援のほか、逆に、永住帰国者がサハリンに残した家族に会いに行くための渡航費の支援も行った。サハリンに残る韓国人の「伝統文化を保存するための施設がほしい」と言われれば、約五億円をかけて、ホテル機能が併設された文化センターまで建設(二〇〇三年)したのだ。

 また、永住帰国した「一世」の住居を“拠点”にして、サハリンの子供たちや親類たちが、韓国との間を行ったり、来たりしながら、貿易などの仕事をしているケースや、ひそかに子供や孫を呼び寄せ、同居させている人までいる。永住帰国をして住居は貰ったものの、しょっちゅうサハリンへ里帰りするため、部屋の中には、ほとんど家具や生活用品がなく、「永住帰国施設を“別荘がわり”に使っている」といわれても仕方がないような住人もいた。

 さすがに、三カ月以上を留守にすれば、その間の生活費は支給されないシステムになっているが、「ほかの(永住帰国)施設では、支給されている」として、不満を訴える住人までいるのだ。確かに、家族と会えないのはつらいに違いない。ただ、酷な言い方になるが、それならば、韓国への帰国を思いとどまれば良かったのではないか。何度も言うが、二世以降の世代にとって、韓国は「父祖の地」に過ぎないのである。

 夫とともにサハリン残留韓国人の帰国運動に取り組んだ堀江和子さん(元サハリン再会支援会共同代表)は、「一世が支援を受けるならいいが、本当に国へ帰りたかった一世は、ほとんどの人が亡くなってしまった。支援がほしいときには支援をせず、今さら支援を行っても、日本とは関係のない二世や三世らが恩恵を受けるだけ。彼らには日本に感謝するという気持ちすらない」と批判している。


戦後、北朝鮮から来た人まで入居

 支援の対象者については、もっと驚くべきことがある。『故郷の村』の住人の証言によれば、「アパートには、戦後、北朝鮮などからサハリンへ渡ってきた人たちまで入居している」というのだ。

 サハリンへ渡った朝鮮系民族には、大きく分けて三つのパターンがある。(1)戦前の早い時期に新天地での成功を夢見て渡り、そのまま住み着いた(2)戦時中、企業の募集、官斡旋、徴用によって渡った③戦後、北朝鮮やソ連などから、派遣労働者として半ば強制的に連れられてきた−の三つである。住人が指摘しているのは、(3)のケースで、その数は二万人とも五万人とも言われる。彼らが、日本とまったく関係がないのは言うまでもない。  かつてサハリン残留韓国人団体の役員を務めていた七十代の住民の一人はその経緯について、こう話す。「永住帰国がスタートした当初は、我々(サハリンの残留韓国人)の間でも、待遇面の不安が大きく、希望者が少なかった。そのため、戦後、北朝鮮や旧ソ連からサハリンへ来た人たちも、ロシア国籍を持っていた人に限って入れたんだよ。だからこのアパートにも、たくさん住んでいるのは確かだ。ただ、彼らの多くは“素性”を隠して生活しているので、実際に誰がそうなのかは、よく分からない」

 また、彼らの多くは、旧ソ連共産党員で、「アパートの自治会組織にも睨みを利かせている」と声を潜める七十代の女性住人もいる。日本政府から『故郷の村』に寄贈されたマイクロバスがいつの間にか、姿を消してしまったり、詐欺まがいの被害にあった住人もいるという。

 戦後、北朝鮮などからサハリンへ渡ってきた人たちが、支援の対象者に入っているという「疑惑」は、かねてから関係者によって指摘されていた。

『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったか』の著者で、堀江さんらとともに帰国運動を行った新井佐和子氏によると、九〇年代に一時帰国をした残留韓国人の約半数は、「韓国内に縁故者がまったくいない『無縁故者』だった」という。戦時中に②のケースで、サハリンへ渡った人の多くは現在の韓国地域から行った人たちであり、戦後四十年(当時)経っているとはいえ、縁故者が一人もいないとは考えられない。つまり、彼らは、残留韓国人の団体や韓国政府が主張する“強制連行”などとはまったく無縁の(1)か(3)か、その子孫ということになるのではないか。

 現地の韓国政府関係者も、「永住帰国が始まったときは、韓国がソ連(当時)と国交を樹立した直後であり、対象者の選定に多少の混乱があったのは仕方がない。国交がないときは情報がほとんどなく、彼らの調査をきちんと出来なかったからだ。今さら、彼らに(アパートから)出て行けとは言えない」と対象者に彼らが含まれていることを事実上、認めているのだ。ただし、残留韓国人の間では、支援の対象者について、「一九四五年八月十五日以前に生まれた者なら誰でも対象になる」と受け取られているフシがあるから、実際は、それほど問題視されていないのだろう。

 日本では、支援を始めたときに、「税金を使う以上、はっきりと区別するべきだ」と“正論”を主張した国会議員もいたが、結局はウヤムヤになってしまった。支援者の選定は、韓国側の赤十字とサハリンの団体に任されており、日本側は事実上、チェックする手段がない。これでは日本はカネだけ出して支援事業を“丸投げ”している、と批判されても仕方がないではないか。


「徴用」で渡った人は数百人だけ

 ここで、この問題の経緯を詳しく振り返ってみたい。

 終戦時、サハリンには約四十万人の日本人がいた。昭和二十一年に結ばれた「米ソ引き揚げ協定」によって、日本人については順次、引き揚げが許され(二十四年までに約三十万人が帰国)たが、ソ連によって終戦と同時に「無国籍者」とされた、朝鮮半島出身者については、ソ連が出国を認めなかったために、サハリンへの残留を余儀なくされた。

 これについて、「日本人だけが、さっさと帰って朝鮮半島出身者だけを見捨てた」という悪質なプロパガンダが流されたが、当時、占領下にあった日本は、そうした決定に関与すらできなかったのである。先にも書いたが、彼らがサハリンに留め置かれたのは、ソ連が国交のない韓国への出国に難色を示していたからだ。背景には、北朝鮮への配慮があったという。二〇〇五年に、韓国政府が公開した外交文書によれば、一九七四年にサハリンから日本経由で韓国へ帰国しようとしていた残留韓国人約二百人が、やはり北朝鮮に配慮したと思われるソ連の拒否によって出国が認められなかったケースが明らかになっている。

 各国政府が無関心を決め込むなか、当事者の一人で、昭和三十三年に日本へ帰国していた故・朴魯学氏・堀江和子さん夫妻ら、日本にいた民間人の力によって、一時帰国、永住帰国の道が開かれたこともすでに述べた通りだ。そのままなら「美談」で終わるはずの話が、政治問題・外交問題になってしまったのは、五十年十二月、残留韓国人四人を原告にして東京地裁に提訴された「サハリン残留者帰還請求訴訟」がきっかけである。十八人の大弁護団の中心的な立場にいたのは、後に「従軍慰安婦」訴訟でも“活躍”した人物だった。

 日本政府の見解は一貫して、「法的責任はない」というものだったが、やがて「人道的支援」を行うことに追い込まれる。そしてこの問題はやがて、人道的支援から、「戦後補償」へとすり替えられて行くのだ。

 日本政府に法的責任がない、というのはまったく正しい。昭和四十(一九六五)年の日韓条約で、「解決済み」の問題であり、先の韓国の外交文書公開では、韓国側が個人補償を行う義務を負っていることも明らかになっている。

 しかも、“そもそも論”で言えば、戦前、戦時中に朝鮮半島からサハリンへ渡った人たちの多くは、外地手当などによる「高給」に魅力を感じて企業の「募集」に応じて、自分の意思で行った人たちである。つまり、日本政府に無理矢理連れて行かれたわけではない。先の新井佐和子氏は、「私たちが帰国を支援した人たちも、ほとんどが『募集』でサハリンへ渡った人たちでした。(一九四四年から朝鮮半島で実施された)正式の徴用令状で行った人は数百人にも満たないでしょう。当時は『強制連行』なんて言葉すら無かったのです」と断じている。

 実際、安山の『故郷の村』に住んでいる住人(一世)に聞いてみると、多くの人は「募集で行った」と答えている。帰国運動を行った朴魯学氏(故人)も、昭和十八年に樺太人造石油会社の募集に応じて、サハリンへ渡った一人だ。朴氏は、サハリンで貰った給料で、韓国の家族に、家一軒が建つほどの仕送りが出来たという。妻の堀江和子さんによると、何が何でも日本政府の責任を主張する仲間(残留韓国人)に対して、「強制連行などではなかったじゃないか」と、朴氏が咎めることがたびたびあった。

 韓国政府や残留韓国人の団体は、こうした見解を認めようとはしない。「たとえ募集や官斡旋で行ったとしても、日本支配下のことであり、事実上の強制であった」(韓国政府関係者)というのである。そして、理論上、苦しくなると、「人道的支援」を持ち出すのだ。

 だが、新井氏は、「私たちが世話をした人の中には、募集でサハリンへ渡り、お金を稼いで、いったん戻ってきた後、ばくちでスッテンテンになって、もう一度、自らサハリンへ行った人もいました。もちろん、強制などではありませんでした」と反論している。

 結局、日本は外交的摩擦を怖れるあまり、求められるままに、「理由なき支援」を続けてきたのだ。もちろん、国際社会で責任ある立場として、日本が「人道的支援」を行うのはいい。だが、七十億円は、明らかにその範囲を超えている。しかも対象者はすでにほとんどおらず、使命は終わったのにである。こうした理不尽な支援が続いていることを、どれだけの日本人が知っているのだろうか。


「日帝下強制労働真相糾明委員会」の調査

 サハリン残留韓国人問題は、別のチャンネルでも動いている。二〇〇五年に公開された韓国の外交文書で、こうした“被害者”には、韓国側が個人補償を行う義務を負っていることが明らかになり、彼らによって、韓国政府の責任が問われる事態になった。

 このため、韓国政府は、「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」という物々しい名称の組織を作り、“強制連行”の実態調査に乗り出したのである。韓国政府関係者によると、「日本によって強制連行された」として、すでに約二十万人の“被害者”や遺族が手を挙げているという。

 調査の目的は、「経済支援金」などの名目で、“個人補償”を行うことにある。現在、政府案と超党派の議員案の二つの法案が準備されており、議員案の方は一人当たり最高五千万ウオン(約六百二十万円)、政府案でも同二千万ウオン(約二百五十万円)が支給されるという。現在、二つの法案の調整がつかず、成立の見通しは立っていないが、実現すれば、巨額の資金が必要になるのは言うまでもない。

 韓国政府は、サハリン残留韓国人を、この問題の主要な対象者のひとつに位置づけており、現在、調査員が韓国、サハリン、日本でも調査を進めている。ただ、当然のことだが、戦後六十年以上も経っており、事実関係を明らかにするのは容易な作業ではない。調査員の一人は、「登録者のヒアリングをしていると、曖昧だなと思うこともあるが、こちらにもそれに反論すべき資料がない。日本政府はその資料を持っていると思うが、見せてもくれない」と不満を募らせる。

 だがすでに、残留韓国人の間では、この話題で持ちきりだ。安山の『故郷の村』の住人の男性(78)は、「死んでから貰っても仕方がない。とにかく早く法律が成立してほしい」としきりに訴えていた。  韓国政府関係者は、この問題について、「韓国政府が行うことであり、日本政府はまったく関係がない」としている。ただ、その言葉は“額面通り”には受け取れない。二〇〇五年の外交文書公開のとき、韓国政府は、日韓条約交渉時に被害者として認識されていなかったなどとして、慰安婦問題や在外被爆者問題とともに、サハリン残留韓国人問題も例外扱いすることを示唆していたからだ。

 しかし、堀江和子さんが、かつて、駐日韓国大使館の幹部に聞いたところによると、その人物は「サハリン残留韓国人問題も日韓条約の対象に含まれる、と明言した」という。それでも、調査が済んだ後、またもや、「人道的支援」を突き付けられないとも限らない。日本は、注意深くこの問題を見守っていく必要があるのだ。

『故郷の村』には、かつて、日本が支援を行うきっかけとなった裁判で弁護人をつとめた人物が、今も度々、出入りしているという。住人によると、彼は、戦時中、不払いになっていた郵便貯金を「五倍にして返還させる」と持ちかけ、再び裁判を起こすことを勧めている。  堀江さんは、「この問題が、強制連行や慰安婦問題、戦後補償の問題など、本来、関係がないものに結びつけた“張本人”が彼なのです。いい加減に、サハリン残留韓国人を利用することはやめてほしい」という。

 堀江さんは毎年、韓国・忠州にある朴魯学氏のお墓参りを欠かさない。『故郷の村』には、朴氏夫妻の尽力によって、帰国が実現した人たちがたくさんいる。それなのに、『故郷の村』には、サハリン残留韓国人団体の元会長の銅像はあっても、朴氏らの功績を顕彰するものはない。日本政府が建設資金を出したことを示す記念碑なども、どこにも見当たらなかった。

正論6月号
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0705/ronbun1-1.html

reference archives : 「戦後補償」の亡霊にとりつかれた日本のサハリン支援
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by thinkpod | 2007-08-22 17:49 | 半島


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