2007年 05月 06日

コドモは「子供」と書くべきだ

【週の初めに】塩原経央 コドモは「子供」と書くべきだ
1998年11月23日 産経新聞 東京朝刊 その他

 共同通信社が加盟社を対象に出している新聞の用字用語についての情報冊子『用語委員会だより』四十七号に、同社社友の上田融氏が「『コドモ』の表記をどうするか」という論説を寄稿している。

 コドモは「子供」ではなく「子ども」と書くのが望ましいというのが上田氏の提案である。最近は文部省が出している『教育白書』でも、「子ども」という表記が採られているとのことだ。

 書店に行った折、コドモについて書かれた本のタイトルを気をつけて見てみたが、「子供」と「子ども」は相半ばしていて、なるほど「子ども」の表記が増勢にあるのだなという印象を持った。

 「子供」と「子ども」と、どこがどう違うのか。「子ども」の表記の源流の一つは上田氏の推論では「『供』という字は『お供』の『供』、付属物の扱いみたいだ」という羽仁説子さんの所説にあるらしい。“コドモの人権”をズームアップする人々はコドモを「子供」と書かないことに自らの良心を見ているのである。それはそれで立派な見識と思うが、私には少々異論がある。

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 コドモは万葉仮名では「古騰母」「胡藤母」などとともに「子等」とも書かれ、ドモは複数を表す接尾語と説明される。ドモを「供」と書くのは当て字なのだ。

 また、コドモのドモは、ばか者どもとか、虫けらどもとか、上接する語を低く遇するときに用いられるから、「子ドモ」という語には彼らへの軽侮の念が込められていることも否定はできない。が、だからコドモは「子ども」と書くべきなのか。よくよく考えてみれば、ドモが付く限り「子供」を「子ども」と書き換えたところで、子供の人権を尊重することにはなり得ないではないか。

 一方、「子供たち」「子供ら」のような複数表現に私たちは何の違和感も抱かないように「子供」を子の複数の意ばかりには使っていない。こう考えると、むしろコドモは「子供」と書かれることによって初めて、「子・ドモ」の構造から、語としての「子供」へと自立を果たしたのだということができるのだ。

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 「子供」は、字の形の通り“人”と“共”にいることなしには生きてはゆけない未熟な存在だ。大人や社会の付属物であるがゆえに、まさに保護され、教育され、しつけられて、人となるべき対象なのである。比ゆ抜きに言えば、永遠に「子供」である者などいない。だれもが親や世間にもみしだかれ磨き上げられて「供」たる身の上を通過してゆくのである。

 本紙連載の「教育再興」の報ずるところによれば、今や学級崩壊は小学校低学年にまで及んでいるという。先生を先生とも思わない、人権の被膜に保護されたアナーキーな子供たちの現出に、結果的に「子ども」と書いて子供を持ち上げた人権派の錯覚が手を貸した部分は小さくない。

 子供の人権などという言わずもがなを文にせずにいられないのは、日本人の流儀ではない。戦後の、人権という観念の根拠はなべて占領軍お仕着せの憲法にある。憲法を源とするアメリカ民主主義は、経済合理主義とともに戦後日本の再生に相応の役割を果たしたことは否定しない。が、その流儀が抱える二律背反性の影の部分が日々に子供の風景をむしばむ危機的な現在を思えば、今こそコドモは「子供」と書かなくてはならないのである。(校閲部長)






【続・国語断想】(8)子供再論 「子ども」こそが差別的表記
2002年10月02日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面

 平成十年十一月二十三日付の本紙朝刊で「コドモは『子供』と書くべきだ」という一文をしたためて、「子ども」などという表記は採るべきでないと警鐘を鳴らしたが、見ているとその愚かな表記がじわじわ広がり、増えこそすれ減る様子を見せていないのはまことに嘆かわしい限りだ。

 ただ一人、児童文学者の矢玉四郎氏がご自分のウエブサイトで「子ども教信者は目をさましましょうと、「子ども」という表記の不可なるゆえんを説いて、孤軍奮闘されている。

 日ごろ、わが国固有の伝統文化を重んぜよと説かれている側の知識人の中にすら、無警戒に「子ども」と書いている人がいて、その所論の尊敬すべきであればなおさら泣きたい気持ちになる。この問題を矢玉氏だけに丸投げしておくわけにはいかない。

 意識的に子供を「子ども」に書き換えようとしている戦後民主主義というバイアスのかかった人権派や、彼らにくみする言論機関ならいざ知らず、保守陣営の人々までが深い考えもなく「子ども」と書く近ごろのなりゆきを見て取れば、私もまた矢玉氏の驥尾(きび)に付し弓矢を取って参戦しないわけにはいかない。再論す、子供は「子ども」と書いてはいけないと。

 私たちは長い年月をかけて漢字仮名交じり文という洗練された国語の表記法を作り上げてきた。これを可能にしたのは、漢字を受け入れたときに、私たちの祖先が漢字という圧倒的な先進文化が用いている言葉の中にのみ込まれず、わが国語の中に漢字を取り入れる工夫をして、それに成功したからにほかならない。

 その工夫の一つは仮名の発明である。これによって、漢語にはない用言の活用語尾、助動詞、そして“てにをは”を書き表すことができるようになったのだ。それも平仮名と片仮名の二つの体系を発明したことが、どれほど国語を分析的にし、近代的観念行為に堪えられる言語にしたか思い返してみるべきである。

 工夫の二番目は、漢字語彙(ごい)を国語の文の構造の中に大量に取り入れて活用したことである。それは今日の外来語と同じで、漢語の字音そのものつまり外国語のまま取り入れたのではなく、わが国で識別できる字音に換えて受け入れたため、漢字語彙を容易に国語語彙として定着させることができたのだ。国語語彙の増大がまた、国語を近代的観念行為に堪えられる言語にしたのである。

 工夫の三番目は、わが国の言葉を漢字を用いて表記すること、つまり字訓を発明したことである。これが漢字の持つ表意性をそのまま国語に反映させることができた秘訣(ひけつ)なのだ。

 国語のハという音節が表す「端」や「歯」、また「葉」や「羽」や「刃」は、そうした漢字を用いることによって語としての分節を安定的にすることができたのである。これが仮に「ハ」または「は」のような音節を表す書き方しかできない言語であったとしたら、ハは未分化のまま容易には分節することができなかったに違いない。歯も葉もハと呼んで区別できない。それが未分化ということだ。

 国語の和語を漢字で表すということは、つまりはそうした知の進化の営みなのだ。子供を「子ども」に書き換えるのは、「子供」と書いて成立したチャイルドもしくはチルドレンの意を表す語の分節を「子」と接尾語「ども」に還元して、知を退化させてしまう行為にほかならないのである。しかも、この接尾語ドモは、女ども、ばか者ども、貧乏人どもなどと用いるように、侮蔑(ぶべつ)感が込められているから、「子ども」と書くのは「ガキメラ」同様、子供をさげすむ差別的表記でさえある。

 矢玉氏のウエブサイト「子ども教信者は目をさましましょう」には、氏の日本共産党への質問状に対する党中央委員会の回答というものが載っている。それによると「しんぶん赤旗」で七〇年代後半から「子ども」という表記をしているのは、「民主主義と人権の運動のなかで子どもは、戦前のように、おとなの『お供』でも、神仏の『お供え』でもない、人権を持った人間だという考えにもとづいています」ということだ。

 「子供」の供が「お供」の供だというのは難癖もいいところだ。「子ども」と書いた方がよっぽど子供をばかにした書き方ではないか。

 「子供」の供は「お供」の供でもなければ、「お供え」の供でもない。訓の一致することをもって借りた当て字に過ぎない。国語の漢字表記には当て字など珍しくもないし、当て字ではあれ漢字で書くことによって語として自立し安定化するのだから、子供を「子供」と書くのは国語の知恵というものだ。矢玉氏も指摘しているが、「大人も当て字で、大(おと)人(な)でも、大(お)人(とな)でもない」。子供を「子ども」のように書くのは、大人を「大な」や「おと人」と書くのと同じだと認識すべきである。

 日本文化の伝統を愛する諸氏に言いたい。「子ども」などと書くのは空虚な“人権派”の流儀にくみする愚行であると。

 (校閲部長 塩原経央)

http://tech.heteml.jp/2007/05/post_957.html


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by thinkpod | 2007-05-06 03:13 | 社会


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