2007年 04月 05日

「戦後補償」の亡霊にとりつかれた日本のサハリン支援

産経新聞特集部次長 喜多由浩


 戦後、冷戦のために長くサハリン(旧樺太)から出られなかった朝鮮半島出身者(サハリン残留韓国人)のために、日本がいまだに支援を続けていることを、いったいどれだけの国民が知っているだろうか。これまでの日本の拠出総額は六十億円以上。「人道的支援」がいつの間にか「戦後補償」にすりかわり、相手方の要求はとどまることをしらない。日本の支援が膨らんだのは、一部の日本人たちが、「四万三千人を強制連行した」「日本が置き去りにした」などと事実とかけ離れたことを触れ回ったからである。そのツケはあまりに重い。

発端は「誤解」

「サハリンの残留韓国人」とは、日本時代に朝鮮半島から、企業の募集や徴用で、サハリン(当時は樺太)に渡り、戦後も韓国などへの帰国が許されなかった約一万人のことである。当事者の一人で、昭和三十三年に日本へ帰還した朴魯学氏(故人)と妻の堀江和子さん(七七)らが民間人の立場で帰還運動を続け、五十年代後半以降、日本での家族との再会(一時帰国)、韓国への永住帰国が順次、実現したが、それまで数十年間、異郷の地であるサハリンにとどまらざるを得なかった。

 長く家族と引き裂かれ、祖国に帰れなかった人たちには、本当に同情を禁じ得ない。ただ、彼らが、サハリンから出られなかった最大の理由は、冷戦の対立が続くなかで、当時のソ連が、国交のない韓国への帰国を認めなかったからである。友好関係にあった北朝鮮への配慮もあったという。また、ソ連、韓国、日本などの関係各国が関心を示さず、当初は積極的に対応しなかったことも、この問題の解決を遅らせる要因となった。

 この問題に対する日本政府の見解は一貫して、「法的責任はない」というものであった。だがやがて、主として、日本人の側から、日本の責任を問う声が上がり始める。それは「日本が強制連行で四万三千人を無理やりサハリンに連れて行き、過酷な労働につかせた。だから、日本の責任で帰国させねばならない」「日本人だけがさっさと引き揚げ、朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」などという批判であった。

 もちろん、これらは事実ではない。まず、再三、マスコミなどで登場した「四万三千人」という人数だが、これは戦後、ソ連や北朝鮮地域から、派遣労働者などとして、サハリンに渡ってきた約二万人の朝鮮族などを加えた数字が“ひとり歩き”してしまったものである。意識的か、無意識か、この混同はずっと続き、“日本糾弾キャンペーン”で使われた。戦後になってサハリンに来た人たちが日本と何の関係もないことは言うまでもない。

 戦時中、企業の募集や官斡旋、徴用によって、朝鮮半島からサハリンに渡った人数は、明確ではないが、終戦前後の朝鮮半島出身者数の各種統計(約七千八百−二万三千人)から判断すれば、二万人前後とみられている。しかも、強制力をともなう徴用が、朝鮮半島で実施されたのは、昭和十九年九月からで、ほとんどの人は企業の募集や官斡旋によるものであった。

 当時の樺太は内地(日本)よりもはるかに賃金が高く、それにひかれて新天地を目指す人が後を絶たなかった。一度行っても、「もう一度行きたい」と希望する人も少なくなかったという。これは朴氏らが帰還運動を進めるにあたって、サハリン残留韓国人から聞き取り調査を行った結果、明らかになった事実である。もちろん、「強制」ではなく、「自分の意思」であった。

 朴氏自身は、今の韓国の地域で理髪師をしていた昭和十八年に、新聞広告でみた樺太人造石油の募集に応じた。給料は理髪師の三倍以上だったという。貯金などによって給料の全額が支払われたわけではなかったが、それでも朴氏は数年の間に、家一軒建つぐらいのまとまったお金を故郷(韓国)の家族に送金している。妻の和子さんによると、朴氏は戦後、何が何でも“強制連行”を主張しようとする仲間たちに対して、「そうじゃなかっただろう」とたしなめることがあったという。

 もちろん、戦時下のことであり、徴用による朝鮮半島からサハリンへの戦時動員がなかったわけではない。募集などでサハリンに渡った人が、現地で徴用されたケースもある。しかし、どう大げさに見積もってみても「四万三千人」という数字にはなり得ないのだ。

『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』の著者、新井佐和子氏は、日本やサハリン側の公文書を調べたうえで、「正式な徴用で(サハリンに)行った人は数百人に過ぎないだろう。徴用でも内地より高い給料がもらえたし、強制的に連行するようなものではなかった。そもそも、残留韓国人自身が“強制連行”という言葉を知らなかった」と指摘している。

 一方、「朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」という批判も事実ではない。

 終戦時に四十万人以上いた日本人は、二十一年十一月に締結された「米・ソ引き揚げ協定」によって、二十四年までに、そのほとんどが帰国した。だが、終戦後、ソ連が実施した人口調査によって「無国籍者」と分類された朝鮮半島出身者は、引き揚げの対象に含まれていなかった。その理由は必ずしも明確ではないが、当時、米占領下にあった日本は「この決定」に関与していない。というより、関与できなかったのである。


目的は「日本の糾弾」

 サハリン残留韓国人問題が政治問題化したのは、昭和五十年十二月に東京地裁に提訴された「サハリン残留者帰還請求訴訟」がきっかけだった。裁判は、残留韓国人四人を原告にし、日本国を相手どって、「日本へ帰還させること」を求めたものである。原告側は総勢十八人の大弁護団を結成。その“仕掛け人”は、後に「従軍慰安婦」訴訟などで中心的な役割を果たす人物であった。

 訴状の「請求の原因 原告らの身の上」の項にはこう書いてある。

「被告国(日本)は一九三八年、国家総動員法を制定し、人道無視の政策をとり、『聖戦完遂』の美名の下に大量の市民をかり立て、強制労働に従事させた。原告らは当時、日本の領土であった韓国の地を故郷とする一農民に過ぎなかったところ、被告国の政策の犠牲者として『南樺太』の地に強制連行され、日本の敗戦後は同地に置き去りにされて、被告国のなんら外交的保護も受けられないまま、同地にとどまることを余儀なくされている…」(一部省略)。

 また、「原告らの法的地位」の項では、こうあった。「『内地人』は、一九四六年から逐次日本領土内に引き揚げることができたにもかかわらず、被告国は不法にも原告らの引き揚げの機会を奪い、日本国に帰国させない措置をとってきた」。さらに、「日本人として日本領土であった『南樺太』に連行され、出身地の主権国のなんら法的保護も直接受けられないままに放置された原告らは、法律的には少なくとも本邦に帰国するまでは、いまだに日本国籍を喪っていないものと認めざるをえない。日本国籍を喪ったとして原告らを引き揚げの対象から除外した被告国の行為は違憲、違法のそしりを免れない」(同)。

 つまり、「日本が“強制連行”で連れて行ったのに、終戦後、朝鮮半島出身者だけを置き去りにした。日本の責任で帰せ」と主張しているのだ。訴状は、まさに日本糾弾のオンパレードだが、これらが事実でないことはすでに述べた通りである。

 さらに、奇妙なことがいくつかある。残留韓国人が帰りたいのは「韓国」であるはずなのに、原告側は「日本へ帰せ」と訴えていた。その後、どうしようとしていたのか。また、原告が本当に「日本国籍を喪っていないこと」を争おうとしていたのか…。どう考えても無理がある。当時、この裁判にかかわっていた関係者によると、「原告として“選ばれた”残留韓国人の中には、帰国の意思がない人すらいた」という。原告の意思など、そっちのけで、裁判を起こすこと自体が目的だったことがうかがえるエピソードだ。

 この裁判で、原告側はさまざまな証人を法廷に立たせている。日本に帰還した残留韓国人や原告の韓国人妻、家族などだ。ある妻は、法廷で「夫を返せ」と絶叫し、裁判官にコップを投げつけた。ナイフで指を切り、血を流してみせる人もいた。国会議員や報道陣のカメラの前でも同じようなパフォーマンスが繰り返され、ある国会議員は、自分の足にすがって絶叫する韓国人妻の姿を見て、「本当に悲惨なことだ。何とか解決してあげたいと思った」と振り返っている。

 ところが、そのうちに、妻たちのみんながみんな、心底から夫の帰国を望んでいるわけではない、ということが分かってくる。「夫を返せ」とさんざん泣きわめいた女性が、いざ夫の帰国が実現する段になって、会いに来なかったり、「日本に来られるから(泣きわめいた)」とこっそり本音を漏らす人もいた。年月がたち過ぎたゆえの「悲劇」ともいえるのだが、こうしたパフォーマンスは、間違いなく日本糾弾キャンペーンに一役買っていた。先の関係者によると、証言する人たちには必ず、「強制連行でサハリンに連れて行かれた」と主張するように“指導”が行われていたという。

 そして、極め付きが五十七年に二度にわたって証言台に立った“慰安婦狩り”の捏造証言で有名な吉田清治氏である。

 この裁判で、吉田氏は、「昭和十八年に済州島で二百四人の若い女を狩り出し、女子挺身隊として軍に提供した」などと証言した。吉田氏とサハリン残留韓国人問題とは何の関係もない。“強制連行”を印象づけるために証言台に立たせたのである。このことだけを見ても、この裁判の目的が透けて見えるようだが、実際、「吉田証言」を機にこの問題は、“強制連行”や日本の責任が一気にクローズアップされることになってしまう。

 裁判は提訴から十四年後の平成元年六月、原告の四人が死亡または帰国を果たしたことで、訴えの理由がなくなり、原告側が訴えを取り下げることで終了した。だがこの間、こうした事実ではない証言や過剰なパフォーマンスが繰り返されることで、「すべて日本が悪い」という論調ばかりが印象づけられる結果となった。そういう意味では、この裁判の「日本糾弾キャンペーン」は確かに成功したのである。


弱腰になった日本外交

 朴・堀江夫妻らの努力によって、サハリンの残留韓国人が日本で韓国の家族と再会する道が開かれ始めていた昭和六十二年七月、超党派の衆・参国会議員約百二十人によって「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」(議員懇)が結成された。議員懇の事務局には、「サハリン残留者帰還訴訟」の原告側弁護士も加わっていた。

 もちろん、議員らは問題の解決を願って議員懇に参加したのであろう。ただし、一部の議員の主張は、裁判で展開された“日本糾弾キャンペーン”そのままであった。「四万三千人の強制連行」など、誤った認識を前提とした質問を繰り返し、政府の対応をやり玉にあげた。日本が支援を行っても、「まだ足りない」「責任をどう感じているのか」などと再三にわたって、突き上げた。こうした一部議員の行動が、後に日本の支援を野放図に膨らませる一因となるのである。

 この問題で日本政府が最初に支援を行ったのは六十三年のことだ。日本での再会は実現したものの、日本での交通費や滞在費は朴氏らが負担するしかなかった。それを国庫からの補助金で少しでも肩代わりしようという趣旨で支援が始まったのである。ところがその後、日本を経由せず、サハリンから直接韓国へ行けるようになったのに、日本の支援は減るどころか、逆に増額された。その背景に議員懇の一部議員の働きかけがあったことは間違いない。

 日本が支援を始めたころに、議員懇の中心メンバーだった社会党代議士(当時)が、家族との再会のために来日していたサハリン残留韓国人たちの前で「来年から補助金の額をアップさせる」と不用意な発言をしてしまったことがあった。お金の話にはみんな敏感だ。この話はたちまち、サハリン側に伝わり、その結果、それまで関心がなかった人が来日の申請をしてきたり、一度来た人が二度、三度と申請してくるケースが相次いだ。そのうちに、本来の家族再会はそっちのけで、日本での買い物ばかりに熱心な人たちが目立つようになるのである。

 平成元年には、日韓の赤十字によって支援を行う「在サハリン韓国人支援共同事業体」が設立されている。共同事業体といっても、資金を拠出するのはもっぱら日本側だった。当時の事情を知る国会議員によると、「日本政府が直接お金を出すのはまずいので共同事業体の形をとった。最初から韓国側に資金を出してもらう計画はなかった」という。

「日本が悪い」という声が身内から上がるのだから、日本政府の外交姿勢も弱腰にならざるを得ない。平成二年には国会での答弁で、当時の中山太郎外相がサハリン問題で韓国に謝罪。四年には、宮沢喜一首相(当時)が日韓首脳会談において「従軍慰安婦」問題で謝罪している。六年には、河野洋平官房長官(同)が「従軍慰安婦の強制連行」を認める発言をした。

 そして、七年、「戦後五十年記念事業」として、周辺国への謝罪や補償問題ばかりに熱心だった村山富市内閣のもとで、サハリンから韓国への永住帰国者が入居する五百戸のアパートや療養院の建設など、計約三十三億円にも及ぶ巨額の日本の支援(韓国側は土地や年金などの形で永住帰国者の生活費を負担)が決定されるのである。

 サハリン残留韓国人問題に対して、「法的責任はない」としている日本の支援は、あくまで「人道的な支援」のはずだった。そして、一時帰国(家族再会)や韓国への永住帰国が実現したのだから、「問題は解決した」と主張しても良かった。ところが、一部の政治家・勢力はこれを、まるで「戦後補償」のように位置付け、どんどん日本の支援を引き出そうとした。そして、政府の答弁も「歴史的、道義的責任」と微妙に変化し、韓国側やサハリンの残留韓国人側からも、日本の支援強化を求める声が強まっていくのである。「(一部の)日本人が責任を認めているのだから…」というわけだろう。彼らもまた日本の支援を、はっきりと「補償」と位置付けていた。

 四年にサハリンの残留韓国人の団体が日本政府宛てに提出した要求書にはこう書いてある。「一、過去、日本から受けた肉体的、精神的な損害の補償を日本政府に対し、強く要求する。二、在サハリン韓人の永住帰国を韓国政府に促し、帰国に対しての一切の費用を日本側が負担する。(略)」。まるで、「すべては日本が悪いのだから、日本側が費用を負担するのは当たり前だ」と言っているかのようではないか。


至れり尽くせり

 日本の支援は現在も続いている。その内容は別項の通りだが、まさに至れり尽くせりといえるものだ。

 一時帰国(家族再会)は、「何らかの理由で韓国への永住帰国はできないが、韓国にいる家族・親族と会いたい」という人たちのために、サハリン・韓国の民間定期便を使って行われている。平成元年のスタート以降、希望者が一通り、一時帰国したため、数年後には二回目が、そして現在は三回目が実施されている。往復の渡航費、滞在費はすべて日本側の負担だ。逆に、韓国への永住帰国者がサハリンに残る家族・親族を訪問する「サハリン再訪問」も三年前から始まった。

 韓国への永住帰国者の住居から、たびたび行われる一時帰国の交通費、果ては療養院のヘルパー代まで、日本側が負担しているのだ。今年八月末には、サハリンの韓国人のために日本の費用で建てられる文化センターの起工式が行われた。総工費は約五億円。「サハリンの朝鮮民族の伝統保存のため」として、要望が出されていたものだが、センターにはホテルの機能やレストランも設けられるという。

 共同事業体への日本の拠出額はこれまでに約六十四億円に達している。だが、政府内に支援を見直す動きはないようだ。支援事業を行っている日赤国際救援課は、「『支援を見直した方がいい』という声は聞いていない。日本政府が人道的見地から始めた支援であり、『帰りたい』という人がいる以上、今後も続けていきたい」と話している。

「当事者はもういない」

 日本の支援については、もうひとつ大きな問題がある。支援の対象者が極めてあいまいになっていることだ。

 サハリンに渡った朝鮮民族には、大きく分けて三つのグループがある。(1)戦前の早い時期に、新天地での成功を夢見て渡り、そのまま住みついた(2)戦時に、企業の募集、官斡旋、徴用によって渡った(3)戦後、派遣労働者などとしてソ連や北朝鮮地域から渡ってきた−の三つだ。

 いうまでもなく、(1)、(2)、(3)のうち、日本政府がかかわっているのは(2)の一部だけである。当初、日本側には、「税金を使って支援を行う以上、対象者をはっきり区別すべきだ」という意見もあったが、結局はうやむやになった。共同事業体で設定している支援対象者の条件は、「一九四五(昭和二十)年八月十五日以前にサハリンに移住し、引き続き居住している者」というだけである。

 

 この条件なら、終戦までに誕生していれば、一歳でも二歳でも対象者に含まれることになる。実際、韓国へ永住帰国した人たちのなかには、「本当に祖国へ帰りたかった」一世だけでなく、当時、幼児だった子供たちが多く含まれている。彼らの多くはサハリンで結婚し、新たな家族が出来ていた。韓国には長年待っている家族など、ほとんどおらず、父祖の土地でしかない。その永住帰国まで日本が支援しなければならないのだろうか。

 一時帰国者の中にも、韓国に縁者がいない「無縁故者」が数多く含まれていたことが分かっている。数年前にサハリンを訪れた産経新聞記者は、ある韓国人から「私たちは戦前、毛皮の商売をするためにサハリンに来た。なぜ、日本が韓国へただで連れて行ってくれるのか」と不思議そうに尋ねられたという。支援の対象者が(1)、(2)、(3)のどのグループに所属するのかは問われないのだ。しかも、昨年からは、「終戦前サハリンへ渡り、残留を余儀なくされ、終戦後、ロシア本土などに渡った韓国人」にも支援の対象が拡大されることになった。こうした複雑な経歴を、だれが、どうやってチェックしているのだろうか。

 また、六十歳以上の一時帰国者については、付き添い一人が認められている。このため、かなり前から、本来の家族再会の趣旨は隅っこに押しやられ、付き添いの二世、三世が主体となった韓国への“買い物ツアー化”が指摘されている。新井佐和子氏は平成七年にサハリンへ行ったとき、八十歳を超える一世の老人から、「一度一時帰国したので、もう十分なのだが、子供たちが韓国へ行きたがるので二度目の申請をした」といわれた。「飛行機の座席の権利を数百ドルで売る人がいる」といった話も聞いたという。運賃がかからないため、「一回、韓国へ行き、買いこんだ商品を(サハリンで)売ればいい商売になる」という人もいる。それなのに、支援の対象者を選ぶのは韓国やサハリン側に任されており、日本側はチェックする手段もない。

 間もなく戦後六十年になる。夫とともに長く帰還運動を続けてきた堀江和子さんは、「本当に祖国に帰りたかった一世たちはもうほとんど残っていない。支援は打ち切るべきだ」と訴えている。実際、現在、支援を求めているのは二世や三世が主なのだ。

 サハリン残留韓国人への日本の支援に対して、ある官僚が「元々、それほど大きな予算ではない」と漏らしたことがある。“大きな額ではない”予算を出し惜しみして韓国などから、反発を招くのを心配しているのか、それとも、一度獲得した予算を手放すのが嫌なのか…。六十四億円はもちろん、小さな額などではない。そして何よりも、「理由のない支援」を許していいのか。

 サハリン残留韓国人問題について、「日本の責任はゼロだった」というつもりはない。本当に支援が必要だった一世たちへの「人道支援」まで否定しているわけでもない。だが、「すべて日本が悪い」などと“あしざまにののしられた”あげく、日本とほとんど関係のない人たちが支援を受けるのでは、国民も納得しないだろう。

【略歴】喜多由浩氏 昭和三十五(一九六〇)年大阪府出身。立命館大学産業社会学部卒。五十九年、大阪新聞社入社、その後、僚紙・産経新聞に転じ、社会部で運輸省(当時)、国会、警視庁などを担当。ソウル支局、横浜総局次長などを経て平成十二年、社会部次長、十五年から現職。現在の主な関心分野は朝鮮半島情勢、旧満州など。著書に『満州唱歌よ、もう一度』(扶桑社)。

「正論」平成17年1月号
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2005/0501/ronbun1-1.html



reference archives : 【国外元ハンセン病患者への補償再考を】 元サハリン再開支援会 新井佐和子
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by thinkpod | 2007-04-05 14:36


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