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2007年 03月 19日

地球史探訪 : 中国の覚醒(下)

〜 日本で再発見した中国の理想

 孔子の理想は中国では根絶やしに
されたが、日本で花開いていた。

■1.「そういう深いことを最初に考えたのは君の祖先じゃないのか」■

 中国共産党の「反日」政策打倒を決心した石平氏には、もう
一つの転機があった。神戸大学大学院で社会学を学んでいた時、
フランスの近代社会学者エミール・デュルケームの「社会儀礼
論」がゼミのテーマとなった。それは、人々が共に儀礼を行う
ことによって、社会的所属意識を確認して、集団としての団結
を固める、という理論であった。

 儀礼など単なる形式でしかない、と考えていた石氏にとって、
ディルケームの考え方は新鮮で、「さすがにフランスの社会学
者ですね。深いところを見ていると思います」と感想を述べた。

 それを聞いて、指導教官は口許に含み笑いを浮かべながら、
言った。「何を言っているのか君、そういう深いことを最
初に考えたのは君の祖先じゃないのか」

 意表をつかれて戸惑った石氏に、先生は「『礼の用は和を貴
しと為す』という言葉、君は知らないのかね」と言って、メモ
用紙に「礼之用、和為貴」と書いた。

 そうか、分かった。あの論語の言葉じゃないか。20数年前
に祖父に叩き込まれたこれらの文字が、鮮明に浮かんできた。

■2.祖父の不思議な教育■

 石氏の祖父は、中国成都市から遠く離れた田舎の村に住む漢
方医であった。石氏が4歳の時に文化大革命が始まり、大学の
教師であった両親は成都近郊の集団農場に追放されたので、や
むなく石少年を田舎の祖父母に預けたのである。

 竹林に覆われた穏やかな丘、斜めに広がる一面の田んぼ、点
在する農家。7歳になって小学校に通うようになった石少年は、
天気の良い日には、仲間と午後の授業をさぼって、里山の中で
遊んだ。小学5年生で成都市の小学校に移って「毛沢東の小戦
士」として洗脳教育を受けるのとは正反対の、なつかしい「故
郷」がそこにはあった。

 石少年が小学校4年生になった頃から、祖父は奇妙な教育を
始めた。一枚の便せんにいくつかの短い文言を書いて、ノート
に何百回も書き写せと言う。それらは「君子和而不同(君子は
和して同ぜず)」などと、明らかに現代語とは違った言葉であっ
た。誰の言葉か、どういう意味かも、祖父はいっさい教えてく
れない。ただ「書き写せ」との一言のみである。

 さらに祖父は、学校ではこの事を絶対言ってはならない、ま
た書き写したノートは家の外に持ち出してはならない、と厳重
に注意した。そして、便せんと石少年が書き写したノートをす
ぐに回収してしまう。まるで悪いことでもしているような祖父
の行動が、石少年には不思議でならなかった。

 ある夜、トイレに起きた石少年は、祖父が台所でしゃがんで
何かを燃やしているのを見つけた。目をこすってよく見ると、
それは自分が書き写したノートではないか。どうしてそんな事
をしなければならないのか、石少年にはまったく分からなかっ
た。

■3.祖父の「大罪」■

 そのナゾが解けたのは、大学生になって、文化大革命の実態
を知った時だった。文化大革命は中国の伝統文化に対して「反
動的封建思想」のレッテルを貼って、徹底的に弾圧した。祖父
の行為は、もし見つかったら「反動思想をもって青少年の心を
毒する」大罪として、命にもかかわる糾弾を受けていただろう。

 なぜ、そんな危険を冒してまで、祖父は自分に論語を教えよ
うとしたのか。大学の夏休みに田舎の村に帰った時、祖父はす
でに亡くなっていたが、その理由をようやく祖母から聞き出す
ことが出来た。

 祖父は孫の石少年に、自分の医術をすべて伝授して、立派な
漢方医に育てるつもりだった。そして祖父の世代の医術は「仁
術」でなければならなかったので、その基礎教育として論語を
石少年に叩き込んだのである。

 祖父の夢は叶わなかったが、何百回も書き写すことで、論語
の多くの言葉は石氏の記憶の中に刻まれた。論語の一節を耳に
しただけで、一連の語句は次から次へと、湧くように口元に上っ
てくる。

 17年ぶりに日本人の指導教官から「礼之用、和為貴」と指
摘された時も、論語の言葉が即座に脳裏に蘇ったのである。

■4.驚きと感激の発見■

 日本に来たばかりの頃、神戸の大きな書店で「中国古典」と
表示されている一角を見つけた。それは目を見張るほどの光景
だった。

「論語」「孟子」「荀子」「墨子」「韓非子」「史記」「春秋
左史伝」などのタイトルの本が、いかにも気品高くずらりと並
んでいるのである。論語に関する本だけでも書棚数段を占めて
いる。遠い昔の時代に、わが祖国に生まれた孔子様の思想と心
は、数千年の時間と数千キロの距離を超えて、この異国の地に
生きていたのだ。まさに驚きと感激の発見であった。

 その時はまだ天安門事件の直後だったので、論語を手にとっ
て読もうという気は起こらなかった。しかし、指導教官の指摘
から、幼い頃に祖父に叩き込まれた論語の言葉を思い出し、よ
うやく石氏は「論語を一度、ちゃんと読んでみよう」と決心し
たのである。

 最初は金谷治や宇野哲人などの碩学の訳釈を頼りに、原文を
何回も繰り返して読んだ。そこから徐々に日本の儒学研究の大
家たちの「論語論」へと広がっていった。諸橋轍次の『論語三
十講』、吉川浩次郎の『論語のために』、安岡正篤の『論語の
活学』など、大学の図書館にある「論語」関係の本をほとんど
読んだ。

 それは驚嘆と感激の連続であった。日本の研究者たちは、こ
れほどの深さで論語を理解していたのか。論語の言葉一つ一つ
が、様々な角度からその意味を深く掘り下げられて、平易にし
て心打たれる表現で解説されていた。

 しかも、それらの先生方の論語を語る言葉の一つ一つには、
孔子という聖人に対する心からの敬愛と、論語の精神に対する
全身全霊の傾倒の念が込められていた。

 言ってみれば、わが孔子とわが論語は、まさにこの異国
の日本の地において、最大の理解者と敬愛者を得た感じで
あった。

 特に、本場の中国において、孔子と論語が、まるでゴミ
屑のように一掃されてしまった、「文化大革命」の時代を
体験した私には、この対比はあまりにも強烈なものであっ
た。私に論語の言葉を書き写させた例のノートブックを、
夜一人でひそかに燃やしたわが祖父の姿を思い出す時、隣
の文化大国の日本で広く親しまれて敬愛されていることが、
孔子様と論語にとってどれほど幸運であるのか、感嘆せず
にはいられなかったのである。[1,p151]

■5.「やさしい」日本人に見た「忠恕」の道■

 こうして論語を再発見して、改めて日本での生活を省みると、
孔子や論語が学問の世界だけでなく、日常生活にも生きている
ことに石氏は気がついた。

 たとえば、孔子の思想の中核をなす「仁」と「如」。「仁」
とは「人を愛すること」、「如」とは「まごころによる他人へ
の思いやり」。この二つをあわせれば、それはそのまま日本で
いう「やさしい心」になるのではないか。

 ところが現代の中国語には、この「やさしい」という日本語
にそのままぴったりと当てはまる表現がないことに、石氏は気
がついた。

 大学で学んでいる頃、同じ四川省出身の女子留学生のCさん
から電話があり、中国語で話していた時の事である。彼女は
「我覚得他還是一個很ヤサシイ的人(彼はやっぱりやさしい人
間であると思う)」と、「やさしい」という所だけ日本語をつ
かった。そして、石氏も同様に「やさしい」という所だけ日本
語を使って、「そうだ。僕も彼はやさしい人間だと思う」と相
づちを打った。

 中国人同士で中国語で話しているのに、どうして「やさしい」
という一カ所だけ日本語を使わなければならないのか。中国の
一流学者グループによって編纂された上海商務印書館の『日中
辞典』では「やさしい」という一語の意味を、「善良」「慈悲」
「懇切」「温情」「温和」「温順」など10以上の単語を並べ
て説明している。

 しかも、これらの中国語の単語一つ一つは、「もっとも良い
人間」を褒め称えるのに用いる最上級の言葉である。それらを
10以上も集めて、ようやく日本語の「やさしい」という一つ
の言葉の意味を伝えることができるのだ。それほど、現代中国
人の社会では「やさしい」人は希なのである。

 しかし、日本では「やさしい人間」はどこにでもいる。石氏
が出会っただけでも、大学のやさしい先生、ボランティアのや
さしいおばさん、学生寮のやさしい管理人、八百屋のやさしい
おやじさん、、、

 現代中国ですでに死語となっている「仁」と「如」は、今や
形を変えて「やさしい」という日本語の中に生きている。そし
て論語の中でもっとも大切にされている「仁」と「如」の心は、
「やさしい」心として、多くの現代日本人の中で息づいている
のである。

「孔子の道」も「論語の精神」も、格別に難しい道ではない。
ごく普通の日本人のように「やさしい心」を持って生きていけ
ばそれで良いのだ。こうして石氏は、自分の祖先の古の道を、
日本語と日本人とのつきあいを通じて再発見したのである。

■7.日本語を通して学んだ「礼の心」■

 もう一つ、孔子と論語がこの上なく強調しているのが「礼」
である。そして、石氏が日本に来て早々、大いに感心したのが
日本人の礼儀正しさであった。

 今でも鮮明に覚えている場面の一つだが、日本留学の身
元保証人になっていただいた日本人の家に、初めて招待さ
れた時、玄関に入ると、この家の初老の奥様は何と、玄関
口に正座して私たちを迎えてくれたのである、私がお世話
になる一留学生の身であるにもかかわらず!

 その時に受けた「カルチャーショック」は、まさに「ショッ
ク」というべき衝撃であった。孔子様のいう「礼譲の国」
とは、ほかならぬこの日本であると、心の底から感激した
のである。[1,p153]

 特に、文化大革命以来の、紅衛兵流の荒々しさと「無礼講」
が社会的流儀となった中国から来た石氏にとって、これはあま
りに美しく、あまりに優雅に見えた。

 さらに、日本語の勉強が進むにつれ、日本語こそまさに「礼
譲の国」にもっとも相応しい言葉であることが分かってきた。
中国語では漢方医の祖父の世代までは、たとえば、相手の両親
のことを「令尊・令堂」などと尊称を使うが、日本語の敬語は
それだけでなく文法まで規則正しく変えなければならない。

「ご両親は元気ですか」ではダメで、「お元気でいらっしゃい
ますか」である。逆に自分のことに関しては「ご両親の世話に
なっている」ではなくて、「ご両親のお世話になっております」
と言わねばならない。石氏は苦労してこうした「尊敬語」や
「謙譲語」をマスターした。

 今から考えてみれば、結局、私が「礼」というものを学
んだのは、まさに日本語の勉強を通してである。

 敬語としての日本語から入ることによって、私はいつの
まにか、尊敬と謙譲の姿勢をごく自然に身につけることが
できるようになっていた。

「礼語」としての日本語を学び、それを実生活の中で使い
こなしていくことによって、私は知らず知らずのうちに、
まさに「礼の心」というものを、自分自身の内面において
育てることができたのだった。[1,p159]

■8.儒教の理想は日本で花開いた■

 孔子の教えは、古代中国で生まれたが、そこでは根付かなかっ
た。随の時代に導入された科挙制度によって、儒学の知識は官
僚になるための国家試験の対象とされ、言わば出世栄達の道具
と化した。さらに毛沢東の文化大革命によって、儒教を含めた
中国の伝統思想と文化は根こそぎにされた。

 そして、今の中国の大地で生きているわが中国国民こそ、
論語の心や儒教の考え方からは、もっとも縁の遠い国民精
神の持ち主であると、多くの中国人自身が認めざるを得な
い厳然たる現実なのである。

 少なくとも、私自身からみれば、世界にも希に見る、最
悪の拝金主義にひたすら走りながら、古の伝統とは断絶し
た精神的貧困の中で、薄っぺらな「愛国主義」に踊らされ
ている、現在のわが中国国民の姿は、まさに目を覆いたく
なるような醜いものである。[1,p178]

 儒教はその生地では枯渇したが、その種子は日本において花
開いた。儒学の思想と精神を受け継いだのは、中江藤樹[a]や
石田梅岩[b]などの求道者を輩出した江戸時代の日本である。
そして、その精神は明治の指導者たちに受け継がれ[c]、特に
教育勅語に取り入れられて、近代日本の建設の指導的精神となっ
た。

 儒教とは、まさに近代日本によって再生され、近代の日
本と共に輝いたのである、と言えよう。[1,p177]

 そういう意味では、私自身は一人の中国人でありながら、
むしろ日本という国と、この国に受け継がれてきた伝統と
文化に、親近感と安らぎを感じていて、一種の精神的な同
一感を持つようになったわけである。[1,p178]

 現代の多くの中国人が、石平氏のように、中国共産党の「反
日愛国教育」の欺瞞に気がつき、そして自国の伝統思想・文化
に目ざめた時、彼ら自身の理想が結実した日本社会に「精神的
な同一感」を覚えるだろう。それが真の日中友好のスタートと
なるのではないか。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(324) 中江藤樹 〜 まごころを磨く学問
 馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、ひたひ
たと琵琶湖沿岸から広がっていった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog324.html
b. JOG(406) 石田梅岩〜「誠実・勤勉・正直」日本的経営の始祖
 それは経済的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさへの道で
もある。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog406.html
c. JOG(279) 日本型資本主義の父、渋沢栄一
 経済と道徳は一致させなければならない、そう信ずる渋沢に
よって、明治日本の産業近代化が進められた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog279.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 石平『私は「毛主席の小戦士」だった』★★★★、飛鳥新社、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4870317613/japanontheg01-22%22


石 平『私は“毛主席の小戦士”だった』
中国の“微笑”を信じるなかれ 強硬策から転換した対日外交の企み

by thinkpod | 2007-03-19 18:19 | 中国


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