2007年 02月 20日

南京虐殺はホロコーストではない

米歴史学者の『ザ・レイプ・オブ・南京』批判
アイリス・チャンが依拠するバーガミニは定評ある歴史家によって退けられているのだ
(『アトランティック・マンスリー』98年4月号より転載 塩谷紘訳)

デビッド・M・ケネディ
スタンフォード大学歴史学部長


 「残虐行為は、傷付いた獣を追うジャッカルさながらに、常に戦争につきまとうものである」

 マサチューセッツ工科大学(MIT)の歴史学者、ジョン・W・ダワー教授は、太平洋における第2次世界大戦史を論じた自著、『War without Mercy』(1986年、邦訳『人種偏見』TBSブリタニカ)でこう述べている。
 非人間的行為は、第2次世界大戦を戦ったあらゆる軍隊の背後に、死骸に飢えた悪霊のように忍び足でついて回った。
 状況は連合国側も枢軸国側も同じだった。
 独ソ戦にみられた残虐行為は全世界の知るところであり、ヒトラーによるユダヤ人の組織的な抹殺作戦はなかでも最も極悪非道の行為だった。
 ホロコーストは、人類が悪魔的所業を犯す能力の象徴として、われわれが生きるこの時代の恐怖に満ちたシンボルとして定着している。
 ホロコーストの記憶は今なお世界の人々の想像力の中で生きのび、人類の未来を予言する哲学者たちの確信を揺るがせ、教会を司る人々の言行の正当性を問い、芸術や文学に暗い影を落とし、この問題について熟慮するあらゆる人々の心胆を寒からしめている。
 そして、半世紀以上を経た今日、ホロコーストの記憶はまた、諸政府の政策に影響を及ぼし、国家間の関係を決定付けたりさえしているのである。
 事実、ホロコーストをめぐる現代の論議は、残虐の政治学を理解したいと願う人類の近代的衝動の発露であると同時に、人間を残虐行為に導く本能を分析し、そして可能なことならその本能そのものを制御することを目論んだ一時代前の文化的プロジェクトに、規模と熱烈さの点で匹敵する作業なのである。
 現代においては、苦難の政治学をコントロールしようとする努力は、悪の心理学を理解しようとする努力に取って代わりさえしつつあるのかもしれないのだ。
 アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のサブ・タイトルは『The forgotten Holocaust of World War II(第2次世界大戦の忘れられたホロコースト)』とある。
 これは、世界がアジアにおける戦争をヨーロッパにおける戦争と同一視し、日本軍のサディズムの犠牲者となった中国人にホロコーストの犠牲者と同等の資格を与えよと主張する著者の意図を示すものである。
 確かに、日本軍による1937年12月の南京陥落後に同市で起きた惨事に記録は、冒頭に引用したダワー教授の言葉の正しさを証明するものだ。
 しかし、南京における出来事が果たしてホロコーストと比較するに相応しいかどうかは、別の問題だろう。
 また、日本人によって完全に忘れられてしまったかどうかは、疑わしい。
 日本の中国侵略は、1931年の満州占領から始まった。
 この事件は、上海在住の日本人に対する中国側の報復を招いた。
 これに対し、日本側は上海出兵で応じたのだった。
 日中両軍の激烈かつ戦闘地域が限定された戦いが、1932年の大半を通して繰り広げられた。
 戦火はその後下火になり、数年間の小康状態が続いた。
 その間、日本は満州支配体制の強化を進め、一方中国は、次第に激化しつつあった蒋介石の国府軍と毛沢東の共産軍との内戦に大きく揺れ動いていた。
 西側社会は、大恐慌と増大しつつあるヒトラーの脅威に気を奪われ、アジアで湧き上る危機に対してほとんど打つ手はなく、ただ傍観するのみだった。
 1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった中国軍と日本軍との小規模な衝突が、日中間の本格的戦争に拡大した。
 日本側は中国と公然と戦うことは、救いようのないほど無力と見なしていた中国政権を懲らしめる絶好の機会と考えていたようだ。
 イギリスのある外交官が見た当時の日本の中国観は、次の様なものだった。

上海、そして南京へ

 「中国は文明国ではなく、定形を欠く民族集団に過ぎない。
 その政府は秩序の維持が不可能なほど無力である。
 共産主義の嵐が荒れ狂い、国家は競い合う軍閥の率いる軍隊や共産軍、そして盗賊の群れによる略奪の餌食となっている」
 一方、国府軍の将軍たちや中国共産主義者たちの圧力下にあった蒋介石は、日本の侵略者たちと対決して決着をつける機会を待ち兼ねていた。
 しかし蒋総統は、北京周辺で日本軍の主力と戦うよりも1932年のシナリオを再現させることによって戦闘の舞台を中国南部に移すことをもくろんだのである。
 蒋は、上海の約3万人の在留邦人に脅威を与えることによって、北支の日本軍を、蒋介石の主たる政治基盤であり最も安全と考えられていた揚子江下流の地域におびき出せると読んだのである。
 この囮(おとり)作戦は成功した。
 日本軍部は目を南に向け、8月23日、当時の日本軍司令官、松井石根大将は上海攻撃を開始した。
 松井大将は中国側の激烈ながら散発的な抵抗(当時蒋の将軍たちは、臆病だという理由で数百名の国府軍兵士を処刑している)に遭いつつ、ジグザグのコースをとりながら上海に向かって前進した。
 兵士の3割死傷者を出した後の11月上旬、ついに上海を占領した。
 蒋にとってこれは深刻な軍事的敗北であったと同時に、その後直ぐに起こることになった、それ以上に規模の大きい惨劇の序曲だったのである。
 日本軍は猛烈な絨毯爆撃の後、揚子江流域に向かい、国府軍の首都南京へと進撃を続けたのだった。

南京を捨てた国府軍

 血の揚子江・・・・・・。
 それより1世紀弱前のことになるが、14年の長きに及んで続き、合計2千万人の犠牲者を出した太平天国の乱(1850−64年)でも壮烈な戦闘のいくつかが、揚子江のこの豊かな流域で繰り広げられた。
 日本の侵略が始まる前の10年間に、蒋の軍隊は揚子江下流地域で共産主義者や労働組合員たちを情け容赦なく皆殺しにした。
 彼らは同時に、イギリス、アメリカ、日本などの領事館を襲撃して略奪を行い、数名の外国人を殺害している。
 松井大将麾下の兵士たちは、煮えたぎるような憎悪と頻発する暴力に満ちた“歴史のボイラー”の中で前進を続けたのだった。
 主戦場である南京城の城門に近づくにつれて、大混乱の中で敗走を始めた蒋の兵士たちはパニック状態に陥り、散り散りになって行った。
 日本軍が接近すると国民政府の役人たちは南京を捨てて逃亡した。
 蒋介石自身も、12月8日、自ら制定した首都から退散している。
 後に残されたのは、可能な限りの後衛を託された唐生智将軍指揮下の、体裁ばかりの部隊だった。
 唐将軍は抵抗する気配すら見せなかった。
 12月12日の夕刻、日本軍の進軍のペースを落とす策として南京市の城壁の外にある家屋に放火することを命令した後、唐は大型ボートに乗って逃亡し、揚子江上流に向かった。
 南京防衛隊の残兵と、揚子江下流地域から南京市に退却してきた兵士たちは、指揮官たちに見捨てられ、市を包囲する火の海に行く手を封じられることを恐れて、可能な限りの安全を求めて暴走した。
 何千もの兵士たちは揚子江の凍て付くような流れの中に身を投じたが、遠い対岸に安全を求めたこの行動が自殺行為だったことは、たちまち証明されたのだった。
 さらに多くの兵士たちは変装して、包囲された市内に潜入することを目論んだ。
 彼等は接近しつつある侵略者の追及をかわすために狂気の争奪を繰り広げた。
 軍服をかなぐり捨て、民間人用の衣服を求めて商店の略奪や市民の襲撃を行い、戦友を踏みにじり、手斧で襲い、機関銃で撃ったのである。
 12月13日、信じ難いほどの混乱現場に、日本軍の先発部隊が侵入してきたのだった。
 当時の南京の中国人居住民たちは、10年にも及ぶ民生の混乱、国府軍による略奪、反政府的暴動、そして本来なら自分達を守ってくれるべき中国人兵士たちによる際限なき暴威に痛め付けられていた。
 だから市民の多くは、流血と火炎の地獄と化した混乱の都市南京に少なくとも一応の秩序をもたらしてくれるかもしれない規律ある軍隊として、日本軍を歓迎したのだった。
 だが、日本軍は南京市民のそのような期待を断然かつ冷酷にふみにじったのである。
 日本軍は南京市内でただちに、国府軍指導部に見捨てられ地下に潜入した中国人兵士の徹底的な捜索を開始した。
 この措置は、国際的に承認された戦争のルール下で認められるものだったが、松井大将の軍隊はそれを目を覆わんばかりのどう猛性をもって実行したのである。
 兵役の年齢に達したすべての青年を一斉検挙して、大規模な機関銃掃射や、連続的な首切りによる処刑を行ったりした。
 こうした処刑は、ときには恐怖に怯えた傍観者の眼前で行われた。
 さらに悪質な行為が続いた。
 市内を徘徊する日本兵の群れは、民間人を手当たり次第に殺害し始めた。
 老若男女のみならず、妊婦の胎内にいる胎児までもが、棍棒、銃剣、小銃、松明(トーチ)、そして日本刀などで無差別に襲撃されたのである。
 松井大将配下の兵士たちは、銃剣訓練のために生身の中国人や、その死体を使っている。
 彼等は数え切れないほどの中国人を拷問にかけ、手足を切断するなどして、不具にしているのだ。
 著者チャンの記述によると、日本兵は中国人の舌に鉤(かぎ)をかけて宙吊りにしたり、酸に漬けたり、手足を切り離したり、手榴弾で殺害したり、刺し殺したり、焼き殺したり、革を剥いだり、凍死させたり、生き埋めにしたりした。
 また、日本兵は無数の婦女子を強姦することによって、南京虐殺のこの不名誉なエピソードに「ザ・レイプ・オブ・南京」という、この事件が以後永遠に知られるようになった名前を授(さず)け、それがチャンの著書にタイトルとしても使われたのである。

俗説に加えてセンセーショナル

 血なまぐさく、ぞっとするような話を好む読者は、この本に決して失望すまい。
 著者はあからさまな残虐行為の多くを堪(た)え難いほどの詳細さで描写しており、グロテスクな光景を言葉だけでは表現出来ない一連の写真を掲載することで、記述を補足している。
 南京大虐殺は、いかなる尺度で考えても破局的な恐怖の事件だが、著者はその恐怖の度合いを計る自分なりの尺度を読者に提供している。
 例えば、中国人の死体を積み上げたらどれ程の高さに達しただろうかを詮索し、日本軍の狼藉によって流された中国人の血の総重量まで紹介しているのだ。
 しかし、俗説を信じ込む傾向と相まって、センセーショナルな表現に走る傾向が、残虐行為に関する記述を特徴付けてはいるものの、著者が引用する証拠の数々が、日本軍の振る舞いに対する決定的な告発であることに疑いの余地は無い。
 南京大虐殺、戦争と戦争犯罪の悲しむべき記録の中で、極端に悪質な怪異的事件として突出している。
 当時の日本の外相、広田弘毅ですら、1938年の南京視察旅行のあとでこう述べている。
 「日本軍は、フン族の王アッチラ大王とその部下を思わせるように(残虐に)振舞った。少なくとも30万人の中国人市民が殺害されたが、多くは冷酷な死を遂げた」(末尾注・参照)
 当時、南京市には、皮肉にも「安全地帯」と名付けられた一角があった。
 これは、同市在住の20数名の外国人によって慌しく結成された「国際委員会」のいささかな頼りない保護の下で運営されており、何万人もの難民が避難しいていた。
 しかし、残虐行為はこのゾーンでさえ繰り広げられたのである。
 委員会はこの暴虐の饗宴について日本当局に繰り返し抗議し、委員達が表現をいくぶん和らげて“無秩序の事例”と呼んだ暴虐を正式に文書にまとめる作業を開始した。
 1939年、同委員会は南京虐殺の425件の事例をまとめた、厳粛かつ法的手続きに基づく記録を発表した。
 委員会によるこの証言に、チャンはさらにその他の事件を加えている。
 それらのうちのいくつかは、戦後行われた極東国際軍事裁判の記録、1937年に南京に取り残された数名のアメリカ人宣教師が帰国後エール大学神学校の図書館に保管した書類、さらにチャン自身が発掘した驚くべき文書・・・・つまり、南京の「安全地帯」を管理した国際委員会の委員長、ジョン・H・D・ラーベが残した日記・・・などから引用されている。
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by thinkpod | 2007-02-20 23:27


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