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2007年 01月 21日

戦後…博多港引き揚げ者らの体験

<5>孤児収容所愛情の記憶
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聖福寮には6畳の部屋が約30室あった。八巻さんの目には「真新しい立派な建物」に映った(1946年8月撮影、内山和子さん提供)
 ◆成長した姿と再会、元園長感慨深く

 終戦から間もなく丸1年となる1946年8月9日。赤い発疹(はっしん)だらけの男の子や、ソ連(当時)の兵隊の欲望から逃れるために髪を短く切った女の子ら約250人が、引き揚げ船から博多港に下り立った。ほとんどは満州(現中国東北部)で両親と死に別れた孤児たち。特に健康状態が悪い44人は、博多引揚援護局が博多港近くの「聖福寺」(福岡市博多区)に設置した孤児収容所「聖福寮」に運ばれた。

 出迎えたのは、後に園長も務める保母、石賀信子さん(89)(同市中央区)。女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」青年班のリーダーだった石賀さんは46年春、引き揚げ者の支援活動を行っていた「友の会」中央本部から「福岡でも支援を始めるように」という電報を受け取った。博多港近くの別の寺を見に行くと、本堂の畳の上に寝転がっていたのは、やせこけた孤児たち。「何とかしなければ」という思いが募り、福岡女学院教諭の職をなげうつことを決めた。

    ■

 44人のうち、当時14歳で最も年上だったのは、八巻博雄さん(74)(宮城県大崎市)。八巻さん一家は満州・蓮江口で生活していたが、ソ連侵攻後に父親は召集され、避難中に祖父母と妹、母が相次いで死亡。残されたきょうだい4人は満州の首都・新京にあった孤児院に入った。八巻さんは汽車のかまからこぼれ落ちる石炭を拾い集め、市場で中国人に売っては生活費に充てた。

 生き抜いた4人は孤児院の保母に連れられ、博多港にたどり着いた。聖福寮に入った時の八巻さんの体重は、現在の14歳男子の平均の半分しかない28キロ。それが1週間後に33キロにまで増えたのは、八巻さんが「今でもごちそうとして通るような食事だった」と振り返るように、白い米のご飯や牛乳、ビスケット、ブドウなど、充実した食事のおかげだった。

 博多引揚援護局から特別に支給されたものが多かったが、石賀さんは「石油缶に入っていた旧日本軍のビスケットを、虫を払い落としておやつに出したこともある」と苦笑いしながら思い返す。

 さらに、聖福寺に開設されていた診療所「聖福病院」から、毎日医師が診察に来てくれた。事務を担当していた波多江興輔さん(82)(東京都豊島区)によると、病院の経営は苦しかったが、聖福寮寮長を兼ねていた小児科医・山本良健さん(故人)が無料で診察を続けたという。

 「『どうしてこんなにきちんとしてくれるのだろう』と思うほど保母さんはやさしかった」と、八巻さんは振り返る。毎日の“仕事”といえば、保母に連れられて年長の子ども数人と博多引揚援護局に行き、牛乳を入れてもらったやかんを持ち帰るくらい。やかんを軽くするために、帰り道ではいつも少し飲ませてもらえた。

 「結婚後の生活よりも思い出深いし、今でも時間のある時に思い出す」。八巻さんにとって、聖福寮での生活は、働きづめの人生の中で安息のひとときと記憶されている。

    ■

 46年11月、4人は一家の出身地・宮城県の児童養護施設に移った。その後、妹は養子に行き、2人の弟は知人や親類に引き取られてきょうだいは散り散りに。八巻さんも親類宅に住み込んで農作業を手伝った後、シベリアから引き揚げてきた父と一緒に宮城県鳴子町(当時)の高原に入植。54年に結婚後は3人の子供に恵まれ、農地9000坪を所有するほどになった。

 「よくない施設だったら聖福寮に返してください」。きょうだい4人を引き取りに来た宮城県の職員に頼んだほど、八巻さんらの行く末を気にかけていた石賀さんは78年10月、八巻さんの農場を訪ねた。家庭を築き上げ、緩やかな丘陵に広がる農場を持つ八巻さんと再会した時、石賀さんは心の中でつぶやいた。「ああ、私の戦後はこれで終わった」

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm



<6>孤児の女性が保母に
 ◆生きる喜び伝えたい


遠藤美都子さん
 現在新潟市に住む遠藤美都子さん(74)は、朝鮮半島北部の恵山鎮で終戦を迎えた。約1か月歩き続けてたどり着いた約180キロ南の咸興の収容所では、1946年2月、父と兄が次々に息を引き取った。

 孤児となった遠藤さんは、46年10月に引き揚げ船から博多港に一人で降り立ち、引き揚げ孤児収容所「聖福寮」(福岡市博多区)に運ばれた。ひざではって歩くほど足が悪く、栄養失調も深刻だった。それでも、サツマイモ入りご飯などの食事のおかげで、次第に健康を取り戻した。

 木造のバラックではあったが、掃除の行き届いた聖福寮は明るさにあふれていた。朝食の後には九州大の学生が来て国語や算数を教えてくれた。清潔なエプロンをつけた保母たちは、いつも洗いたての服を着せてくれ、皮膚に寄生したダニが作る赤い発疹(はっしん)の手当てをしてくれた。

 生活のために咸興で朝鮮人宅に住み込み、家政婦として働いたこともあった遠藤さんにとって、「ただただうれしく、『生きていてよかった』と実感できる毎日」だったが、46年12月、福岡県甘木町(現在の朝倉市)の叔父に引き取られ、聖福寮での生活は3か月で幕を下ろした。

 中学卒業が近づき、独り立ちの道を模索していた時、聖福寮での楽しかった思い出が心の中に浮かんだ。自分が経験したような喜びを、今度は自分が子供たちに与えてあげられたら——。思い立ったのが、保母になることだった。

 「子供と話す時はひざを落として目を同じ高さにするなど、子供のことをいつもきちんと考えていた」と、尊敬していた保母の石賀信子さん(89)(福岡市中央区)に相談の手紙を送ると、絵はがきにペンでつづった返事が届いた。

 「聖福寮のお仕事を手伝って下さったら本当にうれしい」

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保母だったころの遠藤さん(右端)と、ひな飾りを前に写真に納まる子供たち(遠藤さん提供)
 引き揚げ孤児収容所・聖福寮から、働く女性のための託児所に衣替えした「聖福子供寮」での仕事が、49年11月から始まった。保育を学んだ経験のない遠藤さんは、思わず大声を上げることもあった。

 聖福子供寮長だった山本良健さん(故人)の二男で、51年3月に入園した良樹さん(58)(千葉市若葉区)は、「石ころか何かを教室に持ち込んだ時に、かん高い声で怒られたことがある」と思い返す。

 遠藤さんも、「いたずらをした子供の食事を抜いたこともあったし、一番怖い先生と言われていました」と自認するほどだったが、愛情があればいつの日か子供は理解してくれると、ひるむことはなかった。

 新しい人生の門出の舞台も、聖福子供寮から名称を改めた「いづみ保育園」だった。九州大助手だった治郎さん(74)と58年4月に結婚した時、同園の大広間で披露宴を行ったのだ。ウエディングドレスは石賀さんが子供の親に頼んで仕立ててくれ、保母の内山和子さん(84)(福岡市中央区)がウエディングケーキに腕を振るった。

 披露宴前日には、受け持っていたすみれ組の子供たちが、「あしたは先生の結婚式」と、窓ガラスをていねいにふいてくれた。

 治郎さんの仕事の都合で熊本に引っ越すことになり、61年3月、遠藤さんはいづみ保育園に別れを告げた。

 「孤児として引き揚げてきた私を生活させてくれ、一生の仕事まで見つけさせてくれた。聖福寮がなかったら、今の私はありませんでした」

 60年前、聖福寮で撮影した栄養失調で細い腕の自分の写真に目を落としながら、遠藤さんは繰り返した。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm


<7>子どもの心潤した食事と行事
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「よくみる よくきく よくする」という、いづみ保育園の標語の前に並んだ子どもたち(1953年3月、遠藤美都子さん提供)
 朝鮮半島などからの引き揚げが一段落した1947年3月、引き揚げ孤児収容所「聖福寮」(福岡市博多区)は、働く女性の子どもを預かる託児所「聖福子供寮」に衣替えした。

 終戦からまだ1年半余。食べていくのに精いっぱいの親が多く、全くしつけを受けていない子どもが続々と入寮した。一方、出迎える保母の大半は、保育を学んだことも、育児の経験もない人ばかり。

 「私たちにできることは、子どもが長時間暮らす託児所の中だけでも、『きちんと生活させること』しかなかった」。当時の寮の教育方針について、後に園長も務める保母の石賀信子さん(89)は、振り返る。

 「きちんと生活させる」ために、保母らが力を注いだのは、食事だった。

 「おやつがあるから聖福子供寮がいい」。家から近い幼稚園に“転校”させようとした親に、こう言って抵抗する子どもがいたほど、恵まれた食事は子どもの心を潤した。


聖福子供寮ができたころ、幼い子供を預かる保育園は少なかった。「閉園時にはかなり増えていたので、『役割は終わった』という満足感もあった」と石賀さんは振り返る
 石賀さんをはじめ保母の中には、女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」の講習会で、しゃれた料理を習い覚えた人が多く、子どもたちに出す食事でその腕を振るったからだ。

 その中の一人だったのは、内山和子さん(84)(福岡市中央区)。当時の日課は、夕方になると5分ほど歩いて米軍のPX(売店)の裏口に出かけ、切り落とされた柔らかいパンの耳を段ボール箱に入れてもらうことだった。

 情けない思いはよぎったが、「子どもを喜ばせることができる」という思いが勝った。パンの耳をもとに作ったのは、講習会で習った洋菓子「パンプディング」。子どもたちは、初めて見るおやつを、歓声を上げながらほおばった。

 52年9月に聖福子供寮から「いづみ保育園」に名称が変わっても、食事は充実していた。「タンシチューやロールキャベツが日常的に出された」。聖福子供寮長だった山本良健さん(故人)の二男で、卒園生の良樹さん(58)(千葉市若葉区)が懐かしむように、レストランで出るような洋食が子どもの食卓を彩った。

 また、七夕や海水浴のほか、クリスマスには、山本さんらがふんしたサンタクロースがプレゼントを配るなど、季節ごとの行事が子どもの心を浮き立たせた。

 季節感のある行事は、整った食事とともに、「きちんと生活するうえでの基本」(内山さん)だった。そうした保母たちの思いは、良樹さんが、「個性豊かな保母たちが、愛情を込めて与えてくれる豊かな生活が、いづみ保育園の魅力だった」と振り返るように、子どもの心にも伝わった。

 いづみ保育園の原点となった聖福寮は、終戦後の混乱期、正式な契約もないまま聖福寺の境内に建てられたものだった。グアム島に残留していた元日本兵2人の生還が大きなニュースとなった60年、土地の返還を迫られたが、移転する土地も見つからず、65年3月、最後の卒園生18人を送り出して閉園した。

 引き揚げ孤児を守り育てた聖福寮の発足から、いづみ保育園の閉園まで19年。この間に引き揚げ孤児164人を含む981人が巣立っていった。

    ◇

 「戦後—博多港引き揚げ者らの体験」は今回で終わります

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060831.htm



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敗戦後の日本女性強姦についてはソ連兵が悪名高いが、実際には
朝鮮人によるものがダントツで多い。

「水子の譜(うた)」上坪 隆
----- ドキュメント引揚孤児と女たち -----
ttp://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60009096&genreid=10010

二日市保養所の資料は、六月十日の報告書
183 ページ "地域別と加害者"
これは、2ヶ月分だけの記録
加害者の6割が朝鮮人だと示しています。

不法妊娠(強姦等による妊娠 救療部の用語)ヲ地区別ニ分類スルニ北朝24ニシテ最多、
南鮮14、満州4、北支3ノ順序ニシテ
鮮人ニ因ルモノ28、ソ連人ニ因ルモノハ8、支那人ニ因ルモノ6人、
米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ


この記録は、たった2ヶ月だけ。
堕胎施設は、二日市保養所の他にもあるし、氷山の一角に過ぎない。
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by thinkpod | 2007-01-21 19:06


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