2007年 01月 21日

戦後…博多港引き揚げ者らの体験

<1>「ソ連が来る」息潜めた
 ◆略奪、暴行 苦難の果ての祖国

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漁船で引き揚げてきた人たちもいた(「米軍が写した終戦直後の福岡県」より)
 ロシアと国境を接する中国黒竜江省の省都・ハルビン。「満州国」時代には日本が支配したこの都市に、高等女学校教諭として赴任していた溝口節さん(83)(福岡県大野城市)は、ある光景が脳裏に焼き付いて離れない。

 終戦直後の1945年9月、日本人の避難所だった自宅隣のホテル。自宅窓からのぞき見ると、上半身裸のソ連(当時)の兵隊が、ホテル窓から室内へと押し入った。間もなくして、女性の悲鳴が深夜の街に響き渡った。

 「ソ連兵に捕まったらどうなるか。具体的にはわかってなかったけど、『とにかく大変なことになる』とは感じていました。だから不安でたまりませんでした」

 溝口さんが、日ソ中立条約を破って満州(現中国東北部)に侵攻してきたソ連兵に初めて遭遇したのは、その半月ほど前。学校にいた時、小銃を提げた5、6人がトラックで乗り付けてきた。教室に入るなりミシンや地図を探し出し、トラックに積み込んで持ち去った。

 この時は「泥棒みたいな兵隊だな」と感じた程度だったが、次第に、ソ連兵は民家に押し入り、貴金属から衣類、色鉛筆まで、手当たり次第に略奪するほど治安は悪化していった。

 そんなころだった。ノックの音で何気なく自宅のドアを開けると、ドアの前に立っていた、近所に住む叔母にいきなり怒られた。

 「あんた、何やってるのよ。うろうろしていないで隠れないと」

 「夫の前で暴行されて、青酸カリで自殺した奥さんもいるらしいのに」

 その日から、溝口さんは床下の高さ50センチ、広さ6畳ほどの空間で、息を潜めて暮らすことになった。治安がやや安定した1か月後にはい出した時には、日に当たっていない肌は白くなり、一人では歩けないほど脚が衰弱していた。

    ■   □

 自宅を捨てたどり着いた日本人の収容所が、ソ連兵に襲われた体験を持つ人もいる。

 「チャラ、チャラというサーベルの鎖の音と、軍靴の硬い靴音は今でも忘れられない」と振り返るのは、山本千恵子さん(69)(福岡県太宰府市)。

 山本さんは家族6人で、朝鮮半島北部にある白頭山から東に約150キロの羅南で暮らしていた。ソ連侵攻後の45年8月13日、6人家族のうち、召集された父親を除く一家5人は山中に避難。ひたすら南側に向かって歩き続け、2か月後、約300キロ離れた興南の日本人収容所にたどり着いた。

 しかし、弟がチフスで命を落とす。母が出産した女児はすぐに死亡。母親も3日後に息を引き取った。収容所での肉親は、当時9歳だった山本さんと姉、妹だけとなった。

 「ソ連が来る」

 ささやくような声が、収容所の棟から棟へと素早く伝えられる。1畳に2、3人が寝る狭い部屋だったが、みんなで畳を持ち上げ、若い女性を床下に押し込んで手早く元に戻した。

 「マダム、ダワイ!(女を出せ)」

 わめき声が近づき、サーベルの鎖と軍靴の音がドアの前で止まった。ドアを開けたソ連兵は、息を潜める一人ひとりの顔をのぞき込み、時には頭をつかんで顔を正面に向けさせ、女性でないかどうか確かめることもあった。

 1度だけ、収容所の外で女性の悲鳴を聞いた。悲鳴は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 「男性に見せかけて暴行を逃れるために、女性は髪を短く切って男物の服を着たり、顔に墨を塗ったりした。子供心にも『ソ連兵が来た時は黙っていないといけない』と思っていた」

 収容所であった出来事を思い起こす時、山本さんの顔は今でもこわばる。

    ■   □

 帰国への最後の難関は、引き揚げ船だった。

 京城(現韓国ソウル市)で生まれ育った森下昭子さん(79)(福岡市城南区)は45年10月、家族や親せきと満員の列車に乗り、釜山近くの街・鎮海にたどり着いた。1500トンの船には引き揚げ者が次々に押し込まれ、森下さんは、明かりもない真っ暗な甲板にひざを抱えて座り込んだ。聞こえてくるのは子供の泣き声と病人のうめき声、そして船が波を切る音だけ。船全体が暗い海に吸い込まれていくようで不気味だった。

 「博多に着いたぞ!」

 翌日、大声が聞こえた。船の先には、空襲で焼けただれた博多の街が広がっていた。下船後、人影もなく、黒っぽいがれきだけが広がる街を、博多駅まで30分ほどかけて歩いた。京城で育った森下さんにとって、日本は初めて足を踏み入れる“異国”。「これから私はどうなるのだろう」。不安でいっぱいだった。

 博多港に引き揚げてくる人の波は途切れなかった。そのなかには、ソ連兵などに暴行されたために、体に変調を感じている女性もいた。

    ■   □

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 終戦後の45年11月から約1年半の間に、朝鮮半島や中国大陸から約139万人が引き揚げてきた福岡・博多港。韓国への高速船や中国へのコンテナ船が次々に出港していく現在の博多港では、「博多港引揚記念碑」以外に、命からがら引き揚げてきた人たちがいたことを示す跡は見当たらない。海峡を越えてたどり着いた祖国で、人々は何を見、何を体験したのか。引き揚げ者らの「戦後」を報告する。

 メモ 終戦時、海外にいた軍人や市民などの日本人は約660万人。その半数以上が中国大陸で生活していた。終戦直前の1945年8月9日、ソ連が、翌年4月までが期限の日ソ中立条約を破り、満州と朝鮮半島北部に侵攻。満州では戦中に約6万人、停戦後に約18万5000人が死亡したほか、北朝鮮で約2万8000人が亡くなった。混乱した満州では、肉親と離れて取り残された「中国残留孤児」や、集団自決などの悲劇が起きた。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060720.htm



<2>医師らひそかに中絶手術
 ◆厚生省「超法規的措置」で保養所開設

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二日市保養所。入り口脇には「厚生省博多引揚援護局保養所」の看板がかかっていた(福岡市総合図書館所蔵「博多引揚援護局史」より)
 「不幸なるご婦人方へ至急ご注意!」。満州(現中国東北部)や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。

 「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり……そのため体に異常を感じつつある方は……」「診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」

 全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連(当時)の兵隊などの暴行で妊娠していた女性には見当が付いた。

 中絶手術。優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。

    ■

 ビラを配ったのは、現在の韓国の首都ソウルにあった京城帝大医学部の医師たちのグループ。

 このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、ほとんどは45年12月ごろに帰国。引き揚げ者の治療を続けるため、外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え。46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺「聖福寺」に、診療所「聖福病院」を開設した。

 帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか——。きっかけは、暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。

 このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。しかし、話しかけても泣くばかり。両親から「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。

 すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。

 外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。

 医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。

    ■

 医師らから提案を受けた厚生省(当時)博多引揚援護局は福岡県と交渉し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月、「二日市保養所」を開設した。

 厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、当時、聖福病院に勤務していた元職員は「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」と推測する。

    ■

 京城日赤病院に勤務していた村石正子さん(80)(筑紫野市)は、45年12月に帰国した後、母親のふるさと・種子島で暮らしていた。「仕事を探しているなら二日市に来るように」。約3か月後、日赤幹部から1枚のはがきが届いた。

 二日市保養所を訪ねると、京城日赤病院時代の看護師10人が集まっていた。

 医師から仕事の内容を聞かされ、風呂場を改造して手術台と戸棚を置いただけの“手術室”に案内された。宿舎としてあてがわれた2階の10畳の和室では、「中絶手術って違法じゃないの?」と話し合った。

 だが、悩んでいる余裕はなかった。数日後、トラックが到着した。荷台に乗っていたのは、短い髪に汚れた顔、男性用の服をまとった人たち。「男か」と思ったが、下腹部の膨らみを見れば女性であることはすぐにわかった。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060727.htm



<3>麻酔なしの中絶手術

特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、今年5月14日に行われた「水子供養祭」(福岡県筑紫野市で)
 ◆恨みと怒りの声、手術室に響く

 引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。

 麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。

 「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」——。手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。

 おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。

 幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。白い肌に赤い髪、長い指——。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。

 食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。

 死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった吉田はる代さん(78)(埼玉県川口市)らの仕事だった。手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。

 手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。会話もなく、横になっているだけ。大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。

 女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400〜500人にのぼると見られる。

 1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。

 島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。

 二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。「私はこの手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060803.htm



<4>日誌につづられた悲劇
 ◆相談員だった母…暴行・妊娠を聞き取り

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博多港とほぼ同じ約139万人が引き揚げてきた佐世保港。「引揚第一歩の碑」が立つ
 戦後、九州で博多港とともに中国大陸などからの主な引き揚げ先となった長崎県・佐世保港。佐世保市に住む中山與子(ともこ)さん(66)の母、西村二三子さんは、終戦翌年の1946年5月、佐世保引揚援護局が設置した「婦人相談所」の相談員だった。西村さんは77年に70歳で亡くなったが、その数年前に相談員だったことを中山さんに打ち明けていた。

 「相談員当時の母は、朝早く家を出て、夜には消毒薬のにおいをさせながら帰宅していました。でも、何の仕事をしているのか、具体的には全くわかりませんでした」。中山さんは振り返る。

 相談員を務めたのは、女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」会員の主婦たち。15〜50歳の女性引き揚げ者を対象に、引き揚げ中に暴行を受け、妊娠していないかどうかを聞き出し、妊娠している場合は、中絶手術を受けさせることが役目だった。

    ■

 相談員だったことを打ち明けた西村さんは、「問診日誌」と題した、便せんをとじ込んだつづりを中山さんに手渡した。西村さんら相談員による聞き取り記録で、女性たちが満州(現中国東北部)などで受けた暴行被害が克明に記されていた。

 ▽16歳の女学生がソ連軍(当時)の司令のところに連れて行かれ、暴行されそうになったので、見るに見かねて身代わりとなった。

 ▽ソ連兵から女性を要求されたため、売春をしていた女性を雇いに行く途中に暴民に金を奪われた。やむを得ず、未婚の女性47人を出し、足りないので、さらに未婚の女性80人を出した——。

 日誌では引き揚げ者の女性たちは、つらい体験を具体的に語っていた。だが、暴行のために妊娠した女性について、佐世保引揚援護局史には、「婦人相談所で事情を調査し、療養処置を要する婦女子は国立佐賀療養所(現在の東佐賀病院)に移送した」としか記されておらず、実態は明らかではない。

    ■

 佐賀療養所でどのような治療が行われたのか——。同援護局史には書かれていない事実の一端が、一通の手紙からうかがえる。

 手紙は戦争にまつわる女性の被害を調べていた九大医学部卒の産婦人科医・天児都(あまこくに)さん(71)(福岡市城南区)が97年、九大医学部産婦人科教室OBの医師数人に尋ねたところ、1人から送られてきたものだ。

 「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」「(産婦人科教室の医師が)1、2か月交代で佐賀療養所に行っていた。患者の大部分はソ連兵や現地住民に暴行されて妊娠した人で、妊娠中絶が主な仕事だった」——。

 厚生省の指示によって、国立病院で、当時は原則として違法だった中絶手術を国立大医学部の医師たちがひそかに行っていた——と告白する内容だった。

    ■

 組織ではなく、個人的に中絶手術を手がけたという医師もいる。博多引揚援護局が福岡県筑紫野市に設置した二日市保養所に下宿しながら九大医学部に通った東京医科大名誉教授・相馬広明さん(84)(東京都世田谷区)。

 相馬さんは終戦後、国立福山病院(広島県福山市、現在の福山医療センター)で、18歳くらいの女性の手術をした。卵巣の腫瘍(しゅよう)だと診察したが、開腹して妊娠と判明。慌てて腹部を縫い合わせ、麻酔から目を覚ました女性に聞くと、「実は終戦直後にソ連兵に暴行された」と打ち明けられた。

 相馬さんは女性に中絶手術をし、ほかにも同様の手術を数件行ったという。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060810.htm
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by thinkpod | 2007-01-21 19:10


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