2007年 01月 05日

大東亜戦争肯定論

林房雄
終章ー「あとがき」にかえて

・・・最近「明治百年と戦後二十年」の出題のもとに、数人の評論家たちの論争
が「朝日新聞」紙上で行なわれた。私もそれに参加したが、論争的態度はできるだ
けさけて、私の見地だけをのべた。「肯定論」の結語にもなっていると思うので、
ここに再録させていただく。

ーーー いかに産業と経済が繁栄し、大建築と娯楽施設と大道路が完備し、指導者
が平和をほこり、民衆が唱和しても、もしその民族が精神の活力と創造性を失った
時、彼らの「文明」は退廃期に入り、やがて滅亡する。
現在の日本の世相を言っているのではない。 歴史について語っているのだ。

ギリシア・ローマ文明もそのようにしてほろび、エジプト、マヤ、インカ文明も巨
大なピラミッドと神殿の廃墟のみを残して消え去った。 七千年の世界史について
みれば、多くの文明が興亡し、現在もいくつかの文明が並存し闘争している。

異文明の生んだ科学と技術は受け入れやすいが、「精神文化」は芸術に見るがごと
く一回性の創造物であるから、これをそのまま受け入れることは、きわめて困難で
あるばかりか、危険であり、実は受け入れた側の「文明」の降伏と滅亡である場合
が多い。

ただし、異文化の「精神文化」も、これと戦いつつ土着させ得た場合には、新文明
を生む。キリスト教は西洋の所産ではなく、シリア文明が生んだものだ。だが、西
洋諸国はローマ帝国の末期にこれを継承し、さらにカトリック、ギリシア正教、新
教等に消化改変して自国に土着させ、それぞれの民族と国家の活力の源泉とした。

アメリカ・デモクラシーとロシア・コムミュニズムという「神なき宗教」の背後に
キリスト教が潜在または顕在していることは明らかである。インドに生まれ、シ
ナ・朝鮮を経て渡来した仏教の日本における土着化も同じ長い消化と改変の過程を
とった。

この立場から見れば、「明治百年と戦後二十年」を対立させることは、視野の狭さ
において、ほとんどナンセンスである。だが、私はこの論争を笑わない。少なくと
も現在の日本人にとって重大で興味深い問題をふくんでいる。

私は明治百年も戦後二十年も、西洋文明の挑戦に対する日本文明の抵抗と応戦だと
見る。百年と二十年のあいだに本質的な差異はない。
ないものをあると強弁する論者の主張は笑止千万だが、敗戦に重点をおきすぎる
と、この近視意見も発生する。
彼らは、「勝敗は戦場の習い」という言葉を忘れているのだ。

敗戦直後の焼け野原に立ち、七年間の占領下にあって、だれが今日の日本の「奇跡
的復興」を予感し得たか? 私にはできなかった。
復活がもし可能だとしても、五十年百年の後だ。

罪なきわが子孫、わが国土のために、力のつづくかぎり働こうと決心して、わずか
に自分をなぐさめえただけである。
そして、奇跡は起こった。占領軍撤退後十年を待たずに、日本は復活しはじめた。
これをアメリカの援助と朝鮮戦争のみに帰するのは短見である。
日本人は働き、抵抗した。廃墟に生きて働くこと自体がすでに抵抗である。日本人
はそれぞれの立場と方法によって四方八方に向って抵抗した。
吉田首相も太田総評議長も、経営者も労働者も農民も、学者も宗教家も文士も、警
察官も自衛隊員も、すべての日本弱化政策に対して、働くことによって抵抗し応戦
した。

「文明とは、道のあまねく行なわるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美
麗、外観の浮華を言うにはあらず」。
これは西郷隆盛の文明論である。
明治の抵抗者内村鑑三、岡倉天心の主張も同じ文明論であった。
キリスト者鑑三は最後まで「武士の精神」を固執し、大アジア主義者天心は日本と
東洋の「美的精神」を強調して西洋人を啓蒙した。

さかのぼって、「立正安国論」の著者日蓮を見よ。日本の危機において彼が絶叫し
たのは「日本人の精神と魂の確立」であった。
「われ身命をおしまず、ただ無上道をおしむ」。 彼は大乗仏教をみごとに日本化
し、日本に土着化させて日本文明の活力とした。

本居宣長もただの国文学者ではない。
幕府の官学朱子学に対して、漢学者は陽明学によって反抗したが、宣長はいっさい
の「唐心」を排し日本の「古道」を明らかにすることによって抵抗した。 宣長
の「古道」は復古ではなく前進であった。
彼はその死後に幕吏によって墓をあばかれることを防ぐために、仏式の仮墓をつく
り、おのれは神式の墓の中にみずからを葬らせたそうである。
その他、数多い「日本の抵抗者」をふりかえりつつ、現在の世相をながめれ
ば、「戦後二十年」はただ産業的、技術的復興にとどまり、精神の支柱はうちたて
られていないように見える。
たしかにまだ日本の柱とその上にひるがえる魂の旗は見えない。
しかし、私は失望しない。廃墟を復活させたものは、ただ技術と科学だけではな
く、どこまでも人間であり、日本人という人間の決意と活力と創造性であった。こ
の抵抗、この活力が存在するかぎり、日本の精神は再び再結晶し、光輝しはじめる
と信じている。

日本の伝統と歴史は敗戦によって断ち切られたのではない。
戦後の社会主義と民主主義の潮流も、明治百年、いや、それより長い歴史を見ずに
は理解しえない。
民権も自由も社会主義も敗戦後二十年の舶来品ではないのだ。
技術と科学は輸入できる。いや、日本人はすでにカメラ、船舶、時計、オートバイ
等によってそれを西洋に逆輸出しはじめている。
だが、それぞれの文明の魂は簡単に輸出入できるものではない。
日本文明はまだ独自のものとして生きている。

百年の抵抗と応戦によって独自の活力と創造性を保持しえている国であることは、
ほとんどの文明史家が認めている。
敗戦は福に転じうる禍にすぎない。

われら何をなすべきか? 道は自分で探さなければならぬ。
過去をふりかえり、先を見渡し、左右を受け入れつつ、苦しみ思索することによっ
て、おのれの文明の創造と発展に努力することが日本の道である。 しかし、これ
だけでは抽象的な一般論になり、不親切なお説教におわる。

人として生まれて迷わぬ者はない。
特に激動の上に激動を重ねて変転しつつある戦後二十年の世界情勢を直視して迷わ
ぬ者は石の地蔵だけかもしれぬ。
私もまた迷っている。

アジア人としてのわれら日本人の関心は反植民地闘争にある。
日本の「百年戦争」はたしかにこの口火を切り、その基礎を固め規模を拡大した。
日本は一国のみで約百年間戦わざるを得なかった。
他の被征服諸国はこれを壮挙と見、勇戦とながめつつも、その後進性の故に日本に
協力し得なかったために、盟主観念も生まれ、皇道主義も生まれ、後に東京裁判検
察官と進歩人諸氏によって侵略と定義された強引な軍事行動主義も生まれたのだ。
しかし文明論の見地から見れば、日本の「東亜百年戦争」は決して侵略戦争ではな
かった。
私はパール博士とともに、この点を強調する。

また戦争が起ころうとしている。いや、もう起こっているといったほうが正確だ。
私たちは毎朝起きると、新聞の第一面で爆撃と反撃の記事を読まされる。
日本のなかにも、資本主義と帝国主義からの解放のためには戦争を恐れないと公言
しながら、自衛隊を廃止せよと叫ぶ変な戦闘的評論屋もいるし、平和運動をやりな
がら、中共の原爆実験については沈黙している変な平和屋もいるし、沖縄と小笠原
を還せというプラカードはかつぐが、千島を還せたは言わぬ変な愛国者もいる。変
な話ばかりだ。
いつのまに、どんなふうにして、日本はこんな変てこりんな国になってしまったの
か?

第三次世界戦争は必ず起こるという予言は世界の識者によってなされている。
私の「大東亜戦争肯定論」はそのまま「第三次、第四次世界戦争否定論」であるこ
とは、善意の読者諸氏なら、すでに読み取ってくれていることと信じる。
ただ、日本に敵軍が攻めてきたら逃げ出します、ただちに降参しますと、中、小学
生に教えてこんだ日教組式腰抜け論でないこと、この種の教育を真の教育だと信じ
ている偽教師どもを心から軽蔑していることは記憶しておいていただきたい。

予言はたいていあたらないものだが、たまにはあたることがある。
予言よ、あたるな! これが私の祈りだ。
ただ祈ることだけが可能であるという日本の現状は、私の悲しみを倍加する。
・・・(引用止め)

埋もれた先達の事績を掘り起こすとともに、名の有る優れた先達の遺した文言を想い起こすことも肝要と思い、繙いた一冊が林房雄氏の『大東亜戦争肯定論』です。
引用しながら「罪なきわが子孫、わが国土のために、力のつづくかぎり働こうと決心して」の件りで目頭が熱くなりました。
終戦時、日本国のバランス・シートの左側の資産の部はほとんど芥塵に帰し無に等しい惨状を呈していました。しかし、バランス・シートの右側の資本の部は大きく毀損しながらも復興の原資を保持していたのです。
懸命に働く(抵抗する)日本民族の魂が残されていたのです。
しかし日本人は占領されている間に降伏したから幸福に至ったのだと宣撫されそれを信じてしまいました。つまり大戦に敗け、アメリカの支配下に入ったから日本はまともな国になったんだ、戦前までの大日本帝国憲法体制、皇国史観、国体思想、八紘一宇、大東亜共栄圏すべてを否定して捨てたから平和で豊かな時代になったんだと。
 しかし日本が復興した原動力は、占領軍とその協力者である一部日本人によって、ずたずたにされた日本の伝統と歴史にありました。
それが驚異的な戦後の復興をもたらした日本人の魂を凾養していたのです。それなしでは今日の日本の「平和」も「繁栄」もありえなかったのです。
日本国の現在のバランス・シートの資産の部はピカピカのようです。
が、目を資本の部に転じると、歴史を忘れ、伝統を打ち棄てた日本人の魂は摩滅し、働く力は衰え、活力と創造性は無に等しい惨状です。
林氏は、この大著の掉尾をこう結んでいます。

「日本がまことに正しい平和のために一致協力して行動しうる時の来るのは、いつ
の日であろうか?」。

林氏のいう”正しい平和”とは、占領軍から下賜された平和の謂いではないでしょう。 自存自衛の気構えで、自らの力で民族と国土を衛ろうとした戦前の日本の姿を指していると思います。
これには、日本人の魂の回復、それを支える伝統と歴史の復興が必要で、数十年はかかります。
 さはさりながら、日本は二千年以上の悠久の歴史を持っている国です。
数十年かかるなら、その年月をかけてやるしかありません。罪なきわが子孫、わが国土のために。
http://www.melma.com/backnumber_45206/
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by thinkpod | 2007-01-05 02:56 | Books


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