2006年 12月 26日

歴史再評価、台湾で一歩 教科書刷新

 【台北=長谷川周人】台湾の高校歴史教科書が、今年9月から使われている改訂版で様変わりした。古代王朝に始まる「大中国主義」の歴史観を貫くこれまでに対し、改訂版では台湾史を中国史から切り離し、系統的に学ぶ。日本の台湾統治が「章」として初めて取り上げられ、インフラ整備などプラスの側面にも言及されている。史実を客観視しようとする姿勢は、台湾の歴史再評価を促す一歩となりそうだ。

 改訂版は台湾の独自性を強調する陳水扁政権の教育指針を反映している。最大野党・中国国民党は「中華民国が中国全土の正統政権」という建前から教科書の改訂について「祖国の歴史を分断するものだ」と反発してきた。

 しかし、民主化と「台湾化」が進む中、李登輝前総統は1997年、中学1年の教育課程に「認識台湾(台湾を知る)」という科目を導入。実質的に初めて授業で台湾史が取り上げられた。この第二弾として陳政権は高校生が必修科目で使う歴史教科書の抜本改定に踏み切った。

 新しい教科書は8冊が当局検定を通過し、うち5冊が実用化されたが、国民党政権下ではタブー視されてきた軍による住民弾圧の「二・二八事件」(1947年)や民主化活動家が弾圧された美麗島事件(1979年)などを詳述。一方で台湾独立の根拠となる「地位未確定論」にも言及している。

 台湾の主権は一般に「満州、台湾、澎湖諸島は中華民国に返還される」とした「カイロ宣言」(43年)を踏まえ、この履行を日本が受諾した「ポツダム宣言」(45年)、さらに領有権放棄を明言したサンフランシスコ講和条約(52年)などにより、確定的になったと認識されている。

 この解釈が中国が台湾領有権を主張する根拠ともなるが、台湾の研究者による調査では、カイロでの合意は法的拘束力に欠ける「プレス・コミュニケ(公報)」であって「宣言」でなく、台湾の帰属は講和条約以降、「未確定」という主張が台湾で広がっている。実際、署名された「宣言文」の存在は確認されていない。

●日本統治時代も「章」に

 これを踏まえ、龍騰文化が出版した教科書は「カイロ宣言は署名がなく、国際法上の効力を具有しない」と記し、他の4冊も主権帰属にかかわる論争の存在を明記するようになった。

 日本統治時代(1895〜1945年)を扱う章は、5教科書ともB5版で30ページから54ページのスペースを割き、史実としての植民地時代を直視しようとしている。翰林の教科書が「50年の植民統治で台湾は同時に植民地化と近代化を経験をした」が書き出すように、評価は肯定、否定の両論併記だ。

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 公式教材となった新高校歴史教科書の出版社は次の通り。()内は日本統治時代を扱うページ数。三民書局(30)、南一書局(47)、泰宇出版(48)、翰林出版(54)、龍騰文化(53)。画数順。

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 ≪戴宝村・政治大学専任教授(教育部教科書検定委員会主任委員)≫
 
●教育原理にかなう

 歴史教育の原理とは、ある人々のその土地における生活の累積と体験を教えることだ。にもかかわらず、われわれが行ってきた教育は、政治的な理由から中国大陸の歴史ばかりを教え、教育原理に背を向けてきた。しかし、こうして台湾史が正式に教科書に編入された結果、教育原理にかなうよう変わった。

 さらに新しい教科書では、学生に台湾史を理解させることにより、台湾のアイデンティティーと歴史を比較できるようになった。世界的にみても最大脅威であり、密接な関係がある中華人民共和国の歴史はとても重要だが、台湾人が台湾史を理解することも重要なのだ。

 例えば、国民党政権下の台湾では、一貫して「カイロ宣言」をもって台湾は「中国に回帰した」と強調されてきた。だが、多くの研究はあれは宣言ではなく、一種の備忘録であったと指摘している。国民党教育を受けた成人は今だに「カイロ宣言」というが、(新しい教科書を使う)将来の学生は、これは宣伝のようなもので、サンフランシスコ講和条約によって台湾の帰属が日本から離れたことがより明確に理解できる。

 日本統治時代に関しても、中国的な民族主義の立場に立てば、日本の台湾統治は搾取と解釈されるが、台湾人からみる日本時代は違う。日本が行った建設は台湾に大きな影響を与え、進歩につながったことは肯定するに値する。これも動員された台湾人による建設であり、台湾人の努力の結果でもあるからだ。

 確かに(日本統治時代をめぐる)評価のあり方はそれぞれだが、審査する側から言えば、極端に感情的(な表現)でない限り、受け入れられる。したがって著者は、台湾という自由社会を代表し、一定の個人的な観念を盛り込むことにもなっている。

(2006/12/21 08:01)

ぼやきくっくり | 台湾の教科書と「カイロ宣言」
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid206.html



【産経】【教科書が変わった 台湾】(2)「風土や民情尊重」「学校制度確立」

産経新聞 2006年12月22日

1899年に台湾初の中央銀行として設立された台湾銀行。総督府(現総統府)の隣の現在地に移転した後の1930年代に現在の社屋となった(撮影・長谷川周人)


 台湾の高校歴史教科書に新たに設けられた日本統治時代の章には第4代総督の児玉源太郎(1852〜1906年、日露戦争時の満州軍総参謀長)らが登場し、インフラ整備や教育などの面で日本が果たした役割も直視しようとしている。
 【社会の基礎建設】

 「1898年、総督に児玉源太郎が、民政長官に後藤新平(1857〜1929年)が就任すると、台湾の風俗、習慣、宗教信仰などを調査・分析し、政策決定に生かした。一方で風土や民情を尊重するとして人心を丸め込み、反抗意識を取り除いた。総督府はこの時期、植民統治の基礎建設を次々と完成させた。これには度量衡と貨幣の統一、(中央銀行である)台湾銀行の設立、人口調査などがある」(翰林)

 「総督府は上下水道を建設、大衆を動員して清潔な環境づくりをした。伝染病の予防につながり、死亡率は大幅に低下した。医療面でも医学校を設立して台湾人医師を養成し、各地に公立病院を設立した。予防接種や隔離消毒も実施され、台湾人の医療環境は大幅に改善した」(南一)

 【社会変革】

 「日本人は台湾人の阿片(アヘン)吸引、辮髪、纏足を『三悪』と見なし、学校教育や宣伝活動を通じて徐々に廃止していった。総督府は週7日制を導入して休日と祝日を定め、台湾全土にグリニッジ標準時(GMT)を取り入れた。公的機関の業務や交通機関の運行も定刻に沿って行われるようになり、民衆は時間を守るという観念を養った」(南一)

 「アヘンは総督府が許可制にして専売事業となり、植民地財政の重要な財源となった。また、総督府は女性が纏足をやめれば労働力になると考えた」(翰林)

 【教育の近代化】

 「日本統治時代に近代学校制度が確立し、教育普及の基礎となった。台湾人は学校で日本語を習い、教科書から日本文化や世界の新知識に触れた。しかし、(統治)初期は日本語教育と初等技術教育が主だった。初等教育は、日本人児童は小学校で、台湾人児童は公学校で学んだ」(南一)

 「(その後は)中等職業教育にも重点が置かれ、農業、商業、工業学校が相次ぎ設立され、台湾の工業と経済発展の重要な基礎となった。最高学府は1928年創設の台北帝国大学だったが、台湾人の進学は限られ、留学が選択肢のひとつとなった。留学先は日本が最多で、留学生が持ち帰った新しい思想は台湾の政治、社会、文化活動に大きな影響を与えた」(翰林)

 「総督府は1920年年代に『台湾教育令』を改訂し、台湾の教育体制を日本内地と一体化。共学制が施行され、『内地人』『本島人』『蕃人』などの差別的な呼び方の使用をやめた」(龍騰)

 「日本当局が教育を推進したのは主に統治政策上の必要からで、初等教育を重視、『忠君愛国』の思想を植え付けた。台北帝国大学設立も主に在台日本人子弟のためだった」(三民)

 (注) 公式教材となった新高校歴史教科書の出版社は三民書局、南一書局、泰宇出版、翰林出版、龍騰文化の5社(画数順)。

 (台北 長谷川周人)

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by thinkpod | 2006-12-26 06:18


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