2006年 12月 07日
中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち ■1.中国のプロパガンダ機関の協力者だった欧米記者たち■ 1937(昭和12)年12月18日、ニューヨーク・タイムズ に次のような記事が載った。 南京における大規模な虐殺と蛮行により・・・殺人が頻 発し、大規模な略奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害・・・ 南京は恐怖の町と化した。・・・恐れや興奮から走るもの は誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たち に目撃された。[1,p106] 日本軍の攻撃により、中華民国の首都・南京が陥落したのが 12月13日未明。その二日後、15日に南京を脱出したアメ リカ人記者ティルマン・ダーディンが発信した記事である。事 件当時、現地にいた中立的なアメリカ人記者が書いた記事なら、 誰でもが事実だと信じてしまうだろう。実際に、現在の日本の 中学校歴史教科書でも次のように書かれている。 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の廬構橋で日本 軍と中国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本 軍は中国との全面戦争をはじめた(日中戦争)。年末には 日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人とも いわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたた なかったため、きびしい国際的非難をあびた(南京事件) [日本書籍、平成13年版] しかし、事件から70年近く経って、ダーディン記者をはじ めとする、当時の南京にいた欧米人のジャーナリストの一部は、 実は中国側のプロパガンダ機関の協力者であったことが明らか にされたのである。[a]でも紹介した亜細亜大学教授・東中野 修道氏による『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』が明 かした事実を追ってみよう。 ■2.二人のプロ編集者■ 東中野教授は、台北の国民党党史館で『中央宣伝部国際宣伝 処工作概要 1938年〜1941年4月』という資料を見つける。蒋 介石の国民党は軍事的に劣勢であったため、南京陥落の直前か ら宣伝戦に総力を挙げていた。そのための機関が「中央宣伝部」 であり、その中の一部門で特に国際宣伝を担当していたのが 「国際宣伝処」である。この「国際宣伝処」が、南京陥落前後 の3年間に行ってきた工作を記録したのが、この資料なのであ る。冒頭のダーディン記者の名は、この資料の中で工作の対象 として何度も登場する。 中央宣伝部で、国際宣伝の中心を担っていたのが、宣伝部副 部長の薫顕光と、国際宣伝処の処長・曽虚白の二人であった。 薫顕光はアメリカのミズーリ大学とコロンビア大学大学院に留 学し、『ニューヨーク・イブニング・ポスト』などの記者を経 験した後、中国に戻って『北京英文日報』などの編集長を長ら く務めた。薫顕光も米国のセント・ジョンズ大学を卒業し、南 京大学教授を経て、上海の『大晩報』の編集長に転じた。 二人とも欧米のジャーナリズムに明るく、またプロの編集者 であった。欧米のマスコミを通じた国際宣伝には、まさに格好 の人材であった。 ■3.「国際友人」による「われわれの代弁者」■ 薫顕光は「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じく重要 だ」と考え、1937年11月中旬に、従来の組織を大幅に再編強 化して、曽虚白を処長とする国際宣伝処を発足させた。 曽虚白は、その自伝の中で「われわれは目下の国際宣伝にお いては中国人みずから決して前面にでるべきではなく、われわ れの抗戦の真相と政策を理解してくれる国際友人を探し出して、 われわれの代弁者となってもらうことを話し合った」と述べて いる。 「国際友人」とは、主に中国に在住する欧米の記者や学者であっ た。特に新聞は雑誌や書籍に比べて発行部数が多く、それだけ 多くの人々の目に触れる。上述の資料では「各国新聞記者と連 絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」として、 われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、 最も直接的な効果があるが、しかしそのためには彼らの信 頼を得て初めてわれわれの利用できるところとなる。この 工作は実に面倒で難しいが、決して疎かにしてはならない。 [1,p45] ジャーナリストとしての良心を持つ人間なら、「われわれが 発表した宣伝文書」をそのまま自分の記事であるかのように発 信したりはしないだろう。逆に、国際宣伝処の存在やその工作 自体を報道されたら、ぶち壊しになってしまう。薫顕光と曽虚 白が「実に面倒で難しい」というのは、一人一人の外国人記者 が、「われわれの代弁者」になってくれる人物かどうか、慎重 に見極める点にあったのだろう。 ■4.「外国人記者を指導した」■ そのための工作として、国際宣伝処が行ったのは、頻繁な記 者会見や、講演会、お茶会を開くことだった。『工作概要』で は、その実績をこう記録している。 1937年12月1日から38年10月24日まで、漢口で 行った記者会見では、軍事面については軍令部より報告し、 政治面は政治部が担当し、外交面は外交部(外務省)が発 言して、参加者は1回の会見で平均50数人であった。会 見は合計3百回開いた。[1,p47] また「1938年度は毎日1回お茶会を開く」とあり、外国人記 者たちとの間で、親密な会話が行われた模様だ。 通常及び臨時会議のほか、外国人記者は民衆文化団体、 国民外交協会、反侵略会、新聞同業者の集会などに参加す るよう、毎週平均2回、外事課(JOG注:国際宣伝処の一部 門)から外国人記者に通知し、外国人記者を指導した。各 集会に参加した外国人記者と、外国駐在公館の職員は、毎 回平均35人であった。[1,p47] 「外国人記者を指導した」という表現に、本音が出ているよう だ。こうした工作の効果はどうだったのか。 外国人記者たちは、平素は当処(国際宣伝処)が誠心誠 意宣伝指導にあたっていることから、そうとうに打ち解け た感情を持っている。そのほとんどはわが国に深い同情を 寄せてくれてはいるが、・・・[1,p53] 頻繁な接触を通じて、外国人記者たちは中国に「深い同情」 を寄せてくれるようになったのである。 ■5.検閲と洗脳■ 前項の引用文はこう続く。 しかし新聞記者は何かを耳にすると必ずそれを記録すると いう気質を持っているので、噂まで取り上げて打電するこ とにもなりかねない。含蓄をこめた表現で、検査者の注意 を巧みに逃れることにも長けている。中国駐在記者が発信 した電報を各国の新聞が載せれば、極東情勢に注目してい る国際人士はそれを重視するものであるから、厳格に綿密 に検査する必要がある。妥当性に欠けるものは削除または 綿密に検査する必要がある。妥当性に欠けるものは削除ま たは差し止めにしたうえで、その理由を発信者に説明し、 確実に了解を得られるようにして、その誤った観点を糺 (ただ)した。[1,p53] 外国人記者たちが本国に打電する内容で「妥当性に欠ける」 ニュースは「削除または差し止め」とされ、「その誤った観点 を糺」した。これはもう完全な検閲と洗脳である。その検閲は 次のような方法で行われた。 あらゆる電報は初級検査を受けたのち、問題がなければ、 検査者が本処(国際宣伝処)の「検査済みパス」のスタン プを押し、電信局へ送って発信する。もし取り消しがある 場合は「○○の字を取り消してパス」のスタンプか、ある いは「全文取り消し」のスタンプを押す。[1,p54] 電信局は国民党政府に管理されているので、外国人記者たち は国際宣伝処の検閲を通った記事しか本国に打電できなかった のである。 ■6.「竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んできて」■ 国際宣伝処に「そうとうに打ち解けた感情」を持った記者の 一人が上述のダーディンであった。薫顕光は次のように記して いる。 11月19日になると、私の『大陸報』時代の同僚で、 現在は『ニューヨーク・タイムズ』の中国大陸駐在記者で ある竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んでき て、すでに蘇州は陥落したという悪いニュースをもってき た。その翌日、私は蒋(介石)委員長から直ちに南京を離 れて漢口へ行くようにという命令を受け、蒋委員長は私と 曽虚白の乗るその夜の船を予約してくれた。ところが、突 然、蒋委員長から、竇奠安(ダーディン)に渡して『ニュ ーヨーク・タイムズ』へ発表する電報文の内容を翻訳して ほしいという要請があった。[1,p42] ダーディンは薫顕光のオフィスに駆け込んできたり、蒋介石 から直接指名を受けるなど、いかにも緊密な連携関係であった 事が窺える。 ダーディンは南京陥落2日後の12月15日に南京を脱出し たのだが、その際に冒頭の記事を書いた。いかにも自らの実体 験のような描写であるが、よく読むとこの部分は「殺されたよ うだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された」と、伝聞を書い ているに過ぎない。 実はダーディンのこの記事は、南京大学教授で著名な宣教師 だったマイナー・ベイツが書いてダーディンらに送ったレポー トを下敷きにしたものである。ベイツは中華民国政府顧問だっ た。 ■7.ベイツのレポートを下敷きにしたダーディンの記事■ ベイツのレポートと、ダーディンの記事を比べてみよう。 ベイツ: 恐怖と興奮にかられて駆け出すもの、日が暮れてか ら路上で巡警につかまったものはだれでも即座に殺さ れたようです。 ダーディン: 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や日が暮れて から・・・巡回中のパトロールに捕まった者は誰でも 射殺されるおそれがあった。 ベイツ: 市内を見まわった外国人は、このとき通りには市民 の死体が多数ころがっていたと報告・・・ ダーディン: 市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの 通りでも民間人の死体を目にした。 ダーディンの記事がベイツのレポートを下敷きにしている事 は、一目瞭然であろう。そのベイツのレポートも、「即座に殺 されたようです」「死体が多数ころがっていたと報告」と伝聞 体でしか、記述していない。 もしベイツやダーディンが実際に市民が虐殺される様を見て いたら、間違いなく自ら見た事実をそのままに伝えていただろ う。しかし、実際に陥落後の南京にいたベイツもダーディンも 伝聞でしか、書けなかったのである。 ■8.「お金を使って頼んで本を書いてもらい」■ ベイツは中華民国政府の顧問であり、薫顕光とも交友があっ た。薫顕光の宣伝に協力して、ダーディンらに記事を書かせよ うと、このレポートを送ったのである。 ベイツのレポートは、南京陥落の翌1938(昭和13)年7月に 出版された『戦争とは何か −中国における日本軍の暴虐』に も掲載された。『工作概要』には、中央宣伝部がこの本を対敵 宣伝物として出版したという記述がある。 この本の編者は、英国『マンチェスター・ガーディアン』紙 中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者であったが、戦後出版 された『曽虚白自伝』では、中央宣伝部がティンパーリ記者に 「お金を使って頼んで本を書いてもらい、それを印刷して出版」 したという証言が記されている。[b] この本は、現在でも「南京大虐殺」を主張する人々が典拠と しており、70年近くもプロパガンダとしての影響力を発揮し ている。 ■9.ベイツへの二つの勲章■ 東京裁判で「南京大虐殺」が裁かれた時、3人の欧米人が証 人として出廷した。ウィルソン医師は「2万人からの男女子供 が殴殺された」と述べたが、実際に彼が見たのは病院内の患者 だけで、「2万人殴殺」の確証は示せなかった。マギー師も日 本軍の殺人、強姦、略奪を証言したが、自分自身ではどれだけ 見たのか、と反問されると、「ただ僅か一人の事件だけは自分 で目撃しました」と述べたに留まった。 もう一人の証人がベイツであった。ベイツは4万人の不法殺 害を証言したが、それはベイツ自身がレポートに書いた内容と 同じであった。しかし、彼は自分が中華民国のアドバイサーで あったことも、ダーディンらにレポートを送ったことも、そし て『戦争とは何か』の分担執筆者であったことも秘密にしてい た。 一方、「南京事件」を世界に告発したダーディンやティンパ ーリは、東京裁判に出廷しなかった。出廷して反対尋問を受け たら、彼らの記事が何らの事実に基づいていないことが露見し てしまう恐れがあったからであろう。 ベイツは1938年と1946年、「日本との戦争中の人道的奉仕」 に対して中華民国政府から勲章を授与された。1938(昭和13) 年は、ベイツが分担執筆した『戦争とは何か』が中央宣伝部か ら出版された年でであった。1946(昭和21)年は、ベイツが東 京裁判に出廷して「日本軍4万人不法殺害」を証言した年であっ た。 その後、中共政府は被害者数を30万人にまで膨らませて、 プロパガンダとして使い続けている。「南京事件」は戦時プロ パガンダとしては、史上最高の傑作であった。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(079) 事実と論理の力 南京事件をめぐる徹底的な学問的検証、あらわる。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog079.html b. JOG(229) 国際プロパガンダの研究 文書偽造から、外国人記者の活用まで、プロパガンダ先進国 ・中国に学ぶ先端手法。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog229.html ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 (まぐまぐ版では、httpのあとに「:」を補ってください) 1. 東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』★★、 草思社、H18 http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/479421488X/japanontheg01-22% http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107511148.html?page=2
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| 2006-12-07 02:25
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