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2006年 12月 06日

ああ, 震撼の韓国軍!

ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録

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(写真/ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が大量虐殺を正当化した.)

戦争はこんな所でも起きたのだろうか.
丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し,
椰子の樹とマンゴ—とパパイヤ, バナナの樹….
窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている.
太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけがちらほらと島のように動いている.
真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う.
果して、わたしたちはあのとき、このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか.
理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場,
その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を果てしなく走った.


生き残った老僧の証言

"1969年 10月14日,
ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した.
サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒,
同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. は、この事件で71歳の住持僧,
69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"

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(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)

筆者は2年前, ベトナム政治局から出された‘戦争犯罪調査報告から-
南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’という資料の一部をようやく手に入れることができた.
私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書,
しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった.
それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’
韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、ベトナムを訪問した韓国市民団体‘私と私たち(ナ
ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した.
‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画したピースボート(Peace
Boat)に乗り込み、韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある.
“日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”という彼らは、これからは‘韓国人の力で’ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである.
筆者は初めて寄着時から同行することにした.

ベトナム南部海岸に位置したパンランは、観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ.
最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず,
歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった. ただ
‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった.
私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した.
しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた.
蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという焦燥感を感じながらも,
一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.

翌朝,
私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から急な知らせがきた.
元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は戦争中に爆破されて,
パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺がまた建てられたということだ.
わたしたちはすぐさまそちらへ走った.
そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者のウンウェンティ
ユエンハン(45)に会うことができた.
ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が,
認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.


子供も妊婦も容赦なく…

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(写真/'忘れたい戦争'. 韓国軍に殺されたベトナム人の数は、公式統計だけでも 4万1450名だ.)

“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました.
続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました.
そして、屍体を皆燃やしました.”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は恐ろしさで真っ青になり、叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する.
リンソン寺には、五人の僧侶が住んでいた.
その時、プフ僧侶は住持僧より先に村におりて行き、喪家で読経を行っていた.
証言の大部分はユエンハンを通じてなされ,
その寺で唯一の生存者のプフ僧侶は口数が少ない.
当時の話をしながらも、人々はその時の虐殺の主人公の後裔に配慮してくれた.
冷たいお茶を持ってきて, 果物の皮をむいて薦めてくれ,
パパイヤを食べて汚れた口をすすぎなさいと、水まで汲んできてくれた時には、涙が溢れ出た.

プフ僧侶が村に帰ってきた時、寺は既に修羅場と化していた.
プフ僧侶は火にくべられていた五人の僧侶の死体を近隣の小屋へと移した.
死体奪取に対する不安からあった. このことが伝えられると,
パンラン地域全域の学校が休学を決議して,
学生達と仏教徒たちが一斉に蜂起した.
“ベトナム政府は良民虐殺を即刻中断しなさい!”
“人殺しはベトナムを出て行け”等等、凄まじい叫び声がパンランを巻きこんで,
僧侶たちの死体は12日を過ぎてやっと火葬できた.

“火葬をしても、僧たちを安息させられなかった.
僧たちを祭る寺が消えたからですよ.
僧たちの骨を壷に納めていたのですが、やっと昨年、この寺に安置してあげましたよ.”プフ僧侶がやや低めな声で話を続けた.
韓国軍人たちの銃器乱射事件で廃虚になった寺は、その後また再び爆撃を受けて跡形もなく消えた.
そして、昨年、仏教徒の在米ベトナム同胞の援助でまた寺が建てられた.
プフ僧侶は30年ぶりに住持僧としてこの寺に帰ってくることができた.
寺の前に当時死んだ僧侶たちの遺骨が納められた三重塔がある.
私たち一行はその前に頭を下げて、僧侶たちの冥福を祈った.

どちらかというと、私達がリンソン寺で聞かなければならなかった話は、今から会う、数多くの証言の中でも最も安らかな話になるかもしれない.
大雄宝殿の席から見下ろすと, 空と海と野原がひと目で見渡せた.
どこに目を向けても、限りなく平和なだけの,
限りなく懐かしいだけの風景,
しかしその中には、まだどれくらい多くの話が隠されているのだろうか?.
‘私と私たち’一行は、韓国軍の軍事作戦が最も熾烈に展開された中部地方にまた再び旅立ち,
筆者はリンソン寺を振り返りながら、振り払えない重い歩みでホーチミンに帰ってきた.


"女性たちを強姦した後、殺害"

韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる.
前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索,
破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた.
筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが,
その一部をここに紹介する.

1965年 12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して,
きれいに燃やして, きれいに破壊する”というスローガンの下、
捜索掃討作戦を繰広げた. 彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性,
3名の妊産婦, 70歳以上 6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した.

"…
などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました.
彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました.
妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり,
子宮が外に出ていました.
韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して,
子供の頭を切り取って地面に放り投げ,
あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.

彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し,
ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました.
そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"


パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の‘私と私たち’一行から電話がきた.
“見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です.” 1966年
3月19日と20日の二日間にわたった‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ.
“手にしている、この資料がますます 恐ろしくなりますね.
ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならないかもしれません.
ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく、韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです.”
当時の報告によれば、66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、猛虎隊
3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて,
そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった.
また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ, 649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された.


このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して,
韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した.
生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は, 無差別機関銃乱射,
大量殺戮, 妊産婦, 女性に対する強姦殺害, 家屋への放火などだ.
生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる.


-住民たち(大部分が女性と老人,
子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.


-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.


-子供の頭を割ったり首をはね,
脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.

-女性を強姦した後、殺害して,
妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.

-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.


韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた.
老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった.
恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.


果して、あなたたちに真の反省はあるのか

私たちにもベトナム戦は忘れたい戦争だ. 韓国は1964年、医療支援団とテックォンド教官等、270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣することによってベトナム戦に軍事的な介入を始めた.
以後、65年から73年まで、約30万名の戦闘部隊を‘ベトナム政府の要請’という美名の下、ベトナム戦線に投入した.
この過程で韓国軍も4960余名が戦死して、10余万名が負傷した.
しかし、韓国軍はまた、敵軍のベトナム人を4万1450名も殺す全勝(?)をおさめもした.
我が軍の死者数の10倍に達する敵軍を戦死させたのである.
それも、公式的な統計上でだけ!

そして戦争は終わった. しかし、終戦24年を迎える、この瞬間にも地球上のあちらこちらからは新しい銃声が響いている.
韓国ではコソボでの人権を叫ぶ声も高い. 20世紀の傷が癒える前に、21世紀のまた違う傷ひとつを産んでいるのだ.
加害者も被害者も傷ついた‘今日’を治癒する過程なしでは、私たちに未来はないだろう.
たとえ、それが良心にメスを入れる痛みを通じてだけ可能になるとしても.

歴史は私たちに疑問符ひとつを投げかけている.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか.


ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員

vninfobank@hcm.fpt.vn
ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号 .
99年5月256号ハンギョレ21(cache)
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm


ああ, 震撼の韓国軍!
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
その後‘ベトナムの怨みの霊を記憶しなさい’
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99278.htm
兄さんの重荷を減らしてください 韓国とベトナムの読者の手紙
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99282.htm
ベトナムの熱い感動!
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99287.htm
キム・ギテ 予備役大佐 インタビュー
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore00305_1.htm
勲章を捨てた父
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore00312.htm






私の村は地獄になった

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)

 今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965〜73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。

ニューズウィーク日本版
2000年4月12日号 P.24
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by thinkpod | 2006-12-06 00:37


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