2006年 11月 12日

日韓併合、戦中、戦後の朝鮮人

韓国・朝鮮と日本人—韓国・朝鮮人の嫌いな日本人 日本人の嫌いな韓国・朝鮮人

1、日本渡航の由来

底辺の労働力
 日韓併合の前年(1909年末-明治42年)、日本にいた朝鮮人は790人で、これらの人々の大部分は留学生であった。その頃は、ロシアに勝ったアジアの先進国日本の声望は高く、1906年には清国からの在日留学生は7,000余を数え、フランス統治下のヴェトナム留学生も200名以上(1908年)といった時代であるから、朝鮮からも官費、私費の留学生が東京に集まっていたのである。これら留学生たちは、いわば在日朝鮮人前史にあたり、在日朝鮮人問題は1910年の併合に始まった。

 併合により一応日本国民となった朝鮮人には、外国人としての居住や職業の制限がなくなった。
朝鮮における、農民の貧困による労働力排出のプッシュ力と、日本内地の方が雇用の機会と高い賃金を得られる可能性があるというプル力から、第一次大戦終了間もない頃(一九一九年)在日朝鮮人は急速に増大し、その人数はこの年には1万5千人に迫った。しかし同年の3・1独立運動直後の4月、総督府は治安上の顧慮から「朝鮮人ノ旅行取締リニ関スル件」を制定し、渡航には所轄警察署の旅行証明書を要することとした。

 だがこの取締まりは、「日韓一体の原則に反する」として、1922年早くも廃止された。それにともない、翌年から再び朝鮮人の渡航は激増したので、折から内地の失業も深刻化していた時代であるから、この問題は内務省、総督府(後に拓務省も加わって)の頭を痛めることとなった。その後若干の変遷はあったが、日本政府は間接的に各種の手段を尽くしてその流入を防ごうとした。しかし絶対禁止という厳しい方法をとらない限り、「人は所得の高いところへ流れる」という移住の原則を止めることはできなかった。

 特に満州事変による軍需景気以後その数は急増の一途をたどった。内務省警保局の調査によれば、1936年に70万余、大戦末期の1944年には193万6,843人とあり、終戦の年の1945年には30万人、あるいは220~240万にのぼったとも見込まれている。朝鮮人は日本資本主義経済をになう底辺の労働者として渡航し、最後には、戦争経済を支える必須の労働力として酷使されたのである。


取締まりの対象

 朝鮮からの渡来者は労働者以外に、朝鮮人の有産階級の子弟の留学生も多数在留していた(1932年には約5千名、1942年には約3万名)。この留学生というのは、大学、高専在学生だけでなく中学生も含んでおり、その生活水準は日本人並みであったが、多くの場合、彼らもただ朝鮮人という理由だけで、しばしば屈辱的な思いをさせられた。

 日本政府は朝鮮人の子弟が日本で高等教育を受けることには好感をもっておらず、彼らが釜山の港を出発するときからすでに警察の許可を必要としたし、その後も、朝鮮人労働運動の指導者とともに、彼らの多くは〝要視察者″であり、常に警察の取締まりの対象であった。1939年から終戦までの6年間、在日朝鮮人の知識層で治安維持法違反として検挙されたものは1,220名にも及んでいる。

 1938年以降(ことに40年以後)には、学生のみならず、全在日朝鮮人が警察の監視統制下におかれることになった。朝鮮人に対する〝皇民化″のための指導を目的とする〝協和事業〟なるものが、内務・厚生両省の共管のもとに発足し、在日朝鮮人は一人残らずこの協和会に加入させられたのである。協和会は日本語の普及、家庭に神棚奉斎、女性に和服奨励なども行なったが、実際には、あるいは結果的には、その主要な仕事は特高警察を中心とした朝鮮人の取締まりであった。
在日朝鮮人の全員は 「協和会手帳」 の常時携帯を義務づけられたのである。


強制連行

 朝鮮人労働者渡日の最終段階において、悪名たかい〝強制連行″が登場する。このことについては第二章ですこし触れたが、強制に先立ち、自由募集は1939年に始まった。この年7月、内務、厚生両省は 「朝鮮人労務者の内地移住に関する件」 の両次官通達を発し、朝鮮各道から労働者を募集することを許可した。やがて太平洋戦争突入とともに、ますます労働力が枯渇した結果、1942年には、従来より組織的かつ迅速に募集するため、民間の募集から「官あっせん」に切りかえた。
そしてさらに1944年終戦の前年には国民徴用令を発動して、その徹底を期したのである。

 朝鮮半島から多くの朝鮮人が、職と食を求めて故郷を捨てて日本に流亡することを余儀なくされたのは、統治者である日本政府の責任であることはいうまでもないし、二十世紀の奴隷狩りともいわれる強制連行の事実に対しては、われわれは今次大戦における各地の残虐行為とあわせて、日本人の持つ非人道性を改めて自認せざるを得ない。

誤っている議論

 しかし、このことをめぐる議論のいくつかの誤りは正しておく必要を感ずる。まず第一に、「韓国人がその先祖の時代から住み慣れてきた故郷を追われて、日本、満州、シベリア等へ流浪してゆかねはならなくなった歴史は、その起点を1910年(日本の朝鮮統治開始の年) に置くことができ……」(在日韓国青年同盟中央本部編著『在日韓国人の歴史と現実』)とあることであって、この叙述の少なくとも半分は正しいとはいえない。

 朝鮮人農民は十九世紀の早い時期から、朝鮮と中国が接する中国の間島地方に流入していた。もともとこの地域は清朝政府にとっては王朝の出身地であったため、中国人にも移住は禁止されていた地域であった。そのため無断入植した朝鮮人の問題は、清朝政府と大韓帝国政府、ひき続いて総督府との長い間の外交上の懸案となったのである。
                                              
 シベリア方面の移住も十九世紀にさかのぼることができる。1858年清朝とロシアの王愛琿(アイグン)条約、および1860年の北京条約によって黒龍江の北方一帯がロシア領となり、豆満江をへだてて朝鮮とロシアが直接国境を接した頃から、朝鮮人のシベリアへの移住は始まった。ちょうどそのころ北鮮に干ばつがつづき、食べていけなくなった農民はロシア領へと流出した。ロシアも新領土開拓のためこれを歓迎したので、数年ならずしてたちまち朝鮮人移民は万をこえたと推定されている。ロシアは間もなく移民防圧政策に転じたが、なおその数は年々増えつづけた。日韓併合の1910年には、黒龍江以北および沿海州のロシア領に約10万、間島をはじめ満州各地におよそ二八万の朝鮮人が移住していたのであって、「1910年が朝鮮人の海外流亡の元年」というのは明らかに間違っているといわねばならない。

 誤りの第二点は、朝鮮人の日本への渡航を「日本の植民地政策がうみ出した〝間接的強制″だ」と主張し、〝強制連行″と同一視しようとする議論である。(『韓日会談白書』) だがこのような主張は〝強制連行″という言葉の乱用であろう。資本主義の農村への浸透により伝統的農村共同体が崩壊し、農村から多数の労働力が流出するのは、いずれの国においても見られた現象であり、朝鮮の農村人口の大量移動もその一例にすぎない。この経済的理由による農村からの人口流出を〝強制連行″ のカテゴリーに入れるのはあまりに乱暴である。

 明治中期以降日本でも農村から都会へ大量の人口が流れ、あるいはアメリカやブラジルへ、さらには南太平洋の離島から西インド諸島の孤島まで移民が流亡していった。これらの人びとを〝強制移民″と名づけるなら、海外移民だけでなく、日本の大都市住民の大半は国内への強制移民の子孫となろうし、ヨーロッパ各国の困窮化した農村から押し出されたアメリカの開拓者も、ヨーロッパから強制連行されたことになろう。

 趙確溶(徐龍達訳)の『近代韓国経済史』には、「十九世紀になって農民に対する過重な租税賦課のために離村現象もはなはだしく、農業生産高は減少していたのである」と、農村からの人口移動がすでに十九世紀の前半に始まっていることを証言しており、伊泰林氏も、次のように農民の離村が李朝時代きわめて盛んであったことを記している。農民の故郷からの流出が日本の総督政治だけの責任でないことが理解できよう。


 李朝時代の農民たちがどんな状態にあったかは、彼らが懐かしい故郷や土地よりも搾取なき無人島を望んだことから充分に推察できるであろう。隷農が悲惨な境遇にあったことは言うまでもないが、自分の土地を自分の手で耕作する一般農民の中からも、過重な収奪のゆえに逃亡、離散するものが生じた。そうなればひとつの家が他の多くの家の分まで賦課を負担するようになるため、残った家もすべて逃亡するのが普通であった。無人島を求めて集まった農民が定着して有人島になれば、再び流浪の途にのぼることになり、結局は餓死するか、さもなければ群盗となった。


現在の在日韓国・朝鮮人の大部分は強制連行と無関係

 さらにここで指摘しておきたいことは、在日韓国・朝鮮人(その父祖を含め) と、強制連行との関係である。朝鮮大学校編『朝鮮に関する研究資料(第四集)』によれば、「日本に住んでいる大きな部分を占める朝鮮人は太平洋戦争中に日本の官憲によって強制徴用され……」とあり、在日韓国・朝鮮人は口を開けば必ずのように、「われわれは日本政府によって強制連行されてきたものだ」と主張する。だがこの表現は正確ではなく、むしろ事実に反するというべきだと思われる。



 1974年の法務省編『在留外国人統計』によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸年は上の表のようになっている。

 この表によると、日本政府が朝鮮人の来日をむしろ取締まっていた昭和十年までに渡来したものが全体の53.7%と、半分以上になる。昭和11~15年はまだ民間の自由募集の期間だし、次の16~19年の中でも、国民徴用令による徴集は19年の9月以降のわずか四月間であるから、単純に計算すると、この期間に徴用されたものは16~19年間の14,514人の21分の1、つまり2210人(全体の1.46%)にすぎないことになる。これに、次項「昭和20年9月1日以前」の679名(0.8%) を加えた
概算1,889人(2.3%) ほどが、真に強制連行の名に値する在日朝鮮人
だということになる。


 かりに「官あっせん」を強制徴用の概念の中にいれ、官あっせんが行なわれていた昭和17年2月~19年8月の来日者の推計数を全部加えても、約2,300人余(14%)にすぎない。この推定は、昭和16~19年間の月間来日数を均等として考えたものであるが、実際には、関釜連絡船の運行は終戦が近くなるにつれ次第に困難になりつつあったから、19年後半の来日徴用者も減少しているはずである。すなわち、どんなに強制連行の概念を広く解釈しても10%を大きく超えることはまずあるまい。

 

民団も韓国青年会も自認
 この数字は在日韓国人自体の調査によっても裏付けられている。一九八八年二月に発刊された
『〝我々の歴史を取り戻す運動″報告書』(在日本大韓民国青年会中央本部)には、全国千百余人の一世から直接聞きとりした調査結果が収録されている。これによると、渡日の理由として「徴兵・徴用」は22.3%にすぎず、経済的理由(39.6%)、「結婚・親族との同居」(17.3%) に次いで三番目である。この22.3%のうち、徴兵は0.5%で、残りが徴用ということになる。しかし、「渡日年度別にみた渡日理由」によると、徴用は1926~30年に6人、1931~35年に9人、1936~40年に51人とある。国民徴用令が公布されたのは1939年7月であって、これが朝鮮に適用されたのは前述のように1944年9月であるから、この 「徴用による渡日という」回答は思い違いによるものと考えられる。従ってこの人数は除かねばならない。

 1941~45年の徴兵、徴用と答えた76人も、その大部分は記憶違いというよりほかはない。
徴用が実施されていた1944年9月以降終戦までの1年分だけを前記の方法で算出すれば16人、すなわち全体の1.5%にしかならない。また、法務省の数字のアンケート調査の場合と同様、官あっせんを徴用と考えても(1942年2月以降) 59人-5.4%となり、徴兵を加えて5.9%である。

 民団発行の『法的地位に関する論文集』(1987)にも「一世の大半が一九三〇年代初期に渡航して永住するに至った経緯からすると………」と、みずから、徴用による渡来が僅少であることを認めている。

 このことは理屈の上から考えても当然のことであろう。着のみ着のままで徴集され、人里離れた炭坑や鉱山で虐待酷使されていたものが、日本に残ろうと考えることは想像しがたいことである。
彼らは日本の一般社会とほとんど関係なく生活してきたのであって、言葉もろくにできず、日本で生活していく基盤ももっていない。彼らは日本に来て、一番長いものでも - 官あっせんを徴用とみなしても ー 五年そこそこなのであるから、故郷とのつながりは充分持続しているはずである。

 特に彼らは、妻子をおいて一人だけで徴用されており、その移動はきわめて容易であった。これら徴用された人々の大部分は終戦直後早々に、この〝恨みの島″から故郷へと飛ぶようにして帰ったものと思われる。

 いずれにしても在日韓国・朝鮮人が 「自分たちは 〝強制連行″ によって日本に連れてこられたのであるから、現在自分たちが日本に住んでいる理由、責任は全面的に日本政府にある。したがって、われわれの移住の歴史的経緯にかんがみ………」 という常に用いる言葉は、おそらくは数%、最大に見つもっても10%ほどの人にしかあてはまらないことであって、在日韓国・朝鮮人について語るときの修飾語としては事実に反するということである。

韓国・朝鮮と日本人—韓国・朝鮮人の嫌いな日本人 日本人の嫌いな韓国・朝鮮人
若槻 泰雄
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4562020733


news archives : 大半、自由意志で居住--外務省、在日朝鮮人で発表--戦時徴用は245人


戦後日本に居残った朝鮮人の中に共産党系の者が多数いた。
「韓国・北朝鮮総覧1984」 1983年 原書房
(戦後間もない時期、朝鮮人半島引き揚げ者が次第に減少していったことについて)
この原因について篠崎氏は「朝鮮内における政治上、経済上の不安定から帰国後の生活が不安であること、コレラ病流行、これらの情勢が誇大に朝鮮人間に伝えられたこと、携行金品に制限があったこと」などをあげている。

さらに日本赤十字社では「その大部分は日本共産党が扇動したものである。日本共産党は戦時中完全に弾圧されていたが、連合軍の進駐とともに解放され、当時の社会事情を利用して急激にその勢力を増していった。1946年2月、金天海日本共産党中央委員(在日朝鮮人)は、その機関誌「前衛」第1号に、"在日朝鮮人は日本に定住し革命に参加せよ" という指令を載せ、日本政府が引き揚げの努力をしている最中にこれに反対する態度をとった。」(一部在日朝鮮人の帰国問題)と、その引揚げ者減少の理由を指摘している。

http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm#boudou


敗戦による北鮮引揚げ

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
惨憺たる北鮮引揚げ
日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。

「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。
…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて感興市内に殺到したるも…
われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐侍という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。…
駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時感興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊と栄養不良を激成し、…
富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、暗黒の中にむせびつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、人々は南にたどりついたのである。38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/7398/higeki.htm#hikiage

http://tech.heteml.jp/2006/11/post_854.html
http://tech.heteml.jp/2006/11/post_862.html


■Tama大学学長 G・クラーク氏の言葉

元オーストラリア軍人の捕虜の殆どは、収容所の監視員だったChosun人に対する憎悪がある。日本人は捕虜を殴る程度だった。
しかしChosun人は全ての陰湿で執拗な残虐行為を行なっていた。

これらのChosun人BC戦犯を擁護する行動を、日本の左翼がしていた事が信じられない。
Choson人が日本人に比べて、ずっと残酷だったことは、連合国の捕虜の間では常識だった。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=68269
http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/3dc8d8203cc1df110c03f227136a2644
http://blog.livedoor.jp/baiding/archives/50366339.html
http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/bcd5231b44273901892e8bc4f3d38fa9
http://meinesache.seesaa.net/article/7821046.html



日本軍の捕虜政策−多くの犠牲を出した管理体制−
内海 愛子

 戦争裁判で何が問題だったのか
 戦後日本が戦争裁判で多くの戦犯を生んだということはご存じだと思います。私がいま、戦後補償の裁判で関わっているのは、韓国・朝鮮人BC級戦犯といわれた人たちの補償の問題です。なぜ韓国人・朝鮮人、台湾人が戦犯にならなければいけなかったのか、ここに日本軍の捕虜政策がきちっと反映しているということです。このシステムが理解できないと、例えば朝鮮人が、なぜオーストラリアやイギリスで評判が悪いのか分かりません。

 捕虜収容所の管理体制
 収容所にに捕虜を配置した時、食べさせたり医療の面倒も見なければいけない。ものすごい人手がかかるんですね。東南アジアの場合には、それを朝鮮人と台湾人で補填したのです。だから捕虜収容所というのは、具体的には朝鮮人部隊だといわれるくらい、トップに日本人将校が一人いて、その下に下士官が一人か二人いて、あと全員が朝鮮人軍属なんです。
http://www.ksyc.jp/kobeport/news09.htm(cache)


朝鮮軍司令部 1904‐1945: 本: 古野 直也

朝鮮人は李朝末期以降、髪に近い特権を持った白人を見た歴史をもっていたがここへ来て、心理的にも白人崇拝の観念は消えたらしい。消えたのはいいのだが、困ったことも起きて戦後まで尾を引いている。東南アジアから超銭まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人三千五百人が従事していた。弱者に残虐性を発揮する民族性のゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい。敗戦後、個人的恨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。白人こそ報復と復讐の大家だったのだから。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4336031940/sr=1-4/qid=1163458859/ref=sr_1_4/503-4945355-3425536?ie=UTF8&s=books
e0034196_5443782.jpg




坂本俊雄著「沈まぬ太陽」

昭和20年8月、ソ連は日ソ中立条約を破棄して満州に乱入し、瀕死の日本の背後を襲いかかった。
そして当時在満日本人のうち30万人がソ連兵、中国人、朝鮮人の襲撃で満州の荒野に命を落としたといわれる。その過半数は女子供である。それ以外に財産を奪われ、病苦と飢餓に襲われ、女は陵辱され、あるいは子供を奪われたり売ってきたきた人の数はかぞえ切れない。
亡国の民は哀れなり、いまなお荒野には無数の死骸がうもれ、赤い太陽に照らされて鬼哭啾々。
坂本俊雄氏は八王子に住む医師であるが、当時12才の少年。満州奥地の鶴岡炭鉱から新京(現長春)まで悲惨な流浪の旅で数々の惨状と悲劇を目撃してきた。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4286020746/ref=sib_rdr_dp/250-5622358-3851423


67 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2007/02/10(土) 18:56:59 ID:tmTovKE5
http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/textbook/kyoukasyo49.htm
この本、左翼系の出版社が出してる本だけど結構良いよ。

笑えるとこはね、捕虜になったオランダ人に日本人を恨んでますか?
って聞くと、俺は日本人に恨みは無い。今でも憎んでるのは、朝鮮人だ!!
ってところかな。

なんでも、看守していた朝鮮人が、捕虜の時計を盗んでモメてたところを
日本人の上司が見つけ、看守をぶん殴って時計を取り戻してくれたんだと。


植民地朝鮮での志願兵制度
http://www10.ocn.ne.jp/~war/siganheiseido.htm
朝鮮兵について
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/tyousenhei.html
[PR]

by thinkpod | 2006-11-12 04:08 | Books


<< 高校教科書は変わったか      世界がさばく東京裁判 >>