2006年 10月 11日

三国人の不法行為

「韓国のイメージ」鄭大均 1995年 中公新書
連合国総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー(朝鮮史)は、『日本における朝鮮少数民族』(原著1951年)という論文で次のように記している。

『戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために日本の重要産業たる石炭産業の再建は損害をこうむった。 経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。
1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引き上げについては占領当局が決定した政策を日本政府の手で実地しようとするのを妨害した。/たとえこのような事件(朝鮮人の犯罪)で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた影響は依然として甚大なるものがある。朝鮮人の略奪行為が、大部分、下層民の日常生活にとってきわめて重要な地域において行われたということもあった。 さらに朝鮮人は日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病も持ち込んだという事情もあって、この不安を強める実例を提供した。朝鮮人は悪者だという心理が時の流れとともに日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由はなにもないのである。』

三国人の不法行為
http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm



北斗星 さん 2000年 07月 10日 01時 05分 44秒

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   第三國人の暴行

 表題の件に付ては既に一通り書き終えた心算であったが、本日郷土、城東葛飾に赴いたところ、偶々老人達が本件を論じてゐた 中にも地方議員たる七十翁の回顧は愚生の筆より数段迫力有りし故、帰宅早々記憶により再現し、此処に記して御歴々の御参考に資せむとするものである

                        録取者 北斗星

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 終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた

 銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷は臺湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いてゐた 戦勝國民は治外法権だったのである

 だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、其処へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。日本人は買へなかったが。

 斯うした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商賣を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(流石に銃撃戦は挑まなかった模様)

 當時は物不足で、賣る方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから 其で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い

 警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった

(録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚擧に暇有りませんでした)

 東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根−中川、江戸川、利根川流域の牛は皆ゐなくなった

 當時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ牽いて行って屠殺した 牛はモウと言って泣いたので皆氣付いたが、銃砲刀剣で武装してゐるので追ふ訳には行かなかった 永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出來なかった

 斯うして利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、闇市で賣られた この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ 上流で屠殺した牛を、其儘下流へ賣りに來たのだらう

 斯くて南關東から、牛はゐなくなった

 家畜相手ならまだしも、人間に對しても、關東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた 川崎、濱松、大阪、神戸などが酷かった

 其最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に對する集團暴行・傷害事件がある

 翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鐵道員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、此車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立てた

 其で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面 挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した

 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に不出來な孫にせよ 孫共は此を知らんのだらう

 直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯 況や庶民に於てをや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊には、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ

 其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察如きに何が出來よう 或日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、其切り警察は消滅する 七百萬の大軍を擁した彼の帝國陸海軍ですら、左様にして両總長 両大臣以下、自然廃官になった まこと、敗戦はかなしからずや

 堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發した

 最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った

 其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く鎮圧した 我々は其火器の煌めきを間近に見た

 此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」

と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである

 だから、外國人差別用語な筈は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか

 聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ 外交センスの要る役職であった 何

人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い

 「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない

 近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう 知合ひの報道人幾人かに電話して、テレヴィにでも新聞にでも出て歴史の眞實を話して進ぜやう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった 眞面 目に報道する氣は無いのかの

 貴公、パソコン通信を遣ってなさるさうぢゃが、インターネットとやらは随分と情報を發信出來て、幾百萬の人が見ると聞く 一つ満天下の正義の為に、今の話を發信して下さらんか

http://nipponkaigi.net/iknlg1.htm
http://www.melma.com/backnumber_256_1360500/
http://tech.heteml.jp/2006/11/post_836.html



「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」4-7942-1356-5
P197-198
 朝鮮在住の日本人も朝鮮人も、終戦によってその生活を大きく変えた。内地人は身辺の一切を失って、焦土となった祖国に帰らねばならなかった。多くは徒手空拳、裸一貫となって、荒廃した郷土に新しく生きる途を模索しなければならなかった。そこには戦災者や復員兵士上がりがあふれ、引揚者の努力は容易に報われなかった。
 「朝鮮」はわが人生にさほどの重大事ではなくなった。
 その後「警察」在職中にその「朝鮮」と多少の関係を持ったのは、たったの二回だけである。最初は、昭和22年3月、鹿児島県警から大阪府警察部刑事課長に転任した後のことであった。当時の大阪は殺人や強盗の凶悪犯罪が多発し、日本全国で最も治安が悪いとされていた。
 その原因の一つが、朝鮮人や台湾人の在住者が多く、その中に自分たちは日本人ではなくなったのであるから、敗戦国日本の法令に従う義務はないとして、不法行為をなす者が輩出し、治安を乱したというのである。彼らは、自分たちは戦勝国に準ずる国の国民であると主張する。これは以前の日本社会が彼らを差別、冷遇したことに対する反動的な腹いせの気持ちからでもあった。
 占領軍政当局は、この考え方には同調せず、彼らを「第三国人」と呼ぶことにして、その特権的な立場は認められなかった。この「第三国人」たちの不法、不当の跳梁が著しく治安を紊乱した。このことは治安維持の担当者としては忘れられない「朝鮮」であった。


内容(「BOOK」データベースより)
昭和11年、京城帝国大学卒業後、有資格者となって朝鮮総督府に就職、対ソ防諜工作の最前線に立った元警察官僚が、終戦にいたる14年余の朝鮮体験を回想した貴重な手記である。対ソ戦略の要路たる朝鮮半島において、ソ連はいかなる諜報工作を展開し、日本はこれにいかに対処したのか、本書では、戦前・戦中にわたって繰りひろげられたこの「見えざる戦い」の実態が生々しく語られるとともに、敗戦によって終焉した日本の朝鮮統治の実相が冷静な視点をもって描きだされている。日朝・日韓関係の誤解を正す歴史的証言というべき1冊。

内容(「MARC」データベースより)
朝鮮総督府に就職、対ソ防諜工作の最前線に立った元警察官僚が、終戦にいたる14年余の朝鮮体験を回想した貴重な手記。日朝・日韓関係の誤解を正す歴史的証言。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
坪井 幸生
大正2年、大分県生まれ。昭和6年、勉学の地を求めて朝鮮へ。11年、京城帝国大学法文学部法科卒業。同年、高等文官試験行政科に合格。翌12年、高等官見習の行政官として朝鮮総督府に就職。警察部警務局、農林局農村振興課勤務、警察官講習所教授(高等官)を経て、14年5月より咸鏡北道警察部外事警察課長(総督府道警視)、15年7月から警務局保安課勤務(総督府事務官)。20年6月より忠清北道警察部長となるも、2カ月後にソ連侵攻・終戦を迎える。敗戦後の処理に尽力し、11月に引揚げ。21年鹿児島県警視、22年大阪府警視。その後主として警察庁鑑識課長、埼玉、山口の各県警察本部長、四国管区警察局長等のポストを歴任し、九州管区警察局長を最後に39年3月に国家公務員を退官。同年4月に大分県副知事に選任、1期4年ののちに退官

荒木 信子
昭和38年、横浜生まれ。横浜市立大学文理学部国際関係課程卒業。筑波大学大学院地域研究研究科東アジアコース修了。平成2~3年、韓国ソウル大学留学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794213565




北朝鮮帰還事業の爪痕

(前編)
日朝間の問題は“拉致”だけではない
脱北帰国者は
我々の行動を待っている
対談 坂中英徳 田 月 仙

(後編)
旧ソ連極秘文書から読み解く、「北」のシナリオと工作
──金日成は帰国運動をどう利用したか
菊池嘉晃 / 『読売ウイークリー』記者

 終戦直後の帰還と在日社会

 ところで、在日コリアンの朝鮮半島への帰還は、帰還事業が最初ではない。
最初で最大の波は、終戦直後にあった。この時の状況について触れておこう。
 戦前、日本の植民地支配下の朝鮮から、生活の道を求めて、あるいは戦時中の労働動員などで渡日した在日コリアンは、45年8月の終戦時、約200万人を数えた。
その後、50年前半までに約141万人が朝鮮南部(48年8月から大韓民国)に帰国。
北部(同9月から朝鮮民主主義人民共和国)には47年に351人が帰国した。
 南への帰国者が圧倒的多数だったのは、在日の95%以上が南の出身だからだ。
また、北への帰国は北の出身者に限られており、南出身者が多数だった、のちの帰還事業とは異なっていた。

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きくちよしあき 1965年生まれ。87年に読売新聞社入社。社会部、地方部などを経て、
週刊誌『読売ウイークリー』担当。北朝鮮・韓国関連などの取材を続ける。94-95年
には韓国・成均館大学大学院に留学、2000年にまとめた北朝鮮帰還事業に関する
論文(韓国語)で修士号。

『中央公論』 2006年11月号
http://www.chuko.co.jp/koron/



233 名前: マンセー名無しさん 投稿日: 2006/10/09(月) 23:59:22 ID: c5zdXq4F
坂中英徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E5%BE%B3

ここには書いてないけど、中央公論11月号で本人が語っているけど、
在日コリアンへの特別永住権付与を提唱したのはこいつなんだってね。
北朝鮮が崩壊したら、元在日とその家族ら20万人が日本を目指すが、
その受け入れを提唱している。
他の論文で別の人が書いているけど、終戦直後200万人いた在日コリアンの
95%は韓国地域出身で、その大部分は韓国に帰り、北朝鮮に帰ったのは
わずか数百人。
これまで、現在の在日の大半が韓国地域出身で、北朝鮮帰還運動の時に
北に渡ったの人々でさえ、その多くは実は韓国地域出身だということは知られていたが、
それだけでなく、終戦直後の在日の大半も韓国地域出身だったわけだ。
となると、官斡旋とかも含めて、朝鮮人強制連行説は完全に破綻してるじゃないか。
もし、強制連行だったのなら、終戦直後200万人の朝鮮人の構成は、
北朝鮮と南朝鮮の人口比率を反映しているはずだ。
朝鮮人が流入してきたのは、資源が豊富なゆえに日本の投資が集まった北朝鮮地域より
相対的に貧しかった南朝鮮からの自由意志によるものという説を裏付けるものだ。


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YouTube - 第三国人の商法
http://www.youtube.com/watch?v=7DzcVNJ9YuA

「三国人」は本当に差別語なのか

『第三国人の商法 -日本人禁制の秘密を明かす-』 おぉ、すごいタイトルの本があったものだと、このページをここまで読んでこられた方は思うだろう。「戦後焼け野原となった土地を不法占拠して、日本人の弱みにつけこみ闇市でボロ儲けした経緯が、白日の下に晒されているのか」とお思いだろう。しかし内容は、在日の成功商売であるパチンコ店、焼肉屋などの経営ノウハウを紹介したもので、闇市の話などは一切出てこない。この在日韓国人の著者にとって「三国人」という言葉は、成功者というイメージのある言葉で、蔑称であるとの認識はいささかも感じていないようだ。この本が書かれた時代は差別語ではなかったのである。
「第三国人の商法 -日本人禁制の秘密を明かす-」 林浩奎(イムホーギュ) 昭和48年(1973) KKベストセラーズ(ワニの本)
(著者の定義する第三国人、まえがきから)
第三国人とは、すなわち "祖国を離れ、常に祖国の発展と近い将来の帰国を夢みながら、異国の厳しい環境の中で、激しいビジネス競争に身を置き、力強く生活を営んでいる" 民族の集団である。だから日本人のいう第三国人とは、日本で戦前戦後を通じて生活している在日韓国人、在日台湾、中国人などを総称していう言葉である。彼らの大多数は第二次世界大戦前後の世界の混乱した状況の中において、日本での成功を夢みて海を渡ってきた人たちである。

〔裏表紙の著者自身の広告から (著者は1943年大阪生まれの在日韓国人経営評論家)〕
本書は、過去数十年間、私の仲間達で公開することが禁じられていた現金商売の実践体験学である。それだけに私は、本書の刊行を何度もためらった。しかし、あまりにもニッポンのサラリーマン諸氏が、われわれの一世や二世の商法を知りたがっているので、仲間から恨まれることは覚悟して、あえて公開に踏み切った。本書には、第三国人と称せられている人物が、異国という悪条件の下で、ハダカ一貫から日本の夜の街を支配するまでに至った、数々の教訓がつまっている。この彼らも十年前までは、あなたと同じスタートラインに並んでいたのだ。躊躇することなく一気に読破してみよ。必ず、随所に彼らの商法の真髄を読み取ることができるはずだ。この本を手にとったあなたはすでに大富豪へのパスポートを99パーセントとったも同然、あとの1パーセントはあなた自身の"決断"にかかっているのだ。

http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm#sabetsugo



戦後、在日韓国・朝鮮人は何をし、何と言ったか

 「現代コリア」5月号に「『三国人』は本当に差別語か」と言う記事があり、戦後、在日韓国・朝鮮人が日本で何をし、何と言ったかが報じられていました。日本人として忘れてはならないことだと思いますので、要旨をご紹介いたします。

・・(前略)・・
 「三国人」なる言葉は第二次世界大戦終了後、連合国が1945年10月31日「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」により、朝鮮はそのいずれにも該当しないことから「第三国」(The
Third Nations)と呼んだ。
・・(中略)・・
 なぜ日本人が、「第三国人」と言う言葉に蔑視、畏怖、時には「敵意」を込めて使ったのかである。それは敗戦直後の在日韓国・朝鮮人の日本での言動と重大な関係があるからだ。

 現在の総聯の前身団体である「在日朝鮮人連盟」指導部は1946年初頭と推定されるが「われわれは今まで、搾取と奴隷的な差別待遇を受けた。日本の敗戦で開放された現在、われわれは連合国人であるから、敗戦国日本の法令に従う義務はない」「われわれは二等国民で、日本国民は四等国民となった。したがってわれわれは日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆる方法で日本人に知らせなければならない」「戦争中われわれを虐待した日本人は、戦犯として制裁を加えなければならない」(坪井汕二『在日朝鮮人運動の概況』)と在日朝鮮人を「連合国人」と勝手に位置づけ、日本の法令に従う必要のないことを公然と主張し、その通り実行した。

 1945年9月10日に結成された在日朝鮮人連盟(以下「朝連」と略す)中央準備会は、すぐ「帰国同胞援助」活動に入り、朝連が韓国などに帰国する在日朝鮮人に「帰国証明」を発行、列車・バスの無賃乗車、時には客車の中に「朝鮮人専用」と書き、日本人を乗車させないこともあった。駅長を脅かし、発車した列車を呼び戻したりもした。
・・(中略)・・
 引きつづき、GHQ(連合国総司令部)は同年9月30日「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝連が「地外法権的地位にないこと」を明らかにした。この覚書を見れば分かるように、朝連は、これまで「治外法権」を持っていたのである。
 当時、各地の朝連は、保安隊、自衛隊、警備隊、自治隊などを作り、独自の警察権力類似行為を行っていたりもしていた。
 また、「朝連」の名によって、集団強盗、略奪、殴打暴行、破壊、占拠監禁、人民裁判などが行われた。
・・(中略)・・

 当時日本を占領していたGHQは、200万人の在日朝鮮人を日本から朝鮮本国に帰国させることを基本方針としていた。ところが韓国に帰国してみたが、政治・経済ともに不安・混乱を極め、生活不安などが重なり、その上コレラなども流行して、帰国者は事実上ストップした。日本にいれば「連合国人」「解放国民」としての「自由」があった。いったん帰国した人達が日本に逆流しだした。
 1947年5月2日GHQの命令で「外国人登録令」が在日韓国・朝鮮人などに施行されたのは、日本への密入国、米などの不正受給防止の二つの目的があったのである。
 ・・(中略)・・

 このような具体的な在日韓国・朝鮮人と日本人の社会関係の中で、日本人が「三国人」なる言葉に特別な意味を込めて使用するようになったのである。公然と社会秩序を乱し何事も暴力で解決しようとする在日韓国・朝鮮人の言動に、日本人が、「三国人」は恐いと考えることが「民族差別」というのだろうか。
・・(以下略)・・

http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D35.htm
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by thinkpod | 2006-10-11 14:42


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