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2006年 10月 08日

人物探訪: 徳富蘇峰 〜 文章報国70余年

近代日本最大のオピニオン・リーダーは、なぜ忘れ去られたのか。


■1.忘れ去られた我が国最大のオピニオン・リーダー■

 明治・大正期のベストセラー作家と言えば、まずは夏目漱石
が挙げられよう。明治38(1905)年に出版された『我が輩は猫
である』は、大正6(1917)年の大蔵書店版で1万1500部も
売れている。

 しかし、同時期に出版されて約100万部も売れた本がある。
徳富蘇峰(そほう)の『大正の青年と帝国の前途』である。蘇
峰は500点を数える著書があるが、そのほとんどが当時のベ
ストセラーか、グッドセラーとなった。

 蘇峰が明治20年、25歳にして発行した雑誌『国民之友』
は、創刊号からたちまち売り切れ、再刊、三刊と重ねて1万部
を超えた。普通の雑誌の発行部数がせいぜい千部以下の頃であ
る。明治23年に念願の日刊紙『国民新聞』を創刊すると、た
ちまち当時の5大新聞の一つになる勢いを示した。

 大正7(1918)年、55歳にして執筆を始めた『近世日本国民
史』は、昭和27(1951)年までの実に34年間、88歳まで書
き続け、100巻を数えた。10巻まで出たところで帝国学士
院から恩賜賞を授与され、国史学界の大御所・黒板勝美博士か
ら「国史学界における画期的一大事業」と賞賛された。個人著
述の史書としては質量ともに世界有数のものとされている。

 徳富蘇峰は、明治初期から昭和前期までの期間において、我
が国の最大のオピニオン・リーダーであった。これだけの人物
が現在、ほとんど忘れ去られているのは、どうしたわけだろう。

■2.「言論によって国民同胞を導きたい」■

 蘇峰の名が世に知られたのは、明治19(1886)年、23歳に
して『将来の日本』を自費出版した時だった。東京英語学校
(第一高等学校の前身)に入学したり、同志社英学校に学び、
また父親の関係から勝海舟との知遇も得ていたので、官僚や学
者となって立身出世の道に進むことは容易だったはずだ。

 しかし蘇峰の志は新聞記者となり、自らの言論によって国民
同胞を導きたい、という事だった。英国の「タイムズ」を理想
としたのだろう。しかし日本で本格的に新聞の発行が始まった
のは明治5(1872)年だから、まだ十数年ほどの歴史しかない。
新聞記者の社会的地位など日本ではほとんど認められていなかっ
た頃である。

『将来の日本』の根底には、欧米列強のアジア侵略への危機感
があった。「今日に於いて東洋諸国が欧州より呑滅せらるる所
以(ゆえん)のものは他なし、唯(ただ)我は貧にして野蛮な
る国にして、彼は富んで文明なる国なるが故なることを」

 列強が誇る軍備は、彼らの「富と智力」の結果である。旧来
の少数独裁の軍事型国家では対抗できない。広く産業を起こし、
平民が中心の政治、すなわち今日流に言えば民主主義社会によっ
て独立を保つことが「将来の日本」の姿である、と蘇峰は主張
した。英国をモデルとした近代化を目指したのである。

 この主張は世間の注目を集め、蘇峰の名は一躍世に知られる
ようになった。

■3.「国民的驕傲を否定す」■

 翌明治20(1887)年、蘇峰は月刊誌『国民の友』を創刊した。
タイトルは同志社時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネー
ション』から取ったという。

 明治23(1890)年には、いよいよ本来の志であった『国民新
聞』の発行を開始した。この時、蘇峰はまだ27歳の青年であっ
たが、ジャーナリズムの世界ではすでに無視できない存在になっ
ていた。

 明治27(1894)年7月に始まった日清戦争において、極東の
小国日本が清国に勝利すると、蘇峰はこう論じた。「吾人は清
国に勝つと同時に、世界にも打ち勝てり。吾人は知られたり。
ゆえに敬せられたり、ゆえに畏(おそ)れられたり、ゆえに適
当の待遇を受けんとしつつあるなり」

 西洋列強が跋扈する当時の国際社会において、日本が「眠れ
る獅子」と恐れられていた清国を打ち破ることによって、国際
的な認知を受けた事の喜びが弾んでいる。

 しかし、それは夜郎自大の腕力自慢ではならなかった。「孤
立を否定す、排斥を否定す。国民的驕傲(きょうごう、おごり
たかぶること)を否定す。満足を否定す」(『国民新聞』明治
27年11月7日)として、「世界の文明」と協調した謙虚な
姿勢こそ、大国民への道だと主張した。

■4.「速やかに日英同盟を組織せよ」■

 ロシア・ドイツ・フランスからの三国干渉に屈服して、清国
から割譲された遼東半島を返還する、という報に接したのは、
蘇峰がちょうど現地を視察中の時だった。そして日本軍が占領
していた旅順口の小石をハンカチに包んで持ち帰ったという。

 蘇峰は「戦争によりて一夜のうちに巨人となりし国民は、平
和談判のために、一夜に侏儒(しゅじゅ、こびと)となれり」
(「日本国民の活眼目」、『国民の友』第263号)と描写し
た。弱肉強食の国際社会の中で、日本はまだまだ非力であるこ
とを思い知らされたのである。

 三国干渉から1年後、蘇峰は1年余の欧米歴訪の旅に出る。
欧州に向かう船中で「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説
を『国民の友』に掲載し、ロンドンでは英国の新聞界とさかん
に接触して、根回しを行った。日英同盟が締結されたのは、こ
れから6年後のことである。

 モスクワではトルストイを訪問し、この世界的文豪が「人道
と愛国心は背反する」と述べたことに対して、反論した。蘇峰
は日本が国際社会において「相当の位地」を占め、列国と対等
の立場に立つことが大事だとする。日本国民として、国家を通
じて世界に寄与するのが自分の本願であり、ロシアのようにみ
だりに他国を侵略する国の国民であるトルストイとは、意見が
異なるのは当然だと考えた。

■5.「引き際が大切なのである」■

 三国干渉とロシアの満洲侵攻から、蘇峰は日露の衝突に備え
て海軍を強くする必要があり、そのために増税政策を掲げた松
方・大隈内閣を支援して、勅任参事官にまでなった。不人気な
政策を説く上に、新聞人が内閣に加わるとは何事ぞという反感
から、『国民新聞』はあっという間に発行部数が6分の一に落
ちてしまい、新聞社は破産の危機に見舞われた。

 しかし、蘇峰はこの苦境にもめげずに、艦隊増強案を持つ政
府を支持し続けた。日露戦争が始まるや、蘇峰の主張が正しい
ことが明らかになり、購読者数は飛躍的に増大した。

 しかし、戦勝後の講和条件には賠償金もなく、領土割譲も樺
太の南半分だけという事に、国民は激高した[a]。蘇峰はこう
反論した。

 講和条件が日本国民の理想でないにせよ、しかし宣戦布
告の趣旨はすべて達成されているのである。樺太全部と沿
海州を取り、バイカル湖を国境として、更に30億以上の
償金までもらおうなどというのは、勝利にのぼせ上がった
空想であり、そういう理想が実現されないからとてすぐに
講和条約を呪うなどと言うのは正気のさたではない。図に
乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけ
ない。引き際が大切なのである。[1,p232]

 講和に賛成したのは、4千万人の日本人中ただ16人、内閣
・元老・全権委員の15人と徳富蘇峰ぐらいだと、他の新聞は
書き立てた。東京朝日など各紙は一斉に蘇峰と『国民新聞』を
売国奴と罵り、暴徒が国民新聞社に押しかけて焼き討ちを図っ
た。社員は二日間も棒や日本刀で防戦に務めた後、ようやく軍
隊が出動して囲みが解かれた。しかし、新聞の購読者数は市内
で十数分の一まで激減したと言われ、その回復に数年を要した。

 蘇峰は国民の受けなどを意に介さずに、常に自ら正しいと考
える所を主張して止まなかった。

■6.日米の親交が世界平和の「中枢」■

 第一次大戦の後、急速に大国として浮上したのは、アメリカ
と日本だった。そのアメリカは、ハワイ併合、フィリピン領有
と太平洋に進出し、日本も朝鮮、満洲に勢力を広げたので、両
国の衝突は不可避の様相を呈していた。

 日米の確執は、明治39(1906)年サンフランシスコにおける
日本人学童隔離事件に始まり、日系移民の土地所有を禁止する
排日土地法を経て、大正13(1924)年の排日移民法によって決
定的となった。

 排日土地法は、ヨーロッパ移民には認められていた帰化と土
地所有を、日系移民には認めない、としたものだった。「世界
の一等国」となったと自負していた日本国民は、面目をつぶさ
れた。

『国民新聞』は、当初、日米の親交が世界平和の「中枢」であ
ると述べて反米ムードを抑える論調だったが、排日土地法の成
立に至って、蘇峰は、大和民族が人種と宗教による差別を甘受
している事実を直視し、自恃(じじ、自分自身を頼みとするこ
と)の精神を持てと論じた。

 それでも日米戦争不可避の世評を否定して、日米は経済的に
は「共存共栄」だと強調し、「日米戦争」の音楽にみずから踊
り出す愚を犯してはならない、と戒めた。

 蘇峰がもっとも困難な敵と見なしていたのはソ連だった。日
中戦争の真の敵も中国自体でなく、その背後にいるソ連である
と考えた。この見方が正しかったことは、その後の歴史研究が
明らかにしている。[b]

■7.「百敗院泡沫頑蘇居士」■

 大東亜戦争が始まると、蘇峰は大日本言報国会の会長に就任
して、『興亜の大義』『必勝国民読本』など、戦意高揚を意図
した書物を次々に出版した。戦いが始まってしまったからには、
勝つために全力を尽くす、というのが、蘇峰の「言論報国」の
姿勢だったのだろう。

 昭和20(1945)年8月15日に敗戦を迎えると、82歳の蘇
峰は一切の公職から退き、自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」との戒
名を名乗った。「百敗」して、興国の夢が「泡沫」に帰した、
という無念の思いが込められている。

 しかし「頑蘇」すなわち頑固な蘇峰は健在である。東京裁判
弁護団に依頼されて執筆した宣誓供述書は『宣戦の大詔に偽り
なし』との題名をつけた。

 戦争は日本が望んだものではなく、強いられたものだった。
米国は日露戦争後、「賭け馬」を日本から中国に変えた。そし
て日本に対しては、移民問題、パリ講和会議、ワシントン会議
など、事あるごとに力づくの「懲戒」じみた行動をとった。追
いつめられた日本は「乾坤一擲(けんこんいってき)の策」に
出た。隠忍しなければならないところで我慢できず、相手の
「策謀」に乗って敗れたのは日本の「自業自得」だ、と言う。

 蘇峰は8月15日の玉音放送のとき、徳川家康に思いをいた
したという。家康は小藩の領主として、強大な信長に隠忍自重
しつつ、攻守同盟を結び、ついに天下を手に入れた。「家康を
して今日に在らしめたならば、彼はあらゆる苦情、あらゆる反
対に眼を瞑(つぶ)って、米国と攻守同盟を締結したであろう」
(『勝利者の悲哀』)と述べた。

 そのような偉大な政治家を持ち得なかった日本の敗戦は、ま
さに「自業自得」だった。この言葉には自らの言論で、この
「自業自得」を避け得なかった無念の気持ちも籠もっていよう。

■8.米国の引いた貧乏くじ■

 一方、勝った米国は、東欧から中国までを勢力圏とするソ連
との冷戦に陥り、「世界中の心配を一手に引き受けねばならぬ
ような貧乏籤(くじ)」を引いた。

 日露戦争後に、「もし米国が日本に手を差し出し、日本がそ
の手を握って」いたら、日本は東アジアで一流国として安定し、
米国もそんな「貧乏くじ」を引かずに「商売繁盛」していたろ
う、と推測する。

 米国が「貧乏籤」を引いた原因は、日本をここまでに追いつ
めた自身のアジア政策の失敗にある。

 今後、占領下の日本を第二のハワイのような属国にするこ
とは、日本人の反発を招き、共産陣営に追いやる道につながる。
一君万民の日本的民主主義の発展を支援し、日米提携の道をと
るべきだ、と主張した。

 この見方は、米軍の高官や共和党の政治家にも共有化されて
いたもので[c]、冷戦下において米国の対日政策はこの日米同
盟路線に転換された。

■9.70余年に及ぶ「言論報国」の人生■

 蘇峰は、昭和31(1956)年6月まで最後の著書となる『三大
人物史』を書き続け、翌年94歳にして、明治19(1886)年以
降、70余年に及ぶ「言論報国」の人生を閉じた。

 戦後、蘇峰は「平民主義者から国家主義者に変節した」とか、
「戦時中に時局便乗のお先棒担ぎをした」などと罵倒され、や
がて黙殺と忘却のうちに葬り去られた。

 戦後のこうした罵倒は、ちょうど日露戦後の講和賛成を各紙
がこぞって「売国奴」と非難したのと同じようなもので、蘇峰
の思想が間違っている事を立証するものではない。その時代の
迷妄が解ければ、どちらが正しいかは自ずから明らかになって
くる。

 今頃、蘇峰は草場の陰で、かねてから主張していた「日米同
盟」「日米の共存共栄」が現実のものとなっている事を喜んで
いるであろう。いかに罵倒されようと、忘れ去られようと、蘇
峰にとってはどうでも良いことであったろう。その志はあくま
でも「日本が強くなることはとりもなおさず日本国民の幸福」
[1,p237]という所にあったからだ。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(365) ポーツマス講和会議
 国民の怒りを買うことを覚悟して、小村寿太郎は日露講和会
議に向かった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog365.html
b. JOG(446) スターリンと毛沢東が仕組んだ日中戦争
 スターリンはソ連防衛のために、毛沢東は政権奪取のために、
蒋介石と日本軍が戦うよう仕組んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog446.html
c. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog096.html

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1. 渡部昇一『腐敗の時代』★★★、文藝春秋、S50
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2. 米原謙『徳富蘇峰—日本ナショナリズムの軌跡』★★
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by thinkpod | 2006-10-08 19:17 | メディア


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