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2006年 08月 30日

リンドバーグ日記

 ☆編集者へ=多治見市の鈴木 勝さん(元会社役員・79歳)から。

 五月号所載「リンドバーグの衝撃証言」を読み、ビアク島の戦闘で米軍捕虜となった私の体験から、米軍の残虐非道な行為について、偽らざる真実を申し述べてみたい。

 ビアク島へ米軍が来攻したのは昭和十九年五月二十七日で、当時は海軍記念日と称していた。

 軍はビアク島の重要性に鑑み、同島守備の基幹・歩二二二連隊増援のため、在マノクワリの歩二二一連隊とヌンホル島守備の歩二一九連隊から各一ケ大隊を抽出してビアク島に派遣した。その輸送を担任したのが、私の所属した第五揚陸隊であった。

 六月二十一日、歩二一九連隊の決死隊員約一五〇余名が三隻の大発に分乗してヌンホル島を出発しビアク島へ向かったが、艇隊は上陸予定地の沖合約四㌔の海上にて米軍魚雷艇の奇襲攻撃を受け全滅した。私の乗艇は後部機関室に被弾炎上し数分で沈没したが、轟沈した僚艇の搭乗員を併せ数十名の兵が海上を漂流していた。

 この無抵抗状態の日本兵に対し鬼畜のような攻撃が米軍魚雷艇から浴びせられた。それは機関銃等による一斉掃射ではなく、拳銃等による狙い撃ちである。米兵は甲板上に鈴なりになり、あたかも射的ゲームでも楽しむかのように、替わる替わるで撃ってくる。そして日本兵に命中するたびに一斉に喚声をあげる。短波放送のスピーカーからは、ボリュームを一杯に上げてジャズの音楽が流されるお祭り騒ぎであった。私はうちあげられた照明弾により明々と照らし出された地獄図を、消えかかる意識のなかで半ば放心状態で眺めていた。この信じ難い情景は私の筆力では到底表現できなく、更にこの事実を証言する者がいない。何故ならば捕虜になった私以外に生存者がいないからである。

 捕らえられフィンシュハーフェンの野戦病院へ空輸された私は、ここで手厚い看護を受けた。この余りにも大きな矛盾を日系二世の通訳に問い質したところ、彼は少し考えて「それは君がラッキーボーイだから……」と答えるのみであった。数日後、一人の将校が一枚の写真を持ってきて無言で置いていった。それは日本の将校が日本刀をふりかぶり、その前には穴が掘られ、目隠しをされ、後ろ手に縛られた米軍兵士が、今まさに斬られようとしている写真であった。米軍はこんな写真により、日本兵に対する反抗心をあおったのであろう。目には目を、残虐には残虐をもってする風潮が第一線の米兵にあったようだ。

 リンドバーグの日記には「負傷兵であろうと手を上げようと、みな射殺してしまう。それが残虐な日本兵にたいする報復だとし、自らの残虐行為を正当化した」と非難している。

 オウイ島から遠望した勇敢な日本兵と西洞窟の余りにも無残な日本兵の末路とを思い合わせ反戦主義者の彼には、第一線米兵の非人道的行為のみが目に映ったのであろう。

 ☆編集者から=戦争の悲惨さが情景となって目に浮かんできます。人間の残虐性にはリツゼンとせざるを得ません。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/reader/06-r1.html


 ☆編集者へ=甲府市の吉田三郎さん(81歳)から。

 五月号、藤岡信勝先生の「あのリンドバーグ日記が語る……」を読んで、既に六十数年前、戦闘中戦友から聞いた非人道極りない捕虜虐殺の話は真實だったのかと、思い新たなものがあった。

 昭和十七年の末、第十七軍通信隊補充兵の我々がラバウルに到着時には、第十七軍本隊(司令官百武晴吉中将)と軍通隊本部は、数カ月前に上陸した一木支隊や、飛行場建設部隊(軍属を含む)はソロモン、ガダルカナル島に在って瘴れい極限の地に加えて兵站不備のため戦闘能力を失い、本部は後退して、ブーゲンビル島ブイン近くのエレベンタに仮営しており、十八年三月、我々は援助に向かった。山本五十六司令長官の搭乗機が我々の頭上で撃墜された頃で「ガ」島から引き揚げてきた戦友が語った話はこうだ。

「日本軍が椰子林を伐開整地した未完成の滑走路へ友軍の捕虜数百人が引き出され、機関銃の一斉掃射でなぎ倒され、未だ半死状態の者までが、ブルドーザー数台で土石のなかへふみ潰された。自分は倒木の陰に身を隠しながら現實の地獄を見てしまった」と語ったのを聞きショックだった(この戦友は栄養失調とマラリアで半月程して戦病死した)。

 この話のことは、復員して五十数年思い出すこともなく過ぎ去ってしまった。

 今は飛行場も滑走路も近代化されていると思うが、所用や観光などで航空機を利用する時は、この下に無念の同胞が眠っていることを知っていてほしいものである。




 ☆編集者へ=台北市の谷川浩三さん(元商社台北支店長・68歳)から。

「昭和十九年、ペリリュー島戦の末期、米軍に追い詰められた我が兵の一人が、海に飛び込み沖に向かって泳ぎ始めた。

 たまたま付近に居た米軍小型上陸用舟艇数隻が忽ち輪形陣をつくり、その日本兵をとり囲み、各舟艇から米兵達が、まるで射的場で標的を狙うかの如くその兵に向かって各自が笑いながら銃弾を浴びせ始めたのである。

 しばらくは浮きつ沈みつしながらも泳ぎ続けていたその兵はやがて弾丸が命中したのか波間に沈み再び浮き上がっては来なかったのである。

 降伏を知らぬ我が兵がどうしてあの状況下で、両手を挙げて降伏の意思表示が出来たであろうか? よしんば挙げ得たとしても米兵達は面白がって射撃を止めなかったに違いない」

 これは小生が学生の頃一般の劇場で見た映画の前にやるアメリカのニュース映画の一場面である。

 その時は、「何と残酷な、これが正義を重んずる米軍(と当時は思わされていた)のやる事か!」と我が兵に対する同情と共に米兵に対する怒りがこみ上げて来てその夜はよく眠れなかった位であった。

 今回本誌五月号で「リンドバーグ日記」の記事を見て、最初は信じられぬ思いであったが、かのニュース映画の場面が脳裡によみがえり、すべては事実に違いないと確信するに至ったのである。

 戦後日本軍の残虐行為のみが取り上げられ無実の罪も含めて2000人に近いBC級戦犯の尊い命が奪われ今また、カリフォルニア州の事後法により捕虜虐待に対する補償の動きが活発になりつつある。

 今さら半世紀前の米軍側の残虐行為を裁くことは不可能である。しかし我が国としてはこの「リンドバーグ日記」や前記のニュース映画等あらゆる米軍側の残虐行為の資料を獲収し敗戦国側にのみ負わされている戦争犯罪の追及が如何に理不尽なものかを世界に訴へ、賛同を得る努力をしなければ悔いを後世にまで残すことを自覚せねばならぬとつくづく思った次第である。




 ☆編集者へ=大津市の渡邉英一さん(57歳)から。

 五月号、「リンドバーグの衝撃証言」に関する多治見市の鈴木勝さんの投書(六月号掲載)を読み、数年前から気になっていた事柄につき投稿します。

 数年前、居酒屋での酒の話題としては極めて珍しいのですが、大東亜戦争末期に満州に侵入した上、蛮行の限りを尽くしたソ連軍の非道ぶりを糾弾し、悲憤慷慨している若者グループと、その向かいで「いや、アメリカも随分と酷いことをした」とボソボソ呟きながら酒を飲む年配客に出あわせました。

 私は、若者グループに感心する半面、年配客の態度には「ソ連で洗脳されたのか?」と同情しながらも内心軽蔑し、その印象のまま現在に至っておりましたところ、上記「正論」の記事と鈴木氏の投書で年配客の呟きに合点がいくとともに、今更ながら話を聞いておけば良かったと臍をかんだ次第です。

 巧妙な占領政策やアメリカ製の戦争映画、更には自虐史観に迎合した日本映画の影響で、我々には、捕虜の取り扱いは「アメリカはフェア」だけど、我が日本軍のやり方は「あまり褒められない」との刷り込みがどこかにある!

 しかしながら、鈴木氏のような体験談を後世に伝えておかねば偏向マスコミの「悲惨な戦争体験談」ばかりが残り、無念の死を強いられた英霊の魂は浮かばれません。

 また、先の私の如く、我が国のために戦った人たちを貶める過ちを犯してはならないと考えています。

 そこでひとつ、「正論」誌が中心になって、そのような体験談を集めてくれることをお願いする次第です。




 ☆編集者へ=名古屋市の木越正太郎さん(元会社役員・77歳)から。

 六月号の本欄で、ビアク島の戦闘で捕虜になられた鈴木勝さんが残虐非道だった米軍の偽らざる事実を次のように述べておられます。

「数日後、一人の将校が一枚の写真を持ってきて無言で置いていった。それは日本の将校が日本刀をふりかぶり、その前には穴が掘られ、目隠しをされ後ろ手に縛られた米軍兵士が、今まさに斬られようとしている写真であった。米軍はこんな写真によって、日本兵に対する反抗心をあおったのであろう。目には目を、残虐には残虐をもってする風潮が第一線の米兵にあったようだ」

 それを読んで私は、「あれっ、わたしの経験とは全く正反対だなあ」と咄嗟に感じました。

 昭和二十年十月下旬、私は鈴木さんより数カ月遅れてルソン島の北部山岳地帯で米軍に投降しました。そのときの米軍に対する私の第一印象を次に述べてみます。

 一八六四年、ジュネーブの国際会議で、「戦地軍隊ニ於ケル傷者及ビ病者ノ状態改善ニ関スル条約」が締結されました。米軍はそれを忠実に順守して、比島で捕虜になった私たち日本の軍人を思いのほか厚遇してくれたように思います。

 モンテンルパのニューピリピット刑務所の中に設けられた米第一七四野戦病院に収容されたときの私は、栄養失調・マラリア・疥癬などで体重が三五㌔という餓死寸前の極限状態でした。アメリカ人の愛国心による尊い献血で作られた人工血漿「ヒューマン・プラズマ」という高貴薬のお陰で私は一命をとりとめました。毎日熱心に回診して下さった米軍の軍医は、かつての名優タイロン・パワーのようなハンサムでした。『目は口ほどに物を言い』と申しますが、言葉は分かりませんでしたが、いつも慈愛の眼差しで、「ハウ・アー・ユー」と優しい言葉をかけながら聴診器を両耳に当てがう癖が印象的でした。その人間愛に、いつもジーンと胸が熱くなったことを半世紀以上も経った今でもハッキリ覚えています。

 一カ月ほど経って体重も増え元気になったとき、カンルンバンという収容所に移りました。そこでは、体力を回復させるための軽作業に就きました。そんなある日、米軍幕舎の草むしりをやっていましたら、テントのメーンポールにタテ四〇㌢、ヨコ三〇㌢ほどの額縁に入ったモノクロ写真が掲げてあるのが目に飛びこんできました。

 目隠しされた米兵を日本刀で今まさに斬首しようとしている日本兵の、目を覆いたくなるような鬼気迫る写真でした。多分これは前述の鈴木勝さんが見られたのと同じ写真だったと考えられます。確かに米軍兵士の、対日敵愾心を煽るための戦略の一環であったに違いありません。しかし、その写真の真下で黙々と作業をさせられる私たちにしてみれば、穴があったら入りたいような、あんな嫌な代物はありませんでした。

 ……と、数人の部下を従えた米軍の一将校がそこへやってきました。こんどは、クラーク・ゲーブルみたいな苦味ばしった好男子でした。私の顔を見るなり眉間に皺を寄せ、「ノーグウ」と叫んだかと思うとその写真を部下に下ろさせ、私に愛くるしいスマイルを投げかけそれを持ち去ったのです。後で分かったのですが、その将校は前日赴任したばかりの新しい収容所長のようでした。

 当時、デモクラシーとは一体どのようなものなのか皆目分からない私でしたが、「日本の将校とは随分違うんだなあ」という印象は今でも強烈に残っています。

 終戦時、わずか旬日の参戦で樺太や北方四島を理不尽に強奪し、六十余万の日本軍捕虜を酷寒のシベリアに抑留して強制労働させ、無慮六万人もの同胞を惨死させたソ連の過酷なやり方と比べると、比島での米軍のそれは、まさに雲泥の差があります。もし私がソ連の捕虜になっていたとしたら、今とてもこの世には生き長らえていなかったでしょう。

 米軍から、非道な残虐行為を蒙られた鈴木勝さん一一どうか米軍の中にも、一方でこのような気高い恩寵があったという事実を、いくらかでも知っていただけたら、と思う次第です。


 ☆編集者から=戦争という行為には、敵味方の双方に明と暗があります。したがって、ことさらに相手の暗部のみをクローズアップするのはフェアではないと思います。暗い戦争のなかの明るい部分も教えて下さい。

http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/reader/07-r1.html



<戦時中の米国の対日行為>

 以下は本で知った話です。戦時中米国のグラフ雑誌の表紙に、少女が前線の兵士に手紙を書く場面が写されていますが、そこに前線の兵士から送られた、死んだ日本兵の"しゃれこうべ"が置かれていたのです。これは戦時中日本で報道され、"鬼畜米英"のフローガンの原点になったらしいが、こんなことの報道は勿論占領期間中は厳禁されています。ですから、今の日本人には戦時中の"鬼畜米英"のスローガンは、人道的な米軍の実態とはかけ離れた、日本の軍国主義の宣伝に国民が嫌々従ったものと理解されているのです。日本の民間人の集団自決が日本軍の命令によるものであるかのように伝えられ、自決せずとも"人道的な"米軍に助けられたと言う風に思われているようです。でもグラフ雑誌でアメリカ人の本性を知っていた戦時中の日本人は本当に"鬼畜米英"と思っていたはずです。

 戦争中には、聯合国による戦争犯罪行為もかなりあったことは、インバール作戦などの戦記にも負傷した日本軍将兵にガソリンをかけて焼き殺した光景が遠くから見えたとの記述に残されていたと記憶します。その最大の残虐行為は非戦闘員に対する原子爆弾による無差別殺傷です。


<原爆被害写真>

 検閲、言論統制が厳格に守られたのは広島・長崎の原子爆弾の被害写真でした。小学校時代5年生の時、サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年ですが、我々は初めて、アサヒグラフで原子爆弾の凄惨な写真に戦慄したのです。

 これは占領期間中は絶対に報道されませんでした。仮にポツダム宣言による報道、言論の自由が確保されていれば、戦後直ぐにこの写真は公表されていた筈です。その場合に果たして、聯合国が極東軍事裁判が「平和に対する罪」「人道に対する罪」で日本の指導者だけを裁くことが出来たでしょうか。原爆被害写真が公表されるのは「閉ざされた言語空間」の中で日本人が、占領軍が与える材料と統制、管理の結果、米国が望むような戦争観、米国観を日本人が抱くように出来上がってからのことなのです。つまり、原爆被害写真を見ても、日本人は、米国には無害化されていたのです。

「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(二):西尾幹二のインターネット日録
http://nishiokanji.com/blog/2006/08/2_4.html


リンドバーグと北方領土

 一九三一年八月十九日。米国の飛行家、リンドバーグ夫妻が水上機でカムチャツカ半島を出発し千島列島上空を飛んだ。根室無線局の第一信は「日本にようこそ」だった。現在地や天候の実利的な情報を求める前の、礼儀正しい歓迎のあいさつに、夫人のアンは、日本人は永遠の紳士(中村妙子訳「翼よ、北に」)と記している▼濃霧やエンジンのトラブルで、その後、根室までに四、五日もかかっている。が、ケトイ島沖で日本船の乗組員が手助けをし、不時着した国後(くなしり)島では貧しい漁師一家が、言葉も通じず夫妻を誰かも知らないのに、煮魚でもてなしている。なるほど、紳士の国なのだ▼アンは礼儀正しさとともに、紅白の水引をはじめ、日本画や盆栽、茶道を語り、日本人の生活に溶け込む美の意識や、自然に対する鑑賞眼を的確な視点で絶賛している。今の日本人以上に日本を理解していたのだと、居ずまいを正す▼夫妻の来日は北太平洋の航路調査のためだが、翌月、日本軍が満州事変を起こす。その後の日中戦争や真珠湾攻撃など予想もしなかったろう。十四年後の漁師一家の運命も。鳥取県の一・四倍ほどの北方四島に一万七千人余りが暮らしていたが、八月二十八日、ソ連軍が占領を始め、脱出できなかった人は抑留されたという▼「領土問題は解決済み」としたかつてのソ連指導者の言葉を思う。過ぎ去ったこととばかりに、相手の主張に耳を傾けようとしない。「参拝は信教の自由」と胸を張ったわが宰相にも、どこかで相通じるかもしれないが▼「日本にようこそ」。アンに日本人を紳士と評させた言葉が北方四島の貝殻島沖合の事件で胸を突く。(二)
'06/08/28
山陰中央新報 - リンドバーグと北方領土
http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=799054034


新・平成徒然草 裏・大東亜戦争−語られなかった歴史
http://katsumikado.blog74.fc2.com/blog-entry-178.html#comment412
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by thinkpod | 2006-08-30 18:56 | Books


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