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2006年 08月 19日

ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか

『少年育成』96年3月号掲載
反戦映画「ビルマの竪琴」

 1995年が敗戦50周年だったこともあり、昨年はあの戦争を回顧する様々な試みが行われた。映像の世界でも、同様、各地で戦争を描いた映画の名作が上映された。もちろん、戦争アクション映画などではなく、反戦平和の意図をもって製作された映画が多かったのは当然だろう。
 戦争映画といっても、いろいろあろう。たとえば、銃後の生活の悲惨を描いた映画がある。空襲体験や原爆の悲惨さを描いたものがこれにつながる。また、戦場での兵士たちの姿や敗戦後の復員を通して、戦争に翻弄される人間の悲惨を描いたものもある。たとえば、「また逢う日まで」「暁の脱走」「真空地帯」「軍旗はためく下に」「私は貝になりたい」「月光の夏」「ビルマの竪琴」などがそうである。
 これら戦争映画のなかで、ビルマの竪琴は、敵味方を超えた音楽による心の交流や仏教的な救済といった柔和なテーマも関係してか、観る人の政治的な価値観の違いを超えて、戦後、広く日本の一般大衆に支持されてきた特筆すべき反戦映画だといってよいだろう。
 ビルマと竪琴といえば、長い間、一般の日本人がビルマという東南アジアの小国(現在は、ミャンマー)について、その名を聞いたときに唯一思い出すキーワードでありつづけてきた。原作は、竹山道雄が戦争直後、児童文学雑誌の『あかとんぼ』に連載した作品である。この作品は、当時、空前のベストセラーを記録し、今日でも、中等教育の国語の教科書などにしばしば登場する名作となっている。
 その後、1956年に、市川昆監督で映画化され、大ヒットし、さらに、ほとんど同じシナリオで、1985年に同じ市川監督によってリメイクされた。今日では、むしろ、この新作の方が有名であろう。長身でルックス抜群の中井貴一が、水島上等兵を演じている。
 あら筋は、こうである。
 第二次大戦中、ビルマを転戦する日本軍の一小隊があった。音楽好きの小隊長(旧作は三国連太郎、新作は石坂浩二)の下で、隊員たちは暇をみては合唱をし、戦いに疲れた心を癒していた。とりわけ音楽的才能にすぐれている水島上等兵(安井昌二、中井貴一)はビルマの竪琴で巧みに伴奏をした。ある夜、敵に囲まれるが、全員で歌った「埴生の宿」がイギリス兵の心を打ち、敵味方双方の合唱へと発展。そこで終戦を知り、戦わず捕虜となった。その後、抵抗する残留兵の投降説得という使命を帯びて隊を離れた水島は、説得に失敗、戦闘に巻き込まれ、負傷する。そこをビルマ僧に助けられるが、隊に戻りたい一心で恩人のビルマ僧の袈裟を盗み、僧になりすましてビルマを横断、収容所までたどりつく。しかし、その道中で、野ざらしになった日本兵の白骨の山を目にして衝撃を受ける。やがて終戦。水島は僧となり、ビルマに残って戦友の遺体を弔うことを決意する。

ビルマを知らなかった原作者

 ビルマの竪琴については、作者の竹山自身が認めているように、原作者はまったくビルマを訪問したことがなかった。このことは、とくべつ秘されているはけではないが、意外と知られていない。
 竹山にとって重要だったのは、日本兵と敵兵が共通の歌を歌うことによって、戦闘が回避されると言うシチュエーションだった。竹山は、最初、中国の奥地の県城を物語の舞台として設定しようとしたが、どう考えても、日本人と中国人が共通の歌を知っているという可能性は存在しなかった。そこで、いろいろと思案したあげく、イギリス兵との組み合わせなら、その可能性はあるだろうと考えるに至った。ビルマ戦線が物語の舞台として選ばれたのは、そのような条件が満たされる場所だったからだ。
「日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです。共通の歌は、われわれが子供のころからうたっていて、自分の国の歌だと思っているが、じつは外国の歌であるものでなくてはなりません。「庭の千草」や「ほたるの光」や「はにゅうの宿」でなくてはなりません。そうすると、相手はイギリス兵でなくてはならない。とすると、場所はビルマのほかにはない。」(竹山道雄「ビルマの竪琴ができるまで」『ビルマの竪琴』新潮文庫1959年、189頁)
 また、竹山自身は、後になって、「何も知らないで書いたのですから、まちがっている方が当然なくらいです。たとえば、坊さんの生活などはなにも分かりませんでした」と書いている。また、「ビルマから三人の新聞記者が来て、あのほんの英訳本を読んで、宗教関係にまちがったところがあるが、ビルマ人は、宗教についてはきわめて敏感だから、これをビルマに紹介するときにはこの点に気をつけるように、といわれました。あれをビルマ語に訳そうという計画があり、その許可を求めてこられましたから、よろこんで同意しましたが、はたして仕事はすすんでいますかどうですか」とも書いている。結果から言うと、結局、それはビルマ語には翻訳されなかったようだし、映画の方もビルマでは、新旧とも上映されずじまいだった。ということは、ビルマの人々がこの物語を知ることはなく、その「誤り」を訂正する機会もなかったということになる。しかし、そのような事情は、今日どの程度人々の共通認識となっているのだろうか。その点は、はなはだ危うい。そもそも、そのような竹山の注釈自体が、すでに忘れ去られてしまっているのではないか。
 というのもビルマの竪琴は、今日、竹山の文学作品として読まれているよりも、市川の映画として見られているからだ。実際、竹山の「ビルマの竪琴」を読みたいとその辺の書店をまわっても、ほとんど見つけられない。私が、原作本を見つけたのは、市立図書館の本棚だったが、図書館の司書さんは、「そんな古いのありませたっけ」と浮かない顔をして探してくれたのである。

映画は原作を越えて

 それにくらべて、市川の映画といえば、最初の1956年版は、記録的な大ヒットを飛ばし、ベネチア映画祭サンジョルジオ賞を受賞し、中井貴一の主演でリメイクされた85年版も、評判は上々で、キネマ旬報ベストテンで5位、毎日映画コンクールの日本映画ファン賞を受賞している。さらに、ビデオなら、どこのレンタルビデオ店でも見つけることができる。今日の映像文化の影響力が大きいかは、いまさらいうまでもない。その証拠に、私が借り出した文庫版の「ビルマの竪琴」の表紙カバーには、映画から中井貴一が袈裟をきて竪琴を弾くシーンのスチル写真が大きく使われていた。
 原作を知らない世代なら、この作品に接する順序は、映画を見てから文学作品を読むという順序なのに違いないのである。
 映画の方のビルマの竪琴はというと、とくに85年のリメイク版に関しては、実際に東南アジア(ミャンマーではなく、タイ)にロケし、かなりリアルな物語として製作されていた。映像は文学と違って具象性を伴う。したがって、市川の映画は、竹山があとで、「本格小説ではありませんでしたから、あのくらいのことを書くのは空想ですみました」と告白しているようなものとは、かなり違った印象を人々に与えた。
 映画に描かれた世界は、その後、現実のビルマの文化やビルマ人の宗教観を伝えるものとして、あたかもノンフィクションのような扱いを受け始めるのである。
 たとえば、最近、新聞に現れたビルマに関するいくつかの記事を紹介したい。
 竪琴 音楽通しさりげなく平和を紡ぐ
楽しく音楽を聞いてもらって、少しでも平和について考えてもらえればそれでいい。「2時間びっしり平和・平和とやられたら、演奏を聞きに来てくれる人はいないよ」。電気管理事務所を経営しながら、有志を集めて平和コンサートを続けている上尾市弁財の伊藤邦夫さん(55)の持論だ。「さくら草音楽共和国大統領」という肩書も持つ。(中略)
 8歳の時、父親がビルマ(現ミャンマー)戦線で戦死した。20歳のころ、映画「ビルマの竪琴(たてごと)」を見て「無念のうちに倒れた人たちの死が無駄にならないように、平和な社会にしていかなければ」と強く感じた。「水島上等兵の気持ちを万分の一でも持って、社会に役立つ音楽活動ができたら」。仕事の傍らアコーディオン、オーボエ、オカリナなどの楽器を独習し始め、音楽活動の輪を広げて来た。  (『朝日新聞』92.08.19、埼玉版)
 「水島」自分の生き写し 元日本兵2人、心はやはり日本
 死んで行った戦友の白骨を集め、弔うため、帰国を断念した水島上等兵も、そこがやさしいビルマだからこそ、一人残ることを決意したのではなかったろうか。
 ラングーンに、二人の旧日本兵が住んでいる。(中略)
 北村さんは、東京の映画館で「ビルマの竪琴(たてごと)」を見た。星さんはつい最近、ビデオで見た。どちらも、映画化二度目の新作の方だ。中井貴一の水島上等兵が、まるでわがことのように、身近に感じられたという。「収容所を逃げ出してから、ジャングルの中を歩き回ったとき、白骨をずいぶん見ました。それを拾って、木の下に埋めたこともありました」と星さんが話すと、北村さんがしきりにうなずく。(略)
(『読売新聞』88.01.08 東京朝刊4頁)
 第40回青少年読書感想文全国コンクール出品作品紹介
「ビルマの竪琴」を読んで。滝野町・滝野南小6年 小林慎也君
 「ビルマ」今は、ミャンマーと言う。ぼくは地図帳を引っ張りだしてみた。ミャンマーは、日本よりはるか南の赤道の近くにあった。ずいぶん遠いんだなあと思った。ずっと前、祖母より祖母の知っている人が、戦争に行った話を聞いたことがある。ぼくが生まれるずっと前に、日本兵が戦いに行き、大勢の人が死んだ土地であると聞かされたことを思いだした。そんな時、父といっしょに本屋へ行った。ふと、目にとまったのが「ビルマの竪琴」という本だった。ぼくは、その本を思わず手に取り、家に帰っていっきに読んでいった。(中略)
 明日、日本へ帰ると分かったときの昼、二重の柵をへだてた向こうに、きらきら光る青いインコを両肩に一羽ずつ乗せたビルマ僧となった水島隊員が、竪琴で「はにゅうの宿」の伴奏をはげしくかき鳴らしたときの気持ちはどんなだっただろうか。作者は水島隊員の行動をとおして、人間が人間らしく生きることの大切さを教えたかったとぼくは思う。(略)
(『読売新聞』94.12.23 兵庫地方版 28頁)
 これらの新聞記事を読んでみると、「ビルマの竪琴」をセミ・ドキュメンタリー作品として理解しているとしかいいようがない。ビルマの竪琴が描く世界の虚構と現実との境目がいつのまにか希薄になり、溶解してしまっている。ビルマの竪琴は、ミャンマーの人々の目には触れることなく、日本人の間だけでこの戦後50年間を脈々と生きながらえてきた戦争伝説といってよいかもしれない。長い期間に誕生の経過は忘れ去られ、若い世代にとっては、かつてそういう事実が存在したように受け取られてしまっているのである。

伝説化への社会過程

 このように、完全なフィクションであることを著者自身が認めているにもかかわらず、ビルマの竪琴は、その後、日本人がビルマについて言及するときの定番の参照例となってしまった。
 社会学では、人がある対象を理解する上で、あらかじめもっている枠組みを準拠枠 (frame of refference)という。ビルマの竪琴は、日本人にとってビルマについての認識の準拠枠となったのである。
 このような事態が起こった原因は、いくつか考えられる。
 まず、作品の完成度とそれを受け入れた時代の潮流がある。すぐれた文学作品の完成度の高い言説やストーリーは、たとえ一部の知識人がその虚構性を認識していたとしても、長い時間をかけたコミュニケーションの再生産と伝播過程の中で、事実に転化していく。
 竹山の原作はどちらかというと、ビルマ人の生き方を描くことで、近代的な文明に対するアンチテーゼとしての仏教的な静謐や諦念に光をあてるものであった。それは、近代化の行き着いた果てがあの敗戦であったという当時の日本人一般の厭戦感に感応するものだったが、竹山自身は、作品の中で、とくに戦争について決定的な批判をしているわけではないし、日本の戦争責任を明確に指摘しているのでもない。だから、現代の読者が時代背景を知らずに読んだとすれば、むしろ仏教的な解脱や禁欲生活のすすめとして読むかもしれない。余談だが、オーム真理教の信者ならきっと喜んで受け入れるだろう。
 一方、市川が創った映画の方は、あきらかに反戦を意識したものだった。市川自身、再映画化のとき、その理由を問われて「反戦は何べん訴えても、語ってもいい」と、説明している。ビルマの竪琴は、戦後の日本大衆の平和主義的な感覚に受けとめられ、いつの間にか、反戦映画としての意味付けを与えられたのである。8月になれば、日本のあちらこちらでこの映画を平和運動の一環として上映したり、上演したりするのも、そのような大衆の受けとめ方を反映したものに違いない。また、反戦といっても、左翼的な言説をいっさい含まないビルマの竪琴は、右からも左からも安心して受容できる、戦後平和主義の国民的テキストとして広くこの社会に受け入れられていったのであろう。
 つぎに、この作品が日本の中でだけもっぱら流通し、ミャンマー側からのフィードバックがほとんど存在しなかったことも原因として考えられる。日本にとってミャンマーは一部の関係者を除いてビルマの竪琴との関連で言及される以外、言及のキーワードが存在しない期間が、長い間続いた。もちろん、最近では、民主化運動やスーチー女史の存在が日本の社会でも話題を集め、ミャンマーに対する言及は、以前に比べれば多様性を示すようになってきている。しかし、それでも、ビルマの竪琴が言及する仏教的なやさしさは、現在の軍事政権の荒々しさと対比させるための格好のエピソードとして逆に言及される頻度を増しているように思える。
 たとえば、次の朝日新聞の記事などは、そのような傾向をよく示したものである。
 タベイ・マオ(窓・論説委員室から)

 「一生に一度必ず軍服を着るのと、袈裟(けさ)をつけるのと、どちらのほうがいいか。どちらがすすんでいるか。国民として、人間として、どちらが上なのか」戦後まもなくのベストセラーで、いまも読み継がれる竹山道雄さんの「ビルマの竪琴」に、確かこんな問いかけがあった。
 ミャンマーと国名が変わった現在も、ビルマは敬けんな仏教国である。(中略)僧にとって大事な修行である早朝の托鉢には、ふた付きの黒い容器を持って行く。これを「タベイ」という。中にはスズ製の小さなコップが数個入っている。(中略)ところが、このミャンマーの朝の風景に、異変が生じた。
 僧たちが、軍人やその家族の家の前で立ち止まりはするが、手に持つタベイのふたを開けようとしない。これは政権の座に居座り、民衆を弾圧する軍事政権へのデモなのである。これを「タベイ・マオ」という。マオとは逆さにする、妨げるといった意味だ。静かなる抵抗運動ではあるが、意味するところは重大だ。お布施を受けないのは、相手に「地獄に落ちよ」というに等しいからだ。」

失われたフィードバック

 一般的には、言及される情報が量的に拡大し、質的に多様化すれば、それ以前の情報に負のフィードバックがかかるようになるのだが、ビルマの竪琴についてみれば、このフィードバック機能がうまく働いていないように思われる。
 なぜミャンマーからのフィードバックが働かなかったのかといえば、ここで断言できる事実の収集はまだ十分ではないのだが、まず、原作を翻訳し出版する努力が払われなかったこと、さらに、映画がミャンマーで上映されなかったことがあげられる。それは、おそらくビルマ人にとってそれが荒唐無稽な内容であるため、翻訳したり、映画を輸入したりする仕事に携わるビルマの知識人たちをためらわせたからだろう。さらに、この作品の内容がことさらにビルマを誹謗したり、非好意的なイメージを対外的に広げる内容ではなかったことも、関係があるかもしれない。いずれにせよ、ビルマの竪琴に対するミャンマーの態度は、「捨て置く」というものだったのである。
 しかし、もしミャンマーの側が、この作品の内容に対して、異議を申し立てしようとしても、それが可能だったかどうかは分からない。そこには、日本とミャンマーの圧倒的な国力の差が存在するし、また、映画という大きな装置が必要な映像メディアを一般大衆が自由に視聴することは現実的に困難だからである。
 視聴できない映像は、批判することもできない。
 このような状況は、何もビルマの竪琴だけに限らない。先進国の映画産業が、途上国を舞台に製作する多くの映画は、これまで作品の舞台となった社会で公開されることは少なかった。また、たとえ、それができても、途上国の観客が先進国の制作者に対して、内容に対する批評を効果的に伝えるチャンネルは存在しなかった。ハリウッドが戦後続々と製作した「サムライ・フジヤマ・ゲイシャ」ムービーについて、私たちは辟易しながらも、そのまま受け入れるか、見ない振りをする以外なかったようにである。さらに、そもそも辟易するためには、その映画が舞台になった国で公開されなければならないのだが、そのような作品の多くは、輸入段階ですでに篩に掛けられ、一般大衆の目に触れることはほとんどないのである。
 こうして、一度、形成された認識やイメージは、メディアの大量生産過程で逆に強化されてしまい、それを変えることはなかなか困難となる。経済大国を自認している(いた)日本でも、アメリカのメディアがつくった日本に対する画一的イメージを修正することは、至難の業であるのだから、まして、弱小な途上国にそのようなことができるわけがないだろう。とくに、そのようなイメージがある種の好意を含んでいるときはなおさらである。

独占された視線

 このような状況を「視線の独占」と表現する文化人類学者たちもいる。フィールド調査で辺境の村を訪問した人類学者がいたとしよう。多くの場合、調査される現地は「未開」の社会であったり、先住民族であったりする。現地で、人類学者と村人たちが遭遇する。この場合、遭遇によって交わされる視線は、本来、対等なはずのものである。来訪者である学者が村人を見つめるのと同じように、村人も未知の来訪者に視線を投げかけるからだ。いや、実際、フィールドで私が経験する実感から話せば、見知らぬ土地に来て心細くなった来訪者が村人から受ける無数の視線の方が、むしろ圧倒的である。フィールド調査とは、見られるためにいくことだといってもよい。
 しかし、カメラやビデオなどのメディアを所有した学者が、いったん現地を映像で記録した時点で、その対等な視線の関係は崩れる。メディアによって記録された映像を独占的に保有できる立場にある学者は、特権的な立場を確保するようになる。実際、写真というメディアがこの世に登場して以来、「文明」と「野蛮」の接触が数多く映像によって記録されたが、そのほとんどは、「文明」の側が「未開」の側を記録するものだった。この関係は、「文明」の側だけが、記録し分析できるという特権を独占することであり、それは、近代の植民地主義の構造を象徴するものでもあった。

残った問題

 このような状況を指して、視線の独占という言葉が使われるのである。このような構造は、今日、マスメディアという巨大なメディア技術が関与することによって、いっそう強化されてもいるのではあるまいか。ビルマの竪琴は、日本人にとって、ミャンマー側からの訂正や反論に曝される機会もないまま、伝説と化していったのである。
 さて、ここまでが、ビルマの竪琴が日本人にとってなぜ「真実」になったかについての考察である。しかし、それが明らかになったとして、まだ問題が残っている。それは、ビルマの竪琴がミャンマーの人々から見てどこが架空なのか明らかでない点だ。ビルマの竪琴が、いまだミャンマーで上映されていない以上、それがミャンマーの人々によってどのような見方をされるか、いまだ不明のままなのである。
 今、必要なのは、実際にこの映画をビルマの人々に見せ、その反応と評価を確かめることなのではないか。そうでない限り、いつまでたっても相互に視線を交差させることはできないだろう。
 やや話は迂遠になったが、そんなわけで、ビルマの竪琴をミャンマーの人々に見せることはできないだろうかと考えた。そして、そのチャンスは、意外に早く訪れたのである。
 以下次号

96-01-29
http://www.asahi-net.or.jp/~cr1h-ymnk/96-01-29.html

ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか(後編)
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by thinkpod | 2006-08-19 00:07 | メディア


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