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2006年 08月 13日

ユダヤ・フリーメーンンは明治新政府に確固たる人脈を構築した

 慕府は安政条約締結後、続々と留学生およぴ外交使節団を欧米に派遺した。
じつに、これらの初期留学生こそ、ユダヤ・フリーメーンンが日本民族のなかから選抜した最初の工作員である。
イギリス・フリーメーンンのグラバーは−討幕派の雄である長州の志士・伊藤俊輔(博文)志道聞(井上馨)を一八六二年(文久二年) ひそかにイギりスに送り出し、同地を視察させている。
グラバーにもっとも深く抱きかかえられたのは、あの坂本龍馬である。龍馬の海援隊は、グラパー戦略の別動隊のようなものではなかったか。さらに、特に注目しなけれはならない人物として、藤原一族につながる名門中の名門、西園寺公望(のちの公爵)があがろう。彼は若年にして明治早創のとき.新政府の命によりパリに留学、十一年の長きにわたり同地に滞在している。
 また、彼は岩倉具視の死後(明治十六年)、公家のトップに立って、明治末年には内閣首班となり、昭和十五年 の死去の年まで天皇直近の重臣、元老であり続けた。
この西園寺公望に、フリーメーソン色がきわめて濃い。
薩摩閥の元老松方正義(そ一族の娘がライシヤワと結婚している)にも、ユダヤとの関連が云々されている。
明治六年、洋行帰りの学者たち(西周ら)が設立した「明六社」は、日本の中心地に確立されたユダヤ・フリーメーンンの最初の傀儡機関とみてよいようだ。
なお、同じ明治六年、政府は欧米列強の強い要求に屈して、切支丹解禁に踏み切っている。ほか、フランス・フリーメーソンとフランス海軍の支持を得た幕府海軍の榎本武楊は、箱(函)
館で蝦夷共和国独立(これはフリーメーンンの傀儡となるほかないが)の旗を掲げるともに、切支丹禁制の高札を破棄させている。榎本も有力な親ユダヤ人脈の一人であることは疑いない。
王政復古と新政権登場の直後から、十数年にわたって続いためまぐるしい政局の転変は、ことごとくユダヤ・フリ−メーソンの仕掛けによる。つまりユダヤに同調しない国枠派、民族派、日本精神派、穣夷派を、入念な計画で罠にはめて陥れ、排除してゆく過程ではなかったか。
そして彼らが日本民族を操作する手品の種は、安政不平等条約であり、それを改正するためには、日本がより欧米化=国際化(ユダヤ化)することが必要だ、というエサを投げ与え、どこまでもユダヤ化し、ユダヤ的欧米白人の忠実な番犬となるようにおぴきよせる手口である。
こうしてつくられた明治新政府、なかでもフリーメーソンに誘導された五人組(岩倉具視、三条実美、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文)が、日本をどこに導びいてゆくのだろうか

 東アジアには世界の人口の約四分の一が住んでおり、数千牛の歴史をもつ農耕文明の伝統が蓄えられている。
ユダヤにとって、東アジアを完全に掌握することは、彼らの世界征服の最終目標となるだろう。
 しかし、人口わずか千数百万人にすぎないユダヤにとって、この目標はなかなか容易ではない。
そこで、彼らはまず、東アジア三国(日韓中)の離間、相互の反目と憎悪をかきたてる戦略をたてたはずである。
 このように仮定して一九世紀後半からの、百数十年の東アジアの歴史を振り返ってみると、目からうろこが落ちるように、すべてがよく見えてはこないか。
 我々東アジアの黄色人種は、見えざるユダヤ・フリーメーンンの謀略の綱にからめ取られ、鼻面を引きずり回され、互いに憎み合い、殺し合い、非難し合ってきた。我々はなんと愚かであったことか。
背後で糸を引いているのは国際ユダヤだ。ディヴァイド・アンド・ルール(分割して支配せよ)
これは、インド征服のためのイギリスの手口といわれるが、もともとのアングロサクソンに、それほどの悪賢い知恵があったわけではない。アングロサクソンの陰に隠れているユダヤの知恵だ。
インドは大きい。したがって、これをヒンドウとイスラムに分断し、両者をケンカさせるように仕向ける。さらに、ヒンドウをいくつもに分裂させる。言語集団とに分裂させる。ヒンドウのカーストごとに憎悪をかきたてる。
そして上流階級をフリ−メーンンに入会させ、イギリスに留学させてユダヤアングロサクソンの仲間にしてしまう。
この手口で、わずか数万人のイギリス人(の仮面をかぶったユダヤ)がインドを統治する機構をつくりあげる。ユダヤは、中国(清)にもこの手口を応用したのではないか。
満漢両族を分断する。チベットと漢族のケンカをけしかける。
麻薬で中国国民を麻痺させる。麻薬売買の巨利の一部で中国の官史商人を買収する。
やりたい放題の悪魔的謀略で、彼らはいつの間にか、上海をユダヤの金城湯池とした。
遺憾ながら、わが明治新政府(岩倉、大久保)は、このユダヤの謀略に乗せられ、中国(清)、韓国(李氏朝鮮)を見下し、蔑視する態度をとりはじめた。ユダヤの思うツポではなかったか。
 

 おう兆銘(しょう介石に次ぐ中国国民党の有力指導者、戦時中脱出して日本と協調)は、清朝末期に東京に留学、日本の明治維新に学び、特に勝海舟と西郷隆盛の人物に深く感動し、感銘を受けた、といわれている。
にもかかわらず彼は、その後の生涯でいくたぴも日本側から裏切られた、とされている。
このエピソードは、じつに多くのことを物語っている。
西郷隆盛は征韓論政変(明治六年)で失脚したというのが、西南の役以後に大久保利通政権によって流布され、日本国民のなかに定着した歴史である。つまり西郷は、征韓=韓国の征討を主張し、大久保は内治重視、征韓反対を唱えたとするのである。
しかし、この説は歴史の歪曲、歴史の偽造もいいところだ。
大久保と西郷の対立は立ったく別の次元のものである。この幼ななじみであり、幕末・維新をともに戦い抜いてきた二人の指導者は、このとき、日本民族の進路をどこに向けるか、についての、抜き差しならない相克関係に入り込んだ。
大久保には、ユダヤ・フリーメーソンのヒモがついており、日本は欧米の番犬となってアジアを叩くしか道かない、さもなければインドのように日本も欧米に食われてしまう、と腹を決めていた。
                    
 これ以外に日本の進む道はない、と彼は確信していた。「穣夷」の旗じるしは、破れ草履のように捨てるのだ。
しかし西郷は、死んでもそんな道はとることができなかった。
彼は東アジアの三国日中韓)は、欧米列強の侵略に対して生きるも死ぬも一緒、死なばもろともの運命共同体でありたい、と固く念じていたのではないか。
だから、韓同へ李氏朝鮮)が欧米に対する開国を忌避し、日本の新政府との通交をも拒否したとき、決死の覚悟でこの道理をもって、韓国を説こうと欲したのである。
つまり、ことは対韓外交問題ではない。ユダヤ(欧米)の奴隷になるか、死を賭してこれと戦い続けるか、という根幹に触れる問題が、大久保と西郷の二人に表現されていたのだ。
一方、勝海舟は徳川幕府が瓦解するや、その慕引き役をつとめたあと、表舞台には立たなかったが、心情的には、彼の位置は西郷を理解し、西郷の側にあったのではなかろうか。
明治天皇においても、西南の役以降も深く西郷の意とするところを評価していたようだ。
西郷はユダヤの謀略を知らなかったが、いわば一種の悪感をもってそれを見抜いていたのではなかろうか。

明治新政府に突きっけられた″切支丹解禁″の実際

明治四年の使節団(岩倉具視、大久保利通ら〉が、安政不平等条約改止を議するために欧米諸国と交渉するや、日本側の案に相違して、改正は問題外と一蹴されたのみならず、列強から強硬に切支丹解禁を要求された。
新政府はこれを容れて、やむをえず明治六年、キリスト教(最初はプロテスタント、のちにカトりックも)を解禁した。
欧米列強の要求は、「信仰、宗教の自由」である。

「尊皇嬢夷」の大義はいまや、ゴミ箱に投げ捨てられる運命となった。欧米渡来のキリスト宣教師は、大手を振って布教と、日本人信者の獲得をはじめる。
しかし、このとき・日本に流れ込んだキリスト教は、すでに十二分にユダヤ化していたことを日本人は誰一人知らなかった。
 いや、その前に、日本民族はあの切支丹が戦国末期から徳川初期にかけて、ユダヤの仕掛けた策略で真二つに割れ、血で血を洗う惨たんたる宗教戦争が行なわれたことについて、何ひとつ情
報をもっていなかった。
 まして、二分された切丹升の新派プロテスタントは、出発点からユダヤに浸透され、年とともにユダヤ色が濃くなり、一九世紀にはほば完全にユダヤの道具、外郭団体の一つになり果てていた、などという事実を知るものは、日本には存存しなかったのだ。
 フロテスタント・キリスト教は、外見はイエスをたてつつ、内実はイエスの教えを抹殺して、信者をユダヤ教(タルムード教、カバラ教、パリサイ教)に回収・改宗させる″トンネル会社となつていたのだった。そして事実上、全世界のプロテスタント教会の指導機関は、そっくりフリーメーソンに乗っ取られていたのだった。
 プロテスタント教会というかたちで、日本列島にはじめてユダヤ教(タルムート教、悪魔の権化教)が上陸してしまった。しかも、そのことを当時の日本人は、何ひとつ知らなかった。したがっ
て、ユダヤ教に対して無防備、無警戒であり、免疫もなかった。
 そもそも、この明治新政府は、幕末の尊皇穣夷・王政復古の幾多の志士たちの捨て身の犠牲・献身によってのみ樹立されたのではなかったか。
 このころ伊勢神宮の神官たちは、日本全国民がアマテラスオホミカミ(天照大神)の神名を奉唱する運動を起こそうとして大いに意気込んでいた。しかし、すでにユダヤ欧米のヒモつきとなってしまった大久保以下の新政府首脳は、神道復興と神道国教化の政策を捨てた。
 これはつまり、ユダヤ教の攻撃の前に、わが日本民族を精神的に武装解除したことを意味するのではなかろうか。

 安政条約に基づいて、欧米列強は江戸直近の戦略的要地・横浜港とその一帯を、治外法権地域として日本から強奪した。
イギリスはそこに一個連隊の軍を派遣した。フランスも同様に、イギリスよりやや規模が小きいものの軍隊を出した。この英仏駐留軍は、日本列島周辺の制海権を米英仏露らの列強が押さえている状況のもとでは、いつ何時でも日本占領軍に変わりうる。
幕末の日本の地位は、薄氷を踏むような危うさであった。
横浜に、そして長崎に早々とフり−メーンンのロッジ(支部)が設立された。当時の日本人は、坂本龍馬などごくひと握りの関係者以外、誰も知らなかったことだが、在日欧米列強の官民の動きのすべてが、このフリ−メーンンによって指導されていたのだ。
消息通によれは、グラバーは幕末の動乱時に坂本龍馬、伊藤博文、井上馨、五代友厚、森有礼、寺島宗則ら(いずれも明治新体制の有力な人材だ)と特に親交が深かったといわれる。
フランス・フリーメーンンの系列では、福沢諭吉の名があげられている。坂本竜馬は、グラバーとほとんど一体とみられるが、その後が維新政権の船出の直前に暗殺されたのは不思議な事件だ。
 下手人は幕府方新選組の手の者という説が一般的だが、岩倉具視が龍馬暗殺の主役、という説もある。あるいは、龍馬がフリーメーソンの内幕を知りすぎたために、メーンンの謀略で消され
たのかもしれない。
西周、津田真道(ともに幕府によってオランダ留学を命ぜられた明治期の学界の立役者)が、留学先で日本人最初のフリーメーソン(イギリス系メーソンか)会員となったことは公表されている。
この両者が軸となり、フランス系メーソン人脈の福沢諭吉と組んで誕生した明」ハ社が、フり−メーンンの出先機関とならなければピうかしている。
岩倉と大久保利通については、欧米団覧旅行中にフリ−メーソンの系列下に組み込まれたのではなかろうか。
         
 切り捨てられた尊皇複夷派の反撃は、熊本神風達(ちなみに、三島由紀夫はそれを強く支持した)となり、西南の役で爆発したのみならず、岩倉も命を狙われ、大久保は実際に暗殺された(明治十一年)。明治新政権は薩長閥と総称されるが、これは著しく不正確だ。なぜなら、訂幕維新の主力・長州閥も薩摩閥も、穣夷を貫くか欧米の番人となるかの岐路にたって真二つに分裂し、流血の内乱を経ているからである。維新主体の下級武上集団自体も分裂し、ユダヤに魂を売った勢力が権力を握った、とみなければならない。

 日清・日露両戦争は、かつての「大日本帝国」時代の日本人の自慢の種であり続けたか、残念ながら、真相はおめでたい日本人の考えていたようなものではない。
それほ、フリーメーソンが日本に公的認可を与えた戦争であったようだ。このときの日本に割り当てられた役目は、ユダヤ・フリーメーソンの東アジアにおける番犬として働くことである。
なるほど、たしかに日清戦争の勝利のあと、日本に学びたいという中国(清)の青年が何万人も日本の大学・各種学校に押し寄せたことは事実だ。
また、日本海海戦で日本海軍がロシアの大艦隊を撃滅したという報道が、インドをはじめ白人に支配されていた全世界の有色人種を勇気づけたというのも間違いではない。
ところで、日清・日露の両戦争の中間に、いわゆる義和団事件が起きている。
没落寸前の清朝末期の北京に、中国を植民地化する欧米列強を排撃する義和団が反乱に立ちあがり、これを鎮圧するために欧米列強は北京に出兵した。日本も欧米に要求されて軍を出している。この構図がすべてを物語っている。
ユダヤ欧米は、中国をズタズタに寸断し、米英仏独露の五列強で分割するつもりであった(ついで韓半島侵略も、もちろん彼らの計画に入っていた)。彼らは日本に、そのための露払いをさせただけなのだ。
  
 勝海舟は日清戦争に反村であったらしい。日清は協力して西洋に当たるべきであった、というのだ。
 けれども、すでに満州と韓半島にはロシアが入り込み、清国にも李氏朝鮮にもロシアの軍事圧力を押し返す力はなかった。
そのまま放置すれば、満州と韓半島はロシア領となり、楊子江以南はイギリスが押さえ、北京・黄河一帯は米英仏独列強が管理する、というような結果とならぎるをえなかった。
日本が手をこまねいていれぱ、安政条約改正どころか、逆に列強による日本分割に進むであろうし、一歩出て韓半島、満州で戦えばユダヤは日清韓の反日を煽り立てるだろう。
一九世紀末の日本は、進むも退くもをらず、前途は暗黒に閉ぎされていた、といわぎるをえない。こんな状況下の日本に、ユダヤは 「日英同盟 のエサを投げ与えたのである。
腹をすかした日本はこのエサに喰いつかぎるをえない。当時のイギリスの新聞には、この日英同盟を諷刺する漫画(ヴィクトリア女王が犬の姿をした日本にエサを与えている)が出たそうだ。まさにこれは図星だ。

西国寺公望にみるフリーメーンンの宮中侵入

 西園寺公望は維新と王政復古のとき、二十歳になるかならないかの若年の公脚であるが、岩倉具視にその人物を見込まれ、官軍東進の際に北陸征討軍の大将に任じられている。
新政府ができるや、早々にパリに留学し、十一年問パリに滞在している。そして帰同後は、オーストリア公使、ドイツ公使、フランス公使をつとめ、伊藤博文の憲法調査」団の一員にも加えられている。この経歴をみて注意しなければならないことは、維新政府の分裂(西郷、大久保の村立)政争の時期に、パリにいてこの抗争とまったく関与せず、それをパリから眺めていた、という事情であ
ろう。つまり、この人物は当時の日本人としては例外的に、西洋の色にどっぷりと染められていたのである。
  
 事実、西園寺公一氏(公望の篠にあたる)の証言によれば、公望の邸宅には神棚も仏壇もなかったというから、これはもう当時としてはあまりに度を過ぎたハイカラぶりで、まるで日本人とは
思えないくらいだ。
西園寺公望が内閣を組織した明治三十九年から大正元年(一九〇六〜一二)にかけて(中間に桂太郎内閣が入るが)、日本の国家の中枢に異変が生じたのではなかろうか。つまり、明治末年にフリ−メーンン人脈が、日本の国家の枢機を奪取してしまったのではなかろうか。明治憲法制定とともに、天皇側近の顧問団として、枢密院が設置された。
西園寺公望は明治三十三年から三十六年まで、枢密院議長もつとめている。     
西園寺公望が国家の頂点をきわめたこのころから、日本の国家機密はユダヤ・フリーメーンン につつ抜けとなり、日本の・国策はユダヤの思うがままに操作されるていたらくとなったのではな
かろうか。そしてその結果として、日本の伝統を一掃する目的をもった、あの大正デモクラシーの狂乱が開幕したのではなかろうか。
しかも不運にも、明治天皇の皇太子は幼少のころよりはなはだしく病弱であり、このことについて、宮中も日本の政府指導層も深く憂慮した。唯一の望みは、皇太孫であった。
この皇太孫の教育方針をどうするか? これこそ、宮中浸透を企図するユダヤ勢力にとって中心テーマでなければならない。
そして、明治天皇の意思に反して、西園寺公望は、皇太孫を親英的に(イギリス王室を模範として)教育するように導いたのではなかろうか。イギリス王室がクロムウェル以来、とことんまでユダヤ化され、フリーメーンン化されていることは自明のことだ。
       
 皇太孫の教育を命じられていた学習院長(当時)乃木希典大将の殉死は、何を意味していたのだろうか。
明治三十八年(一九〇五)、純粋で馬鹿正直、お人よしで浅慮な日本国民(そして大衆に迎合する新聞社は、日露戦争大勝利と、浮かれに浮かれ、舞い上かった。
しかし、ユダヤは戦争が終結するや、即刻、南満州鉄道をユダヤ国際金融資本の手に収めるべく行動を開始した。つまり、「佼兎死して走狗にらる」ということわぎを絵に描いたような展開だ。
これがユダヤの冷酷な意志だったのだ。
小村寿太郎外務大臣は、この介入を断然はねつけた。しかも小村はさらに、フリーメーソンの日本での活動に厳重な制限を加え、日本人がこの結社に参加することを禁止する措置をとった。
 小村外交は、「魂の外交」とも呼ばれる。小村には、明らかに西郷隆盛の血か流れていたようだ。
ユダヤからすれば、この小村外交はユダヤ・フリ−メーソンに対する宣戦布告以外のなにものでもない。この小村外交は陸海軍の大部分と、軍出身の元老級政治家(桂太郎、山懸有朋ら)の一部に支持された。

 したがって、この時点から日本の国家中枢部で、親ユダヤ・フリーメーソンと国粋派の激烈な路線闘争が噴出せぎるをえなかったであろう。
そして焦点は、「満州問題」に設定された。なぜなら、欧米列強は、日本が日露戦争に勝利した以上、日本の朝鮮併合は容認せぎるをえなかったので、ひとまず満州から日本を追放し、欧米白人列強の手に奪還することに目標を定めたからである。
さらにユダヤは、日本民族の内部の攪乱に乗り出した。
                                                           
 すなわち、上流貴族階級のなかにユダヤの手先を育成した。この謀略に踊ったのが、白樺派(武者小路実篤、志賀直哉ら)であろう。        
 中流知識層には「大正教養主義」が注入され、日本の伝統文化を蔑視する、欧米のユダヤ化された文化に中毒したインテリ学生が大量に生み出された。
下層の労働者農民階級には、ユダヤ得意の賎民デモクラシーと、ユダヤ共産主義のイデオロギーが与えられた。
反戦平和が大義名分として掲げられ、国民と軍を離反させるユダヤの謀略が仕掛けられた。
朝鮮と中国のなかに植えつけられた欧米列強ヒモつきのユダヤ・フリーメーンンは、キリスト教や共産主義などのかたちをとりながら、反日・排日・憎日の煽動に着手した。
戊申詔書(明治四十一年)には、明治天皇と日本の国家の一部国粋派指導者の、こうした状況にしかし漠然寸とした不安が表現されているといってよい。

民族を震撼させたロシア革命とドイツ帝政の崩壊

 日本は第一次世界大戦を「日英同盟」の枠、つまり、ドイツを敵国としたわけだ。       
そしてその間、未曾有の戦時景気でうるおい、軍需成金が輩出したのみでなく、日本独白の重工業システムが芽を出すきっかけともなった。
これもひとえに「日英同盟」のおかげ、というアングロサクソン礼賛論が世論の主流となったのも不思議ではない。
けれども、ロシア帝政の崩壊と共産政権の登場、ドイツ帝政〈オーストリアのハプスブルク朝も)の崩壊という思いもかけないかたちの結末を突きつけられてみると、日本民族は震撼した。
この事態を真剣に考慮する者は、なにがなにやら、五里霧中にならざるをえない。
明治維新と明治憲法で設定された日本の国体、政体が根幹からゆすぶられ、否定されるようにしかみえないのだ。
国論は四分五裂せぎるをえない。国家指導層も軍も政界も民間も、ことごとく分裂、分化、相克する。

 日本丸は、あてどなく漂流しはじめたのである。
大正六〜十年)は、日本が繁栄と希望と幸運の絶頂から、突如として不安 と暗黒のドン底に突き落とされるような、激変の時点であったろう。
しかも、大正天皇の病状が悪化する。日本国家の中枢部は、深い憂いに包まれたことであろう。
このとき、出るべくして、『シオン長老の議定書(プロトコール)』の最初の日本語版が公刊された(大正九年)。
日本民族の先覚者は、ついに、国際ユダヤの謀略という、長い間、日本民族から隠されていた秘密解明の糸口にたどりついたのだ。 伊藤博文はドイツ帝政を日本の国家設計のモデルとした。このモデルが消失してしまった。
英米にくっついてゆこうとしたのに、夢想だにしなかったアメリカの排日、反日、日本敵視の政策が出現した。米英に煽動された中国の反日運動が激化した。
ソ連共産政権は、コミンテルン日本支部=日本共産党を組織して、日本赤化を呼号しはじめた。
気がついてみると、周り中が敵となり、しかも敵は日本国内に無数の手先=工作員=売国奴を育成している。
憲法がとたんに機能しなくなったのだ。
しかも、ユダヤは軍の中枢部に魔の手を伸ばしていた。     
しかもこの当時の陸海軍のトップ山梨半造陸軍大将、山本権兵衛海軍大将は、フリーメーソンのメンバーとみなされてさえいる。
ユダヤが日本崩壊、乗っ取りは近いと予期したとしても不思議ではない。


ゴルゴ14 田中角栄を殺したのは誰だ
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ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報
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by thinkpod | 2006-08-13 17:35


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