2005年 08月 02日

【戦後60年 歴史の自縛】

(1)内閣改造直後に突然「村山談話」
少数で決めた「侵略」の謝罪

 戦後、六十回目の八月十五日がやってくる。「一億総懺悔(ざんげ)」から出発した日本人の戦争への反省は、いつしか謝罪へと変わった。だが、中国と韓国は、歴史認識問題を対日カードとして使い続けている。終わりなき「謝罪」はどのようにして始まったのか。戦後六十年、日本を自縛してきた「亡霊」の正体を検証する。
                  ◆◇◆

 四月十七日。元首相、村山富市は京都御所内に完成した京都迎賓館の完成披露式典で、首相の小泉純一郎と顔を合わせた。

 「インドネシアでAA会議(アジア・アフリカ首脳会議)があるので、今、『村山談話』を読んでいるところです」

 にこやかに声をかけてきた小泉に、村山は「ああ、そうですか」とだけ答えた。村山には、小泉の靖国神社参拝で日中関係が悪化しているとの思いはあったが、あえて口にはしなかった。

 五日後、小泉はAA会議で「村山談話」を引用して頭を下げ、多くの首脳を驚かせた。

 四月、中国全土で反日デモの嵐が吹き荒れた。国家主席、胡錦濤との日中首脳会談を前に、先の大戦について「痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ち」を盛り込んだ村山談話を踏襲する姿勢を明確にすることで、日中関係改善のきっかけをつかみたいとの思惑が、小泉にはあった。

 だが、AA会議翌日の首脳会談で、胡は、反日デモによる被害への謝罪はせず、逆に「歴史を正しく認識し対処するために、反省を実際の行動に移してほしい」と靖国神社参拝中止を求めた。先の大戦への謝罪を明確にした村山談話は何の効き目もなかった。

 平成七年八月十五日、村山はアジア諸国に向け日本の「侵略」と植民地支配に関する痛切な反省と謝罪を柱とした首相談話を発表した。

 この二年前の八月十日、朝日新聞記者出身の細川護煕は首相就任後、初の記者会見で、日本の戦いを「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」と発言、遺族会などから激しい反発を受けた。細川以前の自民党政権は、戦時中の日本の行為について「深い反省と遺憾の意」を表明しても「お詫び」という表現は注意深く避け、欧米によるアジアの植民地支配に終わりを告げさせた側面をも否定する「侵略戦争」という用語は決して使わなかったからだ。

 熊本の旧陸軍教育隊で終戦を迎えた村山は、平成六年六月、自民、社会、さきがけ三党連立政権の首相に就任した直後から、「アジア各国に対する過去の清算」を「内閣に課せられた歴史的役割」と考えていた。

 「『戦後』は終わるもんか。一応のけじめをつけようという程度の話じゃ。戦後がこれで終わるなんておこがましいことは言わんよ」

 今年、八十一歳の村山は、大分市内の自宅で当時の心境をこう語る。

 談話発表まで村山と官房長官、故・野坂浩賢は周到に作戦を練った。日米安保条約堅持と自衛隊容認に踏み切り、支持層が離れた社会党にとって戦時中の日本の行為を非難する「五十年談話」は“社会党政権らしさ”を示す譲れぬ一線だった。

 七年六月、連立政権発足時の約束だった「謝罪・不戦」を柱とした戦後五十年国会決議が衆院本会議で採択されたが、自民党から大量の欠席者が出た。この轍(てつ)を踏まず、「植民地支配と侵略」の文言を盛り込むにはどうすればいいか。野坂は決意を秘めていた。

 「異議を申し立てる閣僚がいれば、内閣の方針に合わないということで即刻、罷免するつもりでいた」(野坂著「政権と変革」)

 八月十五日午前。閣議室の楕円(だえん)形のテーブルに着席した閣僚を前に、野坂は「副長官が談話を読み上げますので謹んで聞いてください」と宣言した。古川貞二郎は下腹に力を入れて読み上げ、閣議室は水を打ったように静まり返った。野坂が、「意見のある方は言ってください」と二度、発言を促したが、誰も発言しなかった。

 総務庁長官、江藤隆美は「閣議で突然、首相談話が出てきて仰天した。(反対と)言っても始まらないと思って黙っとった」と振り返る。

 内閣改造から一週間しかたっていなかったことも村山に幸いした。

 運輸相として初入閣した平沼赳夫は、「事前の相談はまったくなく、唐突に出た。社会党出身とはいえ、何でこんなの出すのかな、と思った」と話す。「ちょっと問題のある文章だなと思ったが、あえて発言しなかった。今思えば率直に思ったことを言っておけばよかった」と悔やむ。

 こうして談話は異議なく閣議決定され、村山自身が記者会見して発表した。だが、記者の「『国策を誤った』政権とは具体的にどの政権を指すのか」という問いに村山は答えられなかった。談話は有識者による議論も経ず、ごく少数の政治家と官僚がかかわっただけで、歴史認識を内閣あげて討議して練り上げたものではなかったからだ。

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≪中韓へ正当性与える結果に≫

 ◆「東京裁判史観を基に個人的な思い」

 村山談話について村山は、「みなさんと相談してつくった」と強調する。だが、実情は違う。

 当時、内閣副参事官として談話の原案を起草した民主党参院議員の松井孝治は、「政策的に思い切ったアイデアを企画する場合、官邸スタッフが『少数ならでは』の思わぬ効果を上げる場合がある」とした上で、「首相側近の大物官僚が村山の意向をくみとり、週末に親しい学者と相談して書き上げた」とごく少数の官邸スタッフが携わり、極秘裏に案文づくりが進んだことを認めている。

 大物官僚とは、内閣外政審議室長(現・内閣官房副長官補)で、後に駐中国大使となった谷野作太郎だ。

 谷野は、「(アジア諸国の人々に対し多大の損害と苦痛を与えたという)歴史の基本的ラインを曲げてはいけない、開き直ってはいけないと思った」と証言する。ただし、中国や韓国が「謝罪が十分ではない」と批判していることについては「謝罪は十分したし、卑屈になる必要はない」と語った。

 松井はこう振り返る。

 「自分が起草した文章が谷野さんに直されてガラリと変わった。賛否両論はあるが、『国策を誤り』などという表現は胆力がなければ書けないし、味も素っ気もない“官庁文学”では作成し得ない出来栄えだ」

 自民党で事前に案文を見せられたのは、通産相の橋本龍太郎、野中広務らごく一部。橋本は「『終戦』を『敗戦』にすべきだ」とアドバイスしただけだった。

 自社さ政権下で生まれた村山談話を、明星大学教授の高橋史朗(占領史研究)は、「明らかに『東京裁判史観』に基づくものだ」と批判する。「植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」とする部分は、東京裁判の論理に合致すると分析。高橋は「東京裁判史観は、戦前の日本の歴史を抹殺しようとした連合国軍総司令部(GHQ)とマルクス主義歴史学者たちの合作。その延長線上に村山談話がある」と指摘する。

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 村山談話の反響は大きかった。英BBCは「日本の首相が侵略におわび」とトップニュースで伝え、ニューヨーク・タイムズも一面トップで報じた。だが、村山が期待した中国、韓国の反応は「今後の日本の態度に注目する」といった冷淡なものだった。

 逆に、村山談話はその後の日本外交に大きな足かせとなった。当時の官房副長官、古川貞二郎は「過去だけでなく未来志向にも重点を置いたもので、その後の政権の基調となっている」と評価するが、「未来志向」は日本の片思いに終わった。

 村山談話によって日本が「侵略」を認めたとされ、中国、韓国の歴史認識カードに都合の良い「正当性」を与える結果を招いた。

 今年三月一日、韓国・ソウル市内で開かれた「三・一抗日運動」の記念式典。大統領の盧武鉉は、村山談話の「痛切な反省と謝罪」を引用、韓国政府が対日賠償請求権を放棄した昭和四十年の日韓基本条約を覆すかのように、「(日本は)賠償すべきは賠償しなければならない」と発言した。

 当時の外務官僚の一部が懸念していた「戦後補償問題はすでに解決済みなのに、個人的な思いだけで首相が謝罪すれば、補償問題が再燃しかねない」との指摘が現実のものとなった。

 それでも村山は言う。

 「『あんな談話を出したからいつまでも謝らなければいけない』という者があるかもしれんけどな、それは言う人の勝手じゃ。談話は読めば分かる。それ以外の何ものでもない。僕自身は誤ったことをしたとは思っていない。あれで良かったと思っている」(肩書は当時。敬称略)

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 ■天皇陛下は「謝罪」に踏み込まず

 天皇陛下は平成四年、中国をご訪問された際、「わが国が中国国民に多大の苦難を与えた一時期」という踏み込んだ表現をされた。

 昭和五十三年、中国のトウ小平副首相が来日した際、昭和天皇は「一時、不幸な出来事もありました」と述べられたが、中国側は反発を示さなかった。中ソ対立が続いていた当時の世界情勢も大きく影響しており、冷戦崩壊後の平成四年の天皇陛下のお言葉とはニュアンスが大きく異なる。

 ただ、強い遺憾の意を表明しつつも直接的な謝罪の表現を避けたのは、天皇陛下のご訪中が国内の慎重論を押し切った上で実現した経緯から、「陛下にご負担をおかけしてはいけない」(宮沢喜一首相)という日本政府の方針があったからだ。
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by thinkpod | 2005-08-02 02:56


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