reference archives

hogetest.exblog.jp
ブログトップ
2006年 07月 31日

情報鎖国・日本—新聞の犯罪

内容(「BOOK」データベースより)
いわれなきバッシングに孤立する在米日本企業、蒸し返される戦後賠償、日本の窮地を報じない日本人海外特派員—。経済大国として蘇った日本と旧植民地・アジアに対する欧米の敵視政策、日本を情報鎖国に陥れたマスコミの犯罪をベテラン新聞人が告発する。


高山 正之
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4331507432/503-6457296-7708753?v=glance&n=465392



強制されなくても日本名を名乗った社会背景
「日本は先の戦争で悪いことをしましたね。日本語を押しつけたり、日本名に変えさせたり」。ロサンゼルスに赴任して、ジャーナリストや弁護士など知識階級の人たちと付き合いを始めてしばらくすると、そういう人が結構多かった。

「なんだ、こいつはケンカを吹っかけているのか」と最初は思ったが、つきあいが広がってみるとみんなが同じように言う。要するに日本人への挨拶言葉で、それを受けて、こちらが「申し訳ない。今は十分反省しています。アメリカの民主主義にならって、それでここまで来ました」というような返事がほしいらしい。しかし、このステレオタイプ的なご挨拶には腹が立つ。

 で、そういうあいさつには必ずきっちりと回答するようにした。まず創氏改名問題だが、これは強制をしたのではなく、朝鮮半島では応募方式だった。だから名前を変えたくない者は、名前を変えなかった。大日本帝国陸軍にあって朝鮮名を通した洪思翊中将は、捕虜虐待をでっち上げの罪で東京裁判の犠牲となった。

 とくに韓民族にとって、かつては蔑視の対象だった満人が清朝をたて、その支配下でいじめられていた屈折した感情があったから、日本名を名乗ることでいわれなきいじめから逃れられるという微妙な力関係もあった。

 ずっと後、司馬遼太郎氏の台湾での朋友・蔡焜燦氏から聞いたことだが、同じ日本統治下の台湾では創氏改名は許可制で、なかなか許可が下りず、「朝鮮と差をつけられた」とみんな怒っていた。
 ともかく強制というニュアンスはなく、その当時の時代風潮だった。アメリカに留学中の僕の娘が、「今度、キャサリンとドロシーが遊びに来る」という。どんな碧眼金髪娘かと思っていると、外見も中身も百パーセント韓国娘が登場する。ロサンゼルスに在住する六十万の韓国人が、喜んでメアリーだのジョンだのマイケルだのと名乗るのとそう違いはなかったのだ。


日本は世界に開いた文化の窓

 アジアの国々に日本語を押しつけたという非難はもっと当っていない。歴史がそれを証明している。
 日本は二十世紀まであと三十年という時に、明治維新つまり近代化に着手した。そして、積極的に欧米の文物を取り込んでいった。医学、薬学から鉄道、建設、経済、歴史、思想の万般にいたるもの、を欧米から取り入れた。
 それは、先にノーベル経済学賞を受賞したインドのアマティア・セン氏の言葉にもある。彼は九九年、シンガポールでの講演で、日本の教育問題に触れ、「国の経済は貧しかったが、時には予算の四〇%以上を教育につぎ込んだ。そして二十世紀の入り口ではほとんど文盲はいなかった」という趣旨のことを話していた。

 図書出版についても、十九世紀末の日本は、当時の大国・英国にほとんど肩を並べる量の本を印刷、出版し、二十世紀に入った段階では、「アメリカの二倍も本を出していた」と。

 ひるがえって当時の周辺アジア諸国はどうか。

 中国は今と同じ尊大さだけで、近代化に乗り遅れ、香港も中国東北地方も遼東半島も上海の税関に至るまで列強に牛耳られていた。

 仏印(インドシナ半島)はフランス植民地下にあって、宗主国のために石炭を掘らされ、多額の税金を払い、専売制のアへンを売りつけられていて、教育どころではなかった。ちなみにフランスが作った高校(リセ)は、仏印にたった三校だった。英国植民地下のビルマに至っては、就学率三%というありさまだった。

 その時代、植民地下の人々が独立を志し、あるいは近代化への道を歩むための教育を受ける機会は皆無だった。そうした背景から、日本に留学するアジア人は多かった。

 すでに一八八一(明治十四)年、朝鮮から六人の留学生が訪れ、その六年後には一ケタ増えて六十人が来ている。一八九六年には中国から、最初の留学生十三人が訪れ、以降、日露戦争の終わった一九〇五年には東京だけで八千六百人、日本全土で一万人をはるかに超える数の中国近隣の留学生であふれた。その中には孫文もいた、魯迅もいた。

 さらに一九〇五年には仏印から三人のベトナム人が日本に留学し、その数は数年で三百人まで増えた。一九一〇年、ビルマからは僧侶が留学に来た記録もある。

 「なぜアジア各地から日本をめざす留学生がいたか」の理由について、中国・張之洞の勧学篇に詳しく記している。

 彼は言う。アジアで近代化を成し遂げた日本には、中国には得られない世界の文献が揃っている。日本に行き日本語を学べばそういった文献はすべて習得できる。

 つまりこの時代、日本はアジア諸国にとっての図書館だった。日本語を学ぶことが、すなわち世界の思想、文学、そして独立に必要な教育のすべてを得ることのできる手段だった。戦後も、日本人が台湾に置いてきた大量の文献・書籍が、台湾人の教育と教養に大きく貢献したと、その時代を生きた台湾の知識人が証している。

 ちなみに前述した朝鮮、中国、ベトナムなどからの留学生はいずれも密出国した非合法の留学生だったが、日本では彼らを温かく迎え入れた。この流れはその後も続き、一、二の例を挙げると、一九三五年、アジア航空学校が日本に開かれるとビルマから二人の留学生を迎えている。さらに一九三七年には、タイとモンゴルから逓信省飛行乗員養成所に留学生が来ている。

徹底した愚民政策下では向上心は悪

 アジア植民地の宗主国だった欧米は、学問はおろか、技術、とくに航空技術などというものについては一切門戸を閉ざしたままだった。
 今、山梨に実験線を持つリニアモーターカーの生みの親と言われる元国鉄副技師長・京谷好泰氏の体験がそれを雄弁に語る。
 彼は、パキスタンのラホールに一九六〇年代、技術指導に赴いた。その時、指導したパキスタン人技官から次のような話を聞いている。技官の父は英国植民地時代、鉄道技師のアシスタントをしていたが、ある日、英国人に「おまえらにはこんなものは作れまい」と蒸気機関車を示された。
 それで仲間と語らい、機関車の修理の折に図面を引き、細部に至るまで観察して、一ヵ月がかりで十分の一の機関車を作って見せた。英国人技師は苦い顔をした。
 インドの独立が決まり英国が引き揚げる最後の晩に、機関車を作った彼の父親とその仲間すべては銃殺された。重大なスパイ行為、という罪名だった。

戦争に敗れ、教養語の日本語も悪者に

 話を戻して、日本は第二次大戦に至るまで、あらゆる意味でアジアの図書館、アジアの技能研修所としての機能を果たしてきた。アジア人にとって日本語は、唯一アジアの人々が世界を知るチャンネルであった。

 しかし、第二次大戦に日本は敗北した。その時、ルーズベルト米大統領の下で財務長官を務めたモーゲンソーはアジアについて「三つの通貨、即ち、円ブロック、スターリング(英国貨幣)ブロック、ドルブロックの三つ巴の戦いだった」(ロイド・ガードナー著『日米関係史』)と語っている。

 これは取りもなおきず、円を日本語、スターリングを英語、ドルを米語と置き換えることもできる。要するに三つの勢力が経済、それに伴う言語を通してせめぎ合ったことを示している。そして、日本は負けた。

円は負けた、日本語は負けた。これが歴史である。

 だから、戦争に敗れるまでは、円ブロック圏に入っていた国々が日本語を使うのは当たり前だったが、日本が敗れて五十年が経つと、冒頭のアメリカ人の挨拶同様、いつのまにか悪いことにすりかえられている。

 安易に日本非難に乗るアメリカ人に対して「では、フィリピンで米語を教えるのは、悪いことではないのか。あるいはシンガポールで英語が公用語として根づいているのは、英国が悪いことをしたということなのか」と質問すると、それに対する答えは返ってこない。

 なかには困惑した顔で、「それは趣旨が違う」という言い方をしたり、「あなたには反省がない。普通の日本人ではない」と言う者もいる。そこで重ねて、「では、あなた方が言いたいことはこういうことなのか。白人でなければ植民地を持ってはいけない。植民地は白人の特権だと認めろ、ということか。自分の国の言葉を押しつけることが、白人なら許されるということなのか」。これでたいがい話し合いは、ケンカで終わる。


 戦後、ほぼ五十五年経った先日の朝日新聞を読んでいたら、「教え子に日本語強制/誤り、敗戦で気づいた」という見出しが飛び込んできた。

 その記事の中で、かつて朝鮮半島南部・慶尚北道の国民学校で日本語教師をしていた日本人女性の言葉でこう語らせている。「朝鮮半島の人たちは、日本語を強いられた。日本語教育の最前線にいた私は、償いきれない間違いを犯したのです」。

一体、朝日新聞は何を言いたいのだろう。日本語を教えるというのは、かつては知識を教えるという重要な意義を持っていた。戦後五十年経って、日本語を教えるなどということは、天にも恥じる浅ましい行為だったと言いたいのだろうか。

 こういう新聞があるから、日本の歴史は正しく伝わらない。


日本が憎い米紙と朝日

ソ連こけたらみなこけた

 北朝鮮の食糧危機は、最大の援助国ソ連が崩壊したあと、援助が受けられないまま事態が深刻化してきたといわれる。せいぜいこの十年ぐらいだと。いや、それは謙遜で、北朝鮮は、金日成がまだ元気な首領さまだったかなり昔から飢える独裁国家だった。はっきりと食糧不足の証拠を見せたのが一九七〇年代後半、もう四半世紀昔だ。

 そのころカンボジアは、ポル・ポト派が都市人間を下放してコメの大増産をやらせていた。ポル・ポトは、毛沢東や金日成が掲げた食糧倍増計画の上をいく三倍増を公言していた。だが結果からいうと、二倍もいかない。だから下放した都会人には、食うものも食わせなかった。

 今はカンボジア外務省で働いているシバス・サンタン女史は、あの〝キリング・フィールド″で両親も兄弟も失った一人だが、彼女自身、「薄いコメの粥が朝晩二回出るだけで、生きるために犬も蛇も食べました」と語る。カンボジア人はベトナム人が心底嫌いで、彼らが犬や蛇を食べるのを軽蔑し切っていた。しかしそれらを食べざるを得ないところまで、ポル・ポト派は人々を追い込んだということだろう。

 ポル・ポト派が、国民を飢え死にさせても確保した増産米は、では一体、どこにいったのか。これは、実は長い間、謎のままだった。そしてフン・セン政権がポル・ポト派を追って、やっと国を立て直し始めた八〇年代末、プノンペン周辺の調査をしてみたら、ポチエントン空港周辺などあちこちの倉庫から、油紙に包まれたままの北朝鮮製の工作機械が山のように見つかった。

 総額にして数百万ドル分ともいわれる。これが、百七十万人もの人命と引き換えに増産されたコメの使途だったわけだ。皮肉なことに、輸入した機械を操作できるような人たちはとっくに頭をかち割られていて、文字どおりの宝の持ち腐れになってしまった。

 フン・セン政権は、九〇年代に入ってこれを国際競売したが、買い手はポル・ポト派を支援してきた中国の手先、香港資本だったという。

 そんな年季の入った食糧不足を、何とか支えてきたソ連が崩壊したのだから、北朝鮮の食糧事情が危機的な状態に陥るのは、当たり前といえば当たり前だった。


北朝鮮はアジア分断のドラゴンの歯

 で、北朝鮮は「記録的な天候不順」と「干ばつ」「洪水」の三つの単語を適当に並べ換えながら国際社会に人道的支援、つまり食糧援助を求めてきた。

 アメリカの、例えば国務省や国防総省はこのころ北朝鮮を「Rogue State」と表現していた。ならず者国家という意味で、記者会見でもごく当たり前に使われていた。

 大韓航空機の爆破テロ、偽ドル作り、覚せい剤の密輸、それも外交官が運び屋になって、世界中にばらまいていた国である。あるいは人さらいもやる。ならず者以外の何者でもなかった。

 ではアメリカ的正義で、叩けばいいではないか。現にアメリカは、コカイン密輸に一枚噛んでいたパナマのノリエガ将軍を、軍を出動させてパナマに乗り込み逮捕したことがある。パナマの主権も国際法も、アメリカの正義の前には無力なのだから。

 でも、アメリカには明確なポリシーがあって、それに従うならば、北朝鮮問題は解決の必要がなくなる。むしろ放置して、このならず者を助長する方向に傾くのだ。

 どういうポリシーかというと、アジア諸国が、どういう組み合わせにしろ協調体制を取ることは好ましくない、とくに日本を軸とした友好関係は認めない、というものだ。

 そのためにアメリカは、さまざまなドラゴンの歯(Teeth of Dragon=不和の種)をアジアに埋め込んできた。北朝鮮はその意味では、アメリカが手を貸さずとも勝手に根付いた「ドラゴンの歯」だった。

 この国は何より日本、韓国と仲が悪い。放っておいても協調、連携などありえない。おまけにもっと重要なのは、北朝鮮の地政学的位置だ。中国のほとんど軒先にあるこの国が、中国寄りのならず者国家であり続ければ、中国に自由市場経済とか民主化の波や激がじかに届きにくくなる。

 クリントン政権下、コーエン国防長官の諮問機関 - 「21世紀安全保障委員会」が、九九年秋にまとめた二十一世紀のアジア展望でも、この日中韓の三国がつくる 「地政学的三角形」が「今は中国、韓国の日本に対する憎しみで機能してはいない」が、それでもアジアにとってもアメリカにとっても「最も重要な意味をもち、この三角形の将来が二十一世紀のアジアの命運を決める」と書いている。

 現状をいえば、まさに北朝鮮が存在するがゆえに、日中の接近もない、日韓も今一つしっくりといかない。アメリカにとって望ましい「バラバラ状態」が続いているのである。


日本孤立化で共同戦線張る米政府とマスコミ

 ところが、ここにきてソ連崩壊のボディーブローが利きだし、いまや北朝鮮は国家消滅の可能性も出てきた。それはアメリカにとってまずいことだ。前述の地政学的三角形が、アメリカの思惑の逆に動き出せば、とんでもないことになる。

 むしろ、北朝鮮に食糧援助をして、生き永らえさせる方が得策ではないか、という意見が国務省の中に出てきた。一九九五年頃の話だ。

 それはまず、ニューヨークタイムズの社説(Ed-Op)欄に載った。わずか二百字ほどの短い論評で、まずスウェーデンなどが、世界食程計画(WFP)を通して援助を決めたほか、人道的な立場から韓国、日本もすでに援助を行っている。

「確かにどうしようもない政府だけれど、苦しんでいるのは罪のない市民たちだ。アメリカも人道上の問題として捕らえるべきだろう」と。

 実にもっともな意見だが、さて、問題は記事中、「日本」に言及した部分で、「かつてここ(北朝鮮)を植民統治した」という修飾フレーズが付けられていた。短い文章である。

しかも日本の過去の統治と食糧危機の原因という、「干ばつと洪水」には直接関係もないフレーズだ。何のためにそういうフレーズを入れたのか、記事からでは判然としない。

 そこで、ニューヨークタイムズの論説委員室に電話した。向こうの社説も一応、匿名が原則で、応対に出たウイリス女史に、匿名論説委員にその辺を聞きたいと伝えた。

 何の関係もない文章で、そういう過去を付け加えるなら、では「フィリピン」と書くとき、「かつて米国が植民地解放を口実にして、そのまま半世紀も植民地化した」とか、「ハワイ」には「米国が砲艦で脅して王朝をつぶして乗っ取った」とか書くのか、と。

 彼女は「早速、聞いておきます」と約束したが、それきり。何度か督促し、彼女も本人にその都度伝えるが、「彼、答えないんです」という。

 答えられないのは、察しがつく。アメリカは政府もマスコミも、国益という点では常に共同戟線を張ってきた。「常に日本を悪者にして孤立化させる」、そういう宣伝を忘れずにいつまでも、そして折に触れやることが暗黙の了解になっている、それが「アメリカの方針だ」とはとても回答できない。アメリカのジャーナリストの努めなんだから。

 実際、この暗黙の了解は戟後、一貫してとられてきた。ワシントンポスト紙もニューヨークタイムズ紙も、ともかく「日本」に関する記事で、韓国とくれば、とたんにメキシカン・ピーンズのように飛び跳ね出す「植民地」の三百を入れる。中国なら「南京」だ。


何が何でも日本軍は悪逆非道

 九六年十二月七日、アメリカ司法省が突然、お触れを出したのも同じコンテクストだろう。
「戦争中、慰安婦の強制連行に携わった者、及び、旧石井細菌部隊メンバーに対して司法省は彼らの米国への入国を認めない」という内容だった。

 慰安婦問題は、河野洋平外相が旧軍の責任を勝手に認めたが、実態として不存在だからその関係者といわれてもだれを指すのか、日本当局もましてアメリカ当局も知らない。

 石井部隊については、ユダヤのホロコースト問題で常に先頭に立ってきたサイモン・ウイゼンタール・センターのクーパー師が親切にも調査してくれているが、この関係者-十六人(司法省)はほとんどが鬼籍に入っているか、生存していても八十歳代のご老体である。

 アメリカにぶらぶら出掛けるような人たちでもなく、この司法省声明が一体、何のため、誰のために出されたのか、ほとんどの者は分からない。ロサンゼルスタイムズも十二月十三日付で「五十年経って飛び出した戦争犯罪人リストに日本、キョトン」という見出しで、表向き、その唐突さぶりを報じている。

 ただ、この新聞もクリントン政権も、この時期にこの話題という趣旨は理解している。十二月初めというのは毎年恒例、リメンバー・パールハーバーだ。これを盛り上げて日本の卑劣さ、残虐さを訴える。日本は悪いと。

 でも、これだけではさすがにマンネリになって能がない。それで日本の新たな攻撃材料を探した。教科書問題もある、中国との連携もある。とくに韓国は最近、日本化が著しい。呉善花なんていう日本の理解者まで出てきた。「真珠湾」に加えてこの際、石井細菌部隊と慰安婦を上乗せしよう、というのが司法省のアイデアだったと思われる。

 例の第二次大戟時のPOW強制労働訴訟で、人権団体と称するNGOや米メディアがわんわん騒ぎたてた二〇〇〇年夏、ウォールストリート・ジャーナル(八月三十日付)が「すでに国家間で決着をつけ、日本も二百七十億ドルを払っている。それを小金になりそうだからと、訴訟弁護士が群がって問題を蒸し返し、正義の訴訟を装って日本企業を食い物にしようとするのは、みっともないだけでなく、日本人に不要な敵慢心を植え付ける。さらにはアメリカの訴訟に対する信頼さえ奪いかねない」といった趣旨の論評を載せた。

 実に正鵠を得た意見で、実際、あれだけ大騒ぎした訴訟は、この論評から間もない同年九月二十二日、カリフォルニア連邦地裁で門前払いを食ったことはすでに触れた。

 ただ、このそれほど長くないこの社説の中で、「こうした訴訟が、戦時中に起きた忌まわしくも目を背けたくなるような日本軍の悪行を思い出させ……」「一九三〇年代、四〇年代の日本の残虐さを忘れないことは重要だ」「日本の行った不正義の数々を知ることは決して無駄ではない」のフレーズが、きちんとちりばめられている。

 時効も法的管轄権も無視しためちゃくちゃな訴訟をたしなめる正論を吐く一方で、「日本は残虐で悪いことばかりした」という宣伝だけは忘れない。

 ちなみに日本軍の残虐さがどこから来ているかというと、そのときの南京の人口より多い「三十万人虐殺」といった類いの実に根拠薄弱な事件などを指す。そうした事柄が、こういう正論の中にちりばめられれば、だれだって「あっ、それも本当のことなんだ」と思い込む。実に巧みな宣伝なのだ。「ウォールストリート・ジャーナルよ、おまえもか」と言いたくなる書き方だ。


日本非難の天才児・朝日新聞

 こういう狡猾な手法は、実はアメリカの新聞だけではない。れっきとした日本の新聞もそれをやる。
 二〇〇〇年六月、金大中韓国大統領と北朝鮮の金正日総書記が歴史的な会談をした。その会談の成果として、八月十五日、約一千万人と推定される南北朝鮮の離散家族のうち、限定二百人が再会を果たした。ソウルと平壌の会場で五十年ぶりの再会に泣き叫ぶ親子、兄弟の姿は、テレビなどで多くの人々が見たことと思う。

 東西冷戦による国の分断はいたましいかぎりだが、その冷戟が終わって十年も経っても、まだ分離を続けるこの国の度し難い感覚に驚かされるが、それはともかく、これを報じた朝日新聞の記事は異様だった。

 前文で、この離散家族の再会は 「日本支配からの解放後の米ソ分割占領と、朝鮮戦争による南北朝鮮の分断固定から半世紀ぶりである」ときた。

 それ以外の新聞は、「東西冷戦の南北分断後」といった書き方だ。歴史的に見ても、南北朝鮮の分断は、ソ連が日露戦争以来、ずっとねらっていた朝鮮半島進出を、例の火事場泥棒のようなテクニックで実現したことは明らかだ。そしてソ連と毛沢東・中国の後押しで、金日成が三八度線を越えて朝鮮戦争が起きたことも周知の事実だ。

 南北分断が銃弾によって決定づけられたのは、日本の植民統治が終わって少なくとも五年は経っている。三八度線を敷いたときだって、ソ連と連合国が、旧宗主国の日本に意見を聞きにきたこともない。米ソで勝手に三八度線に線を引いただけのことでしかない。

 強いて言えば、日本は植民統治とはいうけれど、この国から搾取もしないどころか、逆に今も北朝鮮の電力をまかない続ける水豊ダムを作り、そこで発電された電気を南にまで運ぶ送電線も作った。南北に通じる鉄道も敷設した。統治政策で言えば、毒も南北分割など考えていなかった。

 しかし、朝日新聞が「日本支配からの解放後」をわざわざ挿入して書くと、あれ、分断されたのは日本の責任だったのだろうか、と思ってしまう。朝鮮半島の人々をここまで苦しめたのはやっぱり日本だったのかと。

 朝日新聞のすごいところは、この記事の前にそういう日本の責任を灰めかすような記事をいくつか掲載していることだ。例えば、八月三日付けで、「京義線」の復旧に「日本の投資に期待」という記事が載った。平壌を経由しソウルと北朝鮮・新義州を結ぶ京義線は、三八度線で途切れ、北朝鮮側の破壊距離は七Kmに及ぶ。当たり前だ。双方が呪み合っている非武装地帯を縦断しているのだから。日本はこの鉄道は作ったが、分断したのはソ連でありアメリカであり、南北朝鮮だ。

 しかし、朝日はこう書く。「京義線は日本による植民地時代に敷かれたが、北朝鮮側では単線で傷みも激しいため、(再開されたとしても)時速40Kmほどでしかない」。巨額の費用がかかるが、結局、「日米などに支援を要請するのは、避けられない模様だ」。

 ここでも「日本の植民地時代」を挿入する。実に手の込んだ意図的な記事だ。そして日本政府、とくに朝日新聞の論調に沿って行動する河野外相の周辺からは、「喜んでカネを出しましょう」という声も聞かれる。

 アメリカのメディアがやる日本を孤立化させる手法を、当の日本のメディアがお手本にする、救い難い現実がここにもある。


http://tech.heteml.jp/2006/07/post_659.html
[PR]

by thinkpod | 2006-07-31 03:11 | Books


<< ユダヤ製国家日本—日本・ユダヤ...      シェル石油について >>