2006年 07月 20日

 近世〜現代朝鮮半島の話

明治維新後、日本は急速に発展を遂げた。

鎖国なんかやっていられなかった。アメリカやヨーロッパやロシアは、日本の
直ぐ近くまできていた。彼らは、アジアの国々を次々と植民地にしていた。ア
ジアは、日本とタイ国以外は国家の形をなしていなかった。

当時は、強い国が弱い国を植民地にするのが当たり前とされていて、うかうか
していたら日本も植民地になりそうだった。

日本は、日本の安全を考えた場合に、朝鮮半島が地政的に大変重要な意味があ
ると考えた。朝鮮半島が敵対国家に渡ることは、日本にとって致命的だ。そん
な近くに敵が来ては困る。絶対、困る。

朝鮮半島が、早く清朝中国の冊封体制から抜け出し、鎖国状態からも抜け出し
て独立国家になってもらわねばならない。ーーー清国はすでに、外国の植民地
になりかけていた。

日本は朝鮮に、鎖国をやめて独立するように勧めるが、「よけいなお世話だ」
と李氏朝鮮はいい、日本を西洋かぶれだといってバカにしていた。

日本は、江華島事件を機に李氏朝鮮と日朝修好条規を締結し、それを皮切りに
李氏朝鮮は、列強諸国と不平等条約を結ばされて開国を強いられる。その際、
日本は「朝鮮は自主の邦」という文言に固執した。

朝鮮側は、我々は元々清朝中国の冊封体制をとった「自主の邦」じゃん?と、
キョトンとして日本の意味を理解してくれない。朝鮮は、ずっと清国と朝貢貿
易をしているんだ、朝貢国家でいいじゃん!———大院君「閔妃」は、あくま
でも旧来の朝鮮王朝を守り通そうとしていた。

日本は清国と共同して朝鮮半島の政治改革を目論んだが、清国はあくまでも朝
鮮は冊封体制下の属邦であるとして朝鮮を手離そうとしない。

李氏朝鮮は、貴族だけはおいしいものを食べて贅沢をしており、貴族以外は実
質的にみな奴隷だった。貴族らは立派な家に住み、一般人は土の家に住み、毎
年春には大勢が飢え死にしていた。———そうしているうちに、貧しい農民を
かえりみない李氏朝鮮に反抗して朝鮮の農民反乱・甲午農民戦争が起きた。

日本と清の両国とも、その鎮圧を名目に朝鮮に出兵し、1894年日清戦争が
勃発。日清戦争で勝利した日本は、清国との間に下関条約を結んで、朝鮮が自
主独立国であることを認めさせ、清国の影響力を排除することに成功した。

日清戦争直後の朝鮮半島では改革派が強かった。

でも、日本が三国干渉に屈するのを見た王室と保守派が、勢力を回復してロシ
アに接近、政争が過激化した。(閔妃が暗殺される)

1896年に、親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗は
ロシア公使館にて1年あまり政務を執った。(露館播遷) これにより、朝鮮が
ロシアの保護国と見なされる危険性もあった。

日本は朝鮮への影響力を維持するため、1897年に大韓帝国と国号を改めて
独立の事実を明確にさせようとした。ーーーしかし大韓帝国成立後も、実質的
に朝鮮王朝と同様の政体が朝鮮を支配することとなり、進歩会(のちの一進会)
などの改革派は弾圧され開化は進まなかった。

日本もイライラしてきて、大韓帝国を日本に編入して統治してあげたらどうか
という日本政府と、日本世論が合致してきた。しかし、韓国統監であった伊藤
博文と彼を中心とするグループは「合邦は時期尚早である」として反対した。

まだまだ朝鮮にはそれを嫌がる人が多いし、強硬派は反対勢力を村ごと強制的
に取り締まるなどしていたし、国際社会にまだ認められないと思ったからだ。

大韓帝国は、なんとか冊封体制から離脱したものの、満州を手に入れたロシア
が朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を採り始めた。日本は、外交努力
で衝突を避けようとしたが、ロシアは向かってきた。

1904年、日露戦争の開戦である。

日本は、開戦直後に、朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、19
04年2月23日、日韓議定書を締結した。また、李氏朝鮮による独自の改革
を諦めて韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人とも
いわれる大量の人員を派遣するなど日本への協力を惜しまなかった。

だんだんいい感じになってきていた。8月には第一次日韓協約を締結し、財政
顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推
薦した。

閔妃によってロシアに売り払われた関税権を買い戻す。一方、高宗は日本の影
響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送
るなどの密使外交を展開していった。

高宗がロシアから離れないので、日本は日露戦争終結後の1905年11月に
第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)を締結し、12月には韓国統
監府を設置して外交権をその支配下に置いた。

しかし、第二次日韓協約の締結を認めない高宗は、条約締結は強制であり無効
であると訴えるため、1907年、第2回万国平和会議に密使を派遣した。
(いわゆるハーグ密使事件)

これに対して、韓国統監であった伊藤をはじめとした日本政府首脳は激昂し、
高宗を強制的に排除した。李完用らの協力もあり、7月20日に、高宗は半ば
強制的に退位に追いこまれ、純宗が第2代の大韓帝国皇帝として即位した。

7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、直後の8月1日には
大韓帝国の軍隊を解散させるにまで至った。———これを不満とした元兵士な
どを中心として、抗日目的の反乱が起きたが、兵のほとんどが旧式の武装しか
持たず、鎮圧された。

—— 日本統治時代

1909年7月に大韓帝国併合の方針が閣議決定されたものの、韓国統監府を
辞して帰国していた伊藤博文は、あくまでも合邦自体は将来的な課題として、
早期合邦に抵抗を続けていた。

しかし、10月26日、安重根によって伊藤博文が暗殺され、早期併合に反対
する有力な政治家がいなくなったこと、初代首相であり元老のひとりでもあっ
た伊藤を暗殺されたことによって、日本の世論は併合に傾いていった。

ーーー皮肉なことに併合は、安重根によって急速に現実となったのだ。

合邦に向けて着々と準備が進む中、1909年12月4日、突然朝鮮の一進会
より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出されると、大韓帝国国内で
は、国民大演説会などが開かれ、一気に一進会糾弾と排日気運が高まる。

在韓日本人新聞記者団からも、一進会は猛烈な批判を浴びせられた。「韓日合
邦を要求する声明書」は、朝鮮の世論を硬化させる結果を招き、統監府からは
集会、演説の禁止命令が下された。

大韓帝国併合の閣議決定から1年、閣議決定どおり、1910年8月22日に
日本は日韓併合条約により朝鮮半島を併合した。これにより大韓帝国は消滅し
朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)の終結まで日本の統治下
に置かれた。

大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、かわって全朝鮮を統治する朝鮮総督府
が設置された。大韓帝国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じられた。
また、併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族に封じられた。

朝鮮総督府は、1910年—1919年に、土地調査事業に基づき測量を行な
い、土地の所有権を確定した。日本は農業基盤を整備し、農民や地主の名義で
の土地の所有を認めた。今まで奴隷のようだった農民の生産性は向上した。

教育・社会制度が改善され、1930年からは本格的に工場施設が建設され、
大戦末期には、重要な重化学工業の生産施設まで朝鮮半島で建設されるように
なった。日本は、朝鮮半島を日本の一部のようにお金を注ぎ込んで大切に扱っ
た。植民地化したわけではなかったのだ。

多くの学校が建設され、学校では朝鮮語も教えられた。名前も朝鮮名でも自由
だった。警察や裁判所、行政施設が作られ、市民は法によるサービス受けるよ
うになった。

朝鮮の民衆は、貧しい大韓帝国の民から、日本帝国の市民へと変わった。
あらゆるインフラが整備され、本格的な産業革命に突入できる準備が整った。

アメリカもロシア・イギリス・フランスも、韓国人の幸せのために日本が貢献
しているとして日本を支持した。

日本の統治下で、李朝時代の特権商人が時代に対処できず没落する一方、旧来
の地主勢力の一部が、乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資
本家として台頭してきた。これらの新興資本家の多くは、総督府と良好な関係
を保ち発展した。

日本統治時代を、韓国側は日帝強占期、日帝時代または日政時代などと呼ぶ。

韓国は、韓半島併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する日本の支配
を単なる軍事占領と考えている。李氏朝鮮の支配する朝鮮半島は、清朝中国の
冊封体制から抜け出す気も無く、日本の努力で清国から自由になると、次はロ
シアに頼るという具合の、まともな国ではなかったのだ。

韓国は都合の悪い過去は忘れたようだ。ーーー李氏朝鮮の支配から自由になり
近代化を遂げることを朝鮮半島の人々が望んで日本に助けを求め、実際にそれ
を手にいれたのに、、、。

また、「日本植民地時代」という呼称も用いられるが、日韓併合条約、日本に
よる朝鮮領有の合法性、有効性を示唆するものであるという認識から、近年で
はその言葉は使われない。日本政府も朝鮮半島を植民地化したつもりはない。
ーーー朝鮮半島は、合法的に日本になったのだから。

1945年8月15日、

日本が連合国側に降伏する。日本は朝鮮半島で実効支配を喪失し、1945年
9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印
によって、正式に日本による朝鮮支配は終了した。

この頃になると、ソ連とアメリカの関係はだいぶギクシャクしてきたが、まだ
冷戦状態ではなかった。日本がアメリカに降伏したので、ソ連も慌てて朝鮮半
島を南下する。

それで、38度線を境に北をソ連軍が、南をアメリカ軍が、それぞれ日本軍の
武装解除をすることにした。つまり日本の代わりに朝鮮を占領したのだった。
そして、それぞれに独自の政策を展開する。しかし、南北に分断された朝鮮人
には悲劇。

ところで、ソ連もアメリカも、しばらくは米英ソ中による4国統治が現実的で
あり、政治政体が固まったところで独立させようと思っていた。しかし、北の
金日成、南の李承晩、などが入り乱れての政争。これに軍隊の反乱が拍車を掛
ける。各地でクーデターや争乱が頻発した。

注)李承晩[り・しょうばん]1873〜1965 解放後の韓国の初代大統領
  60年4月、革命により退陣する。

困り果てたアメリカが交渉相手に選んだのは、なんと朝鮮総督府であった!?
朝鮮総督府には日章旗がはためき、9月9日に正式な降伏文書が調印されるま
で、実質的な事務作業は継続される。

ここで注意しなければならないことは、韓国の支配をアメリカ軍が朝鮮総督府
から引き継いだことである。アメリカ人は韓国人に統治能力がないと判断した
のであった。

その頃日本にいた朝鮮人は、自分達は敗戦した日本人でもなければ、統治する
連合国側でもない、それら以外の「第三国人だから法に縛られない」などと詭
弁をろうし、略奪、強盗、など欲しいままに行動した。

政府機構の崩壊した日本の警察は手も足もだせず沈黙したまま。そこで国民を
守ったのは、なんと、いわゆる「ヤクザ」であった。石原都知事が言って波紋
を呼んだ三国人とは、「法を守らない傍若無人な連中」という意味である。

混乱を収拾するのではなくチャンスと考え、混乱を助長させる韓国人を見て、
アメリカ人は呆れ果てた。統治能力がないと断定されても仕方がない。

そして運命の1950年1月12日。米アチソン国務長官がアメリカの防衛線
は、フィリピン—沖縄—日本—アリューシャンを結ぶ線だと発言する。失言だ
といわれているが、アジアや朝鮮半島への意識が低かったのかも知れない。

朝鮮半島は含まれていない!ーーー南北統一を考えていた北朝鮮人の金日成は
小躍りする。アメリカのお墨付きが出たのだ!第二次世界大戦終結の僅か5年
後、1950年6月25日、いそいそと北鮮軍はソ連の支援を受けて韓国に侵
入した。
注)金日成[きん・にちせい キム・イルソン]1911〜94 本名成桂。
  31年に共産党に入党し、抗日運動で頭角を顕わす。北朝鮮臨時人民委員
  会委員長。

アメリカは暴挙だと激怒した。面食らったのが北朝鮮とソ連と中国。てっきり
アメリカの了解事項だと思っていたのに。ソ連は国連でアメリカを非難した。

アメリカは聞く耳持たず。国連を動かして国連軍を仕立て上げた。

開戦3日後の27日にはソウルが陥落し、韓国軍は敗走に敗走を重ねる。とい
うか、実際にはすでに韓国軍は軍隊の体[てい]をなしておらず逃げまどう民衆
と同じであった。韓国政府はプサンまで撤退し、北朝鮮は大邱まで接近した。

韓国は風前の灯火になった。

9月15日に、アメリカは仁川上陸を決行する。ここは干満の差が激しく上陸
作戦には不向きだったが、第二次世界大戦を経験した軍人が多数残っていたた
め成功することができた。後ろを突かれた北朝鮮軍は撤退を始める。国連軍は
北上し、38度線を越えてもさらに進軍する。翌月の10月26日、元山付近
に国連軍が上陸、11月24日には北朝鮮のほうが事実上の敗戦に直面する。

これを支援したのが中国で、志願人民軍を半島北部に集結させて一気に攻め込
んだ。戦線は再び南下し、翌年(51年)1月25日にはソウルを越えた地点ま
で到達する。

この時北鮮人は、同じ民族の韓国人の農民を大量に虐殺した。農民も、生き残
るために昼間は韓国の味方、夜は北朝鮮の味方となって、同じ民族同士が殺し
合う。
態勢を立て直した国連軍は、ふたたび戦線を押し戻し、二転三転したあと53
年7月27日に休戦協定が成立する。

休戦協定が成立したあと、戦闘を停止して38度の軍事境界線を挟み、南北に
非武装地帯が設けられた。この戦争で、中国・北朝鮮側の死傷者140万人、
国連軍・韓国軍の死傷者120万人、非戦闘員の犠牲者200万人以上がでた
と推定されている。

ソ連の提案を受け、北朝鮮・中国軍と国連軍の間で会談が行われた。

「単独北進」を主張する韓国を除く三者が合意に達し、休戦協定に調印する。
事実上、戦争遂行能力のない韓国が戦争継続を訴えた。しかし、戦争当事者の
韓国を排除して休戦協定が成立した。

国連軍は、実体はアメリカ軍であるが名目上は国連軍である。国際社会だとい
えよう。それが韓国抜きで休戦協定を結ぶ。韓国はまともに国として扱われて
いないのである。実際、韓国はまともな国の体をなしていなかったのであるか
ら仕方がない。

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軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 中朝は決別する?


いずれにしても国際関係は「昨日の友は今日の敵」なのである。中国にしても、テポドンー2が、今度は渤海湾に落ちないように気をつけているだろうが、朝鮮戦争のときの「義勇軍」派遣にしても、時の毛沢東とスターリンは、虚虚実実の駆け引きをして、双方共に「損」をしないように十分計算して行動した。
中国が窮地に立った金日成救援と称して、「義勇軍」を派遣したのは事実だが、調査によると、その大半は、朝鮮戦争開戦の前年に、国共内戦に敗れて共産軍の軍門に下った国民党軍だったという説が強い。降伏してもいずれ「敵になる公算」が大きい、かっての蒋介石軍を、毛沢東は「義勇軍」として朝鮮半島に送り込んだのだが、それでも「反抗」が怖いので、非武装に近い状態で戦場に送り出し、念には念を入れて、国民党軍の専売特許である「督戦隊」がやったように、後方から銃を突きつけて、共産軍に抵抗できないようにしつつ、同時に彼らが米軍側に逃げ出さないように後ろから追い立てて、強烈な火力を誇る「近代装備の米軍」に「始末」させたのだと言う。さすがの米軍も、弾がなくなって混乱したと言い、これ以来「人海戦術」と言う軍事用語が出来た。
朝鮮戦史を見ても、中国軍のことを「人民軍」または「義勇軍」としか書いてないから、いかにも「義勇軍」は「毛沢東軍」のように錯覚するのだが、実際は「降伏した国民党軍」が主力だったと言う説のほうが正しいように思う。これが事実だとすれば、毛沢東は苦労することなく「いずれ寝返りをうつであろう」もてあまし気味の「かっての敵軍」を米軍に始末させ、その一方で北朝鮮には恩を売るという「一石二鳥」を狙ってまんまと成功したことになる。
金さんの父親は、一応国境地帯でゲリラ活動をしていたそうだから、小規模ながらも実戦経験はあることになるから、中国とソ連の狡猾さにはトウの昔に気がついていたことだろう。だとすれば、その息子の金さんだって十分にその辺の事情を知っているに違いないから、北京政府に頼りながらも、胸襟を開くまでには至らず、常に「警戒心を怠らない」可能性は十分あるということが出来る。

http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20060718
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by thinkpod | 2006-07-20 23:11 | 半島


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