reference archives

hogetest.exblog.jp
ブログトップ
2006年 07月 20日

驕れる白人と闘うための日本近代史

近代史を見れば、白人が野蛮だったのは明らかだ! 欧米人の優越意識を覆すためにドイツで刊行され、あまりにもはっきりと「日本の優越」を展開したため、大きな物議をかもした書


内容(「BOOK」データベースより)
欧米においては、自分たちの歴史こそ世界史であり、自分たちの生き方にこそ文明の名にもっとも相応しく、地球上のあらゆる民族は欧米文明の恩恵に浴することによって後進性から救われたと教えられてきた。だから彼らの潜在意識の奥深くには、確固たる優越感が入り込んでいる。これに対し、著者は、江戸期の鎖国日本は経済的社会的にみごとなまでのバランスのとれた「小宇宙」社会を形成しており、人間と自然の共生に心を砕いていたと史実を示す。それは同時代ヨーロッパの、すべてを侵略征服せんとする拡張謳歌精神とは正反対だと指摘する。ヨーロッパの世界侵略は、その「小宇宙」を壊したのであり、それを「文明開化」と解釈するのは大間違いだと言う。この、ヨーロッパのほうが野蛮だった、とういう主張は、ドイツで大きな物議をかもしたが、同時に今や、世界人口の急増と資源の枯渇を前にして、欧米でも「小宇宙」日本の共生思想に目覚め始めている。欧米人の優越意識を覆すためにドイツ語で刊行された書を、今度は日本人の劣等感を打ち破るために、邦訳出版する。大航海時代の到来以後、全世界を発見、征服した「偉業」に対する欧米人たちの誇りを根底から覆す書。

目次
「西洋の技術と東洋の魅力」
世界の端で—「取るに足らない国」だった日本
劣等民族か超人か—「五百年の遅れと奇跡の近代化」という思い込み
草の根民主主義—江戸時代の農民は「農奴」ではなかった
税のかからない商売—商人は独自の発展を遂げていた
金と権力の分離—サムライは官僚だった
一人の紳士—初代イギリス駐日公使・オールコック見た日本
誰のものでもない農地—欧米式の「農地改革」が日本に大地主を生んだ
大砲とコークス—日本はなぜ「自発的に」近代化しなかったのか
高潔な動機—「白人奴隷」を商品にしたヨーロッパの海外進出
通商条約の恐ろしさ—日本はなぜ欧米との「通商関係」を恐れたか
茶の値段—アヘンは「中国古来の風習」だと信じている欧米人
ゴールドラッシュの外交官—不平等条約で日本は罠に陥った
狙った値上げ—関税自主権がなかったために
頬ひげとブーツ—欧米と対等になろうとした明治政府
猿の踊り—日本が欧米から学んだ「武力の政治」
たて糸とよこ糸—今なお生きる鎖国時代の心

Amazon.co.jp: 驕れる白人と闘うための日本近代史: 本: 松原 久子,田中 敏
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4163669809/249-4242987-4686719?v=glance&n=465392



地球史探訪:「大航海時代」の原動力

「知識欲と探検への情熱」や「キリスト教布教の
志」が「大航海時代」をもたらしたのか?

■1.「全ては欲得だけだった」■

「大航海時代」とは、いかにも勇壮な響きを持つ。15世紀、
ポルトガルはアフリカ南端の喜望峰を回ってインドに到達し、
さらにマレー半島を回って、マカオに拠点を作った。負けじと、
スペインはジェノバ商人クリストファー・コロンブスの提案を
採用し、西回りにインドに到達しようと大西洋を横断し、アメ
リカ大陸を発見する。この後、オランダ、イギリス、フランス
とヨーロッパ諸国の世界進出が続いた。

「大航海時代」にヨーロッパ人が全世界に進出して行った本来
の動機は「知識欲と探検への情熱」であった、と語られる。あ
るいは、「欧州の優れた文明を他の未開民族に普及するために
海を渡った」と言う人もいる。「キリスト教を布教して、異教
徒の魂を救済するためだった」という説もある。

 これらは「美しいお伽噺」であって、「全ては欲得だけだっ
た」と言い切るのが、『驕れる白人と闘うための日本近代史』
[1]を書いた松原久子氏である。

 この本はもともと日本人向けに日本語で書かれた本ではない。
原著は『宇宙船 日本』というタイトルで、ヨーロッパ人のた
めにドイツ語で書かれた。そのヨーロッパ人に向かって、彼等
の「大航海時代」は、「全ては欲得だけだった」と言い切るの
である。

 氏の『言挙げせよ日本』は、弊誌で紹介したことがある[a]。
その「言挙げ」を自ら実践したのが、この『驕れる白人と闘う
ための日本近代史』なのである。この中で松原氏は、白人が自
らの歴史を飾るために考え出した様々な「美しいお伽噺」を木っ
端微塵に粉砕している。本号ではそのいくつかを見てみよう。

■2.ヨーロッパの輸出商品「奴隷」■

 当時、酷寒の地ヨーロッパは貧しかった。そこにアラブ商人
が、オリエントの豊かな商品を持ち込んできた。砂糖や香辛料、
絹織物、宝石、珊瑚、真珠、陶磁器、、、豊かなオリエントの
物産は、ヨーロッパの上流階級のあこがれだった。

 しかし、交易のためにヨーロッパがアラブ商人に提供できる
ものは限られていた。羊毛、皮革、毛皮、蜜蝋などである。不
足分は、金・銀で支払うしかなかった。莫大な金銀がアラブ商
人の懐に流れ、ヨーロッパの金銀の貯蔵量は減少していった。

 金銀の払底を防ぐために、ヨーロッパからアラブ商人に特別
な商品が提供された。白人奴隷である。

 中世初期に、北部のヴァイキングがロシアの川筋に沿って南
下してきた時、彼らは、ポーランドからロシアのウラル山脈に
いたる平原で、スラブ人の男女を捕らえては、アルメニアの黒
海沿岸で、胡椒、砂糖、絹織物、宝石と交換した。奴隷は毛皮
に次いで主要な商品だった。ここからスラブが「奴隷(スレイ
ブ)」の語源となったのである。

■3.アラブ人に対する激しい怒り■

 アラブ商人と取引をしていたヴェネチアやジェノバの商人た
ちは、クロアチアやペロポンネソス半島、クレタ島など、東地
中海沿岸の住民をさらっては、奴隷としてシリアやレバノンで
売りさばいた。奴隷は、そこからダマスカスやバグダッドの奴
隷市場に運ばれた。

 ヨーロッパ内部での戦争に負けた都市の住民も奴隷として売
られた。1501年、フランス軍とスペイン軍が南イタリアを攻撃
した際には、占領されたカプアの男は全員殺され、女はローマ
の奴隷市場で売買された。

 1550年頃、地中海のアフリカ大陸北岸にあるチェニスの街に
は、約3万人のヨーロッパ人奴隷がいたことが記録に残ってい
る。

 しかし、ヨーロッパ人はアラブ商人相手に、大人しく奴隷輸
出で満足しているような人間ではなかった。

 今日、ヨーロッパ人のダイナミズムとよくいわれるもの
は、元を正せば彼らの絶望と怒りの産物である。彼等が渇
望している香辛料、絹、染料、薬、陶器、そしてインドや
遠いアジアの国々の宝石や珊瑚と引き替えに、彼らから金
・銀、そして白い肌の女性を奪い取ったアラブ人に対する
激しい怒りの産物なのである。[1,p127]

■4.アラブ商人を駆逐したポルトガル■

 こうしてヨーロッパ人のインド進出の先鞭をつけたポル
トガル人は、アフリカの海岸に沿って拠点を次々と確保し
ていった。コンゴの河口からアンゴラと喜望峰を経て東ア
フリカ海岸へと進み、そこで彼らは、何世代にもわたって
商売を続けていたアラブ商人たちと遭遇した。

 ヨーロッパの歴史書は、当時インドでヨーロッパ人が成
功したのは、それまでその地域を支配していたアラブの商
人たちが自ら手を引いたからであると、美しい言葉でさら
りと触れている。もちろんアラブ商人たちは自ら手を引く
ことなどしなかったので、ヨーロッパ人はアラブの商船を
見つければ、予告することなく攻撃し、沈めた。

 こういったことを可能にした決定的な要因は、ヨーロッ
パ艦隊の圧倒的な軍事力と乗組員たちの確固たる目的意識
であった。・・・ポルトガル人は20年ほどでインド洋西
側のアラブの商船をほとんど壊滅させ、攻撃して来たトル
コの全艦隊を打ち破ってしまった。[1,p122]

 オリエントとの交易を独占してきたアラブ商人をポルトガル
が駆逐すると、スペイン、オランダ、イギリス、フランスも負
けじと参入してきた。最大の成功者はイギリスで、海の大国ス
ペインを破り、ポルトガルの商船狩りをし、オランダ船を見つ
け次第、攻撃した。

「大航海時代」とは、「欲得」に駆られたヨーロッパ諸国が、
世界中を「戦争の海」にした時代だったのである。

■5.「欲得」がもたらした産業革命■

 アラブ商人を駆逐すると、ヨーロッパでは以前より格安の値
段で、オリエントの商品を入手できるようになった。綿織物や
絹織物、砂糖、香辛料、宝石などが大量に流れ込んだ。彼らの
消費は増大の一途を辿った。

 ここでヨーロッパ人は新しい問題に直面する。イギリスでは、
インドの綿織物の輸入増加によって、毛織物が売れなくなり、
1700年頃、手織物業者たちは、インドからの綿製品の輸入を禁
止する法律を議会で無理やりに通してしまった。

 同時に、綿製品をなんとか国産化しようと、木綿を織る技術
の習得が盛んになり、それに成功すると、今度は紡織機の開発
が始まった。決定的な成功は1760年前後のジェームズ・ワット
による蒸気機関の発明だった。石炭を焚いた蒸気機関が、十数
台の紡績機を同時に動かせるようになったのである。

 10年ほどのうちに、イギリスで最初の本格的な紡績工場が
誕生した。こうして始まったのが産業革命であるが、これも
「大航海時代」と同様、「欲得」がもたらしたものであった。

■6.大英帝国の原動力■

 しかし、イギリス人の欲得は、綿織物を国産化するだけでは
満足させられなかった。インド・ムガール帝国の内部抗争に乗
じて、イギリスは、フランスと競争しながら、それぞれの土候
を買収し、勢力を広げていった。そして1757年のプラッシーの
戦いでフランスを破り、ベンガル地方を獲得した。これがイギ
リスのインド支配の始まりとなった。

 肥沃な北部インドのベンガルとビハールを支配したイギリス
の東インド会社は、この地の農民にイギリス輸出用以外の綿花
を栽培することを禁じた。会社の命令を聞かない農民は追放さ
れ、その土地は「合法的」に没収された。そのために、かつて
楽園のような田園風景と謳われたベンガルやビハールの広大な
土地は、10年足らずの間に単なる綿畑とされてしまった。自
由で豊かな農民たちは日雇い労働者に身を落とした。

 次に東インド会社がやったことは、何百年の伝統を持つ全イ
ンドの繊維産業の手工業をつぶすことだった。これは一石二鳥
の効果を上げた。繊維産業がつぶされた事で原綿の需要が激減
し、イギリスはほとんど無限の供給を受けられるようになった。
同時に、インドはイギリスの繊維製品を購入する一大市場となっ
たのである。こうして植民地から安価に原料を調達し、商品を
売りつけるという地球規模の搾取システムが構築された。

 また新大陸アメリカで綿花が栽培できるようになると、アフ
リカから大量の奴隷をアメリカに連れ込み、綿花を栽培させて、
それをイギリスに持ち込み、綿布にしてアフリカに売る、とい
う「大西洋の三角貿易システム」も作り上げた。[b]

 数千万人規模の奴隷をアフリカから調達し、アメリカの農園
で使う、などという、日本人から見れば気の遠くなるような壮
大なアイデアは、前例のない独創ではない。奴隷輸出とはヨー
ロッパ人にとっては、なじみの深い手段だったのである。

 こうした地球規模の搾取システムを作り上げた大英帝国の原
動力は、まさに「欲得」であった。

■7.アヘン戦争■

 イギリスの発明したもう一つの三角貿易が、中国の茶を買う
ために、インドに工業製品を売り、その金で購ったインドのア
ヘンを中国に売りつけるというものであった。[c]

 多くの欧米人は、中国がかつてアヘン中毒の国であった、と
記憶しているが、それが彼らの先祖の仕業であったことは、都
合良く忘れている。それどころか、中国がアヘンの悪習に終止
符を打つことができたのは、自分たちのお陰だと信じ込んでい
る人が少なくない。

 1664年前後に、東インド会社はイギリスの国王チャールス2
世に茶を贈った。国王は茶の風味と気分を高揚させる効果に魅
了され、お茶はやがて宮廷や議会、そして富裕階級のお気に入
りの飲み物となった。1720年頃には、英国のお茶の需要は、絹
と木綿を抜くほどになった。

 そして、またかつてと同じ問題が再浮上した。イギリスには
中国が欲しがる商品は何もなかったので、銀で支払わなければ
ならなかった。中国向けに特別に作らせた儒教や道教の奉納画、
あるいは、ポルノ画集を売ろうとしたがうまく行かなかった。

 そこで東インド会社は、インドで栽培させたアヘンを、ポル
ノと同様の非合法販売ルートを通じ、中国の役人たちを買収し
て、売り込むようにした。これは爆発的な成功を収め、東イン
ド会社は200年におよぶ中国貿易で初めて黒字を達成した。

 しかし、その成功も長くは続かなかった。アヘン販売の成功
を嗅ぎつけたフランスやアメリカの商人たちが、続々と参入し
てきたからである。

 一方、中毒患者の激増に手を焼いた清朝政府は、アヘン輸入
を禁じたが、これがきっかけとなって、イギリスとのアヘン戦
争が始まった。戦争に負けた清国は、多額の賠償金と香港を奪
われた。そして、イギリスは中国に自由にアヘンを輸出する権
利を得た。

■8.「先住民をタスマニア島の狼のように撃ち殺した」■

 インドや中国のように、住民が多く、ある程度の経済規模を
持っている土地では、ヨーロッパ人は原材料の供給基地、およ
び彼らの商品の輸出先として、グローバルな搾取システムに組
み込んだ。しかし、北米やオーストラリアなど、原住民が搾取
の対象にもならない土地では、どうしたのか。

 アメリカの子供たちは学校で、1620年に180トンのメ
イフラワー号に乗って、イギリスから男女合わせてほぼ百
人の清教徒がアメリカにやってきたことを教えられる。清
教徒たちは、11月の半ばに今日のマサチューセッツ近郊
に上陸した。すぐに最初の冬を過ごすことになったが、大
陸の北東に位置するこの地域は、雪が非常に多く、冬が厳
しい。もし先住民たちが持てる力の全てを傾けて彼らを助
けてくれなかったなら、彼らはこの冬を生き延びることは
できなかったであろうと、彼ら自身の記録が伝えている。

 それなのに、その半世代の後には、この地方にはもう一
人の先住民も住んでいなかった。病死し、あるいは撲殺さ
れ、射殺され、また追い払われたのだった。[1,p130]

 オーストラリアでも同様の事が起こった。松原氏は、オース
トラリア大陸発見200年の式典の際に、現地の友人が、次の
ような発言をした事を紹介している。

 この大陸に入植してきた開拓民たちは、先住民をタスマ
ニア島の狼のように撃ち殺したのです。毎日曜日、牧師は
開拓民たちに、オーストラリアの先住民は神が自分の姿に
似せて造ったのではなく、悪魔の姿に似せて造ったのだと
説教したのです。そのことを考えると心が痛むのです。
[1,p130]

■9.黒船のもたらした不安■

 1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊が江戸湾に入り、通商の
要求をした。「太平の眠りを覚ます蒸気船たった4杯で夜も眠
れず」という当時の狂歌を引いて、幕府の慌てぶりをからかう
向きがある。

 今日から見れば、当時の日本人は、欧米諸国と通商関係を持
つことをなぜ不安に思ったのか、理解できないだろう。しかし、
それは幕末の日本人が、上述の欧米諸国の世界進出の実態を、
今日の我々以上に正確に捉えていたからである。

 通商関係を持つ、ということを、我々は双方に利益をもたら
す、良きものという先入観で捉えている。しかし、インドが植
民地にされたのも、まずいくつかの沿岸都市に白人が現れ、慇
懃に「アラブ人に代わって、インドから何かを買わせていただ
きたい」という申し入れをした処から始まった。そして、それ
からちょうど300年経って、白人は全インドを手中に収めた
のだった。その一貫した欲得への執念には、驚かざるを得ない。

 通商関係を足がかりにインドは全国土を奪われ、中国はアヘ
ン禁輸を口実に戦争を仕掛けられ、半植民地状態に陥った。こ
うした白人の「欲得」の牙が日本に向かわない、と考える方が
愚かだろう。

 黒船を迎えた我が先人たちの不安をあざ笑うような人々は、
「大航海時代」というようなヨーロッパ人自身の創作による
「美しいお伽噺」に目くらましをされているのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(172) 言挙げの方法〜松原久子氏に学ぶ
 国益貫徹の冷たさを美しく包む言語を豊かに発達させてきた
国際社会を生き抜く方法とは。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog172.html
b. JOG(090) 戦争の海の近代世界システム
 海洋アジアの物産にあこがれて、ヨーロッパと日本に近代文
明が勃興した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog090.html
c. JOG(173) アヘン戦争〜林則徐はなぜ敗れたのか?
 世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような小国」と戦っ
て負けるとは誰が予想したろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog173.html
d. JOG(149) 黒船と白旗
 ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シ
ステムへの屈服を要求していた
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog149.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
(まぐまぐ版では、httpのあとに「:」を補ってください)

1. 松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』★★、文藝春秋、H17
http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163669809/japanontheg01-22%22

Japan on the Globe−国際派日本人養成講座[まぐまぐ!]
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107488115.html
[PR]

by thinkpod | 2006-07-20 19:29 | Books


<< 「青蔵鉄道」はチベットの伝統・...      平成16年末現在における外国人... >>